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私はそのまま椅子に座って、机の前でぼんやりと考えていた。「どこに希望があったのだろう…。どこに未来があったのだろう…」 小さな声で呟いてみる。それによって何かが変わることを期待したのだけど、当然、何一つ変わらなかった。私はそれまでのように薄暗い自分の部屋で、一人佇んでいる。さっきまでと、この世界は何一つ変わらなかった。「生まれてきてから、二十九年も生きてきた。その二十九年のどこかで、私は選択肢を誤ってしまったのだろうか。だから今、暗闇の中でどこへ向かえばいいのかも分からずに、呆然と立ち尽くしているのだろうか…」 きっと、そうなのだと思った。 ただ、私の人生において一つや二つ、大きな選択肢があったというわけではない。そうではなくて、その二十九年間の一日一日の中に小さな選択があった。その一日一日の小さな選択が積み重なって、私は今の私にたどり着いていた。それは誰のせいという訳でもなくて、一つの事実なのだ。そして私が今、何よりもしなければならないことは、その事実を受け入れることなのだと思った。その事実を受け入れた上で、これから先どのように生きていくのかを考えることなのだと思った。 残念だけど、過去は変えることはできない。だけど、「今」だったら変えることができるんだ。そしてこれから先の私の人生は、「今」の積み重ねであって、それ以外の人生なんてこの世の中に存在しないんだ。 私はゆっくりと立ち上がった。そして部屋を出て、階段を降りていった。完
2009.01.25
夜の電車は、仕事帰りの人々や学校帰りの人たちで一杯だった。皆、本を読んだり漫画を読んだり携帯をいじったり、思い思いに過ごしている。私は扉にもたれかかるようにして立ってイヤホンで音楽を聴きながら、ぼんやりその人たちを眺めていた。「この人たちにも、今の私のような思いはあったりするのだろうか」 そんなことを一人考えていた。 眼の前の座席に、一人の中年サラリーマンが座っている。そしていい年をしてむさぼるように週刊漫画雑誌を読んでいる。その何かを吹っ切ったような姿を見て、「この人は、私のように悩むこともなく毎日を楽しく生きているんだろうか」 などと心の中で呟いたりしていた。ただし、うらやましいとは思わなかった。このような生き方も私が望んでいるものとは違うような気がしたし、このような人間にはなりたくないと思った。「じゃあ、私はどのような人間になりたいの?」 私は自分に尋ねてみる。 だけど私の中の誰かは、この質問には答えてくれなかった。「ただいま」 小さな声で呟くように言って私は玄関のドアを開けた。 玄関を見ると父の革靴と母の小さな靴がすでにそこにはあった。どうやらすでに帰ってきているらしい。私はそれを見て、玄関のドアのカギとチェーンを閉めた。 靴を脱いでそのまま階段を上がっていく。二階に私の部屋があった。通勤に使っているリュックサックを下ろし、ジャンパーを脱ぐ。そしてズボンのポケットから財布と定期と携帯を取り出して、机の上に放り出した。
2009.01.18
私は、職業というものについてもっと必死に考えるべきなのかもしれない、と思った。 仕事というものは二十歳の前半から六十歳くらいまで、人生においてもっとも気力も体力も充実した時期においてそのほとんどの時間を費やして取り組むもの。そんな存在であるのだから、ある意味ではその人の人生そのものとすら言える存在なのではないだろうか。少なくとも、とても大きな位置を占めることは間違いない。だけど私は職業について、どれだけ真剣に選択してきたのだろうか。してきてはいない気がする。深くも考えずに、ただ道があったからという理由だけで前に進み続けていたような気がする。そして気がついたら私が望みもしない場所にたどり着き、一人その場所に立ち尽くしていた。 ある本で読んだのだが、心臓麻痺で倒れた男性の多くはその後に転職するという。その理由は、心臓麻痺になって自分の死を眼の前に突きつけられたときに自分がこの一回きりの人生で本当は何をやりたいのかを考えずにはいられないからだと言う。それまでの職業を振り返り、「今のこの仕事は、本当に、私がこの一回きりの人生においてやりたいことなのだろうか?」 そう問いかけずにはいられないからだと言う。 きっとそうなのだと思う。 今の私は、「心臓麻痺で倒れた人」と同じなのだ。肉体的ではないけど精神的に挫折していた。毎日は真っ暗闇の中を歩いているようで、眼の前に光は見えなかった。毎日が無意味に過ぎていくだけで、私はそんな毎日にうんざりしていた。だけど前に踏み出す勇気が無かった。新しい世界に一人進んでいくためには私という人間を変えていく必要があると思ってはいたのだけど、私は自分を変える方法がよく分からなかった。
2009.01.15
今の無意味に過ぎていく毎日を変えたかったし、何よりもそんな毎日を生きてしまっている自分自身を変えたかった。「人生は、今日という一日の積み重ね。今日という一日を充実して生きることができなければ、充実した人生なんて生きられるわけがない」 私はよく、そのように自分に言い聞かせた。そして、「私は、今日という一日を充実して生きることができたのだろうか?」 と問いかけた。私は「できた」なんて一度だって答えることができなかった。そんな毎日を生きていた。そしてそんな毎日こそ変えていきたかった。 だけど、私はそれをどのように変えればいいのかが分からなかった。 いや、本当は分かっていたのかもしれない。分かっていたのだけどそれを行動に移すことができなかっただけなのかもしれない。私の中に、新しい一歩を踏み出すだけの勇気が無かっただけのような気もする…。 仕事を終え、会社の外に出るとすでに真っ黒い闇に包まれていた。 私の居室が入っている建物から正門までは五十メートルくらいの距離があり、そこは街灯がぽつり、ぽつりと立っていて通路をほの白く照らしている。私はその道を一人歩いていった。そして正門にたどり着きそこで社員証をゲートに通すと、ゲートはピーンと音を立ててその扉を開く。私の周りには三、四人の社員が同じく家路につこうと歩いている。私はその人たちの中に埋もれるようにして歩き出した。そして歩きながら、自分の将来のことについて考えていた。
2009.01.14
二十九歳の今になって小学校のことを思い出してみようとしても、私の中にはかろうじていくつかの記憶は残っているだけで、そのほとんどは私の中にある闇の中に消え去ってしまっていた。きっとあの当時の私は、嫌な記憶をその闇の中に捨て去りながら何とか一日一日を生きていたのだと思う。そんな毎日を歯を食いしばるようにして、だけど表情は無表情を作り上げながら今日という一日を生き続けていたのだ思う。これまで語ってきた物語も、私の中にかろうじて残っている記憶を何とか引っ張り出してきたものだけだった。もう他には何一つ残っていなかった。ただ、多くの記憶が消えていった闇が私の心の中にあるだけだった。 私にとって小学生としての六年間はどのような意味を持っていたのだろうか。 そんなことをときどき考えた。 楽しかったという感慨はもちろんない。といっても、その六年間に絶望していたというわけでもない。ただ私の中には、私の存在というものに対する違和感があった。その違和感は、この世界に私が存在しているということに対する根源的な違和感だった。あの頃の私はそのような違和感に苦しめられていた。この世界には、私が私として存在できる場所なんて無いんだ、そう思っては毎日を虚無に生きていた。ただ、外見的には必死に「普通の小学生」の演技をしていた。そしてその違和感は、「私は、この世界に生きることに向いていない人間なのではないか」 という諦めに似た考えにたどり着いた。私は、ただ今日という日が訪れるから、それだけの理由で毎日を生きていたのだと思う。それは、今になっても根本的には変わらなかった。今の私も、歩いている道の先にどんな未来も見えていなかった。ただ、ルームランナーが回転するベルトの上で必死に走るように、私の下で回転していく毎日を必死に走っているだけだった。走っても走っても前には進んではいないような気がして、そのことにまた絶望した。 私は何かを変えたかった。
2009.01.12
その教室で最後のホームルームをやって、私たちは外に出た。だけど私たちはすぐに帰るということはせずに、その校門の前でしばらく卒業生同士で写真を撮ったりしていた。私自身が写真を撮ってもらうことはなかったのだけど、他のクラスメートに「一緒に撮ろう」と言われ、私はその子とカメラの前に立った。そしてこの学校で最後となるだろう作り笑いを浮かべた。 このようにして私の小学校における六年間は終わりを告げた。 あの当時は、その六年間が永遠に続くのかと思えるくらい長く感じた。それも当然だったのかもしれない。だって六歳で小学校に入学して、そしてそれまでに生きてきた期間と同じだけ小学校に所属したのだから。十二歳で卒業した時点で、人生の半分はその小学校における期間が占めていたのだから。 小学校を卒業してからの私は、もう小学校から縁を切ったかのように生きてきた。卒業後に二、三回、小学校の同窓会があったけど私は全て欠席した。今さらあの当時にクラスメートに会いたいという気持ちは私の中にはこれっぽっちもなかった。今さらあの当時の虚無感にまみれた毎日を思い出して、元クラスメートと語り合いたいとは思わなかった。私は小学校の毎日を一日一日切り捨てるように生きてきていて、私の中にはその毎日に対するより所なんてもう何一つ残ってはいなかった。
2009.01.11
校長の挨拶やら、在校生の送辞やら、卒業生の答辞やらつまらない儀式が進んでいき、最後に卒業生一人ひとり呼ばれて壇上に上がって校長から卒業証書を受け取って行く。中ほどで私の名前が呼ばれた。「はい」 そう返事をして、壇上に上がる。そして中央で校長先生に向き直り卒業証書を受け取った。私の背中のほうからぱらぱらと拍手が聞こえた。私はその拍手を聞きながら、それでいて私の心の中には何の感慨も浮かんでこなかった。 卒業式が終わり、私たちは体育館を出て教室に向かった。廊下を歩きながら私の周りでは、クラスの子たちが先ほどの卒業式についての話をしている。その中の一人が眼を真っ赤に腫らして泣いているのを見て、私は素直に驚いた。なぜ泣いているんだ、と思った。きっとその子は、中学に進学したらクラスの友達と分かれなければならないからそれが寂しいとでも言うつもりだったのだろう。私は異星人を見るような気持ちでその子を見る。そのような気持ちが私の中にはこれっぽっちも無かったし、そのような気持ちを理解することもできなかった。私にとって小学校とは、早く抜け出すべき蟻地獄のようなものだったから。 私たちは教室に入っていく。その列についっていって私も教室に入ったのだけど、入って黒板を見ると何か文字がびっしりと書かれていた。自分の席についてその文字を読む。「負けないこと、逃げないこと、あきらめないこと、それが一番大事」 後になって知ったのだけど、その当時にはやっていた歌の歌詞だった。 しばらくしてから担任が教室にやってきた。そして、「これは、卒業する皆さんに送りたい言葉です」 そう言って、その歌詞をゆっくりと朗読した。読みながらその担任の眼も赤く滲んでいく。私は不思議な思いを抱きながらその光景を見ていた。これは何なんだ、と思った。まるでテレビの中のくだらないドラマのように茶番に見えた。
2009.01.09
三月が来て、私は六年間通った小学校を卒業した。 卒業式の朝、前に買ってもらっていたブレザーを着て私は学校に向かった。六年間毎日のように通った通学路を歩いている私の心の中では、特に深い感慨は生まれてこなかった。卒業をするということに対して嬉しいとも思わないし悲しいとも思わなかった。ただ心のどこかではホッとしていた。だって、少なくとももうこの場所で、私が私ではない他の誰かの振りをして過ごさずにすむのだから。 子供たちはまず教室に集まった。教室では皆、お互いに色々と笑いながら話しているのだけど、私はその群れからは少し離れて、自分の席に座って黙って前を見ていた。もうすでにこの場所とは縁が切れたのだと思ったのだろうか、私からその群れに入っていこうという気はまったくといって起こらなかった。またいつものように楽しい人の振りをするつもりは無かった。やっとこの場所から抜け出せる。前の黒板をじっと見つめながらそのことだけを考えていた。十分ほどして担任が教室にやってきた。その女性教師は若草色の着物に紺色の袴をはいていて、子供たちよりも力が入ったその格好に少し驚いたし、逆に少しこっけいでもあった。簡単な朝礼をやった後、私たちは教室から廊下に出てバラバラで体育館に向かった。体育館の前で立ち止まって、そこで整列する。他のクラスの子供たちも後からやってきて、同じように整列していった。そして時間が来ると私たちは一列に順々に体育館の中に入っていった。 体育館は子供が座るための椅子が前側にびっしりと並んでおり、その後ろに保護者用の椅子が同じようにびっしりと並んでいた。保護者用の椅子はすでに多くの親で埋まっている。私たちは、それ以前に行っていた予行練習と同じように順々にその椅子に座っていった。
2009.01.08
教室の前には「○○~○○」と受験番号が張り出されていて、私は自分の受験番号が該当している教室に入った。前の黒板を見ると大きく席の列の絵が書かれていて、それぞれに受験番号が書かれている。どうやら、自分の受験番号が書かれた席に座れということらしい。黒板を見ながら自分の受験番号を確認したところ私は一番前のほぼ中央の席だった。私はその席に視線をやる。そのとき、私の席の隣りに座っているのが同じ塾に通っている子だと気付いた。と言っても塾で会話をしたこともない。私はただ簡単に会釈をしただけだった。 テストは、その前の私立中学と比べようも無いくらい難しかった。それぞれの科目のテストにおいて前半部分は何とか解くことができたけど、後半部分ははっきり言ってほとんど歯が立たなかった。テストの途中昼食を挟むことになったのだけど、私は家から持ってきた弁当をつつきながら、「やっぱり駄目か…」 と自分の心の中で呟いたりしていた。そのとき突然、私の席の横に座っていた子に、「前の試験なんて気にせずに行こう。なるようになるよ」 と声をかけられた。私は驚きながら視線を右隣に向ける。その子はテストを前にして特に神経質になるわけでもなく穏やかに笑っていた。その子は塾のテストなどで私とほとんど同じような点数を取る子だった。つまり、学力においては私とそれほど差があるとも思えない。それなのにこんなにも余裕のある表情をしていることに驚いた。 その子のこの言葉に対して何と返したのかは憶えていない。きっと、あいまいにうなずいて済ませたりしていたのだろう。 そのような感じでテストは終わっていった。前の私立中学校と同じように、一週間後に合格発表があった。今回も平日にあたっていて、私は母親に合格発表を見てくるように頼んだ。ただ、今回は前回とは違って、私は合格することはできなかった。学校から帰ると母親に、「落ちてた」 と言われ、その後に、「嫌だった」というような意味のことを言われた。私が不合格であったことに少なからずショックを受けたのだと私はその言葉を受け取った。 その話には後日談がある。 その一ヵ月後くらいに、何かの手続きが残っていたのだと思うけど塾にもう一度行くことがあった。そしてその時に、私の隣に座ってテストを受けていた子がその中学に合格したことを知ったのだ。私は彼の日頃の成績ではその難関中学に合格するのは難しいと勝手に思っていたので、はっきり言って驚いた。でも、だからといって「悔しい」と思うことは無かった。ただ、「ああ、そうなんだ…」と事実を受けとっただけだった。
2009.01.07
考えて見れば、この言わば「自由というものに対する息苦しさ」にはそれ以降の人生においてもずっと苦しめられてきたような気がする。受験すべき大学を決めるときも、進むべき学部を決めるときも、就職すべき企業を決めるときもいつだって私は困った。なぜなら、いくら自分に「私は何をやりたいの? 私はどこに行きたいの?」 と自問してみても、私の心は何一つ答えを返してはくれなかったから。私は自分がどこに進みたいのかも分からないし、何をやればいいのかも全く分からなかった。そしていつの間にか私は、「私がこれをしたいから」という観点ではなく、「この方向に進んだほうが私のためになりそうだから」という観点でのみ人生の進路を考えるようになっていた。このことは、私の人生にとっての致命的な欠陥だったのかもしれない。今の私の絶望の多分にこの点から派生してきているのだと思う。 変な話、「あなたの好きなことを自由にやってください」と言われるよりも、逆に「これをしなさい」と強制されたほうが取り組みやすかった。だって、するべきことを外から与えてくれたのだから。私はただ言われたことをすればいいだけだったのだから。 朝の八時頃にその国立大学付属中学に到着した。テストは九時からだから一時間の余裕がある。門の前に腕章をかけた中学教諭らしき男性が立っていて、その前には受験生らしき子供たちが列になって並んでいた。私はその列の最後尾につく。そして私の順番が来ると受験票を彼に見せて敷地の中に入った。 その中学校は、その前に受けた私立中学校よりも建物が古臭かった。建物の外見はひびが入り、ツタが所々這い回っている。その敷地全体が何だか古臭い雰囲気を持っていた。前に受験した私立中学は建物が近代的な雰囲気を漂わせていたので、そのギャップを強く感じた。と言ってもその古臭い雰囲気に嫌悪感を感じたわけでもない。私にしてみれば、人工的な雰囲気よりもその古臭い雰囲気のほうが居心地は良く、好ましくさえ感じられた。私は周りをきょろきょろと見渡し、そんなことを一人考えながら受験生の波の中を歩いていた。その波は一つの建物の中に吸い込まれている。その建物の入り口のそばには、「受験会場」と大きく書かれた看板が立てかけてあった。私は他の建物と同じように古ぼけた、その受験会場の中に入っていった。
