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2021.07.26
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カテゴリ: 観照 & 探訪
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​蟷螂山を後にして、さてどうするか。
数を考えるとまだ見落としているものがありそうです。しかし、具体的な情報を事前に入手していませんので、少し適当に山鉾探しで歩いてみることにしました。
一旦西洞院通を上り錦小路通に右折し、新町通との辻まで 行きます。南を眺めれば放下鉾が見えます。
そこで、新町通を一筋上がることに。
新町通に左折 すれば、ここは 後祭で南観音山が建つ 百足屋町 です。

​後祭は24日​ が巡行日でしたが、宵山も当日も山鉾は一部建っているのに、 行きそびれてしまいました。 残念! 
未だ前祭の残りをまとめています。


​百足屋 (むかでや) 町の途中で南を振り返る​ と、17日時点でしたが町内各所に 祭提灯が整然と 建てられていて、 その先に放下鉾 が遠望できます。
祇園祭はほぼ7月ひとつき、様々な行事があります。後祭の山として早めから準備がされているのでしょうか・・・・。

京町家が改装されたのでしょうか。新しさを感じました。 くろちくの暖簾 がかかり、二階の北側の漆喰壁にも大きく紋が付けられています。「 百尺足館 」と読める表示が出ています。
祭提灯が建ち並ぶだけで華やかさが加わります。

次の辻で右折し蛸薬師通を東に 向かいます。

通りの南側を歩いて行くと、丈夫そうな囲いを設けた 北向きの小祠 が目に止まりました。
北向きのお地蔵さまかなと近づいてみると、 「天道大日如来」の扁額 が掲げてあります。
京の町中でけっこう小さな地蔵堂と出会います。時折大日如来を祀るお堂を目にすることもあります。



室町通に到る少し手前 、北側のビルの一角、駐輪場になっている場所に駒札が見えます。
「此付近 南蛮寺跡」の石標 が建っています。以前に訪れたことがあります。

「織田信長の時代に、耶蘇会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった『南蛮寺』は、この北側姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。
 戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄2年(1559)から本格化し、永禄4年(1561)年にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正4年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、7月16日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亞上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれた。
 しかし、天正15年(1587)6月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。 京都市」 (駒札転記)

駒札に記載される南蛮寺は 京の都に南蛮寺が建てられた前期にあたる そうです。前期は弾圧を受けるなど荒廃があったけれども30年前後にわたり存続しました。ルイス・フロイスが『フロイス日本史』に記した南蛮寺は場所がこの姥柳町にあった時代の記録のようです。
さらに、慶長の半ば頃に南蛮寺が再建され、慶長末までの10年間の布教活動の後に抹殺されるに至る後期があったと言います。
後期ははこの南蛮寺跡ではなく、別の場所に南蛮寺が建てられたと言い、諸説の記録が残っているそうです。だいうす町、徒斯ノ辻子、四条坊門などという名称で呼ばれました。
また、 南蛮寺というのは仏僧側が名付けた呼称 で蔑称の意味合いを含んでいるとか。
当時の文書には 天主教会・キリシタン寺・だいうす寺 などと記されているそうです。 (資料1)

蛸薬師通を左折して室町通を上がります
東側に 「登龍門 鯉山」の看板 が目に止まり、その前まで行ってみました。

鯉山の会所 の扉に、 「本年は非公開」の貼り紙 がしてあります。
たしか、この会所の通路の突き当たりに、天道大日如来の小祠が祀ってあったと記憶します。
鯉山は後祭の山鉾の一つ です。後で調べますと、山を建てる予定が開示されていました。
後祭に出かけなかったので確かめてはいません。17日時点としては、非公開と表示されていたのでしょうか。不詳です。

四条通に行くつもりなので、 室町通を下がってみることに しました。
 こんな「 周辺観光案内図 」が設置されています。
室町通に合わせてあるためか、地図の方位は左側が北、右側が南で表示されています。
観光客の立ち位置でわかりやすくしているということでしょう。

この地図で、京都の町の通り名の位置関係がお解りいただけるでしょう。


上掲の案内図の設置されている場所は「 京都芸術センター 」の前です。
右の門柱に銘板が嵌め込まれています。
一方、 左の門柱にも銘板 があり、これを見ると、 ここがもと「京都市立明倫小学校」 ​だった​ ことがわかります。

祇園祭の時に幾度もこの前を通りながらそれほど意識していませんでした。
今回改めて調べてみて、幾つかのことを知った次第です。
「明治2年(1869年)に下京三番組小学校として開校した明倫小学校は、平成5年(1993年に124年の歴史をもって閉校し」(資料1)ていたのです。124年の歴史が幕を閉じたのです。
2000(平成12)年にその建物を利用して、「京都芸術センター」が開設されました。
この小学校の建物は、2008(平成20)年に国の有形文化財に なっています。 (資料2)

