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2022.09.21
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カテゴリ: 中城村



沖縄本島中部の「中城村(なかぐすくそん)」の東南部に「津覇(つは)集落」があります。かつて古い集落があった「古島」と呼ばれる場所は、伝承によると現在の「津覇集落」の西側丘陵の一帯にありました。元々は「上津覇/イーチファ・富里/フサトゥ・糸蒲/イトカマ」の3つの小集落に分かれていたと伝わります。1983年(昭和58)の「中城村教育委員会」による発掘調査ではグスク時代から近世期にかけての遺物が発見されており、その後の時代に3つの小集落は丘陵地から現在の平坦地に移動して1つの集落に合併したと言われています。また、1781〜1798年に作成されたとされる『琉球国惣絵図』には「津覇」が既に現在地に集落を形成している事が確認できるため「津覇集落」はそれ以前に移動してきたと考えられます。


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(上津覇ヌ嶽の石碑とウコール)

「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」は「津覇集落」西側の丘陵地帯に位置し、この付近はかつて集落の古島の一つである「上津覇」があった場所であると言われています。以前の拝所はこの地点から南東側に広がる「上津覇山/イーチファヤマ」の頂上付近にあり、小さな石造りの祠があったと言われています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『上津覇ノ嶽 神名 津覇コダカネモリノセジ御イベ』と記されており、約300年以上の歴史を持つ拝所である事が分かります。「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠内部には3基のウコール(香炉)と石柱が祀られており、祠の敷地入り口には「上津覇ヌ嶽」と彫られた古い石碑とウコールが2基設置されています。


(糸満之墓)

(大湾按司三男 大湾子之墓)

「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠西側に隣接して「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」が祀られています。「糸満」は「津覇集落」の「根屋/ニーヤ」と呼ばれるムラの創始家の一つと言われており、現在の「糸満門中」は伝統芸能の獅子舞を保管する「獅子屋/シーシヤー」を管理しています。また「英祖王(在位1260-1299年)」の父である「恵祖世主/えそよのぬし」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子/おおわんしー」は「津覇集落」の「根屋」の一つである「呉屋門中」の元祖であり、この門中は集落の旗頭を保管する「御神屋/ウカミヤー」を管理しています。2基の墓にはそれぞれ「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」と彫られた石碑が建立され、コンクリート製のウコールが祀られています。


(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ)

(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキの祠内部)

「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の南西側で、中城村立津覇小学校の裏手に「富里山/フサトゥヤマ」と呼ばれる丘陵地があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「富里/フサトゥ」があったと言われています。この山の東側に「富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ」の祠が鎮座しており、この御嶽は『琉球国由来記』には『富里之殿』と記されており『稲二歳之時、花米九合宛・五水一沸二合宛・神酒一宛・シロマシ二器津覇地頭、神酒四宛・肴一器同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、巫・根神・掟アム・居神十五員、馳走也。』との記述があります。「富里拝所 昭和六一年十二月二十八日」と刻まれた祠内部には霊石が祀られています。


(合同遥拝所/ウトゥーシ)

(合同遥拝所/ウトゥーシの火の神/ヒヌカン)

「富里山/フサトゥヤマ」の北側にある南上原糸蒲公園の東側に「糸蒲山/イトカマヤマ」があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「糸蒲/イトカマ」があったと伝わってます。この土地に住んでいた人々は元々、現在の琉球大学千原キャンパスの生協北食堂売店南側にある「シージマタ」と呼ばれる地域に住んでいました。しかし「棚原一門」との戦いに敗れ「糸蒲」に移り、一時生活した後に現在の「津覇集落」に移り住みました。「合同遥拝所/ウトゥーシ」には3基のウコールが祀られており、それぞれ「糸蒲ヌ嶽」「シージマタノ嶽」「糸蒲寺/イトカマデラ」で「糸蒲」に住んでいた人々にゆかりのある拝所への「遥拝所/ウトゥーシ」となっています。因みに「糸蒲ヌ嶽」は『琉球国由来記』に『糸カマノ嶽 神名 糸掛カネモリノセジ御イベ』と記されています。


(龕屋/ガンヤー)

(龕屋/ガンヤーの内部)

中城村立津覇小学校の体育館後方に「龕屋/ガンヤー」があります。琉球石灰岩をアーチ型に積み上げ、石積みの目地に漆喰が塗られています。「龕屋/ガンヤー」とは「龕/ガン」を収める小屋の事で「龕/ガン」とは、火葬が行われていなかった時代に遺体を安置した棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿の事をいい「津覇集落」では「ンマ/馬」と呼ばれていました。集落から墓地まで「龕/ガン」が通る道は決められており、現在の津覇小学校の校舎と校庭の間の小道を通る事になっていましたが、その後「メーガーラー」と呼ばれる川の沿道に変更されました。「龕/ガン」は4人で担ぎ、坂道になると集落の人々が手伝ったと伝わります。「龕屋/ガンヤー」は平成18年3月27日に「中城村有形民族文化財」に指定されました。