2009.01.04
親としてはそれはあまり気の進まないことだったのだろうか。合格していれば問題ないけど、もし不合格ならその不合格であること自体に苦痛を受けることになるし、その後に子供に伝えることにまた別の苦痛を受けることになる。ただその時は幸い合格だったので、そのようなことは起こらなかった。学校から帰ると居間で母親に、「合格してたよ」 と言われた。私はとくに喜びはしなかった。ただ、ほっとした。私は、「そう」 とだけ言って、二階の自分の部屋に向かった。 私が行こうと思っていた私立中学の受験はこのようにとくに問題なく終わった。偏差値がそれほど高い学校でも無かったし、ただ家の近くにあったからという理由だけで志望した学校だったのでそれほど感慨もこみ上げてこなかったし、まるで事務手続きを経ていくかのように受験スケジュールは過ぎて行ったような感覚だった。 その二週間後、国立大学付属中学の受験があった。その難関中学は私にとって「受かれば自慢になる」というくらいの位置づけだった。その中学受験に向けた特別な勉強はしなかったし、努力もしなかった。変に努力してしまったら、落ちてしまったときに自分に対して言い訳ができなくなるというような屈折した思いもどこかにはあったのかもしれない。あるいは、努力してそして不合格になってしまったら、それによって私は自分の能力の限界を指し示されてしまうような気がして、そのことに微かな恐怖も感じていたのかもしれない。 その中学は家から一時間半くらい電車に乗ったところにあった。はっきり行ってかなり遠い。中学生の身としては往復三時間の通学時間はかなり負担になるに違いない。そのことも私を努力から遠ざけていた要因だったのだと思う。そしてその中学は「自由であること」が一つの売りである学校であり、制服は一切無く全て私服だったのだ。ある者にとってはその自由さが魅力なのかもしれないけど、私はその自由さが逆に息苦しかった。「あなたの好きなことを自由にやってください」 そういわれたら、何をすればいいのか分からなくてよく途方に暮れてしまった。
2009.01.03
言ってしまえば試験問題自体はそんなに難しいものではなった。私は難なく、問題用紙に書かれている問題を解いていく。そして最後まで行きつくと私は腕時計で時間を確認した。まだ二十分近く余っている。私は余った時間をやりすごすために、もう一度その解答用紙の答えを確認していった。「テスト、終わりです」 時間が来て、教卓の前に座っていた男性が立ち上がった。受験生が鉛筆やシャーペンを机の上に置くカタカタという音が一斉にした。そして男性は左端の列から一枚ずつ解答用紙を回収していった。 そのようなテストが二日間。一日目が算数と国語、そして二日目が理科と社会。一日目のテストが雪で開始が遅れたこと以外は特に問題なく終わった。私個人としても特に問題なく、そしてどこか何気なくその二日間は通り過ぎていった。 合格発表はその一週間後にあった。 おそらく落ちることは無いだろうとは思っているのだけど、やはりその一週間は落ち着かない気持ちで過ごした。頭の中に、掲示板に私の受験番号が載っていないシーンが時々忍び込んできて、それを慌ててかき消すこともあった。ただ、その一週間は周りから見たら、私はいつもと全く変わらない様子に見えたと思う。その受験のことについて私から周りに話をすることも無かったし、小学校で誰かに聞かれることもなかった。 そして合格発表の日。その日は平日だった。受験生によっては学校を休んでまで合格発表を見に来る子供もいるのだけど、私はそこまでしようとは思わなかった。テストを受けなければならないのであれば子ども自身が行かなければならないのは当たり前だったけど、ただの合格発表であれば、子供が行っても親が行っても結果が変わるわけではない。親には、「合格発表を見てきて」 と頼んで、私はいつもと同じように小学校に行った。
2009.01.02
その中学校の教師らしき中年の男性が大判の分厚い封筒を持って教室に現れた。そして黒板に時間割を書くと、その男性は教卓の前の椅子に座った。テストが開始されるまでまだ二十分ほどある。どうやらその男性はそのまま時間が来るのを待つ様子だった。私たち受験生の子供たちはこの少しの時間も有効と使おうと考えたのか、ある者はノートを必死に見ていて、ある者は参考書を必死に捲っていた。私はと言えば、土壇場で今さらそんな努力をしても結果は変わらないと思っていたので、ただぼうとして目の前の男性を見ていた。時間が来ると、その男性は立ち上がった。「これから問題と解答用紙を配ります」 教室には不思議な緊張感があふれ出してきた。 男性が一枚一枚、受験生の前に問題と解答用紙を置いていく。私の前にもその紙束は置かれた。その紙束を見ていると、先ほどまでは緊張なんて全くしていなかったのに、まるで教室の中の緊張感が伝染したかのように私も緊張に襲われた。ただ、その緊張感と同時に変な充実感も感じていた。「私は、これから目の前の問題に全力で取り組んでやる」 そのような意気込みがどこかから沸き起こってきて、それが緊張感と一緒になって私の胸はどきどきと脈を早めた。私はその早まる脈を感じながら、自分が今、確かにここに生きていることを具体的に、そして鮮明に感じることができていたのかもしれない。そのような感覚は、普通に小学校に通っている中では感じたことが無いものだった。「テストを始めてください」 男性の声が教室に響き渡った。そしてそれを合図にして受験生は一斉に問題を捲る。私は眼を閉じて一回深呼吸をした後、彼らから少し遅れて、眼の前に伏せてあった問題用紙を裏返した。
2009.01.01
二月になって、クラスでぽつりぽつりと学校を休む人が出てきた。その人たちは皆、中学受験をする子供たちだった。私も当然、受験日は学校を休んだ。受験という理由で学校を休むということがそのときの私には格好良く感じられ、そしてそのことがまた私の他のクラスメートに対する優越感につながっていた。小学校にいる間は懸命にその集団の中に溶け込もうと「普通の小学生」の振りをしていたのだけど、やっぱり私はどこか浮いた存在だった。自分でも自分が普通とは違うと感じていたし、私の周りの子供たちも私のことを「付き合いにくい奴」とどこか見なしていた部分もあったのだと思う。私は「普通の小学生」の役を演じていた役者のような毎日を送っており、そして悲しいことに私は大根役者でしかなかったのだと思う。だから、現実的な部分で他の多くの子供たちと別の道に進むということが素直に嬉しかった。 私立中学の受験日の前の夜から、私の住む街には珍しく雪が降り積もった。バスで行こうとしてもバスが来ない。幸い、家から歩いていける距離にあったので、私は両親と一緒にその中学校に向かって歩いた。その途中、雪で滑って転んで、「受験の日に滑るのは縁起が悪い」 などと両親と話しては少し笑ったような記憶がある。 テストは結局一時間ほど遅れて開始された。雪の影響で電車が遅れていて、受験生たちの多くも時間に間に合わなかったのだ。私は暖房がついていてもどことなく寒々とした教室で、カイロを両手で握りながらテストが始まるのを待っていた。 特に緊張はしていなかった。心のどこかでは「受かって当たり前」と軽く見ているような気持ちがあった。
2008.12.31
小学生の私の心の中に巣食っていたその虚無感は、それからの私をいつも苦しめた。この虚無感の怖いところは実際に苦痛を私自身に与えるわけではないというところにあった。気付かないうちに私の心の奥底から腐らせていくかのように、私を人生に対して無気力な人間に作り上げていた。 そしてその問題は、今の私が抱えている問題と本質的には何も変わらなかったのだと思う。今の私も、日々の生活の先に目指したいという未来なんて全く見えていなかったし、実現したいと思える夢も存在しなかった。何かを頑張りたいと願っていても、何を頑張ればいいのか分からなかった。きっとそこには甘えがあったのだと思う。責任転嫁があったのだと思う。だって本来、未来も夢も誰かに与えられるものではなくて、自分で見つけ出すものはずなのだから。私は、それが目の前に無いことがいつも不満で、そしてそのことをいつだって家族や社会など私の周りのもののせいにして生きてきた。そんな生き方をしていれば、いつの間にか、真っ暗闇の中を生きるような日々が訪れるのも当たり前だった。 小学六年生になって、結局私は二つの中学校を受験した。 一つは家の近所にある偏差値が低かった私立中学で、もう一つは難関高と言われていた国立大学附属中学だった。私は前者の中学に入れればいいかな、という思いがどこかにあって、そしてその難関高に合格するための勉強はしなかった。その難関高を受けたのは、それが難関高であったというだけの理由だった。つまり見栄を張るために受けただけだった。塾の周りの子供たちもその難関高を受けた。彼らがその中学に本気で行きたかったのかどうかは分からない。ただ、ほとんどの子供たちが受けたのだ。だからそのときの私にとってその難関高を受けさえすれば良くて、合格するかどうかなんてどうでも良かった。ただのポーズだった。どうせ、その中学を受ける子供たちのほとんどが落ちることになるのだから、私がもし落ちたとしても私のプライドが傷つけられることは無かった。 結局、中学受験をしたのも見栄だったし、塾へ通ったのも見栄だったのかもしれない。 小学校のクラスで確かに中学受験をする子供は何人かはいた。だけど多くの子供たちは近くの公立中学校へ進学した。そんな中、私立中学へ行くということが私にとって、そのクラスメートに対する見栄だったのかもしれない。今になって思えば、そんな気もする。
2008.12.30
当然、午後八時に授業が終わって教室を出るときには外は真っ暗になっていた。私はビルの外に出たときに、朝の光景とのギャップに戸惑うような視線をその外の世界に向ける。何だかこのビルの空間の中でタイムスリップして、朝から夜に飛んできたような感覚がどこかした。そのような気持ちを内に抱きながら、闇の中を駅に向かって早足で歩いた。 結局その塾通いは小学五年生と六年生の二年間続くことになる。「その頃の私は努力をしていたのだろうか?」 最近、そのような質問を自分に投げかけることがあった。あの頃の私は、必死に努力をしていたのだろうか。目の前の受験勉強の向こう側に、自分が目指したい未来が見えていたのだろうか。 それまでの人生(十年くらいのことだったけど)におけるよりも努力したことは確かだった。それまでの私は、あんなにも勉強をしたことは無かったのだから。だけど私は、塾における周りの子供たちよりは全然努力なんてしていなかった。テストなんてその前日に三十分ほど授業のノートを見るくらいだった。授業の前の予習なんてするわけもなく、ただその日の授業を大過なく過ごすことだけを考えていた。それに対して他の子供たちはもっと必死になって勉強していたのだと思う。そこにどのような動機があったのかは分からない。だけど毎日必死に勉強していたのだと思う。「私と他の子供たちの違いは何だったのだろう。あの頃の私はどうして努力をしなかったのだろう」 私は自分にそんな質問を投げかける。 きっとその当時の私には、その受験勉強の先にどんな未来も見えていなかった。目指したいと思える未来も見えなかったし、実現したいという夢も持てなかった。ただ眼の前の課題だけがあった。だからこそ努力ができなかったのではないだろうか。確かに課題として大量の問題は与えられるのだけど、それの先にある未来が見えなかったからその課題を解く意義が自分の中に見いだせなかったのではないだろうか。
2008.12.29
小学五年生の夏休みには夏期講習というものがあった。 それはいくつかコースが設定されていて、選べるコースは日頃のテストの点数で決められていた。私は一番上のコースに行くことになった。そのコースは午前十時から午後八時までの長時間にわたるもので、私はそれを夏休みの一ヶ月間ずっと続けた。それまでの人生においてそんなに長時間勉強した経験なんて無かったから、その夏期講習ははっきり言って辛かった。小学四年生までの私にとって夏休みとは、学校にも行かず、学校での人間関係に気を使う必要も無く、自由気ままに生きることのできる楽園のような期間だった。私は、それまでの楽園のような夏休みと、眼の前にある、毎日夏期講習に行って長時間勉強し続ける夏休みの間の大きなギャップに始めはひどく戸惑った。 午前十時に生徒たちは塾の教室に集まる。駅から塾までの道のり、まだ午前中で日差しはそれほど強くは無いのだけど、ただ夏の日差し特有のぎらぎらした輝きを放っていてその日差しに照らされた街自体が生命の躍動感を持っているかのように鮮やかに見える。そして塾が入っていた小さいビルに入ると、その明るい世界から急に暗い世界に入ったような感覚を憶えた。照明が暗いというわけではなかったのだけど、ただ、外は明るい光に溢れていて、そのコントラストのせいか建物の中が妙に暗く感じられたのだ。 狭い階段を登って三階が私が授業を受ける教室だった。その教室の窓には遮光シートが張られていて、外からは教室の中が見られなくなっている。外から見ると鏡のように反射して教室の中が見えなくて、そして内側から見ると外の世界が薄暗く見えるような、そんなよくある遮光シートの一つだった。その遮光シートは教室の内側の世界と外側の世界を視覚的に区切っていて、今まで歩いてきた外の世界が、今自分がいる教室の内側の世界とはまるで別世界のように見えた。その現実世界からは切り取られた異空間のような教室の中で私は、授業を受け続けていた。
2008.12.28
今でもそのシステムをとっているのかどうかは分からない。最近は小学校で徒競走の順位もつけなくなったというくらいだから、その塾でもそのような点数順の席順はやめてしまったかもしれない。 その場所では協調性も求められなかったし団体行動も求められなかった。毎週実施されるテストの点数だけが全てだった。私たちの周りはその点数を上げるためだけに努力をしていた。点数で席順が決まり、前列に座った子供、つまり点数が良かった子供は少し誇らしげに授業を受けた。後ろの席に座った子供は少し卑屈そうに授業を受けた。そのような世界は人間らしくないと、今の世の中では否定的な人が多いのかもしれない。だけど私にとっては、居心地のいい空間だった。周りに愛想笑いを尽くして友達の振りをし続ける必要も無かったし、休み時間にどのグループに入ればいいのか気をもむ必要も無かった。きっと、そのような世界は私のような寂しい人間には合っていたのだと思う。 ただ、私はその塾に通う周りの子供たちよりも努力をしたかと言われれば、きっとそれほどの努力はしていなかったような気もする。そのときの私には、少しでも偏差値の高い中学に行きたいという欲は無かった。それに受験勉強は私にとって、小学校の共同生活よりは向いていたのかもしれないけど、かといって私は勉強が好きというわけでもなかった。基本的は私は面倒くさがりやだった。つまりその場所は私には向いていたのかもしれないだけど、ただ、私を前に突き進ませてくれるようなものには欠けていた。
2008.12.27
私は異常だったのだろうか。 異常だったのだと思う。今まで生きてきて、そしていくつかの集団に属してきたのだけど、私のような人間に出会ったことが無かった。私はきっと、人間として大切なある部分がごっそり欠けていたのだと思う。私はその欠落にいつも苦しんできた。その欠落は、私という人間を「生きることに向いていない人間」に押し込めてきた。この世界をうまく生きていくことができなくて、私はいつも世界の外側から、その世界で自然に生きている人たちに羨望と絶望のまなざしを向けていたのだと思う。 私は子供の頃からずっとそのような人間だった。 小学五年生のとき、私は初めて塾というものに通った。 その塾は最寄り駅から歩いて十分ほどのところにある、中学受験を目的とした大手の塾の一校だった。私が中学受験をしたいと言い出したのか、それとも親の方針で中学受験をすることになったのか、はっきりとは憶えていない。ただ、私の口から、「中学受験したい」と言った記憶は全く無いから、おそらく親の方針だったのだと思う。私はその方針に従った。私にとってその方針は、忌むべきものではなくて、多くの子供が近くの公立中学へ行くなか、自分の力を使って別の道に進む大きなチャンスでもあったのだ。私は小学校という空間に馴染むことはなくて、そしてその延長線上にあると思った公立中学へ行くのだけは嫌だった。 小学校が午後三時前に終わると、私は塾の準備をしてからバス停に向かう。私の学校でも同じ塾に通う子供が何人かいたので、バス停でときどきその子供たちと一緒になった。同じ塾に通う子供はなぜか仲間意識がそこにはあって、私はその子供たちと一緒にバスに乗り込んだ。バス自体は十分もすれば最寄駅につく。そしてバスを降りて、駅を越えててくてく歩いていくと、和菓子屋の隣りにその塾は建っていた。 授業は午後五時十分に始まり、午後八時過ぎまであった。それが週三日あって、そして日曜日には毎週テストを受けるのだ。テストの点で教室における席が決まって、点数の良かった人から前に座っていく。だから週の初めの授業に行って席表を見て、初めてその前の日曜日のテストの出来を知ることになった。 そのようなシステムは当然小学校には無くて、私にはとても新鮮だった。
