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4月1日の午後、市の図書館に行った続きに黄檗山萬福寺の周辺の桜を眺めながら歩いてみました。国土地理院の地図によりますと、萬福寺は東側に位置する高峰山(標高298m)の西側の山裾のなだらかな丘陵地に位置します。寺域の背景は山の斜面になっています。萬福寺は「五ヶ庄」区域の北部にあり、丘陵地の北側は川を隔てて「広岡谷」区域と隣り合っています。萬福寺の伽藍の背後の斜面地には2つの墓地域が広がっています。萬福寺の北側の道路を西側から上って行くと、高峰山の西側斜面を占める「宇治カントリークラブ」というゴルフ場に至ります。その手前、道路右側(南側)の丘陵状斜面に墓地域が広がっています。坂道の道路沿いに歩き、高い方に位置する2つめの墓地をまず訪れました。冒頭の桜はその墓地入口付近で撮りました。 この墓地域の中央の通路です。左右の山の斜面が階段状に整備され広がっています。 この通路の桜並木を眺めながら階段を下ります。 桜の花びらが風に吹かれて、かなり散り始めていました。 このメインの階段通路を下り、下から見上げた景色です。 萬福寺境内地の丁度背後になり、黄檗公園に近い側がこの墓地域への正面入口です。階段通路への入口には、「京都華僑霊園」と表示されています。 霊園前の道路の反対側は萬福寺の外周です。 道路沿いに進むとすぐ萬福寺境内の南東側にある駐車場エリアになります。駐車場の傍にも桜が咲いていました。この駐車場の入口は、次回ご紹介する黄檗公園入口傍の西側道路になります。序でに、黄檗公園入口への道路を進む時に見かけた史跡をご紹介しておきましょう。 道路の一隅に、「陸軍省」の敷地境界を示す石標が遺されています。 駐車場入口と黄檗公園入口の間、道路の東側(山側)に遺された遺構がこれ。 フェンスの内側を覗いて撮った景色。トンネルです。 案内板には、「旧陸軍火薬庫の土塁とトンネル」と明記されています。「宇治市黄檗公園の一帯には、かつて旧陸軍の火薬庫がありました。この地が選定されたのは明治8(1875)年、その後しだいに施設は整備されました。 火薬庫は、爆発事故によって被害が拡大しないように、一棟ずつ建物と同じくらいの高さの堅固な土塁で囲まれ、出入口としトンネルが設けられました。 昭和20(1945)年の終戦以降、火薬庫は姿を消していきましたが、ここにその遺構がのこりました。戦争の記憶が薄れつつある現在、過去の状況を今に伝える貴重な構造物となっています。 宇治市平和都市推進協議会では、昭和62(1987)年に宇治市議会で決議された「核兵器廃絶平和都市宣言」の理念のもとに、さまざまな啓発事業に取り組んでいます。二度と戦争の過ちをくり返さない決意をもって、ここに火薬庫跡の銘板を設置するものです。 平成18(2006)年12月 宇治市平和都市推進協議会 」(案内文転記)旧陸軍の敷地となった現在の黄檗公園一帯は、江戸時代に遡れば、黄檗山萬福寺の寺域だったところです。それでは、黄檗公園の観桜に移りましょう。つづく補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ京都黄檗山華僑霊園 :「お墓きわめびとの会」京都華僑墓地委員会 紹介 :「京都華僑総会・京都華聯旅行社」【京都宇治】旧陸軍の火薬庫跡/木幡軍用線 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -2 黄檗公園と萬福寺の桜 へ観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -3 萬福寺総門前:石碑、井戸ほか へ
2023.04.09
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=== 2023.3.18 ==== 南の空土曜日、朝から小雨が降る中、檀家寺での法会に出かけていました。帰宅後、13時すぎに撮った空です。南西方向の空 窓際から二方向を撮るだけに。 南の空16時45分頃に空を見上げてみると、小雨が止み曇り空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、雲のグラデーションの間に青空がほんの少し垣間見えました。 空の一部をズームアップで切り取ってみました。部分的に青空が見える箇所がありました。=== 2023.3.19 ===朝から快晴。そこで、南隣りの城陽市に午前中ウォーキングを兼ねて出かけました。城陽市域の古墳群を以前にご紹介していますが、見落としているのが数カ所あります。その探訪でした。 南の空帰宅後、14時40分頃に撮った空です。雲は見えません。南西方向の空 西方向の空 少し雲が北西寄りに出てます。 東方向の空には、普段あまり見かけなかった白雲の姿を眺めることができました。めずらしく、気持ちのよい青空が広がっています。 16時50分頃、東方向の空を見ると、雲が消え快晴の空に転じていました。 南の空雲が無かった空に白雲が。この白雲もあまり見かけなかった形です。南西方向の空 西方向の空 天気に恵まれた一日でした。=== 2023.3.20 ===この日も引き続き快晴。午前中所用で出かけており、写真を撮りませんでした。 これは16時30分頃に撮った南の空です。見慣れない雲の姿を記録できました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南から西方向にかけての空の雲とは違った姿の白雲が青空に広がっていました。=== 2023.3.21 === 朝から曇り空。これは12時過ぎに撮った南の空です。もやっとして空全体を覆う感じのグレーな雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空15時半過ぎには曇りから雨に空模様が変化していました。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向の空を撮るだけに・・・・。=== 2023.3.22 ===午前中は曇り空。定期的健診を受けている病院に出かけていました。 帰宅後、13時40分頃に撮った南の空。青空に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 18時10分頃に撮った東方向の空。雲が消え快晴に。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りのち晴の一日。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.08
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=== 2023.3.13 === 10時10分頃に撮った南の空です。グレーの雲が湧き上がっている曇り空。深夜には雨が降っていたようです。ベランダに雨滴の後が見られました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体が暗鬱な感じ・・・・。 13時45分頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後、暗さは少し薄らぎましたが曇り空が続きます。 16時50分頃に南の空を眺めると、一転し青空に変化していました。白雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空曇りのち晴。雲の姿が様々に変化する一日でした。=== 2023.3.14 === 10時すぎに撮った南の空です。雲がみられず快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の空は快晴の場合でももやがかかった感じです。これは山並みがある影響でしょうか。 13時頃に撮った東方向の空。気温が上りその影響でしょうか、稜線上の空の色合いが綺麗に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 === 2023.3.15 === 南の空 朝から快晴でした。13時40分頃に記録として撮りました。雲は見られず。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空=== 2023.3.16 === 9時半過ぎに撮った南の空です。前日に続き快晴。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昼間の快晴が夕方に曇り空になり、少し小雨が降る時がありました。快晴から曇りへ。=== 2023.3.17 === 9時50分頃の南の空。朝から曇り空。もやっとして空全体を覆う感じのグレーな雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 16時過ぎに撮った東方向の空。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りの状態が一日続き、夜は雨になりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.07
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=== 2023.3.9 === 10時過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 薄いベールがかかったような空模様です。 東方向の空はグレー一色です。 11時50分頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後は京都・三条に出かけました。この日は一日曇りの状態でした。=== 2023.3.10 === 9時40分頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては雲がわずかに見える晴れた空と言えます。 頭上の空 東方向の空は、いつものようにグレーの雲がかかっています。 13時40分頃に眺めた東方向の空稜線の上には白雲がかかり、その上空に青空が広がっていました。様変わりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、最近見かけなかったダイナミックな雲が現れていました。午後はちょっとお散歩です。=== 2023.3.11 === 10時頃に撮った南の空です。昨日に続き快晴と呼べるでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東はやはりグレーな空の眺めです。晴れた一日になりましたので、あとは16時過ぎに空を撮ってみました。 東方向の空は青空に転じていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の無い青空が広がっていました。=== 2023.3.12 === 10時過ぎに撮った南の空です。晴れた空を眺めるとやはり気分的にはいいですね。南西方向の空 くっきりと一条の白雲が見えました。飛行機雲でしょうか。 西方向の空 頭上の空 東方向の空は、いつもの如くグレーです。山並みがあるゆえの気象状況なのでしょうか。 14時過ぎに撮った東方向の空です。グレーな空模様に変化が出ていました。稜線上は明度が上がり、白雲が漂う形に変化し、逆にその上空は色濃い灰色の雲が姿を見せていました。 南の空 朝の晴れた空は、曇り空に変転していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴のち曇り、天気予報通りの変化だったと思います。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.06
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=== 2023.3.5 === 時が過ぎるのを早く感じます。3月5日(日)の10時15分頃に撮った南の空です。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体がグレーの雲に覆われています。時に追いつくために、雲がたりを少し中断して、雲の変化をしばらく追いかけることに致します。雲の変化の記録です。 12時45分頃に撮った東方向の空です。青空が見え、横雲が漂っています。 南の空にはグレーの雲がそのままに。南西方向の空 西方向の空 頭上の空グレーの雲は南方向に残っているだけでした。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空17時45分頃に空を眺めると、全体的に雲が切れ、晴れた空がそのまま広がっていました。=== 2023.3.6 === 南の空昨日の午後からの続きで、8時35分頃の空は快晴です。南西方向の空 西方向の空 ただ、東方向の空だけはグレーの雲が覆っています。 出かける前、9時45分頃に撮った東方向の空1時間くらいでは、雲の様子に変化はありません。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気が良いので、この後、京都鉄道博物館と梅小路公園に出かけました。この時の探訪内容は、既にご紹介しました。探訪と観照記事を書いていると、こちらの記事のまとめが遅くなって・・・という次第。=== 2023.3.7 === 13時頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の空は少しもやっとした感じですが雲は見当たりません。この日は、午前中もこの後も、空を眺めて雲を見ないので写真はこれ以外撮りませんでした。快晴はうれしいですが、雲はなし。=== 2023.3.8 === 9時35分頃に撮った南の空です。昨日に続き、快晴です。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけて、ふわぁっと微かな雲が漂っています。 頭上を見上げると、ここも同様です。 東方向の空だけは、グレーの空模様でした。 12時頃に撮った東方向の空。大きな変化はなく、グレーの布がかかった感じの空のまま。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後も、時折空を眺めましたが雲らしきものは見かけないので、空を撮りませんでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.05
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京阪電車宇治駅の西側(宇治川側)は、最近整備されて歴史公園になっています。「お茶と宇治のまち歴史公園」と称するそうです。そのメインとなるのが「史跡宇治川太閤堤跡」です。冒頭に掲げたこの景色のかなりの部分が太閤堤跡の史跡指定場所になります。勿論、発掘調査跡が埋め戻されて、その上が公園化されたという次第。 少し移動してみますと、公園の一隅に「浜の茶園」という案内板が設置されています。「宇治川本流の背後に当たる現在地は、上流からの砂がたまりやすく、中州が発達していました。砂地は水はけがよく、茶園の適地となりました。この河川敷の茶園を『浜の茶園』と呼びます。 宇治の茶園では、4月頃から覆いをかけることで旨味(うまみ)の強い碾茶(ひきちゃ 抹茶)や玉露を作ります。覆いは丸太杭と竹で棚を作り、その上によしずを広げ、藁を敷いた『本ず』と呼ばれるものでしたが、昭和40年代から黒い化学繊維を用いたものに変わっていきました」(説明転記) 冒頭の景色と上記案内板の向こうに見える茶園の中にある建物がこれ。「覆小屋(おいごや)」です。公園の中央通路を北方向に進むと、右側の芝生上にこんな景色が見えます。さらに右側に京阪電車の車両が停車しています。宇治駅です。「レンガ工場跡」の案内板が設置されています。 「明治時代に川岸の高低差を利用してレンガを焼く窯が築かれました。発掘調査では3基の窯跡が見つかりました。レンガは明治時代から大正時代にかけて近代化の象徴ともいえる鉄道や軍施設、発電所などの建設で使われました。宇治では茶葉を乾燥するためのレンガ造りの炉が発明されるなど、お茶のまちならではの使い方もされました。ここでつくられたレンガは宇治の近代化を支える様々な施設に使われたと考えられます」(説明転記) 北方向に建物が建ち、 その少し手前にこの公園案内図が設置されています。案内図を部分拡大します。歴史公園全体の位置関係をまずご理解ください。カラーの色丸を追記しました。 赤丸のところが、この案内図の設置場所(現在位置)です。黄緑色の丸が、上掲の「浜の茶園」、空色の丸が茶園にある「覆小屋」です。この小屋は茶園に覆いをかけるための丸太や竹という長尺の資材を保管するための建物。この覆小屋は白川に現存する小屋を参考に伝統的な技法で建てられているそうです。青色の丸が京阪電車の宇治駅。上掲の建物(茶色の丸のところ)が「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」紫色の丸を追記した辺りが「南エリア」南エリアの北側は「福文製茶場茶園」で立入禁止区域になっています。たぶん従来から存在した民間の茶園なのでしょう。「福文製茶場茶園」の右に追記したマゼンダ色の丸は「中エリア」黄色の丸を破線上に追記しました。この破線で囲まれたエリアが、「史跡宇治川太閤堤跡」。発掘調査後に埋め戻されたエリアということになります。2018年1月に、発掘調査の結果、太閤堤の石出しについて現地説明会が開催されました。その時に説明会に参加し、ブログ記事で発掘状況のご紹介をしています。交流館「茶づな」の南に広がる広場はイベント会場として利用されています。イベントが行われている様子を京阪電車宇治駅のプラットホームから幾度か眺めています。しかし、この公園内に入るのは今回が初めてです。「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」(茶色の丸)に入ってみました。 入口を入ってまず目に止まったのが正面壁面の「豊臣秀吉公図」この図の右手方向が「ミュージアム」になっています。 入口付近から撮った左側の全景。フラッシュなし撮影なので少し暗くなっています。この部分は「トオリニワ」と称されているようです。 2階への階段の下部に、鵜匠の彫刻像が置かれています。 左側エリアの奥に進むと、右側壁面にこんなコーナーがあります。「宇治まちあるき」の案内スペースです。この交流館1階の最も西側(左端)は、正面入口に近いところに、「体験教室」があり、その奥側、通路を挟んで北西側にレストランがあります。トオリニワを歩んで行くと、レストランの前を通り、西側に出ることができます。この交流館「茶づな」では、宇治茶体験(茶づな体験プログラム)ができる体験教室が設けてあります。1コマ約45分~60分のプログラムだとか。プログラム案内のチラシが常設してあります。他に、「宇治イラスト・マップ」や「国指定史跡 宇治川太閤堤跡」のパンフレットなども入手できます。交流館「茶づな」から西側に出ます。 庭園の一部で「水辺の庭」です。平時は石敷きの庭ですが、雨水貯水池を兼ねているそうです。 「茶づな」の西に位置するのがこれ。 近づいて眺めるとこんな感じ。 「密に打たれた杭止め護岸」の復元。案内図の中エリア(マゼンダ色の丸のところ)ただし、地下に小河川の溝があるため、遺構を平面的に復元しているだけだそうです。交流館の北方向は、道路を挟んで、「菟道稚郎皇子御墓」と称される御陵があります。この傍に「浮舟宮跡碑」が建立されています。 上掲案内図にある北エリアに向かう手前に、「史跡 宇治川太閤堤跡」の石標が建てられてあります。北エリアは、2007(平成19)年度に「乙方遺跡」の発掘調査で新たに発見された太閤堤跡のエリアです。ここからは石積み護岸、石出し、杭出しが遺構として検出されています。北エリアへ通路沿いに進みます。 南側からアプローチするとこんな景色です。 北寄りに、この案内板が設置されています。 太閤堤の石積み護岸を復元したエリアです。 つまり、現在の復元された石積み護岸の丁度2m直下に、発掘された実物の遺構があるということです。 この北エリアにも、ここを現在地とした全体案内図が設置されています。これで、この自転車散歩を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*お茶と宇治のまち歴史公園について :「宇治市」*茶づな お茶と宇治のまち交流館 ホームページ*「国指定史跡 宇治川太閤堤跡」編集・発行 宇治市歴史まちづくり推進課 A4版小冊子補遺宇治川太閤堤跡 :「文化遺産オンライン」史跡宇治川太閤堤跡パンフレット :「宇治市」宇治川太閤堤跡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 宇治 自転車散歩、川沿いに -1 観桜:隠元橋そばと宇治公園周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -1探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -2
2023.04.04
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3月30日(木)、天気が良かったので少時、自転車散歩に出かけました。宇治川に架かる隠元橋の傍に、陸上自衛隊宇治駐屯地があります。隠元橋側には駐屯地のグラウンドが広がっていて、そこの敷地内のメイン道路沿いが桜並木です。隠元橋側にある北門近くから満開の桜を撮りました。 こちらは宇治川右岸の堤防道から、東方向を眺めて冒頭の並木道を撮った景色です。かつて隠元禅師は、この辺りまで宇治川を遡行してきて、東の山並みを眺め、川岸に上陸して、東の山裾まで行かれたのでしょう。そこに黄檗山萬福寺を開山されました。隠元橋は隠元禅師の名前に由来します。 堤防道からズームアップで堤防道を南進します。そして、宇治橋へ。 宇治橋の上流側歩道から眺めた景色です。 川中には、橘島と塔の島があります。この景色で見えているのは橘島で、ここが「宇治公園」と称されてています。宇治公園と宇治川左岸に架かるのが「橘橋」。その少し奥側の左側、宇治公園と宇治川右岸に架かるのが「朝霧橋」です。 宇治橋の上流側には、「三ノ間」と称される上流側に張り出した部分があります。その三ノ間の高欄を入れて撮った景色です。豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところと伝わる場所で、宇治の茶まつりでは「名水汲み上げの儀」が行われます。また、ここは守護神「橋姫」を祀った名残の場所とも言われているようです。(資料1)宇治橋を渡り、左折して「平等院表参道」を経て宇治川沿いの「あじろぎの道」に向かいます。表参道は、コロナ禍が沈静してきたからでしょうか、平日ですが観光客が少し増えている印象を受けました。「あじろぎの道」は、1992(平成3)年に「源氏物語散策の道」の事業によって整備されたと言います。右岸には「さわらびの道」と称される散策路があります。(資料2)序でに、「あじろぎ」についてです。百人一首に、堤中納言定頼の歌が第64番に採りあげられています。(資料3) 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木 「あじろぎ」はこの網代木に由来するのでしょう。平安時代の宇治川での漁労の仕掛けとして風物詩になっていたようです。網代木は「網代」に使うくいです。「網代」は「冬、川の瀬に綱を引くように竹・木を組み合わせて魚を捕らえるしかけ」(『新明解国語辞典』三省堂)です。「網代」にはもう一つの意味があります。「薄く削ったヒノキ・竹を斜めに組み合わせ、むしろのように編んだもの」(同上)。網代笠、網代駕籠。平安時代の牛車には「網代車」というスタイルもありますね。宇治の茶の関係から茶室に使われる「網代天井」も連想してしまいます。 あじろぎの道にて あじろぎの道から宇治公園(橘島)を眺めた景色 川中の島には、まず「塔の島」と宇治川左岸に架かる「喜撰橋」を渡ります。喜撰橋西詰で撮った景色 塔の島側から宇治川左岸の宇治川観光船の乗り場付近を撮った景色 塔の島から宇治川右岸を眺めた景色 塔の島から橘島に向かいます。 宇治川の枝垂れ桜はちょっと寂しい感じでした。少し早かったのか・・・・。 宇治公園(橘島)の桜。下流側に見えるのは「橘橋」。 宇治川右岸と宇治公園に架かる「朝霧橋」を背景に 宇治公園(橘島)から右岸を眺めた景色。朝日焼の店あたりか・・・・。 塔の島に戻り、右岸の「観流橋」を眺めた景色。宇治川に流れ込む観流橋の上流側には宇治発電所があります。 喜撰橋を引き返します。 喜撰橋上から撮った塔の島の上流側先端の景色この後、あじろぎの道を戻り、平等院側に向かいます。 平等院の庭と宇治川堤防道の間は、樹木の壁ができています。結構枝切りがされていましたが、堤防道からは鳳凰堂の建物の一部がいささか垣間見える程度です。 宇治橋を眺めて左岸の堤防道を平等院参道側には降りずに、そのまま下流方向に進みます。中村藤吉本店の平等院店の所で小径を下って参道に出られます。この後、宇治橋を引き返し、「お茶と宇治のまち歴史公園」に向かいました。つづく参照資料1) 宇治橋 :「京都宇治観光マップ」2) あじろぎの道 :「京都文教学園」3) ちょっと差がつく『百人一首講座』 No.008 :「小倉山荘」補遺世界遺産 平等院 ホームページあじろぎの道 :「Tripadvisor」宇治の網代木 宇治紀行-その3ー :「鮎宗」網代車 :「広辞苑無料検索」網代天井って何? :「有限会社 綱代商会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.02
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JR南草津駅前広場のモニュメント母の介護やその他事情で長らく参加できなかったウォーキング同好会に久しぶりに参加しました[3月25日(土)]。天気予報がコロコロと変化する頃でした。前日の天気予報で実施が決定。当日の天気予報は曇りに変化していました。改札口前に9時半の集合です。駅前からロクハ公園まで歩き、公園内で「闇汁」会。昼間に持ち寄り食材による野外昼食会です。恒例の名称が闇汁会です。従来は12月恒例実施だったのですが、前回できなかったのでこの3月に持ち越された結果でした。俳句で「闇汁」は12月の季語です。お陰で、私には久しぶりに参加できたウォーキングに加え闇汁会にも参加できた次第。ウォーキング参加の記録を兼ねたご紹介です。当日、デジカメを持たずに参加しましたので、ロクハ公園に至るまでの途中の写真は同好会で写真係を担当していただいたHさん、Mさんの写真を一部借用(☆マーク付)します。2015年12月に、この同好会で草津駅からロクハ公園まで歩いています。今回のルートは南草津駅が出発点になりました。先頭を行くリーダーに付いて歩くとルートを断片的にしか記憶していない結果になりました。地図を後で確認しますと、ロクハ公園は南草津駅から東南東方向になります。ウォーキング目的ですので、公園までの往路のルートは少し遠回りぎみに歩きました。野路地区を通り、松下中央の交差点を経由して、 ☆「桜ケ丘4丁目2」の住所表示板が見える歩行者道を進みます。 ☆名神高速道路を眺めつつ横断し ☆ 立命館大学前を経由して北東方向に転じます。 ☆その後、しばし名神高速道路沿いを歩くことに。 ロクハ公園の南の入口に到着。入口傍に設置された案内図です。赤丸を追記したところから公園に入ります。青丸を追記した辺りが今回の到着場所(バーベキュー広場)です。”「ロクハ」は、昔は「緑波」と記され、文字通り背景の木々の緑を映して静かに波うつ「緑波池」が名の由来です。「リョクハ」と呼んでいましたが、なまって「ロクハ」と呼ばれるようになりました。”という経緯があるそうです。(資料1) ☆ ☆ ☆ ☆ バーベキュー広場に至るまでの公園内散策路沿いの景色 闇汁会実施場所近くからの眺め ☆ 闇汁会終了後は現地解散です。大半のメンバーはほぼ一緒に、帰路はロクハ公園の北西側にある正面ゲート(茶色の丸を追記したところ)に向います。 ☆ ☆ 多目的広場 「愛こそが平和をかなえる」というフレーズが刻まれた石碑の後に、モニュメントが建立されています。 ☆ 「くるくるランド」の標識案内が設置されています。 ☆ 正面ゲートへの直線道路への角から南方向を撮った景色左奥側に屋外プールの施設が見えています。後は少し戸惑った箇所がありましたが、南草津駅前の高い建物を目印にしながら、かがやき通り沿いに進み、野路町の交差点で国道1号を横断してそのまま進みます。 左折して、南草津駅口の交差点へ向かう角地に建てられたこの案内板に気づきました。 「野路玉川古跡」の案内碑です。野路の玉川は諸国六玉川の一つに数えられていました。左側の絵は、歌川広重が描いた近江野路の玉川の浮世絵です。(資料2)絵の左上に、『千載集』に載る源俊頼の歌が記されています。 あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やとりけり (明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる浪に 月宿りけり)調べてみますと、「野路の玉川」は、「玉のような清水が湧き出たという故事来歴を有する名所」で、「萩の玉川」とも称されたとか。現在は地元の人々の手により修景整備がされ、史跡としてそこに「玉川」の石標が建てられているそうです。場所は草津市野路4丁目3-26。(資料3,4)南草津口の交差点を超えれば、南草津駅は目の前です。雨に降られることなく無事、集合場所に帰着しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ロクハ公園とは :「草津市公園事務所・ロクハ公園」2) 諸国六玉川=歌川広重= 近江野路 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」3) 野路の玉川 :「草津市丸ごとガイド」4) 野路の玉川(萩の玉川) :「野路町内会」補遺諸国六玉川・歌川広重 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」源俊頼 :ウィキペディア源俊頼 :「千人万首」(やまとうた)16方位の覚え方 :「セルフ塾のブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。歩く&探訪 [再録] 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -1 旧東海道沿いの史跡点描歩く&探訪 [再録」 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -2 平宗清の胴塚・木瓜原遺跡・ロクハ公園ほか
2023.04.01
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扇形車庫の東端側の順路を進み、旧二条駅舎の背面、つまりホーム側から駅舎内部に入ります。最初に目にとまったのが、冒頭の展示ケースです。「お召列車」と前面上部に表示されています。お召列車は皇室専用の臨時列車です。「鉄道は開業以来、歴代の天皇・皇后の行幸啓に際して、主要な交通手段として用いられてきました」(資料1)というものです。ここには、お召列車を飾ったさまざまなパーツが展示されています。中央の大きな鳳凰図はお召し列車の除煙板に取り付けられた装飾です。左側の上段は、お召し列車用ヘッドマーク(梅小路機関区仕様)、中段はお召し列車用装飾(桐の御紋)、下段はお召し列車用煙室扉ハンドル(梅小路機関区仕様)です。一方、右側の上段は、お召し列車装飾用の菊花紋章、中段はお召し列車用煙室ハンドル(桐の御紋)、下段はこの写真ではわかりづらいですが、仕業札(しぎょうふだ)が展示されています。これは運転室の外側に表示する札で、「御召 梅」「先行」「豫備」という文字札です。「御召」はお召し列車、「梅」は所属機関区である梅小路機関区、「先行」は先行列車、「豫備」は予備機を意味するそうです。(説明より)また、床面の左側には機関車のナンバープレート、中央に説明パネル、右側には、お召し列車用旗棹装飾(梅小路機関区仕様)が展示されています。「梅小路機関区では1928(昭和3)年、昭和天皇の御大礼(即位の礼・大嘗祭)のさいに初めてお召し列車を担当し、その後も東海道本線の全線電化開業時まで数多くのお召し列車を担当しました」(説明パネルより転記)とのこと。 扇形車庫の展示蒸気機関車のご紹介で取り上げましたが、この機関車がお召列車の指定機関車の一機です。車体の前面に菊花紋章が飾ってあります。蒸気機関車のナンバープレートは赤地に金色文字で表示されています。「C51 239」は品川機関区での指定機関車です。展示品中の「C57 79」は「奈良機関区に所属していた1953(昭和28)年から約10年間に何度もお召列車をけん引しましたが、1968(昭和43)年に廃車されました」(説明転記)。その下の「C59 108」は梅小路機関区に配置されていた指定機関車です。その間に「何度もお召列車をけん引したことで有名です。除煙板(デフレクター)には『鳳凰』のマークが取り付けられていました」(説明転記)。 「C11形324号機」(1946/昭和21年3月26日製造、日本車輌)が展示されています。 「一般に”Cのチョンチョン”の愛称を持つこのC11形は、昭和7年(1932年)から昭和22年(1947年)の15年間に381台も量産され、全国のローカル線で大活躍し、小型タンク機関車としての性能にも優れた機関車でした。前進、後進が簡単にできる特性があり、力量感にあるれたスタイルとスピード感をかねそなえた、国鉄時代のタンクロコの代表格といえるでしょう。ここに展示のC11 324は昭和21年(1946年)に製造され、昭和47年(1972年)5月11日に和歌山機関区で廃車のときをむかえるまで日本各地で活躍しました。その後、京都府田辺町(現:京田辺市)の交通公園で静態保存されていましたが、今回この梅小路蒸気機関車館に移設しました」(説明転記) C11形機関車の傍に「投炭練習機」が展示されています。蒸気機関車の窯に石炭を投入する作業を練習するための設備だったようです。形式はD51が使われています。主な展示品はこれくらいです、駅舎内の半分くらいは鉄道グッズや鉄道書籍などを扱うミュージアムショップが設置されています。 旧二条駅舎の外観二条駅は、1897(明治30)年、京都鉄道の二条駅~嵯峨駅間開通に伴って開業した駅です。つまり、もとは二条城の南西側に位置する現JR嵯峨野線の二条駅の辺りにあったのでしょう。京都鉄道は1907(明治40)年に、国に買収され国鉄の一部になります。この建物は、1904(明治37)年6月に建設され、京都鉄道本社社屋を兼ねた初代の駅舎です。現役時代は日本最古級の木造駅舎といわれていたそうです。1996年に二条駅の高架化に伴いこちらに移築されました。1996(平成8)年に京都市指定有形文化財に指定されています。(資料3,4,5) 切妻屋根の玄関口 入母屋造瓦屋根で本体が平入りの二階建、左右対称形で両側には側面(妻)を前面に向けた平屋です。 棟の両端と降棟にはそれぞれ鬼板が見えます。鬼板の中央には民営鉄道として設立された京都鉄道の社章が陽刻されています。(資料3) 旧二条駅舎の正面に向かって右側に、京都鉄道博物館の建物のコンクリート造りの先端部が突出した形で並んでいます。 駅舎玄関の前庭右側には、大きな車輪がモニュメントとして設置されています。 旧二条駅舎の全景を最後にご紹介して、京都鉄道博物館の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鉄路を翔けた鳳凰~お召列車と貴賓室~ :「京都鉄道博物館」 2) お召し列車 :ウィキペディア3) 京都鉄道 :ウィキペディア4) 旧二条駅舎(京都鉄道博物館) :「ニッポン旅マガジン」5) 旧二条駅舎 :「京都鉄道博物館」補遺京都鉄道博物館 ホームページ「お召列車」になった車両いろいろ 普段の通勤電車が実は「防弾ガラス仕様」なことも:「ReX」除煙板 :ウィキペディア煙室扉ハンドル YouTube【貴重】48年ぶり!!山北町D52煙室開扉 YouTubeタンク機関車 :ウィキペディア北海道を走り抜けた蒸気機関車 Vol.6 小型タンク機関車「C11」 YouTube国産の国鉄蒸気機関車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ
2023.03.29
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この扇形車庫を前回撮った位置から始めます。南東側から外観を撮った景色です。 少し南方向に移動します。20両の車両を駐留できる扇形車庫の前には、「転車台」の設備があります。このエリアはSLひろばと称されています。今度は扇形車庫の前面を、起点とした壁際の蒸気機関車「C11形64号機」まで戻ります。壁面の反対側の扇形車庫部分が未探訪です。壁面を境に東から西へと車庫を眺めて行きます。こちらのセクションは、運行できる蒸気機関車を駐留させてあるところという印象を持ちました。いわゆる動態保存という形です。こちらには説明パネルの類いを見かけませんでした。少し雰囲気が異なるので、車庫の前面から蒸気機関車を眺めるだけにしました。 最初に見たのがこれです。展示品ではなく実用機だと思います。詳細不詳。ここから順に左側を眺めていきました。 「C57形1号機」(1937/昭和12年製造、川崎車輌)「SLやまぐち号」として活躍する優美なスタイルの旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,280mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,945mm」(資料1) 「8620形8630号機」(1914/大正3年製造、汽車製造)日本初の量産タイプの旅客用蒸気機関車だそうです。「車両全長:16,765mm、車両全幅:2,614mm、車両全高:3,785mm」(資料1) 「C56形160号機」(1939/昭和14年製造、川崎車輌)1935年から製造された小型の蒸気機関車で、旅客・貨物用で活躍しました。「車両全長:14,325mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,900mm」(資料1) 左端(西端)は、「7100形7105号機」「義経」号 (1880/明治13年製造)本館の「鉄道のあゆみ」という展示ゾーンに模型が展示されているのは既にご紹介しました。その実物がここにありました。製造所はアメリカのH.K.ポーター社。 「北海道最初の幹線鉄道として建設された幌内鉄道に、アメリカより最初に輸入された機関車です。1号機として「義経」と名付けられました。1952(昭和27)年に鉄道開業80周年を記念して自走可能に復元されました。2014(平成26)年、梅小路運転区100年を記念し、石炭と水で走行可能な状態に復元されました」(資料1)「車両全長:11,600mm、車両全幅:2,133mm、車両全高:3,383mm」(資料1)車庫内で眺めたのはこれだけです。 扇形車庫の西端寄りの屋外の転車台に面した線路上に、この蒸気機関車が駐まっています。 別の位置(東側)から眺めるとこんな位置関係になります。転車台の向こうに蒸気機関車が見え、右側に扇形車庫の西端、左側に「SL第2検修庫」があります。扇形車庫とSL第2検修庫との間の奥に見える建物が京都鉄道博物館の本館です。 扇形車庫の西端前面から眺めた「C61形2号機」です。SL第2検修庫の前面に階段が見えます。これは本館2階との連結デッキになっています。さらに、このSLひろばを眺める展望所の機能も果たしているようです。 扇形車庫の西端から東方向を眺めた景色再び、転車台の周囲を回り込んで、連絡デッキの階段に向かいます。 連絡デッキからの展望扇形車庫の左端の梁から右方向に、10から16までの番号が見えます。番号12の車庫に、旧型客車が見えています。 こちらは番号15から20までの車庫部分です。一方、この連絡デッキから、「SL第2検修庫」の内部で行われている蒸気機関車の検査修繕に特化した作業風景を見学できるようになっています。 この角度からだと、扇形車庫の西端の番号1から17までの車庫が写っています。番号7と8の間に、上掲した車庫内の区切りの壁面が見えます。 改めて「C61形2号機」について。本機は1948(昭和23)年に三菱重工業で製造されました。C61形は自動給炭装置が初めて採用された大型の旅客用蒸気機関車です。「車両全長:20,375mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)最後に「SLのりば」の方に向かいます。 SLのりばには、「SLスチーム号」が停車していました。 「C62形2号機」(1948/昭和23年製造、日立製作所)日本を代表する旅客用蒸気機関車で、本機は特急『つばめ』で活躍しました。「車両全長:21,475mm、車両全幅:2,936mm、車両全高:3,980mm」(資料1)扇形車庫では、蒸気機関車20両が展示されていますが、そのうち動態保存車両は8両だそうです。そのうち、営業運転車両は3両と言います、(資料1)序でに、扇形車庫の背面・通路側を少しふれておきます。 通路側には、梅小路蒸気機関車庫の縮尺模型や、さまざまな機具類が展示されています。ここの展示品を見るのはスキップしてしまいましたので、写真紹介だけです。それでは、旧二条駅舎に向かいます。順路に沿って行くと、扇形車庫東端の外側を歩くことになります。 ここには「オハフ50形68号車」が設置されており、休憩所の役割を担っています。50系客車と称され、1977年に旧型客車の代替として登場しました。この時、自動ドア装備などの近代化が図られました。オハフ50は北海道を除く全国で普通列車に使用されました。しかし、ディーゼルカーや電車への置き換えにより、一部での使用を除き2001年までに引退したそうです。(資料2) 順路の反対側には、通路脇に車輪がオブジェ風に並べられて、フェンスの役割を兼ねていました。車輪も大小様々あり、なかなかいい眺めです。つづく参照資料1) 展示車両紹介 扇形車庫 :「京都鉄道博物館」2) 国鉄客車 オハフ50形 :「TOMIX」補遺京都鉄道博物館 ホームページ国鉄7100形蒸気機関車 :ウィキペディア国鉄7100形蒸気機関車 :「レイルラボ」国鉄50系客車 :ウィキペディア北海道第1号SL「義経」 京都鉄道博物館で現役<探る見る> YouTube復活運転!7100形蒸気機関車 義経 SLスチーム号 / 梅小路機関区100周年記念セレモニー 2014.10/10 / 京都鉄道博物館 YouTubeSLやまぐち号 タイムスリップ 蒸気機関車の旅 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.28
