全2030件 (2030件中 51-100件目)
この狩野派略系図は桃山時代を中心にしたもの.2015年の特別展開催PRチラシから切り出した略図の引用です。 こちらは手許にある図録の表紙。京都国立博物館で特別展覧会として、2007年に「狩野永徳」展が、2015年に「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」展が開催されました。冒頭の略図は、2015年の図録に挟んで残していた展覧会PRチラシに掲載されている略系図です。この2つの図録を糸口に、インターネットでの龍探しをしてみました。「狩野永徳」図録には、洲信印がある「雲龍図屏風」六曲一双が収録されています。洲信とは永徳洲信で、狩野永徳のこと。この雲龍図屏風は、今治河野美術館蔵です。ネット情報では、伝狩野永徳筆で開示されています。(資料1)同図録には、紙本淡彩の山楽筆蟠龍図縮図一幅も収録されています。2007年のこの特別展覧会で初展示された京狩野家に伝来するもの。東福寺の天井画を縮図で描いたもので筆者は不明とのこと。ネット検索しましたがこの縮図の画像は調べて見た範囲では開示されていません。「桃山時代の狩野派」図録には、狩野孝信(右近孝信)筆「羅漢図」(東福寺蔵)が二幅収録されていて、その一幅は、羅漢たちの頭上はるかの天空に龍が現れた図です。2023年に京都国立博物館で特別展「東福寺」が開催されました。この特別展の中で、吉山明兆筆「五百羅漢図」が展示されました。この明兆が描いた五百羅漢図の中の第46号と第47号の「羅漢図」二幅が孝信筆なのです。明兆筆の原図が損傷したので、狩野孝信がその二幅を描いたということなのでしょう。図録に明記はされていませんので、私的な想像です。「東福寺」展は前期に鑑賞しましたので、第46号の展示を見ましたが、第47号の龍が描かれた方は図録で眺めたに留まります。孝信筆「羅漢図」に現れるの龍像に、ネットのブログ記事で出会いました。(資料2)永徳以前に狩野派で龍を描いた人がいるのだろうか? 調べていて見つけました。狩野派の祖は正信(祐勢正信)。その子の一人、元信(永仙元信)が龍を描いています。京都・清水寺の傍にある「地主神社」の拝殿に狩野元信筆「丸龍」図が天井画として現存していることを今にして知った次第です。(資料3)この龍、にらみ龍として有名だとか。地主神社は縁結びで有名な神社。永徳の子である光信(右京光信)は、慶長10年(1605)に、相国寺法堂天井画「蟠龍図」を描いています。板絵著色。 禅宗と龍図は縁が深いので、そちらを探る時に触れたいと思います。(資料4) 狩野山楽は、狩野派の門弟ですが、京狩野の祖となった画家です。山楽は「龍虎図屏風」六曲一双(京都・妙心寺蔵)として、 龍図を描いています。(資料5)狩野派で、江戸幕府御用絵師となったのは孝信の長子、狩野探幽(探幽守信)です。探幽は、「波に龍図」(大場家蔵、資料6)、「龍図」(資料7)、「龍虎屏風地取」(資料8)を描いています。探幽の弟の尚信(主馬尚信)が、尾形光琳との合筆で「瀧龍図」を描いているのを知りました。狩野派の龍探しを試みて、見つけたのは、山楽の婿養子となった後継者、 狩野山雪筆「龍虎図屏風」の部分図です。(資料10)狩野派の龍を調べていて気づいたことは、正信を祖とする狩野派において、狩野家の系譜は、歴代原則的には「信」の一字を継承しているようだということでした。この辺りで、一区切りと致します。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1. <雲龍図屏風> 伝狩野永徳筆 今治市河野美術館蔵:「IM アイエム internet museum」2. 桃山時代の狩野派 :「THE SALON OF VERTIGO」3. 狩野元信筆「丸龍」 にらみ龍 :「京都 地主神社」 4. 狩野光信 :ウィキペディア5. 狩野山楽 :ウィキペディア6. 波に龍図 狩野探幽 :「世田谷デジタルミュージアム」7. 探幽/龍図 :「文化遺産オンライン」8. 探幽/龍虎屏風地取 :「文化遺産オンライン」9. 瀧龍図(狩野尚信・尾形光琳合筆) :「MIHO MUSEUM」10. 狩野山雪/龍虎図屏風 龍 :「壁紙ギャラリー KAGIROHI」補遺狩野派 :ウィキペディア狩野元信 :ウィキペディア狩野永徳 :ウィキペディア伝狩野永徳筆「雲龍図屏風」 国府叢書・文化財絵はがき :「今治市立図書館」1089ブログ 【禅展】研究員のおすすめ 「山楽の吼えるトラ」:「東京国立博物館」 狩野山楽筆「龍虎図屏風」(京都・妙心寺蔵)狩野山雪 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.18
コメント(0)
わが家の玄関への短いアプローチの角に置いたプランターにムスカリが咲いているのに気づきました。 このプランターの側の もう一つの鉢にもムスカリが咲いていました。 アプローチに沿った右側の細長い花壇には、クレマチス・アーマンディが花を開き始めました。私は写真を撮るだけで、花を育ててはいません。花は家人の趣味。花の名前は教えてもらう方です。後でネット検索してみる程度・・・・。咲いた花を見るのは楽しみですが。 その下で、スイセンが今、たくさん咲いています。2月27日にブログに載せた時よりも数が増えているという程度なのですけれど。 今日はそのスイセンの北側、ブロック塀の傍にこの花が咲いていることに気づきました。ツルニチニチソウだとか。 アプローチの左側、玄関寄りに移動させた鉢植えのジンチョウゲが満開になってきました。3月4日時点では咲き始めだったのですが。 ジンチョウゲの西側には、地植えのラベンダーが好き勝手に伸びています。 オーシャンブルーのグリーン・カーテンを取り除いたスペースに置かれたプランターのエンドウの白い花を見ていると、その陰にエンドウの果実ができています。大小2つです。 植木鉢から手前方向に横に伸び出したヒマラヤユキノシタ。真っ直ぐ上に伸びてくくればいいのに、なぜこんな伸び方になるのでしょう。不思議かつおもしろい。 西側の花壇のクリスマスローズの花の数がちょっと増えた感じ。やはり下を向いて咲いています。奈良・東大寺の「修二会」お水取りもいよいよ終盤です。明日、15日が最終日。いよいよ、春が近くなってきた・・・・・そんな気がします。若い頃から、幾度か二月堂前まで見物に行ったお水取りの行事。それは、私にとっては、春の始まりへの象徴です。スマホで確認すると、当地の現在の天気予報は、やや曇り、12度、最高気温は15度。新聞の天気予報は、終日晴れマークです。補遺ムスカリ :「みんなの趣味の園芸」クレマチス・アーマンディの育て方 :「ヤサイエンゲイ」スイセン :「みんなの趣味の園芸」ツルニチニチソウ :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 寒空に咲く庭の小さな花たち観照 寒空に咲く庭の小さな花たち(2)
2024.03.14
コメント(2)
(資料1)前回、北斎館企画展のPRチラシを最後に引用しました。そのチラシに使われていたのがこの龍図です。これは信州小布施の東町祭屋台天井絵の「龍図」。桐板着色肉筆画です。小布施の北斎館に展示されています。 (資料1)こちらも絹本着色の肉筆画で「富士越龍図」。嘉永2年(1849)1月に描かれた図で、落款は九十老人卍筆とあるものです。北斎はこの年に亡くなっています。 (資料2)北斎はこの同じ構図の「富士越龍図」を紙にも描き、こちらには佐久間象山の画賛が記されています。どちらが先に描かれたかは不詳で、意見が分かれているようです。(資料2)また、嘉永2年(1849)作「雲龍図」でギメ美術館所蔵の肉筆画があります。あべのハルカス美術館で2017年秋に開催された特別展「北斎-富士を超えて-」に出展されていたそうです。そして、この「雲龍図」は、嘉永2年(1849)に描かれた「雨中の虎図」(太田記念美術館蔵)と対になる画幅だと言います。2023年に東京で、「生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙」という展覧会が開催されました。NTT東日本の展覧会PRページで、北斎の次の「雲龍図」を知りました。(資料3) この絵は、弘化2年(1845)、86歳で描いた肉筆画だとか。(資料4)龍さがしの旅の初めに、北斎の描いた龍で出会ったのは現時点では北斎漫画とあわせてこれくらいです。つづく参照資料1) 葛飾北斎 :ウィキペディア2) 富士越龍図 :ウィキペディア3) 生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙 :「NTT東日本」4) 雲龍図 :「小樽芸術村 収蔵品データベース」補遺画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ葛飾北斎の足跡を訪ねて小布施・北斎館へ!名作勢揃い【長野】 :「和楽」【4K】葛飾北斎の天井絵が躍動する祭屋台:長野・小布施「北斎館」| nippon.com YouTube小樽芸術村 ホームページ北斎の晩年に迫る!今秋、あべのハルカス美術館で「北斎-富士を超えて-」が開催:「アソビュー」 ギメ美術館所蔵の北斎肉筆画掲 葛飾北斎 雨中の虎 :「太田記念美術館」東洋の仏教美術が集まる最大の美術館 - Musee Guimet ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.12
コメント(0)
(資料1)年初から辰年に因んで、「時空を跨ぎ龍の棲息地へ」と題して、過去に探訪してきた寺社仏閣や祇園祭の探訪記録写真から、そこで出会った龍たちを抽出してご紹介しました。ご紹介の一区切りを先般終えました。数日前にふと思ったのです。手軽に実際に探訪や鑑賞に出かけられないなら、代わりにインターネットで龍探しができるのではないか。龍は様々なところに登場しているのではないか・・・・・と。インターネット検索での龍探しの旅ならば、絵画・彫刻・織物等の世界にも、日本と世界の区別なく各地各スポットに存在する龍像にも、情報が公開されている限り、自由に飛び回り、アクセスできるのではないか。思いつくままに龍探しをするのも一興かと。自由に公開できそうな画像はご紹介し、龍と巡り逢えるブログ記事などがあれば、リンクを張ってご紹介できるかもしれない。気が向いた時に、時折、思いつくまま、行き当たりばったりで、龍探しの旅にでかけることにしました。ご興味があれば、お付き合いください。冒頭の画像は、『北斎漫画二編』に載る龍図です。6コマ目。右のページには「龍」と明記されています。左のページの上段にも龍らしきものが描かれています。左上は「應竜」と読めます。中段の左は「□竜」、右は判読できません。北斎が空想の龍の仲間をこれらは描画したのでしょうね下段は、たぶん「うわばみ」、大きな蛇の図。大蛇は龍につながるというイメージなのでしょうか。国立国会図書館デジタルコレクションは、情報の宝庫。これは文化年間に新刻された北斎漫画。「尾陽 東壁堂」と内表紙に記されています。それが明治11年に出版され、インターネット公開(保護期間満了)されています。北斎漫画を国立国会図書館デジタルコレクションで手軽に楽しむことができます。 (資料2)『北斎漫画四編』にも、見開きページにまたがる形で黒雲の中に龍が描かれています。その周りには人物画などが並んでいます。 (資料3)『北斎漫画十三編』には、剣にまとわりつく龍が描かれています。左には「倶利伽羅不動(クリカラアフドウ)」と記され、この剣龍は倶利伽羅不動の索なりという意味に受け取れる語句が記されています。不動明王は右手に宝剣、左手に羂索を握る姿です。羂索は「不動明王や羂索観音などの持物(ジブツ)で、五色の糸を撚りり合わせた縄の両端に金具をつけたもの。仏・菩薩が衆生を救済する働きの象徴とされる。けんじゃく」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。ここではたぶんこの龍が羂索と見立てられているのでしょうね。 (資料4)『北斎漫画十二編』に載るこの図には、「灰吹き大蛇」と付記されているように読めます。見開きの2ページにまたがって龍が大きく描かれています。辞書を引きますと、「灰吹き」の項に、「灰吹きから蛇が出る」ということわざが載っていて、「小さなこと、または予想しないことから意外な結果が生じる」と説明されています。「灰吹き大蛇」はこのことわざをもじった語句かもしれません。大蛇をさらに巨大化した化身を龍とみなしていたのでしょうか。ならば、とてつもない結果を予感させる絵が描かれているということになりますね。それは、吉か凶か。この絵の雰囲気からすれば、大凶の予感・・・・・かも知れまえん。恐ろしや・・・・・・と惑う人々の姿なのでしょう。 (資料5) こちらは長野県の小布施に所在する北斎館の2021年秋の企画展のPRチラシの引用です。北斎が描いた龍が左上に取り入れられています。この龍はどの絵から登場してきたのでしょうか・・・・・。つづく参照資料1) 北斎漫画 2編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 6/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」2) 北斎漫画 4編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 北斎漫画 13編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 北斎漫画 12編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 25/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 過去の企画展 :「北斎館」補遺国立国会図書館デジタルコレクション 検索トップページ画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.10
コメント(0)
我が家の小さな庭の西端の花壇に、ボケ(木瓜)が咲きました。山渓ポケット図鑑1『春の花』によりますと、中国原産の落葉低木だとか。 つぼみのボケが花開く時を待っています。 クリスマスローズが咲き始めました。この花もうつむいて咲いています。 ちょっと強引に、花のお顔を見せてもらいました。上掲の図鑑を引くと、クリスマスローズはヨーロッパ原産の多年草。日本でクリスマスローズより広く普及しているのは、3~4月に開花する春咲きクリスマスローズと呼ばれるものだそうです。こちらかもしれません。いずれにしてもクリスマスローズ属の花です。 敷地・小さな庭の南西隅に南天がふさふさと実をつけています。常緑低木です。三月になりました。奈良の東大寺二月堂では、お水取り「修二会」の行事が既に始まっていることでしょう。春が近づいてきました。小さな庭の花たちはその先駆けなのでしょう。今日の天気予報は、最低2度、最高14度。曇り時々晴れと、当地では報じています。スマホの画面表示では、現在12度です。三寒四温の「寒」中になるのでしょうね。ご覧いただきありがとうございます。補遺ナンテン :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」ボケ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.04
コメント(2)
今日の宇治市の天気予報は、最低3度、最高7度です。朝方には雪の予報がありましたが、雪を見ないですみました。午後5時時点で、スマホの画面は、6度、曇り時々晴れと予報が出ています。この寒空のもとでも、今日、小さな我が家の庭にはいくつかの小さな花が咲いています。 ブロック塀側の小花壇に数本のスイセンが咲き、 壁際に群生するラベンダーが小さな花をほんの少し開いています。南面するリビングのガラス戸前のオーシャンブルーは枯れましたので、一旦ツタを切り取ってしまい、根元の茎だけ残して、グリーンカーテンを取り除きました。 今、プランターに植えたエンドウが白い花を咲かせています。スイセンなどと違い、下向きに咲いています。恥ずかしそうに・・・・と感じてしまいます。 下向きの花弁の上に、雨滴が留まっていました。 側に置かれた鉢にジンチョウゲが花を咲かせ始めていました。『日本語大辞典』(講談社)で「じんちょうげ(沈丁花)を引くと、花弁のように見えるのは萼(ガク)だそうです。外側は紅紫色、内面は白色。小さな白い花が開いています。 「かおりは沈香に、花はチョウジに似ているところから」この花の名が付いたといいます。 別の箇所に置かれたプランターにも、ジンチョウゲが花を開かせています。 もう一つの鉢に咲く花は、 ヒマラヤユキノシタだそうです。家人がそう教えてくれました。花はそれぞれに精一杯生きているのでしょうね。小さな庭の花の記録としてまとめてみました。補遺スイセン :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアDISH// - 沈丁花 [Official Live Video]沈丁花 歌詞 石川さゆり :「Uta-Net」the shes gone「ラベンダー」Music Video 「スイセンが咲く丘」Blue Sheep / 1st アルバム収録曲空音 / 「水仙」 in VROOM powered by au 5G八代亜紀『花水仙』(Official Audio)七つの水仙 / ブラザーズ・フォー ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.02.27
コメント(0)
=== 2024.1.20 === 南の空南西方向の空 9時30分過ぎに撮りました。小雨が降っていましたので、窓際から二方向だけ撮りました。 観察経験では、雨が降ている時の空はいつもこんな感じです。 南の空 14時40分過ぎに眺めると、雨は止んでいました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も空は雲で覆われていますが、雲の形はわかりやすくなっています。 南の空南西方向の空 16時35分頃に空を眺めると、再び雨が降っています。二方向を撮っただけ。 雲の形は少しわかりやすい程度です。雨が降ったり止んだりという一日でした。=== 2024.1.21 === 南の空ベランダの手すりには、雨の降った跡が残っていました。雨は止んでいました。11時10分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空前日に続き、どの方向の空も銀鼠色の雲で覆われています。 東方向の空15時30分近くに撮りました。稜線上空は雲で覆われています。一方、山並みは思いのほか明瞭に眺めることができました。光の射し具合でしょうか。 南の空南は、大な雲とちぎれ雲が浮かび、青空が広がっています。天気が回復していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 頭上にも青空が広がっていました。 南の空16時55分過ぎに撮りました。大きな雲は飛び去り、雲の姿は様変わりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空では、一塊の大きな雲が漂い、山並みの手前には青みが強い素鼠色で鏃状の雲が浮かんでいました。曇りのち晴れの一日です。さて、この雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介の最後です。真民さんが「わたしの願い」として、三つ目に採りあげているのは、「二度とない人生だから」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 二度とない人生だから 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけていこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 便りをしよう 返事はかならず 書くことにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう 詩集「海から海に立つ虹」⑤ p90-91この「二度とない人生だから」を詠み込んだ詩が、詩集「しんみん川」に収録されています。併せてお読みいただくと、真民さんの思いに近づけるのではないでしょうか。詩の題に「人」が入っている詩をご紹介します。その他にも、「天女のごとく」、「気づく」、「詩国の皆さんへ」という詩が、「二度とない人生だから」に連なる詩として収録されています。 ある人に あなたは天国のことばかり思うて どうしてこの地上の美しさに 心うばわれないのですか あんたは天国にばかり目を向けて どうして大地の美しさに 目を向けないのですか あなたが熱砂の国に生まれたなら わたしは敢えて申しませんが 山あり川あり海あり 四季折々の花が咲き 春夏秋冬の鳥が鳴く この豊かな国に生まれながら 遠い処ばかり見つめて過ごし あの世へ行ったら むしろ神さまは愚か者よと お叱りになるかも知れません どうか神の造り給うた このとりどりのものを じっと愛の目で見つめて 二度とない人生を 生きてくださいませんか 詩集「しんみん川」 ⑥ p8 まわりの人に こんな美しい如来さまがおられ こんな優しい菩薩さまがおられ 呼んでいられるのに 寄ってゆくこともなく お声をきくこともなく あくせくと日を過ごし お金のために 体も心もくたくたになり 二度とない人生を わびしいと思いませんか 今からでもおそくないから 少し生き方を変えてみませんか 天地と一体になる 広い世界が開けてきます 若い時とまたちがった 喜びが生まれてきます いかがです 一緒にまいりましょう 詩集「しんみん川」 ⑥ p52 ある人へ 光が射しているのに あなたはそれを浴びようとしない 呼んでおられるのに あなたはそれを聞こうとしない 手をさしのべておられるのに あなたはそれを握ろうとしない お経にもそんな人のことを 書いてあります どうか素直な心になって 二度とない人生を 意義あるように生きて下さい 詩集「しんみん川」 ⑥ p337二度とない・・・というフレースは詠み込まれていませんが、真民さんの生き方を端的に詠まれた短詩を最後にご紹介して終わります。 一心 限りある命だから 蝉もこおろぎも 一心に鳴いているのだ 花たちもあんなに 一心に咲いているのだ わたしも 一心に生きねばならぬ 詩集「しんみん川」 ⑥ p379 さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.22 === 南の空 14時55分頃に撮りました。空はほぼ快晴状態です。午前中は撮り忘れ・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 太陽の位置の関係で、頭上の青空だけが見やすく撮れています。 東方向の空稜線上空はあまり見かけない雲の構図です。小型の雲が縦方向に連なるように見えるところがおもしろい。雲の家族のお散歩・・・・風という感じ。 東方向の空17時近くに撮りました。稜線上空は形を何とか見分けられる程度の雲で覆われていました。 南の空 遠くに白雲が横に広がり、手前の空は青空で小さな雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西から南西にかけての雲の姿はあまり見かけない形でした。こういう雲はどのように呼ぶのでしょうか。 西の遠くの空に夕焼けが見られます。電線が邪魔なのですが・・・・空の一部を切り出してみました。 頭上の空コロナ禍の中で、ふと思って「ベランダから見た雲の変化と雲がたり」をブログに書き始めたのが、2022年12月22日。いつまで続けられるか未知数のままでの試みでした。「2022.10.11~11.7の雲」から始めて、今日(2024.2.24)のブログへの書き込みで、1年と2ヶ月続けることができました。1年余の雲の変化を曲がりなりにも記録に留めることができました。コロナ禍もひとまず終息してきたようです。最後に『坂村眞民全詩集』(大東出版社)全六巻を通して雲を探す試みで、雲がたりに取り組み、全詩集をひとまず通読することもできました。これを区切りとして、このシリーズをひとまず終わりに致します。今後は、撮る場所を限定しないで、おもしろいな、素敵だなと感じる雲があればブログに書き込みたいと思っています。このシリーズをご覧いただきありがとうございます。 付記 大東出版社のホームページを最後にアクセスして、今知ったことです。 『坂村眞民全詩集』は、第7巻・第8巻がその後出版されて、全8巻に なっていました!! 全6巻でなく全8巻であると訂正致します。 手許にはありませんので、このシリーズとしては一区切りです。 あと2巻、読む楽しみができるとともに、課題を残すことにもなりました。補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について二度とない人生だから 藤掛廣幸 YouTube大東出版社 ホームページ 「坂村真民の世界」というページが設けてあります。 (上記の付記はここを見て・・・。誤情報へのお詫びを兼ねて併記しました) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.24
コメント(0)
=== 2024.1.17 === 南の空 9時25分過ぎに撮りました。快晴の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空にも雲はなさそうです。少し靄がかかっているように見えました。 東方向の空15時50分近くに、稜線上空を眺めると青空が広がり、雲はなし。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、そして頭上も引き続き快晴の状態が続いています。良い天気です。 南の空 17時20分過ぎに撮りました。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も、空は雲で覆われた状態に変化していました。=== 2024.1.18 === 南の空朝、雨降っていました。10時10分近くに、窓際から南と南西方向だけ撮りました。南西方向の空 南の空南西方向の空 16時30分近くに、もう一度、二方向だけ撮ってみました。 静かに小雨が降り続く一日でした。さて、雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介のつづきです。真民さんが「わたしの願い」として、二つ目に採りあげているのは、「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 めぐりあい 1 人生は深い縁の 不思議な出会い 2 世尊の解かれた 輪廻の不思議 その不思議が 今のわたしを 生かしてゆく 3 大いなる一人のひととのめぐりあいが わたしをすっかり変えてしまった 暗いものが明るいものとなり 信じられなかったものが 信じられるようになり 何もかもがわたしに呼びかけ わたしとつながりを持つ 親しい存在となった 4 子を抱いていると ゆく末のことが案じられる よい人にめぐりあってくれと おのずから涙がにじんでくる 5 めのみない人たちとの ふしぎなめぐりあいが このごろのわたしに かぎりない力をあたえる 手をにぎりあって 喜びあう めしいの人たちとの あたたかい交わりが いまのわたしに ひとすじの光をあたえる 6 めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう 詩集「赤い種」 ① p289-290全詩集には、ほかに「めぐりあい」と題する詩が三篇、「めぐり会い」と題する詩が一篇、収録されています。こちらも合わせて読んでいただくと、真民さんの意味される「めぐりあい」を感じ取っていただくのに役立つと思います。 めぐりあい 鎌倉杉本寺の十一面観音に奉る この若い観音は なにを思いつめて いられるのであろうか 衆生の救い難きをであろうか それとも己の力の 足らざるをであろうか きりりとむすんだ口もと 半眼のめじりの張り それは柔和なお顔の観音に 見慣れてきたわたしを しばしとまどいさせるものがあった 思えば青年時代の世尊は こんなお顔であったかも知れぬ ああそれにしても生き難い世に 生きてゆこうとするわたしに 生きる力と励ましとを 与えてくださる この観音との めぐりあいのふしぎさよ 詩集「朴」 ② p198 めぐりあい 足をとめて見入る 花とのめぐりあい 耳をかたむけて聞き入る 鳥とのめぐりあい めぐりあいのふしぎを ふかめてゆこう 詩集「詩国 第二集」 ③ p248 めぐりあい 1 めぐりあい それは ふしぎなもの ありがたいもの なみだのながれるほど てをあわせずにおられないほど わたしをはげまし わたしを生かしてゆく いのちであり ひかりであり つえであり つなである 2 めぐりあい それは この世だけのものではない あの世へ行っても結ばれてゆく 永遠(トワ)なるものである また人と人と間だけのものではない 道のべの一もとの草にも 空とぶ一羽の鳥にも 深いえにしの糸がつながりつながっている 広大にして無辺なものである そのことに気づいた時 わたしの心は柔らかになり わたしの言葉も変わってきた ああ輪廻(リンネ)の花よ わたしにもこの妙なる花を 握らせていただこう 詩集「念珠集」 ④ p86 めぐり会い このひとに会うために つまずき迷い苦しみ悩み 流転流浪の旅を 続けてきたといってよい その人の目は愛にあふれ 澄んで美しく光っていた わたしがめぐり会った時は すでに髪を落とした尼僧の姿であった この不思議な出会いから 暗かった人生が明るくなり 光が射しくるようになり 人を見世の中を見る目が一変した ああ得がたい仏心を頂き 一本の筋金がはいり 真実の世界が開けてきた 詩集「詩国 第二集」 ③ p401「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という詩句は、これらの詩ともつながっていると思います。さて、雲の変化に戻ります=== 2024.1.19 === 南の空10時10分近くに撮りました。前日は終日小雨が降る天気でしたが、今朝は曇り空です。雲の背後に太陽を感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全方向に銀鼠の雲が広がっています。雨となる雲ではなさそうです。 東方向の空13時20分近くに稜線上空を眺めると、雲の色合いが少し明るくなっていました。雲が覆っている状態には変化なし。 南の空一方、南の空は小型の白雲が青空に浮かぶ形に変化していました。曇りのち晴れです。南西方向の空 西方向の空 西の空には、あまり見かけなかったうろこ雲風の雲がみられました。 頭上の空 南の空 17時5分頃に撮りました。空は再び雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空は夕焼けています。夕焼けた空の一部を切り出してみました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空は、終日雲が覆っていたように思います。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について大蔵山杉本寺 公式サイト霊場巡り 総持寺~包丁の道~ :「春は花」(安田念珠店) 記事の中に、 秩父観音霊場 第三十四番札所 水潜寺 「念ずれば花ひらく」の奉納額 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.23