2008.12.23
こまごまとした雑用をしていると居室にチャイムが鳴った。時計を見ると午後十二時半を示している。昼休みだった。 会社には社員食堂が設置されており、ほとんどの社員は昼休みになるとその食堂に向かう。私もその人の群れに入って食堂に向かった。私はいつも一人で昼食を食べていた。設計に携わっていた機種の設計で忙しかったときには、同じ機種を担当していた先輩に誘われるようにして十人くらいの集団の中の一人として食堂で食事を取っていたが、いつの間にかそのようなことも無くなった。私自身がそのような集団行動を避けるようになっていた。 多くの人たちの中にいて、そしてその人たちに合わせていると、いつも私は窮屈な思いを感じた。自分が醜く捻じ曲げられていくような、そんな感覚に襲われて、私はそのような状況からは逃げるようになった。大げさかもしれないけど、集団の中の一人として食堂で食事を取ることも私にとっては窮屈であり、精神的な負担であり、私はそのような状況にいると自分が本当の自分でなくなってしまうような錯覚すら覚えたのだ。 ただ、集団から抜けて独りになるということは始めはとても怖かった。そのような行動に出てしまうと職場に居場所がなくなってしまうような気がしたから。私はその先輩から誘われることがないように昼休みの時間が近くなると、多くの設計者たちがいたCADルームから離れて、実験室や居室に向かった。そして昼休みの時間を告げるチャイムが鳴るのを一人待った。そんな行動をしている自分が馬鹿馬鹿しくもあったけど、昼休みのチャイムが鳴ったときにいつも誘っていくれた先輩と同じ場所にいて、先輩から、「飯、行くか」 と誘われてしまったら、もう断ることができなかった。そのような誘いに対して直接断るような勇気は私には無かったから、だから先輩から誘われないような状況を自分で作って、そして少しずつその集団から離れていこうと思った。そのような努力を続けていた私はおかしかったのだろうか。きっと、おかしかったのだと思う。 昼休みになって一人で食堂で食事を取るということは、最初は抵抗があった。皆、職場の同僚と食事を食べているなか一人黙々と食べているのは、その姿自体が、会社という集団への不適合を身をもって表しているような気がしてひどく居心地が悪かった。だけど二、三ヶ月もすれば、そのようなことにも慣れてしまった。そして、慣れてしまえばどうということは無かった。私は自分に対して、「私は団体行動が苦手で、協調性が無い人間なんだ」 そう呟いては、よく寂しい苦笑いを浮かべていた。
2008.12.22
確かに、高校を卒業してからの十年間、もし必死に何かを求めて生きていれば、今の私は全く違った場所に立っていたのだと思う。だけど、そのような想像をすることは私にとって無意味だった。現実として私は、そのような生き方をしてこなかったのだから。私はただ時間の波に流されるように生きていて、そして一年一年、年をとっていくだけだったのだから。 心のどこかでは、私は、そんな偽りの人生を生きるのにうんざりとしていたのだと思う。たとえ今の二十九歳の自分が、「もし十九歳の私が何かを必死に求めて十年間を生きることができたなら、もっと違った自分になれたのだろうか」 と後悔することがあっても、今から十年後の三十九歳になった私が、「もし二十九歳の私が何かを必死に求めて十年間を生きることができたなら、もっと違った自分になれただろうか」 と後悔するのは絶対に嫌だった。そのような未来は絶対に嫌だった。そしてそのことを防げるのは今の二十九歳の私だけだった。私しか、私のこれからの十年間を変えることができる人間はこの世の中に存在しなかった。私は、自分の人生を変えたいと心から願った。だけど、その人生をどのように変えていけばいいのかがどうしても分からなかった。 朝の居室は、まだ来ていない社員もいてまだ閑散としていた。 会社から支給されているパソコンを立ち上げて、メールを見る。最近はそれほど多くのメールは来なくなった。ずっと設計担当として関わっていた新機種がつい先日量産されて、設計者としての仕事はそれほど多くはなくなっていた。その日も特にすぐに対応が必要なメールは来ていなくて私はメールを閉じた。一年前や二年前が嘘のように、最近ははっきり言って暇だった。特にすぐにしなければならないことがあるわけでもない。ただ、せっかく時間があるのだからと、今まで知識が足りなかった部分の勉強を一人で行ったりした。確かに仕事がそれほど無くて楽ではあったけど、何だか人生における大切な時間を無駄にしているような感じがした。
2008.12.21
ただし、それはきっとこの五年間だけの話ではなかった。 高校を卒業してもう十年が経つというのに、私はその当時の私からも成長できていないような、そんな寂しい実感が私の中にあったのだ。大学を目指していたあの頃、私は必死になって前に進んでいた。自分を最大限に律して生きていたし、明確な目標を持って日々努力して生きていた。それはとても大変な日々ではあったけど、それでも今振り返れば充実した日々であったような気がした。少なくとも、「私は今、生きている」という実感がそこにはあったような気がする。 だけど、それ以降の私の中にはそのような実感がいつの間にか消えていた。どこへ向かえばいいのか分からなくて、立ち止まるだけだった。何を目指して生きていけばいいのか分からなくて、その場所にうずくまるだけだった。その闇があまりに深い夜は、今この瞬間に人生が終わってしまったとしても、きっと私は後悔しない、などと寂しいことを考えたりもした。そして気付けば十年が経っていた。 私はときどき、「もし、この十年間、何かを求めて必死に生きることができたのなら、私は今の自分とは違う自分になることができたのだろうか。その世界では、今の私とは全く違う私が、「今自分は生きている」という事実に日々感謝しながら生きているのだろうか」 そのような想像をした。そんな想像はきっと無意味なことだったのだろうけど、私はその想像をしては自分を安心させた。その空想の世界に逃げ込んでいた。だって、その想像の中の私は、現実の私とは違って明確な目標をもって生きていて、そして日々充実した人生を生きていたのだから。うまく生きることができさえすれば、私はその空想の私と同じ私になることができる。そのように自分に言い聞かせれば、私は何とか今日という一日をやり過ごすことができたのだから。だけどその安心感は偽りの安心感でしかなかった。その安心感はすぐに自己嫌悪と焦燥感に変わって、私をもっと苦しめた。
2008.12.18
だけど、その事実の重みを本当の意味で受け入れることができるのは、例えば余命わずかと告知された末期ガン患者くらいなのかもしれない、と心のどこかでは思っていた。人は現実に自分の死というものが眼の前に迫ってみないと「人生は一度きり」という事実の重みなんて気付けることなんてないのかもしれない。だから普段からいくらその事実の重みを受け入れて生きようとしても、自分の死というものを想像して生きようとしても、やはりそれは空想の中の死でしかなくてそれはどこか軽い重みでしかなりえないのではないのだろうか。私の中にはそのような考えもどこかに巣食っていたのだと思う。 職場には午前九時半に到着した。 社員カードで入り口のゲートを通って、目の前にある建物に向かう。五階建ての建物だった。以前にここに入っていた会社では工場として使われていたようで、平たい建物だった。その建物に入って二階に私の居室があった。裏口から入って階段で二階に向かい、そして実験室の片隅に備え付けられた汚らしい着替え場所で会社指定の上着を羽織る。「おはようございます」 席に座ると私の隣のHさんが挨拶をしてきたので、私も、「おはようございます」と小さく会釈する。私はどうも挨拶をするということが苦手だった。私が新人社員だった頃はもちろん挨拶はしていた。だけど社員の中で挨拶を返してこない人も結構いたのだ。私は誰に挨拶をすればいいのか、そしてどんなときに挨拶をすればいいのか、そのことを考えて気にすることが非常に面倒なことだと思った。私はその面倒から逃れるためだけに、職場では自分から挨拶をすることがめっきり少なくなった。心のどこかでは、「これでは社会人失格だね」という思いもあったけど、私は無理やりその思いを押しつぶした。 私がこの会社に入社してからもうすぐ五年になる。そしてその五年という言葉を眼の前にするといつもうろたえてしまう。大学に四年間も在籍していたけど、それ以上の年月をすでにこの場所で過ごしているということに驚くのだ。きっと、この五年があまりにあっと言う間に感じられたことと、そしてその五年間に私が成長できていないということの二つの事実にうろたえたのだと思う。
2008.12.11
そしてそのようなときはいつだって、あるアメリカの経営者が講演で言ったという次の言葉を思い出すのだ。その経営者とは大きなパソコンメーカの経営者であり、そしてその講演の様子を、私の所属する設計室の室長が何を思ったのか期末の成果報告会で紹介したのだ。そのときはそれほど真面目にその講演を聞いてはいなかった。だけど、後になってその講演の日本語訳を読んで、私はその言葉の重みに気付かされたような気がした。 彼は、次のように言っていた。「私が高校生のとき、次のような言葉を眼にしました。それは、「今日が人生の最後の日だと思って過ごしていれば、いつか必ずそれが本当になる日が来る」というもので、その言葉はまだ高校生だった私に非常に強い印象を残したのです。 その日以来、私は毎朝自分に次のように問うようにしました。「もし今日が人生で最後の一日だったら、今日これからすることをそれでもしたいと思うだろうか」 自分の死というものを意識して生きることは、自分の人生にとって何が本当に大切なのかを判断するときに非常に役に立つのだと思います。自分の死というものを考えれば、つまらない意地やプライドなどに振り回されること無く、自分の人生にとって大切なものを軸に生きることができるようになるのだと思います。 他人に指図された人生を生きる時間なんて、そんな無駄な時間は人間には与えられていないのです。自分の心のままに生きるべきなのです」 毎日が無味で無意味で、そしてそんな時間の中に押しつぶされそうになったとき、私は、このような言葉をよく自分に言い聞かせた。そのようにして何とか今日まで生き延びてきた。生まれたからには、生まれたなりの意味がどこかにあるのだと思いたかったし、たとえば神のようなものから使命を与えられているんだと思いたかった。使命を果たさずにこの人生を終えてしまうのは、あまりにも寂しいような気がした。 人生は一度きりで、人はいつか死ぬのだということ。 その事実はとても当たり前のことで人間だったら誰でも知っている。だけど私は次のように思った。「その事実を知っているということと、その事実の重みを知っていることとの間には大きな違いがあるのではないだろうか」 私はきっと、その事実は知っていたとしてもその事実の重みはまだ分かっていなかったのだと思う。私はその事実の重みを受け入れることができるようになりたい、とよく思った。
2008.12.10
私は、少しうつむきながら黙々と歩いている人たちを後ろから眺めながら、「この人たちは、このような人生を虚しいものと思わないのだろうか?」 とよく思った。 以前、私の二つ先輩であるMさんと同じ電車で帰る機会があった。それは、私たちが通う事業所とは別の事業所に用事があって、そして帰るときのことだった。 私とMさんはドアの前に立ち、とりとめのない話をしていた。電車の中は仕事帰りのサラリーマンでごった返している。その中で、Mさんは冗談っぽい口調で、「将来的には株だけで生きていくこととか考えている?」 と私に質問した。 私は二年ほど前から株式投資というものを始めていて、その話をときどき会社の同僚で仲のいい人に話していた。「それは全く考えていないですね」 私は正直に答えた。「私にとって株とは、手段であって目的では無いんですよ。私が目指しているものは、私がやりたいことだけをやって生きる生活です」「でも、サラリーマンだと難しいよね」「そうですけど、サラリーマンだけが選択肢ではないですから」「うん、それはそうだけど」 私はMさんの言葉を聞きながら、きっと、多くの人にとって自分の行動を制限しているものは、「サラリーマンだと難しいよね」という考えだったのかもしれないと思った。サラリーマンだから難しい。サラリーマンだから仕方ない。そのような考え方はおかしいものではないし、そのような考え方をすることのほうが現実世界を生きていく上では正しい生き方だったのかもしれない。むしろ私のような考え方のほうこそが、世間を知らない甘い考え方だったのかもしれない。単なる理想でしかなかったのかもしれない。 だけど、私は「サラリーマンだと難しいよね」という言葉に強い違和感を感じた。 確かに理想と現実は違っていて、現実に沿って生きることは重要なことなのかもしれない。だけど、どうして理想を追求してはいけないんだろう。私はいつもこのように思った。人生はたった一回で、その一回きりの人生のどこかでいつか死を迎える日が必ず訪れる。そのような人生を生きているのに、どうして理想を追求してはいけないんだろう。この人生の有限性を考えたとき、この一回きりの人生の中で理想を追求するだけの価値はあるのではないだろうか。 私はそのような考えに囚われていたのだと思う。
2008.12.07
私が通勤に使っている路線は、横浜の住宅街と東京都心とをつなぐ路線だった。最寄り駅であるA駅は改札を抜けて右側に下り方向のホームへの階段があり、左側には上り方向の階段がある。改札を抜けた多くの人たちは当然、東京都心に行くために左側に向かって歩き出す。だけど私が乗るべき電車は下り方向のものだった。私の通勤する事業所は東京都心方向ではなくて、郊外ののんびりとした田舎の空気の中に建てられていた。 私はホームへ上がるためのエスカレータに乗る。エスカレータの隣りには階段も設けられているのだが、電車から降りてきたばかりの乗客が降りてきて私の横をすり抜けていった。彼らは、ここでもその多くは某大学のキャンパスに向かう学生たちだった。 エスカレータの出口は、電車の先頭車両の近くに位置していて、私はそのせいもあっていつも先頭車両に乗るようにしていた。ホームに立つと、線路を挟んだ反対方向のホームではいつも人が溢れかえるようにして並んでいる。一方、下り方向のホームはぽつぽつとしか人はいなかった。ホームに立つと大勢の人たちの前に一人相対するような形になって、それが少し恥ずかしかった。私はいつもじっと下の線路を見て、あたかも線路に興味がある人のような装いをしていた。ただ、電車ではたいてい座ることができた。そのことは単純に嬉しかった。 乗換えを二回して、私の通う事業所がある駅に到着する。そこから歩いて十分ほどのところにその事業所はあった。 駅を出て、歩いていく。事業所の前は田圃がいくつかあり、その間を細い道が通っている。そしてその細い道を歩く人たちは皆、その事業所に向かう人たちのみであった。細長い列になってその事業所に向かって淡々と歩いている人たちを見遣ると、私はいつだって寂しいような虚しいような気持ちに襲われた。そして何よりも、その列の中の一人が自分であるという事実が何よりも寂しかったのだと思う。毎日決まった場所に決まった時間に通う。そしてそのことを四十年近く続けるのだ。そのことは会社員にとっては普通に考えたら不思議なことでもないし当たり前のことだったのかも知れない。だけど私はそのことを想像するだけでぞっとした。そのことがとても異常なことであるような気がした。 きっとその姿が、自分の人生のはずなのに、それなにに余りにも多くのものに縛られて不自由に生きている姿に見えていたのだと思う。そのような生き方をしたいとはとても思えないのに、それなのにそのような生き方をしてしまっている自分がいる。そのことが何よりも寂しかったのだと思う。
2008.12.06
