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はくい しゅくせい えい やまだほうこく 伯夷 淑斉を詠ず 山田 方谷 しょう き けいな つい じゅうい うちゅうぼうぼうたれ ひ し 商を 翦るの計成って竟に戎衣 宇宙 茫茫 孰か非を識らん きみさ ちゅうげんいく しゅうぶ しゅんぷうふ お しゅよう わらび 君去って中元 幾 周武 春風 吹き老ゆ首陽の 蕨 詩文説明 人民を悪政から救うため殷(紂王)を伐たなければと周の大王(古公亶父)以来謀を巡らしていたが、その曽孫武王が討伐した。茫茫たる広い宇宙にその非をを知り罪を鳴らした者はなかった。ただ、伯夷淑斉兄弟が去って後、中原本土には、幾人の武王が出現したことか。かってその命を繋いだ首陽山の蕨も、その後は春風に老いるばかりで、これを採る人もいない(節義の土が出ない)。 ※ 詩は武力をもって世を変えることの非と体を張ってそれを阻止する者がいないのを嘆く。 1,州王(発)殷の紂王を伐つ 2,周の武王 3,伯夷像 4,淑斉像(「図説・史記の世界」 1、洛陽郊外首里山このあたりに伯夷、淑斉の廟があったという。2、殷王紂の墓と伝わる墳丘。河南省淇県。3、発の父、西伯(太公望を採用した人文王・)が紂王に幽閉された菱里城遺蹟。 (なお聖人(太公望)を夢見たという人は西伯(文王)の祖父、古公亶父。『図説・史記の世界』 ※ 紂(殷王)は1婦人(妲己)の容色に惑溺して唯々その意に従い、淫虐の限り(酒池肉林)を尽くし、 贅沢三昧、意に反する者には炮烙の刑を行った。『史記・十八史略)』●酒池肉林=酒糟で丘を作り池には酒を流し池の周囲に肉林を作り裸の男女を遊ばせる)。●炮烙の刑=庭に穴を掘り穴の上には油を塗った銅柱を立て罪人を登らせ、穴下には焚火を燃やし罪人は堪らず穴に落ち焼け死する。妲己は笑いながら見物。 武王はこの様な紂を征伐したが伯夷淑斉は「暴にむくいるに暴(武力)をもってする武王のやり方に聊かの得も認めないと抗議。信義を守って周の粟を食らわず」二人は首陽山に隠れ蕨を採って命を繋いだが遂に餓死した。周王(武王発)は「天道是か非か」と発した。(天は果たして善人の見方だろうかと) 作者 山田方谷幕末繭山藩士。名は球。字は琳卿。号は方谷。文化2年(1805)、備中阿賀郡西方村に生る。5才で新見藩儒、丸川松陰に学び、21歳で松山藩主・板倉勝職に召出され、藩校有終館会頭、30歳、佐藤一斎に師事、40才、藩財政元締、久坂玄瑞・河合継之助と友好、明治6年、岡山閑谷學の学事を督した。明治10年病没。享年73.
