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まず、2つの場面の方をご紹介します。その一つがこの具現化展示の場面です。これは、最初にご紹介した「寬仁2年旧暦10月16日の威子立后」に伴う饗宴場面の展示に関連しています。『御堂関白記』には、16日の立后の日から6日後、10月22日に後一条天皇が土御門第に行幸します。道長はその報せを受けて、行幸を迎え入れた様子を詳細に記録しています。その一部として、天皇が寝殿に入った後に馬場殿に移られたときの状況を具体的に記述しています。「私(道長)は天皇の御後ろ御屏風の南妻に伺候した。次に左右大将(藤原教通・藤原実資)を召して、御馬を馳せるよう命じた」(資料1)と。つまり、「馳馬(はせうま)」が行われたのです。左右に分かれて1頭ずつ、交互に馬を走らせて天皇にお目に掛けるのです。「左方の御馬が、北に上がった。・・・・・次にまた、右方の御馬が上がった。・・・」と具体的に記録し、左近府生雀部是国が落馬した事実も道長は記録しています。、 これは馳馬のための馬が出番待ちで控えている場面です。(説明パネルより)もう一つの場面。それは冒頭の景色の一部になっています。寝殿と東対を結ぶのが「渡殿」です。手前の反り橋状の通路が「透渡殿」で、その北側には「東北渡殿」があります。こちらの通路の北側が女房たちの生活する「局(つぼね)」になっています。 この東北渡殿のところに、白い装束の二人の公卿の背中が見えます。 この場面[寛弘5年(1008)年10月17日夕刻]は、宰相たちが局を訪れようとしている状況の具現化展示です。土御門第に一条天皇が行幸された翌日の夜の事、中宮大夫藤原斎信(ただのぶ)と中宮権亮(ごんのすけ)藤原実成(さねなり)が連れだって、宮の内侍と紫式部が居る局にやってきたのです。(資料2)その場面を、紫式部は『紫式部日記』に「二十九 十月十七日夕刻~中宮の大夫ら、局を訪う」の条に記しています。(資料3)「女房に会ひてとりわきたる慶びも啓させむとにやあらむ(女房に会って、昨日行幸の賞で位が特進したお礼の挨拶を言上し中宮様に伝えてもらおうというのだろう)」と紫式部はその意図を推察して記しています。二枚格子の蔀戸(しとみど)は下ろしてあったのですが、まだ掛金はしていなかったので、宰相実成が中の間の上側の格子を押し上げて、「おはすや(いらっしゃいますか)」と声をかけてきたという場面。それで上側の格子が少し、開いています。6072 局の奥の方に、女房の顔が少し見えます。 局が見える側に回り込んで眺めるとこんな場面になります。御簾の近くに、もう一人の女房がいて宰相等に応対しているようです。そちらが宮の内侍なのでしょうか。手前で御簾より奥に居るのが紫式部かも・・・・。中宮大夫が声をかけるのまで無視できないので、紫式部は「はかなきいらへなどす(ちょっとだけ返事なぞする)」と応答したのです。その続きに、紫式部は宰相等の咎め言葉も記述しています。夜が更けるとともに宰相たちは、二枚格子の下側も取り外すように言ってきたけれど、紫式部は「『何か、あざればまし』と思へば放たず(「何、私は戯れはしますまい」と思って外さなかった)」と日記に記しています。(資料3)「国宝 紫式部日記絵巻」(五島美術館所蔵)の五島本第一段の絵の部分図が切り出され、2000円札の裏面に使われています。それがこの場面だそうです。格子の傍で宰相等に応対するのが紫式部と想定されているようです。入手した小冊子は、別の見解を記していて興味深いところです。「二千円札で有名な場面である『紫式部日記絵巻』であるが、ここで格子の後にいる紫式部とされる人物は、実は宮の内侍であり、局の奥に控えている女房こそが紫式部ではないかと考えられる」(資料2)上掲の場面はこの見解で展示されていると言えます。『紫式部日記』のこの条を読むだけでは、局に宮の内侍と紫式部の二人が居たとしても、格子の傍にいたのが紫式部かどうか、私には判断しかねます。この条の冒頭に記された「女房に会ひて」という言葉が誰を指すのかとも絡んでくることなのかもしれません。序でに室内の点描です。 壁際に高さの異なる几帳が置かれ、紫式部の傍には、囲碁の道具が置かれています。囲碁の遊び(勝負)が途中で止まっているというところでしょうか。手前には、竹製の伏籠(ふせご)が置かれ、衣が掛けてあります。伏籠は衣服に香を移すための道具です。伏籠の内側には、香を焚くための道具である火取が置かれます。さて、今回ご紹介するハイライトは、『源氏物語』に記された明石の姫君の「裳着」の儀式の具現化展示です。東の対(対屋)に展示されていました。六条院の秋の御殿(おとど)に見立てています。 源氏39歳の旧暦2月11日、源氏の唯一の愛娘・明石の君の「裳着」の儀式が行われました。裳着とは、「女子の成人式で、初めて裳を着ける儀式。12~14歳ころに行われた。裳の紐を結ぶ役を『腰結(こしゆい)』といい、尊属や人望のある者が行った」(資料4)のです。明石の姫君は11歳でこの裳着の儀式を行います。この裳着の情景は、『源氏物語』の「梅枝」に描き出されます。明石の姫君は「西の殿(おとど)に戌の刻(=午後8時)に渡りたまふ」。六条院の「秋の町」つまり、秋好中宮の里邸に渡ります。寝殿の西に放出(はなちいで)が設けられます。廂と孫廂を開け放して儀式の場が設えられたのです。「子の刻(=午前0時)に御裳奉る。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたし」通例どおりに大殿油が薄暗くかすかに灯される中で、裳着が行われました。(資料5) 紫の上 源氏 裳着の様子を、源氏と紫の上が見つめます。 明石の姫君は白一色の装束です。 秋好中宮が「腰結」の役を務めるのです。勿論先例のない盛儀となります。明石の姫君の着裳の儀式において中宮が裳の腰紐を結ぶ役を務めます。この腰紐を「裳の小腰」と称するそうです。純白の装束を身にまとい穢れのない明石の姫君は、この着裳の儀によって、少女から大人の女性へと生まれ変わるのです。実母の明石の御方は受領の娘でした。源氏は明石の姫君を紫の上の養女にします。世間的には明石の姫君の母親です。秋好中宮が腰結となったことで、明石の姫君は権威をいただくことになります。余談ですが、調べてみますと、『御堂関白記』の長和元年(1012)10月20日の条には、この日は道長の三女、藤原威子の着裳が行われたことが記されている。その記述中に、道長は「私は裳の腰紐を結んだ」と記しています。(資料6) こちらに控えている女房たちを別の角度から撮ってみました。 右の女房は「髪上げの内侍」です。裳着でもう一つ重要な役割がありました。髪を結い上げる「結髻(けっけい)」・「理髪」の役です。『源氏物語』の「梅枝」には、明石の姫君の裳着の場面に、「御髪上(みぐしあげ)の内侍なども、やがてこなたに参れけり」という一文が記されています。(資料5)当時の裳着の儀式は、「裳着を行ってすぐに婚礼を行う例も多く、裳着は配偶者が決まった時や、見込みのある時に行われることが多い」(資料2)そうです。さて、この裳着の儀式の場面の室内環境の側面を観察しておきましょう。(資料4)この風俗博物館のすばらしいところは、装束もそうですが、室内調度品なども精巧なミニチュアとして具現化されていることです。毎回、鑑賞していてもどこか見落としているところがあるように思います。 裳着を見つめる源氏の少し前方には、「吊香炉」が吊してあります。「この吊香炉は二重のジャイロスコープによって炉の水平を保つよう工夫された香炉で、後世の龕灯(がんとう)に見られるような造りであり、小さなものは袖の中に香を炊きこめるものとして使われており、『源氏物語』「真木柱」の巻では玉鬘のもとに通う為に支度を調える髭黒が直衣の袖に香を炊き染めている場面がある」(資料2)『源氏物語』の「真木柱」には、「小さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり」(資料5)と描写されています。 二階棚の上部、右には「火取」(香を焚くための道具)、右には「泔坏(ゆするつき)」が置いてあります。泔というのは米のとぎ汁や強飯を蒸した後の湯だそうです。これは養毛に効果があると信じられていて、髪を洗ったり梳いたりする時に用いられたとか。その泔を入れる器です。また、下部の右にあるのは、多分「唾壺(だこ)」(唾を吐き入れるための器)でしょう。右は「香壺箱(こうごのはこ)」(香壺を入れておくための箱)と思われます。香壺は薫物を入れておくための壺です。二階棚の左側は、「唐櫛笥(からくしげ)」(櫛などの化粧道具を入れるための箱)です。大小二つ重ねて、鷺足付きの台の上に置かれています。 厚みのある「畳」の上には、「茵(しとね)」が置かれ、左側に「脇息(きょうそく)」が置かれています。背後には「几帳」が立っています。空間の仕切りとなっています。 髪上げの内侍の右奥には、屏風の前に「椅子(いし)」が置かれています。立礼(りゅうれい)の際などに、天皇や公卿が用いたそうです。屏風の図は、正倉院の「国家珍宝帳」に記載の「臈纈屏風」を模したものと推測します。正倉院展の鑑賞に出かけた折に、一部を見た記憶があります。ネット検索してみて、多少情報をえました。補遺をご覧下さい。 柱の傍に置かれているのは、照明具の「灯台」です。 灯台の下部の近くには、髪上げの内侍の前に理髪の道具類が置かれています。灯台の手前に、最も一般的に使われていた「角盥(つのたらい)」が置かれています。直径40~50cm、高さ30cmほどで、左右に20cmほどの取っ手がついています。この取っ手は持ち運びのためと、使用する際に袖をかけるために使われたそうです。その右側にあるのは、二階棚のところで説明した泔坏(ゆするつき)です。その右側に、陰になって取れなかったのですが、同様に上掲の唐櫛笥が置かれています。 別の一隅には、重要な役目を務めた髪上げの内侍への禄(贈物)が準備されています。この辺りで区切りと致します。つづく参照資料1)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p3382) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)3)『紫式部日記 現代語訳付』 紫式部 山本淳子訳注 角川ソフィア文庫 p65-664)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館5)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p412-413, p3646)『御堂関白記 中』 藤原道長 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p236補遺お札の基本情報~現在発行されているお札~ :「国立印刷局」国宝紫式部日記絵巻 :「五島美術館」緻密なデザインの美…天平文化の粋を伝える正倉院展 :「讀賣新聞オンライン」「よみがえる天平の美~第69回 正倉院展~」吉岡幸雄「羊木臈纈屏風」復元に挑む :「紫のゆかり 吉岡幸雄の色彩界」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.11
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=== 2023.6.1 === 南の空10時10分頃に撮りました。早朝は少し晴れ間が見えていました。しかし、写真を撮った時にはムクムクとしたグレーの雲が一面に空を覆い、くもり空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空同じような雲の姿に見えます。 東方向の空13時半頃に眺めてみると、くもり空は変わらりません。雲の姿は変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空17時半頃にもう一度空を眺めてみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空結局、くもり空の一日となりました。=== 2023.6.2 === 南の空南西方向の空 台風が日本に接近しているという影響を受けて、朝から雨でした。 窓際から二方向だけ撮ってみました。 南の空南西方向の空 17時20分頃に再度眺めてみましたが、状況に大きな変化なく、雨が降っています。終日、雨でした。さて、雲がたりに移ります。『山家集』から雲の字を詠み込んだ歌の抽出、ご紹介をしてきました。ここでは『山家集 金槐和歌集』(日本古典文学大系29 岩波書店)を参照してきました。この本は陽明文庫本の『山家集』が底本とされています。そして26ページに及ぶ底本以外の書に載る歌を「附録」として載せてあります。『山家集』を終わるにあたって、この「附録」についても同様にチェックしてみました。抽出したものを以下にまとめます。「板本六家集中の山家和歌集にありて底本になき歌」 22首が収録されていますが、雲の字を詠み込んだ歌はありません。「松屋本山家集にのみ所載歌」 68首収録中、次の2首 みねの花ちるをさながらやどに見て白雲見よと人にいはばや 月歌あまたよみけるに 雲さえてさとごとにしく秋の夜の氷は月のひかりなりけり「聞書集」 265首収録中、次の12首 方便品 諸仏世尊唯以一大事因縁故出現於世 あまのはらくもふきはらふかぜなくばいでてややまむ山のはの月 漸待花 くもにまがふ花のさかりをおもはせてかつがつかすむよしのの山 [付記] まがふ:よく似ていて間違う。区別がつかない。 かつがつ:早くも 浮海船尋花 こぎいでてたかしの山をみわたせばまだひとむらもさかぬしらくも [付記] たかしの山:三河国渥美郡高蘆(たかし)郷(愛知県豊橋市)の山。 広くは遠江国(静岡県)浜名湖西岸にかけて広がる台地を含めていう。 花尋至古寺 これやきくくものはやしの寺ならむ花をたづぬる心やすめむ [付記] くものはやしの寺:京都・紫野の雲林院 月前郭公 さみだれのくもかさなれるそらはれて山ほととぎす月になくなり よしの山くもと見えつる花なればちるもゆきにはまがふなりけり よしのやまくももかゝらぬたかねかなさこそは花のねにかへりなめ [付記] さこそ:さぞかし。花のね:花の峯。 勝義心 イカデワレ谷ノイハネノツユケキニクモフム山ノミネニノボラム [付記] イカデ:なんとしても。 ツユケキ:露にぬれてしめっぽい。 八葉白蓮一肘間の心ヲ クモオホフ二上山ノ月カゲハコゝロニスムヤミルニハアルラム [付記] 二上山:今の奈良県と大阪府の境にある山。大津皇子の埋葬された地。 聖衆来迎楽 ヒトスヂニコゝロノイロヲソムルカナタナビキワタルムラサキノクモ おもひいでに花のなみにもながればやみねのしらくもたきくだすめり [付記] おもひいでに:思い出すと。 めり:・・・のように見える。 はなちりてくもはれぬればよしの山こずゑのそらはみどりにぞなる「聞書残集」 32首収録中、次の1首 (長文の前文を略す)有明と申す題をよみける こよひこそ心の雲よしられぬれ入らで明(け)ぬる月をながめて [付記] ぬれ:完了の助動詞「ぬ」の巳然形。これで、西行法師の『山家集』での雲がたりを終わります。参照本には、源実朝の『金槐和歌集』が収録されています。次はこちらの雲がたりに移ります。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.3 === 朝は少しくもっていましたが、12時頃に撮った南の空は青空に。小さな雲がおもしろい重なりを見せています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上に白雲が浮かんでいます。東の空に青空がみえるのは、気持ち良い! 東方向の空16時30頃に撮りました。青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空くもり後晴れの一日でした。つづく補遺高師山・高志山・高石山 :「コトバンク」雲林院 :ウィキペディア山家集 :「ジャパンナレッジ」山家集 :「コトバンク」山家心中集 :「文化遺産オンライン」山家集. 巻之上,中,下 / [西行] [撰] :「古典籍総合データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.10
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寝殿の階には、二人の武官が居ます。巻纓(まきえい)の冠をつけ、闕腋袍(けつてきほう)を着ています。「袖から下の両脇を縫わず、後の身を長く仕立てた武官用の袍」(資料1)です。そして、裾(きょ)を背後に垂らしています。 胡簶(やなぐい)に矢を入れて、背に負っています。 階より東側の庭には、楽人たちが居並んでいます。 この楽人たちに着目してみましょう。 A B 楽人の冠がまず目に止まります。手許の書(資料1)には、「源氏物語画帖」の「青海波を舞う光源氏」の絵が掲載されています。その絵の右下に楽人たちが描かれていて、この冠と同様のものを被っています。Aの冠を被る楽人は横笛を吹き、Bの冠を被る楽人は笙(しょう)を持っています。 前列の手前から二人目で笙をもつ楽人以外は横笛を手に持っています。 切り出した部分図ですが、両端の楽人は篳篥(ひちりき)を手にしているようです。この具現化展示では、楽人たちは、笙、横笛、篳篥のいずれかの楽器で演奏した設定です。上記の光源氏の青海波の舞では、首に下げる琵琶を扱う楽人が加わっていますが。 最後列に座る左端の人は、木の棒のような物を持っています。拍子を打つ楽器でしょうか。調べてみた範囲では名称は不詳です。手許の書では、青海波の場合、垣代(かきしろ)と呼ぶ楽人の中に、「反鼻(へんぴ)」(木製の巴形の拍子を打つもの。「反尾」とも)を持ち、楽人と交互に演奏するという説明があります。(資料1)多分この反鼻と同様の役割を担う楽器なのでしょう。 左の二人は、袋に収めた物を両手で捧げていますが、これも不詳です。手許の書では、「反鼻」(反尾)を担当するのは、「大臣クラスの随身や滝口の武士などがあたるが、殿上人が加わることもある」(資料1)と説明があります。 この3人の束帯姿を見ると、この説明に照応するようです。後姿から、冠は垂纓(すいえい)と称する形です。石帯と石帯の上手がよくわかります。この革帯は玉石で装飾されています。「三位以上の公卿が玉の帯、四位・五位の正装には瑪瑙(めのう)の帯を着用した」(資料1)そうです。当日いただいた小冊子によると、「階の東脇で楽人の音楽が始まり、殿上人の公卿たちも思い思いの楽器を取り、一緒になって合奏が始まり、歌が歌われる。その席を盃が巡る」という饗宴の場ができて行ったそうです。藤原実資の『小右記』がこの場面をどこまで具体的に記録しているのか、機会があれば読んでみたいと思います。 もう一点、下襲(したがさね)の裾をうまく見せているところがいいですね。意匠にも可能な範囲で美しく見せる工夫をしたのでしょう。つづく参照資料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示) p2補遺笙の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」横笛の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」篳篥の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」日本 笙のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 龍笛のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 篳篥のトップ :「アジアの楽器図鑑」行幸の演出 :「風俗博物館」源氏物語の音楽 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─ :「日本伝統音楽研究センター」(京都市立芸術大学)4.『源氏物語』の楽器演奏 :「春さんのHomePage」藤原実資 :ウィキペディア小右記 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。[風俗博物館 企画展示鑑賞 記事一覧]観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.08
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堀川通を挟み、西側に西本願寺、東側には先日ご紹介した龍谷ミュージアムと今ご紹介する風俗博物館があります。5/24に特別展「親鸞と聖徳太子」と併せて、冒頭の建物(井筒佐女牛ビル)の5階にある風俗博物館での展示を鑑賞してきました。このところ風俗博物館には毎年出かけています。こちらも5/31までの展示として終了しています。2つめのミュージアムとして、こちらの展示内容をご紹介します。 (付記:風俗博物館は、2023.6.1~7.31までは休館とのことです。ホームページより)正面玄関を入り、右の写真のインテリアを眺めて、内ドアを通り抜けると、右側にエレベーターがあります。5階へ直行。 5階フロアーに出ると、目の前にこの景色が広がっています。 手前の小川には朱塗りの反り橋が架かり、その先に寝殿造りの建物が見えます。「源氏物語」の六条院「四季の町」、「春の御殿」の中の「寝殿」と「東の対(対の屋)の一部を1/4の縮尺で制作された模型です。この縮尺模型の六条院を、企画展で様々な場所に見立て、あるシーンを具現化展示しています。それでは、平安時代へとタイムワープ致しましょう。 楽人を乗せる龍頭の船の一種が目の前に展示されています。 これは池面に浮かぶ舞楽の舞台になるのかも知れません。 寬仁2年(1018)旧暦10月16日、藤原道長の三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になりました。宮中で天皇の命が臣下に伝えられる「立后の儀式」が行われ、公卿が使者として、道長のいる土御門第に報告に赴きました。(資料1)『御堂関白記』に道長は、「内(後一条天皇)から、(藤原)定頼朝臣が御使として参った。宣命を下すということを伝えるものであった」と書き遺しています。(資料2、以下略) この場面は、土御門第の寝殿に見立てられています。使者の公卿を迎えて、道長が饗宴を催します。 寝殿の母屋に掛けられた御簾の内側には、後一条天皇の中宮となった藤原威子が居ます。『御堂関白記』に道長は「すぐに中宮は御椅子に着された」と記しています。 南廂の西側には、藤原道長が坐しています。『御堂関白記』には、楽人に演奏させ、「数献の宴飲の後、禄を下賜した。・・・ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った」と簡略に記しています。この時、道長が詠んだのが、あの有名な この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば という歌です。道長の長女・彰子は一条天皇(第66代)の中宮(皇后)となり、敦成、淳良という天皇の後継者を生みました。この時点で、彰子は太皇太后宮(たいこうたいごうぐう)と称される立場になっています。長男の敦成が後一条天皇(第68代)です。(資料2)二女の研子は三条天皇(第67代)の中宮(皇后)になっていました。三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になったことにより、藤原道長は一家で三皇后を立てるという未曾有の状況を現出させたのです。この威子の立后については、道長がそのシナリオを初めから整えていたそうです。威子は寬仁2年(1018)3月7日に入内し、翌月の4月28日に女御宣旨を受け、そして10月16日に立后するというスピードでした。(資料1)天皇の在位で表すと、一条天皇(986~1011)、三条天皇(1011~1016)、後一条天皇(1016~1036)という在位期間になります。道長は政治に関与する盤石の体制を確立したと言えます。まさに有頂天の心境だったことでしょう。(資料3)序でに補足しますと、末女の嬉子は、彰子の生んだ二男・敦良、後の第69代後朱雀天皇(1036~1045)の中宮(皇后)となります。道長は、上記の通り「余、和歌を詠む」と記しただけです。では、なぜその歌が「この世をば・・・・」とわかるのか。この饗宴に大納言兼右大将の藤原実資(さねすけ)が同席していたのです。藤原実資は『小右記』という日記に詳細にその状況と道長が詠んだ歌を書き遺したそうです。(資料1)道長は己が歌を詠むときに、実資を呼んで、必ず返歌をして欲しいと言ったとか。実資は応諾したのですが、道長が上記の歌を詠んだ後、あまりにも歌が優美なので返歌はできませんと述べて、代わりに皆で道長の詠んだ歌を唱和しましょうと提言したのだそうです。それを道長は、「人々は、この和歌を詠唱した」とのみ記しました。道長は、満面の笑みを浮かべつつこの短い文を書き遺したのでしょうね。一方で、饗宴の場で、実資を含めてこの歌を唱和した人々の多くは、内心辟易と思いつつも処世術として楽しげに唱和したのでは・・・・。内心「やってられんわ・・・」というところでしょうか。因みに、道長の没年は1027年です。 道長の背後に居並ぶ人々と母屋の一隅に積まれた贈物の品々。この品々は宴の後で道長が人々に与えるためのものでしょう。 南廂の東側で道長の正面に対座するのは、左大臣藤原顕光。 左大臣の後には、右大臣藤原公季(きんすえ)が坐し、 少し首をひねった姿は摂政藤原賴道、道長の長男です。 その背後に公卿たちが居並びます。道長は、「諸卿は、寝殿の東対の座に着した」と『御堂関白記』に記していますので、大勢の公卿が土御門第に参入してきていたのでしょう。 東廂に控えるのは、紫式部です。 紫式部の斜め左前には、「打出」が飾ってあります。「打出の衣(うちいでのきぬ)」とは、「晴れの儀式の際、御簾や几帳の下から、また牛車の簾の下などから、女房装束の衣の裾や袖口を外にはみ出させておくこと。また、その裾や袖口」(『学研全訳古語辞典』改訂第二版)です。 左は、中宮への御膳を運ぶ女房が簀子に立っている姿です。 『御堂関白記』には、次の記述があります。「五、六巡の宴飲の後、采女(うねめ)が、中宮の御膳を東北渡殿の簀子、および寝殿の東と南の簀子を経て供した。御大盤であった<台を加えた。>」と。 居並ぶ公卿の装束に目をむけましょう。 男性の衣服は「束帯」と称されます。「束帯は、皮の帯で腰を束ねた装束の意味で、朝服として用いられた。『昼の装束』ともいわれ」たそうです。また、皮の帯は「石帯(せきたい)」と称し、上に弧を描いている箇所は「石帯の上手(うわて)」と称するとか。(資料4)束帯の表衣は「袍(ほう)」と称します。この袍は、『衣服令』に規定され、位階により色や文様や地質に区別が設けられています。色の区別をご紹介しますと、「深紫(こきむらさき、一位)、浅紫(あさむらさき、二位・三位)、深緋(こきあけ、四位)、浅緋(うすきひ、あさあけ、うすあけ、五位)、深緑(ふかみどり、六位)」です。(資料4)次回へのつなぎを兼ねて、寝殿の庭を眺めておきます。 庭には、楽人たちが居並んでいます。『御堂関白記』に、「階下に楽人を召して、数曲を演奏させた」と記しています。『御堂関白記』の寬仁2年10月16日の条を読んで、おもしろいと思ったのは、この条の後半に、贈物を下賜した内容を詳細に記録していることでした。つづく参照資料1) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)2)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫3)『歴史探訪に便利な日本史小典 3』 日正社 4)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館補遺藤原威子 :ウィキペディア公卿冬束帯 :「日本服飾史」(風俗博物館)束帯の種類(束帯) :「綺陽装束研究所」平安時代の服装 文化史 :「フォールド・ミュージアム京都」(京都市)伝統色のいろは ホームページ深紫とは :「着物用語大全」浅紫とは :「着物用語大全」深緋とは :「着物用語大全」浅緋とは :「着物用語大全」深緑とは :「着物用語大全」この世をば(藤原道長) :「和歌の世界」【この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど :「短歌の教科書」この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは 丸山淳一 :「讀賣新聞オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.07
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=== 2023.5.30 === 南の空南西方向の空 8時50分頃に外を眺めると小雨でしたので、窓際から撮りました。 12時50分頃に空を見ると、南の空は様変わり。青空が見え白雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿に様々な形を見ることができました。雲を楽しめる青空です。 東方向の空稜線のすぐ上の雲の発達している姿と、さらにその上空の雲の姿は大きく異なっています。雲の種類は10種類に分類され、雲の姿は高度によっても異なるのですね。改めてその一端を意識できました。 東方向の空16時35分頃に眺めますと、空はまたもや一転し、くもり空に! 南の空南西方向の空 西方向の空 空の様相が大きく変化する一日でした。さて、雲がたりの続きです。西行法師の『山家集』、三分冊の「下・雑」に入ります。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」に引き続き「下」は全体が「雑」に分類されています。参照している底本では、第1042首から始まり、最後が第1552首まで、511首です。この中に、雲の字を含む歌を調べてみますと、次の14首が収録されています。 宮の法印、高野に籠もらせ給ひて・・・(以下省略) 憧がれしこゝろを道の導(しるべ)にて雲に伴なふ身とぞ成ぬる 1084 修行して伊勢に罷りけるに、月の頃都思出られて 都にも旅なる月の影をこそ同じ雲ゐの空に見るらめ 1094 [付記] 旅なる月の影:空を旅する月。 雲ゐの空:雲のいる空 月澄めば谷にぞ雲はしづむめる峯吹(ふき)はらふ風にしかれて 1106 [付記] しづむめる:沈んでいるようだ 風にしかれて:風により押し敷かれて かみな月谷にぞ雲は時雨(しぐ)るめる月澄む峯は秋にかはらで 1112 [付記] かみな月:神無月(陰暦十月) める:・・・のように思われる 秋にかはらで:秋と変わらずさわやかである 群れ立ちて雲井の鶴(たづ)の聲すなり君が千歳や空に見ゆらん 1173 熊野へまゐりけるに、七越の月を見て詠みける 立のぼる月のあたありに雲消えて光重ぬるなゝこしの峯 1403 いかでわれ心の雲に塵据ゑで見る甲斐ありて月を眺めん 1405 [付記] 塵据ゑで:塵(煩悩)を置かないで 雲晴れて身に愁なき人の身ぞさやかに月の影は見るべき 1407 [付記] 雲晴れて:心の雲が晴れて。 人の身ぞ:人のみぞ(身はミス) 眺め来て月如何ばかり忍ばれんこの世し雲の外(ほか)になりなば 1414 [付記] 忍ばれん:なつかしく思われることだろう。 し:強意の助詞 雲の外になりなば:現世から遠く離れてしまったら。 吉野山高嶺の桜咲き初(そ)めばかゝらんものか花の薄雲 1454 [付記] かゝらんものか:花の雲が吉野の高嶺にかかるであろう。 五月雨の晴れ間尋ねてほとゝぎす雲ゐに傳ふ聲聞(きこ)ゆなり 1468 [付記] 雲ゐに伝ふ:空に伝播する。 晴れやらで二村山にたつ雲は比良の吹雪の名残なりけり 1490 [付記] 二村山:所在不詳。 比良:近江国の比良 雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてを止めんとぞ思ふ 1507 [付記] 山にかけてを:山に引きかけて。 を:感動を強める間投助詞 めづらしな赤倉山の雲ゐより慕ひ出たる明星(あかぼし)の影 1523 [付記] 朝倉:神楽歌の「朝倉」 慕ひ出たる:神楽に引かれて出てくる 明星:神楽歌の「明星」にちなむが、明星の実景を詠んでいる。これで、底本となる『山家集』を通覧したことになります。上に42首、中に22首、下に14首、合計78首となります。そのうち一首だけが「くもゐ」と平仮名書きでの「くも」です。『山家集』全1552首の中で、78首が「雲/くも」という字を読み込んでいたことになります。全体の5%ほどの歌に「雲/くも」が読み込まれていたことになります。なお、この参照本には、『山家集』に関連して「附録」が数十ページ付いています。この部分は、別稿で取り上げたいと思います。それでは、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.31 === 9時30分頃に撮った南の空は、くもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空ベランダから眺められる三方向の空は、全面的にグレーの雲に覆われての一日の始まりです。 12時20分頃に眺めた東方向の空。午前とそれほど大きな変化はなしです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空ところがその後、空模様は徐々に好転していきました。午後に市役所近くの会場まで、講演の聴講に出かけましたので、天気が晴れて行くのはラッキーでした。 南の空帰宅後、16時30分頃に撮りました。すっかり快晴状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空には少し白雲が浮かんでいました。 南の空5月の末日は、晴れた空で終りました。このとき一つの懸念は、台風2号が南の海上を北上し沖縄に接近している情報でした。つづく補遺雲の種類は10種類 :「じゃらんニュース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.05
