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=== 2023.10.25 === 南の空9時45分頃に撮りました。雲がなく快晴です。南西方向の空 西方向の空 西方向の遠くの空には白雲が見えるくらいです。 頭上の空 東方向の空稜線の上空には全般的に雲が広がっていますが青みがかった空が見えます。14時15分過ぎに、小雨が降り始めました。 南の空 南西方向の空 二方向だけ窓際から撮りました. 南の空15時50分過ぎに空を見上げると、遠くに雲が見え、青空です。通り雨が降っただけだったようです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上に大きな横雲が浮かんでいますが、その上に青空が広がっています。 東方向の空17時35分頃に稜線を眺めると、上空に月が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空夕暮れが早まってきているためか、晴れた空の色が銀鼠色に見えます。=== 2023.10.26 === 南の空9時35分頃に撮りました。その1時間余前に見られた大きな雲は過ぎ去っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけが、靄がかかったような景色です。 東方向の空15時近くに眺めますと、少しスッキリして空に青さが増した感じです。 南の空南西方向の空 南から南西方向に、少し雲が出ています。花が一輪青空に浮かんでいる感じの雲です。 西方向の空 頭上の空 他の方向に雲はなく晴れた空です。 南の空17時20分頃に撮りました。ベールがかかったような空です。南西方向の空 西方向の空 西の空に少し雲が見え、微かに夕映えしていました。 頭上の空 頭上の雲にも夕映えが見られます。 東方向の空一面の雲なのか、夕暮れ時の空の色あいなのか識別しづらい空です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「朴とスバル」と題する詩に雲が詠み込まれています。 雲ひとつない 星ばかりの空を仰いでいると 人間の知り得ない沢山のことが 秘められていることがわかる p131という一節の詩句のなかに・・・・。「脱落」と題する詩の最後の一行に 一点の雲もない暁天であった と詠み込まれています。 p133「角帯」と題する詩の末尾に、 八雲立つ出雲の神話の里 大呂(オオロ)のお婆さんの わたしへの贈り物 と詠み込まれています。 p147「一筋の道」と題する詩に「雲湧く」と出て来ます。この詩は全文引用します。 右往左往せず 右顧左眄(ウコサベン)せず 自分の道を 一筋に行こう これよりほかに道はない わたしの前に光る 一筋の道よ いのちに満ちた 世尊への道よ 花咲き 鳥飛び 雲湧く 美しい道よ 限りなき喜びの道よ p150「出山の太陽」と題する詩にも一行。この詩も全文引用します。 日を浴びるのではなく 日を吸いに わたしは近くの川原に立ち 出山(シュッサン)の太陽を待つ これがわたしの日課となった むろんいつも一人であるが 白鷺がよく伴(トモ)となってくれる 山にかかる雲ひとつなく パッと射し出る光を グッと呑み込む一瞬の大歓喜よ わたし一人に注いでくる この清浄光よ わたしの生命の糧となり わたしの詩魂の源となる 出山の初光よ p153「一筋の道」「出山の太陽」は、詩国賦算の道を歩む真民さんの生き方を詠んだ詩です。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.10.27 === 南の空9時20分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲が少し出ていますが、天気は晴れ。 東方向の空稜線の上空は、姿はその都度異なりますが、いつものように雲が出ています。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、朝とはそれほど大きな変化はみられません。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向にはそれぞれに異なる雲の形が見えます。頭上の空に一番はっきりとした雲の姿が見られました。 南の空南西方向の空 右寄りの下方を、少しズームアップして撮りました。 西方向の空 頭上の空 東方向の空このような色の重なりの雲景色を眺めるのは初めてかもしれません。おもしろい。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民についてホオノキ :ウィキペディアⅡ.「すばる」とはどのような星ですか? :「国立科学博物館」プレアデス星団 :ウィキペデキア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.13
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明王堂から北隣りのお堂に向かいます。 向拝は柱が4本と幅が広くとってあります。お堂の正面に金字で「智積院」と記された扁額が掲げてあります。「金堂」です。智積院の中心的な建物です。智積院再興の初期段階には、前回触れました祥雲寺法堂の建物を引き継いだときに、伝智証作の不動明王を本尊とする金堂がこの地にありました。しかし、天和2年(1682)の出火全焼により焼失。「元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に」(境内図より)金堂が建立されました。その金堂が明治15年(1882)に火災により焼失しました。そして、この金堂は、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業の一環として昭和50年に建設されたました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。西村公朝師の指導のもとに藤原様式で作られた仏像とのことです。(境内図、駒札より) 鉄筋コンクリート造りの金堂です。智積院の伽藍は苦難の変遷を経ていることが偲ばれます。 向拝の木鼻:象 中央の蟇股 鬼瓦 本堂前の石灯籠竿の正面(西面)には「永代常夜燈」と刻され、北面には「文化六歳己己(ツチノトミ)十二月」(文化6年は1809年)、南面には「江戸真福寺二十八世観豪建立」と刻されています。この灯籠は二百年余の智積院の盛衰を見つめてきたのでしょう。 金堂の屋根からの雨水受け水槽は蓮の花形で、正面には明王殿の香炉と同様に宗紋が付いています。 近くに大きな宝篋印塔が建立されています。 金堂前から振り返って西方向を眺めれば、広々とした空間が設けてあります。 金堂前の南北の通路 南から撮りました。この通路の先で左折すれば、講堂・名勝庭園などの拝観受付所に至ります。 さらに一筋西側で、南北と東西の通路の交差する北西角に、「仏足石」が建立されています。 金堂前の通廊を西に歩んできて、北側から見ると、上掲の空間の意味がわかりました。 「柴灯護摩道場」として、ここで「青葉まつり」の行事が行われるようです。金堂前に戻り、北方向に進むと、 石段の先にお堂が見えます。 石段上は、一段高い境内になっています。お堂への参道の両側には、 左(西)側に「弘法大師空海像」右(東)側に「稚児大師像」 の両像が建立されています。 正面のお堂は「太師堂」です。 太師堂は、寛政元年(1789)に学侶の寄付で建立されたそうです。弘法大師空海像が安置されています。遍照金剛院とも呼ばれるとか。(資料1、駒札) お堂の正面に、「遍照金剛殿」と記された扁額が掲げてあります。 太師堂の屋根の正面には獅子口が見えます。経の巻の瓦当には、三頭巴文が陽刻され、綾筋の下には輪宝が、さらに軒丸瓦の瓦当もまた輪宝が象られています。 向拝は唐破風の屋根で、兎毛通の部分には瑞鳥が彫刻されています。 桁先端、破風板の下の桁隠は植物文です。 向拝の頭貫の中央には、束が見え、その回りを丸彫りの彫刻像が見えます。麒麟像でしょうか。 全体の姿 頭貫そのものにも彫刻が施されています。 木鼻には象の頭部 この獅子像は、頭部に大斗と肘木を載せて頭貫を支える形となっています。時折、この形式を見かけます。上掲の象の頭部上も、同様の形式です。 太師堂前の石段を下ります。 途中に東方向への石段があります。この石段を上がると、 石段の上には、「これより先は修行中につき立入禁止とします」となっています。この柵の前に立ち、この境内地を眺めてみました。静寂そのものです。東山七条の交差点からわずか数百メートルの距離とは思えない静けさです。 まず鐘楼堂が見えます。こちらは天和2年(1616)に造立されたものと言います。(境内図より) 鬼瓦 蕪懸魚 蟇股これらは鐘楼堂の細部です。 鐘楼の右側前方にお堂が見えます。駒札をズームアップしてみますと「旧聞持堂」です。 鐘楼の左側の先には、石灯籠やお堂が樹木越しに見えます。「江戸時代には教学の寺として諸国から学徒の雲集するもの三千人におよんだ」(資料2)と言います。また、「第七世運敞(ウンショウ)の時代は特に講学が隆盛で、全国より参集した学徒は1700名、学寮70余が軒をつらねた」(資料1)とも。 石段を戻り、一旦金堂近くに戻ります。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119補遺総本山智積院 ホームページ仏足石 :「コトバンク」仏足石 :「三井寺」2023年6月15日 京都智積院 青葉まつり Walking around Kyoto Chishaku-in Temple 【4K】 YouTube(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.10
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寺号碑泉涌寺道古道を歩く記事(11/8)で触れましたが、公開講座を聴講した日、智積院の境内を散策・探訪してみました。智積院は真言宗智山派の総本山です。七条通の突き当たりにあり、東山七条交差点の東側、東大路通に面しています。 智積院の入口は幅広い坂道で門がありません。坂道の南側から北を眺めた入口の景色。 この少し異質な印象の大きな狛犬石像(?)が門衛代わりに鎮座しています。詳細不詳。入口の坂道を少し上がると、南側に冒頭の寺号標が立っています。 その先に見える景色。 10/21時点の紅葉です。今なら紅葉はもっと進んでいることでしょう。 近づいて行きますと「総本山智積院寺誌」が建立されています。要点は以下の通りです。*五百佛山根来寺智積院と号し、弘法大師を宗祖とする智山派の総本山*同宗派の三大本山は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高野山薬王院。末寺は3,000*南北朝の頃(14世紀初)に興教大師開山の紀州根来山に学頭寺院として創建された。 天正13年(1585)に兵火により一山全焼 (付記:秀吉による紀州攻め)*慶長6年(1601)、学頭玄宥能化が德川家康よりこの地を寺領として賜り、寺を再興。 後の勧学院の濫觴として仏教研学の道場となる。元禄宝永の頃に学風隆盛を極めた。*1601年当初は豊国梵宇三区。元和元年(1615)に祥雲寺(秀吉の愛児鶴松の菩提寺)を 下賜された。 (付記:豊国梵宇三区というのは、この地にあった豊臣秀吉を祀る豊国社の三ヵ所の 坊舎を賜ったという意味です。1615年4月大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。元和偃武。 家康は豊臣氏滅亡後に、祥雲寺を智積院に与えたことになります。)*江戸時代に伽藍が整備され寺運が隆盛。明治維新の頃に堂塔伽藍の焼失と荒廃で衰微。 (付記:幕末に、学寮の多くが土佐藩の屯所となり、講学が衰えたと言う。また、 明治3年には上地により、旧来の寺地2万7900坪が1万6800坪と約40%減に。資料1)*明治33年真言宗智山派を公称し、宗派の復興、伽藍の再建に努力し、現在に至る。 左に目を転じると、銀杏の黄葉が綺麗で、近くにはポールの先で旗が翻っていました。智積院の講堂・大書院・名勝庭園のエリアは、はるか昔に2度ほど拝見(拝観料必要)しています。それ以外の境内地を拝見した記憶があまりありませんので、どこまで探訪できるか、自由に拝見出来る境内地の散策を試みました。そのご紹介です。 この案内図が境内に掲示されています。案内図下辺が東大路通に面しています。下辺中央より右寄りに入口と表記されています。ここが上掲の坂道です。案内図の左が北方向。上辺が東方向です。境内地内の築地塀で囲まれた区画が、講堂や庭園のあるエリア。になります。それでは、境内地の南エリアから境内の拝見・散策を始めます。 上掲寺誌碑の傍から鐘楼堂の方向に進むとき、右(南)には、すぐ近くに「総本山智積院 宝物館」があります。「国宝 長谷川等伯 障壁画」の案内板が置かれています。現在はこの宝物館に保存・展示されています。「弘法大師空海ご誕生1250年」を記念する奉修事業の一環として建立され、今年、令和5年(2023)4月4日に開館したばかりです。宝物館の南西方向には、築山風の庭の向こうに、「宿坊智山院会館」が見えます。 鐘楼堂を右に回り込むと、この「智専之鐘」と刻された石碑が立っています。旧宗立智山専門学院同窓生の集まりである智専会が鐘と鐘楼堂を平成10年(1998)に建立・寄進されたものです。 梵鐘には「真言宗智山派總本山智積院」の寺号が陽刻されています。 蟇股 鬼瓦 鐘楼堂前の通路を南に歩みます。 振り返って眺めた鐘楼堂 通路の先には、お堂の屋根が見えて来ます。 緩やかな坂道の右(南)方向を眺めますと、普通の鋪装道路がカーブを描いて延びています。後で案内図で確認すると、この景色の左(東)にある建物が宗派の総務庁です。右(西)に下っていくと、宿坊智積院会館に至ります。 坂道の左方向を見ると、お堂が見えて来ます。 さらに進めば、北と南に2つの大小のお堂がはっきりと見え、両堂の間に小さめの池があります。 まずは、この「南無大日大聖不動明王」と墨書された幟が立てられているお堂から拝見しました。高齢化の趨勢は、石段に手すりを整備する形に反映しています。いずこの寺院も同様ですね。 お堂正面の石段手前に、大きな香炉が設置されています。お堂の向拝に張られた幕と香炉の正面には、宗紋の桔梗紋が見えます。 向拝に近づくと、お堂の正面に「明王殿」の扁額が掲げてあります。 お堂に張られた五色の幕が風にはためいていました。幟でわかりますがこのお堂は「明王殿」。不動明王が本尊として祀られています。 このお堂は、護摩道場、祈祷所であり、「不動堂」とも呼ばれています。本尊の不動明王は根来寺より伝来と言い、麦つき不動とも呼ばれているとか。智積院の旧本堂が焼失した時、浄土宗・大雲院の本堂の譲渡を受けた建物と言います。この明王殿は札所(京都十三仏霊場第1番、近畿三十六不動尊霊場第20番)の一つです。(駒札より)蛇足になりますが、覚書を兼ねその経緯に少し触れておきます。祥雲寺が智積院に与えられた時、同寺本尊棄君(鶴松)像は南化和尚ゆかりの妙心寺に移され、建造物や障壁画は智積院に引き継がれました。長谷川等伯一門による国宝障壁画は祥雲寺の遺物を継承したことになります。(資料1,2)昭和22年(1947)の火災により旧本堂を焼失しました。この時に譲渡を受けた建物を本堂として移築されたのは、現在の境内図で講堂がある場所です。昭和54年(1979)10月に著者が俊則画として自著に挿入している智積院境内図でそのことがわかります。(資料2)現在の講堂は「平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したもの」(智積院ホームページより)とのことですので、昭和22年後に本堂として使用されていた建物をこちらに移築したとすれば、それは平成年代の初期と推測できます。改めてホームページの境内図で明王殿の項を見ますと、このことが簡略に説明されていました。序でに、大雲院は、下京区寺町四条下ルに所在したのですが、昭和48年(1973)に東山区祇園円山町に移転しています。この本堂の背後に祇園閣が所在します。祇園閣というと所在地がわかりやすいかもしれません。(資料1,2) 屋根の雨を受ける雨水槽はごくシンプルです。五色の幕の翻る様子を眺めつつ、北側のお堂に向かいます。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119-1232)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 補遺総本山智積院 ホームページ 360度VR境内画像玄宥 :「コトバンク」新義真言宗総本山 根来寺 ホームページ中世に花開いた一大宗教都市、根來寺 :「わかやま歴史物語」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.09
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先月21日(土)に再びJR奈良線の東福寺駅に降り立ちました。京都女子大学の学舎で開催された公開講座を聴講するためでした。この駅での下車は、私が京都国立博物館に行く時の径路の一つです。冒頭の瀧尾神社は先日再訪記をご紹介しました。石鳥居は本町通に面しています。こちらは南側にある朱塗りの鳥居です。鳥居をよく見ていただくと、柱の上部、島木の底面に接する箇所に台輪が設けてあります。稲荷鳥居(台輪鳥居)の形式です。現在の地図表記では、瀧尾神社は本町11丁目に所在します。この鳥居の近くから東方向は、鳥居前野東西方向の道路の両側が、 この町名になります。この道路は「五葉の辻」と呼ばれていて、泉涌寺(センニュウジ)への古道だったそうです。地名の由来は、五葉の松があったことによると言います。(資料1)これが今も「泉涌寺五葉ノ辻町」として地名に残っています。天正年間(1573-1592)に一筋北に新道ができ、そちらが泉涌寺道になったことで、この道は古道になったそうです。(資料1) かつてのこの泉涌寺への道(五葉の辻)を経由して、東山七条の交差点へと歩くことにしました。 今ではこの五葉の辻は普通に民家が立ち並んだ普通の住宅街です。 道路の北側に小さなお堂があります。地蔵堂かと思って近づくと、手前に「大日如来」と刻された香炉石柱が立っていました。格子扉越しに小堂内を拝見しましたが、太陽との位置関係もあり中は暗くて見えませんでした。画像処理して眺めて見ますと、堂内に遮蔽の仕切りが設けてあるようで、本尊は拝見できません。道路沿いにある小堂は殆どが地蔵堂で、大日如来が祀られているのは少ないと思います。 現在の道路を東に歩めば、「東大路通」に出ます。この景色は東大路通の南方向を眺めた景色です。通りの向こう、東側は「泉涌寺雀々森(ズズメガモリ)町」。東大路通でかつての古道は途絶えています。左折して、東大路通を北に進みます。 「いまくまの商店街」のアーケードが見えます。 交差点近くに、「智積院」まで10分の標識が出ています。 ここは、「泉涌寺道」交差点です。北側の角に、「泉涌寺道」の道路標識が見えます。 交差点を東に横断しますと、角に立つのがこの標識。「泉山御陵」は、京都市東山区今熊野泉山町にある陵墓の総称。(資料2)地図を見ますと、泉涌寺があるのは「泉涌寺山内町」その北東隣りが「今熊野泉山町」です。ここには数多くの陵墓があります。 この坂道が泉涌寺道。道路の北(左)側は泉涌寺門前町、南(南)側は泉涌寺東林町です。さらに上れば山内町で、即成院(ソクジョウイン)、那須与市墓所、戒光寺(カイコウジ)、泉山、新善光寺とお寺が連なっています。その先に泉涌寺が位置します。陵墓への参道入口が手前にあります。 東大路通の東側歩道を北に進みます。北西方向に石柵と樹林が見えて来ます。 「新熊野(イマクマノ)神社」です。白河上皇が法住寺殿を設けて、院政を始めたとき、熊野の神霊をこの地に勧請しました。神社の造営を担当したのが平清盛です。「白河天皇法住寺稜」の御紹介をした折に触れています。 この神社の北側は少し小高い地形になっています。以前探訪した時に歩いています。自然の地形なのか、土塁のようなものが築かれた結果なのか、私には判断できませんが。 先に進みますと、右側にこの坂道が見えます。南側角に、「鳥戸野(トリベノ)陵 中尾稜」と刻された道標があります。「鳥戸野稜」は、上記の泉山御陵に続き、泉山の一峰上にあります。一条天皇皇后定子陵以下1陵6火葬塚がある御陵です。中宮定子に仕えたのが『枕草子』を書いた清少納言。中宮彰子に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部です。中宮定子は皇后定子のこと。「中尾陵」はこの坂道を上ったところで、今熊野宝蔵町にあります。仁明天皇の女御沢子の御陵だそうです。藤原総継(フサツグ)の女で、仁明天皇の女御となり、光孝天皇をはじめ三男一女を産んだ人です。鳥戸野稜と中尾陵は、今熊野川の渓谷を挟んで相対する位置になります。(資料1)余談ですが、調べてみますと、一条天皇円融寺北陵は、京都洛北の竜安寺内にあります。(資料3)中宮彰子、つまり一条天皇皇后であり、後に太皇太后となった藤原彰子は、宇治市内の宇治稜が墓所になっています。この坂道は、手許の地図を見ますと「醍醐道」と記されています。東山越えの道で、別名「滑石街道」とも称され、府道118号勧修寺今熊野線です。 この道路を横断しますと、空地が見えます。東の方に石段が見えます。立ち寄って見ますと、 公園です。地図には「宝蔵公園」と記されています。今熊野宝蔵町の区域の北西隅になりますので、公園名は町名に由来するようです。 石段上からの西方向の眺め。この景色の右(北)側が谷間状になっていて、JRの鉄道線路が通っています。東海道本線(JR琵琶湖線)が通っている幹線路です。 東大路通は、谷底を走る東海道本線を跨ぐ形になっています。その橋が「今熊野橋」です。橋上は工事が継続中であり、スッキリした橋を撮れません。そこで南詰東側の親柱だけを撮りました。この橋を渡れば、智積院はほんの少し先です。智積院は別稿としてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p532) 泉山御陵 :「コトバンク」3) 一条天皇円融寺北陵 天皇陵 :「宮内庁」補遺泉山御陵参道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」御寺 泉涌寺 ホームページ泉涌寺 :ウィキペディア中尾陵 花洛名勝図会 巻六 画像45 :「国際日本文化研究センター」Kyoto Japan【4K】醍醐道を歩く(妙法院→東大路通→東山七条→智積院→今熊野→滑石街道 滑石峠→大石神社→新十条通→坂上田村麻呂墓→小野駅)Walk the Daigo-michi St. YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 へ 2回のシリーズでご紹介。こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院スポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺探訪 京都・東山 泉涌寺と周辺を巡る -1 瀧尾神社・泉涌寺道(古道)・勝林寺 2019年に7回のシリーズでご紹介。
2023.11.08
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=== 2023.10.22 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空尾根の向こうに少し白雲が見える他は、東方向も青空です。東の空としてはめずらしい景色。 東方向の空17時半過ぎに眺めると、雲が出ていて、稜線近くの雲は少し夕映えしています。その上も一面銀鼠色の雲が覆っています。 南の空南も一面に雲が広がっています。東の上空と違って、一部うろこ雲状の雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 西の遠方の空は夕焼けています。 かなりズームアップして、一部分ですが切り取ってみました。 頭上の空各方向に、それぞれ異なる雲の姿が見えます。晴れのち夕刻よりくもりという一日。=== 2023.10.23 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。うろこ雲様の白雲が漂っています。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 このような雲は何と称するのでしょう? すじ雲でしょうか。 頭上の空 東方向の空稜線上空には姿の異なる色々な雲が併存しています。 東方向の空14時55分過ぎに眺めると、雲は去り、稜線上空は快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 各方向も快晴の空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 最近見かけるようになった空の現象。 雲のようにも見えず、青空がくすんで一面にグレーがかった感じなのです。 西の遠方の空は空が焼けるような夕映えがみられます。 一部を切り出してみました。 頭上の空 東方向の空 東の空も南の空と同様です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「収入の道を断つことによって」と題する詩がこの「詩国 第1集」に出て来ます。真民さんは、退職願いを書き、詩一筋、一足のわらじになるという決断をされたのです。この詩の後の「雲」を見つけていきます。「古代の天」と題する詩に、いくつもの「雲」が詠み込まれています。この詩には、「海運山妙厳禅寺にて」の詞書があります。全文引用。 ここに来て 古代の天を見る 朝に立つ雲 夕に湧く雲 色かたちとりどりの雲 ここは八雲立つ出雲八重垣の歌 ゆかりの大呂の里 夜となれば昔と変わらぬ天の星座に それぞれの星今も光り輝き 山々もまた 古代の静けさにかえる ああわたしはここに来て坐して思う 遠い親たちの願いを 承け継いでゆかねばならぬ務めを p93「独一」と題する詩に、次の一節が出てきます。 目にうつるのは 白い雲だけ 耳に聞こえるのは 川の音だけ p99「しっかりしろしんみん」と題する詩の第4節です。 冬の子は 冬の子らしく リンリンと生きてゆこう 風よ鳴れ 雲よ飛べ p102真民さんは、1月6日で酉年の生まれ。一つ前の詩の題が「一月六日」です。「しん」と題する詩では、心、芯、信、神、新、親という文字を列挙して、真民さんはこう詠むのです。 みんないい字だ 夜明けの雲のように すがすがしい字だ と。 p107「あかね観音」と題する詩の冒頭に雲が詠み込まれます。生まれて程なくして亡くなった我が子の茜さんを詠んだ詩です。その前の詩「三月八日」に、「乳も飲まず/ あの世へ行ってしまった茜よ」という詩句が詠み込まれています。「あかね観音」は次の詩句が詠まれています。 あかねの雲が浮かぶと いつも茜をしのぶ わたしたち一家を救ってくれた あの引き揚げの時の 不思議を思う わたしに霊の存在を 知らせてくれた茜 信仰に導いてくれた茜 きのう頂いた大きなザボンを供え 観音経を誦する p113「十五歳四ヵ月の人生」と題する詩が載っています。筋ジストロフィ症で人生を閉じた「北原敏直君の死を悼む」という詞書のある長詩です。その詩の数カ所に雲が出てきます。敏直君は病の中で、詩を書き、詩集を出していました。真民さんとの交流がありました。一つは、敏直君が昇天した日に真民さんが記録している「詩紀」の一節が詩にでてくるところに。 暁天祈願四時0分 白い雲が流れていたが それが却って天を動きあらしめていた p126そして、敏直君の死の当日のことを詩の指導者である先生からの便りに触れます。 その夜は一晩中眠らず お母さんと美しく輝いている お月さんのことや 風に流される雲のことなど いろいろ話をしていたという そうするとわたしが拝した 月や星や雲を 彼もまた見つめていたのである p127そして、この詩の中に、彼の詩を引用するのです。敏直君の詩、3つの内1つに雲が出ています。 願い 気にしないこと 空の雲のように どこに流されようとも 素直であること 草花のように 一年の命でも (50.6.10) p127 この辺りで、一区切りといたします。雲の変化に戻ります。=== 2023.10.24 === 南の空9時15分過ぎに撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 青空がくすんだような感じの空に見えます。 東方向の空15時45分頃に眺めますと、朝のくすんだ色調から青みが加わった空に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲が出て来ていますが、晴れた空が続いています。 頭上の空 見上げるとここはほぼ快晴。 南の空17時20分過ぎに撮りました。もやっとした雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 こちらも雲はわずかに見える程度です。夕映えしている雲が見えます。 そこに焦点をあててズームアップしてみた姿。 また、南西寄りに撮った景色から、遠方の夕映え雲を切り出してみますと、こんな夕映え雲も見えます。建物や電線などの夾雑物が写り全体の景色は絵になりません。遮る物が一切無くて、近くの空とこの遠方の空の雲を一体として撮れればいいだろうな・・・・・・・。町中では儚い想像ですね。 頭上の空 南東方向に上弦の月が見えました。 少しズームアップして撮るとわりとはっきりと撮ることができました。 東方向の空稜線近くに雲が見えますが、その上空は朝の状態と似た感じです。つづく補遺雲から山の天気を学ぼう|(52)すじ雲(巻雲)が語ってくれること :「日本山岳救助機構合同会社」「すじ雲」~天高く、風に舞うような形|雲から知る山の天気(1)/登山力レベルアップ講座 :「山と渓谷オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.07
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瀧尾神社に参拝されたなら、ぜひ御覧いただきたいのがこの拝殿です。外観は一般的な拝殿そのものです。知らなければ拝殿傍を素通りしてしまうでしょう。ところが、この神社特有のすばらしい特徴は拝殿の内側にあります。 南側からそれがこの天井に巨大でダイナミックな木造彫刻の龍の蠢く姿が見られるのです。まさに天から降臨してきた龍神の如くに・・・・・。 前回、拝所の彫刻群でご紹介した京の彫刻師、九山新太郎の作だそうです。拝殿の周囲を巡り、天井の龍を眺めます。 龍の頭部の下部が間近に見えます。 龍の足は爪三本です。 龍尾の先端と渦巻く雲が天井の一隅に延びています。 龍頭 拙ブログで過去にご紹介していますので、彫刻師・九山新太郎についてのご紹介は省略します。 この瀧尾神社は、現在の地図では「本町通」に面して西の石鳥居があります。本町通は旧伏見街道です。東山区本町11丁目に所在。通りを数分南に下れば、京阪電車とJR奈良線の「東福寺駅」。さらに南に進めば東南方向に「東福寺」があり、本町通沿いに南下すれば、通りに面する「東福寺中大門」に至ります。ご覧いただきありがとうございます。補遺瀧尾神社 :「京都通百科事典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍)スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -3 境内を巡る観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -2 瀧尾神社・二之橋・法性寺・三之橋・東福寺の門
2023.11.05
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ここはJRと京阪電車の「東福寺」駅から数分のところにある「瀧尾神社」です。本町通(旧伏見街道)に面した石鳥居と境内を撮った景色です。先月10月19日に京都国立博物館の特別展「東福寺」に行く際に、本町通から境内を眺めると、ここ数年、本殿・瑞垣等の修理工事中だった境内がスッキリとなっていました。そこで帰路に久しぶりに立ち寄ってみました。未だ修理工事は継続中のようですが、拝見するのに支障がないところもあります。私の関心のあるところは久しぶりに眺めることができました。 私が久しぶりに眺めたかったのは神社のこの唐破風屋根の拝所と瑞垣、拝殿です。本殿は南面しています。瀧尾神社は大国主命を祭神とする古社(旧村社)で、深草にある藤森神社の境外末社になるそうです。社伝によれば、所在地の変遷があり、日吉坂に位置した時に、天正14年(1586)、豊臣秀吉による大仏殿建立に際し、現在地に移されたと言います。(資料1) 近づいて行きますと、菱格子の設けられた瑞垣の修理されている様子がまず見えます。 私の関心の対象の一つは、唐破風屋根のこの拝所です。屋根の頂の正面に獅子口が見えます。経の巻の瓦当には三頭巴紋が陽刻されています。 綾筋の下の陽刻は、瀧尾神社の御神紋が要項されているのでしょう。 破風の飾金具で荘厳された中央部の下の兎毛通の箇所は、瑞鳥の丸彫り彫刻が見えます。 欠損箇所が修復されていました。 破風の左右の部分にも瑞鳥が取り付けてあります。 右側の鳥を少し異なる角度から撮ってみました。修復箇所もよくわかります。 久しぶりに拝見したかったのは、唐破風屋根の内側です。 この彫刻群の見事さを久しぶりに鑑賞したくなった次第。部分的な細見の楽しみです。それでは、細部を眺めていきましょう。 虹梁の上の部分には、龍が向き合う形で彫刻されています。 立ち位置を変えて眺めると、こんな感じに。 中央部の束の前面に彫刻されているのがこの動物。これは何? 不詳です。 頭貫と虹梁との間には、鳥たちが透かし彫りで飾られています。 右端で羽を広げているのは鶴でしょうか。 唐破風屋根の拝所を支える柱の大斗の上には、瑞鳥の頭部像が東西で向かい合う形で載っています。 向かって左(西)側の奥の柱の大斗の上には、この彫刻像が載っています。鼠か? 梁の部分を眺めると、本殿の方向(北側)には梁に竜頭が彫刻されています。 柱の大斗の上には、上掲の小動物が見えます。 拝所の正面側を北東側から撮った景色です。正面の頭貫・虹梁と彫刻群の背面になります 透かし彫りの背面の東端部をズームアップで撮ってみました。 蟇股の背面の彫刻もズームアップで撮ってみました。 拝所の正面に戻り、虹梁の上の透かし彫りを眺めるとここにも様々な鳥が彫刻されています。 木鼻の獅子像 獅子像と草花を一体化して彫られている箇所もあります。 拝所に近い箇所を二カ所撮っただけですが、瑞垣の菱格子の上部にも、透かし彫り彫刻が施されています。ここには、龍が彫刻されています。 もう一カ所がこれ。 左端にニ羽のうさぎが彫刻され、 右端には虎が彫刻されています。虎はうさぎを虎視眈々と獲物として狙っている様子です。未だ修理工事が継続されているようですので、拝所近くだけ拝見しました。これらの木造彫刻は、京の彫刻師、九山新太郎の作と言います。過去ブログでご紹介していますので、ここでは触れません。遺された彫刻像そのものをお楽しみください。序でに、ある本で知ったことを覚書を兼ねてご紹介します。現在のデパート大丸はもとは大丸屋という呉服店ですが、その始祖は下村正啓という人。江戸時代、元禄元年(1688)伏見の京町八丁目に生まれ、19歳の時に、家業の古着商大文字屋を継いで、伏見街道を往来し毎日京都へ行商にでていたそうです。その折り、欠かさず瀧尾神社に参詣し、商売繁盛を祈願したと言います。享保2年(1717)に自宅を店舗にして大丸を創業します。現金掛値なしの「正札付き大安売」で成功し、呉服店を拡大していきました。商売に成功した下村正啓は、晩年に、感謝の意を瀧尾神社の神殿造営で表したそうです。現在の建物は、天保10年(1839)に七代目の下村正篤が修復したと言います。(資料2)その社殿が、ここ数年かけてまた修復工事が行われてていたということになります。1839年の後、現在までに大規模な修復工事が繰り返されてきたかどうかは資料がなく不詳です。冒頭の写真には石鳥居の先に拝殿が移っています。本殿の修理工事中は、この拝殿が仮本殿になっていました。現在は既に本来の拝殿の形にもとり、御神体は本殿に遷座されたのでしょう。この拝殿を拝見するのが、もう一つの楽しみなのです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p51-522)『京洛ひとり歩き』 駒敏郎著 本阿弥書店 1991年3月刊 p41-43こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -2 社殿(本殿・拝所・透かし垣)
2023.11.04
