JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.13
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我が家の庭の花たちです。
ピンクの芍薬が咲きだしました。



このピンクの芍薬が、今年の芍薬の花の「トリ」です。



ゼニアオイ(銭葵)も花数が増えて来ました。



大きな葉に隠れがちですが。



そしてアイリスもそろそろエピローグへ。





『旧東海道を歩く』ブログ 目次

そして延べ13日目の旧東海道を歩く(藤枝~金谷)もエピローグへ。

宇布賣神社を後にして、東海道線に沿って歩き、金谷駅に向かう旧東海道線に
突き当たり左折して進む。上り坂になって右側にあったのが
『佐塚屋本陣(本町・佐塚佐治右衛門)』


その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿 本陣を務めました。
建坪二六三坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱が付いていたので「鯱の御門」と
呼ばれていました。
表の間口は十三間、奥行は三五間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地に当たります。
慶応四年(九月八日明治改元、一八六八年)十月五日、明治天皇 御東幸のおり、ここで天皇が
お昼休みをとられました。しかし、御食事の支度には本陣の家族は一切手を出さず、
婦女子も遠ざけられ、天皇の茶の湯も、中町の塚本市右衛門家の井戸水が使われました。
なお当時の「御小休」、「行在所」の関札(宿札)と、神器(八咫鏡)が安置された「内侍所」
(山田屋本陣)の関札が、佐塚家に大切に保管されています。
明治三年(一八七〇)、本陣は廃止され、普通の旅人や役人の宿泊所(旅籠)となりました。」



更に旧東海道をJR金谷駅方面に向かう。



同じく右側にて立札が。

金谷宿には、山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣と 脇本陣、問屋場、助郷会所等があったと。
今はその面影も無く、佐塚書店前と地域交流センタ ー前に「本陣跡」の立て札があるのみ。



『東海道五拾三次之内 遠州 金谷宿 本陣跡 柏屋』。



『柏屋本陣(一番本陣)跡』。
「柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つです。
代々本陣と名主を務めていました。先祖の河村弥七郎 が徳川家康 に忠節を尽くしたことで
信州に知行地を与えられ、金谷宿・島田宿にも屋敷を与えられています(河村家由緒書」)。
江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣でした。寛政三年(一七九一)の
「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五ニ軒の全ての
宿泊施設が焼失してしまいました。
天保一四年(一八四三)の幕府記録『東海道宿村大概帳』には、柏屋本陣は

なお、表間口は一九間五尺、奥行三五間半(表は街道に面し、奥は尺川まで)あり、
尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿となっていました。
嘉永七年(一八五四)の「東海大地震」で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営みました。
*本陣=宿場で大名や幕府役人・公家などが使用した宿泊施設。」



天保十四年の金谷宿明細書によると、佐塚屋は「建 坪二百六拾三坪、門構玄関附表間口拾三間、

現在、屋敷は分割されて当時の面影は残っていないと。

右手にあったのが『脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡』。



『脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡』。
「脇本陣 とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが
休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、
本陣 が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。 
元禄~正徳(一六八八~一七一五)ころの屋並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が
脇本陣となっています。
寛政三(一七九一)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失して
しまいました。それから十年後の享和ニ(一八〇ニ)年の記録では、幕府からの拝借金で、
玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。
天保十四年~安政六(一八四三~一八五九)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に
脇本陣が建坪一〇五坪(三四六 , 五㎡)玄関付(門構えなし)と記録されています。
これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は
享保十九(一七三八)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。
また、文政年間(一八一八~一八三〇)から明治三(一八七〇)年の大井川川越し関係の
記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。」



左手の「協和水道㈱」前にあったのが『定飛脚問屋(三度屋)跡』。



『定飛脚問屋(三度屋)跡』。
「田町の南側に「浅倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という
定飛脚の問屋がありました。 
定飛脚とは、「三都定飛脚」ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、
月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも
言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。 
並便は昼間のみの往来でしたが、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を
六日としたことから「定六」ともよばれました。明治四(一八七一)年、郵便の制度が
施行されるまで、書類や信書、金銀の郵送もこの定飛脚で取り扱われました。」