(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)

(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)

(校長先生の宿泊所跡)

「津覇尋常高等小学校」は現在の「津覇小学校」の前身で、学校の校舎はほとんど瓦葺きで鉄筋コンクリート製の建物でした。学校の裏には農園があり高等科から農業の授業で野菜や家畜の育て方を学んでヤギ・豚・鶏を飼育していました。生徒たちは自分で育てた野菜を収穫して「津覇集落」や隣の「和宇慶集落」の「マチヤー/商店」に売り、得たお金でお菓子を買って校舎の屋上に集まって楽しく食べたというエピソードが残っています。1941年(昭和16)に「津覇国民学校」と名称を変え、1944年(昭和19)には日本軍の兵舎として使われました。そのため、ほとんど学校で授業が出来ない状態になり、周辺集落の「ムラヤー/公民館」や民家を借りて授業を行ったと伝わります。更に、学校の北側に隣接した場所には校長先生の宿泊所跡があり、現在は大きなガジュマルの木が育っています。


(ジュンサヌヤー/駐在所跡)

「津覇小学校」の南側を流れる「メーガーラー」と呼ばれる川沿いに、かつて「ジュンサヌヤー」と呼ばれる駐在所がありました。ジュンサ(警察)は集落の外から派遣された人が住み込みで勤務していました。戦時体制下に入ると集落での見回りも一段と厳しくなり、青年達の娯楽の一つであった「モーアシビ/毛遊び」も取り締まりの対象で厳重な処罰が与えられたそうです。大正生まれの古老によると、ある日「津覇集落」の青年達がヤンバラヤー(現在の吉の裏公園の浜)で「モーアシビ」をしているとジュンサに見つかり、その中のサンシンヒチャー(三線弾き)が捕まったのです。その後「ジュンサヌヤー」に連行されて『あの浜で三線を弾くなら、ここで弾け!』とジュンサに言われ、夜通し三線を弾かされたという実話が残っています。


(ヒラマーチャー/平松跡)

(アシビナー跡)

「津覇小学校」の北側には集落の共同墓地が隣接しており、さらにその北側にはかつて「アシビナー/遊び庭」がありました。その昔、この共同墓地とアシビナーの間には「ヒラマーチャー/平松」と呼ばれる高樹齢の見事な松の木があり、神が宿る木として住民に崇められ「神マーチ/神松」と言われていました。共同墓地の古い彫込墓(フィンチャー)と平葺墓(ヒラフチバー)が並ぶ場所の上部に生えていたと言われておりアシビナーの御神木として親しまれていましたが沖縄戦で消失したと考えられます。現在、かつて各集落に一箇所あったと言われているアシビナーがあった場所は深い草木に覆われていますが、当時は集落の老若男女が集い交流して賑わっていた場所でした。


(イサヌヤー/診療所跡)

(イサヌヤー/入院室跡)

(マットォーグヮーミチ)

国道329号線沿いで現在の新垣タイヤサービスの北側に隣接した場所には戦前に「イサヌヤー」と呼ばれる診療所がありました。この診療所を開いていたのは屋号「新後玉那覇」の比嘉盛茂(ひがせいも)氏で、診療所の南東側に入院室の施設もありました。1944年(昭和19)年頃には「津覇国民学校」に日本軍が駐屯し始めた為、診療所と入院室は日本軍に貸し出されていたと言われます。比嘉氏が徴兵された後、診療所は将校の宿泊所、入院室は日本軍の慰安所として使用されました。因みに、診療所の入院室は「マットォーグヮーミチ」と呼ばれる道沿いにあり、この小道は独身で17〜18歳のチュラカーギー(美人)の女性のみが通っていたと言われており、現在も集落に残っています。


(マチヤー/商店跡)

かつて「津覇集落」には「一銭マチヤー」という駄菓子屋や雑貨屋が数多くあり、様々な物が販売されて子供達の筆記用具、米、酒、ソーメン等が売られていました。「イサヌヤー」の北側に隣接した屋号「東眞境名」の呉屋陽賓(ごやようほう)氏が、もともと「与座商店」があった場所で国から許可を取り、当時は貴重品であった米と酒の専売店をして高級菓子等も販売していました。お店の商品は「与那原」の業者さんが配達をしていて、更に戦前は自転車のパンク修理も行っていました。前身の「与座商店」は「ユザヌマチヤー」の名称で呼ばれ、お店は「ユカッチュ」と言う首里出身の人が経営し、琉球王国時代の髪型である「カタカシラ」を結っていた事から「ユザヌカンプー」と呼ばれていたと伝わります。







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最終更新日  2022.11.05 00:17:15
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