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=== 2023.5.27 === 南の空朝から曇り空です。10時過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には大きな雲が漂っています。南から西方向の雲の姿とは対照的です。その後、通り雨でしょうか、一時、小雨がぱらつきましたが大したことなく止みました。 東方向の空15時半頃に空を眺めると、青空に変わっていました。くもり後晴れです。稜線上空に青空が広がり、雲も白雲が浮かぶ景色に変わっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、ふんわりと小さな雲が数多く浮かんでいます。 17時35分頃に撮った南の空の空。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には、再びグレーの雲が広がる状態に変化していました。=== 2023.5.28 ===朝から晴れていました。 12時過ぎに撮った南の空です。雲が活発な感じ・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の雲の重なりは、これまでにあまり見かけない形で広がっています。少しずつ、夏空の様相に移りつつあるのでししょうか。それまでに梅雨の時季が来るのですが。 16時10分頃に東方向の空を眺めると、雲の姿は様変わりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 このような雲の姿は何と称するのでしょう・・・・。 頭上の空晴れのちくもりの一日でした。さて、雲がたりです。引き続き、西行法師の『山家集』です。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」の後半に移ります。前回、第860首を区切りとしていましたので、補足です。 さしいらでくもぢを過ぎし月影はまたぬ心ぞ空にみえける 855第855首に「くもぢ」と平仮名表記で「くも」が詠み込まれている歌があることに気づいたのです。ここは「雲路」に相当する表記だと思いますので、取り上げて置きます。「中・雑」の後半の歌を読んでいくと、次の14首を抽出できました。 寄藤花述懐 西を待つ心に藤をかけてこそそのむらさきの雲をおもはめ 869 [付記] 西を待つ:西方浄土に往生するのを待つ 藤を:藤の花を むらさきの雲:聖衆来迎の紫色の雲 観持品 あま雲の晴るゝみ空の月影に怨みなぐさむ姨捨(おばすて)の山 886 [付記] 勧持品:法華経第十三品 姨捨の山:信濃国更科郡にある山 怨み:釈尊の姨母が授記されなかったことを憂えた怨み 雲晴るゝわしのみ山の月影を心澄みてや君ながむらん 890 [付記] わしのみ山:霊鷲山。仏が説法された場 一心欲見仏の文を人々詠みけるに 鷲の山誰かは月を見ざるべき心にかゝる雲し晴れなば 891 [付記] 一心欲見仏の文:法華経寿量品「一心欲見仏 不惜自身命」 天 雲の上の楽みとても甲斐ぞなきさてしもやがて住みし果てねば 902 [付記] 天:天上道。 さてしもやがて:そのようにしてそおまま。 雲にたゞ今宵の月をまかせてん厭ふとてしも晴れぬ物ゆゑ 952 [付記] まかせてん:まかせてしまおう 厭ふとて:雲のかかるのを厭っても。 しも:むしろかえって 月を見るほかもさこそは厭ふらめ雲たゞ此處(ここ)の空にたゞよへ 953 [付記] さこそ:さぞかし。 ただ此處の空にたゞよへ:ここの空だけに 雲がたゞようなら、雲を厭うのは私だけですむ。 晴れ間なく雲こそ空に満ちにけれ月見ることは思ひ絶えなん 954 [付記] 思ひ絶えなん:あきらめよう。 晴れがたき山路の雲に埋もれて苔のたもとは霧朽ちにけり 960 [付記] 苔のたもと:僧衣。 霧朽ちにけり:霧のために朽ちてしまった 雲取(くもとり)や志古(しこ)の山路はさておきて小口が原の淋しからぬか 977 [付記] 雲取:紀伊国那智の北方にある山。 志古:大雲取と小雲取の 間に小口川が流れていて、その辺りを志古という。 淋しからぬか:淋しいことだ。 空わたる雲なりけりな吉野山花もてわたる風と見たれば 987 雲もかゝれ花とをはるは見て過ぎんいづれの山もあだに思はで 989 [付記] あだに:おろそかに。 思はで:思わずに。 雲を花とみる。 雲かゝる山見ばわれもおもひいでに花ゆゑ馴れし睦び忘(わすれ)ず 990 [付記」 睦び:親睦。親しみ。 山もなき海のおもてにたなびきて波の花にもまがふ白雲 995西行さんは、「雲」を詠み込んだ歌をたくさん作っていらっしゃったようです。雲を月光を遮る自然の雲として詠む歌がかなりあります。私は自然の景を詠んでいる歌として受けとめました。禅語にある「雲=煩悩」という暗喩の読み込みまでは感じませんでした。一方で、来迎の紫雲、雲を桜の花や白波の花などと雲を比喩的に詠み込んだ歌も詠じられています。次回は「下・雑」に収録された歌から抽出していきます。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.29 === 南の空めずらしく早く、7時50分頃に撮りました。くもり空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空各方向の雲を撮っていると、小雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 16時15分過ぎに窓際から二方向だけ撮りました。激しくはありませんでしたが、終日、雨で終りました。天気予報通りだったと思います。つづく補遺阿弥陀聖衆来迎図 :「文化遺産オンライン」[動画あり]国宝「阿弥陀聖衆来迎図」修理前に公開準備作業に密着 :「JAPAN ART & CULTURE」妙法蓮華経勧持品第十三 :「近松門左衛門と広済寺」妙法蓮華経如来寿量品第十六 :「近松門左衛門と広済寺」霊鷲山 :ウィキペディア姨捨山(おばすてやま)(長野地域(ちいき)) :「長野県」冠着山 :ウィキペディア月の都 千曲 -姨捨の棚田がつくる摩訶不思議な月景色「田毎の月」- :「日本遺産 ポータルサイト」小雲取山(和歌山県) 449m :「10th YAMAP」吉野山 :「吉野山観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.02
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=== 2023.5.24 === 南の空9時過ぎに撮りました。天気は晴れ、青空の色が濃いめで雲多し。大きな雲浮かぶです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の空も、朝から青空が見えています。稜線に青空が見えるのはめずらしい。 東方向の空午後は西本願寺前のミュージアムに出かけました。一つは既にご紹介しています。帰宅後、17時15過ぎに眺めると、稜線の上空にはほとんど雲が無く、気持ちのよい青空が見えました。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 外出日和りの一日でした。平日ですが、JR京都駅では外国人観光客の姿がかなり見られました。少しずつ観光客が増えてきているようです。=== 2023.5.25 === 南の空9時頃に撮りました。昨日とは様変わりして、曇った空模様です。雲にグレーの濃淡が見られます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の層は薄い感じを受けます。 東方向の空もまた、グレー一色です。灰色の布が皺を見せつつ広がっている感じです。こんな状態が昼をまたいで続きました。そして、17時20分頃には雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ記録写真を撮りました。さて、雲がたりをいたしましょう。西行法師の詠んだ「雲」字を含む和歌抽出のつづきです。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)『山家集』の上・冬には、「雲」を含む歌は1首だけです。 月前炭竈 かぎりあらん雲こそあらめ炭竈の煙に月のすゝけぬる哉 547中は「恋」の部から始まります。「恋」歌の5首に雲の字が詠み込まれています。 後朝郭公 さらぬだに帰りやられぬ東雲に添へてかたらふ郭公(ほととぎす)哉 586 [付記] さらぬだに:ほととぎすの鳴かぬ朝でさえ 添えて:風情をそえて 月 知らざりき雲ゐの余所に見し月のかげを袂に宿すべしとは 617 [付記] 雲ゐの余所:空のかなた 袂に宿す:恋の涙に濡れた袂に月を宿す 秋の夜の月や涙をかこつらん雲なきかげをもてもて窶(やつす)すとて 622 [付記] かこつ:うらみに思う もて窶す:みすぼらしくする 天の原冱(さ)ゆる空は晴れながら涙ぞ月の雲になりける 623 [付記] 冱ゆる:冷たく凍る 月の雲になりける:月にかかる雲となったことである 雨雲のわりなき隙を洩る月のかげばかりだにあひ見てしがな 650 [付記] わりなき:ひどくこめている だに:せめて・・・だけでも がな:哉「恋」に続くのは、「雑」の部です。下はそのまま「雑」の部が続きます。なお、参照本には、「中・雑」の始まりの所に、「本是以下カ下帖」という付記があります。それはさておき、「中・雑」の始まり・第712首から第860種までの前半には、2首を見出しました。 <詞書が長文のため省略> 天降る名を吹上の神ならば雲はれ退(の)きてひかりあらわせ 748 [付記] 吹上:和歌山市。紀ノ川口の左岸から雑賀にかけての砂浜の古名。 五十日の果てつ方に、二條院の御墓に御仏供養しける 人に具してまゐりたりけるに、月明くてあはれなりけ れば こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をやおもひいづらん 792 [付記] 五十日の果てつ方に:五十日の忌明けに 御仏供養:仏のために供養すること 雲の上:雲の上と宮中の意次回は、「中・雑」の後半に移ります。ここには結構「雲」字が詠み込まれています。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.26 === 南の空9時35分頃に撮りました。昨日夕刻から雨に転じましたが、今朝はくもり空での始まりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体をグレーの濃淡で雲が覆っています。天気予報通りに、くもりの状態が続き、16時15分頃には小雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向だけ記録写真を撮りました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.01
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龍谷ミュージアム(堀河通東側)建物の正面を北側から撮っています。手前の黒く見えるところに、地下1階への階段があります。龍谷ミュージアムは地下1階に入口があります。地下1階の出入口前は、石敷の中庭空間になっています。以前にもご紹介していますが、あらためてこの中庭の景を撮ってみました。 階段を下ると、大きな石の上で、2匹のカエルがウエルカム!!してくれます。右折すると、中庭の西辺にミュージアムの出入口があります。正面の階段を降りた側(北西側)から、南側にミュージアムの建物壁面を眺めた景色です。 中庭の南東側に2つの切り出された平たい大石が置かれています。 中庭の南西隅から眺めると、こんな感じです。 背後は東側の建物側面 こちらは、北側の建物側面石敷の中庭には、大きな木が植えてあります。 この中庭の楽しいのは、コレ! 誰のアイデア?誰の遊び心なのでしょう・・・・・か。この中庭へのアプローチは自由にできます。建物の外になりますので。堀川通の西側に西本願寺があります。西本願寺の前に龍谷ミュージアム。ちょっと、中庭のカエルさんたちを見に行くのもおもしろいかも・・・・です。ご覧いただきありがとうございます。観照 京都 西本願寺前 龍谷ミュージアム -1 春季特別展「真宗と聖徳太子」 へ
2023.05.30
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先週の24日(水)の午後、2つのミュージアムに出かけました。一つは龍谷ミュージアム。冒頭の左の写真は、堀川通・東側歩道の北から龍谷ミュージアムの正面を部分撮りした景色です。 昨日(28日)までの会期で、春季特別展「真宗と聖徳太子」が開催されていました。会期末直前に鑑賞してきたことになります。 こちらはこの春季特別展のPRチラシ。この特別展は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念」として企画されたそうです。この時期、並行して京都国立博物館では、特別展「親鸞-生涯と名宝」(5/21まで)が開催されていました。特別展「親鸞-生涯と名宝」は既にご紹介しています。龍谷ミュージアムのこの春季特別展は、真宗と、つまり親鸞聖人と聖徳太子との関わりに焦点を当てた特別展です。親鸞の聖徳太子への思いは深く、「和国の教主」と崇めてこられたと言います。それが連綿として、浄土真宗の中で継承され造形化され、木彫像や絵伝・絵像として伝えられてきました。その集積がこの特別展として結実したようです。PRチラシの右側の絵像は、岐阜・浄厳寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(部分図)で、室町時代の掛幅です。これは前期展示でしたので拝見できませんでした。同種の掛幅として、福井・秘鍵寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(室町・天文元年/1532年)を拝見しました。 PRチラシ裏面ミュージアムを出る前にこの春季特別展の図録を求めたら既に完売ということで、残念ながら入手できませんでした。この特別展は3階・2階の両会場を使い、3章構成で展示されていました。<第1章 親鸞聖人と聖徳太子> これはチラシの表紙に載る「本願寺聖人親鸞伝絵 巻上」(大阪・天満定専坊蔵)の部分図です。後期の展示品。親鸞が六角堂に参籠していた時、夢想に現れた六角堂の救世観音の姿を描いたもののようです。「六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖像の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端座して、善信に告命してにたまわく」(御伝鈔)という場面です。親鸞の伝記絵のうち、絵巻形式の作品が「伝絵(でんね)」と称されます。一方で、「親鸞聖人絵伝」も展示されていました。「絵伝」は掛幅形式で伝記絵を描いたものです。石川・本誓寺蔵(室町時代)の2幅形式と大阪・正覚寺蔵(桃山・天正16年/1588年)の4幅形式の絵伝が展示されていました。 聖徳太子の德を親鸞が奉賛した断簡も、これと第三十首の2点が展示されていました。印象に残ったのは、「聖徳太子童形像・法然親鸞連坐像」(愛知・皆幅寺蔵、室町時代)です。聖徳太子と法然・親鸞を描いている一幅です。また、「聖徳太子勝鬘経講讃像・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)、「阿弥陀如来・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)「和朝太子先徳連坐像」(3点)という風に、浄土宗系統の高僧と聖徳太子を一緒に描いた掛幅が展示されていました。聖徳太子がどのように位置づけられているかがうかがえます。 「光明本尊」(兵庫・高福寺蔵、室町時代)の大きな掛幅です。阿弥陀仏像と尽十方無礙光如来像の間、蓮華座の上に「南無不可思議光如来」の九字名号が記されています。インド、中国、日本の高僧が名号の左右に描かれ、名号の文字「可思義」の右側に聖徳太子立像が描かれています。聖徳太子が崇敬の対象として自然に組み込まれているのです。<第2章 真宗が生み出した聖徳太子像>このセクションでは、木造彫刻像あるいは絵像の形で、様々な年齢に造形された聖徳太子像を数多く拝見しました。 一例がこの「木造 南無仏太子像」(福井・称名寺蔵、南北朝~室町時代)です。同じ作品名で他に2点。 「木造 聖徳太子童形立像」(東京・西光寺、南北朝・暦応4年/1341年)。髪をみずらに結い、右手に笏、左手に柄香炉を持つ立像です。同じ作品名で、彫刻像が他に1点、絵像が3点、また「木造 聖徳太子孝養立像」が2点展示されていました。このセクションで印象深かったのは、実如の裏書があるという「聖徳太子・法然上人像」が対になった掛幅です。奈良・願行寺蔵(室町・永正10年/1513年)と兵庫・本徳寺蔵(室町・文亀3年/1503年)の作品。この対の掛幅について、会場の説明文にも記されていましたが、以前に入手した図録に願行寺蔵の作品について説明が載っています。それをご紹介します。「太子と法然の対幅で、法然は念珠を持って礼盤上に坐す通形のすがた、太子は室町後期以降に本願寺から下付される通規の孝養太子立像とする。・・・・そもそも太子と法然を対幅にする遺例は少ないが、これに当初は浄土六高僧像が備わって3幅対であったと考え、本願寺が下付する太子および七高僧像成立の前段階とみなす意見がある」(資料1)<第3章 聖徳太子絵伝とその周辺>1幅から8幅まで、様々な幅数で描かれた「聖徳太子絵伝」がズラリと展示されているのは、一種壮観ですらあります。 「聖徳太子絵伝」第4幅の部分図です。愛知・勝鬘皇寺蔵(南北朝時代、14世紀)の作品で、併せて第1~3幅も展示されていました。こちらは室町時代、15世紀の作という組み合わせだとか。描かれた時期がなぜ逆転しているのかについて詳細は不詳。聖徳太子の伝記絵としてどの場面を表すかは基本的な押さえどころになるでしょう。この伝記絵の構成要素を十分に理解していれば、鑑賞の仕方が深まることと思います。聖徳太子の一生において、ハイライトになる場面全てという意味では十分な知識を持ち合わせていません。伝記絵のハイライト場面の一部を記憶している程度です。それ故、絵伝の一部の場面を理解しつつ鑑賞できる程度でした。その点がやはり残念でした。このセクションで印象に残ったのは、聖徳太子絵伝の他に、「法然上人絵伝」の第4・6幀(愛知・光明寺蔵、南北朝時代14世紀)、「金銅 阿弥陀如来立像・観音菩薩立像(善光寺式)」(龍谷ミュージアム蔵、鎌倉時代13~14世紀)、「善光寺如来絵伝」が2点展示されていたことです。聖徳太子と善光寺の関係を、後で少し調べてみました。「善光寺縁起」にその経緯の逸話が記されています。百済の聖明王が天皇に仏像を献じました。天皇はその仏像を蘇我稲目に預けました。稲目は自宅を「向源寺」という寺にして、仏像に奉仕をしました。だが、ちょうどその頃に熱病が流行。外来の蕃神のせいとして、物部尾輿は向源寺を焼き払います。物部尾輿は蕃神とみなした仏像を最後は難波の堀江に投げ捨てました。その後、物部守屋と聖徳太子・蘇我馬子との争いで、守屋は敗れ、一転して仏教の奨励に転換します。聖徳太子は難波の堀江に捨てられた仏像を宮中にお迎えしようとしたそうですが、尊像は機が熟すまで待つとおっしゃられたとか。その尊像を信濃国の本田善光が、尊像の導きで信濃国に背負って帰ることになります。善光が自宅に尊像を安置し、善光寺と称して開山したそうです。(資料2)また、聖徳太子が「善光寺如来に宛てて、自分が観音菩薩の化身として人々を救うのを助けてほしいと依頼する内容」の手紙があり、一方、「これに対する善光寺如来の返書と伝わる文書が、法隆寺に現存する」(資料3)そうです。親鸞が聖徳太子に抱いた崇敬の念が、真宗の中に連綿と継承されている様子を感じた次第です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「春季特別展 真宗と聖徳太子 出品リスト」 会場にて入手*春季特別展 PRチラシ1) 『釈尊と親鸞 親鸞編 第四期出品 解説』 龍谷ミュージアム p8 2011年10月2) 善光寺の逸話 善光寺縁起 :「善光寺」3) 善光寺と常徳太子の関わり :「ウィークリー長野」補遺聖徳太子絵伝 :「e國寶」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」絹本著色聖徳太子絵伝(法隆寺献納):「文化遺産オンライン」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」【絵で見る聖徳太子の一生】#1 六幅の太子絵伝 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』 5つのエピソードを深堀り解説 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』とは? YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都国立博物館 -1 「親鸞 -生涯と名宝」展 へ
2023.05.29
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=== 2023.5.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。日曜日、朝から晴れています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向の空はほぼ快晴ですが、 東方向の稜線上空には雲がたなびいています。 13時35分頃に眺めると東方向の空は青空が少し広がっていますが、雲がそのまま張り出しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲が少し広がってきています。 16時40分頃に南の空を眺めると、雲は浮かんでいますが、青空の色がよりはっきりと見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲は変化しています。 東方向の空は雲がかなり去り行き、青空が広がっていました。=== 2023.5.22 === 南の空8時35分頃に空を眺めると、朝から少しくもりぎみです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空青空が見えてはいますが・・・・、スッキリという感じではありません。 東方向の稜線上は、ご覧の通り。 東方向の空16時35分頃に撮りました。空模様はあまり変化が見られない状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 濃い灰色の雲が張り出してきています。この後、夕刻から雨になりました。さて、前回のつづきとしての雲がたりをいたします。西行法師の『山家集』(日本古典文学大系29、岩波書店)を参照して続けます。全三冊のうちの「上 夏」からです。「夏」の部には、2首だけ詠まれています。 雨中郭公 五月雨(さみだれ)の晴間も見えぬ雲路より山ほとゝぎす鳴きてすぐなり 198 [付記] 雲路より:空に すぐ:通り過ぎる 雲雀(ひばり)あがる大野の茅原(ちはら)夏くれば涼む木陰をたづねてぞ行 238 [付記] 茅原:ちがやの生えた原ご覧の通り、「雲路」「雲雀」という語彙に「雲」が入っている形です。「上 秋」には、次のとおり、けっこう「雲」を詠み込んだ歌が収録されていました。 天の原月たけのぼる雲路をばわきても風の吹きはらはなん 307 [付記] たけ⇒たく(闌く):十分にになる。盛りとなる。 わきても:中でも殊に。とりわけ。 吹きはらはなん:吹き払ってほしい いかばかり嬉しからまし秋の夜の月すむ空に雲なかりせば 310 明くるまで宵より空に雲なくてまたこそかゝる月見ざりつれ 315 [付記] またこそかゝる月見ざりつれ:このように終夜雲もなくて 皎々たる月はいまだかつてみたことがないよ。 海邊月 清見潟(きよみがた)月澄む空のうき雲は富士の高嶺の煙成(なり)けり 319 [付記] 清見潟:静岡県興津の海。 池に澄む月にかゝれる浮雲は払ひ残せる水錆(みさび)なりけり 322 [付記] 水錆:水面に浮かぶサビのようなもの。 月前遠望 隈(くま)もなき月の光にさそはれて幾雲居までゆく心そも 327 [付記] 隈:くもり。かげり。 幾雲意まで:はるかな空の彼方まで。 秋はたゞ今宵ひと夜の名なりけりおなじ雲ゐに月は澄めども 334 くもれる十五夜を 月見れば影なく雲につゝまれて今宵ならずば闇に見えまし 336 [付記] 今宵ならずば:満月の今宵でなかったら。 闇にみえまし:すっかりまっくらに見えることだろう。 待ち出でて隈なきよひの月みれば雲ぞ心にまづかゝりける 338 [付記] 雲ぞ心にまづかゝりける:やがて雲が出て来はしないかと、 先に立って気になるのであった。 秋風や天つ雲ゐをはらふらん更けゆくまゝに月のさやけき 339 [付記] まゝに:につれて。と共に。 さやけし:明るくてすがすがしい。 なかなかに時々雲のかゝるこそ月をもてなすかざり成けり 361 [付記] なかなかに:かえって 月をもてなす飾り:月に趣を添える飾り 雲はるゝ嵐のおとは松にあれや月もみどりの色に映えつゝ 362 隈もなき月のおもてにとぶ雁の影を雲かとまがへつる哉 366 雲も見ゆ風も更(ふ)くれば荒らくなるのどかなりつる月の光を 368 [付記] 更くれば:夜が更けてくると うき雲の月の面(おもて)にかゝれども疾(はや)く過ぐるは嬉しかりけり 371 [付記」 うき雲:「浮雲」に「憂き雲」がかけられている。 過ぎやらで月近くゆくうき雲のたゞよふ見るは侘(わび)しかりけり 372 [付記] 過ぎやらで:通り過ぎてしまわずに。 厭(いと)へどもさすがに雲のうち散りて月のあたりを離れざりけり 373 [付記] 厭ふ:いやだと思う。 さすがに:にもかかわらずやはり。 雲はらふ嵐に月のみがゝれて光えて澄む秋の空かな 374 [付記] 光えて澄む:月の光がますますかがやきを加えて明るく澄み切る。 九月十三夜 雲きえし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける 380 [付記] 雲きえし:一片の雲も名残りなく消え去ってよく晴れた。 秋の半ばの空:仲秋、八月十五夜の空。 今宵:九月十三夜。 名におへりける:有名になっている。 月照瀧 雲きゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける瀧のしら絲 382 [付記] 那智:和歌山県那智山 月たけて:月が天心に高くのぼって。 光をぬける瀧のしら糸:月光を宿した水玉を白糸に貫く様に、 滝水が筋をなして流れ落ちている。 久待月 出でながら雲に隠るゝ月かげを重ねて待つや二村の山 383 [付記] 「二村山は三河なり。尾張丹後にもあり。山の名賞玩なり」 (山河集抄) 雲間待月 秋の夜のいざよふ山の端(は)のみかは雲の絶間(たえま)も待たれやはせぬ 384 [付記] いさよふ:(後世は「いざよふ」)進もうとしても進めず、 止まろうとしても止まれずに、ためらう。 やはせぬ:・・・シナイノカネ。・・・スレバヨイノニ。・・・シロヨ。 朝聞雁 よこ雲の風にわかるゝしのゝめに山とび越ゆる初雁のこえ 420 [付記] よこ雲の風にわかるゝ:横に長くたなびいてる雲が風に吹かれ 山の端から離れる。 しののめ:明け方。夜明けのほのかに明るくなるころ。 雁聲遠近 しら雲を翅にかけてゆく雁の門田の面(おも)の友慕ふなり 422 [付記] しら雲を翅にかけてゆく雁:白雲に羽を交えるほど空高く飛ぶ雁。 門田の面の友:門前の田のほとりにいる雁この「秋の部」には、24首が収録されています。雲路、雲、うき雲(浮雲)、雲居(雲ゐ)、よこ雲、しら雲と、語彙の使い方もバリエーションがみられます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.23 === 南の空昨夕からの雨は深夜にも降ったようです。ベランダの物干し竿には雨滴が連なっています。8時45分頃に外を眺めると、雨は止んでいました。濡れたサンダルを拭って、三方向の空を撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空灰色雲が張り出しているものの、ちょっと青空を垣間見せる切れ目があります。 東方向の空 東方向の空15時10分頃に撮った空。灰色の雲は流れ去り、稜線上空には青空の下に白雲が浮かんでいます。 南の空東方向の空よりも濃い青空が見え、ちぎれ雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 17時15分頃に撮った南の空です。青空のトーンがまた変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の変化がおもしろい。まさに、雲変化の一日でした。 日が長くなってきました。夕刻迫る頃に、東の稜線上空は快晴状態です。稜線上空でそう頻繁には見られない空景色です。やはり蒼空は気持ちがいいですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.28
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=== 2023.5.17 === 南の空朝から晴れの日。所用で出かけていましたので、この青空を撮ったのは16時15分頃。快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空終日、良い天気に恵まれました。=== 2023.5.18 ===この日は朝から曇り空。 南の空15時半頃に記録として曇天の様子を撮りました。南西方向の空 西方向の空 灰色の雲の層の彼方に、太陽の存在を示す光点が見えます。 東方向の空どの方向も空はグレー一色です。 東方向の空2時間後、17時40分頃にもう一度空を見上げてみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 終日、くもりの一日。気分はやはり少しグレーに・・・・。さて、気分転換を兼ねて、雲がたりに切り替えましょう。和歌の世界に戻ります。手許に、岩波書店の日本古典文学大系の一冊『山家集 金槐和歌集』があります。奥書を読むと1980年7月25日第21刷発行です。西行法師の歌に関心を抱いていたので、1980年代のどこかで、購入したのだと思います。時折一部参照することはありましたが、『山家集』を通読することなく、書架で休眠していました。西行法師は『山家集』で、「雲」を含む歌を詠んでいるだろうか? その観点を梃子にして、今回収録された歌を通読しながら、「雲」を含む歌を抽出してみることにしました。西行は「雲」をどのように歌の中で詠んでいるのか。自然現象としての雲の姿に見入っているのか。雲は譬喩や象徴に使われているのか。雲をどのような情景の中で詠んでいるのか。そんなところに関心が向きます。通読していくと、西行さん、けっこう「雲」を歌に詠んでいます。手許の岩波本『山家集』は、「近世初期に近衛家で書写せられた本の系統」「陽明文庫本」を底本にし、風巻景次郎校注によります。上・中・下三冊、歌数1552首が収録されています。ここからの抽出です。『山家集』上の「春」には、次の歌が載っています。 かすみに月の曇れるをみて 雲なくて朧(おぼろ)なりとも見ゆるかな霞かゝれる春のよの月 51 空にいでて何処ともなく尋ぬれば雲とは花の見ゆる成(なり)けり 60 [付記] 空にいでて:あてどなく外に出て 雲とは花の見ゆる成けり:遠目には雲かとばかりに 咲いた花が見えるのだ 花の歌あまたよみけるに 吉野山くもをはかりに尋ねいりて心にかけし花をみるかな 62 [付記] くもをはかりに:雲をめあてに 心にかけし:心に見たいと思っていた おしなべて花の盛(さかり)に成にけり山のはごとにかゝる白雲 64 [付記] 山のはごとにかゝる白雲:山の端ごとに、花が白雲となって かかっている まがふ色に花さきぬれば吉野山春ははれせぬ峯の白雲 65 [付記] まがふ色に:峰の白雲と見誤られる色に 春ははれせぬ:春は晴れることのない おもひやる高嶺の雲の花ならばちらぬ七日(なぬか)ははれじとぞ思ふ 81 [付記] おもひやる:遠くそれと思いやる ⇒雲を花と思いやる ちらぬ七日は:花の命の保つとされている七日間は 花の下にて月をみてよみける 雲にまがふ花の下にて眺むればおぼろに月は見ゆる成ける 90 吉野山谷へたなびく白雲はみねの桜の散るにやあるらん 110 立(たち)まがふ峯の雲をばはらふとも花を散らさぬ嵐なりせば 114 [付記] 立まがふ:立ちこめて花と見まがう 吉野山花ふき具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん 115 [付記] 花ふき具して:落花を吹き連れて 吉野山桜にまがふ白雲の散りなんのちは晴れずもあらなん 132 花と見ばさすが情(なさけ)をかけましを雲とて風のはらふなるべし 133 [付記] 雲とて風のはらふなるべし:雲だからと、容赦なく吹き払うのだろう 遠山残花 吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲きおくれたる桜なるべし 142 花歌十五首よみけるに よしの山人に心をつけがほに花よりさきにかゝる白雲 143 [付記] 心をつけがほに:物を思わせるような様子で おぼつかな谷は桜のいかならんみねにはいまだかけぬ白雲 146 [付記] おぼつかな:気にかかることだなあ「春」には15首、雲を詠み込んだ歌があります。ほとんどが吉野山の桜を詠じる関わりで白雲を詠み込んでいます。桜と白雲を自然の景として対比的に詠む歌、桜の咲く様子を雲に喩えている歌、が混じっています。西行さんはやはり桜が好きだったのでしょうね。 余談。西行法師の歌では、「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」がとくに有名ですね。本書の頭注によりますと、「きさらぎの望月」は2月15日で、釈尊入滅の日を指します。この歌は、『山家集』に第77首として載っています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.19 ===朝から雨。 南の空南西方向の空 12時過ぎに窓際から撮りました。 激しい雨ではなかったと記憶しますが、雨の降る一日でした。=== 2023.5.20 === 10時過ぎに撮った南の空です。晴れました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空には灰色雲が覆い、青空はほんの一部で見える位です。 東方向の空17時すぎに眺めても、稜線の上空は灰色雲が覆っています。 一方、南の空は快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れの週末になりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.26
