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2021.11.25
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カテゴリ: 観照 & 探訪
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ここからは晩秋から時を春に溯り、 3/24に初めてこの頂妙寺の境内を訪れた時の探訪 で境内散策を補い、ご紹介します。
冒頭の石塔は基壇に「 経塔 」と刻されています。 塔身の軸部 に独特の書体で「 南無妙法蓮華経 」と刻されています。 背後は本堂 です。本堂の東南方向に建立されています。


本堂の南西方向、前回ご紹介した妙雲院・菊井稲荷社の北方向にこのお堂が位置します。


鬼子母神堂 」です。この写真はいずれ修復工事前の状態を示すということになります。
鬼子母神堂の南側に 見えるお堂は、手許の本に所載の境内俯瞰図を参照すると「 妙見宮 」です。こちらは未訪。 (資料1)

正面左の柱に「鬼子母尊神祭」の案内が掲示されています。
鬼子母尊神は法華経信者の守護神であるとともに、子供の守護神です 」と記されています。
 掲示文に載せてあるのがこの姿です。
この鬼子母神像がお堂に安置されているのでしょう。

入母屋造り本瓦葺の屋根の棟には 鬼瓦 が見えます。古風なスタイルの鬼瓦です。
隅棟の鬼瓦

降棟の鬼瓦
同じスタイルの鬼瓦ですが、並べてみると微妙に違う感じ。手作りということでしょう。


鬼子母神堂の北、本堂の西側に、「 鐘楼 本堂の背後には書院があり、その西側に庫裡 があります。こちらの方には足を向けていません。

 本堂前のこの銀杏からは
 鐘楼が銀杏越しにこんな感じになります。
近くに駐車されていなければ、鐘楼全景を撮りたいところですが、屋根だけを撮りました。(2021.11.21)



   鐘楼・切妻屋根の棟の鬼瓦。屋根は葺き替えられたようです。
   鬼瓦は古鬼瓦を写したものなのでしょうか・・・・。関心が向きます。
降棟の鬼瓦

梵鐘 自体は下帯に唐草文様のレリーフが施されているだけのシンプルなものです。
巨大というものではありません。そこで梵鐘を吊す 竜頭 の箇所が比較的見やすかったので、


             こんな風に撮ってみました。


鐘楼の西側、境内の西辺には、 塔頭 が並んでいます。こちらは「 本立院 」です。
その北側に、 善立院、真浄院 が連なっています。 (資料1,2)

​本堂の東側を巡ってみました​

手許の本の図での位置関係でみれば、これは本堂の東に位置する「 納骨堂 」です。
納骨堂の北に見える朱塗りの鳥居と瑞垣の場所に進んでみました。



小社には 「威徳善神」の扁額 が掲げられています。 威徳善神堂 です。
2020年末からこの威徳善神堂の修繕がおこなわれ、「その際に棟札が見つかり、寛政6年(1794)の建立と判明」 (資料3) したそうです。

 威徳善神堂の西側の垣の傍に、
この 墓石 がぽつんとあります。 「有鄰軒輔信」と刻されている のが判読できます。
調べてみますと、 鷹司輔信 という江戸時代前期~中期の公家で茶人。関白鷹司房輔の3男で、号が有鄰軒。晩年には剃髪して、この頂妙寺境内の蓮乗院に住したと言います。 (資料4,5)
蓮乗院は今はありません。

少し離れた西側にこの一画 が設けてあります。


一番左の石碑は文字が刻まれているようですが風化が進み判読できません。
その右の石仏は如来形の坐像のようです。石仏の後には小さな五輪塔が置かれています。その右には五輪塔を象った板碑が置かれていて地輪の部分に仏がレリーフされています。右端の石碑には蓮華座がレリーフされています。その上に文字が載るのか仏像なのか・・・・・・写真からは識別できません。次の機会にまた眺めてみたいと思います。



威徳善神堂の少し手前、納骨堂に近いところに、 2人の名を併記した塚 があります。
少し調べてみた範囲では不詳。どのような所縁がある2人なのでしょうか・・・・。


その東側にあるのがこの一画。 墓所 ですが詳細不詳。
背後は境内地の東辺で、 ​こちら側にも塔頭​ があります。すぐ後に見えるのが「 善性院 」で、その南側に 大乗院・法輪院・真如院 が連なっています。
 墓所の南に生垣で囲まれたもう一つの一画があります。 

近づいて拝見すると、「 妙蓮 」と刻された下に、天文19年6月22日の日付と 蓮池平右衛門尉秀明 が旧敷地を寄進した旨が記されています。蓮池英明は当寺、扇座と機織座の代表で豪商だった人だとか。
今まであまり考えていなかったのですが、俵屋宗達で有名な俵屋は扇の生産を扱う店の屋号です。その名乗りは蓮池あるいは喜多川であり、 俵屋一門の元祖が蓮池秀明だそうです (資料6)
この石碑は顕彰碑の位置づけなのでしょうか。

頂妙寺は土佐守護代細川勝益から洛中の地を寄進され、日祝上人により創建されたことは前回触れました。その後移転を重ね、 大永3年(1523)には高倉中御門 (高倉椹木町、御苑内)に移っています。「天文5年(1536)、法華の乱で京都を追われ、同11年に許されて高倉中御門に戻る。天正元年(1573)4月4日、織田信長による上京焼き打ちに遭い、鷹司(下長者町)新町に移る。天正15年(1587)に豊臣秀吉の命で三度、高倉中御門へ移った。かくして 寬文13年に川東の現在地に 移る」 (資料2) という変遷ですので、この石碑に記載の旧敷地とは、たぶん高倉中御門の敷地を指しているのでしょう。

妙蓮の石碑と祖師堂との間に、 大黒天堂 が位置します。前回載せた二天門を南西側から撮った景色には遠景としてこの建物が写ってはいますが建物を単独で撮るのは忘れています。


最後にこの紋について補足します。まとめている時、補遺に掲げた動画を拝見して、 ​獅子口に見える紋は「月星紋 (がっせいもん) 」と称される​ ことがわかりました。日祝上人は下総国の千葉氏の出身で、この紋が ​千葉氏の家紋​ であるとともに、この 頂妙寺の寺紋 だそうです。

この辺りで、探訪の補足を終えて、仁王門通に戻ります。

つづく

参照資料
1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p218-222
2)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p191-192
3) ​ 威徳善神堂の修善 ​  寺ブログ  :「聞法山頂妙寺」(日蓮宗ポータルサイト)
4) ​ 鷹司輔信 ​ :「コトバンク」
5) ​ 鷹司輔信 ​ :ウィキペディア
6) 動画「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20- 制作:日本文化芸術の礎

補遺
日蓮宗 「日本文化芸術の礎」を設立 ​ :「文化時報プレミアム」

京都町衆の歴史と文化を歩く video ​  :「日本文化芸術の礎」
  このページに頂妙寺についての次の動画を閲覧できます。
  「田中日淳猊下のお話し 日蓮宗本山頂妙寺とは」 -chapter17-
      「二天門について」 -chapter18-
  「頂妙寺の宝物」 -chapter19-
  「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20-
細川勝益 ​   :ウィキペディア
細川勝益 ​    :「コトバンク」
史料にみる扇屋 ​  :「京扇堂」
俵屋宗達 ​  :「コトバンク」
づしづくし 32 高倉辻子 ​ :「洛中洛外 虫の眼 探訪」

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Last updated  2021.11.27 09:36:00
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