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=== 2023.10.19 === 南の空9時5分頃に撮りました。もやっとした雲が見えます。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向から頭上にかけては、ふわりとした今にも消え入りそうな雲が浮かんでいます。 東方向の空稜線上空は、普段よくみる曇り空です。二層の雲になって空を覆っています。 東方向の空15時10分近くに眺めますと、雲は相変わらず多ですが、雲の合間に青空がけっこうのぞいています。 南の空 うろこ雲のような雲が、青空に浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分過ぎに撮りました。空一面、雲に覆われた状態に変化していました。南の遠くの方が明るい感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には、銀鼠色の布で覆われた感じの雲が広がっていました。晴れのち曇りの一日。=== 2023.10.20 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。ひつじ雲に近い感じの雲が漂っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空昨日とは異なり、青空っぽい空に横雲が漂う景色です。天気は晴れでスタート。ところが、15時過ぎ頃から雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 17時20分頃に窓の外を眺めると、小雨が降り続いていました。 窓際から空模様を撮るだけにしました。晴れのち雨の一日。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第一集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「風は遠くからくる」と題する詩の第1節前半に「雲」が初めて詠まれています。 風は遠くからくる 日の沈んでいった 海の向こうの 雲が消えていった 山々の果ての 透明な霊気をともない まだみんなが深い眠りのなかにある みめいこんとんのなかで ひとり坐っている わたしのところにやってくる p15という詩句の文脈の中に。ここでは自然の雲そのものが対象に詠み込まれています。「一遍から学びとるもの」と題する詩の中では、 彼が称名すれば 風となり 雲となり 山河草木こぞって ナムアミダブツをとなえる p17という詩句となります。この詩句は、その根っ子が<一切衆生悉有仏性>さらに、「仏性は在らざる所無く、草木土石の無情の物にも在る」とする<無情仏性>の仏教思想につながっているのでしょう。(資料1)そのように受け止めました。「師病みていませば」と題する10節で構成され2ページに及ぶ長詩には、第2節に 師病みていませば 行く雲も重く 冬の日の傾く早し p18と詠み込まれ、行く雲に真民さんが師を気遣う心情が重ねられています。さらに第4節に、 師病みていませば 西へ行くものすべてなつかし 雲よ 船よ 飛びゆく鳥よ 沈む夕日よ p18遠く離れた地で病む師を思う真民さん。師に会いに行かれたときの記憶が甦っているのでしょうか。 師病みていませば 西に向かいて み名を呼ぶなり 雲のゆききの 寒き夕暮れ p19第7節にも雲が詠まれています。雲ならば直ちにお側に飛ゆけるのに・・・そんなもどかしい思いが重ねられているのかもしれません。この後、かなり先の「生かされて生きる」と題する詩に雲がでてきます。全文を引用します。 東天に眉月光り 西天に先生の瞳の星またたく 一点の雲なく 満天の星 暁天の霊気を吸い 今日も大地に立ち祈る ああ 生かされて 生きる うれしさよ 守られて生きる ありがたさよ p80ここの雲は、文字通り自然現象として満天の星のまたたきを遮断するという側面にふれ、、それがない状態を客観的に述べているだけでしょうね。雲の変化に戻ります。=== 223.10.21 === 南の空9時15分過ぎに撮りました。昨日に続き天気は素鼠色の雲が広がった曇りの状況で始まりました。ほんの一箇所に青空が垣間見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全面的なくもり空で一日が始まりました。 東方向の空11時15分頃に眺めると、稜線上空の雲は明確な層状態に変化しています。近い雲の方か゛色濃い状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 西方向の遠くは、青空が広がっているようです。しかし近くの空は雲に覆われています。 頭上の空 南の空16時40分過ぎに撮りました。遠くに少し青空が垣間見えますが、近くの南の空は一面の雲です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 一方、西方向や頭上に青空が広がってきていました。 東方向の空くもり空の一日でした。つづく参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編 岩波書店補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について眉月 :「コトバンク」悉有仏性 :「コトバンク」一切衆生悉有仏性 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」草や木も皆仏なり :「円覚寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.02
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二つのお寺の築地塀の間に通路が東へと延びています。後白河天皇法住寺稜への参道です。三十三間堂の東に位置します。京都国立博物館で特別展「東福寺」を鑑賞した後に、久しぶりに立ち寄りました。博物館南門前の横断歩道を南に渡り、三十三間堂の東側の道路を数分歩めばこの入口が見えます。土・日は門が閉じられているようです。三十三間堂は観光客が大勢来訪し、入口付近はざわついていますが、こちらは森閑としています。一人だけ来訪者を見かけました。入れ違う形になりましたので、しばし静寂な空間を歩む形になりました。左側は養源院の築地塀。 右側はこの法住寺の築地塀で、法住寺表門の左(北)側に冒頭の門・参道があります。 参道の突き当たりに、御陵の案内板が設置されています。後白河天皇法住寺稜と冒頭に大きな字で記された後に、7法親王を祀られていることが明記されています。 松の木の根元に、「法住寺」と刻した石造水鉢が置かれています。 右折します。右側が法住寺の築地塀です、法住寺の背後(東側)に御陵が位置することになります。 参道の南端に、石の井筒を設けた井戸があります。 東に向くと、御陵の入口です。この稜域は周囲90間(約106m)と言います。 正面右側に、「後白河天皇法住寺稜」の石標が建てられています。 御陵の正面を北側から目を転じていくとこんな景色です。 門の向こう、御陵の中央に法華堂が建てられていて、堂内に後白河天皇法体の像が安置されていて、床下の地中に石槨(セッカク)が埋められていると伝えられているとか。この地は、後白河天皇が上皇となり、法住寺殿と称される御所を設けて院政を営んだ地です。後白河上皇が拠点とした法住寺殿は、南北約1km、東西約500mに及ぶ広大な地域だったと推定されています。東山七条から南は泉涌寺道近くまで、西は大和大路通あたり、東は東山山麓に及ぶエリアです。法住寺殿が設けられた同時期に、南には新熊野(イマクマノ)神社、東には新日吉(イマヒエ)神宮があります。ともに後白河上皇が勧請した神社です。 生垣を境にして、御陵の南隣には、「妙法院宮墓」があります。常胤・堯然・堯恕・堯延・堯恭・真仁・教仁と称された7法親王が祀られています。江戸時代に妙法院門主となった歴代天皇の皇子・皇孫です。墓石は無逢塔の形で建立されています。妙法院は、天台宗延暦寺派の別院で、蓮華王院(三十三間堂)は現在は妙法院の境外仏堂になっています。元は、後白河上皇が長寬2年(1164)法住寺御所内に発願し建立した仏堂です。その造営を担ったのが平清盛です。新熊野神社も造立したのは清盛です。 御陵前から振り返ると、法住寺のお堂の屋根が築地塀ごしに見えます。 参道を戻るその先には、三十三間堂の東大門が見えます。 参道の門を出て、南に歩むと、法住寺のもう一つの龍宮門があります。 「旧御陵正門」の石標が建ててあります。これで御陵との位置関係がお解りいただけることでしょう。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p107-108補遺後白河天皇法住寺稜 天皇陵 :「宮内庁」天台宗法住寺 ホームページ蓮華王院三十三間堂 ホームページ後白河天皇 :「ジャパンナレッジ」後白河法皇が辿った生涯と人物像に迫る:源平合戦の影の演出者としての姿とは? [日本史人物伝] :「サライ」新熊野神社 ホームページ新日吉神宮 :ウィキペディア洛東 養源院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛東 新日吉神宮ふたたび -1 楼門・拝殿ほか 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院スポット探訪 京都・東山 養源院
2023.11.01
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=== 2023.10.16 === 南の空9時40分頃に撮りました。ほんわりと浮かぶ白雲が見えますが、快晴に近い空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 まさに秋空ですね。 東方向の空稜線の上空も白雲が浮かび、青空が見えます。良い天気です。 東方向の空16時近くに眺めると、稜線上空の雲は塊状に変化し、青空が鮮明になっています。 南の空部分的に、もやもやした感じがみられますが、青空がきれいです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時40分近くに眺めますと、銀鼠色の雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空晴れ、夕刻より曇りの一日。秋晴れだったと言えるでしょう。=== 2023.10.17 === 南の空8時45分過ぎに撮りました。南の遠くの方にはかなり雲が出ているようですが、近くの空は白雲が浮かぶものの青空が広がっています。昨日に続きよき秋空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 雲をズームアップしてみました。 東方向の空10時50分過ぎに撮りました。稜線のすぐ上は、夏雲の名残を思わせる感じの白雲に見えます。その上には青空が広がっています。 南の空 南はほぼ快晴です。南西方向の空 西方向の空 西方向は白雲がでていますが、やわらかい雲の感じです。 頭上の空 南の空17時5分過ぎに撮りました。ぽっかり浮かぶ雲ふたつ。南西方向の空 ズームアップしますと、こんな雲が西寄りに見えます。 西方向の空 頭上の空 東方向の空もやがかかった感じを受けますが、雲はみえません。青空が褪せたかの感じ。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に移ることになります。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)既に、詩の幾つかに「詩国賦算」という語句が現れてきていました。この第三巻の収録から、詩集のタイトルに「詩国」が冠されることになりました。最初の詩集が「詩国 第一集」です。ここから、雲を含む詩句を見つける歩みをつづけます。とは言いながら、脇道からはじめます。「詩国 第一集」冒頭の詩をご紹介しないことには、始められないと感じますので・・・・ うつしよにほとけいまして うつしよにほとけいまして われをみちびき われをまもりたもう うつせみのいのちを いまにいたるまで あらしめたもう ちからよわきわれに うからをやしなわしめ いきるひのかてを あたえたもう ああ うつつのごとく ほとけいまして なみだながるる ひかりながるる p3次の三詩も、真民さんの詩を味わう上で、真民さんを感じるのに欠かせない出発点だと思います。 軽くなろう 軽くなろう 軽くなろう 重いものは みんな捨てて 軽くなろう 何一つ身につけず 念仏となえて 歩きまわった 一編さんのように 軽くなろう p11 しんみん三訓 貧しくあれ つつましくあれ 捨て身であれ p14 リンリンと鳴り響くもの 日蓮を恋い 吹雪の佐渡へ 渡ってゆく人を思うて 深夜目を開けている リンリンと鳴り響くもの ああこれが 菩提心であり 求道(クドウ)心であり 詩心である しんみんよ お前の行く道もまた そこにあることを知れ p14真民さんのスタンスを感じ取れる詩だと思います。その生き方を核にして、詩国賦算の願があるのでしょう。雲を見いだすのは次回から・・・ということで。四詩引用しました。雲の変化に戻ります。==== 2023.10.18 === 南の空9時30分頃に撮りました。本日も快晴。南の遠くにも雲がなさそうです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 文句なしの快晴で始まった一日です。 東方向の空もやがかかっている感じですが、青空そのものです。こんな東の空は珍しいくらいです。 東方向の空16時30分頃に眺めますと、ほぼ朝に見た雰囲気と同じ空が保たれていた感じを受けます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時30分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 夕映えが見られました。 西方向の遠くの雲をズームアップ。電線が避けられません。 頭上の空 東方向の空東の空の雲も夕陽を映じて、ほんのり色づいています。少しピントが合っていないのが残念。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.31
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展示室を巡るとき、2階から1階へ会場内の階段を降りる前に、東側のドアから休憩スペースに出てみました。普段は足を向けない南側のスペースに行ってみると、平成知新館前の広場と庭が見渡せます。それがこのガラスウォール越しの景色です。長年、訪れる度にこの館内を巡っていますが、こちらの休憩エリアに来るのは初めてでした。いつも、1階の館内通路から外の景色を撮っていました。 ここから、館内南側の通路空間を見下ろすことができます。この景色を眺めるのも初。 ズームアップで。普段と違ったアングルから撮るのも、気分か変わっていいものです。 平成知新館を出て、池越しに赤いレンガ造りの表門(西門)を遠望した景色 東に目を転じると、東南方向に明治古都館 東福寺展案内パネルの裏面には、来春の特別展「雪舟伝説」の案内が掲示されています。また、楽しみが・・・・。噴水のある広場へ そして、今回もロダン作「考える人」を定点撮りしました。今回は近くから。 ちょっとマニアックに・・・・。ロダン像は不動に見えても、空の色、空の雲、周りの木々の色彩が変わります。考える人は、この位置で四季の変化を浴びています。四季の移ろいについても、この人は考えているのでしょうか。 噴水はリズミカルに、一定の噴水パターンをリピートしています。噴水の途切れが、この空間の靜かさとのどかさを際立て手くれます。 表門(西門)この博物館が創設された当時は、ここが正門だったのでしょう。はれやかで、威厳を漂わせた、ハイカラな門。今ではレトロな、インスタ映えする門というところでしょうか。 訪れたのは10月下旬の手前。これからの深まりを感じさせる紅葉というところです。西の庭の散策路を歩み、博物館の出口へと向かいます。 庭に保存されている地蔵菩薩坐像。南面されています。 秋空と紅葉。そこに「考える人」飽きずに毎回取り続ける我、ここにあり。ご覧いただきありがとうございます。補遺京都国立博物館 ホームページオーギュスト・ロダン 地獄の門 :「国立西洋美術館」オーギュスト・ロダン 考える人 :「国立西洋美術館」考える人 デジタルアーカイブ :「静岡県立美術館」オーギュスト・ロダン オンラインガイドブック :「静岡県立美術館」ロダン作 考える人 広島市中区、もみじ銀行玄関前 :「廣島ぶらり散歩」東大寺八角灯籠 :「奈良県立図書情報館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -1 特別展への誘い へ観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -2 展示室を巡る へ観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -3 在りし日の釈迦如来坐像を偲ぶ へ
2023.10.30
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1階に降り、<第5章 巨大伽藍と仏教彫刻>のセクションに入ると、すぐ左側に撮影可能エリアが設定されています。エリアを正面から見て右側には、「仏手」が展示されています。 これは、かつて東福寺の本堂(仏殿)に安置されていた旧本尊・釈迦如来坐像の左手です。指先端から手首矧面まで 217.5cm という大きさ。大人の背丈より大きな左手です。木造・漆箔。鎌倉~南北朝時代 14世紀に造立された仏像でした。この仏手は、現在は本堂(仏殿)内の左脇壇に指を上にして立てて祀られています。 本来であれば、釈迦如来の左手が間近でこんな感じに見えるのでしょうか。 (資料1)江戸時代に出版された『山州名跡志』の第12巻は、東福寺の項で、「本尊 釈迦佛 坐像五丈」と記しています。1丈は10尺です。この場合、この釈迦像が立てば五丈(約15m)の大きさを意味するそうです。坐像の像高が約半分とみても7m余の高さの仏像だということになります。創建当初に造立された本尊は、はやくも元応元年(1319)に焼失しました。この仏手は、その後に再興された本尊の仏手だそうです。その本尊が再び明治14年(1881)に焼失してしまったです。そして残ったのがこの仏手。 逆に左側には、これが展示されています。「蓮弁」です。焼失した本尊の台座である蓮華座の蓮弁と推定されています。これは横幅がほぼ1mあるとか。東福寺内の塔頭に大小いくつかの蓮弁が伝来しているそうです。 中央に安置されているのがこの「釈迦如来坐像」です。木造・漆箔で像高 87.5cm。小さく見えますが、坐像でこの高さですから、立てばほぼ等身大の大きさといえます。 この釈迦如来坐像は旧本尊の光背にあらわされた化仏の一つだったのです。この化仏一つからでも、旧本尊の巨大さを偲べることでしょう。 現在は塔頭の一つ、南明院の本尊として祀られています。 この説明パネルは仏手の近くに掲示されています。 旧本尊との関連性がイメージしやすくなるガイドです。これで特別展「東福寺」の鑑賞に関連して覚書を兼ねたご紹介を終わります。つづく参照資料*図録『特別展 東福寺』 発行 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション 20231) 山州名跡志. 巻之1-22 / 白慧 撰 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺京都国立博物館 ホームページ臨済宗大本山 東福寺 ホームページ化仏 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」化仏 :「コトバンク」化仏 :ウィキペディア釈迦如来 その時代と変遷 :「祈りの回廊」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -1 特別展への誘い へ観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -2 展示室を巡る へ
2023.10.29
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三門余談から始めます。東福寺は、奈良の東大寺と興福寺から一文字ずつとり東福寺と名付けられ、鎌倉時代に創建されました。俗に「東福寺の伽藍面」と称されるように、広大な寺域に巨大な伽藍が建ち並びます。2015年5月、上掲「三門」の特別公開を拝見に行きました。その時に撮った景色の一部をご紹介します。冒頭の写真は、南側から三門の正面を眺めた景色です。 三門の手前には池があり、三門への石橋が中央に架けてあります。(立入禁止です)三門楼上には巨大な扁額が掲げてあります。 三門楼上の特別公開で2階の回廊から周囲を眺めることができました。 楼上から北方向、正面に見えるのは本堂(仏殿)。北東方向に書院が見えます。 本堂の背後に、方丈があり、方丈の北西に通天橋が位置します。 三門の西側には大きな禅堂が見えます.禅堂の北に殿鐘楼と経蔵を遠望できます。 禅堂の南にあるのが東司です。また、本山の周辺には数多く塔頭が並んでいます。これらの建物群から伽藍面の一面を感じることになります。 回廊を南側に回り、楼上から三門前の思遠池を見下ろした景色です。会場内は一部を除き、撮影禁止。まず平成知新館の3階までエレベーターで上り、展示室を順次巡りながら、2階・1階へと降りていくのはいつもの通りです。この特別展は全体が5章構成で展示されています。章ごとに少しご紹介していきます。<第1章 東福寺の創建と円爾>寺名の由来は述べました。東福寺は摂政九条道家が中国で禅を学んだ円爾(1208~1280)を請じて開山と仰ぎ創建した九条家の氏寺として始まりました。現在は臨済宗東福寺派大本山です。まず開山の円爾の頂相(チンソウ)が4点展示されています。禅僧の肖像画は頂相と称されます。自賛のあるもの2点、他賛1点、賛なし1点。絹本着色の頂相です。展示の「円爾像」は少しずつ雰囲気が異なります。描かれ時期(年齢)の違いが反映しているのかもしれません。 ここでは京博だよりに掲載の「円爾像」(京都・万寿寺蔵)を引用します。これは後期展示の予定になっているものです。興味深かったのは、「度牒」と「円爾宛印可状」です。度牒は「得度した牒(フダ)」という意味で、円爾が中国に留学する際に身分証明書の役割を担う文書です。印可状は、円爾が悟道熟達したことを師匠が認可し書した証明書です。 円爾は中国に渡り、南宋禅宗界の重鎮である無準師範に師事しました。これは前期展示で、自賛のある「無準師範像」(国宝)です。通期展示で、「無準師範坐像」も展示されています。玉眼の入った木像で室町時代15世紀の作。無準師範所用の「九条袈裟」や、東福寺建立を発願した九条道家の肖像画も展示されています。<第2章 聖一派の形成と展開>円爾には、「聖一国師」という諡号が応長元年12月に勅許されました。生前に「聖一上人」とも呼ばれていたそうです。円爾の法を伝える後継者たちが聖一派と呼ばれています。ここでは、東山湛照、無関普門、白雲恵暁、山叟慧雲、癡兀(チコツ)大慧、虎関師錬という禅僧たちの頂相を拝見できます。蔵山準空と性海霊見の木造坐像が展示されています。宗派の個々の寺院に所蔵されている頂相を一堂にして拝見できる希有な機会です。 左は、自賛のある「癡兀大慧像」(京都・願成寺蔵)。右は、虎関師錬筆「虎 一大字」です。虎関師錬は本学国師の号を下賜されました。「本學」という国師号を室町時代に近衛尚道が揮毫した「本學国師号」(京都・海蔵院蔵)が展示されています。折り目正しく几帳面に書したという感じで、楷書体の見本のような揮毫です。<第3章 伝説の絵仏師・明兆>東福寺を拠点に活躍した絵仏師・吉山明兆(キッサンミンチョウ、1352~1431)に光を当てたセクションです。室町時代の画聖の一人に数えられる存在。東福寺の中では、仏殿の荘厳などを行う殿司(デンス)職を努めていたので、兆殿司とも呼びならわされていたそうです。前回触れていますが、特別展のハイライトの一つは、修理事業が完了した明兆筆「五百羅漢図」全50幅の一般公開です。 私が訪れたのは第1期だったので、この50幅のうち第1号から第12号が展示されていました。前期の後半は第2期として、第12号から第23号まで、という具合です。全部鑑賞するには4回行く必要がありますね。(ちょっと無理だなぁ・・・・私には。図録でがまん・・・)この「五百羅漢図」全50幅については、次の点を会場で知りました。綿密にチラシを読んでいれば、簡略な説明が記されているのですが・・・・。(そこまで事前に読まなかった!)国内では、東福寺に45幅が所蔵されていて、2幅は東京・根津美術館が所蔵されているのです。根津美術館の2点(第48・49号)は後期展示予定です。あと3幅は? 江戸時代・元和6年(1620)に狩野孝信が明兆の原画を模写した第46・47号があり、東福寺が所蔵。そのうちの1幅、第46号が前期に公開されています。最後の1点、第50号は、ロシアのエルミタージュ美術館所蔵になっているそうです。今回は、平成30年(2018)に復元模写された第50号(東福寺蔵)が通期展示されています。 明兆筆「白衣観音図」(重文)が展示されています。サイズは、326.1cm×251.1cm。図録の解説によりますと、もとは東福寺法堂の仏後の壁に貼られていた可能性が指摘されているそうです。これは安定した三角形構図の絵です。明兆筆「三十三観音図」(重文)は31幅中5幅が会期中に展示される予定で、前期はそのうち3幅が展示されています。「寒山・拾得図」は、それぞれが一幅に描かれていました。禅宗では必ず登場する画題です。やはり、明兆も描いていました。他に明兆筆の高僧の頂相も展示されています。<第4章 禅宗文化と海外交流>中国から帰朝した円爾は多くの文物を持ち帰り、一方帰国後も中国の仏教界とのネトワークを維持したそうです。聖一派の禅僧はそれを継承し、外交や貿易にも重要な役割を果たしたと言います。それが東福寺に大陸の文化、知識、美術工芸品をもたらしたのです。『太平御覧』(国宝)という南宋時代の百科事典、同時期の『義楚六帖』(国宝)という仏教百科事典や、経典類等の文物が数多く展示されています。やはりわかりやすいのは絵画工芸品です。趣の異なる「釈迦三尊図」が3点(うち重文2点)展示されていて、見比べてみる楽しみがあります。「維摩居士像」(重文)も展示されていました。ちょっと変わったものとして、明時代の「繍仏帖」が通期展示として出ています。各種尊像を刺繍で表した円形の生地を貼り合わせて帖仕立てにした作品です。工芸品で目に止まったのは、堆黒・堆朱・箔押朱漆塗という三種類の天目台。もう一つは、「孔雀牡丹文堆朱大香合」です。<第5章 巨大伽藍と仏教彫刻>1階まで降りて、最後のセクションです。このセクションの入口付近にここだけは撮影可能というエリアが設定されています。ここは次回にまとめます。まず、撮影禁止のエリアを巡りましょう。やはり、ハイライトは東福寺の仏教彫刻です。東福寺という巨大伽藍に相応した巨大な仏像たち他が、ここに展示されています。やはり巨像は迫力があります。すぐ間近で見られるのは、博物館での展示を鑑賞する醍醐味だと思います。まずは、「二天王立像」(重文)、木造・彩色の像です。 二天王立像 阿形 像高 336.8cm 二天王立像 吽形 像高 333.5cm もとは冒頭に載せた「三門」に置かれていたそうです。鎌倉時代13世紀に造立された作。数十年前に収蔵庫に収められたということなので、三門は幾度も訪れていますが目にする機会がなかったのは当然でした。同じく鎌倉時代13世紀の「金剛力士像」(重文、京都・万寿寺蔵)が展示されています。こちらは阿形・吽形の像高が、203.0cm、207.3cmというサイズ。木造・古色で、玉眼が入れてあります。慶派仏師の特色を示す作。 これは四天王立像のうちの「多聞天立像」です。こちらも鎌倉時代13世紀の作。四軀が揃って展示されています。多聞天立像は像高 100.1cm です。多聞天が一番低く、一番高い広目天で像高 114.2cm です。本堂の本尊を守護する四天王像です。小ぶりですが迫力があります。 右が「迦葉立像」(重文、像高 189.0cm)で、左が「阿難立像」(重文、像高 193.8cm)です。本堂にて、中尊の釈迦如来立像の脇侍として安置されている仏像だそうです。過去に探訪した時の記録写真を確認しますと、本尊の釈迦如来立像の両側に、仏弟子が脇侍として配置されているのが分かります。それが、迦葉・阿難立像だということで、かつての探訪の折の疑問が解けました。通常、釈迦三尊像といえば、釈迦如来に脇侍として文殊・普賢菩薩が従う三尊形式です。それにさらに、迦葉・阿難が加わるという五尊形式があると言います。今回、釈迦三尊形式にはいろいろなバリエーションがあることを調べてみて改めて知りました。さらに、「地蔵菩薩坐像」(重文、鎌倉時代 13世紀)、「跋陀婆羅尊者像」(室町時代 15世紀)、「烏枢沙摩明王像」(室町時代 14~15世紀)も展示されています。また、伽藍の建物に関係する「東福寺伽藍図縁起」をはじめ、境内総絵図、禅院額字并牌字なども展示されています。 禅院額字并牌字の一例がこれです。扁額として「方丈」の文字を陽刻するときにこの文字が原字になるのです。「普門院、大円覚、知客、三昧、書記、普説、上堂」の原字が展示されていました。その原字は、無準師範、張即之の二人によるもの。この題字・牌字は国宝に指定されています。扁額「栴檀林」と牌「上堂」が通期で展示されています。つづく参照資料*東福寺 境内図 https://tofukuji.jp/guide/#precincts*「特別展 東福寺 出品一覧・展示替予定表*入手した特別展PRチラシ *「京都国立博物館だより 2023年10・11・12月号」*図録『特別展 東福寺』 発行 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション 2023 補遺臨済宗大本山 東福寺 ホームページ聖一国師が歩んだ道 :「Shizutetsu」円爾弁円 :「コトバンク」円爾 :ウィキペディア東福円爾二字書 爾然 :「MIHO MUSEUM」円爾系の印信から見る禅と密 ― 中世禅の再考≪8≫ :「中外日報」 東京大史料編纂所准教授 菊地大樹氏無準師範 :ウィキペデキア絹本著色無準師範像 :「文化遺産オンライン」無準師範墨蹟「茶入」二字 :「五島美術館」無準師範墨蹟 禅院牌字 :「常磐山文庫」釈迦三尊 :ウィキペディア釈迦三尊像 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展「東福寺」 -1 特別展への誘い へ
2023.10.28
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先週の19日に特別展「東福寺」を鑑賞してきました。東京展がこの春に一足早く実施され、京都展は秋になったようです。 チケット半券事前にチケットを購入していましたので、いつもの径路で京博前に到着するとそのまま南門で受付をすませて、構内に入ります。 明治古都館 全景 西の方向、赤レンガ造りの正門を遠望しつつ、 平成知新館への通路を北に歩みます。 入館前の最後の大型パネル。お出迎えパネルということでしょう。 平成知新館の1階ロビーの正面に普段とはちょっと違う大型パネルが見えます。ここは記念撮影スポットになっています。 東福寺の通天橋から紅葉を眺めている雰囲気を出そうとする演出でしょうか。今まさに紅葉のシーズンになってきています。 PRチラシA PRチラシB2種のPRチラシが作られています。AはA4サイズ、BはA3サイズの二つ折です。よく見ますと、Bには、地柄に飛雲が描き込まれていて、色調が濃いめです。 チラシA裏面 チラシBを開いて、見開きの両面。2つ合わせただけでもけっこうこの特別展の情報が載っています。今なら各所で入手できると思います。後ほど一部引用します。 「京都国立博物館だより 2023年10・11・12月号」これも、特別展「東福寺」をメインにして特集されています。「東福寺のすべてを、お見せします。」というキャッチ・フレーズ。偽りはない特別展です。東福寺には幾度も訪れています。しかし、仏像・寺宝の類いをそれほど手軽に拝見できることはありません。「東福寺初の大規模展覧会」であることに納得です。 チラシBからの引用。これは絵仏師・吉山明兆が描いた「五百羅漢図」の一部です。足かけ14年の歳月で、この五百羅漢図の修理事業が完了したそうです。1幅に羅漢が10人ずつ描かれています。そこで全50幅。それがこの特別展で一挙に公開されるというのが、一つの目玉になっています。ただし、展覧会の会期中全50幅を4期に分けて公開するという形です。私は、第1期に出かけた事になり、第1~12号を鑑賞するだけに限定されました。上掲の左端の一幅がこの五百羅漢図の第1号です。その続きには、第17号・第29号・第45号と、各期の展示予定の一幅が並んでいます。ここで上掲のチラシや案内PRパネルの図柄が関係してきます。最初にチラシを見たとき、これらの図柄がどこに由来するのだろうか、と思ったのですが、典拠はこの五百羅漢図だったのです。ちょっと、チラシ・パネルから図柄を部分図として切り出してみました。購入した図録で確認してみましたので、どこに由来するかをご紹介します。 上を一部カットしましたが、この図の上部4羅漢は第1号、下部4羅漢は第40号より。 この1羅漢も第40号より。天女は第2号の上部に描かれた二天女のうちの左側より。 こちらをご覧いただくと、羅漢像の合成の位置関係に変化を加えてあります。 こちらは第20号の羅漢群です。チラシAをご覧いただくと、この直上に2羅漢が描かれています。それらも第20号に描かれた羅漢。その上の羅漢は第1号の羅漢群です。 こちらは冒頭の七条通に面して設置された大型案内パネルから切り出しました。第1号と第20号の羅漢群の合成の際の位置関係を変えてあります。面白いですね。意匠設定にデジタル画像加工処理技術が巧みに使われているのでしょう。特別展を鑑賞した後で、 今回の図録を購入しました。表紙の絵図を拝見してきた記憶がありません。後で、確認してみますと、 「東福寺伽藍図」が図録のカバーに使用されているのでした。これは後期展示予定です。この点も、少し残念なところでした。 会場には、こんなリーフレットのガイドが準備されていました。A4サイズをA5に折り込んだリーフレットです。表紙の建物は三門です。たしか英語・中国語・韓国語版が備えてあったと記憶します。内容は、1 いつできた? だれが作った? 2 聖一派って何? 3 伝説の絵仏師! 4 つながる・つづく海外との交流 5 なんでも大きい東福寺 生徒・学生向けに作成されたリーフレットのようですが、基礎知識を得るのにけっこう役立ちます。入手おすすめです。さて、会場を巡って行きましょう。つづく補遺臨済宗大本山 東福寺 ホームページ 京都の紅葉名所「東福寺」、知られざる見どころをチェック!:「そうだ京都、行こう」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて 9回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -1 天得院(桔梗の寺) 7回のシリーズでご紹介 第6回に、「通天橋と洗玉澗」をご紹介しています。探訪 京都・東山 東福寺域の散策から -1 地蔵菩薩像と不動明王像ほか 3回のシリーズでご紹介
2023.10.27
