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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】
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神峯寺を後にし、次の大日寺を目指して山を下り、再び55号線・土佐東街道に出て
高知市内方面に向かう。途中、安芸市の津波避難タワーが車窓から見えた。
南海トラフ地震に備え高知県や市町村が整備している津波避難タワーが100基を
超えていると。
そして55号線を右折して進むと安芸城跡へ立ち寄る。
古代から安芸地方を支配してきた安芸氏の居城。
延慶元(1308)年、安芸親氏によって築かれたといわれている。
安芸氏は、戦国期には土佐七雄の一人に数えられ、「安芸五千貫」を領有する大豪族として、
土佐国東部で最大の勢力を誇るようになったが、永禄12(1569)年、土佐統一をめざす
長宗我部元親に攻められ、激戦の末に敗れた。
安芸城は、安芸平野のほぼ中央にあり、標高41m、東西100m、南北190mの長楕円形をした
平山城の頂上からは、安芸平野や太平洋を一望できる。
現在は詰のほか、二の段、三の段などの曲輪や堀切、虎口の遺構、大手門の枡形などが残る。
安芸城跡周辺案内図。
城跡に安芸市立の書道美術館が。
その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに
山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構え、安芸城は安芸土居と
称された。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、
周辺が整備され、今に至っていると。
五藤吉兵衛為浄(ためきよ)は、13歳で山内一豊に仕え、越前(福井県)攻めの際には、
一豊が朝倉軍の敵将三段崎勘右衛門と組み討ちになり、首を獲ったものの一豊自ら顔面に
矢を受けた。そこで家臣の吉兵衛為浄は一豊の顔面を草鞋のまま踏みつけてようやく矢を
抜いたと。その時の姿が描かれていた(左)。
毒井戸跡。
安芸国虎と長宗我部元親との間に起きた戦で、安芸城の落城を早めた原因のひとつとされる
毒井戸跡。1569年(永禄12年)4月、長宗我部の大軍に安芸城は包囲された。
安芸勢は敵に背後を取られながらも善戦、籠城は24日間に及んだが、この間に長宗我部側に
内通した横山民部により、井戸に毒が入れられ、倒れるものが続出、食料も尽きていく中で、
兵たちの士気は著しく低下する。そして、ついには城の東側、安芸川の対岸より放たれた
火矢のために城が炎上してしまう。最後を覚悟した安芸国虎は城内に残る全将兵と民の助命と
引き換えに降伏、菩提寺であった浄貞寺に移り自害し、安芸城は落城したと。
藤崎神社。
関ヶ原の戦い後、長宗我部に代わって土佐国に入封した山内一豊の家臣で、
江戸時代を通して安芸を治めた五藤一族の神社であると。
安芸城跡 説明板。
安芸城は、小高い山とその山麓とを利用して築かれた城で、山上の安芸氏・長宗我部氏の
戦国時代の城と山麓の五藤氏時代の江戸期の土居の二つが混在して残っている。
東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があり、これらを外堀とした
天然の要害。
戦国時代の城は、山頂に詰を構え、南北に3段の曲輪を構え、最も高い部分の詰ノ段の
南部分周囲には土塁がめぐっていた。
また、詰ノ段の南下には2段の曲輪を備えており、南三ノ段下には石垣が築かれている。
勿論、戦国時代にも、山麓に居館は構えられていたが、今では、多くが江戸期の遺構。
山麓の五藤氏時代の遺構としては、水堀、土塁、石垣、大手門跡などがある。
歴史民族資料館。
枝垂れ桜が迎えてくれた。
巨石が使用された石垣で構築された6m四方の大手門跡(枡形虎口)とその前の石垣で
固められた土橋、その両側の水堀の光景はなかなかのもの。
安芸城(土居)の水堀と土塁。
見事に手入れされた老松が。