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本館を出ると、順路沿いに梅小路蒸気機関車庫に向かいます。これは順路の途中での景色です。生垣の外側に扇形車庫の建物の一部が見え、外灯の左先にみえる瓦屋根の建物が旧二条駅舎です。 車庫の背面から内部へ蒸気機関車庫が弧を描き、扇形であるイメージは伝わることでしょう。 扇形車庫に入ったところでは、まず客車の左右に蒸気機関車が並んでいる景色が見えます。見えるのは各車両の背面です。客車の左隣りには、C621、右側には1080, D511というナンバープレートがそれぞれ見えます。まずは右側方向に車庫の壁際まで車両を眺めて行きました。上掲客車の右隣りの景色を御覧ください。後で気づいたことなのですが、ここには前後に2種の蒸気機関車が縦列に並んでいます。 後側に駐まっているのは、「1070形1080号車」です。記録写真では説明パネルが判読できません。ネット情報を参照しますと、1901年にイギリスのダブス社で製造された蒸気機関車で、日本に135両輸入されたそうです。現存するのはこの一機のみとか。明治34年製造。(資料1,2)車庫の壁際まで行き、蒸気機関車の前面に回りました。前面を最初にご紹介してから、側面や背面を眺める方がやはりわかりやすくイメージしやすいと思いますので、編集してご紹介します。 この区画の端には「C11形64号機」(1935/昭和10年製造)が駐まっています。ローカル線や都市近郊短距離運転用で、旅客・貨物両用の中型タンク式蒸気機関車です。1932~1947年にかけて381両が製造されました。(掲示の説明パネルを参照しながらご紹介していきます。) 背面 「本機は湊町機関区に配置され、関西本線などで使用されたのち、1939(昭和14)年以降は北海道や東北地方で活躍しました。本形式は『シーのチョンチョン』の愛称で親しまれています」(説明転記)ここを起点に右方向に眺めつつ進んで行きます(扇形に沿い時計回りに)。 「9600形9633号機」(1914/大正3年製造)1913~1926年にかけて770両が製造された大正期の量産型蒸気機関車です。 「勾配線区や貨物列車けん引に威力を発揮しました。本機は甲府機関区や富山機関区に配置され、1941(昭和16)年以降は北海道で活躍しました。本形式は『キューロク』『クンロク』『山親爺』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D51形1号車」(1936/昭和11年製造).日本で最も多く製造された蒸気機関車 「1936(昭和11)年から1945(昭和22)年にかけて1115両が製造された。大量の貨物・勾配用蒸気機関車で、愛称の『デゴイチ』は蒸気機関車の代名詞になりました。本機はD51形蒸気機関車のトンプナンバー機(1号機)で、敦賀機関区などに配置され、北陸地方から東北地方にかけて活躍していました。なお、本機を含む初期に製造された95両は、ボイラー上の覆いの形状から『ナメクジ』の愛称もあります」(説明転記) 「B20形10号機」(1946/昭和21年製造) 入換作業用の小型タンク式蒸気機関車戦時中に規格生産された産業用機関車の一種で、第二次世界大戦末期から終戦後にかけて少数が製造されたと言います。(資料3) 本機は、姫路第一機関区に配置され、半年余り大和鉄道に貸し出された後、鹿児島機関区に移動し、1972年に梅小路蒸気機関車館に収められました。「豆タンク」の愛称で親しまれています。(資料3) 旧型客車この車両の説明パネルを見落としていました。ネット情報によれば「オハ4613」です。鋼製塗り屋根が整備されてこの車庫内に展示されたようです。(資料4,5) 「C62形1号機」(1948/昭和23年製造) 日本最大の旅客用蒸気機関車1948年から1949年にかけて49両が製造され、特急列車などのけん引に使用されました。 「ボイラーはD52形蒸気機関車から流用、シリンダーと走行装置はC59形蒸気機関車と同じものを新製、自動給炭装置(メカニカルストーカー)も取り付けられています。本機は広島第二機関区や宮原機関区などに配置され、山陽本線を中心に特急『つばめ』『はと』をはじめ、特急『かもめ』や急行列車などのけん引機として活躍しました。本形式は『シロクニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C55形1号機」(1935/昭和10年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 C51形の改良機で、1935年から1937年にかけて62両が製造されました。 「スポーク動輪(車軸中心のハブからスポークが放射状に伸びている動輪)を持つパシフィック機(軸配置2C1)では最後の形式になっています。本機は苗穂機関区や小樽築港機関区などに配置され、おもに北海道で活躍しました。本形式は『シゴゴ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C58形1号機」(1938/昭和13年製造) ローカル線で活躍した客貨両用蒸気機関車 1938年から1947年にかけて427両が製造されました。中型のサイズです。 「支線も走行できるように設計されており、北海道から九州地方までの全国のローカル線で活躍したあと、北海道での最終期には、寝台列車などをけん引しました。本形式は『シゴハチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D50形140号機」(1926/大正15年) 大型の貨物用蒸気機関車貨物輸送量の増加にともない、9600形蒸気機関車の後継機として開発され、1923年から1931年にかけて380両が製造されました。 「国産最初のミカド型(軸配置1D1)です。・・・本機は梅小路機関区のほか各地の機関区に配置され、四国を除く全国で活躍し、九州では石炭輸送の機関車としても使用されました。本形式は『デゴマル』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「D52型468号機」(1946/昭和21年製造) 日本最大・最強のマンモス蒸気機関車 1943年から1946年にかけて285両製造され、「D51形蒸気機関車の1,000tを上回る1,200tのけん引力を目標に設計されました」(説明転記) 「本機は沼津機関区や姫路機関区、五稜郭機関区に配置され、強力なけん引力を誇る貨物専用機として、設計通りの性能を発揮しました。本形式は『デゴニ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C51形239号機」(1927/昭和2年製造) おめし列車の専用指定機にもなりました。1919年から1928年にかけて289両が製造された大型旅客用蒸気機関車です。 「1,750mmの大型動輪が初めて採用された機関車で、1930(昭和5)年に運転が開始された特急『つばめ』をけん引したことでも知られています。本機はお召し列車の専用指定機として104回使用されたのち、直江津機関区などに配置され、北信越から東北にかけて活躍してきました。本形式は『シゴイチ』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C53形45号機」(1928/昭和3年製造) 大型の旅客用蒸気機関車 1928年から1930年にかけて97両が製造されました。国産では唯一の3シリンダー機です。 「本機は梅小路機関区や姫路機関区、宮原機関区に配置され、特急列車や普通列車のけん引機として近畿、中国地方で幅広く活躍しました。しかし構造が複雑で保守も困難であり、C59形蒸気機関車の登場によりその役割を終えました。本形式は『シゴサン』の愛称で親しまれています」(説明転記) 「C59形164号機」(1946/昭和21年製造) 特急列車をけん引した大型蒸気機関車 1941年から1947年にかけて173両が製造された最後のパシフィック機(軸配置1D1)です。 「東海道線が全線電化されるまで『つばめ』『はと』『さくら』『かもめ』などの特急列車をけん引し、山陽本線などでも活躍しました。本機は梅小路機関区と糸崎機関区に配置されました。本形式は『シゴク』の愛称で親しまれています」(説明転記) 梅小路蒸気機関車庫の前面を南東側から眺めた景色。扇形車庫であることがよくわかります。 この建造物は、鉄筋コンクリート造扇形車庫(電動天井走行クレーン及び引込線を含む)として、平成16年12月10日、重要文化財に指定登録されています。「梅小路機関車庫は、JR京都駅から約1.5キロメートル西方に位置する。旅客や貨物量の増加等に伴い、京都駅停車場改良工事の一環として、鉄道院西部鉄道管理局の設計、大林組の施工により建設されたもので、大正2年(1913)12月に起工、翌年11月に竣工した。 平面は、転車台を中心にしてほぼ東西に扇形を描く。内部は、機関車駐留場、整備や器械加工を行う器械場、職場に分かれ、20線の引込線を収容する。 当建造物は、小規模な改修工事は行われているが、ほぼ創建当初の状態を保っていて、わが国に現存する最古の鉄筋コンクリート造機関車庫として、鉄道建設史上大変重要である、また、機関車の展示施設、機関士の研修施設として日常公開活用されていることが、その価値をいっそう高めている」(説明転記)次回は扇形車庫内の展示の続きをご紹介します。[付記]京都鉄道博物館ホームページの「フロアマップ」にある「展示車両の配置を見る」をクリックしますと、PDFファイルをダウンロードできます。この配置図を見ますと、2023/3/6に扇形車庫で実際に眺めた配置とは異なっています。時折、配置換えされるのでしょうか・・・この点は不詳。参照資料1) 40年ぶりの梅小路蒸気機関車館 3 1070形 1080号機 :「B767-281のブログ」2) 国鉄6200形蒸気機関車(1070形:1080号機):「観光列車から!日々利用の乗り物まで」3) 国鉄B20形蒸気機関車 :ウィキペディア4) 梅小路機関車館 オハ4613・オハフ3348:「京都鉄道博物館扇形車庫」5) オハ46 13 :「新・たいすんの改造車紹介ブログ」補遺京都鉄道博物館 ホームページ フロアマップ国鉄D51形蒸気機関車 :ウィキペディア「SLの王者」D51形、日本全国を駆け巡った名場面 :「東洋経済 ONLINE」 地域ごとに個性豊かな国民的機関車「デゴイチ」【D51形蒸気機関車】 いわてDC デゴイチ SL D51-498号「SLイーハトーブいわて物語号」「SL銀河ドリーム号」 YouTubeD51 498力走! 釜石線 SL銀河ドリーム号2012 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.27
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本館1階に入ると右端(西側)にエスカレータがあります。壁面には車両番号プレートをデザイン的に並べて飾ってあります。 これは本館入口の外壁に掲示されている2階のフロア案内図です。赤丸を追記したところがエスカレーターの設置された場所になります。ここを起点に位置関係を考えていただくとイメージしやすいでしょう。 建物の北東隅に「キッズパーク」が設けてあります。(追記した赤丸:エスカレータの左側) その隣り(水色の部分)には「Ⅴ 運行のしくみ」というテーマのもとで儲けられた「指令所の中をみてみよう」というコーナーです。 複数の列車の運行状況を掌握し、指令を出すセンターの内部が展示されています。 壁面には「指令の種類」を説明したパネルが掲示してあります。輸送指令・旅客指令・運用指令・施設指令・電力指令・信号通信指令という種類があるそうです。指示の内容を説明してあります。詳しくは会場でご覧ください。 指令所の内部展示室の手前、フロアー中央寄りには、「列車を安全に走らせよう」というコーナーがあります。模型列車を実際に走らせてみるというコントロールが体験できるようです。列車をコントロールできるブースがいくつか設置してあります。 指令所の内部展示室の南隣りには、「列車運転シュミレータ」のセクションがあります。ここは有料で列車運転のシュミレーションを体験できるところです。有料のため、内部に入れませんでした。けっこう予約で順番待ちのようでした。 2階フロアーの中央部分は1階からの吹抜け空間になっていて、1階の展示車両の全景を眺めることができます。(上掲フロアー図の黒い長方形・Xマークのところ) 吹抜空間の右側(西側)は、「鉄道ジオラマ」の展示セクションです(緑色のところ)。吹抜空間の反対側(南側)は「Ⅳ 生活と鉄道」というテーマでの展示です(黄色のところ)。 「列車運転シュミレータ」の南隣りは、「関西の鉄道」について、各鉄道の運行列車模型と写真付き説明パネルの展示により、概略説明が行われています。 片方の壁面には、「京都の交通」について、「町を知る」「つながりを知る」「交通を知る」という視点から説明パネルが構成されています。 「通勤・通学のために発達した近距離電車」に光をあて、「関西圏電化区間の移り変わり」を図解説明するとともに、各種電車編成の模型が展示されています。 車両模型の展示とともに、「さまざまな車内広告」を例示している説明パネルが展示されたセクションなどもあります。 一隅に、「オハフ33形客車(再現)」という展示もあります。 「1930年代後半から製造された客車です。2008(平成20)年に解体されていますが、その際に取り外した窓枠や座席等を使って当時の様子を再現しています」(説明文転記) 客車(再現)の隣には、レトロな駅舎の一部も再現されています。それでは3階に進みましょう。3階は各所に設置された階段かエレベータでの移動となります。 本館入口の外壁に掲示されている3階のフロアー案内図です。3階はホール(緑色のところ)と図書資料室(紫色のところ)、通路沿いの壁面の一部が「ギャラリー」として鉄道写真が展示されています。この箇所だけに撮影禁止の表示が出ていました。 通路沿いに設けられた吹抜空間の部分を見下ろせる窓からの景色です。フロアー案内図の水色のところは、3階の屋外になる「スカイテラス」です。テラスの出入口側には休憩所が設けてあります。テラスの先に出ると、 京都市内の東から南東の方向の景色がまず目に飛び込んできます。 建物の南東隅に一番近い箇所からの展望 JRの鉄道線路がすぐ傍の眼下を走っています。 東方向 ズームアップ さらにズームアップ 京都タワーが見えます。 南方向 南東方向には東寺の五重塔が見えます。 東から南東方向をパノラマ合成してみますと、少し歪んでいますがこんな展望が開けています。 スカイテラスの北端側には行きませんでした。こちらにも出入口が設けてあります。北東方向には、東山の山並みが見えます。一番高く見えるところが比叡山だと思います。これで、京都鉄道博物館本館を一通り巡ってきました。細見とは称しながら、見過ごした箇所が多々あることと思います。どこを私が見過ごしているかに気づいていただくためにも、現地現物をご覧ください。本館を出て「梅小路蒸気機関車庫」の見学に参りましょう。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページお客様を意識したチーム力で、安全な列車運行を司る 奥田望 :「Blue Signal」運転指令 :「日本民営鉄道協会」驚異の過密ダイヤを守るJRの心臓部――初公開「東京総合指令室」の秘密に迫る :「YAHOO! JAPAN ニュース」スマホ時代、難しさ増す鉄道指令所 24時間365日、列車を見守るJR東海総合 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.24
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本館1階のレイアウト図を再掲します。最初に「鉄道のあゆみ」(赤色ゾーン)の奥側の残りをご紹介し、次に「鉄道のしくみ」(青色ゾーン)の後半部を巡ります。最後に「鉄道の施設」(緑色ゾーン)に移ります。前回、「鉄道の歩み」の一環で奥側に展示されている100系新幹線電車に触れました。ほかに併せて「さまざまな新幹線」「日本各地に広がる新幹線」という写真付き説明パネルが掲示され、、新幹線電車の模型も展示されています。 「W7系新幹線電車」の模型(縮尺1/20)「2015(平成27)年の北陸新幹線長野~金沢間開業に合わせて、JR西日本とJR東日本が共同開発した新幹線電車で、グランクラスを含む12両編成で運行されます」(説明転記) 「700系新幹線電車 7000番代ひかりレールスター」の模型(縮尺1/20)「2000(平成12)年 JR西日本が山陽新幹線新大阪~博多間の『ひかり』用として、700系新幹線電車3000番代をベースに改良した新幹線電車です」(説明転記) 「昭和之駅」の駅舎が再現されています。 レトロな駅舎の待合室、改札口、切符販売窓口、駅事務所がなつかしい感じ・・・・。「昭和30~40年代の駅舎 この駅舎は、昭和初期に建てられた駅をモデルにしています。昭和30年代に入ると昔ながらの木造の駅にも蛍光灯とともり、木枠だった窓がサッシに変わるなどして、次第に近代化されていきました。切符を買うほかに手荷物を預ける窓口や、改札を出るまでにあらかじめホームで乗り越し精算を行う窓口がありました」(説明パネル転記)ホームに停車しているのは特急の車両です。 特急「くろしお」 これは日本初の特急形ディーゼルカー、キハ81形3号車です。最初は、上野~青森間の特急「はつかり」の無煙化として開発されたそうです。”東北本線全線電化によって、583系電車に置き換えられる1968(昭和4)年まで「はつかり」専用として使用され、以降は「つばさ」「いなほ」「ひたち」「くろしお」に使用されました。”(説明パネル転記) 駅舎の背後には、ミゼットと称された軽自動車規格の三輪自動車が展示され、その傍に「売店」も再現されています。 特急「くろしお」の傍に、「DMH17形ディーゼルエンジン」が展示されています。「1953(昭和28)年から5年間にわたって量産されたディーゼルエンジンで、国鉄のディーゼル機関車と、普通・急行車両のディーゼルカーに使用されていました。 型 式:DMH17B水冷4サイクル直列8気筒 排気量:16.98? 出力:170cs/1500rpm 」(説明転記)特急「くろしお」は「鉄道のあゆみ」の一環としての展示です。特急「くろしお」よりフロアーの中央側は「鉄道のしくみ」(青色ゾーン)の後半部になります。「鉄道のしくみ」を順に巡っていきましょう。 ここには特急「くろしお」の隣りに、「DD51形ディーゼル機関車」(DD51形756号機)が展示されています。この箇所の特徴は、機関車の底面を眺めることができるように、一段掘り下げて通路が設けてあります。こんな体験ができるのは実におもしろい!階段の傍には、「DD51形ディーゼル機関車の開発」「電気式と液体式の動力伝達方式の違い」「国産のディーゼルエンジンろ液体変速機」についての説明パネルが掲示されています。 DD51形の後正面 通路に降りて、機関車の底面を見上げた景色です。機関車のメカニズムに関心のある人には絶景でしょうね。 DD51形の正面からみて、左側には「EF66形電気機関車」(EF66形35号機)が展示されています。 こちらも、機関車の底面を眺めてみましょう。 機関車の後正面 DD51形756号機とEF66形35号機が左右に展示されたプラットホームの後方中央には、大阪環状線の車両が展示されています。「鉄道のしくみ」展示の最後方は、いわば車両を構成する各種パーツの展示と説明エリアです。 上下二段にして電車に電気を採り入れる「パンタグラフ」が展示されていて、 下段のパンタグラフは実物を作動させて、上下に開閉し架線と接触する状態を見ることができるになっています。 「パンタグラフには、ひし形やくの字形などいろいろな形があります。どのパンタグラフも架線と接する集電舟やばね、自由な動きを可能にする枠などから構成され、ばねなどの力で架線を一定の力で押し上げることで架線から離れずに電気を採り入れることができます」(説明転記) こちらも二段にして、「鉄道車両の台車」が展示されています。台車は、「重い車両を支えるとともに、回転する車輪の動きを車体に伝え車両全体おを動かす装置です。また、線路を走行することによる車輪からの振動を、ばねにより和らげ乗り心地を良くする」(説明転記)役割を担っています。台車の構造については、車輪からの衝撃や振動を和らげる装置として、3種類の装置の図解説明や 近年、一般的に用いられている「ポルスタレス台車」の図解説明も掲示してあります。 そして、車輪。 組立式車輪(タイヤ付き車輪)、一体式車輪、弾性車輪の3種類が図解付きで説明されています。 レールと車輪の関係についても、時代による変遷が図解説明してあります。1789年に「フランジ付き車輪」が開発されたそうです。「車輪にフランジが付き、半径の違いでカーブを曲がれるよう円錐形断面に」(説明転記)なったそうです。1階フロアーの東側は、「鉄道の施設」(緑色のゾーン)をテーマにしています。 各種信号機の実物展示 線路の切り替え装置の展示 運転席の実物展示。ここでは、運転手になった気分で装置に触って動かせるようです。 架線の展示発電・変電関連施設の展示説明だったと思います。(記憶が少し不確かです。) 日本の鉄道に鉄橋は付きものです。かつての「余部鉄橋」の模型と橋脚の一部が展示されています。さらに、 橋の構造の一例を図解説明。トラス橋、アーチ橋、ガーダー橋、吊り橋、斜張橋が取り上げてあります。 日本の鉄道にとってトンネルもまた不可避の施設です。さまざまな鉄道トンネルについて、具体例での説明パネルが掲示され、ジオラマの展示やシールド工法の装置も展示してあります。この1階の全フロアーの展示を克明に見学して巡れば、最低でも数時間はかかると思います。日本の鉄道と鉄道史について、楽しく学べる博物館です。それでは、2階、3階を巡りましょう。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページ国鉄EF66形電気機関車 :ウィキペディア国鉄最強の電気機関車「EF66」今どこで見られる? :「東洋経済ONLINE」JRはなぜ自前の発電所や変電所を持っているのか :「東洋経済ONLINE」余部鉄橋「空の駅」~余部鉄橋の再出発!~ :「兵庫県」シールドトンネル :ウィキペディアシールド工法 :「千代田幹線 整備事業案内」楽しくわかる!トンネルの世界 :「OBAYASHI TUNNEL WORLD」ダイハツ・ミゼット :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.23
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「鉄道のあゆみ」の一環として、「英国製の勾配用蒸気機関車」(1800形1801号機)が展示されています。 「鉄道の国有化」についての展示セクションここには、鉄道院時代の判任官の制服(1909/明治42年)も展示されています。明治時代の文官職位は、親任官、勅任官、奏任官、判任官とそれ以外(等外)に区分されていたそうです。(説明より)1892(明治25)年、国が建設すべき重要な建設予定路線を定めた鉄道敷設法が成立。一方で、私設鉄道の路線網が広がりつつありました。官設・私設間での旅客獲得競争や連絡運用の不便さなどの問題が発生しました。買収による私設鉄道の国有化気運が高まります。 1892(明治25)に制作された中央線の建設ルートに関する意見書の写真 関西の私設鉄道が顧客獲得サービスに運賃割引宣伝のチラシを発行していました。説明パネルに例示されています。 私設鉄道の国有化を示す鉄道網図のパネル展示1912(明治45)年6月、新橋~下関間で日本初の特急列車が誕生しました。 「鉄道の黄金期」についての展示セクション大正期から昭和初期が戦前における日本の鉄道の黄金期でした。 1921(大正10)年、新逢坂山トンネル(京都~大津間)開通 1934(昭和9)年、丹那トンネル(熱海~函南間)開通 鉄道営業距離数 1919(大正8)年9.856km ⇒ 1937(昭和12)17,825km この頃には急行列車が北海道から九州まで運行されていました。1929(昭和4)年に特急列車の愛称が公募され、「富士」「桜」と名付けられます。1930(昭和5)年に超特急「燕(つばめ)」が誕生。東京~大阪間を約9時間で結ぶ。 「キハ42000形ガソリンカー」の模型、縮尺1/40 1935(昭和10)年大都市近郊を走るための車両 「モハ40形電車」の模型、縮尺1/40 1932(昭和7)年 1932~1942年に製造 鉄道省では初めての全長20m級の鋼製電車「日本における鉄道の電化は、1895(明治28)年の京都電気鉄道による路面電車の運行からはじまり、1904(明治37)年には甲武鉄道が電車の運行を開始しました。一方、国有鉄道では現在の山手線の一部で1909(明治42)年から電車の運行を開始し、1912(明治45)年には信越本線で電気機関車の運行も開始しました。なお、関西の国有鉄道線では,1932(昭和7)年に片町~四条畷間が初めて電化されました」(パネル説明転記) 1949(昭和24)年に、全国の幹線で優等列車が復活しました。戦後初の特急は「へいわ」と名付けられます。東京~大阪間を約9時間で走行。「へいわ」のロゴの右側のロゴは何か。戦後、日本に進駐してきた連合国軍の実行部隊は、米国第8軍事司令部でした。軍司令官専用列車に The Octagonian(オクタゴニアン)号の名称が与えられました。いわゆる占領軍判お召し列車です。1954(昭和29)年頃まで連合軍専用列車は運行していたと言います。(資料1)1945年9月5日以降、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置され、一組織として、連合軍鉄道輸送司令部事務所(Railway Transportation Office)が設けられます。連合軍の貨物輸送の監督や、連合軍専用列車の乗車券発行、休暇軍人への旅行案内などを行う組織です。RTOを全国各地の主要駅・車両基地などに設置し、RTOが日本の鉄道への運輸指令を発令したそうです。サンフランシスコ平和条約が発効となる約1ヶ月前の1952年3月31日にRTOは全廃されました。(説明パネルより)特急「へいわ」は1950年に「つばめ」と改名され、同区間で特急「はと」も登場。これらの特急には、「つばめガール」「はとガール」と呼ばれる女性乗務員が乗務して、接客サービスを行ったそうです。(説明パネルより) 戦時中の鉄道省制服が展示されています。 「日本国有鉄道の発足と近代化」についての展示セクションGHQの民主化政策の一環で、1949(昭和24)年6月1日に、公共企業体として日本国有鉄道(国鉄)が発足しました。国鉄発足後に、特急列車が復活。1950年には80系電車が登場します。1953(昭和28)年、京都~博多間で特急「かもめ」が運行開始となります。 特急「かもめ」は当初、蒸気機関車が客車を牽引。客車の座席は一方向を向いていました。そのため、編成の方向転換をする必要があり、京都では東海道線丹波口~梅小路間のデルタ線を利用して方向転換をしていたそうです。(説明パネルより)東海道本線の全線電化は、1956(昭和31)年の米原~京都間電化により完成します。これで全線で電車や電気機関車の運転が可能になりました。電気機関車が牽引する特急「つばめ」「はと」は、東京~大阪間を7時間30分で結ぶに到ります。 「車両の近代化」についての展示セクション日本の高度経済成長期に新性能電車が登場します。「1957(昭和32)年、高性能で小型化されたモーターなどを使用した通勤形のモハ90形電車(のちの101系電車)が開発され、この電車の技術はのちの国鉄電車でも用いられ、通勤電車だけではなく長距離電車にも広く使われました」(説明パネル転記)1958(昭和33)年に電車特急が登場。「151系電車特急『こだま』は、空気ばねによる乗り心地の改良、冷暖房完備などのサービス向上に加えて、東京~大阪間を6時間50分(のちに6時間30分)で結ぶ速達性で、東京~大阪間の日帰りを可能にしました。この『こだま』の名称には、一日の間にこだま(やまびこ)のように行って帰ってくることができる、という意味が込められていました」(説明パネル転記) 「キハ82形ディーゼルカー」の模型、縮尺1/20 1961(昭和36)年「先頭車は、キハ81形のボンネット型から、貫通型と呼ばれる構造に変更されました。」(説明転記) 「カニ22形客車」の模型、縮尺1/20 1960(昭和35)年「パンタグラフからの集電と、ディーゼルエンジンによる発電のどちらにも対応した電源車で、荷物車を併設していました」(説明転記)1960年代、東海道本線や都市部の路線は電化が進んでいました。一方、全国の多くの路線は非電化のままでした。その対応が、キ81形、82形のディーゼルカーなどの導入でした。ディーゼル特急の登場です。「1961(昭和36)年のダイヤ改正では、それまで全国に18本であった特急列車がディーゼルカーの投入により52本に増え、四国を除く全国に特急列車が走りはじめました」(説明パネル転記) 「『夢の超特急』誕生と特急網」についての展示セクション1959(昭和34)年に、東京オリンピック(1964年)開催に受けて、東京と大阪を3時間で結ぶ「夢の超特急」建設計画が始まりました。その最初が1000形試験電車(A編成、2両)です。東海道新幹線の開業は、1964(昭和39)年10月1日午前6時。0系新幹線電車「ひかり1号」は東京駅、「ひかり2号」が大阪駅をそれぞれ出発しました。当初は4時間、1965年11月より3時間10分で東京と大阪を結びました。(説明パネルより) 上段:922形電気試験車の模型、縮尺1/20 1964(昭和39)年 新幹線の電気設備を検査する車両で、愛称は「ドクターイエロー」。中段:581系電車の模型、縮尺/20 1967(昭和42)年 特急「みどり」「月光」として登場。昼は座席車、夜は寝台車として運用。下段:キハ181系ディーゼルカー、縮尺1/20 1968(昭和43)年 山岳区間のスピードアップを目的に開発。1968年10月、特急「しなの」運行開始 「鉄道連絡船と国鉄バス」についての展示鉄道連絡船の模型を撮り忘れました。 これは説明パネルに載る青函連絡船「初代津軽丸」(大正末期~昭和初期)の写真です 鉄道連絡船の乗降場のジオラマが展示されています。青函トンネルや瀬戸大橋などの開通により鉄道連絡船は現在はほぼ役割を終えています。青函連絡船は1988(昭和63)年9月19日に正式に廃止されました。(資料2) 左:鉄道省スミダR形木炭バスの模型、縮尺1/20 1940年頃 木炭から発生するガスを燃料として走るバスで、戦時中の燃料不足により導入 終戦後に次第に廃止右:鉄道省1号バスの模型、縮尺1/15 1930(昭和5)年 1930(昭和5)年、岡崎~多治見間を走った、日本で初めての省営(国設)バス 537形国鉄バスの模型、縮刷1/20 100系新幹線電車です。これは0系新幹線電車のモデルチェンジ車として1989(平成元)年に製造されました。100系122形5003号車です。2002年(平成14)年に改造が加えられたそうです。 この新幹線電車の設置されたところがほぼ「鉄道のあゆみ」(赤色ゾーン)の南西隅あたりになると思います。そして、「JRの誕生」です。「昭和40年代以降、国有鉄道の赤字が常態化していたため、昭和50年代になると細見のために分割民営化することが必要との意見が大半を占めるようになりました。そして、鉄道の再生を目指して1987(昭和62)年4月に分割民営が行われ、JRグループと鉄道総合技術研究所などが発足し、地域密着を目指した企業としての充実や地域と共生する取り組みがはじまりました」(説明パネル転記)この辺りで一区切りと致します。つづく参照資料*館内展示品の説明パネル1) 連合軍専用列車 :ウィキペディア2) 青函連絡船 :ウィキペディア補遺京都鉄道博物館 ホームページ青函トンネル :ウィキペディア瀬戸大橋 :ウィキペディア2022 日本全国新幹線映像 鉄道開業150周年記念スペシャル! ALFA-X・ドクターイエローなど Shinkansen video collection YouTube列車大集合(1)新幹線:東海道新幹線/山陽新幹線/東北新幹線/上越新幹線/長野新幹線/九州新幹線/山形新幹線/秋田新幹線 YouTube【新幹線】日本の新幹線/特急まとめ②〈102min〉東北新幹線/長野新幹線/東海道新幹線/秋田新幹線/ほか【電車】Japanese bullet train YouTube新幹線鉄道について :「国土交通省」[国鉄バスカタログ] 527形・537形(その3) :「国鉄バスカタログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.17
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それでは、青色ゾーンを一旦切り上げて、赤色ゾーンの「鉄道のあゆみ」に進みます。ここでまず目に入るのは大きな機械装置です。 近づいてみると、これは「ワットの振動式蒸気機関」を3/5に縮尺して、1987(昭和62)年に年に国鉄鷹取工場で再現製作されたものです。イギリスのグラスゴー大学で蒸気機関の研究をしていたジェームズ・ワットが1788年に発明、製作したと言います。 a・b・cの箇所はシリンダーです。シリンダー上部(a)にボイラーからの蒸気が入ると、ピストン(b)が押し下げられ、シンダー下部(c)に入っていた蒸気が下に位置するコンデンサー(凝縮器)に移動して冷やされ、bを下げる力になります。次にcに蒸気が送り込まれると、bは押し上げられ、aの蒸気はコンデンサーに移動して冷やされることで、bが引き上げる力となります。これが交互に作用することで、ピストンの上下運動が、歯車を用いたクランクにより回転運動に転換されていくことになります。 この蒸気機関は実際に上下運動を回転運動に転換する動きをデモンストレーションしてくれます。右側車輪の中央歯車に対して、遊星歯車が動いて上の方に移動していることが写真の比較でお解りいただけるでしょう。尚、ジェームズ・ワットは、「1765年、おもに鉱山などで使われていた蒸気機関を改良することに成功しました。それまでピストン運動だった蒸気機関を回転運動に改良したことで、同時に複数の作業が行えるように」(説明パネルより)したそうです。 背後の大きな写真パネルは、リバプールマンチェスター鉄道の遺構写真。ここではロケット号が活躍したとか。 ロケット号の縮尺模型。ジョージ・スティーブンソンが発明した蒸気機関車。彼は1781年、英国のノーサンバーランド州生まれ。17歳から炭鉱で働き始め、炭鉱の技師に。1823年には、息子のロバートとともに、世界初の蒸気機関車メーカー(ロバート・スティブンソン社)を設立しました。(説明パネルより) 世界の各地で活躍した蒸気機関車のイラストが例示されています。 こちらは1825年のロコモーション号の縮尺1/8模型です。鉄道の起源についての説明パネルがあります。鉄道の起源は「16世紀にドイツの炭鉱で木のレールを敷いた道の上を貨車で運んだこと」が起源だとか。手押しの貨車です。この時、既に車輪にフランジを付ける工夫がされていたとか。「18世紀の英国の炭鉱では、金属製のレールが登場し、馬に貨車を引かせたことが近代の鉄道の礎になったといわれています。」(説明パネルより) リチャード・トレビシックが開発した蒸気機関車についての説明パネルがあります。右上の図は1804年の蒸気機関車のレプリカの写真で、その斜め下はその走行想像図。リチャード・トレビシックは、明治時代に車両技術の指導者として来日したそうです。彼は、1771年、英国のコーンウォール地方の炭鉱作業員の家に生まれ、鉱山で働きながら蒸気機関などの技術を学びました。1804年に定置式の高圧蒸気機関の実用化に成功。「その技術を応用して蒸気機関車を製作し、世界で初めて約16kmの距離を約4時間で走行させることに成功しました。」(説明パネルより)世界の公共鉄道は、英国で、1825年9月27日に、ストックトン・ダーリントン鉄道が開業したことを最初とします。そして、1830年にアメリカ、1832年にフランス、1835年にドイツ、ベルギーでの開通という形で広がって行きました。(説明パネルより) 日本人は、江戸時代末期に、模型によって初めて蒸気機関車を知り、鉄道知識を得たそうです。1853(嘉永6)年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際に、蒸気機関車の模型を披露したとか。また、上掲図は、アメリカのペリーが浦賀に来航した際に、横浜で蒸気機関車模型の運転を披露し、幕府に献上した蒸気機関車模型の図です。 1850(嘉永3)年にペリーが来航した際の船「サスケハナ号」の縮尺1/30模型が展示されています。船体に塗られた樹脂の色から「黒船」と呼ばれました。 「佐賀藩精練方 蒸気機関車模型」(複製)が展示されています。「ロシアのプチャーチンが持参した蒸気機関車模型をもとに、佐賀藩の中村奇輔、田中久重、石黒寬次が製作しました」(説明転記)佐賀藩精練方とは、佐賀藩主・鍋島直正が1852(嘉永5)年に設けた西洋技術の研究機関です。反射炉、大砲、蒸気機関などの研究・製造を行ったと言います。(説明パネルより) 「日本初の鉄道建設」は現在の新橋~横浜間です。明治政府が鉄道建設を決めたのは1869(明治2)年。1872(明治5)年に、鉄道開通式が行われました。 日本初の鉄道開業式が盛大に行われた写真を紹介する説明パネルもあります。パネルの右側には、「1870(明治3)年 民部大蔵省鉄道掛」から始まり、「1987(昭和62)年 JRグループ各社 分割民営化」まで、鉄道に関わる組織名がどのように変遷してきたかをまとめています。 「1号機関車と客車」縮尺1/20 「鉄道蒸気車駃走図」1871(明治4)年 複製 鉄道の開通は人々の時間感覚を変え、生活様式を変える原因になります。鉄道は分刻みで走ります。1日24時間という西欧の「定時法」が使われます。時間の単位が「分」となります。その時間感覚が人々の生活様式へ大きな変化を与えていくことに・・・・・。それまでは、日出から日没までを6等分する時間感覚だったのですから、当初は大変だったでしょうね。鉄道開初当時は、ホームに履物を脱いで汽車に乗ってしまった人がいたというエピソードがあるとか。(説明パネルより) 鉄道開業(1872年)当初の新橋駅と停車場の写真が右側に。駅舎は西洋建築です。開業当初は機関車、レール、切符などそのほとんどが英国からの輸入という形で始まりました。勿論、機関車の運転も外国人の機関士です。日本人が同乗して見習うことから始まり・・・・。駅舎は「ステンショ」「鉄道館」などと呼ばれたそうです。(説明パネルより) 制服 「鉄道会社規則書」所収「西京鉄道株券」の見本が展示されています。「1871(明治4)年かr民間の『鉄道会社』による京都~大阪間などの鉄道建設が計画されましたが実現せず、官設鉄道によって建設されました。」(説明文転記) 「京阪神間の鉄道開業」に関連した展示が続きます。 電気機関車の傍に、機関車の内部構造を示す縮尺模型も展示されています。 「旧逢坂山隧道石額」(旧逢坂山トンネルの西口にあった石額) 石額に刻された碑文 「7100形蒸気機関車『義経』」の模型(縮尺1/15)が石額の手前に展示されています。「1880(明治13)年にアメリカから輸入された8両のうちの1両です。大きなカウキャッチャーと先端が大きく膨らんだ煙突が特徴です」(説明文転記) 「西京大津閒鉄道測量絵図」1875(明治8)年東京に対して、京都が西京と称されています。おもしろい。西京という名称はいつ頃まで使われたのでしょうか・・・・。 「柳ヶ瀬トンネル工事写真」 明治10年代前半 日本人だけで建設した最初の鉄道は、京都~大津間の鉄道建設だそうです。急勾配が続く山岳地帯の難所での工事でしたが、外国人技師の力に頼らずに完成させたと言います。馬場(現在の膳所)~大谷間の逢坂山トンネルがその最初のトンネルになります。(説明パネルより) 1877(明治10)年、鉄道局は大阪に工技生養成所を設置します。日本人技術者に鉄道の建設技術などを指導するためです。選抜された鉄道局の工技生に対して英語・数学・力学・製図などの講義が行われました。写真は前列中央に京阪神建築技師長だったイギリス人のT.R.シャーピントンを囲む工技生養成所の人々。(説明パネルより)当時、鉄道頭の井上勝(1843-1910)は、神戸、大阪、京都での建設を指揮し、鉄道に携わる技術者を養成し、日本の鉄道発展に大きく貢献します。彼は、1843年、長州藩士の家に生まれ、21歳で英国に留学して鉄道技術を学んだ人。後に鉄道局長になったとか。 日本初の鉄道連絡船は、なんと、琵琶湖での太湖汽船の運航でした。大津~長浜間を結んだのです。1882(明治15)年から、1889(明治22)年の大津~長浜間の鉄道開業まで続けられました。 「私設鉄道の誕生と鉄道網の広がり」というテーマでの展示もあります。 日本最初の民間資本による私設鉄道は、1881(明治14)年に設立された「日本鉄道」だそうです。この鉄道の経営は当初から好調だったと言います。写真は上野駅の正面玄関。 1883(明治16)年 上野~熊谷間開業 1884(明治17)年 上野~前橋間開業 1891(明治24)年 上野~青森間開業 (説明パネルより) 明治時代における私設鉄道建設の機運の広がりを説明するパネルも設置されています。 「京都鉄道の車両と駅舎」(1890年代/明治30年代)の写真を展示「1893(明治26)年、京都~舞鶴間を結ぶことを目的に私設鉄道の京都鉄道会社が設立されました。1897(明治30)年、最初に二条~嵯峨間で開業し、1899(明治32)年に京都~薗部間で全通した」(転記) 1893(明治26)年の「鉄道線路図」 上中央は「神戸・新橋間汽車発着時刻表」(1891/明治24年)、下左は「私設鉄道乗車賃金割引券」(1903/明治36年)、下右は「関西鉄道汽車時間表」(1901/明治34年) 上は「東海道線全通時の写真」(1889/明治22年)、下左は「日本鉄道『定款議案文書』」(1880年頃)、下中央は「九州鉄道旅客便覧」(1893/明治26年)、下右は「奈良鉄道『鐵道法令集全』」(1900/明治33年)この辺で一区切りとします。展示品、説明パネルで省略しているものがあります。一方、見過ごしたものもあるかも知れません。大凡はイメージしていただけるかと思います。実物をご覧にお出かけください。つづく補遺京都鉄道博物館 ホームページジェームズ・ワット :ウィキペディアジョージ・スチーブンソン :ウィキペディアリチャード・トレビシック :ウィキペディアカウキャッチャー (鉄道) :ウィキペディアストックトン・ダーリントン鉄道 maintained by (浅井照明) 鉄道国有法 :ウィキペディア100年前、国有化の頃の鉄道 :「都道府県市区町村 hmtマガジン」鉄道の岐路 民営化35年 JRの試練 :「日経ビジネス」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.15