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玄関先の通路脇に置かれた鉢に アマリリスが咲いています。 斜め前の鉢植えで ハツユキカズラの葉が様々な色に変化を見せていています。 庭の通路を挟んで家屋側にはラベンダーが群がっていて ラベンダーの西側では、時計草が咲き出しています。家の壁沿いに少し西側に行けば、リビングルームの外側に、 ユリが咲いています。昨日(5/24)撮った1枚 今日、先ほど見れば、花びらを大きく広げていました。 アマリリスの位置から、玄関前の通路を道路(南)へ歩めば、シランがまだがんばって花を咲かせています。『山渓ポケット図鑑1 春の花』によれば、花期は4~5月。初めて知ったのですが、「地中にある球形の偽球茎は白及根(はくきゅうこん)と呼ばれ、薬用に使われる。また粘性があるので七宝細工の接着剤にも利用される」(p278)そうです。 通路の東側の小さな花壇の隅に咲くドクダミソウ。花期は6~7月。 「裏のナンテンの傍にもっと咲いてるよ」と聞き、先ほど行ってみて ナルホド! 表の花壇より、裏の北東隅の小さな花壇に沢山咲いていました。ドクダミソウって、ちょっと怖そうな名前です。が、手許の『山渓ポケット図鑑2 夏の花』を見ると、「民間薬としてよく知られ、虫さされ、切り傷、胃腸病など10種の薬効があるということから十薬とも呼ばれる」(p196)そうです。このことも知りませんでした。「白い花びらのように見えるのは4個の総苞片で、その上に花弁も萼もなく小さな花が黄色い穂になってつく」(p196)久しぶりに、ポケット図鑑を繙いてみました。ラベンダーの西隣りの壁際と玄関先に置かれたサボテン サボテンの花が咲いています。 敷地の南西側、隣家との境界にある西側の小さな花壇では、アジサイ(紫陽花)が咲き始めています。 アジサイ、ガクアジサイの花期は6~7月。 これからしばらく花が咲くのを楽しめそうです。我が地元で言えば、京阪宇治線「三室戸駅」下車で、東方向に向かうとある「三室戸寺」のアジサイが有名です。ご覧いただきありがとうございます。補遺アマリリス :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」トケイソウの仲間 :「みんなの趣味の園芸」ラベンダーの育て方|枯らさないためのお手入れ方法や増やし方は? :「Plantia」シラン :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」ドクダミ :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -1 参道を歩む 6回のシリーズでご紹介
2023.05.25
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=== 2023.5.14 === 南の空南西方向の空 日曜日、10時45分頃に眺めると空はグレーの濃淡に覆われています。 朝から雨が降っており、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空14時45分頃には、一旦雨が止んでいました。ベランダ置きの雨に濡れたサンダルの雫を拭き取って、外に出て三方向を撮ってみました。雲の形は止まること無く来たり、去り、変化しています。 南の空南西方向の空 16時55分頃に、外を眺めると再び雨が降っていました。窓際から眺めた空模様。=== 2023.5.15 === 南の空9時半頃に撮りました。灰色雲と白雲が入り交じり、空を覆っています。雲中に孔を穿ったような切れ目から青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空こちらも、雲の僅かの切れ目からかすかに青空が見えています。ほんのひととき、小雨もよいになりましたが、いわば通り雨。遠くでは、青空が広がっている地域もありました。 東方向の空17時10分頃に撮った空。青空が広がっていて、雲の姿は様変わりです。稜線よりかなり上空にちぎれ雲が漂っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲はその姿をダイナミックに変えていました。さて、前回の雲がたりのつづきに移ります。枡野俊明著『毎日に感謝したくなる 禅ごよみ365日』(誠文堂新光社)に載る「雲」を含む禅語のご紹介です。()内は本書を読んでの私的解釈。「」は本文からの引用。ページの後は暦日表示。白雲飛悠々 白雲悠々(ゆうゆう)飛ぶ p243/8.13 (空に浮かぶ白雲は悠々と風に任せて自在に飛び去っていく) 無心の白雲のようにとらわれることなく自然体でふるまうことを著者は助言します。 「自分をこんな風に見せたい」と考えれば、「自然体でなくなるのです」 「自然体にまさる自由なし、です」「自然であれば、自由でいられる」と。流水寒山路 流水寒山の路(みち)深雲古寺鐘 深雲(しんうん)古寺の鐘 p252/8.22 (谷川に沿って、寒山寺に至る道を歩いていると 雲の彼方から古刹の鐘の音が聞こえてくる) 禅寺のある場所の自然の情景を表現した句です。その自然の中に心身を預けなさい と、著者は助言しています。「自然のなかで仏様に触れる」ためにと。 それは涅槃経に記す[一切衆生悉有仏性]の句と呼応するということでしょうか。白雲無尽時 白雲尽きる時無し p259/8.29 (空には白雲が次々に湧き出してきて、尽きる時がない) 「人の考え方も、発想も、そのようなものでありたい」 人生経験を積むほどに、「心の門戸を広く開けておくこと」を著者は助言します。 「心を開くと、考え方、発想が、やわらかく、しなやかになります」と。雲出本無心 雲出ずる本より無心(むしん) p257/9.11 (湧き出でた雲はただ悠然としている。何の抵抗もなく風任せに自由に漂う) とらわれずに、「流れにまかせることです。すると、気持ちが軽くなり、自由に なります」と、著者は助言します。とらわれの心、こだわりの心を捨てよと。臥月眠雲悠然 月に臥(ふ)し雲に眠って悠然(ゆうぜん)たり p280/9.19 (月を枕に臥し、雲を布団にして眠れば、ゆったりと落ち着いた世界が広がる) 悠々自適の生活は「自分が夢中になれることを見つけ、こころからそれを楽しむ」 ところから広がると著者は説いています。「楽しむ心」がキーワードなのです。山雲海月 山雲(さんうん)海月(かいげつ) p281/9.20 (山ニは雲がかかり、海には月が浮かぶ。それはあるがままの姿のあらわれ) 五感を全開して自然、景色を感じなさいと著者は勧めています。 五感を全開して体感することが絶対的真理に気づくことになるのだと。横身臥白雲 身を横たえて白雲に臥(ふ)す p299/10.8 (身を横たえて、白雲に包まれて臥す) これは「自由無礙の境地」を表現しているそうです。その対極は<こだわり>です。 その根源はいまではスマホと著者は言い、「時にはスマホを手放し情報を遮断する」 ことを薦めています。臥月詠花眠雲 月に臥して花を詠じ雲に眠る p301/10.10 (月光を浴びて横たわり、花を愛でて歌を読み、雲をまとって眠る) 花鳥風月、自然への回帰を体験することを著者は薦めています。心を解き放ち、 命をリフレッシュしてごらんなさいと。終日看山又看雲 終日山を看(み)又(また)雲を看る p360/12.8 (終日、ただ山を見て、または雲を見て、過ごす) 「何もしなくても、心が満たされている。自然と一体になった自分が感じられる、 ということ」そんな心もちで、山や雲を見ている心境を意味しています。 そんな満ち足りた境地のひとときをもちましょうという著者のお薦め。雲花驚歳晩 雲花歳の晩(おそ)きに驚く p371/12.19 (ちぎれ雲<雲花>を見て、年の瀬が押し迫っていることに驚ろく) 気持ちが急くのは、考える脳、判断する脳が活性化している時だそうです。 そんな時は、脳のスィッチを「感じる脳」を働かせる方に切り替えると良いとか。 ボーっと景色を眺めたり、心地よい音楽を聴くなどの時間をもちなさいと。 それが「気持ちを落ち着かせ、心を穏やかにする」と著者は薦めています。雲掃長空巣月鶴 雲長空(ちょうくう)を掃(はら)って月に巣くう鶴寒清入骨不成眠 寒清(かんせい)骨に入って睡り成らず p381/12.29 (厳寒の空には雲一つ無く、月が輝き、巣の鶴は 寒さが骨髄に染み入り、眠ることができない ) この凜として寒さに耐える鶴の姿は、高潔さを象徴しているそうです。 「人生には、絶えるしかない状況もあるのです。そこで・・・・絶えきってみせる」 「絶えきる姿が、高潔さをまとう」と著者は語っています。 そして、「和らがない寒さも、明けない夜もないのです」と。 この本には、「行雲流水」(p100)、「雲無心出岫」(p189)、「白雲抱幽石」(p205)、「白雲自去来」(p217)、「万里無片雲」(p275)も採録されていますが、以前の雲がたりでご紹介していますので省略します。「禅語」に絡む雲がたりは、この辺りで一旦、一区切りと致します。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.16 === 10時35分頃に撮った南の空です。空は快晴!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の稜線上の空は、いつものように靄っています。 東方向の空14時40分頃には、稜線上空もまた雲のない青空一色に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿は見られませんでしたが、快晴の良き一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.21
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=== 2023.5.11 === 9時15分すぎに撮った南の空。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向の空は快晴で青空が見えても、東方向の空はいつものように、雲は見えませんが全体に薄いベールがかかった感じです。 午前中の東方向の空も、14時45分頃に眺めると、青空に変わっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 三方向の空一面、快晴!! 南の空を17時15分頃に撮りました。快晴に恵まれた一日でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.5.12 === 10時25分頃に撮った南の空。快晴の日が続きます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空昨日との違いは、筋雲のような雲が少し浮かんでいるのが見られることです。 東方向の空 14時頃に撮った東の空は青空に変化し、稜線より上空にわずかに雲が見えます。 南の空にも、小さめの白雲がふんわりと浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時10分頃に眺めると、雲がベールのようにかかる姿に変わってきています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 17時30分頃に東の空を眺めると、稜線近くにも雲がかかってきています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空夕刻から、徐々に雲が広がってきているようです。天気予報は崩れる方向へ。さて、雲がたりのつづきを少し。再び禅語に戻って見たいと思います。2020年のあるとき、新聞一面下部の出版広告で、『禅ごよみ365日』というタイトルの本が目に止まりました。内容も見ずにネット経由で発注して購入。著者は桝野俊明さん。奥書のプロフィールには曹洞宗特雄山建功寺住職で、多摩美術大学の教授でもあり、庭園デザイナーとあります。誠文堂新光社刊。「毎日感謝したくなる」というフレーズを冠した10.5cm×16cmという小型本です。禅語をこよみ形式で、というところに惹かれて購入。「どのように禅語を活かして暮らしていくか、その手がかりをまとめました」という意図の本でした。著者は禅語の解釈そのものよりも、禅語を手がかりにした暮らし方をわかりやすく提案するという主旨なのです。禅語そのものの出典には一切触れていません。私的にはこの点少し不満足な部分です。それはさておき、本書にも「雲」を含んだ禅語が結構含まれています。そこで、本書の本文を読み、禅語について理解した範囲で私流に語釈を付記し、またこの禅語から著者が助言・提案されたエッセンスを引用して、ご紹介します。()内は私流の解釈。「」は同著本文からの引用です。禅語の載るページと本書の暦としての日付を付記します。私の誤解を含むかも知れませんので、ご寛恕ください。禅語を抽出列挙に、一部引用文を併記します。慶雲生五彩 慶雲五彩を生ず p34/1.17 (天空にはめでたい雲が無限の色[五彩]をに染め上げられて浮かんでいる) めでたさを素直に寿ぎましょうということかと理解しました。破雲寒月明 雲破れて寒月明らかなり p39/1.22 (冬の夜、覆っていた雲がと切れて、月がはっきりと見えた) 雲=迷い、月=悟りという暗喩がうかがえます。人は迷いながら生きる。 「どんな迷いにも、必ず吹っ切るきっかけが訪れる」と著者は説きます。瑞雲繞寿山 瑞雲(ずいうん)寿山を繞(めぐ)る p137/4.29 (めでたい雲が寿山を取り巻いている。めでたさ溢れる光景だなあ・・・) ここでの雲は、寿山に照応して長寿のめでたさを象徴していると言います。 暦の4月にこの句を取り上げ、めでたい光景に出会う旅にでかけなさいと。 絶景探しの旅を薦めています。心機一転は行動から・・・ということか。雲收山岳青 雲収(おさ)まりて山岳青し p187/6.18 (山ニかかっていた雲が消え去り、青々としたもとの山岳の姿が現れている) 著者は「煩悩がなくなると、自分のなかの仏性が明らかになる」と記します。 著者のお薦めは「何かを欲しいと思ってもひと呼吸置きましょう」です。雲去青山露 雲去りて青山露(あらわ)る p195/6.26 (空を覆っていた雲が消え去ると、そこには青々とした山があらわれた) 上の句と同主旨。著者は「迷いがなくなって、本来の自分が見えるようになる」と。 著者曰く「迷ったときは『縁』を大事にしなさいと、禅は教えます」孤雲本無心 孤雲本(もと)無心 p108 (ひとかたまりの雲は、自在にその姿を変え、どちらの方向へも流れていく。 もともと雲は自由自在なのだ) 孤雲のように「順境にあって驕らず、逆境にいて腐らず」の自在な心を持ちなさい と著者は薦めています。「自在な心はどんな境遇にも対応できる」と。白雲自在 白雲(はくうん)自在(じざい) p214/7.15 (白雲は自由自在に風とともに流れていく) こだわりに捕らわれないようにしましょう。こだわる心から離れるには、 「相手に言葉の真意」を正攻法で尋ねるのが最良の方法と著者は言います。夏雲多奇峰 夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し p220 (夏の雲つまり入道雲を眺めると、その姿は雄大な奇峰が連なっている様である) 自然の壮大なスケールから、著者は「自分の小ささを知ることも大切です」と説く。青山白雲 青山(せいざん)白雲(はくうん) p232/8.2 (青山に白雲がかかる) 青山と白雲は、互いに共存する存在、支え合い補完する形で存在しています。 「誰かがいて、自分がいる」「人と人とのつながりも、そのようなものでありたい」 と著者は語っています。庵中閑打坐 庵中(あんちゅう)閑(しず)かに打坐(たざ)すれば白雲起峰頂 白雲峰頂(ほうちょう)に起こる p234/8.4 (庵中で閑かに坐禅をして、穏やかな心で、白雲が峰の頂きに起こるのをみている) 禅僧の理想は、豊かな自然とともに暮らす隠遁生活をすることと言います。次回は抽出禅語の後半のご紹介です。再び、雲の姿の変化に戻ります。=== 2023.5.13 ===朝はくもり空でした。午前中、所用で出かけていました。帰宅するまで曇りの状態が保たれましたが、午後3時頃には雨が降り初めました。 南の空 南西方向の空 記録を兼ねて、16時45分すぎに窓際から撮った二方向の空の雲の姿です。 13日は土曜日。この週末は天気が崩れることに・・・・・。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.18
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=== 2023.5.9 === 南の空9時20分頃に撮りました。薄い雲が見えるくらいで、晴れ上がった空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空普段の眺めからは少し明るめの空模様が遠望できました。まずは晴れ日の始まり。 東方向の空14時25分頃に眺めると、稜線上空の雲が去り、青空そのものです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空東・西・南の三方向と頭上の空は、快晴状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空終日、ほぼ快晴が続いたといえ、青空が広がる一日でした。久しぶりに、雲がたりを始めます。「快晴」を手許の辞書で引きますと、「よく晴れた天気。雲量0~1」と説明しています。さらに「雲量」を引くと、「雲に覆われた部分の空全体に対する見かけ上の割合。空全体が雲の場合を10として、0から10まで11級に分ける」(『日本語大辞典』講談社)というです。「快晴」は観察した時点での判断ですので、一日全体の状態を言うには観察評価方法を決めないと言えません。まあ、一応この二語の説明を踏まえて、観察範囲の大凡の感じとして「ほぼ快晴が続いた」と印象を上記しました。(事実、お解りのとおり北方向は観察ゼロです。)さらに、少し前のブログ記事にコメントをいただいた Jobim さんへのご返事の中で、自問したことを少し調べてみました。その時に「青空の色調を表現した語」という言い方で自問をしたのです。ところが「青空」の色調ということは、青空自体の色のヴァリエーションを表現することになります。青い色の状態を識別し、そのカラーの色名表記がわかれば、その色名を形容に使う形で、実際の青空の状況を表現できることに気づきました。そこで、「青空」自体を違う語彙でどのように表現するかを調べることにしました。結果的に語彙表現の中に色調感が取り込まれているということにもなりました。「青空」と同義の語彙を、手許の辞書から調べた範囲でご紹介します。(参照洩れがあるかも知れません。その点はご寛恕ください。)青空 あおぞら 青く晴れた空 a よく晴れた空 b 雲のない青い空。良く晴れ渡った青い空。碧空。 c 碧空を見出しに併記。青く見える空。蒼天。青天井。 d青玄 せいげん おおぞら。蒼玄。 e おおぞら。 f青天 せいてん あおぞら。蒼天。 e おおぞら。 ⇒同義語:翠空。蒼穹。碧天。 f青穹 せいきゅう 青空。蒼穹。 e青冥 せいめい あおぞら。青天。 e青霄 せいしょう あおぞら。碧空。蒼空。 e蒼穹 そうきゅう 「青空」の漢語的表現 [穹は弓形になっている意] a 青空。大空。 b 青空。大空。蒼天。 c あおあおとしている弓なりの空。あおぞら。おおぞら。蒼天。蒼空d ⇒蒼 そう あお。あおい。あおくさ色。 b あお。青い。草の青い色。深青色、こい青色 e、f [補足] 蒼蒼 そうそう 空の色のあおあおとしたさま。晴れた天の色。 蒼天 そうてん 1.青空。大空。 2.春の空。 c 1.あおぞら。おおぞら。 2.春の空 d 1.青空、天。 2.春の天。春の空 e、f蒼空 そうくう あおぞら。おおぞら。 c あおぞら。おおぞら。蒼天。 d あおぞら。 e、f蒼天・蒼空の同義語 e、f ⇒蒼極 この言葉は項目としては付記ですが、dに次の成句が項目の一つ 蒼天曷有極(そうてんなんぞきわまりあらん) 天はひろびろと果てしなく、尽きることがない。 蒼玄(そうげん)青ぞら。天。 蒼昊(そうこう)あおぞら。 ⇒同義語:碧漢 蒼旻(そうびん)おおぞら。 区別すれば蒼旻は秋の空。 蒼顥(そうこう)大空。天空。⇒同義語:蒼天碧天 へきてん 碧空のそら。あおぞら。 d 青空。青天。 e碧空 へきくう 「青空」の意の漢語的表現 a 青空。blue sky b 青空。晴れ上がった美しい空。 c おおぞら。青空。碧天。 d あおぞら。 e、f手許での参照書籍は次の辞書です。ほとんどが年代物になってしまっていますが・・・。 a:新明解国語辞典 第五版(第27刷) 三省堂 b:日本語大辞典 初版 講談社 c:大辞林 初版 三省堂 d:広辞苑 初版 岩波書店 e:角川漢和中辞典 初版 角川書店 f:角川新字源 初版(341版) 角川書店私が「青空」以外に身近な語彙として知っていたのは「蒼空」「蒼穹」だけです。漢字ワールドは奥が深い。どれくらいの人々が、いつ頃まで、これらの語彙を自由に駆使したのでしょうか。その人が実感する「青空」を表現するために・・・・・。さて、雲の姿に戻ります。=== 2023.5.10 === 8時45分頃に撮った南の空です。晴れた日がつづきます。良いですねえ・・・。南西方向の空 西方向の空 3,4本に見えるこの筋状の飛行機雲は何でしょう。飛行機の通過した跡? 頭上の雲 東方向の空稜線の一部にズームアップしすぎましたが・・・・南の空の晴れ具合のときでも、東の稜線上空は午前は曇った感じの状態ということが普段ということはおわかりいただけるでしょう。 13時20分ごろに眺めた東方向の空は、稜線の上に棚引く雲はやわらかな感じの層を成し、青空が背景に広がっています。 南の空 筋状の雲がのびやかに広がっている感じです。南西方向の空 西方向の空 西の空には、ゆらゆらした感じの雲が見えます。午前に見た飛行機雲の変化した姿でしょうか。雲が去り、新たに現れた揺らいだ筋雲なのでしょうか。雲の変化はおもしろい。 頭上の空 南の空15時半頃の南の空です。雲の姿はかなり変化しています。雲去り、雲来る・・・・。南西方向の空 西方向の空 西の空には、巻き上がったような雲の姿が見えます。記録写真のこの雲をじっとみていると、人の顔が浮かんでいるようにイメージできておもしろい。あなたは、そんな風にみえます? 頭上の雲頭上に、東西方向に巻いた形に伸びる雲が見えました。こんな雲を頭上で見るのは、記録写真を撮り始めて初めてです。 東の空つづく補遺青・ブルー系の色一覧 :「色彩図鑑」原色大辞典 ホームページ 和色大辞典 web216 第27回 色の客観的な表現と伝達(その1) :「シーシーエス株式会社」色の表現方法 :「HOKKEI」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.14
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=== 2023.5.5 === 9時半頃に撮った南の空です。全体に灰色の雲で覆われています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方位を眺めても曇り空。しかし、この曇り空が徐々に晴れて行きます。 東方向の空17時40分頃に空を眺めると雲はさまざまな姿を見せており、青空が広がっています。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 くもり、のち晴れ。雲多く、その姿がさまざまなので楽しめる空でした。=== 2023.5.6 === 9時40分頃に撮った南の空です。天気予報はくもりから雨に崩れるという予報でした。この記録写真をじっと見ていると、人の目をイメージさせる箇所があります。人の顔にも広がりそう・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には、少し青空が見えます。 15時過ぎに東方向の空をみますと、青空は見えなくなり、雲は灰色のグラデーションで稜線から上空へと広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気は夜までくもりの状態が保たれ、午後7時頃から雨が降る様に変化しました。=== 2023.5.7 ===ゴールデン・ウィークの最終日は朝から雨の降る一日でした。 南の空南西方向の空 14時40分頃に、記録として窓際から二方向を撮りました。=== 2023.5.8 === 8(月)は晴れに一転しました。ダイナミックに様々な雲が群がる感じの空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 東方向の空東の稜線の上にはかなり厚い雲が重なり、青空も見えます。 13時半頃に東方向の空を眺めると、稜線上の雲は大きく変化し、青空のみえる部分が広がり、明るさと穏やかさが加わった感じに変化していました。空は雲の劇場です。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向の空では、雲が大きく減少し見えるのは軽やかな小雲だけです。 頭上の空 南の空18時15分頃に撮った写真です。青空と白雲を楽しめた後はふたたび雲が広がり、くもり空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空も再び様変わりですが、未だ青空が何となく感じ取れる状態でした。次回から、雲語りも織り込みながら雲眺めをやりたいと思います。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.13
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=== 2023.5.1 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10時20分頃に撮りました。三方向とも雲のない青空です。気持ちの良い晴れ日。 13時50分頃に東方向の空を見上げました。雲は稜線の向こうに少し見えるくらいです。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向の空にかけては快晴です。 15時50分頃に眺めると南の空には雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も雲に覆われた状態に大きく変化しています。晴のちくもり。=== 2023.5.2 === 南の空9時30分頃に撮りました。昨日に続き、晴れ上がった空から始まる一日。晴はやはり気持ちが良い!南西方向の空 西方向の空 南西方向から西方向にかけては雲が浮かんでいます。 東方向の空 稜線から離れた上空に雲が漂っています。 東方向の空 17時頃に撮りました。晴れた空。少し雲がみえる程度です。 南の空南西方向の空 南から南西方向にはふわっとした雲がひろがっています。 西方向の空 頭上の空飛行雲の様な一筋の雲が見えます。頭上でこんな雲を見かけたことはなかったような・・・・。=== 2023.5.3 === 9時40分前に撮った南の空。少し雲が見える程度で、連続の晴れが続きます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は少し靄がかかった感じです。 16時過ぎに撮った東方向の空です。 南東方向の空 南の空 雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 頭上にもふわっとした雲がただよっています。5月は3日連続で晴れ日です。=== 2023.5.4 === 10時半頃に撮った南の空。この日は雲が昨日より多く広がっていますが、晴れた空から一日の始まりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、稜線の上空に雲が広がっています。 15時半過ぎに眺めた東方向の空は雲がなくなり、薄く靄がかかった感じですが青空がひろがっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空一方、南から西方向の空は頭上も含め、雲で覆われる形に大きく変化してきました。 17時半過ぎの南の空。2時間前の雲の動きは消滅し、白雲が漂う形に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向と頭上の空はかなり雲の姿に変化が現れています。 東方向の空こちらにも変化が見えます。稜線の上には雲が張り出しています。いずれにせよ、この日も晴れた日が連続することで終わりました。ゴールデン・ウィークの前半は晴れた日が続くことで、各地が賑わったことでしょう。暦の5月には追いつきましたが、雲の姿を記録することをまず最初に。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.12
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=== 2023.4.25 === 南の空南西方向の空 9時20分頃に撮りました。小雨ですが、雨のため窓際から二方向だけに。 南の空南西方向の空 15時20頃に、外を眺めてみました。雨はやみ、くもりに。=== 2023.4.26 === 南の空南西方向の空 12時頃に撮りましたが、雨のため窓際から二方向の空模様を記録に。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空17時20分頃に空を眺めると、雨は止みくもりに変化。雲は逆に一層降りそうな様子なのですが・・・。=== 2023.4.27 === 11時50分頃に撮った南の空です。連続の雨のちくもりの天気から一転して明るい青空が戻ってきました。南西方向の空 西方向の空 「ちぎれ雲」と称される類いの雲の姿のようです。 東方向の空稜線上には横雲が棚引いていて、その上空にはぽっかりと楕円形の白雲が浮かんでいます。天気が良いので、散歩を兼ねて理髪店に出かけました。=== 2023.4.28 === 9時頃に撮った南の空です。飛行雲の様な雲が見えます。晴れた日が続きます。南西方向の空 西方向の空 この様な雲は何と呼ぶのでしょう・・・・。 東方向の空 14時45分頃に眺めた東方向の空です。雲の合間から青空がうかがえます。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空 17時45分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空=== 2023.4.29 === 8時半頃に撮った南の空です。雲に覆われ、天気はくもり。南西方向の空 西方向の空 東方向の空には、上空に黒い雲も見えます。 東方向の空 15時20分頃に眺めた空。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空南西方向の空 17時40分頃には雨が降り始めていました。窓際から二方向だけ撮りました。くもり、夕刻より雨の一日でした。=== 2023.4.30 === 南の空南西方向の空 9時20分頃。外は雨。窓際から二方向を撮りました。 15時20分頃に眺めた南の空。濃い灰色雲が空を覆っていますが、雨は止みくもりに。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 18時頃に、東方向の空を見上げると雲の彼方に青空が見え始めていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雨のちくもり、そして午後6時には晴れの方向へ。天気が大きく変化する一日でした。ゴールデン・ウィークは予報通り、晴れた日からスタートする兆がみられました。これで暦の月には追いつきました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.08
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=== 2023.4.21 === 9時10分頃に撮った南の空です。曇り空。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけて、箒目をつけたようなみかけない雲の姿です。 頭上の空 東方向の空 17時20分頃に眺めた東方向の空。午前よりも少し暗さが薄らいでいました。 南の空 軽やかな感じの雲が浮かび、青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.4.22 === 南の空 9時半頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもの如くです。 13時50分頃に東方向の空を眺めると、雲のない青空が広がっています。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴れた良き一日でした。=== 223.4.23 === 9時半頃に撮った南の空。昨日に続き快晴で一日が始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空は靄がかかったような感じで、青空が冴えません。 15時20分頃に眺めると、東方向の空も青空がはっきりと見えます。微かに雲が稜線の上空に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 17時45分頃に撮った南の空。空は見かけない雲の姿で覆われていました。ネットで画像を検索すると、「うろこ雲」と称される雲のようです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空夕方はうろこ雲が全体に広がる空模様でした。写真を撮り始めてたぶん初めてかと。=== 2023.4.24 === 南の空8時50分頃に撮りました。天気は曇りに変化。灰色の雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 14時50分頃に眺めた東方向の空。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 天気予報どおり、曇りの一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.06