コメント(0)
=== 2024.1.14 === 南の空 10時5分過ぎに撮りました。どの方向を眺めても快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空14時過ぎに稜線上空を眺めると、空は一層青空らしい色合いになっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西にかけて、頭上もまた快晴状態が続いています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時50分頃に撮りました。快晴の日の夕暮れ時の空の色合いが眺められました。一日中快晴。良き一日。=== 2024.21.15 === 南の空9時45分近くに撮りました。前日の夕暮れまでは少なくとも快晴でした。しかし、この時、ベランダの手すりには雨が降った跡が残っていました。雨は止んでいましたが、南の方向に素鼠色の雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空三方向の見える範囲は形がわかりやすく活発そうな雲で覆われていました。前日に打って変わって、朝から曇りです。 東方向の空14時30分過ぎに稜線上空を眺めると、雲が覆っていますが、少し穏やかな大きな雲の層に変化しています。一部青空も垣間見えるように。 南の空 南の空にも遠くの方に青空が見えています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空曇りから晴れの方向に変化しつつある感じでした。 南の空16時50分近くに空を見上げると、青空が確実に広がっていました。雲が出ていますが、小さな雲が浮かぶ形の穏やかな感じの雲に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の雲には夕映えが見られました。曇りのち晴れの一日でした。さて、この雲がたりのつづきです。とは言いながら、雲から逸れてのご紹介。坂村真民さんの詩そのものについてです。 2024.1.21この全詩集(大東出版社刊)の第六巻に、詩集「しんみん川」が収録されています。この詩集の最後の方に、「天使の鳥」と題する詩が載っています。「『念ずれば花ひらく』を覚えた/ ポー太郎君がこんどは」という詩句から始まる詩です。ポー太郎君といのは、インコなのです。このポー太郎君が真民さんの詩句を覚えてくれたそうです。この詩の最後は、 わたしの念願である 念ずれば花ひらく めぐりあいのふしぎにてをあわせよう 二度とない人生だから この三つを声高らかに唱え鳴く ポー太郎君 ありがとうありがとう p426で終わります。つまり、ここに記された3行が真民さんの詩の中核に据えられているとも言えるでしょう。そこで、この詩句が出てくる詩を全文引用しご紹介して、『坂村眞民全詩集』を終えたいと思います。まず最初にご紹介したいのは次の詩です。 念ずれば花ひらく 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった 詩集「赤い種」 ① p249この「念ずれば花ひらく」というフレーズが、その後、真民さんの詩の中で繰り返し詠み込まれていきます。例えば: 八字十音の誓願 念ずれば 花ひらく 八字十音の誓願を タンポポの種のごとく 流布させんがために 日夜心身を砕くべし しんみんよ そのほかに 求むべからず 望むべからず 詩集「朴」 ② p308 専一専心 念ずれば 必ず花はひらくのだ 専一なれ 専心なれ 詩集「しんみん川」 ⑥ p14 次のような変形バージョンも・・・・。 御詠歌 念ずれば必ずひらくみ仏の 花の不思議を讃えて生きん 詩集「しんみん川」 ⑥ p167この八字十音「念ずれば花ひらく」は、京都市北区鷹ケ峯にある常照寺に第1番碑が建立されて以来、さまざまな人々の発願により全国各地に建立が広がっているようです。 2023.12.10 これは京都・東山にある知恩院の三門の右側の緩やかな参道、通称「女坂」を登り切る少し手前、参道の左側に建立されている第76番碑です。知恩院で撮ってきました。 全詩集第六巻は、平成3年(1991)10月初版発行ですが、その末尾近くにある収録されている「念ずれば花ひらく第百四十八番碑」と題する詩があります。スリランカの通称ケラニヤ寺院に建立されたもの。ネット検索してみますと、「海外をも含め平成16年2月1日現在では688基に達し」(資料1)という記事をみつけました。現在はさらに増えているのではないかと思います。このブログ記事をお読みいただいたあなたのお住まいの近くにも、「念ずれば花ひらく」碑が発願建立されているかもしれません。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.16 === 南の空9時30分近くに撮りました。小型の雲が浮かんでいる青空が広がっていました。良い天気。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空には雲が幾重にも重なっていますが、青空が見えています。普段の空模様とは一味違う明るさのある空です。 東方向の空14時15分過ぎに、稜線上空を眺めると、空全体を大きくて厚そうな雲の塊が覆う状態に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、そして頭上もまた、同様に雲に覆われる形に変化。経験敵には雨が降る雲とは少し違う感じです。 南の空16時35分過ぎに撮りました。午後の雲が去りゆき、雲は出ているもののその姿は大きく変化。小型の雲が広く散在する形になり青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 一方、西の方向は雲に覆われていました。それは頭上の空にも続いています。 頭上の空 東方向の空稜線際にうかがえる遠くの空は青空のようです。一方手前の空にはでんと横雲が巨大なひとかたまりとして山を押しつけようとでもしているようにも見える広がりで浮かんでいました。つづく参照資料1) 真民詩碑 :「日本ワイドクロス株式会社」補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について「念ずれば花ひらく」の碑 :「江差の石碑めぐり」まだま村 念ずれば花ひらくの石碑 :「OSAKA SEKIZAI」オリンピア市から平和の使いと言われました :「株式会社世界地図」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.22
コメント(0)
==== 2024.1.11 === 南の空 9時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向を眺めても、空は全面的に銀鼠あるいはそれより少し明るめの布を広げたような雲で覆われていました。 東方向の空13時40分過ぎに稜線上空を眺めると、横雲状に層をなす雲の間に青空が見える形に変化していました。 南の空南方向は薄い雲がふんわりと浮かぶ程度で、青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西方向は一層淡いあるかなきかの雲がかかる青空です。 頭上の空 頭上に、ぽつんと小さな雲が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時55分近くに眺めると、天気の良かった時の日の入り近くの空の色合いが広がっていました。=== 2024.1.12 === 南の空9時30分近くに撮りました。前日と比べると、雲の姿がはっきりとわかります。南西方向の空 西方向の空 西の方向と頭上は雲が広がるものの青空が見えています。 頭上の空 東方向の空普段の朝の状況と似たような感じですが少し明るさが増していました。 東方向の空14時10分過ぎに稜線上空を眺めると、雲は層状から塊状に変化し、青空が見えるようになっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南に青空が見え、南西から西に活発な感じの雲が張り出しています。 頭上の空 南の空 16時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 ズームアップ! 西方向の空 南から西にかけての雲の一部が夕映えしています。これだけの夕映えはめずらしい。 西の遠くの雲を最大限のズームアップで。 頭上の空 東方向の空稜線上空に浮かぶ横雲にも夕映えが見られました。さて、この雲がたりのつづきです。『坂村眞民全詩集』全六巻(大東出版社)を読み通すことと兼ねて、真民さんの詩に「雲」がどのように詠み込まれているかを探すという課題を設定しました。発見箇所の詩句を引用、時には全文の引用ご紹介という形で、雲がたりを続けてきました。真民さんの詩に詠み込まれた「雲」には、その使い方にいくつか特徴があると気づきました。私なりの感想を箇条書き的にまとめてみます。雲がたりとしてご紹介した中からサンプリングし詩句をいくつか例示します。どの巻に収録された詩かを①~⑥で示しています。1.自然現象として、雲そのものを詩に詠み込んでいる。 雨をふくんだ雲が層々と西へ流れていた (「吉田海蔵寺を訪れて」①) きょうも紫の雲をいただいて (「かなかな蝉」②) 石鎚の山際の雲が/ 茜色に染まり/ 日の出もま近かである (「元旦のタンポポたち」④) 黒い雲がひっきりなしに流れていく (「鳥さえも虫さえも」⑤) 一雨サァッと驟雨のきそうな/ 雲のゆききである (「白花夾竹桃」⑥) 飛行機が日本に向かって飛ぶ雲の下に (「三つの虹」⑥)2.自然現象である雲が存在しない、澄明な空を表すために雲を詠み込んでいる。 一点の雲なく/ 満天の星 (「生かされて生きる」③) 一片の雲もなく/ 満天の星 (「暁天祈願」④) 一点の雲もなく/ 光静まる/ 屈斜路湖 (「屈斜路湖」④) 雲ひとつない空に/ 星星がリンリンと冴え光り/ 夜明けの霊気が身にしみる (「寂」⑤) 一片の雲もなく/ 二十四日月が光り (「熱禱」⑥) 雲ひとつない空のもと/ 川は流れ (「メナム川」⑥)3. 真民さんの心情・思いを仮託する対象として雲を詠み込んでいる。 一片の雲にも/ 無辺の詩を抱き (「六魚庵箴言」①) 雲は/ 私の息吹 (「分身」②) あかねの雲が浮かぶと/ いつも茜をしのぶ (「あかね観音」③) あかねの雲から茜が (「あかねの雲」④) 雲よ/ 私の思いを/ 父母の国へ告げてくれ (「四国と詩国」④) あかね雲/ 早世童女茜 (「あかね」⑤) 母の大きな乳房を思いださせる/ 乳雲であった (「乳雲」⑤) いつものように母を乗せた/ 白雲が近づいてくる (「大音声は響く」⑥)4. 雲を比喩として詠み込んでいる。 水のように清められ/ 雲のように高められ (「六魚庵主の願い」①) やがて朴も白雲のような花をつけ (「樹木と人間」①) 動いて止まぬ/ 雲と水 身は雲水の/ 旅なれば (「雲と水」②) 雲のように/ 身軽に/ 生きてゆこう (「三願」③) 虚空の紫雲を/ 先生と観じ/ 合掌する (「抱石庵久松真一先生」④) 流転流浪雲のように水のように/ 定めのない歳月を送ってきた(「比翼」⑤) 白い雲が/ 天使を乗せ/ 諸仏菩薩を乗せ/ 去来する (「証の体験」⑥)5. 自然の雲を、宗教的心性の象徴として詠み込んでいる。 虚空雲海/ 虚空遊歩/ こういう言葉は/ いいなあ (「言葉」④) 心を空にすれば/ 少しも罣礙するものではない/ 白雲は悠々 (「人間の中で」④) 何しろ/ 雲も波も/ 無心なのだから (「遊戯三昧」⑤) 雲のように/ 水のように/ なにごとにも執着せず (「飛鳥飛花」⑤) 無礙無心の/ 雲や水に心ひかれ (「遊」⑤)真民さんの詩の中の「雲」探しをしていて、こんな表現方法の特徴があることに少しずつ気づいていきました。雲がたりからは逸れますが、最後に真民さんの詩そのものについてのご紹介を次回からあと少し続けます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.13 === 南の空10時過ぎに撮りました。ベランダの手すりには小雨の跡が見られました。南の空に雲が張り出していますが、青空が見えていました。南西方向の空 西方向の空 西の方はいくつもの小さな雲が青空に浮かんでいます。 頭上の空 東方向の空稜線上空は、まあ普段のよく見かけ景色です。形の定かでない雲が覆っていました。 東方向の空14時30分近くに撮りました。午前中とさほど変わらない空模様です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、頭上、どの方向も銀鼠の雲が空を覆う姿に変化していました。三方向の曇り空を撮った後、少しして、暫くの時間ですが小雨がパラつきました。 南の空16時45分近くに撮りました。雨もよいの雲が過ぎ去り、青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 雲そのものの色も明るくなっていました。 頭上の空 頭上は青空が広がっています。 東方向の空稜線際には白雲が広がっていて、その上に銀鼠に青味が色濃く加わった色合いの大きな塊の雲が広がっていました。白雲とあまり見ることのない色合いの雲の広がりの重なりでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.21
コメント(0)
=== 2024.1.7 === 南の空14時50分近くに撮りました。良い天気です。朝は撮り忘れ・・・・。 南の遠方の空には小型の雲が点在しています。南西方向の空 西方向の空 西の空に雲がでています。 頭上の空 東方向の空 稜線上空も青空が広がっていて気持ち良い天気です。 東方向の空16時25分近くに、稜線を眺めると雲に覆われた状態に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向と頭上もまた、雲が広く張り出してきています。青空が見えてはいます。晴れのち曇りという天気になりました。=== 2024.1.8 === 南の空 この日は夕暮れが近くなる16時45分近くに撮っただけでした。 祝日で成人の日。連休の最終日。家に居たはずなのに・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 雲も見られる晴れた一日ではありました。=== 2024.1.9 === 南の空 9時25分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西および頭上の空は快晴状態です。 東方向の空東の稜線上空は靄がかかっている感じを受けます。午前中によく見かける景色です。 東方向の空14時50分過ぎに稜線上空を眺めますと、雲が少し出ていました。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上には雲がほぼ見えないのですが、南の空から西にかけては雲が出て来ています。 南の空 16時55分近くに撮りました。空の色合いは天気が良かった夕暮れ時の色合いです。南西方向の空 西方向の空 西の果てで太陽が沈もうとしています。電線が避けられない位置にありますので、こんな映像に。滅多に撮れない太陽の姿ですので記録として残したいと思います。デジカメの最大限のズームアップです。 頭上の空 東方向の空さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)第六巻の残りページが少なくなりました。まずは、「大音声は響く」と題した詩です。この詩は、平成2年6月12日の前書きがあります。熊本県玉名市にある蓮華院誕生寺奥の院の開山堂付近に建立された「念ずれば花ひらく」の第139番碑の入魂式当日について詠まれた詩です。第二節に雲が詠み込まれています。 大読経が始まると いつものように母を乗せた 白雲が近づいてくる p405「孤」と題する詩に出てきます。10行の詩です。 孤が 人間を磨く 人間を 本物にする 孤雲 孤島 孤木 孤は わが終生の友 p408「七十三年」と題する詩。全文引用します。 七十三年前の九月十四日父急逝する 七十三年後の九月十四日空路熊本へ行く 雲低く垂れ心は重い 思いもしなかったのに七十三年ぶり しかも命日の日に玉名小学校長室にて 父の写真に対面する(第五代の校長) 七十三年の歳月一瞬にして消え 若き父の姿を見る 新築され校長室は変わっていたが 窓から見える校庭は昔のままだった 父よ私を守り給え そしてわたしの大願を成就させ給え そう告げ 二度ともう来ることもない別れをした p431全詩集最後のこの巻で、雲が詠み込まれた最後の詩は、「三つの虹」と題する詩です。「龍玄尼さまへ」という前書がついています。仏島国スリランカの通称ケラニヤ寺院に龍玄尼さんの発願で「念ずれば花ひらく」第148番碑が建立され、真民さんがその除幕式に参列されたとか。虹と龍玄尼さんとの不思議な交流の発見として、真民さんが虹を見た体験を詠まれた詩。詩の後半、三度目に見た虹についての箇所に雲が出てきます。 飛行機が日本へ向かって飛ぶ雲の下に またしてもまんまるい虹が 立っているではないか わたしは上から虹を見たのは 初めてだったので これは忘れないだろう ああ偉大な人の霊威現象よ p440この第六巻に収録された詩集「しんみん川」から、2つの詩(全文引用)をご紹介します。一つは、「しんみん川」と題する詩。 世界の地図にはないけれど 心のなかを流れゆく とわのいのちの清い川 飲んでご覧よ乳のよに 幸せ喜びいっぱいの なんとも言えない愛の川 しんみん川はあめつちの 光を集めもろびとを 彼岸の国へ渡す川 p421もう一つは「前進しながら」と題する詩です。 過ぎ去ったことは思うな 人間振りかえる病気になると 進歩がとまる ものを作る人間は 前進だけ考えたらいい 前進なくして 進歩はない ギャーティ(行け) ギャーティ(行け) あるのみだ 人間いつかは終わりがくる 前進しながら終わるのだ p434真民さんの詩に詠み込まれた「雲」探しはこれで終わりですが、少し触れておきたいことを次回に続けます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.10 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空9時20分過ぎに撮りました。どの方向もべったりとひろがた布のような雲で覆われています。雨の降る兆しを感じる空の状態。この後、時折小雨が降る天気になりました。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空16時55分近くには雨は止んでいました。雲の様子には変化が現れています。雲の形が少しわかりやすくなっていました。曇り一時雨という一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について親を大切にする心を育んだ第三十三回こどもの詩コンクール :「蓮華院誕生寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.19
コメント(0)
2022.7.23 2017.7.22室町通三条を下ルと「烏帽子屋町」。「鯉山」の会所前には「登龍門 鯉山」の看板と赤提灯が掲げられていて、山が建てられています。どの山鉾も、埓で囲われその前後に駒形提灯が設けてあります。鯉山の会所は、細長い通路を東方向に奥に進むと、まず蔵があり、その先は北側に会所の座敷、南側は細長い庭になっています。 2023.7.23座敷の壁面とその前を使い、会所飾りが行われています。懸装品などの展示の全景です。 2017.7.22座敷の東端には、山舞台に搭載される朱塗りの社殿と鳥居、左甚五郎作の巨大な鯉などが飾ってあります。 2022.7.23まずは、この胴懸です。上部には水引が懸けてあり、ここに龍はいません。 2017.7.22 胴懸は、ギリシャの詩人ホメロス作「イーリアス」物語の一場面を図柄にしたタペストリーを裁断し、その1枚を中央に、両側に波濤雲龍文様の刺繍と併せた三枚継ぎにしてあります。ここに龍がいます。龍の刺繍は350年前の婦人官服からの流用だそうです。(駒札、資料1) 2022.7.13これも上部が水引、下部が胴懸です。 2017.7.22こちらも、同様に波濤雲龍文様で、龍も昇龍の刺繍です。上掲の龍の刺繍と同じ官服からの流用なのでしょう。龍の相貌の表現方法が同じです。 この扁額には、「龍」の文字が墨書されています。中国の伝説によれば、龍門の瀧を鯉が登りきると龍になるとされ、これが「登龍門」の語源となったそうです。(駒札より) 2019.7.242019年の巡行風景です。鯉山では胴懸と扁額以外で、龍を見た記憶も、記録写真もありません。余談です。会所内の通路は、宵山の時、一方通行でUターンする形見物の流れをスムーズにする工夫をされています。南側の長細い庭を進んで、Uターンして、社殿・鳥居・鯉などを拝見し、上掲の懸装品等を眺めながら会所の出入口に戻るという形です。 2017.7.22 2022.7.23 2023.7.23会所の東端に、この小堂が祀ってあります。2017年には、「天道大日如来」と墨書した提灯が吊され、灯明台が置かれていました。2022年には小堂の格子戸は閉じられたまま。2023年には、格子戸は閉じたままで灯明台は設置されていました。訪れたタイミングの問題でしょうか。三者三様の状態がおもしろい。鯉山を後にして、室町通を蛸薬師通まで下り、左折して東に向かいます。最後の「橋弁慶山」があるのは、「橋弁慶町」です。烏丸通蛸薬師西入ルという方がわかりやすいかもしれません。 216.7.23 2022.7.23 橋弁慶山の東西両側からの眺め 2016.7.23蛸薬師通の北側、ビルとビルの谷間に、町家の会所があります。1階に懸装品等を、2階には御神体の人形-牛若丸と弁慶-が安置され、眺めやすくしてあります。 宵山では、弁慶と牛若丸を横並びにして飾ってあります。 2019.7.24 これは2019年の巡行風景です。場所は五条大橋上。牛若丸は欄干・擬宝珠の上に二枚歯の足駄、一本足ですっくと立ち、橋上の弁慶と闘うという瞬間的場面を具現化しています。「牛若丸の人形は足駄金具一本でこれ(=牛若丸)を支えている」(駒札より)のです。 2023.7.231階・表の間には、山ニ搭載される黒漆塗、飾り金具で装飾された五条大橋が座敷の中央に置かれ、懸装品が壁側に懸けてあります。 2022.7.22手前にこの前懸が見えます。右上側に大きな龍、下方に小ぶりな龍が二頭います。全体の景色は波濤雲龍文様の綴錦です。 下方・二頭の龍をクローズアップしてみました。この前懸は現在では、宵山の会所飾りだけで見ることができます。昭和58年(1983)からは、富岡鉄斎原画の椿石霊鳥図綴錦が使用されていますので。(駒札より) 2017.7.22 奥側は後懸です。雲龍文様の刺繍。 2016.7.23こちらは、3列2段のマス目に図柄が描かれ、中央上段に正面龍、下段の左右のマス目に向き合う形で龍がいます。 一部分を拡大しますと、少しはそれぞれの龍が見やすくなるかもしれません。橋を装飾する金具には龍はいません。私が見つけたのは懸装品の龍だけでした。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)祇園祭の宵山巡りと巡行見物で私が眺めてきた範囲の「祇園祭と龍」をこれで終わります。シリーズとして長くなりました。「辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」をご覧いただきありがあとうございます。参照資料*京都市作成の駒札1) 鯉山飾り :「鯉山町衆」2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ鯉山町衆 鯉山保存会 ホームページ タペストリーイーリアス :ウィキペディア橋辨慶山 橋弁慶山保存会 オフィシャルサイト演目事典 橋弁慶 :「the 能.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.18
コメント(2)
2016.7.23宵山では室町通に建てられた山を囲む「埓(ラチ)」越しにすぐ間近で見ることができるこの龍から始めます。その場所は、三条通室町上ル「役行者町」。「役行者山」です。 2023.7.232023年の宵山巡りで訪れた時は、役行者山前で神事が行われる少し前でした。「本山修験宗総本山聖護院による護摩焚が行われる」(駒札より)のです。山伏姿の行者さんたちが参集されます。この年は山の懸装品等に透明の保護シートが被せてありました。 2022.7.23雲龍波濤文様の胴懸です。龍像がダイナミックに刺繍されています。 217.7.22 2019.7.24こちらは、2019年の後祭巡行の時に撮った反対側の胴懸です。 2016.7.23 山に懸けられた見送です。 ここにも龍がいます。それでは、役行者山の会所飾りを眺めて、龍を見つけましょう。 2022.7.23 これは山の欄縁の装飾金具に造形された龍を撮りました。2022年の宵山に訪れた時、会所飾りの方法が大きく変化していました。会所内の通路沿いに展示室風にガラス越しに懸装品等が展示され、網入りガラスを介してごく間近に眺めることができるようになっていました。肉眼で見る分には展示品の細部がわかりやすくなりました。しかし、一方で写真映像としてはこのような記録になり、撮る楽しみは半減です。通路を通り抜けると、役行者山の御神体となる人形三体が納められた蔵の前に向かう形になっていました。以前に撮った会所飾りの記録から、見つけた龍たちをご紹介します。まずは、上掲の欄縁をかつての宵山巡りで部分撮りしたものから始めます。 2017.7.22 様々な姿態の龍が造形され欄縁を飾っています。 2017.7.22この見送は、「袋中上人請来と伝える中国の旗と思われる龍文様のものを二枚合わせ、縁を赤地古金襴(安楽庵裂)で縁どったもの」(資料1)だそうです。手前には、山の四隅に立てられる金弊が置かれています。 2016.7.23上部に水引、下部に胴懸が展示されています。手前に見えるのは山の四隅に懸ける房飾りです。 この胴懸もまた、雲龍波濤文様の綴錦で、龍を正面から見た図柄です。胴懸の上の、二番水引にも龍がいます。 こちらは上部に水引、下部に前懸です。前懸は、中央に牡丹胡蝶図、その左右に雲龍文様を三枚継ぎにしたものです。 左側の雲龍文様。これもまた正面龍です。この前懸は平成9年(1997)に復元新調されました。(資料1)こちらの二番水引にも龍がいます。画像では龍の胴体のうねりで推測していただける程度ですが。 2023.7.23巡行当日、山に安置される御神体の人形が蔵に祀られています。中央に神変大菩薩(役行者)、向かって右側に葛城神、左側に一言主神の三体です。 2019.7.242019年の巡行風景です。役行者山の後、室町通を下り、三条通を東へ。烏丸通三条の南西側は「饅頭屋町」で「鈴鹿山」がありますが、私は会所飾りで龍を見つけていませんのでスキップします。室町通に引き返して、三条下ルは「烏帽子屋町」。 2016.7.23「黒主山」があります。この山の会所飾りを拝見しましょう。 2023.7.231階のフロアーの中央に御神体の人形・大伴黒主が桜の花を仰ぎ眺めている姿で安置されています。三方の壁面には懸装品が展示されています。 2023.7..23 右側の壁面に龍がいます。 2016.7.23一つは、水引に龍が数多くいます。 2017.7.22一頭だけクローズアップしますと、こんな感じです。波濤雲龍文様の意匠です。 2017.7.22水引の下は前懸。波濤雲龍文様で中央に正面龍を大きく、周囲に小龍を配置してあります。萬暦帝御服(バンレキテイギョフク)と伝えられていて、平成元年(1989)に復元新調されたもの。(駒札より) 2016.7.23左側の壁面に懸けられた水引にも、この部分には龍が3頭見えます。左右に展示の水引は繻珍(シュチン)です。 2017.7.22 こちらの水引にも、龍が3頭。 下部の後懸はまさに1頭の龍のみ。3本爪の龍。飛龍文様綿入刺繍で、平成13年(2001)に新調されたものだそうです。惹きつけます。 2019.7.242019年の巡行風景です。上掲、右壁面の前懸が使われています。黒主山から室町通を下り、六角通で左折し東に歩めば、「骨屋町」で「浄妙山」があります。しかし、この山の会所飾りで龍を見つけていません。ここではスキップします。これで一区切りとします。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)室町通に戻り、六角通を下がると鯉山町です。次回でいよいよ後祭の宵山巡りも終わりです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 役行者山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ祇園祭 役行者山保存会 ホームページ【2023祇園祭】京都・祇園祭 後祭「役行者山の護摩焚き」 YouTube Gion Festival Goma-daki on Enno Gyoja-yama 葛城の神 :「コトバンク」一言主神 :「コトバンク」黒主山保存會 ホームページ万暦帝 :ウィキペディア繻珍 :「きもの用語大全」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.17
コメント(0)
