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神聖ローマ皇帝のヴェンツェル
1397年5月、ボヘミア(Bohemia)王で神聖ローマ皇帝のヴェンツェル(Wenzel)は、シャンパーニュ(Champagne)の首都ランス(Reims)を訪れた。(ボヘミア王としてはヴァーツラフ4世(Václav IV)、ルクセンブルク公としてはヴェンツェル2世(Wenzel II)またはヴェンセラス2世(Venceslas II))
すでに発狂していた国王シャルル6世(Charles VI)の治める、フランス・ヴァロワ朝に招待されたからだ。
シャンパーニュ地方は、地理的にヨーロッパ経済圏の真ん中に位置する。河川が商品輸送の最大の手段だったので、交易の要所だった。
フランス中西部とはロワール川で、フランス南部、地中海方面とはソーヌ川で、ドイツ方面とはライン川、モーゼル川で、フランドル、ネーデルランド、北海とはムーズ川で、イギリス方面とはセーヌ川で結ばれている。
ちょうど新酒の出る季節だった。ヴェンツェルが楽しみにしていたのは、ほぼ完成したゴシック建築の壮麗なランスノートルダム大聖堂ではなく、ワインだった。
シャンパーニュ地方はすでにワインの名産地としてブルゴーニュと同じぐらい有名だった。この頃は、まだ泡が無く、かなりの甘口で、色の薄い赤ワインだったはずだ。
熟成という感覚がまだないこの時代、新酒のありがたさも今では考えられないほどだった。
大酒飲みの皇帝はこのワインを大変に気に入った。
国王主催の歓迎晩餐会をヴェンツェルはいきなり深酒で欠席するという失態を犯したほどだ。
結局、翌日の会談も酒が抜けず不調に終わった。
皇帝としての仕事も忘れて彼はワインにおぼれた。毎日、教会の9時課(午後3時)の鐘が鳴ってから、夕べの祈り(午後6時)の鐘が鳴るまで、3時間、酔いしれたという。
協定書の作成には一年もかかった。さらに調印までもう一年を費やした。
それでもランスを離れず、その後一年近くも「仕事後の骨休め」として、この寒い都市に滞在して飲みまくった。都合3年間もランスに居続けた。
当時はガラス瓶も冷蔵庫も無い時代。この涼冷な銘醸地には、さらに石灰岩の地形にはワインを保管できる穴倉さえ持っていた。どうしてこの場を離れることが出来るだろう。
正に、職務怠慢である。ろくな仕事もしないで、飲んだくれている。
当時、神聖ローマ帝国の皇帝というのは、世襲ではなく7人の選帝侯による選挙によって選ばれていた。
1400年8月20日、ついに、ライン川流域の4人の選帝侯が「ヴェンツェルは、君主としてのみならず人間としての資質にも問題があり、国王の責務を果たさない」ことを理由に、ヴェンツェル不在のまま皇帝選挙を強行し、ライン宮中伯ループレヒト3世(Ruprecht III)を新たな皇帝に選出してしまった。
しかしヴェンツェルはこれを認めず、ループレヒトと対立した。
この当時の教会大分裂においても、ローマ教皇派を支持するループレヒトに対し、ヴェンツェルは対抗するボヘミア(ベーメン)勢力と手を結び、1409年のプラハ大学におけるドイツ人排斥など、ボヘミア国内を実質支配していたドイツ人たちを排除し、西スラヴ系チェック人(チェコ人)による国づくりを目指した。
ボヘミア王として、プラハの宗教思想家ヤン・フス(Jan Hus)を保護したが、1415年、ヤン・フスは異端であると火刑に処せられた。
ヴェンツェルはローマ教会との和解策を探った。フス派の中心となっていた新市街参事会を解散し、ローマ教会信徒だけの新しい新市街参事会を組織したが、1419年、怒ったプラハの民衆が蜂起し、プラハの市庁舎を襲撃、ドイツ人市長と市参事会員を窓から投げ捨てた。(第一次プラハ窓外投擲事件(だいいちじプラハそうがいとうてきじけん))
これを聞いたヴェンツェルはショック死したという。
ドン・ペリニヨンの250年以上も前の話である。
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