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=== 2023.4.17 === 8時半頃に撮った南の空です。晴れた日が続きます。活発な雲!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもと違います。稜線上には活発な雲がかかり、霞んでいますが青空がよく見えます。 13時半頃に眺めた東方向の空は、白雲が姿を変えさらに広がっています。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空さまざまな姿の雲が適度に浮かんでいる青空がやはりいいですね。 17時頃に眺めた南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上、晴れた空にこんな景色で雲が浮かぶ姿をあまり見かけたことがない・・・。=== 2023.4.18 === 南の空 9時過ぎに撮りました。ほとんど雲がない快晴。晴れた日が続きます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空は普段のよくある状況。山域の早朝の気温と湿度が関係するのでしょうか。 13時頃に眺めた東方向の空です。朝と同様の空の状態でした。 南の空 午前中とは大きく天気が変化してきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空空は全面、薄墨色から濃い灰色の雲で覆われています。 南の空南西方向の空 17時20分頃に外を眺めると、雨が降っていました。 窓際から二方向の空模様を撮るだけに。=== 2023.4.19 === 南の空昨日の午後からの続きで、朝から曇り空です。15時15分頃に記録として撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 終日、くもり。=== 2023.4.20 === 南の空朝から晴ていたと思います。この日は14時20分頃に初めて撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 17時半頃に撮った東方向の空。 南の空には雲が見られず快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空スッキリとした青空という感じでは無かったのですが、晴れた一日でした。もう少し、雲の姿だけで時を追いかけます。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.04
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=== 2023.4.12 === 8時頃に南の空を撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空雲が全面的に広がっていますが青空が見えていました。 南の空南西方向の空 ところが、11時半頃には既に雨が降っていました。窓際から撮った空です。 南の空南西方向の空 13時50分頃に外を見ると雨が続いていて、再び窓際から二方向を撮るだけに・・・。 南の空16時30分頃にもう一度外を見ると、雨は既に止んでいました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空各方向の空を撮りました。くもりに変化したものの空の様子に大きな変化は見られませんでした。はや5月となり、ゴールデンウィークの後半に入っています。時に追いつくために、雲の変化をまとめることにまた数回専念します。=== 2023.413 === 10時20分頃に南の空を撮りました。昨日とはうって変わり快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空快晴でも、東の空はやはり午前は靄がかかった感じです。 14時45分頃に空を眺めると、東方向の空も青空が感じられるようになっています。雲がなく上天気です。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴に恵まれた一日となりました。=== 2023.4.14 ===9時15分頃に南の空を撮りました。昨日に続き天気は良さそうな感じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空日中は晴れていましたが、天気予報では深夜から雨予報。予報通り雨になりました。=== 2023.4.15 === 10時頃に撮った南の空、雨です。南西方向の空 窓際から撮るだけに。 南の空南西方向の空 15時に再度外を眺めましたが、雨が降っています。 強くはないけれど雨の降る一日・・・・・。=== 2023.4.16 === 8時半頃に撮った南の空。雨が降れば、晴れが戻って来る。気分はやはり軽やかに。青空に白雲です。雲の姿が楽しめます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空青空が見えますが、稜線の上には黒ずんだ雲が居座っている感じです。前日からの残り雲でしょうか。 12時頃に東方向の空を眺めると、稜線上には、雲が層状に見えます。黒い雲は消え、一部に灰色の雲へと変化し、雰囲気は明るくなっています 一方、南の空には灰色雲が空を覆う形に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴から曇りへと転換です。 16時20分頃に、南の空を見ると、灰色雲は消え去り、再び青空に白雲へと変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 東方向の空 雲の変化が楽しめる一日でした。時に追いつきましょう。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.03
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=== 2023.4.9 === 朝から快晴。14時45分頃に撮った南の空です。午前中は府議会議員選挙の投票や図書館に行くなどで記録写真を撮りませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も雲の姿はなし。 東方向の空17時前に撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 一日快晴! 良き日かな・・・です。=== 2023.4.10 === 南の空所用で出かける前、7時15分頃に撮りました。昨日に続き快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつものように、少しもやっとした感じ・・・・。 帰宅後、13時過ぎに撮った東方向の空です。稜線上にぽっかりと白い雲。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空 18時頃に空を眺めると、雲がかなり見られました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上の雲は、夕陽を受けて少し色づいていました。さて、雲がたりに移ります。雲に関わる語彙の続きです。もう一冊手許で参照している『大辞林』(初版、三省堂)についても、『広辞苑』初版との語彙対比を試みました。『大辞林』は先般使った『日本語大辞典』よりも1年前、1988年11月に刊行されています。そのため、これら2冊は『広辞苑』初版との対比としては、ほぼ同じ期間の差があると言えます。このタイムラグが編纂の上で、時代の変化に合わせた語彙の選択の違いとして出ているかもしれません。前回と同様のパターンで対比してみました。[A.雲(くも)と読む語彙]A-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲、雲脚、雲井・雲居、雲井の桜、雲井の庭、雲井の峰、雲井龍雄、雲霞、雲形、 雲形定規、雲形肘木、雲霧、雲煙、雲路、雲障子、雲透、雲助、雲立涌、雲斗、 雲鳥、雲の梯、雲の上、雲の上人、雲の通路、雲の波、雲の波路、雲の林、雲の峰、 雲の余所、雲箔、雲肘木、雲額、雲間、雲水、雲行、雲腸、A-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 雲居の桜、雲居隠れ、雲居路、雲居の空、雲居の余所、雲居隠る、雲隠れ、雲切草、 雲切仁左衛門、雲切れ、雲助唄、雲助根性、雲取山、雲の果たて、雲間褄黄蝶、A-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 雲合、雲居地、雲井調子、雲井如す、雲井の雁、雲井曲、雲井の余所、雲井弄斎、 雲隠る、雲入、雲隠、雲風、雲紙、雲切、雲霧五人男、雲介、雲簾、雲の脚、雲の主 雲の庵、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣、雲の声、雲の梢、雲の経、 雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃(とざし)、雲の帳、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、 雲の原、雲の舟、雲の籬、雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の都、雲の八重葺、雲の夢、 雲焼、雲夜、雲分眉、雲離、雲見草[B.雲(うん)と読む語彙]B-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟、雲霞、雲海、雲外、雲客、雲鶴、雲漢、雲気、雲脚、 雲脚台、雲級、雲鏡、雲形、雲霓、雲向、雲高、雲崗・雲岡、雲合霧集、雲谷等顔、 雲谷派、雲居寺、雲根、雲彩、雲散、雲散霧消、雲棧、雲山、雲州、雲集、雲照、 雲霄、雲上、雲上人、雲上明覧、雲壌、雲蒸竜変、雲水、雲仙、雲仙岳、雲仙躑躅、 雲孫、雲台、雲底、雲梯、雲泥、雲泥万里、雲伝神道、雲堂、雲屯、雲南、雲衲、 雲版、雲表、雲萍雑志、雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲母、雲甍、雲夢沢、 雲門、雲紋竹、雲屋台、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲量、雲林院、雲廊、B-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 雲煙過眼、雲煙飛動、雲角、雲関、雲鬟、雲気文、雲錦模様、雲形定規、雲華焼 雲斎織、雲車、雲州算盤、雲集消息、雲心月性、雲仙天草国立公園、雲伯方言 雲豹、雲門宗、雲嶺、雲路B-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲間、雲居、雲際、雲斎、雲散鳥没、雲脂、 雲蛇、、雲岫、雲生、雲消霧散、雲箋、雲仙国立公園、雲中、雲中白鶴、雲揚艦[C.語彙に「雲」を含む語彙]C-1:『広辞苑』と重なる語彙 天雲、天雲の、雨雲、暗雲、 絹雲母、金雲母、黒雲、行雲、行雲流水、香雲、耕雲、黄雲、五雲、五雲の車、 彩雲、紫雲、似雲、慈雲、秋雲、愁雲、春雲、祥雲、浄雲節、白雲、水雲、 瑞雲、青雲、青雲の志、青雲の士、青雲の交、星雲、星雲群、星雲説、星雲線、 星雲団、積雲、宋雲、層雲、叢雲、 大雲院、朶雲、棚雲、淡雲、断雲、東雲、凍雲、夏雲、 薄雲、白雲母、飛雲、飛雲閣、雲雀、雲雀山、浮雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲の道、八雲御抄、 雷雲、乱雲、凌雲、凌雲閣、凌雲集、凌雲台、 鰯雲、入道雲、飛行機雲、綿雲、鱗雲、雪雲、夕雲、暮雲、鉄床雲、笠雲、風雲、 レンズ雲、波状雲、(最初の4語は前回、後の9語はこの両辞典対比で気づいて追加)C-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 茜雲、疑雲、層雲峡、早雲寺、白雲岩、白雲石、白雲木、大雲寺、雲雀毛、雲雀笛、 雲雀骨、八雲さす、陵雲の志、茸雲、漏斗雲、頭巾雲、乳房雲、真珠雲、鯖雲、 羊雲、C-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 岩雲、絹雲母片岩、行雲体、湿雲、翠雲、赤雲、測雲器、微雲、碧雲、横雲、D.雲級としての名称 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲手許にある大型の辞典間の対比はこれで終わります。各辞典はその後改版が重ねられていますが、私には未だこれらを使いこなせていません。やはり、まずハンディな手許にある小型の辞書を使い、その後で大型の辞書を引くことになります。インターネットの辞書類も併用できますので、現状はこれらで間に合っています。因みに、『広辞苑』は現在、第7版(2018年刊行)、『大辞林』は第4版(2019年刊行)、『日本語大辞典』は第2版(1995年刊行)になっています。それでは、この位にして、雲の変化に戻りましょう。=== 2023.4.11 === 9時20分頃に撮った南の空です。 この日も引き続き快晴で始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空13時30分頃に撮りました。少し青空の雰囲気が出ている感じに・・・・。 南の空 かなり活発に雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲の形はあまりみかけない感じのものです。 16時30分頃に南の空を眺めると、再び青空が見えていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には稜線上に雲が棚引き、その上空は青空が広がっています。しばらく快晴が続きましたが、天気予報は12日から崩れると報じていました。つづく補遺不気味だけど神秘的!珍しい雲18種類と基本の雲10種類を写真付きで紹介 :「かめらポケット」雲にはどんな種類がある?基本的な雲から珍しい雲まで紹介 :「FUJIFILM SQUERE」[写真付き]雲の種類10選 珍しい雲や特徴もご紹介 :「Mola」たった10種類だけの無限 雲の名前を覚えよう :「自然人.netコミュニティ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.29
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南門から入り、噴水のある広場側と平成知新館を撮った景色です。 明治古都館側に目を転じた景色 平成知新館への通路を歩むと、右側(西側)には噴水のある広場への階段があり、広場の先には、京都国立博物館の表門(西門)が遠くに見えます。 平成知新館の入口の少し手前から、南西方向よりに眺めた景色です。 平成知新館1階の南側通路のガラス壁面越しに南側を東から西へと眺めるとこんな風に庭が広がっています。 平成知新館を出ると、「親鸞-生涯と名宝」展の大型パネルの裏面は秋冬季の展覧会の案内が掲示されているのが目にとまります。 ツツジの開化を眺めつつ、噴水のある広場に向かいます。 噴水の向こう側(南西方向)にもツツジが咲いています。噴水の手前で東側に回り込みます。私が恒例にしている定点撮影です。 そう。ロダン作「考える人」のブロンズ像の撮影。 「考える人」像の側から東方向の眺め 明治古都館を背景にこれから一層咲き誇るツツジの垣根の景色です。 ツツジに囲まれた「考える人」は、何を思索しているのでしょう。 噴水のある広場の南辺を西方向に歩み、平成知新館南面の西側を眺めた景色 博物館の表門(西門)を内側から眺めた景色 表門側から眺めた明治古都館明治古都館、表門と七条通に面する塀。このレンガ造りの洋風建築物は、「宮廷建築家」と呼ばれた片山東熊(かたやまとうくま)により設計されました。片山東熊は宮内省内匠寮の技師だった人です。1897(明治30)年5月1日に「帝国京都博物館」として開館されています。噴水のある広場の南側には、西の庭があります。 噴水に近い広場の先、西の庭の北辺に置かれた石灯籠 石灯籠の向こう側(南側)にもツツジが咲き始めています。 西の庭の中央部あたりに置かれた石造不動明王立像と背後に咲くツツジ 庭の散策通路の反対側、北東方向には石造地蔵菩薩坐像が鎮座します。 紅白のツツジが咲き始めたところのようです。ゴールデン・ウィークあたりには満開でしょうね。 西の庭の中央の散策路を西側から歩んでくると、東側からこの散策路に入る側、つまり今回は庭からの出口付近に、この大きなブロンズの灯籠が置かれています。ここにもツツジが咲いています。 明治古都館の南側を巡り、久しぶりに東の庭への石段を上りました。 石人 石幡この東の庭には石造遺物を点在させる形で保存されています。 「李朝墳墓表飾石造遺物」という標題の案内板が北寄りに設置されています。(以前に説明内容のご紹介をしていますので詳細は省略します。石造遺物と花との景色をお楽しみください。)京博への寄贈品の保存です。 「李朝太祖健元陵 石造遺物配置図 -楊州郡九里面仁倉里(東九陵)-」が併載されています。 墳墓は階段状に築造されていることが断面図として明示されています。 石人(文官像) 石人(文官像) 石羊 石人(童子像)東の庭も、もう少しの時を経て満開となることでしょう。平日を選んで出かけました。海外からの来訪者も見かけ、それなりの鑑賞者数を各展示室で見かけました。しかし、庭で休憩したり散策している人はほんのわずかでした。静かな散策のひとときを楽しめました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料京都国立博物館 ホームページ 屋外展示 観照 京都国立博物館 -1 「親鸞 -生涯と名宝」展 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -1 石人いろいろ観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -2 様々な石造物
2023.04.24
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20日(金)、京都国立博物館で開催の親鸞生誕850年特別展「親鸞 -生涯と名宝」を鑑賞して来ました。冒頭の大型パネルは南門側、七条通の歩道沿いに掲示のものです。 入場券 入口を入ると、明治古都館を背景に、ツツジの花が目にとまります。 平成知新館への通路の両側に咲くツツジを眺めながら北に歩みます。 平成知新館手前の特別展の大型パネル 平成知新館に入館すると、突き当たりの壁面に、恒例の記念撮影用巨大パネルが設置してあります。特別展会場はまず3階まで上がります。その階の展示室を順次巡りながら階を降りて行くという鑑賞順路になります。 今なら各所で入手できるのがこの特別展のPRチラシ こちらは館内で入手した「京都国立博物館だより 2023年4・5・6月号」です。これらも参照資料にして、部分的に引用します。 こちらは特別展の鑑賞後に購入した図録です。今回の図録の表紙はごくシンプルな装幀。裏表紙はさらに単純化されています。特別展のタイトルに照応し「親鸞」に焦点を絞り込んだデザインという感じです。この表紙の親鸞像が拝見できたかというと残念ながらダメでした。 チラシの裏面からの引用右側の掛幅に描かれた親鸞像が上掲画像に使われています。「親鸞聖人像(安城御影副本)」(京都・西本願寺蔵)の御影です。会場で入手した「出品一覧・展示替予定表」で事後確認すると、特別展の始まった最初の3/25~4/2の期間に限定展示されたようです。御影もまた期間区分ごとに展示替えが行われています。特定の御影を拝見したいならば展示期間にご注意ください。左側は親鸞筆の六字名号です(西本願寺蔵)。こちらは5/2~5/14に展示が予定されています。つまり、私は両方拝見できずでした。1階の最後の展示室にが「第七章 親鸞の伝えるもの-名号-」です。ここが特別展の締め括りとなります。ここには御影と名号の2点だけが粛然と展示されています。展示室では「親鸞聖人影像(熊皮御影)」(奈良国立博物館蔵)を拝見しました。これは安城御影系統の親鸞像ですが、親鸞の坐す敷皮が熊の毛皮のように描かれているところからこの名が付けられたそうです。『存覚袖日記』に、親鸞の坐す敷皮は「狸皮」と存覚が記録していると言います。この熊皮御影もまた、展示期間は4/18~4/30の予定です。「名号本尊(黄地十字名号)」(三重・専修寺蔵)が向かって左側に掛けてありました。十字名号の下に蓮台を描き、天地に賛銘を附して本尊としたものです。親鸞が賛銘を記したものだそうです。今回の展示は次のセクション区分で構成されています。 第一章 親鸞を導くものー七人の高僧- 第二章 親鸞の生涯 第三章 親鸞と門弟 第四章 親鸞と聖徳太子 第五章 親鸞のことば 第六章 浄土真宗の名宝-障壁画・古筆- 第七章 親鸞の伝えるもの-名号- 鑑賞の印象も交えてセクション毎に以下ご紹介します。<第一章 親鸞を導くものー七人の高僧->展示室で最初に目にするのが「光明本尊」(福井・毫攝寺蔵)と快慶作「阿弥陀如来立像」(奈良・光林寺蔵)です。光明本尊には、名号を中心にインド・中国・日本の浄土教祖師がずらりと描き込まれています。(4/25からの後期に光明本尊は展示替えの予定)。阿弥陀如来立像は像高81.1cmの仏像で、「安阿弥様」第三期の特徴が見られるそうです。今回の特別展では彫刻像が数少なく、その中での1点になります。これは通期展示。 併せてこの「刺繍阿弥陀如来像」(福井・誠照寺蔵)を見ました。前期展示(~4/23)のみ。間近で眺めると細かな刺繍が見て取れます。祈りながら刺繍されたのでしょうね。第一章では親鸞を導いた七高僧に絡む経典ほかの文書と図が中心になっています。インド(龍樹・天親)、中国(曇鸞・道綽・善導)、日本(源信・源空)の七人の高僧に関わりがある展示品です。金戒光明寺蔵と西本願寺蔵の「浄土三部経」が通期展示され、親鸞筆の物が数多く展示さています。「観無量寿経註」(国宝、西本願寺蔵)と「観無量寿経疏(外題)」(三重・専修寺蔵)、「四十八願文断簡」3点(大阪・慈雲寺、愛知・立圓寺、石川・本誓寺)などが展示されていました。親鸞の真筆をまとめて見られる機会はまたとないことと思います。<第二章 親鸞の生涯>「親鸞聖人坐像」が展示されています。4/18から展示替えとなり、新潟・西照寺蔵の坐像を拝見しました。ここでは親鸞聖人の生涯における重要な場面を描いた作品が数多く展示されています。親鸞の曾孫・覚如が制作した絵巻物『親鸞伝絵』を源として、伝絵、絵伝が連綿として描かれてきた結果です。同じ場面を取り上げていても描き方が少しずつ違うところがあって、見比べると興味深い。絵巻物の形で描かれたものが伝絵、大きな掛幅の形で描かれたものが絵伝と称されているようです。 これはPRチラシの裏面に載る一場面です。通期展示の「善信聖人親鸞伝絵(高田本)」巻第一・巻第五(三重・専修寺蔵)のうち、巻第五の最後に描かれている場面です。序でに、上掲「京都博物館だより」の上部に描かれている絵についてです。 「本願寺聖人伝絵(康永本)」の一場面で、法然から『選択集』の御影の図面を許される場面の部分図(左半分)です。この伝絵は5/2~5/21の期間に展示予定ですので拝見していません。他の伝絵で同じ場面を描く絵を見ました。右側の「親鸞聖人坐像」(三重・専修寺)もまた、4/16までの展示でした。「日野氏系図」(三重・専修寺蔵)、「藤原有範像」(東本願寺蔵)、「慈鎮和尚像」(青蓮院蔵)、「法然上人絵伝」(三重・専修寺蔵)、「親鸞聖人影像(有髪御影)」(茨城・専照寺蔵)、「善鸞像」(福井・證誠寺)、「恵信尼像」(龍谷大学図書館蔵)、「覚信尼像」(新潟・福因寺蔵)なども展示されています。この特別展で親鸞の有髪姿を初めて見ました。専修寺第三世顕智が書写した親鸞の「善鸞義絶状」も展示されています(通期展示)。また、明恵筆「摧邪輪」(京都・仁和寺蔵)が見られるとは思いませんでした(~4/30)。<第三章 親鸞と門弟>ここから1階の展示室になります。普段なら大きな仏像が展示されている広い「彫刻」(1F-1)展示室に、「親鸞聖人坐像」(千葉・常敬寺蔵)を筆頭に、門弟の坐像が横一列に展示されています。 門弟の一人がこの「顕智坐像」(栃木・専修寺像)です。(上掲京都国立博物館だよりから)「性信坐像」(群馬・室福寺蔵)、「善然坐像」(三重・太子寺蔵)、「了海坐像」(東京・善福寺蔵)、「了源坐像」(京都・仏光寺、~4/30)、「慶円坐像」(愛知・本證寺蔵)。これらは一躯を除き、通期展示です。ずらりと坐像が並ぶと壮観です。他に、一流相承系図と門弟等交名が展示してあります。前期・後期の展示替えが予定されています。<第四章 親鸞と聖徳太子>親鸞の聖徳太子信仰について、その一端がうかがえる展示です。 (上掲、京都博物館だよりから引用)「聖徳太子立像(孝養像)」(茨城・善重寺蔵)が展示室を入ると目の前に展示されています(通期展示)。同じく「聖徳太子立像(南無仏太子)」(愛知・満性寺蔵)が展示されています。太子2歳の時の姿を表した像です。孝養像がもう1躯展示されていましたが、こちらは4/30まで。ここにも「光明本尊」(福島・光照寺蔵)の掛幅が展示されています。その図には「皇太子聖徳」の像が描かれています。特に関心を惹いた展示品が幾つかあります。親鸞筆「皇太子聖徳奉讃断簡(第二首)」(愛知・蓮開寺)「宗祖御筆蹟集(浄土和讃)」(京都・太谷大学図書館蔵):これは原本の上に薄い紙を重ね文字の形を忠実に敷き写ししたものだそうです。 上宮太子方便ニ 和国ノ有情ヲアワレミテ 如来ノ悲願弘ク宣せり 慶喜奉讃せしむへし (事後に図録で判読しました。)「上宮太子御記」(西本願寺蔵):親鸞が編纂したとされる聖徳太子の伝記です。<第五章 親鸞のことば>まさに親鸞筆の文書類(聖教)が展示室に凝集されています。 やはり展示のハイライトは、国宝指定の親鸞筆「教行信証(板東本)」(東本願寺蔵)を間近に拝見できることです。(通期、展示替えあり)併せて、真仏筆「教行信証(高田本)」、「教行信証(西本願寺本)」の実物も見られるのは、生誕850年という機会だからのことでしょう。主要な文書類の実物をこの一室で大凡拝見できる貴重な機会になります。国宝指定としては、親鸞筆「西方指南鈔」(三重・専修寺蔵)、親鸞・真仏筆「三帖和讃(国宝本)」(三重・専修寺蔵)が出展されています。(通期)煩雑さを避ける為、当日拝見した親鸞筆文書類の名称だけご紹介します。浄土三経往生文類(略本)、尊号真像銘文(広本)、見聞集、唯信鈔(西本願寺本)、唯信鈔文意、一念多念文意、烏龍山師幷屠児宝蔵伝、曇摩伽菩薩云々、須弥四城経云々、親鸞聖人消息です。他には、顕智筆「愚禿鈔 巻上」(三重・専修寺蔵)と「浄土文類聚鈔」(滋賀・光延寺)、真仏筆「如来二種廻向文」(三重・専修寺)、顕智筆「獲得名号自然法爾御書」(三重・専修寺蔵)です。文書類の展示を見て毎回痛感するのは読解力のなさ。掲示の説明を読み、読めそうな箇所をちょっと見て、雰囲気を感じる程度で次々と拝見して行くレベルにとどまります。大体、文書類の展示箇所は鑑賞者の流れも速いですね。序でに、残念ながら拝見できなかった「歎異抄」について付記しておきましょう。蓮如筆「歎異抄 巻上」は、展示替えにより5/2~5/21に展示予定になっています。「親鸞聖人消息」3点の展示が終わるのと併せての展示替えのようです。<第六章 浄土真宗の名宝-障壁画・古筆->展示点数は少ないのですが、お寺という建物の規模に相応した障壁画のためでしょうか、その大きさがいわば通常の展示品サイズを越えているものがあり圧巻です。それは、巨大な戸四面に描かれた、望月玉泉筆「安養六種図」(東本願寺蔵)です。『仏説阿弥陀経』において西方浄土に棲むとされる六種の鳥を描いたもの。遣戸一面の大きさが縦268cm×横184cmという巨大サイズ。陳列箇所内に斜めの状態で展示されています。 これは、1階の南面通路に設置された記念撮影用のセットです。この背景に使われているのは、この第六章で展示の大きな衝立の絵です。望月玉泉筆「桜花図」(東本願寺蔵)。衝立は縦191cm×横296cmという大きさ。この絵は上掲のPRチラシ、PRパネル、入場券に親鸞像の背景として使われています。 これは衝立の桜花図の裏面に描かれているそうです。PRチラシに載っていて、図録には参考図版として載せてあります。「松・藤花図」です。展示室では衝立の背面を見られませんでした。徳力善宗筆「桜牡丹図」(京都・本願寺西山別院蔵)という襖絵も展示されています。四面に描かれています。こちらは、縦213cm×横102cmの大きさで、通常の展示状態です。加えて、国宝指定の2点があります。「三十六人歌集」(西本願寺蔵)の中から「猿丸集・兼輔集・順集」の展示。後期に展示替えが予定されています。もう一つは「類聚古集」(京都・龍谷大学蔵)です。最後に、最初に触れた第七章の展示室へと向いました。これで特別展の印象を含めたまとめ、かつ私の覚書記録といたします。それでは、京都博物館の庭を少し歩きましょう。つづく補遺京都国立博物館 ホームページ史上最大の親鸞展 2023年春に京都で(記者発表会) YouTube教行信証 :「コトバンク」教行信証 :「WEB版 新纂 浄土宗大辞典」【特別講義〔第1回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『教行信証』とは YouTube【特別講義〔第2回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『坂東本・教行信証』について YouTube【特別講義〔第3回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『正信偈』に宗祖の聞思の姿を窺う(1) YouTube【特別講義〔第4回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『正信偈』に宗祖の聞思の姿を窺う(2) YouTube【特別講義〔第5回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/宗祖親鸞聖人のよびかけ YouTube親鸞聖人御消息 :「WikiArc:浄土真宗聖典」親鸞聖人御消息 現代語訳 :「山寺」(浄土真宗本願寺派 長久寺)歎異抄 :「WEB版 新纂 浄土宗大辞典」歎異抄 :「WikiArc:浄土真宗聖典」念仏に生きた苦悩の僧 親鸞 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.23
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=== 2023.4.4 === 9時半過ぎに撮った南の空です。快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもより明るい感じでした。 14時45分頃に眺めると、東方向の空は晴れ上がり白雲が漂っています。 南の空 南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては午後も変わらず雲はなし。=== 2023.4.5 === 南の空朝から曇っていました。16時過ぎに記録として撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昼間はくもりでしたが、夜に小雨が降りました。=== 2023.4.6 === 9時過ぎに撮った南の空です。この日もくもりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空13時45分過ぎにも撮ってみました。くもり空が続きます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 終日、くもりでした。さて、雲がたりとして、辞典の語彙についてのつづきです。1989年11月に、講談社が創業80周年記念としてカラー版の『日本語大辞典』を刊行しました。当初、特別定価として少し割り引き価格で売り出しました。そのときに購入した第一刷があります。『広辞苑』初版第一刷が1955年5月ですので、大型の国語辞典として、34年の歳月の隔たりがあります。そこで、この二種の辞典の語彙採録の対比をしてみました。辞典編纂にはそれぞれの編纂方針があるでしょうから、あくまで対比だけです。[A.雲(くも)と読む語彙]A-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲、雲合、雲脚、雲井・雲居、雲井調子、雲井の桜、雲井龍雄、雲隠、雲隠る、 雲霞、雲形、雲形定規、雲霧、雲煙、雲路、雲助・雲介、雲斗、雲の脚、雲の上、 雲の梯、雲の峰、雲肘木、雲額、雲間、雲見草、A-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 雲足、雲切草、雲助根性、雲鳥の、雲取模様、雲放電、雲間草、雲間褄黄蝶、 雲間紅日陰蝶、雲行き、A-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 雲居地、雲井如す、雲井の雁、雲井曲、雲井の庭、雲井の峰、雲井の余所、雲井弄斎、 雲入、雲風、雲形肘木、雲紙、雲霧五人男、雲切、雲障子、雲透、雲簾、雲立涌、 雲鳥、雲の主、雲の庵、雲の上人、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣、 雲の通路、雲の声、雲の梢、雲の経、雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃(とざし)、雲の帳、 雲の波、雲の波路、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、雲の林、雲の原、雲の舟、雲の籬、 雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の都、雲の八重葺、雲の夢、雲の余所、雲箔、雲離、 雲夜、雲分眉、雲腸、雲水、雲焼、雲行[B.雲(うん)と読む語彙]B-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲烟、雲霞、雲海、雲客、雲気、雲級、雲鏡、雲形、雲向、雲高、雲谷等顔、 雲谷派、雲際、雲斎、雲散、雲散霧消、雲州、雲上、雲上人、雲消霧散、雲水、雲仙 雲仙躑躅、雲台、雲底、雲泥、雲南、雲版、雲表、雲母、雲門、雲量、B-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 雲、雲煙、雲煙過眼、雲煙飛動、雲煙縹緲、雲貴高原、雲笈七籖、雲崗石窟、 雲斎織(り)、雲集、雲壌、雲仙天草公園、雲仙温泉、雲仙岳、 雲速、雲頂、雲霧、雲霧林、雲母片岩、雲紋雀蛾、雲粒、雲竜型、B-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲外、雲鶴、雲間、雲漢、 雲脚、雲脚台、雲霓、雲居、雲崗・雲岡、雲合霧集、雲居寺、雲根、雲彩、 雲散鳥没、雲棧、雲山、雲脂、雲蛇、雲岫、雲集、雲生、雲照、雲霄、雲上明覧、雲壌、 雲蒸竜変、雲心月性、雲箋、雲孫、雲中、雲中白鶴、雲梯、雲伝神道、雲泥万里、 雲堂、雲屯、雲衲、雲萍雑志、雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲甍、雲夢沢、 雲紋竹、雲屋台、雲揚艦、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲林院、雲廊、[C.語彙に「雲」を含む語彙]C-1:『広辞苑』と重なる語彙 天雲の、雨雲、暗雲、岩雲、浮雲、絹雲母、行雲流水、彩雲、紫雲、慈雲、祥雲、 白雲、水雲、翠雲、瑞雲、青雲、星雲、星雲群、星雲説、星雲線、星雲団、積雲、 宋雲、層雲、棚雲、断雲、東雲、薄雲、微雲、飛雲閣、雲雀、碧雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲御抄、横雲、雷雲、乱雲、凌雲、凌雲集 鰯雲、入道雲、飛行機雲、綿雲 (この4語は両辞典対比で気づいて追加)C-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 黒雲母、紫雲寺、白雲の、層雲峽、早雲寺殿二十一箇条、大雲寺、白雲石、白雲木、 雲雀東風、八雲さす、陵雲、筋雲、斑雲、C-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 天雲、絹雲母片岩、金雲母、黒雲、行雲、行雲体、黄雲、香雲、耕雲、大雲院、 五雲、五雲の車、似雲、秋雲、愁雲、湿雲、春雲、浄雲節、青雲の志、青雲の士、 青雲の交、赤雲、叢雲、測雲器、朶雲、淡雲、凍雲、夏雲、白雲母、飛雲、雲雀山、 八雲の道、凌雲閣、凌雲台、[D.『広辞苑』雲級で言及の名称、『日本語大辞典』雲形で言及の名称] 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲、 やはり、編纂方針と時の隔たりが反映している感じですね。私の手許ではできませんが、『広辞苑』の初版と後続の版を対比してみるのもおもしろいかも・・・そんな気がします。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.4.7 === 南の空朝から雨でした。9時半頃に、記録として撮りました。窓際から。南西方向の空 終日、雨。=== 2023.4.8 === 10時頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空空は全面的にちょっとダイナミックな灰色雲が浮かんでいます。 東方向の空15時20分頃に眺めた空は、大きく変化。午後から晴れてきたのです。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 18時過ぎに撮った南の空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空午後の天気は上々。朝の雲の姿からは午後の変化を予想できませんでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.18