2016年10月31日
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しゅうじつぐうせい ていこう 秋日偶成 程こう (程こうのこうの字は下を参照) かんらい こと しょうよう な ねむり さ とうそう ひ すで くれない 閑来 事として従容 たらざるは無し。 睡 覚むれば東窓 日已に紅 なり。 ばんぶつ せいかん みな じとく しいじ かきょう ひと おな 万物 静観すれば皆 自得。 四時の佳興 人と同じ。 みち つう てんち ゆうけい ほか おも い ふううん へんたい うち 道は通ず天地有形 の外。 思いは入る風雲 変態 の中。 ふうき いん ひんせん たの だんじ ここ いた こ ごうゆう 富貴にして淫せず貧賤にして楽しむ。 男児 此に到らば是 豪雄。 詩文説明一地方官となり暇になってからは、何事においてもゆったりと落ち着いた。早朝に出仕する事も無いので、東の窓に真っ赤な太陽が差し込む頃に目を覚ます。万物のいろいろな姿を静かに観察すると、それぞれが自分の置かれた境遇に満足している。春夏秋冬のよい趣きは自分も他人と同じく楽しむ。わが信ずる道は天地間の有形のものばかりでなく、無形の精神上の事にも通じ、わが思いは世の中の変化の多い全ての事柄の中に入って、よくこれに処する事が出来る。修養を積み、富貴であっても心をとろかし迷わすことなく、貧賤であっても心の楽しみを失う事のない境地に男児が到達する事が出来れば、豪雄の人と称すべきであろう。 地方官を辞して出仕しなくなり、日が差し込む頃目を覚ます。これからは貧富にかかわらず自分なり心の楽しみを失わないように豊かな人生を送りたい。(唐詩選画に色付け実写写真と合成) よくよく万物観察するとそれぞれ自分の置かれた境遇に満足して生きている。 春夏秋冬世の中の変化に迷わず、よい趣は自分も他人と同じしみ、豪雄といわれる境地に到達しよう。 (左の春景色は福岡市城南区樋井川。右は冬景色は以前北京旅行で写した万里長城) 作者 程こう(1032~1085)北宋の学者。字は伯淳、号は明道。諡は純公。弟の程「ていい」と合わせて二程子といわれる。洛陽(河南省洛陽県)の人。記憶力抜群で9歳にしてよく詩を作った。15・6歳で弟と共に儒学を学び、20歳の頃進士に合格。こ県(陜西省)の主簿(記録や文章を司る)になった時、土地の寺にある石仏の首から光が出るという噂が立ち、見物人がしきりに身に来た。程こうは僧に石仏の首を届けるように命じたところ、その後光が出なくなったという。ついで沢州(山西省)の令となると、学校を建てて子弟の教育に当った。その為、い寧・元豊{1068~1084}の 間に科挙の試験に合格する者が10人以上にも達した。大子中允・御史裏行(文書や検察等を司る)となり、神宗の召見をしばしば受け、「正心窒慾(欲望を塞ぐ)求賢育才」を説いて、神宗を感動させた。王安石と新法を議して合わず、願い出て地方の官となった。哲宗の時、召されて宗正丞(皇族の系図の管理を司る)になったが、都に行かないうちに没した。その学問は、若い頃儒学ばかりでなく、老荘や仏教にも出入りしたが、結局儒学に戻り、異端の排斥に努めた。弟の程「ていい」は程「ていこう」を「孟子の後、一人のみ」と称した。その性質は温和で、友人や門弟たちは十数年にわたって「ていこう」の怒ったのを見たことはなかったという。
2009年11月28日