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=== 2023.3.1 === 9時45分頃に撮った南の空です。快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上に横雲が広がっていますが、その上に霞んだような青空が見えています。この後もずっと快晴。雲が見えないので撮るのはやめました。=== 2023.3.2 === 9時15分頃に撮った南の空。昨日から一転して曇り空です。南西方向の空 西方向の空 西の遠方には青空が見えました。 東の空は相対的に不穏さを漂わせる雲行きです。 12時15分頃の南の空は青空に一転し白雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空に雲が広がっています。しかし、朝の雲の様子とはかなりの変化が見られます。=== 2023.3.3 ===この日も朝から快晴で雲が見えなかったと思います。記録写真を残していません。17時頃にだけ撮ってみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空さて、雲がたりを続けます。西部文浄著『茶席の禅語』(タチバナ教養文庫)の下巻に移ります。下巻には「白雲断處家山妙」、「流水寒山路深雲古寺鐘」、「行到水窮處坐看雲起時」、「青山元不動白雲自去来」という禅語が採録されていますが、既にご紹介していますのでスキップします。 竜吟雲起虎嘨風生 竜吟ずれば雲起こり 虎嘨(うそぶ)けば風生ず この句で、龍虎・雲風は象徴表現のようです。「ともに無心にして、いわゆる同気相求め、同声相応じ」という「意気投合の様子を申したもの」(p54)と説明されています。お互いの呼吸がピッタリと合っていることの肝要さをとらえた表現だと言います。人間関係然り。出典は『周易』。 堪對暮雲帰未合遠山無限碧層層 暮雲の帰って未だ合せざるに対するに堪えたり、遠山限りなき碧層々「たそがれが近づき、暮雲が帰って来て山を包もうとしています。その雲と雲とが合して全部山を包み隠してしまえば、やがて夜のとばりもおりるのですが、それにはまだ間があり、夕陽をあびた真っ赤な雲が、かなたこなたに片々として、ちぎれ飛んでいます。そして、雲の合い間から見える遠くの山々の碧は、高く低く、幾層にもたたみ重なって、なんともたとえようのない風光であります」(p96)という意味の句です。一切の思慮分別を絶した雄大な自然美、天地の風光の姿を表現しています。この風光が「そのまま真仏の活現であり、仏法の活きた真実相にほかならない」(p97)と説かれています。出典は『碧巌録』の第20則頌。 幾片落花随水一聲長笛出雲来 幾片の落花水に随(したが)って去り、一声の長笛(ちょうてき)雲を出で来たる 幾片かの花びらがヒラヒラと舞い落ちて水に浮かび、流れのままに静かに去って行く。それをながめていると、長笛の音が雲の間からか、何処からともなく聞こえてくる。というような意味と理解します。「これは、花は無心にして水に随い、水は無意にして花を浮かべる、雲も無心、笛を吹く人も無心、そういう無意無心の妙趣をあらわした語でもあります」(p100)と説かれています。出典は『人天眼目一』とのこと。 風吹碧落浮雲盡月上青山玉一團 風碧落(へきらく)を吹いて浮雲尽き、月青山に登る玉(ぎょく)一団「いままで碧落(大空)をおおっていた浮雲も、一陣の清風とともにすっかり払い尽くされ、そして玉のような月が青山の上に顔をみせた」(p101)という明月の夜の光景です。ここでも雲は迷妄を象徴しています。そしてこの句の眼目は「尽」の一字だと言います。「一切の迷妄分別を尽くし切って、寸糸かかるもののない境地になること」「尽くし切りさえすれば、自然とそこに光明の世界が輝き出てくる」(p101)と説かれています。出典は『聯頌集上』。 裁断人間是與非白雲深處掩柴扉 人間の是と非とを裁断して、白雲深き処柴扉を掩う 「是非、得失、愛憎などという、うるさい世間のことなどいっさい断ち切って、山深きところに、ゆうゆう自適の生活を楽しんでいる隠者の様子」(p105)を詠んだ句だとか。出典は『大智偈頌』。下巻では重複する禅語を除くと、5句抽出することになりました。雲の変化に戻ります。=== 2023.3.4 === 9時45分頃に撮った南の空。天気は良好。南西方向の空 西方向の空 あまり見かけない雲の姿が見えました。 東方向の空 17時25分頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 西空の遠方に沈む前の太陽をズームアップして撮りました。 頭上の空 東方向の空この日、雲は広がっていたものの良好な天気だったように思います。つづく補遺周易 :ウィキペディア碧巌録:その1:1~25則 :「禅と悟り:その合理的アプローチ」「碧巌録・第20則 《龍牙の祖師西来意》」 :「野狐禅RRPGのブログ」人天眼目 :「禅籍データベース」(花園大学国際禅学研究所)祇陀開山大智禅師偈頌 :「京都大学貴重資料デジタルアーカウブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.14
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本館入口前の左側壁面を見ますと、博物館館内の案内図が掲示してあります。 1F部分だけ参考に取り上げました。オレンジ色の屋外エリアは前回ご紹介しました。「トワイライトプラザ」と名付けられています。本館内の赤色ゾーンは「Ⅰ 鉄道のあゆみ」、青色ゾーンは「Ⅱ 車両のしくみ」、緑色ゾーンは「Ⅲ 鉄道の施設」をテーマとする展示です。灰色ゾーンは「車両工場」です。 本館に入るとまず目に止まる位置に同じフロアマップが展示されています。 拡大図です。 入口に近い赤色ゾーンのところで目に止まるのが「233」の銘板の付いた蒸気機関車。これは国産初の量産型蒸気機関車の「230形233号機」です。 この蒸気機関車の右側、建物の右端にエスカレーターが設置されています。「1902(明治35)年から1909(明治42)年にかけて、大阪汽車製造で41両も製造された国産初の量産型蒸気機関車です。日本人の体格を考慮した設計や、安定した運転性能が評価され、官設鉄道のほか北越鉄道と北海道鉄蔵にも納入されました。 本機は大正時代中期までは幹線で活躍しましたが、大型機関車の登場により地方線区で運用され、最後は工場の入換機として1959(昭和34)年まで使用されていました。2016(平成28)年には国の重要文化財の答申を受けました。」(案内板転記) 重要文化財(美術工芸品)に指定登録されたことの案内銘板が設置されています。 「製造年:1903(明治36)年度、製造所:汽車製造、全長:9.76m、自重:35.9t、軸配置:1B1」(案内板転記) 時代がうかがえます。「汽車製造合資會社」の社名が右から左に表記されています。「大日本帝国大阪」という時代を彷彿とさせる表記。「KWAISHIA」というローマ字表記法。今なら「KAISHA」と表記することでしょうね。 「鷹取工場 昭和42年10月 復元」という銘板が取り付けてありますので、修復が施されているということでしょうか。次に、入口に近い青色ゾーンの部分がやはり目に止まります。こちらは「車両のしくみ」の一環として実物車両を展示してある区域です。 まずこちらの新幹線電車に目が惹き付けられます。「500系521形1号車」です。 車両の傍に、この案内板が設置されています。 壁面に展示されているエンブレム 新幹線電車の右側には、車両正面の「月光 GEKKO」の表示で特急「月光」とわかります。「クハネ581形35号車」です。 高度経済成長期に万能型電車として開発され、昼は座席車、夜は寝台車として利用できたそうです。 さらに、右側には特急「雷鳥」が展示されています。「クハ489形1号車」ボンネット型の特急用交直流電車です。 特急「雷鳥」は富山に行く時に乗り馴れてきた電車なので、案内板を見過ごしてしまいました。「製造年:1971(昭和46)年、製造所:東急車輌製造、車両全長:21,60mm、車両全幅:2,949mm、車両全高:3,880mm」(資料1)500系新幹線電車、特急「月光」、特急「雷鳥」の車両の間はプラットホームのように一段高くなっていて、窓から車両内部を眺められるようになっています。このプラットホームを先頭側から反対側まで行くと、、 「たからコンテナ特急」「ヨ5000形5008号車」と、その後に貨車「ワム3500形7055号車」が展示されています。ワム3500形貨車は写真を撮り忘れました。ヨ5000形貨車は、宇都宮貨物ターミナルにて保存されていたものが、2015年3月1日にこちらに移設され、「たから」号時代の色に戻されたそうです。日本国有鉄道時代、1959(昭和34)年から1968(昭和43)年頃までに製造または改造により登場した事業用貨車だそうです。(資料2)この後は、まず赤色ゾーン「Ⅰ 鉄道のあゆみ」から見学していくことにしました。つづく参照資料1) 京都鉄道博物館 ホームページ2) 国鉄ヨ5000形貨車 :ウィキペディア補遺寝台特急月光◆データファイル :「愛称別トレインデータ館」寝台特急「月光」 :「夜行列車資料館」特急雷鳥 :「Blue Signal」サンダーバード :「JRおでかけネット 車両案内」サンダーバード (列車) :ウィキペディア貨車 :ウィキペディア国鉄ワム3500形貨車 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -1 本館へのアプローチ へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.13
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こちらも、京都駅から一駅のJR嵯峨野線「梅小路京都西」駅から始めます。この改札口から出ると、南西方向に この建物が見えます。 建物に近づくと、「京都鉄道博物館」の表示があります。館名の前に付けられたロゴは何を表現しているのか。その形からみて、京都鉄道博物館の建物と梅小路蒸気機関車庫の平面をデザイン化したものと推測します。白い壁面の背後に少し見えているのは「旧二条駅舎」です。 来館者が多い時の為の仮設入館導入路が設けてあり、ガラス面の入口が見えます。入口を入ると、左側に入場券売機が設置されています。セルフサービス方式です。 これが当日の入館券斜め右方向に進むと、まず目に飛び込んでくるのが、 「C6226」の銘板が正面に付いている大型高速旅客用蒸気機関車「C62形26号機」です。蒸気機関車の傍に案内板が設置してあります。「1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて49両が製造された日本最大の旅客用テンダー式蒸気機関車で、動輪の直径は1,750mmです。本機は特急『つばめ』『はと』などのけん引機として活躍しました。なお、C62形17号機は1954(昭和29)年に狭軌の蒸気機関車としては世界最速の129km/hを記録しました。」(案内板転記) この説明の他に、この蒸気機関車の仕様が併記されています。「製造年:1948(昭和23)年、製造所:川崎重機、全長:21.47m、自重:100.1t、動輪直径:1,750mm、軸配置:2C2、最高運転速度:100km/h」(案内板転記) C6226の右隣りには、「クハ86形1号車」が並んでいます。「80系直流電車は、東海道本線の旅客列車の電車化を図ることを目的として開発されました。15両編成という日本初の長大編成電車として、1950(昭和25)年から東京~沼津間で運行が開始されました。オレンジと緑の塗色は『湘南色』と呼ばれています。座席は4人掛けとなっていますが、乗降口付近は乗り降りがしやすいように前方は2人掛け、後方は3掛けのロングシートが設けられています。」(案内板転記) 「製造年:1950(昭和25)年、製造所:日立製作所、全長:20.00m、自重:32.4t、定員:155人 (座席79、立席76)」(案内板転記) クハ86形1号車の右隣りには、「0系21形1号車」(初代新幹線電車)が設置されています。こちらは大阪方先頭車だそうです。 ここで案内板の実例を載せておきます。トップの行は、いわゆるキャッチフレーズで的確に最重要点をアピールしています。左側に車両の型式が明示され、さらにその下に仕様が簡略に説明してあります。右側には総合的な説明が記されています。「0系新幹線は、1964(昭和39)年に東海道新幹線用として登場し、最高運転速度210km/hで運行を開始しました。そして翌年には、東京~新大阪を3時間10分で結びました。 0系21形は大阪方の先頭車で、社内は3人+2人掛けの普通座席と、和式トイレや男性用トイレ、洗面台が2組設けられています。」(案内板転記)「製造年:1964(昭和39)年、製造所:日本車輌製造、全長:25.1m、自重:57.6t、定員75人、最高運転速度:210km/h」(案内板転記)説明文の右上に、車両のイラスト図とQRコードが載っています。このQRコードにスマホのカメラをかざすと、ネット情報として車両についての知識を学ぶことができます。帰宅後に、QRコードの写っている上掲写真でQRコードをスキャンして試してみました。案内板の左隣りには、「機械遺産認定証」が設置してあります。この0系21形1号車は「機械遺産第11号」となっています。社団法人日本機械学会が発行する認定証です。記録写真を撮ったのですが、画像が見づらいものになったので省略します。現地でご覧ください。この車両が並ぶ間に階段があり、プラットホームに上がる感じですが、ここが本館に向かう「プロムナード」(散歩道)になっています。プロムナードは南の方向へ、列車の編成展示が、真っ直ぐになされています。つまり、本館入口に到るまでに、結構楽しめます。私は、まずこのプロムナードのエリアを鉄ちゃん気分で行ったり来たりして写真を撮ることから、見学を始めた次第です。 蒸気機関車C6226の後には、「マロネフ59形1号車」が置かれています。「皇族、貴賓専用のマイロネフ37290形として製造された1・2等寝台客車で、のちにスイロネフ38形と称号改正されました。戦後は日本に進駐した連合軍が接収し、返還後は当時の皇太子の非公式用車両・スイロネ37形となり、1955(昭和30)年にはマロネフ59形となりました。1等寝台部分は個室、2等寝台部分は通路両側に上下二段の寝台が配された『プルマン式』となっており、乗り心地を重視して3軸台車が採用されています。」(案内板転記)「製造年:1938(昭和13)年、改造年:1952(昭和27)年・1955(昭和30)年、製造所:鷹取工場、改造所:大井工場、全長:20.00m、自重:38.9t、定員:14人)」(案内板転記) 「マロネフ59形1号車」の後は、「スシ28形301号車」です。「当初は食堂車と2等座席の合造車であるスロシ38000形として製造されましたが、戦後、3等座席の合造車スハシ38形として急行『日本海』などに連結されました。乗り心地を重視した3軸台車が採用されています。1961(昭和36)年、旧交通科学博物館での展示時に、車内全室が食堂車に改造されました。このとき、座席配置が2人掛け+4人掛けテーブルから4人掛+4人掛テーブル、形式番号はスシ28形301号車となりました。」(案内板転記) 「製造年:1933(昭和8)年、改造年:1961(昭和36)年、製造所:日本車両製造、改造所:鷹取工場、全長20.00m、自重:37.8t、定員:44人」(案内板転記) 上掲食堂車の後には、「クハ103形1号車」。高度経済成長期の代表的な通勤形電車「クハ103形電車は、1964(昭和39)年から1984(昭和59)年にかけて3,447両が製造された103系通勤形電車の先頭車です。通勤客輸送の増大に対応するため、加減速性能や経済性に重点をおいて開発され、各線区ごとにさまざまな塗色が採用されたことも特徴です。関西地方では、大阪環状線のオレンジ色や阪和線のスカイブルーなどが代表例です。」(案内板転記) 「製造年:1964(昭和39)、製造所:日本車輌製造、全長:20.00m、自重:26.9t、27.4t、定員:136人(座席48、立席88)」(案内板転記) クハ86形1号車の後続は、「ナシ20形24号車」です。「ナシ20形は、1958(昭和33)年から運行が開始され、『ブルートレイン』の愛称で親しまれた20系寝台特急列車の食堂車です。ナシ20形24号車は、1970(昭和45)年に製造され、東京~九州間を結んだ寝台特急『はやぶさ』や、東京~東北間を結んだ寝台特急『あけぼの』などに連結されていました。」(案内板転記) 「製造年:1970(昭和45)年、製造所:日本車輌製造、全長:20.50m、自重:290.9t、定員:40人」(案内板転記) 上掲食堂車の続きには「DD54形33号機」が置かれています。案内板を撮り忘れました。京都鉄道博物館ホームページの情報によれば、「西ドイツのエンジンと液体変速機を採用したディーゼル機関車」です。プロムナードにある展示の最後は、初代新幹線電車「0系21形1号車」の後続部分です。 本館入口側は、後でよく見ますと少し形状が異なっていることに気づきました。こちらは「0系22形1号車」で先頭車です。また、両1号車の間には、0系新幹線のグリーン車と食堂車が展示されています。(これらの案内板も未確認です) こちらの先頭車は車両内部が展示室になっています。0系新幹線電車のパンタグラフとモーター、高速走行のための台車構造の模型(DT200型台車)、0系新幹線電車の模型などが説明パネルとともに展示されています。 0系新幹線電車の座席も一部展示 先頭車の運転室にも入ることができます。思っていたよりも狭い空間だなという印象でした。本館へと進む前に、この本館建物の東側にある この展示空間をご紹介します。切妻造の屋根を設けただけのシンプルな展示空間です。 向かって右側には、寝台特急「トワイライトエクスプレス」が展示されています。これは、「EF81形103号機」と称される電気機関車です。「近畿地方と東北地方を結ぶ日本海縦貫専用の貨客両用機関車として開発された車両です。直流区間と50Hz・60Hzの交流区間に対応できるため、東北地方から九州地方まで各地で運用されました。国鉄の分割民営化後、JR西日本の車両は敦賀運転所に配置され、本機を含む6両が寝台特急『トワイライトエクスプレス』の指定機となりました。」(案内板転記) 「製造年:1974(昭和49)年、製造所:日立製作所、全長:18.60m、自重:100.8t、軸配置:BBB」(案内板転記) 「スシ24形1号車」は「トワイライトエクスプレス」の食堂車「2015(平成27)年に引退した寝台特急『トワイライトエクスプレス』に使用されていた食堂車『ダイナープレヤデス』です。特急型交直流電車の食堂車サシ489形3号車から改造されました。内装はステンドグラス、電動シェードやじゅうたんなどが使われ、高級感のある車内ではフランス料理を味わうことができました。」(案内板転記) 「スロネフ25形501号車」は「トワイライトエクスプレス」の編成中でもっとも豪華な寝台客車だそうです。「車両の一角から景色を占有できるスイートルームや大型のベッド、ソファが設置されたロイヤルルームがあり、1両に5部屋しかなく、定員はわずか6人でした。」(案内板一部転記) 向かって左側に「EF58形150号機」 これは戦後を代表する電気機関車だとか。「1946(昭和21)年~1958(昭和33)年までに172両が製作された直流電気機関車です。当初は前後にデッキを備えた車体でしたが、1952(昭和27)年よりデッキを廃した流線形車体となり、東海道・山陽・上越・東北・紀勢などの直流電化区間で活躍しました。150号機は1958(昭和33)に製造され、1985(昭和60)年まで活躍して廃車となりましたが、後に車籍が復活され、2011(平成23)年までイベント列車等に使用されました。」(案内板一部転記)「製造年:1958(昭和33)年、製造所:東京芝浦電気、全長:19.90m、自重:115.0t、軸配置:2CC2」(案内板一部転記) 「オロネ24形4号車」は快適さを求めた寝台客車「24系寝台客車は、火災対策や快適性向上を実施した国鉄型寝台客車最後のグループで、533両が製造されました。オロネ24形は、中央の通路を挟んで上下2段の寝台が並ぶ開放型A寝台車(プルマン式)です。本車両は、寝台特急『あかつき』『彗星』の運転開始にあわせて製造され、その後もさまざまな寝台特急に使用されました。」(案内板転記)「製造年:1973(昭和48)年、製造所:日本車輌製造、全長:21.30m、自重:33.6t、定員:28人」(案内板転記) 「EF65形1号機」は電気機関車の黄金時代を築いたそうです。「EF65形電気機関車は電化路線のために設計されえ、その完成度の高さから日本の電気機関車で最多となる308両が製造されました。貨物用、旅客用、客貨両用などのグループがあり、現在でもJR貨物で活躍しています。本機は、貨物列車専用機として活躍していました。」(案内板転記)「製造年:1965(昭和40)年、製造所:川崎車両 川崎電気製造、全長:16.5m、自重:96.0t」(案内板転記) プロムナードの南端の先に、博物館本館の入口があります。では、京都鉄道博物館の本館に入りましょう。つづく参照資料京都鉄道博物館 ホームページ補遺寝台車(鉄道) :ウィキペディアプルマン(企業) :ウィキペディアA寝台 :ウィキペディアB寝台 :ウィキペディア車軸配置 :ウィキペディアブルートレイン(日本) :ウィキペディアトワイライトエクスプレス :ウィキペディアTWILIGHT EXPRESS 瑞風 MIZUKAZE 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -2 本館1階 車両のしくみ (1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -3 本館1階 鉄道のあゆみ (1) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -4 本館1階 鉄道のあゆみ (2) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -5 本館1階 鉄道のあゆみ(3)・しくみ(2)、施設 へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -6 本館2階・3階(スカイテラスからの展望) へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -7 梅小路蒸気機関車庫(1)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -8 梅小路蒸気機関車庫(2)へ探訪 京都市 京都鉄道博物館細見 -9 旧二条駅舎 へ
2023.03.12
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=== 2023.2.26 === 8時40分頃に撮った南の空です。青空に柔らかい雲が漂い、良い天気です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空の雲は様子が異なり、もくもくとした感じの雲が覆っています。 13時半頃の東方向の空の雲は白雲からグレーの少しのっぺりした雲に変化しています。 南の空もまたグレーの雲が全面を覆い一転した空模様です。南西方向の空 西方向の空 雲の様相が大きく変化していました。 15時半頃に南の空は再び晴れ上がり、軽やかさの違いを感じさせる様々な雲が漂っています。 クローズアップ!南西方向の空 西方向の空 東方向の空にも青空が見えるようになっていました。雲の姿が大きく変化しています。さて、雲がたりを続けます。禅語について関心を持っていますので続けます。西部文浄著『茶席の禅語』(タチバナ教養文庫)という上下2冊本を、あるとき中古書店で見つけました。平成6年(1994)の5月の刊行です。まずはその上巻からの抽出です。 最初に採録されているのは、「雲在青天水在瓶」(雲は青天に在り、水は瓶に在り)です。さらに「雲在嶺頭閑不徹水流澗下太忙生」(雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下に流れて太忙生)、「白雲抱幽石」(白雲幽石を抱く)、「雲無心出岫」(雲、無心にして岫を出づ)も本書に採録されています。これらはご紹介ずみですのでスキップします。 雲門胡餅 うんもんこびょう『碧巌録』の第七十七則が出典です。雲門とは雲門禅師のことだとか。ある僧が禅師に「如何なるか是れ超仏越祖の談」と質問したそうです。「仏祖が到達された尊ぶべき悟りの境地をも抜けきった、もうなんの臭みもない、ギリギリ頂上のところ」(p190)その境地について問うたのです。それに対して、雲門禅師は「胡餅」と答えられたと言います。胡餅とは胡麻をまぶした焼き餅のことで、ごくそまつな食べ物です。もとは胡夷の食べ物で、後漢に広がったとか。禅師の「胡餅」という答えは、その僧が問うたその境地すら、臭みである故に、それをもう一度超え、捨てきれの意だとか。ここでの「雲」は人名の一部です。 無雲生嶺上有月落波心 雲の嶺上に生ずること無くんば、月の波心に落つる有り出典は「五家正宗賛、慈明章」。雲は煩悩妄想を、月は菩提真如をさしているそうです。慈明禅師が弟子の真上座を試そうと、「如何なるか是れ仏法の大意」(仏法のギリギリのところ、究極のところはどうか)と尋ねたそうです。真上座の即答が上掲の句だとか。禅師はその答えに嘆息し大いに弟子をののしったのです。さらに弟子が教えを懇願するのに対し禅師は自分が問うた言葉を問うてみよと問わせます。禅師は即座に真上座の答えと同じ答えを返したそうです。それを聞き、真上座は言下に大悟したとか。法理にかなった立派な答えでも、そこに体験的な裏づけがあるかが問われているそうです。師と弟子との相互のやり取りが要になる。その禅独特の機微を示す事例のようです。 白雲片々嶺上飛 白雲片々(へんぺん)嶺上(れいじょう)に飛ぶ出典は「五灯会元十一」。この句は、「白雲が無心に嶺の上を去来しているという、いかにも初夏の気分の満ちあふれた句ですが、これまた、隠者の山居の趣きでもあります」(p293)と述べ、著者は梁の道士陶弘景(452-536)の故事を取り上げて説明しています。陶弘景は江蘇省句宮県の東南に位置する茅山(ぼうざん)に隠栖し、華陽陶隠居と号したそうです。彼の行動について、武帝が山ニは何があるのかと問うたそうです。それに対して、 山中何所有 山中、何の有る所ぞ 嶺上多白雲 嶺上、白雲多し 只可自怡悦 只、自ら怡悦すべし 不堪持贈君 持して君に贈るに堪えず (華陽陶隠居集)「怡悦」は「よろこぶ。喜び」という意味です。「わたしが住んでいる山中には、何があるかと申しますと、嶺上には白雲が深々とおおっており、なんともいえない風情です。この幽玄な大自然の中に身をゆだねている楽しみというものは、体験した者のみが知るところで、人にわかち与えられるものではありません」(p294) 無心となることを自らの体験を通じて感得、体得する重要性を述べているということなのでしょう。上巻からの抽出を終わります。雲の変化に戻ります。=== 2023.2.27 === 8時15分頃に撮った南の空です。雲のない快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 しかし、東方向の空は薄曇りという感じです。グレーの布が広げられた感じの雲の姿です。 13時50分頃に東方向の空を眺めると雲が消えて快晴の青空が広がっていました。東方向の空ではめずらしい空模様です。 南の空南西方向の空 西方向の空 これほどの快晴の空は久しぶりだったと思います。=== 2023.2.28 === 9時15分頃の南の空です。見かけない雲の形です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 13時50分頃に、東方向の空を眺めると続き、快晴の空に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空2月は最終日の午後に雲が無い快晴の空でエンディングとなりました。つづく補遺雲門文偃禅師 :「霊芝山光雲寺」慈明禅師 ⇒ 石霜楚円禅師語録 :「花園大学国際禅学研究所」五家正宗賛 :「花園大学国際禅学研究所」五灯会元 :「花園大学国際禅学研究所」陶弘景 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.09
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6日(月)の午後、京都鉄道博物館と梅小路公園の観梅に出かけてきました。JR嵯峨野線に「梅小路京都西駅」ができているのは知っていたのですが、利用したことはなかったので、下車してみたかったのも一要因。京都駅から一駅です。 改札口を出ると、すぐ目の前にこの「梅小路公園 案内図」が設置されています。 部分図を撮りませんでしたので、案内図から切り出した部分図に丸印を追記しました。黄緑の丸印が「梅小路京都西駅」で、赤の丸印が案内図のある現在位置。マゼンタの丸印が京都鉄道博物館です。これで大凡の位置関係がわかることでしょう。京都鉄道博物館を見学してから、梅小路公園を散策し観梅したのですが、ここでは先に梅小路公園と観梅を先にご紹介したいと思います。 歩道の傍に、道路標識(右:京都鉄道博物館、左:京都水族館)となぜか亀の銅像があります。 梅小路公園に入り、入口に「朱雀の庭 緑の館 レストラン」と表示した建物の前を通り過ぎ、散策路沿いに右折し公園の南辺部の散策路沿いに東の方向に進むことになります。上掲案内図で大凡はイメージしていただけるでしょう。 道路標識の上端には、デフォルメした列車像が置かれています。 赤丸印を追記した場所(現在地)に設置された案内図。案内図は要所要所に設置されています。さらに、 こんな道路標識も。この像はサンショウウオでしょうか? 先に歩めば、公園内に設けられた小川が流れています。 かつて平安時代後期には、この辺りに「西八条第(/八条亭)」と呼ばれる平清盛の六町を有する広大な邸宅があったと言います。『平家物語』に出てくる妓王・祇女や仏御前の物語に出てくる邸がここです。「その跡地は下京区観喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる」(説明文より)”治承5年(1181)閏2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。『平安物語』巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜、にはかに焼けぬ。・・・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。 『玉葉』によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ、邸宅は残すところなく灰燼に帰した。文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。”(案内文の後半を転記) 公園の南辺、JRの線路側に咲く紅梅・白梅の木々。「南側梅林」と称されています。後掲の案内地図の説明によれば、「2月下旬が見頃。遅咲の梅が多い」と記されています。 道路標識の上端には、新幹線先頭車形の像が置かれています。 北方向を眺めると、広大な芝生広場の向こうに「京都水族館」が見えます。 京都水族館の建物をズームアップ! 「東側梅林」へ向かう手前に設置されている「梅林てくてく散策MAP」です。梅こみちを歩きつつ、「東側梅林」で観梅を続けます。(北側梅林はスキップしました。) この紅梅の木には「43 大盃(おおさかずき)」という品種名札が付けてありました。 冬至 冬至 新平家 新平家 新平家 54 見驚 54 見驚 春日野 春日野 緋の司 緋の司 春日野 春日野 豊後木の幹に「豊後」という名称札が取り付けてあります。 その傍に、「開智幼稚園の梅」という札が立ててあります。 幼な子の園より来たる開智梅 香りの中にしばし遊ばん 平成29年10月 開智自治連合会寄贈「梅のこみち」に沿って北に進むと、このこみちの入口傍に、 昔なつかしい京都市電が置かれていました。梅小路公園の北東隅に位置する「大宮入口」を出て、この後京都駅ビルに向いました。この「大宮入口」と公園の南東隅に位置する「大宮南入口」は、南北の通りである「大宮通」に面しています。久しぶりに梅小路公園の梅を眺める機会となりました。ご覧いただきありがとうございます。補遺梅小路公園 :「京都市都市緑化協会」朱雀の庭 :「京都市都市緑化協会」京都鉄道博物館 ホームページ京都水族館 公式サイト京都市立開智幼稚園 :「京都市」 ⇒ 平成29(2017)年3月閉園 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.03.08
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=== 2023.2.21 === 8時半頃に撮った南の空です。庭の自動車の屋根には薄らと雪が残っていました。大きな雲が浮かんでいます。天気はよさそう。南西方向の空 西方向の空 一方、東方向の空には薄黒い雲が青空を見せながらも稜線の上を覆っています。 15時20分頃に東方向の空を眺めれば稜線が霞んで見えるほどに、グレーの雲が空一面を覆っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 空全域が曇り空に転換です。 南の空ところが、17時20分頃に、再び眺めると、一転青空に戻っています。 雲をクローズアップ!南西方向の空 西方向の空 東方向の空だけは、曇り空が続いていました。=== 2023.2.22 === 9時45分頃に撮った南の空です。全面が曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上から雲のグレーの色合いが上空方向に少しず濃いグラデーションになっています。同様の空模様が終日続きましたので、その後は時折空を眺めるだけにしました。=== 2023.2.23 ===この日は午前中、所用で外出。見上げた空は曇り空でした。 帰宅後、15時半頃に撮った南の空。曇り空が続いています。南西方向の空 西方向の空 部分的に少し青空が見えるくらいです。 東方向の空同じ曇り空でも、この時は雲の姿にバラエティが見られました。さて、雲がたりを続けます。手許に芳賀幸四郎著の一行物シリーズがもう一冊あります。『禅語の茶掛 続々 一行物』(1988年・8版、淡交社)です。こちらも確認すると「雲」を含む禅語が3つ収録されています。それをご紹介します。 雲表清露 雲表(うんぴょう)の清露(せいろ)禅語ではないそうですが、『諸橋大漢和辞典』には、この四字一句の出拠として、張衡の「西京賦」の章句を例示しているそうです。その章句例は省略します。「雲表」は雲の上、「清露」は清浄な玉のような露のこと。そこで、この四字一行の第一羲的な意味は「この世のものならぬ清浄な霊水」(p68)と解しています。「清浄な霊水を沸かした湯で点てた一碗の茶、と解してよいであろう」(p68)と記し、茶掛としては相応なものとして取り上げています。 四海浪平龍睡穏 四海 浪平らかにして龍の睡(ねむ)り穏やかに 九天雲靜鶴飛高 九天 雲静かにして鶴の飛ぶこと高し語句の意味は読み下しの文そのままでご理解いただけるでしょう。天下泰平・四海平穏を祝いあるいは願望するめでたい対句です。禅家でも天下泰平を祝禱(しゅくとう)する句としてよく使われるそうです。 朝看雲片々暮聴水潺々 朝(あした)には雲の片々(へんぺん)たるを看(み)、 暮(くれ)には水の潺々(せんせん)たるを聴く「朝には峰の上を流れる片々たる白雲を仰ぎ看、暮には庵前の谷川のせせらぎに耳を傾けて聴きほれる」(p220)という意味。「遠く世塵を避けて深山に庵居し、大自然を友とし、大自然とそのリズムを同じくして生きる一閑人の無為自然の生活の様子を詠じた句」(p220)と説明されています。さらに、この五言二句は、『寒山詩』に載る五言八句の偈頌を縮めて詠んだ句という説明もあります。 なお、この句が禅語として取り上げられるのは、「五欲六塵の渦まく世俗の真只中にあり、車馬往来の十字街路にあって、しかもこのような清浄無垢・悠々自適の心境に住するのでなければ、真の禅者、真のわび茶人とはいえない」(p221)からと言います。その境地をめざして己を錬磨することに意義があるということなのでしょう。一行物シリーズからの抽出は以上で一区切りです。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.2.24 === 南の空南西方向の空 9時半過ぎに撮った空模様。この日は朝から雨。小雨が降り続く一日だったと思います。窓際からこの2枚を撮るだけになりました。=== 2023.2.25 === 10時10分頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空青空が垣間見せながら、ちょっとダイナミックさを感じさせるグレーの雲が覆っています。 17時過ぎに眺めた東方向の空。塊状の白雲が漂う青空に一変していました。 南の空 姿の異なる雲の一部をクローズアップ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空やはり、曇り空から青空に変わる方が気分的には良いですね。つづく補遺張衡 (科学者) :ウィキペディア寒山詩 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 49/78コマの[262]が、上記した寒山詩の五言八句です。 「今日 巌前に坐す/ 坐 久しうして煙雲収まる/ 一道 清谿冷たく 千尋 碧嶂(へきしょう)の頭(いただき)/ 白雲 朝影靜かに 明月 夜光浮かぶ/ 身上 塵垢(じんく)無し/ 心中 那(な)んぞ更に憂えん」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.07
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=== 2023.2.17 === 9時45分頃に撮った南の空です。雲は遠くにあるのが見えるくらいでした。南西方向の空 西方向の空 ふわっとした小さな雲が浮かんでいます。 東方向の空は薄いベールがかかった感じの空です。 12時20分頃の東方向の空。同じ感じの空です。 南の空 少し雲が漂っています。雲の背後に太陽が。南西方向の空 西方向の空 こちらの方向にも雲が増えています。 頭上の空=== 2023.2.18 === 9時半頃に撮った南の空。グレーの雲が空を覆い、わずかに青空の箇所が見えます。南西方向の空 西方向の空 こちらは全面に曇り空です。 東方向の空 14時半頃に東方向の空を見ても、曇り空がそのまま続いています。一日曇りでした。 南の空南西方向の空 西方向の空 === 2023.2.19 === 10時45分頃に撮った南の空ですが、この日は朝から一日雨催いでした。南西方向の空 窓際から空模様を撮るだけにしました。さて、雲がたりを続けます。芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』(1988年・8版、淡交社)からその2です。 雲悠々水潺々 雲 悠々、水 潺々(せんせん)2月20日のブログ記事で、「雲は嶺頭に在って閑不徹 水は澗下に流れて太忙生」という対句をご紹介しました。「雲悠々水潺々」はこの対句を簡約したものと説明しています。「この句にはさらに、雲のように無心で無礙自在に、水のように無相で円満自由に生きたいという禅者の理想もまた託されている」(p161)と補足しています。 白雲断處家山妙 白雲断(た)つ処、家山(かさん)妙なり『人天眼目』などに載る句で、「家山」とは故郷のことだそうです。「高い山に登り白雲の絶え間から望見する故郷の景観というものは、なつかしく嬉しく何とも言葉にあらわせないほどすばらしいものだ」(p199)という意味です。禅者はこの一句にさらに深い意味を託すそうです。「白雲」は「心中にむらがり起こる煩悩妄想のこと」(p199)、「家山」とは「人間の本来安住すべき悟りの境致のこと」ととらえるとか。「煩悩妄想の断絶する処、そこに本然の自在・悟りの世界が開現する。しかもそれはまさに言語道断なもの、妙なるものである」という意味で捉え直すと言います。坐禅でその境致をめざすのです。また、それは、”『十牛図』でいえば第六の「帰牛帰家」と第七の「忘牛存人」の中間の境涯ということになるであろう。”と言い換えています。 山高豈礙白雲飛 山高くして豈(あ)に白雲の飛ぶを礙(さ)えんや『禅林句集』に載る「竹密不妨流水過 山高豈礙白雲飛」という七言対句の後句だそうです。この後句をもって対句全体を想起させていると言います。著者はこの対句の意味を、「竹の密生した薮がある。水はこの竹薮に妨げられて流れることができずにおるかと思うと、そうではない。竹は水の流れを少しも妨げることなく、水はおのずと低きについて流れている。いやたんにそればかりでなく、竹は水がある故にいよいよ翠く、水は竹あるが故にますます清く冷たい。山が天空高くそびえている。この高い山はさぞかし白雲の飛ぶのを邪魔しているかと思うと、これまたそうではない。白雲はいささかも山に礙えられることなく、悠々としかも自由に去来している。そして山は雲を帯びていよいよ美しさを増し、雲は山によるが故に一段と趣を豊かにしている」(p201-202)と説明しています。そして、この天地自然における円満な共存と大調和の実相が、大乗仏教の世界観(華厳の四法界)における究極の「事々無礙法界の相」をあらわしていると言います。現実の人間社会は必ずしもそうではない。だから本来の在るべき姿を目指す心に立ちかえりなさいと解されています。 流水寒山路深雲古寺鐘 流水寒山の路 深雲古寺の鐘南北朝時代から室町時代にかけて京の都では、禅僧の間で五山文学が栄えました。五山文学の双璧と評された内の一文学僧が夢窓疎石の弟子、絶海中津です。絶海は中国(明)に渡り8年間留まり、彼の地で数多くの優れた詩を作ったと言います。上掲句は「真寂竹庵和尚に呈す」と題する五言律詩中の二句とか。”この二句は、「渓の流れにそったさびしい山路を、時に潺々、時に淙々たる渓声を耳にしながら独りたどっていくと、雪深いかなたから遠くゴーンと古寺の鐘声が響いてくる」と、深山幽谷の幽寂な情景を詠じたもので、まさに『寒山詩』の詩境を簡潔に表現したものといってよい”(p246)と解説されています。禅者は、この二句が表す無限の静寂感・寂寥感の句境に、大寂禅定の境地と通じるものを感得して、この句を珍重してきたと言います。本書からの「雲」に関わる禅語の抽出は以上です。前書と本書からの抽出句を通覧すると、まず「雲」は自然の大調和を表象する一要素と見られています。雲の絶えざる動きと変化に「無執着」「無心、無礙自在」の境地が読み取られ、一方でその雲そのものが「妄想、煩悩」の存在に喩えられたりもしています。「雲」を介して和歌や禅語に対することで心象が広がり、一歩踏み入る感じがしています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.2.20 === 10時45分に撮った南の空です。午前中に少し小雨がパラつきました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 13時半頃の東方向の空。雨が降りそうな雰囲気があるものの曇り状態が続きます。 南の空南西方向の空 西方向の空 西方向の空の遠くには青空が見えていました。 16時半頃には、南の空はグレーの雲が去ってしまい、青空が戻っていました。良い感じの白雲が出ています。南西方向の空 西方向の空 西方向の遠くの空をクローズアップして部分撮りしてみました。 頭上の空 東方向の空稜線上に白雲が漂っています。東方向の空ではあまり見かけない雲の姿が見えました。空の変化が大きい一日でした。つづく補遺十牛図 禅のこみち :「寶樹山 萬福寺」十牛図 :ウィキペディア禅林句集 :「国文学研究資料館」 117コマ/全155コマ、右のページに七言対として載っています。絶海中津 :ウィキペディア絶海中津 :「コトバンク」流水寒山路 :「茶席の禅語」寒山詩 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.03.04