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=== 2023.4.1 === 南の空9時40分過ぎに撮りました。本日快晴なり、でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南から西方向にかけては快晴でも、午前中の稜線上の空はこんな感じが日常です。 16時過ぎに撮った東方向の空。快晴の午後は稜線上空に青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の姿はあまり見られませんでしたが、快晴はやはり好い。=== 2023.4.2 === 9時30頃に撮った南の空です。晴れた空に雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 淡々とした雲が一面に広がっている感じです。 東方向の空は見慣れた空模様。 東方向の空13時半頃に撮りました。青空を見せながら、雲の姿が大きく変化しています。雲!って感じ。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空東の空とは、雲の姿がかなり違います。おもしろい。 17時半過ぎに眺めた南の空です。雲の動きがかなり変化。南西方向の空 西方向の空 東方向の空の雲は逆に穏やかな雲に変化していました。雲が出て来たとは言え、晴のちくもりとまでは言いたくない感じの一日でした。さて、なんとか暦の4月に追いつきました。禅語に現れる雲はまだまだありますが、気分転換に別の雲がたりを試みたいと思います。どこかのテレビ番組で、ある文字を含む熟語を上げるというクイズをよくやります。それを思い出しました。『広辞苑』(岩波書店)に「雲」を含む語彙として何が載っているか? どれくらい載っているか? 手許にあるのは、1966(昭和41)年3月の第1版第19刷の初版です。最新版とはかなり異なっているかもしれません。まあ、そんなことは気にせずに、抽出してみました。A.雲(くも)と読む語彙 雲、雲合、雲脚、雲井・雲居、雲居地、雲井調子、雲井如す、雲井の雁、雲井曲 雲井の桜、雲井の庭、雲井の峰、雲井の余所、雲井弄斎、雲井龍雄、雲入、雲隠 雲隠る、雲霞、雲風、雲形、雲形定規、雲形肘木、雲紙、雲霧、雲霧五人男、雲切 雲煙、雲路、雲障子、雲透、雲助・雲介、雲簾、雲立涌、雲斗、雲鳥、雲の脚 雲の主、雲の庵、雲の上、雲の上人、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣 雲の梯、雲の通路、雲の声、雲の梢、雲の経、雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃 雲の帳、雲の波、雲の波路、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、雲の林、雲の原、 雲の舟、雲の籬、雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の峰、雲の都、雲の八重葺、雲の夢 雲の余所、雲箔、雲離、雲肘木、雲額、雲間、雲見草、雲水、雲焼、雲行、雲夜 雲分眉、雲腸、B.雲(うん)と読む語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟、雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲霞、雲海、雲外、 雲客、雲鶴、雲間、雲漢、雲気、雲脚、雲脚台、雲級、雲鏡、雲形、雲霓、雲居 雲崗・雲岡、雲向、雲高、雲合霧集、雲谷等顔、雲谷派、雲居寺、雲根、雲彩 雲際、雲斎、雲散、雲散鳥没、雲散霧消、雲棧、雲山、雲脂、雲蛇、雲州、雲岫 雲集、雲生、雲照、雲霄、雲上、雲上人、雲上明覧、雲壌、雲消霧散、雲蒸竜変、 雲心月性、雲水、雲箋、雲仙、雲仙躑躅、雲孫、雲台、雲中、雲中白鶴、雲底、 雲梯、雲泥、雲泥万里、雲伝神道、雲堂、雲屯、雲南、雲衲、雲版、雲表、雲萍雑志 雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲母、雲甍、雲夢沢、雲門、雲紋竹、雲屋台、 雲揚艦、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲量、雲林院、雲廊、 C.語彙に「雲」を含む語彙 天雲、天雲の、雨雲、暗雲、岩雲、 絹雲母、絹雲母片岩、金雲母、黒雲、行雲、行雲体、行雲流水、香雲、耕雲、 黄雲、五雲、五雲の車、 彩雲、紫雲、似雲、慈雲、秋雲、愁雲、湿雲、春雲、祥雲、浄雲節、白雲、水雲、 翠雲、瑞雲、青雲、青雲の志、青雲の士、青雲の交、星雲、星雲群、星雲説、 星雲線、星雲団、赤雲、積雲、宋雲、層雲、叢雲、測雲器、 大雲院、朶雲、棚雲、淡雲、断雲、東雲、凍雲、 夏雲 薄雲、白雲母、飛雲、微雲、飛雲閣、雲雀、雲雀山、浮雲、碧雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲の道、八雲御抄、横雲、 雷雲、乱雲、凌雲、凌雲閣、凌雲集、凌雲台、D.雲級としての名称 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲私的には驚きです。こんなにもあるなんて!だけど、これ完璧な抽出じゃありません。AとBは辞典のチェックは比較的簡単です。たぶんもれなく抽出したつもりです。Dは、「雲級」の説明の中に記載され、いくつかをサンプリングすると、一項目としても載っていて説明があります。問題はC。1頁ずつチェックするなんて、できません。『広辞苑』初版のデータベースがあるわけでもありませんので、自分の知る語彙あるいは想定でアタリをつけて辞典を引いてみた範囲で抽出したものです。「雲」一文字からの語彙の広がり。如何に普段使うボキャブラリーが貧弱なものかを痛感しました。嗚呼・・・・・。ここでは「雲となり雨となる」「雲に棹さす」「雲は竜に従い虎は風に従う」という類いの雲を含んだ成句は抽出の対象にはしていません。「雲」の項に、初版ではこれらを含め計10の成句が載っています。「冬空」は載っていますが「冬雲」「冬の雲」は載っていません。「西雲」「西の雲」も載っていません。おもしろい。さて、こんなところで、雲の変化に戻ります。=== 2023.4.3 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空9時過ぎに撮りました。南の空から西方向にかけて、また頭上への雲の連なり方がおもしろい感じ。 東方向の空 14時15分頃に眺めた東方向の空。稜線に少し白雲がかかる程度で晴れ上がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 晴れた一日はやはりいいですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.17
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我が家の玄関までの短いアプローチの傍に、ささやかな花壇と鉢植えが並んでいます。花を育てるのは家人の趣味。わたしは専ら愛でる/撮るだけ・・・・。時至ればツツジが咲き始めた・・・・季節は巡る、という思いから、今朝庭に咲く花々を撮ってみました。 家の前の道路に面して咲くツツジ 玄関までの中間に咲くツツジ ツツジの北側に立つ我が家の郵便ポストの傍に咲くツルニチニチソウの花 道路に面して、玄関への通路の左側に置いたプランターに咲くアジュガ アジュガの北隣りに、ブルーベリーの花 通路寄りに一鉢のミヤコワスレの花が咲き ハナアロエと記した札を立てた鉢に、小さな薄紫の花が咲いています。 その傍には鉢植えのポピーの花 よく見ると小さな庭の南西隅にも咲いていました。 南西隅の金木犀の木の傍に、ある銀行の支店で頂いて植えたというゼニの花も。 南東隅のもう一つの金木犀の傍には、月桂樹(ローリエ)の花 通路の右側の小さな花壇には、ボケの低木があり、ボケの花が咲いています。 通路の反対側には、鉢植えの不詳の小さな花・・・・。カタバミかも? 玄関の右脇に置かれた鉢には、シランの花 玄関の左脇に置かれた鉢には、ナルコユリの花 玄関前通路の左側には、ラベンダーの花 その近くに名前は不詳。野生のランの一種らしい花も。 リビングルームの外側に置かれたプランターにネギ坊主がでんと・・・・。今年は桜が早めに咲き、花の季節が巡ってきました。唐代の詩人、劉廷芝(651?~680?、別の名は劉希夷)は「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わりて)と題する七言古詩を詠じています。 洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花 飛来飛去落誰家 飛び来り飛び去って誰が家にか落つる 洛陽女児好顔色 洛陽の女児 顔色好し 行逢落花長歎息 行くゆく落花に逢うて長嘆息す 今年花落顔色改 今年花落ちて顔色改まり 明年花開復誰在 明年花開くも復(ま)た誰か在る 已見松柏摧爲薪 已に見る 松柏の摧(くだ)けて薪(たきぎ)と為るを 更聞桑田變成海 更に聞く 桑田の変じて海と成るを 古人無復洛城東 古人(こじん)復た洛城の東に無く 今人還對落花風 今人(きんじん)還(ま)た対す落花の風 年年歳歳花相似 年年歳歳花相(あい)似たり 歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず 寄言全盛好顔子 言を寄す全盛の紅顔の子 應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう) その第4節には、禅語にも通り入れられている有名な一節が含まれています。「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」です。花の季節が巡ってくると、この一節を思い出します。書架に眠っている『唐詩選(上)』(前野直彬注解、岩波文庫)を久々に取り出してみました。(p100-101) 花を撮るのも久しぶりです。 ご覧いただきありがとうございます。補遺アジュガ :「みんなの趣味の園芸」ミヤコワスレ :「みんなの趣味の園芸」シラン :「みんなの趣味の園芸」ツルニチニチソウ:「みんなの趣味の園芸」【月桂樹(ローリエ)の育て方】オリンピックとの関係や花言葉は?:「For your LIFE」ポピーってどんな花? :「GARDEN STORY」アマドコロ(ナルコユリ) :「花と緑の図鑑-Garden vision」ブルーベリー :「花と緑の図鑑-Garden vision」カタバミ :「植物ずかん」ネギ坊主 :ウィキペディア禅語 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(唐詩選) :「臨黄ネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.14
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=== 2023.3.29 === 9時20分頃に撮った南の空です。朝から快晴。雲はありません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 いつものように東方向の空、稜線上は靄がかかったような感じです。 13時半頃に眺めた東方向の空には青さが現れています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空17時40分過ぎに空を見上げると、雲が湧き起こっていました。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけて、今まであまりみかけなかった雲の姿です。 東方向の空にも白雲が漂っています。=== 2023.3.30 === 9時15分すぎに撮った南の空です。昨日に続き、快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はほぼいつも通りの空模様です。 16時50分頃に撮った東方向の空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 晴れのち曇りへと変化する一日でした。=== 2023.3.31 === 9時半過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空午前中前半はこのような曇り空で、雲に覆われていました。しかし、時間の経過とともに、空は晴れ上がっていきます。 15時15分過ぎに撮った東方向の空。空は快晴状態に変化。稜線の上に白雲が少し漂う程度です。 南の空南西方向の空 西方向の空 3月の最終日は晴れた空を眺める一日で終わりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.13
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=== 2023.3.23 === 9時過ぎに撮った南の空です。朝から曇り空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方角もグレーの雲に覆われています。 南の空南西方向の空 14時20分頃には既に雨が降っていました。午後から雨に変わりました。雲の色はグレーの色が薄らぎ、のっぺりとして布に覆われている感じに変化。窓際から二方向だけ撮りました。=== 2023.3.24 === 南の空この日も朝から曇り空。7時50分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東方向がグレーの雲がやや厚そうに見えます。 16時45分頃に撮った東方向の空。少し青空が垣間見える箇所もあります。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇り空の一日でした。=== 2023.3.25 ===この日は、早朝からウォーキング同好会の例会に参加するために出かけていました。「歩く 滋賀県草津市 JR南草津駅~ロクハ公園」の記事としてまとめてご紹介しています。当日の現地は曇りでした。宇治の方も、出かけた時、並びに帰宅後も空は曇り空でした。=== 2023.3.26 === 南の空南西方向の空 朝から雨。記録として、13時25分に窓際から撮った空模様です。 空だけ眺めれば曇り空にしか見えませんが・・・。=== 2023.3.27 === 南の空午前中は曇っていましたが、13時頃にはこんな空模様に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には、白雲が厚い層を成して漂っています。その上空には青空が見えます。 18時過ぎに東方向の空を眺めると、グレーの1枚のシーツのような雲の姿に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りのち晴といった一日でした。=== 2023.3.28 === 南の空9時半頃に撮りました。朝から快晴!! 雲の姿なし。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空やはり稜線の上空だけは薄雲が浮かんでいました。 14時20分過ぎに、東方向の空を眺めた時には、このような雲無き青空に様変わりです。 南東方向の空に、小ぶりな白雲がポカリと浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時20分頃にも空模様を撮ってみました。日が長くなってきたことを感じます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空晴れ渡った空を見上げると、やはり気分が良いですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表歩く 滋賀県草津市 JR南草津駅~ロクハ公園
2023.04.12
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萬福寺総門この西面する総門前の道路を挟んで反対側には樹木の繁る広場空間があります。ここについて改めてご紹介します。4月9日に、萬福寺の三門と放生池の辺りを訪れた目的の一つは、桜の様子を4月1日の時と比較してみたかったことでした。この目的から言えば、総門前の緑の空間の南側での桜のコントラストもわかりやすい対比になります。 4月1日時点の白雲庵前の桜の花の満開状態は、 花がかなり散り、葉桜になっていました。 4/1に撮影もう一つの目的は、桜の枝の背後に建立されている石碑を再見してみたくなったからです。 4/1に撮影 この石碑です。なぜか。ごく最近、梓澤要著『あかあかや明恵』(新潮社、2023年1月刊)という伝記風小説を読みました。その中に、明恵が栄西禅師に会った時に茶の種を贈られます。その種を明恵の従者が栂尾で播き、茶を栽培する苦労話がエピソードとして描かれています。それを読んでいたときにこの石碑のことを思い出しました。 石碑の左斜め前に、「駒蹄影園趾」と刻された石標が建てられています。右側前方には、史跡観光の一環として案内板が設置されています。「駒蹄影園碑」と題して、「Koma-no-ashikage-en Monument」と併記されていて、「こまのあしかげえん」と称しています。「鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているとことへ、通りかかった栂尾高山寺の明恵上人が馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひづめ)の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています」(説明転記)栄西禅師から茶の種を得た明恵上人は栂尾で茶を栽培させます。その栂尾は、鎌倉・室町時代を通じて茶山と称されていたそうで、宇治茶発祥の地とされています。(資料1,2)かつてはこの五ヶ庄あたりには茶園が広がっていたことでしょう。 こんな絵図が案内板の側面に取り付けてあります。 石碑には、現代文として記すと、 栂山(とがやま)の尾上(おのえ)の茶の木分け植えて 迹(あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影 明恵と明恵上人の歌が刻されています。例えば石碑には「栂山の尾上」は「都賀山乃尾上」、「足影」は「蹄影」と表記されています。「この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです」(説明転記)もう一つ、この広場空間に存在し、萬福寺と直接関係する史跡があります。 上掲の白雲庵の築地塀近く、つまり広場空間の南辺に井戸があります。 こちらの井戸は広場空間の北辺にあります。 北辺にこの「龍目井」の案内板が設置してあります。黄檗山萬福寺を訪れる観光客でこの龍目井を見落とされる人がいるのではないでしょうか。二つの井戸はかなり離れた距離にさりげなく存在するだけ。立札があるものの人目につきにくい寂びたものになっています。案内板自体も目立たない位置にあるように思いますので・・・・。これで萬福寺とその周辺での観桜ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 宇治茶の歴史 :「宇治市」2) 宇治茶の歴史と文化 :「京都府茶業会議所」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗普茶 白雲庵 ホームページ宇治茶の定義 :「京都府茶業会議所」栂尾山高山寺 ホームページ 日本最古の茶園お茶の伝来と拡がり :「綾鷹」宇治茶摘図 :「立命館大学」国貞二代「東海道名所之内 (御上洛東海道) 宇治」 :「原書房」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 へ観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -2 黄檗公園と萬福寺の桜 へ
2023.04.11
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赤丸を追記した辺りに、この黄檗公園案内図が設置されています。 黄檗公園の入口付近の桜です。 桜に誘われて、入口傍の石段を上がりました。 桜満開 球場の東側にも桜の木が列をなしています。球場の外周を時計回りにホームベース方向に巡ってみました。 進行方向の通路の左側(北西側)には、境界となるフェンスの先に、「京都華僑霊園」内の桜並木が遠望できます。 球場のネット越しに眺めた桜の木この辺りで公園入口に引き返し、萬福寺の総門へと向いました。(移動途中は省略) 萬福寺総門前の道路を南から向かいます。総門手前で築地塀越しに桜が見えます。 総門の手前ですがすぐ近く、道路の左側(西側)に、普茶料理の老舗「白雲庵」の白壁と門が見えます。門前の桜がきれいです。かつてはここも子院だったようです。 北方向にも満開の桜の木があります。 桜の木の向こう側に垣間見えるのがこの石碑です。 これについては、次回に取り上げたいと思います。 さらに北側に桜の木があり、勿論こちらも満開です。 黄檗山萬福寺の総門。4月1日は総門に幕が張られていました。 門を入ると参道の右斜め方向に萬福寺七堂伽藍の境内全景図が設置されています。 北東方向の桜 参道の正面突き当たりの桜総門を入ると参道は正面に白い築地塀(影壁えいへき)が見え、その手前で直角に右折します。その先に三門が姿を見えます。 三門前を通過して、南西側から撮った景色。三門前の西側には放生池があります。 水平方向に延びる桜の枝越しに北方向を眺めた景色。直角に右折した参道は三門前で再び直角に左折し三門に至ります。ここからも参道の側石が見えています。三門前を通り過ぎ、そのまま真っ直ぐに歩めば、上掲の桜の枝越しに境内にある塔頭(天真院)の山門の屋根が見えます。この山門は総門と同じ形式です。萬福寺細見のご紹介の折にこの塔頭に触れています。 観桜としては、やはり放生池の西辺から山門と桜を併せて眺める景色がすてきです。 池の西辺は、萬福寺正面の築地塀のすぐ内側ですので、振り返れば白い築地塀沿いの桜を楽しめます。 三門から先に入るには、拝観料が必要です。ぶらっと訪れた観桜としては、三門の桜景色までに留めました。総門を出て、正面の道路を北に向かいます。 総門北隣りの塔頭の桜越しに、萬松院の開山堂(天光塔)を遠望した景色です。 開山堂の西側にも桜の木が見えます。 萬松院境内の観音菩薩立像の足元には、台座の上に満開の花々が供花されていました。さて、昨日(9日)、市の図書館に出かけましたので、萬福寺に立ち寄ってみました。 総門の幕ははずされていました。 道路から見えるこの木だけが満開状態でした。 境内全景図の傍の桜は葉桜になっています。 放生池の畔の桜も同様に、完全に花は散っていました。いずれもすぐに新緑で瑞々しくなることでしょう。 枝が水平に延びたこの桜の木も同様です。桜の花の咲き誇る期間はあっという間・・・・・。 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町の歌を思い出しました。 もう一つ連想したのは、この萬福寺の巡照板に記された偈です。 謹白大衆 生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸「生死事大 無常迅速」という語句は、禅宗のお寺でも目にします。つづく補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗普茶 白雲庵 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 へ観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -3 萬福寺総門前:石碑、井戸ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介
2023.04.10
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4月1日の午後、市の図書館に行った続きに黄檗山萬福寺の周辺の桜を眺めながら歩いてみました。国土地理院の地図によりますと、萬福寺は東側に位置する高峰山(標高298m)の西側の山裾のなだらかな丘陵地に位置します。寺域の背景は山の斜面になっています。萬福寺は「五ヶ庄」区域の北部にあり、丘陵地の北側は川を隔てて「広岡谷」区域と隣り合っています。萬福寺の伽藍の背後の斜面地には2つの墓地域が広がっています。萬福寺の北側の道路を西側から上って行くと、高峰山の西側斜面を占める「宇治カントリークラブ」というゴルフ場に至ります。その手前、道路右側(南側)の丘陵状斜面に墓地域が広がっています。坂道の道路沿いに歩き、高い方に位置する2つめの墓地をまず訪れました。冒頭の桜はその墓地入口付近で撮りました。 この墓地域の中央の通路です。左右の山の斜面が階段状に整備され広がっています。 この通路の桜並木を眺めながら階段を下ります。 桜の花びらが風に吹かれて、かなり散り始めていました。 このメインの階段通路を下り、下から見上げた景色です。 萬福寺境内地の丁度背後になり、黄檗公園に近い側がこの墓地域への正面入口です。階段通路への入口には、「京都華僑霊園」と表示されています。 霊園前の道路の反対側は萬福寺の外周です。 道路沿いに進むとすぐ萬福寺境内の南東側にある駐車場エリアになります。駐車場の傍にも桜が咲いていました。この駐車場の入口は、次回ご紹介する黄檗公園入口傍の西側道路になります。序でに、黄檗公園入口への道路を進む時に見かけた史跡をご紹介しておきましょう。 道路の一隅に、「陸軍省」の敷地境界を示す石標が遺されています。 駐車場入口と黄檗公園入口の間、道路の東側(山側)に遺された遺構がこれ。 フェンスの内側を覗いて撮った景色。トンネルです。 案内板には、「旧陸軍火薬庫の土塁とトンネル」と明記されています。「宇治市黄檗公園の一帯には、かつて旧陸軍の火薬庫がありました。この地が選定されたのは明治8(1875)年、その後しだいに施設は整備されました。 火薬庫は、爆発事故によって被害が拡大しないように、一棟ずつ建物と同じくらいの高さの堅固な土塁で囲まれ、出入口としトンネルが設けられました。 昭和20(1945)年の終戦以降、火薬庫は姿を消していきましたが、ここにその遺構がのこりました。戦争の記憶が薄れつつある現在、過去の状況を今に伝える貴重な構造物となっています。 宇治市平和都市推進協議会では、昭和62(1987)年に宇治市議会で決議された「核兵器廃絶平和都市宣言」の理念のもとに、さまざまな啓発事業に取り組んでいます。二度と戦争の過ちをくり返さない決意をもって、ここに火薬庫跡の銘板を設置するものです。 平成18(2006)年12月 宇治市平和都市推進協議会 」(案内文転記)旧陸軍の敷地となった現在の黄檗公園一帯は、江戸時代に遡れば、黄檗山萬福寺の寺域だったところです。それでは、黄檗公園の観桜に移りましょう。つづく補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ京都黄檗山華僑霊園 :「お墓きわめびとの会」京都華僑墓地委員会 紹介 :「京都華僑総会・京都華聯旅行社」【京都宇治】旧陸軍の火薬庫跡/木幡軍用線 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -2 黄檗公園と萬福寺の桜 へ観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -3 萬福寺総門前:石碑、井戸ほか へ
2023.04.09
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=== 2023.3.18 ==== 南の空土曜日、朝から小雨が降る中、檀家寺での法会に出かけていました。帰宅後、13時すぎに撮った空です。南西方向の空 窓際から二方向を撮るだけに。 南の空16時45分頃に空を見上げてみると、小雨が止み曇り空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、雲のグラデーションの間に青空がほんの少し垣間見えました。 空の一部をズームアップで切り取ってみました。部分的に青空が見える箇所がありました。=== 2023.3.19 ===朝から快晴。そこで、南隣りの城陽市に午前中ウォーキングを兼ねて出かけました。城陽市域の古墳群を以前にご紹介していますが、見落としているのが数カ所あります。その探訪でした。 南の空帰宅後、14時40分頃に撮った空です。雲は見えません。南西方向の空 西方向の空 少し雲が北西寄りに出てます。 東方向の空には、普段あまり見かけなかった白雲の姿を眺めることができました。めずらしく、気持ちのよい青空が広がっています。 16時50分頃、東方向の空を見ると、雲が消え快晴の空に転じていました。 南の空雲が無かった空に白雲が。この白雲もあまり見かけなかった形です。南西方向の空 西方向の空 天気に恵まれた一日でした。=== 2023.3.20 ===この日も引き続き快晴。午前中所用で出かけており、写真を撮りませんでした。 これは16時30分頃に撮った南の空です。見慣れない雲の姿を記録できました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南から西方向にかけての空の雲とは違った姿の白雲が青空に広がっていました。=== 2023.3.21 === 朝から曇り空。これは12時過ぎに撮った南の空です。もやっとして空全体を覆う感じのグレーな雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空15時半過ぎには曇りから雨に空模様が変化していました。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向の空を撮るだけに・・・・。=== 2023.3.22 ===午前中は曇り空。定期的健診を受けている病院に出かけていました。 帰宅後、13時40分頃に撮った南の空。青空に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 18時10分頃に撮った東方向の空。雲が消え快晴に。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りのち晴の一日。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.08
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=== 2023.3.13 === 10時10分頃に撮った南の空です。グレーの雲が湧き上がっている曇り空。深夜には雨が降っていたようです。ベランダに雨滴の後が見られました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体が暗鬱な感じ・・・・。 13時45分頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後、暗さは少し薄らぎましたが曇り空が続きます。 16時50分頃に南の空を眺めると、一転し青空に変化していました。白雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空曇りのち晴。雲の姿が様々に変化する一日でした。=== 2023.3.14 === 10時すぎに撮った南の空です。雲がみられず快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の空は快晴の場合でももやがかかった感じです。これは山並みがある影響でしょうか。 13時頃に撮った東方向の空。気温が上りその影響でしょうか、稜線上の空の色合いが綺麗に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 === 2023.3.15 === 南の空 朝から快晴でした。13時40分頃に記録として撮りました。雲は見られず。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空=== 2023.3.16 === 9時半過ぎに撮った南の空です。前日に続き快晴。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昼間の快晴が夕方に曇り空になり、少し小雨が降る時がありました。快晴から曇りへ。=== 2023.3.17 === 9時50分頃の南の空。朝から曇り空。もやっとして空全体を覆う感じのグレーな雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 16時過ぎに撮った東方向の空。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りの状態が一日続き、夜は雨になりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.07