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はる はな たず かんさんぼん 春の花を尋ぬ 菅 三品 ごれいそうそう くも おうらい ただあわ たいゆ ばんじゅ うめ 五嶺 蒼々 として雲 往来す 但 憐れむ大庾 万株 の梅 たれ い しゅんしょく ひがしい たる つゆあたた なんしはな はじ ひら 誰か言う春色 東 より到ると 露暖 かにして南枝花 始めて開く 詩文説明 五嶺に連なる山々は蒼く聳え、その上を白い雲がゆったりと行き来している。その中にあって、大庾嶺の万株の梅の木々が花を附けている事に心惹かれる。誰が言ったのであろうか、春は(景色)東方からやってくるなどと。これらの梅の花は露も暖かな南の枝から咲き始めているのに。1、中国五嶺山に連なる山々は青々と聳え、幾つもの白い雲はその上をゆったりと往来 している。 2、春は東方から来るなどと誰が言ったのであろうか、ここ大庾峰は江西省の大庾県の 南にあり梅の花が南の枝から咲き始めている。(写真はまだ肌寒い季節に咲き始めた大宰府で写した梅花)3、(誰が東方から春が来ると言ったのは、判らないが菅原道真の「東風吹かばの歌」に由来し ているのではないでしょうか?写真は福岡大宰府の歌石碑)実は村上天皇の天暦年間内裏坤元禄屏風に。「春は東方(東は春の意)から」と詠った詩があり、白居易の詩に「大庾嶺上の梅、南枝落ち北枝開く」を踏まえて南の枝から梅の花が開いたとある。●五嶺山=湖南・江西と江東・江西の間に渡る南嶺山脈の5つの嶺の総称。大庾は大庾嶺。唐の宰相、張九齢が梅を植えて梅嶺と名付けた。大庾嶺の梅林に見立てた福岡県久留米市の梅林寺の梅林 (3枚の写真を合成、うち2枚を同じ写真を繫ぐ) 作者 菅三品(899~981)本名菅原文時。菅原道真の孫。平安中期の公家、学者、文章博士。内記・式部大輔などを歴任、尾張権守となる。村上天皇が諸臣に政治上の意見に応じ、三ヶ条の意見をまとめた。また天皇の種々の宴に招かれ詩を献じ、大いに名声をあげた。76歳で正四位となり天元4年(981)従三位に叙せられたが同年没す。
2015年03月27日
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詩文説明 (祝吟)松竹梅を飾れば一段とめでたさが広がり、君の家は今日まさに仙人の住むという蓬莱の如くである。亀は池に遊び鶴は庭に舞い、人は酒を酌んではめでたさに酔う。そしてこの限りない慶こびを、傾ける玉杯と共に手にするおもいに浸る。このように松竹梅こそ目出度さの象徴である。上は松竹梅門松と 在りし日の松口月城 下は、一部に蓬莱山とは富士山を指している事で鶴・亀・松竹梅の門松を合成しています。 右は我家蔵の松口月城 直筆の 松竹梅掛軸松竹梅(しょうちくばい) 縁起物の一つで、鶴亀(つるかめ)などとともに吉祥のものとされる。中国では、風雪や厳寒に耐えて緑を保つ松・竹と 他の植物に先駆けて花を開く梅を、高潔・節操・清純などの象徴として歳寒三友(さいかんさんゆう)とよばれた。歳寒三友(さいかんのさんゆう)宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつであり、松・竹・梅。の三つを差す。三つ一緒に描かれることも多い。 慶事の象徴に使われる扇・と 松竹梅日本には奈良時代に伝わり、慶事や新年の飾り物にされ、万葉集や古今和歌集などにもみえるが、室町時代には謡曲に取り入れられて慶事の席で謡われるようになった。また、室町時代からは、強い生命力を表す松に成長の早い竹を添えて新年に門口に飾り延年を祝うようになった。日本に伝わったのは平安時代であり、江戸時代以降に民間でも流行するが、「松竹梅」といえば「目出度い」ことの象徴とされている。松は 寒さの中にあっても1年中青々緑を茂らせている。竹は 強風に煽られても決して倒れずまっすぐに生えて伸びてゆく。梅は 歳の初めの、寒いうちから蕾をつけ、あらゆる花の先がけとして一番に 花を咲かせる。