2016.7.23南観音山から新町通をさらに北へ。蛸薬師通を越えると「六角町」です。「北観音山」の駒形提灯がまず見えてきます。 2019.7.242019年の巡行風景です。北観音山もまた、南観音山と同様に、外観は鉾とほぼ同じ姿の曳山です。巡行の時に山舞台には楊柳観音像と韋駄天立像が安置されます。南観音山は楊柳観音像と善財童子像が安置されます。 2023.7.22北観音山の正面に近づき、見上げますと、ここに龍がいます。 2016.7.23 一つは、黒漆塗の桁を飾る金具です。 2016.7.23 2017.7.22 ますここに龍がいます。 上掲の正面を見上げた画像を、画像処理で水平方向に回転してみました。もう一つが天水引。この「雲龍図」に龍がいます。 2016.7.23 山の側面です。 2014.7.22 2016.7.23 側面の天水引にも龍がいます。四面はすべて雲龍図です。 2022.7.23余談です。こちらは2022年の宵山巡りで山の角から二側面を撮ってみました。この景色と上掲の側面をご覧いただき差異に気づかれたでしょうか。天水引が「雲龍図」ではなく「観音唐草」が使われています。この二種を隔年で使用されています。もう一つは、欄縁が異なることです。 2016.7.23 2014.7.22反対側の軒裏を見上げます。桁の装飾金具と天水引に、同様に龍がいます。 2017.7.22 北観音山から再び新町通を北へ。六角通を横断すれば「三条町」。 2016.7.23「八幡山」の駒形提灯です。 2019.7.242019年の巡行風景です。この巡行では、麒麟・唐獅子・獏という「聖獣三体胴掛幕」が使用されています。山舞台には、八幡宮(小祠)と朱塗りの鳥居が載り、その中に応神天皇騎馬像が安置されます。 2017.7.22この金箔を施された八幡宮(小祠)の 脇障子をよく見ますと、龍が透かし彫りにされた雲龍図のようです。何度も宵山で拝見していますが、今回再認識した次第。 2022.7.23八幡山の会所飾りで、この龍の見送を見ることができます。雲龍波濤文図です。 宝暦年間(1751~1764)の制作品だそうです。八幡山では、童の柄の見送(1785年制作)をもう一枚所蔵されていて、これらが隔年で巡行に使われています。ほかに、龍の胴懸があるそうなのですがですが、未見のようです。記憶や記録写真にありません。この後、すぐ北の三条通を東に入ります。そこは「衣棚町」。復活した「鷹山」が見られるところです。 2023.7.23「鷹山」は2022年に再興され、後祭の巡行に復帰しました。鉾とほぼ同じ姿の曳山です。龍を探しましたがいないようです。下水引は麒麟の図柄のもの。2022年の宵山では懸装品に透明の保護シートがかけてありましたが。2023年はスッキリと眺めることができました。大船鉾と同様に、この鷹山の山そのものが段階的に整備されていく様于を眺める楽しみができました。鷹山復活のご紹介と記録を兼ね書き加えておきます。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)新町通から一筋東は室町通。室町通を北に上り、役行者山に向かいます。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 北観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ楊柳観音について :「高野山真言宗やすらか庵」八幡山 八幡山保存会 はちまんさんのかわら版鷹山保存会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.16
コメント(0)
=== 2024.1.4 === 南の空南西方向の空 外を眺めますと小雨が降っています。9時50分近くに、窓際から南と南西方向だけ撮りました。 南の空10時5分近くにふと見ると、雨雲が去り、白雲が浮かぶ青空に変化していました。15分ばかり経過しただけですが、様変わりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 やはり、青空が見られるのはいい!! 東方向の空 稜線の上に雲が広がっていますが、その上には青空が見えます。 東方向の空14時15分頃に稜線を眺めますと、今度は稜線近くに青空が広がり、その上の銀鼠の大きな雲の塊が浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 白雲が広がっていますが、南から西にかけては青空が続いています。 頭上の空頭上には銀鼠の雲が広がっています。 南の空 16時40分近くに撮りました。夕方まで青空が続いてくれました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲が去り、青空が広がって行ったと言う方が適切かもしれません。=== 2024.1.5 === 南の空 9時45分頃に撮りました。快晴の天気です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上空は、少し靄がかかっている様ですが雲は見えません。 東方向の空 14時5分過ぎに稜線を眺めると、上空には青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時15分近くに撮りました。快晴の一日の夕暮れ時に眺めてきた空の色合いです。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「濃度」と題した詩の次に、雲という文字が詠み込まれた詩は「乗」と題する詩。全文引用します。 雲は 風に乗り 飛天は 雲に乗り 人は 運命の軽車に乗る 乗れ しんみん ためらわず 大乗の車に p388 大乗の車とは、日本に伝搬されてきた大乗仏教をさすものと理解します。「乗」と題する詩の次の「美しい光」と題する詩の第2節に雲が出てきます。 一片の雲もない 夜明けの空に いきいきと輝き給う 女身明星菩薩 p388「神招き」と題する詩の半ばに雲が出てきます。 高千穂の神神の息吹が 立ちのぼる雲となり 音たてて降る雨となり 三夜四日わたしを包み わたしを変える p394「朴の大会祝詩」と題する長い詩は、 朴をこよなく愛し/ 朴の木を一本でも多く/ 植えようとする運動が/ かつてあったであろうか という詩句からはじまりまります。その詩の末尾に 天に向かって伸びる 純朴の朴よ わたしたちの夢と願いとを 尽十方に広めてくれ 風よ 雲よ 鳥よ お前たちも協力して伝えてくれ 朴寿千年の乾杯よ 天にとどけ 地にひびけ p401今回読み進めた詩編の中に、「宇宙の塵」と題する詩があります。真民さんの生き方を表出している詩の一つと思います。引用し、ご紹介します。 何か一つでもいい いいことをして この世を去ろうではないか 散る花を惜しむ心があったら 一匹のこおろぎでも 踏み殺さないように 心してゆこうではないか 大きなことはできなくても 何か自分でできることをして 宇宙の塵となろうではないか p397さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.6 === 南の空 9時45分過ぎに撮りました。白雲がかなり出ていますが、青空です。南西方向の空 西方向の空 西の方向に雲は見えません。 頭上の空 頭上もほぼ雲がかかっていません。 東方向の空稜線上空は白雲が重なる形で南寄りに見えますが、それ以外はスッキリとした空です。空の色合いは、普段見かける感じですが。 東方向の空15時15分頃に稜線を眺めると、稜線上空全体に白雲が広がっていました。午前中より青味を増した空が垣間見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲がかなり広がっていました。晴れという基調は変化なしです。 南の空 16時50分過ぎに空を眺めると、空一面にべったりとした感じの雲が覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も、同じ感じの雲の状態です。布を広げたような雲ともいえます。晴れのち曇りという一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について04439_明星菩薩像 :「東京文化財研究所」木造明星菩薩立像〈(伝空海作):「文化庁」明星観音 :「仏像美術館」大乗仏教 :「ジャパンナレッジ」大乗仏教 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.15
コメント(0)
2024.7.22四条通新町下ルに「大船鉾」が見えます。そこは「四条町」です。平成24年(2012)に、大船鉾が唐櫃にて巡行の加わりました。そして、平成26年(2014)に大船鉾が再興され巡行に加わることになります。これを契機に、後祭巡行が復活することに。2014年以来、前祭(7/17)・後祭(7/24)が楽しめるようになりました。それでは、後祭の山鉾で見つけた龍をご紹介して行きましょう。(私の探訪範囲ですので、見過ごしによる未発見の龍がいるかもしれません。ご了解ください) 2016.7.23 2017.7.222017年に宵山巡りをしたとき、大船鉾の会所飾りで、龍頭が披露されていました。 左側の龍頭は、JR奈良線/京阪電車の「東福寺」駅からほど近い「瀧尾神社」の拝殿天井を飾る巨大な木彫龍の頭部です。この龍頭をモデルに、右側の龍頭が制作されました。 2022.7.15大船鉾は、これで船の舳先の飾りが大金弊と龍との2つになり、巡行のおりにいずれかが使われることになります。2012年は大金弊での初巡行でした。 2022.7.13 2022年に祇園祭の宵山巡りに行った時には、上掲の龍頭に金箔が施され、京都大丸のショーウインドウでお披露目の展示が行われていました。ガラス越しですが、ごく間近に見る事ができました。 2019.7.24 これは2019年の後祭で大船鉾が最後を締めくくり、四条通を東から西に巡行する風景です。 2018.7.222018年の巡行は舳先に木肌のままの龍が飾られたことがこれでわかります。 2022.7.23それでは、舳先の龍頭以外の龍を見つけましょう。 2018.7.22舳先の龍頭の下部に飛龍を刺繍した前水引が懸けてあります。 その下、船の先端部に懸けられた前懸は雲龍波濤文様の綴織です。上部に大きな正面龍、下部に二頭の龍が見えます。 2023.7.232023年には、舳先に大金弊が飾られていました。この場合、正面の前水引は陰に隠れてしまいます。上掲から数葉の大船鉾の写真から気づかれたでしょうか。大船鉾船上の屋形や高欄などの木部の表面が段階的に漆塗り等により装飾・整備されてきているという点です。復活した大船鉾については、大船鉾自体が華麗に整備されていくステップを観察するという楽しみがあります。 2023.7.23両舷側の水引には、様々な姿態の飛龍が波濤の上を飛ぶ姿が刺繍されています。 2023.7.23 2017.7.22 2023.7.22 2018.7.22 楫(カジ)の両面に降龍が後懸に向き合う姿で緋羅紗地に刺繍されています。 後懸は、6頭の正面龍が雲龍波濤文様で描かれた綴織だそうです。それでは、四条通を横断し、新町通を北上します。四条通から一筋北側の錦小路通を超えると「百足屋町」です。 2022.7.23ここに「南観音山」があります。「下り観音山」とも称されています。山名でわかる通り、この山には「楊柳観音」が安置されて巡行します。山の前後方向、屋根の軒下には極彩色の透かし彫りが施されています。 2017.7.22 その一つがこれです。 右側に龍がいます。 2018.7.22屋根の下の天水引に龍がいます。四面同じスタイルです。 2016.7.23 龍はこんな姿!!また、 2018.7.23こちらの天水引が懸けられる年もあります。 こちらの龍は巡行の時にも目に止まりやすいことでしょう。 2016.7.23南観音山も外観は鉾と同じです。南観音山の側面です。 2017.7.22三番水引の一部を撮っていました。雲龍文様の水引です。数多くの龍がいます。 2019.7.24 2019年の時の巡行風景です。 2019.7.24この見送にご注目ください。 2005.7.16 こちらは、その見送を2005年の宵山の夜に撮ったものです。この辺で一区切りとして、次は北観音山に進みましょう。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭の歴史 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ大船鉾 四条町大船鉾保存会 ホームページ南観音山 :ウィキペディア楊柳観音について :「高野山真言宗やすらか庵」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.14
コメント(0)
=== 2024.1.1 === 南の空新年の初撮りは10時25分近くでした。雨が降った跡がベランダに見られました。雨は止んでいたので、曇り空をデジカメで記録することから始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向も、銀鼠と白鼠の雲が混在する空模様です。 東方向の空15時20分近くに、稜線上空を眺めると雲がびっしりと空を覆ったままです。 南の空 一方、南から西にかけての方向では、青空が見え始めていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空この日、午後は、拝受した年賀状への対応と新年のブログ記事のまとめ作業をしていたと記憶します。そして、突然、地震の揺れを感じました。当地の速報は震度3でした。「令和6年能登半島地震」の発生。最大震度7ということを報道で知ることに・・・・・。あらためて、被災し亡くなられた方々のご冥福を祈念いたします。合掌。また、被災された皆様には衷心よりお見舞い申しあげます。一日でも早く、日常性が回復し、復興が進むことを願っています。 南の空 17時10分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空午後は、青空が見えた後、雨が降る天気に戻ることなく夕刻を迎えました。=== 2024.1.2 === 南の空 9時近くに撮りました。快晴といえる天気に変わりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけは、普段通りの状況です。雲が出ています。 東方向の空 15時5分過ぎに稜線上空を眺めると、青空に転じています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西の空ならびに頭上は引き続き快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時40分頃に撮りました。快晴の一日と言える状況でした。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回「昭和最後の日」と題する詩を最後にご紹介しました。その次の詩は「昭和の最後を飾ったしんみんテレビ」と題する詩です。 昭和の終りを/ テレビ「念ずれば花ひらく」で/ 飾って下さったことを/ ここに特別しるしておこう ・・・・という詩句から始まる詩が載っています。そして、真民さんの平成に入ってからの詩が続いていきます。「ちぎれ雲」と題する5行詩が、雲の詠み込まれた最初の詩です。 ちぎれ雲 なぜにちぎれて飛んでゆく 呼ばれているのを知らないか もどってこいよ ちぎれ雲 p318「飛天」と題する詩。韓国慶州仏国寺を訪ねられた時の詩で、大梵鐘の飛天を拝された詩の末尾です。 早春の空は澄んで 雲一つなく すべてが一期一会の ありがたさだった p324「朴菩薩」と題する詩。朴の木に菩薩を感得する真民さんが詩の後半に雲を詠み込んでいます。 鳥と歌い 白雲と遊ぶ 世を挙げて 利に走るとも 二度とない人生だ やりたいことをやり 自分の世界を生きていく そうした勇気を 与えてくれるのが 朴だ 朴は わたしの守護菩薩 p328「世を挙げて/ 利に走るとも」という詩句は、真民さんの生き方の対極にある世界です。「やりたいことをやり」は、真民さんにとっては、勿論詩作であり「詩国賦算」です。「メナム川」と題する詩。メナム川はタイの母なる川。チャオプラヤー川のことです。 雲ひとつない空のもと 川は流れ 川に暮らす人たちの 素直な姿よ p371と詩の途中に雲が出てきます。「傷心の子に」と題する詩。詩の途中に出てきます。 その夜九十九里浜沿いの家に泊り 親子三人で寝た 翌朝の日の出が美しかった 雲ひとつない洋上から 日が光り輝き出るのを 三人で拝した p375「濃度」と題する詩の末尾に出てきます。真民さんのルーティンワークである重信川の彼岸での暁天の祈りに関連した詩です。 重信川 わたしの祈りを 一番知っている川 一片の雲もなく 満天の星 p379今回ご紹介した詩の途中にある詩をご紹介したいと思います。上掲の「朴菩薩」とも照応する詩「あるがままに」です。雲は出てきませんが、真民さんの信念が表出されている詩の一つです。全文引用。 才なき人は才なきままに 処するがよい 花にたとえるなら侘助(ワビスケ)のように 鳥にたとえるならみそさざいのように おのれの花を咲かせ おのれの歌をうたい 嘆かず訴えず なにごともあるがままに 生きるのが一番よい p365真民さんにとってのおのれの花は詩作であり、詩国賦算が花を咲かせることなのです。そして「念ずれば花ひらく」の八字十音の真言を人々に知ってもらい、体感してもらうことが、花ひらくにつながっています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.3 === 南の空 10時10分近くに撮りました。先日とは一転して、曇り空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、雲で覆われています。それも形が定まらない雲。雨になりそうな雲です。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空14時10分過ぎに空を眺めると大きな変化はなし。この後、夕刻から小雨が降り始めました。連日、能登半島地震の実況報道が大きなウエイトを占めていました。令和6年、悲しいことですが、鮮烈な記憶に残る年初となりました。自然の威力のすさまじさ。人知の及ばない自然のパワーを改めて感じている次第です。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について平成 :ウィキペディアホオノキ/ほおのき/朴の木 :「庭木図鑑」朴の木 (ほおのき) :「季節の花300」ワビスケ :「草木図譜」侘助 :「くすきの杜」ミソサザイ :「サントリーの愛鳥活動」ミソサザイ好きのためのおみそ動画【作業用・途中広告なし】 YouTubeチャオププラヤー川 :ウィキペディア世界地図でメナム川はいつからチャオプラヤ川になったのか?:「タイランド ハイパーリンクス」重信川 :「国土交通省」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.13
コメント(0)
2023.7.17室町通は、錦小路通と一筋北側の蛸薬師通との間が「山伏山町」で、そこに「山伏山」が建てられています。宵山巡りには、室町通りに面した会所の二階に、御神体の人形を眺めることができます。そのものズバリ。山伏の姿です。「昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしている」(資料1)と言われています。 これは室町通から見える1階の会所飾りのうち、懸装品の一つの見送です。ここに龍がいます。 2023年の巡行風景 見送の全景を切り出してみました。 2023.7.16 会所内の通路を挟んだ壁面には懸装品が並べて飾られています。一番手前の前懸の上部の左側には 龍がいます。切り出して色彩補正の画像処理をして少し見やすくしました。 切り出した前懸の下部には、龍が並んでいます。波濤雲龍文様です。 2023.7.16右から2つめは、その姿から推測して見送(ミオクリ)です。ここにも3頭の龍がいます。巡行の時、山の後ろに懸けられます。いわば、山の後ろ姿になります。 2009.7.15 2009年の宵山巡りで、山伏山の蔵内に懸けた状態の「古見送 萬暦龍」を拝見していました。上掲の見送りは復元新調品ということになりますね。 2023年の巡行。河原町通御池で山伏山を回すパフォーマンスをコマ撮り風に・・・・・。錦小路通に引き返し、左折する(東入ル)と「占出山町」です。 「占出山」が建てられています。 2022.7.13 神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話を題材にしている山です。占出とは占って推測するという意味なのでしょう。祇園祭山鉾連合会のホームページでは、「占出」を「divination」(占い、予言、予知)という語で訳出してあります。(資料2)説話の内容から「鮎釣山」とも呼ばれるそうです。 2022.7.13 会所内では、このように懸装品等が展示されています。これらの懸装品等が、山に飾られて巡行する時には、 2023.7.17 このような姿になります。これは2023年の巡行風景です。会所飾りは、壁面の上部に下水引、下部に前懸等が懸けられています。これらは旧蔵品で、復元新調品が会所の奥の座敷に飾ってあります。床に置かれているのは、欄縁と見送を懸ける衣桁のパーツです。 2022.7.13 手前に並ぶのは、欄縁のパーツです。 壁側にまとめられた黒漆塗の丸い棒、これらの装飾金具にご注目ください。 龍がここにいます。これらの丸棒パーツは、 見送を懸ける衣桁に組み立てられます。巡行本番では観覧者からはほとんど見えないか、意識しない部分になっていることでしょう。巡行では全景を眺めるにとどまりがちです。宵山巡りの楽しみは、懸装品類等の品々の細部を比較的間近で眺められることです。さて、占出山を離れ、錦小路通を東に歩み、烏丸通に出ます。南を見れば「笋町」です。 2023.7.16ここには「孟宗山」が建てられています。町名は「たけのこ」。山の名前の「孟宗」は、中国の史話「二十四孝」の一つに出てくる人物名です。病身の母を養う孟宗が、真冬に筍(タケノコ)をさがし求め、雪の中から掘り当てるという逸話です。竹の一種、孟宗竹はこの孟宗にちなむネーミングだそうです。(資料3,4) 2023.7.16会所飾りの座敷の一角に御神体の人形(孟宗)が安置されています。 よく観察しますと、孟宗の衣服の正面に龍が刺繍されています!!何度か会所飾りを拝見してきていますが、初めて気づきました。 2023年の巡行風景 2023.7.17 改めてよく記録写真を観察してみますと、 孟宗の衣服の背中の方にも龍が刺繍されています。ここにも龍がいました。余談ですが、孟宗山の会所前の駒札によりますと、笋町会所(孟宗山)は会所家と土蔵が京都市指定有形文化財に指定されています。 2023.7.16会所の敷地内に祀られた地蔵堂が「附(ツケタリ)地蔵堂」として登録指定の一部になっています。前祭の宵山巡りでは、この孟宗山を最後にすることが私の通例です。ここで、1箇所、最後にご紹介する山があります。「保昌山」です。 2018.7.16この保昌山だけが他の山鉾とは異なり、少し飛び地になっているのです。場所は、東洞院通高辻下ル「燈籠町」にあります。東洞院通松原上ルとも表記されます。高辻通を軸としますと、東洞院通から西へ、烏丸通・室町通・新町通と三筋進み、新町通上ルが岩戸山という位置関係で、少し距離が離れています。 会所飾りでは、この建物(紫宸殿を模したものか?)の左奥の壁側に この見送が飾ってあります。見送の縁をよく見ますと、 ここに龍がいます。 保昌とは、丹後守平井保昌のことで、和泉式部との間に恋物語が伝わっています。それを題材にしたのがこの保昌山だそうです。和泉式部が保昌に、紫宸殿の紅梅を手折って私に持ってきてよという無茶なことを言ったとか。(駒札、資料5)かつては、「花盗人山」と呼ばれていたそうです。明治初年に改称。 2023.7.172023年の巡行風景です。保昌が和泉式部の求めたことを実行する場面を表しています。 上掲の見送が使われています。 祇園祭・前祭 山鉾地図 (資料6) これで、前祭の宵山で出会った龍たちのご紹介を終わります。引き続き、後祭と龍についても順次まとめてご紹介したいと思っています。おつきあいいただけるとうれしいです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 山伏山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 占出山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)3) 孟宗山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)4)『日本語大辞典』 講談社5) 保昌山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)6) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園会占出山雛形 :「文化遺産オンライン」山鉾の魅力細見 -保昌山- :「京都市下京区」藤原保昌 :ウィキペディア和泉式部 :ウィキペディア【解説】花盜人 たびかがみ :「天来書院」祇園祭 山鉾篇 :「フィールド・ミュージアム京都」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.12
コメント(2)
2018.7.14綾小路通西洞院東入ル、あるいは綾小路通新町西入ルは、そこは「矢田町」。「伯牙山」のあるところです。かつては「琴割山」と称されてきて、明治4年(1871)に「伯牙山」に改称したそうです。中国・春秋時代の琴の名手・伯牙は、鐘子期という伯牙の琴演奏の真価を味わえる友人を無くした時、琴の弦を断ち二度と琴を弾かなくなったと言います。この逸話が親友を示す「知音」の由来になったと言います。(資料1) 宵山の会所飾りで見たのがこの龍文様の錦の前懸です。 強引に拡大してみました。ここに龍がびっしりといます!! 2023.7.172023年の巡行時の伯牙山の正面、「慶寿裂」と称される前懸の下に、上掲懸装品が使われています。 余談です。この景色は、河原町通御池の辻(交差点)の北東側から撮った景色です。山鉾の巡行方向は、河原町通を北に進んできて、この写真のビルの右方向になる御池通に90度曲がって西へ巡行します。この先の御池通には観覧席が設けられています。すると、この伯牙山の向きが違いますね。これは山の場合、この辻で単に90度曲がって御池通に進むのではなく、山自体を舁き手の人々が方に担ぎ上げて、辻で数回くるくると回し、山の各側面を観覧者が見られるパフォーマンスを行うのです。鉾と鉾の形式の山が「辻回し」をする代わりになっていると、私は解釈しています。どの山も行われています。それが辻で見物する楽しみでもあります。洛中洛外図の巡行風景を見ますと、かつての巡行は山を担いで巡行したのでしょうが、現在の山には、小型の車輪が設けてありますので、直線方向は押していくことで巡行できる形です。西洞院通に引き返し、北に向かいます。綾小路通の一筋北は四条通です。四条通の南側歩道から、四条通を横断して西洞院通上ルには「蟷螂山」、四条通の北側の西方向には「四条傘鉾」、東方向には「郭巨山」が見えます。私の宵山巡りの経験では、四条傘鉾と郭巨山では龍を見つけていません。見落としているのかもしれませんが・・・・。そこで、四条傘鉾と郭巨山はスキップします。四条通を横断し、西洞院通上ルは「蟷螂(トウロウ)山町」。蟷螂はカマキリを意味します。 「蟷螂山」 2017.7.15蟷螂山は「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事に由来し、南北朝時代に、足利義詮軍に挑んで戦死した公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりを象徴したと言います。四条隆資はこの辺りに住んでいた公卿で、四条家の御所車を模したそうです。(資料2)山に小型の御所車が搭載され、御所車の屋根に大きなカマキリが乗っています。このカマキリはカラクリ人形で、前脚と翅が動く仕掛けになっています。御所車の車輪も回転するようです。カマキリの動きは見物していますが、車輪は記憶がありません。カマキリも巡行中、始終動かされるわけではないようですので、見られるかどうか、観覧者には運不運がありますね。 2022.7.13蟷螂山の山建てを見物しているときに撮ったものです。御所車の御簾が巻き上げた状態です。御簾の左右にご注目! 御所車の左側面の御簾の両側には降龍が装飾されています。 2017.7.15右側面は、逆に昇龍が装飾されています。いずこでも、昇龍・降龍は一対です。 2017.7.15御所車の右側面です。御簾は下がっています。宵山で普通にみる景色です。 御所車を牛に曳かせる轅(ナガエ)の根元のすぐ傍に、龍頭が彫刻されています。 同様に、左側の轅の傍にも龍頭が見えます。 2023.7.17 2023年の巡行風景。宵山での保護のための覆屋がない本来の姿が良いですね。四条通に戻って東に進み、新町通を上ルと「小結棚町」です。 そこに「放下鉾」があります。鉾の上に立つ真木の中程の「天王座」に放下僧の像を祀ることに由来する鉾名です。駒形提灯に見える赤色の文様が、鉾頭に掲げられ、日・月・星の三光が下界を照らす形を象徴しています。この形が州浜に似ていることから「すはま鉾」という別称もあります。 2023.7.172023年の巡行の時の景色です。河原町通御池の交差点で「辻回し」の準備をしている場面です。車輪の車軸は固定されていますので、車輪は前後方向に回転するだけ。そこで、車輪に対して割竹を敷き並べ、水を撒いて、その上を滑らせるて強引に一定の角度回転させるのです。 2022.7.13この鉾の天水引に着目してください。 2017.7.15天水引が四側面に懸けてあります。そこに雲龍文様が刺繍されています。 2023.7.172023年の巡行の時の下水引で龍は無縁です。しかし 2017.7.15 2017年は、龍を描いた下水引が懸けられました。 放下鉾から新町通を北へ。四条通から一筋北側の錦小路通に右折します。「天神山町」に「霰天神山」がありますが、龍と出会っていませんのでスキップします。 祇園祭・前祭 山鉾地図 (資料3)ここで一区切りとします。次回は前祭・宵山巡りの最後です。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭 伯牙山の名宝 :「京都文化博物館」2) 蟷螂山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)3) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺放下鉾保存会 公式アカウント :「instagram」祇園祭 山鉾篇 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.11
コメント(0)