始業式の前夜などは不安に押しつぶされそうで、文字通り眠れない夜を過ごした。そして始業式の日がやってきて、私は何気ない様子を装いながら小学校に向かった。小学校に入ると校舎の前に子供たちが大勢たむろしていておしゃべりをしている。私がその集団に近づくと、校舎の前の掲示板に新しいクラス分けが発表されているのに気付いた。私はその集団をかきわけ貪るようにその紙を見る。そして私と同じクラスになった子供たちを全てチェックしていく。心臓はどきどきと大きく脈を打っていた。結局、前のクラスでそれなりに仲良くしていた子供たちと同じクラスになることができたのを知って、私は心の底からほっとした。そして校舎に入り、新しいクラスの教室に入る。すると今までと見慣れない光景がそこにはあって少し戸惑った。今まで違うクラスの子供たちと同じ教室にいるということがとても不自然なことに感じられた。 その新しいクラスでも私は、楽しい振りをやり続けた。 いや、本当に楽しいのか、それとも楽しい振りをしているだけなのか分からなくなりそうだった。それくらいその仮面は私にとって自然なものであり、そして大切なものになっていた。その仮面をかぶり続けることによって何とかそのクラスの中で浮くことを避けることができたし、何の変哲もない普通の子供というレッテルを自分に貼ることができた。私の周りには何人かの子供たちも集まってくるようになり、小学校三年、四年の頃の私はそれなりに平和な日々を過ごしていた。 ただ、今までと同じように、他の子供を遊びに誘うことなんて一度もなかったし、そして他の子供からの誘いは何か特別な用事でもない限り絶対に断らなかった。そういう意味ではやはり、私は周りの子供たちと本質的な部分で違っていたのかもしれない。 その頃になってさすがに私は、自分が他の子供たちとどこか違うということに気付き始めたのだと思う。必死に普通の子供の振りを続けていたけど、それでも心のどこかではそのような演技をすることにひどく疲労していた。そしてなぜこのようなことをする必要があるんだろう、このようなことをしなければ私はこのクラスでうまく生きていくことができないのだろうか、そのようなことを漠然と小さい子供なりに考え始めていたのだと思う。 朝の駅前はいつものように混んでいた。 近くに某大学のキャンパスがあって、そのキャンパス行きのバスを待っている学生たちが駅前のバスロータリーに溢れかえっている。いつもの光景だった。そしていつものように彼らの間をすり抜けるように駅へと歩いていく。 私の勤める会社は最寄り駅から電車で四十分くらいの距離にあった。
2008.12.04
しかし、その体力面が小学校の中での私の特徴だったかというとそうでもない。私より体が大きい子供はたくさんいたし、スポーツに関しても私よりうまくやる子供もたくさんいた。あくまでも私は、「上位グループの中にいる子供の一人」でしかなかったし、そもそも運動自体もそれほど好きではなかった。小学校の中で私を特徴付けていた性質は、もっと別のところにあったのだと思う。それは何かと言うと、勉強、だった。 小学校の低学年の頃、少なくともあの小さな市立小学校の範囲の中では私は勉強ができる子供になることができた。算数や理科などはカリキュラムの節目節目でテストを受けさせられたのだけど、私は簡単にその問題を解くことができた。周りでその問題が分からないという子供を見ては、どうしてこんな簡単な問題が分からないのかと、軽蔑とは全く別にただ単純に不思議だった。小学校の頃の通知表は三段階評価なのだけど、国語、算数、理科、社会の主要な四科目はいつも上位の評価を貰っていた。音楽や体育などで時々中位の評価をもらうくらいだった。 だから私にとって小学校とは、勉強をうまくやっていく空間ではなかった。それよりも本当に難しかったのは、その閉鎖された空間でどのように振舞って時間を何とかやりすごすか、だった。私にはその人間関係の方が何百倍も難しかった。人と関係を結ぶことがひどく困難なことに思えた。それでいて、私は周りの子供たちと何も変わらないんだという振りをし続ける必要があった。その振りをし続けないと、本当にそのクラスの中で私は孤立してしまいそうだった。毎日が気が気でない思いで、小学校にいる時はまるで、崖の間に架けられた細い平均台の上を歩いているような気持ちだった。少しでも気を抜いてしまうと私はその崖の底に転落してしまい、そしてもう永遠に上には戻れないのだと思っていた。私は必死に、面白くもないのに笑っていたし、私の友人の要求には、どんな要求であっても断らないようにした。 小学三年になったとき、私たちはクラス替えというものを経験した。 多くの子供たちにとってもそれは不安な行事の一つだったのかもしれないけど、私にとってはその不安は比ではなかったと思う。誰と同じクラスになるのか。前のクラスで友人として過ごしていた子供と同じクラスになれるだろうか。もし、まったく私が馴染みの無い子供たちとだけ同じクラスになってしまったらどうしよう。始業式の日が近づくにつれて、私は不安で不安でしかたなく、そのことだけを考えて過ごしていた。
2008.12.01
私は小学一年のときから、最寄り駅のスイミングスクールに通うことになる。 私のほうから通いたいと言った記憶は全く無い。おそらく親のほうで、体作りのためにいいだろうから、くらいの理由で通うことになったのだろう。当然妹も同じスイミングスクールに通うことになる。毎週水曜日、週一回の練習があった。そして月一回試験があって、それに合格すると一つ上のクラスに上がっていくというシステムだった。下のほうのクラスでは色々な泳法を習うというものだったが、上のクラスになると全てタイムによってクラスが決まっていた。水曜日、小学校から家に帰ると私はスイミングスクール指定の服に着替え、そして水着やゴーグルをカバンの中に詰め込んで近くの歯科病院の駐車場に向かう。そこがスクールバスの乗り場になっていて、それに乗り込むと方々の地域を回って生徒を回収していきながら、五十分ほどかけて駅に到着する。駅までは最短距離で行けばたかだか十分で着く距離だったので、そのスクールバスはかなり遠回りして多くの生徒をその中に詰め込んでいた。そしてスクールに着くとロッカーに荷物を詰め込んだ後に、ちょっとした広間に集まる。そこで時間が来るとトレーナが前に立ち、大勢の子供たちと準備運動をした後に、さっそくプールの中に入ることになる。 正直言って私は、そのスイミングスクールが嫌いで嫌いでたまらなかった。そのスクールはそれなりに厳しくて、上のほうのクラスに行くとかなりの量の泳ぎこみを要求された。その練習は、少なくともその当時の私には本当に苦しくて、口に入ってくる塩素臭い水に気分が悪くなりながらひたすら泳ぎ続けた。私は別に水泳のオリンピック選手を目指すわけでもないのにそんな心身に負担の多い練習をすることにひどく抵抗を感じた。そのような理由もあって、小学生の私にとってそのスイミングスクールの練習のある水曜日とは一週間の中でもっとも嫌いな曜日だった。水曜日と聞くだけでのどの奥から嫌悪感がこみ上げてきたし、歯科病院でバスに乗り込み、次第に駅に近づくにつれてどんどん憂鬱になっていった。そして練習が終わって帰りのバスに乗り込むと、真っ暗な駅前の道路を行きかう車を見ながら、あと一週間はこの苦しみを味わわずにすむことに心の底からほっとした。 ただ、今になって思えば、スイミングスクールに通ったことはそれはそれで良かったのかもしれない。スイミングスクールのおかげで、小学校の体育の時間などで私はそれなりに優秀な子供として過ごすことができたのだから。週一回泳ぎこんでいたおかげだったのか私は基礎体力はそれなりについていて、そして小学校低学年の体育の授業では基礎体力さえあれば、走ることだって球技だってクラスの中では上位の部類に位置することができたのだから。小学校というひどく閉鎖された空間では、体育の時間にそれなりのポジションに位置しているということは大切なことだったような気がする。体育の時間に活躍するということで、私という存在の存在感をそのクラスの中に印象付けることができた。
2008.11.30
高校生のときクラスメートと、自分の兄妹についての話になったとき、「妹との会話はほとんど無い」 と私は正直に言ったことがある。 するとクラスメートはひどく驚き、「それ、絶対変だよ」 と言った。だけどそのときの私には何が変なのかよく分からなかったし、別に変だとは思わなかった。私にとって知っている兄弟とは私自身の兄妹のみであって他の兄妹がどのようなものなんて知らなかった。だから心の中では、他の家の兄妹もこのようなものなんだろうと漠然と思っていた。でも今になって思えば、やっぱりお互いに全く干渉しようとしない私と妹の関係は「変」だったのだと思う。 小学生のときの私についての話に戻そう。 正直、一年生や二年生などの低学年のときの記憶はほとんど残っていない。その頃の私はどのような子供だったのだろう。その頃の私は、まだ普通の子、という役割をそれなりにこなしていたのだと思う。小学校低学年の頃は、それでも私は自分の人間的な変質に気付いていなかった。周りの子供たちとそんなに変わらない存在だとまだ自分のことをまだ思っていたのだと思う。確かに自分から他の子供を遊びに誘うことはなかったけど、誘われたら遊びに行くようにしていたし、クラスの中にできる仲良しグループの派閥争いにもそれなりにうまく対処していた。後になってもたげてくる様々な壁にまだ悩まされることのない、私の人生の中ではそれなりに幸せに過ごせていた時期だった。親に自転車を買ってもらってクラスメートと町の中を走り抜けたりもしたし、近くの公園で色々な遊びをしたりもした。 また、小学生の頃は、誕生日にその子供の家でお誕生日会なるものが時々開催された。それは、誕生日を迎えた子供が、その子供が日頃仲良くしている子供たちを自宅に呼んでちょっとしたパーティをするというものだった。私もそれなりには呼ばれて、そして呼ばれるごとに、何をプレゼントとして贈ればいいかをとても悩んでいたのを微かに憶えている。誕生日会に呼ばれた子供は、一つプレゼントを買ってもっていくことになっていた。プレゼントを選ぶということがその当時の私にはなかなか大変なことで、何を選ぶかでいつも悩んだ。相手が欲しがるもので、かつ他の子供が贈るプレゼントと中身が被らないようにしなければならない。私は文房具屋でちょっとした文房具をいつも買っていたのだけど、その店で様々な商品を見ながらプレゼントを決めるという行為が私とって苦痛ですらあった。 その誕生日会だけど、結局私自身としては一度も開催したことはなかった。なぜだったのだろう。私自身が開催しないでくれと親に頼んだのだろうか。いや、私自身が親にそのようなことを頼んだ記憶は一度もない。きっと、私の方から、「誕生日会を開きたい」と絶対に言わなかったので、親のほうでも敢えてその誕生日会を開こうとは思わなかったのだと思う。多くの子供たちが家に来てその子供たちの相手をするというのは、親にとってもストレスを伴うことだったのだろうから。それと、私の誕生日自体が春休みにかかっていたことも理由としてはあったのかもしれない。ただ、たとえ春休みにかかっていなかったとしても、私が自分の誕生日会を開いていたとはとても思えない。
2008.11.29
双子の妹とは小さい頃は人並みの兄妹のように一緒に遊んだことはもちろんある。何をして遊んだだろうか。鬼ごっこだったような気もするし、かくれんぼだったような気もする。ただ、私たちが中学に進み高校に進むにつれて、私と妹はあまり会話をしなくなった。通常の兄妹でも、年長になるにつれて興味の範囲も変わってくるし、会話が少なくなるのはそれほど不思議なことではないのだろう。だけど、私と妹とはその「普通」という範疇を簡単に越えていた。私はだんだん、彼女と会話を持つということが無くなっていった。そして無くなるにつれて、私はますます彼女との間に壁を感じた。私の方から壁を作って、そしてその壁をどんどん高く建て増ししていくようになった。気付けば、もう私一人の力ではその壁を乗り越えることができないくらい、その壁は高く、強固なものとなっていった。もう最近ではほとんど会話もないし、お互いに干渉しないようにしていた。少なくとも私のほうは、彼女に干渉することは一切なかった。私の方に干渉さえしてこなければ、私はまるで彼女が存在しないかのように振舞った。 どうしてこうなったのだろう。 それは今の私にとっても一つの謎だった。きっと何らかのきっかけがあったのだろうけど、それが思い出せない。小さな小さなきっかけだとしても、それを修復することなくそのままに放置していたらいつの間にか二人の間の壁は非常に高いものになっていたのだと思う。出来事のきっかけなんていつだって些細なものだ。そして私には、その小さな綻びを修復するだけの能力が無かった。できることはその現実から眼をそらして、その現実が存在しないかのように振舞うことだけだった。そしてその対処法は、最も悪い対処法であった。だけど私はそのことを考えもせずに、その対処法に縋りつくようにして兄妹として過ごしていた。いつの間にか私にとって兄妹とは、まるで同じ家に住んでいる他人のように、近くて、それでいて非常に遠い存在になっていた。
2008.11.27
すでに冬の気配が濃厚に漂っていてひどく空気が冷たくなっている。私は自分の中に少しでも体温を閉じ込めようと腕を組んで歩き出した。駅までは歩いて三十分ほどの距離になる。以前はバスを使っていたのだけど、健康のためと、その三十分の徒歩で色々と考え事をしたいことと、そしてちょこっとだけバス代を浮かすために歩くようにしていた。 家の近所の通路では、近くの小学校に通う子供たちがグループになって歩いていた。それは私が通っていた小学校に同じく通っている近所の子供たちだった。ひどく楽しそうに歩いている。私はその無邪気に笑いながら歩く子供たちを見遣りながら、私にもこんな時期があったのだろうか、と思った。「無かったんだろうな…」 私は心の中で呟いた。 一年生の担任の教師はSという女性の先生だった。今思えば、その当時のSはとても年が若く、おそらく私のクラスを持ったのが初めてか、あるいは二度目くらいの担任経験だったのだと思う。実はそのSは、その後の六年間で、四年間も私の担任を務めることになる。 一年生は一学年に三クラスあり、私は三組だった。そして私の双子の妹も当然同じ市立小学校に通うことになり、クラスは二組だった。おそらく、学校のほうで気を回して双子で同じクラスにしないように配慮していたのだろう。当然といえば当然だったけど、それでも今になってみればその配慮もありがたかった。同じクラスに兄妹ががいるという状況はきっと、我慢できないものだっただろうから。結局私と妹は、小学校では一度も同じクラスになることは無かった。 その私の双子の妹についてなのだが、会社などで自分の兄妹のことを聞かれたときに私は正直に、「双子の妹がいる」 と答えることにしている。だけど、そう答えるといつだって驚きの眼で見られる。そのような反応を目の前にするたびに、双子という存在はきっとその言葉の浸透度以上にはそれほどありふれた存在ではないのだな、と思う。やはりどこか珍しい存在なのだな、と思う。以前の会社の飲み会で同じように私が双子であることをしゃべったら、眼の前に座っていた二つ下の後輩であるEが、「私の知り合いにも男女の双子がいるけど、二人は仲が良くて、二人だけで映画に行くこともあるらしい」 と言った。Eの言葉を耳にしても、私はそんな双子を想像することもできなかった。二卵性双生児であったので私にとって双子とは普通の兄妹と変わらないと感じていた。ただ同じ年に兄妹が生まれただけなのだと捉えていた。 でも今になって思えば、Eが言った双子はどこか異常であるような気がした。だって、たとえ双子でないとしても、いい年した兄と妹、あるいは姉と弟が二人だけで映画を見にいくのはあまり普通のことだとは思えない。
2008.11.26
私はふっと考えがとまった。そして頭の中を探ってみる。一つ思い出したことがあった。私は後先考えずに室長にその記憶を話していた。「変な話なんですけど、昔NHKで、「プロジェクトX」という番組があって、それが僕はとても好きだったんです。だから私も、色々な壁を乗り越えて世の中に全く新しい製品を送り出すという仕事をしたかったのだと思います」 確かに私は「プロジェクトX」という番組が好きだった。色々な障壁を乗り越えて、そしてチーム一丸となって一つのプロジェクトを成功に導くという単純なストーリーに、比喩とかではなくて本当に涙がこぼれそうになった。私は、その単純なストーリーに確かに心を動かされていたし、私もこのような生き方をしたいと思った。 就職活動をしているときに、そのときに感じた思いがどこかにあり、メーカの設計開発職に就けば、そして設計職として世の中にまだ無い製品を作り出していくことができればそのようなことができると思った。それは、絶対に設計職に就きたいというほどの強い思いではなかったけれど、設計職という仕事も悪くはないかもしれないという思いは、就職活動をしていたときの私の中に確かにあった。 ただ、設計職として何を作るのか、については深くは考えていなかったのだと思う。富士山のふもとでNさんに答えたように、「学校に推薦枠があったので、ちょうどいいやって感じで応募しました」というのが正直なところだった。とりあえず設計職に就けば私の望みは叶えられるものだとどこかでは信じていた。 だけど、私は間違っていた。その会社で、私はそのことを思い知らされることになる。 次の日、私はいつもと同じように六時に起きた。 最近仕事としては忙しくはなくて早く帰れるので、早寝早起きを心がけていた。一昨日車の中でNさんに「何時に起きているの?」と訊かれて、「六時です」と答えたらひどく驚かれたのを思い出す。 居間に降りていくとすでに両親は起きていた。母に、「おはよう」 と声をかけられたので、「うん」 と答える。 私は顔を洗ってまた自分の部屋に戻った。自分の部屋では朝の日課であるちょっとした運動をする。それは昔読んだヨガの本に書かれていたもので、三分ほどの簡単な運動だった。そして眼鏡をかけて日記を取り出した。二ヶ月前から日記を書くようにしていた。日記として前日の出来事を思い出しながら反省を書き出していくことを自分に課している。そして改善すべきことがあればそれをはっきりと書き、そしてそのことに注意しながらその日一日を過ごすことにしていた。 午前八時になったところで私は家を出た。