結婚式の祝辞として「山あり谷あり」、という言葉で松竹梅に例え、人生は苦難と荒波を乗り超え幸せを掴んで欲しいとの意味を込めて使われます。作者 松口月城明治20年~昭和56年(1887~1981)。名は榮太、号は月城・筑紫山人。明治20年4月21日福岡市安徳村今光に藤又四郎の4男として生まれる。14歳の時、松口家の養子となる。熊本県医学専門学校を卒業し、18歳にして開業医師の国家試験に合格、医師となり、時の明治政府、世人を驚かせた秀才である。医業の傍ら漢詩を宮崎来城に学び詩・画・書、共に優れる。福岡市早良区有田に松口医院を経営、戦後病院を令息に譲り、那珂川町の病院長を10年間(63歳=73歳)勤める。作詩を通じ吟詠の普及振興に尽くし日本吟詠総連盟顧問・財団法人日本吟剣詩舞振興会元老の他、各種詩吟団体の役職にも尽くし、昭和49年春、その功績により文部大臣賞を受けた。昭和56年7月16日没せらる。享年95。著書に『松口月城詩集』がある。
2009年09月19日
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新年謹んで年頭のご祝詞を申し上げます皆様にとって益々善いお年でありますよう心からお祈り申しますとともに今年もよろしくお 願い申し上げます。※年頭に当たり波穏やかなお祝いの「富士山」。 (富士山は漢詩の中に文字はありませんが承句の元朝気象自清和の意味を籠めて富士山にしました)。「新年」「松竹梅」「飛翔龍」を掲げました。龍は大湖深淵に住み時期到来を待ち、雨を呼び、雲を巻き天に昇るといわれます。 (余談ですが、諸葛孔明も世に出る前は伏龍・又は臥龍といってましたね) 今年は昇竜の年・我が家の室内に掲げてる松口月城先生の龍の漢詩の題名の文字額で、漢詩の内容が包み込まれたように書かれてあります。字と水墨画が一体になったような力の籠った力作です。 しん ねん まつぐちげつじょう 新 年 松口月城作 しょうちく もんぜん ずいしょく おお がんちょう きしょう おの せいわ 松竹 の門前 瑞色 多し。 元朝 の気象 自ずから清和。 へんぼん あお み きょっき かげ ぎんしょう こえ たか きみがよ うた 翩翻 仰ぎ見る旭旗の影。 吟頌 声は高し君代 の歌。 (「新年」の漢詩の内容を一枚の画像にまとめ作ってみました)。幸多かれの年でありますよう縁起の善い龍の縁取りで松竹梅の門松・富士山・右下の木には水晶を持った龍を絡ませ年頭に当たり今にも飛翔の構えの図にして、翻る旭旗・声高らかに吟じる40年前ほど前の若かりし 頃の私を配す。
2011年12月31日
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石童丸 松口月城 かるかや せき 花に雨 有り月に雲有り。 悲風 亦 吹く刈萱の関。 しげうじ ほんぜん 繁氏 翻然 仏道に入る。 出家 遁世 高野の山。 故郷の遺児石童丸。 憐れむ可し当年十四歳。 うんざん 母を伴うて雲山 父を尋ねて来る。 人間 誰か耐えん此の恩愛。 ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思う母かとぞ思う(和歌・行基作) ぎが 霊峰 巍峨として雲間に聳ゆ。 之を仰ぎて一夜 喜 び眠らず。 悲しい哉 女人 禁制の 処。 母を残して独り登る伽藍の辺。 西を訪い東を 尋ねて父を得ず。 夕陽 山に沈んで已に蒼然。 無明 橋畔 僧侶に逢う。 右手に花 桶 左 に珠数。 母を背に父を訪ねて山深く入りにし童子の心悲しむ(和歌・作者不詳) 慇懃 肩を撫でて情 殊に深し。此の僧 或いは是吾が父なる莫らんや。 はいふ えぐ袖に縋りて語らんと欲す無限の思い。道心 之を聴いて肺腑を抉らる。 ああ ぼうだ 嗟 仏道 是か恩愛 非か。 