20237.17これは巡行中の「木賊山」です。船鉾から少し南に下り、新町通と仏光寺通の辻で右折して、西に進みます。新町通の一筋西、西洞院通を越えれば、「木賊山町」です。「木賊山」のあるところ。この山は、謡曲「木賊」を題材とし、木賊を刈る翁が登場します。山鉾巡りをし始めた大昔、駒札に「木賊」の漢字に「とくさ」とルビが振ってあったので覚えたのですが、私には難読漢字の類いです。上掲の御神体の人形が右手に鎌を持っています。この木賊を刈ることを題材とした山です。手許の辞書で「とくさ」を引くと、説明の末尾に古来の用字が木賊と記されていて、「とくさ」の項のすぐ下には、[『砥草(トクサ)』の意」とまず記述されています。「中空の茎が根から直立する常緑多年生のシダ植物。節に葉が退化したさやがある。昔、物をみがくのに使った。[トクサ科]」(『新明解国語辞典第五版』三省堂)と説明されています。物をみがく、それで砥草の意・・・なるほどです。 龍はこの山の欄縁の飾り金具にいます。 2017.4.15 宵山の会所飾りを拝見して、撮っていたのはこの2枚です。駒札には「欄縁金具は緻密な雲龍文様で、角金具は唐団扇(トウウチワ)、木賊と銀兎文様のものが用いられてている」という説明があります。木賊山から、仏光寺通を西に歩めば次は、油小路通と交差する辻です。この辻に立って南を見れば「太子山」、北を見れば「油天神山」が見えます。まずは、油小路通を下ります。仏光寺通と一筋南の高辻通までの間が「太子山町」です。 2017.7.15油小路通の南側から撮った景色。 透明の保護カバーが覆っていて見づらいですが、波濤に飛龍文様の見送です。 2023.7.16こちらの方が少し見やすいかもしれません。保護シートが被せてありますが。 部分拡大しますと・・・・。上部に正面龍、下部に向き合う龍がいます。ここに描かれた龍は5本爪です。この見送、2023年の巡行では使われていません。後でご紹介するように、別の見送が山を飾っていました。こういう点も宵山探訪の楽しみになります。 下水引にも龍がいます。 2023.7.16 2017.7.15毎年のように眺めて来ましたが、「泰家」の前に立てられた赤傘と太子山と白抜きされた赤提灯には情緒を感じます。祇園祭での<太子山会所飾り>をこの泰家が担われ、通りに面した「店の間」で展示が行われています。(資料1)余談ですが、「秦家住宅」として京都市有形文化財登録されている「表屋造り形式」の京町家です。かなり以前に、内部を見学したことがあります。 217.7.15宵山では「店の間」の土間から会所飾りを拝見する形です。正面に御神体の人形・聖徳太子が祀ってあります。、 その手前に、船鉾で見るのと同類の飛龍がいます。この飛龍は、巡行の時に太子山の四隅に飾り房を懸ける箇所の装飾金具です。 2017.7.15 この見送には、上部に二頭、中央に大きく一頭の龍という構図で三頭の金龍が、「波濤に飛龍文様」として刺繍されています。4本爪です。駒札によればこの見送は平成15年(2003)に新調されたとのことです。 2011.7.16 2023.7.16 2023年の宵山では、会所飾りの展示の懸装品と展示方法が変化していて、単体として造形された飛龍以外は見られませんでした。 2023.7.17 2023年の巡行です。 部分拡大してどこに単体の飛龍が使われているかおわかりいただけるでしょう。また、見送は上掲の会所飾りで展示された「波濤に飛龍文様」錦織が懸けられていることがわかります。太子町から油小路通を北に歩み、仏光寺通を渡ると、「風早町」です。 2018.7.14ここが「油天神山」のある所。駒形提灯の前に油天神山と墨書した提灯が見えます。 2017.7.14 巡行当日までは、油小路通に建てられた山には、油天神山で今は保存されている懸装品が懸けられています。宵山でしかみられない風景です。 龍の部分を切り出して色彩補正の処理をしますとこのような感じになります。 会所飾りを拝見しましょう。 2018.7.14 2017.7.14山に安置される社殿と鳥居の右側に前懸が飾ってあります。ここに龍がいます。ここの龍も4本爪です。駒札によれば、平成6年(1994)に新調された「木瓜波濤龍図(モッコウハトウリュウズ)」錦織です。 2023年の巡行です。山正面の前懸の龍はよく見えることでしょう。 下水引は、宵山で見られる龍を刺繍した旧懸装品から平成18年(2006)新調の「翔鷹千花図」に取り替えられています。仏光寺通の一筋北は綾小路通。この通で右折しますと、「芦刈山町」です。 「芦刈山」が綾小路通に建てられています。 2017.7.15 御神体の人形は、難波の浦で芦を刈る老翁。謡曲「芦刈」を題材にした山です。 この老翁の帯の部分に、昇龍と降龍が刺繍されています。 2023.7.16胴懸の「雲龍図」で、中国刺繍・官服直しと説明書きが置かれていました。 2017.7.15 2018.7.14龍を単体でクローズアップして、いくつか撮ってみました。手製の刺繍なので、それぞれ個性が生まれています。 2023年の巡行では胴懸として尾形光琳原画「燕子花図(ッキツバタズ)」が使われています。綾小路通には、西洞院通を挟んで東側に「伯牙山」があります。次回はここからです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 京都秦家 ホームページ補遺木賊・砥草(とくさ) :「茶の湯辞典」山鉾の魅力細見 -太子山- :「京都市下京区」秦家住宅 :「京都府観光ガイド」山鉾の魅力細見 -油天神山- :「京都市下京区」芦刈山 芦刈山保存会 ホームページ演目事典:芦刈 :「the 能.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.10
コメント(0)
2023.7.16白楽天山の会所から室町通をさらに下ります。仏光寺通を越えてその先の高辻通まで。右折して高辻通を西に入り、室町通から一筋西の新町通を北に上ります。洛中の町内は基本的に通りの両側が同じ町、つまり両側町の構造です。新町通北入る、そこは「岩戸山町」で、「岩戸山」が所在します。 2022.7.132020年に訪れた時は、岩戸山の上でお囃子が実演されていました。写真の時刻記録は15時25分。岩戸山はその名の通り「山」ですが、その形は「鉾」とほぼ同じです。鉾と同様の車輪も備わっています。 2018.7.14岩戸山の側面です。この姿は前回の長刀鉾や月鉾とほぼ同じでしょう。下水引や胴懸には龍はいません。その上の欄縁を観察しますと、 欄縁のこの箇所の右側が龍のようです。この側面を撮っていた時は意識していませんでした。 2022.7.13 もう一ヵ所、別の側面の欄縁にも龍がいます!! こちらはクローズアップで撮っていました。 2017.7.15 さらに、ここにも!!この時、屋根裏に描かれた鳥に注目して写真を撮っていたのです。写真を精査していて、屋根の合掌部の正面に龍が透かし彫りにされていることに気づきました。 2018.7.14こちらは展示でみた下水引「紺地丸龍文様錦織」。ここに龍がいます。説明書きによれば、18世紀初期朝鮮王朝製で、元文5年(1740)に新調され、安政3年(1856)に仕立て直されたものとのこと。 円形の中に、正面龍が織り込まれています。 2018.7.14もう一点、展示で見たのがこの見送(ミオクリ)「日月龍唐子嬉遊図」(一部刺繍)。 ここに龍が!! 見送の上部、額のところに、正面龍がいます。4本爪の龍が描かれています。 2023.7.17岩戸山の巡行風景です。巡行の様子は鉾の巡行とまったく同じ。辻回しも同様です。違いは何か。正面に稚児人形が載っていないことと、屋根の上の違いです。鉾の場合は真木が建てられて先端に鉾頭としてシンボルが取り付けてあります。山の場合は、屋根の上に松の木が立てられていることです。まず屋根を見れば、鉾と山の識別ができます。 上掲の見送が懸けられています。この龍なら巡行観覧者にも目に止まることでしょう。新町通を上り、仏光寺通を渡ると「船鉾町」です。「船鉾」が見えています。私の好きな山鉾の一つです。 2022.7.13船鉾に船尾から近づくことになります。宵山で普段はこのように船尾の見送がストレートに正面から全体を眺められることはありません。鉾建てに続いて懸装品等の装飾が完了し、巡行ができる直前までの準備が終了。鉾の曳き初めの儀式が始まる少し前というタイミングでした。写真の記録時刻は14時27分。 2009.7.15宵山巡りをする普通の状態はこんな景色です。船鉾の周囲には「埒(ラチ)」と呼ばれる囲いが設けられ、前後に距離を置き、駒形の提灯が吊された状態です。懸装品は部分的にしか見えません。 2017.7.15船鉾の船尾には、まず私の好きな螺鈿細工の施された龍が舵の部分にいます。黒漆塗螺鈿細工による飛龍文様の姿です。舵にいる飛龍はこのシリーズの第1回目に触れていますので、ここでは繰り返しません。この船鉾には、他にも数々の龍を見ることができます。そのご紹介に専念します。 2011.7.16 2018.7.14まずは、この見送の龍です。正面龍の形です。 2022.7.13舵から目を上に転じると、艫の高欄の下部に、金色の飛龍が雲の上を飛ぶ様々な姿で丸彫りされ、取り付けられています。 船鉾の左舷 飛龍の下には「麒麟」。 2017.7.15 2017.7.15 右舷 2018.7.14 そして、船の左舷の下水引にも龍がいます!! 船の右舷の下水引にも対照的に龍がいます。 2023.7.16船鉾の船首には、鷁と称する鳥がいます。その舳先の下部に、前懸が懸けてあり、 そこにも正面龍がいます。 2023.7.16船上の屋形の唐破風屋根に目を転じますと、束の両側に、 二頭の龍が向き合う透かし彫りの装飾があることに初めて気づきました。船鉾の船上内部を2011年に拝見しました。私の記憶では、この時は船鉾の曳き初め式に、一般参加として鉾の曳き手に加わり、わずかの直線距離ですが、曳かせてもらえたのです。そして、船鉾の船上内部拝観券をいただきました。有難く拝見した次第。それで知ったことなのですが、 2011.7.16船上の艫の舵を操る舵室になる建屋の柱に 昇龍と降龍が螺鈿細工で描き出されています。ここにも龍がいるのです。 2011.7.16 その時、たぶんその時点で既に保存品になっているオリジナルの懸装品の展示も併せて拝見できました。ここにも龍がいます。船鉾にはそんな思い出があります。 2023.7.17上掲の景色でご覧のように、宵山では、船鉾の周囲に埓が設けてあり、仮設の覆屋が設けてあります。当然ながら、他の山鉾と同様ですが、巡行当日に初めて、船鉾のスッキリした全景を見られることになります。その代わりに、龍がどこにいるかなどの細部は見づらくなります。宵山と巡行は、山鉾の鑑賞という点では相互補完関係になっています。 (資料1)次回は、少し引き返し、仏光寺通を西に歩むところから、ご紹介します。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺岩戸山 岩戸山保存会 ホームページ祇園祭船鉾保存会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.09
コメント(2)
2023.7.16祇園祭の山鉾に棲む龍を探しに行きましょう。まずは前祭から始めます。今までは祇園祭の宵山と巡行という観点で繰り返し祇園祭をご紹介しています。しかし、龍に出会いつつも、龍だけに焦点を当てるということはしたことがありません。そこで、寺院や神社の境内・庭に棲む龍から祇園祭に山鉾を居場所とする龍を、今までに撮ってきた記録写真から再発見する試みを始めました。そのご紹介です。何時撮った写真かを明記しています。過去の写真からの再発見を組み合わせてみます。冒頭の景色は、四条通を西に進み、烏丸通の手前、長刀鉾町に鉾建てされた「長刀鉾」です。 2023.7.16四条通の南側歩道から長刀鉾の側面を撮りました。 2023.7.16 2018.7.14こちらは鉾の同じ側面を撮ったもの。2023年とは鉾の胴懸と下水引(一番)が異なります。しかし、二番・三番水引は同じものが組み合わされています。鉾の欄縁の下に、三枚の水引が重ねられて懸けてります。上から一(下水引)・二・三です。 二番水引には、三本爪の金龍が刺繍されているようです。 三番水引には、龍を正面から描いた正面龍がいます。その隣りには飛龍がいます。 2018.7.14部分拡大してみました。飛龍は、船鉾と大船鉾にもいます。 2018.7.14この三番水引は、正面龍と飛龍が交互にデザインされた構図になっています。 2023.7.162023年に撮った下水引(一番)は一見龍のような相貌をしています。胴体の一部も龍に近い感じ・・・・。しかし、この動物の脚部を見ますと、蹄が描かれています。想像上の動物・麒麟です。鉾の傍に立てられた駒札には、「下水引の五彩雲麒麟図刺繍の図も復元新調品を使用」と説明がありました。山鉾の懸装品は、今までにない新調品が加えられる一方で、今まで使われてきた懸装品の復元新調品が作られ、経年変化が加わってきたオリジナルの懸装品と代替していく事業が計画的に組み込まれているようです。そしてオリジナルは大切に保存するという管理がなされています。この懸装品の代替、いわば新陳代謝を眺めるのも、祇園祭での鑑賞の楽しみになります。長刀鉾で龍に気づいたのはこれだけです。記録写真を精査していて、長刀鉾の欄縁の飾り金具の中に龍がいないかどうか疑問が。この点未確認のままです。課題が残りました。 2023.7.172023年の巡行場面。河原町通御池の交差点で、これから辻回しが始まる準備場面です。現在は長刀鉾だけに、生稚児が乗っています。後の鉾は稚児人形に変わっています。末尾に祇園祭山鉾連合会のホームページに掲載の前祭の山鉾の位置図を引用・借用し切り出してみました。(資料1)山鉾の位置関係をご理解いただくのに役立つと思います。烏丸通を横断すると「函谷鉾」が四条通の北側に見えます。函谷鉾では龍を見つけてはいません。私の見落としかも・・・・・。これもまた課題に。烏丸通から一筋西が室町通です。四条通から北に入りますと、目の前に「菊水鉾」が見えます。この菊水鉾でも龍は未発見です。四条通を南側に渡ると、四条通の南側道路、月鉾町に「月鉾」が建てられています。 2018.7.16四条通の北側歩道から月鉾の側面を撮りました。 欄縁の飾り金具には雲と龍が浮き彫りにされていて、 2018.7.16 二番水引には、様々な姿態の金龍が刺繍されています。 2023.7.172023年の巡行時の月鉾です。たぶん、辻回しの最初の牽引場面。観察経験からは3回に分けた段階的な牽引で90度方向転換されていると思います。鉾の懸装品を眺めると、上掲の2018年と同じ組み合わせで飾られていたようです。月鉾から室町通を南に入ると、鶏鉾町に「鶏鉾」が見えます。鶏鉾では懸装品等に龍がいるかどうか、気づきませんでした。少し南に進めば、綾小路通です。右折してこの綾小路通に立ち寄ります。 ここ(善長寺町)にあるのが「綾傘鉾」です。 2018.7.14 2018.7.14 綾傘鉾の土台の角を覆う飾り金具の一つに、龍がいます。 2023.7.16余談です。 2023.7.17巡行の当日は、綾傘鉾の先を進みながら行われるこの棒振りの鮮やかなパフォーマンスが見られます。宵山でも演技が時間限定ですが披露されます。 2023.7.17綾傘鉾と称するように、かつては鉾の屋根に綾傘を載せた形だったそうですが、今は綾傘だけになり、その名を残して巡行しています。綾傘鉾の巡行を見物する時には、飾り金具の細部など目に止まることがありません。宵山を巡り、山鉾の細部を限られた範囲ではありますが、眺め観察する楽しみがあります。再び室町通に引き返し、少し南に歩めば、白楽天町です。山は建てられていますが、御神体の人形をはじめ懸装品は白楽天山の会所に展示されています。 2017.7.15会所の入口付近から正面に御神体の人形-道林禅師(右)と白楽天(左)-を拝見できます。 2022.7.13左側の壁面に前懸が吊り下げてあり、右側に見えるのは後懸です。 2023.7.16中央はトロイ城陥落の時、アイネイアスが父を救出する場面を描いた毛綴(ケツヅリ)で、その両側に文化5年(1808)に新調された紺地雲龍門刺繍裂が。三点継(ツナギ)で組み合わされています。(駒札より) 2022.7.13この刺繍裂に龍がいます。雲と龍、雲龍文様です。部分図を切り出してみました。 2023.7.1617日の巡行では、前懸はこのように山の正面を飾ります。 祇園祭 前祭の山鉾マップ (資料1)付記:「祇園祭と龍」は実質上第二部と位置づけ、シリーズ番号を30番から始めます。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ長刀鉾保存会 ホームページ月鉾 月鉾保存会 ホームページ綾傘鉾保存会 ホームページ白楽天山 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.08
コメント(2)
=== 2023.12.29 === 南の空 10時頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向を眺めても、曇り空そのものです。 東方向の空14時30分近くに稜線を眺めると、上空は小型の白雲が浮かぶ青空に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空を眺めると、西から南東に広がる大きな雲が浮かんでいますが、青空が広がっています。 頭上の空 頭上を見上げると、ほぼ快晴にちかい状態です。 南の空 16時35分頃に撮りました。大きな塊の雲が去り行き、小さな雲が浮かぶ姿に変化。 青空が続いています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空朝曇りの後晴れていく天気となりました。=== 2023.12.30 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。前日の午後から引き続き、天気は晴れでスタート。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向、および頭上の空は雲がなく快晴です。 東方向の空 稜線とその上空は靄がかかったようでおぼろな感じです。 東方向の空16時55分過ぎに稜線を眺めてると、稜線のかなたの雲に夕映えを少し見受けました。 南の空 青空の下に小さな白雲が広がって漂っています。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけても同様です 南西から西にかけての遠くの空の夕焼けがきれいでした。 ズームアップを最大限にして部分撮りしてみました。 頭上の空さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回は詩集の題となった「しんみん川」と題する詩で区切りとしました。そこから2つ目の「昇華」と題する詩に雲が詠み込まれています。全文引用します。 祈りが昇華され 雲となり 星となり 露となり 花となり 時には 光る風となり 胸を暖め 目を清くし 日々の暮らしを 高めてくれる p255「そのうち」と題する詩に「雲」が出てきます。前半は悲観的観測。後半は己への使命感に転じて行く詩です。以下は詩の出だしです。 山をうたう詩人もいなくなるだろう 川をうたう詩人もいなくなるだろう 僅かに雲をうたう少女たちが残るだけで 少年たちは草笛も竹笛も知らなくて 大人になるだろう p257「とり年生まれのしんみん鳥を放つ」と題する詩に出てきます。「四月十日愛知県西尾市にて」の前書が付き、碑の建立に関わる詩です。その前半部。 白い幕が除かれ三基の碑が その姿を現すと 一片の雲もない空に 八十羽の鳩が放たれる それはまさに壮観まさに讃美 p259「山中」と題する詩。全文引用します。 わたしを呼んでいるのは 花の精たち 山中 幽たり 寂たり 白雲 遊戯し 去り また来る p262「熱禱」という詩に。これも全文引用です。平和を願う真民さんの詩。 地球は生きている 今日は第四十三回目の 広島原爆記念日 二度とこの悲劇を繰り返さないよう 地球に額をつけ 熱禱する 一片の雲もなく 二十四日月が光り 暁(ア)けの明星が輝き わたしの祈りが 天を染める 恒河沙の諸仏諸菩薩よ 守らせ給え 地球の平安を 人類の幸福を p283「石道」と題する詩の後半に「雲」が出てきます。 久しぶり斑鳩のお寺に来て 白雲を仰ぎ 石道を歩いた 変わらぬものは 斑鳩の声と 松風の音 p290「成道の日の明星光吸飲」と題する詩の前半に「雲」が詠み込まれています。 泣きだしたいような この感激 この感動 雲ひとつないのに どうして拝することができないのだろうかと 川原で祈っていると 東天ひくく一点ぽっと明るくなったと 思ったとたん キラキラと出現して下さったありがたさ p298「昭和最後の日」と題する詩。「一月七日」という前書が付されています。この日の天気、記憶にありません。この詩で再認識しました。全文引用します。 その日 雲は重く垂れ 日は光を放たず 風は一日中声をあげ 昭和は 六十四年の歴史を閉じた 鳥たちもどこへ行ったのか 姿を見せず 午後二時を過ぎると 雨になり いつもより早く暮れていった p302雲の変化に戻ります。=== 2023.12.31 === 南の空2023年の大晦日は、天気予報通り、曇り空です。9時近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向も、曇り一色。 東方向の空16時20分過ぎに稜線を眺めると、午前中のベタッとした感じの雲から雲の姿がわかる位には変化しています。雲が全面に広がっているのは同じ。 南の空雲は午前中の白鼠から銀鼠に色に変わり、雲がそれほど厚くなさそうなことと背後の青空との関係なのでしょうか、雲が青みがかって見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけては青空が垣間見えます。 さて、この天気が明日の元旦にはどうなるのか・・・というところでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について恒河沙 :「コトバンク」斑鳩はなぜ「いかるが」なのか?古代ミステリー、七十二候「霜止出苗(しもやみてなえいずる)」 :「tenki.jp」昭和 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.05
コメント(0)
2003.8.30近江(滋賀)の湖東、「竜王山」から始めます。金勝(コンゼ)アルプスと通称されるハイキング・コースを歩いたことがあります。そのとき、この山に、 「金勝寺八大龍王本殿」と刻された石標の立つ小社に出会いました。龍が龍王(竜王)として祀られています。八大龍王とは、手許の『日本語大辞典』(講談社)を引くと、『法華経』に説く仏法を守る八竜王の総称と説明し、その名称を列挙して、その後に、八大竜神と説明しています。難陀,跋難陀(バナンダ),娑伽羅(サカラ),和修吉(ワシュキツ),徳叉迦(トクシャカ),阿那娑達多(アナバダツタ),摩那斯(マナス),優鉢羅(ウバツラ)の8尊を言うそうです。「竜王を本尊として単独に造像することはほとんどないが,密教における祈雨の修法である請雨経法の本尊となる請雨経曼荼羅(まんだら)では,釈迦如来の侍者として八大竜王が描かれている」(資料1)とのことです。また、『岩波仏教辞典』の「八大竜王」の項には、「わが国では水神信仰と習合して、湖沼の水神に<八竜権現 ゴンゲン>など、八大竜王にあやかった神格化を付している場合が多く、雨乞いの神ともなっている」と付記しています。(資料2)上掲の小社は近江の地域性を考えると、雨乞いに関わる龍神信仰とたぶん深い関係があるのでしょう。遡って、龍(竜)についてですが、インドのサンスクリット語のナーガが、漢字としては那伽と音写され、一方、龍(竜)と漢訳されました。「インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。彼等の長である<竜王>は巨大で猛毒を持つものとして恐れられた反面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった」(資料2)そうです。この<竜王>が仏教の初期段階に、仏法を守護する護法善神として、八部衆の一つとして取り入れられ包摂されました。「中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起こし雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージを思い浮べられるなど、大きく変容した。わが国の竜神信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞いの神、豊漁の神、海の神として信仰された」(資料2)一方、『日本の神様読み解き事典』を引きますと、「竜神」の項で、「竜神は、竜の姿をして水中に住み、水を司るとされる神のことである。日本では、農耕と結びついて雨乞い祈願の対象となり、また漁師にも信仰されてきた」と説明しています。さらに、「竜は蛇が長じて大蛇になり、さらに年が経て竜となり、昇天すると信じられていた。また水を好む蛇であるから、蛇を水の神とし、農業を営む人々の信仰の対象とされ、また漁業者の信仰する海神でもあった」と説明しています。(資料3)古代インドのナーガ信仰が龍王として仏教に取り入れられ、インドから中国に仏教が伝播されて、中国の四神信仰と混淆し、中国の仏教が日本に伝播して、龍王は日本の水の神、龍神信仰と習合して行った側面があるようです。近江の竜王山から、京都・洛中に飛びます。 再び「白峯神社」の境内に。ここには、境内社の一つとして、 2014.2.9 「潜龍社」が祀られています。 この潜龍社の覆屋の左側にも駒札が設置されています。ご祭神は総称が「潜龍大神」で、三大龍王が祀ってあるそうです。祭神名が写真に写る駒札に記されています。白峯大龍王、紅峯大龍王、紫峯大龍王。神道系の龍神ですね。左側の駒札には、「龍神様の坐す潜龍の井から湧き出る神水は、家内安全・家業繁栄並びに悪縁を絶ち良縁を得る霊験あらたかなる水神様として、篤く崇敬されています」と説明されています。白峯神社から、洛東の三条大橋東詰まで飛びます。 2021.11.21川端通の東、三条通の北側に、「だん王法林寺」があります。 この境内の小規模なお堂には龍神像が安置されているようです。右側手前に設置された縁起碑に「霊元天皇の勅令によって現在の龍神尊像が勧請され」と記されています。 正面のお香や花を供える石壇の正面に「加茂川龍神」と刻され、龍が彫刻されています。「加茂川龍神 縁起」には、別名、八大龍王とも呼ばれると記されています。「晴雨を司る神様として、仏法を守護し、民衆を日照りや水難から守ってくれる大きな役割を古来より担ってきた」と説明してあります。三条通を少し東に進み、南に入ると、大将軍神社があります。 2013.4.17 この「大将軍神社」の境内社の一つに、 「白龍弁財天社」が祀られています。境内の南東角に位置します。弁財天は弁才天と同じ。弁才天は梵名がサラスヴァティーで古代インドのサラスヴァティー河が神格化され河神となったそうです。もともとは、土地の豊穣をもたらす農耕の女神。「さらに、弁舌の神ヴァーチと習合されて、恵みを与える福徳神の性格に学才・音楽の神としての性格が加わることとなった」(資料4)とか。この神が仏神に取り入れられました。インドのヒンズー教ではサラスヴァティーはブラフマンの配偶神とされているそうですが、日本では宇賀神との夫婦神として信仰する民俗があります。弁才天の髻(モトドリ)に宇賀神をいただいた弁才天像を見たことがあります。宇賀神は老相人頭蛇身で表現されます。弁才天は河神です。水辺には蛇が棲みますので、弁才天と蛇が結びついてきます。上記のとおり、蛇は龍とリンクしていきます。(資料3) 白蛇=白龍というつながりでしょうか。ネット検索情報で、この白龍弁財天社の御朱印には蛇の図像が描かれているのを見つけました。(資料5)なお、白龍弁財天そのものについての詳細は不詳です。洛東を南に、知恩院境内に向かいます。 2013.6.16 知恩院総門を入り、華頂道を東に進むと華頂学園の学舎の西側に北に入る通路があります。その先に、信州善光寺別院「得浄明院」があります。「戒壇廻り」で知られています。特別拝観で体験したことがあります。 門を入ると、境内の左(西)側に、「白天龍王」と「白女大明神」と二種の墨書された提灯が吊された小社があります。芸事や商売の神様として信仰されているそうです。白天龍王についての詳細は不詳。調べてみますと、余談ですが、ここでは「白天龍王祭」として、5月に「包勝一條流」の「式包丁」という儀式が本堂で奉納されます。(資料6)ここから、洛南の山科、天智天皇山科稜の北側へ。 2018.10.26 飛び先は、琵琶湖第一疏水の北に位置する「本圀寺」(日蓮宗、御陵)です。 本圀寺の境内に、「九頭龍銭洗弁財天」が祀ってあります。 石灯籠の竿の正面に「南無九頭龍銭洗弁財天」の銘板が嵌め込まれています。鳥居の扁額とこの龍を見ていて、ふと、鎌倉にある銭洗弁財天を連想しました。ネット検索で確認すると正式には「銭洗弁財天宇賀福神社」。御陵から、同じ洛南ですが伏見の深草に飛びます。 「瑞光寺」、ここも再びです。 2016.3.20 境内に2つの小社が祀られています。「帝釈天王」と「白龍大弁財天」の2社。いずれも仏法の護法神です。左側が「白龍弁財天」の小社。手水舎に棲む龍のところで、石造の龍像をご紹介しています。さらに、洛南を南へ。中書島に飛びましょう。 境内側から 2013.5.5 「長建寺」(東柳町)。京阪電車「中書島」駅から少し北に、運河沿いにあります。 この1枚しか撮っていなかったのですが、左が地蔵堂で、右が「飛龍大権現」の小社です。飛龍という名称ですので、龍神様なのでしょう。詳細は不詳です。そして、最後は北の稲荷山ニ飛び、この項の締めくくりとします。伏見稲荷大社の周辺には、稲荷に関連する神社やお塚が、大社の本殿がある境内地の周辺から稲荷山の山上まで広がっています。 2016.10.15 伏見稲荷大社の北側周辺を探訪し時に見つけた龍神像。「龍神」の駒札が立っています。 この龍神像の前の道沿いに東に進むと、「豊川稲荷社」があります。 その近くで目に止まったのが「白龍大神」「黒龍大神」と刻した石標が立つ龍神像です。たぶん、これもお塚の部類になるのだと推測します。山上まで様々なお塚があり。石碑に様々な神名が刻まれています。お塚を丹念に観察していけば、「龍」を含む名称の石碑がたぶん数多くあり、信仰対象にされているのではないかと思います。これで、龍神・龍王とされる龍の社について、探訪範囲でのご紹介を終わります。屋根に棲む龍について、一箇所見落としていたところがありました。それを追補します。 そこは「東寺」です。 2013.5.25 境内の中心的な建物の一つ、「金堂」に龍がいました。 記録写真を確認していて龍を再発見したのはこの箇所です。 龍の角の片方が少し欠損していますが、この龍いつ頃からこの位置にいるのでしょう。 上掲の龍から右方向の対称的な位置に、 この龍がいます。ズームアップで記録していたのはこの一枚だけでした。 龍を切り出してみました。左右の龍は姿態が異なる造形です。日本の建物を装飾する物は、多くの場合、左右非対称で、どこか意匠をかえて造形している事例が多いように思います。門の装飾金具の意匠も個々に観察していくと、どこか少しずつ違う。そういう事例が観察経験から多いように思います。これでひとまず、寺院神社や庭に棲む龍の総まとめと致します。これを第一部とするなら、続きとしての第二部は、祇園祭の山鉾に棲む龍たちです。山鉾にいる龍にフーカスを絞って、巡ってみたいと思います。つづく庖勝一條流奉納式【得浄明院】参照資料1) 八大竜王 :「コトバンク」2)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店 3)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 4)『仏尊の事典』 関根俊一 編 学研 5) 御朱印 東三條殿 白龍弁財天 大将軍神社 :「インスタグラム」6) 庖勝一條流奉納式【得浄明院】 :「京都観光Navi」補遺金勝アルプス :「YAMAP」白峯神社白峯神社 ホームページ本圀寺 いのちに合掌 :「日蓮宗」銭洗弁財天宇賀福神社 :「鎌倉観光公式ガイド」得浄明院 :「全国善光寺会」伏見宮家ゆかりの尼寺「得浄明院」での「白天龍王祭」。式包丁の奉納を拝見 :「ネコのミモロのJAPAN TRAVEL」京都深草 瑞光寺 ホームページ長建寺 :「京都観光Navi」伏見稲荷大社 ホームページ よくあるご質問お塚のインバウンド :「passport」(大阪観光大学) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.03