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今日(3/1)、三条大橋西詰の近くにある弥次さん喜多さんのブロンズ像を久しぶりに撮りました。 こちらは、2018年4月に撮った写真です。この時に、当時の三条大橋を細見という形でご紹介しました。2022年11月から、三条大橋の改修工事が始まったのは、三条へ出た時に知りました。その時点で詳しい新聞報道を読んでいずに改修工事の進捗を、三条大橋を渡る度に眺めてきました。まず南側の木製高欄がすべて撤去されて、新しい木製高欄に取り替えられるという工事が着々と進行していました。今日の午後、三条に出て見ると、 南側の欄干の取り替えがほぼ完了したようで、南側高欄の全容を眺めることができました。 こちらは2018年4月に撮った三条大橋、南側の木製高欄の景色です。新聞報道記事を改めて検索して知ったことは、今回の三条大橋の改修工事全ての費用は約4億円かかるとか。昭和49年(1974)に木製高欄が更新されましたので、半世紀ぶりの更新になるそうです。三条大橋は全長約74m、幅約16mです。(資料1) 今回の木製高欄の原木は、この写真に掲示されていますが、鞍馬山のヒノキだそうです。原木は寄付によるものと表記されています。 擬宝珠を一つ写真に撮りました。新聞報道によれば、木製欄干のデザインは前回(1947年)のままで、この擬宝珠も再利用されています。再利用されて良かったなと私は思います。慣れ親しんできた擬宝珠の風格・風趣を今まで通り感じられるのは何よりです。三条大橋は、室町時代に造営されたそうです。しかし、木製高欄に擬宝珠が設置された橋の姿になったのは、豊臣秀吉が天正18年(1590)に行った改修工事によるものと言います。(資料1,2)北側の木製欄干は現時点では、半世紀の風雪を経て老朽化している姿がそのままで見られます。しかし、この春から北側の木製欄干の取り替えを始める予定のようです。橋の大改修工事は令和6年春完成を目指しているとのことです。「歩道の舗装や車道との間を仕切る防護柵は和柄とし」(資料1)とのことです。この点は、今後の工事進展のウォッチングを楽しみにしたいと思っています。記録を兼ねた現況のご紹介です。参照資料1) 京都・三条大橋 半世紀ぶりの大改修 2022/11/15 :「産経新聞」2) 「三条大橋の補修・修景」について :「京都市情報館」補遺京都市 老朽化が進む三条大橋を改修へ デザイン案公表 2022/6/11 :「NHK」京都・三条大橋が老朽化でボロ橋に!欄干交換だけで3億円の巨額見積もり:「京都のお墨付き!」三条大橋 補修・修景プロジェクト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿
2023.03.01
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=== 2023.2.14 === 9時45分頃に撮った南の空です。小雨です。南西方向の空 窓際から撮るだけにしました。 南の空12時50分頃は曇空ですが雨は降っていません。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体を厚めのグレーな雲が覆っています。 17時15分頃に南の空を見ると、グレーな雲は消え、青空が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 クローズアップ! 東方向の空=== 2023.2.15 === 8時半少し前に撮った南の空です。庇や車のルーフに薄らと雪が見えました。この時間には雪は降ってはいませんが、空はどんよりと曇っていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空天気予報に反して東の雲には少し怪しそうな兆しも感じます。 13時20分頃に空を眺めると、東方向の稜線上には厚めの白雲が漂っていますが、その上空は青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気は晴れへと良い方向に向いていました。さて、雲がたりを続けます。芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』(1988年・8版、淡交社)に移ります。こちらにも「雲」を含む禅語がありますので、抽出してみます。 釣月耕雲 ちょうげつこううん / 月を釣り雲を耕す日本曹洞宗の宗祖永平道元が「山居」という頌を詠じているそうです。 西来祖道我東伝 西来の祖道 我れ東に伝う 釣月耕雲慕古風 月を釣り雲を耕して古風を慕う 世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛んで到らず 深山雪夜草庵中 深山雪夜 草庵の中この頌を踏まえて、著者は「高く世俗を超越し大自然を友として宇宙的次元において生きる」(p84)という意味に解してこそ、道元の真意にかなうと述べています。 行雲流水 こううんりゅうすい / 行く雲、流れる水禅者がこの語句をよく揮毫するのは「行雲流水」のように生きたいという願いを託してのことと言います。雲も水も留まること無く絶えず変化して移り行くように、”「一処不住」すなわち無執着で生きたいという願い”(p87)であり、”真のねらいは「何物にも執着しない、執着を離れる」というところにある”(p88)と説明されています。”禅宗の修行僧を「雲水」と呼ぶのは、一応は、彼らがもと行雲や流水のように一処に定住することなく、諸方を遍歴修行して歩いたことから出たものであるが、同時に「無執着であれ」と期待をこめてのことなのである。” (p88) と言います。著者はその続きに、一文を加えています。「しかし、近頃はそうした真の雲水にめぐり合うことは、きわめて稀になってしまった」と。(本書の初版は昭和49/1974年9月の出版。手許の本は1988年7月の8版です)一国語辞書では「行雲流水」について、「[空を行く雲と、川を流れる水の意]一つの事(既往)にこだわらず、一切を成行きに任せること」と説明しています。(新明解国語辞典第5版、三省堂) 松老雲閑 しょうろううんかん「竹筧(けん)二三升の流水、松窓七五片の閑雲」(p115)という無一物の処で無尽蔵の豊かさを味わい、「世俗の外に超然と閑居し、悠々自適している大禅者の境涯」(p115)を表した一句だと言います。 雲静日月正 雲静かにして日月正し『虚堂録』に、「雲静かにして日月正しく、雪晴れて天地春なり」という対句が載っていて、その前句だそうです。天地自然の動きがきわめて順調なことを意味しています。古代の中国や日本では、天変地異の発生は、政治の不正や為政者の不徳に対する天帝の警告と考えられていました。天地自然が順調であることは、天下泰平・万民和楽の世の証拠ということで、めでたい句として使われているそうです。 萬里無片雲 万里片雲無し字面の意味は、雲一つ無い日本晴れの青空を叙した句です。この句の禅的な解釈の一つとして、”ある辞書は「空界無一物の様子をいう。相対差別の相を滅した平等一如の境に喩う」と述べている。”と例示しています。その上で、「万里」は「万里の天」ともいい私たちの心のこと。「片雲」は、心中に湧き起こる雑念妄想のことと説明しています。坐禅修行の結果、ついには「心が澄みきり、心のすみずみまで正念正想で満たされるようになった状態」(p135)を喩えた一句と説明されています。ここで一区切りと致します。雲の変化に戻ります。=== 2023.2.16 === 9時45分頃に撮った南の空です。この日も朝は曇り空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空全体に曇り空。雲というより、少しもこもこした厚手のグレーの布が空を覆っている感じです。 16時半ずぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どんよりと曇った空模様が続く一日でした。つづく補遺道元 :ウィキペディア大本山永平寺 ホームページ 道元禅師 略歴永平寺 :ウィキペディア虚堂智愚 :「コトバンク」虚堂録 :「禅籍データベース」虚堂和尚語録 :「新日本古典籍データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.27
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=== 2023.2.10 === 雨です。窓際から10時頃に撮った南の空。南西方向の空 終日、小雨もよいでした。濡れたベランダには出ないで窓際から撮るだけに。=== 2023.2.11 === 9時過ぎに撮った南の空。昨日とは一転して青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の稜線上には、ひと連なりのグレーの雲がでんと漂っていいます。 11時半頃には、東方向の空はグレーから薄い横雲が稜線上に広がる青空に変化。 南の空南西方向の空 西方向の空 16時半過ぎに撮った南の空です。曇り空となりました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空さて、雲がたりを続けます。芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』(1991年・19版、淡交社)からの抽出その3です。 話盡山雲海月情 話し、尽くす。山雲(さんうん)・海月(かいげつ)の情これは『碧巌集』の第53則に対する頌として詠まれた偈の中の一句です。ネット検索で『碧巌録』解説サイトを見つけました。第53則についての詳細は補遺をご覧ください。第53則には、「江西の馬大師」と尊称された馬祖道一が、沙弥小僧の懐海を伴にして冬の日に外出した時、一群の鴨が空を飛び過ぎるのを見て、懐海に問いかけたときのエピソードが取り上げられています。いわゆる禅問答です。小僧懐海とは後の百丈懐海です。この第53則は「百丈野鴨子」と称されているようです。馬祖が弟子の懐海を悟らせてやろうと、「これでもか、これでもか」と徹底的になりふり構わず説く姿を詠んでいる句だと言います。著者は、この句の意を広く解釈すると、『徒然草』に記された次の一文と同主旨と説明されています。 同じ心ならん人と、しめやかに物語りして、をかしきこと、世のはかなき事も、 うらなく言いなぐさまんこそ、うれしかるべき。そして、それは、茶道の世界で知られる『南方録』が記す「主客直心の交り」にも通底すると説明されています。 渓山雖異雲月是同 渓山異なると雖(いえど)も雲月是(こ)れ同じこれは、『無門関』の第35則の公案について、無門慧開が頌じた、 雲月是同 雲月 是れ同じ 渓山各異 渓山 各異なる 萬福萬福 万福 万福 是一是二 是れ一か 是れ二かの起承の二句を一行物に作りかえたものと説明されています。つまり、現象面での相(すがた)と用(はたらき)は、渓・山・雲・月、さらには人も、それぞれ異なり区別/差別されるが、「一切衆生悉有仏性」という立場でみれば同じであると捉えています。差別/区別即平等、平等即差別/区別ということが具体的な真理だととらえるのです。ネット検索してみますと、この禅語についての解釈を幾つか併記してあるサイトに出会いました。補遺をご覧ください。 天上月明渓畔雲暗 天上月明らかに、渓畔雲暗し中国で発達した「易」の思想に言及して、「陰と陽とが相即相入し、明と暗とが表裏の関係で相伴っているのが、自然と人生との実相である」(p254)と説明されています。そして、”「天上の月」はその陽と明とを、「渓畔の雲」はその陰と暗とを意味し、この一句は前後相まって、自然と人生との陰陽相即・明暗双々・吉凶交叉の実相を、自然の景観に託して表現したものなのである”(p254)と言います。「雲」という一字を含む禅語で、本書にて取り上げられているのは以上です。本書には、雲に関わる禅語が11載っていることになります。雲の変化に戻ります。=== 2023.2.12 === 9時45分頃に撮った南の空です。ベールがかかったような青空です。 南西方向から西方向を眺めると空の青さがはっきりとしています。 頭上も青空 東方向の空はグレー一色の布のような空です。 11時半過ぎの東方向の空はグレーの色が薄れています。朝の南の空に近い色合いです。 南の空南西方向の空 西方向の空 17時頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空の色調の微妙な変化がおもしろい一日でした。=== 2023.2.13 === 9時頃に撮った南の空です。もの干し竿には雨が降った痕跡の水滴が列をなしていました。ベランダのサンダルも濡れています。窓際から撮るだけに・・・。南西方向の空 曇り空のままの一日。つづく補遺碧巌録: その3: 51~75則 「禅と悟り」 :その合理的アプローチ」無門関: その2: 25~37則 「禅と悟り」 :その合理的アプローチ」溪山雖異雲月是同 :「茶席の禅語選」無門慧開 無門関 :「松岡正剛の千夜千冊」南方録・南方宗啓 :「名文電子読本」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.24
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=== 2023.2.8 === 8時15分頃に撮った南の空です。雲と青空が層をなしています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空は雲が少なくなり、青空がきれい。 頭上の空 東方向の空はいつもの如く、相対的に雲が多いのですが、いつもの空より青空が見えます。 11時30分頃には、グレーの雲が南の空を覆い、小雨が降りました。南西方向の空 窓際から撮れるのはこの2方向です。 ところが、13時45分頃に南の空を眺めると、雨雲は過ぎ去り、白雲と青空が南の空に広がっていました。南西方向の空 西方向の空 ズームアップしてみました。 東の空で雲と青空がこれほどくっきりと層を見せるのは珍しいと思います。さて、雲がたりを続けます。芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』(1991年・19版、淡交社)からの抽出その2です。 白雲抱幽石 白雲幽石を抱く この句は「寒山拾得」で有名な寒山が作った詩篇を集めた『寒山詩』に載る有名な詩の一節として知られているそうです。その詩は、「重厳に我れ卜居す」という句から始まり、重畳たる岩山の中に居を定めた寒山がその情景を詠んだ詩です。鳥だけは通うが人跡を絶つような険しい山に住んで何年になるかわからない。「庭際何所有 白雲抱幽石」庭先に何があるか。そこには白雲が幽寂な石を抱いているだけである、と詠じます。 この詩は「虚名定無益」[虚名 定(かな)らず益無し]を結句とします。人は富貴栄誉を喜ぶが、その富と名声は空虚で無益なものなのですよ、と結びます。 禅者は、「世俗との交渉を断ち俗情を払拭して深山に幽居する隠者寒山の境涯」(p146)を愛し、「これに共鳴して、よくこの一句を揮毫するのである」(p146)と説明しています。 千利休が秀吉の命を受けて、大坂城の郭の一つに山里の茶室を作ったのも、「白雲抱幽石」という山居の趣きにあこがれたからだろうと、著者は語っています。 雲在嶺頭閑不徹 雲は嶺頭に在って閑不徹 水流澗下太忙生 水は澗下に流れて太忙生この対句は、南宋末の巨匠虚堂智愚(きどうちぐ)が、報恩寺から顕孝寺へ移るにあたり、報恩寺で最後に行った説法の終りの対句だそうです。虚堂は「法語(破れ虚堂)」の墨蹟で有名です。(資料1)「閑不徹」は、徹底して閑静なこと。「澗」は、たに。たにみず。たにがわ。「太忙生」は、甚だ忙しいの意。「白雲が嶺の頂きに悠々とかかって動かず閑静そのものであり、谷川の水は絶えず音をたてつつ流れ下り忙しげである」そこには、雲の静と水の動が対置されています。大自然の摂理が詠まれています。著者は、「人間の生き方もまた、この大自然の摂理のように静中動あり、忙中閑ありであるべきことを、言外ににおわせているのである」(p218)と説明を加えています。 雲在青天水在瓶 雲は青天に在り、水は瓶に在り中国・中唐時代に、禅僧薬山惟𠑊(やくさんいげん)の許に、朗州の刺史(知事)として赴任した儒者/文学者の李翺(りこう)が初めて訪れ問答した時に、薬山が李翺に吐いた句だそうです。 薬山のこの一句から、道の何たるやに気づいた李翺は偈を作り、薬山に呈して帰依したと言います。著者は、「諸法実相であり、人間としてはあたり前のことをあたり前にやる、それを措いて別に道なんというものは無い、ということである」(p221)と説明を加えます。この経緯を同様に解説した資料をネット検索でみつけました。参照資料2です。こちらには、明恵上人がやさしく言えば「あるべきように」という七文字だと断言されたことも説明されています。(資料2)この時の問答が、後世画題として取り上げられるようになったとか。東京国立博物館には、因陀羅筆「薬山・李翺問答図」の名品が秘蔵されているそうです。この辺りで一区切りにします。=== 2023.2.9 === 9時40分頃に撮った南の空です。青空が所々に見えますが、軽やかさが感じられる白雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空は、少し厚い感じの白雲が見えます。 頭上の空 東方向の空は、稜線上の雲とその上の雲は雰囲気が違います。また青空も見えます。 12時10分頃に、東方向の空を眺めると、午前中の雲は去り、青空を広く見せる形で白雲が浮かんでいます。 南の空南西方向の空 ズームアップしてみました。 西方向の空 17時20分頃には、南の空から雲が消え去りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空も同様です。おかげで一日、良い天気が続きました。勿論、午後の一時は外出タイムにしました。つづく 参照資料*芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』(1991年・19版、淡交社)1) 法語(破れ虚堂) :「e國寶」2) 禅語 月在青天水在瓶(槐安國語):「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式ネット」補遺虚堂智愚 :「コトバンク」李翺 :ウィキペディア薬山惟儼禅師の話 :「瑞雲院法話のページ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.20
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=== 2023.2.5 === 9時50分頃に撮った南の空です。活発な感じの雲が漂っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上も雲が青空を覗かせつつ一面に広がっています。 東方向の稜線の上空にはグレーの雲が広がっています。 13時半頃に東方向の空を眺めると、稜線には白い横雲がたなびき、その上空は青空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 広がった雲は去り、ぽっかりとした感じの雲が点在する青空に様変わりです。 西方向の空の雲をズームアップ! 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空17時30分頃に空を眺めると、どの方向にも雲が見られず、青空が褪色した感じの空模様でした。さて、雲がたりを続けます。和歌に詠みこまれた「雲」から、別の領域に目を転じたいと思います。既に少し触れていますが、禅宗では修行僧を雲水とも称します。「行雲流水」という語句に由来するそうです。ならば、「禅語」には「雲」を語っているものが結構あるのでは・・・・と思いました。京都国立博物館にはしばしば出かけます。展示の一環に、茶道具関連の展示があります。茶碗を筆頭に茶釜・棗・水指などと掛物が展示されています。掛物の墨蹟をよく見かけます。茶の湯の作法は知りませんが、博物館の展示を介して、茶道具の美に関心を持つようになりました。また、墨蹟を通じて「禅語」にも興味を抱くことになり、禅語解説書に導かれました。手許に幾冊か解説書を持っています。まずは、手許にある芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』(1991年・19版、淡交社)を参照して、「雲」を含む禅語を抽出してご紹介します。私にとっては、辞書代わりのこれら参照本を意識的読み機会となり、学習機会にもなり楽しみながら進めたいと思います。 無山不帯雲 山として雲を帯びざるはなし『禅林類聚』の巻三が出典で、「有水皆含月 無山不帯雲」の対句から採ったものとか。「水有り、皆月を含み」は、水の水面はどんな水面でも天上の月影を映じます。山も同様に、雲を帯びない山はないという意味です。この叙景の裏には、”「一切の人間は男女・老幼・貴賤・賢愚・ないしは国籍・人種の差別にかかわりなく、皆ことごとく本来円満平等に仏性をそなえている」という大乗仏教の根本の教理を”(p111-112)表現していると説明されています。 雲無心出岫 雲、無心にして岫(しゅう)を出づこれは陶淵明作『帰去来辞』という詩の中程に出てくる句で、そこから採られたと言います。 策(つえ)つきて老を扶(たす)け以て流憩(りゅうけい)し 時に首(こうべ)を矯(あ)げて游観(ゆうかん)す 雲無心にして岫を出で 鳥飛ぶに倦(う)んで還るを知る「岫」は、『角川新字源』を引くと、「①くきる。山のほらあな。②みね。山のいただき」と述べ、「岫雲」を「山のほらあなからわきでる雲」と説明しています。禅者がこの一句を揮毫するのは、わきでた無心の雲が無礙自在に千変万化し、いずれの方向にもはからいなく悠々と流れていく様に禅者の理想を託すからだそうです。著者は、「雲無心而出岫 水盈科而或流」(雲無心にして岫を出で、水科(あな)に盈(み)ちて或いは流る)という対句もあると言います。また、白隠禅師の『坐禅和讃』には、「無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 歌うも舞うも法(のり)の声」の一節を挙げています。この一節が無心の雲に通じるというなのことでしょう。 雲收洞中明 雲収(おさ)まって洞中明かなり「雲消えて山骨露(あらわ)れ 雲收まって洞中明かなり」という対句の下の句だそうでう。「雲出でて洞中明らかなり」と書いたものもあるそうです。「收」も「出」も同義で、厚く山を覆っていた雲が消え去ったことを意味しています。山骨は山の地肌、山の姿そのものを差します。自然の叙景の形で、宗教的心理・禅旨を表していると言います。「我見の氷雪が消えればそこに本具の仏性があらわれ、煩悩の雲霧が消散すれば本然の自性が輝きだし、心気明朗・天真爛漫になれるのだということを、比喩的に表現した」(p114)のがこの句だと説明されています。雲は煩悩の譬喩だということですね。=== 2023.2.6 === 9時半頃に撮った南の空です。雲がみられない青空でした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空だけは、薄いベールのようにもやがかかった感じの空です。 13時40分頃の東方向の空はグレー一色の状態です。ベールの厚みが増したかのよう・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 全面的に空が曇った状況に変化。この後もこんな空模様が続くことに・・・・。もう少し雲がたりを続けます。 白雲自去来 白雲自(おのずか)ら去来すこれも「青山元不動 白雲自去来」という五言対句の下の句だそうです。「白雲は自ら去来するも、青山はもと不動なり」と逆読みすれば意味を理解しやすいと述べています。ここでは、「青山」は真実の自己を、「白雲」は人生における外的条件(順境・逆境、損得など)の変化を表象していると捉えています。泰然自若、毅然かつ超然としていられる真実の自己を見つけ、生きるということを目指せという意味合いと受けとめました。勝海舟と西郷南州が江戸開場の和議を行いました。その地ならしを山岡鉄舟がしたと言います。その山岡鉄舟が富士山の絵に、次の賛を加えた掛軸があるそうです。 晴れてよし曇りてもよし富士の山 元のすがたは変わらざりけりこの賛は「青山元不動 白雲自去来」の真意と同じだと語り著者は取り上げています。 行到水窮處 行きては到る水の窮まる処 坐看雲起時 坐しては看(み)る雲の起こる時禅者は、中国・唐代の王維作「終南の別業」という五言律詩中のこの二句を愛誦すると言います。30を過ぎる頃から仏道にひかれて終南山のほとりに住んだ自然詩人王維がこの二句に託した境涯に合致点を見出す故だと著者は説いています。”禅家の理想とする境涯--大自然を友としてこれに同化し、「雲の如く無心、水に似て無相」と悠々自適する境涯、無作無心・安閑無事の境涯とよく合致しているからである”と。(p129)このあたりで、ひと区切りとします。=== 2023.2.7 ==== 10時頃に撮った南の空は、昨日の午後と比べて、空にグレーの雲がかかっているという感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上南西方向から西方向、頭上の空は、雲がかなり発生しているとはいえ、青空が見えます。 東の空はグレーの横雲が層をなして稜線の上空を覆っている状態です。 14時半頃の東方向の空は、横雲の感じはなくなり厚いグレーの布が広がる感じの状態に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 雨は降らなかったと思いますが、午後はこの状態が続きました。曇りの一日でした。つづく補遺芳賀 幸四郎 :「コトバンク」芳賀幸四郎 :ウィキペディア陶淵明の人生と代表作「帰去来辞」「桃花源記」を紹介! 人生と社会の本質を見つめ直した詩人 :「ハナシマ先生の教えて!漢文」山岡鉄太郎 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」「江戸無血開城」陰の主役・山岡鉄舟の抜てき人生 :「日経BizGate」「終南別業」 王維 :「漢文委員会」終南別業 (王維) :「NSC中国語教室」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.18
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=== 2023.2.2 === 9時40分頃に撮った南の空です。グレー一色のくもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空だけが、雲らしい姿でどんより曇っています。 12時10分頃の東方向の空。雲の厚みが増した感じです。 南の空明瞭な濃いグレーの雲の姿に変貌。太陽はグレーのベールのかなたに。南西方向の空 西方向の空 一日、曇り空でした。=== 2023.2.3 === 南の空9時50分頃に撮りました。この日も曇り空で始まりました。南西方向の空 西方向の空 南の空から西方向の空にかけては、厚いグレーの布が空を覆っている感じ・・・・ 東方向の空だけは、稜線の上にグレーの横雲が留まっている様子が見えます。 14時半頃に撮った東方向の空は、雲の姿が布を広げたように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 2日に続いて、曇天の一日となりました。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第十八で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び、歌意を解釈してみます。順次巻を進めます。 都より雲の八重立つおく山の横川の水はすみよかるらむ 天暦御歌 1716 ももしきのうちのみ常に恋しくて雲の八重立つ山はすみ憂し 如 覚 1717それぞれの歌意は比較的判りやすいのですが、詠まれた歌の位置づけがわかりづらいのでまず二首を併載します。前者の歌には、「少将高光、横川に上りて頭おろし侍りけるを聞かせ給ひ」という詞書が付いています。少将高光とは藤原高光で三十六歌仙の一人。「聞かす」は聞くの尊敬体でお聞きになる。聞いた人が「天暦」。天暦とは調べてみますと、村上天皇です。後者の歌には、「御返し」と詞書がついていますので、二人の間の歌のやりとりです。つまり、如覚は藤原高光の法名です。 (資料1,2)(都から離れ幾重にも雲が立ち上がる奥山の横川の里は水が澄み、住みやすいことでしょう)(宮中の事のみいつも思い出し恋しくて、幾重にも雲がたつ山は住みづらいと思っております) 天つ風ふけひの浦ににゐる鶴のなどか雲居にかへらざるべき 藤原清正 1721この歌も「殿上離れ侍りてよみ侍りける」という詞書を詠むことで、詠まれた歌に隠された作者の心情がわかります。宮中の殿上にのぼることを許されていた藤原清正が、宮中を離れ地下として紀伊守になっていたときに詠んだ歌のようです。「ふけひの浦」は、和泉国にあり紀伊にも近いと言います。「天つ風」は、空を吹く風。「ふけひ」の序だそうです。(風が吹いている吹飯の浦にいる鶴は、どうして大空に飛び立ち帰らないはずがあるだろうか。きっと空に戻っていくだろう)歌の背後には、清正が再び殿上人に戻れることがあるだろうという思いが潜んでいます。ある意味で都に戻れることを歌に託してアピールしているのかもしれません。 かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か忍ばむ 周防内侍 1744「れいならで、うづまさにこもりて侍りけるに、心ぼそくおぼえければ」という詞書が付いています。「れいならで」は、病気になっての意。「うづまさにこもりて」は、太秦の広隆寺にこもっていて。なので「かくしつつ」は、寺に来ていて病気になっていての意。「夕べの雲」は、夕べに荼毘(火葬)にされた煙の意。「あはれかけても」は、こころにかけて。(こんな病気になって、ひょっとして荼毘に付されて煙となってしまえば、だれか心にかけて私のことを思い出してくれるだろうか) 夕暮は雲のけしきを見るからにながめじと思ふ心こそつけ 和泉式部 1806「からに」は、・・・とすぐに。「こころづく」は、気がつく。(夕暮れになって、雲の様子を見ているとすぐに、悲しい気持ちになって、もう夕暮れに雲を眺めないようにしようと思う心が起こることに気づいた) われ頼む人いたづらになしはてばまた雲わけて昇るばかりぞ 1861巻第十九「神祇歌」の冒頭の第1852首から第1864首まで、誰の詠歌かは記されず、歌の後に説明文が付いています。第1861首には、「賀茂御歌となむ」と記されています。「われ頼む人」は、我(=神)に頼って祈願し信じている人。「いたずらになしはてば」は、むなしくそのままに願いを聞き届けてやらなければ。(我を頼り祈願して信じている人をむなしく願いを聞き届けずにおくなら、我はまた雲を分けて天に昇ってしまうだけになる。)そうなっては神としての意味が無い、つまりむなしいままにはさせないという神の意志を詠んでいるのでしょう。 ながめばや神路の山ニ雲消えてゆふべの空を出でむ月かげ 太上天皇 1875「ばや」は、できれば・・・したいなあ。「神路の山」は、伊勢国の歌枕で、伊勢神宮の内宮の南、五十鈴川流域の神苑の山のことだそうです。「月かげ」は、月の光。「太上天皇」は後鳥羽上皇のこと。(できればすっと眺めていたいものよ。神路山にかかる雲が消えて、清澄な夕空に出る月の光を)参照している一書は「寓意ある歌」と記し、他の一書は「皇威の衰えを歎かれた歌」と付記しています。 さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森 西行法師 187「伊勢の月読の社に参りて、月をみてよめる」という詞書が付いています。月読社は伊勢神宮の域外別宮で、現在の伊勢市中村町に所在します。(資料3)祭神は月読命。月の神様です。「さやかなり」は、視覚的にその姿がはっきりしている様子を表します。はっきりしている。明瞭だ。「鷲の高嶺」は、天竺(インド)にある霊鷲山です。西行法師は経典の知識から霊鷲山をイメージしているのでしょうね。(天竺にあるくっきりとした霊鷲山の天空に出た月が、その月の光をやわらげてさしている。この月読社のある森に)空間的なスケールの大きい歌です。この時点で、西行法師には、神仏習合の意識があったのでしょうか・・・・・。 むらさきの雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり 肥後 1930「五月ばかりに、雲林院の菩提講にまうでてよみ侍」という詞書が付いています。雲林院は京都の紫野にあるお寺です。現在は観音堂一宇を残すだけになっています。(資料4)「菩提講」は、菩提を求めるために法華経を講説する法会です。「むらさきの雲の林をみわたせば」には、紫野という地名、仏の来迎される時の紫雲が掛けられていて、雲の林は雲林院を意味しています。「法にあふちの花」には、仏法に逢うとあふち(=おうち=栴檀)の花を掛けています。初夏に紫の花を咲かせます。(紫野の雲林院を見渡すと、仏法に逢うという名のおうちの花がまるで紫雲を見るように咲いていているよ) 立ち入らで雲間に分けし月影は待たぬけしきや空に見えけむ 西行法師 1977西行法師のこの歌には「返し」と詞書が付いています。一つ前の歌に対する返歌です。その歌には長い詞書が付いています。詞書と歌をご紹介することで歌の意味がわかりやすくなることと思います。 西行法師をよび侍りけるに、まかるべきよしは申しながらまうでこで、 月のあかかりけるに、かどのまえをとほるとききてつかはしける 西へ行くしるべと思ふ月影の空だのめこそかひなかりけれ 待賢門院堀河 1976堀河の局が、西行に家まで来て欲しいと依頼したとき、西行は行きますと言いながら約束をすっぽかしたのです。その後に、西行が門前を通り過ぎたということを聞いて、歌をことづけて贈ったのです。(西方浄土へ行く私の案内者となる月の光である貴方が、空のように頼りにならないのは、頼みがいがありませんわ。門前を通りながら立ち寄っていただけないとは。)それに対して西行が返歌をしたわけです。(あなたの家に射し入ることなく、雲間を分け入るように移った月は、月の光が射すのを待っている様子が見えないと空からわかったからからでしょう。)待っていてくれそうでもなかったから、立ち寄らなかったという返答をしています。今回も調べ読みをしていて、一首を見過ごしていることに気づきました。ここで、最後に1首を追補いたします。 雲晴れてむなしき空に澄みながらうき世の中をめぐる月かげ 寂然法師 1953この歌は、寂然法師の第1052首に「人々にすすめて法文百首詠みはべりけるに、・・・・」という詞書の箇所に主旨が記されている目的に関係する歌です。上掲の第1953首は、詞書として、「菩薩清涼月 游於畢竟喰空」という詞書が付いています。これは華厳経に出てくる経文の一節だそうです。「菩薩は清涼の月 畢竟空に游ぶ」この一節の文意を和歌で詠んだというわけです。(菩薩は雲が晴れた虚空にあって澄んだ光を放ち、この憂き世の中を巡る月の光のようなものだ) 巻第十八「雑歌下」から第二十「釋教歌」までの抽出歌から10首を取り上げ、見過ごしていた1首を追補しました。結局、間違って抽出していた歌を除去し、一方で追補した歌がありましたので、140首が「雲」「くも」を詠み込んだ歌の合計数になるようです。これで『新古今和歌集』を一旦終えたいと思います。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.2.4 === 10時半頃の南の空です。雲がみえない青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空はもやがかかっている感じです。雲らしきものは見えません。 13時50分頃に撮った東方向の空。雲の姿が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空午後は南の空から西方向の空には青空が広がりました。 東方向の空しかし、17時ごろには、再び雲が活発な動きを見せるように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の変化が大きい一日でした。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫1) 村上天皇 :ウィキペディア2) 藤原高光 :ウィキペディア3) 月読宮皇大神宮(内宮)別宮 :「神宮」4) 雲林院 :「京都観光Navi」補遺霊鷲山 :ウィキペディア月の神でありツキを呼び込む神 :「Discover Japan」楝の花(おうちのはな、あふちのはな) 仲夏 :「きご歳時記」センダン/せんだん/栴檀 :「庭木図鑑 植木ペディア」藤原清正 :ウィキペディア藤原清正 :「コトバンク」周防内侍 :ウィキペディア肥後(1) :「コトバンク」待賢門院堀河 :ウィキペディア待賢門院堀河 :「和歌のあじわい」寂然 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.14