熱涙 滂沱として法衣に落つ。 忽 ち聞く暮鐘 無常の響き。 杜鵑 一声 血に啼いて飛ぶ。 尋ねる父とは知らねども互いに通う親と子の絆ひかるる後髪麓をさして下りゆく (今様作者不詳) 詩文説明(室町時代初期の頃の話といわれる。九州筑前御笠郡の刈萱荘博多の守護職にあった加藤繁氏は或る日、その妻と妾の髪の毛が蛇となって絡み合うのを見て、《妻(桂子)と妾(千里)が囲碁をしてのが蛇の絡み合っているように見えた》世を捨て、高野山に入って刈萱道心となる後千里に子供が生まれ14年後その子石童丸は父に会いたさに母を連れてはるばる高野山を尋ねた)。花に雨有り、月に雲有り、悲風また吹く刈萱の関。加藤繁氏は妻二人の争いは自分の責任と心を改めて仏道にはいり、世を逃れて高野山へ籠った。遺児石童丸は、まだ14歳。父を忽然と失ってこの哀れな少年は、父との再会の念抑えがたく、母を伴って故郷の筑紫の町を出発、高野山へやってきた。人間として父への慕情の念を誰が抑えることが出来ようか。高野口の宿に着き、雲の間に高野山の霊峰が聳え立つのを仰ぎ見て夜に入っても喜々として眠ろうとせず、明日はいよいよ高野へと勇んだが此処は悲しい哉女人禁制という厳しい掟のある処、やむなく母を麓に残し、石童丸一人で登り、山中西に東に父を求めた。だが、父の姿はなかなか見つからない。夕陽はすでに沈み、辺りは薄暗くなろうとしていた。そのころ、無明橋のほとりで、何人目かの僧侶に逢った。右手に花桶、左手に数珠を持ってい入る。僧侶は石童丸の肩を優しく撫でた。新愛の情が深く伝わってくる。石童丸は、もはや、このお坊さんが自分の父ではないかと、袖にすがり、父への限りない慕情にかられて、自分の素性、自分が父の姿を求めて、筑前博多から遙々この高野山にやってきたことを語りかけた。これを聞いていた僧は、ギクッと驚き、肺腑をえぐられるような心痛を覚えた。それもその筈、この僧自身、石童丸の父、かっての加藤繁氏だったのである。しかし、今は修業の身、その名も刈萱道心である。名乗るべきか、恩愛に傾けば名乗るべきだが、仏道に生きようとすれば名乗るべきでない。涙がとめども無く流れ、法衣を濡らしていく。心は千々に乱れていくが、そこに暮鐘が山中に響くのを聞き、ホトトギスの強烈な声を残して飛んでいくのを見て、仏道にある身を感じて、ついに親子の情を断ち、名乗らずに終わったのである。※ 漢詩は此処で終わっていますが、この僧(父)は修業の身で名乗ることを諦め、 汝の父は既に没したと他の墓を見せて帰ることをさとし、石童丸は泣く泣く麓に下るが、待ちわびた母も長旅がたたったのか発病して他界していた。天涯孤独になった石童丸は父である刈萱道心を頼って仏門に入り弟子となって道念と名乗った。その後、刈萱道心は信州の善光寺に赴き地動菩薩を彫って建保2年(1214)没した。石童丸も後を追って信州に移り、父と同じく菩薩を彫り、現在も「親子地蔵」として信仰されているという。刈萱道心は亡くなるまで父であることを名乗らなかったといいます。 下は福岡市内 石童丸遺跡御笠川。 中央2枚・石堂橋のたもとレリーフ(石童丸母子)。右は石堂橋文字。 写真は福岡市東区御笠川の 石堂橋周辺・石童丸物語の発祥地石堂丸地童尊の祠・門の中には石童丸地動尊にお花が供えてある。石童丸説明文。 福岡都府楼の刈萱関跡。丸い石碑には石童丸伝説の関所の説明が書いてある。下は福岡篠栗26番礼所付近の石童丸父子の地動尊が安置されてる処。 福岡県篠栗の88ヶ所巡りの内の26番礼所と刈萱堂掲示板とずらりと祀られている地動尊。他にも沢山の如来像がありました。高野山での父子対面の場所は漢詩内容で無明橋付近とあり又、右手に花左手に数珠と有りますので逆になっていたので替えております。写真場所 は 御廟橋 (橋を渡ると仏への浄土へ往くときされ、罪や煩悩が除かれることから 無明橋 とも呼ばれる)高野山一山総本堂の金堂 中央は高野山西光寺の刈萱堂。左は西光寺内千里ノ前の墓(石童丸の母) 高野山密厳院刈萱堂と堂内の石童丸の絵物語。