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=== 2023.3.9 === 10時過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 薄いベールがかかったような空模様です。 東方向の空はグレー一色です。 11時50分頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後は京都・三条に出かけました。この日は一日曇りの状態でした。=== 2023.3.10 === 9時40分頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては雲がわずかに見える晴れた空と言えます。 頭上の空 東方向の空は、いつものようにグレーの雲がかかっています。 13時40分頃に眺めた東方向の空稜線の上には白雲がかかり、その上空に青空が広がっていました。様変わりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、最近見かけなかったダイナミックな雲が現れていました。午後はちょっとお散歩です。=== 2023.3.11 === 10時頃に撮った南の空です。昨日に続き快晴と呼べるでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東はやはりグレーな空の眺めです。晴れた一日になりましたので、あとは16時過ぎに空を撮ってみました。 東方向の空は青空に転じていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の無い青空が広がっていました。=== 2023.3.12 === 10時過ぎに撮った南の空です。晴れた空を眺めるとやはり気分的にはいいですね。南西方向の空 くっきりと一条の白雲が見えました。飛行機雲でしょうか。 西方向の空 頭上の空 東方向の空は、いつもの如くグレーです。山並みがあるゆえの気象状況なのでしょうか。 14時過ぎに撮った東方向の空です。グレーな空模様に変化が出ていました。稜線上は明度が上がり、白雲が漂う形に変化し、逆にその上空は色濃い灰色の雲が姿を見せていました。 南の空 朝の晴れた空は、曇り空に変転していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴のち曇り、天気予報通りの変化だったと思います。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.06
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=== 2023.3.5 === 時が過ぎるのを早く感じます。3月5日(日)の10時15分頃に撮った南の空です。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体がグレーの雲に覆われています。時に追いつくために、雲がたりを少し中断して、雲の変化をしばらく追いかけることに致します。雲の変化の記録です。 12時45分頃に撮った東方向の空です。青空が見え、横雲が漂っています。 南の空にはグレーの雲がそのままに。南西方向の空 西方向の空 頭上の空グレーの雲は南方向に残っているだけでした。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空17時45分頃に空を眺めると、全体的に雲が切れ、晴れた空がそのまま広がっていました。=== 2023.3.6 === 南の空昨日の午後からの続きで、8時35分頃の空は快晴です。南西方向の空 西方向の空 ただ、東方向の空だけはグレーの雲が覆っています。 出かける前、9時45分頃に撮った東方向の空1時間くらいでは、雲の様子に変化はありません。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気が良いので、この後、京都鉄道博物館と梅小路公園に出かけました。この時の探訪内容は、既にご紹介しました。探訪と観照記事を書いていると、こちらの記事のまとめが遅くなって・・・という次第。=== 2023.3.7 === 13時頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の空は少しもやっとした感じですが雲は見当たりません。この日は、午前中もこの後も、空を眺めて雲を見ないので写真はこれ以外撮りませんでした。快晴はうれしいですが、雲はなし。=== 2023.3.8 === 9時35分頃に撮った南の空です。昨日に続き、快晴です。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけて、ふわぁっと微かな雲が漂っています。 頭上を見上げると、ここも同様です。 東方向の空だけは、グレーの空模様でした。 12時頃に撮った東方向の空。大きな変化はなく、グレーの布がかかった感じの空のまま。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後も、時折空を眺めましたが雲らしきものは見かけないので、空を撮りませんでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.05
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京阪電車宇治駅の西側(宇治川側)は、最近整備されて歴史公園になっています。「お茶と宇治のまち歴史公園」と称するそうです。そのメインとなるのが「史跡宇治川太閤堤跡」です。冒頭に掲げたこの景色のかなりの部分が太閤堤跡の史跡指定場所になります。勿論、発掘調査跡が埋め戻されて、その上が公園化されたという次第。 少し移動してみますと、公園の一隅に「浜の茶園」という案内板が設置されています。「宇治川本流の背後に当たる現在地は、上流からの砂がたまりやすく、中州が発達していました。砂地は水はけがよく、茶園の適地となりました。この河川敷の茶園を『浜の茶園』と呼びます。 宇治の茶園では、4月頃から覆いをかけることで旨味(うまみ)の強い碾茶(ひきちゃ 抹茶)や玉露を作ります。覆いは丸太杭と竹で棚を作り、その上によしずを広げ、藁を敷いた『本ず』と呼ばれるものでしたが、昭和40年代から黒い化学繊維を用いたものに変わっていきました」(説明転記) 冒頭の景色と上記案内板の向こうに見える茶園の中にある建物がこれ。「覆小屋(おいごや)」です。公園の中央通路を北方向に進むと、右側の芝生上にこんな景色が見えます。さらに右側に京阪電車の車両が停車しています。宇治駅です。「レンガ工場跡」の案内板が設置されています。 「明治時代に川岸の高低差を利用してレンガを焼く窯が築かれました。発掘調査では3基の窯跡が見つかりました。レンガは明治時代から大正時代にかけて近代化の象徴ともいえる鉄道や軍施設、発電所などの建設で使われました。宇治では茶葉を乾燥するためのレンガ造りの炉が発明されるなど、お茶のまちならではの使い方もされました。ここでつくられたレンガは宇治の近代化を支える様々な施設に使われたと考えられます」(説明転記) 北方向に建物が建ち、 その少し手前にこの公園案内図が設置されています。案内図を部分拡大します。歴史公園全体の位置関係をまずご理解ください。カラーの色丸を追記しました。 赤丸のところが、この案内図の設置場所(現在位置)です。黄緑色の丸が、上掲の「浜の茶園」、空色の丸が茶園にある「覆小屋」です。この小屋は茶園に覆いをかけるための丸太や竹という長尺の資材を保管するための建物。この覆小屋は白川に現存する小屋を参考に伝統的な技法で建てられているそうです。青色の丸が京阪電車の宇治駅。上掲の建物(茶色の丸のところ)が「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」紫色の丸を追記した辺りが「南エリア」南エリアの北側は「福文製茶場茶園」で立入禁止区域になっています。たぶん従来から存在した民間の茶園なのでしょう。「福文製茶場茶園」の右に追記したマゼンダ色の丸は「中エリア」黄色の丸を破線上に追記しました。この破線で囲まれたエリアが、「史跡宇治川太閤堤跡」。発掘調査後に埋め戻されたエリアということになります。2018年1月に、発掘調査の結果、太閤堤の石出しについて現地説明会が開催されました。その時に説明会に参加し、ブログ記事で発掘状況のご紹介をしています。交流館「茶づな」の南に広がる広場はイベント会場として利用されています。イベントが行われている様子を京阪電車宇治駅のプラットホームから幾度か眺めています。しかし、この公園内に入るのは今回が初めてです。「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」(茶色の丸)に入ってみました。 入口を入ってまず目に止まったのが正面壁面の「豊臣秀吉公図」この図の右手方向が「ミュージアム」になっています。 入口付近から撮った左側の全景。フラッシュなし撮影なので少し暗くなっています。この部分は「トオリニワ」と称されているようです。 2階への階段の下部に、鵜匠の彫刻像が置かれています。 左側エリアの奥に進むと、右側壁面にこんなコーナーがあります。「宇治まちあるき」の案内スペースです。この交流館1階の最も西側(左端)は、正面入口に近いところに、「体験教室」があり、その奥側、通路を挟んで北西側にレストランがあります。トオリニワを歩んで行くと、レストランの前を通り、西側に出ることができます。この交流館「茶づな」では、宇治茶体験(茶づな体験プログラム)ができる体験教室が設けてあります。1コマ約45分~60分のプログラムだとか。プログラム案内のチラシが常設してあります。他に、「宇治イラスト・マップ」や「国指定史跡 宇治川太閤堤跡」のパンフレットなども入手できます。交流館「茶づな」から西側に出ます。 庭園の一部で「水辺の庭」です。平時は石敷きの庭ですが、雨水貯水池を兼ねているそうです。 「茶づな」の西に位置するのがこれ。 近づいて眺めるとこんな感じ。 「密に打たれた杭止め護岸」の復元。案内図の中エリア(マゼンダ色の丸のところ)ただし、地下に小河川の溝があるため、遺構を平面的に復元しているだけだそうです。交流館の北方向は、道路を挟んで、「菟道稚郎皇子御墓」と称される御陵があります。この傍に「浮舟宮跡碑」が建立されています。 上掲案内図にある北エリアに向かう手前に、「史跡 宇治川太閤堤跡」の石標が建てられてあります。北エリアは、2007(平成19)年度に「乙方遺跡」の発掘調査で新たに発見された太閤堤跡のエリアです。ここからは石積み護岸、石出し、杭出しが遺構として検出されています。北エリアへ通路沿いに進みます。 南側からアプローチするとこんな景色です。 北寄りに、この案内板が設置されています。 太閤堤の石積み護岸を復元したエリアです。 つまり、現在の復元された石積み護岸の丁度2m直下に、発掘された実物の遺構があるということです。 この北エリアにも、ここを現在地とした全体案内図が設置されています。これで、この自転車散歩を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*お茶と宇治のまち歴史公園について :「宇治市」*茶づな お茶と宇治のまち交流館 ホームページ*「国指定史跡 宇治川太閤堤跡」編集・発行 宇治市歴史まちづくり推進課 A4版小冊子補遺宇治川太閤堤跡 :「文化遺産オンライン」史跡宇治川太閤堤跡パンフレット :「宇治市」宇治川太閤堤跡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 宇治 自転車散歩、川沿いに -1 観桜:隠元橋そばと宇治公園周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -1探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -2
2023.04.04
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3月30日(木)、天気が良かったので少時、自転車散歩に出かけました。宇治川に架かる隠元橋の傍に、陸上自衛隊宇治駐屯地があります。隠元橋側には駐屯地のグラウンドが広がっていて、そこの敷地内のメイン道路沿いが桜並木です。隠元橋側にある北門近くから満開の桜を撮りました。 こちらは宇治川右岸の堤防道から、東方向を眺めて冒頭の並木道を撮った景色です。かつて隠元禅師は、この辺りまで宇治川を遡行してきて、東の山並みを眺め、川岸に上陸して、東の山裾まで行かれたのでしょう。そこに黄檗山萬福寺を開山されました。隠元橋は隠元禅師の名前に由来します。 堤防道からズームアップで堤防道を南進します。そして、宇治橋へ。 宇治橋の上流側歩道から眺めた景色です。 川中には、橘島と塔の島があります。この景色で見えているのは橘島で、ここが「宇治公園」と称されてています。宇治公園と宇治川左岸に架かるのが「橘橋」。その少し奥側の左側、宇治公園と宇治川右岸に架かるのが「朝霧橋」です。 宇治橋の上流側には、「三ノ間」と称される上流側に張り出した部分があります。その三ノ間の高欄を入れて撮った景色です。豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところと伝わる場所で、宇治の茶まつりでは「名水汲み上げの儀」が行われます。また、ここは守護神「橋姫」を祀った名残の場所とも言われているようです。(資料1)宇治橋を渡り、左折して「平等院表参道」を経て宇治川沿いの「あじろぎの道」に向かいます。表参道は、コロナ禍が沈静してきたからでしょうか、平日ですが観光客が少し増えている印象を受けました。「あじろぎの道」は、1992(平成3)年に「源氏物語散策の道」の事業によって整備されたと言います。右岸には「さわらびの道」と称される散策路があります。(資料2)序でに、「あじろぎ」についてです。百人一首に、堤中納言定頼の歌が第64番に採りあげられています。(資料3) 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木 「あじろぎ」はこの網代木に由来するのでしょう。平安時代の宇治川での漁労の仕掛けとして風物詩になっていたようです。網代木は「網代」に使うくいです。「網代」は「冬、川の瀬に綱を引くように竹・木を組み合わせて魚を捕らえるしかけ」(『新明解国語辞典』三省堂)です。「網代」にはもう一つの意味があります。「薄く削ったヒノキ・竹を斜めに組み合わせ、むしろのように編んだもの」(同上)。網代笠、網代駕籠。平安時代の牛車には「網代車」というスタイルもありますね。宇治の茶の関係から茶室に使われる「網代天井」も連想してしまいます。 あじろぎの道にて あじろぎの道から宇治公園(橘島)を眺めた景色 川中の島には、まず「塔の島」と宇治川左岸に架かる「喜撰橋」を渡ります。喜撰橋西詰で撮った景色 塔の島側から宇治川左岸の宇治川観光船の乗り場付近を撮った景色 塔の島から宇治川右岸を眺めた景色 塔の島から橘島に向かいます。 宇治川の枝垂れ桜はちょっと寂しい感じでした。少し早かったのか・・・・。 宇治公園(橘島)の桜。下流側に見えるのは「橘橋」。 宇治川右岸と宇治公園に架かる「朝霧橋」を背景に 宇治公園(橘島)から右岸を眺めた景色。朝日焼の店あたりか・・・・。 塔の島に戻り、右岸の「観流橋」を眺めた景色。宇治川に流れ込む観流橋の上流側には宇治発電所があります。 喜撰橋を引き返します。 喜撰橋上から撮った塔の島の上流側先端の景色この後、あじろぎの道を戻り、平等院側に向かいます。 平等院の庭と宇治川堤防道の間は、樹木の壁ができています。結構枝切りがされていましたが、堤防道からは鳳凰堂の建物の一部がいささか垣間見える程度です。 宇治橋を眺めて左岸の堤防道を平等院参道側には降りずに、そのまま下流方向に進みます。中村藤吉本店の平等院店の所で小径を下って参道に出られます。この後、宇治橋を引き返し、「お茶と宇治のまち歴史公園」に向かいました。つづく参照資料1) 宇治橋 :「京都宇治観光マップ」2) あじろぎの道 :「京都文教学園」3) ちょっと差がつく『百人一首講座』 No.008 :「小倉山荘」補遺世界遺産 平等院 ホームページあじろぎの道 :「Tripadvisor」宇治の網代木 宇治紀行-その3ー :「鮎宗」網代車 :「広辞苑無料検索」網代天井って何? :「有限会社 綱代商会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.02
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JR南草津駅前広場のモニュメント母の介護やその他事情で長らく参加できなかったウォーキング同好会に久しぶりに参加しました[3月25日(土)]。天気予報がコロコロと変化する頃でした。前日の天気予報で実施が決定。当日の天気予報は曇りに変化していました。改札口前に9時半の集合です。駅前からロクハ公園まで歩き、公園内で「闇汁」会。昼間に持ち寄り食材による野外昼食会です。恒例の名称が闇汁会です。従来は12月恒例実施だったのですが、前回できなかったのでこの3月に持ち越された結果でした。俳句で「闇汁」は12月の季語です。お陰で、私には久しぶりに参加できたウォーキングに加え闇汁会にも参加できた次第。ウォーキング参加の記録を兼ねたご紹介です。当日、デジカメを持たずに参加しましたので、ロクハ公園に至るまでの途中の写真は同好会で写真係を担当していただいたHさん、Mさんの写真を一部借用(☆マーク付)します。2015年12月に、この同好会で草津駅からロクハ公園まで歩いています。今回のルートは南草津駅が出発点になりました。先頭を行くリーダーに付いて歩くとルートを断片的にしか記憶していない結果になりました。地図を後で確認しますと、ロクハ公園は南草津駅から東南東方向になります。ウォーキング目的ですので、公園までの往路のルートは少し遠回りぎみに歩きました。野路地区を通り、松下中央の交差点を経由して、 ☆「桜ケ丘4丁目2」の住所表示板が見える歩行者道を進みます。 ☆名神高速道路を眺めつつ横断し ☆ 立命館大学前を経由して北東方向に転じます。 ☆その後、しばし名神高速道路沿いを歩くことに。 ロクハ公園の南の入口に到着。入口傍に設置された案内図です。赤丸を追記したところから公園に入ります。青丸を追記した辺りが今回の到着場所(バーベキュー広場)です。”「ロクハ」は、昔は「緑波」と記され、文字通り背景の木々の緑を映して静かに波うつ「緑波池」が名の由来です。「リョクハ」と呼んでいましたが、なまって「ロクハ」と呼ばれるようになりました。”という経緯があるそうです。(資料1) ☆ ☆ ☆ ☆ バーベキュー広場に至るまでの公園内散策路沿いの景色 闇汁会実施場所近くからの眺め ☆ 闇汁会終了後は現地解散です。大半のメンバーはほぼ一緒に、帰路はロクハ公園の北西側にある正面ゲート(茶色の丸を追記したところ)に向います。 ☆ ☆ 多目的広場 「愛こそが平和をかなえる」というフレーズが刻まれた石碑の後に、モニュメントが建立されています。 ☆ 「くるくるランド」の標識案内が設置されています。 ☆ 正面ゲートへの直線道路への角から南方向を撮った景色左奥側に屋外プールの施設が見えています。後は少し戸惑った箇所がありましたが、南草津駅前の高い建物を目印にしながら、かがやき通り沿いに進み、野路町の交差点で国道1号を横断してそのまま進みます。 左折して、南草津駅口の交差点へ向かう角地に建てられたこの案内板に気づきました。 「野路玉川古跡」の案内碑です。野路の玉川は諸国六玉川の一つに数えられていました。左側の絵は、歌川広重が描いた近江野路の玉川の浮世絵です。(資料2)絵の左上に、『千載集』に載る源俊頼の歌が記されています。 あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やとりけり (明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる浪に 月宿りけり)調べてみますと、「野路の玉川」は、「玉のような清水が湧き出たという故事来歴を有する名所」で、「萩の玉川」とも称されたとか。現在は地元の人々の手により修景整備がされ、史跡としてそこに「玉川」の石標が建てられているそうです。場所は草津市野路4丁目3-26。(資料3,4)南草津口の交差点を超えれば、南草津駅は目の前です。雨に降られることなく無事、集合場所に帰着しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ロクハ公園とは :「草津市公園事務所・ロクハ公園」2) 諸国六玉川=歌川広重= 近江野路 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」3) 野路の玉川 :「草津市丸ごとガイド」4) 野路の玉川(萩の玉川) :「野路町内会」補遺諸国六玉川・歌川広重 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」源俊頼 :ウィキペディア源俊頼 :「千人万首」(やまとうた)16方位の覚え方 :「セルフ塾のブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。歩く&探訪 [再録] 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -1 旧東海道沿いの史跡点描歩く&探訪 [再録」 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -2 平宗清の胴塚・木瓜原遺跡・ロクハ公園ほか
2023.04.01
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扇形車庫の東端側の順路を進み、旧二条駅舎の背面、つまりホーム側から駅舎内部に入ります。最初に目にとまったのが、冒頭の展示ケースです。「お召列車」と前面上部に表示されています。お召列車は皇室専用の臨時列車です。「鉄道は開業以来、歴代の天皇・皇后の行幸啓に際して、主要な交通手段として用いられてきました」(資料1)というものです。ここには、お召列車を飾ったさまざまなパーツが展示されています。中央の大きな鳳凰図はお召し列車の除煙板に取り付けられた装飾です。左側の上段は、お召し列車用ヘッドマーク(梅小路機関区仕様)、中段はお召し列車用装飾(桐の御紋)、下段はお召し列車用煙室扉ハンドル(梅小路機関区仕様)です。一方、右側の上段は、お召し列車装飾用の菊花紋章、中段はお召し列車用煙室ハンドル(桐の御紋)、下段はこの写真ではわかりづらいですが、仕業札(しぎょうふだ)が展示されています。これは運転室の外側に表示する札で、「御召 梅」「先行」「豫備」という文字札です。「御召」はお召し列車、「梅」は所属機関区である梅小路機関区、「先行」は先行列車、「豫備」は予備機を意味するそうです。(説明より)また、床面の左側には機関車のナンバープレート、中央に説明パネル、右側には、お召し列車用旗棹装飾(梅小路機関区仕様)が展示されています。「梅小路機関区では1928(昭和3)年、昭和天皇の御大礼(即位の礼・大嘗祭)のさいに初めてお召し列車を担当し、その後も東海道本線の全線電化開業時まで数多くのお召し列車を担当しました」(説明パネルより転記)とのこと。 扇形車庫の展示蒸気機関車のご紹介で取り上げましたが、この機関車がお召列車の指定機関車の一機です。車体の前面に菊花紋章が飾ってあります。蒸気機関車のナンバープレートは赤地に金色文字で表示されています。「C51 239」は品川機関区での指定機関車です。展示品中の「C57 79」は「奈良機関区に所属していた1953(昭和28)年から約10年間に何度もお召列車をけん引しましたが、1968(昭和43)年に廃車されました」(説明転記)。その下の「C59 108」は梅小路機関区に配置されていた指定機関車です。その間に「何度もお召列車をけん引したことで有名です。除煙板(デフレクター)には『鳳凰』のマークが取り付けられていました」(説明転記)。 「C11形324号機」(1946/昭和21年3月26日製造、日本車輌)が展示されています。 「一般に”Cのチョンチョン”の愛称を持つこのC11形は、昭和7年(1932年)から昭和22年(1947年)の15年間に381台も量産され、全国のローカル線で大活躍し、小型タンク機関車としての性能にも優れた機関車でした。前進、後進が簡単にできる特性があり、力量感にあるれたスタイルとスピード感をかねそなえた、国鉄時代のタンクロコの代表格といえるでしょう。ここに展示のC11 324は昭和21年(1946年)に製造され、昭和47年(1972年)5月11日に和歌山機関区で廃車のときをむかえるまで日本各地で活躍しました。その後、京都府田辺町(現:京田辺市)の交通公園で静態保存されていましたが、今回この梅小路蒸気機関車館に移設しました」(説明転記) C11形機関車の傍に「投炭練習機」が展示されています。蒸気機関車の窯に石炭を投入する作業を練習するための設備だったようです。形式はD51が使われています。主な展示品はこれくらいです、駅舎内の半分くらいは鉄道グッズや鉄道書籍などを扱うミュージアムショップが設置されています。 旧二条駅舎の外観二条駅は、1897(明治30)年、京都鉄道の二条駅~嵯峨駅間開通に伴って開業した駅です。つまり、もとは二条城の南西側に位置する現JR嵯峨野線の二条駅の辺りにあったのでしょう。京都鉄道は1907(明治40)年に、国に買収され国鉄の一部になります。この建物は、1904(明治37)年6月に建設され、京都鉄道本社社屋を兼ねた初代の駅舎です。現役時代は日本最古級の木造駅舎といわれていたそうです。1996年に二条駅の高架化に伴いこちらに移築されました。1996(平成8)年に京都市指定有形文化財に指定されています。(資料3,4,5) 切妻屋根の玄関口 入母屋造瓦屋根で本体が平入りの二階建、左右対称形で両側には側面(妻)を前面に向けた平屋です。 棟の両端と降棟にはそれぞれ鬼板が見えます。鬼板の中央には民営鉄道として設立された京都鉄道の社章が陽刻されています。(資料3) 旧二条駅舎の正面に向かって右側に、京都鉄道博物館の建物のコンクリート造りの先端部が突出した形で並んでいます。 駅舎玄関の前庭右側には、大きな車輪がモニュメントとして設置されています。 旧二条駅舎の全景を最後にご紹介して、京都鉄道博物館の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鉄路を翔けた鳳凰~お召列車と貴賓室~ :「京都鉄道博物館」 2) お召し列車 :ウィキペディア3) 京都鉄道 :ウィキペディア4) 旧二条駅舎(京都鉄道博物館) :「ニッポン旅マガジン」5) 旧二条駅舎 :「京都鉄道博物館」補遺京都鉄道博物館 ホームページ「お召列車」になった車両いろいろ 普段の通勤電車が実は「防弾ガラス仕様」なことも:「ReX」除煙板 :ウィキペディア煙室扉ハンドル YouTube【貴重】48年ぶり!!山北町D52煙室開扉 YouTubeタンク機関車 :ウィキペディア北海道を走り抜けた蒸気機関車 Vol.6 小型タンク機関車「C11」 YouTube国産の国鉄蒸気機関車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ
2023.03.29
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この扇形車庫を前回撮った位置から始めます。南東側から外観を撮った景色です。 少し南方向に移動します。20両の車両を駐留できる扇形車庫の前には、「転車台」の設備があります。このエリアはSLひろばと称されています。今度は扇形車庫の前面を、起点とした壁際の蒸気機関車「C11形64号機」まで戻ります。壁面の反対側の扇形車庫部分が未探訪です。壁面を境に東から西へと車庫を眺めて行きます。こちらのセクションは、運行できる蒸気機関車を駐留させてあるところという印象を持ちました。いわゆる動態保存という形です。こちらには説明パネルの類いを見かけませんでした。少し雰囲気が異なるので、車庫の前面から蒸気機関車を眺めるだけにしました。 最初に見たのがこれです。展示品ではなく実用機だと思います。詳細不詳。ここから順に左側を眺めていきました。 「C57形1号機」(1937/昭和12年製造、川崎車輌)「SLやまぐち号」として活躍する優美なスタイルの旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,280mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,945mm」(資料1) 「8620形8630号機」(1914/大正3年製造、汽車製造)日本初の量産タイプの旅客用蒸気機関車だそうです。「車両全長:16,765mm、車両全幅:2,614mm、車両全高:3,785mm」(資料1) 「C56形160号機」(1939/昭和14年製造、川崎車輌)1935年から製造された小型の蒸気機関車で、旅客・貨物用で活躍しました。「車両全長:14,325mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,900mm」(資料1) 左端(西端)は、「7100形7105号機」「義経」号 (1880/明治13年製造)本館の「鉄道のあゆみ」という展示ゾーンに模型が展示されているのは既にご紹介しました。その実物がここにありました。製造所はアメリカのH.K.ポーター社。 「北海道最初の幹線鉄道として建設された幌内鉄道に、アメリカより最初に輸入された機関車です。1号機として「義経」と名付けられました。1952(昭和27)年に鉄道開業80周年を記念して自走可能に復元されました。2014(平成26)年、梅小路運転区100年を記念し、石炭と水で走行可能な状態に復元されました」(資料1)「車両全長:11,600mm、車両全幅:2,133mm、車両全高:3,383mm」(資料1)車庫内で眺めたのはこれだけです。 扇形車庫の西端寄りの屋外の転車台に面した線路上に、この蒸気機関車が駐まっています。 別の位置(東側)から眺めるとこんな位置関係になります。転車台の向こうに蒸気機関車が見え、右側に扇形車庫の西端、左側に「SL第2検修庫」があります。扇形車庫とSL第2検修庫との間の奥に見える建物が京都鉄道博物館の本館です。 扇形車庫の西端前面から眺めた「C61形2号機」です。SL第2検修庫の前面に階段が見えます。これは本館2階との連結デッキになっています。さらに、このSLひろばを眺める展望所の機能も果たしているようです。 扇形車庫の西端から東方向を眺めた景色再び、転車台の周囲を回り込んで、連絡デッキの階段に向かいます。 連絡デッキからの展望扇形車庫の左端の梁から右方向に、10から16までの番号が見えます。番号12の車庫に、旧型客車が見えています。 こちらは番号15から20までの車庫部分です。一方、この連絡デッキから、「SL第2検修庫」の内部で行われている蒸気機関車の検査修繕に特化した作業風景を見学できるようになっています。 この角度からだと、扇形車庫の西端の番号1から17までの車庫が写っています。番号7と8の間に、上掲した車庫内の区切りの壁面が見えます。 改めて「C61形2号機」について。本機は1948(昭和23)年に三菱重工業で製造されました。C61形は自動給炭装置が初めて採用された大型の旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,375mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)最後に「SLのりば」の方に向かいます。 SLのりばには、「SLスチーム号」が停車していました。 「C62形2号機」(1948/昭和23年製造、日立製作所)日本を代表する旅客用蒸気機関車で、本機は特急『つばめ』で活躍しました。「車両全長:21,475mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)扇形車庫では、蒸気機関車20両が展示されていますが、そのうち動態保存車両は8両だそうです。そのうち、営業運転車両は3両と言います、(資料1)序でに、扇形車庫の背面・通路側を少しふれておきます。 通路側には、梅小路蒸気機関車庫の縮尺模型や、さまざまな機具類が展示されています。ここの展示品を見るのはスキップしてしまいましたので、写真紹介だけです。それでは、旧二条駅舎に向かいます。順路に沿って行くと、扇形車庫東端の外側を歩くことになります。 ここには「オハフ50形68号車」が設置されており、休憩所の役割を担っています。50系客車と称され、1977年に旧型客車の代替として登場しました。この時、自動ドア装備などの近代化が図られました。オハフ50は北海道を除く全国で普通列車に使用されました。しかし、ディーゼルカーや電車への置き換えにより、一部での使用を除き2001年までに引退したそうです。(資料2) 順路の反対側には、通路脇に車輪がオブジェ風に並べられて、フェンスの役割を兼ねていました。車輪も大小様々あり、なかなかいい眺めです。つづく参照資料1) 展示車両紹介 扇形車庫 :「京都鉄道博物館」2) 国鉄客車 オハフ50形 :「TOMIX」補遺京都鉄道博物館 ホームページ国鉄7100形蒸気機関車 :ウィキペディア国鉄7100形蒸気機関車 :「レイルラボ」国鉄50系客車 :ウィキペディア北海道第1号SL「義経」 京都鉄道博物館で現役<探る見る> YouTube復活運転!7100形蒸気機関車 義経 SLスチーム号 / 梅小路機関区100周年記念セレモニー 2014.10/10 / 京都鉄道博物館 YouTubeSLやまぐち号 タイムスリップ 蒸気機関車の旅 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.28
