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2022.08.26
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カテゴリ: 南城市



沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があり、集落の中心部を南北に通る「新里ビラ」と呼ばれる急勾配の坂道があります。この坂道の途中にはかつてノロの住居があった「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」の拝所があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『バテン巫火神』と記されており『聞得大君嘉那志アラヲレノ時、与那原ニテ、バテン巫、大君之御前ニ出、神御名、テダ白御神ト、女御唄ノフシニテ付上ゲタル昔ノ例ハ、為有之ト也。バテンノロ神名、住古ハテダ白ト云フ。御同名恐多トテ、中古、改名之儀立願仕ケレバ、神託ニ、ヨナワシ大神ト被下タルトナリ。』との記述があります。


(新里ビラ沿いのヌル殿内/ヌルドゥンチ)

「場天ノロ/バテン巫」の神名は元は「テダ白/日白」であり、テダ白とはテダ代の事で「太陽神」の神霊が寄り付く「依代/よりしろ」を意味します。その神名を与那原(ヨナバル)で、第二尚氏時代の最高神女(ノロ)である「聞得大君」に付与した内容を「琉球国由来記」は記しています。「聞得大君」が初めての「アラヲレ/御新下り」で与那原で行幸した際に「聞得大君」の前に跪いた「場天ノロ」は「御唄/神歌」が唱えられる中で「テダ白御神」という自身の神名を「聞得大君」に献上しました。同名は畏れ多いので、それ以後「場天ノロ」の方は自身を「ヨナワシ大神/与那和志大神」と改名して名乗るようになったと「琉球国由来記」には記述されています。


(ヌル殿内/ヌルドゥンチの3基のウコール)

(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)

(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)

「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」はかつて「アガリゾー」とよばれており、現在は3つのウコール(香炉)と2つの火の神(ヒヌカン)が祀られています。ウコールは向かって右側は琉球開闢に係る「阿摩彌姑/アマミキヨ」の5世と言われる「御巣人大神/ウシジンテージン」、中央が琉球国以前のムラの祭祀行事に於いて最高の統治者でヌルの始まりであった「藩坐那志/ハンジャナシー」、向かって左側が佐銘川大主の娘で第一尚氏時代に佐敷の祭祀を管轄した神女であった「場天大ヌル/バテンウフヌル」の香炉とされています。また、戦前は「ヌル殿内」の敷地内に一対の大きな石造りのシーサー(魔除け獅子)が鎮座していて、南西と南東に別々に向いていましたが沖縄戦で消滅してしまいました。更に、集落の綱引きの際には「ヌル殿内」から出発して「新里馬場」に向かったと伝わっています。


(中樋川グヮー/中樋川小)



「ヌル殿内」から「新里ビラ」を南側に登ると「中樋川グヮー/中樋川小」に向かう森道が続いています。「澤川原遺物散布地」南端の森に位置するこの樋川(ヒージャー)は、東側丘陵の「崩利下原遺物散布地」方面から湧き水が流れ込んでいます。現在も水量が豊富な「中樋川グヮー」はかつて集落の「産井/ウブガー」として利用され、集落で子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)はこの産井(ウブガー)から汲まれて用いられました。更に、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「中樋川グヮー」は心臓破りの坂として知られる「新里ビラ」の中腹辺りに位置しているので、昔は坂を登り下りする村人や旅人の休憩場所として重宝されていたと考えられます。


(宮城殿/ナーグシクドゥン)

(宮城殿/ナーグシクドゥンの祠)

「中樋川グヮー/中樋川小」の南東側に約150メートルの位置に「宮城殿/ナーグシクドゥン」があり、祠には霊石が祀られています。この場所は「尚巴志」の弟とされる「大平田之比屋」の孫である「手登根里之子」の住居跡であると伝わっています。「琉球国以由来記」には『宮城之殿』と記されており『稲穂祭之時、シロマシ・神酒壱百姓。同大祭之時、神酒二百姓、供之。バテンノロ祭祀也。』との記述があります。「里之子(さとのし/さとぬし)」は琉球王国時代に王様の近くに仕えた若者で、親方(うぃーかた)の次位で筑登之(ちくどの)の上位にあたります。また、一間切を采地として総領する地頭職である「総地頭/惣地頭」の次男以下の子どもの呼び名でもありました。


