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松永久秀
松永久秀(まつながひさひで)は、戦国武将。大和国(奈良県)の戦国大名。若いころは優雅な立ち振る舞いの美男子だったらしい。
1510年生まれとされる。正しければ、織田信長の父、信秀と同い歳。
1533年ごろから、三好長慶(みよしながよし 12歳年下)の文官として早くから仕えた。三好長慶は父の代からの細川春元の被官であったが、後に「初の戦国天下人」とも呼ばれるほどになる。
文武芸とも才能にあふれ、家臣として徐々に頭角を現していく。
1548年、なんと主君三好長慶が、その主君細川春元に謀反。室町十三代将軍、足利義輝を近江に追放。長慶は京を支配下に置く。
1556年(46歳)、三好長慶から摂津滝山城を預けられ、初めて城持大名となる。
1558年、長慶、足利義輝と和睦し京に復帰させる。三好長慶の全盛期が始まる。
1559年11月、長慶に大和国の平定を命ぜられる。後に信貴山城(しぎさんじょう)に奇抜な四階の天守櫓を造築。(後に安土城のモデルになったとされる)
1560年、つづいて多聞山城(たもんやまじょう)築城、四階の天守櫓(多聞櫓(たもんやぐら))を持つ。62年完成。
1561年、足利義輝に名刀を献上。
1564年7月、三好長慶死去。三好氏の一族重臣である三好三人衆とともに、なんと主家乗っ取りに成功(54歳)。将軍足利義輝も復権を画策。
1565年5月19日、三好三人衆とともに、なんと現役の将軍足利義輝を二条御所で襲撃殺害。足利義栄を14代に擁立。
しかしその後、三好三人衆と主導権戦いで急激に対立。11月、三好長慶の後継に甥三好義継を担いだ三好三人衆となんと断交、内戦状態に。
1566年12月、不利な戦況で、キリシタン兵士のための、日本初なんと「クリスマス休戦」を提案し成立したという逸話がある。
しかし、上芝の戦で三好義継と三好三人衆に敗北。
1567年2月、なんと三好義継が久秀側に鞍替えしてきたため信貴山城に復帰。
10月10日、なんと三好三人衆が陣所としていた東大寺を襲撃。大仏殿炎上焼失、大仏の首が落下破損。(首は1690年再鋳造、大仏殿は1709年再建)
1568年6月、三好三人衆反攻、信貴山城落城。
9月、足利義昭を擁して上洛した織田信長の方になんと素早く降伏。3代将軍足利義満秘蔵の唐物茶入れ「九十九髪茄子(つくもなす)」と2人の孫を人質に献上。
14代将軍足利義栄死去、10月、足利義昭15代就任。
12月、織田信長に「不動国行の刀」を献上。大和国の支配権得る(58歳)。
1572年、なんと足利義昭が武田信玄側に鞍替え。
これを見て、なんと続いて織田信長に謀反。三好義継、三好三人衆とともに、武田側に寝返る(62歳)。
1573年、4月12日、なんと武田信玄が病で急死。
12月、三好義継自害。三好三人衆も壊滅。三好家滅亡。
久秀は多聞山城を包囲され織田信長に再び降伏。
足利義昭追放、室町幕府滅亡。
1575年、信長に許されるが所領は没収され、配下と成る。
1576年、多聞山城破城、天守も破壊された。
1577年8月、なんと織田信長に再び謀反。上杉、毛利側に寝返る。
10月、多聞山城に籠城。織田軍に包囲される。
10日、なんと突然、配下の鉄砲隊約2百人が敵に寝返る。
信長が降伏を勧告する。これは、人生三度目である。
信長がこれまで何度も所望した久秀所有の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも」を差し出せば再度助命するとした。
しかし、今回は拒否。
なんと爆薬によって、古天明平蜘蛛茶釜、もうひとつの名器、茄子の茶壷とともに、有名な四階の天守櫓で壮絶に日本初の自爆、自害した。
享年68、平均寿命30歳という時代である。(人生50と詠った織田信長も後に享年49で自害)
1577年10月10日は10年前に東大寺大仏殿焼失と同日だったため仏罰(バチがあたった)ともいわれている。
人質の2人の孫は落城前に京都六条河原で処刑された。
逸話としては、平蜘蛛茶釜は爆発の弾みで遠くへ飛んでいき、後の豊臣家筆頭茶人古田織部が偶然拾って持ち帰った上、三好義継の孫が後にその古田織部に仕えたというのもある。
なんと芸能事務所「株式会社タイタン」の社長、太田光代(爆笑問題、太田光の妻)は末裔。
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