2008.11.24
私は家から一時間半ほどにある会社に勤務している。正確に言うと、その会社の一つの事業所に勤務していた。その会社は電子機器の製造販売をするメーカであって、私の設計開発という職にあった。 どうして設計という職業に就いたのか。 本当にどうしてだったのだろう。 一昨日、開発途中の製品のについて試験をするために山梨の試験所まで行った。その試験所は富士山のふもとに設置された試験所で、機械から発する電波を測定するために周りの電波の影響が無い山の中に立てられていた。自分の部屋のすっかり暗くなった窓の外を見ながら、そのときのことを思い出す。 私は、別の部署の先輩が車に乗せてくれるということだったので、彼に同乗してその試験所まで行くことになった。 富士山のふもとの山々はすでに紅葉で満ちていて、ひどくのどかな風景だった。車の中で彼と色々な話をしていたのだけど、その途中、「どうして今の会社に入ったの?」 と訊かれた。 この質問は新入社員として部署に配属になったときも、その部署の人たちから飲み会の席などで何度となく質問された。そして質問されるたびに答えに困ってしまった。私の中に明確な答えがどこにも無かったのだから。 だからそのときも私は、紅葉で一杯の山を見遣りながら、「きっと、就職について深くは考えていなかったんだと思います。学校に推薦枠があったので、ちょうどいいやって感じで応募しました」 と言った。彼は、私のその答えに納得いかないような顔をした。当然だったと思う。だって普通の人にとって就職は人生の大きなイベントであり、そんな曖昧な理由で会社を選ぶということそのものが理解できないのも当然だった。だけど私は、その質問に対してはそのように答えるより他に無かった。結局、そのときの私は、自分が何をやりたいのか全く分かっていなかった。 ただ、その会社を選ぶのには大して理由は無かったのだけど、メーカの設計職を選んだのにはちょっとした理由があった。 もう二年くらい前になるのだろうか、私の所属する部署の室長が異動で変わったことがあった。その新しい室長は部署の私たち若手に対して一通のメールを送付してきた。「一度、面談をしたい」 そのような内容だった。そしてそのメールには添付ファイルが付けられていて、それは一種のアンケートで色々と記入するようになった。 その面談は、室長の席の横で一対一で行われた。その中でどのような話をしたのかははっきりと覚えていない。ただ、その面談の最後に室長から次のような質問をされたのだけはよく憶えている。「どうして研究ではなく、設計の仕事を選んだの?」
2008.11.23
小学校一年のとき、もう一人Kというクラスメートがいた。彼とも時々放課後に遊んだ記憶がある。ただ何をして遊んでいたのかは憶えていない。Iのときと同じようにファミコンをしていたような気もするし、自転車に乗って近くの公園に行っていたような気もする。これほど記憶に残っていないのであれば、その記憶は私にとってそれほど印象的でもなかったし、好ましい記憶でも無かったということなのだろうか。あの頃の小さな私にとって放課後にクラスメートと遊ぶことということは、楽しむべきものではなくて、クラスの中でやっていくための一つの義務でしかなくて必死に「楽しんでいる振り」をしていただけなのだろうか。もしかしたら、そうだったのかもしれない。その「楽しんでいる振り」は、それ以降の私にとって、クラスの中に溶け込んでいくためのとても大切な一つの技能となっていくのだから。 IもKも私の家のすぐ近くに住んでいた。もっと言ってしまえば、小さな学区のその市立小学校に通う子供たちはみんな、歩いて五分もかからないような近所に住んでいた。 その頃の私たちは本当に小さな世界に生きていた。家と小学校の中だけが私たちに与えられた世界だった。その世界で挫折してしまうともう他に行く世界は無かった。だからこそ、あの頃の私は必死になってその世界の住人になろうとしていたのだと思う。必死になって、「楽しんでいる振り」をやり続けていたのだと思う。ただ、確かにその世界は息が詰まるような世界でしかなかったのだけど、だからと言ってその世界の外に早く出てみたいと思っていたのだろうか。思ってはいなかったような気がする。その世界は息が詰まる世界だったのだけど、そうかと言って、他に行ってみたい世界なんてありはしなかった。「小学生の頃の私…」 私はそこで記憶をたどるのを止めた。 私の中の記憶はひどく朧なものに変質してしまっていて、それを復元していくことは中々難しかった。ただ、今の私の問題の根源は私の過去にあるという思いは変わらなかった。いや、問題の根源が過去にあるというよりも、問題の根源を明確にし、その問題を解決していくためのヒントは自分の過去にしかないと言ったほうが正確だろう。私という人間は、私の過去の生き方、そのものなのだから。小学生の頃の私にも、今の私の中の人間的な性質が少しずつ顔を見せていたのだと思う。私はそれをはっきりさせたかった。
2008.11.22
小学校に入ったあたりからそれなりに記憶が頭の中に残っている。と言っても時系列で事細かに記憶として残っている訳ではない。幼稚園の頃の記憶よりは密度は高いとしても、それでも依然として浮島のようにぽつり、ぽつりと記憶の海の中に小学校でのエピソードの記憶が浮かんでいるだけだった。 小学校一年の頃の私は、放課後はIというクラスメートと良く遊んでいた記憶がある。Iは幼稚園も同じ幼稚園だったけど一度も同じ「組」になることもなく、それほど仲良くも無かった。小学校で同じクラスになったのがきっかけだった。 実はそこの部分もあまりはっきりした記憶は無い。ただ、Iの家にときどき行って、その時ちょうど流行り始めていた「ファミコン」こと、ファミリーコンピュータをして遊んだのをかろうじて憶えている。 私からIに近づいたのだろうか。いや、それは無いだろう。小学校六年間の記憶をたどったとき、私の方からクラスメートに対して、「放課後、一緒に遊ぼう」 と誘ったことはただの一度も無かったような気がする。すべて、他の誰かの誘いがきっかけだった。私はいつだって誰かの手が差しのべられるのをじっと待っていた。それは、私が自分に自信が無かったことが大きかったのだろうか。自信が無かったから私からの申し出なんて誰も受けてはくれないという思いがどこかにあって、そして誰も誘うことができなかったのだろうか。それとも、私はそもそもとして誰か他の人と放課後に遊ぶことが好きではなかったのだろうか。誰かといて気を使うくらいなら、一人でいたほうがましだと思っていたのだろうか。きっと、その二つの理由がそれぞれ同じだけ混ざり合って、そして私は六年間誰一人として「放課後、一緒に遊ぼう」と誘うことが無かったのだと思う。そんな寂しい子供だった。 だからきっとIのときも、Iのほうから私に近づいてきて私は彼と遊ぶようになったのだと思う。
2008.11.21
自分の部屋に入ると、私は肩から提げていた小さなカバンをカーペットの上に放り出す。そして上着を脱ぐとそのまま椅子に座った。しばらく何も考えずに呆然と椅子の上に座っていた。何かをしようとは思うのだけど、何をすればいいのか分からない。いや、そもそも何かをしようとすら思えてはいないのかもしれない。「どうすればいいんだろう…」 呟いてみてもその言葉に対する返事はどこからも戻っては来なかった。ただそのことに絶望はしない。もうすでにそのような生き方に慣れてしまっている。「どうしてこのようになってしまったんだろう?」 駅から家まで、このことについて歩きながら考えていた。私の責任だったのか、それとも私以外の何かの責任だったのか。きっと私の責任だったんだろうな。人生のどこでだって、その私の生き方を変える機会は何度だってあったはず。だけどその機会を活かしてはこなかったし、活かそうとすらしてこなかった。そのような生き方をしていれば、自分自身を変えることなんてできるはずがなかった。 私は立ち上がって、窓の傍に歩み寄る。窓を開けると、もうすっかり暗くなった外の雰囲気が部屋の中に流れ込んできた。家の前の小さなアスファルトの道は、弱い街灯を受けて薄暗く佇んでいる。「私は自分を変えたかったのだろうか。自分の生き方を変えたかったんだろうか」 それすらも分からなくなりそうだった。 もし自分を変えたいと思うのであるのなら、その変えたいと思う自分はそもそもどのような存在だったのだろうか。どのような人間だったのだろう。 私は自分の過去に答えがある気がして、過去に意識を戻した。 私は、引越し先の家のすぐ近くの小学校に進学した。 どのくらい近くかというと、歩いて一、二分で着くくらい近くだった。その小学校は住宅街の真ん中に建てられた、開校してそれほど年月が経っていない公立の学校だった。新しいと言っても、確か十年くらいは経っていたのだけど。 基本的に一学年にクラスは三つあり、一クラス三十人くらいが在籍していた。生徒は皆、学校の近くに住む普通の家の子供たちだった。
2008.11.19
引越しに関して憶えていることといえば、引越し先で通う幼稚園が決まるまでの空いた時間、近くの公園で妹とブランコに乗って遊んだことくらいだった。そんなどうでもいい些末な記憶しか私の頭には残っていなかった。 私は少し離れた幼稚園にバスで通うことになった。 その引越し先の通う幼稚園が決まってそこに通うようになってから、私は自分が他の子供たちとは違うということに気付いた。他の子供たちは無邪気に外に出て遊んでいたのだけど、私はその輪の中に中々入ることができなかった。いつだって部屋の中で、そこに置かれていたブロックのような玩具で遊んでいた気がする。いや、遊んでいたのではなくて、遊んでいる振りをしていた。時間をやりすごすためにそのような演技を必死になってやっていたのだと思う。 きっと、その頃の私はあまりに幼かったから、その当時の私は自分という人間の異形な変質にはっきりとは気付くことはなかったのだろう。だけど心のどこかでは生き難さをもうすでに感じていたのだと思う。私は、そんな子供だった。 その当時のことに関して私はずっと忘れていた。 それを思い出したのは、以前押入れの中を整理していたら幼稚園の頃の通園手帳が奥から出てきたときだった。それは幼稚園に通うごとにシールを一枚貼っていくもので、月の終わりには保母から簡単なコメントが書かれていた。 その一つの月のコメントには次のように書かれていた。「もっと先生とお話しましょう」 私は、その言葉を読んだとき、ちょっとしたショックと、やっぱりそうなんだという腑に落ちたような気持ちがした。私は保母に全く馴染まなかった。きっと私の方から言葉をかけるようなことは全く無かったのだと思う。 通園手帳を久しぶりに見てそのことを突きつけられたそのときの私は、やりきれないような気持ちに襲われた。幼稚園の頃の小さな私はすでに、この世界は私が存在するべき世界では無いのかも知れないという思いを抱きながら、必死になって生きていた。その様子が眼の前に浮かんできて、私は自分が自分で寂しくなって、そして静かにその通園手帳を押入れの中に戻した。
2008.11.18
もう一軒の本屋にも行こうかと思ったが、やめた。本屋を出た私は、家に帰るために、先ほど歩いてきた道をまた戻っていく。 私が幼稚園の頃に住んでいた東京の家は、父の会社の社宅だった。 団地のように、いくつかの建物が建っておりその中でその会社員の家族が肩を寄せ合うようにして生きていた。その社宅に囲まれるようにして小さな公園のようなスペースが設けられており、社宅に住む家の子供たちが遊べるようになっていた。 私の記憶は、この社宅から始まっている。始まっていると言っても、そこに住んでいた三、四年の月日を憶えているというわけではなく、ただ浮島がぽつりぽつりと浮かんでいるように、記憶の海の中にいくつかのエピソードがゆらゆらと浮かんでいた。その記憶は、ストーブに尻をぶつけて火傷した記憶や、納豆を食べてひどく吐いた記憶など他愛もないものだった。 その頃の私は、自分のことを他の子供とは違うとは思ってはいなかった。通っていた幼稚園の子供と同じような、平凡な子供だと自分のことを捉えていたのだと思う。その頃の私にとって特にこの世界は生きづらい世界でもなかった。 ただ、その頃の私はあまりに物を知っていなかったから、何一つその世界の事が見えていなかったのかもしれない。偽りの世界の中でぬくぬくと幸せに生きていたのかもしれない。まだ四、五歳の小さな子供であった私にとっては、当り前のことだった。 家族連れや学生などの若者たちが歩いていた駅前の道は、もうすっかり暗くなっていた。その暗くなった道を一人歩く。 私の家は、駅から歩いて二十分くらいのところにあった。通勤するときは当然その道を往復する必要があって、以前はバスを使っていたけど最近は歩いて通うことも多くなった。夏場の暑いときだけはさすがに歩くのはつらいのでバスを使って、それ以外の季節ではほとんど歩いていた。 私は、その歩いている時間が好きだった。 色々と考え事ができるからでもあったし、体を動かすこと自体が少し心地良かったのだ。バス代として会社から交通費を貰っていたので、その交通費を浮かすという意味も少しだけあった。 私はもう二十年以上、その家に住んでいる。東京の社宅からその家に引っ越してきて、それ以来ずっとそこに住んでいた。住宅街に埋もれた、何の変哲も無い小さな家だった。だけど、私の生活の基盤をなしている家でもあった。 ドアを開け、無言で家に入る。 私の様子をドアの向こうから見た母が、「おかえり」 と声をかけてきたので、私は小さな声で「うん」とだけ答えた。 玄関を入ってすぐのところに階段があって、私は居間に入らずに階段をてくてくと上がる。二階の一番奥の部屋が私の部屋だった。 東京の社宅から横浜の家に引っ越してきたのは、私が六歳のころだっただろうか。いや、五歳のころだっただろうか。はっきりとは憶えていない。
2008.11.17
私には双子の妹が一人いた。私が男なので、当然二卵性双生児ということになる。ずっと以前、妹と「一番古い記憶は何?」という話をしていたとき、彼女が私の持っていない古い記憶を持っていて驚いた。私の頭の中にはすでに一つも存在しない、大阪での記憶もいくつか持っていた。 私は他人に馴染まない子供だった。馴染まない、というよりも馴染めないと言った方が正確かもしれない。簡単に言ってしまえば、極度の人見知りだった。それに、極度の怖がりだった。私は新しい世界に入っていくことに大きな不安をいつも感じていて、そしていつだって自分の馴染んだ世界のみで生きるようになっていた。 小さい頃はそれでも良かったのかもしれない。そのような生き方でも何とか生きてこれた。だけど人生は、立ち止まったままではどこへもたどり着けない。最近、そのことを強く思うようになった。 週末の最寄り駅は、まるで蟻の巣の中の蟻のように多くの人が行きかっていた。 私はもともとの目的であった本屋へと向かう。その本屋は、郊外の駅にある本屋としてはそれなりに大きな規模のもので、それなりに本がそろっている。私は会社の帰りによくその本屋に立ち寄っては色々と物色した。 おすすめのコーナーの前で立ち止まる。いくつかのビジネス本を手に取ってはぱらぱらとめくる。 その時、自分が新入社員だった頃のことを思い出した。もう四年も前になる。 その頃は、私の性格的な問題で会社に馴染むことができなかった。会社に行って、そして帰る頃には精神的な疲労でぐったりとした。だけどたとえ疲労に押しつぶされそうであっても私は毎日のようにその本屋に寄った。その本屋は午後十時までやっていて、駅に着いたのが午後九時四十五分で、たとえ十五分しかいられないとしてもその本屋に寄った。そしてよく、おすすめコーナーの前に立ち止まっては新刊ビジネス本をパラパラとめくった。 きっと、そこに希望を見ていたのだと思う。 自分の中に知識を蓄え、その知識を武器に生きていけるようになれば、たとえ社会に馴染めないとしてもこの世界を生きていくことができる。そう自分に言い聞かせては、新刊本を読んだ。 その頃の私と、今の私。本質的には何も変わってはいない。 私の顔に苦笑いが浮かぶ。 だけど、もう私はそこに希望を見ることはできなかった。そこには何の希望も無かった。私は希望ではなくて、現実を見なければならないということに気付いていた。それは四年前の私との唯一の違いであって、その四年間で少しは私も成長したということだったのだろうか。 結局その本屋では何も買わずに外に出た。