(上之樋川/ウィーヌヒージャー)

(上之樋川/ウィーヌヒージャーの拝所)

「宮城殿/ナーグシクドゥン」の西側で「新里ビラ」沿いの森の入り口に「上之樋川/ウィーヌヒージャー」の井戸跡があり「上之樋井/ウィーヌヒーカー」とも呼ばれています。この井戸跡には幾つもの霊石が祀られており、石造りのウコール(香炉)に「ヒジュルウコー」という火を灯さずに拝する「ウチナーウコー(沖縄線香)」が供えられています。「上之樋川/上之樋井」は「新里集落」の旧水源地で、水の神「ウシジン大人」が祀られている拝所となっています。また、かつてこの井戸は「産井/ウブガー」として利用され、赤子の産水(ウブミジ)に使用された他にも正月の若水(ワカミジ)として汲まれ、その水で茶を沸かし一年の無病息災を祈願しました。


(タク川ノ御嶽の森)

(タク川の滝)

(タク川の拝所)

「上之樋川」から「新里ビラ」を南側に登ると「上之川原」と呼ばれる場所に「タク川ノ御嶽」の森があります。この森にそびえる南側丘陵は「タク川山」と呼ばれ、神々が鎮まる聖地であると伝わっています。「タク川山」には「タク川の滝」が流れており、滝壺の脇には水の神様を祀る拝所が設けられています。この拝所では沖縄の線香である「ヒラウコー」やご先祖様が使うあの世のお金である「ウチカビ」を燃やさず拝し、来た時よりも綺麗にしてお供え物は持ち帰る仕来りとなっています。昔は「タク川」の水利で稲作が栄えた為、水に対する感謝と豊作祈願がなされていました。この地には田植えの儀礼が行われる集落所有の「フートィンジャ」と呼ばれる神田がありました。


(タク川ノ御嶽)

(タク山の中腹に登る階段)

「タク川の滝」周辺の森は「タク川ノ御嶽」と称されており「イビ/イベ」と呼ばれる神が所在する最も聖なる場所は特定されておらず「タク山」の一帯が神々が宿る御嶽の聖域だと考えられています。この御嶽は並里系「嶺井門門中」の拝所で「琉球国由来記」には『タコ川ノ嶽 神名 カホウモリシマギシノ御イベ』と記されています。更に『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記述されています。因みに「花米/ハナグミ」は祭祀や儀礼に用いる生米の事で「ミハナ」や「ンパナ」とも称されます。また「五水」は既成の泡盛で御五水とも呼ばれ、更に「神酒」は村人が米、麦、芋で作った御神酒(ウンサク)を意味します。




( 志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の拝所)

(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の石柱)

「タク川の滝」の西側に「御巣人御墓」へ通じる長い階段があり、登り切った丘陵の中腹には古い彫込墓の「御巣人御墓」があります。「 阿摩彌姑/アマミク」の子孫で4世の「御巣人大神」の墓 には石造りのウコール(香炉)が祀られています。 「御巣人御墓」から更に丘陵中腹を西側に進むと「


(並里御墓)

(並里御墓の石柱)

「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」の拝所を更に西側に進み続けると「並里御墓」があります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などで、この墓には「並里/ナンジャトゥ」の祖先が祀られていると考えられます。こちらの古墓も洞穴の入り口を石組で塞いだ彫込墓で、この洞穴で風葬された後に洗骨され、厨子甕に納骨されて葬られていると考えられます。この丘陵一帯には「中並里之墓」「手登根里之子の墓」「平仲大主の墓」が点在しており「新里集落」発祥と発展に関わった先人達が葬られ、神々として祀られる聖域として崇められています。集落を南北に通る急勾配の「新里ビラ」は周辺に幾つもの拝所が点在する"神の坂道"として長い琉球の歴史を刻んでいるのです。







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最終更新日  2022.11.11 21:09:16
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