2009年12月16日
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さけ あい し さかもとりょうま さく 酒を愛するの詩 坂本龍馬 作 さけ の べ さけ の べ じんせい ただ さけ あ たん ひら 酒は飲む可し酒は飲む可し。 人生 只 酒 有りて胆を開く。 すいちゅう かいらく ひと し な だいち しとね な てん ころも な 酔中 の快楽 人知る無し。 大地は褥と為り天 衣と為る。 えいゆう しょうがい まこと か ゆめ あ まで さけ の びき よ 英雄の生涯 真 乎 夢か。 飽く迄 酒を飲んで美姫に酔う。 「酒は飲むべし女性は愛すべし」 と座敷に座り、日頃見せない右手も出した龍馬は美人の前なので少し口をあけて歯も見せて気分良く酒を飲んでるところを詩文のイメージで造ってみました。「酒はうまいぜよ」。といったかどうか? (鉢・煙草盆・など当時愛用した品物を揃えています。合成)左は、大地は褥となると詩文のイメージです。 右は、長州が実際に使った実物はフランスにあったようです原寸大に精密に模造して作られ長府歴史博物館にある大砲の説明 (説明文が小さくて読醜いと思います) 右から1、長崎亀山社中の近くの商店に龍馬の写真が入った徳利。2、下関の「幕末維新村」に展示してあるお龍と龍馬の写真入ビール瓶。 3、龍馬が愛用していた遺品の煙草盆(長崎亀山社中)。4、長崎亀山社中の隠し部屋の二階にありましたこれも多分遺品だと思います(酒を呑んでる写真の小道具として使っています)。1、龍馬に酒を注いでくれた舞妓さん 2、下関「幕末維新村」の入口。3、龍馬。お龍の新婚生活で過ごした本陣伊藤家址。4、龍馬夫婦が過ごした部屋を再現してあります。●伊藤助太夫(九三)(1830~1872)本陣主で下関の大年寄を務めた事物で龍馬の活動を側面から支援した。1、竜馬が使った刀とピストルの模擬。 2、長崎亀山社中にある龍馬の刀を持たせて頂きました。 3、上に説明文のある長府博物館の大砲。(博物館のすぐ横には高杉晋作の像がある功山寺が有り、近くに乃木神社や毛利邸があります) 4、関門海峡に当時の様子として添えつけてある大砲 (100円硬貨を入れると本当に砲音が鳴り、大砲の筒先から煙が出てきす)。下関唐戸の幕末維新村の一階・壁一面に驚くほど沢山の維新に活躍した志士たちの大きな絵が貼り付けてあります●「龍馬は正規の学校教育を受けていなく 12歳の時、近くの寺小屋に入門したが、まもなく喧嘩が原因で退塾した程度で漢詩を作らなかったのではなく作れなかった。漢詩や漢文を作るにはいくつものルールをきちんと踏まねばならない。それらを学ぶ機会がなかったからこそ、独特の「龍馬流」が生まれたと言える」と新・歴史群像「維新創世坂本龍馬」の本に書いてあります。なるほど韻・平仄を調べるまでもなく、。6行句の古詩体でもあり、平仄も踏んでありません。有名な人の漢詩の中でも自分流に表現して平仄を無視した詩はたくさんあります。遊びのつもりでしょうが平仄を逆に作ったりした詩も見かけます。この詩は坂本龍馬の作詩として教わりましたので、坂本龍馬作として扱わせていただきます。
2011年02月05日