2008.11.16
「どこに希望があったのだろう…。どこに未来があったのだろう…」 私は小さな声で呟いてみる。 声に出すことで何かが見えてくるのを期待したのだけど、結局何も見えては来なかった。私の目の前には、何の変哲も無い駅前の道と、そして平凡な人生がずっと続いていて、それが見えるような気がした。 私の住む最寄駅はそこそこ栄えている場所で、週末になると人も多く店もそれなりに多い。いわゆる郊外の住宅街のための駅だった。今日も週末で、道には家族連れや若者たちが多く歩いている。 途中、小さい子の手をつないで歩いている母親の横を通り過ぎた。小さい子は顔をくしゃくしゃにして大きな声で泣いている。母親が何やらきつい声で叱りつけていた。 私はその子供の顔を一瞥して通り過ぎる。そして心の中で、「今のうちに思う存分泣いておけよ…。大人になったら泣きたくても泣けなくなるんだから…」 と言葉をかける。 私は苦笑した。私は泣きたかったのだろうか。 そんなつもりは無かった。ただ、前に進みたかった。前に進んで、今いる世界とは別の世界に行ってみたかった。「それなのに、どうして行けないんだろう。何が邪魔をしているんだろう」 私は歩きながら考え続ける。 きっと私にはまだ見えてないものがあった。まだ分かっていないものがあった。もう三十年も生きてきたのに、きっと私には大切な何かが分かっていなかった。 人間として生きていくために大切な何かが…。 私は大阪で生まれた、らしい。 生まれたといっても二歳くらいまでしかいなかったから全く記憶は無い。本当に微かな記憶すら無かった。その後、父の仕事の関係で東京に出てくるのだけど、ようやくその頃になって私の頭の中に微かな記憶が生まれる。
2008.11.15
父は、下だけを見つめながら苦しそうな顔で言葉を続ける。私とは母その言葉を黙って聞き続けた。「明子が自殺する前日の夜だった……」「……」「私は明子と二人しかいない居間でテレビを見ていた。母さんは風呂へ入っていて居なかったし、オマエはいつものように自分の部屋に閉じこもっていなかった。私はテレビでニュースを見ていた。明子はテレビを見ずに、本を読んでいるようだった」「……」「そんな時、明子が突然私に言ったんだ。『明日も学校へ行かなくちゃ駄目かな?』って」「……」「私はびっくりして明子の方を振り返った。明子は辛そうな悲しそうな顔をして私を見つめていた」「……」「あの頃は、お前が不登校になって肩身の狭い思いを色々としていた。だから私は明子に対してこう言ってしまったんだ」 父は辛そうに顔をゆがめる。「『お前まで慶子のようなことを言わないでくれ。今までお父さんやお母さんを苦しめるような事なんて一度も言わなかったじゃないか。頼むから、そんな事を言ってお父さんを苦しめないでくれ』って……」「それで、お姉ちゃんは何て答えたの?」「明子は叫ぶようにして、『どうして私の苦しみを分かってくれないの? 私はこんなにも苦しんでいるのに!』と言ったよ」 私を包み込むこの居間の空間も、私の上を流れるこの居間の時間も、何だかやり切れなくなってしまった。私の目の前のソファには一人の男がうなだれるように座っている。その体は、とても小さくてちっぽけなものに見えた。「私は、明子のその言葉がとてもわがままなものに聞こえて、カッと頭に血が上った。そして訳も分からずに、『そんな子は、うちの子じゃない!』って怒鳴ってしまっていたんだ」 父は、『そんな子は、うちの子じゃない!』という台詞をこの場で繰り返した時、濁ったようなあの眼になった。いつも私に向けていたあの眼に。 私は言葉が出なかった。父を責めようとも思わなかったし、父を責めても無意味なことに過ぎないのだと思った。なぜなら、私も姉のことを「あの眼」で見ていなかっただなんて、私は絶対に断言することなどできないのだから。 父は力が抜けてしまったように、ポトリと遺書を茶色いカーペットの上に落とした。そして空いた両手を持ち上げて顔を蔽う。「明子が私の前で涙をこぼしたのを、初めて見た……。でも……、死ぬぐらいだったら……、死ぬ気になれば何だって出来るのに」「違うよ!」 私は叫んでいた。「死ぬ気になったら何だって出来るのだから死ななくても良かったのに、と言う人は何も分かっていないんだよ! それが出来るくらいなら絶対に死なない。自分が死ぬという事は考えるだけで体の震えが止まらなくなるくらい怖いし、誰だって本当は死にたくないんだよ。でも……、でも、それが出来ないから皆死ぬんだよ! お姉ちゃんは自分を殺すことでしか壊れていく自分を守れなかったんだよ!」 私の目の前に座っている父は、白痴のように口をだらしなく開けて、私の顔をあっけに取られた目で見上げている。 ますます私の頭の中は燃えるように熱かった。「私たちは、もう二度とお姉ちゃんと話をすることは出来ないんだよ。……『生きていること』には、それ自体にかけがえのない意味があるんじゃないの? 違うの? それは私の単なる甘い考えなの?」 私の悲痛な叫びは、もうほとんど泣きじゃくっているようになってしまった。だけど私は自分を冷静にさせようとは思わなかった。無我夢中だったと言えばそれまでなのだけど、心の奥には、今まで自分から掘ってきた「落とし穴」を何とかして這い上がりたい、「壁」を何とかして打ち破りたい、このまま腐っていくのは嫌だ、と叫んで必死にもがいている私がいたのかもしれない。 私は涙でくしゃくしゃになった顔を一回右手でぬぐう。ヒックヒックというしゃっくりに似た嗚咽は止まらなかった。父は私の顔を茫然と見つめるだけで何も言わないし、私の後ろから母の声が聞こえてくることもなかった。私の震える小さな肩と小さな声が、この部屋のすべてだった。「世間体なんて……どうだっていいじゃない。もしお姉ちゃんがそれで生き続けられたのなら……、私がそれで生き続けられるのなら……」「……」「ねぇ、お父さんは何で生きているの? お母さんは何で生きているの? ……ねぇ、生きていることって、本当にそれだけで価値のあることなの? 分からないよ……。お願いだから、誰か私に教えてよ!」 父は苦しそうに眉間に深い皺を寄せ、うつむくだけで私に叫びには一言も答えてくれなかった。 私は後ろを振り返る。 困った顔をした母が、居間の出入り口に立っていた。『私にはどこにも逃げ場がなかった。 私の中にすら逃げ出せなかった。だって、私の中にたくさんある私の中で、どれが本当に私なのか分からなくなっちゃったから。もう自分のことを好きになってあげることは出来なくなっちゃった。 気付ば、私は、完璧な孤独にがんじがらめになっていたんだよ。 これは私のわがままなのかもしれないけど、作り物の笑い声に満たされたこの家は、全然私のことを守ってくれなかったんだよ。 PS お父さん、お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした。 弱い私で、ごめんなさい。明子』完
2007.11.11
私は顔をベッドに強く押し付けながら、一ヶ月前に起こったその小さな事件を思い出していた。 この事件は私に、自分は見捨てられているのだという思いを強固にさせて私の中に沈んでいった。だけど、姉にとっては、どのような意味を持った事件だったのだろうか。私は、そのことを一度も考えたことがなかった。考える余裕などあの時の私には無かったのだと思いたかった。 どこか近所から、雨戸を閉めているガラガラガラという音が聞こえてくる。私は恐る恐る顔を上げる。もうすっかり暗くなっていた。私は、また夜がやって来るのだと思った。あの日の夜と同じように、また夜の闇は私を包み込んで「深い落とし穴」の中の恐怖や絶望を音もなく運んでくる。私はその闇がとても嫌だった。その闇は私だけを包むのだと思ってきた。だけどあの夜の居間で、テレビから流れてくるアナウンサーの声と、母の無思慮な「あなたなら」という言葉は姉にとっての「深い落とし穴」だったのではないだろうか。 私は自分が靴をはいたまま部屋に座り込んでいることに気付いて、靴を脱いだ。靴を部屋の隅へと放り投げる。靴は暗闇の中に紛れてしまって見えなくなった。そして私は、スカートのポケットの中から右手で姉の遺書を取り出した。私の中には突然次のような思いが起こり始める。「この遺書は、あの夜の姉の目と全く同じである、地獄の底から私を見上げている姉の今の目なのではないか」 すると私はいきなり、焦りにも似た不思議な感情にとらわれた。もう、居ても立ってもいられなかった。 私はその感情に身を委ねるように立ち上がって部屋を飛び出し階段を駆け下りる。右手にはしっかりと姉の遺書を握っていた。私はその勢いのまま居間の戸をガタンと力任せに開いた。 父はいつもの、居間の戸から一番離れたソファの腰掛けてテレビを見ていた。だけど今は、父の世界に対する私という突然の侵入者にギョロリとした驚きの目をしている。母の姿は見えなかった。「どうした?」父のがさついた声。 私は父の声を無視して、大またで父の前に歩み寄った。一秒でも自分に対して猶予を与えてしまうと自分の部屋に逃げ帰ることになると思った。私は必死に自分を奮い立たせて、父の前に立ちふさがった。「お姉ちゃんに何て言ったの?」 私の声は泣きじゃくった後の子供のように震えていた。だけど私はその震えを止めようとも思わなかった。「え?」「お父さん、お姉ちゃんに何て言ったの?」「何てって……」「お姉ちゃんの遺書に『お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした』って書いてあったんだよ!」「お姉ちゃんの……遺書?」 父は怪訝そうに眉をひそめる。 私は右手を前に突き出した。父はその右手に一枚の紙が握られている事に気付いて、私の手からその紙を奪い取るようにして受け取る。父は何かに憑かれたように必死の形相で姉の遺書を読み出した。首が細かく動いている。私は、自分がこれを初めて読んだ時もこの父と同じような顔をしていたのだろうか、と思い生理的に嫌な気分がした。遺書を握っていた父の手がプルプル震え始めた。「この遺書はどこにあった」「お姉ちゃんの机の上」「でも私たちが見た時には無かっ……、そうか、お前が取っていったから無かったのか」 父は遺書を持った手を少し下げて、私の顔を見た。顔はすでに平静を装っていたけど、遺書をつかんでいる手はまだ少し震えている。 その時、居間の外でペタペタと足音が聞こえて、その足音は居間に無言で入ってきた。私はビクッとしながら後ろの居間の出入り口を振り返る。青白い顔に疲労を色濃くにじませた、まとめている髪が少しほつれている母が、こちらの方を見つめながら立っていた。「二人とも、どうしたの」 母は疲労を吐き出すように、静かな声で言った。「明子の遺書があったんだよ」「……本当?」「本当だ。慶子が取って隠していたらしい」「隠してなんかない!」「隠していたろう……」父はなじるように言った。 母の疑わしそうな視線が私に注がれている。父の方振り向くと、全く同じ目がそこにあった。「どうして私を責めるの? どうして私をそんな目で見るの?」 私は訴えかけるような口調で言った。「どうしてって……」「お姉ちゃんがこの家に生きていたのと同じように、私だって必死になってこの同じ家で生きていたんだよ」 私の体の中は燃えるように熱く、体の外はヒリヒリと痛かった。父と母は私の言葉に答える言葉が見つからないのか、目を丸くさせて黙っていた。その二人の様子を見て、私は少しだけ落ち着くことができた。私は、「そんなことは今は関係ない」と絞るような声で言った。 日中の暖かさがまだ残っているのか、部屋の中はストーブをつけていないのに寒くない。だけど、私の左にある大きなガラス戸を通って、夜の冷たさがこの部屋にどんどん忍び込んできている。「お姉ちゃんは遺書で、『お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした。ごめんなさい』って謝っているんだよ。お父さんは、お姉ちゃんになんて言ったの?」「明子がそんなことを?」 まだ遺書を読んでいない母が、驚きの声を上げる。 父は口を開かなかった。指一本さえ動かすことが出来ないような重い沈黙が、突然私を襲う。母も私も今は口を開くべきではなかった。母はどう思っているのか分からなかったけど、私はそう思った。 ガガーとバイクの音を響かせながら、夕刊を配りに新聞配達人が私の家の前を通る。そして、徐々にその音を小さくさせてバイクが一軒ごとに私の家から遠ざかっていく。 それでも父は黙っていた。 それから何分ぐらいがたったのだろうか。数時間にも感じられたし、数秒にも感じられるような不思議な時間が私の中で流れ去った時、父はやっと口を開いた。「まさか、あれぐらいで自殺するなんて、思いもしなかった……」
2007.11.10
その沈黙の間、母と姉の、沈黙の前と同じ姿勢は滑稽なほど変化しなかった。「今、何て言ったの?」 聞こえているはずなのに、白々しく母が聞き返す。私はさっきより大きな声で、「学校へはもう行かない」と言った。「どうして?」「このまま学校へ行くと、私が腐っていく」 母は、腐った生ゴミを見るような目で私を見る。「馬鹿なこと言わないで」「馬鹿なことじゃない」「馬鹿なことでしょ」「……どうして分かってくれないの?」 私の声はいつの間にかすがるような泣き声が混じっていた。私は、しまった、と思った。この声を機械の声のような無表情な声にしようと思ったけど、声の上に溢れてくる私の感情はどうしても止まらなかった。「どうして私の苦しみを分かってくれないの? 私がこんなにも苦しんでいるのに」 母は私の声に驚いた目を作った。だけど意固地になったような硬い声を私の声の上に重ねてきた。「分かっていないのはあなたでしょ。何もしゃべらなくて、何を考えているのか分からない暗いあなたが、しかも突然そんなことを言い出して……、考えてもごらんなさい、あなたが不登校にでもなったら世間から白い目で見られるのはお母さんなの。お母さんの方がもっと辛いことになるの」 私は言葉を失ってしまった。母の言葉に納得して失ったのではない。母の言葉に体中が燃えるように熱くなり、頭の中はグラングラン揺れて、何が何だか分からなくなって言葉を失ってしまったのだ。 私はただ、両手を強く握って、怒っているのか泣いているのか分からない目をした母の冷たい顔を見続けた。 雪混じりの風がカタカタと雨戸を揺らす。テレビでは天気予報が終わって画面が局内に戻ってアナウンサーがニュースを伝えている。汚職がどうのなどと言っている。ストーブの上に載せられたヤカンがジュッジュッその口から湯気を立ち上らせている。それだけだった。私も母も、そしてまだ顔をテレビの方に向けている姉も一言もしゃべらなかった。だけど姉はテレビに集中しているわけではない。手のひらに包まれたあごが、時々カクカクと小さく動いているし、こちらに向けられている黒いセーターの背中が硬くなっているようにも見えた。 姉は小さく息をはいてから、ぎこちない動きで私と母の方を振り返った。冷たい空気を和ませようとしてその顔はほほえみを作っていたが、目までは笑わせることができていない。「慶ちゃんの言うことも、ちゃんと聞いてあげようよ」 姉は母と私の真ん中に向かって言った。 私は姉の言葉に暗い怒りを覚えた。姉はそのような事が言えるくらい私よりも偉いのか、と思った。その怒りが言葉となって私の口から飛び出してくる。「私はお姉ちゃんに助けてもらわないと、話すら聴いてもらえないの? お姉ちゃんなんかに私自身の事を言われたくない!」 テレビではスポーツコーナーに切り替わっていて、ラグビーの試合のテープを流している。その試合を観戦している観客の声だけが、時間的にも空間的にも離れている私の居間に溢れている。 母は私の顔を見て軽く頭を振って、小さな声で「情けない……」と言った。そして目を転じて姉の方を見る。私の顔を見た時の切り捨てるような目とガラリと変わって、姉にはすがるような視線になったのが私にも分かった。「お母さんがこんなにも辛い思いをしているのに、慶子は全然分かってくれない……。明子、あなたなら分かるでしょ」 姉は母の言葉に何も答えなかった。答えたくなかったから答えなかったのか、答えることができなかったから答えなかったのか、もちろん私には分からなかった。ただ、母と私の中間を漂っていた姉の目が一瞬私に向いたのだ。瞳の奥から段々と濁っていくのに必死に抵抗するような、何も感情もこもらない無表情な目だと思った。そしてそれは、地獄の底から見上げるような目だとも思った。あまりにも絶望して、その目にはどんな感情も失われてしまったような目。だけどその時の私には、姉の目に構っている余裕など全くなかったのだ。 私はいつまでも黙ったままの母と姉を置き去りにして居間を飛び出した。大きな音を立てて階段を駆け上がる。だけど私の耳には、そのような音など比べものにならないくらい大音響で、母のある一言がリピート再生され続けていた。『何を考えているのか分からない暗いあなたが……』 私は、これで母からは完璧に見捨てられたのだと思った。
2007.10.29