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これは宇治市文化センターの施設全景です。中央の階段より左側が文化会館、右側に歴史資料館(手前)と中央図書館(奥側)があります。市の中央図書館に立ち寄った時に、掲記の神社を訪れました。この文化センターは折居台1丁目にあります。ランドマークとしては便利ですのでまず冒頭に。パノラマ合成した景色です。この文化センターの西側に、太陽が丘(山城総合運動公園)に至る宇治市の幹線道路の一つが通っています。この道路をはさみ西北側は大谷という地名です。文化センター前からは、T磁路の交差点を通って数分のところ、 民家の間に、「白長社」の扁額を掲げた一の鳥居が、道路から奥まってたっています。朱塗りの明神鳥居です。 鳥居の手前に、狛犬像ではなく一対の狐像が配されいます。稲荷系の神社ということでしょう。 二の鳥居 三の鳥居鳥居を3基通り抜けることになります。小規模なのに整備されています。本殿前から眺めると、 右(南)側に歳月を経た石灯籠が建ち並び、左(北)側には石灯籠と小ぶりな手水鉢が置かれています。 正面には、小規模な本殿が見え、覆屋が設けられています。近年再建されたものでしょうか。まだ新しさを感じます。 本殿本殿の傍にも、榊の供花の陰になっていますが、一対の白狐像が配置されています。手許に資料がなく、調べてみて、「宇治市政だより」(第832号)にコラムとして掲載された記事を入手しました。「宇治にもあるへびのお話」というコラム。「白蛇 宇治にも出現 -蛇騒動記-」と題した記事が末尾に載っています。この記事の冒頭に、この大谷の白長社(はくながしゃ)は、白蛇を祀る神社であることがまず紹介されていたのです。白、長・・・なるほどと思います。「蛇は池や沼に住む水の神様、また、弁天様のお使いで、財宝を守ってくれるのです。特に、白蛇は神様として祀られています。」(コラム記事より転記)「蛇は、地中から出てくると勢いが盛んになり、万物に力を与えます。そのため、白長社は蛇の出そうな、山深いところに建てられました」(同上)この地域の宅地開発が進展し、環境整備された故に、山深さを感じる場所とは程遠くなっています。面影は神社の境内からわずかに偲ばれます。このコラムには、この後に、貞成親王が書いた『看聞日記』という史料に記録された、15世紀初めの室町時代に宇治で発見された白蛇にまつわる騒動記の内容を紹介しています。ここでは省略します。上掲の本殿を撮った景色には、右側に小さな小社が見えます。 近くまで行って拝見しますと、不動明王石像が安置されていました。 不動明王が祀られています。 本殿の左側、すぐそばには、この「朝日大神」と刻した碑が建立されています。 一石五輪塔覆屋の位置から左方向には、石段のある参道が延びています。こちらにも朱塗りの覆屋が見えます。その手前にあるのが、一石を刻み込んで造られた五輪塔です。朱塗りの覆屋に進む前に、目に止まったのが更に左側の一画です。 傾斜地の一画を円筒状に開削し、周囲を石積みにして、石段を下りていく場所になっています。行者が滝水にうたれる修行場です。 石段を降りていき、近づくと、地蔵菩薩石像が祀られているようです。私の印象。 下まで降りると、正面に間近に見えます。 亀の石像は、石樋の滝口の上に鎮座しているのです。この亀もまた神亀なのでしょう。 不動明王像を浮き彫りにした碑が安置されています。 不動明王の現前で、滝の水を浴び、修行が行われてきたということでしょう。石段を引き返し、朱塗りの覆屋に向かいます。 覆屋の中には、石仏が整然と並べられ安置されています。お地蔵さまのご集合でした。 この石仏群からさらに参道を先に上ります。 山の傾斜地にこんな景色が広がっています。 一番手前に「□代龍王」(冒頭一文字不明)と刻された神名石碑 その先に、「荒木大神・高倉大神」と刻した神名石碑「二代龍王」と刻した神名碑が続きます。列としてはそこまでです。が、左側に目を転じますと、 「末廣大神」(左)と「八代龍王」(右)とそれぞれ刻された神名石碑が建立されています。 上掲神名石碑から、参道を戻ってくると、北面する形でこの神名碑があります。私には判読できません。不詳です。 さらに手前に戻ると、「白龍大神」と刻された神名石碑が建立されています。境内を巡って連想したのは、伏見稲荷大社の背後の稲荷山のお山巡りをして、山の峰々にの至るところに建立された驚くほど多くの「お塚」と呼ばれる様々な神名石碑です。この境内の神名石碑群は、お塚に通じるものに思えました。稲荷山に上れば、白長社も含めて、お塚の一つになりそうです。この境内、まさに神仏習合の状況が維持されている姿を感じとれるところでした。余談ですが、手許の一事典によりますと、蛇神を祀る神社に、奈良県の大神神社、藤沢市の諏訪神社境内の長虫神社、鹿児島県・頴娃町の無足大明神があげられています。呪術・医薬の守護神ともいわれています。また、屋敷の守護神、屋敷神として蛇宮を祀るという事例もあるそうです。インターネットで別の事例にも出会いました。これで、ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「宇治市政だより」昭和64年(1989)1月1日 第832号 新春特集号 *『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p461-463補遺宇治市文化センター ホームページ蛇と水神のはなし 大平山だより :「大平山神社」長虫神社 :「鵠沼・昔砂丘の一本松」無足明神(むそくみょうじん)関連石造物 :「指宿まるごと博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰観照&探訪 摂取院、稲荷山南辺のお塚、紅葉と奥社奉拝所への裏ルート探訪 京都市伏見区 伏見稲荷大社 補遺 -1 未訪のお塚2箇所と谷間の不動明王像探訪 伏見稲荷大社細見 -10 周辺(ごんだゆうノ滝・弓矢八幡宮・大橋家庭園・釈迦堂ほか)
2023.10.26
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=== 2023.10.13 === 南の空9時25過ぎに撮りました。横雲が漂い、晴れの天気。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 やわらかないい感じの雲がふわりと浮かんでいるようでいい。 東方向の空稜線の上空も似た感じの雲が見え、普段よりも良い雰囲気の景色です。 東方向の空16時半過ぎに眺めてみますと、空に青さが増した中に細長い横雲が漂う形に変化していました。 南の空南西方向の空 カメラを縦方向にし、ズームアップで 西方向の空 頭上の空 青空と秋の雲、晴れた一日が過ぎてゆきます。 南の空17時40分近くに撮りました。曇り空に変化。一時間ほどの違いでかなり変化するもの。南西方向の空 西方向の空 遠く西の空には夕焼け雲が見えます。夾雑物なしにズバリと夕焼け雲を見たいものです。 頭上の空 東方向の空=== 2023.10.14 === 南の空8時45分過ぎに撮りました。一部うろこ雲が見えます。青空も見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線のすぐ上は白い雲がかかり、その上には銀鼠の雲が覆っています。普段のように東方向の空は曇り空。 東方向の空 16時5分過ぎに撮りました。銀鼠一色の曇り空に変化しています。 東の空は曇り状態が続く一日です。 南の空 南の空も曇り空に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴れのち曇りという一日になりました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている詩集「朴」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)詩集「朴」の末尾になってきました。第二巻の巻末でもあります。ここに「出雲の雲」と題する長詩が収録されています。出雲という地名に雲があることもあり、詩の中には数多くの雲の文字が詠み込まれています。全文引用となります。 1 出雲にきて 雲ばかりながめていた 出雲の雲には いのちがある 2 輝く雲のなかに 若い詩人 スサノオノミコトがうたう 雲のうたが 今きこえる 3 消えゆく雲の 美しさよ われの終わりもかくあれ 4 出ずる日に鳴くかなかな 沈む日になくかなかな 出雲のかなかなには 神々の声がする 5 神代より鳴く かなかなの声 古国(フルクニ)の出雲にきて 血の浄まる覚ゆ 6 出雲の 入り日の 美しさ 日に向かって 独り 坐を組む 7 雲ひかれば 我もひかる 8 わらびを食べ ぜんまいを食べ ああ すがすがし 神の国出雲 9 戸もしめず 鍵もかけず 寝 (イ) ぬるよき里 ああ 川きよし 空きよし 出雲の国は 10 はしけやし 二羽の白鷺 斐伊川の砂に遊ぶなれば スサノオノミコトかと思う クシナダノヒメかと思う 11 肥の河の川上の 黒い石一つ 拾いて帰り 耳に当てれば 日本の夜明の歌が きこえてくる この国を造られた 神々の声が きこえてくる p315-316「肥の河は今斐伊川という」と末尾に付記がある。その次の「真光寺」と題する詩にも雲が詠み込まれています。詩文から一遍上人の廟所がある寺だとわかります。7章で構成される詩です。雲に関連する箇所を抜粋します。第2の前半にまず出て来ます。 御廟所の上に 八日の月が出ている 雲が去ると その月が光ってきた ああわたしは いい時に訪れてきた p318第6にも雲が詠み込まれています。ここは全詩句引用します。 一遍さあーんと呼んだら おーい おーい と答える 一遍さんの涼しい声が きこえてきそうな 雲のゆききの 夕くれであった p319この詩集「朴」に載る雲関連は、「雲を呼ぶ石」と題する詩です。詩全文の引用です。雲の位置づけを知るためにも。 左から 鷹ヶ峰 鷲ヶ峰 天ヶ峰の 三峰を望み 念ずれば花ひらく の碑 根強きタンポポの如く 大地に建つ その石小さけれども 背骨ありて 息を吹き 日月を呼び 白雲を呼ぶ 地水火風空の 五輪の供養塔 すぐそのかたわらにありて この世の人には 生き抜く力を与え あの世の人には 往生の道しるべともなろう 訪れる人よ 念じて心に花を 咲かしめたまえ とこしえにしぼぬ花を p320予測をしつつ、調べてみますと、詩中に出てくる「念ずれば花開く」の碑は、京都洛北、鷹ヶ峯の常照寺境内に、1970年に建立された第1号碑です。補遺をご参照ください。雲の変化に戻ります。=== 2023.10.15 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。夜半に雨が降ったのか、ベランダの竿には雨滴がずらりと垂れています。雨滴を拭ってから、ベランダに出て三方の空を眺めました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 空は晴れ上がっていきそうな雰囲気です。 東方向の空稜線上に雲が下りていて稜線が隠された状態になっています。こういう景色を見るのはまれなことです。 東方向の空16時半過ぎに、稜線を眺めると、上空に横雲がゆったりと広がり、青空が見られる景色に様変わりしていました。 南の空 南の遠くに雲がでていますが、近くの空は快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空17時35分過ぎに撮った空は、最近はじめて見た状態と同様の空の雰囲気です。雲の広がりではなく、青空が銀色に変じたかのような感触の空です。 東方向の空空と雲の変化は不思議です。つづく補遺真光寺 ホームページ 一遍上人について 坂村真民さん :「加藤屋のメモと写真」 1970年、「念ずれば花ひらく」の第1号碑が、京都市鷹峯常照寺に建つ。 という一文が記事中にあります。坂村真民 :ウィキペディア常照寺 ホームページ常照寺 (京都市) :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.25
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6月14日に庭のオーシャンブルーの初咲きを見ました。このことはご紹介しました。その後、オーシャンブルーがどのように咲くのか、楽しみにしていました。 6月23日頃には、こんな感じで少し咲き出していました。 7月4日 10時頃 7月6日でもこんな感じです。そして、その後、オーシャンブルーはピタリと花を咲かせなくなってしまいました。猛暑日が連続するようになって行きました。8月、9月と、グリーンカーテンとしての役割を果たしてくれるだけに留まったのです。 10時20分頃 16時45分頃10月7日、オーシャンブルーが再び咲き始めたのです!!!今年は気温が開花するには適さなかったということでしょうか。それが、開花に適した気温になってきたのでそれに応じるかのように咲き始めた・・・・。 プランター一つだけのタマスダレが満開を迎えていて、元気いっぱい!! 調べてみますと、ゼフィランサスの一種のようです。 10月15日 8時45分頃 オーシャンブルーの花にしずくが。昨夜の雨上がりの忘れ物でしょうか・・・。 我が家の小さな庭の西南隅と東南隅のキンモクセイが一斉に花を開いていました。 この日(10/15)、気づいたのです。 10月18日、オーシャンブルーは順調(?)に花を開いてくれています。 キンモクセイは満開に近い状態のようです。 そして、10月22日 9時半頃、今朝のオーシャンブルーです。たくさん花開いています。グリーンカーテンの役割だけで終わらずに、精一杯花開いてくれるのはうれしい。目を楽しませてくれています。 キンモクセイは満開ですが、今朝は、 木の傍の下水蓋の上に、多くの落花が見えました。 キンモクセイの花の命は短いようです。余談です。手許の歳時記を見ますと、「朝顔」は秋の季語として載っていますが、さすがにオーシャンブルーという名称はありません。キンモクセイは、季語「木犀」を代表語とし、その季語説明の中で、金木犀、銀木犀、薄黄木犀、桂の花という語句が併載されています。歳時記によると、木犀は中国原産のモクセイ科の常緑樹で、江戸時代に渡来したといわれているようです。諸本に載る金木犀と詠み込んだ句を引用します。 土地人もまよふ袋路金木犀 今村青魚 (資料1) 金木犀午前の無為のたのしさよ 石田波郷 (資料2) 月の出は金木犀の色にかな 永井東門居 (資料2) 金木犀つんとにほへり朝化粧 松野加寿女 (資料3) 金木犀風の行手に石の塀 沢木欣一 (資料3)植物もまた、温暖化、連続した猛暑日の影響を大いに受けているのでしょうね。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀女編 三省堂2)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹 編 角川春樹事務所3)『新改訂版 俳諧歳時記 秋』 新潮社編 新潮文庫補遺ゼフィランサス :「みんなの趣味の園芸」ゼフィランサス(タマスダレ)の花言葉と育て方|球根の植え方や時期は?:「HORTI」タマスダレ(玉簾)の花言葉 種類、特徴、色別の花言葉 :「LOVEGREEN」自然毒のリスクプロファイル:高等植物:タマスダレ :「厚生労働省」キンモクセイ :ウィキペデキア生薬の花 キンモクセイ :「日本薬学会」銀木犀、知ってる? 金木犀との違いや見分け方 :「ウェザーニュース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 庭の花 初咲きのオーシャンブルー
2023.10.22
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=== 2023.10.10 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。雲が張り出していますが、青空が見え、天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空にも、素鼠と白の明瞭な二色の大きな横雲が広がっていますが、青空が見えます。その後も、天気は晴れで推移。 東方向の空17時55分過ぎには、黄昏が早まりかなり薄暗くなってきました。溝鼠色の横雲が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空どの方向も、雲が広がっていますが、青空は所々に見えました。=== 2023.10.11 === 南の空9時25分近くに撮りました。雲が広がっていますが、青空も広がってみえる状態です。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけての雲の姿がちょっとおもしろい感じです。 頭上の空 東方向の空よくあるパターンですが、稜線上空は銀鼠色をすこし明るくしたような色で厚めの布を広げたかのような雲で覆われています。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、稜線上空は様変わりです。柔らかな白雲が青空に漂っています。 南の空 雲は少なく、青空が広がり、快晴に。南西方向の空 西方向の空 頭上の空良い天気! 南の空17時20分過ぎに撮りました。空一面が青さを含む灰色がかった状態です。雲と呼べそうな感じではありません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空太陽が沈む前に光が弱まり始めた状態での晴れた青空の色調の変化なのでしょうか。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている詩集「朴」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)詩「法師蝉」の後は、14ページ先の「石も雲も」と題する詩に「雲」が詠み込まれたいます。その一行だけを取り出すことができません。全文引用します。 石も生きている 雲も生きている 一切が生きて 私に働きかける これがわたしの 詩であり 信仰であり 生活である p2997ページ先に、こんな詩がでてきます。 リンリン リンリンと おのれを燃やせ 道の草木も 輝くばかり リンリンと おのれを鳴らせ 空ゆく雲も 湧き立つばかり p306真民さんにとっては、詩心を燃焼し尽くし、一編の詩として結実させ、「詩国賦算」を実行すること、詩集を流布させんとする行動が、おのれを鳴らすことになるのでしょう。ふたたび7ページ先には、「サラリ」と題する詩に雲が詠まれています。生き方の譬喩として。真民さんにとり、「雲」は自然現象であるとともに、様々な意味を託す存在として不可欠なものになっているように思います。 すべて サラリと 流してゆかん 川の如く すべて サラリと 忘れてゆかん 風の如くに すべて サラリと 生きてゆかん 雲の如く p313この詩の続きに、もう一つ、重ねるようにして詠まれた詩が載っています。雲は出て来ませんが、呼応する詩です。真民さんの信条の理解に役立つと思いますので。 サラリサラリ なにごとも サラリサラリとゆこう 水が流れてゆくように 木の葉が落ちてゆくように こだわりなく 一切をまかせて サラリサラリと 生きてゆこう p314真民さんが唯一こだわるのは、己の詩を確立すること。詩国賦算詩集流布。そのこと一筋のための生き方が、サラリサラリ。この詩を読んでいると、「サラリ」「サラリサラリ」となりきれない己にぶつかってきます・・・・・・。煩悩多いおのれがここに居る。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.10.12 === 南の空7時45分頃に撮りました。青空に羊雲のような雲が見えます。天気は晴れ!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上は普段あまりみかけない白雲の姿が見え、かつ空全体が白鼠色で明るさがあります。こんな色合いの稜線上空の様子はちょっと不思議。 東方向の空9時5分過ぎに眺めると、空の色はそれほど変化はありませんが、雲はかなり変化して、横雲も漂っています。 南の空南の遠くの空には白雲が延びていますが、身近な南の空は快晴の状態です。遠くの白雲も写してみました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空 17時20分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空三方向の空の色は、昨日のほぼ同じ時刻の状況と似た空模様です。この空の色合いは快晴に近い秋空の日没前の現象なのでしょうか。空と雲、継続して観察していると、おもしろいものです。つづく補遺季節によって青空の青色は変化する? :「教えて!goo」秋の空 :「けいはんな記念公園」空の色は何色? :「大日本図書」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.20
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石組み井戸思わぬところで、この発掘品と出会いました。地下鉄東西線の二条城前駅の地下改札口のすぐ近くです。地下改札口の手前、通路の傍にあります。無料でご覧になれます。二つの井戸の発掘品が展示されています。ガラスに反射して見づらい画像になっています。ちょっと残念ですが・・・・。まあ、仕方ないとして、現地で実物をご覧ください。二条城の探訪に行く際に、地下鉄東西線を利用しました。改札口を出た近くでこれが目にとまったのです。 「神泉苑東隣りに位置し、木工町と推定されている平安京左京三条二坊二町で発見した鎌倉時代の井戸です。井筒上部は鴨川などから運んだとみられる30~40cm大の川原石を円形に組み上げ、底部には径1m 程の太い丸太を円筒に刳り貫いて設置しています。中世京都において円形石組み井戸は、一般的と言える形式の井戸ですが、刳り貫き丸太を用いた例は少なく、希少な資料です。井戸内からは、「神泉苑」銘の入った軒丸瓦などの異物が数多く出土しています」(説明文転記)石組み井戸の底部に刳り抜き丸太を設置しているというのが興味深いところです。径1mというと、相当な巨木です。それがまず驚きです。少ない事例という説明に頷けます。 縦板組み井戸 「堀川小路に面する平安京左京三条二坊七町(同二町の東隣り)内で発見した、平安時代中期後半(11世紀)の方形縦板組みの井戸です。井筒は、幅2~30cm 程の板を縦方向で方形に並べ、内側を横桟で固定しています。平安時代後半代には、京城内では一般的な形式です。この形式の井戸では、底部に曲物(マゲモノ)などを水溜め部として設置する例が多いのですが、この井戸には見られませんでした。また、縦板が二重となっていますが、これは旧来の板を抜き取ることなく、井筒を内側に改築したものと理解しています」(説明文転記)ネット検索して入手した資料によりますと、平安京域における考古学の発掘調査の視点からは、次のことがわかるそうです。(資料1)*長岡京期や平安時代には木枠の井戸が多いとか。これはその後も各時代にみられる。*平安時代末期に石組みや瓦積みの井戸がつくられるようになる。*平安時代には様々な井戸が作られた。 方形縦板組みの井戸:上掲が一事例。これが圧倒的に多いそうです。 縦板を円形に組んだ井戸:断面を台形に加工した縦板を15~30枚程度用いる。 →土圧に耐える、より強固なものにするための工夫 横板を方形に組んだ井戸: 西寺跡の事例では一辺2.4mの大きな井戸*「円形縦板組」や「方形横板組」は少ない。高度な技術と限定された材が必要なため。*「円形縦板組」の井戸が覆屋を持ち、園地や寝殿造りをともなう邸宅跡で検出されている発掘調査結果からは「平安時代前期には、井戸にも格式があったようである」と言えるとか。(資料1)余談です。平安時代で井戸といえば、やはり『伊勢物語』を連想します。(資料2)「昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、・・・・・」で始まる23段「筒井つの」です。この段にでてくるのが、 筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹みざるまに (丸井戸の上に組んである井戸枠の高さに及ばなかった私の背丈も、あなたに あわないでいるうちに、井戸枠より高くなったろうと思われますよ) くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき (あなたとどちらが長いか、ずっとくらべっこをしていたおかっぱの髪も今では 肩のあたりまを過ぎてずっと長くなってしまいました。でもあなたでなくて、 だれが私の髪上げをしてくださることができましょうか)という歌のやりとりです。髪上げは、「女子の成人式で、それまで垂らしていた髪を頭頂に結い上げて、後ろに垂らすこと。平安時代の貴族社会では、結婚前の12歳から15歳ぐらいの間に、「裳着」とともに行った」(『学研全訳 古語辞典 改訂第二版)』)を意味します。つまり、成人式をして結婚してくれるのはあなたよという返歌です。平安時代で井戸といえば、忘れてならないのが小野篁(タカムラ)です。 京都・東山の六道珍皇寺にこの有名な井戸があります。昼は朝廷の官吏として務め、夜は井戸を通って地獄に降り、閻魔大王を補佐したというお話。 2016年3月に、京都観光「京の冬の旅」で巡った際に訪れました。 この伝承に登場する井戸は存在します。その時井戸を覗いてみました。 たぶんこの井戸も時代の変遷の中で修復整備されて現在にいたるのでしょう。興味深いことに、少し離れた境内地に、 こちらの井戸があります。「小野篁 黄泉(ヨミ)かえりの井」というのもあります。黄泉は地獄のことです。ちゃんと戻ってくるルートがあったのです。おもしろい。時代が下って、井戸が出てくることで知られるのが「皿屋敷」です。(資料3)『播州皿屋敷』(姫路が舞台)と『番町皿屋敷』(江戸が舞台)。1741年に大坂で浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演されたと言います。江戸時代後期には『播州皿屋敷実録』なるものも記されているそうです。なぜか、姫路城の本丸には「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存します。また、姫路市内には十二所神社があり、 その境内社として、「お菊神社」があります。 これがその本殿です。こちらは姫路城の周辺を探訪した折りに訪れています。 明治時代には、月岡芳年が「皿屋敷於菊能之霊」を描いています。(資料3)大正5年(1916)には、岡本綺堂作の新歌舞伎として「番町皿屋敷」が作られています。怪談「播州皿屋敷」を素材とした演目です。(資料4)もう一つ、江戸の中期に戻りますと、井戸に関連して有名な俳句を思い出します。 朝顔に釣瓶とられてもらひ水加賀の千代女という女流俳人の読んだ句。釣瓶という語句から井戸が連想されます。このあたりで、区切りといたします。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「平安の井戸-木枠で井戸をつくる-」リーフレット京都 No.76(1995年4月) (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 近藤和子2)『伊勢物語 上』 阿部俊子著 講談社学術文庫 p111-1143) 皿屋敷 :ウィキペディア4)『歌舞伎観賞辞典』 水落潔著 東京堂出版 p167補遺1. 井戸の種類 (2) 掘井戸 :「水の歴史館」井戸の起源とは :「井戸生活」皿屋敷 :「歌舞伎 今日のことば ことばで知る歌舞伎の世界」演目 番町皿屋敷 :「歌舞伎への誘い」播州皿屋敷 姫路のお菊井戸 :「兵庫県立歴史博物館」岡本綺堂 :ウィキペディア加賀の千代女(かがのちよじょ) :「白山市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 2016年「京の冬の旅」 -3 妙心寺境内と霊雲院、六道珍皇寺探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 6回のシリーズでご紹介した最後の回。
2023.10.19
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御池通に面して、「史跡 神泉苑」の石標と石鳥居・石柵が見えます。二条城の探訪を行い、外堀の外周を巡りました。先日探訪記をご紹介したところです。押小路通の歩道を歩きながら南側の外堀の景観を眺めていた時に、見つけた石標をご紹介しました。 この石標です。これは平安京の時代における神泉苑が二条城の南側外堀傍の位置で示す東端線と西端線を表示しています。 こちらも既にご紹介した案内板から部分図として切り出しました。赤い線の枠が二条城の史跡指定範囲です。かつての神泉苑は北は平安京の二条大路まで広がっていたことを示しています。現在の二条城内とかなりの部分が重なる位置関係だったのです。この石標を見たことが動機となり、当初の予定外の「神泉苑」に立ち寄ってみました。 「史跡 神泉苑」の石標の近くに、この駒札が立っています。上掲の図とこの駒札の説明とを重ねていただくと、おもしろいかもしれません。駒札と手許の本(資料1)によれば、*平安京造営の折に、宮中の附属庭園として造られた。常に清泉が湧き出す地。*当時の境域は南北四町,東西二町という広大さ(13万㎡)だった。二条城は275,000㎡*天長元年(824) 弘法大師空海が勅命により善女龍王を勧請し祈雨の法を修した。 → 日本中の旱天への対策 『神泉苑絵巻』が描かれる。*貞観5年(863)3月 宮中内殿・中宮とともに神泉苑で三日間の大般若経の転読実施*同年5月20日、御霊会の執行 → 疫病の流行に対する対策 →祇園祭発祥の淵源*貞観8年5月、天台座主安恵によって七日間の祈雨修法執行。 → 貞観年間(859~877)以降、神泉苑は宗教的霊場として有名になっていく。この他のことは後記することにして、境内を探訪しましょう。 境内中央に池があります。朱塗りの反り橋が中島に架けられています。駒札には、「法成就池」と明記。この池が「御池通」の名称の由来になりました。二条城造営により、神泉苑の北側は大きく削られ、神泉苑は荒廃したそうです。慶長12年(1607)、筑紫の僧怪雅が官に請い現在の神泉苑を再興したといいます。それ以降真言宗東寺派の寺になりました。現在の境内は方一町の規模で、開創当時の三十分の一ほどです。(資料1,2)冒頭の石鳥居の左に少し見えていますが、境内の西南角に「臨泉閣」と称する建物(方丈)があり、 その北隣りに「本堂」があります。本尊は聖観音像が安置されています。手許の本の挿画(昭和59年8月、俊則画)には、本堂の北側に客殿が描き込まれています。(神泉苑のホームページでは平安殿と表記)今回訪れてみるとその場所は更地になっていました。かつて訪れた時の記憶では神泉苑平八という料亭として使われていた建物があった場所。ネット情報を検索してみますと、営業していたころの情報がたくさん残っています。更地になっていたという一記事がやはりありました。その変化は最近のようです。さて、その敷地部分が今後どうなるのか・・・・。 臨泉閣と本堂との間、本堂の南東側で目にとまったのが石仏の集合です。お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 この石像が一番お地蔵さまのイメージに合いますね。 池側には、「鯉塚」「亀塚」と刻された供養塚が祀られています。「鯉塚」は台座の正面に鯉が浮き彫りにされていて、「亀塚」は、台座の上面が亀の形にです。 「法成橋」を中島に渡ります。 池を眺めると、鯉がたくさん泳いでいました。 夕月や神泉苑の魚躍(オド)る 与謝野蕪村 橋を渡ると、拝殿があり、その北側に社殿が見えます。拝殿の西側に、駒札が立ち「弘法大師御勧請 善女龍王社」と記されています。 池中の島ですので、瑞垣は、中門と左右の脇に塀が立つだけのシンプルさ。 社殿 アヒルがいました。つがいでしょうか。 拝殿の北西側に立ち、池の北西方向を眺めた景色 拝殿の西南側から眺めた法成橋 拝殿の南東側に「恵方社」があります。祭神は歳徳神。「歳徳神はその年の吉方(恵方)にあって、開運をつかさどる神」です。「社殿は円い石の上に置き、その年の恵方にあたる方角に向きをかえるため、自由に動かせるようになっているのが珍しい。むかし苑内で、属星祭などの星の信仰による祭事を行なった遺風であろう」(資料2)とのこと。島の南側に石橋が架けられていて、冒頭の石鳥居の前に至ります。この石橋が正面の石鳥居から善女龍王社への参道になっているのです。橋を渡って、池の東側を探訪しました。 目にとまった小社の傍には「洛中天満宮」の駒札が立っていました。 辨財天社 神泉苑のホームページの案内図には、「弁天堂」と記されています。池を反時計回りにさらに歩むと、 池端に宝篋印塔が建立されています。これ一塔だけ。 その先に見える朱塗りの鳥居 「鎮守稲荷社」が祀ってあります。ここから池の北方向は通行止になっていて、巡ることができませんでした。 池の東側から眺めた善女龍王社の社殿の側面の景色探訪できたのはこれくらいです。神泉苑の歴史的な経緯を補足しておきましょう。(資料1)延暦19年(800)7月19日 桓武天皇の行幸。在位6年間に27回の行幸平安時代初期には頻繁に行幸が行われた。 平城天皇 行幸13回 嵯峨天皇 行幸43回。 弘仁3年(812)に日本で初めての桜の花見を催す 淳和天皇 行幸23回。神泉苑内には、乾臨閣という左右に閣を配した三棟からなる正殿のほか、東西釣殿・滝殿・橋を配し、自然の森と池沼に囲まれていた。皇族・貴族の遊宴の地だった。だが、「9世紀中ごろには京外に遊興の地を移していった」(資料3)といいます、これと相前後して、上記のように神泉苑が消厄除災の地として注目を浴びるようになります。貞観の御霊会に関連してですが、9世紀後半の貞観年間は平安京に伝染病が流行した時期だったそうです。貞観3年(861)8月に赤痢が流行。貞観5年(863)正月に「咳逆(ガイギャク)」と称される咳を伴う病気、いまでいう流行性感冒とみられる病気が流行。これが同年5月の御霊会のつながります。貞観14年(872)1月に再び「咳逆」が流行したそうです。(資料4)この時代、貞観の大地震や、富士山の噴火など、全国的な災いが相次ぎます。平安京で悪疫が流行したことで、 貞観11年(869)に、町衆が全国の国の数に準じ、長さ2丈の66本の鉾を立て、 祇園社(現八坂神社)から御輿を担いで神泉苑に来て、厄払いとして疫病退散の神事を行ったのです。これが町衆の祭典となる祇園会(祭)の起こりと言われています。(資料2,5)神泉苑が御霊会を契機に消厄除災の地と知られていたことにより、町衆が厄払いを神泉苑で行うためにこの行動を生み出したということでしょう。さらに、「貞観17年(875)6月に真雅を中心とした神泉苑での請雨経法以来、神泉苑は祈雨道場としての位置を確立した。延長年間(923~931)以降、聖宝から仁海に至る真言僧の祈雨が相続き、仁海は雨僧正の異名をとるほどであった。」(資料1)という歴史をたどります。天明の大火(1788)で、二重塔・弁財天社・不動堂など焼失。その後歳月をかけ堂舎の再建が行われ、明治28年(1895)に境内が整備されるに至ったようです。(資料1) 御池通に面した石鳥居の東側に、この駒札「神泉苑と謡曲『鷺』由来」が立っています。「『源平盛衰記』には、醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんで、かしこまった話がのせられており、謡曲『鷺』はこれをもとにつくられている」(説明文より)「五位鷺」といいますが、これは天皇が鷺に五位の位を授けたことに由来するそうです。神泉苑のホームページでは、次のように説明されています。「醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが『帝の御意なるぞ』と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った」(資料5)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田神泉苑孝喜著 新人物往来社2)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p302-3063)『古代を考える 平安の都』 笹山晴生編 吉川弘文館 p2464)『平安京の災害史 都市の危機と再生』 北村優季著 吉川弘文館 p78-825) 神泉苑の歴史 :「神泉苑」補遺神泉苑 ホームページ 秋の大念仏狂言 神泉苑~宮廷の遊び場には別の顔があった! :「京都トリビア x Trivia in Kyoto」世の中、捨てたもんじゃない…「神泉苑」の怒涛の物語 :「T.M.OFFICE」演目 鷺 :「the能.com」曲目解説 能 :「銕仙会~能と狂言~」サギ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 11回のシリーズでご紹介しています。
2023.10.18