コメント(0)
これは「京都御所」の築地塀の南面です。西側から撮りました。東には夏の行事・送り火で「大」の文字が浮かび上がる如意が嶽の山腹を遠望できます。見落としていた門に棲む龍の続編として、京都・洛中にある門から始めます。記録写真を精査していて気づいたものです。 2018.5.4 御所の築地塀の南面には「建礼門」があります。この門は四脚向唐門の形式です。 門のある本柱の頭貫上の蟇股に、 龍がいます。ここから洛東、粟田口に飛びます。 三条通に北面する形で、「佛光寺本廟」があります。既にご紹介しているお寺です。この門も四脚向唐門です。 門扉の頭貫上に、龍虎が向かい合う形の透かし彫りが見られます。 向かって右側に龍がいます。 龍像の背面を境内側から眺めると、このように透かし彫りが裏面に連続しています。洛東を三条通から五条坂へ、南に向かいます。 五条通と東大路通の交差点の北東側に西本願寺の「大谷本本廟」があります。 総門の正面に掲げられた扁額に二頭の龍がいます!!! 総門を見上げると、この龍たちの他に、まだ他に龍がいました!! 総門の木組構造の中で、建物の角の所に組み込まれる尾棰の所に龍が彫刻されています。 こういうスタイルを他で見た記憶がありません。 五条坂から、洛東をさらに南へ。「東福寺」境内に飛びます。 東福寺の「通天橋」は秋の紅葉で有名な観光スポットです。この通天橋へ歩む回廊の途中、右側には築地塀で囲われた「方丈」が見えます。回廊は方丈に向かう唐門へと分岐しています。唐門の前までは行くことができます。この唐門を眺めますと、 門扉の上部に龍がいます。かなり繊細な透かし彫りです。東福寺から洛中の西大路八条に飛びます。 西大路八条交差点の北東側に「若一神社」(七条御所ノ内町)があります。この辺りは、平安時代末期、平清盛が「西八条殿」と称する別邸を建てたエリアです。平清盛が紀州熊野の若一王子の御霊を勧請して祭ったのが始まりと言います。(資料1) 石鳥居に「若一王子」と記した扁額が掲げてあります。 その扁額の上部に向かい合う二頭の龍がいます!! 扁額がちょっと変わった形だなと思って眺めていて、龍に気づきました。さて、ここから洛南の山科へ。 西本願寺の「山科別院」です。ここも既に触れているお寺。 ここの山門にも、蟇股の箇所に龍がいます。 蟇股に巻き付く姿で龍が彫刻されています。少し見える右眼から判断すると左眼の玉眼が欠損となってしまったようです。ここから、近江(滋賀)の湖南へ。まずは膳所に飛びます。 膳所には、山門の左斜め前方に「膳所烈士墳墓所」と刻された石標を設置した「安昌寺」(曹洞宗、膳所一丁目)があります。 道路から 境内側 境内側 山門の降棟のところに、龍像が据えてあります。 かなり傷みがでてきているようですが見事な瓦の造形です。膳所から湖東の東近江市へ。 飛び先は「弘誓寺」(浄土真宗本願寺派、躰光寺町)です。 ここの山門にも龍がいます。二頭の龍が向かい合っています。余談ですが、確認のためにネット検索していて、改めて気づいたことがあります。東近江市に弘誓寺と称する寺が複数出てくるのです。調べていて参考となる事情報に出会いました。「下野国から建部の領主に封ぜられた那須与一宗高の七弘誓寺建立の発願」(資料2)というのがあったそうです。「源平合戦の武者・那須与一の子孫が開創し、または再興した近江の七ヶ寺の弘誓寺を近江七弘誓寺と呼んでいるようだ」(資料3)と説明されるブログ記事も。その所在地が「東近江市瓜生津、東近江市建部、東近江市五個荘、東近江市射光寺、 東近江市小田苅、東近江市中一色の弘誓寺と彦根市の法蔵寺」(資料3)と説明されています。なんと6ヵ寺は今もそのまま「弘誓寺」の名称です。知らないと錯覚してしまいそうです。少し関連情報を検索してみて、私は、現在そこに宗派的に差異がある点を興味深く感じています(資料2~7)。時代の変転の影響でしょうか。さて、最後は奈良に飛びます。 「唐招提寺」で締めくくりたいと思います。南大門は三間三戸八脚門の形式です。 唐招提寺には露天の戒壇があり築地塀で囲まれています。正面の門は四脚門です。この門に龍がいます。 本柱の頭貫の上、蟇股に巻き付く形で龍が彫刻されています。これで門に棲む龍を終わります。寺社等に棲む龍を様々な観点から眺めてきました。寺社関連での龍の最後に、探訪の範囲で知った龍に関わりのある神社についてまとめておきたいと思います。つづく参照資料1) 若一神社 :「京都観光Navi」2) 弘誓寺 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」3) 弘誓寺 (滋賀県東近江市瓜生津町) 近江七弘誓寺 :「お寺の風景と陶芸」4) 弘誓寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 弘誓寺 :「浄土宗寺院紹介Navi」6) 弘誓寺 (滋賀県東近江市小田苅町) 近江七弘誓寺 :「お寺の風景と陶芸」7) 源平の合戦と「那須与一」、愚咄坊(ぐとつぼう)と「近江七弘誓寺」 :「スローライフ滋賀」補遺京都御所 :「宮内庁」佛光寺本廟 ホームページ龍谷山本願寺 大谷本廟 ホームページ東福寺 ホームページ浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ平清盛公西八条殿跡 :「フォールド・ミュージアム京都」若一神社 :「平清盛の京を歩く」若一王子 :ウィキペディア曹洞宗安昌寺 ホームページ 膳所烈士弘誓寺本堂 :「文化遺産オンライン」弘誓寺本堂 :「文化遺産オンライン」 上掲とは別。こちらは東近江市五個荘町。唐招提寺 ホームページ 戒壇 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.02
コメント(0)
2019.8.13京都・洛東の黒谷にある「金戒光明寺」から始めます。これは境内墓地の中で出会いました。形式は亀趺(キフ)と称される石碑です。元は「かめの形に刻んだ碑の台石」を意味する言葉だったのですが、碑そのものの異称となったそうです。(資料1)ここでは、亀趺碑と記し、この碑そのものの意味で使用します。亀趺の淵源は中国にあり、朝鮮半島でも数多く作られたと言います。日本の亀趺が墓前碑として作られるのは、江戸時代に始まったそうで、江戸時代になり大型墓葬が整備されたことと関係があるそうです。(資料2) この亀趺碑の上部を見ますと、ここに龍が浮き彫りにされています。 もう一例、この墓地で拝見したのがこの亀趺碑です。「天野可古墓誌銘」と刻されていますので、この石碑には墓誌銘として、死者の姓名・行状・業績などが刻みつけられていることになります。冒頭の亀趺碑は、姓名の後に碑と記すだけですが、こちらも墓誌銘が刻み込まれています。余談ですが、台石としての亀趺を用いているいわば本来の姿のものもあります。私が探訪した範囲では一事例。 2013.10.5滋賀県近江八幡市にある「長命寺」です。寺号碑の台石として亀趺が使われています。金戒光明寺から洛中の「東寺」に飛びましょう。 2013.5.25東寺境内の「毘沙門堂」の近くで、 この亀趺碑に出会いました。この亀趺碑は上部に「佛頂尊勝陀羅尼碑」と刻されていて、その下に、同心円状に梵字(サンスクリット語)が刻まれています。陀羅尼はサンスクリット語のダラーニーの音写だそうで、仏教において用いられる呪文、真言を意味します。(資料3) その下に龍が線刻されています。画像が見づらいので画像処理し、多少は見やすくしてみました。上記二例とは亀趺碑の利用目的は異なります。東寺から、洛南の伏見・深草に飛びます。 2013.5.15丘陵地に「仏国寺」(黄檗宗万福寺派、深草大亀谷)があります。 境内の庭にこの亀趺碑が建立されています。 この亀趺碑の上部にも龍がいます。 この碑は、仏国寺の案内駒札によりますと、「高泉和尚銅碑」(重文)で、正徳元年(1711)に鋳造された中国風の青銅碑として有名だそうです。高泉和尚の教えを受けた近衛家熈の撰文だそうです。(駒札、資料4)京洛を離れ、宇治に飛びます。再び「黄檗山萬福寺」へ。 2013.6.9 亀趺碑に覆屋が設けられた「石碑亭」があります。 この亀趺碑も上部に龍の浮き彫りを見ることができます。その下に、「特賜大光普照國師塔銘」と刻されています。大光普照国師は隠元禅師のことです。 2022.3.30万福寺から西に向かうと宇治川があり、隠元橋が架かっています。この橋の近くが、隠元禅師が川岸に上陸され、万福寺を開山される起点になった場所とされています。 ここに「黄檗開山隠元禅師登岸之地」と刻した亀趺碑が建立されています。 この亀趺碑の上部には、正面から裏面にまたがって龍が彫刻されています。 碑の裏面を見ると、京都華僑黄檗山萬福寺協力会をはじめ、在日華僑の人々が碑建立に協力されたことがわかります。それでは最後に奈良の「薬師寺」へ飛びましょう。 2017.12.4薬師寺境内には、「玄奘三蔵院伽藍」があります。「玄奘塔」への門の手間、参道の両側に亀趺碑が建立されています。 向かって右側の亀趺碑は「大遍覚三蔵」と刻され、上部には龍が「大唐玄奘三蔵法師」の文字を囲うようかのように彫刻されています。 向かって左側も同様です。残念ながら文字が見慣れない書体の文字で判読できません。最初が「聖」、最後が「三蔵」であることはわかりますが。これで、境内・庭等に棲む龍のご紹介を終わります。門に棲む龍の続編をご紹介します。記録写真を確認していて見過ごしていた場所です。つづく参照資料1) 亀趺 :「コトバンク」2) 日本の亀趺 :「江戸・明・古代プロジェクト」(東京大学)3) 陀羅尼 :ウィキペデキア4) 大円広慧国師碑 :「フォールド・ミュージアム京都」補遺浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ萬福寺 :ウィキペデキア法相宗大本山薬師寺 ホームページ江夏友賢墓 :「姶良市デジタルミュージアム」亀趺の亀 :「ぷらら」<第22回企画展>「讃岐の亀趺碑(きふひ)パネル展」 まもなく開催です!! 塩江町歴史資料館 :「塩江つれづれ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.01
コメント(2)
2017.6.12寺院・神社の境内には手水舎と灯籠、寺院にはさらに鐘楼・梵鐘があります。これ以外にも、寺院・神社の境内に、龍の居場所があります。冒頭の景色は、京都・洛東にある浄土宗総本山「知恩院」の境内に置かれた香炉です。御影堂の南東方向、池に架かる橋の手前に置かれています。 池の東側の石段道の上に納骨堂がありますので、そのお堂に向かっての香炉になります。 香炉の口縁の下部、凹形にくびれた箇所に龍がいます。北の「平安神宮」に向かいましょう。 2013.5.15応天門を入ると、広々とした広場があり、上下二段仕切られています。手前の下段側に、方位に関係する四神の内の二神の像があります。東側に配されているのがこの「蒼龍」。ここに龍がいます。元々は手洗所の機能を担っていたようですが、今は二神の像として眺める形のようです。西側には白虎の像が配されています。方位としては、北が玄武(神亀)、南が朱雀です。平安京の大内裏の南の門は朱雀門と称されていました。平安京自体の南門が羅生門です。平安神宮から一筋南が二条通です。二条通の南側、平安神宮からは南西方向に、 2022.6.28このオブジェ作品が目立つ場所、「みやこめっせ」があります。 オブジェ作品の東側に、市制100年記念として作られた「悠久」と称するモニュメントがあります。 2003.3.21この半球体の石造モニュメントの東の方位に龍の形象が刻み込まれています。寺院・神社とは外れますが、ここで採りあげておきます。ここから東の南禅寺近くに飛びましょう。この辺りにはよく知られた別荘などがある地域です。その一つに「何有荘(カイウソウ)」があります。特別公開があったときに、探訪し庭園を拝見しました。その庭に、 2004.11.28 龍の石像が置かれています。また、この庭には 「瑞龍」と名付けられた瀧が築造されています。「作庭は7代目小川治兵衛(植治)、洋館の設計は武田五一であり、明治から昭和初期に活躍して名を残した人々の手によってこの邸宅が作られた」(資料1)とのこと。ここから、洛中の中京に飛びます。神泉苑の南西方向、三条通の南に、 2017.3.10「武信(タケノブ)稲荷神社」(今新在家西町)があります。 境内の榎(エノキ)の御神木の大枝が平成20年(2008)8月に折れて落下したそうです。その大枝がチェーソーアート世界チャンピオン城所ケイジ氏によって龍に生まれ変わったのです。 ここから、中京界隈の南東方向に飛びます。 2017.3.10 再び「壬生寺」です。参道を進むと、本堂よりも手前、右側に弁天池があります。 この池に龍がいます。 この龍神像は、板金業を営み、アート&クラフトの領域でも活躍されている桶本忠弘さんの作です。 この橋を渡り、弁天池の中島に行けば、そこは新撰組隊士たちの墓所「壬生塚」になっています。近藤勇胸像、土方歳三胸像も建立されています。いわば新撰組の聖地です。 橋の手前の地面、ここにも龍が! 瓦を使ったこんな龍像が造形されています。さて、洛南に飛びましょう。 2013.5.5まずは、ふたたび伏見の「御香宮神社」です。 探訪した時に、この絵馬額が奉納されているのが目に止まりました。 船首部分に龍が描かれています。船首に龍が彫刻されて取り付けられているということでしょう。ここから、同じ洛南の北東方向、山科に飛びます。 2013.9.21「宮道(ミヤジ)神社」(勧修寺仁王堂町)です。勧修寺の南に位置します。古くは宮道氏の氏神社であり、勧修寺の鎮守社でもあった神社だそうです。(資料2)今では社殿一宇の小社にななっています。 その境内にこの龍頭が安置されています。かつては大きい手水舎があり、浄水を注ぐ龍頭の部分だったのだろうかという連想が働きます。が、事実とその意図は不詳です。(なお、それと推測できそうな写真を掲載されているサイトに出会いました。補遺でご紹介しています)それでは、最後に近江(滋賀)に飛びます。 2013.11.15めざしたのは坂本の「西教寺」です。ここもふたたびということになります。 境内には、この「石造龍頭像」に出会いました。これで一区切りとします。つづく参照資料1) 何有荘 :「京都市都市緑化協会」2)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p332補遺平安神宮 ホームページ何有荘 :ウィキペディア武信稲荷神社 ホームページ城所ケイジ チェンソーアート・ジャパン 彫刻人 ホームページ壬生寺 ホームページ 壬生塚案内図桶本忠弘 :「京都工芸美術作家協会」御香宮神社 ホームページ宮道神社(京都市山科区) :「京都風光」天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.30
コメント(0)
京阪電車・石清水八幡宮駅前のロータリー傍の歩道で目に止まったマンホールのふた。可愛いイラストです。2022年が八幡(ヤワタ)市制45周年だったことがわかります。記念に作られたマンホールのふたです。既に拙ブログで昨年末から年始にかけて、12月24日石清水八幡宮の探訪記をご紹介しました。その日、駅前から八幡宮の周辺を歩いているときにマンホールのふたのウォッチングもしていました。2022年5月に神戸のマンホールのふたをブログに載せて以来、久々にこの見聞考を記すことになります。現在、2つのシリーズを続けていますので、気分転換を兼ねて、まとめてご紹介します。 これが道路・歩道を歩いていて現在目にする汚水のマンホールのふたです。 ふたの中心の太い円形の輪の中に、八幡市の「市章」が象られています。市のホームページを参照しますと、町村合併10周年を記念し制定された市章だそうです。つまり、このエンブレムは、町村合併した10周年の昭和39年(1964)10月1日に「町章」となりました。昭和52年(1977)11月1日、市制施行とともに、改めて「市章」になったことになります。(資料1)もともとは、明治時代に町村制が施行された時に、綴喜郡八幡町、都々城村、有智郷村が発足しました。この3町村が昭和29年(1954)10月1日に合併して、「八幡町」ができました。この八幡町が八幡市となったという変遷があります。(資料2)この市章について、次のように説明されています。「周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」をかたちどるとともに、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、ともに本市にゆかりの深いものです。」(資料1)八幡の竹は、エジソンが白熱電球を発明した時に、この地の竹をフィラメントに使ったことで有名になりました。石清水八幡宮のある男山の山上に、「エジソン記念碑」があります。この記念碑があることもよく知られていることと思います。もう一つが鳩です。これは昨年末に何十年ぶりかで石清水八幡宮を訪れて、私自身は初めて気づいたことにリンクします。 2023.12.24 この扁額は石清水八幡宮の大きな石造の一ノ鳥居に掲げてあります。「八」の字が鳥に象られています。 こちらは男山の山上にある社殿の正面、唐破風屋根の拝所の蟇股に象られている向かい合う鳥です。この鳥が鳩(ハト)です。なぜ、鳩?八幡宮は鳩を神様の使いとしているそうです。宇佐八幡宮から石清水八幡宮に八幡神が勧請された時、白い鳩がその道案内をしたという伝承があるそうです。そこに由来して鳩が尊ばれていると言います。(資料3,4)鳩のゆかりはここにリンクするのかなと推測しました。もともと「八幡」自体が「八幡宮」とつながっている名称なのですから。 もう一つ、このマンホールのふたが眼にとまりました。ふたのデザインは上掲のふたと同じです。しかし、何か違う印象を受けました。 これはふたの中心部分です。こちらのふたんの方が年代物のようです。かなり以前のもののよう・・・・・。よく見ると、上掲の蓋と図柄の凹凸が逆転しているのです。 こんなマンホールのふたも見つけました。中央部に市章が象られています。その周囲は、上掲のふたとは異なります。レンガ様の舗装歩道の状態に合わせてよりマッチングするようにしたふたのバリエーションのようです。石清水八幡宮周辺でのウォッチングで、汚水ふたを眼にしたのはこれら4種でした。マンホールのふた以外で、市政レベルのパブリックなインフラ設備に関わるものとして目に止まったふたが2つあります。 一つは、「水道・仕切弁」のふた。 もう一つは。「消火栓」のふたです。こんなところで、八幡市でのウォッチングを終えました。見知らぬ町のマンホールのふたウォッチングに出歩きたいなぁ・・・・・。この見聞考は断続的になりますが、これからも続けて行きたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料 1) 市章 :「八幡市」2) 八幡市 :ウィキペデキア3) 石清水八幡宮 京都観光おすすめナビ :「京西陣菓匠宗禅」4) 走井の鳩もなか :「やわた 走井餅老舗」補遺八幡市 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ はちまんさんとエジソン ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 6回のシリーズでご紹介。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか 2回のシリーズでご紹介。
2024.01.29
コメント(0)
=== 2023.12.26 === 南の空9時30分近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向、頭上は快晴状態です。良い天気。 東方向の空稜線の方は少し霞んだ感じを受けますがこちらも雲はないようです。 東方向の空15時10分近くに撮りました。稜線上空に白雲が少し浮かび青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他はどの方向も引き続き快晴状態が続いています。雲はなし。 南の空 16時50分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、快晴で夕暮れを迎えた時間帯の空の色調です。=== 2023.12.27 === 南の空9時近くに撮りました。北東寄りに太い筋雲が重なる感じで雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向には、南の雲と連なる雲が出ていますが、青空が見えます。 頭上の空 東方向の空稜線の上空は普段よく見る空模様です。布を広げたようなひらべったい感じの雲に見えます。 東方向の空13時10分近くに稜線を眺めると、上空には形がわかりやすくなった白雲が折り重なっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空あとの三方向は白雲の形が大きく変化しています。雲が懸かった状態ですが、晴れた天気です。 南の空 16時45分頃に撮りました。雲がまた形を変えて広がっています。 その雲に少し夕映えが感じられます。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空の雲にも夕映えが見えます。 西の遠くの空の雲は夕焼けに染まっていました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空は全面的に雲が覆っています。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「口うつし」と題する三節の詩。その第三節に「雲」が詠み込まれています。 紫の雲が降りてきて この世を浄土にする 口うつしの功徳(クドク)よ p217「白い雲」と題する詩。前書きに「第八十七番碑に」と。その前半部分です。 除幕式の読経が始まると いつも母が白い雲に乗ってこられる 念ずれば花ひらくの 可愛いいお地蔵さまの お誕生を祝して澄みに澄む紺碧の空を 白い雲が近づいてくる p221「きょうは立冬」と題する詩の最後の部分に雲が詠み込まれています。 朴の広葉も全部落ち 一片の雲もなく 十七日の月が光る 冬の子しんみんよ 覚悟はよいか p233「ハワイの白雲」と題する詩。その前の詩がハワイに第九十一番目の大恩碑建立に関わる詩ですので、その時の一つです。全文引用します。 黒人僧の人も交えての 中村良観師ほか数人の導師が唱えられる 除幕入魂の経文がひびきわたると 母を乗せてきた ハワイの白雲が近づいてくる わたしは天上の母の喜びと 地上の石の喜びとを 胸いっぱいに感じ取り 今日から霊石となって ハワイの人びとの幸せを守る この碑の永遠(トワ)の栄えを祈った p234「初光吸飲」と題する詩に出てきます。 一片の雲もなく晴れ 光の中を飛び交うかもめたち p239「しんみん川」と題する詩。「横浜の旅から帰って」という前書きが付いています。この詩が、この詩集のタイトルの由来なのでしょう。全文引用します。 わたしが望むものは 疲れた多くの人びとの かわいたのどをうるおし 弱れるもろもろのものに力を与え 母なる川ガンジスのように 信仰と希望と愛の しんみん川を つくることである 流れてゆけ しんみん川 幸せの水を 満満と湛(タタ)え 地の果て 雲の果てまで p254雲の変化に戻ります。=== 2023.12.28 === 南の空 9時40分近くに撮りました。白雲が少し見えますが、快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空は、まあ普段通りというところでしょうか。雲は白鼠色のトーンです。 東方向の空15時10分頃に稜線上空を眺めると、青空が広がり、部分的に白雲が浮かんでいる程度に変化しています。 南の空 雲が少し出てきたかな、という程度で天気は上々です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れた良い天気が続いています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけての遠くの空はバラエティに富んだ夕焼け雲が見られました。 ほぼ最大限のズームアップで部分的に撮ってみました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空には、おもしろい形の白鼠の雲が連なっている姿が見えました。 こういう連なり方はあまりみかけていないと思います。雲っておもしろいですね。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.01.28
コメント(0)
洛東の三条通から東大路通の馬町まで飛びます。馬町は五条通の少し南です。京都女子大学の学舎に囲まれた形で、「香雪院」(天台宗、上馬町)があります。山門前の左側に「東山聖天尊」と刻された大きな石標が立ち、門の柱には「大歓喜聖天」と墨書された提灯が吊されています。妙法院の塔頭の一つです。 山門を入り、左折すると、境内地の南端近くに「鐘楼」があります。ここで眼を惹かれるのが鐘楼の彫刻です。 ダイナミックに躍動する龍が、鐘楼の頭貫とその下の貫との間全体に、丸彫りの透かし彫りとして嵌め込まれています。鐘楼の二面に龍がいます。 もう一面がこちら。 残りの二面には 雲文が彫刻され、その一面には宝珠が彫刻されています。 四面で雲龍と宝珠が彫像されていることになります。 梵鐘は、撞木と龍頭懸ける鈎との関係をを眺めると、龍頭は2つの撞座と同じ方向に向いているとわかります。この梵鐘、昭和24年5月に鋳造の刻銘があります。 池ノ間には、蓮華座の上に種子が記されています。梵字を判読できませんので、どの仏菩薩を示しているのか。私にはわかりません。残念! 下帯のこちらに造形されているのは龍のように見えます。少し不確かですが・・・・・。見応えのある鐘楼です。馬町から百万遍に飛びます。東大路通を北上すると、今出川通との交差点に至ります。この辺りが百万遍の中心でしょうか。この交差点で東に進めば、 2011.5.4 浄土宗大本山「百万遍知恩寺」(田中門前町)があります。 「鐘楼」はごくシンプルです。 撞木側 反対側この二枚を見ますと、龍頭が2つの撞座と同じ方向であることがわかります。また、池ノ間の箇所には阿弥陀如来と天女が描かれていますが、龍はいません。 龍頭は撮りやすかったです。ここから真っ直ぐ西方向、花園にある妙心寺境内に飛びます。 2015.2.20訪れたのは塔頭の一つ「衡梅院」(臨済宗妙心寺派)です。鐘楼・梵鐘の部類に入らないのですが、鐘の縁でここに加えておきたいと思います。鐘について読み直すあるいは見直す時に便利ですので。 拝観した時に、建物の廊下の近くに吊されたこの鐘に気づきました。半鐘と呼ぶのでしょうか。禅寺ですので、平常の修行行為と絡めた伝達の道具として使われるのでしょう。 この半鐘の反対側、撞座の左側に龍が象られています。また、龍頭は見づらいですが、鈎側の金具の方向を見ると、龍頭は撞座の方向とは直交しているように見えます。ここから、南へ。京田辺市へ一気に飛びます。 「西念寺」(浄土宗、田辺北里 )というお寺があります。 この梵鐘の龍頭の部分を切り出してみますと、 2つの撞座の方向に龍頭を引っかける鉄棒が延びているのが見えますので、龍頭の長軸線は撞座とは直交する形で付いていることがわかります。また、撞座の左右の下帯部分を切り出して、部分拡大してみました。分かりづらいので色調補正の画像処理をしてみると、 撞座の左右には、龍が象られていることが明瞭になりました。この梵鐘には龍頭以外にここにも龍がいました!さて、近江の湖西、海津にひとっ飛びします。 湖岸近くに、「西栄寺」(真宗大谷派、マキノ町西浜)があります。 2020.2.27 ここの鐘楼に龍がいました。 虹梁の上の束の左側に龍が立ち上がるような姿勢で胴体が束の背後から右側に回って伸びています。雲龍図という趣です。梵鐘については未確認。最後は琵琶湖を越えて、湖東の守山市に飛びます。 「最明寺」(時宗、勝部町)というお寺があります。史跡探訪講座で訪れたお寺でした。 ここの鐘楼に、同様に龍がいます。 頭貫の上、蟇股の位置に龍が彫刻されています。これで、私が探訪した範囲の寺院の鐘楼・梵鐘に棲む龍のまとめとします。梵鐘に棲む龍について調べていて、梵鐘そのものについて知ったことがいくつもあります。前回の参照資料等から学んだことです。余談として、その要点のご紹介を加えます。梵鐘についてのご関心が高まるかもしれません。主要点を幾つか列挙します。「」は引用文。それがないのは理解した内容のまとめです。*梵鐘を数える単位は「口」。一口、二口、・・・・。*「鋳造品の鐘は大きさにより呼称が違う。大きい順から梵鐘・半鐘・喚鐘という。つまり、梵鐘とは鐘高55㎝(1尺8寸)以上、口径76㎝(2尺5寸)以上、重量375㎏(100貫)以上を指した。それ以下のものが半鐘、口径約30㎝以下のものが喚鐘となる」(資料1)*飛鳥・奈良時代の梵鐘で銘文があり、現存するのは梵鐘は4口だけ。 (資料1,2) 京都市妙心寺の梵鐘(文武天皇2年 698年) 奈良市興福寺の梵鐘(神亀4年 727年) 福井県越前町劔神社の梵鐘(神護景雲4年 770年) 千葉県成田山市出土の梵鐘(宝亀5年 774年) なお、その時代の作と鑑定されているのは、上記4口を含め全部で16口。*「梵鐘には別称がある。洪鐘(こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)など鯨の名がつく。鯨にたとえられるのは、その大きさにあるようだ。なかでも蒲牢は竜の子といい、鯨に追われて大声で鳴くことにちなんで、懸吊部にかたどられたのだという。梵鐘には、より大きな音が鳴ることを期待した意味合いが込められたようである」(資料1)*鐘の音色で最も格式の高いのは、黄鐘調(オウジチョウ)と言われている。 兼好法師が『徒然草』の第220段の最後の部分に、「凡そ鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。・・・・」と記している。(資料3)まだ寺社の境内地には龍の居所があります。つづく参照資料1) 梵鐘の概要 :「織田文化歴史館」2) 梵鐘 :ウィキペディア3)『改訂 徒然草 -付 現代語訳』 今泉忠義訳註 角川文庫 p127補遺東山聖天参道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」香雪院(京都市東山区) :「京都風光」百万遍知恩寺 ホームページ百万遍知恩寺 :「京都観光Navi」妙心寺 衡梅院庭園 :「おにわさん」浄土宗向旭山西念寺 ホームページ最明寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」徒然草 第二百二十段 :「徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.28
コメント(0)