あれは一ヶ月くらい前の夜だっただろうか。 外では、この冬、東京では初めての雪が降っていた。夕方頃から雲のかけらが落ちてくるように降り出した大きなボタン雪を、私は自分の部屋の窓の小さな隙間から目撃した。その雪は、私が思っていたよりもあまりに白くて、心がカサカサと鳴っているような不思議な感動を覚えた。 中学一年生の三学期が始まって一週間がたっていた。 窓の外で冷気に息を白くさせながら、その日学校であった事を思い出そうとする。だけど、私の目の前は、深い落とし穴にはまって周りが真っ暗で何も見えないかのように、何一つ浮かんでこなかった。本当に、その日私が何に悲しみを覚え、何に怒りを感じ、何を心に焼き付けたのか全く分からなかった。「何も思い出さないってことは、何も無かったということなのかな……」 私の白い声は、雪に混じってすぐに見えなくなる。「深い落とし穴……、か……」 この言葉が、私にあることを思い出させる。そのことは、私がクラスメートや家族と話せなくなった小学五、六年の時に、よく一人ぼっちの部屋で考えたことだった。それは、こういうものだ。『ギャグ漫画で、主人公が落とし穴を掘っている。ひたすら掘り続けた。すると、あまりに深く掘りすぎたために外に出られなくなってしまう……』 私は、この話のどこが面白いのか分からなかったし、逆にジワジワと地面から足に這い上がってくるような恐怖を感じた。私は、この穴を掘った場所が深い森の中とかだとしたらどうするのだろうと思った。どんなに穴の中から叫び声を上げてみてもその声は穴の中でこだまするだけで誰にも届かない。誰にも発見されることも無い。もしかしたら、いなくなったという事にすら気付いてもらえないかもしれない。そして、ジメジメとした穴の中で、暗闇の恐怖に体を震わせ続けながら腐っていくのだ。自分の力で穴を掘っていながら、自分の力ではもうそこから抜けられないという無力感の漂う絶望の中で、頭の遥か上の丸く切り取られた青空を見上げるのだ。 私は小さく溜め息をはいて、窓を閉める。そして振り返って、自分の部屋を眺めた。窓の外は一秒ごとに暗くなっていくかのように、急に暗くなっている。その闇が窓を通って、電灯が一つも点いていない部屋に流れ込んできていた。もう一時間もすれば、この部屋は闇で一杯になるのだろう。勉強机の上に置かれている雑誌や漫画の山はその闇に溶けていくかもしれない。その闇は私の中にも流れ込んでくるかもしれない。そして、この部屋は、「落とし穴」の中になっているのだ。私はそのことを経験から知っていた。いつもなら、ベッドの片隅に体を縮こませ、だけど目だけは思い切り開いて闇を見つめて夜をやり過ごしていたのだけど、あまりに白い雪を見てしまったその日は、一階へ降りてみようという小さな勇気があった。 私は薄暗い自分の部屋を出て、静かに階段を降りる。洗面所のほうからは、風呂の水を出しているシャーという音が聞こえた。私は茶色い居間の戸を前にして、その向こう側にはやはり私の居場所なんて無いのではないか、という思いが襲う。だけど私は小さな勇気を信じてその戸の取っ手に右手の指をかけ、力を入れた。戸は思ったよりも軽く横に滑っていった。「あれ、慶ちゃん、どうしたの?」母の声。 私には明るい世界から四つの目玉が向けられている。意外そうな目。私は体を居間の中に入れずに、黙ってそのまま戸を閉めようかとも思った。だけど、母や姉をそこまで敵に回す勇気はなかった。私は、「テレビ、見ようと思って……」と低い声で呟きながら、ソファの端に腰を浅く下ろした。 テレビではニュースをやっていた。 傘をさしたリポーターの女性が、寒そうに息を白く凍らせながら、「大雪になりそうなので、十分注意をしてください」と言っている。 私はそのニュースを見るともなく、部屋の後ろから姉と母の様子を観察していた。 姉は体を前に乗り出して、ひじをひざの上に立て、その上に顔をのせて真剣そうにテレビを見ている。二つの手のひらが頬を蔽っていたので表情はよく見えなかった。母は、姉の前のソファに座ってコーヒーを飲んでは新聞を読み、読んでは飲み、を繰り返している。 私の心臓は、部屋の一番後ろに腰掛けているだけなのに、スピードを上げて脈打ち始める。私はテレビのリポーターの声と一緒にその心音を聞いていた。そして、やはりここには私の居場所なんてないのかもしれない、と思った。 自分を捻じ曲げるようにして学校へ通うのと同じように、リポーターの声だけが響いている居間も私の安息の地ではないのだ。 でも、安息の地ではないからこそ勇気が出るということもあるのかもしれない。なぜなら、そこはもう私にとって守るべき場所ではなくなってしまったのだから。 私は、言おう言おうとしてどうしても言えなかった言葉を言ってみようかと思った。「私、もう学校へ行きたくない」 リポーターの声が不意に止まった。そして居間にはあまりに突然に沈黙が訪れたのだ。まるで私の呟きがその沈黙を呼び寄せたかのようだった。そして困ったことに私の一言は、テレビの垂れ流す騒音にかき消されることなく、居間を包み込むようにして漂ったのだ。
2007.10.27
私はゆっくりと立ち上がった。 私は、宙に浮いている姉を見て、姉の部屋に駆け込んで、姉の遺書のこの部分を貪るように読んだ。そして「あんな姉が、そんなイジメを受けるわけがない」とだけ思ったのだ。その思いが、私の中でいつの間にか『事実』にすりかわってしまっていたのだ。もしかしたら、「よく笑う、優しい姉」とう偶像にすがって、私の存在の、ある部分は成立していたのかもしれない。 体を反転させて川の流れを見つめる。鴨志田川は相変わらず真っ黒だった。「『“あんな姉”ってどんな姉なの?』と誰かに聞かれたら、私には絶対に答えられるはずなんてないのに……。自分からも逃げようとしていた私には……」 私は、川に向かって呟いた。 姉は自分が生きていることについて、自分の責任でもって真剣に考えていた。逃避ばかりしてきた私は、生きることはもちろん、死ぬことからすらも逃避するかもしれない。だけど、人に自分が生きていることの責任を押し付けた自分の人生って、本当に「自分の人生」だと断言することができるのだろうか。自分の人生の責任を家族に転嫁して一時的に心が楽になったとしても、その先にあるのは、それ以上の耐え切れないほどの孤独なのではないだろうか。 このような思いが、頭の奥から外に押し寄せてくる。 少し先にあるバス通りを通る車が、時々私の鼓膜を震わせた。生ぬるさの中に、研ぎ澄まされた冷たさを潜ませたような二月の不思議な風が、時々私の頬をなでる。 橋の下でいつまでも分からない黒い流れが、とても悲しかった。「ただいま……」 小さな声でつぶやいて顔はうつむきながら、私は玄関のドアを開けた。 空はますますその黒さを増し、その黒さに熱を吸い取られていくのか、空気がひどく冷たいものに感じられる。まだ三時くらいのはずだけど、家を出た二時から急に三、四時間ワープしてきたような気がして不思議だった。 私は、外の空気から自分の体を切り離すように体をドアの中に押し入れる。「慶子!」「え?」私は、驚いて顔を持ち上げる。 帰ったら親に何かを言われるだろうとは予測していたけれど、ドアを開けたこんなにも直後に、ドアのこんなにも近くから言われるとは思っていなかった。 それよりも、居間の一番奥のソファーにどっしりと座った父が、私の顔を決して見ずに、あの私の心を大きく震わせる低い声で、「慶子、どうして、あんなことをやったんだ?」と、窓の外の庭木に言うように言う光景を心に浮かべていたのだ。 私の心は、予想外の父の出現に、いつものように「壁」の中に隠れて嵐を過ぎるのをひたすら待つということはできない。暴風雨にさらされて、その身を大きく震わせていた。 見上げた先に存在した父の顔は、目は大きく見開かれて、眉間はきつくしぼられていて、そして口は不機嫌さを象徴しているように「へ」の字に鋭い角度で曲がっている。 父のそのような顔が私に向けられたことは今まで一度も無かった。「どうして先生にあんな恥ずかしい事を言ったんだ」「……」一言も答えられない。ただ、心臓だけが今にも壊れそうなくらい速く脈を打っている。「どうしてかと聞いているんだ!」「あなた、近所にも聞こえますから、そんな大声で叫ばないで下さいよ」 私はその声で、母が父の真後ろに立っていることに初めて気付いた。父の体に物理的に隠れていたのか、それとも父の存在に精神的に隠れていたのか分からない。母は私のほうに泣き出しそうな、心配そうな顔を向けている。だけど私には、その目が心配しているのは私なんかではない、それ以外の何かを心配しているのだと思った。「明子ももういないのだから、慶子ももっとしっかりしないと」母は、フッと視線を父に移しながら小さな声で言った。 私の心臓は、その光景を目の当たりにして突然落ち着き始める。頭の中へ過剰に流れ込んで、私の目の前を真っ赤にさせていた血もおさまり、薄膜に包まれたような父と母の姿が静かに明確に見えてきた。「どうして、そんなことを言うの? お姉ちゃんはお姉ちゃん、私は私じゃないの……?」 父は私のこの言葉を聞いて、ハーとことさらに大きく溜め息を吐いて、首を小さく左右に振った。「お前は明子と違って、本当、できの悪い子だよ」 私は、父のはいたこの言葉以上に、これを言った時の父の目が信じられなかった。情けなさそうな諦めのようであり、ゴミを見るような軽蔑を含んだ濁った目。 その時、父の目は道端の石ころを見ているようななんの感情も含まない無関心そのものの目になった。 私は今度は、信じられないというよりもむしろ、胸が痛くなるくらいの悲しみを感じた。その目は、今まで父が私に向けてきた目そのものだったのだ。「どうして私をそんな目で見るの……」「え? 言いたい事があるのならもっとはっきりと言え」 私の呟きがあまりの小さくて聞き取れなかったらしい。だけど、そういった父の口調はさきほどとは違って、無関心で面倒くさそうな響きをにじませていた。早めに私との会話を打ち切りたがっていた。「お父さんは、お姉ちゃんじゃなくて私が自殺してくれたのならよかったのにって思っているんでしょ!」 私は訳も分からず、大声で叫んでいた。なんだか、私の中の別の私が叫んだような感覚だった。もしかしたらそれは、「壁」の外に突然放り出されて、雨に打たれながら途方に暮れている私の心の悲痛な叫びだったのかもしれない。 父は両手を握ってプルプルと震えている。そして裸足のまま右足を玄関の下に踏み出した。「あ!」 気付いた時には、私の左頬はパチンと叩かれていた。とても痛かった。 私は泣き出しそうになるのを必死にこらえて、すぐ前にある父の顔を見上げる。今なら父の顔のどこかに私が必要とする何かが見つかるのではないかと思った。だけど父の赤い顔に埋め込まれた目には、私に対する憎しみしか無かったのだ。私に対する悲しみなんてこれっぽっちも無かったのだ。「どうして……、どうして……」「あ?」「……どうして私には話しかけてくれないの? お姉ちゃんにはあんなにも話しかけていたのに!」 私は靴を脱がずに、父の横をくぐり抜けて家の中に駆け上がった。そしてその勢いのまま階段を駆けのぼる。裸足の時や靴下を履いている時とは違って、靴で蹴られている階段はダンダンダンと今まで聴いたことの無い音を立てた。「慶子!」 後ろから、父と母の声が私の背中を追いすがる。だけど父や母自身が私の後を追う様子は全く無かった。 私は自分の部屋に飛び込んで、バタンとドアを思い切り閉め、思い切り顔をベッドに押し付けて、そして思い切り泣いた。
2007.10.21
「オマエ、アイツの妹だな」やっと気持ちを立て直したように、私から一番遠い茶髪が、低い声で言った。 私は怯えた表情でその茶髪を見るだけで精一杯で、肯定も否定もできない。「姉と同じで、ムカつく女だな!」 その茶髪の怒鳴り声に、私の体はビクッと大きく一回震える。その茶髪の鋭く細められた目の向こう側に、いつものあの高層ビルから見た遥か下に横たわっている黒い地面が見えたような気がした。私は口をだらしなく開けた顔を上に向けたまま、筋肉がものすごく速くものすごく小刻みに震えだした。 茶髪はそのような私の様子を、足元のアリを見るような目で見下ろした。 私は、そんな目で見ないでよ…… 私の声はのどのずっと下に押さえつけられて外には決して出てこない。「こんなムカつくヤツに構ってないで、行こうぜ」 茶髪が他の二人の方に顔を向けて言うと、もう一人の茶髪は慌てたように「ホント、ホント」と言いながら、黒い髪は最後まで無言で歩き出した。 私は、首を伸ばして見上げるような姿勢のまま、なかなか動けなかった。どんなに動かそうとしても、首は凍ってしまったように動かなかったので、それが溶けていくのを辛抱強く待たなければならなかった。上方に向けられた視線の先には、地球を窒息させるほど厚い、黒い雲しか見えない。「ゲーム……?」 息をかすれさせただけのような呟きが私の口から漏れた。 私は自分に残されている少しだけの勇気を右手に集中させるように、右手に力を入れた。ゆっくりと、体と足をきつく縛っていた右手が離れていく。そしてそのまま、スカートの左ポケットの上に、精一杯の優しさでもって重ねた。スカートの布をはさんで、小さく折り畳まれた紙の感触が溢れていた。「ゲーム……」 どこかでこの単語を聞いたはずだというもろくて透明な記憶が、私の周りを取り囲む。あまりにも透明で、雲に合わされた焦点を一センチずつ手前に引き寄せていかなければ、私の心と、黒い雲の間でのどこかに漂っているその記憶を取り戻せないと思った。「あれ?」 だけど私は気付いたのだ。 あまりに透明だと思っていた、というよりもむしろ、思い込んでしまっていた記憶は、姉の遺書を読んだ瞬間に私の心の大部分を占拠していた。そして、その記憶は、絶対に忘れてはいけないし、同時に、絶対に忘れることができるものでもなかった。「『ゲーム』……」はっきりとした声となって、私のつぶやきは口から漏れた。自分の声ではないような感じがした。今まで誰からも似ていると言われたことが無かったけど、そのつぶやきは姉の声によく似ていたのだと思った。 私の手のひらの下から私の体の中に、姉の心を刻み込むように丁寧に書かれた文字が流れ込んでくる。「私のクラスには、中学二年の頃から、イジメられ出した子がいた。だけど、第三者の立場の生徒は、誰一人その子を助けようとしなかったし、イジメている子に何も言わなかったし、逆に「無視」という形でイジメに参加してしまっていた。誰も自分はイジメているんだ、という意識はない。なぜなら、ただ話しかけないだけなのだから。 その時、私は学級委員をやっていた。本当は学級委員なんてやりたくなかったけど、先生に押し付けられて、断りきれなくてやっていた。 私は、その子のことをとてもかわいそうだと思った。だって、私があんなイジメを受けたら嫌だから。だから私はある日、みんなの視線を背中にヒリヒリと感じながら話しかけてみた。 私は、「先生に言って、助けてもらおうよ」と言った。だけどその子は、決して首を縦には振らなかった。うつむきながら、おびえた目を卑屈そうに上目づかいで私のほうへ向けながら、「絶対に先生には言わないで。先生に言うくらいなら死んだほうがマシだよ」と小さな声で言ったのだ。 私は不思議だった。どうして、先生に言う行為よりも自殺の方がマシなのか分からなかった。私は、「どうして?」と尋ねた。「先生に言ったら、チクッたと言って仕返しされる……」その子は、自分の言った言葉にすらおびえているように、声を震わせながら懸命に言った。「どうして? 先生にイジメを止めてもらえばいいじゃない?」「先生に言ったところで、本当にイジメは終わるの?」 そう言ったその子の目は、さっきまでの小動物のようにおびえるだけの目から、明らかに、小刀で鉛筆を削り取っていくように鋭くなっていく。「あなたには分からない……」「え?」「イジメられたことのないあなたには、絶対に分からない……」 私は、うめくように呟くその子の目を見て、背中に氷を放り込まれたように背筋が凍りついた。 その子は、私を敵として見ていたのだ。しかもそれは私に対してだけではなく、世の中すべてに対して嫌悪していたのだ。 私ははっきりとそう思った。 広大な荒れ果てた野に一人ぽつんと突っ立っているその子。今まで誰も助けてくれなかった。 そのような光景が、その子の心の中に見えたような気がして、怖かった。そして、次の日になった。 みんなは、それを『ゲーム』と呼んでいた。 きっかけは、次の日の朝だった。 私はいつものように自分の机の上にカバンを置いて、中から一時間目の国語の教科書とノートを出した。カバンを閉めて、机の横に、鉄のパイプにもたれかけさせるように置く。「あ!」 すべてが一瞬だった。後ろから伸びてきた二本の手が、私の机の上の教科書をつかんだのだ。私は小さな悲鳴を上げながら後ろを振り返る。そこには、昨日話しかけたイジメられていた子と、イジメていた子がいた。イジメられていた子の手には私の教科書がにぎられ、王様に献上するかのようにイジメていた子に差し出す。イジメていた子は、犬の頭をなでるように、教科書を奪ってきた子の頭をなでている。 私は、その光景を茫然として見つめて、頭の中に詰め込まれた霞が目を通って外に流れ出て、頭が少しずつはっきりしていく。そして、イジメていた子がイジメられていた子に命令して奪わせたのだ、と気付いた。だけど、そのことに対して私がどのような行動を取ればいいのかわからず、しばらくその光景を見つめていた。何だか、現実感の伴わない空想世界の中の光景のようだった。 