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=== 2023.10.07 === 南の空8時15分頃に取りました。うろこ雲が空を覆っていました。南西方向の空 西方向の空 西の方の空には青空が見えます。 頭上の空 頭上にも青空が所々に見えています。晴れていきそうです。 東方向の空 稜線の上には、銀鼠色の雲が広がっています。 東方向の空10時15分過ぎに取りましたあ。雲の色が少し明るく変化し、雲の切れ間が広がり、空が見え始めています。 南の空 うろこ雲は去り、雲の形が変化して、青空が広がってきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時半近くに撮りました。再び雲が張り出してきました。また違う雲の姿です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線の上空は白鼠色の雲で覆われています。曇りのち晴れ、再び曇るという一日でした。=== 2023.10.8 === 南の空 8時35分過ぎに撮りました。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も曇り空、全面的なくもり空で一日が始まりました。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空10時45分頃に眺めても、曇り空であることは変わらすです。午後もそのまま曇り空。17時45分頃には雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ空模様を撮ってみました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている詩集「朴」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)「愛石唱」と題する詩は、17章で構成され3ページに及ぶ長詩です。石に対する真民さんの思いが唄い上げられた詩。その第10章に「雲」が詠み込まれています。 石に願いを刻し 涅槃(ネハン)に入ろう 雲きたり 友となってくれよう p255その次は、「仏島四国」と題する詩で、春・夏・秋・冬の4章から構成される6ページに及長詩に「雲」が詠み込まれています。「春」の章の最後の節です。 大空には白い雲が流れ 大地には白衣(ビヤクエ)の人々が続き 四国はおへんろの鈴の音に 春の幕があけられてゆく p267 その情景が鮮やかにイメージできる一節。「仏島四国」のあとに、「季節のうた」と題する詩が続きます。一月から十二月をそれぞれ章にした、14ページに及ぶ長大な詩です。各月は真民さんの人生における記憶の一コマがモチーフになって詠まれています。「八月 大かみなり」の章に「雲」が出て来ます。「八月 大かみなり」は、満八歳の夏に他界されたお父さんとの思い出が詠み込まれています。その第2節に出てくるのです。 その日はとても暑く 黒い雲の足が なにか不気味に動いていた 父とわたしとは釣り糸をしまって 早く家に帰り みんなと夕食を食べていた p279最後の節に「あれが父と一緒に食事をした/ わたしの記憶の最後のものであった」という詩句が詠み込まれています。「九月 風と共に」の章には、最後の節に「雲」が出て来ます。 ああ 帰ることなき ふるさとよ 思い出の数々を 初秋の雲にのせて 運んでくれ「十月 出雲の雲」という章には、この見出しから「雲」が出ています。そして、第2節の後半部に「雲」が詠み込まれていきます。この詩の終の部分でもあります。後半部を引用します。 ああ 雲が流れる 今も昔も変わらない 美しい出雲の雲よ わたしを呼んで下さった 海運山妙厳寺は 茅葺きのお寺だっただけに 一層わたしは古(イニシエ)に返った思いがした わたしは川におりて 顔を洗い浄め 八雲立つ出雲八重垣の歌を誦し 日本に生まれた喜びを天に告げた p281-282「法師蝉」と題する短い詩に「雲」が詠み込まれています。今回はこの詩で、一区切りと致します。 つくし恋しの 法師蝉 おまえが鳴けば 足をとめ にじむ涙の 幼な子の 心となりて ふるさとの あの山川を 思い出す 雲さえ西へ 行くなれば p285法師蝉はツクツクボウシという蝉の異名です。ツクツクボウシの鳴き声が「つくし」を連想させるのでしょう。「つくし」は「筑紫の国」で筑前・筑後の古称ですが、九州の呼称でもあります。真民さんのふるさとは九州。詩集「朴」には、「玉名川」と題する詩が詠まれ、「大木」と題する詩の第1章冒頭には、「父が死んだ/ 玉名の家の広庭には」とあります。ふるさとは、熊本県なのでしょう。ツクツクボウシの鳴き声が九州のふるさとを連想させ、子供の頃の思い出に直結するのでしょう。四国に住む真民さんにとり、九州は西。父母並びに望郷の思いが「雲さえ西へ/ 行くなれば」の句に溢れているように感じます。雲の変化に戻ります。=== 2023.10.9 === 南の空10時半過ぎに撮りました。昨夕から降り続いた雨が止んでいました。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も曇り空。昨日と同じような感じです。 東方向の空こんな感じの稜線を撮ることは滅多にありません。16時半過ぎに一通り撮ったのですが、小雨が降り始めました。東方向では先に雨が降っていたのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 もちろん頭上は中止。各方向を撮り、速やかに窓を閉めることにしました。この後、小雨が降る状態が続きました。つづく補遺四国おへんろ.net ホームページ四國八十八ヶ所霊場會 ホームページ八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を :「古事記・現代語訳と注釈~日本神話、神社、古代史、古語」法師蝉(ほうしぜみ、ほふしぜみ)初秋 :「きごさい歳時記」ツクツクボウシ :ウィキペディアツクツクボウシの鳴き声と鳴く姿 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.16
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二条城東大手門を出た後、外堀周辺を反時計回りに探訪することにしました。観覧券の販売所を通り過ごして、少し先から外堀の正面を南方向に撮った景色です。東大手門が左遠方に見えます。光が反射して見づらいですが・・・。 正面の石垣と外堀を北方向に眺めた景色。石垣の上に土塁があり、今はその上に樹木が列をなしています。かつては屋根付き土塀が石垣上に立ち、真っ直ぐに延びていたことでしょう。 正面と北側の石垣の接する東北角です。かつてはここに東北隅櫓が建てられていました。石垣の東北角は外堀側へ石垣が一段張り出しています。隅櫓から東と北の両側面を監視・防御しやすくするためかと思います。 外堀の東北角の歩道から眺めた北側外堀の景色。外堀に沿って樹木が植えられて並木になっています。二条城の正面は堀川通に面しています。堀川通の東側では、このご紹介の一番最初にご紹介した二条城東南隅櫓の地点辺りが、東西方向の押小路通の位置になります。南側外堀沿いの道路が少しずれた形で押小路通として西への続きになります。東大手門より少し北、東南隅櫓と上掲の東北隅櫓の中間辺りが、二条通です。東北隅櫓は夷川通と北の竹屋町通との中間あたりになり、北側外堀沿いの道路は竹屋町通になります。つまり、この竹屋町通と押小路通は堀川通のところで、鍵形に折れ曲がっています。竹屋町通は道幅が広い道路です。北側外堀に左折して、竹屋町通の歩道を進むと、少し先で生垣が凹型になり、 「冷然院跡」と刻された石標が立っています。 この駒札の方が先に目に止まると思います。「ここは、平安前期~中期、冷然院があったところである。 弘仁年中(810~824)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用された。 嵯峨上皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々上皇の離宮・後院として利用された。 建物は前後四回火災にあったが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院とした。 天喜3年(1055)にとりこわされ、以後の状況は不明であるが、平安前・中期の200年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもあった。 京都市」(駒札説明文転記)手許『平安京』という資料では、改称された「冷泉院」で説明されています。平安京でいえば、左京二条二坊三・四・五・六町に位置し、4町を占地する規模でした。「平成12・13年(2000・2001)に二条城の敷地内(冷泉院中央付近)でおこなわれた試掘確認調査で、平安時代前期から後期にかけての庭園遺構を検出した」(資料1)とのこと。 この案内板は外堀の西北角近くに設置されている案内板の一つですが、ここでご紹介しておきます。この案内板では、赤字の冷泉院という名称で記載されています。四角の黒枠がその位置と規模。赤枠の区画が二条城の史跡指定範囲の規模です。左上の赤字の平安京は、平安時代の当初、平安京の北端中央において天皇が居住し政治を行う場所として造営された平安宮であり、黒線で南と東の境界が示されています。宮城、大内裏とも称されます。冷然院(冷泉院)の規模がイメージしやすくなることでしょう。 北大手門「北大手門は、道を挟んだ向かいに京都所司代屋敷が存在するので、その連絡門としても使われたと思われるが、正門である東大手門に対する控えの門として、それにふさわしい威容を整えている。慶長8年(1603)の築城時からこの場所にあるが、現在の建物がその時のものか、寛永行幸時(1603)に建て替えられたのかは分からない。規模は、長さが東大手門より3間(6m)短く、門構えも一回り小さいが、奥行きや高さは同じで、正面の出格子窓に『石落し』を備えるのも同じである。飾金物に金箔や座金を使わないことや、二階床梁(ユカハリ)が東大手門は角材であるのに対して、北大手門は丸太を使うなど装飾性に違いは見られるが、外観の構えに遜色はない」(城内に設置の案内板説明文転記) 北側外堀の石垣 石垣に設置の排水口 北中仕切門辺りの外堀の屈曲箇所の景色 北側外堀の東方向の眺め 石垣の屈曲部分。途中から歩道を逸れて、外堀沿いに西に歩める小径が設けてあります。 外堀傍を歩み、西側から眺めた景色 西方向を眺めた景色 北側外堀と西側外堀との西北角から眺めた景色この北西隅の少し手前に、二条城に関係した案内板がいくつか設置されています。上掲の案内板はその一つ。これらは、日本語・英語で表記されています。部分拡大図を併用。また、説明の要点を列挙します。 「二条城外堀北西部北側石垣の発掘調査」発掘調査で、石垣裏込めを確認できたとのこと。「『裏込め』とは石垣の後ろに石を詰め込み、排水を行なうためのものです。石垣上面に振り注いだ雨水は、裏込めから、石垣の基底部に流れます。そのため、裏込めの幅は石垣の安定性とかかわっています」(転記)北側石垣の裏込め: 石垣先端より3.2m~4.3m、直径10~20cm大の石(栗石)を詰める 裏込めの肩口には、少し大きめの石(裏栗巻石)を並べる 二条城の石垣刻印二条城の石垣には、約360個の石に、約60種類の刻印みられる。刻印には、大名の家紋などを刻んだと考えられ、持ち場を示す役割があったという。小赤丸追記のあたりの石垣に2種の刻印が見られる。本丸内堀の石垣にも多く見られる。 「二条城北西部の変遷」江戸・中頃、この北西部は空地で、外側を柵や木戸で囲い、番所を設置。(上・左)江戸・後期の花洛一覧図には、北西隅櫓や京都所司代の火見櫓が描かれている。(上・右)昭和初期の二条城北西部古写真: 空地で石垣がよく見える。(下) 石垣の角(隅)は算木積み、それに続く石垣は打込はぎの積み方です。算木積みの生み出す角の姿が美しい。西側の外堀に移ります。 西門 「寛永3年(1626)頃に建設され、江戸時代には二条城の通用門として使われた。 天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し、明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今ではこの西門だけが残る。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから『埋門(ウズミモン)』と呼ばれるが、屋根だけを見れば『高麗門(コウライモン)』である。高麗門とは、死角をなくすために屋根をできるだけ小さくした門で、柱の上にしか屋根はない。この門を突破されても、正面に櫓門が持ち受け、敵を2階や石垣の上から攻撃することになるが、その際、屋根が邪魔にならないように考えられた造りである」 (城内に設置の案内板説明文転記) 西門の傍に、青鷺が佇んでいました。外堀沿いに南進します。 西側と南側の外堀の角には、「西南隅櫓」があります。隅櫓は見張り台としての役割を担うそうです。普段は武器庫として使われていたと言います。「二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料2) 西南隅櫓の西面には唐破風の屋根が組み込まれています。屋根の鬼板には三葉葵の紋が陽刻されています。 西側の外堀から左折して、南側の石垣を眺めつつ外堀沿いに東に進みます。 まず目に止まったのが、生垣を凹形にして、建てられた石標です。「平安京跡 神泉苑 西端線」と刻されています。その左に縦に一本の線が彫り込まれています。左側面に説明文があります。「平成2年から同5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により、平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認されました。当該地はその西端線に当たります」(転記)最初に「冷然院跡」のところで先取りしてご紹介した案内板の説明図をご覧ください。二条城と平安京造営当時の神泉苑との位置関係を確認いただけます。 振り返って眺めた西南隅櫓と石垣 南中仕切門の位置辺りの外堀側は、北側と同様に外堀石垣が鍵形に屈曲しています。 南方向を見ますと、押小路通を挟んで南側に門が見えます。現在の神泉苑への北門です。平安京造営当時の神泉苑を想像すると、現在の神泉苑はかなり規模が縮小したことになります。 そして、さらに歩めば、神泉苑東端線の石標が建てられています。 二の丸御殿の南の外堀の位置に「南門」が見えてきます。 南門の屋根の上に、青鷺が止まっています。 南門を正面に眺めて。松の枝がちょっと邪魔ですが・・・仕方がない。既にご紹介した、江戸時代の「二条御城中絵図」を参照しますと、絵図に「南門は描かれてはいません。(資料3)この南門は、大正4年(1915)年に大正天皇の即位式が京都御所で行われた後、即位を祝う饗宴が当時離宮となっていた二条城で行われた折りに、築造されたそうです。饗宴のために新築された建物群は、その直後に移築または撤去されたと言います。その折り、この南門だけが残されたのです。参照した小冊子には、「大正天皇即位の大典」の説明文の中に「現在は南門だけが残っています」と末尾にさりげなく記されています。ホームページの方には、南門の説明の中に、「その時に天皇の入場口として新たに作られた門です」と記してあります。(資料4)二条城の建築様式にあわせて造られた門なので、今ではすんなりと景色に融けこんでいますね。南側外堀の東端近くまで戻ってきました。 東南隅櫓です。「二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)。様式は西南隅櫓と同じです(資料5)異なるのは、西南隅櫓は唐破風を採り入れていますが、こちらは千鳥破風を用いている点です。外堀をほぼ一周してきました。二条城は、東西約600m、南北約400mの大きさです。外周は約2km。総面積は275,000㎡だそうです。 (小冊子、資料4) 城内マップ (小冊子より)これで二条城のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社1)『平安京 附第31回京都市指定・登録文化財』 京都市文化財ブックス第28集 p70・712) 二条城西南隅櫓 :「文化遺産オンライン」3) 二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」4) 二条城の歴史・見どころ~二条城の概要 南門 :「世界遺産 元離宮二条城」https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/overview/5) 二条城東南隅櫓 :「文化遺産オンライン」補遺ページ06 石垣の分類 :「お城の大図鑑」石垣の分類 :「日本の城探訪」第41回【鑑賞】石垣って積み方に違いがあるの? :「城びと」岡山城の石垣「3種類の積み方を確認」 :「岡山市」第43話 城の石垣の積み方を紹介。小倉城の石垣はどんな積み方?:「小倉城ものがたり」平安京の地図 :「京都ガイドブック」平安京についてわかりやすく解説! 遷都の理由や関連スポットも紹介 :「HugKum」(小学館) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ
2023.10.15
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清流園の和風庭園から一旦、内堀の方に向かいます。北側内堀の東北側から内堀を眺めた景色です。 東橋と本丸櫓門の北側面 ふと、内堀の水面に目を向けると、 内堀の上を風が吹き過ぎた結果でしょうか。小波を生み出し一種の抽象画を描いたようです。 内堀沿いに右折して、東側内堀に回ります。内堀の北東隅に立てば、松の木越しに本丸の正面(東側)の石垣と北側石垣が見えます。 少し南に移動し、北側内堀を西方向に眺めると、 内堀の突き当たりには、17間の長さの土蔵の白壁が見えます。背後の樹木と併せて視界を完全に遮る形にもなっています。強固な城壁のようにも見えます。 北側内堀の郭側の石垣に目を移せば、北中仕切門の内堀側に延びた石垣が見えます。かつてはこの石垣の上に、土塀が立ち、本丸の西橋、西櫓門の方への侵攻を防御する役割を担っていたのでしょう。 内堀沿いに南に歩めば、桃山門から見えていた「鳴子門」が、東橋、本丸櫓門への中門となっています。前回ご紹介した桃山門と比較すると、こちらの門はいささか軽量級の門構えという印象を受けます。大きなお寺の中門でも見かけそうな門という感じ・・・・。「脇戸付一間門、一重、切妻造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料1) 鳴子門前から、再び清流園に戻ります。左側に内堀の東北角辺りの景色を眺め、 右側には、二の丸御殿の北側境界となる屋根付塀と外(北)側の庭部分が見えます。 内堀のと東北角の東側には、休憩所が設けてありますが省略します。 正確な位置を記憶していないのですが、「大政奉還百五十周年記念植樹」と刻された石標が目に止まりました。 清流園の南側の空間で、東方向に広がる景色です。清流園前の東西方向の通路に戻り、右折します。 東方向に広がる並木の眺め 清流園前の真っ直ぐな通路の先が遠望出来ます。ズームアップで。一方、通路の左(北)側には、清流園が広がり、 こんな円柱が目にとまります。近づいて行き、通り抜けると 「清流園」と刻した石碑が立っています。円柱は清流園の正面入口になるようです。 石碑の西側から、清流園の東方向の眺めです。芝生の洋風庭園が広がっています。パノラマ合成した写真です。清流園前の通路を東に進みます。 広がる芝生の東端に、南北方向に大きな木が一列になって植樹されています。 その東側には、幅の広い道が北に延び、「北大手門」が遠くに見えます。 ズームアップしてみました。現在は、二条城運営の業務上の通用門の役割を果たしているようです。小型バンの車両が出入りしているのを見かけました。門衛所が設けられています。「櫓門、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料2) 道路を挟んで東側にも芝生地が広がっています。城内マップに「緑の園」と表示されたエリアです。詳細不詳。 通路の傍に、これが置かれています。ひらがなで名称が陽刻されていますが、頭の文字が欠落しているようです。かつての建造物の一部を、モニュメントとしてここに保存されているのか・・・と想像します。なんとなく「□でうおほはし」と読めそうで、そうならかつての二条大橋の一部かな・・・・と。まったくハズレているかもしれません。この辺りで振り返ると、 南側には、立入禁止ですが、閉じられた門と腰板張りの白壁が見えます。二条城のホームページで入手した「将軍と巡る二条城」によりますと、ここは「土蔵」と表記されています。さらに調べると、建物は「土蔵造、門番所付、一重、入母屋造、本瓦葺」(重要文化財)です。(資料3)この地図によれば、この辺りは桜並木になっているそうです。桜の開花期に訪れると景観が華やかになっていることでしょう。順路はこの土蔵の東側へ右折して、真っ直ぐ南に進めば、東大手門に戻ることになります。南北の通路を南に進みます。東側には「二条城障壁画展示収蔵館」が建てられています。探訪した時は閉館中でした。写真を撮りませんでした。「障壁画(原画)収蔵し、展示する施設で、二の丸御殿の障壁画を間近で鑑賞することができます」(小冊子より転記)つまり、二の丸御殿のかなりの部分が、現在は模写された障壁画が使われていることになります。ホームページにはこの展示収蔵館の公開期間が開示されています。次回は季節を変えて、この公開期間に改めて探訪したいなと思っています。 通路の右(西)側は、振り返って眺めると、この景色。上掲の土蔵の外側壁面と同様です。この南北方向の建物は「収蔵庫」と称されています。 南端側はオープンな空間が出入口となっています。もちろん、右折して足を踏み入れました。収蔵庫はこんな感じの建物です。文化財登録の指定外のようですので、土蔵と同形式で整合させた後世の建造物ということでしょうか。詳細不詳。 北側の土蔵をズームアップして見ました。この土蔵の左(西)側が、上掲写真の門になります。 西側を見ると、屋根付き塀に通用門(埋門)があります。扉が開いていましたので、入れたのでしょうが、うっかりこの景色を撮っただけでスルーしてしまいました。城内マップの位置関係で考えると、門の先が「御清所」の建物のようです。 南方向を眺めると、築地塀と塀重門(塀中門)があります。 通路の左(東)側には事務所の屋根とその先に番所の屋根が見えます。二の丸御殿を囲う東側の築地塀の北端を正面に眺めていることになります。 築地塀に連なる屋根付き塀を指示する石柱と木柱の組み合わせ。 下部に石柱を組み合わせるのは、耐久性が考慮されているということでしょうか。 築地塀の屋根の破風板の各所と桁先に唐草文様の飾金具が使われています。破風の合掌部の拝、桁先の端面、蟇股には、菊の紋章が打ち出されています。また、拝の部分にたれさげた装飾彫刻として蕪懸魚が使われています。この後、塀重門を通り抜け、二の丸御殿の東側面に設けられた団体観光客対応の出入口傍を通りすぎて、唐門を再度眺めながら、東大手門に向かいます。二条城を出る前に、番所の背後辺りだったかと記憶しますが、 「被爆アオギリ」と題した案内板が目にとまりました。 「このアオギリは広島平和記念公園内に生息する被爆アオギリの子孫です。爆心地より1.3kmにあった被爆アオギリは、原爆の熱線と熱風で大火傷を負いながらも生き長らえました。その子孫は各地に植樹され、現在も命や平和の大切さを後世に伝え続けています。 平成25年10月、遊悠舎京すずめ、被爆アオギリ里子運動関西事務所の企画により、福島県立会津高校と京都市立堀川高校の生徒たちの交流活動の一環で植樹されました」(説明文転記) 被爆アオギリの向こうには、井戸があります。これが最後の細見一項目になりました。 城内マップ (小冊子より)二条城内の探訪は、これで一区切りです。このあと、二条城の外堀の周囲を反時計回りに一周してみました。こちらは初試みです。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*「将軍と巡る二条城」(元離宮二条城事務所オリジナルしおり)*『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社1) 二条城鳴子門 :「文化遺産オンライン」2) 二条城東大手門 :「文化遺産オンライン」3) 二条城 土蔵(米蔵) :「文化遺産オンライン」補遺二条城二の丸御殿台所 :「文化遺産オンライン」二条城二の丸御殿御清所 :「文化遺産オンライン」【内覧会レポート】「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2023」にて、二条城 二の丸御殿 台所・御清所で高木由利子 「PARALLEL WORLD」開催中(4/15~5/14):「ONBEAT」世界遺産 元離宮二条城 ホームページ 二条城の紹介 二条城障壁画展示収蔵館 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.14
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本丸西橋の景色一旦、この本丸の西橋傍まで戻ってきました。探訪結果を整理しつつ、この景色を改めて眺めて、気づいたことがあります。現地でここを歩いていた時には意識しなかったことです。この西橋の馬出しと虎口の枡形の空間に、門がないのです。東橋には本丸櫓門がありました。南側の郭を巡ってきたところには、南中仕切門がありました。それなのに、なぜ?先日ネット検索で得た「二条御城中絵図」(資料1)を再度確認してみました。この絵図は別タイトルで、「京都二條城絵図 四幅」「行幸御殿其外古御建物並当時御有形御建物共・二条御城中絵図」とも称される絵図です。絵図の部分拡大図にして引用します。 この絵図を見ると、西橋の馬出しの箇所と虎口の枡形の石垣の箇所に門が設けてあったことがわかります。どこかの時点で門が撤去されてしまったということでしょう。それで多少納得できました。順路として通過している時は全く門のことは意識にありませんでした。内堀沿いに通路を北側に進みます。 土蔵(北)(米蔵)の正面 「本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)年頃の建築である。建物は長さが17間と長く、内部が2つに分けられている。内部に床を張り、天井はない。窓は土戸を外に開く開戸で、板庇を設け、内部の鉄格子に銅網が取り付けられている。このような窓の造りは、二条城では他にない。窓は南・東・西の3方向に設けられている。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝(エンショウ)用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない」(説明文転記)併記の英文説明には、17 ken の長さと記し、約33mと併記してあります。説明内容は、前回の南の土蔵とほぼ同じですが、こちらの方が長さが1間短いことと、窓の仕様とその配置が異なります。読み比べてみてください。こちらの土蔵も「土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺」で重要文化財に指定されています。(資料2) 土蔵の屋根の鬼板の中央には、三葉葵紋らしき紋が陽刻されていますが、少し違う印象も受けます。残念ながら定かではありません。 土蔵前から西方向に振り返ると石垣が見えます。 西門の虎口、枡形を造る石垣です。外堀に向かう「西門」へは、この枡形内に左折し、さらに右折する形の折れ曲がった通路になります。ここも順路からの西門への通路は立入禁止だったと思います。城内から西門自体を眺めることができません。順路脇に西門の案内板が設置してあります。「寛永3年(1626)頃に建設され、江戸時代は二条城の通用門として使われた。天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し、明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今ではこの西門だけが残る、門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから「埋門(ウズミモン)」と呼ばれるが、屋根だけを見れば「高麗門」である。高麗門とは、死角をなくすために屋根をできるだけ小さくした門で、柱の上にしか屋根はない。この門を突破されても、正面に櫓門が待ち受け、敵をその2階や石垣の上から攻撃することになるが、その際、屋根が邪魔にならないように考えられた造りである」(説明文転記) 進行方向の北を眺めた景色 北側の土蔵を北西側から眺めた景色 順路を右折し、本丸の北西隅石垣と西側内堀を眺めた景色。 馬出し、西橋、そして内堀の外側に北側の土蔵の東面が見えます。 本丸の北側石垣とその北西隅 内堀の北西角と土蔵の景色北側の郭を東方向に進むと、通路を右折した先に「北中仕切門」が南側と同様に築かれています。 中仕切門の屋根の内側を見上げながら、通り過ぎました。傍に案内板が設置されています。「内堀の南側にある南中仕切門と対になっている。規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防護上重要な門である。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(ウズミモン)」とも呼ばれる。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある」(説明文転記)この説明文から、本丸の西橋の所に、本丸西櫓門があったこと、またこの北中仕切門の上に土塀が立っていたことがわかります。 南面する門を東側から眺めた姿です。門の左側の石垣が内堀まで、右側の石垣が外堀まで延びています。南の門と同様で「一間門、一重、招造庇付、本瓦葺」です。重要文化財に指定されています。(資料3) 門を抜けると、順路の左(北)側は、枯山水風に作庭され、石が並んでいます。 この庭の東端に「加茂七石」の案内板が掲示されています。 では改めて、西側から眺めて行きましょう。 白砂を海と見立てると、西の島には大きな3石と小さな石が配されています。 左の石 :畚下(フゴオロシ)石 中央の石 :紫貴船石 右の石 :紅加茂石脇道に逸れます。畚(フゴ)とは、「竹・わらで編んだ籠(カゴ)の総称。もっこ。びく。飯びつその他幼児などを入れておくのに使うものなど」(『新明解国語辞典』三省堂)です。また畚下(フゴオロシ)について、「京都の鞍馬山で正月初寅詣の日に、土地の人が名産の燧石(すいせき)を売るのに、崖の上から畚をつりおろし、客がこれに代金を入れると、つりあげて相当の燧石を入れ、ふたたび畚をおろすこと。《季・新年》 〔京童(1658)〕」(資料5)という説明を見つけました。案内板には、「畚下」の漢字の下に、「ふごろ」とルビが付いています。 中央の島の2石は、糸掛石。糸掛石は通称で、「静原川で産出されていたこの石は、柔らかい部分が削り落ち、硬い部分が線状にに残り、それが蜘蛛の糸の様に見えることから」(資料6)そのように称されるといいます。賎機(シズハタ)石という名の石。背後の生垣に「光悦垣」(臥牛垣)が一部設けてあります。光悦寺垣とも称されます。「江戸初期、京都の鷹ケ峰に芸術村をひらいた本阿弥光悦の草庵太虚庵(死後光悦寺)の光悦好みの竹垣」(資料4)です。 東の島には3石 左の石 :畑石 中央の石 :鞍馬石 右の石 :八瀬真黒石加茂七石を調べてみますと、雲ケ畑石という名称が出て来ます。畑石=雲ヶ畑石でしょうか。序でに、七条通に沿って、京都国立博物館に行く時、七条通と大和大路通との交差点を渡ることになります。この交差点の北西角で、七条通に面する歩道の傍に、加茂七石庭が平安遷都千二百年の記念事業の一環として作庭されています。白壁の塀を背景にした幅の狭い帯状の小さな庭です。意識しないと見落として通り過ぎるかもしれません。加茂七石を身近に見られますのでご紹介しておきます。、石も関心を持つと奥が深そうですね。 東側から眺めた加茂七石の庭です。生垣の向こうに見える屋根は茶室「和楽庵」です。北中仕切門の北方向に延びる石垣を背にして、「清流園」の西端に位置します。この和楽庵は現在、茶房「前田」の和カフェの店舗として使用されています。営業店舗ですので、横目に眺めながら先に進みました。少し調べてみました。「『和楽庵』は、高瀬川一之船入にあった約300年の 歴史をもつ角倉了以の屋敷の一部と、その庭園の池石約800個を元にして作られた歴史的にも価値のある建物」(資料7)だそうです。 目に止まった石灯籠 少し先まで進み、その地点から和楽庵を含めた庭園の景色をパノラマ合成してみました。 庭園の続きを北方向に眺めた景色これらは「清流園」の一部になります。参照の小冊子では次の説明が記されています。「京都の豪商・角倉家の屋敷跡から建築部材、庭石、樹木を譲り受け、1965年(昭和40年)に作庭しました。香雲亭、茶室和楽庵がある和風庭園と芝生の洋風庭園からなる和洋折衷庭園です」(説明文転記) 北東方向を眺めると、横長の池の向こうに「香雲亭」が見えます。 庭園内の小径を歩み、池の先に進みます。パノラマ合成した和楽庵方向の景色。 景色の右下に見える石橋への飛び石道 香雲亭の西面に見える付書院の外観をズームアップしてみました。 おもしろい形の枠作りが施されています。 池を挟んで対岸に香雲亭を眺めた景色 池の南側を回り込み、池の東辺に移ります。清流園西方向の景色です。 石橋をズームアップした時の池の景観この庭園の順路寄りに、「醍醐の桜」が植樹されています。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行った真言宗醍醐派総本山の醍醐寺に「太閤しだれ桜」を住友林業株式会社が2004年3月にクローン技術で増殖した桜の開花に成功しただそうです。その1本が、2016年10月にこの清流園に植樹されました。「太閤千代しだれ」と名づけられています。(案内板より)春の季節には、「桜の園」と併せてこちらの太閤千代しだれを一緒に観桜したいものです。 清流園の東方向を眺めると、広々とした芝生の洋風庭園が和風庭園に連接しています。 獅子が臥すような印象を与える大きな岩が芝生の中に見えます。この辺りを守護しているような雰囲気です。和風庭園と洋風庭園の境界のようにも思える中間域にある置き石です。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料二条城 北中仕切門アーカイブ」2) 二条城 土蔵(北)(米蔵) :「文化遺産オンライン」3) 二条城 北中仕切門 :「文化遺産オンライン」4)『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p2305) 畚下 精選版 日本国語大辞典 :「コトバンク」6) 京都加茂七石 :「男のロマンは女の不満」7) 世界文化遺産 二条城内にひっそりと佇む茶房 茶房「前田」:「MAEDA COFFEE」補遺加茂七石庭(京都市東山区) :「京都風光」加茂七石 :「盆栽徒然草」加茂七石について知りたい。 :「レファレンス協同データベース」高瀬川開削400年―角倉了以と素庵 :「京の風物詩 鴨川納涼床への誘い」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.13
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西橋を渡ると前方の通路傍に「城内案内図」が設置されています。こちらの案内図はかなり具体的です。案内図設置箇所の背後(西側)には、休憩所とトイレが設置してあります。二の丸と本丸を観覧して、西橋を渡ってきたところでの一休みは適度な感じです。観光客がけっこうたくさん休憩していました。 休憩所の近くから、北方向を眺めると、こんな景色が広がっています。パノラマ合成してみました。北の方向には西側外堀に西門が設けてあります。景色の左には西門虎口の枡形を造る鍵形の石垣が樹木の向こうに見えています。右側は、樹林と芝生が広がっています。自宅で城内マップを見ていて、休憩所の西南方向に「旧二条城石垣」が一部移設されて復元されている箇所があるようです。今回見落としています。再度探訪する機会には、現地を探訪してみたいと思います。ネット検索すると探訪情報は載っていました。まずは、外堀と本丸内堀との間の郭の南側ゾーンを探訪することから始めます。上掲の地図には、北側の郭を経由して、二条城の正面に戻る順路が赤い矢印で表記してあります。「梅林・桜の園」への案内標識が目にとまります。 通路を南に進むと、内堀側に「土蔵(米蔵)」があり、傍に案内説明板があります。土蔵(米倉)は、西側内堀沿いに、ここと、北側の二カ所に設置されています。 土蔵(南)(米蔵)の正面は内堀を背にして西に向いています。「西橋を挟んで北の土蔵と対になっている。寛永3年(1626)年頃の建築である。建物は長さが18間と長く、内部が二つに分けられている。内部に床が張られ、天井はない。窓には片引きの土戸が入っており、それを開けると土塗りの格子が現れる。このような窓の造りは、東大手門等の他の土蔵造りと同じである。窓は正面にしかない。現在、城内には3棟の土蔵があるが、江戸時代には10棟存在した。城に土蔵が残るのはここ二条城だけである。土蔵は穀物類を収納するのが目的だが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴である。寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝(エンショウ)用2棟、火縄用1棟が描かれているが、いずれも現存しない」(説明文転記)併記の英文説明には、18 ken の長さと記し、約35mと併記してあります。「土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺」で重要文化財に指定されています。(資料1) 土蔵を通り過ぎ、振り返って通路の北方向を眺めた景色 二条城の西南方向を眺めますと、「西南隅櫓」が樹木越しに見えます。櫓への通路は立入禁止です。近くまで行けないのが残念。「西南隅櫓周辺について」と題した案内説明板が設置されています。「江戸時代、西南隅櫓の周辺には番衆小屋(警備の武士の住まい)が建てられていた。 番衆小屋は、1635年頃に建てられ、明治時代に撤収されたと考えられている。その後、この周辺は空地となっていたが、令和2年(2020)年に西南隅櫓までの通路整備とアジサイの植栽を行い、現在の姿となった」(説明文転記) 江戸時代の大工頭中井家が作成した『二条御城惣絵図』から、この辺りに番衆小屋が建っていた状況をトレースした図面です。案内板下部に併載されています。 通路を左折し、南側内堀を左に見つつ、東に向かいます。樹木越しに、西側内堀の水面が見えます。 西方向の眺め 本丸の西南隅にある天守台の石垣を「梅林」と南側内堀を挟んで眺めた景色です。 南側内堀沿いに、「梅林」が東方向の「南中仕切門」まで広がっています。 「南中仕切門」を西南側から眺めた景色「一間門、一重、招造庇付、本瓦葺」の門で、重要文化財に指定されています。(資料2) 門の南側から眺めると、本丸の石垣が見えます。 門を潜り抜けて、眺めた景色。 南中仕切門脇の石垣と本丸の石垣 手前の緑地に彼岸花が数本咲いていました。その一つです。 本丸の南側石垣の東半分を眺めた景色 南側の石垣にも排水口が設けてあります。さらに東に進みます。 内堀の東南隅の地点です。 本丸の東南隅と東側の石垣、本丸櫓門が視野に入ってきます。 手前に見えたのが、この「桃山門」(重要文化財)です。本丸正面に対する防御門の役割を担っているのでしょう。入母屋造本瓦葺きで、五間一戸、側面三間、一重の門です。(資料3)門を通り抜けた通路の先、北正面に「鳴子門」が遠望できます。 桃山門の東南寄りから本丸櫓門の姿がはっきりと見えます。 桃山門の前から振り向くと、右(東)側に二の丸の屋根付き土塀が一直線に延び、左(西)側には、通路の先に「桜の園」が広がっています。白亜の土塀の先を左折すると、その先は、外堀側の「南門」があり、その先は唐門となります。桃山門前から、往路を引き返し、城の北側に向かいます。 本丸櫓門に架かる東橋の東詰の向こう側に、「鳴子門」の屋根が見えています。 南中仕切門を境界として、東側で通路より左側、つまり外堀(南)側には「桜の園」があります。通路を戻り、途中で南に向くと、芝生の上に簡易な境界が設けてあります。東側の「桜の園」は立入禁止です。 南中仕切門の続きで南方向に延びる石垣の景色手前の芝生には、休憩できるベンチが設置されています。桜の咲く春には、一休みしながら東に桜の満開を楽しめるようです。 通路を西に進むと、石垣に突き当たります。門の出入方向は、左折して南になります。もし敵軍がここまで攻め入って来た場合、この石垣上からの鉄砲や矢による攻撃に応戦することになる門の配置です。 内堀側の道沿いのこの生垣はいつ頃からの作庭でしょうか。たぶん、江戸時代にはなかったでしょうね。そんな気がします。休憩所辺りまで戻る前に、南中仕切門の扉を撮ってみました。 この門は、帯状鉄板を鋲止めしてあります。やはり、これも堅牢な印象を与える門です。普段はおそらく小さく見える門扉だけが通用口になっていて、この大きな門扉は閉じられていたのでしょうね。この後、休憩所まで一旦戻ります。そこから北側の郭を巡ります。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 二条城 土蔵(南)(米蔵) :「文化遺産オンライン」2) 二条城 南中仕切門 :「文化遺産オンライン」3) 二条城桃山門 :「文化遺産オンライン」補遺お城の国ニッポンを作った男 伝説の棟梁(とうりょう)中井正清 :「NHK」中井正清 :ウィキペディア二条御城中絵図 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 後水尾天皇行幸の時に建てられた時の建物群の配置がわかります。絵図に出会えました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.12