2015.2.20寺院の境内の多くには、鐘楼があり、梵鐘が吊り下げてあります。今回は、京の洛南、伏見・深草にある「瑞光寺」の梵鐘から始めます。 梵鐘のほぼ全体を撮りました。 龍がいます!梵鐘の縦帯と称する箇所に龍を見つけたのです。梵鐘の表面にこれほど大きな姿の龍像を象っているのに出会ったのはここだけです。ということで、最初にご紹介。梵鐘の各部名称については、ネット情報でわかりやすい情報を得ましたので補遺にご紹介しています。ご覧ください。参照資料の中にも説明を含む記事があります。「梵鐘」という言葉について調べてみますと、梵鐘の梵は古代インドのサンスリット語のBRAHMAを音訳した漢字だそうです。神聖・清浄の意味を持ち、清らかさを表す言葉だと言います。また、古代インドのサンスクリット語そのものは梵語と称されてきています。つまり、梵鐘は神聖・清浄な鐘という意味になるようです。(資料1,2,3) それと、梵鐘を吊り下げる部分が撮りやすかったことも理由の一つです。この部分、「龍頭(リュウズ)」と称されます。その名の通り、ここには龍頭が様々にデフォルメされたバリエーションを見ることができます。どの鐘にもある部分、懸吊装置です。ところがこれがなかなかうまく撮れません。梵鐘の表面を見回しても龍像を見つけることはなく、龍頭だけというのがほとんどです。見上げることになりますので、その龍頭がうまく撮れないというのが残念なところ。ここではたまたま龍頭が撮りやすかった事例を含めて、鐘楼・梵鐘で見つけた龍をご紹介していきます。龍頭だけのご紹介事例は、梵鐘の表面に龍像がいなかったとご理解ください。(私が見落としたというケースはあり得ます)洛南でもう一カ所気づきました。北西方向の上鳥羽へ飛びます。 2014.2.27「實相寺」(日蓮宗、鍋ヶ淵町)というお寺です。近鉄京都線上鳥羽駅から歩いて20分ほどのところにあるお寺。 龍頭はこんな感じ。 梵鐘の下辺、下帯と称されるところに、龍が陽刻されています。ここから、洛中に飛びましょう。めざすは「東本願寺」。 2017.3.1 訪れた時は、この梵鐘が境内の一隅に仮置きされている時でしたので、眼の高さくらいでこの龍頭を撮ることができました。傍に仮設の案内板があり、1602年に鋳造された鐘で、「東本願寺撞鐘(梵鐘)」と明示されていました。 2020.11.18再訪した時には、阿弥陀堂門に近いところに建つ買い物広場の建物の南側に展示保存されていました。東側から撮った全景です。 案内板も詳しい説明で掲示されています。次は、寺町通三条へ。 2014.2.17寺町通三条上ルに「天性寺」(浄土宗、天性寺前町)があります。 この梵鐘の池ノ間には天女が陽刻されています。一方、梵鐘の下辺を眺めますと、 下帯に龍がいます。寺町通をさらに北上し、「阿弥陀寺」に飛びます。 2014.2.17 龍の表情がちょっとユーモラスで親しみを感じます。 余談です。この梵鐘の縦帯の箇所に3つの小さな孔が見えます。過去に史跡探訪講座に参加して知った余所のお寺での私の経験からの推測です。ここに太平洋戦争末期の痕跡が残っていると考えられます。当時寺院の鐘すらが国策としての金属供出の対象物にされたそうです。回収後、鐘の金属成分分析などの必要性から、サンプル収集として鐘に小孔を穿ったとのこと。孔が穿たれたけれど、鋳つぶされずに終戦となり、戦後に返還された鐘を眼にしていました。そういう鐘が各地にあるようですたぶんこの梵鐘もその例ではないか・・・・と思います(未確認ですが)。さて、洛東へ。まずは、三条通を東に粟田口まで飛びます。 「佛光寺本廟」(真宗佛光寺派、鍛冶町)の山門が三条通南側に北面する形で見えます。 ここの龍頭はこんな感じです。 梵鐘を見ますと、円形の撞座の上の縦帯には、蓮華座の上に「南無阿弥陀仏」の名号が陽刻されています。この鐘を撮った時には、名号に眼が向かっていました。しかし、よく見ると、下帯の部分に 龍がいます。機会を見つけてこれらの龍にフォーカスを当てて撮ってみたいと思っています。余談ですが、龍頭の向きについてです。東本願寺の梵鐘が一つの対比事例になります。 2017.3.1こちらは仮置きされていた時の梵鐘の全景です。それに対して、 こちらは現在の掲示案内写真の部分拡大です。池ノ間に天女と鳥(鳳)が象られているのですが、両図を対比すると90度向きがずれています。案内板の写真の撞座と梵鐘を吊すために龍頭に穿たれた孔が同じ向きになっています。つまり、龍頭の長軸線が鐘を撞く方向と直交する形になっています。 それに対して、こちらは現在、東本願寺の鐘楼で使用されている梵鐘です。こちらをご覧いただくと、龍頭は撞座と同じ方向を向いています。それは、龍頭の孔に通された太い吊り金具がU字形に見えることからわかります。龍頭の長軸線と鐘を撞く方向が一致しています。梵鐘の龍頭の付き方には、この二種類があることに気づきます。この龍頭の付き方が、鐘が撞かれたときの鐘の響きとどのように相関するのか?ネット検索して調べてみた範囲では、情報に出会えず不詳です。しかし、次の点について解説している記事を入手しました。それを参考にしますと、和鐘の基本的な形状は奈良時代から江戸時代まで変化はありません。しかし鐘を撞く方向(2つの撞座を結ぶ線)と龍頭の長軸線の方向が、奈良から平安時代前期の鐘は、原則直交する形式だそうです。平安時代後期以降の鐘では、鐘を撞く方向と龍頭の長軸線の方向が原則同一方向に変化していると言います。(資料2)この2種類の形式の梵鐘について、文化遺産オンラインのサイトの「梵鐘」の項で、事例を手軽に見られて参考になります。アクセスしてみて、ぜひご覧ください。(資料4)次回は洛東の続きから始めます。つづく参照資料1) 梵鐘の歴史と音色について :「株式会社ナベヤ」2) 梵鐘 :ウィキペディア3) 梵鐘の概要 :「織田文化歴史館」4) 梵鐘 :「文化遺産オンライン」 補遺梵鐘の各部名称 :「山口ケーブルビジョン」元政庵 瑞光寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」正覚山實相寺 ホームページ真宗大谷派 東本願寺 ホームページ浄土宗天性寺 :「寺町専門店会商店街振興組合」織田信長が眠る寺・阿弥陀寺 :「京都ツウ読本」佛光寺本廟 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.27
コメント(2)
2010.11.25本願寺絡みで洛中から洛南に飛びました。そこで、一旦どんと近江(滋賀)の野洲まで飛びましょう。冒頭の楼門は「兵主大社」の楼門です。 探訪の時は、紅葉を愛でつつ参道を歩み、 建物近くの石灯籠の基壇をふと眺めたときに、 そこに龍がいることに気づきました。残念ながらこの石灯籠と近くの建物の記録がありません。石灯籠の全景を撮っていませんでした。残念!今までに龍像の彫刻がある石灯籠に出会った記憶が他にはありません。私には貴重な一例です。さて、京の洛東に飛び帰ります。飛先は建仁寺の境内。このシリーズの初回から触れています。 2017.6.12境内にある塔頭の一つが「両足院」。両足院への石段を上り、山門を入ると「毘沙門堂」が見えます。 この毘沙門堂の傍に青銅製灯籠が奉納されています。 この灯籠の中台の格狭間に龍がいます。ここでもこれ1枚を撮っただけでした。再探訪が必要ですね。さて、洛中・下京に飛びます。東本願寺の北、烏丸通高辻の南東側にある「平等寺(因幡堂)」です。 2018.7.16ここも既に触れていますが、高辻通の一筋南が松原通です。烏丸通松原東入ルに、「因幡薬師堂」の石標が立つ平等寺への正面参道があります。この時、お盆の灯籠が参道の並べてありました。この辺りは「因幡堂町」です。 本堂前に青銅製灯籠が奉納されています。火袋が六角形の灯籠です。 中台の格狭間六面に龍像が取り付けられています。惜しいことに一面が欠損状態ですので、逆に中台の六角形の格狭間に鋳造された龍像が後で取り付けられたものだということが解ります。ほぼ丸彫りの龍像ですから、鋳造という観点からはなるほど・・・・・です。洛中をさらに、JR京都駅を越えて南に飛びます。めざすのは「東寺」です。洛中の南辺に近いところに平安京時代の「羅生門址」があり、 そこから少し東方向に「東寺」が位置します。 2023.5.25境内に「大日堂」があり、傍に一対の青銅製灯籠が立っています。お堂の向拝の柱には、「回向所」と墨書された提灯が吊り下げてあります。 1基がこれです。灯籠の竿に巻き付く形で龍像が造形・鋳造されています。 もう一頭の龍がこちらにも。この灯籠の龍の姿態は上掲とは異なります。 迫力溢れる龍たち!!! 多少昇竜と降龍の対の趣を感じます。この2基の灯籠にある一つの差異に気づきました。それは灯籠の笠の蕨手(ワラビテ)の場所に一方は風鈴が付いていますが、他方には付いていません。これがこういうデザインなのか、一方の風鈴が欠損となったのか・・・・。不詳です。これをまとめていて気づいた点です。当日は意識していませんでした。洛中から洛南に飛びます。再び伏見にある「御香宮神社」へ。 この建物の中央に本殿への参道が通っている「拝殿」(割拝殿)の近くに、一対の青銅製灯籠があります。 1基がこれ。 2013.5.5火袋が六分割の球形網籠状にデザインされていて、中台も円形状で照応し格狭間が六分割されています。 もう1基の灯籠 2012.3.18 格狭間の一面だけ撮りました。 灯籠の竿には、「御香宮」「永代常夜燈」という文字が陽刻されています。灯籠には、多くの場合、「永代常夜燈」「常夜燈」という文字が刻されています。字句通りに解釈するなら、たぶんかつては灯籠が奉納される時に、併せて日々灯火を点じるための燈明料も奉納されたのでしょうね。今は信仰のシンボルとしての灯籠の奉納なのでしょうか。 灯籠の笠をよく見ますと、蕨手(ワラビテ)の根元に龍頭が造形されています。その時気づいて撮った写真です。そこで、記録写真で再確認しますと、 両足院の灯籠は、蕨手自体が鯱様の意匠に造形されています。一方、 平等寺の灯籠と、 東寺の灯籠は、蕨手の根元に、形は異なりますが、龍頭の意匠で造形されています。こういうのは、灯籠を奉納する施主の意向が反映するのでしょうか。灯籠を鋳造する匠に任されることなのでしょうか。私の探訪範囲で出会った燈籠に棲む龍のご紹介をこれで一区切りとします。寺院の境内には鐘楼・梵鐘(鐘)をよく見かけます。次回はこちらに着目してみたいと思います。つづく補遺兵主大社 facebook 建仁寺塔頭 両足院 ホームページ因幡堂平等寺 ホームページ真言宗総本山 教王護国寺 東寺 ホームページ御香宮神社 ホームページ灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」常夜灯 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.25
コメント(0)
阿弥陀堂 御影堂 2017.3.1東本願寺の境内には正面から見て、御影堂(北側)と阿弥陀堂(南側)が並んでいます。こちらの記録写真の方が古かったので、ここから始めます。各お堂の正面には一対の大きな青銅製灯籠が奉納されています。 阿弥陀堂に向かって右(北)側の灯籠です。火袋は八角形。それに合わせてその下部の中台の格狭間も八面です。ここに龍が陽刻されています。この格狭間を間近で眺めて、燈籠にも龍がいることに気づき、関心を持ち始めた初期の頃です。サンプリング的に、この灯籠だけ撮っていました 私の確認では4パターンの龍の姿が8面に表現されていると思います。(間違っているかも知れません・・・・・が)探してみてください。それでは、西本願寺の境内に向かいましょう。 御影堂 2018.2.27阿弥陀堂の全景を撮ったのがありません。西本願寺の場合は、正面に向かって御影堂が左(南)側、阿弥陀堂が右(北)側にあります。 御影堂に向かって、こちらも右(北)側の灯籠です。この中台のところに、こちらにも様々な動きの龍が陽刻されています。火袋が四角形ですので、中台の格狭間も四面。その内の2面を撮りました。 左(南)側の灯籠はこの時、4面全部を撮っています。 ここでは、龍頭部をアップしたものも撮っていました。その時の気分でしょうか。この4面の格狭間全体の造形を見ますと、龍は基本的に2パターンですが、細部の造形が微妙に異なり、4面とも違う気がします。ご覧いただきご判断下さい。こちらもサンプリングをしたにとどまります。次に訪れたときには、全部の灯籠を確認してみたいと思っています。ここから山科に飛びます。 2019.3.29山門前に「本派本願寺山科別院」と刻された寺号碑が立つ西本願寺の別院本堂です。正面に大きな青銅製灯籠が一対奉納されています。 向かって右側の灯籠に近づいてみると、本山の灯籠と異なり、こちらは火袋が八角形です。当然中台も格狭間は八面。そこに龍が陽刻されています。 左側の灯籠です。 中台部分を切り出してみました。小さくて見づらいと思いますが、上掲の灯籠と一対ですので、こちらの龍の姿も2つのパターンが繰り替えされているようです。 この後、北に位置する東本願寺の「山科別院(長福寺)」も訪れました。 本堂の前には大きな石灯籠が一対奉納されています。こちらには龍はいませんでした。次回は他に京都と滋賀で出会った灯籠の龍をご紹介します。つづく補遺真宗大谷派 東本願寺 ホームページ真宗大谷派東本願寺【公式】 YouTubeお西さん(西本願寺) 公式サイト 浄土真宗本願寺派 公式サト灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.24
コメント(0)
=== 2023.12.23 === 南の空朝撮れなくて、12時15分過ぎになってしまいました。天気は晴れ!!太陽の位置が・・・・。写真としては没の部類ですね。まあ、記録ということでご寛恕ください。早くも1ヵ月前のことになっています。まさに光陰矢の如しです。龍を追いかけていると、雲の変化を追えません。南西方向の空 西方向の空 西の方向はスカッとした青空。 頭上の空 東方向の空稜線上空も、青空が広がっています。良き日です。 東方向の空16時40分近くに眺めると、日の入り時刻との関係でしょうか、空の青さが薄くなっています。 南の空 雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 偶然、飛ぶ鳥の姿を点のように留めることになりました。写真を撮ってから、わずか5分ほど後に、ふと空を見ますと空の雲には変化が見えます。 南西の遠方の雲が夕映えていました。少し前には見られなかったのですが。 西方向の雲は筋雲のように・・・・。雲の変化っておもしろい。=== 2023.12.24 === 南の空9時5分頃に撮りました。白雲が浮かんでいますが、前日同様、気持ちの良い青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の稜線上空は雲で覆われていますが、まあ普段よく見かける景色です。この日は、このあと、既に昨年末にご紹介した「石清水八幡宮」の探訪に出かけました。 東方向の空探訪から帰宅後、16時50分過ぎに撮った稜線上空の景色。 南の空南西方向の空 南西の遠くの空は夕焼けていました。デジカメの最大限のズームアップで。 電線や遠くの家の屋根など夾雑物を入れずに遠方の雲と空を撮るのは一苦労・・・。 西方向の空 頭上の空日の入りと相関する空の色合いなのでしょう。観察経験からの理解です。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「証の体験」と題する詩の冒頭に雲が詠み込まれています。 白い雲が 天使を乗せ 諸仏諸菩薩を乗せ 去来する 快晴のありがたさ p160「地球荘厳」と題する詩。一行の理解のためには全文の引用が必要かと・・・・・。 大地は涙で濡れ 鳴く鳥もなく 十八日月も明星も みなことごとく姿をかくし 雲も歩みをとめ 動いているのは川の水のみ 地球に額をつけ 世尊最後のお言葉を パーリ語で唱えまつる ああ宇宙が泣いた 偉大な人の涅槃(ネハン)よ 地球荘厳の日よ p177「告知」と題する詩。これも全文引用します。 地球に額をつけ 祈っていると 稲光りがして 雷が鳴り出した ああわたしの祈りを 天が聞き 地が聞き それをまだ眠っている人たちに 知らせたのだ 雨雲飛び 風唸り 夜明けゆく 彼岸の砂地 p190「雲照り川光る」と題する詩。「第八十番碑に」と前書きが付いています。この詩の半ばに雲が出てきます。 魂を入れて下さる 一峰禅師の声よ チベットのラサまで届けと わたしも唱和する すると石面の雲や川が 生き生きと動き出し 光り出すのだ p207この第80番目の「念ずれば花ひらく」碑にはチベットの祈りも刻まれたものだそうです。「雲」と題する三行の詩が載っています。 かなしき性質(サガ)のゆえに きょうも雲と共に 流れてゆく p215最後の巻の半ばまで、雲の詩句を見つけながら、読み進めてきました。あと200ページ。真民さんの生き方を込めた「ただひたすらに」と題する詩を最後に加えます。 ただひたすらに ただひたすらに ひとつの道を 歩いて行く とどまるな ふりかえるな p196雲の変化に戻ります。=== 2023.12.25 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。この日も快晴の空模様。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に雲が広く漂っていますが、通常からみればいい状況の空模様です。 東方向の空15時20分過ぎに、稜線上空を眺めると雲はほんの僅かで、青空が広がっていました。 南の空 南には、雲って感じの雲の姿が見えます。南西方向の空 西方向の空 南から西にかけては、かなり雲が広がっています。 頭上の空 頭上はそれほどでもありません。 南の空16時55分近くに眺めると、遠方の雲に夕映えが見られます。 ワンポイントでズームアップするとこんな感じ・・・・。南西方向の空 お向かいさんの屋根が入らないようにギリギリのズームアップで。 西方向の空 頭上の空近くの南から西、頭上にかけては、雲が大きく広がっていました。 東方向の空東の方も、遠方の空は少し夕映えしているようでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 7回のシリーズでご紹介。
2024.01.23
コメント(0)
元旦に、このシリーズの初回でご紹介したのがこの「東福寺・経堂」の屋根瓦です。降棟の先端は通常鬼瓦あるいは鬼板が使われています。この部分に、龍を見つけたのです。「鬼不在」の鬼瓦バージョンとして、言わばこの龍瓦が作られたのでしょう。龍は龍神にリンクし、雨を呼び、火除けを連想させますので、意図的に龍が用いられているのかも知れません。鬼瓦の写真を撮るのが好きですので、この龍瓦を見つけたときは一種感動しました。そして、その観点を加えると、やはり屋根に棲む龍が各地にいるのです。まずは、京都・下京の「興正寺」 (真宗興正寺派)に飛びましょう。 2018.2.27 境内の北辺にある「経蔵」の正面、唐破風の屋根のところに、 二頭の龍が象られています。二頭であることも珍しいと思います。下京から鴨川を越えて洛東に飛びます。 2019.1.2既におなじみの「禅居庵」です。臨済宗建仁寺の塔頭です。建仁寺の境内の南西角です。 ここの本堂の屋根に龍がいます。やはりここでは、ちょっと寄り道して、 2019.1.2大和大路通を挟んで西側にある「ゑびす神社」を訪れましょう。 参拝した折に、垣間見て見つけたのです。 社殿の傍に、龍を造形した桟瓦が奉納されていたのです。奉納のための飾り瓦なのかも知れませんが、これまた珍しい龍瓦です。今でもたぶん置かれているでしょうね。東山の少し北に向かいます。飛先は仁王門通東大路の交差点。洛東東山仁王門です。 2021.3.24この北西角に「信行寺」(浄土宗、知恩院の末寺)があります。「開運出世 毘沙門天」碑が門前に立っています。本堂の伊藤若冲筆「花卉図 天井画」が有名です。普段は非公開。特別公開が以前にあったのですが、行きそびれて未見です。序でながら、辻惟雄編『若冲の「花」』(朝日新聞出版、2016年9月第1刷)に収録されています。画像で楽しむことはできます。 本堂の屋根に 龍がいます。ここから北東方向の黒谷に向かいます。めざすは「金戒光明寺」(浄土宗大本山)です。 境内の阿弥陀堂の背後(北東)に「新清和殿」があります。玄関口の切妻屋根の上に、 龍を見つけました。 黒谷から北西方向の北野に飛びます。めざすのは北野天満宮の傍に位置する 「東向観音寺」(真言宗泉涌寺派、観音寺門前町)です。 「行者堂」の屋根の降棟の先端部です。 画像処理により龍を少し見える形に明るくしました。ここから、南西方向の花園に飛びます。JR嵯峨野線の花園駅が一つの目印になります。花園駅前をさらに西へ。双ヶ丘の南東側にあるのが、 「法金剛院」(律宗)です。 2018.3.17道路に面した山門(右)を入ると、中門(左)があります。山門の左には寺号碑、門の右柱には「関西 花の寺第十三番」の木札。 中門の東側にこの宝形造の屋根に切妻屋根の付いた土蔵造の建物があります。境内の案内図には名称が記されていませんでした。 この切妻屋根に龍がいます。花園から亀岡市へ飛びます。 市内に「宗福寺」(浄土宗、矢田町)があります。 降棟の先端に龍がいます。京都の探訪で私が見つけたのはこれだけです。ここから一っ飛びで奈良・華厳宗総本山の東大寺へ。 2016.11.2境内には「戒壇堂」があります。 軒瓦と軒丸瓦の瓦当面には「享保壬子造戒壇堂」の文字が陽刻されています。 ここではとぐろを巻く龍を見ることができます。東大寺から南西方向に飛びます。めざすのは「唐招提寺」です。 2017.12.4唐招提寺にも戒壇があります。ここは築地塀で囲まれていますが、戒壇自体は露天状態です。 右側面の築地塀にある唐門の屋根に龍がいます。 さらに、塔頭「法花院」の門の屋根にも、 ここでは留蓋と称される瓦に龍がいます。さて、最後に滋賀県に飛びましょう。まずは湖南の坂本へ。京阪電車「穴太」駅が近くです。 「盛安寺」(天台真盛宗)の本堂から客殿の屋根を眺めた景色だったと思います。 その建物の降棟にいる龍に気づきました。そして最後は、湖北・米原市に飛びます。 「福田寺」(浄土真宗本願寺派、長沢)です。 この本堂の降棟の先端に龍がいます。今までの探訪機会において龍瓦に気づいたものをまとめてご紹介しました。門に棲む龍 ⇒手水鉢に棲む龍 ⇒建物とその付属物に棲む龍 ⇒屋根に棲む龍と巡ってきました。次は寺社等の境内・庭に再度目を向けて見ます。ここには、灯籠、鐘楼、その他、龍の居場所があります。灯籠から始めます。つづく補遺真宗興正寺派 本山興正寺 ホームページ臨済宗建仁寺塔頭 禅居庵 ホームページ京都ゑびす神社 ホームページ浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ北野東向観音寺 公式ホームページ律宗 五位山 法金剛院 ホームページ戒壇院戒壇堂 :「東大寺」唐招提寺 ホームペーj福田寺(米原市) :ウィキペディア盛安寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」福田寺庭園 :「おにわさん」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.22
コメント(0)
2015.3.28比叡山の山上から始めます。山頂に建ち並ぶ「延暦寺」の伽藍の一つ「大講堂」です。ここは大津市になります。 大講堂正面・向拝の頭貫上の蟇股に彩色された龍がいます。坂本に降りますと、 2015.3.28「律院」(天台宗)というお寺があります。 本堂・向拝の頭貫上に向かい合う形で龍がいます。坂本から「三井寺(園城寺)」に飛びます。 2013.12.7境内には「閼伽井(アカイヤ)屋」の木札を掛けた建物があります。閼伽井とは神仏に供える水をを汲む井戸のことです。この建屋の中に井戸があります。 ここにも蟇股に龍が透かし彫りにされています。堅田に飛びますと、 2013.3.23「光徳寺」(真宗大谷派、堅田)があります。蓮如上人像の前にある銅像は、「堅田源兵衛父子殉教之像」です。この源兵衛父子の殉教の史実で知られたお寺です。 向拝の蟇股に龍がいます。堅田から琵琶湖を飛び越えて、湖東の篠原へ。 「法善寺」(浄土宗、野洲市小堤)です。国道8号線の「小堤」が一番近い交差点。 頭貫上の蟇股に龍がいます。さらに東へ。日野町に飛びます。 2014.4.26めざすは「正法寺」(臨済宗妙心寺派)です。 このお寺の大日堂に龍がいます。余談ですが、このお寺のある山の「正法寺山散策案内図」が設置されています。 近くには「日野ダリア園」があります。ここから北隣りの東近江市に向かいます。めざすのは「善教寺」(臨済宗妙心寺派、種町)です。 山号「初種山」の扁額を掲げた釈迦堂があります。 堂内の欄間にダイナミックな金龍が向き合っています。ここから、蓑作山の山上に飛びましょう。この山は東近江市と近江八幡市の境に位置します。 2016.10.22東近江市側に、「瓦屋寺」(臨済宗妙心寺派)があります。 この本堂の蟇股に龍が。 さらに、寺の本坊の唐破風屋根の玄関口の所にも龍がいます。次は、近江八幡市の湖岸近くの長命寺山に飛びます。 2013.10.5山上に「長命寺」があります。右の建物は、境内にある「護法権現社」の拝殿です。 山側の一段高い位置に本殿があります。頭貫の上に龍がいます。ここから、湖北の長浜市に飛びます。 JR北陸本線「長浜駅」に近いところに、「豊国神社」があります。 本殿の右側に「稲荷社」があり、その唐破風屋根の下に龍がいます。虹梁の上に、白狐がいますので、この色合いと白狐で稲荷社とわかりますね。次は、同じ長浜市内で北東方向の「大通寺」(真宗大谷派、元浜町)へ向かいます。 ここは、「大通寺広間附玄関」です。入母屋造りの屋根に軒唐破風をつけています。傍に立つ駒札によれば、「玄関は宝暦10年(1760)に当寺住職横超院の内室であった彦根藩主井伊直惟(ナオノブ)の息女数姫(カズヒメ)によって建てられたことが棟札により明らか」だそうです。 ここから湖西の近江高島にある乙女ヶ池近くに飛びます。 打下(ウチオロシ)地区に「日吉神社」があります。 2013.7.20 この拝殿に この龍の額が奉納されています。南に少し飛びます。 2013.7.20「白鬚神社」(高島市鵜川)です。 本殿 本殿の蟇股に龍がいます。私が滋賀県で探訪した範囲の寺社の建物に棲む龍たちを終わります。+αとして、それ以外の府県での探訪からの事例を加えます。 一つは大阪市にある「大阪天満宮」です。 本殿 その本殿・向拝の頭貫上に龍がいます。もう一つは富山市の岩瀬で出会った龍です。 「慶集寺」(浄土真宗本願寺派、岩瀬町)です。 建物では、向拝や拝所の頭貫あるいは虹梁の上、さらに欄間が龍たちの居場所になっている場合が多いと言えます。次は建物の屋根に目を転じます。そのあと、既に手水舎を採りあげていますので、灯籠に着目します。いずこの寺社でも灯籠はつきものですので。つづく補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ「律院」と「阿闍梨餅」 :「天台宗」長命寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」長命寺護法権現社 豊国神社 長浜恵比須宮 ホームページ長浜別院 大通寺 (公式) :「真宗大谷派 長浜教区」白鬚神社 ホームページ大阪天満宮 ホームページ琳空山慶集寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.21
コメント(2)
2015.2.19京都市内の山科から市外に飛びましょう。まずは宇治へ。冒頭の本殿は、「縣(アガタ)神社」の本殿です。宇治橋西詰に立つと、大きな石鳥居が見えます。ここから参道になります。突き当たりの手前、左側が境内地です。平等院の西に位置します。 唐破風屋根の拝所で、前方を見上げると、頭貫の上にダウナミックな龍の透かし彫りを眺めることができます。 白い宝珠を掴む爪に目が惹き寄せられますが、残念なことに龍頭が今では欠損になっています。ここから男山の山上に飛びましょう。 2023.12.24そこには、「石清水八幡宮」(八幡市)があります。本殿を囲む廻廊と楼門の前面に唐破風屋根の拝所があります。 虹梁の上、束の両側には極彩色の透かし彫りが施されています。 左側に龍がいます。右には龍と向き合う形で虎がいますが省略。 もう一カ所、頭貫の両端の木鼻には、一般的には象か獅子の彫像が多いのですが、 ここでは龍が彫刻されています。ここで今、ふと思ったこと。はて、龍はどのように数えるのだろう?ネット検索で調べてみますと、一匹、一頭、両方OKだそうです。「ただし、想像上の動物として民話などに登場する場合は『匹』で数えます。『頭』で数えると、竜の現実的な存在感が増します」(資料1)この拝所前では一挙に3頭の龍を眺められることになります。男山から南東方向、京田辺市北部に飛びます。京田辺市の北部の「松井」と称される地域を探訪した時に出会った龍たちです。 2018.5.10八幡京田辺ICに近く、京田辺市の最北部に位置すると言えるのが、この「松井天神社」(松井向山)です。 本殿・向拝の頭貫の正面に金龍がいます。 少しクローズアップして・・・・。 金龍が中心に見える形で本殿が様々な意匠で煌びやかに彩色されています。松井天神社の南東方向で隣りの松井里ケ市にあるのが、 2018.5.10「来迎寺」(浄土宗)です。 このお寺で出会ったのが、本堂の脇陣の厨子の一つに安置された龍像です。 どういう目的で造形された物なのでしょう。佛具の一つとしての竜神でしょうか。ある史跡探訪講座の一環で拝見でき、教えていただく時間のゆとりが無かったので不詳です。ここからさらに南東の大住地域に向かいます。 2018.5.10「両讃寺」(浄土宗、大住八河原)です。 本堂の欄間に向かい合う二頭の龍が透かし彫りにされ、彩色されています。ここから奈良に飛びます。まずは、東大寺の境内、大仏殿の西側へ。 「東大寺指図堂」です。右側の柱に木札が掛けてあります。 このお堂の向拝に龍がいます。ここは平安時代に創建された中門堂跡地だそうです。1567年の三好・松永の乱で、大仏殿とともに焼失。江戸時代初期に、大仏殿三度目の復興気運が盛り上がったとき、「この中門堂跡地には大きな板絵に描かれた『指図』すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられた。指図堂という名称はこのことに由来するという」(資料2)とのこと。東大寺から南に飛びます。JR桜井線の帯解駅近くへ。 2016.5.28「帯解寺」です。手水舎の龍でご紹介していますが、本堂の向拝にも 頭貫の上に龍がいます。JR桜井線で言えば、帯解駅から一駅南、「櫟本(イチノモト)」駅に向かいます。帯解駅は奈良市の南西端に、一方、櫟本駅は天理市の北端に位置します。余談です。帯解駅は帯解寺に由来する駅名のようです。そして、寺名の由来は、「文徳天皇妃である染殿皇后が当寺に祈願し、無事安産されたことから、文徳天皇により、天安2年(858年)春、無事に帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と名付けられました」と言います。(資料3)ウィキペディアによれば、櫟本駅の「駅名は天狗が住む巨大な櫟(イチイ)の木があったという伝説に由来する」とか。(資料4) 櫟本には、「和爾下神社」があります。お堂の左側の板屏の瑞垣の向こうには境内社があります。 隙間から眺めますと、小社の頭貫の上に龍がいます。さて、ここから西方向、斑鳩の里に飛びます。「法隆寺」へ。 法隆寺の「金堂」に龍がいます。 1階の屋根と2階の屋根との間に支柱が設けてありますが、ここに龍がいます。 昇り龍 降り龍 支柱の龍は屋根の四隅に見る事ができます。 また、1階の屋根と裳階(モコシ)との間にもちょっと異様なこの彫像が屋根を支えています。これも龍の姿のように思うのですが・・・・どうでしょう。法隆寺から、南西寄りに南へ、県境を越えて和歌山県に入り、高野山へ飛びます。 「金剛峯寺」の主殿(本坊)この場所は、もとは豊臣秀吉が建て、後に青巌寺と称された寺があった場所です。秀吉は菩提寺として建てたと考えられているそうです。その青巌寺の柳の間で豊臣秀次が自刃して果てました。現在の建物は、青巌寺の場所に、江戸時代後期に、秀吉建立の青巌寺と形や大きさが同じ建物を建立したとされています。(資料5)上掲の右の写真は、大玄関(左:表玄関)と小玄関(右)の全景です。左の写真の檜皮葺(ヒワダブキ)の屋根には天水桶が置かれています。雨水を溜めておき防火に役立てるとのことです。(資料6,7) この主殿の大玄関の屋根の切妻部分に龍がいます。ここでひと区切りとします。次は、高野山から滋賀へ飛びます。つづく参照資料1) 竜 :「数え方単位辞典」2) 指図堂 :「東大寺」3) 帯解寺紹介 :「帯解寺」4) 櫟本駅 :ウィキペディア5) 高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」 :「ストーンサークル」6) 大玄関と小玄関 :「高野山」7) 天水桶 :「高野山」補遺京都宇治 縣神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ天神社 :「お茶の京都」<京都府南部(山城地域)の観光情報サイト>来迎寺 :「京田辺市観光協会」浄土宗 發迎山 両讃寺 ホームページ東大寺 ホームページ第11番東大寺指図堂 :「法然上人二十五霊場」帯解寺 ホームページ和爾下神社 :「天理観光ガイド・天理市観光協会」法隆寺 ホームページ高野山 高野山真言宗総本山金剛峯寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.20