その日から、私の持ち物がよくゴミ箱の中から発見されるようになった。 私が少しでも教室を離れると荷物がすべてゴミ箱の中に入っていた。ゴミ箱から、入りきっていない私の黒いカバンがその頭を少しのぞかせている。私は茫然としながら、この少しだけ飛び出している黒くて角ばっている物を見つめる。私は教室を少しでも離れる時もカバンが手放せなくなった。トイレへ行く時もカバンを両手で強く抱きしめながら入った。すると、ますます、あの子達は面白がって、授業中の先生が黒板に書いている時などの目がこちらに向いていない時、私の机の上から強奪するようにノートや教科書を奪っていった。その物音に時々先生が、「○○、どうした?」と聞いてきたけど、私は懸命に声が震えないようにしながら、「何でもありません」と言った。そしてその次の休み時間、奪われた物はゴミ箱の中に入っていた。 突然のこのイジメに、私の頭は混乱するだけだった。「なんで? なんで? なんで? ……」と果てしなく呟きながら眠れぬ夜をやり過ごした。第一に、私の身にこういう事が起こっているという現実が信じられなかった。 他の生徒たちは皆見て見ぬふりだった。まるで、イジメられているのが自分でないことに心底安心するかのように、私の事を無視するようになった。私は、もう周りには誰一人いない、凍るように冷たい砂漠の真ん中で、手を二本前に突き出し、何かを求めるようにさまよっていた。 何度、先生に助けを求めようと思ったか……。 だけど、もし先生に言ってしまったら絶対に親にまで話しが行ってしまう。そうしてしまうと、親の中にいるはずの「いいこの私」が粉々にくだけてしまいそうで怖かった。私なんてものがどこにも存在しなくなってしまいそうで怖かった。 そのイジメのことを『ゲーム』と呼び出したのは、その一ヶ月ぐらい後からだった。 奪い取ってゴミ箱の中に捨てる。その捨てた物によって点数が決まっている。イジメている子たちが自分たちで作ったプリントを偶然見ると、「ノート 5点 教科書 10点 筆箱 10点 カバン 20点 ……」と書かれていた。そのプリントは、コピーして私以外のクラスの皆に配ったらしかった。 私は、『ゲーム』という言葉を初めて聞いた時、「狂っている」と思った。人間自体が狂っているのか、その周りの社会が狂っているのかはよく分からなかったけど、何かが絶対に「狂っている」と思った。そして、このまま生き続けてこの世界の空気を吸い続けていると、私までもが自分が内側から腐っていくと思った。狂っていることですら「狂っている」と感じられなくなりそうだと思った。それが一番怖かった。 今、この遺書を書いていて、もう一つ思った事があるんだ。 もし、偶然私のイジメが止まって、その代わり誰かがイジメられだしても、私はその人を助けることが出来ないと思う。なぜなら、また自分がイジメの標的になるのが死ぬほど怖いから。だけどね、そんな自分になってしまっている事のほうが、本当はもっともっと怖い事なのかもしれないよ。」
2007.10.13
プップー。「え?」 私は、目をぱちくりさせて周りを見回す。すると、地べたに座っている私の左側の驚くほど近くに白い車が鴨志田橋を通りたそうにしていたのだ。バス通りから曲がってやってきたらしい。 プップー、プップー。 私は、自分の足が邪魔になっていることに気付いて急いで足を曲げた。 車は、私を馬鹿にするようにことさらにエンジンをふかして私の前を通り過ぎていった。そして突き当りまで行くとウィンカーをパチパチと点灯させて、私がやって来た方向とは逆の右側へ曲がっていった。 私は、動くボールを追う猫のように、その車の動きを目で追う。右側へ消えていくと、私の視線は標的を失ってしばらく右の角に立っているねずみ色の電柱の当たりを、不安定そうに行ったり来たりした。 車の無愛想なクラクションの音は、記憶の中に潜水しようとしていた私を簡単に水面の上に弾き飛ばしてしまった。しかも、水面の上のさらに上の黒い空まで飛ばされてそこから落下していくかのような気分の悪い無重力感が私の胸の中に押し寄せる。 私はたまらず、両腕で、折り曲げたばかりの足を抱きしめた。手のひらが私の細いすねに触れる。足は地面に熱を奪われてしまったのかひやりと冷たかったけど、そこに私の足が存在することが分かって少しだけ安心した。なぜなら足があるということは、その下に地面があるということなのだから。「生きることって、皆も私と同じくらい辛いのかな……」 私の小さな呟きは、地面にすぐに吸い込まれてしまう。そして地面をすり抜けて橋の下に落ち、黒く汚れたドブ川に流れに流されていく。 その時だった。「ああ、カッタルイ!」「ホント、カッタルイよネー」「学校がサボれなかったら、誰があんなヤツの葬式なんかに行くかってカンジだよネー」 私の背後から、まだ幼さの残る舌足らずさと投げやりな響きを含ませた声が聞こえてきたのだ。その声から判断すると、まだ私とその声の主との間の距離はありそうだった。 私は顔を橋のへりの上に少しだけ出して、へりの向こう側を見る。私の家へやって来たあの三人の女子生徒だった。川に沿った舗装されていない細い砂利道を、茶髪の二人が前を歩き、その間の少し後ろ側を黒い髪がおもねるようについて歩いている。 私は急いで頭を引っ込めて、息をひそめた。自然と私は橋のへりの裏側に隠れるような格好になって、その三人は私に気付かないのか、自分以外のすべてを馬鹿にするような声が次第に大きくなる。「でも、オマエにはホント、ビックリさせられたヨ」「ホント、ホント、なんでオマエあそこで泣けるんだよ」「私も私自身にオドロキってカンジだよ。なんか、あの葬式の雰囲気が私のおじいちゃんの葬式を思い出させたっていうのかナー。なんか、その時のことを思い出したら、いつの間にか涙がポロリってカンジ」「オマエ、役者になれるよ」「ホント、役者でも目指そうカナ。演技派女優ってヤツ?」 アハハハハとはじけるような、だけど作り物っぽい笑いが会話に挟みこまれる。「ホント、笑いをこらえるのが大変だったヨ。アイツを追いつめた元々の張本人が泣き出すんだから」「私も私も!」 二人の声は私のすぐ後ろまで近づいてきた。 サーと風が吹いて、足を抱え込む腕の下でスカートが揺れる。「もう、『ゲーム』、できなくなっちゃったね」「あ……」 私は、しまった、とひざを抱えたまま左手で口をおさえたけど、一度口から出してしまった言葉は取り返せなかった。口の中で食い止める事と、口から一度でも出す事は百八十度違うことなのだ。顔を、端のへりに置かれた銅像にでもなろうと、ふせて、足は腕で体の中心にギュッと押し付ける。 だけど、三人の会話は止まったままで、足音ですら私の耳には聞こえない。 私は恐る恐る顔を持ち上げて、右上を仰ぎ見た。 三人とも目を大きく見開いて驚いて声が中々でてこない様子だったけど、茶髪は怒ったような顔をして驚き、黒い髪は泣きそうな顔をして驚いていた。
2007.10.08
私は、人に話しかけようとする時は必ず、今話そうとしている相手の顔の前に、あの時の顔がゆらゆらと浮かぶようになってしまった。だから私は、どんな人にでも話しかけようとすると、絶対に、あの私を見下ろすような顔に対して話しかけなければならなくなってしまったのだ。 もともと人に話しかけるのが苦手な私が、人に話しかけることに対して、高層ビルの屋上から飛び降りるのと同じくらいの恐怖を感じるようになるまで時間はほとんでかからなかった。はるか下にある地面を見た時の眩暈に似た困惑がのどの奥から込み上げてきた。私はもちろん高層ビルから飛び降りた事なんて無かったけど、絶対に人に話しかける事の方が怖いに違いない、と誰もいない私の部屋でいつも確信していた。 この記憶には、ある続きがある。 私は、小学校四、五年までは、洞くつの奥のジメジメした暗くて重苦しい空気のような毎日を必死になって耐えた。学校の休み時間は誰にも話しかけられないように寝たふりをし続けて、通信簿に「睡眠不足なのか、休み時間はいつも寝ています。夜更かしなどはなるべくさせないようにして下さい」と書かれた。私は無言で怒ったような顔をつくりながら母にこの通信簿を渡すと、母は少し困ったような目を通信簿の向こう側から見せたのだけど、結局私には一言も声をかけてくれなかった。 学校でどうしてもクラスメートと話さなければならない時は、私はいつだって作り笑いを浮かべた。もし私の心をそのまま顔に出してしまったのなら、私の顔と相手の顔の間に浮かんでいるあの時のあの少年の顔に、私の裸の心が侮辱されてしまいそうで怖かった。それによって心が傷つくくらいなら、私の心の周りを「作り笑い」という壁で塗り固めてしまうほうがよっぽどましだった。 作り笑いばかりして、相手の話に相づちを打つだけの私に誰も話しかけなくなるのも当然だったし、私は私で、もっと厚く、もっと厚く、とその壁を塗り固めることに没頭していたので、引き返すことなんて考えもしなかった。そして私は、寝たふりと作り笑いをやり続けるしかなくなってしまったのだ。 家の中では、元々私はあまりしゃべらなかったので、私の変化に対して心配したりは全くしなかった。姉だけが、「慶ちゃん、一緒に遊ぼう」と心配そうに声をかけてくれたのだけど、私は、声をかけてくれたならくれたで、声をかけてくれたこと自体に腹がたった。この姉は、私のことを見下ろしているからそれが同情となって現れているんだ、と自分に言い聞かせ続けた。そして、「私にはなしかけないで!」と姉の目を見ずに強く言うと、少しの間をはさんで姉は私の前を立ち去って行った。その足音を聞きながら、私はいつも、私は姉に見捨てられたんだ、という思いに理不尽にもとらわれて、その思いがあの少年の顔と同じように、私の背後霊として取りつき、ますます私はしゃべれなくなっていった。 このような二年間を過ごすうちに、私は私のことが全く分からなくなってしまった。「私」に対して「私を見ている私」のことを近代的自我と言うらしいけど、私は、どんなに私自身を見つめようとしても、壁の向こうに立っているその輪郭ですら見えなくなった。そして、コンクリートのように私の周りに塗り固められた「壁」だけが私の心だったし、私自身のような気がして、私はそのような私でしかない私を、はっきりと見下ろすようになってしまったのだ。それは、私自身のことを、あの日の少年と同じように、ゴミを見るように見ている私だった。 小学校六年生に上がろうとしている春休み、私は、夕食後に食器を一人で洗っている母に、小さな声で「学校へ行きたくない」と言った。この夜は、父は会社から帰るのが遅く、姉は、「宿題してくる」と二階へ上がっており、キッチンと居間の空間は、珍しく私と母しかいなかった。「学校へ行きたくない」 私はキッチンテーブルに一人座って、忙しそうに動いている母の両腕を見つめていた。そして、母の返事を待った。だけど母はフンフンフンと鼻歌を歌っているだけど私のほうを振り返ってもくれない。 私は、その母の様子を見ながら、とても寂しく思ったのをよく憶えている。 今考えてみれば、私の声が小さくて食器洗いの後が大きくて聞こえなかったのかもしれないけど、私は母の背中に尖った視線を突き刺しながら「見捨てられているんだ」と思った。いや、思ったと言うよりもむしろ、それを厳然たる事実なのだとして受け取ったのだった。
2007.10.07
私は、アスファルトの上に真っ直ぐに投げ出された二本の足を見る。ひざが赤黒くにじんでいてヒリヒリと痛かった。私は、家に帰って消毒しないと、と思ったけど、道路に下ろしてしまった腰がとても重く感じられて上がらない。何となく首を左へ向けると、橋を渡って二十メートルくらい先に、バス通りの道路が見えた。そのバス通りを時々車が通り過ぎていく。だけど、一台もこちらの方へは曲がってこなかった。私がこんな所に座りこんでいるから車が曲がってこないんだ、と思った。 仕方がないので、私はもう少しだけ記憶を拾い集めていくことにした。 小学校一、二年生の頃の記憶は、やはり私にはほとんど無かった。それでは小学校三年生の時は……。 私は思考の流れをストップしようとした。三年生の時のあの出来事を思い出してしまいそうだった。あの出来事の記憶は、自分の心の底に何重もの箱で囲って閉じ込めていたのだ。もし思い出してしまうと、あの言葉を今言われたかのように鮮明によみがえってきて、体の震えが止まらなくなった。小学三年の時のあの出来事……。 私はあの日、給食当番だった。 私はその日のデザートの担当で、白衣を着てリンゴが一杯入った銀色のアルミ製の入れ物を調理場で受け取り、二階にあった私の教室まで運ぶことが私の仕事だった。 調理場の前の受け渡し場は他のクラスの給食当番もたくさんいて、混雑していた。四時間目の授業が早めに終わった時は、誰もいないガランとした受け渡し場に一番乗りすることができたのだけど、その日の四時間目は、チャイムが鳴って少したってから終わったのだ。 私は両手で、台から慎重に入れ物を持ち上げる。そして振り返ろうとした時だった。運悪く私のすぐ後ろに立っていた他のクラスの給食当番に腕が激突してしまったのだ。後ろをよく確認しなかった私のミスだった。その衝突の衝撃で、入れ物の片方をつかんでいた右手からアルミの取っ手が滑り落ちる。そして、アルミ製の蓋の床に落ちるガターンという音と一緒に、リンゴが全て床に落ちてしまったのだ。私には一瞬何が起きたのか分からなかった。 給食を床にぶちまけてしまうという「事故」は、学校でも時々発生していて、その時の給食当番がしなければならない事はまず給食で汚れた床をきれいに掃除して、それが終わると他のクラスを一つずつ回って、その給食のあまりを少しずつ集めてくる事だった。 当然私は、手を震わせながら床に落ちた全てのリンゴを拾い上げた。そして今度は足を震わせながら、「リンゴ余ってませんか?」と言って他のクラスを回って行った。逃げ出しそうになる自分の体を懸命に押さえつけて、イントネーションのおかしい声で、「リンゴを床に落としてしまったんですが……」と言い続けた。 死ぬような思いをして、結局リンゴは二分の一くらい集めることができた。いや、二分の一くらいしか集めることができなかったと言うべきかも知れない。当然、クラスの全員が食べれるわけがない。そこでジャンケンをすることになった。このジャンケンは、先生とクラス全員が一斉に出して先生に勝った者を勝者とするもので、うちのクラスでは、何かを決める時によく行われたのだ。「ジャンケンポン!」 先生の声がクラスに響く。 結果は、三分もたたないで決まった。私は別に勝ちたいとは思っていなかったけど、「私いりません」と言う勇気がなかった、ただそれだけでそのジャンケンに参加していた。そして、運悪く勝ってしまったのだ。 クラスの当番の男子と女子の二人が、前に出てきて、「いただきます!」と言う。やまびこのように、その後に続いてクラス全員が「いただきます!」と言う。その直後だった。「え?」 私が顔を上げると、すぐ横に誰かの人影が立っていたのだ。「誰かさんのせいでリンゴが食えなくなったのに、誰かさんは食ってやがる」 私は驚いて横を見上げると、ジャンケンに負けた男子生徒が一人、憎々しげに私の顔を見下ろしていた。 クラスは、水を打ったように静まり返った。 それに反比例するように、私の耳の中に聞こえる私の心臓の音は、大音響で私の鼓膜を震わせる。私は体の中が燃えるように熱くなっていく。そして、顔をうつむかせ、スカートごと足の肉を思い切りつかんだ。「私、いらない……」 私は精一杯の勇気を振り絞ってリンゴの入っている器を上に持ち上げる。こんな時にどのような顔をしたらいいのか分からなくて、引きつった作り笑いを顔に浮かべながら。 男子生徒は、リンゴをつかんだ。だけど、リンゴの入っている器をつかんだというわけではなかった。リンゴをそのまま右手でわしづかみしたのだ。そして、そのリンゴを力一杯私に向かって投げつけたのだ。 リンゴは私の頭に当たって跳ね返り、どこかへ飛んでいった。 すべてが一瞬の出来事だった。だから私は、一体自分の身に何が起こったのか理解できずに、その男子の顔を茫然とみつめることしかできなかった。「お前ごときにめぐんで欲しくない!」 男子生徒は片目を極端に細め、ゴミを見るような目で私の顔を見下ろし、そのゴミの上に吐き捨てるように言った。 その後私がどのような態度を取り、その男子生徒がどのようにして自分の席に戻ったのか、そのシーンだけは私の頭の中からどこかへ落としてしまったのか、全く憶えていない。もしかしたら、どこかへ落としたという以前に、あの時のシーンはもともと私の頭の中へ詰め込まれなかったのかもしれない。電気のブレーカーが落ちるように、あの時の私の目や耳は働きを止めざるを得なかったのかもしれない。 だけど、ブレーカーが落ちる前の光景は何度でも私の前によみがえってきた。学校で国語の授業を受けていて教科書を音読している時も、学校から帰る途中の通学路を歩いている時も、今で家族で夕食を食べている時ですら目の前に幽霊のように姿を現した。そして、あの時のあの男子生徒の顔が、何度だって私に、「お前のめぐみなんか受けない!」と言うのだ。しかもその声は、まるでリアルタイムで吐き捨てられているかのような生々しさをいつも備えていた。
2007.09.22
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