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=== 2023.10.4 === 南の空雨上がりです。ベランダの物干し竿に雨滴が残っていました。7時35分過ぎに撮りました。秋らしい白雲が浮かんでいます。良い天気になるのでしょうか。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 うろこ雲と呼べばよいのでしょうか? 東方向の空稜線の上には横雲が漂っています。普段の東の空を思うと、晴れているのがわかる方だと思います。 東方向の空9時5分過ぎに眺めると、1時間半ほど経っただけですが、一転して全面的な曇り空に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけても、雲が張り出してきています。ただ、所々に青空がのぞいています。 頭上の空 ほとんど雲で覆われています。 南の空 16時20分近くに空を見上げると、青空に戻っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 三方向すべて白雲が浮かぶ青空です。晴れ一時曇りという一日でした。=== 2023.10.05 === 南の空9時45分過ぎに撮りました。曇り空です。銀鼠より少し暗めのベターッとした雲が覆っている感じです。南西方向の空 そんな空に白雲が浮かんでいるのでしょうか。 西方向の空 銀鼠色の雲の切れ間に、その彼方の白雲が重なって見えているということでしょうか。 東方向の空 横雲が層をなした曇り空です。 東方向の空16時10分頃に稜線を眺めると、雲に変化が見られます。雲の広がり具合がかなり変わり、白雲の底面が銀鼠という感じにすら見えます。 南の空 青空に小さな雲が浮かぶという形に好転。南西方向の空 西方向の空 この後、写真は撮りませんでした。曇りのち晴れという一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている詩集「朴」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)脇道から始めます。この雲の変化シリーズの No.90 で真民さんの「タンポポ魂」と題する詩をご紹介しました。全詩集を読み進めてきて、詩集「朴」の中に、もう一つの「タンポポ魂」と題する詩に出会いました。真民さんのバックボーン、精神を感じる詩です。全文引用します。 p204 しんみんよ タンポポ魂というものがある タンポポを愛するからには この魂に徹して 初めて本ものと言える つまり大地にへばりついて 最下低の人間として生きるのだ 衣食住一切 つねに最下低の人間として 生きることを念ずるのだ そうした詩人になるのだ 大地からちょっとでも 足がうきあがったら もうおしまいだぞこれから4つ先に、「ヒマラヤ」と題する詩があります。「ヒマラヤ」と題する原色写真集を買ってきて、その山々を眺めて、世尊の心をわが心としたいと念じた真民さん。写真集を買った気持ちを詠んだ詩です。「ヒマラヤの麓に生まれられた世尊」の一行の次に、「その山から/ その木から/ その岩から/ その川から」と眺める対象となる詩句を列挙し、さらに その雲から いろいろ教えをうけられた世尊 と続きます。そして ブツダ世尊の浄い瞳に映った 大雪山(セッセン)の姿を この眼(マナコ)にうつしたい そう念じて朝に夕にひらき見つめる と詩をむずぶのです。 p207この後は、「大乗の船」と題する詩に幾つも出て来ます。15節で構成される長詩です。雲を詠み込んだ節を引用します。そのまとまりが「雲」の最低限の理解につながるはずだと思うから・・・・。どこかで、この長詩全体を読んでみてください。 p222-225 1 ああ茜の雲が 一すじ流れ 風もなく 寒くもなし 茜がわたしを 守ってくれているのだ お父さん いっていらしゃいと あの雲から 告げているのだ 「よもぎのだんご」と題する詩に付記があります。「茜はわたしたちの早世童女」と。 2 飛行機に乗るなどとは 夢にも思わなかったが それが実現し 今わたしは 白雲の上を 飛んでいる 6 西行さん あなたなら この白雲を 万朶(マンダ)のさくらと みたでしょう あなたが わたしのそばに 座っているような 錯覚をおこし 時代のへだたりを 忘れてしまいます 7 白雲悠々 遊ぶに似たり まったくその通りの きょうの天空である 8 唐の三蔵法師玄奘(ゲンジョウ)訳の 般若心経をとなえ 白雲の上を飛ぶ 孫悟空の如く 9 虚空蔵さま あなたの世界を 飛んでゆきます こんなに美しい白雲は そうめったにないと思います 13 飛行機から降りて 一時間半しか たっていないのに 山は雲にかくれ 雨が降っている そして虹がたっている すばらしい大きな虹が 15 オリンピア88号機から見た 限りない白銀の雲 いままた超特急ひかり22号から見る 美しい虹の橋 この恵まれた旅を 大詩霊さま 諸仏諸観音さまに 心から感謝しまつる 余談で終えます。この詩「大乗の船」の次に、詩「しんみん五訓」が載っています。しんみんさんを知ることの一方で、この五訓は私たちにとっても役立つのではないでしょうか。 クヨクヨするな フラフラするな グラグラするな ボヤボヤするな ペコペコするな逆の行動に身を委ねている時がよくある己・・・・ハッと、そんな気が・・・・。立ち止まり、内省するのに必要な五訓です。雲の変化に戻ります。=== 2023.10.6 === 南の空 7時45分頃に撮りました。快晴と呼べる青空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 棲んだ青空はやはり気持ちがいいですね。 東方向の空稜線間際に雲が漂う以外、その上空は白鼠(銀色)一色という景色です。布のように広がる雲なのでしょうか。 東方向の空 9時10分頃に眺めると、空模様は様変わり。稜線上空に雲が覆っているのですが、灰色がかった雲が大河の流れの様に見える景色に変化しているのです。雲の変化はおもしろい。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 青空の広がり。 南の空 16時45分過ぎに撮りました。雲が広がってきています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空台形状にみえる雲が稜線に覆い被さりそうな感じで浮かんでいます。その上にも横雲が漂っています。青空が見えるように変化しています。 東方向の空17時55分頃に撮ってみました。この時刻でもうかなり薄暗くなって来ています。やはり季節は動いています。東方向の空では、雲が大きく変化しています。小ぶりな雲が浮かんでいるだけに。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空青空の雲の広がりが、曇り空の雲の広がりに変化を始めた雰囲気です。晴れのち夕刻よりくもりという感じの一日でした。つづく補遺YS-11 :ウィキペディア 「こ(=東京オリンピック)の聖火輸送に因んでその後、全日空が導入した YS-11には機首に『オリンピア』の愛称がマーキングされた」(引用)ひかり栄光の歴史 :「トレたび」ひかり(列車) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.11
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本丸御殿の建物を遠目に見ますとこんな景色です。本丸の北半分に本丸御殿があり、白亜の屋根付き塀が境界となっています。そして、本丸の中央部寄りに、大きな建物一棟が廊下でつながっているようですが、突き出している感じです。 芝生の間の園路を歩み、西側から眺めると中央部に突出した一棟はこんな感じです。広々とした芝生の中に悠然としている感じです。後掲の写真の文を読んで知ったのですが、この建物は「御常御殿」と称するそうです。 天守閣跡に上って、上から見ますと、こんな景色です。 左側に、本丸御殿の建物群の屋根が見えます。この景色だけなら、工事中とは思えません。 本丸内を順路沿いに進むと、中央部の一棟(御常御殿)の側を通ります。この時、工事中という感じ受ける位です。本丸御殿の敷地はかなり離れていますので、工事中とは思えません。天守閣跡から降りて、北方向に歩むと、そこに工事中のための仕切り塀が見えます。それで修理工事中と実感する程度です。町中で建物工事中によく見かけるような仕切り塀です。違うところは、建物を修復工事中の様子がPRを兼ね、その壁面に写真パネルを掲示してある点です。この番外編はその写真を撮りましたので、PRを兼ねてのご紹介です。 本文を読めば、2017年6月から約5年間を予定した保存修理及び耐震補強工事だったようです。それが現状では遅れていることになります。新聞報道では、2024年以降に再公開が遅れると報じています。天明の大火で本丸御殿が焼失した後、御殿の再建はなく、第15代将軍慶喜が仮御殿を建てたとか。その建物は1881(明治14)年に取り壊されました。1893年に桂宮御殿がこの本丸に移建され、1894年に完了しました。それが現本丸御殿。この建物は、1793(寛政5)年から1849(嘉永2)年までに建てられた建物だそうです。 本丸御殿の建物あるいは建物内部の写真が列挙されています。上から順に付記されたキャプションを転記します。 台所 内部 玄関 外観 御常御殿一之間 内部 御常御殿 外観 御書院四季之間 内部 御書院 外観 雁之間 内部 台所及び雁之間 外観 保存修理工事左側の写真:土居葺きの様子 瓦を葺く前の作業。板を一枚一枚竹釘で取り付ける作業 「今回の修理では、もともと瓦の下であり、野地板に敷いていた土を取り 除き、重量を軽くすることで耐震性を高めます」(一部転記) 右側の上 :小屋組における構造補強材の設置 「小屋組では素材が炭素のブレース(筋交い)を入れ、耐震性を高めます。 雁之間の小屋はとても狭い空間なので、柔軟な炭素繊維のワイヤーは効果 的です」(転記)右側の左下:屋根瓦葺き完成(台所及び雁之間)右側の右下:「傷んだ瓦は替えて、丁寧に瓦を葺きます。今回新しく補足する瓦は当時 の文様に倣って作成しています」(転記) 左が補足瓦。右が当初瓦 障壁画修理上段の左 :本丸御殿の障壁画(御常御殿一之間) 「四季折々の風俗を主題としており、なかでも狩野永岳が描いた松鶴図は 圧巻で、鶴の羽を一本ずつ捉えた精緻な描写と鮮やかな色彩が、金砂子を 散りばめた背景に浮かび上がり、格式高い空間を飾るに相応しい作品です。上段の中 :剥落止め 「修理前に絵具が剥がれないように、膠で絵具をおさえます」上段の右 :裏打ち紙の除去 「本紙に直接貼られた裏打ち紙(肌裏)を手作業で 丁寧に取り除きます。裏打ち紙の取替えにより、本紙を長持ちさせること ができます」(転記)下段の左 :本紙の解体 「引手金具をはずし、本紙(絵が描かれていた紙)と裏 打ち紙を建具より外します 」 (転記)下段の中 :本紙の汚れ除去 「表面のほこりを刷毛等で払い、その後、ろ過水を浸 透させ、吸い取り紙で紙の内部の汚れを取り除きます」(転記) 小屋根の状況 本丸御殿玄関 左上: 瓦の取り除きの様子 右上: 左官作業の様子 左下: 屋根野地の補修作業 右下: 柱の立て起こし作業 左上: 1 瓦の解体前の様子 右上: 2 土居葺きの状況 左下: 3 野木葺の状況 右下: 4 野垂木の状況 本丸御殿御常御殿 屋根の解体状況 本丸御殿玄関 屋根の解体状況 二条城の過去の修理 左側: 昭和25年(1950)頃 二之丸御殿 修理 右上: 昭和60年(1985)頃 本丸御殿 修理 「文化財の修理では、まず建物を覆う素屋根をかけます。終戦後の昭和25年 (1950)の二之丸御殿の修理では、丸太を使って組んでいました。木造建築 の場合、部分を解体し、悪い箇所を修理するだけで、もう一度組みなおすこ とができます。これは日本の建築の大きな特徴で、組石造の欧米建築とは異 なります」(転記) 右下: 本丸御殿玄関背面 控柱による応急措置 「平成7年(1995)の阪神淡路大震により、玄関の柱が折れるなどの被害を受 けました。今回の5箇年の保存修理工事は、今後も文化財として安全に活用 するたあめに、被害の修復とともに耐震補強を施すことが主な目的です。そ の後、腐朽した木部や障壁画の修理などを行います」(転記) 「世界遺産・二条城本格修理事業」と題するリーフレットが掲示してあります。第1期の本格修理事業は、唐門・築地・東大手門・番所が対象で、これは完了。第2期がここ、本丸御殿となっています。現在進行中ということになります。 こちらのページの中央には、本丸御殿の平面図が載っています。本丸御殿は「玄関」「御書院」「御常御殿」「台所及び雁之間」の4棟で構成されているそうです。黄色:玄関、オレンジ色:御書院、空色:御常御殿、黄緑色:台所及び雁之間と、建物が色で区別されています。この図の右側が北方向になります。 城内マップ (小冊子より)それでは、探訪を続けます。本丸を出た後、内堀と外堀との間に設けられた郭-本丸の背後(西)と南・北両側-の探訪に移ります。つづく補遺一口城主募金 二条城本格修理事業について :「世界遺産 元離宮二条城」修理中の二条城本丸御殿、再公開は2024年度以降に 追加工事で2年遅れ 京都 :「毎日新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.10
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二の丸御殿の出口を通り過ぎると、右の「二条城案内図」が掲示されています。左折すると、すぐに本丸櫓門が橋の向こうに見えます。「本丸御殿」の案内標識が橋詰に立っています。 本丸櫓門前の「東橋」に立ち、「内堀」を眺めます。右の景色は内堀の北方向。本丸前内堀沿いの通路の北、本丸の北東隅に近い位置に「鳴子門」が設けてあります。左の景色は内堀の南方向。本丸前内堀沿いの通路の南、本丸の南東隅に近い位置に「桃山門」が設けてあります。 本丸東面の石垣。左が南方向、右が北方向です。石垣は打込はぎの積み方だと思います。 本丸の正面は、東橋の先に、「本丸櫓門」があります。 門扉、柱、長押などの表面は銅板を鋲止めで覆い、周りは漆喰を塗り込めた、まさに堅牢な造りです。 櫓門を入ると虎口です。門の本丸側の側面には虎口の壁面でもある漆喰塗りの土塀が見えます。 門を入った正面は急な角度の石段になっています。 東方向の景色一段高くなった本丸の敷地内から眺めると、本丸石垣の上面に上るための石段が本丸の四周を囲む形になっているようです。本丸御殿は本丸の敷地の北半分側に位置し、現在修復工事が行われています。本丸の南側半分が「本丸庭園」です。通路は中央より少し南寄りで西方向への順路があります。 順路を歩むと、南側の石段寄りに樹木が繁り、一部築山ふうに盛り上がっています。そのため、南側の本丸石垣は背後に隠れてほぼ見えません。 西方向に向かい、本丸庭園は中央部が芝生、周辺部に樹木が並ぶという景観を形づくっています。右の写真にほんの少し屋根の先端が写っています。これは、本丸の中央寄りに立つ大きな一棟の屋根です。 敷地の中央部の順路を進んで行くと、木々の向こうに「天守閣跡」の石垣が見え始めます。天守閣は本丸の方形敷地の東南隅に配置されていました。 振り返って、本丸の中央部を眺めると、左側の白亜の屋根付き塀の北側に広がる本丸御殿とつながりつつも、この大きな建物が一棟だけ悠然としている姿が印象に残ります。内堀に囲まれた本丸は20.000㎡の広さです。本丸御殿は、1893(明治26)年に、京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したものだそうです。貴重な宮家御殿建築の遺構として、重要文化財に指定されています。本丸御殿の南側に位置する「本丸庭園」は、明治天皇の行幸の際に、枯山水庭園から現在のように大改造されたとのこと。「東南隅に築山を配し、芝生を敷き詰めて曲線的な園路を設けた優美な造りが四季折々の風情を感じさせてくれます。」(小冊子より転記) 本丸の南西隅に位置する天守閣跡への石段 天守閣跡上部中央付近から北東方向を眺めた景色。高い山は比叡山でしょう。天守閣跡は、京都市内を360度見渡せるビュー・ポイントになっています。この天守閣跡の場所には、伏見城から移された五重六階の天守閣がそびえていたのです。伏見城は豊臣秀吉が築城しましたが、関ヶ原の戦い時点においては、德川方の鳥居元忠らが守っていました。大坂方(東軍)との攻防戦の末、1600(慶長5)年8月1日に落城します。翌年、德川家康は二条城の築城と並行して、伏見城の本格的な復旧工事で再建して、西日本支配の拠点にするとともに居城とします。家康と秀忠が将軍宣下式を行ったのは、伏見城においてでした。伏見城は1619(元和5)年、江戸幕府により廃城が決定されます。1623(元和9)年、家光が三代将軍の拝任式を伏見城で行うのを最後に取り壊されることになります。(資料1)翌1624年の2月30日に元和は寛永に改元されます。この年、秀忠は二条城に寛永の大改修を行わせるのです。幾度か触れてきた後水尾天皇の行幸への準備です。1626(寛永3)年に、本丸・二の丸・天守閣が完成し、二条城は、現在の規模となりました。伏見城の取り壊しの後、その天守閣はこの二条城の天守閣として再生したのです。しかし、1750(寛延3)年8月、雷火により天守閣は焼失してしまいます。さらに、1788(天明8)年1月、市中で発生した大火により、本丸御殿などが焼失したそうです。いわゆる「天明の大火」です。天守閣の再建はその後行われませんでした。江戸城の天守閣が消失後再建されなかったので、当然かもしれません。江戸時代はもはや天守閣を必要としない世に中に変わっていたということでしょう。 天守閣跡の北側から本丸内を見下ろすと、樹木の先に本丸御殿の屋根が見えます。右端が上掲の一棟だけ中央部に突き出ていた建物です。 南側の石垣の本丸側。石段が石垣の内側側面として延々と延びています。 天守閣跡の南東隅より東方向を眺めた石垣と内堀 東南隅から振り返って、南側内堀の西方向を見下ろした景色。 西南隅に移動し、内堀の西南角を眺めた景色。白壁と屋根の建物は米蔵です。 西南隅から目を北西方向に転じます。眼下に西側の内堀が見えます。 西北隅に立ち、内堀を見下ろすと、本丸の「西橋」が見えます。西橋と石垣との間の長方形の空間は「馬出し」と称される区画だと思います。 天守閣跡の北側から、眼下を眺めると、西側石垣の本丸内では、他と同様に石段が北方向に延びている景色が見えます。この景色の右端に、本丸御殿の一棟の屋根が見えています。 天守閣跡から内堀と西橋を眺めつつ石段を降ります。天守閣跡から降りると、北方向に進み、本丸御殿の西側の空間を経て、先ほど見た西橋に向かいます。この辺りには、現在修復工事に伴う仕切り塀が設置されています。二条城細見の番外編として次回、ご紹介したいと思います。 西側と北側の内堀に面した石垣の角にあたる箇所を、本丸内から眺めた景色です。西側と北側の石段が本丸内での北西隅の様子を示しています。 西橋に出る手前の坂道と石垣 西側内堀の北方向。本丸石垣の北寄りの伊菱垣が少し張り出しています。 西橋の欄干(北側、東詰) 振り返り、南側を眺めると、天守閣跡の上から眺めた、長方形の空間がこんな形で見えます。ここが、たぶん「馬出し」と称される空間だと思います。 西橋を渡り、西詰寄りから馬出しと本丸石垣を眺めた景色 内堀の北方向と本丸石垣 西側の内堀と西橋より南方向の本丸石垣これで、本丸のエリアを一通り拝見してきました。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社補遺虎口 :ウィキペディア解説!お城の馬出し :「日本の城」伏見城 :ウィキペディア伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」天明の大火 :「フィールド・ミュージアム京都」徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史 :「EDO→TOKYO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.09
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二の丸御殿の西側に位置する二の丸庭園には、この塀重門を入ります。 門を入ると、大きな木が玄関口の衝立のよう前方に植えてあります。右の写真は、門に連なり北方向に延びる屋根付き塀の庭園側の姿です。漆喰で塗り込められています。正面の大きな木の前を左側に巡る通路がありますが、水平に渡した竹で立入禁止を示しています。 庭園の南側には、ゆったりと芝生が広がっています。 庭園内の通路は北西寄りの方向だけが観覧順路になっています。芝生の間の西方向への通路なども立入禁止です。北に見える手前の建物は「大広間」。その先に少し見えるのが「黒書院」でしょう。 通路を進みます。一本の石標が見えます。その正面まで進むと、石標の東面に「特別名勝 二條城二之丸庭園」と刻されています。 上掲の2枚の景色とこの景色で、芝生を横切る通路の方向がお解りいただけることでしょう。 通路の東側、二の丸御殿の大広間に近づいています。 庭園の池の方向を眺めて、左から右に目を転じていくとこんな景色です。少し先に歩み、 二の丸御殿を眺めると、大広間、式台、遠侍の3棟の外観の雁行形が見えます。大広間の一の間は、建物の北西角ですので、外側の戸が開かれていれば、一の間に座す将軍は、書院越しにこの二の丸の庭を眺めることができます。 大広間の西辺り、庭の通路から池を眺め、左から右に目を転じて行くと、 この景色が広がっています。池の西岸と南岸との間に、石橋が架かっています。 石橋付近をズームアップした景色。西岸の先には樹木が並び、建仁寺垣が庭と本丸側の通路との境になっています。竹垣には風情を感じます。德川家康の命により二条城が築城され、家康在世時にまず当初の作庭が行われました。寛永3年(1626)年の後水尾天皇行幸の前に、将軍秀忠が寛永の大改修を行いました。この時に現在の二条城の規模に拡大されたのです。池の西南に天皇を迎えるための行幸御殿が造営されました。その際に、大広間、黒書院、行幸御殿、それぞれに対して庭の正面が向くようにという創意工夫がなされたと言います。この時、小堀遠州ほか5人がそれまでの庭を改造する作庭の指導にあたったといわれています。その工夫配慮が諸葛孔明の八陣のようであるととらえて、俗に「八神の庭」と称されるそうです。(資料1,2)二の丸庭園は書院造庭園で、神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われています。(資料2)現状でみれば、豪壮な地泉回遊式庭園とも言えそうです。(資料1)通路はあれど立入禁止の道があり、自由に散策できないのが残念ですが・・・・。 少し先に歩み、南西方向に池を眺めた景色。手前に立石が配置されています。 池の東岸の向こうに、黒書院が見えます。 樹木が繁り、僅かですが池の西方向に、本丸櫓門の屋根が垣間見えます。 ズームアップして撮りました。池の向こう岸に、滝組を眺めることができます。清冽な水が白い筋となり、池に流れ込んでいます。 後ほど、池を回り込んでズームアップすると、こんな感じの滝口の景色です。 池の周囲の順路をさらに進みます。南方向を眺めた景色 対岸をズームアップ。竹垣が連なっています。 池の北辺で左から右に目を転じていくと、こんな景色です。 池の西岸と池中の蓬莱島に石橋が架けられ、蓬莱島と手前の鶴島にも小さめの石橋が架けてあります。(資料3)後水尾天皇行幸時には、池の西南側から冒頭の東岸の芝生辺りに行幸御殿、中宮御殿、長局等の建物群が増築されていたようです。北東側に二の丸御殿がありますので、中庭的な庭園の様相になります。その時の庭は、「池の中に御亭を建て、池の中央3つの島、4つの橋を併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました」(資料2)と言います。つまり、寛永の当時には、書院造庭園の庭の姿はほぼ同じだとしても、周辺の景観は現在とは大きく異なっていたのです。「行幸の翌1627年(寛永4年)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移築・撤去され」(資料2)てしまったのです。「元離宮」を冠する通り、大政奉還後には、荒廃していた庭園に度重なる改修を加えて、「離宮的・迎賓館的な城として利用され」「特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます」(資料2)その結果が、現在のこの二の丸庭園の景観となるそうです。小堀遠州の作庭意図がベースとして残されている庭園と言えるのでしょう。 池の北辺から、池と大広間を眺めた景色 池に沿って景色を眺めていくと、池辺に数多くの石が配置された作庭になっていることが特徴的です。 庭園内を順路に沿って巡って行くと、本丸の方向に抜ける出口が見えます。これで二の丸庭園の細見を終わります。 城内マップ (小冊子より)江戸時代の二条城について、覚書を兼ね、小冊子ほか諸資料を参照して補足しておきます。1603(慶長8)年3月、二条城が竣工した後、家康はこの城に入城します。当時は、「京之城」とか「京都新屋敷」と称されたそうです。既述のとおり、当時は小規模だったのです。慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられる儀式は伏見城で行われました。家康はこの二条城に入った後に、拝賀の礼をしているそうです。1611(慶長16)年、家康は豊臣秀頼を招いて、ここで会見を行いました。家康は、大坂の冬の陣・夏の陣は、この二条城で軍議を行い、ここより出陣したそうです。この後は、秀忠による寛永の大改修、後水尾天皇の行幸が終わると、三代将軍家光が、1634(寛永11)年に、30万7000余人を率いて入京し、二条城に入城します。この後、将軍が入城してくるのは、14代将軍家茂です。第4代~第13代の将軍は京都には来なかったのです。そして、第15代慶喜が、この二条城で将軍職を継ぎ、1867(慶応3)年に、大広間で大政奉還を表明するに至ります。二条城は江戸幕府の初期と最後の将軍に使われた以外は、形式だけの城として、営々と幕府から派遣された「二条在番」の武士たちにより、常駐して警備、メンテナンスされるだけになったわけです。(資料4)余談ですが、使われない城を警備する武士はどのような気持ちで職務を遂行していたのでしょう・・・・。内心、気楽だと思っていたのか、虚しいと思っていたのか、無心に淡々と職務を果たしたということなのか・・・・。ちょっと気になりますね。それでは、本丸に向かいましょう。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p200-30012) ~二条城の歴史・見どころ~庭園 :「世界遺産 元離宮二条城」3) 二条城 二の丸庭園 :「庭園ガイド」4)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社補遺 二条城庭園について :「おにわさん」二条城二の丸庭園 ~京都府京都市~ :「茶の湯的・建築 庭園 街並み観賞録」八陣 :「コトバンク」合戦の「八陣」は諸葛亮孔明の発案? 日本流の軍学が昇華させた「勝つため」の陣形とは :「AERA dot.」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.08
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唐門を眺めた後、二の丸御殿の正面の外観のほぼ全景を眺めて、御殿に近づいていきます。 二の丸御殿の出入口は入母屋造の妻側に唐破風造が付いた屋根です。この部分が玄関口。この建物部分は「車寄」と称されています。 唐破風造の屋根の上には獅子口が見えます。破風には菊の紋章を打ち出した飾金具が取り付けられ、唐門と同様に黄金色に輝いて絢爛さを示しています。江戸時代には、たぶん菊の紋章ではなくて、三葉葵の紋章が輝いていたことでしょう。 唐破風造の屋根の内側から眺めて行きましょう。 虹梁の中央部には屋根を支える蟇股が組み込まれ、その内側に唐獅子が透かし彫りにされています。虹梁の正面は草花文の飾金具で装飾されています。 虹梁と頭貫の間は、一枚の厚板に細密な浮き彫りの瑞鳥や草木で埋め尽くされています。今は退色していますが、極彩色の絢爛さを見せていたことでしょう。 右側 左側上掲正面の左右の欄間は、筬(オサ)欄間の中央部の州浜文様の枠の中に、樹木と鳥が透かし彫りにしてあります。こちらは黄金色で金泥塗りのようです。 これは受付窓口横の自動券売機で購入した「入場券/二の丸御殿観覧券」です。左側が表面になるのでしょう。車寄に入ったところで、この券の提示を求められました。係員が、このQRコードを個別にスキャンするのです。かなり昔に訪れたときはそんな手順はなかったと記憶します。この車寄から先、二の丸御殿の建物内は撮影禁止です。建物の外側の戸は全て閉められていますので、御殿から二の丸庭園の景色は見えません。 当日入手した小冊子からこの二の丸御殿の平面図を抽出しました。二の丸御殿では、北西方向に雁行形(ジグザク形)に配置された6つの大小の建物を廊下伝いに時計回りの一方通行で観覧していくことになります。車寄 ⇒ 遠侍 ⇒ 式台 ⇒ 大広間 ⇒ 黒書院 ⇒ 蘇鉄の間 ⇒ 白書院 と南側・西側の廊下から眺めて行き、そこで折り返して、黒書院 ⇒ 蘇鉄の間 ⇒ 大広間 ⇒ 式台 ⇒ 遠侍 ⇒ 車寄 ⇒ 外へと東側・北側の廊下を進んで行き、車寄に戻って、外へ出るということになります。 遠侍 来殿者の控えの間。最大の広さ。襖には竹林群虎図。威圧感があります。 北東側に「勅使の間」。「若松の間、柳の間」と観覧順路の最後です。 式台 南側:式台の間 将軍への要件や献上物を取り次ぐ間 北側:老中の間 大広間 将軍と大名や公卿衆との対面所。一の間(北西側)が将軍の座で上段 1867(慶応3)年、この場所で、大政奉還の意思表明がなされたとされます。 黒書院 江戸時代には「小広間」と称したとか。一・二の間は「桜の間」とも。 将軍と德川家に近しい大名や高位の公家などとの対面所 白書院 江戸時代には「御座の間」と呼ばれ、将軍の居間や寝室と推定されます。平面図には、黒書院と大広間の間の廊下と思える箇所に「蘇鉄の間」と表記されています。現在では廊下の機能だけに見えますが、幅が広すぎます。たぶん大広間と黒書院をつなぐ廊下と部屋のある建物だったのでしょう。この空間の東寄りに展示品が置かれていました。メモをしていませんので、展示品の名称を記憶していませんが・・・・。蘇鉄の間を含めて、6棟の建物が廊下でつながっています。一番下に載せた城内マップをご覧いただくとわかりますが、上掲の間取り図の建物群の他に、北東側に「台所・御清所」と記された建物があります。この二の丸御殿には、「江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952)に国宝に指定された」(屋外の案内掲示板より一部転記)のです。この御殿は6棟で、部屋数は33室、800畳余りになるとか。寛永期の障壁画を含む約3600面の障壁画が残されていて、そのうち、1016面が1982(昭和57)年に重要文化財に指定されています。「寛永期の障壁画は、1626(寛永3)年の後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです」(小冊子より転記)現在、二条城内には「展示収蔵館」がありますので、重要な障壁画の大半がこちらに収蔵されているのでしょう。探訪した時は残念ながら休館中でした。上記の順路で観覧する範囲で拝見する障壁画は、一部ということになります。なお、「模写を制作し、御殿内の原画と模写画をはめ替える事業です。修理では原画の画面に復元的な措置を一切講じませんが、模写では、江戸初期の姿を復元することを目的に、失われた部分を補い、後世の補筆を除くべく、慎重に検討を重ねて、形や色、筆法を決めています。また、伝統的な材料と技法を用いて制作するため、伝統的な絵画技術の調査、伝承という役割も果たしています。」(ホームページより)という事業活動が行われています。二条城のホームページをご覧いただき、あとは二の丸御殿を実見し巡ってみてください。 二の丸御殿を巡る最後に初めて見えた中庭の箇所。 建物内ではないので撮ってみました。 「遠侍」の廊下から見た東側の土塀 二の丸御殿を出て、車寄の東側に回り込んでみました。 ここで目に止まった屋根の鬼板。鬼瓦が好きなので一枚撮りました。 自宅でこの鬼板を眺めて文様の奇妙さが気になり、モニターの画面上で部分拡大してみました。 そして気づいたのは、鬼板の内側の造形の左側に蛇が首を持ち上げている姿になっていたことです。こんな鬼板は初めて見ました。不思議な意匠です。悪疫封止の意味合いを象徴しているのでしょうか。 「遠侍」の建物の東側面には、団体観覧客専用の張り出し空間が設けてあります。北東側から撮った景色です。この景色の左(東)側に、唐門から続く築地塀が二条城内での敷地の境界として南北方向に設けられています。元に戻って、車寄前から西側、二の丸庭園に向かいます。 遠侍の建物の南側は土塀の前に樹木が植えられて、一種の境界になっています。 二の丸御殿の南側空間と二の丸庭園との間には境界として土塀が設けてあります。庭園への入口の少し手前に、この2つの釣鐘が展示されています。「鐘は京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるために使われていた。 京都所司代とは主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関である。 京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷と呼ばれていたが、これらは下屋敷で使われていたものである。慶応3年(1867)に京都所司代が廃止された後、二条城に移されたと考えられる」(案内掲示文転記) 釣鐘の側から南方向を見ると、この敷地内に井戸がありました。 城内マップ (小冊子より)それでは、二の丸庭園に向かいましょう。つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ 二条城障壁画 展示収蔵館書院造 :「NHK for School」書院造とは?床の間の特徴や寝殿造との違いも画像で解説【書院造のインテリア】 :「インテリアのナンたるか」狩野探幽 :ウィキペディア狩野探幽 :「美術手帖」京都所司代 :「刀剣ワールド」京都所司代 :ウィキペディア京都所司代跡 :「フィールド・ミュージアム京都」京都所司代跡 :「幕末トラベラーズ」「京都所司代」上屋敷跡、池底地中に木製導水管 出土例少なく、特異な流路構造 /京都 2020.6.25 :「毎日新聞」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.07