大手門跡(枡形虎口)を正面から。
土居の外には、家臣団の居住地である廓中を整え、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた街並みは、
武家屋敷の面影をとどめていた。
そして更に車を走らせ「岩崎弥太郎 生家」を訪ねた。
神峯寺から岩崎弥太郎生家までの走行ルート。
広い駐車場の脇には巨大な「岩崎弥太郎先生」と刻まれた像が。
1985年(昭和60年)に生誕150年を記念して江ノ川上公園に建立された。
阿南安芸自動車道の工事計画のため2015年(平成27年)にこちらに移設されたと。
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保 5
年( 1835
年) -
明治 18
年( 1885
年))は、
日本の実業家。
三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物。
諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。
左手に高知県安芸市生まれの作曲家・弘田龍太郎(1892年~1952年)の
「春よ来い」の歌碑が。
♪♪春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている♪♪
岩崎弥太郎は、天保5年(1834)12月11日にこの家に生まれ、波乱に富んだ青少年期を
この地に過ごしたのだ。
安芸市内より約3㎞。郊外の住宅地、井ノ口一ノ宮に弥太郎生家が修復保存されている。
岩崎弥太郎の先祖は安芸国虎の家臣だったようで、のち長宗我部の安芸支配の時代は
長宗我部に仕え、山内氏が土佐入国後は開墾に従事し農業を営んでいたと。
岩崎弥太郎生家入口。
この家は、弥太郎の曽祖父 弥次衛門が郷士の株を売って1795年ごろ建築したもので、
建坪約30坪藁葺きの平屋、表が8帖、その脇に4帖半2間、茶の間9帖になっていて、
その左が通り庭、通り庭から茶の間の床下をのぞくと芋壷(芋貯蔵穴)がみえる。
また風呂と便所は別棟に設置されていた。
生家敷地内には、弥太郎に関する遺構を多く観ることができる。
少年期に大志を抱き、「日本列島は我が庭の内にあり!」と言って自ら組んだ、
日本列島の形を模した庭園の石組みが残っていた。
こんなイメージで石が配置されていると。
「岩崎弥太郎生誕之地」石碑。
三菱マークを発見。
そして岩崎家の家紋である菱形が縦に大・中・小と三つ重なった『三階菱』。
これが三菱のマークの原型であると。
「童謡の里 安芸」と道路標識に。
安芸市は、作曲家・弘田龍太郎のふるさとであることから、童謡に特化したまちづくりを
進めていると。
代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よこい』
『靴がなる』など多数あると。
「野良時計」は、弥太郎生家から車で5分ほどの場所に。
まだ家ごとに時計を持てなかった明治の中頃、大地主であった畠中源馬氏が、
歯車から分銅に至るまで独学で全てのパーツを一人で作製した時計台であり
安芸市のシンボルとして今も多くの人々に親しまれていると。
個人の住居でもあるので内部は公開していなかった。
時計は止まっているようであった。
そしてネット情報によると現在は観光シーズンやイベント時などだけ動かして
いただいているのだと。
近くには歴史を感じさせる火の見櫓があり半鐘がぶら下がっていた。
再び大日寺に向かって国道55線を走ると、 ごめん・なはり線の「球場前」駅前の
右手に「安芸ドーム」を旅友が発見し急遽右折。
この奥にある安芸市営球場 1965
年度から阪神タイガースが春季と秋季のキャンプを開催する
会場として利用されており、別名タイガースタウンと呼ばれていると。
なお 2003
年から、春季キャンプの一部が沖縄県宜野座村でも行われていると。
2012
年より春季の 1
軍キャンプからは撤退。 2
軍とオープン戦は引き続いて使用していると。
そして車が店に突っ込んでいる現場に遭遇。
実は「居酒屋 是々」の店の看板?