少し先の錦小路通との辻まで行き、錦小路通の西を眺めると

(しま) う作業が半ばまで終わっていました 。「 霰天神山 」です。残念!
「蟷螂山」に向かうため、西洞院通を下がっていたとき、辻の先を見過ごしていたようです。


道路の南側に、山を飾った樹木が置かれています。
つまり、もうどの山・鉾も終う作業にかかっているということです。
錦小路通を東に 進み、烏丸通から四条通に向かうことにしました。

錦小路通を歩いていて 、目に止まったのがビルの間に 屋根の付いた門 の傍の駒札 です。
道路を横切り近づいてみました。

ここは、「 明倫小学校旧正門跡 」だったのです。(錦小路室町通り東入る北側)
心学講舎『明倫舍』と明倫小学校(下京第三番組小学校) 」と題して案内文が記されています。このあたり、地図を確認すると 占出山町 です。

心学・石田梅岩 については文化史の中で学んだことがあります。しかし、 ​その弟子・手島堵庵 (とあん) がここに心学講舎「明倫舍」を設け​ て梅岩の教えを伝える拠点にしていたとは知りませんでした。
上掲の 室町通に面した現京都芸術センターの門が旧明倫小学校の正門になってから は、こちらの門が 裏門 として使用されていたとは、歴史を感じます。

少し先に進むと 占出山町会所の注連縄の張られた門の片側に石標 が見えます。
「此附近 木下順庵邸跡」 と記してあります。

木下順庵(1621~1698)は京都出身の儒学者 。加賀前田藩に招聘され仕えたのち、天和2(1682)年幕府に登用され徳川将軍綱吉の侍講となった人。 (資料3)
門下には木門の十哲と称される人々を輩出。その中に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲がいます。 (資料3、『日本語大辞典』講談社)


錦小路通から烏丸通に出ます と、南方向で 山の終い作業 が行われていました。
「孟宗山」 です。ここも山の躯体を残しほぼ片付けが終わる段階でした。

交差点を東に横断 し、東側歩道を下がって四条通に戻ることにしました。


ここで目に止まったのがこの 石の鳥居と銅板葺きの屋根 です。これも新たな気づきです。

近づいてみると、石鳥居に 「八坂神社 御手洗井」と記された扁額 が掛けてあります。
 柵から覗くと 井戸と覆屋 です。 



これもまた、今まで意識しなかったのですが、 地図を確認すると 手洗水町 という町名があります。駒札の最初に「 例年祇園會中(7月15日~24日)この井を開いて神水を領つ。秀吉の頃町民の申出により町名となる 」と町名由来が記されています。
かつてこの地は祇園社御旅所社務藤井助正の屋敷地でそこにあった井戸とのこと。庭前に牛頭天王社を建て、この井戸の霊水を毎朝奉供していたと言います。織田信長の命で御旅所が移転後に、この井戸だけが維持管理されてきたようです。
駒札の末尾を読むと、明治45年3月、烏丸通拡張のために、この井戸は原形のままで東に移転されここに定まった。そして改めてここで井戸が掘られたそうです。深さ7尋半と記されています。1尋は6尺。約1.8mですので、約13.5mの深さまで掘られているようです。 都下の名水の一つ だそうです。

さてここからは、四条通で左折して、長刀鉾を最後に眺めて終わりです。

つづく

参照資料
1) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p204-209
2) ​ 旧明倫小学校について ​  :「京都芸術センター」
3) ​ 木下順庵邸址 ​ いしぶみデータベース :「フィールド・ミュージアム京都」

補遺
南蛮寺 ​   :ウィキペディア
都の南蛮寺図 ​   :「文化遺産オンライン」
京都芸術センター ​  ホームページ
祇園祭の宵山と占出山(うらでやま)の吉兆あゆ ?安産のお守りはこれより出ますー大極殿本舗 吉兆あゆ [京の暮らしと和菓子 #14] ​ :「瓜生通信」(京都芸術大学)
石田梅岩 ​  :「コトバンク」
石田梅岩 ​  :ウィキペディア
手島堵庵 ​  :「コトバンク」
手島堵庵 ​  :ウィキペディア
手島堵庵 五楽舍跡と石門心学 ​  :「田中ケース」
木下順庵 ​  :「コトバンク」
木下順庵 ​  :ウィキペディア

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Last updated  2021.07.28 09:22:25
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