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=== 2023.10.1 === 南の空神無月(カンナヅキ)朔日。昨夜半から激しい雨が降り続きました。起きると、その雨が止んでいたとはいえ曇り空での一日の始まりでした。15時10分頃に撮ったのですが、この空もよう。右下に素鼠色の雲、左半分に銀鼠色の雲、右上端に白鼠色の雲が重なって見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空同じ曇空でも、稜線上の布を広げたような雲の方が明るさがあります。余談です。神無月は旧暦で10月を表す雅語。「俗に、日本じゅうの神々が出雲に集まるといわれる」(『新明解国語辞典』三省堂)ので、神無だとか。ならば出雲地方では? そう「神在月」と呼ばれると言います。出雲大社では、旧暦に合わせて「神在祭」という伝統行事が行われるそうです。現在では、11月にこの行事が執り行われています。(資料1)一方、例えば、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の「恒例祭典」のページを見ますと、旧暦呼称と現在の暦月を併記されています。神無月10月という結びつけは使われています。伏見稲荷大社では、現在の暦月だけの表記です。これらは、あくまで一例ですが。(資料2,3)戻ります。 東方向の空17時頃に稜線上空を眺めますと、雲がわかりやすい形に変化しているものの、曇った状態なのはそのままです。 南の空南に目を転じると、ところどころに青空が見られるようになっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空総じていえば、天気はくもりの一日になりました。=== 2023.10.2 === 南の空 7時50分過ぎに撮りました。秋の雲がただよう空で、晴れ。南西方向の空 西方向の空 うろこ雲がみられます。 頭上の空 東方向の空稜線上空は曇り空で、白雲の横雲も漂っています。その上には、灰色の雲の向こうの太陽の光が反映しているのでしょうか。おぼろげに円形が浮かびあがっているようです。 東方向の空9時20分過ぎの稜線際とさらに上空に銀鼠の横雲が漂っています。白鼠の雲とが併存しています。 南の空南西方向の空 筋雲状の雲の見られます。 西方向の空 頭上の空天気予報は晴れです。この後、二条城の探訪に出かけました。二条城細見としてその記録を先日より、まとめ始めています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。 南の空探訪からの帰宅後、17時50分過ぎに撮りました。雲の姿はかなり変化しています。南西方向の空 夕陽がかすかに映えて、淡いピンク色をおびた雲が見えます。ズームアップして 西方向の空 頭上の空 東方向の空総じて晴れの一日。ウォーキングを兼ねた探訪日和りの一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている詩集「朴」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)「道」と題する詩に雲が詠み込まれています。この詩も全文引用します。 p139 空也一遍の道 ちかくは 放哉山頭火の道 いつのころからか わたしもこの道を 歩いていた 生まれた処もまだ知らぬ だからどこで死ぬか それもわからぬ 雲のように水のように 行方を知らぬのが わたしの一生だろう空也、一遍、山頭火という先人の道の文脈の中で、「雲のように水のように」の詩句が大きな意味を持つように感じます。「佐代子バンザイ」と題する詩があります。娘の佐代子さんが神戸で成人式をあげる日に詠まれた詩です。最後の節に出てくる詩句です。 p151 流れる雲よ 父のこの喜びの声を 伝えてくれ と、詠み込まれています。ストレートに感情の発露を感じとれる詩句です。 一途一心 一途に生きているから 星が飛び 花が燃え 天地が躍動するのだ 雲が叫び 草が歌い 石が唸るのだ 一心に生きているから この手が合わされ 憎しみを 愛に変えることができるのだ 一途であれ 一心であれ p156真民さんご自身が、詩作一筋の生き様に対し、己へのエールとして声高らかに詠まれた詩と受け止めました。それが、この詩の読者には、読者自身の生き方に対するこだまとして跳ね返り、そして、読者へのエールにつながって行くのではないでしょうか。「一途であれ/ 一心であれ」と。この後、40の詩を挟み、「愚かなる身を」と題する詩に、雲が現れます。ここでの詩句も全文の中から切り取ると詩情は減じると思いますので、全文引用します。 p184 出ずる日に 何を願わん 沈む日に 何を望まん ただしずかに わが道を行き わが詩を作り 雲のごと 水のごと おのずからなる 生を送らん 石よいきどおるな 水よぐちをこぼすな よろこびに おぼるることなく かなしみに しずむことなく すべてを託して 一途に生きん 愚かなる身を ここに出てくる「雲のごと/ 水のごと」は、上掲の「道」と題した詩に出てくる「雲のように水のように」と同じ次元での心境を表象していると思います。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.10.3 === 南の空7時45分頃に撮りました。天気は晴れ。空のこの青さがいい! 日本の伝統色名では瑠璃色と称する色合いだと思います。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南、西の方向は晴れていても、稜線上空が曇りというのは普段のよくあるパターン。厚めの横雲が層をなしています。 東方向の空9時10分近くに眺めますと、稜線上空の雲の姿は大きく変化していました。曇っているのは変わりません。 南の空うろこ雲が見えます。1時間半程の時間差で雲の姿は大きく変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時40分頃に撮りました。空模様は一転し、銀鼠の雲が空を覆う形に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空空は全面的にくもりに変化。晴れのちくもりです。深夜から雨が降り出しました。つづく参照資料1) 神在祭 :「しまね観光ナビ」2) 恒例祭典 :「賀茂別雷神社」3) 祭礼と行事 :「伏見稲荷大社」補遺空也 :ウィキペディア空也 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」一遍上人のご生涯 :「時宗」(時宗宗務所)一遍 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」種田山頭火 :ウィキペディア種田山頭火について :「山頭火ふるさと館」坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.06
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唐門の門扉の上は龍虎の透かし彫りです。その門扉を潜った先の控柱の頭貫の上を見上げますと 内側の部分には松の木が透かし彫りにされているようです。 頭貫の側面に取り付けられた飾金具は瑞鳥の意匠と思われます。左右2枚の合わせです。また、底面にも飾金具が取り付けてあり、草花の意匠です。 北西角の木組の端部は透かし彫りの飾金具を取り付けて、豪華絢爛さを示しています。 二の丸御殿前から唐門の唐破風を眺めた景色です。破風と虹梁、頭貫の中央部には、菊の紋章を中央に浮き出させた飾金具が取り付けてあります。 虹梁の上には、草花と蝶の透かし彫りが見えます。こちらは左側。 少し角度を変えると、蝶と花の立体感が際立ちます。 こちらは右側です。左側と照応して、蝶と花が彫られています。 同様に、少し角度を変えてとって見ました。蝶が飛ぶ様がリアルです。 虹梁と頭貫の間には、松の木と鳥の透かし彫りが見えます。こちらは左側。 少し角度を変えて撮りました。 中央部の蟇股の内側には、亀に乗る仙人が彫刻されています。調べてみますと、黄安と称する前漢・武帝の時代の仙人だそうです。通称、亀仙人。亀乗り仙人。この仙人、知恵の象徴であるとともに、長寿の象徴でもあるとか。(資料1,2)曾我蕭白が「亀寿老図(亀仙人)」を描いています。黄安仙人は『列仙伝』(巻之二)に登場すると言います。(資料3) この鳥は左右でやはり一対のつがいを表しているのでしょうか。鴛鶯。 角度を変えると、透かし彫りの立体感が際立ってきます。 唐門に少し歩み寄ると、本柱の頭貫の上の透かし彫りが見やすくなります。この唐門、一説には「鍮石(チュウセキ)門」と称されるそうです。(資料4) さらに近寄って眺めると龍の胴体の背面が彫り込まれています。部分図写真を撮り忘れたのですが、同様に左端には、竹の間に虎の背面が浮き彫りにされています。「雲に龍」、「竹に虎」という組み合わせで一体となった透かし彫りです。 内側の北西側から唐門の右(西)側の側面を含めて撮りました。 側面の外側には唐獅子が透かし彫りになっています。こちらは「牡丹に唐獅子」です。「牡丹に唐獅子 竹に虎」は取り合わせとしてよいものと考えられているようです。そう言えば、絵図でもよく見かけます。この取り合わせ、「あなたの依所は、何んですか。 あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか」というメッセージを投げかけているという解釈に出会いました。獅子には、獅子身中の虫が敵。この害虫は牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたれば死ぬので、獅子は牡丹の下で休み、虎は象には勝てないので、象が近寄らない竹薮の中を安全な地とするそうです。興味深い話です。(資料5)「雲に龍」の取り合わせは同様なのでしょうか。 透かし彫りの飾金具の妙を各所で堪能できます。 桟唐戸のある本柱の頭貫が突き出た先端もまた飾金具で覆われています。余談ですが、京都にある両本願寺の阿弥陀堂門はこの唐門と同じ形式ですので、この部分は同様に飾金具で覆われています。 東側の側面を内側、北東側から眺めた景色です。 唐門に近づいて、側面を見上げた景色。 花の透かし彫りです。上段は桜の花でしょうか。 前回外側から唐獅子を眺めました。今度は内側から眺めた唐獅子です。ということで、下段のこちらは「牡丹に唐獅子」の牡丹の花です。 唐獅子の胴体の背面が彫られているようです。上半身は門の内側で見えるのでしょう。 鍵型に折れ込んだ築地塀の端面の屋根をアップで撮りました。唐門の東側を南面・東面を囲む築地塀は、南面の築地塀が少し手前で鍵型に折れて北方向に築地塀が少し延長されています。その北端の屋根部分です。この北向きの築地塀と唐門は唐門の脇の築地塀と連接しています。上掲の東側の側面の全体を眺めた景色をご覧いただくとお解りいただけるでしょう。 二の丸御殿の側から眺めた唐門です。 二の丸御殿の前を東方向に少し移動して、立ち位置を変えて撮った景色です。 城内マップ (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市1) 黄安仙人 :「いこまいけ髙岡」2) 黄安仙人[すみ鬼瓦/和風置物] :「北川鬼瓦」3) 亀寿老図(亀仙人) :「東京富士美術館」4)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p2985) 牡丹に唐獅子 竹に虎 大分県・長福寺住職 宇都宮玄秀 :「臨黄ネット」補遺【ことわざ】「牡丹に唐獅子」の意味や使い方は?例文や類語を元新聞記者がわかりやすく解説! :「Study-Z」江戸しりとり唄 牡丹に唐獅子 :「世界の民謡・童謡」境内と建造物 :「お西さん」世界遺産の【龍谷山 本願寺〔西本願寺〕】に参拝してきました。No.1:「KATSUMI」東本願寺境内案内図 :「東本願寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.05
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東南隅櫓から唐門に向かいます。二の丸御殿と二の丸庭園のある区域は東南側の南面と東面が築地塀で囲われています。南面に正門として唐門が位置します。 近づいて行きますと、北東方向に東大手門と番所が見えます。 東側築地塀の南端です。 築地塀の側面。切妻の屋根の破風部分は唐草文様の飾金具で華やかに装飾されています。合掌部の拝(オガミ)には菊の紋章が取り付けてあります。元離宮の名残でしょうか。妻飾は蕪懸魚の形式です。屋根の鬼板はごくシンプルな形です。鳥衾(トリフスマ)と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)は、三頭巴の文が陽刻されています。桁の先端もまた、飾金具で覆われ、先端部が保護されています。 唐門の屋根の棟の先端は獅子口が備えてあります、3つの経の巻の瓦当と綾筋の下は共に菊の紋章が象られています。 唐門ここが二の丸御殿の正門。切妻造の屋根の前後に唐破風が付いている形です。四脚門です。この唐門、2013(平成25)年の修復工事によって、往時の姿が甦りました。 この唐門は豪華絢爛な極彩色の装飾彫刻と飾金具で飾られています。ここで誰しも立ち止まり写真を撮っています。彫刻それぞれには様々な意味が込められているそうです。二条城細見としては、もちろんこの装飾彫刻をできるかぎりつぶさに眺めていきましょう。少々マニアックですが、お付き合いください。写真を数枚、パチリではもったいない!大手門とは違い、唐門は扉の付いた本柱が中央で、その前後に控柱が付いています。控柱が4本ですので、四脚門。それで、前の控柱の間、本柱の間、後の控柱の間、それぞれに装飾彫刻が施されています。 唐破風屋根の内側の垂木は要所要所が飾金具で装飾されています。虹梁の上部と屋根との間は花が透かし彫りで咲き溢れ、蝶々が飛び交っています。虹梁とその下の頭貫には菊の紋章が飾り付けてあります。 虹梁と頭貫との間には、松竹梅に鶴が彫刻されています。つがいの鶴なのでしょう。長寿を祈念し寿ぐという意味でしょうか。頭貫の中央に、蟇股が見えます。黒い部分が蟇股です。蟇股の上部、虹梁の前面には、瑞鳥の装飾金具が付けられ、虹梁の上には大瓶束(タイヘイツカ)が立っています。この大瓶束もまた装飾金具が付けられています。 扉の付いた本柱の頭貫の上部は、龍虎の装飾彫刻です。門に龍が彫刻されるのは定番のようなものです。やはり、龍虎の力強さにあやかるという気持ちの表れでしょうか。天井格子の部分にも飾金具が絢爛と輝いています。 全体像 龍虎の凄まじい睨み合いの場面です。 唐門の正面、右(東)側の控柱とその右側を眺めた景色 正面側の木鼻を南から撮ってみました。側面に草花文が彫刻され、正面側を装飾金具で覆った木鼻です。 南面の築地塀の西端です。上掲の東側築地塀の南端と同じ装飾になっています。 唐門の正面東側の側面 外側の装飾彫刻 側面には、唐獅子が彫刻されています。聖域を守護する意味が込められているとか。 唐門正面、前面の控柱の下部に付けられた装飾金具 右(東)側の側面の透かし彫り: 本柱と内側控柱との間の箇所の眺め 扉は桟唐戸の形式です。上部が菱狭間で、円形を浮かび上がらせる幾何学文様がきれいです。 左(西)側の側面の透かし彫り: 本柱と内側控え柱との間の箇所の眺め 門扉の装飾は上記と同じです。 唐門の正面、左(西)側の前面の控柱の周辺 左側の側面、内側の透かし彫りとその周辺 唐門の本柱の左に続く築地塀の側面の装飾彫刻。唐獅子が彫刻されています。それでは、唐門を潜ります。唐門の扉から内側の唐門の景色に移ります。 (小冊子より)つづく参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ二条城 二の丸御殿唐門 :「文化遺産オンライン」「菊」の下に「葵」紋 京都、二条城唐門を公開 2013.8.28 :「日本経済新聞」世界遺産二条城 修復応援プロジェクト~煌めく唐門(からもん)の完成へ!~ :「READYFOR」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -1 外堀・東南隅櫓・東大手門・番所 へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.04
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天気予報が晴れでしたので、何十年ぶりかで二条城を再探訪してきました。二の丸御殿と庭の印象を思い出すくらいなので、今回はできるだけ細見してみたいと思った次第です。地下鉄東西線の二条城前駅で下車し、二条城方向への出口から地上に出ると、押小路通(東西の通り)です。横断歩道を渡れば、二条城は目の前。冒頭の景色は、南側の外堀です。並木の左側が押小路通です。 東南隅櫓二条城のビュースポットの一つ。外堀の四隅には、かつて見張り台として隅櫓が建てられていました。1788(天明8)年の「天明の大火」で多くの櫓が焼失。現在はこの櫓と西南隅櫓が現存するだけです。 東側の外堀の先に、東大手門が見えます。ここが二条城の正面になります。 東からの眺め石垣の隅は「算木積み」で整えられ、石垣は「打込はぎ」という積み方です。1階の中央部が出っ張っているには、石垣面に対しての防御のためでしょうか。石落としとか、矢を射るとか・・・。隅櫓は、普段は武器庫として使われていたそうです。 「東大手門」を東南側から眺めた景色。外堀が石垣で遮断されて東大手門への正面通路が築かれています。 石垣に1箇所、排水口が設けてあります。 東大手門の外堀手前、南側に史蹟碑があります。この史蹟碑は、「二条城」より「旧二條離宮」を強調しています。 この小冊子は、東大手門を入ったところで入手しました。この表紙には、「元離宮」という語句を小さめに冠して「二条城」というタイトルになっています。二条城は、徳川家康が1601(慶長6)年に、西日本の諸大名に築城を命じたことに始まります。天皇の住む京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所とするためです。1603(慶長8)年に二条城は完成。当時は、後で訪れる二の丸御殿を中心とする規模だったそうです。現状から見れば小規模の城です。1624(寛永元)年、二代将軍秀忠が、寛永の大改修に着手し、1626(寛永3)年に、本丸・二の丸・天守閣が完成します。この時、現在の二条城の規模になりました。そして、同年9月に後水尾天皇が5日間、二条城に行幸されるという大イベントにつながります。徳川家の天下が京の町衆を始め、世間の人々に知らしめる公の契機となったのです。1867(慶応3)年10月、二の丸御殿で、徳川慶喜の「大政奉還」の意思表明が行われました。二条城は明治維新政府の管轄下に入ります。1868(明治元)1月、現在の内閣にあたる太政官代が、二条城内に置かれたと言います。その後、明治政府は東京に拠点を移します。1884(明治17)年に、二条城は皇室の別邸になります。管轄が宮内省に移され、大修理を経て、「二条離宮」となりました。「旧二條離宮」「元離宮」はここに由来します。1939(昭和14)年、宮内省が二条離宮を京都市に下賜。1940(昭和15)年2月11日から一般公開が始まったのです。1994(平成6)年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。二条城は東側が堀川通に面しています。東大手門への通路を挟んで外堀の北東側に、二条城観覧のチケット販売所があります。建物側の出札口を経由して、外堀を渡る通路に向かいます。 東側外堀の北方向の景色。石垣の上は樹木が列をなしています。かつては、白壁や櫓が建てられていたことでしょう。徳川の天下になった後の築城とはいえ、やはり当時は白壁に矢狭間や鉄砲狭間は設けられていたのでしょうね。私の単なる推測ですが・・・・。 東大手門の北側の石垣と白亜の土塀。 東大手門正面から眺めた姿。2階が櫓となった櫓門です。二条城の正門にあたります。人の居ない東大手門を撮りたいのですが・・・・無理な話ですね。外国人観光客が多く目にとまりました。団体客もけっこう見かけました。「二条城の正門。築城時からこの場所にあるが、現在の建物は、寛永3年(1626)、天皇をお迎えした行幸に際して建てられ、寬文2年(1662)の改修で今の姿になったと考えられている。一階を門、二階を櫓とすることから櫓門(ヤグラモン)と呼ばれ、二階の櫓は『矢倉』とも書くように本来は武器庫であるが、正面の出格子窓には、門に近づいた敵を真上から攻撃するための『石落し』を備え、攻撃と防御の要となっている。金箔を貼った飾金物は、天皇を迎える正門であるための装飾と思われる。また、天皇をお迎えした時は二階の櫓が無かったことが絵図類で分かっており、天皇が門を通られることを考えて二階は不要と判断したのではないかと推測される。その後、寬文年間の改修で再び櫓が載せられたのは、築城時の姿が正門としてふさわしいとの考えと思われる。」(案内掲示板の説明転記)現在の門は、2017年3月に修理が完成した後の姿です。(資料1) 東大手門への外堀を渡る通路の途中から北方向を眺めた景色。 北側の石垣の隅。精緻な算木積みです。なぜか一番下の石の正面側が、上部と北隣りの石よりも少し凹んでいます。なぜでしょう・・・・・。 大手門の屋根の裏側は垂木や梁などの木造部分が漆喰で塗り固められています。帯状鉄板に鉄鋲が打ち込まれて門柱の表面が保護され、頑丈そのものです。上端と下端は装飾金具で覆ってあります。天皇行幸時に煌びやかさを備えることと併せて柱の上・下端の保護という目的もあるのかなという気がします。大きなお寺の門には普通に見られますので、観察して気づいたのは、石垣の傾斜に併せて斜めに柱が設けてあることです。端の防御も完璧という感じ。 北側の門柱と扉 南側の扉のほぼ全景 南側の柱下部 南側の扉を、城内から眺めた景色です。お寺でよく目にする四脚門・八脚門とは異なり、門柱は一番外側の柱に扉が取り付けてありますので、2階の櫓を支えるために、城内側に2本の柱が見えます。外から見ると、八脚門と同じような形にみえるのですが、内側から見ると、扉を支える門柱の内側には柱の列はありませんので、全体の柱は四脚門風になっています。ただ石垣に沿わせた柱があるので、本数は八脚門になっています。堅牢性と威圧感を抱かせる大手門です。それは考慮に織り込まれていることでしょう。 東大手門を入ると、右側に「番所」があります。「寛永3年(1626)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれているが、現在の建物は、寬文3年(1663)に建てられたことが分かっている。平時の二条城は、幕府から派遣された『二条在番』と呼ばれた武士たちが宿直・警護していた。1組50人の在番が2組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つとなっていた。城内にはこの他、唐門前、北大手門前、西門周囲等、計12棟の番所があったが、現在残っているにはここだけである。全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物である」(案内掲示板の説明転記)二条城は昭和15年(1940)から一般公開されました。この番所は、その受付場所であったり、管理施設や模写室等として改変されて使われたそうです。昭和40年代に現在の姿に復元され、江戸時代の姿に戻されたと言います。「平成29年度には本格的な保存修理工事を終え、令和元年度には、活用方法の見直しによる耐震補強工事及び小修繕を行いました」とのこと(案内掲示板の説明転記)。二条城では修理事業が継続的に行われ、維持管理が行われている様子の一端がうかがえます。 番所の屋根の降棟の鬼板には、徳川家の家紋が陽刻されています。鳥衾(トリフスマ)と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)には、よく見かける三頭巴の文が陽刻されています。 東大手門を入った左側にはこの石標があります。 城内から東大手門の2階の櫓を眺めた景色 東大手門の南側の櫓に繋がる建物と櫓への石段です。この建物の石垣は、「切込はぎ布積み」という石垣の積み方で、上の石が下の石に均等にかかる積み方だそうです。石段はかなり急角度です。 ズームアップしてみました。 東大手門から南に連なる土塀を城内から眺めた景色。外堀に沿って白亜の漆喰土塀がきれいに見える景色のところです。城内側は比較的なだらかな傾斜地になっています。 その南に、東南隅櫓があります。 東南隅櫓に向かう石段の手前で、ここも立入禁止になっています。白壁の土塀の内側がどのようになっているかが、わかりやすいと思います。石柱と木材を組み合わせて土塀を支える構造になっています。東南隅櫓から振り返り、北西方向に進みます。「唐門」が見えます。 「二の丸御殿」への出入口になっているのが「唐門」です。この平面図は入手した小冊子から引用しました。城内にも案内図掲示板がありますが、この図が一番わかりやすいと思いますので。続く参照資料*観覧日に入手の小冊子「世界遺産 元離宮二条城」 京都市*『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p295-302*『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 *『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 1) 「将軍と巡る二条城」 元離宮二条城事務所オリジナルしおり pdfファイル補遺世界遺産 元離宮二条城 ホームページ ガイドマップ寛永行幸絵巻 2巻 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」二条城 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 二条城細見 -2 唐門 <1> へ探訪 京都 二条城細見 -3 唐門 <2> へ探訪 京都 二条城細見 -4 二の丸御殿とその周辺 へ探訪 京都 二条城細見 -5 二の丸庭園 へ探訪 京都 二条城細見 -6 本丸御殿(工事中)・本丸庭園・天守閣跡ほか へ探訪 京都 二条城細見 -7 番外編:本丸御殿(修理工事中)へ探訪 京都 二条城細見 -8 土蔵・西南隅櫓・南中仕切門・桃山門・梅林・桜の園 へ探訪 京都 二条城細見 -9 土蔵・北中仕切門・加茂の七石・清流園 へ探訪 京都 二条城細見 -10 内堀・鳴子門・清流園・北大手門・土蔵・収蔵庫ほか へ探訪 京都 二条城細見 -11 外堀の周囲を巡る へ
2023.10.03
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=== 2023.9.29 === 南の空 9時15分頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に雲が浮かんでいますが、こちらの方角も青空が見えています。気持ちのいい朝のスタートです。 東方向の空 17時15分過ぎに撮りました。雲が去り、そらは夕暮れ間近の青空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空快晴の一日となりました。余談ですが、 9/29は仲秋の明月。夜にあるブログ記事を読んでいて、そのことに気づきました。そこで、ベランダに出て、21特44分にハンディなデジカメで、フラッシュ無し、手持ちでズームアップしてなんとか撮れました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)詩集「朴」に移ります。「道」と題する詩に、まず雲が詠み込まれています。 空也一遍の道 ちかくは 放哉山頭火の道 いつのころからか わたしもこの道を 歩いていた 生まれた処もまだ知らぬ だからどこで死ぬか それもわからぬ 雲のように水のように 行方を知らぬのが わたしの一生だろうこの詩集「朴」には、真民さんが己の生き方に触れる詩句が各所に出て来ます。「道」の最後の三行に重なると私が思う詩句をこの詩集のここまでの詩から拾ってみます。 しんみんよ/ 足の裏的な仕事をし/ 足の裏的な人間になれ (「1」の末尾三行) 詩「尊いのは足の裏である」 p123 一すじに/ 生きたる人の尊さ 一すじに/ 歩みたる人の美しさ われもまた/ 一すじに/ 生きん 一すじに/ 歩まん 詩「一すじに」全文 p128 詩集流布/ 詩国賦算/ 大願を完(マットウ)させ給え (末尾三行の詩句) 詩「しんみんの名に寄せるうた」 p130さらに、「念願」と題する詩が、冒頭の「道」ほかと響き合うのです。以下全文です。 一遍の生まれたところにきた 子規の生まれたところにきた わたしは新たに生まれなおそう この人たちの志を継ぐために 山頭火の死んだところにきた わたしもここで死ぬのだ 腰をおちつけて 我行精進(ガギョウショウジン)しよう 詩国賦算 詩集流布の 念願に燃えながら p132そして、詩「タンポポ魂」が重なって来ます。真民さんの魂として。これも以下全文。 踏みにじられても 食いちぎられても 死にもしない 枯れもしない その根強さ そしてつねに 太陽に向かって咲く その明るさ わたしはそれを わたしの魂とする p133「雲」が、真民さんの生き方、魂に響き合っていきます。一遍上人の念仏賦算の歩みが、真民さんの詩国譜算の歩みに呼応して行きます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.9.30 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空朝の天気は快晴でスタートしました。午後から京都市内に出かけましたので、ベランダからの雲の変化は不詳です。京都市内の空は、あちらこちらで曇り空を見上げていました。牛に引かれて・・・じゃなく、息子の車に乗せられて・・・・、遅ればせながら3箇所の墓巡り・・・・。夕刻まで自宅に戻れずでした。私自身は檀家寺の彼岸法要と墓参りは出かけてはいたのですが。これで、10月の暦には追いつきました。つづく補遺空也 :ウィキペディア一遍上人念仏賦算遺跡 :「フィールド・ミュージュアム京都」御賦算 :「時宗遊行寺」賦算 :「web版 新纂浄土宗大辞典」種田山頭火 :ウィキペディア種田 山頭火 作家別作品リスト:No.146 :「青空文庫」正岡子規について :「根岸 子規庵」詩集 詩国 第一集 :「大東出版社」タラス・シェフチェンコ :ウィキペディアタラス・シェフチェンコ像 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.02
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=== 2023.9.26 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。青空が少しだけ見えますが、曇り空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、雲が覆っています。べたっと布を広げたような雲ではないのがまだいいところです。経験からは雨が降る雲ではなさそう。 東方向の空16時25分過ぎに眺めると、稜線上空は雲が浮かんでいますが、青空が広がっています。 南の空青空になり、秋の雲が漂っています。うろこ雲とひつじ雲の間のような姿の雲です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気はくもり後晴れの一日でした。=== 2023.9.27 === 南の空9時10分頃に撮りました。青空が一部見えますが、銀鼠から素鼠色の大きな雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 方向により、雲の色合いがかなり違います。おもしろいものです。 東方向の空逆に、稜線上空はそれほど雲が強く張り出している感じではありません。薄いベールを背景に白鼠から銀鼠色の横雲が浮かんでいる感じを受けます。 東方向の空15時20分頃に眺めると、稜線上空の雲は増えていますが、青空が見える状況に変化。 南の空 午前中の大きな雲は過ぎ去り、青空の中に雲が漂う景色になっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分過ぎに撮りました。雲の形はまた変化し、あまり見かけない姿の雲が中央部に見えます。南西方向の空 西方向の空 遠くの西の空には夕焼け雲が見えました。 夾雑物を避けてズームアップで切り取っても電線だけはかかってしまいます。 頭上の空 東方向の空稜線に近い辺りの雲にも、少し夕陽が映えたのでしょう。少しピンク色がかかっています。くもり後晴れの一日。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻、詩集「梨花」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)「タラクサカムの花」と題する2ページ半に及ぶ長い詩に「雲」が詠み込まれています。前書があり、「たんぽぽのことを学名タラクサカムという。この六字の中にサカムラの四字が入っている不思議を思う」と真民さんは記します。真民さんが自分の住まいをタンポポ堂と称されたのは、ここに縁があるのでしょうか。この詩には、タラス・グリゴロヴィチ・シェフチェンコという名前が「それはわたしの愛する詩人」として出て来ます。 夜明けを仰望し 苦難と戦ってきた 彼の生涯とその作品とが今にいたるまで わたしの心をとらえて やまないからであろうか わたしは彼の詩を誦し いつも夜明けの雲に呼びかけてきた p104という一節に雲が出て来ます。タラス・グリゴロヴィチ・シェフチェンコという詩人を真民さんのこの詩で初めて知りました。ウクライナ生まれの詩人だとか。「日に何度わたしは/ ウクライナの地図を出して見ることだろう」という詩句が二度出て来ます。「憧れのウクライナへと」という詩句も。もし真民さんが現存し、現在のウクライナとロシアの戦いに触れたら、どのような思いを抱き、どのような詩が生まれることでしょう。その二つ先に「吐いた息が」と題する詩が載っています。詩を引用します。 p106 吐いた息が吸い込めないような 気が遠くなって倒れてしまうような 中央アジアの果てしない大地 なんという雲の壮大さだろう 時間も空間も絶した 非常の天上天下 玄と称し空と言う 東洋思惟(シイ)の根源が 生誕しているところ ああ 天の高さと 地の広さとが 今も太古そのままのところ真民さんは、中央アジアという空間を地図で幾度も眺め、写真や映像を見て、さらに大乗仏教の伝搬の径路やその思想を思惟して、雲の壮大さを思い描かれたのでしょうね。詩人の想像力が中央アジアに飛翔して行った先に、この詩が創りだされたのではないでしょうか。そんな気がします。「一遍智真」と題する詩には、後半に次の三行が読まれています。 p109 芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが 一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに 夜明けの雲のようにわたしを魅了する詩の前半には、「一処不住の/ 捨身一途の/ 彼の狂気が/ わたしをひきつける」と真民さんは詠み込んでいます。夜明けの雲の姿に一遍上人が投射されているのでしょう。この詩集には、もう一箇所雲が出て来ます。次の詩です。 無心無礙 雲の あのかたち 無心なるもののうつくしさよ 水の あのひびき 無礙(ムゲ)なるもののこころよさよ p109雲の変化に戻ります。=== 2023.9.28 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。雲が張り出していますが青空も少し見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 西方向と頭上は、青空の広がる比率が大きくなっています。 東方向の空南、西、頭上の空とは対照的に、稜線上空は普段よく見る鈍色の雲が覆う空模様。 東方向の空16時40分頃には、稜線上空のくもり空は同じですが、雲の形がはっきりとわかります。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南も、西方向も頭上も、くもり空に変わっていました。 南の空 17時35分過ぎに写真を撮り終えた頃から、雨が降り始めました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空素鼠色の雲が稜線際に接近して行く感じの空模様だと感じます。晴れのち曇り夕刻より雨という一日でした。つづく補遺空には秋の雲 :「ウェザーニュース」【秋の雲は何種類ある?】子どもに教えたい特徴や見分け方を解説!:「こそだてまっぷ」うろこ雲・さば雲・いわし雲・羊雲…「秋の雲」の見分け方 :「AllAbout 暮らし」坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民についてタンポポ魂 :「円覚寺」中央アジア、キルギスタンの山と雲のある風景 :「123RF」859 中央アジアの無料画像 :「pixabay」仏教のシルクロード伝搬 :ウィキペディア一遍上人のご生涯 :「時宗」(時宗宗務所) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.10.01