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ぶ や せいげつ はやし らざん 武野の晴月 林 羅山 ぶりょう しゅうしょく つき せんけん こうや へいげん は かいぜん 武陵の 秋色 月 嬋娟 曠野 平原 晴れて快然 たり せいせい てんぱ てつせき な いちりん せんりくさ てん つら 青々を輾破するも轍迹 無し 一輪 千里 草 天に 連なる 詩文説明此処高台から見渡すと、江戸の郊外、武蔵野の原は、もうすっかり秋景色となり、月の光もさやかで麗わしい。広々とした平野は、昼も欺くばかりの明るさで晴れ渡っていて清々とした気持である。青々とした草を踏み散らした後もなく牛馬や轍の跡もない。一望の広々とした草原は天と連なってるように見え、空にはただ一輪の月が高くかかっているばかりである。 高台から武蔵野の郊外を見降ろすと広々と平原が広がり昼のような明るさで景色は秋色。空には一輪の月が懸っていてすがすがしい気持ちになる。 (当時の武蔵野の平原の景色は判りませんので写真はイメージです。実在ではありません)武蔵野の原の「西行物語」のエピソード、西行が老僧と出会うシーン。 (林羅山の武野の晴月とは関係ありません。(武蔵野の原を描いた様子です)。 作者 林羅山(1583~1657)天勝11年~明暦3年。没年75。江戸初期の儒者。幕府儒官。名は忠又は信勝。幼名は菊松丸、通称また三郎。法号は道春、羅浮子とも号した。京都の人。はじめ建仁寺の僧だったが、早くから朱子学の研究に志し、藤原惺窩の門人となった。1605(慶長10年)徳川家康に仕え以後家綱まで4代の将軍の侍講。外交文書・諸法度の草案をつくり、幕政の整備に貢献した。1630(寛永7年)上野忍ヶ岡に家塾を建てた(後の昌平黌の基となる)。「大学抄」「大学解」『論語解』など多くの漢籍の訓点・出版、経書講述など大きな足跡を残し、朱子学の見地から日本史の叙述を試み、『振動伝授』『本朝神社考』などを著わし日本固有の信仰と朱子学説との調和を図った。『本朝通鑑』『羅山文集』など他にも多数ある。(日本史辞典・角川)
2014年03月29日
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桜花の詞 (和歌 4首の3)(伊勢大輔)いにしえの奈良の都の八重桜けふここのへに匂ひぬるかな 和歌詩文説明昔、華やかな奈良の都で咲きほこっていた八重桜が今日はこの京の都の九重の宮中で、その昔と同じように相変わらず美しく咲き誇り匂っている。九重=八重桜の花びらが八重、九重に重なっている事と、禁中(皇居・宮中・九重)とに、かけている。奈良の都=元明天皇の和同3年(710)3月に藤原京から平城京への遷都されたので、奈良の都が誕生して、2010年の今年で1300年になります。伊勢大輔祖父が伊勢大神宮の祭主・中臣能宣言、父が輔親で代々歌人の家柄に生まれ、夫は高階成順。大輔(たいふ)と読み宮仕えの役職で本名は不明。寛弘四年(1007)頃一条天皇(第66代天皇)の中宮、藤原彰子に仕えた。出仕して間もない頃の春、奈良の僧都から立派な八重桜が宮廷に届いた。宮廷の儀式として使者から桜を受け取って主上に渡し上げる係の人は紫式部でしたが、どうしたことか、式部は大輔に譲った。桜を中宮に差し出す時は和歌を速攻で詠んで添えなければなりません。その時に、こともなげに詠んだ歌がこの「いにしえの」の歌です。中宮も道長も満足げに「さすがに血は争えない」と感心し、中宮は 「九重ににほふを見れば桜狩 重ねてきたる春かとぞ思ふ」 と返歌を詠んだ。後拾遺和歌集・勅撰和歌集に約50集が入集し、家集に伊勢大輔集がある。享年も不明ですが、白河天皇の傅育の任にあたった1060年(康平3年)までの生存が確認されている。平成10年に復元された平城京の朱雀門 中央写真は昔を想う平城京朱雀門と八重桜(詩文の昔のイメージを画き、朱雀門写真を幻想的に加工したものです。実在写真ではありません)。興福寺五重塔と猿沢の池 (興福寺は1300前、建立された)私の好きな処です。詩文イメージの為、桜と奈良公園を合成. 伊勢大輔. 現在の平城宮跡の桜 京都の桜 伊勢大輔の平安時代に因み京都の写真です。(京都・大阪・神戸・奈良を巡り、観桜旅行の時の写真一部です)都仁和寺の桜 京都御所 知恩院前 京都円山公園写真三点。 (中央は坂本竜馬と中岡慎太郎銅像)