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=== 2023.1.30 === 10時10分頃に撮った南の空です。朝から晴。ちょっと違った雲の姿が見られました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空も最近ではあまり見ない雲の姿です。 東方向の空13時半頃には、空模様が一転していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 17時20分頃の南の空。夕陽に映えた雲を眺めることができました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空に漂う雲も夕陽に映えていました。=== 2023.1.31 === 8時20分頃に撮った南の空。この日も少し雲がかかる程度の快晴でスタート。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は雲が発達しています。 10時過ぎの東方向の空。グレーの雲が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 空全体が雲ってきていました。 14時頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空この頃には再び青空が見えるように変化していました。雲の動きがめざましい。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第十六で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び順次始めます。 紫の雲にもあらで春がすみたなびく山のかひはなにぞも 円融院御歌 1447「かひ」は、峽のことで、山と山の間の意。「ぞも」は終助詞「ぞ」+終助詞「も」からなり、詠嘆を込めて疑問の気持ちを強調する意を表すそうです。・・・・であるのかな。これで歌意は大凡わかります。(紫の雲がたなびくのではなく、春霞が山峡にたなびいているだけで、何ほどのこと<甲斐>があろうか)だけど、なぜこんな歌を詠んだのか。この歌だけを読んでもその真意はわかりづらい。この歌には、「御返し」という詞書が付いています。そして、直前の第1446首に対する返歌であることがわかります。第1446首には、まず長い詞書が付いていています。 東三条院女御におはしけるとき、円融院つねにわたり給ひけるをきき侍りて、 ゆげひの命婦のもとにつかはしける 春霞たなびきわたる折にこそかかる山辺はかひもありけれ 東三条入道前摂政太政大臣東三条院入道摂政太政大臣とは藤原兼家のことで、東三条院女御は兼家の第二女詮子のことです。詮子は円融天皇の女御で一条天皇の母となります。しかし、后の座は関白藤原頼忠の女遵子に奪われました。しかし、一条天皇が即位した後、寛和2年(986年)7月5日に皇太后に冊立されました。なお、円融天皇は991年に薨去。(資料1,2)兼家の歌は、(春霞が一面にたなびく時こそ、このような山辺でのわびしい生活にも甲斐があるものです)という意味合いです。円融天皇が自分の娘が女御として入内していて、天皇が常にお通いになることに、女御の父としてうれしく生き甲斐があるという心を詠んだのでしょう。その返歌というわけです。円融天皇と藤原兼家との人間関係がこの返歌から読み取れそうです。 さもあらばあれ暮れ行く春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はば 大納言経信 1462「さもあらばあれ」は、どうなろうともかまわない。どうとでもなれ。「雲の上」は、宮中、禁中の意。「し」は、副助詞で、とり立てて、強調する。意味を強める。(春が暮れて行くならどうなっても構わない。宮中に、散る事を知らないこの美しい造花が咲いているならば) 袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ 中 務 1495この歌には、「后の宮より、内に扇奉りけるに」という詞書が付いています。「后の宮」は中宮藤原安子、「内」は村上天皇をさすそうです。中務が中宮安子の立場で詠んだ歌と言います。「袖のうら」は、袖の浦が出羽の枕詞ですが所在地不詳。「袖」に「裏」が掛けられています。「雲のうえ」は宮中・禁中が掛けられています。「なむ」は希望の終助詞。(袖の浦の波を吹き返す秋風により、雲の上の空まですずしくなってほしい。袖の裏を吹き返す扇の風で、宮中まですずしくなってほしい) 忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月のこころありせば 皇大后宮大夫俊成 1507「忘れじよ」とは、自分は忘れないよ。「じ」は助動詞。打ち消しの意志を主観的に表現する場合に用いる語。・・・ナイツモリダ。「よ」は、終助詞。告げ知らせる意。・・・・(ダ)ヨ。「とだに」は、とだけでも。「だに」は終助詞。「まし」は、助動詞。希望・願望を表す。(今夜のことを自分は忘れないよ。あなたも忘れるなとだけでも言っておきたい。宮中から見る空に照る月にもし心があるならば) いかにして袖に光のやどるらむ雲居の月はへだてこし身を 皇大后宮大夫俊成 1508「雲居の月」は、宮中を照らす月の意。そこに天皇の恩寵の隠喩を表す。「へだてこし」は、「へだつ」(遠ざける。うとんじる)と「こす」(行く)。作者俊成が暫く地下にあったときの歌であると伝えられているそうです。(どのようにしてこの袖に宮中に照る月の光が宿るだろうか。この身は今遠ざけられているのに) 雲をのみつらきものとて明かす夜の月や梢にをちかたの山 右大将忠経 1546「つらき」は、たえがたい。苦痛だ。 「をちかた」は、彼方・遠方と記す。遠くの方、向こうの方。(月を隠す雲だけをたえがたい思いで夜を明かすと、遠方の山の木々の梢に月が沈もうとしている) 雲かかる遠山畑の秋さればおもひやるだに悲しきものを 西行法師 1560「秋されば」は、秋になればの意。(雲がかかる遠くの山畑のあたりは、秋になるとどれほどわびしいだろうか。遙か遠くに眺めて思うだけでも悲しくなるのに)巻第十六を調べ読みしていて、第1545首を見過ごしていたことに気づきました。ここで補足しておきたいと思います。 天の戸をおしあけがたの雲間より神代の月のかげぞ残れる 摂政太政大臣 1545この歌には「春日社歌合に、暁月のこころを」という詞書が付いています。この歌合は元久元年(1204)11月10日に行われたそうです。『新古今和歌集』に採録されている第1260首の「天の戸をおしあけがたの月見れば憂き人しもぞ恋しかりける」(よみ人知らず)を本歌とするそうです。摂政太政大臣とは藤原良経のこと。古事記の天岩戸説話が背景にある歌です。説話の中の天児屋根命は春日大社の祭神です。(天の岩戸を押し開けた時のように、明け方に雲間に神々しい月の光が残って見える)巻十六「雑歌上」と巻十七「雑歌中」の抽出歌から、私にとりわかりづらい語彙を含む歌や作歌の背景を知ると理解しやすくなる歌などを7首取り上げてみました。それと、見過ごした歌1首の追補です。雲の変化に戻ります。自然は「行雲流水」「時々刻々」です。暦は2月に入ります。=== 2023.2.1 === 9時50分頃に撮った南の空です。2月初日は曇空でのスタート。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 12時頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 終日くもりでとどまりそうでしたので、午後は久しぶりに三条に出かけました。それで、この日の以降の記録撮りはなし。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫1) 藤原詮子 :ウィキペディア2) 円融天皇と藤原詮子 渡部裕明 :「産経新聞」補遺円融天皇 :「ジャパンナレッジ」円融天皇 :ウィキペディア中務 :ウィキペディア藤原俊成 :ウィキペディア藤原忠経 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.11
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=== 2023.1.26 === 8時10分頃に撮った南の空です。快晴でした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線の上に雲がたなびいていますが、いつもより明るさを感じました。この日はなぜか、その後の撮影記録なし。何をしていたのだろう・・・・。=== 2023.1.27 === 10時半頃に撮った南の空南西方向の空 この日は一転して、朝のくもりから雨に。部屋の窓辺から撮れる方向だけでやめました。===2023.1.28 === 8時半頃に撮った南の空。天気は回復し、白雲が漂っています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空グレーの雲が稜線に懸かっています。上空に青空が見えますが。 10時10分頃に撮った東方向の空。雲の姿がかなり変化。 南の空グレーの雲が空を占めるように変化していました。南西方向の空 遠方には青空が見えます。 西方向の空 こちらの方向も同様です。我が家近辺のエリアにグレーの雲が広がっていたということでしょう。午後は写真を撮りませんでした。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第十三で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び順次始めます。 有明はおもひ出あれや横雲のただよはれつるしののめの空 西行法師 1193「有明」は、まだ月が空に残っているいるうちに夜が明けること。その頃の夜明け。「や」は、詠嘆の終助詞。「ただよはれつる」のれは自発の助動詞。つるは完了の助動詞。この歌は巻第十三「恋歌三」に載っています。表の意味は横雲が漂っているということですが、起き出て別れるのがためらわれた、気がすすまなかったという意を込めているそうです。「しののめの空」は夜明けの空。(月がまだ残る夜明けにはいろんな思い出があるよ。横雲が漂っているように、夜明けの空の別れに気が進まなかったことが) 玉ぼこの道は遙かにあらねどもうたて雲居にまどふころかな 朱雀院御歌 1248「女御のしもに侍りけるにつかはしける」という詞書が付いています。「しもに侍りける」は、局に下がっていたという意。「玉ぼこの」は、道にかかる枕詞。実質的な意味はない。「うたて」は、ますますはなはだしく。格別に。「雲居」には宮中の意が含ませてあります。(あなたと私の間の道のりは遙かにはなれているわけではないのに、ますます空に迷うかのように、宮中で遠くはなれ迷っている心地がするよ) 思ひやる心は空にあるものをなどか雲居にあひ見ざるらむ 女御煕子女王 1249「御返し」の詞書が付いています。第1248首とは『朱雀院御集』に贈答歌として載る歌dそうです。「思ひやる」は思いをはせる。「などか」は、ドウシテ・・・カ。疑問の意。(お上を恋しく思い上の空になっておりますのに、どうして空で、宮中でお逢いできないのでしょうか) いわざりき今来むまでの空の雲月日へだててもの思へとは 摂政太政大臣 1293「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出づるかな」(古今・691・素性法師)を本歌とするそうです。また、この歌は、男の違約を恨む女の心という立場で詠んだ歌と解されているようです。(あの人は言わなかった。すぐまた来ようとは言ったけれど、空の雲が月や日を隔てるように、長い月日を隔てるほど物思いせよとは) 思ひ出でよ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲のあとの山風 家隆朝臣 1294「思ひ出でよ」は、思いだしてくれ。「かねごと」は、約束したことば。「末(すゑ)」は、結果。あげく。(思い出してください。誰が約束したことの結果なのかを。昨日かかっていた雲を吹き払った山風のように・・・・。:あなたの約束は昨日吹き払われた雲のようにはかないものでしたね)雲の変化に戻ります。=== 2023.1.29 === 9時10分頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空にも雲らしきものはみえません。 11時過ぎの東方向の空。青空がすっきりし、大きな横雲が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 15時に撮った南の空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲の変化は激しい。新古今の和歌を続けます。巻第十五「恋歌五」からです。 雲のゐる遠山鳥のよそにてもありとし聞けば侘びつつぞぬる よみ人しらず 1370「雲のゐる遠山鳥の」は「よそにても」の序。「雲のゐる」は、雲がかかる。山鳥は夜雌雄別れて寝ると言われるとか。新古今は第1371首に「晝(ひる)は来て夜はわかるる山鳥のかげ見るときぞ音は泣かれける」を採録しています。「ぬる」は、寝る。(雲がかかっている遠山にいる山鳥のように、あの人とは遠く離れているけれど、無事であると知って、侘しく思いながらもひとり寝するわ) 思ひやる心も空にしら雲の出で立つかたを知らせやはせぬ 兵部卿致平親王 1413この歌には「女のほかへまかるをききて」という詞書が付いています。「思ひやる心も空にしら雲の」は「いで立つ」の序。「しら雲」には「知らぬ」の意がかけられています。「やは」は、反語を表す係助詞。(私があなたのことを遙かに思っていることも知らないで、遠くへ行くというその行く先をどうして私に知らせてくれないのか) 初雁のはつかに聞きしことづても雲路に絶えてわぶる頃かな 西宮前左大臣 1417「初雁の」は「はつかに」の枕詞。「はつかに」は、ほんのわずかだ。かろうじて。「わぶる」は、わびしく思う。雲路は雁の縁語。(わずかにあった言伝も、とぎれてしまって、この頃私はわびしく思っているよ)読み直していて、抽出した歌の第1295首と第1351首の間に、次の歌を見落としていたことに気づきました。補足します。 さてもなほ問はれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峯に見ゆらむ 藤原家隆朝臣 1316この歌には「和歌所の歌合に、深山恋という事を」という詞書がついていて、題詠です。「さても」は、それでもやはり。「問はれぬ」は、訪ねて来てくれない。「ゆふは山」は、所在不明の歌枕だそうです。「秋」に「飽き」、「ゆふは」に「夕」が重ねられ、「山」は己(女)の隠喩だとされます。(あの人はそれでもやはりまだ訪ねて来てくれない。秋の夕にあの峰にかかる雲の動きで風が峰に吹き通っているのがみえるだろうに・・・・)巻第十三「恋歌三」から巻第十五「恋歌五」までの抽出歌から9首とりあげました。ふたたび、雲の変化に戻りましょう。 東方向の空16時45分頃に撮ってみました。 南の空 ズームアップ!南西方向の空 西方向の空 29(日)は終日、良いお天気でした。午後は雲の写真を撮ってから散歩に出かけ、帰宅後にこの日最後の雲の変化の写真を撮ることになりました。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺朱雀天皇 :ウィキペディア煕子女王 :「コトバンク」致平親王 :ウィキペディア摂政太政大臣 ⇒ 藤原良経 :「コトバンク」藤原家隆 (従二位) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.07
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=== 2023.1.22 === 10時過ぎに撮った南の空。快晴です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空には横雲がたなびいています。 13時過ぎには、南の空にはグレーの雲が満ちています。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけては、雲の姿が南の空とは少し異なります。 一方、ベランダで頭上の空を撮るとこんな状況です。 東方向の空は、グレーで塗り潰したような感じに。 14時45分頃に、東方向の空を撮ると、稜線上の白雲と青空に変化しています。 南の空 ズームアップ!南西方向の空 西方向の空 さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第十一で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び順次始めます。 よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲 よみ人知らず 990「よそにのみ」の「のみ」は副助詞ですが、ここでは意味を強める語と理解します。「やみなむ」は、終わるだろうか。その語句の前の「や」は疑問を表す間投助詞。この歌は巻十一「恋歌一」の冒頭に載る歌です。「葛城や高間の山の」は、葛城連山の中にある高間山。(あの人をよそながら見るだけで終わるのだろうか。葛城連山の高間山の峰にかかる白雲のように、私の手のとどかない人として) わがおもひ空の煙となりぬれば雲居ながらもなほ尋ねてむ 忠義公 1007「雲居」は、ここでは宮中、禁中のこと。雲居は空・煙との縁語。「ながらも」は、・・・デハアルガ。(私の恋の思いは燃え上がり、空の煙の如くになっていますので、宮中であってもやはりお尋ねしますよ) しるしなき煙を雲にまがへつつ世を経て富士の山と燃えなむ 貫之 1008「しるしなき煙」は、はっきりとしない恋の思いを燃やした煙。「まがへつつ」は、区別がつかなくなって。「世を経て」は、いつまでも。「富士の山と燃えなむ」は、富士山の如くに思いの火を燃やしていよう。この歌で、当時の富士山が活火山だったことがうかがえます。調べてみますと、「平安時代に当たる9世紀~11世紀は、有史以来、富士山の活動が最も激しかった時代である」(資料1)とのことです。(はっきりとしない恋の炎を燃やした煙を雲の如くにまぎらせて、いつまでも富士の山のように思いの火を燃やしていよう) 白雲のみねしもなど通ふらむ同じみかさの山のふもとを 藤原義孝 1011この歌には、次の詞書が付いています。 ふみつかわしける女に、同じつかさのかみなる人かよふと聞きて、つかはしける藤原義孝が恋文を贈る女の許に、同じ役所の長がかよっているという噂を聞いて女にこの歌を送ったというのです。ここで長とは左近衛大将をさします。歌の表層は白雲と峰、三笠山の麓を詠んでいますが、そこには暗喩があります。白雲=女、峰=左近衛大将、麓=近衛府の下官である義孝本人。三笠山=近衛府の大将中将少将。「しも」は副助詞で、強めを現す語。よりによって。正に。「など」は、原因を問うのに用いる語。どうして。なぜ。(白雲はよりによってなぜ三笠山の峰に通うのだろうか。山には麓があるのに。あなたは、よりによってなぜ近衛府の大将に思いを寄せるのですか。私が近衛府の下官であるのに) 下もえに思ひ消えなむけぶりだにあとなき雲のはてぞ悲しき 皇大后宮大夫女 1081「した(下)」は、心の中。心中。「したもえに」は、心の中だけで思い焦がれての意。「思ひ消えなん」は、自分は思い焦がれて死んでしまうだろう。「煙だに」は、火葬にした煙さえも。(心の中だけで思い焦がれて、私は焦がれ死んでしまうでしょう。死後火葬にされた煙さえも雲に紛れてしまう我が身のはてを思うと悲しい)雲の変化に戻ります。=== 2023.1.23 === 9時半頃に撮った南の空。この日は雨が降りました。また、今までに無い寒波が近づいてきているという予報が出始めていたと記憶します。南西方向の空 14時半頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空=== 2023.1.24 === 8時15分頃に撮った南の空。寒波の接近の影響でしょう。グレーの雲が厚そうです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 南東方向の空には、雲のベールの背後に太陽が見えました。 こういう太陽の姿を撮るのは、雲の姿を撮り始めて初めてだと思います。 12時45分過ぎに撮った南の空。南西方向の空 この日の夜には大寒波が日本を覆うという予報だったと思います。和歌の歌意の続きに戻ります。 消えねただしのぶの山の峰の雲かかる心のあともなきまで 藤原雅経 1094この歌には、「和歌所歌合に、忍恋の心を」という詞書が付いています。題詠です。建仁2年2月10日の影供歌合だそうです。「消えねただ」は、「ただ消えね」の倒置。すっかり消えてしまえ。「しのぶの山の」は、信夫山を詠む背後に忍ぶ恋の心が掛けられています。「しのぶの山の峰の雲」は、四句「かかる心の」の序。調べてみますと、「信夫山」は福島県北東部にある羽山・羽黒山・熊野山の三山(信夫三山)の総称だそうです。(資料2,3)(すっかり消えてしまえ。信夫山の峰にかかる雲よ。かかっていたあとも残らないまでに。私の忍ぶ恋の苦しさもまた、すっかり消えて、あとかたもなくなるまでに) ながめわびそれとはなしにものぞ思ふ雲のはたての夕暮の空 左衛門督通光 1106「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」(古今・484・読み人しらず)が本歌だそうです。「わぶる」は、わびしく思う。「はたて」は、はて。限り。(じっと眺めていると侘しく、何ということなしに物思いにふけるなぁ。雲のはての夕暮れの空を) たのめてもはるけかるべきかへる山いくへの雲の下に待つらむ 賀茂重政 1130「遠き境を待つ恋といへるこころを」という詞書が付いています。「たのむ」は、信頼する。「ても」は、接続助詞。あることを仮定し、またその仮定が無意味であることを表す。「かへる山」は、越前国の歌枕で、現在の福井県南越前町だとか。(約束を信頼しても、遙かに遠いこの帰山からいつ帰れるやら。幾重の雲の隔たる地にていつまで待つことになるのだろうか) 逢ふことのむなしき空の浮雲は身を知る雨のたよりなりけり 惟明親王 1134「数々に思ひ思はずとひがたみ身を知る雨は降りぞまされる」(古今・705・在原業平朝臣)が本歌だとか。「むなしき空」は、「逢ふことのむなしき」と「むなしき空(虚空)」が掛けられています。「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし」(古今・488・読人しらず)があります。「浮雲」の裏には「憂き」の心情が重ねてあるかも。「身を知る雨」は、身の程を知り落ちる我が涙を空・雲の縁語「雨」で暗喩しています。「たより」は、関係のあるもの、縁、ゆかりの意。(恋しい人に逢うことができない私には、虚空に浮かぶ浮雲は、我が身の程を知り落とす涙の雨とゆかりがあるのだろうな) わが恋は逢ふをかぎりのたのみだに行方も知らぬ空の浮雲 右衛門督通具 1135「我恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ」(古今・611・大河内躬恒)を本歌とするそうです。「かぎり」は、最終。「だに」は、係助詞。(意志を表す文に用いて)大きな望みをすて、最も小さな望みでがまんする意を表す。セメテ・・・ナリトモ。と解しました。(私の恋は、あの人にひとめでも逢えさえすればというものなのだけれど、それさえ、どこに行くのかもわからない浮雲のようにはかないものだなあ)始めてみると、なにがしかひっかかる語彙を含む歌が多いので、巻第十一と巻第十二から抽出した歌をすべて取り上げました。(なお、抽出歌第1022首に文字誤読があり、削除しています。)次回は巻第十三から続けていきたいと思います。さて、雲の変化の続きです。=== 2023.1.25 ===朝、起床すると、ベランダの欄の上には10cm位の雪が積もっていたでしょうか。この朝の雪の状態は、既に拙ブログに一部書き込みました。 12時頃に撮った南の空です。青空が戻ってきていました。南西方向の空 西方向の空 2階の大屋根の南側先端に積もる雪を少し入れて撮ってみました。 東方向の空 16時頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 雲は刻々と変化し続けます。類型化した雲の空は見られても、同一の雲の姿の空は見られません。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫1)【国土を脅かす地震と噴火】9 平安時代の富士山① 有史以来最も活発な時期/伊藤 和明 :「労働新聞社」2) 信夫山 :「福島の山々」3) 信夫山 :「福島市観光ノート」補遺信夫山 :ウィキペディア信夫山が熱い! NHK「にっぽん百低山」で紹介されたコースを歩こう:「福島市観光ノート」陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに :「小倉山荘」忠義公 ⇒ 藤原兼通 :ウィキペディア藤原義孝 :ウィキペディア藤原雅経 ⇒ 飛鳥井雅経 :ウィキペディア左衛門督通光 ⇒ 久我通光 :ウィキペディア皇太后宮大夫女 ⇒ 藤原俊成女 :ウィキペディア惟明親王 :ウィキペディア右衛門督通具 ⇒ 堀川通具 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.04
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=== 2023.1.20 === 10時半頃に取った南の空です。この時は雲が見えませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空にも雲はありませんが、薄いベールがかかった感じです。南~西の方向のようにスッキリとはしていません。 13時45分頃の東方向の空。少しグレーがかった雲が出ています。 南の空南西方向の空 西方向の空 ベランダから頭上の空の雲を撮ってみました。今後は時折撮ってみようと思っています。 南の空17時頃にも撮ってみました。青空の中にどの方向にも雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 夕陽が雲に映えていました。雲を撮り始めてから初めてかも・・・。 東方向の空東の空の方が雲の広がりが大きい感じでした。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第七で抽出した歌から始めます。巻第七は1首だけでした。読めば歌意が通じますので、巻第八に移ります。改めて巻第八「哀傷歌」を読み直していて、見過ごした歌に気づきました。1/15に掲載列挙した歌の第720首と第836首との間になります。ここで補足させていただきます。 亡き人のかたみの雲やしぐるらむゆふべの雨にいろは見えねど 太上天皇 803 『源氏物語』の「夕顔」に詠まれている歌「見しひとの煙を雲とながむれば夕の空もむつまじきかな」を本歌とするそうです。「見し人」は古語辞典に「以前に知り合っていた人」と説明されています。「かたみの雲」は、火葬にした煙の形見の雲の意。歌の抽出で用いた岩波本では「しぐるらむ」と表記されていますが、他の参照本では「しをるらむ」と表記されています。いずれにしても、雨を降らすのであろうかの意。この歌には「雨中無常という事を」という詞書がついています。和歌所当座歌合での題だそうです。(亡き人の荼毘の煙の形見の雲が雨を降らすのだろうか。夕方降る雨に形見の雲から降ったかどうかはっきりとは判らないけれど) あはれ君いかなる野辺の煙にてむなしき空の雲となりけむ 辨乳母 821詞書に「後朱雀院うせ給ひて、源三位がもとにつかはしける」とあります。「あはれ君」は後朱雀院をさします。源三位は後朱雀院の乳母。歌意はそのままで理解できます。「雲」は荼毘の煙を連想させ、あるいは煙が雲になったと見立てているのでしょうか。この2首が抜けていました。 尋ね来ていかにあはれとながむらむ跡なき山の峯のしら雲 寂蓮法師 836やっと第836首です。この歌、詞書がなければ「尋ね来て」は寂蓮法師と思ってしまいます。詞書は長い。 前参議教長、高野にこもりゐて侍りけるが、やまひかぎりに侍りぬと聞きて、 賴輔卿まかりけるほどに、身まかりぬと聞きてつかはしける藤原忠教の子の教長が出家して高野山に籠もっていたのですが重病に陥ったのです。それを聞いて、教長の弟の頼輔が高野山に出向きます。しかし教長は亡くなります。その訃報を聞いた寂蓮法師が藤原賴輔に対し歌を人にことづけて送ったという状況です。高野山に尋ね来て、つまり高野山に行き山にいるのは藤原賴輔です。(高野山まで尋ねて行かれて、どれほど悲しい思いで眺められたことでしょう。兄君のもはやおられぬ高野の峰にかかる白雲を) 北へ行く雁の翅にことづてよ雲のうはがきかき絶えずして 紫 式部 859この歌にも詞書があります。「浅からず契りける人の、行き別れ侍りけるに」と。「浅からず契りける人」とは、紫式部が深く姉妹の契りを結んだ人をさし、彼女は西海の地に下っていくのです。その人に、要望という形で離別の歌を贈ったのです。巻第九「離別歌」に採録されている歌。別れて行く人からみれば、父に同行し越前国に向かう紫式部は北に住まうことなります。「かりの翅にことづてよ」は、蘇武が雁の翅につけて文を送った故事を踏まえているそうです。「雲のうはがき」は雁のたより。手紙。雁が雲の中を押し分けるように飛ぶことに掛けているとか。上書きと上掻き。「かきたえずして」は絶えず手紙を書いてという意。(北国に渡って行く雁の翅にあなたの文を託してください。絶えず手紙を書いて雁のたよりとして送ってほしい) これやさは雲のはたてに織ると聞くたつこと知らぬ天の羽衣 寂昭法師 864『伊勢物語』に詠まれた「これやこの天の羽衣うべしこそ君がみけしと奉りけれ」を本歌とするとか。「これやさは」は、この衣がそれではの意。「雲のはたての」は、雲のはての、天人の機で。「たつこと知らぬ」は、裁つ必要がない、天衣無縫の天人の羽衣。作者の名を寂照法師と記す本もあります。(この衣がそうなのか。雲のはての天人の機で織ると聞く、あの裁ち縫う必要が無いという天の羽衣なのですね) 思ひ出でばおなじ空とは月を見よほどは雲居に廻りあふまで 後三条院御歌 877『拾遺集』に採録されている「忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで」(巻第八・470)が本歌だそうです。「思ひ出でば」は、思いだしたら。「おなじ空とは」は、同じ空に照るものとしてはの意。月は1つで同じ。無数の星は場所により見え方が異なるでしょうね。「ほど」は、隔たり、距離。なので「ほどは雲居に」は、雲居のように遙かに遠い所。この雲居という言葉は、宮中・禁中の意味合いでも使われます。「雲井にめぐりあうまで」は、再び宮中でめぐり逢うまで。月、雲井、めぐりが縁語になります。(私のことを思い出したら空の月を見よ。同じ月をみつめよう。月が巡ってくるように、空遠く離れた所に赴いているあなたと再び宮中で巡り逢うまでは) 旅衣たちゆく浪路とほければいさしら雲のほども知られず 法橋奝然 915この歌には「入唐し侍りける時、いつ程にか帰るべきと人のとひ侍りければ」という詞書がついています。この質問に応えた歌です。「旅衣」は、二句(たちゆく波路)の序。衣は裁つものということで、裁つ⇒立つ、という繋がりから。「たちゆく波路遠ければ」は、出かけて行く海路は遠いから。「いさ」は、わからないことを問われた時の応答の声。さあ、よくわかりません(いさしらず)。そこで「いさしら雲」と言ったのだとか。「程」は、時の意。(旅衣を裁ち、出かけて行く海路は遠いので、さあ、白雲のかなたから何時帰れるかは自分にはわかりません) 都をば天つ空とも聞かざりき何ながむらむ雲のはたてを 宜秋門院丹後 959この歌は、建永元年(1206)7月25日に行われた卿相侍臣歌合において、「羇中暮」という題を得て詠んだ歌だとか。巻第十は「羇旅歌」を収録しています。「覊」は「たび。故郷を離れてよその地に身を寄せる。たびずまい」(『角川新字源』角川書店)という意味です。「羇旅」は「旅に出ること」(『新明解国語辞典』三省堂)。「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」(古今集巻第十一・484)が本歌だそうです。「何ながむらん」は自分自身のじっと見つめる行為をいぶかっている様子。「はたて」は、極(はて)の意。(都が空にあるものとは聞かなかったよ。なぜ私はじっと眺めているのだあろうか、あの雲の極の彼方を)巻第七から巻第十の中からわかりづらい語彙を含む歌を6首抜き出してみました。併せて、見過ごしていた歌2首をここに加えました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.21 === 9時40分頃に撮った南の空。青空の下に、かなり雲が出ていました。白雲の中に、グレーを帯びた雲も見えます。南西方向の雲 西方向の雲 頭上の雲 東方向の空は、いつものパターンです。グレーの濃淡のある雲が稜線の上空をほぼ覆っています。 15時20分頃に撮った東方向の空。雲の姿は変化していますが、曇った空模様が続いていました。 南の空も、午後には曇り空に変化。グレーの濃淡はこちらの雲の方が強くなっています。南西方向の空 西方向の空 晴から曇りに変化した一日でした。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺太上天皇 :「ジャパンナレッジ」弁乳母 :ウィキペディア難波頼輔 :ウィキペディア藤原教長 :ウィキペディア 能「石橋 ~躍動美の極致・獅子舞~」 ワキ寂昭法師について :「柴田稔Blog」拾遺集 和歌データベース :「国際日本文化研究センター」卿相侍臣歌合 和歌データベース :「国際日本文化研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.31
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=== 2023.1.17 === 9時45分頃に取った南の空です。曇り空です。 東方向の空南西方向の空 西方向の空 ベランダから見える空全体が曇っていました。雲の姿は方向によってやはり異なります。 南の空12時半頃には青空に変化していました。 東方向の空には白い横雲がたなびいています。南西方向の空 西方向の空 さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第四で抽出した歌から始めます。 雲間よりほしあひの空を見渡せばしづごころなき天の川波 祭主輔親 317この歌には「七月七日、七夕祭する所にてよみける」という詞書が付いています。これを読むと、ぐっと歌意がわかりやすくなります。古語辞典に「ほしあひ(星合ひ)」が載っています。陰暦七月七日の夜、牽牛・織女の二星が夫婦の語らいをするということの意。「しづごころ」は静心で、静かな心、落ち着いた心の意。なので、「しづこころなき」はせわしなく騒いでいるの意味に逆転します。(雲の間の七夕の空を見渡すと、牽牛と織女が逢瀬を急ぐからか、天の川がせわしなく騒がし気に波立っているように感じるなぁ) たつた山夜半にあらしの松吹けば雲にはうときみねの月かげ 左衛門督通光 412「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君が一人こゆらむ」(古今・994)を本歌とするとか。「あらしの松吹けば」は、山風が松の間を吹き抜けていくという意でしょう。「雲にはうとき」は、雲には全く関係ないということで、雲には少しも妨げられないの意。「月影」は月の光。月明かりの意。(立田山に夜更けに強い山風が松の間を吹き過ぎれば、雲には少しも妨げられずに、月の光が輝いていることよ) 横雲の風にわかるるしののめに山飛びこゆる初雁のこゑ 西行法師 501「横雲」は横にたなびいている雲。「わかる(別る・分かる)」は古語辞典によれば、遠く離れて会うことができなくなる。死んで、会えないようになるの意。「風にわかるる」は、風に吹かれて山から離れるの意。山から離れて行けば、再び山とその雲が会うことはできないですね。「しののめ」を辞書で引くと、夜明けがた。早朝の意。気づいたことは、しののめは漢字で「東雲」と記すこと。この歌には雲という漢字が2つ入っていることになります。「初雁」は、(その秋に)はじめて、北方から渡ってきた雁(がん)です。(風が吹き横雲が山から離れて行くのが見える夜明けがたに、山を飛び越える初雁の声が聞こえてきた) 吹きまよふ雲ゐをわたる初雁のつばさにならす四方の秋風 皇大后大夫俊成女 505「吹きまよふ」は、風の吹き荒れるの意。「雲ゐ」は雲居で、空の意。「四方の秋風」についてです。参照文献によりますと、『源氏物語』の「須磨」に「枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに」という一節があり、そこから「四方の秋風」というフレーズが作られたと言います。そこに藤原俊成女の教養が反映しているということなのでしょう。(吹き荒れる空、四方から吹く秋風の中、馴れない翅をならしつつ雁が飛んで行く) 鵠の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらむ 寂蓮法師 522「鵲(かささぎ)の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜は更けにけり」という家持の歌を本歌にしているそうです。「家持集」に載る歌です。有名な歌です。一方、この歌自体が新古今の第620首として収録されています。「鵲の雲のかけはし」は、七夕の夜、鵲が天の川に渡す空の橋です。「秋暮れて」は、秋も終わり近くなっての意。「冴えわたる」は、一面に凍るの意。寂蓮(1139年頃~1202年)は平安時代後期から鎌倉時代初期、大伴家持(718年頃~785年)奈良時代後期の歌人です。(鵲が天の川に渡す空の橋は、晩秋の夜中には冷たい霜を一面に置いているのだろうか)=== 223.1.18 === 9時半過ぎに撮った南の空。昨日とはうって変わり青空にほんわり雲が浮かんでいます。 東方向の空は頻度の高いケースですが、グレーの雲が稜線の上を覆っています。 南西方向の空 西方向の空 13時半頃の南の空。グレーの雲が広がりつつあります。 東の空稜線上には、大きなグレーの雲がかかり、その上には青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 南の空17時過ぎに、もう一度空を眺めに出ると、グレーの雲の姿は大きく変化しましたが、青空には薄いベールが架かったような感じです。南西方向の空 西方向の空 南西から西の方向も同様です。 東の空13時半頃の雲と17時過ぎの雲とでは、雲の姿が大きく変化しています。勢いのあるグレーの雲が離れて行き、穏やかなグレーの雲の漂いに変化した感じです。雲がたりのつづきです。巻第六に移ります。 月を待つたかねの雲は晴れにけりこころあるべき初時雨かな 西行法師 570「月を待つ」は月の出を待つ。「たかねの雲」は高嶺の時雨雲。「こころあり」は思いやりがある。「こころあるべき」は、思いやりがあるに違いないの意。(月の出を待っていると、高嶺の雲が初時雨を降らせたがたちまち止み、空が晴れたよ。月を眺めたい私の心を知ってくれている思いやりのある初時雨に違いない) 世の中に猶もふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へど 和泉式部 583「猶もふるかな」の「ふる」は「降る」と「経る」の懸詞。「しぐれつつ」は雨がしぐれるの裏に、自分が涙を流していることを暗喩する。「雲」は時雨を降らせる雲であり、迷いや悩みの暗喩にもなっている。「いでや」は感動詞「いでや」と「出でや」の懸詞とされる。また「出でや」には月が出る意味とともに出離の意味が込められているとか。(雲間から月が出ようと思っても、猶降りつづく時雨雲のために出られない。同様に、私は憂き世を出て出家しようと思いつつできかねて涙を流すだけの日々を送っている) 折こそあれながめにかかる浮雲の袖も一つにうちしぐれつつ 二條院讃岐 584「折こそあれ」は折もあろうに。「ながめ」はじっと物思いに沈みながら見つめること。「袖もひとつに」は袖もともに。「打ちしぐれつつ」は、涙のしきりに落ちること。袖が涙で濡れる意もこめる。(折もあろうに、物思いに沈みつつ眺める空に時雨雲が出ている。雲が時雨を降らせるのと一緒に、悲しさで涙がしきりに落ち袖がしぐれている) たえだえに里わく月のひかりかな時雨をおくる夜半のむら雲 寂蓮法師 599「たえだえ」は、とぎれとぎれ。切れ切れ。「里わく月のひかり」は、里により月が照るところと照らないところがあるという意。「わく」は区別する。「時雨をおくる」は、時雨をふらす。「むらくも(叢雲)」は集まり群がっている雲。一群れの雲。(とぎれとぎれに里によって月の光が射しているよ。夜半の叢雲が時雨を降らせるているために) 夕なぎにとわたる千鳥波間より見ゆるこじまの雲に消えぬる 後徳大寺左大臣 645「夕なぎに」は夕方風の無くなったときに。「とわたる」は古語辞典を引きますと、「と渡る」と「門渡る」が載っています。前者は「と」が接頭語で、単に渡る意。後者は「川戸」「瀬戸」を渡る意。この歌では後者の意で、海峡を渡る。(夕方の風が止んだときに、海峡を渡る千鳥が波間に見える小島にかかる雲の中に消えてしまったよ)巻第四から巻第六の抽出歌から、合計9首を抜き出しました。一読して歌意を理解できなかった歌です。また、巻第四を読み直していて、二首見落としていることに気づきました。 月影の澄みわたるかな天の原雲吹きはらふ夜半のあらしに 大納言経信 411 山の端に雲のよこぎる宵の間は出でても月ぞなほ待たれける 道因法師 414そのままで歌意は汲み取っていただけるでしょう。二首補足させていただきます。一方で雲の文字が入っていない第417首(式子内親王作)の歌を加えていました。これは削除です。これらの訂正をいたします。やはり・・・・ミスがありました。まだほかにもあるかも・・・・。歌の抜き出しは、この辺りで一区切りと致します。=== 2023.1.19 === 10時前に撮った南の空。この日も青空です。南西方向の空 西方向の空 東方向も青空の広がり 東方向の空16時40分頃に眺めると、稜線の上に青空が見えるもののその上にはグレーの雲が覆う形に変化しています。 南の空南西方向の空 ズームアップ 西方向の空 同様にズームアップ 地上近くに風が吹いていなくても、天空では風が吹いているのでしょうね。ほぼ同じ位置から眺めていますと、漂っているように見えても、思いのほか速い形で移動していると感じます。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺大中臣輔親 :ウィキペディア十訓抄「祭主三位輔親の侍」原文と現代語訳・解説・問題|説話集 :「四季の美」久我通光 :ウィキペディア徒然草 第100段 :「山梨県立大学」二条院讃岐 :ウィキペディア女房三十六歌仙 :ウィキペディア徳大寺実定 :ウィキペディア新三十六歌仙図 西行法師 :「和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム」 三十六歌仙の各掛幅を見られます。源経信 :ウィキペディア道因法師 :「百人一首を探ろう」【26】道因法師和歌への執心 『小倉百人一首』あらかるた :「小倉山荘」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.28