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=== 2023.9.23 === 南の空9時過ぎに撮りました。「秋分の日」ですが、暑さは未だ継続中。ちょっとましになったかなていど・・・・。空には雲が張り出していましたが、秋の雲になっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 東方向の空稜線上空だけが、白鼠色と銀鼠色お混在する厚めの雲で覆われています。その後、檀家寺での彼岸の法要とお墓参りに出かけました。 東方向の空17時25分頃に撮りました。稜線上空は厚ぃ雲が横雲が層をなす感じに変化しています。しかし、雲が全面的に覆っているのは変わりません。 南の空 厚みを増した雲に覆われる形に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空くもりの一日でした。=== 2023.9.24 === 南の空 9時50分頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空山の更に東には雲が漂っているようですが、稜線の上空には雲が見えません。空の色調が違うのは光線の関係でしょうか。ちょっとくすんだ青空です。 東方向の空 16時15分近くに眺めると、雲が出ていました。 青空の色は午前中の色よりも明るい青さが見られます。 南の空 雲が出ていました。青空の色は濃さを増しています。南西方向の空 雲の一部をズームアップしてみました。雲の雰囲気が変わります。 西方向の空 頭上の空晴れの一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻、詩集「梨花」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社) 雲と水 1 2 動いてやまぬ 雲が動くのは 雲と水 淋しいからなのでしょうか 流転生死(ルテンショウジ)の 嬉しいからのなおでしょうか この身ゆえ 切なき心 水が音たてるのは 寄するなり 悲しいからなのでしょうか 楽しいからなのでしょうか 故郷は遠し 父母はなし 彼等曰く 身は雲水の 人間なんて馬鹿なことを考えるものだね 旅なれば 花咲く野辺に 夢を追う 雲と水は自然の代表的な要素として取り上げられているのでしょう。そこに人は己の心、思いを投射するということでしょうか。遠く故郷を離れ、己の詩境を確立せんとその夢に向かって刻苦する真民さんの姿は雲水の修行と重なるのでしょう。その己を突き放してみれば、最後の一行になるのかも・・・・。そんな受け止め方をしました。詩「かなかな蝉」には、次の詩句が詠み込まれています。 きょうも紫の雲をいただいて 真夏の夜が明けようとしている その時お前たちは競って すばらしい生(セイ)の交響曲を聞かせてくれる詩「零」は、やはり全文をご紹介したいと思います。 死んだらこおろぎのように からからになり 冬のからっ風に吹きとばされて われとわが身を零(ゼロ)にしよう そうきめたら 胸のあたりがすうっとして 体も軽くなった 雲の姿までが きのうと変わって ほれぼれと眺められるようになった詩「ときめき」には、次の詩句が詠み込まれています。 星のまだ光っているうちに起き 雲の動きを仰ぐ雲の動きを「見る/眺める」ではなく「仰ぐ」と記されています。その時に、「久しぶりの/ このときめきよ」と、誘発された感動を詠まれた詩です。詩集「梨花」には、さらに3つの詩に「雲」が詠み込まれています。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.25 === 南の空9時45分過ぎに撮りました。空にはひつじ雲が浮かび、晴れた日が始まっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線を横長に撮ると、快晴に見えてしまうのですが、縦長に撮ると上空の高い所に雲が浮かんでいるのです。この雲はこちらに近い空に浮かぶ雲なのかもしれません。 東方向の空17時35分過ぎに撮りました。稜線の上には横雲が浮かんでいます。夕陽の影響でしょうか、わずかにピンク色を映じています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては、快晴の空です。 頭上の空も同様に雲はみられません。 南東方向の空には、月がくっきりと見えました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.30
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=== 2023.9.20 === 南の空9時25分頃に撮りました。空は曇り。銀鼠色の平べったい雲が覆った空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空空一面に、いずこも同じような空模様。経験からは雨が一番降りやすい状況です。やはり、断続的に小雨が降りました。 東方向の空17時15分頃に窓外を見ますと、雨が止んでいましたので、一通り撮ってみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空午前中と大差のない空模様で、くもり時々雨の一日が過ぎました。=== 2023.9.21 === 南の空10時45分過ぎに撮りました。何時頃から雨が降っていたのかはわかりません。その雨が止んだ後でした。服を濡らさないように、ベランダの物干し竿の雨滴を拭き取って体を外に出し気味にして、三方向を撮ることにしました。昨日の朝との違いは、くもり空に、一段と濃い素鼠色の雲も漂っていることです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空素鼠色の雲が混じってくると、やはり不穏な雰囲気が感じられる雲行きです。 東方向の空稜線上空は銀鼠色の濃淡の雲が覆っているだけです。 東方向の空16時半頃に撮りました。一時的に雨が降る時がありましたが、この頃には雨が止んでいました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空朝と似た感じの空模様です。素鼠色の雲が稜線上空にも見られる変化が加わったのが違いでしょうか。17時頃から、再び雨が降り始めました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)詩集「梨花」に移ります。この詩集は「序詩」と題する詩から始まります。 花咲けば/ 共に眺めん 実熟せば/ 共に食べん 悲喜分かち/ 共に生きんという短い詩。この後「雲」を詠み込んだ詩が様々に数多く出てくる詩集です。全詩あるいは詩句の引用でご紹介しましょう。自然の雲、暗喩の雲、自己投射の雲など、様々な使われ方で「雲」の一字が織り込まれています。雲は真民さんにとり、身近なものだったようです。 雲と石 動いてばかりいる雲が 動かない石に言った 石よ そんなに動かないでいると 馬鹿になってしまいはせぬか 思惟の作用が零(ゼロ)になって かちかちになってしまいはせぬか 動かない石が 動いてばかりいる雲に言った 雲よ そんなに動いてばかりいると 馬鹿になってしまいはせぬか 思惟の作用が零になって からっぽになってしまいはせぬか p88 仏陀の実践した中道、龍樹の説いた中論を暗示しているのでしょうか。 言葉の選択という点もふと思い浮かべました。『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)を参照します。 思惟 :<宗教・哲学などの根本的問題について>深く考えること。しゆい。 思考 :冷静に論理をたどって考えること(頭の働き)。 思索 :現象の持つ根本的意味や、現象と現象の関連などを、純粋に理論的に突きつ めて考えること。 思念 :心に思うこと。考えること。 思慮 :将来どうなるか、また、自分はどう行動したらいいか、についての判断(の力) 思量 :あれこれと、比べ合わせて考えること。(多く、法曹関係の用語) 熟思 :前後の事情や、いろいろな場合をよく考えること。 言葉って興味深い・・・・。 分身 雲は わたしの息吹(イブキ) 水は わたしの生御魂(イキミタマ) 石は 私の化身(ケシン) p89この詩を読むと、雲、水、石に己自身の一側面・一要素を表象されています。それはまた、己と自然との繋がりを踏まえているということなのかもしれません。 何を土産に 西行 芭蕉 杜甫 李白 何を土産に 訪ね行こ 雲も昔の雲ならず 水も昔の水ならず 詩集数巻編みしかど ただ悲しみの増すばかり p90この詩は、やはりその前に載る詩「分身」を重ねて読み込むことが必要なのでしょうね。最後の一行は、この時点での真民さんが目指す詩境と現状の自己とのギャップを自己評価された心情の吐露でしょうか・・・・・。己を厳しく見つめる真民さん・・・・。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.22 === 南の空9時5分過ぎに撮りました。連続で曇り一時雨という天気が続いています。この日も曇り空からの始まりです。濃いめの雲が続きます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空もまた、素鼠色がまさった雲が覆い被さっています。 東方向の空16時20分過ぎに眺めると、濃い雲は消え去り、銀鼠色の比較的穏やかそうな横雲の広がりに変化していました。上空側が濃い色合いです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分過ぎにも撮ってみました。曇り空のままで過ぎる一日になりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際が明るくて、上空に移る程に灰色の色調が濃くなるグラデーションがなかなかいい曇り空です。つづく補遺中道 :「コトバンク」龍樹 :「コトバンク」龍樹 :ウィキペディア龍樹 :「真宗の本棚」龍樹と空(中観) :「広済寺」中論 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.29
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=== 2023.9.17 === 南の空16時35分近くに撮りました。うろこ雲が並存する形で白雲が広がっています。朝から晴れていました。この日も一日自宅にいたのに、この時しか雲を撮っていません。何をしていたのか? 一冊、本を読了しようとしてはいたのですが・・・・。南西方向の空 西方向の空 晴れた空に、こういう雲の姿を見るのは時々でしかありません。 頭上の空 東方向の空稜線の向こうに白雲が漂い、稜線手前に銀鼠色の雲が浮かんでいるというように見えます。それらの雲の上空には青空が広がっていました。=== 2023.9.18 === 南の空9時50分頃に撮りました。昨日から一転し、朝から灰色の雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲が広がっているのですが、ところどころで青空が垣間見えます。天気としてはくもり。 東方向の空稜線上空も同様に青空を一部のぞかせつつ白雲が広がっています。 東方向の空15時35分過ぎに眺めると、雲の塊の状態が大きく変わり、灰色のトーンが濃さを増しています。 南の空雲の姿が変化し、青空を見せる割合が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時過ぎに撮りました。雲は銀鼠色に濃くなっていますが少なくなり、夕暮れの青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向んかけては、厚くはありませんが広がった銀鼠色の雲に覆われていました。 遠い西の空には夕焼け雲が見えます。ズームアップし、夕焼け雲を切り出してみました。遠くの西方向の空は建物越しに眺める景色になりますので、残念ながらぐ~んとズームアップしてしか撮れません。どうしても電線を避けるわけにはいきません。 地平線、水平線を眺められる形で夕焼け雲を撮ってみたい! 頭上の空 東方向の空 稜線上空はまた変化した雲の姿で覆われていました。くもり、一時晴れ、という天気の一日。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)詩集「春の泉」が続きます。この詩集は「念ずる心」と題する詩から始まります。18番目に「遠い夏」と題する詩があります。この詩には、「つねに真実を言う唯一の人間である詩人たち ロマン・ロラン」という前書が付いていて詩句がはじまるのです。この詩の半ばに、「雲」の文字が見えます。 黙って待っても 神はやって来ない 幾日か腐るような雨が降る -嫌なキノコ雲の写真がまた載っているという詩句の中に。次の詩は、「盲目になった海神」という題。こんな詩です。 かつての権威も神通力も堕天馬の如く 無力となってしまった海神よ 狂った雲がクリスマス島から三千上空に飛ぶ 少女は一片の雪にも脱毛の恐怖を感じ 少年は一滴の水にも ストロンチウムの害を論じ 自然は人間の敵と一変した 怒りの海に映る黒い島のかげよ かもめはかつての夢を忘却し 貝たちは一瞬にして 自らの舌をかみきって死んだ 人間の頭蓋骨に似たキノコ雲を切り取って わたしは呪文の言葉を書きしるした 盲目(メシイ)になった海神(カイジン)のために「キノコ雲」をシンボルとして、人間の独善と暴力への真民さんの激しい怒りと恐れが伝わって来ます。原爆の悲劇を見聞し現地を訪れ、また水爆実験の被害者の悲劇に接した真民さんが、そのプロテストの思いを詩に託されたのでしょう。詩集「春の泉」に出てくる「雲」はこの二詩に詠まれたキノコ雲関連だけです。余談ですが、この詩集に載る短い詩を2つご紹介します。私が惹かれる詩のひとつに加えました。 一字一輪 字は一字でいい 一字にこもる力を知れ 花は一輪でいい 一輪にこもる命を知れ 木の葉 木の葉を 日の光に 透かしてごらんなさい 一枚一枚に 大宇宙の詩が 書きしるしてあります それをどうか読み取って下さい雲の変化に戻ります。=== 2023.9.19 === 南の空9時25分頃にとりました。雲が出ていますが、晴れた天気です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上は、夏の名残を感じさせる雲が立ち上がっています。薄めの銀鼠色とい色合いの雲です。その背景の空も同色です。西は晴れでも東はくもり、よくある構図です。 東方向の空16時50分過ぎに眺めると、稜線上空は青みを帯びた薄めの灰色一色の空です。 南の空 青空のともに部分的にソフトな雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 青空の色調の変化と合わせて、薄いベール様の雲が広がっている感じの部分が見られる雰囲気です。 頭上の空 頭上にはっきりとした雲が見えました。たぶん天気は晴れでしたといえる一日でしょう。つづく補遺海神 :ウィキペディアストロンチウム 用語解説 :「排出放射性物質影響調査」海水:ベータ線核種(ストロンチウム90)の分析 :「日本分析センター」ストロンチウム :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.28
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=== 2023.9.14 === 南の空9時15分近くに撮りました。ソフトな感じの雲が浮かぶ晴れた空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に横雲とソフトな雲がともに浮かび、青空が見えて、こちらも良い景色です。 東方向の空16時35分過ぎに眺めると、稜線上空には雲が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上と南から西方向の空にも雲が広がり、晴れのちくもりという状況に。 南の空18時5分過ぎに撮りました。雲の形は変化していますが、くもりの状態はそのままです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上には白雲が浮かび、その上空にはくっきりと層が別れたように青みがかった銀鼠色の雲が一面に広がっています。晴れのちくもりの一日でした。=== 2023.9.15 === 南の空9時35分頃に撮りました。夏雲を未だ感じさせる雲が浮かんでいます。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向から頭上にかけては、秋の雲なのかもしれません。 東方向の空稜線上空には、様々な雲の姿が並存して漂っています。 東方向の空16時20分近くに眺めますと、稜線上の雲は姿を変えて、モノトーンな雲の広がりへと変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては、白鼠・銀鼠・素鼠の色の雲が混在して空を覆っています。 頭上の空頭上には東方向の雲につながっていく感じの雲が広がっています。この日も晴れのちくもり。この後は撮りませんでした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている最初の詩集は「朝の眼の中に」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)最初の詩は「この二つのものの中に」です。三節からなる詩。第二節に雲が詠み込まれていますが、全体を読まないと意図が伝わらないと思いますので、引用します。 朝の眼(メ)の中に エベレストの 乳色(チチイロ)の川が 浮かび 夕(ユウベ)の眼の中に クリスマス島の 狂った雲が 浮かぶ ああ一致(ユニテ)こそ わが願いなれど この二つのものの中に 流されてゆく日々(ヒビ)太古からのエベレストの川の流れ。真民さんは釈尊が活動されていた頃の馴染まれた川をイメージされているのでしょうか。クリスマス島について調べてみますと、中央太平洋に所在する島です。現在は、キリバス共和国に属する島。1957年から58年にかけて英国がクリスマス島・モルデン島で9回の核実験を行ったと言います。(資料1,2)「狂った雲」とは、核実験により発生した人工的なキノコ雲をさすのでしょう。原爆投下のあの雲の映像のように・・・・。まさに「狂った雲」です。自然が生み出した恵みの川と人間が生み出した狂気の自然・人間破壊の産物。ユニテとは真逆の対極。重い、重い、重い・・・・詩です。この詩集の先に、「夏を更に」と題する詩が収録されています。4行詩ですが、上記のクリスマス島に呼応する詩です。詩の題に続く前書がそれを裏付けます。 1957年5月16日クリスマス島にて水爆実験 1957年5月28日ネバダ州にて原爆実験 雲は憤怒(フンヌ)に似 風は怒号(ドゴウ)に似 夏を更に 焼くこの詩集では、もう1箇所で雲と出会います。「一草庵追懐」と題する詩です。10節から構成される詩。山頭火を追懐する詩の一節で出会いました。種田山頭火(1882~1940)は漂泊の俳人として知られる人です。 6 わたしはこの冷たい水で 手を洗い眼を冷やした 椰(ナギ)の古木の上を 白い雲が流れていた一草庵は松山市御幸1丁目135-1に所在します。その建物の側に「山頭火翁終焉之地」と刻まれた石碑が建てられています。この碑のことは、最後の10節に詠み込まれています。 「山頭火翁終焉之地」の文字は すぐとわかる澄太先生の字だ 紫蘭(シラン)の花などがあたりに咲いていた3節と9節に「鉄鉢の中へも霰」の句碑が詠まれています。この句碑もまた、一草庵の側に建立されています。これは山頭火が昭和7年1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢に出た時の句だそうです。 (資料3)さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.9.16 === 南の空9時過ぎに撮りました。ソフトな雲が浮かぶ晴れた空です。良い感じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際に白雲が浮かんでいますが、夏雲の力強さは消え、ほんわりとした感じの雲です。その上は青空をはさみ、白雲が浮かんでいます。 東方向の空10時55分過ぎに稜線上空を眺めると、雲はほとんど去り、青空に孤雲浮かぶという趣きに近づいています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向はほぼ快晴状態。雲はほぼ見えません。 南の空18時頃に撮りました。空は白鼠色に近い感じに塗られたよう・・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全体が一色で覆われているような感じ。これは雲ではなくて、太陽の光の変化により、青空が全体が褪色したモノトーンに見える感じに変化したということでしょうか。こういう夕空をみたことがほとんどなかったと思います。つづく参照資料1) イギリスの核実験 被害はまだ闇の中フイジー核実験被ばく兵士の健康調査を行って 斎藤友治(静岡・浜松佐藤町診療所):「全日本民医連」2) 核廃絶へ「共に行動を」 :「REUTERS」3) 種田山頭火(1882~1940) :「愛媛県生涯学習センター」補遺キノコ雲 :ウィキペディア被爆者との連帯【クリスマス島】 :「原水爆禁止日本協議会」種田山頭火 :ウィキペディア種田山頭火 作家別作品リスト:No.146 :「青空文庫」 旅日記 種田山頭火 :「青空文庫」 草木塔 種田山頭火 :「青空文庫」 行乞記(一) 種子田山頭火 :「青空文庫」 行乞記(二) 種子田山頭火 :「青空文庫」種子田山頭火の旅 トップページ 種子田山頭火の句碑 種子田山頭火の俳句100選 :「ジャパノート」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.25
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=== 2023.9.11 === 南の空7時55分近くに撮りました。空は晴れ、淡い雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向にかけては快晴状態です。 東方向の空一方、稜線上空は青空を感じさせながら横雲が層状に広がっています。ところが、11時過ぎには小雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ11時10分近くに撮りました。 南の空 17時10分近くに撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空雨は止んでいましたが、どの方向もどんよりと曇り空が続いていました。=== 2023.9.12 === 南の空10時15分過ぎに撮りました。天気は回復し、雲が張り出していますが、晴れです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけが銀鼠色の雲に覆われています。南~西方向とは対照的な空。午後、天気は下り坂で一時雨が降りました。 東方向の空雨があがり、18時10分頃に眺めますと、銀鼠の雲の隙間に青空が見えます。 ほんの一部ですが、夕陽を受けてピンク色に染まっている雲があります。 南の空南西方向の空 夕焼け雲をアップに 西方向の空 夕焼け雲をアップに 頭上の空 久々に夕焼け雲を眺めました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された次の詩集「赤い種」からです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)詩集「赤い種」の最初には、真民さんのこの全詩集を購入した一因になる詩が冒頭に2つ載っています。雲がたりの観点では、余談から始めることになりますが、引用してご紹介したい所存です。 p249 ねがい ひとから 虐げられながら 独り死んでいったひと そのひとの耳に そっと読んであげる そういうわたしの詩でありたい 念ずれば花ひらく 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことば わたしもいつのころからが となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていったこの2つめの詩が印象的だったのがまずトリガーになりました。この詩はたぶん良く知られた真民さんの詩のひとつです。「念ずれば花ひらく」を詩碑として建立されているところが各地にあります。この詩集の「杉村春苔尼先生に捧げる詩」という題の詩の2箇所に雲が詠み込まれています。冒頭の6行目です。冒頭箇所を記します。 杉村春苔尼先生 こころ屈してどうにもならない時は 苔むす五輪の塔の立ちならぶ 寂かなこの菩提所に来て 鳥の声に耳を傾けたり 流れ行く雲に思いを放ったり 古い木々のささやきに心を遊ばせたりして いくときかを過ごします p266後半の2回目の先生への呼びかけのなかで、 山の中は冷えて さすがは冬のさなかだと思わせますが それでも時々雲が切れて 日の光があたりを急に明るくしますと すべてのものにはやすらぎのいぶきを 感ずる気がいたします と。 p267「帰郷詩」と題する詩の「1 動物園にて」には、 花も美しいし 雲も お月さまも お星さまも みんな美しいね と。 p276この「1 動物園にて」には「子供たちに初めて動物園を見せた。これが帰郷の大きな一つの目的であった」と付記されています。子供たちに動物たちについて教え語りかける詩です。その中の一節なのです。この一節の前に、真民さんは子供たちにこう語っています。「もう少し大きくなったら/ どうしてみんなこんなに美しいだろうかと/ そんなことを考えてみることだね/ 大事なことね」と・・・・。この詩集ではもう1箇所、「さすらえば」と題する6行詩に「雲」が詠み込まれています。 さすらえば 鳥なくもかなし 雲行くもかなし 慰め合い助け合い 一つの船に乗りてゆかん 風よこころして吹け 全詩集第1巻は詩集「静かな愛」が最後の収録詩集です。この詩集は、真民さんが半盲に近い身となったり、全身に激痛を覚え、昼夜間断なく苦しみ、襲いくる死の恐怖を体験された時期に詠まれた詩集です。そこに、「雲」と題する3行詩が一つありました。 p301 称名のこえ おのずからなる日の ゆく雲の美しさ ゆく雲を美しく感じる中に、称名のこころが重ねられているように感じます。余談ですが、この詩集のタイトルになっている詩が、詩集の後半にありました。 p319 静かな愛 もしもこれが 奇跡と言えるなら 奇跡と言おう 悶絶するような 苦しみの果てに わたしを甦らせた あの光を あの静かな 愛の光を次回から全詩集の第二巻に移ります。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.13 === 南の空 9時5分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 空は快晴状態で、気持ちが良い朝です。 東方向の空稜線際に小型の白雲が浮かぶ他は、上空に青空が広がっています。比較的稀な空模様。 東方向の空15時10分頃に眺めると、大きくなった白雲が浮かんでいて、空の青さがはっきりしていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 白雲が浮かぶ中に銀鼠色を帯びた大きめの雲が見えますが、晴れ模様は変わらずです。 頭上の空 南の空 18時15分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空やはり稜線上空の空だけが、他とは違う空模様を示しています。青みがかった銀鼠色の布を広げた感じの空です。でも、晴れた一日でした。つづく補遺坂村真民詩碑 一遍上人堂通信 :「一遍と今を歩く」「念ずれば花ひらく」の碑 :「江差しの石碑めぐり」坂村真民ゆかりの地 旅のあれこれ~文学 :「私の旅日記~お気に入り写真館~」吉田高校の真民詩碑の除幕式 :「坂村真民記念館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.22
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=== 2023.9.8 === 南の空7時40分近くに撮りました。ベランダの欄に雨の跡が残り、雨は止んでいました。南西方向の空 西方向の空 西の空に少し青空が見える雲の隙間が見えます。 頭上の空その他は、銀鼠色の雲に覆われています。 東方向の空 稜線上空も同様です。 東方向の空10時50分近くに眺めて見ました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空いずれの方向も空模様は似たような感じです。この日、台風13号が東日本に上陸という台風報道が朝から繰り返し行われていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時45分頃に撮りました。この日、ほんの一時的な雨はありましたが、天気はほぼくもり。関西では台風13号の影響はほとんどなしですみました。=== 2023.9.9 === 南の空11時50分近くに撮りました。小型の雲が浮かんでいます。天気は晴れ。かつての陰暦長月(九月)九日は重陽の節句の行事がおこなわれた日です。『源氏物語』の場面が思い起こされます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空には、大きな横雲が漂っていました。青空の広がりが見えて、気持ちがいい。 東方向の空17時35分頃に眺めると、雲の姿は穏やかさを感じるくらいの横雲に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、午前中よりももっと軽やかな感じの雲が浮かんでいます。余談です。後で調べてみたことですが、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)では、午前10時に「重陽神事」が行われ、引き続き「烏相撲」が奉納されるという行事が行われました。(資料1)また、京都・嵐山にある虚空藏法輪寺では13時から重陽の節会が行われました。(資料2)さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された次の詩集「アジアの路地」からです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集も「序詩」から始まりますが、「雲」が詠み込まれた最初の詩は、「印度映画『河』」です。この詩の冒頭の導入部に 朝の河 夜の河 大きな船 小さな舟 夢のような町 七いろの雲 きらめく尖塔 という情景の一環として詠まれています。 p218次は「幻影」という詩に出てきます。「どうしたというのだろう/ 遠い庫車(クチャ)の地で発見されたという/ 木造仏のやさしいお姿が浮かんできた」(21~23行)という詩句の少し後に つつましやかな 結跏のおすがたが 白い雲をとおして 光る星々に似ているからであったろうか 消えていった星が ぽっかりとかがやいたように 私に浮かんできたひとつの幻影 と詩が展開されていきます。 p2303番目に出てくるのは、「死の灰は遂に」という詩です。この詩には「水爆による最初の犠牲者久保山愛吉さんを弔う」という前書が付されています。真民さんは末尾に「-九月二十四日暁-」と作詞日を明記しています。「満天の星が光っている/ でも今暁のわたしは/ いつものわたしとちがっている」と己の心境を客観視する詩句から始まります。そして、少し先で、 いなびかりのようなものが間をおいて閃く いくらか雲が流れ出してきたらしい 星が急に光ったり薄らいだりする それと同時にわたしの心も明滅する と記します。その後に、 重態を伝えられた久保山さんが 昨夜午後六時五十六分に亡くなられたからだ 水爆最初の犠牲者久保山さん 死の灰は遂に一人の人間の尊い生命を 奪っていったのだ とつづきます。この後、真民さんの原爆・水爆に対する考えが詠み込まれていきます。「恐るべき放射能症」という語句。その後に「平和への願いを世界人類が結集する以外/ この病気の完全治療法はないのだ」と断定的に訴えます。さらに、「日本よ/ 日本人よ」と投げかけて、当時の時勢に対する警鐘が詠み込まれていきます。「広島の原爆/ 長崎の原爆/ 今またビキニの水爆による/ 死の灰/ 死の雨/ 死の魚」と問題事象を列挙して。 これでもまだ目はひらかないのか 耳はふさがっているのか 目しいにされ耳しいにされ あやつり人形のようにあやつられ どこに行こうとしているのか と。詩集「アジアの路地」には、3箇所に「雲」が詠み込まれています。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.10 === 南の空10時15分近くに撮りました。昨日に続き晴れた空を眺めることで一日がスタート。南の遠くの空はかなり白雲が広がっている感じですが、建物に遮られて全容は見えません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空気持ちの良い青空が広がり、白雲がちょっとしたアクセントになっています。 東方向の空稜線上の雲の姿も普段あまり見かけない形の白雲が青空の中に広がっています。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、雲の姿は様変わりしています。秋の雲になってきたのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、夏雲と秋雲の並存という印象を受けます。 南の空18時過ぎに撮りました。空は様変わり。一転し曇り空に・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空晴れのちくもりの一日となりました。つづく参照資料1) 恒例祭典 :「賀茂別雷神社」(上賀茂神社)2) 虚空蔵法輪寺 重陽の節会 :「ざ京都」(京都観光、案内のポータルサイト)補遺ビキニ環礁 :ウィキペディア核開発競争とビキニ水爆実験 ― 「第五福竜丸」と延べ992隻の被災船:「戦争と静岡」都立第五福竜丸展示館 ホームページ 第五福竜丸とは ビキニ環礁での水爆実験【ビキニ事件】 :「三浦市」核の傷痕、戻れぬビキニ 水爆実験から60年 YouTube賀茂別雷神社(上賀茂神社) 公式ホームページ虚空藏法輪寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回シリーズでご紹介
2023.09.20