だんだんとこの日のゴール地点が近づいて来た。



『東海道金谷宿案内絵図』。



現在いる場所は写真中央の「一里塚」手前。



その先、ガード手前の左側にあったのが夢舞台東海道道標『金谷宿』。



『一里塚跡 金屋町新町』
「延享三年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある。
里程 江戸へ五十三里  嶋田へ一里  日坂へ一里廿四町 金谷宿」。



そして左折しガードを潜ると、正面の法面にあった案内板。



坂の上の枝垂れ桜が迎えてくれた。



満開の枝垂れ桜。



そして坂道を上り、『長光寺』を訪ねることとする。



『本遠山 長光寺』への階段を登る。



『本堂』。
天保元(1644)年、慈善院日悦(にちえつ)上人が身延山二十六世智見院日暹(にっせん)上人を
開山に開いた日蓮宗 本遠山 長光寺。
天保十四年の「宿明細書」によれば、「御除地高二石、凡建坪六拾五坪右は往還より南の方
四拾二間程入り、往還差支の節は御休泊相勤め申し候」とあり、金谷宿唯一の日蓮宗寺院。



本堂に掛かる長光寺の扁額。



『鐘楼』。



『松尾芭蕉 句碑』。



『道のべの 木槿(むくげ)は馬に 喰はれけり』(野ざらし紀行より)。



『松尾芭蕉句碑』。
1644~1694(天保一~元禄七)伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。
芭蕉の号は深川の庵の周りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。
芭蕉俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を新興文学たる俳諧の中に生かしたこと、
つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。
『道のべの 木槿は馬に 喰はれけり』
道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと一口食われてしまった。
何事が起ったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう影も形も無い。
唐突のようでもあり、当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。
意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる句である。
注「野ざらし紀行」中の一句である。」



この御堂は?



『七面堂』。
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、その昔は七面天女と呼ばれ日蓮宗系において
法華経を守護するとされる女神。七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の
守護神として信仰されやがては日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として
各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったのだと。



『本教院日貞上人』像。
本教院日貞上人とは??



『手水場』。



『寺務所』



長光寺はJR金谷駅の裏にある寺。



再びガードを潜り振り返る。



JR金谷駅への坂道を登っていくと右手にあったのが
『巖室神社(いわむろじんじゃ)』の鳥居。
「社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて
三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、
金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。
町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。
その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」に変更されましたが、
氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。」



そしてJR金谷駅前のロータリーに到着。
ロータリーにあるモニュメントは「ユメオン〜夢音〜」という愛称が公募によって
つけられており、未来に向かって大きく躍進し、夢のある町づくりを目指してほしいという
願いが込められているのだと。
モニュメントは輪が垂直に重なったようなものの中に、鐘がいくつか(カリヨン)
設置されていた。これはおそらく時報としての機能なのでしょうが、いろいろな曲が
流れるように設定されているようです。



バスロータリーの壁面には、長さ25m、高さ2.5mの「金谷茶まつり」の陶板彫刻が
一面に刻まれていた。
銘茶の産地「金谷」で二年に一度行われる「金谷茶まつり」。
新茶の季節の到来を告げる祭り。祭りのメインはやはり茶娘道中。茶摘み衣装をまとった
茶娘約1000人が華麗な踊りを披露すると。夕方からは法被姿の若者が威勢良く引き回す屋台道中、
力強い川越し太鼓の演奏などが行われると。夜間に行なわれる創作踊りも圧巻とのこと。



JR金谷駅正面。
JR金谷駅は、隣接する大井川鐵道金谷駅との乗り換えもできる、
金谷地域や川根地域、奥大井への玄関口。



再び駅舎前からロータリー方面を。



こちらは『大井川鉄道金谷駅』。
『大井川鉄道』は静岡県中部を流れる大井川に沿って走る金谷―千頭(せんず)間の
大井川本線(39・5キロ)と、千頭―井川間の井川線(25・5キロ)を運行する。
井川線には、機関車につけた歯車と線路に敷いた歯形レールをかみ合わせて急勾配を
上り下りする国内唯一のアプト式区間がある。



JR東海道線のホームに降りる。



金谷駅の直ぐ手前にはトンネルが。



16:51発の熱海駅を利用して帰路に。



そして定刻に熱海駅行きの電車が到着し、この日の帰路についたのであった。



                                 ​ その8 ​  に戻る。

                   ・・・完・・・





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Last updated  2020.05.01 11:47:25
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