2010年04月02日
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よしのかいこ やながわせいがん 芳野懐古 梁川星巌 こんらい こおう こと ぼうぼう せきば こえ な ほうど あ 今来 古往 事 茫々。 石馬 声 無く 抔土 荒る。 はる おうか い まんざん しろ なんちょう てんし ぎょこん かんば 春は桜花に入って満山 白し。南朝 の 天子 御魂 香 し。 詩文説明ここ吉野山の塔尾の陵に来てみれば、昔から今に至るまでのことは、ただ漠然としてまるで夢のようである。陵の前の石馬は声もなく、何も語ろうとしない。この辺りはひっそりとして荒れ放題でまことにおいたわしき限りである。今は春、桜花の季節になって山全体に咲き乱れてる花は真白で真に美しい。花だけが、静に眠り給う後醍醐天皇の御霊を御慰めしているかのようで、御霊もさぞかしご満足されていることであろう。詩文では梁川星巌が吉野を訪れた時は、荒れ放題の吉野塔尾陵とありますので右の今回写してきた塔尾陵を基に荒れ果てた陵を想定して石馬も配置してみたのですが、荒れ果てた姿は作ってもこんな立派な陵ではなかったと思います。昔のことでコンクリートの石段、鉄製の門構えが有る筈もなく、墓石の周りは草木に覆われていたことでしょう。石馬は昔はあったのかどうか知りませんが見当りませんでした。昔あったのなら取り除くことはないように思います。中国では墓陵に石馬を立てる風習があったらしく、楊貴妃墓前にあります。北京のい和園には伝説の麒麟の石像がありました。他に銅製の獅子などあり日本ではお墓には石馬(狛犬)などは見かけないように思われます。日本ではお墓でなく、神社ではどこでも狛犬を見かけます。先日下関の高杉晋作の像がある日和山や厳島神社(山口県下関)にも立派な獅子の狛犬さんを見かけ撮影して来ました。 掛け軸は如意輪寺像 俗に芳野三絶」とあります。 右は梁川星巖画像芳野懐古という同じ吉野を詠った題名の詩が沢山あり、その中で特に素晴らしいと思われる作者「梁川星巌」「藤井竹外」「河野鉄兜」の詩の事を三絶と云って如意輪寺に展示されてありますが、日本漢詩には、梁川星巌を省いて「頼杏坪」を加え、芳野三絶に加えてあります。芳野4絶といっても良い位、甲乙付け難いものと思われます。芳野山は、ほぼ山全体が桜に覆われています。桜名所も下千本・中千本・上千本などが有り、右は今峯寺横の通り道でこの辺りを下千本といってるようです。 作者 梁川星巌 寛政元年(1789)~安政5年(1858)美濃(岐阜)安八郡曽根村に生る。名は孟緯。字は伯兎・公図。号は星巌、天谷。15歳で江戸に出て古賀精里、山本北山に師事する。後、妻紅蘭(詩人)を連れ共に各地を漫遊20年。天保5年(1834)に玉池吟社を作り名声四方に聞こゆる。門人に菅茶山、広瀬淡窓、大沼枕山、小野湖山、森春涛等多くの逸材を出す。文の山陽、詩の星巌と唱われ、山陽も詩について教えを乞うたという。常に尊王愛国の志篤く漢詩を以て時弊を諷し、王政復古の基をなしたという。尊王倒幕に狂奔した為、幕吏に捕えられんとしたが、幕吏が来る3日前に急死したそうです。妻紅蘭は捕えられたが、直ぐに釈放されたようです。世人は「星巌は詩に上手、死に上手」と評したという。
2009年05月09日
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