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最強寒波襲来中・・・・。昨日(25日)、朝起きてベランダから外を見れば雪景色。初雪です。かつ私の住む辺り(宇治市)では大雪(経験的に・・・)の部類です。冒頭の自宅ポストに積もる雪の量。これほど積もったのはあまり経験していないように思います。 自宅の駐車場に置かれた車に積もった雪も記録として撮っておきました。 今朝(26日)起きて、ベランダから外を見るとき、目にしたのが物干し棹のミニつららです。「つらら」って漢字ではどう書くのだったかな・・・・。調べてみると「氷柱」ですね。日常生活の範囲で冬期につららを見る機会がないので、すぐに思い浮かびませんでした。 棹を右方向に眺めて行くと氷柱が成長するプロセスが感覚的に分かりそうな様子が現れていました。「落ちる水滴が凍って、棒のようにたれ下がった氷。家の軒先や山の岩などに見られる」(『日本語大辞典』角川書店)。この辞書には、英語では icicle と併記されています。序でに、英和辞典を引くと、 icicles hanging from the roof (屋根から垂れ下がっているつらら)という文例が載っています。(『ジーニアス英和辞典』大修館書店)上記の国語辞典には、『源氏物語』(末摘花)の歌が用例として載っています。 朝日さす軒のたるひはとけながらなどかつららのむすぼほるらむ 「つらら(氷柱)」は俳句歳時記では冬の季語です。手許にある数冊の歳時記を調べてみますと、知らなかったことをいくつか学ぶことができました。『能因歌枕』には「つららとは薄氷をいふ」とあり、かつては水面に張った薄氷を意味していたと言います。現在「つらら」と称しているものは、古くは「垂氷(たるひ)」と称したそうです。上掲末摘花の歌にある「軒のたるひ」は「軒の垂氷」として用例に引かれています。(資料1)『明解古語辞典 新版』(三省堂)で「垂氷」を引くと、「雨・雪などの水が、軒・岩かどなどから、したたりながら凍ってたれ下がったもの。今のつらら」と説明され、用例には同様に末摘花の歌が引かれています。一方、「つらら」は「今の、氷」と記されています。瀬戸内寂聴訳『源氏物語 巻二』の「末摘花」を繙くと、 朝日さす軒の垂氷は解けながら などかつららの結ぼほるらむ の歌の下に、 「軒のつららは 朝日に解けているのに 池に張った薄氷は あなたの心のように どうして解けないのやら」 と歌意を説明してあります。この歌、源氏の君が早く帰るのを姫君(末摘花)のせいにして詠んだのです。しかし、姫君は「むむ」と笑うばかりで返歌を詠めない。源氏の君はそのまま帰ってしまうというシーンです。『千載集』の巻六「冬」には、権中納言経房の次の歌が載っているとか。 氷、初結といへるこころをよめる をし鳥の浮寝の床や荒れぬらんつららゐにけり昆陽の池水ここの「つららゐる」は氷が張っているという意味。(資料1)清少納言は『枕草子』に「日ごろ降りつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり。・・・・銀(しろがね)などを葺きたるやうなるに、水晶の滝などいはましやうにて、長く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて、いふにもあまりてめでたきに・・・・」(第283段)と、「垂氷(=つらら)」を語っているとか。(資料1)「つらら」が今の「氷柱(つらら)」の意味で使われることに変化したのはいつ頃からなのでしょうか。手許の歳時記のいずれもその点は付記ですので、不詳。手許の歳時記を読み比べると、複数の書に例句として掲載のものがあります。まずそれをご紹介します。 朝日かげさすや氷柱の水車 鬼 貫 みちのくの町はいぶせき氷柱かな 山口青邨 みちのくの星入り氷柱我に呉れよ 鷹羽狩行 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな 中村汀女 小さき葉も小さき氷柱や皆氷柱 高木春子全部列挙すると多くなりますので、個人的な好みとして印象に残る句を少しここに掲げます。(資料1,2,3,4) 御仏の御鼻の先へつららかな 一 茶 千本の氷柱の中にめざめけり 有馬朗人 越中の碧くしづかな氷柱かな 佐川広治 大華厳瑠璃光つらら打のべし 川端茅舎 人煙や氷柱の端の玉雫 草 田 男上掲句の語彙で、「いぶせし」は「①心の中のもやもやが、ふっきれない様子。ゆううつだ。②むさくるしい」(『新明解国語辞典』三省堂)の意。「人煙」は「[炊事の煙の意]」(同上)です。「つらら(氷柱)」から、連想が広がってしまいました。この辺で終わります。 ベランダの物干し棹のつららは、見に行く(14:05)と既に消え去っていました。空には、グレーの大きな雲が漂っていますが、青空が見え太陽の光も射しています。スマホの天気予報が示す宇治市の現在温度は5度。今日の予報では最高5度、最低-6度だとか。参照資料1)『基本季語500選』 山本健吉著 講談社学術文庫2)『虚子編 季寄せ 改訂版』 三省堂3)『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂4)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川晴樹事務所補遺昆陽池 :ウィキペディア昆陽池 :「伊丹市」昆陽池(伊丹市) ミニ日本列島 :「ひょうごため池保全県民運動」『枕草子』原文 – 全323段と奥書(Part 2/2):「ORIGAMI - 日本の伝統・伝承・和の心 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.01.26
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=== 2023.1.14 === 10時45分頃に撮った南の空です。南西方向の空 この日は雨でした。=== 2023.1.15 === 9時過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も、空一面にどんよりした雲がかかっています。 14時過ぎの南の空ですが、変わらずグレーの雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 遠くの西の空には、少し青空が見えました。 夾雑物が多いのでズームアップして空の一部を切り取ったかたちですが・・・・・。 東方向の空朝に見られた一部の白雲はもう消えていました。この日はたしか一日曇り空でした。曇り空の雲の姿もやはり変化しつづけています。さて、雲がたりです。『新古今和歌集』から抽出した「雲」を詠み込んだ歌の数が多いので、通読してほぼ歌意が読み取れそうな歌ははぶきます。語彙がわかりづらいものや、工夫のある歌、興味深い歌などに焦点をあてて、私の覚書を兼ねてご紹介していきたいと思います。二書を参照資料としつつ、理解できた範囲で歌意をまとめていきたい所存です。おつきあいください。(理解不足が多々あるかもしれません。ご寛恕ください) 霞立つすゑのまつやまほのぼのと波にはなるるよこぐもの空 藤原家隆朝臣 37この歌、『古今和歌集』(以下、古今)の第1093首(以下、数字のみ)の「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波を越えなむ」を本歌とするそうです。「すゑ(末)の松山」は陸前国宮城郡の枕詞。(末の松山にはほのぼのと霞が立ち、波間を見るとほのぼのと横雲が波から離れようとしているよ。) 春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空 藤原定家朝臣 38「風吹けば峰に別るる白雲の絶えてつれなき君が心か」(古今・601・壬生忠岑)を本歌とし、夢の浮橋は源氏物語の巻名からの連想によるものとか。夢を浮橋に喩えているそうです。「とだえして」はと切れての意味なので、「わかるる」とは縁語。(春の夜の夢が途切れてしまった。目を覚まして山を眺めると、横雲が峰を離れて動き出そうとしている。) 葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 寂蓮法師 87「桜花咲きにけらしなあしびきの山のかひより見ゆる白雲」(古今・59・紀貫之)を本歌とするとか。(葛城連山の高間山に桜の花が咲いたようだ。立田山の奥にかかる白雲も桜の花なのかな) 白雲のたつたの山の八重ざくらいづれを花とわきて折らまし 道命法師 90「雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきてをらまし」(古今・337・紀友則)を本歌とするとか。「わきて」は区別しての意。(白雲がかかる立田山の八重桜、白雲と桜を区別して折ることができたのであろうか) 白雲の春はかさねてたつた山をぐらのみねに花にほふらし 藤原定家朝臣 91「白雲の立田の山の滝の上のをぐらの嶺に咲きををる桜の花は山高み・・・」(万葉・1747・高橋虫麻呂)が本歌だとか。(春は他の季節とは違い、白雲と桜の雲が重なって山にかかっているよ。立田山の小倉の峰に花が咲き匂っていることだろうな) 岩根ふみかさなる山を分けすてて花もいくへのあとのしら雲 藤原雅経 93「石根(いわね)踏み隔(へな)れる山はあらねどもあはぬ日まねみ恋ひわたるかも」(万葉・2422)が本歌だとか。「分けすてて」は踏み分けてすすむの意。(岩を踏み、幾重にも重なる山を踏み分けてきた。来し方をふりかえれば、花と白雲が幾重にも重なって見えることよ) さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 藤原家隆朝臣 139この歌は本歌が「世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りて無ければ」(古今・942・よみ人知らず)と「風吹けば峰に別るる白雲のたえてつれなき君が心か」(古今・601・壬生忠岑)の2つだとか。「た(絶)えて」は消えたという意。(桜花と見たのは夢なのかうつつなのか。白雲が消えて今はなく峰には無常な春風が吹いている) 花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風 藤原雅経 145「花さそうふなごり」は花を散らした後の残りの風の意。「雲に吹きとめて」は雲に吹きとどめての意。(桜の花を散らした後の残りの風をしばらくは雲に吹きとどめ、花の香を匂わせておくれ。春の山風よ)巻第一、巻第二の18首から8首をとりあげました。桜の咲いた状態を花雲に見立て、白雲と重ねて詠む歌の技巧がかなり使われていることを知りました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.16 === 9時50分頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空この日もまた、曇り空で一日が始まりました。南から西にかけての空と比べると、東方向の空にはグレーを基調にしながらも白雲が稜線の上に漂っています。もう少し、新古今を続けます。巻第三です。 卯の花のむらむら咲ける垣根をば雲間の月のかげかとぞ見る 白河院御歌 180この歌は、堀川百首にある「卯の花のしららに咲ける夕ぐれは賤しが垣根ぞ月夜なりける」が本歌だとか。卯の花はウツギの花で初夏に白い花が咲くそうです。それで「しららに」と詠まれているのでしょう。それに対して、「むらむら咲ける」は群をなしてところどころに咲いているの意。(卯の花が垣根のあちこちに群がって咲いている。雲の間から洩れる月の光かと思ってしままうよ) ひとこゑはおもひぞあへぬ郭公たそがれどきの雲のまよひに 八條院高倉 208「ひとこゑは」は一声だけではの意。「おもひぞあへぬ」は、はっきり郭公だと思うことができないの意。「雲のまよひに」は雲にまぎれての意。(一声だけでははっきり郭公だと思えない。たそがれどきの雲にまぎれて姿も見えないし.....) 聲はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそぐ宵のむらさめ 式子内親王 215「声はして涙は見えぬ郭公わが衣手のひづをからなむ」(古今・149・よみ人しらず)が本歌。「ひづ」はひどく濡れる意。「雲路にむせぶ」は郭公が悲しげに鳴きながら雲の道を通るの意。「むらさめ(村雨)」は古語辞典によれば、「時々思い出したようにぱらぱら降り過ぎ、やんだかと思うとまた一しきり降る雨。秋から冬へかけてよく降る」(悲しげに鳴き雲路を行く声が聞こえた。今、鳴いた郭公の涙なのだろうか、日が沈んだ今、村雨が降り出したわ・・・・) いかばかり田子の裳裾もそぼつらむ雲間も見えぬ頃の五月雨 伊勢大輔 227「いかばかり」はどんなにかの意。「田子」は農夫の意。「そぼつ」はひどく濡れるの意。五月雨のもとでの田植の時季を詠んだ歌。(どれほどひどく、田植えをする農夫たちは濡れていることでしょう。雲の切れ間も見えず五月雨の降るなかで) 雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出でぬ萩のうへかな 前大僧正慈円 278「雲まよふ」は雲が乱れ動くの意。「秋をこめながら」は秋らしい景色をこめつつの意。「風もほに出でぬ」は風もまだ秋風らしい様子をみせないの意。「ほに出でぬ」は「萩」にもかかります。(雲が乱れ動く夕空に秋の気配を感じるが、風にはまだ秋風らしさがなく、まだ穂を出していない萩の上を吹きすぎていくよ)抽出した15首のうち、5首を拾い、歌意を私流にまとめてみました。さて、雲の変化に戻ります。16日には、14時50分ごろにもう一度空を眺めました。 南の空には青空が見え、軽やかな感じの白雲が漂っています。 南東方向の空 東の方向の空もまた青空に。稜線の上に白雲がたなびいています。稜線のすぐ上空は雲が厚く、さらにその上には青空を挟んでやわらかい雲がたなびいていました。 西方向の空は雲が少なく、青空です。やはり、グレーの雲より白雲の方が、気分は晴れやかになりますね。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫*『新訂 新訓万葉集』 上・下 佐佐木信綱編 岩波文庫補遺ウツギ :「みんなの趣味の園芸」空木 (うつぎ) :「季節の花 300」ハギ(萩) :「みんなの趣味の園芸」萩市の公園で ハギの花が見頃 :「NHK」萩 (はぎ) :「季節の花 300」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.24
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道路傍の案内板上大谷の古墳公園を出た後、幹線道路に戻り道沿いに西方向に進みました。下大谷バス停の先、信号のある交差点で左折して、南に方向を転じます。芝ヶ原地区を通過することになりますので、以前探訪した時の記憶を辿り、史跡芝ヶ原古墳に少し立ち寄ってみました。 ここは入口の傍に「史跡芝ヶ原古墳」碑が設置してあります。 入口を入った先にまず見える前方後方墳です。 古墳の傍に設置された案内碑。他にも案内板が設置されていますが、省略します。 上掲古墳は丘陵地の高台にあり、後方墳の北側は丘陵地の斜面となり、かなりの高低差のある凹地が広がり、遊歩道が設けてあります。 傾斜地を降りた凹地に城陽市域にある古墳群を立体化した模型地図が設置されています。 高台にある後方墳北辺側の遊歩道傍から、北西側を眺めると、住宅地の背後の森にみえる辺りが久津川車塚古墳です。 立体模型でこの地域を西側から眺めると、手前の青丸が久津川車塚古墳で、赤丸が芝ヶ原古墳のあるところです。芝ヶ原古墳の左(南)の灰色の方形区域が「正道官衙遺跡」の位置になります。 この後、下大谷橋に戻り、下大谷地区を歩いてみたのですが、スマホの地図アプリには下大谷古墳(1号墳)の表示がないので行き着けず失敗。ここも課題として残りました。周到な準備でなかったのが原因というところ。運動不足の解消にはなりました。再び、元の交差点を横断し、幹線道路沿いに南方向を目指します。 せっかくここまで戻って来たのだからと、「正道官衙遺跡」にも立ち寄ることに。 ここも北東側の入口は丘陵地の高台にあり、眼下に平らな方形の官衙遺跡を眺めることになります。 坂道を下ると前方に庁屋(ちょうや、左)と副屋(そえのや、右)の復元建屋が見えます。以前に探訪したときは、副屋の北側、かつて正倉があった場所の景色をほとんど撮りませんでした。そこで、折角の機会なので今回は補足としてその場所に着目しました。 副屋から北を眺めた景色。ここに正倉があったそうです。 この官衙の正倉遺跡地北辺から南を眺めた景色です。 庁屋を北西側から眺めた景色庁屋からはこの官衙遺跡の中央を南進し、この遺跡の南辺にある細い小径を西端まで試しに歩いてみました。西端には直立に近い傾斜度のコンクリート階段が設置されていましたので、何とか住宅地域の道路に出ることができました。まあ、この方向から正道官衙遺跡にアプローチする人はないでしょう。勿論標識は見当たりません。ここからはJR城陽駅まではあと少し。 終着点に戻りました。振り返ってみると、幾つか未訪古墳を残しました。三度目の正直じゃないですが、次の機会にはこの未訪古墳を踏破したいと思います。ご鸞いただだきありがとうございます。補遺城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 城陽市史跡巡りマップ :「城陽市教育委員会」 今回、探訪記事をまとめていて、入手した情報です。 この地図のことを知っていたら、もっとスムーズに史跡めぐりができたのに・・・・。 pdfファイルのダウンロードができます。次回は遅ればせながら利用しよう・・・・。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.22
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=== 2023.1.11 === 8時過ぎに撮った南の空です。やわらい感じの雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 9時15分過ぎに撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西の方向にかけては、雲の姿と青空がいい感じです。 16時45分過ぎに東方向の空を眺めると雲が見えません。 南の空南西方向の空 西方向の空 三方向のいずれにもはっきりとした雲の姿は見えませんでした。さて、『新古今和歌集』巻第十六「雑歌 上」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。(資料1) 紫の雲にもあらで春がすみたなびく山のかひはなにぞも 円融院御歌 1447 さもあらばあれ暮れ行く春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はば 大納言経信 1462 照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける 皇大后宮大夫俊成 1467 袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ 中 務 1495 廻り逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜はの月かげ 紫 式部 1497 浮雲は立ちかくせども隙もりて空ゆく月の見えもするかな 伊勢大輔 1500 浮雲にかくれてとこそ思ひしかねたくも月の隙もりにける 参議正光 1501 忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月のこころありせば 皇大后宮大夫俊成 1507 いかにして袖に光のやどるらむ雲居の月はへだてこし身を 皇大后宮大夫俊成 1508 心にはわするる時もなかりけりみよの昔の雲のうへの月 左近中将公衡 1509 むかし見し雲居をめぐる秋の月いまいくとせか袖にやどさむ 二條院讃岐 1510 月澄めばよものうき雲そらに消えてみ山がくれを行く嵐かな 藤原秀能 1523 雲をのみつらきものとて明かす夜の月や梢にをちかたの山 右大将忠経 1546 雲かかる遠山畑の秋さればおもひやるだに悲しきものを 西行法師 1560 みなかみの空に見ゆるは白雲のたつにまがへる布びきの瀧 二條関白内大臣 1650 ひさかたの天つをとめがなつごろも雲居にさらす布引の瀧 藤原有家朝臣 1651 山別れ飛ゆく雲の帰り来るかげ見る時はなほたのまれぬ 菅贈太政大臣 1691 都より雲の八重立つおく山の横川の水はすみよかるらむ 天暦御歌 1716 ももしきのうちのみ常に恋しくて雲の八重立つ山はすみ憂し 如 覚 1717 雲ゐ飛ぶ雁の音近きすまひにもなほ玉章はかけずやありけむ 女御徽子女王 1717 天つ風ふけひの浦ににゐる鶴のなどか雲居にかへらざるべき 藤原清正 1721 いにしへの馴れし雲居を忍ぶとや霞を分けて君たづねけむ よみ人知らず 1722 かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か忍ばむ 周防内侍 1744 夕暮は雲のけしきを見るからにながめじと思ふ心こそつけ 和泉式部 1806 世の中をおもひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲 皇大后宮大夫俊成 1846 われ頼む人いたづらになしはてばまた雲わけて昇るばかりぞ 1861 ひさかたの天の八重雲ふりわけて下りし君をわれぞ迎へし 紀 淑望 1866 ながめばや神路の山ニ雲消えてゆふべの空を出でむ月かげ 太上天皇 1875 さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森 西行法師 1875 むらさきの雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり 肥 後 1930 むらさきのくもぢに誘ふ琴の音にうき世をはらふ峯の松風 寂蓮法師 1938 あひ見ても嶺にわかるる白雲のかかるこの世の厭はしきかな 源 季廣 1959 立ち入らで雲間に分けし月影は待たぬけしきや空に見えけむ 西行法師 1977巻第十六から最後の巻第二十の「釋教歌」までには、33首あります。つまり、累計しますと、見落としがなければ「雲」を含む歌は全部で136首あるということになります。 (追記 2023.1.27:合計数を136に訂正)再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.1.12 === 9時40分頃に撮った南の空です。雲を見ませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、薄曇り感はありますがこの方向も雲を見かけません。 13時45分頃の東方向の空です。午後も雲の姿はありません。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気に恵まれた一日を過ごせたということになります。=== 2023.1.13 === 8時15分過ぎに撮った東方向の空です。全体薄墨色のベールに覆われた感じで、その向こうから太陽が射しています。 南の空には少し明瞭にグレーの雲で覆われているのが見てとれます。南西方向の空 西方向の空 14時少し前に、東方向の空を眺めると、グレーの雲が見て取れ、厚みが増しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 12日とはうって代わり、終日曇空で終わりました。さてこれで『古今和歌集』と『新古今和歌集』に詠み込まれた「雲」の抽出を終えました。905年に成立した最初の勅撰和歌集と1205年にほぼ成立したとされる8番目の勅撰和歌集の間には300年の歳月の隔たりがあります。それを対比してみますと、雲に関わる表現、語彙が増えていることに気づきます。両和歌集から語彙を抽出してみます。『古今和歌集』 雲、白雲、雲ゐ、雲井 雲ゐと雲井は雲居と同じ意味で一語とみれば、語彙は3種類です。『新古今和歌集』 雲、白雲(しら雲)、雲居(雲ゐ、雲井) よこぐも(横雲)、浮雲(うき雲)、夕立の雲、叢雲(むら雲、村雲)、紫の雲 八重雲、 雲路、むらさきのくもぢ、雲間 新古今和歌集になると、雲の表現が多様化し、9種類の表現法が加わってきます。300年という歳月が和歌を詠む行為を進化/深化させ、表現が豊かになったということになるのでしょうね。こんなところで、歌の抽出のご紹介を終りといたします。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.21
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標識に従い、一筋目を南方向に左折します。右側にこのコンクリート階段が見えます。先ほどの古墳公園の感覚で、これがその入口と推測できます。 階段を上がりきると、「上大谷古墳群第14号墳」の表示があります。その傍に、さらにコンクリート階段が設けてあります。 さらに階段を上ると、比較的平らな場所になっています。西方向に歩むと、 右方向に、角柱の標識が建てられいます。「城陽市指定史跡 上大谷一四号墳」と表記されています。 西方向を撮った景色 西側から、上ってきた階段の方向(東)を撮った景色です。階段が二段になっていましたので、少し古墳らしい感じを受けるくらいで、標識がなければちょっと小高い削平地という印象だけになる感じです。さて、メイン道路に戻り、道路を横断して北側の3番目の古墳公園を目指します。 道路を横断すると、階段が前方に見えます。歩道面には左の画像の状態の標識がありました。右側は読みやすいように回転させたものです。十字路の横断箇所ではありませんので、十字路方向に14号墳への方向が示されていることになります。 コンクリート階段を上がり、途中で振り返って撮った景色です。メイン道路の反対側に見える石垣の箇所が、第14号古墳の位置です。3番目の古墳公園との高さの違いもイメージしていただけることでしょう。 古墳公園の入口近くには、今では判読がしづらくなってきた案内板が設置されています。「上大谷古墳群 城陽市指定史跡名勝天然記念物(史跡) 平成2年4月16日 指定 上大谷古墳群は、4世紀後半から7世紀の古墳時代を通じて築かれた古墳群で、20基の古墳からなる。円墳・方墳・前方後円墳などさまざまな墳形が集合し、各種の埋葬施設をもっている。出土品の中には、日本でも出土例の限られている虁鳳鏡(きほうきょう)、飛禽文鏡(ひきんもんきょう)などがあり、久津川古墳群の中でも特色ある古墳群といえる。 古墳群は、宅地造成計画の中で確認された。20基の古墳のうち1~5、8、14、18~20号墳の10基が現状で、17号墳の横穴式石室は移築され、宅地開発事業者の協力で保存が図られている。 保存された各古墳は、古墳群の中でも代表的な古墳であり、上大谷古墳群を理解する上で貴重である。 説明板は、18~20号墳の保存地区内に設置している。 城陽市教育委員会 」(案内板 説明文転記) 案内板の左上に「上大谷古墳群位置図」が掲載されています。色調補正の画像処理をしてみました。この古墳位置図を後で見て分かったことですが、最初の古墳公園での第1号墳は前方後方墳。第14号墳は方墳だったそうです。古墳分布図の右上側に▲印があります。その位置にこの案内板が設置されています。これで、位置関係がご理解いただけるでしょう。 案内板から一番近い最初の角柱標識見えます。近づくと「上大谷第18号墳」です。 東方向に、「上大谷第19号墳」の角柱標識が立っています。 更に東方向に並ぶ形で、「上大谷第20号墳」の角柱標識が見えます。この第20号墳がこの古墳公園の東端エリアになります。18~20号墳は円墳だったそうです。 古墳公園の中央寄りから東側方向を眺めた景色をパノラマ合成してみました。 第20号墳の北側からこの古墳公園の北辺を西方向に眺めた景色です。北辺に沿って、道路が通っています。 位置関係の目印になるものが写っていて分かりやすい方からアプローチしましょう。 上掲の景色の背後には、この案内板の裏面が写っています。古墳公園の入口側に案内板の正面が向いています。この石組はこちらに移築された第17号古墳の横穴式石室です。 第19号古墳の南方向に移築されています。 北側から樹林の向こうに石室石組の一部を眺めた景色 この古墳公園の西側から道路沿いの北辺の境界フェンスを東方向に撮った景色上掲の案内板の説明と古墳分布図、これまでの現地探訪をまとめます。上大谷古墳群は、20基存在していたようですが、現在は前方後方墳(第1,8号墳)、円墳7基(第2,3,4,5,18,19,20号墳)、方墳1基(第14号墳)の合計10基が保存されています。そして、第17号墳の横穴石室が移築保存されています。つまり、古墳9基が消滅したことになります。この整理をしていて、第8号古墳を探訪できていないことに気づきました。ネットで地図を見ていたとき、地図拡大のレベルにより、第14号古墳の古墳公園が隠れて古墳公園が3ヵ所に見えたのが記憶に残っていたのです。現地探訪では第14号古墳を訪れたことで、3ヵ所の探訪を終えたつもりでした。ところが、地図の拡大レベルを上げると、古墳公園は4ヵ所だったのです。第8号古墳が1つの古墳公園になっているのです。上掲の分布図を現地では詳細に確認しなかったので、第8号古墳の存在を見落としていたことも要因の一つです。先に探訪した戸塚古墳群について、再度資料を確認しますと、前方後円墳1基と円墳6基の合計7基からなる古墳群です。古墳公園として第6,7号古墳が保存され、戸塚古墳として墳丘の一部が保存されているそうです。(資料1)地図上では古墳公園と明示されるのは1ヵ所ですが、地図には表記のない「戸塚古墳」があったのです。合計3基とカウントしますと、戸塚古墳群では4基の古墳が消失したことになります。現在保存されている古墳では2ヵ所が未探訪地として課題に残りました。これは後で気づいたこと。さて、この2ヵ所の古墳公園を終えて、メインの道路に戻り、下大谷の方に下って行きます。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺上大谷古墳群 :「古墳マップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.19
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=== 2023.1.8 === 10時15分頃に撮った南の空です。(1月7日はうっかり雲を撮り忘れました。) 東方向の空東方向にかけてはグレーの雲が空を覆っています。 南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては青空が広がっています。 13時半頃には、東方向の空にも青空に浮かぶ白雲を見るように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 しかし、16時半近くになると、再び東方向の空は曇り空に逆戻りです。 南の空南西方向の空 西方向の空 空は全体にグレーの雲で覆われる様相に変化していました。さて、『新古今和歌集』巻第十一「戀歌 一」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。(資料1) よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲 よみ人知らず 990 わがおもひ空の煙となりぬれば雲居ながらもなほ尋ねてむ 忠義公 1007 しるしなき煙を雲にまがへつつ世を経て富士の山と燃えなむ 貫 之 1008 白雲のみねしもなど通ふらむ同じみかさの山のふもとを 藤原義孝 1011 下もえに思ひ消えなむけぶりだにあとなき雲のはてぞ悲しき 皇大后宮大夫女 1081 消えねただしのぶの山の峰の雲かかる心のあともなきまで 藤原雅経 1094 ながめわびそれとはなしにものぞ思ふ雲のはたての夕暮の空 左衛門督通光 1106 たのめてもはるけかるべきかへる山いくへの雲の下に待つらむ 賀茂重政 1130 逢ふことのむなしき空の浮雲は身を知る雨のたよりなりけり 惟明親王 1134 わが恋は逢ふをかぎりのたのみだに行方も知らぬ空の浮雲 右衛門督通具 1135 有明はおもひ出あれや横雲のただよはれつるしののめの空 西行法師 1193 玉ぼこの道は遙かにあらねどもうたて雲居にまどふころかな 朱雀院御歌 1248 思ひやる心は空にあるものをなどか雲居にあひ見ざるらむ 女御煕子女王 1249 ほの見えし月を恋しと帰るさの雲路の浪に濡れて来しかな よみ人知らず 1261 いくめぐり空行く月もへだてきぬ契りしなかはよその浮雲 左衛門督通光 1273 風吹かば峯に別れむ雲をだにありしなごりの形見とも見よ 藤原家隆朝臣 1292 いわざりき今来むまでの空の雲月日へだててもの思へとは 摂政太政大臣 1293 思ひ出でよ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲のあとの山風 家隆朝臣 1294 忘れゆく人ゆゑ空をながむればたえだえにこそ雲も見えけれ 刑部卿範兼 1295 さてもなほ問はれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峯に見ゆらむ 藤原家隆朝臣 1316 思ひやるよその村雲しぐれつつあだちの原に紅葉しぬらむ 源 重之 1351 君があたり見つつを居らむ伊駒山雲なかくしそ雨は降るとも よみ人知らず 1368 中空に立ちゐる雲の跡もなく身のはかなくもなりぬべきかな よみ人知らず 1369 雲のゐる遠山鳥のよそにてもありとし聞けば侘びつつぞぬる よみ人しらず 1370 思ひやる心も空にしら雲の出で立つかたを知らせやはせぬ 兵部卿致平親王 1413 雲居より遠山鳥の鳴きて行くこゑほのかなる恋もするかな 躬 恒 1414 雲居なる雁だに鳴きて来る秋になどかは人の音づれもせぬ 延喜御歌 1415 初雁のはつかに聞きしことづても雲路に絶えてわぶる頃かな 西宮前左大臣 1417 巻第十一から巻第十五「戀歌五」までには28首ありました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.9 === 10時頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 この時西方向は少し青みがかった空でしたが、一日中、曇り空だったと思います。それで、この時刻以外は撮りませんでした。=== 223.1.10 === 8時15分頃に撮った南の空です。青空に白雲がわずかに浮かぶ。やはり青空がいい! 東方向の空は、やはりグレーがかっていました。南西方向の空 西方向の空 10時半頃になると、南の空にグレーの雲が湧き起こっています。青空が垣間見える程度。 東方向の空は、グレーの雲が大きく広がっています。南西方向の空 西方向の空 雲が大きく広がっています。 14時半頃に再び空を眺めますと、東の山並みの上をグレーの雲が覆うものの、青空がその上に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の変化・動きは活発でした。余談です。ふと、「曇(くもり)」という漢字の成り立ちが気になりました。漢字については「六書」と総称される「漢字の構成・運用に関する六つの種別」があり、「象形・指事・会意・形成[以上構成]・仮借・転注[以上運用]」(資料2,3)と説明されています。「曇」という漢字は、「会意」であり、「日の下に雲があり、太陽を雲がおおうことをあらわす」ということと解字されています。そこで、字義はくもる。雲が天に広がるという意味。くもらす。という意味になると説明されています。(資料2)「会意」とは「漢字の構成部分のそれぞれが意味を持っている種類のもの」(資料3)を言うそうです。ナルホドです。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫2)『角川 漢和中辞典』 貝塚・藤野・小野 編 角川書店3)『新明解国語辞典 第五版』 金田一京助 山田忠雄(主幹)他 三省堂 [付記 2023.2.3 第1022首(曾禰好忠)を削除しました。 雪を雲と誤読して抽出していたために訂正 ] [追記 2023.2.7 第1316首 抽出見落としのため追補 ]補遺忠義公 ⇒ 藤原兼通 :ウィキペディア 藤原義孝 :ウィキペディア曽禰好忠 :ウィキペディア左衛門督通光 ⇒ 久我通光 :「ピクシブ百科時典」賀茂重政 :「コトバンク」惟明親王 :ウィキペディア右衛門督通具 ⇒ 堀川通具 :ウィキペディア刑部卿範兼 ⇒ 藤原範兼 :ウィキペディア源重之 :ウィキペディア致平親王 :ウィキペディア西宮前左大臣 ⇒ 源高明 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.18
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戸塚6・7号墳のある古墳公園を出て、スマホの地図に次の古墳公園を目的地に設定して進みました。前回の最後の景色がその起点付近です。ナビの指示に従い、大谷地区の住宅地内の道路を進みます。冒頭の道路標識は大谷バス停の北にある交差点で撮りました。改めて地図で確認にしますと、交差点で右折し、大谷川沿いに道路を進めば、東城陽中学校に到ります。ナビに従い、交差点を横断して北に坂道を上ります。大谷川が境となり上大谷地区の住宅地に入ります。目的地のすぐ近くまで来ながら、ここで失敗をしました。スマホの地図で位置関係を十分確認せずに、ナビの指示に頼り進んだ折、一筋間違えて曲がったようなのです。お陰で戸惑う羽目に・・・・。ナビの指示は、本人の現在位置を起点に目的地への方向指示を出してくれるので、こちらが間違えば方向指示が変化し、逆にまた方向感覚が狂い始めた次第。丁度、坂道を下ってくるこの住宅地域にお住まいと思える人がいらっしゃったので、古墳公園について尋ねてみました。すぐ近くですよと、そちらの方向に行くからと、ご親切に古墳公園の入口まで案内していただけました。感謝! ラッキーでした。私は目的地よりそれて行き過ぎていたのです。ナビの使い方もコツがあるようです。良い経験になりました。正しくは、上掲の交差点から北に坂道を上り、最初の辻を左折して、一筋目を左(南)に入ったところが目的地でした。道路の右(西)側にこの階段が見えます。そこが古墳公園の入口です。 古墳公園の上まで案内していただきました。入口の写真を撮るために、一旦階段を下りて入口前に戻り気づいたのですが、道路面に設置された蓋の上に標識が貼り付けてありました。そこに「上大谷1~5号墳」の名称と階段方向への矢印が明記されています。上大谷古墳群は「市指定史跡」になっています。「3世紀前半から7世紀にかけてつくられた前方後円墳2基、方墳8基、円墳10基からなる古墳群です。現在は、横穴式石室1基を移築保存したものを含めた11基が古墳公園として保存されています。出土した銅鏡3面も市指定文化財に指定されています」(資料1) コンクリート階段を上がると、最初に見えるのが、「上大谷古墳群5号墳」です。近くに角柱の標識も設けてあります。 上大谷古墳群4号墳 上大谷古墳群3号墳 上大谷古墳群2号墳 上大谷古墳群1号墳 この古墳公園内の中央辺りから北方向を撮った景色 下段の右端のフェンスの先に石段の最上段が見えます。 古墳公園の南東側にもこの古墳公園への通路があります。 古墳公園の東側はフェンスで囲われ、道路側との間に一段低く削平された空間が広がっています。この1号~5号墳のある古墳公園から、今度は上記の通り気づいた案内標識をナビに使います。 北に歩み、住宅地のメイン道路に戻ると、歩道の角にも蓋の上に標識があります。メイン道路を西方向に歩めば、第14号墳に行けるようです。 南側歩道を進むと、一筋先で南方向に向う道路傍にこの標識を見つけました。方位が分かりやすいように再現するとこんな感じです。メインの道路を矢印の指示通り、東に戻れば先ほどの古墳公園になります。南への道路を入ると、第14号墳。メインの道路の反対(北)を眺めると住宅の間に階段道がかなり上まで伸びています。その道を上れば、上大谷17号~20号墳に行けるということです。まずは、上大谷14号墳のある古墳公園を探訪し、その後17号~20号墳にいくことにしました。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺 改めてネット検索して入手した情報です。上大谷古墳群 :「古墳マップ」城陽の歴史遺産、上大谷古墳群を次世代に :「LIVING kyoto」城陽を歩こうシリーズ 第2弾 :「KCN京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.16