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=== 2023.9.5 === 南の空7時40分近くに撮りました。雲が張り出していますが晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間際に素鼠色、その上に銀鼠色、その上には丼鼠色に近い暗い灰色の雲が広がっています。とはいえ、少し青空がのぞいています。東方向だけはやはり少し違う空模様。 東方向の空9時45分頃に眺めると、雲の姿は大きく変化。未だ夏雲の雰囲気は残っています。青空の占める割合が広がっていました。素鼠色の雲は白雲とのコントラストが明瞭で白雲が引き立つ感じがします。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空プカプカと小さな雲が散在して浮かぶくらいだと青空が引き立ちます。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空16時5分過ぎに撮りました。雲が少なくなり、青空が美しい。 東方向の空18時35分過ぎに眺めると、稜線上の雲の姿は大きな塊に変化し、さらにその上にも布状の雲の広がりが見える形に変化していました。雲の変化がめまぐるしい・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては雲が消えていました。晴れた一日。=== 2023.9.5 === 南の空この日は朝から曇り。午前中は定期健診の通院で朝から出かけて居ましたので、帰宅後、16時50分過ぎに初めて撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 くもり空が続いたままです。 東方向の空18時25分頃に眺めてみると、雲の姿に変化はあるものの一面雲で覆われています。 南の空南西方向の空 西方向の空 遠くの西空は夕焼け雲がきれいです。 遠くの空は低い位置なり、建物や電線が錯綜した彼方に眺められるだけ。 なんとか夕焼け空を切り出してみました。 頭上の空 南東方向の空の雲が少し夕焼けに映えていましたので、これも雲を切り出してみました。雨が降ることなく、曇り空で終えた一日です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「観音草」の続きです。第一部にもう一つ、雲が詠み込まれた詩が出てきます。この後の第二部、第三部に雲は出て来ません。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) 白いものはみんな骨に見える 白いものはみんな骨に見える 舗道に散らばっている紙ぎれが 潮の引いている川原の石が 七輪をあおいでいる老婆の髪が 揺れているコスモスが 挿してある菊が 流れている雲が 食堂の匙が魚が 露店で売っているボタンが 広島では白いものがみな骨に見え わたしに訴える かつての 嘆きを 怒りを 涙を詩集「観音草」の「第一部 原爆詩」を読み進めて行くと、真民さんが「原爆地」を訪れられたのは、7年目だとわかります。いくつかの詩の中に次の詩句が読み込まれているからです。< >は詩の題です。<序詩 四>は、「ヘルデルリーンよ」という呼び掛けで始まります。この名をこの詩で知りました。この詩に 原爆投下敗戦後のこの7年目に と。<日まわり>という詩は、「爆心地本川小学校にて」と前書が付されていて、一行目に もう十月も半ばというのに 枯れそうもなく 咲き続けている 日まわりよ とあることから、10月半ばに爆心地に立たれたのです。この冒頭の詩句の先に、激しい詩句が刻まれています。 それにしても揃いも揃って あの壊れた骨と灰ばかりの ドームに向かって お前たちは突っ立っているではないか お前たちの周囲にうごめく人間の群れは もうあんなものには 見むきもしなくなってしまった今日 お前たちだけが 正しいものの存在を 黙って示してくれているのか 詩はこの後もつづきます。<平和記念塔にて>という詩は、その冒頭が 未完成のままに放置されている 平和記念館が 再び急角度で変わりつつある 日本の昨今を 何か象徴するかのように建っていた から始まり3ページに及びます。この詩の最終部分に、平和記念塔に刻まれた言葉「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」を詩中に長方形の枠囲みで挿入し、次の行から次の詩句が続きます。 と彫ってある文字に見入った そして七年後にやっと建てられた この嘆きの塔の前に立って 靜かに手を合わせた と。そして、次の詩句が続くのです。 でもその時 ああその時 叫びにも似た激しい声が 突然わたしの体をゆすぶった 安らかに眠っていることはできません 過ちが再び 繰り返されそうになってゆきますから それは一瞬にして消えた 幾万の人の うめきにも似た 重い声であった この詩は、もう一節10行の詩句がつづきます。真民さんを揺さぶった激しい声、「安らかに眠っていることはできません/ 過ちが再び/ 繰り返されそうになってゆきますから」という箇所は、現在時点からの未来を暗示しているようにも感じられます。「白いものはみんな骨に見える」という詩は、7年目という時点で詠まれた詩なのです。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.6 === 南の空7時45分過ぎに撮りました。窓外を見て、うろこ雲が目にとまったので・・・・。たまに見ることができる雲の姿。勿論、朝から晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際から薄めの層を重ねるように横雲が漂い、上空には青空も見えます。晴れた一日の始まり! 南の空ところが、普段のように、9時5分過ぎに眺めると、なんと曇り空に一変していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見渡せる範囲はすべて曇り空です。白鼠から素鼠へのグラデーションの広がりです。 東方向の空15時5分頃にもう一度撮りました。雲の姿はとどまることなく変化していますが、曇り空であることは変わりなし。 南の空南西方向の空 西方向の空 表ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧 頭上の空晴れのちくもりの一日に。この後は、もう空を眺めるのを止めました。つづく補遺「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」? 観天望気にみる先人の知恵燃えるような朝焼けは天気下り坂のサイン昼頃には九州から雨降り出す燃えるような朝焼け原爆死没者慰霊碑フリードリヒ・ヘルダーリン :ウィキペディベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表ア資料館に関する年表 :「広島平和記念資料館」20 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) :「広島平和記念資料館」原爆死没者慰霊碑 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 表ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧
2023.09.19
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=== 2023.9.1 === 南の空17時15分頃に撮りました。この日は朝から晴れ。朝一の雲を撮ることなく、この日は奈良国立博物館に出かけていました。特別展「聖地 南山城」を鑑賞するためでした。これについては、昨日までに7回のシリーズでご紹介しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空だけは、稜線上空に白雲が発達していますが青空も見えます。9月入りですが、熱中症警告アラートはこの日もたしか出ていたと思います。=== 2023.9.2 === 南の空9時25分頃に撮りました。雲が張り出していて、天気はくもりと呼ぶ部類なのでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際の雲とさらに上空側の雲、こんな雲の姿の対比はあまり見かけないと思います。 東方向の空13時50分頃に眺めると、よく見かける曇り空模様に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分頃に撮りました。午後は曇り空が続きました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空=== 2023.9.3 === 南の空10時25分頃に撮りました。この日は朝から晴れです。白雲に柔らかさを感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間際の横雲、青空の帯、上空に広がる横雲という層構造の空です。青空が見えるのがいい。 東方向の空17時5分近くに眺めました。雲が切れ青空一色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇り空から快晴へと天気が良くなる一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「観音草」からです。「雲」を詠み込んだ詩句を見出すことに移ります。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集は、「第一部 原爆詩」「第二部 哀別詩」「第三部 仏縁詩」という三部構成になっている詩集です。第一部 原爆詩」は3ページに渡る「序詩」から始まり、「原爆地広島にて」「原爆地に立ちて」「声」「亡霊」「日まわり」「老母よ」「平和記念塔にて」「一つの声」「誓い」「白いものはみんな骨に見える」「重い声」「おとなのすることは」「歯車は再び逆転し始めている」「シュプレヒコール『こえ』」の15編の詩から構成されています。広島の原爆地に立った真民さんが詩人の目でとらえたこの被災事実に対する観察と思い、死者への鎮魂、そして反原爆への意思を、これらの詩に詠み込まれています。「誓い」という詩は、4節から構成される詩。該当節を引用するだけではこの詩の意図は伝えづらいと思いますので、詩自体を引用します。 仏陀よ ヒロシマの地を 永遠に守ってくださるために はるばると 海山を越えてこられた 仏舎利よ 秋の晴れた日 白い雲が流れ 五色の旗がたなびき あなたを迎える日の 晴れやかな祝祭を 日本のすみずみにまで 満ちわたらせて下さい 凶暴な世に 残虐な時代に あなたの説かれた 争わず 殺さず ただひたすら大悲の衣で 包もうとされた 広大な教えを 世界のすみずみにまで よみがえらせてください 仏陀よ あなたを信ずる国民に あなたを奉ずる国家に 二度とこんな無謀を 繰り返さないよう しっかり誓わせて下さい原爆地に立ち、その状況を観察し、「この悲惨窮まる/原爆への憤りを」全身で感じ、地の声、天の声、人の声を感受した真民さん。序詩から始まる詩は、直接的な詩句が様々な視点から一つの詩に結実され、次々に詩が詠まれています。「みるべきものはみ/いうべきことはいい せかいのすみずみに/よびかけねばならない ぜんじんるいに/うったえねばならない」との思いで・・・・・。その先に、「一つの声」で「釈尊よ」で始まる詩が生まれ、その次に上記「誓い」の詩が載っているのです。 雲の変化に戻ります。=== 2023.9.4 === 南の空9時45分頃に撮りました。晴れた一日の始まりです。南西方向の空 西方向の空 うろこ雲が見られます。 頭上の空 東方向の空雲が覆っていますが、見慣れたベタな灰色雲と比べるとまだいいなという感じ。 東方向の空17時5分頃に眺めますと、ベタっとした雲の様子に変わって来ていました。あまり好きな雲の姿じゃない・・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空はもう載せるまでもありません。ほぼ同じ。晴れからくもりへと変化した一日でした。つづく補遺【歳時記】9月(長月)ってどんな月? :「おいしい暮らし研究所」九月(長月・ながつき) :「日本の行事・暦」イベント・歳時 9月 :「そうだ 京都、行こう」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.17
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なら仏像館の中央部は広いホール(展示室)です。今は、ここにでんと金峯山寺仁王門の金剛力士像が設置されています。 傍にこの説明板が設置されています。一部拡大します。修験道の総本山である金峯山寺では、2018年度より仁王門(国宝)の大規模修理が開始されました。それと併せて、2019年度から2年をかけて金剛力士像の保存修理が、この奈良国立博物館の中にある修理所で実施されました。修理完了を記念して、このなら仏像館での特別公開が行われることになりました。このなら仏像館に収容できる最大規模の仏像だそうです。この特別公開にあたり、まる2か月間、ここを臨時休館して設置作業が行われたとのこと。令和10年(2028)の仁王門修理完了の予定までは、この金剛力士像そのものをごくごく間近で拝見できます。またとない機会だと思います。(資料1)2021年2月に特別公開が始まりました。2021年6月に拝見して、拙ブログでご紹介。その後も幾度か奈良博に来る度に拝見しています。重複しますが、やはり今は、金剛力士像をスルーして終わる訳にはまいりません。 阿形像 吽行像阿形は像高 505.8cm 、吽形像は 506.2cm。東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ大きさ!像内の銘文により、南北朝時代・延元3~4年(1338~1339)、大仏師康成作とわかります。東大寺の運慶・快慶による金剛力士像は、建仁3年(1203)の造立です。135年余の時の隔たりがあります。大仏師康成は、慶派仏師の流れを汲む父康俊(コウシュン)から「南都大仏師」の称号を継承しました。南北朝時代の代表的な南都仏師だそうです。(資料2) 阿形像 金剛力士像は、免震装置付の展示台に安置されています。 吽形像 金剛力士像の反対側に展示されている仏像で撮影OKだった四天王像の一躯。 この如来立像も。左右にある展示室を巡ります。ここで撮影できたのが 残り半周の回廊に進みます。 これで館内を一巡してきました。何回見ても、金剛力士像は迫力があります。夾雑物なしにすぐ間近で、見上げることのできるのはすばらしい。 奈良公園の鹿を眺めて、帰路につきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 吉野の山の上からやってきた巨大な金剛力士像 :「buncul 文化庁広報誌 ぶんかる」2) 十一面観音立像 文化財 :「奈良市」補遺修験根本道場 国軸山 金峯山寺 ホームページ 国宝仁王門 大修理 ご支援のお願い金剛力士像 :ウィキペディア東大寺南大門 金剛力士像 :「NHK for School」「金剛力士像」の意味や役割とは?特徴や魅力、有名な寺院もチェック!【親子で日本文化を学ぶ】 :「HugKum はぐくむ 小学館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館・なら仏像館 特別公開 金峰山寺 金剛力士立像
2023.09.16
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奈良公園入口の案内板に貼ってある「なら仏像館」のポスターです。奈良・金峯山寺の仁王門の修復工事をする期間、金剛力士像がここに展示されています。併せて、名品展「珠玉の仏たち」も開催されています。また常設展示として、中国古代青銅器<坂本コレクション>も展示されています。西新館から地下回廊を経由して、なら仏像館に行きました。ここの地下回廊は、観覧者でなくても自由に入ることができる無料ゾーンです。 今回はこんなリーフレットを入手しました。如来・菩薩・明王・天それぞれの仏像の特徴をたぶん小・中・高校生用にわかりやすく説明したものと思われます。勿論大人にも「仏像をもっと楽しむ鑑賞ガイド」の初歩編として役立ちます。奈良仏像館は入口を入ると、順路が設けてあります。観覧者用入口を入ると、右折して右側半分の回廊に沿って展示された仏像を鑑賞しながら半周して、中央部の広いホールに入ります。金剛力士像が置かれているのはこの大きな空間です。その左右に展示室があります。ここを鑑賞してから、回廊の残り半周を巡って、元の入口前に戻るという順路になります。飛鳥時代から鎌倉時代にいたる日本の仏像を中心に、国宝・重要文化財を含めて常時100体近くの仏像が展示されています。ほぼ常設展示の仏像とともに展示入れ替えが行われているようです。新館での特別展を鑑賞に訪れる度に、立ち寄っています。今回、なら仏像館を訪れて、うれしかったことがありました。 名品展の展示の中に、展示品の撮影OKという箇所が設定されていたのです。仏像好きには朗報です。このようにカメラのイラストとOK文字で標示されています。こういう試みは大賛成です。おかげでこのようにご紹介ができます。撮影できたものを列挙する形でご紹介します。 残欠の展示から 飛天像このあたりで、なら仏像館の鑑賞順路に沿って回廊の半分を巡ったところです。この後、中央のホールとその両側にある展示室、回廊の残り半分を巡ります。つづく補遺これだけ覚えればOK!仏像の種類と見分け方をイラスト解説(基礎知識) :「和楽」仏像の種類(如来・菩薩・明王・天)の見分け方を詳しく解説 :「骨董品買取の福助」仏像の種類 :「Flying Deity Tobifudo」仏像の種類 全作品リスト :「仏像ドットコム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へ
2023.09.15
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=== 2023.8.29 === 南の空9時20分近くに撮りました。ひつじ雲のような雲が青空に浮かんでいます。いい天気!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の少し上は、まだまだ夏の雲という感じです。こういう姿の雲も素敵です。 東方向の空15時5分頃に眺めると、雲の姿は変化していますが、夏の雲というダイナミックさはそのまま続いています。東の空も、いい感じの一日になりました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.8.30 === 南の空9時35分頃に撮りました。昨日とは一変して、素鼠色に近い厚い布が広がっている感じの空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 この空模様は経験的には雨の到来を感じさせます。 東方向の空稜線際には白鼠色の雲が浮かんでいます。その上空はこちらに近い雲の連なりなのでしょう。東方向の空には明るさがありました。 東方向の空17時過ぎに眺めると、朝とは異なり、銀鼠色の濃淡の布で覆われた感じに変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空この日は、雨は降ること無く、曇りに終始しました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「かなしきのうた」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集の最後の詩「三人の子に」と題する3ページにまたがる長詩です。ここに4つ目として雲が詠み込まれています。この詩は、真民さんが梨恵子・佐代子・真美子という三人の我が子に対して「この三篇を幼き者へ贈る」と副題を付して詠まれた詩です。「1 三人の子に」「2 枕もとで」「3 晴着」という三篇。その「3 晴着」に「雲」が詠み込まれています。 お前たちが 嫁ぎゆく晴れの日まで わたしは生きているだろうか 財産もない 故郷もない 家もない 不幸なお前たちに せめては父のこころばかりの 晴着をきせてやりたいのだが それまでわたしは 生きながらえているだろうか 梨恵子よ 佐代子よ 真美子よ 嫁ぎゆく日の夕べ もしも裳裾ひく くれないの雲が たなびいていたら 貧しかった父の せめてもの門出の 祝いものとして 晴れの衣を染めて 嫁いでいってくれないかこの詩で詠まれた情景は、かつての婚儀が背景にあるようです。江戸時代の婚儀は黄昏時以降の夜に行われていたそうです。「嫁ぐ日の夕べ」ということは、そのような慣習が続いている地方なのでしょう。「くれないの雲」ですから、真っ赤に染まった夕焼けの雲、その夕焼けの光が「晴れの衣」を染めるということでしょうね。観天望気では、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」と称され、夕焼けは天気が晴れる前兆と考えられています。つまり、夕焼けを幸先の良いことの兆しとして重ねられているのではないでしょうか。「生きながらえて」いないという想定をした上で、夕焼けの色を、「貧しかった父の/ せめてもの門出の/ 祝いものとして」という詩句が表出されているのでしょう。真民さんが三人の幼い我が子に対して注がれていた深い思いがこの一点に込められている第3篇です。真民さんは1909年生まれで、2006年に97歳で逝去されました。我が子の嫁ぐ日をご自身の目でご覧になられたことでしょう。戦後の昭和は大きく変化していきました。真民さんはどのように我が子の嫁ぐ日をご覧になられたのでしょう。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.31 === 南の空9時15分頃に撮りました。昨日に続き、曇り空でのスタート。似たような感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空昨日の朝と比べると、稜線際は似た感じですが、更に上空のくもり具合はすこし穏やかな感じです。ただ明るさがあります。 東方向の空15時35分頃に眺めると、横雲が漂っていますが、青空が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南西から西方向にかけては、うろこ雲様の雲が活発に広がり、青空が垣間見える状態になっていました。 南の空18時5分すぎにもう一度空を撮りました。再びくもり空に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線に近いところで青空が見える状態で、銀鼠色の雲が広がる空模様でした。曇り一時晴れという天気の一日で、8月が幕を閉じました。暦が9月半ばになったところで、やっと9月にキャッチアップできました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について坂村真民先生その詩の魅力 横田南嶺猊下 対談 YouTube結婚式の歴史!結婚式の始まりや現在に至るまでの道のりを徹底解説! :「幻の酒」婚礼式 :「弓馬術礼法小笠原教場」「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」? 観天望気にみる先人の知恵 :「Weather Marketing」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.14
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心字池に架かる土橋(ドバシ)の傍から、池の北側と西新館を眺めた景色ここから始めます。 橋の東詰、中央部分にちょっと大きめの石が置かれています。立入を留める印です。こういうシグナルは絵になります。 池沿いの通路を歩み、枝越しに橋の先の中門を眺めた景色 池の対岸の八窓庵を眺めた景色 腰掛待合の背後側。手前はたぶん待合に付帯する「雪隠」でしょう。 心字池の南端付近から眺めた全景 池沿いの通路を巡って、八窓庵を間近で眺めます。 外露地と内露地を分ける竹垣と枝折戸があり、飛石が茶室まで続いています。先ほど、腰掛待合から反り橋を渡り中門を潜って茶室に至る径路を眺めてきましたので、この径路目線でアプローチしてみます。 中門 内露地からの眺めこの門を潜り、内露地に入ると、 蹲踞(ツクバイ)手水鉢があります。 茶室に向かう客人が目にする八窓庵の正面手前に大きな礎石が見えます。古都ならではの趣き・・・・。 左側に刀懸、その右側には上部に窓が2つ横に並び。右の窓の下に躙口が見えます。 この躙口の戸を開けて、潜って茶室に入るということになります。この八窓庵は、「もとは興福寺の大乗院門跡の中にあった茶室で、江戸時代中期頃に建てられました。四畳台目、古田織部好みの多窓式の茶室です」(リーフレットより)かつては「大和三茶室」の一つだったのですが、現存するのはこの茶室だけだそうです。明治25年(1892)にこちらに移設されました。 八窓庵の北側面に回り込んでみます。左端が東側面の躙口に近い方です。 細部を眺めて行きますと、こんな感じ・・・・。 茶室の窓の位置が大凡わかります。 八窓庵の南東角側から東側面を撮った景色です。 南側面 西側面。八窓庵の背面になります。左の景色で手前に見える建物はたぶん雪隠です。八窓庵の周囲を一通り見渡しました。茶室内を見られないのは残念です。(奈良国立博物館ホームページの「茶室 八窓庵」には茶室内部の写真が掲載されています。)八窓庵の北側、池の畔に戻ります。西新館のピロティとの間の池の方です。 池の傍に、「国東塔(クニサキトウ)」が1基保存されています。大分県国東半島にだけ見られる石塔です。凝灰岩製、南北朝時代(14世紀)の作。「特徴としては、頂上部に火焔宝珠をのせ、蓮華座・返花(カエリバナ)・格狭間(コウザマ)を持ち、塔身部がツボ型をしています。上部にお経(法華経)等を入れる孔(アナ)があいています}(リーフレットより) 国東塔の近くに置かれた石像。子供を抱くような像ですが不詳。 ピロティ前のほぼ方形の池と心字池は繋がっています。こちらにも竹垣と枝折戸が設けてあります。枝折戸から出て、池の連結部に架かる石橋を渡って、入口に戻ります。 庭園の通路脇に置かれているのがこの「宝篋印塔」です。案内板が設けてあったかどうかは不詳。気づきませんでした。 (リーフレットより)これで庭園散策を終わります。この後、「なら仏像館」に向かいました。つづく参照資料*「茶室 八窓庵 庭園のご案内」リーフレット 奈良国立博物館補遺奈良国立博物館 ホームページ 茶室 八窓庵 庭園・茶室のガイド 奈良博教育普及室 :「奈良国立博物館」八窓庵(奈良国立博物館の茶室) 茶室建築 Tearoom :「no+e」 ⇒ 間取り図掲載奈良 八窓庵(はっそうあん)茶室 :「和美荼美(わびちゃび)」 ⇒ 間取り図掲載八窓庵(はっそうあん)の八窓とは :「気軽に茶道をしてます。」茶室その3(古田織部の茶室) :「住まいとインテリプラン」古田織部の茶室 茶室建築 TeaRoom :「no+e」燕庵・へうげものの茶室【知トコ見トコ・茶室5選】古田織部・わびさびの実存 YouTube熊本城・本丸御殿の古田織部好みの茶室 :「九州旅倶楽部」国東塔 :ウィキペディア国東塔の魅力 ~最も国東らしい文化財~ 文化財室 :「豊後高田市」ピロティとは何のことですか? 耐震のQ観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で&A:「一般社団法人 マンション再生協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で
2023.09.13
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茶室八窓庵 庭園のご案内特別展の会場を出た後、西新館の1階で少し休憩。庭園を眺めるとこの日は庭園が公開されていました。久しぶりに、しばし庭園を写真を撮りながら散策することにしました。今回、この三つ折のリーフレットが準備されていて、ありがたく入手。 開くと庭園がイラスト入りで順路説明されています。以前にも散策しています。順路通りに歩いてはいませんが、ここでは順路に沿って時計回りに編集してご紹介します。庭園は西新館の南側に広がっていますので、この図の上辺が北になります。 まず、ピロティに出て、東寄りに進み、そこから庭園を眺めると池の東側はこんな景色です。 藁葺き屋根の建物が木々の向こうに見えます。「八窓庵」と称される茶室です。 八窓庵の全景を比較的見やすい位置から撮ってみました。 ピロティから庭園へのアピローチを渡る時、西方向を眺めた景色です。右側が西新館です。西方向の空。ピロティ前はほぼ長方形の池になっています。左側が庭園。庭園の中央部に池があります。 左斜め前方、高生垣の前に「般若寺型石灯籠」が置かれています。花崗岩製。江戸時代(18~19世紀)の作。 北東側から 笠の上、頂部の宝珠の下には垂花弁が付けられていて、請花の部分が小さめになっています。笠の上に請花その上に宝珠が載るのが一般的な姿です。 唐獅子の浮彫 橘の浮彫と斜格子窓火袋は六角形です。その二面が斜格子窓が穿たれ、二面には唐獅子と橘が彫刻されています。 火口が相対する二面に大きく開口されています。 また、火袋下の中台の格狭間には、十二支の動物が浮彫してあります。 石灯籠の下部に眼を転じます。 基壇の上の基礎石には、雌雄の神鹿が彫刻されています。反花の上にはさらに蓮台が設けられています。普通の石灯籠では反花が竿に接合しています。私は数えていませんが、設置された案内銘板には、この一つの石灯籠に19頭の動物が表されていると記されています。見所の多い石灯籠です。 石灯籠の東方向の景色。この先は立入禁止でした。池の近くに戻ります。 池の近くには、少し離れて池沿いに南方向への石畳の通路(延べ段)が設けてあります。左側には柴垣でしょうか。丈の高い垣根です。 池越しに西方向を眺めますと、 八窓庵の茅葺屋根が見えます。 垣根の端から東を見ますと、現在は「寄付待合」として使われている建物があります。ここに移築される以前は、元が奈良帝室博物館の事務所の一部であり、その後正倉院宝庫掛の御物修理所としても使われていた建物だとか。 石畳の通路の先には、「腰掛待合」があります。 お茶会で、亭主の迎えを待つ間、腰を掛けて待つ施設です。 貴人席を設けて、L字形に造られています。この腰掛待合は、京都・藪内家家元の茶室「燕庵」の腰掛を写した建物だそうです。 屋根の雨樋の端には綱を伝い雨水が地上に流れるように設えてあります。 ちょっとした風情を生み出しています。 池の畔に近寄ってみます。こちらは池の南側の景色です。この後、この池の傍を時計回りで巡ります。 この池の対岸に、八窓庵(茶室)があります。 この池全体を空から見ますと、漢字の「心」を草書体で記した形をしていることから、 「心字池」と称されています。 心字池の水面に映じた八窓庵と空の雲茶室の東側、池畔に中門があり、その前に土橋(ドバシ)が架けてあります。腰掛待合で待った客人は、土橋を渡り、中門を潜って、八窓庵の茶室に歩むということになるのでしょう。 池に架けられた土橋の左端を一部入れて池の南側を撮った景色です。この橋には、通行禁止の表示板が置かれています。景色としては無粋になるので、撮るのをやめました。それでは、心字池の南辺を巡る形で茶室にむかいましょう。つづく参照資料*「茶室 八窓庵 庭園のご案内」リーフレット 奈良国立博物館補遺奈良 法性山 般若寺 ~コスモス寺~ 公式ホームページ 寺宝 般若寺型石灯籠も載っています。藪内家の茶 ホームページ 茶室・露地 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で
2023.09.12
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=== 2023.8.25 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲は多いですが青空が見え、晴れです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空も夏雲が勢いよく伸び上がっています。青空も見えます。この日、午後、理髪店に行き、さっぱりした頭になったせいか、帰宅後雲をとるのをすっかり忘れてしまいました。何をしていたのだろう・・・・。=== 2023.8.26 === 南の空9時45分近くに撮りました。昨日に引き続き晴れ。雲は少なめ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空それに対して、稜線上はもくもくと雲が立ち上がっている感じです。青空が見えると、雲の姿を楽しめます。 東方向の空16時35分近くに眺めると、稜線際の雲がすべて消滅し青空一色。上空にというか、山より手前になるのでしょうか、白雲が漂っています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけて、局部的に夏雲が広がっています。。 頭上の空まずは、快晴の一日だったと言えそうです。=== 2023.8.27 === 9時25分近くに撮りました。ここ連続、比較的雲の少ない晴れた状態で一日が始まります。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空それに対して、稜線上空は銀鼠色の雲を交えた雲が一面に空を覆っていました。この方向だけは、多くの場合ちょっと雲の姿が異なります。山の存在が大きな要因なのでしょうね。 東方向の空17時5分頃に眺めますと、稜線を押しつぶそうとするかのように、雲が巨大な塊となっていました。こういう姿の雲はいままで見かけた記憶がありません。雲の形成にはどのような要因が絡み合うのでしょう・・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上の空に少し青空が垣間見える他は、銀鼠色の雲が空を覆った状態に変化していました。晴れのちくもりの一日に。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「かなしきのうた」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)3つ目に雲が詠み込まれているのは「乱雲」と題する詩です。題そのものに「雲」が入っています。さらに、「-スピノーザの生涯」という副題が付いています。 幾日ぶりかの雨が降って 雷が鳴り響いて 草も木も生きかえった夕べ わたしはあなたの生涯を思った バターと乾葡萄付四シュテュベル八ペニヒの 押麦料理で一日をすませたりしている あなたのあけくれを思った あなたの哲学の純粋さが どこから生まれたか あなたの信仰の正しさが どこから来たか そんなことを考えた 最後までつつましい戒律を守り レンズ磨きという寂定三昧に入り 貧に堪え迫害に抗し孤独を生きた 四十四年の生涯を思って わたしはわたしの道に 無限の力を与えられるのを感じた 久しぶりの涼しい風が 窓から入ってくる部屋に独り坐しながら 二百十日の雨後の乱雲を眺めていた子供の頃に、「二百十日」という言葉を思えた。台風が来るころだと。改めて辞書を引くと、「立春から二百十日目の日。台風がよく来る日と言われた。九月一日ごろ」(『新明解国語辞典』三省堂)辞書には「にひゃくはつか 二百二十日」も載っている。同じく台風がよく来る日として。9月10日ごろということになる。現時点(9/8午後4時)で台風13号が東日本に接近しているのだから、この経験則は今も当たっています。勿論、近年はもっと早く8月頃から台風が襲来するようになっていますが・・・・。真民さんはこの二百十日の頃にスピノザの伝記を読まれていたのだろうか。「貧に堪え迫害に抗し孤独を生きた」哲学者スピノザの生きる姿勢を、詩に生きようとしている己と重ねながら、伝記を熟読されたのだろう。真民さんはスピノザの生き様の本質部分に「無限の力を与えられる」という感動を得られた。それがこの詩を生み出した。そう感じます。降り注ぐ雨、雷、そして乱雲は、目にし体験する自然現象であると共に、己の生きる姿勢を貫こうとすることに対する障害として存在する諸事象の象徴の意味をも重ねているように思いました。そして、スピノザという名前は記憶していても、それに留まって居るだけだという事実に気づかせられた・・・・・のです。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.28 === 南の空11時45分頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空頭上と南から西にかけてはくもり空ですが、逆に稜線間際には白雲が出ていて、青い色合いの空が見え、その上空一面を雲が覆っています。やはり、この方向だけはちょっと景色が異なります。 東方向の空15時35分頃に眺めると、稜線際と上空の雲は異なる姿で漂っていて、青空が広がりを増していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては、くもりの状態が晴れの方向に変化しようとしているようでした。 頭上の空頭上では青空がはっきりと広がっています。東方向から晴れる方向に変化してきている感じです。くもり後晴れという一日になりました。つづく補遺スピノザ :「コトバンク」名著 エチカ スピノザ おもわく。 :「NHK」スピノザの名言 :「地球の名言」スピノザ:モチベーションの上がる言葉42選 :「MOTIV」名言・格言『スピノザさんの気になる言葉・英語』 :「iso-labo.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.08
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