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本館を出ると、順路沿いに梅小路蒸気機関車庫に向かいます。これは順路の途中での景色です。生垣の外側に扇形車庫の建物の一部が見え、外灯の左先にみえる瓦屋根の建物が旧二条駅舎です。 車庫の背面から内部へ蒸気機関車庫が弧を描き、扇形であるイメージは伝わることでしょう。 扇形車庫に入ったところでは、まず客車の左右に蒸気機関車が並んでいる景色が見えます。見えるのは各車両の背面です。客車の左隣りには、C621、右側には1080, D511というナンバープレートがそれぞれ見えます。まずは右側方向に車庫の壁際まで車両を眺めて行きました。上掲客車の右隣りの景色を御覧ください。後で気づいたことなのですが、ここには前後に2種の蒸気機関車が縦列に並んでいます。 後側に駐まっているのは、「1070形1080号車」です。記録写真では説明パネルが判読できません。ネット情報を参照しますと、1901年にイギリスのダブス社で製造された蒸気機関車で、日本に135両輸入されたそうです。現存するのはこの一機のみとか。明治34年製造。(資料1,2)車庫の壁際まで行き、蒸気機関車の前面に回りました。前面を最初にご紹介してから、側面や背面を眺める方がやはりわかりやすくイメージしやすいと思いますので、編集してご紹介します。 この区画の端には「C11形64号機」(1935/昭和10年製造)が駐まっています。ローカル線や都市近郊短距離運転用で、旅客・貨物両用の中型タンク式蒸気機関車です。1932~1947年にかけて381両が製造されました。(掲示の説明パネルを参照しながらご紹介していきます。) 背面 「本機は湊町機関区に配置され、関西本線などで使用されたのち、1939(昭和14)年以降は北海道や東北地方で活躍しました。本形式は『シーのチョンチョン』の愛称で親しまれています」(説明転記)ここを起点に右方向に眺めつつ進んで行きます(扇形に沿い時計回りに)。 「9600形9633号機」(1914/大正3年製造)1913~1926年にかけて770両が製造された大正期の量産型蒸気機関車です。 「勾配線区や貨物列車けん引に威力を発揮しました。本機は甲府機関区や富山機関区に配置され、1941(昭和16)年以降は北海道で活躍しました。本形式は『キューロク』『クンロク』『山親爺』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D51形1号車」(1936/昭和11年製造).日本で最も多く製造された蒸気機関車 「1936(昭和11)年から1945(昭和22)年にかけて1115両が製造された。大量の貨物・勾配用蒸気機関車で、愛称の『デゴイチ』は蒸気機関車の代名詞になりました。本機はD51形蒸気機関車のトンプナンバー機(1号機)で、敦賀機関区などに配置され、北陸地方から東北地方にかけて活躍していました。なお、本機を含む初期に製造された95両は、ボイラー上の覆いの形状から『ナメクジ』の愛称もあります」(説明転記) 「B20形10号機」(1946/昭和21年製造) 入換作業用の小型タンク式蒸気機関車戦時中に規格生産された産業用機関車の一種で、第二次世界大戦末期から終戦後にかけて少数が製造されたと言います。(資料3) 本機は、姫路第一機関区に配置され、半年余り大和鉄道に貸し出された後、鹿児島機関区に移動し、1972年に梅小路蒸気機関車館に収められました。「豆タンク」の愛称で親しまれています。(資料3) 旧型客車この車両の説明パネルを見落としていました。ネット情報によれば「オハ4613」です。鋼製塗り屋根が整備されてこの車庫内に展示されたようです。(資料4,5) 「C62形1号機」(1948/昭和23年製造) 日本最大の旅客用蒸気機関車1948年から1949年にかけて49両が製造され、特急列車などのけん引に使用されました。 「ボイラーはD52形蒸気機関車から流用、シリンダーと走行装置はC59形蒸気機関車と同じものを新製、自動給炭装置(メカニカルストーカー)も取り付けられています。本機は広島第二機関区や宮原機関区などに配置され、山陽本線を中心に特急『つばめ』『はと』をはじめ、特急『かもめ』や急行列車などのけん引機として活躍しました。本形式は『シロクニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C55形1号機」(1935/昭和10年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 C51形の改良機で、1935年から1937年にかけて62両が製造されました。 「スポーク動輪(車軸中心のハブからスポークが放射状に伸びている動輪)を持つパシフィック機(軸配置2C1)では最後の形式になっています。本機は苗穂機関区や小樽築港機関区などに配置され、おもに北海道で活躍しました。本形式は『シゴゴ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C58形1号機」(1938/昭和13年製造) ローカル線で活躍した客貨両用蒸気機関車 1938年から1947年にかけて427両が製造されました。中型のサイズです。 「支線も走行できるように設計されており、北海道から九州地方までの全国のローカル線で活躍したあと、北海道での最終期には、寝台列車などをけん引しました。本形式は『シゴハチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D50形140号機」(1926/大正15年) 大型の貨物用蒸気機関車貨物輸送量の増加にともない、9600形蒸気機関車の後継機として開発され、1923年から1931年にかけて380両が製造されました。 「国産最初のミカド型(軸配置1D1)です。・・・本機は梅小路機関区のほか各地の機関区に配置され、四国を除く全国で活躍し、九州では石炭輸送の機関車としても使用されました。本形式は『デゴマル』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D52型468号機」(1946/昭和21年製造) 日本最大・最強のマンモス蒸気機関車 1943年から1946年にかけて285両製造され、「D51形蒸気機関車の1,000tを上回る1,200tのけん引力を目標に設計されました」(説明転記) 「本機は沼津機関区や姫路機関区、五稜郭機関区に配置され、強力なけん引力を誇る貨物専用機として、設計通りの性能を発揮しました。本形式は『デゴニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C51形239号機」(1927/昭和2年製造) おめし列車の専用指定機にもなりました。1919年から1928年にかけて289両が製造された大型旅客用蒸気機関車です。 「1,750mmの大型動輪が初めて採用された機関車で、1930(昭和5)年に運転が開始された特急『つばめ』をけん引したことでも知られています。本機はお召し列車の専用指定機として104回使用されたのち、直江津機関区などに配置され、北信越から東北にかけて活躍してきました。本形式は『シゴイチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C53形45号機」(1928/昭和3年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 1928年から1930年にかけて97両が製造されました。国産では唯一の3シリンダー機です。 「本機は梅小路機関区や姫路機関区、宮原機関区に配置され、特急列車や普通列車のけん引機として近畿、中国地方で幅広く活躍しました。しかし構造が複雑で保守も困難であり、C59形蒸気機関車の登場によりその役割を終えました。本形式は『シゴサン』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C59形164号機」(1946/昭和21年製造) 特急列車をけん引した大型蒸気機関車 1941年から1947年にかけて173両が製造された最後のパシフィック機(軸配置1D1)です。 「東海道線が全線電化されるまで『つばめ』『はと』『さくら』『かもめ』などの特急列車をけん引し、山陽本線などでも活躍しました。本機は梅小路機関区と糸崎機関区に配置されました。本形式は『シゴク』の愛称で親しまれています」(説明転記) 梅小路蒸気機関車庫の前面を南東側から眺めた景色。扇形車庫であることがよくわかります。 この建造物は、鉄筋コンクリート造扇形車庫(電動天井走行クレーン及び引込線を含む)として、平成16年12月10日、重要文化財に指定登録されています。「梅小路機関車庫は、JR京都駅から約1.5キロメートル西方に位置する。旅客や貨物量の増加等に伴い、京都駅停車場改良工事の一環として、鉄道院西部鉄道管理局の設計、大林組の施工により建設されたもので、大正2年(1913)12月に起工、翌年11月に竣工した。 平面は、転車台を中心にしてほぼ東西に扇形を描く。内部は、機関車駐留場、整備や器械加工を行う器械場、職場に分かれ、20線の引込線を収容する。 当建造物は、小規模な改修工事は行われているが、ほぼ創建当初の状態を保っていて、わが国に現存する最古の鉄筋コンクリート造機関車庫として、鉄道建設史上大変重要である、また、機関車の展示施設、機関士の研修施設として日常公開活用されていることが、その価値をいっそう高めている」(説明転記)次回は扇形車庫内の展示の続きをご紹介します。[付記]京都鉄道博物館ホームページの「フロアマップ」にある「展示車両の配置を見る」をクリックしますと、PDFファイルをダウンロードできます。この配置図を見ますと、2023/3/6に扇形車庫で実際に眺めた配置とは異なっています。時折、配置換えされるのでしょうか・・・この点は不詳。参照資料1) 40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 3 1070形 1080号機 :「B767-281のブログ」2) 国鉄6200形蒸気機関車(1070形:1080号機):「観光列車から!日々利用の乗り物まで」3) 国鉄B20形蒸気機関車 :ウィキペディア4) 梅小路機関車館 オハ4613・オハフ3348:「京都鉄道博物館扇形車庫」5) オハ46 13 :「新・たいすんの改造車紹介ブログ」補遺京都鉄道博物館 ホームページ フロアマップ国鉄D51形蒸気機関車 :ウィキペディア「SLの王者」D51形、日本全国を駆け巡った名場面 :「東洋経済 ONLINE」 地域ごとに個性豊かな国民的機関車「デゴイチ」【D51形蒸気機関車】 いわてDC デゴイチ SL D51-498号「SLイーハトーブいわて物語号」「SL銀河ドリーム号」 YouTubeD51 498力走! 釜石線 SL銀河ドリーム号2012 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.27
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本館1階に入ると右端(西側)にエスカレータがあります。壁面には車両番号プレートをデザイン的に並べて飾ってあります。 これは本館入口の外壁に掲示されている2階のフロア案内図です。赤丸を追記したところがエスカレーターの設置された場所になります。ここを起点に位置関係を考えていただくとイメージしやすいでしょう。 建物の北東隅に「キッズパーク」が設けてあります。(追記した赤丸:エスカレータの左側) その隣り(水色の部分)には「Ⅴ 運行のしくみ」というテーマのもとで儲けられた「指令所の中をみてみよう」というコーナーです。 複数の列車の運行状況を掌握し、指令を出すセンターの内部が展示されています。 壁面には「指令の種類」を説明したパネルが掲示してあります。輸送指令・旅客指令・運用指令・施設指令・電力指令・信号通信指令という種類があるそうです。指示の内容を説明してあります。詳しくは会場でご覧ください。 指令所の内部展示室の手前、フロアー中央寄りには、「列車を安全に走らせよう」というコーナーがあります。模型列車を実際に走らせてみるというコントロールが体験できるようです。列車をコントロールできるブースがいくつか設置してあります。 指令所の内部展示室の南隣りには、「列車運転シュミレータ」のセクションがあります。ここは有料で列車運転のシュミレーションを体験できるところです。有料のため、内部に入れませんでした。けっこう予約で順番待ちのようでした。 2階フロアーの中央部分は1階からの吹抜け空間になっていて、1階の展示車両の全景を眺めることができます。(上掲フロアー図の黒い長方形・Xマークのところ) 吹抜空間の右側(西側)は、「鉄道ジオラマ」の展示セクションです(緑色のところ)。吹抜空間の反対側(南側)は「Ⅳ 生活と鉄道」というテーマでの展示です(黄色のところ)。 「列車運転シュミレータ」の南隣りは、「関西の鉄道」について、各鉄道の運行列車模型と写真付き説明パネルの展示により、概略説明が行われています。 片方の壁面には、「京都の交通」について、「町を知る」「つながりを知る」「交通を知る」という視点から説明パネルが構成されています。 「通勤・通学のために発達した近距離電車」に光をあて、「関西圏電化区間の移り変わり」を図解説明するとともに、各種電車編成の模型が展示されています。 車両模型の展示とともに、「さまざまな車内広告」を例示している説明パネルが展示されたセクションなどもあります。 一隅に、「オハフ33形客車(再現)」という展示もあります。 「1930年代後半から製造された客車です。2008(平成20)年に解体されていますが、その際に取り外した窓枠や座席等を使って当時の様子を再現しています」(説明文転記) 客車(再現)の隣には、レトロな駅舎の一部も再現されています。それでは3階に進みましょう。3階は各所に設置された階段かエレベータでの移動となります。 本館入口の外壁に掲示されている3階のフロアー案内図です。3階はホール(緑色のところ)と図書資料室(紫色のところ)、通路沿いの壁面の一部が「ギャラリー」として鉄道写真が展示されています。この箇所だけに撮影禁止の表示が出ていました。 通路沿いに設けられた吹抜空間の部分を見下ろせる窓からの景色です。フロアー案内図の水色のところは、3階の屋外になる「スカイテラス」です。テラスの出入口側には休憩所が設けてあります。テラスの先に出ると、 京都市内の東から南東の方向の景色がまず目に飛び込んできます。 建物の南東隅に一番近い箇所からの展望 JRの鉄道線路がすぐ傍の眼下を走っています。 東方向 ズームアップ さらにズームアップ 京都タワーが見えます。 南方向 南東方向には東寺の五重塔が見えます。 東から南東方向をパノラマ合成してみますと、少し歪んでいますがこんな展望が開けています。 スカイテラスの北端側には行きませんでした。こちらにも出入口が設けてあります。北東方向には、東山の山並みが見えます。一番高く見えるところが比叡山だと思います。これで、京都鉄道博物館本館を一通り巡ってきました。細見とは称しながら、見過ごした箇所が多々あることと思います。どこを私が見過ごしているかに気づいていただくためにも、現地現物をご覧ください。本館を出て「梅小路蒸気機関車庫」の見学に参りましょう。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページお客様を意識したチーム力で、安全な列車運行を司る 奥田望 :「Blue Signal」運転指令 :「日本民営鉄道協会」驚異の過密ダイヤを守るJRの心臓部――初公開「東京総合指令室」の秘密に迫る :「YAHOO! JAPAN ニュース」スマホ時代、難しさ増す鉄道指令所 24時間365日、列車を見守るJR東海総合 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.24
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本館1階のレイアウト図を再掲します。最初に「鉄道のあゆみ」(赤色ゾーン)の奥側の残りをご紹介し、次に「鉄道のしくみ」(青色ゾーン)の後半部を巡ります。最後に「鉄道の施設」(緑色ゾーン)に移ります。前回、「鉄道の歩み」の一環で奥側に展示されている100系新幹線電車に触れました。ほかに併せて「さまざまな新幹線」「日本各地に広がる新幹線」という写真付き説明パネルが掲示され、、新幹線電車の模型も展示されています。 「W7系新幹線電車」の模型(縮尺1/20)「2015(平成27)年の北陸新幹線長野~金沢間開業に合わせて、JR西日本とJR東日本が共同開発した新幹線電車で、グランクラスを含む12両編成で運行されます」(説明転記) 「700系新幹線電車 7000番代ひかりレールスター」の模型(縮尺1/20)「2000(平成12)年 JR西日本が山陽新幹線新大阪~博多間の『ひかり』用として、700系新幹線電車3000番代をベースに改良した新幹線電車です」(説明転記) 「昭和之駅」の駅舎が再現されています。 レトロな駅舎の待合室、改札口、切符販売窓口、駅事務所がなつかしい感じ・・・・。「昭和30~40年代の駅舎 この駅舎は、昭和初期に建てられた駅をモデルにしています。昭和30年代に入ると昔ながらの木造の駅にも蛍光灯とともり、木枠だった窓がサッシに変わるなどして、次第に近代化されていきました。切符を買うほかに手荷物を預ける窓口や、改札を出るまでにあらかじめホームで乗り越し精算を行う窓口がありました」(説明パネル転記)ホームに停車しているのは特急の車両です。 特急「くろしお」 これは日本初の特急形ディーゼルカー、キハ81形3号車です。最初は、上野~青森間の特急「はつかり」の無煙化として開発されたそうです。”東北本線全線電化によって、583系電車に置き換えられる1968(昭和4)年まで「はつかり」専用として使用され、以降は「つばさ」「いなほ」「ひたち」「くろしお」に使用されました。”(説明パネル転記) 駅舎の背後には、ミゼットと称された軽自動車規格の三輪自動車が展示され、その傍に「売店」も再現されています。 特急「くろしお」の傍に、「DMH17形ディーゼルエンジン」が展示されています。「1953(昭和28)年から5年間にわたって量産されたディーゼルエンジンで、国鉄のディーゼル機関車と、普通・急行車両のディーゼルカーに使用されていました。 型 式:DMH17B水冷4サイクル直列8気筒 排気量:16.98? 出力:170cs/1500rpm 」(説明転記)特急「くろしお」は「鉄道のあゆみ」の一環としての展示です。特急「くろしお」よりフロアーの中央側は「鉄道のしくみ」(青色ゾーン)の後半部になります。「鉄道のしくみ」を順に巡っていきましょう。 ここには特急「くろしお」の隣りに、「DD51形ディーゼル機関車」(DD51形756号機)が展示されています。この箇所の特徴は、機関車の底面を眺めることができるように、一段掘り下げて通路が設けてあります。こんな体験ができるのは実におもしろい!階段の傍には、「DD51形ディーゼル機関車の開発」「電気式と液体式の動力伝達方式の違い」「国産のディーゼルエンジンろ液体変速機」についての説明パネルが掲示されています。 DD51形の後正面 通路に降りて、機関車の底面を見上げた景色です。機関車のメカニズムに関心のある人には絶景でしょうね。 DD51形の正面からみて、左側には「EF66形電気機関車」(EF66形35号機)が展示されています。 こちらも、機関車の底面を眺めてみましょう。 機関車の後正面 DD51形756号機とEF66形35号機が左右に展示されたプラットホームの後方中央には、大阪環状線の車両が展示されています。「鉄道のしくみ」展示の最後方は、いわば車両を構成する各種パーツの展示と説明エリアです。 上下二段にして電車に電気を採り入れる「パンタグラフ」が展示されていて、 下段のパンタグラフは実物を作動させて、上下に開閉し架線と接触する状態を見ることができるになっています。 「パンタグラフには、ひし形やくの字形などいろいろな形があります。どのパンタグラフも架線と接する集電舟やばね、自由な動きを可能にする枠などから構成され、ばねなどの力で架線を一定の力で押し上げることで架線から離れずに電気を採り入れることができます」(説明転記) こちらも二段にして、「鉄道車両の台車」が展示されています。台車は、「重い車両を支えるとともに、回転する車輪の動きを車体に伝え車両全体おを動かす装置です。また、線路を走行することによる車輪からの振動を、ばねにより和らげ乗り心地を良くする」(説明転記)役割を担っています。台車の構造については、車輪からの衝撃や振動を和らげる装置として、3種類の装置の図解説明や 近年、一般的に用いられている「ポルスタレス台車」の図解説明も掲示してあります。 そして、車輪。 組立式車輪(タイヤ付き車輪)、一体式車輪、弾性車輪の3種類が図解付きで説明されています。 レールと車輪の関係についても、時代による変遷が図解説明してあります。1789年に「フランジ付き車輪」が開発されたそうです。「車輪にフランジが付き、半径の違いでカーブを曲がれるよう円錐形断面に」(説明転記)なったそうです。1階フロアーの東側は、「鉄道の施設」(緑色のゾーン)をテーマにしています。 各種信号機の実物展示 線路の切り替え装置の展示 運転席の実物展示。ここでは、運転手になった気分で装置に触って動かせるようです。 架線の展示発電・変電関連施設の展示説明だったと思います。(記憶が少し不確かです。) 日本の鉄道に鉄橋は付きものです。かつての「余部鉄橋」の模型と橋脚の一部が展示されています。さらに、 橋の構造の一例を図解説明。トラス橋、アーチ橋、ガーダー橋、吊り橋、斜張橋が取り上げてあります。 日本の鉄道にとってトンネルもまた不可避の施設です。さまざまな鉄道トンネルについて、具体例での説明パネルが掲示され、ジオラマの展示やシールド工法の装置も展示してあります。この1階の全フロアーの展示を克明に見学して巡れば、最低でも数時間はかかると思います。日本の鉄道と鉄道史について、楽しく学べる博物館です。それでは、2階、3階を巡りましょう。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページ国鉄EF66形電気機関車 :ウィキペディア国鉄最強の電気機関車「EF66」今どこで見られる? :「東洋経済ONLINE」JRはなぜ自前の発電所や変電所を持っているのか :「東洋経済ONLINE」余部鉄橋「空の駅」~余部鉄橋の再出発!~ :「兵庫県」シールドトンネル :ウィキペディアシールド工法 :「千代田幹線 整備事業案内」楽しくわかる!トンネルの世界 :「OBAYASHI TUNNEL WORLD」ダイハツ・ミゼット :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.23
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「鉄道のあゆみ」の一環として、「英国製の勾配用蒸気機関車」(1800形1801号機)が展示されています。 「鉄道の国有化」についての展示セクションここには、鉄道院時代の判任官の制服(1909/明治42年)も展示されています。明治時代の文官職位は、親任官、勅任官、奏任官、判任官とそれ以外(等外)に区分されていたそうです。(説明より)1892(明治25)年、国が建設すべき重要な建設予定路線を定めた鉄道敷設法が成立。一方で、私設鉄道の路線網が広がりつつありました。官設・私設間での旅客獲得競争や連絡運用の不便さなどの問題が発生しました。買収による私設鉄道の国有化気運が高まります。 1892(明治25)に制作された中央線の建設ルートに関する意見書の写真 関西の私設鉄道が顧客獲得サービスに運賃割引宣伝のチラシを発行していました。説明パネルに例示されています。 私設鉄道の国有化を示す鉄道網図のパネル展示1912(明治45)年6月、新橋~下関間で日本初の特急列車が誕生しました。 「鉄道の黄金期」についての展示セクション大正期から昭和初期が戦前における日本の鉄道の黄金期でした。 1921(大正10)年、新逢坂山トンネル(京都~大津間)開通 1934(昭和9)年、丹那トンネル(熱海~函南間)開通 鉄道営業距離数 1919(大正8)年9.856km ⇒ 1937(昭和12)17,825km この頃には急行列車が北海道から九州まで運行されていました。1929(昭和4)年に特急列車の愛称が公募され、「富士」「桜」と名付けられます。1930(昭和5)年に超特急「燕(つばめ)」が誕生。東京~大阪間を約9時間で結ぶ。 「キハ42000形ガソリンカー」の模型、縮尺1/40 1935(昭和10)年大都市近郊を走るための車両 「モハ40形電車」の模型、縮尺1/40 1932(昭和7)年 1932~1942年に製造 鉄道省では初めての全長20m級の鋼製電車「日本における鉄道の電化は、1895(明治28)年の京都電気鉄道による路面電車の運行からはじまり、1904(明治37)年には甲武鉄道が電車の運行を開始しました。一方、国有鉄道では現在の山手線の一部で1909(明治42)年から電車の運行を開始し、1912(明治45)年には信越本線で電気機関車の運行も開始しました。なお、関西の国有鉄道線では,1932(昭和7)年に片町~四条畷間が初めて電化されました」(パネル説明転記) 1949(昭和24)年に、全国の幹線で優等列車が復活しました。戦後初の特急は「へいわ」と名付けられます。東京~大阪間を約9時間で走行。「へいわ」のロゴの右側のロゴは何か。戦後、日本に進駐してきた連合国軍の実行部隊は、米国第8軍事司令部でした。軍司令官専用列車に The Octagonian(オクタゴニアン)号の名称が与えられました。いわゆる占領軍判お召し列車です。1954(昭和29)年頃まで連合軍専用列車は運行していたと言います。(資料1)1945年9月5日以降、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置され、一組織として、連合軍鉄道輸送司令部事務所(Railway Transportation Office)が設けられます。連合軍の貨物輸送の監督や、連合軍専用列車の乗車券発行、休暇軍人への旅行案内などを行う組織です。RTOを全国各地の主要駅・車両基地などに設置し、RTOが日本の鉄道への運輸指令を発令したそうです。サンフランシスコ平和条約が発効となる約1ヶ月前の1952年3月31日にRTOは全廃されました。(説明パネルより)特急「へいわ」は1950年に「つばめ」と改名され、同区間で特急「はと」も登場。これらの特急には、「つばめガール」「はとガール」と呼ばれる女性乗務員が乗務して、接客サービスを行ったそうです。(説明パネルより) 戦時中の鉄道省制服が展示されています。 「日本国有鉄道の発足と近代化」についての展示セクションGHQの民主化政策の一環で、1949(昭和24)年6月1日に、公共企業体として日本国有鉄道(国鉄)が発足しました。国鉄発足後に、特急列車が復活。1950年には80系電車が登場します。1953(昭和28)年、京都~博多間で特急「かもめ」が運行開始となります。 特急「かもめ」は当初、蒸気機関車が客車を牽引。客車の座席は一方向を向いていました。そのため、編成の方向転換をする必要があり、京都では東海道線丹波口~梅小路間のデルタ線を利用して方向転換をしていたそうです。(説明パネルより)東海道本線の全線電化は、1956(昭和31)年の米原~京都間電化により完成します。これで全線で電車や電気機関車の運転が可能になりました。電気機関車が牽引する特急「つばめ」「はと」は、東京~大阪間を7時間30分で結ぶに到ります。 「車両の近代化」についての展示セクション日本の高度経済成長期に新性能電車が登場します。「1957(昭和32)年、高性能で小型化されたモーターなどを使用した通勤形のモハ90形電車(のちの101系電車)が開発され、この電車の技術はのちの国鉄電車でも用いられ、通勤電車だけではなく長距離電車にも広く使われました」(説明パネル転記)1958(昭和33)年に電車特急が登場。「151系電車特急『こだま』は、空気ばねによる乗り心地の改良、冷暖房完備などのサービス向上に加えて、東京~大阪間を6時間50分(のちに6時間30分)で結ぶ速達性で、東京~大阪間の日帰りを可能にしました。この『こだま』の名称には、一日の間にこだま(やまびこ)のように行って帰ってくることができる、という意味が込められていました」(説明パネル転記) 「キハ82形ディーゼルカー」の模型、縮尺1/20 1961(昭和36)年「先頭車は、キハ81形のボンネット型から、貫通型と呼ばれる構造に変更されました。」(説明転記) 「カニ22形客車」の模型、縮尺1/20 1960(昭和35)年「パンタグラフからの集電と、ディーゼルエンジンによる発電のどちらにも対応した電源車で、荷物車を併設していました」(説明転記)1960年代、東海道本線や都市部の路線は電化が進んでいました。一方、全国の多くの路線は非電化のままでした。その対応が、キ81形、82形のディーゼルカーなどの導入でした。ディーゼル特急の登場です。「1961(昭和36)年のダイヤ改正では、それまで全国に18本であった特急列車がディーゼルカーの投入により52本に増え、四国を除く全国に特急列車が走りはじめました」(説明パネル転記) 「『夢の超特急』誕生と特急網」についての展示セクション1959(昭和34)年に、東京オリンピック(1964年)開催に受けて、東京と大阪を3時間で結ぶ「夢の超特急」建設計画が始まりました。その最初が1000形試験電車(A編成、2両)です。東海道新幹線の開業は、1964(昭和39)年10月1日午前6時。0系新幹線電車「ひかり1号」は東京駅、「ひかり2号」が大阪駅をそれぞれ出発しました。当初は4時間、1965年11月より3時間10分で東京と大阪を結びました。(説明パネルより) 上段:922形電気試験車の模型、縮尺1/20 1964(昭和39)年 新幹線の電気設備を検査する車両で、愛称は「ドクターイエロー」。中段:581系電車の模型、縮尺/20 1967(昭和42)年 特急「みどり」「月光」として登場。昼は座席車、夜は寝台車として運用。下段:キハ181系ディーゼルカー、縮尺1/20 1968(昭和43)年 山岳区間のスピードアップを目的に開発。1968年10月、特急「しなの」運行開始 「鉄道連絡船と国鉄バス」についての展示鉄道連絡船の模型を撮り忘れました。 これは説明パネルに載る青函連絡船「初代津軽丸」(大正末期~昭和初期)の写真です 鉄道連絡船の乗降場のジオラマが展示されています。青函トンネルや瀬戸大橋などの開通により鉄道連絡船は現在はほぼ役割を終えています。青函連絡船は1988(昭和63)年9月19日に正式に廃止されました。(資料2) 左:鉄道省スミダR形木炭バスの模型、縮尺1/20 1940年頃 木炭から発生するガスを燃料として走るバスで、戦時中の燃料不足により導入 終戦後に次第に廃止右:鉄道省1号バスの模型、縮尺1/15 1930(昭和5)年 1930(昭和5)年、岡崎~多治見間を走った、日本で初めての省営(国設)バス 537形国鉄バスの模型、縮刷1/20 100系新幹線電車です。これは0系新幹線電車のモデルチェンジ車として1989(平成元)年に製造されました。100系122形5003号車です。2002年(平成14)年に改造が加えられたそうです。 この新幹線電車の設置されたところがほぼ「鉄道のあゆみ」(赤色ゾーン)の南西隅あたりになると思います。そして、「JRの誕生」です。「昭和40年代以降、国有鉄道の赤字が常態化していたため、昭和50年代になると細見のために分割民営化することが必要との意見が大半を占めるようになりました。そして、鉄道の再生を目指して1987(昭和62)年4月に分割民営が行われ、JRグループと鉄道総合技術研究所などが発足し、地域密着を目指した企業としての充実や地域と共生する取り組みがはじまりました」(説明パネル転記)この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料*館内展示品の説明パネル1) 連合軍専用列車 :ウィキペディア2) 青函連絡船 :ウィキペディア補遺京都鉄道博物館 ホームページ青函トンネル :ウィキペディア瀬戸大橋 :ウィキペディア2022 日本全国新幹線映像 鉄道開業150周年記念スペシャル! ALFA-X・ドクターイエローなど Shinkansen video collection YouTube列車大集合(1)新幹線:東海道新幹線/山陽新幹線/東北新幹線/上越新幹線/長野新幹線/九州新幹線/山形新幹線/秋田新幹線 YouTube【新幹線】日本の新幹線/特急まとめ②〈102min〉東北新幹線/長野新幹線/東海道新幹線/秋田新幹線/ほか【電車】Japanese bullet train YouTube新幹線鉄道について :「国土交通省」[国鉄バスカタログ] 527形・537形(その3) :「国鉄バスカタログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.17