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=== 2023.1.5 === 8時半頃に撮った南の空です。 この時、東方向の空にはグレーの雲が覆い、青空がちらほらと見える状況です。南西方向の空 南西から西方向の空は、ブルースカイで雲はほとんど見えません。 13時半頃の東方向の空は変わらず曇空。青空の点在もなくなっていました。 南東方向の空の雲も厚いですが、青空が少し見えます。 南の空 南西方向の空 西の空にも雲が現れてきました。さて、『新古今和歌集』巻第四「秋歌 上」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。 雲間よりほしあひの空を見渡せばしづごころなき天の川波 祭主輔親 317 み山路やいつより秋の色ならむ見ざりし雲のゆうぐれの空 前大僧正慈円 360 しきしまや高円山の雲間よりひかりさしそふゆみはりの月 堀河院御歌 383 月影の澄みわたるかな天の原雲吹きはらふ夜半のあらしに 大納言経信 411 たつた山夜半にあらしの松吹けば雲にはうときみねの月かげ 左衛門督通光 412 秋風にたなびく雲のたえまよりもれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔 413 山の端に雲のよこぎる宵の間は出でても月ぞなほ待たれける 道因法師 414 雲はみなはらひはてたる秋風を松にのこして月を見るかな 摂政太政大臣 418 月をなほ待つらむものかむらさめの晴れゆく雲のすゑの里人 宮内卿 423 ふもとをば宇治の川霧たち籠めて雲居に見ゆる朝日山かな 権大納言公実 494 秋風に山飛び越ゆるかりがねのいや遠ざかり雲がくれつつ 人 麿 498 横雲の風にわかるるしののめに山飛びこゆる初雁のこゑ 西行法師 501 白雲をつばさにかけて行く雁の門田のおもの友したふなる 西行法師 502 むら雲や雁の羽風に晴れぬらむ聲聞く空に澄める月かげ 朝惠法師 504 吹きまよふ雲ゐをわたる初雁のつばさにならす四方の秋風 皇大后大夫俊成女 505 秋風の袖に吹きまく峯の雲をつばさにかけて雁も鳴くなり 藤原家隆朝臣 506 鵠の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらむ 寂蓮法師 522 移りゆく雲にあらしの聲すなり散るかまさ木のかづらきの山 藤原雅経 561 月を待つたかねの雲は晴れにけりこころあるべき初時雨かな 西行法師 570 雲晴れてのちもしぐるる柴の戸や山風はらふ松のしたつゆ 藤原隆信朝臣 573 世の中に猶もふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へど 和泉式部 583 折こそあれながめにかかる浮雲の袖も一つにうちしぐれつつ 二條院讃岐 584 秋篠やとやまの里やしぐるらむ生駒のたけに雲のかかれる 西行法師 585 さだめなくしぐるる空の叢雲にいくたび同じ月を待つらむ 源 泰光 596 今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月 源 具親 597 たえだえに里わく月のひかりかな時雨をおくる夜半のむら雲 寂蓮法師 599 夕なぎにとわたる千鳥波間より見ゆるこじまの雲に消えぬる 後徳大寺左大臣 645巻第四から巻第六「冬宇多」には27首ありました。雲の変化に戻ります。 16時半頃の東方向の空です。一日グレーの雲が形を変えながらたなびいていました。 南の空 空の一部をクローズアップして・・・。南西方向の空 西方向の空 西の空と東の空は雲の姿に大きなコントラストを感じる一日でした。=== 2023.1.6 === 9時40分頃に撮った東方向の空 上空をクローズアップ 南の空 上空をクローズアップ 南西方向の空 西方向の空 雲がたりに戻り、更に巻第七「賀歌」からの歌の抽出を続けます。 神無月もみぢも知らぬ常磐木によろづ代かかれ峯の白雲 元 輔 720 尋ね来ていかにあはれとながむらむ跡なき山の峯のしら雲 寂蓮法師 836 北へ行く雁の翅にことづてよ雲のうはがきかき絶えずして 紫 式部 859 これやさは雲のはたてに織ると聞くたつこと知らぬ天の羽衣 寂昭法師 864 思ひ出でばおなじ空とは月を見よほどは雲居に廻りあふまで 後三条院御歌 877 別路は雲居のよそになりぬともそなたの風のたより過ぐすな 大蔵卿行宗 894 ここにありて筑紫やいづこ白雲の棚びく山の西にあるらし 大納言旅人 901 白雲のたなびき渡るあしびきの山のかけはし今日や越えまし 紀 貫之 905 東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲居に世をやつくさむ 壬生忠岑 907 都にて越路の空をながめつつ雲居といひしほどに来にけり 御形宣旨 914 旅衣たちゆく浪路とほければいさしら雲のほども知られず 法橋奝然 915 明けばまた越ゆべき山のみねなれや空行く月のすゑの白雲 家隆朝臣 939 白雲のかかる旅寝もならはぬに深き山路に日は暮れにけり 権僧正水縁 950 白雲のいくへの峯を越えぬらむ馴れぬあらしに袖をまかせて 藤原雅経 955 都をば天つ空とも聞かざりき何ながむらむ雲のはたてを 宜秋門院丹後 959 巻第七から巻第十「羇旅歌」には15首ありました。雲の変化を、13時すぎにも撮ってみました。 東方向の空 南の空南西方向の空 西の空 続けて雲を眺めていますと、南から西の方向は青空が見えても、東方向の空はグレーの雲が漂っている比率が高いようです。東の方向は地形的に山並みが続いていますので、雲もその影響を受けてるのでしょう。雲を詠み込んだ歌の抽出をしていると、峰と白雲をセットにして詠んでいる歌がかなりあります。山と雲は景観としてつながるのですね。余談です。歌を抽出していて、「みね」について、「峰」「峯」「嶺」という漢字が使われていることにきづきました。手許の漢和辞典を引いてみました。まず、「山(やま)」の第一の字義は「土地の高く隆起した所。峰・岳・丘などの総称」(資料2)です。そして、「峰」は「嶺」と同じであり、直接関係する字義は「①やま。たかやま。山の険しく高いもの。②みね。山の頂。とうげ」(資料2)です。「山のとがったいただきの意を示す」(資料3)とも。「峯」が「峰」の「本字」(資料3)という説明もあります。「嶺」は少し語義が広がるようです。こちらは「山のみねつづきを原義」としていて、そこからくるのでしょうか、字義は広がり、「①みね。ね。山のてっぺん。②山のつらなるもの。連山。③やまみち。さかみち。」(資料2)と説明されています。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫2)『角川 漢和中辞典』 貝塚・藤野・小野 編 角川書店3)『角川 新字源』 小川・西田・赤塚 編 角川書店 追記:2023.1.27 巻第四で見落としていた第411首と第414首を加え、「雲」を含まない第417首 (式子内親王作)を載せていましたので削除しました。補遺式子内親王 :ウィキペディア藤原俊成女 :ウィキペディア和泉式部 :ウィキペディア紫 式部 :ウィキペディア二条院讃岐 :ウィキペディア宜秋門院丹後 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.15
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昨年10月初旬に、JR奈良線の城陽駅を起点にした歴史散策をご紹介しました。その時、地図を見ると表示される「古墳公園」を探訪できなかったという課題を残しました。そこで、1月11日(水)は天気が良かったので、コロナ禍での運送不足への補いを兼ねて、積み残した探訪課題を今年初の探訪として試みることにしました。まずは、新春からの失敗談。昨年記録のまとめをしているときに追加印刷していた地図を引っ張り出しておき持って出る積もりが、他のものを準備していてうっかり携帯するのを忘れるというポカミス! お陰で今まで使う事のなかったスマホの地図での目的地設定によるナビを利用しました。スマホの地図ナビもやはり使い慣れないと戸惑う部分があることも初体験でした。余談はさておき、城陽駅東口を出て目的地の古墳公園を目指します。地図上では、「古墳公園」という明記の場所が5カ所あります。まずは、駅から一番近い古墳公園を目的地にして出発です。 駅前の広い道路沿いにまずは東に歩み、城陽中学校前の道路を北に進みます。 その先はT字路になっています。正面の北側は正道地区です。右折してメイン道路沿いの歩道を進みます。 途中に雑木林風の一画があります。この先で、北方向への道路を進めば、「正道官衙遺跡」の方に行くことができます。さらに少し先へ歩めば、幅の広い道路が分岐します。ナビの指示通りに右側の道路沿いに進みます。 道沿いに進めば、「尼塚」のバス停があります。その先が「深谷郵便局」側のバス停。その先に信号機があり、そこを通り過ぎた先で道路の北側の住宅地内の道路、坂道を登っていくことになります。 スマホのナビは便利ですが、ナビの指示に集中して歩いていると、経路の目印となる周りの景色の確認を忘れがちになるという陥穽に嵌まって終いました。この辺り、地図を再確認しつつまとめています。地図をご覧いただくとお解りいただけますが、上記の分岐点付近からは住宅地内の道路が南北方向に近い形で平行に配置されていますので、目的地に到る経路は幾通りもあると言えます。 坂道を上って行った突き当たりが古墳公園への入口でした。 左の写真の生垣の向こうに見えるのが、地図で対比すると「友が丘第一集会所」です。右の写真が、車止めのある先の景色。手前の立て看板には、「大谷第一児童公園」と表記されています。 古墳公園の入口 フェンスを境界にして入口はオープンです。山道を上がると 平坦な丘陵地になっています。 西方向の眺め まず古墳公園を東方向に進んでみました。 ここは公園になっていて、遊具が設置してあります。 こちらの端からはこんな景色が西方向に展望できます。この公園の西方向を探訪します。 南方向への坂道 北方向への坂道 西方向に進む途中に、両側に丘陵地を下って行ける道がありました。 西方向に歩む公園内は平坦です。 その先にはこんな広がりになっています。 地理院と判読できる石標が建てられています。標準点になっているのでしょうね。 その先に進むと、案内板が設置されています。 この古墳公園は「尼塚6・7号墳」でした。「尼塚古墳群は、4世紀後半に作られた前方後円墳1基と円墳5基、8世紀初めにつくられた円墳1基の7基からなる古墳群です。現在は、6・7号墳2基が公園として保存されています。」(資料1)案内板には、6・7号の円墳の大きさが説明されていますが、古墳公園として保存されているこの円墳の発掘調査は行われていないそうです。現状を見る限り、私には円墳というイメージも抱きにくい感じの平坦さでした。ここの2基は、立地・規模から4世紀後半に築造された古墳と推定されているそうです。 石標の設置側を眺めた景色現存古墳の位置確認ができたところで、この丘陵の稜線を引き返し、もとの入口まで戻ります。 住宅地の道路に戻り、スマホのナビを次の古墳公園に設定し直し、東方向へ住宅地内の道路を進みます。続く参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.13
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=== 2023.1.3 === 8時45分頃に撮った南の空です。この日の朝も南の空には雲があまり見られませんでした。 東方向の空 西方向の空 9時半前には、東方向の空に雲が見られるように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 10時すぎに眺めた東方向の空。山際のすぐ上ににだけ白雲がたなびいています。 南の空こちらも遠方に白雲が広がり、上空には雲があまりありません。 西方向の空 13時前には、東方向の空にはグレーの雲が大きく広がっていました。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西の空にも雲が漂っています。さて、『古今和歌集』の次は、手許にある『新古今和歌集』を調べてみました。前者は醍醐天皇の命により平安時代、905年に成立した勅撰和歌集です。後者は後鳥羽院の命により鎌倉時代初期に成立した8番目の勅撰和歌集。1205(元久2)年にほぼ完成。そして最終的な撰歌を後鳥羽院が行っているそうです。また、手許にある学習参考書によれば、「『万葉集』『古今和歌集』と並び三大歌集と称される。『幽玄』という理念が完成され、文学のみならず能や茶道などにも大きな影響を与えた」と史的評価を受けている歌集です。(資料1)手許の文庫本は「初句索引」なので、私の雲調べには役立ちません。最初から歌を通読していくことにしました。この文庫も長年書棚にあり、時折単発的に参照するだけでした。「雲」を詠み込んだ歌の有無というテーマを考えただけで、字面だけでも通読してみる機会になりました。『古今和歌集』では「雲」を詠み込んだ歌はそれほど多くはなかったのですが、『新古今和歌集』には、思ったよりも数多くの歌が読まれていることを知りました。回を分けて列挙してご紹介したいと思います。(資料2)まずは巻第一「春歌上」より 霞立つすゑのまつやまほのぼのと波にはなるるよこぐもの空 藤原家隆朝臣 37 春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空 藤原定家朝臣 38 故郷にかへるかりがねさ夜ふけて雲路にまよふ聲きこゆなり よみ人知らず 60 しら雲のたえまになびくあおやぎの葛城山に春風ぞ吹く 藤原雅経 74 葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 寂蓮法師 87 白雲のたつたの山の八重ざくらいづれを花とわきて折らまし 道命法師 90 白雲の春はかさねてたつた山をぐらのみねに花にほふらし 藤原定家朝臣 91 吉野山はなやさかりに匂ふらむふるさとさらぬ嶺のしらくも 藤原家衛朝臣 92 岩根ふみかさなる山を分けすてて花もいくへのあとのしら雲 藤原雅経 93巻第二「春歌下」より 白雲のたなびく山のやまざくらいづれを花と行きて折らまし 京極前関白太政大臣師実 102 ふもとまで尾上の桜ちり来ずはたなびく雲と見てや過ぎまし 左京大夫顕輔 124 散りまがふ花のよそめはよし野山あらしにさわぐみねの白雲 刑部卿頼輔 132 さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 藤原家隆朝臣 139 散るはなの忘れがたみの峰の雲そをだにのこせ春のやまかぜ 左近中将良平 144 花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風 藤原雅経 145 春ふかくたづねいるさの山の端にほの見し雲の色ぞのこれる 権中納言公経 156 初瀬山うつろふ花に春暮れてまがひし雲ぞ峯にのこれる 摂政太政大臣 157 柴の戸をさすや日かげのなごりなく春暮れかかる山の端の雲 宮内卿 173=== 2023.1.4 === 9時半過ぎに撮った東方向の空 南東方向の空 南の空西方向の空 再び歌の抽出を続けます。巻第三「夏歌」より 卯の花のむらむら咲ける垣根をば雲間の月のかげかとぞ見る 白河院御歌 180 雨そそぐ花たちばなに風すぎてやまほととぎす雲に鳴くなり 皇大后宮大夫俊成 202 夜をかさね待ちかね山のほととぎす雲居のよそに一聲ぞ聞く 周防内侍 205 ひとこゑはおもひぞあへぬ郭公たそがれどきの雲のまよひに 八條院高倉 208 わが心いかにせよとてほととぎす雲間の月の影に鳴くらむ 皇大后宮大夫俊成 210 聲はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそぐ宵のむらさめ 式子内親王 215 いかばかり田子の裳裾もそぼつらむ雲間も見えぬ頃の五月雨 伊勢大輔 227 さみだれの雲のたえまをながめつつ窓より西に月を待つかな 荒木田宇良 233 郭公くもゐのよそに過ぎぬなり晴れぬおもひのさみだれの頃 太上天皇 236 五月雨の雲間の月の晴ゆくを暫し待ちけるほととぎすかな 二條院讃岐 237 夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ 藤原定家朝臣 247 露すがる庭のたまざさうち靡きひとむら過ぎぬ夕立の雲 権中納言公経 265 十市には夕立すらしひさかたの天の香具山雲がくれ行く 源俊頼朝臣 266 ゆふだちの雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの聲 式子内親王 268 雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出でぬ萩のうへかな 前大僧正慈円 278最初の3巻だけで、33首の歌に雲が詠み込まれています。雲の変化に戻ります。 13時間に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後1時前には、全面的に雲が厚く空を覆う形に変化していました。つづく参照資料1)『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p80-812)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫補遺『新古今和歌集』とその周辺 :「国文学研究資料館」新古今和歌集 :ウィキペディア新古今和歌集 :「ジャパンナレッジ」後鳥羽天皇 :ウィキペディア藤原定家 :ウィキペディア飛鳥井雅経 :ウィキペディア藤原家隆 :ウィキペディア寂蓮 :「コトバンク」新古今和歌集の内容と解説、和歌一覧|新古今集 :「四季の美」新古今和歌集の代表作品一覧:これだけは読みたい有名20首:「短歌のこと」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.12
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2003年の雲の変化を眺める段階に到りました。=== 2023.1.1 === 8時15分過ぎに撮った南の空は雲がなく青空です。元旦としては喜ばしい空でした。西方向の空 東方向の空には、山並みの上に雲がたなびいていました。 13時15分頃に撮った東方向の空は、白雲が山並みの上にたなびく一方で青空となっています。 東方向の上空(45度位か)を眺めた雲です。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 15時過ぎに撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 さて、雲がたりについて、また一歩進めます。古典文学で随筆といえば、やはり『枕草子』を想起します。清少納言は雲について、書きとめているのか。書きとめているとしたらどのように・・・・。そこで部分読みしか出来ていない書棚の文庫本上・下巻を引っ張り出してきて、調べてみました。下巻の巻末に、「語彙索引」が付いています。凡例の最初に、「原文中の注意すべき語彙を適宜選択して項目を立てた」と記されています。この語彙索引を手がかりに「雲」を記した箇所を抽出してみます。(資料1)雲は冒頭の文から現れます。 春は、曙。やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明(あか)りて、 紫だちたる雲のほそくたなびきたる。 [1:第1段、以下同様] (春は、曙。ようやくあたりも白んでゆくうち、山の上の空がほんのり明るくなって 紫がかった雲の細くたなびいた風情) 資料1の現代語訳を引用します。以下同じ。さすがに随筆ですので、自然界の雲の状態を描写しています。雲の色を描写する「紫」は、脚注によれば「当時の紫は、赤みがかったいわゆる古代紫」を意味するするそうです。(資料1、以下同様) 鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞こゆる、いとめでたし。 [38] (鶴は、たいへんいかつい恰好の鳥だが、鳴く声が天までとどくというのは、 すばらしい)幾度かでてきている雲居です。ここでは「空」の意味で使われています。 正月十よ日ほど、空いと黒う、雲も厚く見えながら、さすがに日はけざやかに さし出でたるに、・・・・・ [139] これは段の冒頭の文です。 (正月十日過ぎのころ、空は真黒に雲も厚く見えながら さすがに断(き)れ間から日は明るく照っているのに、・・・・・)第148段では、「名恐ろしきもの」として「青淵。谷の洞。・・・」から列挙していき、「雷は、・・・・。暴風(はやち)。」の次に、「不祥雲(ふさうぐも)」が挙げられています。脚注によれば、「凶変の前兆」を暗示するような雲を意味するそうです。当時の人々には、そんな怖れを抱かせ共有できる雲の姿があったということでしょうね。 日は、入日(いりひ)。入り果てぬる山の端に、光なほとまりて、赤う見ゆるに、 薄黄ばみたる雲の、たなびきわたりたる、いとあはれなり。 [237] (日は、入日。沈んでしまった山の頂に、光がなお残って、赤く見えているのに、 薄黄ばんだ雲の、長くたなびいたのは、とても趣深い)そして、第240段では、雲そのものについて語っています。 雲は、白き。紫。黒きも、をかし。風吹くをりの雨雲。明け離るるほどの、 黒き雲やうやう消えて、白うなりゆくも、いとをかし。 「朝(あした)に去る色」とかや、詩(ふみ)にも作りたなる。 月のいと明(あか)き面(おもて)に、薄き雲、あはれなり。 [240] (雲は、白いの。紫。黒いのも、いい。風の吹く時の雨雲の動き。 夜の明け離れるころの、黒い雲がようやく消えて、あたりの白んでゆく風情も、 とてもいい。 「朝に去る色」とか、漢詩にもよんでいるようだ。 月のとても明るい面に、薄い雲というのも、趣深い) この先の第286段では、3月の頃、物忌みによりある所に居た時、宰相の君から贈られた歌に対して、清少納言が歌を返したことを記しています。 雲の上も暮しかねける春の日を所からともながめつるかな [286]この歌は現代語訳はされず、脚注で歌意が説明されています。「雲の上でも(中宮も)暮らしかねていた春の日の所在なさをさびしい場所柄のせいとばかり思っていました」と。ここで初めて「雲の上」は象徴的に宮中の意味で使われています。さらには中宮を表象する意味で使われているようです。 本文の末尾には、ある本に写されている文が補足列挙されています。その中に、 [十三] 硯の箱は、重ねの蒔絵に、雲鳥の文。 (硯の箱は、重ねの蒔絵を施したもので、雲鳥の模様)現実の雲ではなく、硯箱の表面に描かれた図柄としての雲について触れていることになります。尚、「雲」という漢字が名称の一部として出てくる事例が他にあります。第37段に「出雲の国」、第144段に「出雲筵(むしろ)の畳」、第38段と第208段に寺名の「雲林院」がでてきます。私が語彙索引から調べた限りでは、これだけが「雲」にまつわる記述箇所です。清少納言は自然界の雲について、相対的に多く語っていることがわかります。『枕草子』に記された「雲」についてはこれで一旦ひと区切りと致します。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.2 === 10時過ぎに撮った東方向の空です。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 14時前の東方向の空 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 つづく参照資料1)『新版 枕草子 付現代語訳』 上・下 石田穣二訳注 角川文庫補遺古代紫 :「岩瀬商店」古代紫 :「伝統色のいろは」物忌 :「ジャパンナレッジ」枕草子のおもしろさを読む(10)2018年3月号 :「春耕 春耕俳句会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.10
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ふとしたことがきっかけで、自宅2階南向きのベランダからの空の雲を撮り始めました。変化しつづける雲の動きは眺めだすとおもしろいものです。併せて、「雲」という言葉を切り口に色々な局面を眺めてみたいと思います。それを思いつきで「雲がたり」と称しました。いわば雲をキーワードにした私的な関心事としてのリサーチです。おつきあいいただけるとうれしいです。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -1 2022.10.11~10.31の雲、 雲って何?観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -2 2022.11.2~11.7、 雲の形「10種雲形表」、「雲」という漢字観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -3 2022.11.14~11.19、「百人一首」の歌に詠まれた雲 俳句の季語(秋の雲、鰯雲ほか)と事例9句観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -4 2022.11.24~12.4、 『万葉集』の歌に詠まれた雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -5 2022.12.5~12.11、 『古今和歌集』の歌に好い込まれた雲 歌の列挙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -6 2022.12.14~12.20、 『古今和歌集』抽出歌7首 私的な歌意解釈 「行雲流水」(禅語)の由来観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -7 2022.12.23~12.24、 『古今和歌集』抽出歌6首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉『おくのほそ道』に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -8 2022.12.25~12.26、 『古今和歌集』抽出歌8首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉の他の紀行文に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -9 2022.12.27~12.28、 『古今和歌集』抽出5歌首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉により詠み込まれた雲の句の列挙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -10 2022.12.29~12.31、 『古今和歌集』抽出3歌首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉により詠み込まれた雲の句の列挙(2)2023.1.8時点で、10回になりました。今後はこの一覧表を追補していきたい所存です。どこまで続けられるでしょうか・・・・。未知数です。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -11 2023.1.1~1.2、 清少納言『枕草子』に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -12 2023.1.3~1.4、 『新古今和歌集』巻第一~巻第三 抽出33首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -13 2023.1.5~1.6、 『新古今和歌集』巻第四~巻第十 抽出41首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -14 2023.1.8~1.10、 『新古今和歌集』巻第十一~巻第十五 抽出28首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -15 2023.1.11~1.13。 『新古今和歌集』巻第十六~巻第二十 抽出33首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -16 2023.1.14~1.16。 『新古今和歌集』巻第一~巻第三 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -17 2023.1.17~1.19。 『新古今和歌集』巻第四~巻第六 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -18 2023.1.20~1.21。 『新古今和歌集』巻第七~巻第十 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -19 2023.1.22~1.25。 『新古今和歌集』巻第十一~巻第十二 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -20 2023.1.26~1.29。 『新古今和歌集』巻第十三~巻第十五 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -21 2023.1.30~2.1。 『新古今和歌集』巻第十六~巻第十七 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -22 2023.2.1~2.4。 『新古今和歌集』巻第十八~巻第二十 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -23 2023.2.5~2.7。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -24 2023.2.8~2.9。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より その2観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -25 2023.2.10~2.13。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より その3観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -26 2023.2.14~2.16。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -27 2023.2.17~2.20。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』より その観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -28 2023.2.21~2.25。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続々 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -29 2023.2.26~2.28。 禅語の中に出てくる雲 西部文浄著『茶席の禅語 (上)』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -30 2023.3.1~3.4 禅語の中に出てくる雲 西部文浄著『茶席の禅語 (下)』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -31 2023.3.5~3.8 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -32 2023.3.9~3.12 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -33 2023.3.13~3.17 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -34 2023.3.18~3.22 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -35 2023.3.23~3.28 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -36 2023.3.29~3.31 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -37 2023.4.1~4.3 『広辞苑』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -38 2023.4.4~4.8 『日本語大辞典』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -39 2023.4.9~4.11 『大辞林』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -40 2023.4.12~4.16 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -41 2023.4.17~4.20 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -42 2023.4.21~4.24 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -43 2023.4.25~4.30観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -44 2023.5.1~5.4観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -45 2023.5.5~5.8観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -46 2023.5.9~5.10 快晴と雲量。青空の色調。青空との同義語。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -47 2023.5.11~5.13 禅語の中に出てくる雲 『毎日感謝したくなる 禅ごよみ365日』 桝野俊明著 より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -48 2023.5.14~5.16 禅語の中に出てくる雲 『毎日感謝したくなる 禅ごよみ365日』 桝野俊明著 より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -49 2023.5.17~5.20 西行法師『山家集』上・春に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -50 2023.5.21~5.23 西行法師『山家集』上・夏、秋に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -51 2023.5.24~5.26 西行法師『山家集』上・冬、中・恋、雑(前半)に載る 雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -52 2023.5.275.29 西行法師『山家集』中・雑(後半)に載る 雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -53 2023.5.30~5.31 西行法師『山家集』下・雑に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -54 2023.6.1~6.3 西行法師『山家集』の附録に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -55 2023.6.4~6.6 源実朝『金槐和歌集』巻之上に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -56 2023.6.7~6.10 源実朝『金槐和歌集』巻之中に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -57 2023.6.11~6.15 源実朝『金槐和歌集』巻之下に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -58 2023.6.16~6.17 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「桐壺」~「賢木」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -59 2023.6.18~6.20 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「須磨」~「薄雲」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -60 2023.6.21~6.23 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「野分」~「浮舟」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -61 2023.6.24~6.28 『紫式部集』に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -62 2023.6.28~7.3 某総合病院の個室の窓から観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -63 2023.7.3~2023.7.6観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -64 2023.7.7~2023.7.11観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -65 2023.7.12~2023.7.15 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -66 2023.7.16~7.19 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -67 2023.7.20~7.24 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -68 2023.7.25~7.28観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -69 2023.7.29~7.31観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -70 2023.8.1~8.2 坂村真民全詩集第一巻より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -71 2023.8.3~8.4 坂村真民全詩集第一巻より 2観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -72 2023.8.5~8.6 坂村真民全詩集第一巻より 3観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -73 2023.8.7~8.9 坂村真民全詩集第一巻より 4観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -74 2023.8.10~8.12 坂村真民全詩集第一巻より 5観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -75 2023.8.13~8.15 坂村真民全詩集第一巻より 6観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -76 2023.8.16~8.18 坂村真民全詩集第一巻より 7観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -77 2023.8.19~8.21 坂村真民全詩集第一巻より 8観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -78 2023.8.22~8.24 坂村真民全詩集第一巻より 9観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -79 2023.8.25~8.28 坂村真民全詩集第一巻より 10観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -80 2023.8.29~8.31 坂村真民全詩集第一巻より 11観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -81 2023.9.1~9.4 坂村真民全詩集第一巻より 12観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -82 2023.9.5~9.7 坂村真民全詩集第一巻より 13観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -83 2023.9.8~9.10 坂村真民全詩集第一巻より 14観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -84 2023.9.11~9.13 坂村真民全詩集第一巻より 15観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -85 2023.9.14~9.16 坂村真民全詩集第二巻より 16観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -86 2023.9.17~9.19 坂村真民全詩集第二巻より 17観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -87 2023.9.20~9.22 坂村真民全詩集第二巻より 18観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -88 2023.9.23~9.25 坂村真民全詩集第二巻より 19観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -89 2023.9.26~9.28 坂村真民全詩集第二巻より 20観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -90 2023.9.29~9.30 坂村真民全詩集第二巻より 21観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -91 2023.10.1~10.3 坂村真民全詩集第二巻より 22観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -92 2023.10.4~10.6 坂村真民全詩集第二巻より 23観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -93 2023.10.7~10.9 坂村真民全詩集第二巻より 24観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -94 2023.10.10~10.12 坂村真民全詩集第二巻より 25観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -95 2023.10.13~10.15 坂村真民全詩集第二巻より 26観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -96 2023.10.16~10.18 坂村真民全詩集第三巻より 27観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -97 2023.10.19~10.21 坂村真民全詩集第三巻より 28観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -98 2023.10.22~10.24 坂村真民全詩集第三巻より 29観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -99 2023.10.25~10.27 坂村真民全詩集第三巻より 30観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -100 2023.10.28~10.31 坂村真民全詩集第三巻より 31観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -101 2023.11.1~11.3 坂村真民全詩集第三巻より 32観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -102 2023.11.4~11.7 坂村真民全詩集第三巻より 33観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -103 2023.11.8~11.10 坂村真民全詩集第三巻より 34観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -104 2023.11.11~2023.11.14 坂村真民全詩集第四巻より 35観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -105 2023.11.15~2023.11.17 坂村真民全詩集第四巻より 36観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -106 2023.11.18~11.20 坂村真民全詩集第四巻より 37観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -107 2023.11.21~11.23 坂村真民全詩集第四巻より 38観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -108 2023.11.24~11.26 坂村真民全詩集第四巻より 39観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -109 2023.11.27~11.29 坂村真民全詩集第五巻より 40観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -110 2023.11.30~12.3 坂村真民全詩集第五巻より 41観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -111 2023.12.4~12.6 坂村真民全詩集第五巻より 42観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -112 2023.12.7~12.9 坂村真民全詩集第五巻より 43観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -113 2023.12.10~12.12 坂村真民全詩集第五巻より 44観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -114 2023.12.13~12.16 坂村真民全詩集第五巻より 45観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -115 2023.12.17~12.19 坂村真民全詩集第六巻より 46観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -116 2023.12.20~12.22 坂村真民全詩集第六巻より 47観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -117 2023.12.23~12.25 坂村真民全詩集第六巻より 48観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -118 2023.12.26~12.28 坂村真民全詩集第六巻より 49観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -119 2023.12.29~12.31 坂村真民全詩集第六巻より 50観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -120 2024.1.1~1.3 坂村真民全詩集第六巻より 51観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -121 2024.1.4~1.6 坂村真民全詩集第六巻より 52観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -122 2024.1.7~1.10 坂村真民全詩集第六巻より 53観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -123 2024.1.11~1.13 坂村真民全詩集全六巻より 54観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -124 2024.1.14~1.16 坂村真民全詩集 全巻より 55観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -125 2024.1.17~1.19 坂村真民全詩集 全巻より 56観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -126 2024.1.20~1.24 坂村真民全詩集 全巻より 57 付記 上記の坂村真民全詩集 全巻は手許にある第一~六巻を意味します。 