コメント(0)
2013.5.5蟇股に透かし彫りがされ、極彩色に彩色された龍像から始めます。洛南に飛びました。 ここは伏見桃山に所在する「御香宮神社」です。本殿の修復が完成した2013年に特別公開があり、そのとき本殿の瑞籬の内に入り、仮設通路を巡りながら、本殿外観を間近に拝見することができました。 屋根を支える束に龍が描かれ、 もう一つの束 本殿の柱は角の面取りがなされていて、 本殿正面の両角の柱に、昇龍と降龍が描かれています。 内側の柱も同様に昇龍と降龍が対になっています。多くの龍がこの本殿にいます。中世には伏見荘の産土神として崇敬され、文禄年間(1592-1596)には、豊臣秀吉が社殿を大亀谷に移し、伏見城の鬼門除けの守護神にしました(古御香宮社が現存します)。德川家康が現在地に移し、新たに社殿を造営しました。「とくに伏見で生まれた紀伊・水戸・尾張三公の藩祖はいずれも当社をもって産土神とあがめ、多くの社殿や石鳥居・石灯籠などを寄進した」そうです。皮肉なことに、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦においては、この御香宮神社が薩摩藩の屯所となり、大手筋を隔て、南にあった伏見奉行所の幕府軍との戦いが行われたのです。(資料1) 2013.5.5南の中書島に飛ぶと、「長建寺」(真言宗醍醐派、東柳町)があります。境内から撮った山門です。 長建寺で見つけた龍。ここから三栖に向かいますと、 2014.4.17「光徳寺」(真宗大谷派、三栖町)があります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。三栖から深草に飛びましょう。めざすは「伏見稲荷大社」です。 2020.1.11この拝殿の右(南)方向に、 2016.10.5 「能舞台」があります。 柱と頭貫との角のところに三角の木材を加え、装飾性を加えかつ補強を兼ねているのでしょう。龍が彫られています。 伏見稲荷大社の周辺に「釈迦堂」と称するお堂があります。 釈迦如来坐像の手前、両側に幢幡が吊りさげてあります。その上部に龍像が取り付けてあります。ここにも龍が。伏見稲荷から稲荷山を越えて、南東方向の醍醐に飛びます。醍醐のほぼ中央、奈良街道に面して「醍醐寺」があります。真言宗醍醐派の総本山。醍醐の山上と山下の双方に堂塔が立ち並んでいます。山上は上醍醐、山下は下醍醐と称され、醍醐寺は総称です。良く知られているのは、「三宝院」。豊臣秀吉が醍醐で花見をしたことが有名です。表書院の前にある庭は、秀吉が花見に際してみずから地泉回遊式庭園を設計施工したと言われているとか。庭に聚楽第から移された藤戸石が有名です。 山の上、上醍醐には「開山堂」があります。 ここの蟇股にも龍がいます。醍醐から山科本願寺址付近へ飛びましょう。山科にはかつて浄土真宗の蓮如上人が本願寺の再建をこの地で果たし、山科本願寺を拠点とされました。蓮如上人は、最後はこの山科本願寺にて1499年3月25日に85歳で示寂されました。ここに「蓮如上人墓」があります。天文元年(1532)に細川晴元とことを構えたことにより、山科本願寺は同年に焼失。長く廃墟となったそうです。「天正年間、顕如上人は豊臣秀吉から旧地を譲りうけ、蓮如上人の墓を管理するため、享保17年(1732)に」(資料1)山科別院を建立されたと言います。現在は、東西両本願寺の山科別院があります。 「本願寺山科別院」(西本願寺、東野狐薮町)が国道1号線に近く、南にあります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。金網が張ってありますので見づらいですが。山階小学校の北側に、「蓮如上人墓」(西野大手先町)があります。西野大手先町は東野狐藪町の北西側の隣りです。そして、西野大手先町の北隣りが竹鼻サイカシ町。こちらの町内に 「東本願寺別院」(長福寺)があります。 こちらも、本堂・向拝に龍がいます。同様に金網が張られています。東野から南西方向に向かいます。 西野山に「岩屋寺」(曹洞宗、桜ノ馬場町)があります。この石段を登った上です。通称が「大石寺」。このお寺には、浅野内匠頭長矩の位牌と四十七士の像が安置されています。また境内下段の地が、大石良雄宅址と伝えられているのです。旧宅址をしめす顕彰碑が建てられています。 この石段の左側に、境内社として「大石稲荷大明神」と称する稲荷社が祀られています。 この稲荷社の頭貫の上に、龍がいます。ここから、北上して、天智天皇山科陵の北側を流れる琵琶湖第一疏水を越えた先の本圀寺に飛びます。「本圀寺」(日蓮宗、御陵大岩町)の境内には、 2018.10.26「清正宮」というお堂があります。「加藤清正公眞生墓廟」とも称されます。「加藤清正の女(瑤林院)が父母の菩提追福のために建立したもの」「清正は生前熱心な法華信者であり、当寺とも関係が深かったから、清正に関する遺物・伝説が多い」(資料1)そうです。 お堂の周囲の桁の上を装飾する干支の動物の一つとして龍が彫刻されています。本圀寺は、元は堀川六条にあり、洛中法華21ヶ本山の一つとして約420余年に及んだのですが、昭和44年(1969)に現在地に移転しています。(資料1)京都・洛南を終えて、次回は京都府下に飛びます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂補遺御香宮神社 ホームページ辨財天長建寺 :「京都観光Navi」光徳寺 ホームページ醍醐寺 ホームページ浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ真宗大谷派山科別院長福寺 :「京都観光Navi」 第24番 岩屋寺 :「近畿三十六不動尊霊場会」本圀寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.19
コメント(0)
シリーズとしての回数が増えてきました。インデックスとして一覧表を作成し、11回目からはこの一覧表を更新し、過去記事へのリンキングをしていきたいと思います。観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -10 寺社の建物と付属物 京都・洛中(2)/洛東 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -11 寺社の建物と付属物 京都・洛南観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -12 寺社の建物と付属物 京都・奈良・和歌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -13 寺社の建物と付属物 滋賀+α観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -14 寺社の屋根に棲む龍 鬼瓦でなく龍瓦観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -15 灯籠に棲む龍(1) 東西両本願寺にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -16 灯籠に棲む龍(2) 遠近に飛び回る観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -17 鐘楼・梵鐘に棲む龍(1)京洛にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -18 鐘楼・梵鐘に棲む龍(2)京洛(続)&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -19 境内・庭等に棲む龍(1) 京洛と近江観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -20 境内・庭等に棲む龍(2) 京洛&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -21 門に棲む龍 続編観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -22 龍神・龍王とされる龍の社****************************観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -30 祇園祭と龍:長刀鉾・月鉾・綾傘鉾・白楽天山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -31 祇園祭と龍:岩戸山・船鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -32 祇園祭と龍:木賊山・太子山・油天神山・芦刈山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -33 祇園祭と龍:伯牙山・蟷螂山・放下鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -34 祇園祭と龍:山伏山・占出山・孟宗山・保昌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -35 祇園祭と龍:大船鉾・南観音山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -36 祇園祭と龍:北観音山・八幡山・鷹山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -37 祇園祭と龍:役行者山・黒主山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -38 祇園祭と龍:鯉山・橋弁慶山 このシリーズをこれで終わります。 お楽しみいただければうれしいです。
2024.01.19
コメント(0)
2018.7.16京都・洛中の南部である下京には、「平等寺(因幡堂)」があります。烏丸通高辻の南東角、因幡堂町に所在します。 向拝(庇)を支える手挟(テバサミ)に龍が彫刻されています。 2ヵ所撮ってみました。 向拝の正面に鰐口(金鼓)が吊してあります。その丁度上のところに、「薬師如来像懸仏」が掲げてあります。この懸仏の両側に龍が彫刻されています。 2019.6.4その「薬師如来像懸仏」が龍谷ミュージアムで開催された「因幡堂平等寺」展で公開される機会がありました。受付カウンターの近くで、この懸仏だけは撮影可能だったのです。中央の薬師如来像の両側に龍が彫刻されています。まさに「間近に見られる最後の機会」と案内板に記されていました。 平等寺から、高辻通室町西入ルまで行けば、「繁昌神社」(繁昌町)があります。 その社殿の蟇股の箇所に龍がいます。下京にある東西両本願寺と興正寺は探訪していますが、阿弥陀堂や御影堂には龍の彫刻はなかったと思います。他の箇所にはたくさん龍がいるのですが・・・・。ここから、鴨川を飛び越え洛東に向かいます。東山三条の交差点の南西側に、 2013.4.17「大将軍神社」(長光町)があります。 ここにも龍がいます。少し北の仁王門通に向かいますと、 2021.3.24 「頂妙寺」(日蓮宗一致派、大菊町)があります。 向拝の蟇股に龍がいます。 2021.11.21ここから、円山公園の北側に位置する知恩院に飛びましょう。 2017.6.12知恩院境内の北東で一番高い境内地に円光大師(法然上人)の「御廟」があります。 石段を上がると「拝殿」、その北に廟堂があります。廟堂の周囲に唐門のある玉垣がめぐらされています。「唐門」が拝殿越しに見えます。 その唐門の蟇股に巻き付く形に龍が透かし彫りにされています。円山公園の東奥、知恩院の南側に向かいますと、 2016.3.22 2016.3.22 「吉水弁財天堂」(円山町)があります。ここは、円山公園の東北隅に位置する「安養寺」(時宗正法寺派、円山町)の門前下段の地で、飛地境内になるそうです。吊された提灯には「弁財天女」、柱の提灯には「吉水弁財天女」と記されています。 正面の頭貫と虹梁の間に龍が彫刻されています。 龍のダイナミックな透かし彫りになっています。八坂神社の境内に飛びますと、 2003.3.21 境内社の一つに「大国社」があります。ここにも、頭貫の上に透かし彫りの龍がいます。八坂神社の境内から、JRと京阪電車双方の「東福寺」駅近くへ飛びます。駅から数分のところに、 2017.11.21「瀧尾神社」があります。このシリーズの初回で触れています。この社殿の唐破風屋根の拝所、 瑞籬の中門の虹梁の上に向かい合う龍の透かし彫りを見ることができます。 こんなところにも龍頭が彫刻されています。唐破風屋根の前面の柱と瑞籬の門の柱とをつなぐ貫の門柱側です。この辺りでひと区切りとします。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 1 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 2 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂補遺因幡堂 平等寺 ホームページ繁昌神社 :ウィキペディア大将軍神社 :「京都観光Navi」頂妙寺 :「京都風光」知恩院 ホームページ吉水弁財天堂(円山弁財天堂) :「京都風光」 京都祇園 八坂神社 ホームページ瀧尾神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) へ
2024.01.18
コメント(0)
2014.5.3神社や寺院の建物およびそこにある付属物に数多くの龍が棲んでいます。冒頭の建物は、「北野天満宮」の拝殿です。北野天満宮境内の西側には、紙屋川が流れています。この左岸に沿って築かれた土堤が御土居跡として残っています。豊臣秀吉が京の都の周囲に築造したこの御土居の一部です。この御土居の内側が洛中と呼ばれます。東の鴨川に沿っても御土居が築かれていましたので、鴨川より東は洛東ということになります。そこで洛中の北、北野にある北野天満宮から始めます。 拝殿正面の柱には頭貫が通り、その上に蟇股が組み込まれています。この蟇股の一つに、龍が透かし彫りで極彩色に彩色されています。 吊り灯籠が下げてあります。 その吊り金具に巻き付く形で龍が造形されています。 もう一つの吊り灯籠にも。 北野天満宮から南に飛びますと、北野の南辺近くに、 通称「だるま寺」で知られる「法輪寺(法輪禅寺)」(臨済宗妙心寺派、行衛町)があります。 この衆聖堂の二階の中央に 釈迦涅槃像が安置されています。 正面の背後に祭壇があり、その両開きの扉の上の欄間に龍が透かし彫りで彩色されています。引き返し、北野の東、紫野に向かいます。 2018.9.13大徳寺の塔頭「龍源院」の特別公開が行われた時に拝観しました。臨済宗大徳寺派です。 寺名に龍が。軒丸瓦の瓦当面に「龍」の字が陽刻されています。 方丈の襖に「龍と波」が描かれています。江戸期の作。ここから東へ、寺町頭(寺町通の北端)に飛びましょう。寺町通は鴨川の流れに沿った通りです。寺町通と鴨川との間に、かつては御土居が築かれていました。 寺町通の北端に位置するのが「上善寺」(浄土宗)です。鞍馬口通寺町東入ル北側。京都六地蔵巡りの第一番で知られるお寺です。 本堂へ 本堂の向拝の蟇股に龍が彫刻されています。 2014.2.17寺町通を南に進むと、「阿弥陀寺」(浄土宗鎮西派、鶴山町)があります。「大正6年、勅使来訪織田信長公正一位階追陞、『織田信長公本廟』として公認された寺」です。(資料1) 本堂の北側にある建物、庫裡だったと思います。その玄関口に龍がいます。阿弥陀寺の南隣りが「十念寺」。その南隣りに 「仏陀寺」(西山浄土宗、鶴山町)があります。大蔵院と号する古刹で、朱雀・村上両天皇を開基とするそうです。ある史跡探訪講座で訪れました。 本堂を拝観したとき、荘厳する装飾の中に龍が彫刻されていることに気づきました。その時、撮ったのがこの1枚。 余談ですが、山門の手前、左側に南面する形でお堂があります。「王城地祭地蔵尊」記された扁額が掲げてあります。こういう形で地蔵堂があるのはちょっと珍しいかなと思います。寺町通をさらに南へ、丸太町通を横断すれば、中京界隈に至ります。 2020.8.26(*付記)まずは、「行願寺(革堂)」(天台宗延暦寺派、行願寺門前町)です。革堂という通称の方が、たぶんよく知られていると思います。 2014.2.17本堂の向拝の正面に、 * 龍がいます。金網で覆われているのが、残念ですが・・・・。寺町通から新京極通に飛びます。新京極通六角下ル東側にあるのが、 2018.3.26(*付記)「誠心院」(真言宗泉涌寺派)です。俗に「和泉式部寺」として知られています。寺名が和泉式部の法名に由来し、また境内には和泉式部塔と称される巨大な宝篋印塔があります。 2018.4.9ここの本堂は、向拝の庇部分が唐破風の屋根になっています。 * * その虹梁の上に龍がいます。 * *ここで一区切りとして、次回は洛中内の下京に向かいます。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 1) 信長忌 [寺町・阿弥陀寺] :「京都観光Navi」補遺北野天満宮 ホームページだるま寺[法輪寺 :「ふらふら京都散歩」「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 龍源院 :「京都観光Navi」上善寺 :「京都観光Navi」阿弥陀寺 :ウィキペディア仏陀寺 :「京都風光」和泉式部 誠心院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ
2024.01.17
コメント(0)
=== 2023.12.20 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空布を広げたような雲が南から西方向ならびに頭上の空に広がっています。 東方向の空東の稜線上空だけ、白雲がわき上がり、雲の姿がわかりやすい。昨年末よりしばらく遠ざかっていました雲の変化と雲がたりをもうしばらく続けたいと思います。 東方向の空14時25分頃に撮りました。稜線上空の雲は横雲が浮かぶ形に変化し、青空が見えています。 南の空南西方向の空 南方向の空は雲の形がはっきりした広がりに変わり、青空が見え始めています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、青空が大きく広がってきていました。 南の空17時15分過ぎに撮りました。日の入り後の残照が留める明るさでの空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 ほんの数分後には、上弦の月がズームアップで撮れる暗さになりました。=== 2023.12.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向にも雲が見られず、快晴で一日の始まりです。 東方向の空14時近くに稜線を眺めると大きな白雲が浮かんでいますが、空の青さが増しています。 南の空南西方向の空 南の方向には雲が少し浮かぶ程度です。太陽の位置の関係で見ずらい景色になっています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、雲がかなり広がっています。天気は良好です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時35分過ぎに撮りました。日の入り前の時間帯なのでしょう。雲は見られず、空には暗色に覆われる前の夕暮れ時の淡い色合いが広がっています。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回(2023.12.29)は、「うたに合わせて」と題する詩の引用で区切りとなりました。この後、50ページほどの詩に「雲」は詠み込まれずに、進みます。そして、「砂が光る」と題する詩の中央部分に、久々に「雲」が出てきます。 夜明けてゆく重信川の川原で 祈っていると 雲間から突然月が光り出し わたしに力を与えて下さる 地球に額をつけて 地球よ平安なれ平安なれと 五十ぺん近く唱える p86「雲」と題する6行の詩が、その次に出てきます。 キラキラと光り輝く新造薬師寺の 水煙の上を白雲が悠々と流れてゆく 昔も流れ今も流れ これからも流れてゆくだろう 変わらぬものは 雲のみか p93「霊石誕生」と題する詩に出てきます。この詩は「念ずれば花ひらく」の第47番目の碑について詠まれた詩の冒頭部です。 朝浄めの雨が降り 式が始まる頃は快く晴れ 五色台一帯の山林の紅葉が光り 白雲低く去来し 式を一層荘厳にした p94「円環」と題する7行詩に出て来ます。 もうすぐ立春だから 月に円環ができているのであろうか 雲一つない空に美しく輝く 二十日の月を仰ぎながら 光を吸飲し祈る 早く目覚めた鳥が 川上へ向かって鳴いてゆく p103その次は、「孤独」と題する詩です。9行の詩。 孤独なユトリロ 孤独なセザンヌ 孤独なゴッホ 孤独なリルケ わたしもその一人 それでいいんだ 流雲 流水 共に流れてゆこう p116「白い十字架」と題する3章の詩では、1章の冒頭に詠み込まれます。 前日来の天雲は去り 夜明けの空は冷え澄んでいた p119「第五十五番目の碑に」と題する詩も、冒頭行に詠み込まれます。 一片の雲もないさわやかな五月の風 p124真民さんは原爆に対する詩を幾つも作っています。雲は出てきませんが、この詩集に収録されている「地球に額をつけて」と題する詩をご紹介して区切りとします。 巡りくる八月六日 広島原爆の日 地球に額をつけて祈る こぶしを握り うでを振り 抗議するのは もうやめよう 心を一つにして 核のない地球実現のため 地球に額をつけて祈ろう そのための鐘であり 歌であり集会であれ p136雲の変化に戻ります。=== 2023.12.22 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。雲がほとんど見られず、快晴といえるでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空普段、雲が多く出ている稜線上空も青空が広がっている感じです。 東方向の空15時5分過ぎに稜線を眺めると、空の青さが一段と加わり、雲は見えません。 南の空南の空には、少し雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気は上々です。 南の空16時35分過ぎに撮りました。空にはわずかな雲。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空頭上も、稜線上空も雲がはなく、晴れた一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.01.16
コメント(0)
2013.12.7滋賀県大津市にある「園城寺(三井寺)」から始めます。天台寺門宗の総本山です。いまでは、三井寺の名称の方が一般的に知られていますね。この大門(仁王門)を入り真っ直ぐに金堂に向かう途中、一段高い境内地への石段の手前左側に、 この手水舎があります。 ここの龍は、なぜかこんな形で檻の中に・・・ あるときこうせざるをえない理由が生まれたのでしょうね。山門や本堂の向拝に棲む龍を金網でカバーする形にしている現状と同様に・・・・。しかし、やっぱり、檻や金網は無い方がいいなあ・・・・。ここから坂本に向かいます。 2013.11.18ここは「西教寺」。天台真盛宗総本山です。信長の延暦寺焼き討ちの後、明智光秀が復興に尽力したことと明智光秀一族の墓があることでも知られているお寺です。 本堂前にある手水舎。龍が立ち上がる姿で造形されています。 2013.11.18西教寺から南東に100mほどのところに、「興玉(オキタマ)神社」があります。 坂本といえば「日吉大社」が最も知られている神社でしょう。西教寺の探訪の続きに、夕方でしたが境内を巡りました。夕暮れであまり写真がうまく撮れません。 2013.11.18 ここの手水舎にも龍がいます。ここまで来れば、やはり比叡の山にある延暦寺へ飛びましょう。延暦寺といえば根本中堂。その近くに、 2015.3.28 この手水舎がありました。坂本から膳所へ。 2017.1.28膳所の旧東海道筋に「若宮八幡神社」があります。 2017.1.28京阪電車の膳所本町駅からほど近いところに「膳所神社」があります。ここは膳所城本丸跡地の近くです。 ここの手水舎にも 坂本から南に飛んで立木山へ。 2015.1.17ここには、「立木観音」が祀られています。厄除け観音として知られています。立木観音で覚えているだけなのですが、調べてみますと、正式には「立木山安養寺」というお寺です。 龍は手水鉢の口縁に沿ってうねるようにその胴体を這わせています。手水鉢の正面には、「浄漱」と刻されています。「漱」は「①すすぐ。口をすすぐ。うがいをする。②あらう。すすぎきよめる」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。余談ですが、この漱の文字で連想するのが夏目漱石。本名夏目金之助が本を書くときに使ったペンネームです。この漱石は「漱石枕流」という語句に由来します。夏目金之助はこの言葉が気に入りペンネームに使ったと言われています。漱石には「負け惜しみ」という意味が込められているそうです。(資料1)「漱石枕流(ソウセキチンリュウ)」は「≪「枕石漱流」というべきところを誤ったうえ、石にくちすすぎ、流れにまくらをするのだと強弁し、こじつけていったことから≫ 負け惜しみの強い、また、こじつけでうまく逃げることのたとえ」(同上書)と説明されています。さて、大津市の東側に隣接する草津市の志那町に飛びましょう。 2017.5.13琵琶湖岸に近い所にあるのが「志那神社」です。志那神社から南東方向に進むと、同じ志那町内に 「三大神社」があります。藤の花で知られています。 2017.5.13 こちらは浄水の注ぎ口としての龍が手水鉢の右側面に位置しています。手水鉢の正面には「濯水(タクスイ)」と刻されています。洗濯の濯です。「濯」は「①あらう。ア)すすぐ。あらいきよめる。イ)きよめる。潔白にする。②おおきい。おおいに」(『角川新字源』角川書店)と説明してあります。志那町の東方向に穴村町があります。 2017.5.13ここに、「安羅神社」があります。この神社、由緒によると、祭神に関して日韓古代史に関係するとの考証がなされている神社のようです。 ここから、近江八幡市に飛びます。とはいってもまずは、野洲市との市境に近い所に位置する神社です。 JR琵琶湖線の篠原駅に近いところにある「上野神社」です。 2019.6.6 手水鉢の正面には「水盥」と刻されています。「すいかん」と読むのでしょうね。「盥」は「皿(タライ)の上で、両手に水をかけているさまにより、をあらう意を表す」そうで、「①あらう。手をあらう。②そそぐ」(『角川新字源』角川書店)という意味を表すそうです。「たらい(盥)」は、「手あらい」の意味が転じて、「湯水を入れ、洗濯などに用いる、丸く平たい容器」(『日本語大辞典』)をさすようになったとか。上野神社から南に飛びますと、鏡の里があります。国道8号線の傍に、 2019.6.6「鏡神社」があります。源義経関連で知られているところです。 ここは手水鉢の左側面に龍がいます。近江八幡市の北、琵琶湖岸近くまで飛びます。琵琶湖に面しているのが長命寺山。この山上にあるのが「長命寺」です。 2013.10.5長命寺から琵琶湖をほぼ縦断する方向で高島市に飛びます。湖西の湖岸・白ひげ浜から湖岸沿いに南西方向に南下したところに位置する、 2013.7.20「白髯(シラヒゲ)神社」です。近江最古の大社と言います。 ここには、立ち上がる姿の龍がいます。これで、手水舎に棲む龍の通覧を終わります。あくまで私の十有余年の探訪範囲でのまとめですが・・・。次はやはり寺社の建物に棲む龍を採りあげて行きたいと思います。境内にある建物の一つでもある鐘楼は別にまとめるつもりですので対象外とします。つづく参照資料1) 漱石枕流 :「近代科学資料館」(東京理科大学)補遺三井寺公式総合案内 ホームページ天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ西教寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」興玉神社 :「大津のかんきょう宝箱」山王総本宮 日吉大社 ホームページ若宮八幡神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」膳所神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」厄除け立木観音 立木山安養寺 ホームページ志那神社 :「滋賀県神社庁」2023年 三大神社 藤の開花情報 :「草津市観光協会」39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社) :「近江史を歩く」上野神社 :「滋賀県神社庁」鏡神社 :「滋賀県神社庁」長命寺 :「近江八幡観光物産協会」白鬚神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ
2024.01.15
コメント(0)