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それでは、青色ゾーンを一旦切り上げて、赤色ゾーンの「鉄道のあゆみ」に進みます。ここでまず目に入るのは大きな機械装置です。 近づいてみると、これは「ワットの振動式蒸気機関」を3/5に縮尺して、1987(昭和62)年に年に国鉄鷹取工場で再現製作されたものです。イギリスのグラスゴー大学で蒸気機関の研究をしていたジェームズ・ワットが1788年に発明、製作したと言います。 a・b・cの箇所はシリンダーです。シリンダー上部(a)にボイラーからの蒸気が入ると、ピストン(b)が押し下げられ、シンダー下部(c)に入っていた蒸気が下に位置するコンデンサー(凝縮器)に移動して冷やされ、bを下げる力になります。次にcに蒸気が送り込まれると、bは押し上げられ、aの蒸気はコンデンサーに移動して冷やされることで、bが引き上げる力となります。これが交互に作用することで、ピストンの上下運動が、歯車を用いたクランクにより回転運動に転換されていくことになります。 この蒸気機関は実際に上下運動を回転運動に転換する動きをデモンストレーションしてくれます。右側車輪の中央歯車に対して、遊星歯車が動いて上の方に移動していることが写真の比較でお解りいただけるでしょう。尚、ジェームズ・ワットは、「1765年、おもに鉱山などで使われていた蒸気機関を改良することに成功しました。それまでピストン運動だった蒸気機関を回転運動に改良したことで、同時に複数の作業が行えるように」(説明パネルより)したそうです。 背後の大きな写真パネルは、リバプールマンチェスター鉄道の遺構写真。ここではロケット号が活躍したとか。 ロケット号の縮尺模型。ジョージ・スティーブンソンが発明した蒸気機関車。彼は1781年、英国のノーサンバーランド州生まれ。17歳から炭鉱で働き始め、炭鉱の技師に。1823年には、息子のロバートとともに、世界初の蒸気機関車メーカー(ロバート・スティブンソン社)を設立しました。(説明パネルより) 世界の各地で活躍した蒸気機関車のイラストが例示されています。 こちらは1825年のロコモーション号の縮尺1/8模型です。鉄道の起源についての説明パネルがあります。鉄道の起源は「16世紀にドイツの炭鉱で木のレールを敷いた道の上を貨車で運んだこと」が起源だとか。手押しの貨車です。この時、既に車輪にフランジを付ける工夫がされていたとか。「18世紀の英国の炭鉱では、金属製のレールが登場し、馬に貨車を引かせたことが近代の鉄道の礎になったといわれています。」(説明パネルより) リチャード・トレビシックが開発した蒸気機関車についての説明パネルがあります。右上の図は1804年の蒸気機関車のレプリカの写真で、その斜め下はその走行想像図。リチャード・トレビシックは、明治時代に車両技術の指導者として来日したそうです。彼は、1771年、英国のコーンウォール地方の炭鉱作業員の家に生まれ、鉱山で働きながら蒸気機関などの技術を学びました。1804年に定置式の高圧蒸気機関の実用化に成功。「その技術を応用して蒸気機関車を製作し、世界で初めて約16kmの距離を約4時間で走行させることに成功しました。」(説明パネルより)世界の公共鉄道は、英国で、1825年9月27日に、ストックトン・ダーリントン鉄道が開業したことを最初とします。そして、1830年にアメリカ、1832年にフランス、1835年にドイツ、ベルギーでの開通という形で広がって行きました。(説明パネルより) 日本人は、江戸時代末期に、模型によって初めて蒸気機関車を知り、鉄道知識を得たそうです。1853(嘉永6)年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際に、蒸気機関車の模型を披露したとか。また、上掲図は、アメリカのペリーが浦賀に来航した際に、横浜で蒸気機関車模型の運転を披露し、幕府に献上した蒸気機関車模型の図です。 1850(嘉永3)年にペリーが来航した際の船「サスケハナ号」の縮尺1/30模型が展示されています。船体に塗られた樹脂の色から「黒船」と呼ばれました。 「佐賀藩精練方 蒸気機関車模型」(複製)が展示されています。「ロシアのプチャーチンが持参した蒸気機関車模型をもとに、佐賀藩の中村奇輔、田中久重、石黒寬次が製作しました」(説明転記)佐賀藩精練方とは、佐賀藩主・鍋島直正が1852(嘉永5)年に設けた西洋技術の研究機関です。反射炉、大砲、蒸気機関などの研究・製造を行ったと言います。(説明パネルより) 「日本初の鉄道建設」は現在の新橋~横浜間です。明治政府が鉄道建設を決めたのは1869(明治2)年。1872(明治5)年に、鉄道開通式が行われました。 日本初の鉄道開業式が盛大に行われた写真を紹介する説明パネルもあります。パネルの右側には、「1870(明治3)年 民部大蔵省鉄道掛」から始まり、「1987(昭和62)年 JRグループ各社 分割民営化」まで、鉄道に関わる組織名がどのように変遷してきたかをまとめています。 「1号機関車と客車」縮尺1/20 「鉄道蒸気車駃走図」1871(明治4)年 複製 鉄道の開通は人々の時間感覚を変え、生活様式を変える原因になります。鉄道は分刻みで走ります。1日24時間という西欧の「定時法」が使われます。時間の単位が「分」となります。その時間感覚が人々の生活様式へ大きな変化を与えていくことに・・・・・。それまでは、日出から日没までを6等分する時間感覚だったのですから、当初は大変だったでしょうね。鉄道開初当時は、ホームに履物を脱いで汽車に乗ってしまった人がいたというエピソードがあるとか。(説明パネルより) 鉄道開業(1872年)当初の新橋駅と停車場の写真が右側に。駅舎は西洋建築です。開業当初は機関車、レール、切符などそのほとんどが英国からの輸入という形で始まりました。勿論、機関車の運転も外国人の機関士です。日本人が同乗して見習うことから始まり・・・・。駅舎は「ステンショ」「鉄道館」などと呼ばれたそうです。(説明パネルより) 制服 「鉄道会社規則書」所収「西京鉄道株券」の見本が展示されています。「1871(明治4)年かr民間の『鉄道会社』による京都~大阪間などの鉄道建設が計画されましたが実現せず、官設鉄道によって建設されました。」(説明文転記) 「京阪神間の鉄道開業」に関連した展示が続きます。 電気機関車の傍に、機関車の内部構造を示す縮尺模型も展示されています。 「旧逢坂山隧道石額」(旧逢坂山トンネルの西口にあった石額) 石額に刻された碑文 「7100形蒸気機関車『義経』」の模型(縮尺1/15)が石額の手前に展示されています。「1880(明治13)年にアメリカから輸入された8両のうちの1両です。大きなカウキャッチャーと先端が大きく膨らんだ煙突が特徴です」(説明文転記) 「西京大津閒鉄道測量絵図」1875(明治8)年東京に対して、京都が西京と称されています。おもしろい。西京という名称はいつ頃まで使われたのでしょうか・・・・。 「柳ヶ瀬トンネル工事写真」 明治10年代前半 日本人だけで建設した最初の鉄道は、京都~大津間の鉄道建設だそうです。急勾配が続く山岳地帯の難所での工事でしたが、外国人技師の力に頼らずに完成させたと言います。馬場(現在の膳所)~大谷間の逢坂山トンネルがその最初のトンネルになります。(説明パネルより) 1877(明治10)年、鉄道局は大阪に工技生養成所を設置します。日本人技術者に鉄道の建設技術などを指導するためです。選抜された鉄道局の工技生に対して英語・数学・力学・製図などの講義が行われました。写真は前列中央に京阪神建築技師長だったイギリス人のT.R.シャーピントンを囲む工技生養成所の人々。(説明パネルより)当時、鉄道頭の井上勝(1843-1910)は、神戸、大阪、京都での建設を指揮し、鉄道に携わる技術者を養成し、日本の鉄道発展に大きく貢献します。彼は、1843年、長州藩士の家に生まれ、21歳で英国に留学して鉄道技術を学んだ人。後に鉄道局長になったとか。 日本初の鉄道連絡船は、なんと、琵琶湖での太湖汽船の運航でした。大津~長浜間を結んだのです。1882(明治15)年から、1889(明治22)年の大津~長浜間の鉄道開業まで続けられました。 「私設鉄道の誕生と鉄道網の広がり」というテーマでの展示もあります。 日本最初の民間資本による私設鉄道は、1881(明治14)年に設立された「日本鉄道」だそうです。この鉄道の経営は当初から好調だったと言います。写真は上野駅の正面玄関。 1883(明治16)年 上野~熊谷間開業 1884(明治17)年 上野~前橋間開業 1891(明治24)年 上野~青森間開業 (説明パネルより) 明治時代における私設鉄道建設の機運の広がりを説明するパネルも設置されています。 「京都鉄道の車両と駅舎」(1890年代/明治30年代)の写真を展示「1893(明治26)年、京都~舞鶴間を結ぶことを目的に私設鉄道の京都鉄道会社が設立されました。1897(明治30)年、最初に二条~嵯峨間で開業し、1899(明治32)年に京都~薗部間で全通した」(転記) 1893(明治26)年の「鉄道線路図」 上中央は「神戸・新橋間汽車発着時刻表」(1891/明治24年)、下左は「私設鉄道乗車賃金割引券」(1903/明治36年)、下右は「関西鉄道汽車時間表」(1901/明治34年) 上は「東海道線全通時の写真」(1889/明治22年)、下左は「日本鉄道『定款議案文書』」(1880年頃)、下中央は「九州鉄道旅客便覧」(1893/明治26年)、下右は「奈良鉄道『鐵道法令集全』」(1900/明治33年)この辺で一区切りとします。展示品、説明パネルで省略しているものがあります。一方、見過ごしたものもあるかも知れません。大凡はイメージしていただけるかと思います。実物をご覧にお出かけください。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページジェームズ・ワット :ウィキペディアジョージ・スチーブンソン :ウィキペディアリチャード・トレビシック :ウィキペディアカウキャッチャー (鉄道) :ウィキペディアストックトン・ダーリントン鉄道 maintained by (浅井照明) 鉄道国有法 :ウィキペディア100年前、国有化の頃の鉄道 :「都道府県市区町村 hmtマガジン」鉄道の岐路 民営化35年 JRの試練 :「日経ビジネス」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.15
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=== 2023.3.1 === 9時45分頃に撮った南の空です。快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上に横雲が広がっていますが、その上に霞んだような青空が見えています。この後もずっと快晴。雲が見えないので撮るのはやめました。=== 2023.3.2 === 9時15分頃に撮った南の空。昨日から一転して曇り空です。南西方向の空 西方向の空 西の遠方には青空が見えました。 東の空は相対的に不穏さを漂わせる雲行きです。 12時15分頃の南の空は青空に一転し白雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空に雲が広がっています。しかし、朝の雲の様子とはかなりの変化が見られます。=== 2023.3.3 ===この日も朝から快晴で雲が見えなかったと思います。記録写真を残していません。17時頃にだけ撮ってみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空さて、雲がたりを続けます。西部文浄著『茶席の禅語』(タチバナ教養文庫)の下巻に移ります。下巻には「白雲断處家山妙」、「流水寒山路深雲古寺鐘」、「行到水窮處坐看雲起時」、「青山元不動白雲自去来」という禅語が採録されていますが、既にご紹介していますのでスキップします。 竜吟雲起虎嘨風生 竜吟ずれば雲起こり 虎嘨(うそぶ)けば風生ず この句で、龍虎・雲風は象徴表現のようです。「ともに無心にして、いわゆる同気相求め、同声相応じ」という「意気投合の様子を申したもの」(p54)と説明されています。お互いの呼吸がピッタリと合っていることの肝要さをとらえた表現だと言います。人間関係然り。出典は『周易』。 堪對暮雲帰未合遠山無限碧層層 暮雲の帰って未だ合せざるに対するに堪えたり、遠山限りなき碧層々「たそがれが近づき、暮雲が帰って来て山を包もうとしています。その雲と雲とが合して全部山を包み隠してしまえば、やがて夜のとばりもおりるのですが、それにはまだ間があり、夕陽をあびた真っ赤な雲が、かなたこなたに片々として、ちぎれ飛んでいます。そして、雲の合い間から見える遠くの山々の碧は、高く低く、幾層にもたたみ重なって、なんともたとえようのない風光であります」(p96)という意味の句です。一切の思慮分別を絶した雄大な自然美、天地の風光の姿を表現しています。この風光が「そのまま真仏の活現であり、仏法の活きた真実相にほかならない」(p97)と説かれています。出典は『碧巌録』の第20則頌。 幾片落花随水一聲長笛出雲来 幾片の落花水に随(したが)って去り、一声の長笛(ちょうてき)雲を出で来たる 幾片かの花びらがヒラヒラと舞い落ちて水に浮かび、流れのままに静かに去って行く。それをながめていると、長笛の音が雲の間からか、何処からともなく聞こえてくる。というような意味と理解します。「これは、花は無心にして水に随い、水は無意にして花を浮かべる、雲も無心、笛を吹く人も無心、そういう無意無心の妙趣をあらわした語でもあります」(p100)と説かれています。出典は『人天眼目一』とのこと。 風吹碧落浮雲盡月上青山玉一團 風碧落(へきらく)を吹いて浮雲尽き、月青山に登る玉(ぎょく)一団「いままで碧落(大空)をおおっていた浮雲も、一陣の清風とともにすっかり払い尽くされ、そして玉のような月が青山の上に顔をみせた」(p101)という明月の夜の光景です。ここでも雲は迷妄を象徴しています。そしてこの句の眼目は「尽」の一字だと言います。「一切の迷妄分別を尽くし切って、寸糸かかるもののない境地になること」「尽くし切りさえすれば、自然とそこに光明の世界が輝き出てくる」(p101)と説かれています。出典は『聯頌集上』。 裁断人間是與非白雲深處掩柴扉 人間の是と非とを裁断して、白雲深き処柴扉を掩う 「是非、得失、愛憎などという、うるさい世間のことなどいっさい断ち切って、山深きところに、ゆうゆう自適の生活を楽しんでいる隠者の様子」(p105)を詠んだ句だとか。出典は『大智偈頌』。下巻では重複する禅語を除くと、5句抽出することになりました。雲の変化に戻ります。=== 2023.3.4 === 9時45分頃に撮った南の空。天気は良好。南西方向の空 西方向の空 あまり見かけない雲の姿が見えました。 東方向の空 17時25分頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 西空の遠方に沈む前の太陽をズームアップして撮りました。 頭上の空 東方向の空この日、雲は広がっていたものの良好な天気だったように思います。つづく補遺周易 :ウィキペディア碧巌録:その1:1~25則 :「禅と悟り:その合理的アプローチ」「碧巌録・第20則 《龍牙の祖師西来意》」 :「野狐禅RRPGのブログ」人天眼目 :「禅籍データベース」(花園大学国際禅学研究所)祇陀開山大智禅師偈頌 :「京都大学貴重資料デジタルアーカウブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.14
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本館入口前の左側壁面を見ますと、博物館館内の案内図が掲示してあります。 1F部分だけ参考に取り上げました。オレンジ色の屋外エリアは前回ご紹介しました。「トワイライトプラザ」と名付けられています。本館内の赤色ゾーンは「Ⅰ 鉄道のあゆみ」、青色ゾーンは「Ⅱ 車両のしくみ」、緑色ゾーンは「Ⅲ 鉄道の施設」をテーマとする展示です。灰色ゾーンは「車両工場」です。 本館に入るとまず目に止まる位置に同じフロアマップが展示されています。 拡大図です。 入口に近い赤色ゾーンのところで目に止まるのが「233」の銘板の付いた蒸気機関車。これは国産初の量産型蒸気機関車の「230形233号機」です。 この蒸気機関車の右側、建物の右端にエスカレーターが設置されています。「1902(明治35)年から1909(明治42)年にかけて、大阪汽車製造で41両も製造された国産初の量産型蒸気機関車です。日本人の体格を考慮した設計や、安定した運転性能が評価され、官設鉄道のほか北越鉄道と北海道鉄蔵にも納入されました。 本機は大正時代中期までは幹線で活躍しましたが、大型機関車の登場により地方線区で運用され、最後は工場の入換機として1959(昭和34)年まで使用されていました。2016(平成28)年には国の重要文化財の答申を受けました。」(案内板転記) 重要文化財(美術工芸品)に指定登録されたことの案内銘板が設置されています。 「製造年:1903(明治36)年度、製造所:汽車製造、全長:9.76m、自重:35.9t、軸配置:1B1」(案内板転記) 時代がうかがえます。「汽車製造合資會社」の社名が右から左に表記されています。「大日本帝国大阪」という時代を彷彿とさせる表記。「KWAISHIA」というローマ字表記法。今なら「KAISHA」と表記することでしょうね。 「鷹取工場 昭和42年10月 復元」という銘板が取り付けてありますので、修復が施されているということでしょうか。次に、入口に近い青色ゾーンの部分がやはり目に止まります。こちらは「車両のしくみ」の一環として実物車両を展示してある区域です。 まずこちらの新幹線電車に目が惹き付けられます。「500系521形1号車」です。 車両の傍に、この案内板が設置されています。 壁面に展示されているエンブレム 新幹線電車の右側には、車両正面の「月光 GEKKO」の表示で特急「月光」とわかります。「クハネ581形35号車」です。 高度経済成長期に万能型電車として開発され、昼は座席車、夜は寝台車として利用できたそうです。 さらに、右側には特急「雷鳥」が展示されています。「クハ489形1号車」ボンネット型の特急用交直流電車です。 特急「雷鳥」は富山に行く時に乗り馴れてきた電車なので、案内板を見過ごしてしまいました。「製造年:1971(昭和46)年、製造所:東急車輌製造、車両全長:21,60mm、車両全幅:2,949mm、車両全高:3,880mm」(資料1)500系新幹線電車、特急「月光」、特急「雷鳥」の車両の間はプラットホームのように一段高くなっていて、窓から車両内部を眺められるようになっています。このプラットホームを先頭側から反対側まで行くと、、 「たからコンテナ特急」「ヨ5000形5008号車」と、その後に貨車「ワム3500形7055号車」が展示されています。ワム3500形貨車は写真を撮り忘れました。ヨ5000形貨車は、宇都宮貨物ターミナルにて保存されていたものが、2015年3月1日にこちらに移設され、「たから」号時代の色に戻されたそうです。日本国有鉄道時代、1959(昭和34)年から1968(昭和43)年頃までに製造または改造により登場した事業用貨車だそうです。(資料2)この後は、まず赤色ゾーン「Ⅰ 鉄道のあゆみ」から見学していくことにしました。つづく参照資料1) 京都鉄道博物館 ホームページ2) 国鉄ヨ5000形貨車 :ウィキペディア補遺寝台特急月光◆データファイル :「愛称別トレインデータ館」寝台特急「月光」 :「夜行列車資料館」特急雷鳥 :「Blue Signal」サンダーバード :「JRおでかけネット 車両案内」サンダーバード (列車) :ウィキペディア貨車 :ウィキペディア国鉄ワム3500形貨車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.13
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こちらも、京都駅から一駅のJR嵯峨野線「梅小路京都西」駅から始めます。この改札口から出ると、南西方向に この建物が見えます。 建物に近づくと、「京都鉄道博物館」の表示があります。館名の前に付けられたロゴは何を表現しているのか。その形からみて、京都鉄道博物館の建物と梅小路蒸気機関車庫の平面をデザイン化したものと推測します。白い壁面の背後に少し見えているのは「旧二条駅舎」です。 来館者が多い時の為の仮設入館導入路が設けてあり、ガラス面の入口が見えます。入口を入ると、左側に入場券売機が設置されています。セルフサービス方式です。 これが当日の入館券斜め右方向に進むと、まず目に飛び込んでくるのが、 「C6226」の銘板が正面に付いている大型高速旅客用蒸気機関車「C62形26号機」です。蒸気機関車の傍に案内板が設置してあります。「1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて49両が製造された日本最大の旅客用テンダー式蒸気機関車で、動輪の直径は1,750mmです。本機は特急『つばめ』『はと』などのけん引機として活躍しました。なお、C62形17号機は1954(昭和29)年に狭軌の蒸気機関車としては世界最速の129km/hを記録しました。」(案内板転記) この説明の他に、この蒸気機関車の仕様が併記されています。「製造年:1948(昭和23)年、製造所:川崎重機、全長:21.47m、自重:100.1t、動輪直径:1,750mm、軸配置:2C2、最高運転速度:100km/h」(案内板転記) C6226の右隣りには、「クハ86形1号車」が並んでいます。「80系直流電車は、東海道本線の旅客列車の電車化を図ることを目的として開発されました。15両編成という日本初の長大編成電車として、1950(昭和25)年から東京~沼津間で運行が開始されました。オレンジと緑の塗色は『湘南色』と呼ばれています。座席は4人掛けとなっていますが、乗降口付近は乗り降りがしやすいように前方は2人掛け、後方は3掛けのロングシートが設けられています。」(案内板転記) 「製造年:1950(昭和25)年、製造所:日立製作所、全長:20.00m、自重:32.4t、定員:155人 (座席79、立席76)」(案内板転記) クハ86形1号車の右隣りには、「0系21形1号車」(初代新幹線電車)が設置されています。こちらは大阪方先頭車だそうです。 ここで案内板の実例を載せておきます。トップの行は、いわゆるキャッチフレーズで的確に最重要点をアピールしています。左側に車両の型式が明示され、さらにその下に仕様が簡略に説明してあります。右側には総合的な説明が記されています。「0系新幹線は、1964(昭和39)年に東海道新幹線用として登場し、最高運転速度210km/hで運行を開始しました。そして翌年には、東京~新大阪を3時間10分で結びました。 0系21形は大阪方の先頭車で、社内は3人+2人掛けの普通座席と、和式トイレや男性用トイレ、洗面台が2組設けられています。」(案内板転記)「製造年:1964(昭和39)年、製造所:日本車輌製造、全長:25.1m、自重:57.6t、定員75人、最高運転速度:210km/h」(案内板転記)説明文の右上に、車両のイラスト図とQRコードが載っています。このQRコードにスマホのカメラをかざすと、ネット情報として車両についての知識を学ぶことができます。帰宅後に、QRコードの写っている上掲写真でQRコードをスキャンして試してみました。案内板の左隣りには、「機械遺産認定証」が設置してあります。この0系21形1号車は「機械遺産第11号」となっています。社団法人日本機械学会が発行する認定証です。記録写真を撮ったのですが、画像が見づらいものになったので省略します。現地でご覧ください。この車両が並ぶ間に階段があり、プラットホームに上がる感じですが、ここが本館に向かう「プロムナード」(散歩道)になっています。プロムナードは南の方向へ、列車の編成展示が、真っ直ぐになされています。つまり、本館入口に到るまでに、結構楽しめます。私は、まずこのプロムナードのエリアを鉄ちゃん気分で行ったり来たりして写真を撮ることから、見学を始めた次第です。 蒸気機関車C6226の後には、「マロネフ59形1号車」が置かれています。「皇族、貴賓専用のマイロネフ37290形として製造された1・2等寝台客車で、のちにスイロネフ38形と称号改正されました。戦後は日本に進駐した連合軍が接収し、返還後は当時の皇太子の非公式用車両・スイロネ37形となり、1955(昭和30)年にはマロネフ59形となりました。1等寝台部分は個室、2等寝台部分は通路両側に上下二段の寝台が配された『プルマン式』となっており、乗り心地を重視して3軸台車が採用されています。」(案内板転記)「製造年:1938(昭和13)年、改造年:1952(昭和27)年・1955(昭和30)年、製造所:鷹取工場、改造所:大井工場、全長:20.00m、自重:38.9t、定員:14人)」(案内板転記) 「マロネフ59形1号車」の後は、「スシ28形301号車」です。「当初は食堂車と2等座席の合造車であるスロシ38000形として製造されましたが、戦後、3等座席の合造車スハシ38形として急行『日本海』などに連結されました。乗り心地を重視した3軸台車が採用されています。1961(昭和36)年、旧交通科学博物館での展示時に、車内全室が食堂車に改造されました。このとき、座席配置が2人掛け+4人掛けテーブルから4人掛+4人掛テーブル、形式番号はスシ28形301号車となりました。」(案内板転記) 「製造年:1933(昭和8)年、改造年:1961(昭和36)年、製造所:日本車両製造、改造所:鷹取工場、全長20.00m、自重:37.8t、定員:44人」(案内板転記) 上掲食堂車の後には、「クハ103形1号車」。高度経済成長期の代表的な通勤形電車「クハ103形電車は、1964(昭和39)年から1984(昭和59)年にかけて3,447両が製造された103系通勤形電車の先頭車です。通勤客輸送の増大に対応するため、加減速性能や経済性に重点をおいて開発され、各線区ごとにさまざまな塗色が採用されたことも特徴です。関西地方では、大阪環状線のオレンジ色や阪和線のスカイブルーなどが代表例です。」(案内板転記) 「製造年:1964(昭和39)、製造所:日本車輌製造、全長:20.00m、自重:26.9t、27.4t、定員:136人(座席48、立席88)」(案内板転記) クハ86形1号車の後続は、「ナシ20形24号車」です。「ナシ20形は、1958(昭和33)年から運行が開始され、『ブルートレイン』の愛称で親しまれた20系寝台特急列車の食堂車です。ナシ20形24号車は、1970(昭和45)年に製造され、東京~九州間を結んだ寝台特急『はやぶさ』や、東京~東北間を結んだ寝台特急『あけぼの』などに連結されていました。」(案内板転記) 「製造年:1970(昭和45)年、製造所:日本車輌製造、全長:20.50m、自重:290.9t、定員:40人」(案内板転記) 上掲食堂車の続きには「DD54形33号機」が置かれています。案内板を撮り忘れました。京都鉄道博物館ホームページの情報によれば、「西ドイツのエンジンと液体変速機を採用したディーゼル機関車」です。プロムナードにある展示の最後は、初代新幹線電車「0系21形1号車」の後続部分です。 本館入口側は、後でよく見ますと少し形状が異なっていることに気づきました。こちらは「0系22形1号車」で先頭車です。また、両1号車の間には、0系新幹線のグリーン車と食堂車が展示されています。(これらの案内板も未確認です) こちらの先頭車は車両内部が展示室になっています。0系新幹線電車のパンタグラフとモーター、高速走行のための台車構造の模型(DT200型台車)、0系新幹線電車の模型などが説明パネルとともに展示されています。 0系新幹線電車の座席も一部展示 先頭車の運転室にも入ることができます。思っていたよりも狭い空間だなという印象でした。本館へと進む前に、この本館建物の東側にある この展示空間をご紹介します。切妻造の屋根を設けただけのシンプルな展示空間です。 向かって右側には、寝台特急「トワイライトエクスプレス」が展示されています。これは、「EF81形103号機」と称される電気機関車です。「近畿地方と東北地方を結ぶ日本海縦貫専用の貨客両用機関車として開発された車両です。直流区間と50Hz・60Hzの交流区間に対応できるため、東北地方から九州地方まで各地で運用されました。国鉄の分割民営化後、JR西日本の車両は敦賀運転所に配置され、本機を含む6両が寝台特急『トワイライトエクスプレス』の指定機となりました。」(案内板転記) 「製造年:1974(昭和49)年、製造所:日立製作所、全長:18.60m、自重:100.8t、軸配置:BBB」(案内板転記) 「スシ24形1号車」は「トワイライトエクスプレス」の食堂車「2015(平成27)年に引退した寝台特急『トワイライトエクスプレス』に使用されていた食堂車『ダイナープレヤデス』です。特急型交直流電車の食堂車サシ489形3号車から改造されました。内装はステンドグラス、電動シェードやじゅうたんなどが使われ、高級感のある車内ではフランス料理を味わうことができました。」(案内板転記) 「スロネフ25形501号車」は「トワイライトエクスプレス」の編成中でもっとも豪華な寝台客車だそうです。「車両の一角から景色を占有できるスイートルームや大型のベッド、ソファが設置されたロイヤルルームがあり、1両に5部屋しかなく、定員はわずか6人でした。」(案内板一部転記) 向かって左側に「EF58形150号機」 これは戦後を代表する電気機関車だとか。「1946(昭和21)年~1958(昭和33)年までに172両が製作された直流電気機関車です。当初は前後にデッキを備えた車体でしたが、1952(昭和27)年よりデッキを廃した流線形車体となり、東海道・山陽・上越・東北・紀勢などの直流電化区間で活躍しました。150号機は1958(昭和33)に製造され、1985(昭和60)年まで活躍して廃車となりましたが、後に車籍が復活され、2011(平成23)年までイベント列車等に使用されました。」(案内板一部転記)「製造年:1958(昭和33)年、製造所:東京芝浦電気、全長:19.90m、自重:115.0t、軸配置:2CC2」(案内板一部転記) 「オロネ24形4号車」は快適さを求めた寝台客車「24系寝台客車は、火災対策や快適性向上を実施した国鉄型寝台客車最後のグループで、533両が製造されました。オロネ24形は、中央の通路を挟んで上下2段の寝台が並ぶ開放型A寝台車(プルマン式)です。本車両は、寝台特急『あかつき』『彗星』の運転開始にあわせて製造され、その後もさまざまな寝台特急に使用されました。」(案内板転記)「製造年:1973(昭和48)年、製造所:日本車輌製造、全長:21.30m、自重:33.6t、定員:28人」(案内板転記) 「EF65形1号機」は電気機関車の黄金時代を築いたそうです。「EF65形電気機関車は電化路線のために設計されえ、その完成度の高さから日本の電気機関車で最多となる308両が製造されました。貨物用、旅客用、客貨両用などのグループがあり、現在でもJR貨物で活躍しています。本機は、貨物列車専用機として活躍していました。」(案内板転記)「製造年:1965(昭和40)年、製造所:川崎車両 川崎電気製造、全長:16.5m、自重:96.0t」(案内板転記) プロムナードの南端の先に、博物館本館の入口があります。では、京都鉄道博物館の本館に入りましょう。つづく参照資料京都鉄道博物館 ホームページ補遺寝台車(鉄道) :ウィキペディアプルマン(企業) :ウィキペディアA寝台 :ウィキペディアB寝台 :ウィキペディア車軸配置 :ウィキペディアブルートレイン(日本) :ウィキペディアトワイライトエクスプレス :ウィキペディアTWILIGHT EXPRESS 瑞風 MIZUKAZE 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.12
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=== 2023.2.26 === 8時40分頃に撮った南の空です。青空に柔らかい雲が漂い、良い天気です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空の雲は様子が異なり、もくもくとした感じの雲が覆っています。 13時半頃の東方向の空の雲は白雲からグレーの少しのっぺりした雲に変化しています。 南の空もまたグレーの雲が全面を覆い一転した空模様です。南西方向の空 西方向の空 雲の様相が大きく変化していました。 15時半頃に南の空は再び晴れ上がり、軽やかさの違いを感じさせる様々な雲が漂っています。 クローズアップ!南西方向の空 西方向の空 東方向の空にも青空が見えるようになっていました。雲の姿が大きく変化しています。さて、雲がたりを続けます。禅語について関心を持っていますので続けます。西部文浄著『茶席の禅語』(タチバナ教養文庫)という上下2冊本を、あるとき中古書店で見つけました。平成6年(1994)の5月の刊行です。まずはその上巻からの抽出です。 最初に採録されているのは、「雲在青天水在瓶」(雲は青天に在り、水は瓶に在り)です。さらに「雲在嶺頭閑不徹水流澗下太忙生」(雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下に流れて太忙生)、「白雲抱幽石」(白雲幽石を抱く)、「雲無心出岫」(雲、無心にして岫を出づ)も本書に採録されています。これらはご紹介ずみですのでスキップします。 雲門胡餅 うんもんこびょう『碧巌録』の第七十七則が出典です。雲門とは雲門禅師のことだとか。ある僧が禅師に「如何なるか是れ超仏越祖の談」と質問したそうです。「仏祖が到達された尊ぶべき悟りの境地をも抜けきった、もうなんの臭みもない、ギリギリ頂上のところ」(p190)その境地について問うたのです。それに対して、雲門禅師は「胡餅」と答えられたと言います。胡餅とは胡麻をまぶした焼き餅のことで、ごくそまつな食べ物です。もとは胡夷の食べ物で、後漢に広がったとか。禅師の「胡餅」という答えは、その僧が問うたその境地すら、臭みである故に、それをもう一度超え、捨てきれの意だとか。ここでの「雲」は人名の一部です。 無雲生嶺上有月落波心 雲の嶺上に生ずること無くんば、月の波心に落つる有り出典は「五家正宗賛、慈明章」。雲は煩悩妄想を、月は菩提真如をさしているそうです。慈明禅師が弟子の真上座を試そうと、「如何なるか是れ仏法の大意」(仏法のギリギリのところ、究極のところはどうか)と尋ねたそうです。真上座の即答が上掲の句だとか。禅師はその答えに嘆息し大いに弟子をののしったのです。さらに弟子が教えを懇願するのに対し禅師は自分が問うた言葉を問うてみよと問わせます。禅師は即座に真上座の答えと同じ答えを返したそうです。それを聞き、真上座は言下に大悟したとか。法理にかなった立派な答えでも、そこに体験的な裏づけがあるかが問われているそうです。師と弟子との相互のやり取りが要になる。その禅独特の機微を示す事例のようです。 白雲片々嶺上飛 白雲片々(へんぺん)嶺上(れいじょう)に飛ぶ出典は「五灯会元十一」。この句は、「白雲が無心に嶺の上を去来しているという、いかにも初夏の気分の満ちあふれた句ですが、これまた、隠者の山居の趣きでもあります」(p293)と述べ、著者は梁の道士陶弘景(452-536)の故事を取り上げて説明しています。陶弘景は江蘇省句宮県の東南に位置する茅山(ぼうざん)に隠栖し、華陽陶隠居と号したそうです。彼の行動について、武帝が山ニは何があるのかと問うたそうです。それに対して、 山中何所有 山中、何の有る所ぞ 嶺上多白雲 嶺上、白雲多し 只可自怡悦 只、自ら怡悦すべし 不堪持贈君 持して君に贈るに堪えず (華陽陶隠居集)「怡悦」は「よろこぶ。喜び」という意味です。「わたしが住んでいる山中には、何があるかと申しますと、嶺上には白雲が深々とおおっており、なんともいえない風情です。この幽玄な大自然の中に身をゆだねている楽しみというものは、体験した者のみが知るところで、人にわかち与えられるものではありません」(p294) 無心となることを自らの体験を通じて感得、体得する重要性を述べているということなのでしょう。上巻からの抽出を終わります。雲の変化に戻ります。=== 2023.2.27 === 8時15分頃に撮った南の空です。雲のない快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 しかし、東方向の空は薄曇りという感じです。グレーの布が広げられた感じの雲の姿です。 13時50分頃に東方向の空を眺めると雲が消えて快晴の青空が広がっていました。東方向の空ではめずらしい空模様です。 南の空南西方向の空 西方向の空 これほどの快晴の空は久しぶりだったと思います。=== 2023.2.28 === 9時15分頃の南の空です。見かけない雲の形です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 13時50分頃に、東方向の空を眺めると続き、快晴の空に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空2月は最終日の午後に雲が無い快晴の空でエンディングとなりました。つづく補遺雲門文偃禅師 :「霊芝山光雲寺」慈明禅師 ⇒ 石霜楚円禅師語録 :「花園大学国際禅学研究所」五家正宗賛 :「花園大学国際禅学研究所」五灯会元 :「花園大学国際禅学研究所」陶弘景 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.09
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