『坂村眞民全詩集』(大東出版社)は全八巻となっています(2024.2.24時点)。以上
2023.01.09
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=== 2022.12.29 === 10時前に撮った東方向の空 南の空 西方向の空はほぼ雲が無く快晴 16時15分頃に撮った東方向の空 南の空 南西方向の空 西方向の空 === 2022.12.30 === 8時半頃に撮った東方向の空 南東方向の空 南の空西方向の空 さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。私が調べ得た範囲で残る歌は三首になりました。 雲はれぬ浅間の山のあさましや人の心を見てこそやまめ なかき 1050手許の本によれば、初二句(雲はれぬ浅間の山の)は「あさまし」の序詞だそうです。そして、「浅間の山」が「あさまし」と同音で掛けられています。浅間山は長野県北佐久郡にある山です。(資料1)この句の表層的な意味としては、雲がかかったままの浅間山の噴火活動は嘆かわしいので人の気持をわかって止んでほしいということを述べているようです。しかし、本音は別の歌意にある点が脚注に説明してあります。それを参考にします。 (あの人にはほんとに呆れてしまうよ。私の心をはっきりとみきわめてから、 私と手を切るのなら切ればいいのに)「なかき」は平中興のことで、忠望王の子とも、右大弁季長の子とも言われているとか。922年に美濃権守となり、930年没。『古今和歌集』には二首撰歌されているようです。(資料1)浅間山は有史以来の活火山です。1128年には大規模なマグマ噴火が起こったようですが、それ以前は685年に噴火した記録があるようです。平中興が生きていた時代はどうだったのでしょうか。(資料2) うきめをばよそめとのみぞのがれゆく雲のあはだつ山のふもとに あやもち 1105この歌は巻第十「物名部」に収録されている歌です。「あやもち」は「元永本には『凡の山もち』、筋切には「凡山茂」とある」人で、伝未詳とか(資料1)。この「あやもち」に与えられたお題は「そめどの あはた」です。「そめどの」は藤原良房の邸宅で、清和天皇の離宮となります。「あはた」は粟田で三条から逢坂山の方向への出口。粟田口。このあたりに、藤原基経の粟田院があったそうです(資料1)。その地名がお題になっています。 (この世での憂い成り行きを、私は余所事のようにみなして、 雲がさかんに立っているあの山のふもとへ、この世から遁れていきましょう) さわぎなき雲の林に入りぬればいとど憂き世のいとはるるかな 惟喬親王 1131これは異本に収録されている歌で、花山法皇本で第945首の惟喬親王の詠歌の続きに収録されていると言います。「雲林院にて詠める」という詞書が付いています。雲林院は、京都市の大徳寺の南に在ったお寺です。「現在は観音堂一宇が残り、十一面千手観世音菩薩を本尊として、大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置され法燈を継いでいる」(資料3)という状況です。 (騒ぎのないこの雲林院に入り暮らしてみると、 ますます憂き世を避けて心静かに生きていける思いがすることよ)『古今和歌集』の歌に出てくる「雲」は、自然界の「雲」を直接的に詠じる以外に、亡くなった人の表象として眺めたり、宮中のことに喩えたりと、様々な意味を重ねていることがわかります。『古今和歌集』の「雲」を詠み込んだ歌については、拙い歌意解釈でのまとめをこの辺りで終わりたいと思います。再び、雲の姿と変化に戻ります。 11時半頃の東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 15時15分頃の東方向の空 南の空南西方向の空 さて、もう一つの雲がたり、松尾芭蕉の句についての続きです。『笈の小文』に掲載の「京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲」から始めた「雲」を詠み込んだ句の話です。手許の『芭蕉俳句集』(岩波文庫)をもとに、上五、中五、下五が一列に索引に使われている「三句索引」を一部利用して、チェックしやすい部分をまずご紹介しました。句の途中で「雲」が入っている句を抽出するのに、「三句索引」を句のパーツからのチェックではなく、一旦本文として年代順の句を読み進めることでチェックしてみることにしました。その後で「三句索引」の確認をしてみました。(資料4)本文を通読して抽出した句は以下のとおりです。『笈の小文』の句を加えると、前回ご紹介の句に加え、さらに10句が詠まれていることになります。 百里来たりほどは雲井の下涼(したすずみ) 63 延宝4年(1676) 33歳 行雲(ゆくくも)や犬の欠尿(かけばり)むらしぐれ 81 延宝5年(1678) 34歳 観音のいらかみやりつ花の雲 261 貞享3年(1686) 43歳 花の雲鐘は上野か浅草歟(か) 285 貞享4年(1687) 44歳 一尾根はしぐるる雲かふじのゆき 316 同上 あの雲は稲妻を待つ(まつ)たより哉 417 貞享5年・元禄元年 45歳 やすやすと出(いで)ていざよふ月の雲 716 元禄4年(1691) 48歳 鶴の毛の黒き衣や花の雲 795 元禄6年(1693) 50歳 蝶鳥のうはつきたつや花の雲 970 年次不詳手許の文庫本では、芭蕉作と確定している句を982句掲載し、その後に「存疑の部」(530句)、「偽書簡中の句」(26句)、「誤伝の部」(208句)が収録されています。上記抽出は982句の範囲で行いました。また、芭蕉の句には、繰り返し推敲された句は時系列に併載されていますが、この本では一句の番号が振られています。その場合は、「雲」の文字を含む最後のものを表記しました。芭蕉は、自然界の「雲」そのものを詠むこと以外に、「雲井」(雲居)で雲あるいは空全体を表したり、「花の雲」という形で見立てをしています。「花の雲」は手許の古語辞典では、「桜の花が一面に咲いているさまを雲にたとえて言う語」と説明しています。例示されているのが、「花の雲鐘は上野か浅草か」です。序でに、「雲」という文字だけで言えば、「出雲守」と詠んだ句(80)、「雲雀」を詠んだ句(289,699)にも気づきました。こんなところで、松尾芭蕉に関係した「雲」の抽出も一旦終了と致します。『古今和歌集』と芭蕉関連の紀行文や句集からの抽出にもれがあるかもしれません。その点はご寛恕ください。=== 2022.12.31 === 10時半頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 12時45分頃の東方向の空 南の空西方向の空 思っていたより穏やかな2022年の最終日でした。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 浅間山 有史以降の火山活動 :「気象庁」3) 雲林院 :「京都観光Navi」4)『芭蕉俳句集』 中村俊定校註 岩波文庫補遺浅間山 :ウィキペディア天明3年の大噴火 :「浅間火山博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.08
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=== 2022.12.27 === 8時頃に撮った東方向の空。朝曇り状態です。 南の空 ほんの一部青空が見えます。ズームアップにて。南西方向の空 西方向の空 9時半頃に撮った南の空。気持ちの良い青空が見えるように。 一方、東方向の空はグレーの雲が留まっています。さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。巻第十五「恋歌五」で載せ忘れた歌から始めます。 葦辺より雲井をさして行く雁のいやとおざかるわが身かなしも 819手許の本の脚注によれば、「葦辺より」は「いやとおざかる」の序詞だそうです。「雲井」はすでに「雲ゐ」という表記で詠まれた歌を取り上げています。ここの「雲井」は空をさすとか。(資料1) (葦のはえた水辺から空をめざして雁が飛んで行く。おお、みるみる遠ざかる。 去って行く雁をみていると哀しくなるなぁ。去って行ったあの人のよう・・・・)歌を拾い出していくと、「よみ人しらず」の歌は収録歌がまとまっているところは、その先頭にだけ表記されているようです。詠者名付記のものは「よみ人しらず」とご理解ください。 たれ見よと花咲けるらむ白雲のたつのとはやくなりにしものを 856「たれ見よと」について、「庭の花を、見るべき主人も今はいないのに、という遺族の心を余情とする」と脚注にあります。「白雲のたつの」は「白雲のたつ野」で、「庭のさびしく荒れた感じを野といっている」とのこと。 (庭を愛で世話をした主はもういない。白雲のたつ野のように、はやくも庭は さびしく荒れ始めている。いま庭に咲くこの花は誰に見て欲しくて咲くのだろう) 風ふけど所もさらぬ白雲はよをへておつる水にぞありける みつね 929脚注には、この上の句の五・七は、遠望する滝を白雲に見立てたと解説しています。この凡河内躬恒の歌はその前に載る壬生忠岑の歌をうけて、同じ滝について詠んだ歌です。比叡山の坂本にある音羽の滝を眺めて詠じた歌です。巻第十七「雑歌上」に所載。 (ここから眺める滝は、あたかも風が吹いても動こうとはしない白雲のよう。 時を経て白雲から落ち来る水がきっと滝になって流れ落ちているのだろう)前回、惟喬親王の歌をご紹介しました。その巻十八「雑歌下」には、雲を詠み込んだ歌があと2首あります。 みやこ人いかがととはば山たかみ晴れぬくもゐにわぶとこたへよ をののさだき 937詞書によれば、小野貞樹(生没年不詳)が甲斐守、つまり現山梨県辺りの国司の長官として赴任していた時に都へ上って行く人に詠んでやった歌だそうです。(資料1,2)脚注の語釈でほぼ歌意が説明されていますので、それを総合してみます。「晴れぬくもゐ」は掛詞だとか。(資料1) <都の人が、私がどのように暮らしているかと尋ねたならば、 山が高いので晴れることなく雲がかかるところ。心の晴れることもない遠方 そこでさびしく暮らしていると答えてくれよ> あしたづのひとりおくれてなく声は雲のうへまできこえつがなむ 大江千里 998大江千里は「百人一首」の第23首として登場する平安前期の歌人。百人一首に撰歌された歌は、『古今和歌集』巻第四「秋歌上」に第193首として収録されています。中古三十六歌仙の一人です。(資料3,4)脚注によれば、この歌は、鶴について詠じながら、その歌の裏には、おのれの昇進が遅れていることを宮中の天皇の御耳に入るように伝えてほしいという暗喩があるそうです。「雲」に宮中の意味が重ねられています。そういえば、「雲上人」という宮中の人々をさす語彙がありますね。 (鶴が仲間からひとり遅れていて鳴いている。その鳴く声は雲のかなたまで聞こえ 仲間たちに届いていてほしいものだなぁ。 友よりひとり昇進の遅れている私の気持を天皇の御耳に申し上げてほしいものよ)この辺で一区切りにして、雲の姿に戻ります。 14時半ごろに眺めた東方向の空に青空が見えました。 南東方向の空 南の空は青空が点描となりコントラストがはっきりとした曇り空。 西方向の空 もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は『おくのほそ道』で、一句に雲を詠み込んでいました。芭蕉は他にも雲を詠み込んだ俳句を作っているのか。手許に岩波文庫の『芭蕉俳句集』(1975年6月第7刷)があります。(資料5)巻末に載る「三句索引」を利用しました。三句(上五・中七・下五)の冒頭表現を索引にしたものです。取りあえず、三句索引から抽出できる雲に関連した句を調べてみますと、11句あります。以下のとおりです。 雲とへだつ友かや雁のいきわかれ 41 寬文12年(1672) 29歳 雲を根に富士は杉なりの茂(しげり)かな 38 延宝4年(1676) 33歳 夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず 250 貞享2年(1685) 42歳 雲折々人をやすむる月見哉 251 同上 雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山 531 元禄2年(1689) 46歳(おくのほそ道) さみだれの雲吹きおとせ大井川 865 元禄7年(1694) 51歳 六月や峰に雲置(おく)あらし山 875 同上 ひら々とあぐる扇や雲の峰 886 同上 湖やあつさをおしむ雲のみね 891 同上 日にかかる雲やしばしのわたりどり 905 同上 此秋は何で年よる雲に島 922 同上三句の冒頭ではなくて、途中に「雲」が詠み込まれているならこの三句索引では句を拾えません。一句ずつの確認は、また別途調べてみたいと思います。さて、この辺りで「雲がたり」を一区切りにいたします。雲の姿に戻ります。12/27の16時頃に撮った空です。 東方向の空 南の空 大きな雲が漂い、青空が広がっていました。 西方向の空 === 2022.12.28 === 8時15分頃に撮った東方向の空。雲が見えません。 南の空 西方向の空 この日の朝は、まさに快晴でした。こんな空は久しぶりです。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 小野貞樹 :「Milord Club ミロード倶楽部」3) 大江千里 :ウィキペディア4) 大江千里 :「コトバンク」5)『芭蕉俳句集』 中村俊定校註 岩波文庫補遺中古三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 :「WEB画題百科事典Wiki」(立命館大学アートリサーチセンター)三十六歌仙繪 新宿区・須賀神社[天王様] :「東京都神社庁」佐竹本三十六歌仙絵 壬生忠峯 :「文化遺産オンライン」リポート“絵巻切断”から100年、京都で「佐竹本三十六歌仙絵」展 :「美術展ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.07
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=== 2022.12.25 === 8時15分頃に撮った東方向の空。曇り空です。 南の空 南西方向の空 西方向の空 14時15分頃午後になると、東方向の空にも青空と白雲が見えるように。 南東方向の空 南の空 南西方向の空 西方向の空 午後にはさらに青空が広がる感じに。さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。巻十一「恋歌一」から続けます。 逢ふことは雲ゐはるかになる神のおとにききつつこひ渡るかな つらゆき 482ここでの「雲ゐ」(=雲居)は、脚注によると「空」の意味です。「なる神」は雷のことで「いかづち」です。また、「おと」に対する枕詞でもあり、「雲ゐ」とは縁語になるそうです。さらに、ここでは「おと」は噂に聞くという意味を表しているとか。(資料1) (空がはるかかなたにあるように、貴方に逢えるのぞみはありません。 空から雷の音が響いてくるように、あなたの噂を耳にして、 あなたを恋いながらこの歳月を過ごすばかりなのです) 夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて 484第483首に読人しらずとあり、そのあとは詠者の明記は「恋歌一」にはありませんので、この歌も読人しらずの一首なのでしょう。辞書によれば「はたて(果たて)」は「はて、限り」の意。「あまつそら」は「天つ空」で「空、天空」の意です(『明解古語辞典 新版』三省堂、以下古語辞典と称す)。 (夕暮れになると雲のはてに向かって物思いにふけります。 天空にいるように思える人を恋い慕っています)素人として素直に読むとこんな意味かと思います。参照資料の補注を読むと、この歌の解釈は様々あるそうです。「夕暮れの雲のはたて」というフレーズについて、「夕焼の赤い雲が長い旗のように靡き、旗手が乱れている情景から、尽きせぬ物思いをする喩え」という解釈があり、物思いの乱れを読み取る解釈や、「あまつそらなる人」を自分より身分の高い人とする解釈。「人」は男か女か、いずれともとれるようです。この歌一首、解釈は定まらないとか。歌を読み、その思いに共振できればそれで良いのかもしれません。 風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か ただみね 601脚注によれば、上句(五・七)は、「たえて」の序詞になるとか。そしてこの上句は「まったく」という意味に転じて序詞としていて、下句に「つれなき」という否定をともなっていると言います。「たえて」は、峰の白雲が風のために切れるの意味だそうです。(資料1)巻十二「恋歌二」に収録されています。 (風が吹けば峰にかかる白雲が切れて去り行くように、 まったく貴方の心は無情そのものですね)「ただみね」は壬生忠岑(生没年未詳、平安時代前期)。三十六歌仙の一人で、この『古今和歌集』の撰者の一人です。(資料2) 雲のなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をばへぬらむ とものり 753「なぐ」は古語辞典によれば、「凪ぐ:海風が静まる」の意です。「いとはれて」は脚注によれば「いと晴れて」と「厭はれる」とが掛けられているとか。(資料1) (雲なく、風もなく、たいへん晴れた朝を迎えている私 だけど、人に厭われるだけでこの世を過ごしているだけに虚しい)「とものり」は紀友則(平安前期)。三十六歌仙の一人。紀貫之の従兄。『古今和歌集』の撰者の一人ですが、歌集の完成前に没しているそうです。(資料2) あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから 784巻十五の「恋歌五」に収録されたこの歌には、長い詞書が付されています。その意味は次のとおりです。在原業平が紀有常の女の許に通っていたのだが、うらむことがあって、しばらくの間、昼間に家を訪ね夕方には家を出て帰るという状況だった。その時に詠んでことづけて届けさせた歌。つまり、紀有常の女は、業平の妻です。妻問婚の風習の時代ですので、通常なら夕方に通って来て朝帰るというパターンです。その逆の行動を業平がとったということですので、不仲であることが見え見えの状況の時に詠んだ歌になりますね。「あま雲」は天の雲で、「よそ」の枕詞になるそうです。「よそ」は余所で、遠方を意味します。「なりゆく」はここでは心が変わるという意味だそうです。 (天の雲が遠くにあるように、私のあなたへの思いもよそよそしくなったものよ。 その疎遠さはやはり人目には見えることだろう。昼間に通っているのだから) あまつかぜ雲のかよひぢ吹きふきとぢよをとめのすがたしばしとどめむ 872このよしみねのむねさだ(僧正遍昭)の歌は既に触れていますのでスキップします。 あまの川雲のみをにてはやければひかりとどめず月ぞながるる よみ人しらず 882第882首は巻十七「雑歌上」に収録されています。「雑歌」は「ぞうか」と読みます。手許の辞書には、「和歌集の歌の部位の一つ。春・夏・秋・冬・恋以外のもの。また、以上のほか、賀・離別・羇旅・物名・哀傷などにも入らないもの。それを集めた部類」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。この歌、脚注の2項をつなぐと、歌意がそのまま解釈できますので、引用します。 <天の川は、雲が水脈であって、流れが速いので、 天の川に光を映しとどめることもなく、月は速く流れている>(資料1) おほぞらを照りゆく月しきよければ雲かくせどもひかりけなくに あま敬信 885この歌、詞書に、文徳天皇の時代に斎院交代の疑義が出されるという問題が発生しましたが、問題なしとのことで終焉したと言います。これを受けて詠まれた歌だそうです。 (大空に照り行く月は清いのでたとえ雲が月を隠しても月の光は消えないことよ。 斎院は清浄でいらしゃるので、暗い疑いがあっても、消え去ることはないのです) 白雲のたえずたなびく峰にだにすめばすみぬる世にこそありけれ これたかのみこ 945惟喬親王は文德天皇第一皇子です。母が紀氏であったために帝が東宮にと望まれたそうですが、藤原良房の勢力に勝てず、比叡山の麓小野の里に隠棲されることになります。(資料1)この歌は惟喬親王が詠まれた歌。 (白雲が絶えることなくたなびく峰のすぐ麓にでも、住んでみれば住める。 そんな時代の中で生きている我が身なのだ)この辺で一区切りにして、雲の姿に戻ります。=== 2022.12.26 === この日も、8時15分頃に撮った東方向の空。朝曇りの状態です。南の空 南西方向の空 西方向の空 ベランダから眺めたほぼ上空の雲 11時45分頃に眺めた東方向の空の雲の変化 東方向の上空の雲の姿。45度位の斜め上方向だったと思います。南西方向の空 西方向の空。少しズームアップで。もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は他にも紀行文を残しています。手許にあるもう一冊の文庫本で調べてみました。こちらには、『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』が収録されています。(資料2)まず『野ざらし紀行』です。これは芭蕉自らが命名したタイトルではないそうです。のちの世の人々の間で一般通行の名称になったと説明されています。(資料2)この紀行文の発句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」から始まりますので、後に通称される名称がここに由来するのでしょうか。「野ざらし」は脚注に「野に捨てられさらされて白骨となった髑髏(されこうべ)。行き倒れを意味する」(資料2)とあります。芭蕉は41歳の秋にこの旅に出ました。野垂れ死にするかもしれない覚悟での旅立ちだったのでしょう。 この紀行文には2カ所で「雲」が記されています。 関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。第二句の後に続く文です。箱根の関を越える日の状況が記されています。自然現象としての雲そのものを客観的に記録しています。もう一カ所は、二上山当麻寺に詣でた後、よし野に行くところでの記述です。 独(ひとり)よし野おくにたどり(て)けるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り・・・ここも事実描写としての雲を記しています。『野ざらし紀行』は岩波文庫本で原文が13ページというものです。長年書架に眠らせていて、初めてそのボリュームを知るというていたらくです。だけど、ふと思いついた動機から、原文をまず通読だけでもする機会になりました。『鹿島詣』は原文7ページです。芭蕉44歳の時の月見がてらの鹿島行だったそうです。ここには「雲」は記述にでてきません。『笈の小文』は原文22ページの紀行文です。導入の文章中では、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」というフレーズが印象的です。そして、「旅人と我名よばれん初しぐれ」を発句として旅が始まります。愛知県の鳴海にとまる前のところで、 風雲の便りともおもひなして、・・・・ と、初めて「雲」が出てきます。己の旅を比喩的に表しているのでしょう。 京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲鳴海で、かつての飛鳥井雅章公の宿に芭蕉が泊めてもらえた時に詠んだ句に「雪の雲」が詠み込まれています。江戸から京まで、鳴海は中間地点というところですね。この紀行文に雲という字が現れるのは2カ所でした。『更科紀行』は原文5ページ。これもタイトルは芭蕉の命名かどうか不詳のようです。この短い紀行文の冒頭文後半に「雲」が出て来ます。 ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云脚注に「自然の風景を楽しもうとする気持をかきたてる者。すなわち風狂者」と説明があります。「越人」とは、蕉門十哲の一人、越智氏を指します。『更科紀行』の旅に同行した人。 雲路にたどる心地せらる脚注を参考にすると、木曾街道の名所の一つで、上松・福島間にある棧(かけ)はしや寝覚の床という語句で有名な寝覚を過ぎて、四十八曲と称される所について記す箇所にこの一節が記されています。「雲路」は「<鳥などが空を飛ぶ道・雲の行くえ>の意の雅語的表現」(『新明解国語辞典』三省堂)です。ここは比喩的に使っているのでしょう。 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人脚注によれば、「三よさ」は、「8月15日・16日・17日の三夜」を意味するそうです。ここは雲そのものがないことを詠み込んでいます。月が煌々と輝いていたことでしょうね。『更科紀行』に「雲」の字が登場するのはこの3カ所でした。手許の文庫本には『嵯峨日記』が付いています。序でにこれもチェックしてみました。原文は15ページです。本文と句に「雲」という文字は使われていませんでした。奥の細道の大行脚を終えた芭蕉は、その後、郷里の伊賀上野に滞在し、その年近江の大津で年を越します。湖南の幻住庵にしばらく隠棲し俳諧活動の拠点としました。元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで、京都・嵯峨にある落柿舎に滞在し、この日記を記しました。芭蕉48歳の時です。元禄4年9月には、江戸へ帰る旅に出ました。(資料2)さて、この辺りで「雲がたり」を一区切りにいたします。26日には、14時40分頃にも雲の写真を撮りました。 東方向の空南の空 南西方向の空 西方向の空 一日の中で、雲の姿は大きく変化し続けています。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2)『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』 中村俊定校注 岩波文庫補遺芭蕉総合年表 伊藤 洋:「芭蕉DB」野ざらし紀行 :ウィキペディア野ざらし紀行(序) :「芭蕉DB」松尾芭蕉自筆の「野ざらし紀行図巻」半世紀ぶり再発見 10月に京都で公開 :「美術展ナビ」鹿島詣 :「芭蕉DB」笈の小文(松尾芭蕉 主な紀行文) :「三重県」更科紀行 :「芭蕉DB」木曾海道 :ウィキペディア嵯峨日記(さがにっき) 芭蕉48歳 :「私の芭蕉紀行」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.06
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=== 2022.12.23 === 13時半頃に撮った南の空 東方向の空 西方向の空=== 2022.12.24 === 8時半頃に撮った南の空 南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空 10時過ぎさて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。 雲井にもかよふ心のおくれねばわかると人に見ゆばかりなり ふかやぶ 378清原深養父のこの歌には、詞書が付されています。「あひしりて侍りける人の、あづまの方へまかりけるを、おくるとてよめる」親しくしていた友人が東国に赴任する際の送別の歌として詠んだ歌です。雲井は雲居と同義でしょう。雲居には、雲あるいは空という意味と併せて、第三義に「はるか遠く離れた所」という意味が古語辞典に出ています。 (はるか遠くへと旅だつあなたに取り残されないように、 私の心が一緒についこうとしているのが他の人には見えていることでしょう) 白雲のこなたかなたに立ちわかれ心をぬさとくだく旅かな よしみねのひでをか 379この歌に付された詞書は「友のあづまへまかりける時によめる」です。深養父の歌の続きに載っていますので、同じ人への送別歌と考えるのが素直でしょうね。脚注によると白雲は「立ち」の枕詞になるそうです。「ぬさ」にも「五色の絹を細かく切って袋に入れ、旅人は道の神の前で撒いて供えた」(資料1)と注に説明があります。 (東国と都、あなたは別れて旅だっていく。貴方が神に供えた幣の如く、 この別れの悲しみに私の心は千々に砕けてしまっています) 白雲のやへにかさなるをちにてもおもはむ人に心へだつな つらゆき 380連番として、紀貫之の詠んだ歌が続きます。「みちのくへまかりける人によみてつかはしける」と詞書にあります。別れに立ち会えないので、歌を認めてことづけたということでしょう。「をち」は「遠」で、「をもわむ人」は「君を思うであろう人」つまり貫之自身をさす表現だそうです。「心へだつな」は「心を隔てるな。忘れずに親しく思っていてくれ」(資料1)と脚注にあります。 (白雲が幾重にも重なるみちのくにという遠方へ遠方に行っても、 君を思っている私のことを、忘れずに親しく思っていてほしいものです)これら三首は多分同じ人物への離別歌なのでしょうね。第379首は良岑秀崇だそうです。そして、良岑秀崇の歌はこれ一首だけの採録だとか。(資料2) あしひきの山たちはなれ行く雲のやどりさだめぬ世にこそありけれ をののしげかげこの第430首は、巻十の「物名」(モノノナ・ブツメイ)に収録されています。「題である物の名前を隠して詠み込む歌。掛詞の技法を用いる。・・・隠喩とも呼ばれる」(資料1)とのことで、題と歌意は無関係でよいそうですが、「きわめて知的な題詠の一種である」(同上)とか。この歌の題は「たちばな」。この脚注を読んでから歌を読むと、巧妙に「たちはな」が「たちはなれ行く」の中に詠み込まれています。 (山に棚引いていた雲が、山から離れて行き漂っていく。 同様に、居場所を定めえない無常な世の中であることよ・・・) 郭公(ほととぎす)みねの雲にやまじりにしありとはきけど見るよしもなき 平あつゆきこの第447首も、上掲「物名」に収録されています。題「やまし」は脚注によれば、「花菅(はなすげ)と同じ、ゆり科の多年生草本。夏、淡紫色の小花が穂状にならぶ」(資料1)という植物だとか。 (ホトトギスはあの峰にかかる雲の中に紛れ込んでしまったのか。 ホトトギスの鳴く音が聞こえてはいるが、その姿を見る方法がなくて残念) あしひきの山べにをれば白雲のいかにせよとか晴るる時なき つらゆき 461これも題「よどがは」に対する詠歌です。ひとつ前の歌に「つらゆき」とありますので、この歌もつらゆきの作歌と思います。先歌にも使われている「あしひきの」は「山」「峰」などにかかる枕詞です。 (山辺に居たところ、峰にかかる白雲がてこでも動かず晴れ渡る時がなかった) 巻十一は「恋歌」になりますので、この辺でひと区切りに。雲の姿に戻ります。 東方向の空、11時半頃 南西方向の空 15時頃、南の空西方向の空 南西方向の空 東方向の空もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は紀行文中最高の傑作と称される『おくのほそ道』を残しました。手許の岩波文庫によれば、原文はわずか49ページです。その後に「曾良随行日記」が併載されていますので、解説を含め219ページというボリュームの文庫本になっています(資料2)。『おくのほそ道』に全訳注がつくと、それだけで360ページ余の文庫本になります(資料3)。この2冊を参照して、芭蕉が『おくのほそ道』で「雲」に言及しているかを調べてみました。( )内の現代語訳は資料3からの引用です。「月日は百代の過客にして、・・・・」という有名な「冒頭」の書きだし文に続き、まず出て来ます。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、・・・・ (私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に吹かれて大空を漂うのを見るにつけ、・・・)「尿前の関」の「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」の句の後の文に、 雲端につちふる心地して (「雲の端から土砂まじりの風が吹きおろして来る」と詠んだ杜甫の詩句 そのままという気がして)「羽黒」の後半には、3カ所にでてきます。3カ所は本文、1カ所は句中です。 雲霧山気の中に氷雪を踏んでのぼる事八里 (雲や霧のたちこめる山気の中を万年雪を踏んで登ること八里) 更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ (さながら太陽や月の運行する雲間の関所に踏み入るのではないかと疑われるほど) 日出て雲消ゆれば湯殿に下る (朝日が出て雲が消え去ったので、湯殿山に下って行った) 雲の峰幾つ崩れて月の山 (夏空に幾つも入道雲が立っていたが、あの雲がいったい幾つ崩れ、幾つ築き 上げたのが、月光のもとに白く神々しくそびえるこの月山なのであろうか)原文を通読して「雲」という字を見つけたのはこの6カ所です。尚、寺名として「雲岩寺」、僧名として「法雲法師」が出て来ますが対象から除きます。「須賀川」には、「空曇りて物影うつらず」という記述があります。芭蕉は「雲」そのものをさほど意識していなかったように感じました。徒歩の旅では雲よりも雨が降るかどうかの方が気がかりだったことでしょう。余談ですが、雨そのものは「飯塚」「笠嶋」「末の松山」に記述があります。この辺で一区切りとします。 16時半前、南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空留まることなく移りゆく雲、一日の時刻の変化につれて、様々な姿形、表情を見せてくれます。おもしろいものです。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 良岑秀崇 :「Milord Club ミロール倶楽部」3)『おくのほそ道 附 曾良随行日記』 杉浦正一郎校註 岩波文庫4)『おくのほそ道 全訳注』 久富哲雄 講談社学術文庫 補遺奥の細道 伊藤 洋:「芭蕉DB」江東区芭蕉記念館 ホームページ俳聖 松尾芭蕉翁 ホームページ河合曾良 :ウィキペディア曾良 伊藤 洋:「芭蕉DB」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.04
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2022.11.20今年は「卯」年。冒頭のウサギは地元の宇治神社の手水舍で撮りました。「スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社」 2017.1.10の再録ですが、ご紹介しています。 2022.11.20宇治神社と世界遺産に登録されている宇治上神社は、上社・下社として一体のような神社でしたので、勿論ともにウサギは神の使いですので、それぞれの神社のお守りはウサギに因んだ形のものが使われています。卯年に限りません。ずっとです。 2019.8.13もう一箇所、京都市左京区にある岡﨑神社もウサギと縁がある神社です。この画像は以前に撮って、ブログでご紹介したものです。 「探訪 京都・左京 丸太町通を東に -3 岡崎神社 (1) 境内社と本殿まわり」「探訪 京都・左京 丸太町通を東に -4 岡崎神社 (2) 子授けうさぎ像・雨神社・能舞台ほか」 2019.8.17に探訪記でご紹介しています。ウサギに縁のある神社のご紹介です。<失敗譚>もう一つのブログ「遊心逍遙記」(gooブログ)で、昨年のクリスマスの頃、私の手続きミスでトラブル発生。ログインが出来なくなり、新規に「遊心逍遙記その2」を開設する羽目になりました。自分のブログ記事へのアクセスの便宜のために、記事へのリンク一覧を作成することで想定外の時間をこの年末年始に費やしていました。その結果が上掲のご紹介に留まりました。除夜の鐘の後に、近くの神社へ初詣に行っただけ。コロナ禍でもあり、まあイイカ・・・・・。初詣代わりに過去ログを見直しました。今年も拙ブログ記事にお付き合いいただければ幸いです。
2023.01.03
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