2016.3.20 2016.5.14京都市内の最後に、伏見区に飛びます。深草にある「藤森神社」です。この石鳥居は旧伏見街道に西面しています。旧伏見街道は、現在、北の東山区では本町通、伏見区に入って、直違橋通と称されています。現在の地図の町名に関連しているのでしょう。本町は1丁目~22丁目、直違橋は1丁目から11丁目と連なり、それぞれが通りを挟んだ両側町です。 2016.514 かなりの歳月を経た、長老級の龍ですね。 2016.3.20藤森神社からでは、深草の北北東方向になりますが、「瑞光寺」(日蓮宗、深草坊町)があります。「元政庵」という名称で知られているお寺です。 この境内に祀られた境内社の傍に、この手水鉢が置かれています。 大方の手水舎の龍がブロンズと思われる金属製であるのに対して、石造龍像なのが印象的です。さらに北の稲荷山に飛びますと、 2016.10.15伏見稲荷大社には、背後の稲荷山を巡り山頂までの参道が周回しています。その参道の途中で、一カ所だけ龍のいる手水舎に出会っています。 ここの龍頭も石造稲荷山には他にもあるかもしれませんが・・・・。京都市から京都府下に飛びましょう。まず、我が地元の宇治市に飛びますと、 2015.2.19 平等院の西側に「県(アガタ)神社」があります。 そこの手水鉢の正面には、「縣井」と太字が刻されていて、龍がいます。 宇治市の西方向に八幡市があります。男山に飛ぶと、昨年末に直近の探訪としてご紹介した「石清水八幡宮」の所在地。こちらから拙探訪記をご覧ください。8回のシリーズでご紹介しています。 2023.12.24男山の中腹、中参道沿いに「石清水社」があります。この石鳥居を通り抜けると、正面に「石清水井」があり、井戸には覆屋が設けてあります。ここは、神様に香水を供えるための井戸なのか、手水の役割も担っているのか、私には不詳です。ひとまずここでご紹介しておきます。 覆屋の虹梁の正面に極彩色で龍が描かれています。覆屋全体に彩色描画が施してあります。男山から南東方向に向かえば、京田辺市があります。 2020.2.27田辺棚倉に所在する「棚倉孫(タナクラヒコ)神社」です。 京田辺市の南は精華町です。 2014.6.12「武内神社」があります。 この二社にも龍がいます。それでは、南方向の奈良県に飛んでみましょう。 2020.1.2奈良市内に「福智院」(真言律宗、福智院町)があります。 この石造地蔵菩薩立像の前に手水鉢があり、 そこにこの龍が!!JR桜井線は「奈良」駅を起点にし、「京終(キョウバテ)」、「帯解(オビトケ)」と停車駅が続きます。ともに面白い駅名です。この帯解駅の近くに、 2016.5.28「帯解寺」があります。帯解子安地蔵尊で知られたお寺で、「子安山」が山号です。 ここの手水舎に龍がいます。それでは南西方向に飛びましょう。JRで言えば大和路線の法隆寺駅へ。 2020.1.25 めざすは「法隆寺」です。 仁王門に向かう手前の手水舎に龍がいます。 もう一カ所、池の傍にある手水舎にも。 ここはちょっと異色です。大きな水瓶の注ぎ口が手水鉢に浄水を注ぐ龍頭になっています。この形式は今までに私が初めてみたものです。法隆寺から南にある河合町に向かいましょう。 2018.4.12ここには「広瀬大社」があります。 参道途中の手水鉢に龍 二ノ鳥居さらに進むと、本殿の境内地に 正面に「広瀬社」と太い文字が刻された手水舎があります。 河合町から、東方向の天理市に飛びます。 2016.5.28「和爾坐赤坂比古(ワニニイマスアカサカヒコ)神社」が坂道を上がった小高い場所にあります。JR櫟本駅から直線で約1.4㎞の距離に位置し、この辺りの集落の最も高いところにある神社です。 ここにも龍がいます。ここでもう一区切りとします。天理から次は滋賀県に飛びます。つづく補遺藤森神社 ホームページ本町通(京都市) :ウィキペディア京都深草 瑞光寺 ホームページ京都宇治 県神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ棚倉孫神社 :「京都府神社庁」福智院 :「奈良県立図書情報館」京終 :「コトバンク」奈良 安産 帯解寺 ホームページ法隆寺 ホームページ廣瀬大社 ホームページ和爾坐赤坂比古神社 :「いにしえの里、天理へ」(天理市観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ
2024.01.14
コメント(2)
2016.2.27京都市内の寺社の手水舎を巡ることを続けます。探訪の折に見つけた龍たちです。過去の暦年の探訪記録写真から、龍たちを見つけ出すのに結構時間を要しました。十分な整理ができていませんので、アトランダムな飛び回りになります。 右京区の梅津には「梅宮大社」があります。梅で有名な神社。小ぶりな龍がいます。ここから北西に飛べば嵐山です。渡月橋を西に渡って、少し川上方向に歩めば、 「櫟谷宗像神社」があります。 ここにも、小柄な龍がいます。ここから、東の上京区に飛びましょう。紙屋川を越えると、北野天満宮です。 北野天満宮の南に「東向観音寺」があります。 ここの手水舎は井戸に覆屋が設けてあります。手水鉢には浄水の注ぎ口として石樋が設けてあるだけですが、 宝形造の屋根の露盤の上に、龍がいます。といっても、残念ながらかなり欠損部分がみられますが、間違いなく龍の胴体と思われます。今出川通に沿い、東の堀川通を飛び越えてさらに進めば、 2014.2.9 「白峯神宮」があります。「蹴鞠」の神事で良く知られています。今ではサッカーの守り神になっているようです。 その境内に「潜龍社」という境内社があります。 瑞籬の傍に、小さな手水とマスコット的なキャラクターの龍がいます。小さな子供たちが喜びそう。さらに東へ。左京区に向かいますと、 2020.11.6「聖護院門跡」前の春日上通を挟んで南東側に「須賀神社」があります。 小さめの水鉢に、正面から見ると見る角度によってちょっとユーモラスな印象を与える龍がいます。 側面からの眺め須賀神社は、聖護院一帯の産土(ウブスナ)神だそうです。東山区に下り、六道辻に行くと、 子育地蔵で知られた「西福寺」があります。門前から正面に 石造不動明王像が見え、 その前に龍がいます。この水鉢、不動明王に水を手向けるものなのか、手水鉢の役割をになう浄水なのか・・・・・私は判断しかねています。西福寺から北西方向になりますが、南北の通りである大和大路通に面して通りの西側に 「ゑびす(恵美須)神社」があります。正月は「十日えびす」で大賑わいとなる神社です。もうはや13日。 ここには相対的に大きな龍がいます。龍の全身像が見やすく造形されています。大和大路通の少し南で、東側には 2019.1.2建仁寺の塔頭の一つ「禅居庵」があります。 ここは亥(イノシシ)が浄水の注ぎ口なんですが、ここでは手水舎の覆屋にご着目!! 普通なら蟇股のある位置に龍が彫刻されています。亥を載せたところで、少し余談です。手水舎の浄水の注ぎ口には様々な動物がいます。私の探訪経験範囲でご紹介しましょう。亥(イノシシ) :禅居庵、護王神社(御所の近くで烏丸通に東面)兎(ウサギ) :岡崎神社(京都市左京区)、宇治上神社(宇治市)、 園城寺(三井寺:滋賀県大津市)丑(ウシ) :菅原院天満宮(御所の近くで烏丸通に東面)亀(カメ) :壬生寺(京都市中京区)、松尾大社(京都市西京区) 兵主大社(滋賀県野洲市)蛙(カエル) :玉津岡神社(綴喜郡井手町)本題に戻ります。かつて洛中と呼ばれた地域の一部になる中京区に飛びましょう。 2017.3.29六角通新京極に西面する「誓願寺」(浄土宗西山深草派総本山)があります。 山門を入ると、左側に手水舎があり、龍がいます。ここから、下京区に向かいます。初回に触れた下京の諸寺以外に、神社にも龍がいます。 2021.9.28まずは「市比賣神社」です。 市比賣神社から南西方向、間之町通に東面して、 2021.9.28上珠数屋通上ルに、「文子(アヤコ)天満宮」があります。 ここから一旦さらに西に向かいます。再び堀川通を越えて進むと、壬生通があります。 2017.3.10壬生通沿いに少し北に上がると四条通より手前に「壬生寺」(浄土宗)があります。 同じ下京区内ですが、ここから南西方向に八条通西大路まで飛びます。東西の八条通と南北の西大路通が交差するところ。この北東側に 2016.10.27「若一神社」があります。この辺りは、平安時代の平清盛の西八条殿があった跡だそうです。 ここにも龍が。さて、東方向に飛び、東山の山並みを飛び越えると、山科区です。 2019.5.3 天智天皇山科陵から少し東方向に「護国寺」(日蓮宗、山科区御陵)があります。 ここの手水鉢にも小ぶりな龍がいます。この辺りで、一区切りといたします。南側の伏見区から続けます。つづく補遺梅宮大社 ホームページ摂社:櫟谷宗像神社 :「松尾大社」白峯神宮 ホームページ聖護院門跡 ホームページ須賀神社(交通神社) :「京都観光Navi」京都ゑびす神社 ホームページ禅居庵 ホームページ兵主大社 facebook浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺 ホームページ市比賣神社 ホームページ文子天満宮 ホームページ壬生寺 ホームページ若一神社 :「京都神社庁」護国寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に
2024.01.13
コメント(2)
巨大な五輪塔の傍の道を進みます。 「大聖不動明王」と記された扁額を懸けた丹塗りの鳥居があります。ここが「杉山谷不動尊」の入口です。 石段道を上ります。 二ノ鳥居参道に、奉納された幟が林立しています。 参道の右側に、手水舎が見えてきました。その手前に数多くの石碑が建立されています。石碑群に近づき眺めると、左から源美大師、地蔵尊像、豊吉大明神、荒木大神、判読不可の石碑、稲玉大神、白米大神と判読できそうです。私は伏見の稲荷山山上にある御塚を連想しました。 「源美大師」碑の右隣りに安置された地蔵菩薩像 手水舎の左側には、小不動尊が祀ってあります。 参道の前方を眺めた景色後で調べてみると、この杉谷不動尊は「神應寺」の奥の院にあたるそうです。(資料1) 「厄除延命地蔵尊」の扁額を掲げた地蔵堂が参道の右側にあります。 少し開いていた格子戸前から眺めた地蔵菩薩立像です。 地蔵堂の近くに石造「不動明王立像」が祀ってあります。 その先に、朱塗りの手すりが見える分岐点があります。手すりの設置された道沿いに行けば神應寺に行けることがわかり、山を降りなくてもすむと、一安心。 この分岐点に地蔵菩薩像が祀ってあり、「南無地蔵菩薩」と墨書した提灯が吊されています。ここにはお地蔵さまが数多く集合されています。 隣には、小さな一石五輪塔が祀ってあります。 その先には、「神應寺稲荷 豊川拕柷尼真天」の幟が立つ稲荷社があります。 小社の前に、一対の狐像が置かれています。 もう一つこの覆屋があります。 近づいて拝見すると、石造「観音菩薩坐像」が安置されています。 「杉山谷不動堂」 ここは「奥の院」と呼ばれているそうです。拝所のところで堂内を拝見しましたが、撮影禁止でしたので、残念ながらこれ一枚です。本尊は不動明王(秘仏)です。脇侍として、善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の2童子が控えています。厄除け不動として、人々に信仰されているそうです。(資料1) 本堂に向かって左側の斜め奥に「観音堂」があります。十一面観世音菩薩が祀られています。お堂の回りに「南無十一面観世音菩薩」と記した幟が奉納されています。私は参道を上がってくる際に見落としたようなのですが、途中に、「ひきめの滝」と称される滝行場に至る分岐の道があるそうです。 参道を引き返し、朱塗りの手すりが設置された分岐点から神應寺への山道を辿ります。途中で谷間を跨ぐケーブルカーの軌道橋が見えます。 道はそのまま境内につながり、最初に「鐘楼」が目に止まりました。 境内の中央に、本堂に向かう参道があり、左右に建物が建ち並んでいます。 左側の建物の手前の角にも、豊川拕柷尼真天を祀る小社があります。 参道の右側には池があり、その傍の松の木が横に枝を伸ばしています。 参道の先には「本堂」が見えます。参道の手前に立入禁止を示す竹が参道を横切って置かれていました。こちらも残念ながら本堂には近寄れませんでした。本尊は薬師三尊仏。平安時代前期作と伝わる行教律師像、衣冠束帯姿の豊臣秀吉像も安置されているとか。(後掲の案内板説明より) 本堂の正面には、「大雄殿」と記された扁額が懸けてあります。デジカメのズームアップ機能で撮ってみました。 同様に、本堂右手の玄関口をズームアップで。本堂前の庭の様子が少しわかります。写真を撮っていた位置に近いところで、後で紀伊付いたのが、竹の柵で囲われたこの石です。「淀君茶室の庭石」という案内標識が立っていました。帰路は神應寺の表参道を降ります。 参道を降る途中にこの駒札が設置してあります。本来なら参道を上ってくる途中で見る駒札になります。 参道を降り終えたところで、表参道を振り返って撮った景色 神應寺の山門右の門柱には「絲杉山神應寺」の木札が懸けてあり、左の門柱には「道不可求可致」の偈が掲げてあります。「道は求むべからず、致すべし」と読み下すのでしょうか。 鬼瓦 留蓋 山門にむかって立ちますと、左側に神應寺の「由緒」が掲示されています。上掲の駒札と併せて、要点を箇条書きにまとめてみます。*八幡神を男山に勧請した行教律師が貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創*法相・天台・真言の宗旨を経て、室町時代に曹洞宗に改宗*豊臣秀吉との関係が深かった。正室北政所が中興12世住職弓箴善彊に帰依*德川家康をはじめ歴代将軍から寺領が安堵されてきた*元禄3年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得、洛南有数の禅苑に*明治の神仏分離令の難を逃れ、行教像は明治6年に墓所のある本寺に移された*貴重な資料や文化財を多数伝承保存している 「曹洞宗 神應寺」の寺号石標が立っています。参拝としては逆コースを歩いてきたことになります。後は京阪電車の石清水八幡駅に引き返すことになります。 駅前の広場には、このモニュメントが設置されています。八幡の竹とエジソンの発明・白熱電球を象徴しているモニュメントです。全長6.35mの円形の塔です。夜になると明かりが灯るとのこと。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 杉山谷不動尊 :「八幡市観光協会」2) あれはなんだ!?京都・八幡市で目を引く3つの巨大モニュメント :「KYOTO SIDE」補遺杉山谷不動尊 :「枚方市」神應寺 :「八幡 STORY&FUIDE」神應寺(じんのうじ) :「八幡市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか へ
2024.01.09
コメント(0)
門に棲む龍の続きとして、「西本願寺」の手水舎から始めます。(2020.6.25 *印) 手水舎に棲む龍は、浄水の注ぎ口の役割を果たしています。よくご存知のことでしょう。龍は全身像として造形されています。 * 2011.11.27 * * *この手水舎の覆屋を眺めますと、 * * 四方の蟇股には、太閤桐の紋章が陽刻されています。 こちらは「東本願寺」の手水舎の龍です。(2017.3.1) 立ち上がる感じのダイナミックな龍です。 既にご紹介しています滋賀県長浜市にある「大通寺」は、その山門が本山東本願寺の山門を継承して建てられたと言われています。そのため、本山の山門が焼失した時には、その再建にあたり役立ったということが、当寺の案内板に記されていました。 大通寺の手水舎の龍も、姿は全く異なりますが全身像で造形されています。(2015.6.28) こちらは「興正寺」の手水舎です。西本願寺の南隣りにあります。(2018.2.27) 小ぶりですが、同様に全身像の龍です。この4例を眺めても龍の姿は多様であり、おもしろいかぎり・・・・。 覆屋の蟇股を眺めますと、上掲の西本願寺の例とは異なり、ここに龍がいます。 四方の龍は、透かし彫りの造形で、それぞれスタイルが異なります。 最初に載せた面の裏側を、覆屋の内側から眺めると、このように龍本体と背景が丸彫りにされているこがわかります。どのように龍像の全体を表現するかが、匠の技の見せ所になっているのでしょう。観察するとおもしろい!! この3つの背面を上掲の龍とマッチングして、龍像をイメージしてみるのは如何でしょうか。さて、京都・洛北の鞍馬寺に飛びましょう。(2016.6.18) 本殿金堂の東側に、「閼伽井護法善法神社」があります。 この神社の正面右側に龍がいます。 こちらも龍が全身像で造形されています。この龍は宝珠を握っています。鞍馬寺でもう一カ所、 「転法輪堂」の傍の手水鉢で龍を見つけました。ここで一区切りとして、続きは次回に。つづく補遺お西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」真宗興正派本山興正寺 ホームページ鞍馬寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ
2024.01.08
コメント(0)
石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。裏参道を降りてきた後、ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上りました。上掲右の石段から下に降りてみる気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると思ったこともその一因です。 上掲の石段道を降りると、石垣の傍に「下馬」と刻された石碑と角柱の石標が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。 右の方に目を転じると、地蔵堂と神社が並んでいます。 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。隣の小さな神社は工事中のようでした。 石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。 ここは「相槌神社」。案内板が設置されています。 建物の右側には、「山ノ井戸」と刻した石標が立ち、この井戸があります。この井戸がこの神社の由来になるそうです。「山ノ井戸」は八幡五水の一つのようです。平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。(案内板より) 相槌神社前の道を東方向に進むと、 「松花堂 泰勝寺」の表札を掲げたお寺の山門が見えました。表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。 山門の左手前に「松花堂旧跡」と刻した石標が立っています。 山門の左の壁に案内板が掲示してあります。「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。 当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する石庭があり、茶席閑雲軒は日本百席の一つである。」(案内板転記) 山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。機会を見つけて、再訪したいと思いました。相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。 この反り橋が見えてきます。 「安居(アンゴ)橋」という名の橋。 橋の北側にこの駒札が立っています。橋名の由来は諸説あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに選ばれました。慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興されて現在に至るとか。 駒札の隣りにこの石碑「やわた放生の景」が建立されています。現在、ここが石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっているそうです。 石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)の歌碑もあります。調べてみますと、この能蓮法師の歌は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。(資料1) 川下を眺める 振り返った景色安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いてみました。少し道沿いに進みますと、 竹垣と「神護寺」と刻した寺号標が見えます。 左方向に道を歩めば、左側に頓宮殿の西門と連子窓のある屏が見えました。 右側に見えたのが、この巨大な「五輪塔」です。そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。 石段を上がると、 五輪塔より少し離れた右側手前に「航海記念大石塔」と刻した石標が立っています。 五輪塔の左側手前に駒札が設置されています。鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財です。(駒札より)五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」(資料2)そうです。 正 面 右側面 裏 面 左側面 周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」(駒札説明文、最後の段落を転記)この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、 「不動堂道」と刻した道標が目に止まりました。そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。つづく参照資料1) 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり :「古代文化研究所:第2室」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社補遺泰勝寺 :「八幡市観光協会」泰勝寺庭園 :「おにわさん」歌人等によって詠まれた八幡の歌 八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」八幡八景 :「やはた走井餅老舗のブログ」勅祭石清水八幡祭 :「石清水八幡宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 8回のシリーズでご紹介
2024.01.07
コメント(0)
2020.6.25 2013.4.27西本願寺の阿弥陀堂門。左が堀川通に面した正面。右が境内から撮った景色です。切妻造で前後に唐破風の付いた四脚門です。この門には前回とは異なる箇所に沢山の龍がいます。 2018.2.27 2020.6.25これは四脚門の正面・右(北)側の控柱です。この角柱の下部、礎石のすぐ上には柱の保護を兼ねた荘厳装飾金具が取り付けてあります。ここに龍がいた! 撮れなかった或いは撮らなかった面がありますので、大凡の全体像をイメージしていただければと思います。機会があれば現地でごらんください。 正面・左(南)の控柱 2020.6.25 正面・右(北)側の本柱 2018.2.27 正面・左(南)側の本柱 2018.2.27 境内側・左(北)側の本柱 2020.6.25 境内側・右(南)側の本柱 2020.6.25 境内側・左(北)側の控柱 2020.6.25 龍の様々のダイナミックな姿が各面に造形されています。さて、龍がなぜこのような姿で表現されるのかについてです。南方熊楠が「竜とは何ぞ」の一文の中で、支那つまり中国の龍について要を得た説明だとして『本草綱目』から引用している説明文があります。孫引きになりますがご紹介します。(資料1)<竜形九似あり、頭蛇に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項(ウナジ)蛇に似る、腹蜃に似る(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣(コウリョウ)腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞(ウ)つがごとし、口旁に鬚髯あり、頷(アゴ)下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得ればすなはち焔(モ)ゆ、水を得ればすなわち燔(ヤ)く、人火を以てこれを逐えばすなわち息(ヤ)む、竜は卵生にして思抱す>こんなにも詳細に想像上の動物・龍を具象化しているのには驚きます。どうしてあのような龍の姿をイメージできるのか、それには根拠があったのですね。そして、そのバリエーションが、画家や彫刻家の想像力・創作力により、様々に表現され、各所に龍が棲息していることになります。現在の市販されている辞書が龍をどのように説明しているか。手許にある辞書での説明を列挙してみましょう。コンパクトな辞書か厚みのある大きな辞書かによって、辞書編纂方針と記述のボリュームに対する制約がありますので、様々な説明のバリエーションがあることに気づきます。1.想像上の動物。水中にすみ、形は大きなトカゲに似て胴体が長く二つの角とひげと四本の足がある。自由に飛行して雲を起こし、雨を降らすという。たつ。りょう。(資料2)2.想像上の動物。体は大蛇に似ていて、頭には二本の角があり、口辺に長いひげをもつ。水中または地中にすみ、時に空中を飛行し、雲や雨を起こし、稲妻を放つという。(資料3)3.想像上の動物の一つ。竜(タツ)。水中あるいは地中にすみ、空中を飛行し、雲や雨を起こすという。仏教では仏法の守護神とされ、中国では天子になっぞらえる。「りょう」とも。(資料4)4.たつ。想像上の動物。巨大な爬虫類の形をしていて、鳳(ホウ)・麟(リン)・亀(キ)とともに四霊の一つ。雲をおこし雨をよぶ。「天竜・登竜門・独眼竜・飛竜」「竜虎・竜神」(資料5)5.想像上の動物。体は巨大な蛇に似て鱗(ウロコ)におおわれ、頭には二本の角と耳がある。顔は長く口辺にひげをもつ。平常は海・湖・沼・池などの水中にすみ、時に空にのぼると風雲を起こすとされる。中国ではめでたい動物として天子になぞらえ、インドでは仏法を守護するものと考えられた。たつ。(資料6)6.海中または池沼中にすみ、神秘力を有するという想像上の動物。姿は巨大な爬虫類で、胴は蛇に似て剛鱗をもち、四足。角は鹿に、眼は鬼に、耳は牛に似、地上では深淵・海中に潜み、時には自由に空中を飛翔して雲を起し雨をよぶという。インドでは仏法を守護した説話が多く、普通、毒蛇・コブラの形で表現され、竜王はその威力を神格化したもの。我国では竜神といわれる。中国では鱗虫の長とし、麟・鳳・亀と合わせて四瑞とし、天子になぞらえる。また形体により、鱗のあるのを蛟竜(コウリュウ)、翼のあるのを応竜、角のあるのを虬竜(キリュウ)、角のないのを螭(チリリュウ)、天に昇らないのを蟠竜(バンリュウ)などとよんだ。りょう。たつ。(資料7) 辞書の記述の対比からまた情報がひろがります。辞書を読む面白さがあります。龍の足の爪の本数については、いずれも言及されていません。祇園祭で懸装品を見ていてあるとき疑問に感じました。爪の本数の意味合いについては、補遺をご覧ください。門に棲む龍についてはこれくらいにして、手水舎に棲む龍に移ります。つづく参照資料1)『十二支考 (上)』 南方熊楠著 岩波文庫 p144-1452)『新明解国語辞典 第五版』 三省堂3)『現代国語例解辞典 第二版』 小学館4)『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 学研5)『日本語大辞典』(初版) 講談社6)『大辞林』 三省堂7)『広辞苑』(初版) 岩波書店補遺爪の数 :「卜深庵」(武者小路千家)意外と知らない龍(竜)の爪の意味、ほんとうは何本? :「Mitsutomi」竜の指の数の意味を知りたい。日本と中国で違うのか? :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ
2024.01.06
コメント(0)
建仁寺に棲む龍から初めて、手水舎と三門に眼を向けました。お寺は門を通り抜けて境内に入りますから、三門、山門、表門、総門などと呼ばれる門を先にとりあげて龍に出会いましょう。寺社の門を観察しますと龍がいます。探訪経験からは大きなお寺の三門や山門を居所としている場合が多いと思います。冒頭の山門の龍を見つけた時は、一瞬感動しました。 四脚門の左右の本柱の上部に正面を向いた龍が門から今出現したかのように・・・・迫力抜群です。(2018.2.27) この龍は、真宗興正派本山「興正寺」の門にいます。 京都市下京区にあり堀川通に面しています。 この龍も四本爪です。興正寺の北側には、北隣りの浄土真宗本願寺派本山である「西本願寺」との間に北小路通が東西方向に通っています。この通りを西に歩むと、 この通りに面して南面する「唐門」(国宝)が西本願寺の門の位置づけで保存されています。 近年、修復されて往時の輝きを再現した唐門になり、まさに「日暮門(ヒグラシモン)」に復活しています。この門に龍がいます。(2022.6.2) 龍が透かし彫りされている箇所を切り出してみました。 この二枚は唐門が修復される以前に訪れた時に撮ったものです(2013.4.27)。同様に、 2018.1.28極彩色の経年変化による褪色状態がおわかりいただけるでしょう。 東本願寺御影堂門 境内からの眺め 2020.11.18(*付記)烏丸通に面する真宗大谷派の本山である「東本願寺」の御影堂門に龍がいます。 * 2017.3.1 * *頭貫の上全体にいる巨龍です。金網が張ってあるのが残念ですが・・・。 京都・東山の渋谷街道を歩いた時、「小松谷正林寺」を訪れました。(2020.9.22) この山門には、本柱の頭貫の上に宝珠を握った龍がいます。 丸彫りですので、境内側から観察すると、龍の胴体が彫られています。 京都・嵐山に「天龍寺」があります。境内の「勅使門」には、 2015.9.10門に連なる築地塀の側面保護の部分(上部)にこの龍がいます。反対側は虎です。 「下御霊神社」は寺町通に面した鳥居の先に、この門があります(京都市中京区)。 ここも頭貫の上に龍がいます。(2020.8.26) 滋賀県長浜市に「大通寺」があります。山門を境内から撮った景色です。上層部、下層部の二重門で左右に山廊と築地塀が付いています。東本願寺の山門を模して造られたと言います。(案内文より) この山門にも龍が集まっています。 (2015.6.28)この辺りで、門に棲む龍たちの一区切りとします。次回はちょと違う視点を含めて門に棲む龍ほかをご紹介します。つづく補遺真宗興正派本山興正寺 ホームページお西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ正林寺 :「法然上人二十五霊場」天龍寺 公式ホームページ下御霊神社 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ
2024.01.05
コメント(2)
全2030件 (2030件中 51-100件目)