国道55号線沿いの物部川の手前の果物屋「オレンジハートのくだもの屋」に立ち寄る。
土佐文旦が袋入りで売られていた。
ブンタンの標準和名はザボン(朱欒、香欒、謝文)。ボンタン、ジャボンとも呼ばれる。
「土佐文旦」は、昭和の初め頃に高知県土佐市宮ノ内地区で栽培方法が確立されたと。
お土産用に「小夏(コナツ)」を購入。
以前にも土産として買ったことがある「小夏(コナツ)」
小夏の一番の美味しさは、なんといっても甘皮。
小夏は他と比べて甘皮が甘いのです。
よって皮を剥く時はあえて白い部分を残して房毎食べるのです。
そして大日寺に向かう。(明日にブログアップ)
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大日寺参拝の後は岡豊城(おこうじょう)跡に立ち寄る。
岡豊城跡に向かう途中の坂道も青空の下で桜が満開。
高知県立歴史民俗資料館の駐車場に車を駐める。
高知県立歴史民俗資料館に建つ長宗我部元親の銅像。
戦国時代の土佐は、応仁・文明の乱により支配力を弱めた細川氏に替わり、一条氏、津野氏、
大平氏、吉良氏、本山氏、山田氏、香宗我部氏などの国人たちが覇権を争っていた。
群雄割拠の世で勝ち上がったのが、長宗我部氏だった。長宗我部氏の岡豊城は、
1508(永正5)年頃に本山氏らに攻め込まれて一度は落城している。
しかし、元親の父である国親が1516(永正13)年頃に再興。
その後、小勢力ながら着実に支配圏を広げていった。
そして、その跡を継いで飛躍したのがこの長宗我部元親。
岡豊城は「続日本100名城」に登録されたのだ。
私の「日本100名城」スタンプラリーは3年前の2015年9月3日の高知城登城で完了。
793番目の登城完了者であると公益財団法人 日本城郭協会から。
駐車場の廻りも桜が満開。
岡豊城跡 全体案内図。
岡豊城の築城は発掘調査の結果、13~14世紀ごろ。「土佐物語」によると16世紀の初頭に
一度落城したと伝えられており、その後、国親により1516(永正13)年に再興され、
1588(天正16)年に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間にわたり
居城として使われていたと。
岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に
香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができる。
南には国分川が流れ、自然の要害の地であった。
城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の
二つの出城からなる連郭式の構造。本城は、詰と堀切によりへだてられた二ノ段、
詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、虎口(城の中心となる出入口)は
西部に造られている。
登城道は、歴史民俗資料館の裏手、長宗我部元親像の背後が入口として整備されていた。
2~3分も登れば、あっという間に二ノ段へ。
二の段から東方向の眺望。
岡豊城は、山頂に主郭部を置き、主郭部には詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などが階段状に並ぶ構造。
東西に長い丘陵にあり、西の伝厩跡曲輪、南の伝家老屋敷曲輪までが城域となる。
中枢の区画を「詰」と呼ぶのは珍しいのだが、この地域では一般的なのだという。
二ノ段ではさっそく絶景が出迎えてくれ、東には土佐国衙や土佐国分寺が見下ろせた。
二の段から見た岡豊城跡周辺の風景。
周囲に高い建物がないので当時の雰囲気をそのまま味わえるのであった。
遠くに見える四国の山々を見ると、
あの山の向こうまで統一したいと野心に燃えた
長宗我部元親の気持ちが何となく・・・
。
堀切。
詰と二ノ段の間にある堀切。堀切は、尾根などを空堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設。
幅3~4m、深さ2m前後あり、岡豊城のなかでも最大の堀切。
空堀を越えて2段上がったところが、本丸にあたる詰(つめ、本丸)。
中央部には礎石建物が建っていたことが判明していて、現在は櫓が建てられ展望台に。
岡豊城跡略年表。
ここからの眺望もすばらしかった。南には香長平野、西には高知市街地が見下ろせ、
南斜面下には国分川が流れていた。西から南にかけては当時から湿地帯だったようで、
自然の要害となっていたことが実感できるのであった。
そしてこの日は、既に田植えの準備が始まっていて、水田に水が張られていた。
地鎮(じちん)の遺構。
12枚の土師(はじ)質土器の坏(つき)に91枚の銭貨が入れられ、土坑(どこう)に
納められていたと。土坑とは土に掘られた穴。
土坑に納められた坏や銭貨は、築城の時に土地の神を鎮める祭りに用いられたと考えられると。
岡豊城のジオラマ。
続日本100名城案内コーナー。
続100名城のスタンプラリーは2018年4月6日(お城の日)から開始されているのです。
・・・ つづく
・・・
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