JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2020.03.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


ここ『金山新橋南』交差点を左折すると『佐屋街道(さやかいどう)』、
『佐屋路(さやじ)』が始まるのであった。
実は船が苦手な人向けに『宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿』というルートも
整備されていたと。
その陸路というのが『佐屋街道(さやかいどう)』、『佐屋路(さやじ)』と呼ばれた道であり、
中には「船酔いする」などの理由で船が苦手な人もいたことから、七里の渡しから続く
東海道には水路だけではなく、少々遠回りになるが陸路も用意されていたのだと。
ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には
橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられたと。
その木曽川ほとりに築かれた船着場を『佐屋宿』と言い、宮宿から陸路6里の場所。
そして佐渡宿から約3里(約12㎞)下った先が桑名宿だったというワケです。
このことから七里の渡しに倣い、別名で『三里の渡し』とも呼ばれていた。
宮宿から佐野宿まで陸路 6 里、船で桑名の船着き場まで 3 里(三里の渡し)で合計 9 里。
宮宿から桑名の船着き場まで 7 里、よって 2 里ほど遠回りだったが
難破の危険や船酔いを避けることが出来、また、水上の距離も短かったことから
盛んに利用されたとのこと。
『​ ネット ​』👈リンクで詳しく説明されていましたので、興味のある方はアクセス願います。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B1%8B%E8%A1%97%E9%81%93

『三里の渡し』の昔のルート図。


   【 http://kenkou-ikka.com/~hutihata/sayasyuku2.htm

交差点角左にあったのが佐屋路と美濃路の分岐を示す『道標』。
佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、
海路の『七里の渡し』を避けた道。
道標は、文政四年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通から尾頭橋へ抜ける佐屋街道への
分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。
道標には、「東 右 なこや 木曽海道」の文字が。



因みに他の三面には
「西 右 宮海道 左 なこや道」
「南 左 さや海道 津しま道」
「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」
と刻まれているのだと。



『佐屋路』・愛知県道115号線を西に向かって走る。



津島市方面に向かって進む。



東海道新幹線のガードを潜る。



中川運河に架かる長良橋手前左手のFamilyMartの前にあったのが『明治天皇御駐蹕之所
(めいじてんのうちゅうひつのところのひ)』碑。
「駐蹕」とは、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。一時、その土地に駐留すること。
駐輦(ちゅうれん)と同義であるとのこと。
明治天皇も海路ではなく陸路を進んだのであろう。海路のリスク回避が目的であったのだろうか。



名古屋市中川区長良町3丁目を進む。



前方に関西本線&近鉄名古屋線の高架橋が。



そして正面に『庄内川』の堤防が姿を現した。



堤防上の『鳥ヶ地名古屋線』を『万場大橋』に向かって進む。
正面の高架は『名古屋高速5号万場線』。



『万場大橋』を渡った直後に左折し道なりに進むと正面突き当りに塔が見えて来た。



突き当り手前の右側にあったのが『覚王院』。



『真言宗 医王山 覚王院』。



境内入り口の標石は伊藤萬蔵氏が寄付したものであると。
正面 ちゝの観音醫王山覺王院
右面 大正十五年
左面 名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵



この『伊藤萬蔵』氏の新聞記事をネットから。


     【 https://ameblo.jp/kakashiyo/entry-12345206018.html 】より

参道入口の小さな祠の中に鎮座していた地蔵様



『本堂』。
・真言宗智山派
・本尊…木像千手観世音菩薩立像
・創建…天正十三年中興(1585)
・お乳の出なかった母親が「ここの観音様のお告げにより、境内のちちの木
(オオイタビ)の実を食べたらお乳が出るようになった」という言い伝えがあるのだと。



扁額には『観世音』と。



そして次に隣りにあった『国玉神社・八劔社相殿』を訪ねた。



『業社 延喜式 國玉神社』と刻まれた社標と石灯籠。



『国玉神社・八劔社相殿』。
「創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社より勧請したという。
「延喜式神名帳に」国玉神社、「本国神名帳」に従2位国玉明神と記載されている式内社である。
明治元年(1868)八剣社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉弊を受ける。
同5年近隣8か村の郷社に、同40年より神饌幣帛料の供進指定社となる。
なお、拝殿等の屋根は昭和58年改修。
祭神 大物主大神、天照大御神、草薙剣御霊、日本武尊。
大祭は春5月5日、秋10月7日。
当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。」



『郷社 相殿 八劔社』社標。



『手水場』。



「国玉神社の御祭神
天照皇大神、大物主命、日本武命、草薙御剣神霊」



扁額は『国玉神社 八劔社 合殿』であったがピンぼけ。



『社務所』。



佐屋街道の国玉神社角に立つ『地蔵堂』。



そして次に訪れたのが『光圓寺』。
ここは愛知県中川区万場2丁目2003番地。門前は万場『佐屋路』。
山門脇にある巨大な『石灯籠』があった。



巨大な『石灯籠』。
この巨大な石灯籠は中村区鬼頭〇〇長寿九五歳記念 死ぬる者に覚悟はいらぬ・・・と
刻まれていると。昭和六ニ年建立。



『山門』。
金字額がかかる山門は、織田信長と斉藤道三が会見した尾北(一宮市)富田村聖徳寺の
山門を移築したものであると。



扁額は『臥龍山』。



『真言宗大谷派 光圓寺』寺標。



『山門』にあったのは寺紋・『抱牡丹紋』であろうか?



扉格子の透かし彫りも美しかった。



『境内』。



『本堂』。



『本堂』を斜めから。



扁額には『如是我聞(にょぜがもん)』と。
『如是我聞』とは仏教の経典の冒頭に必ず出てくる言葉で、
「このように私は仏から聞いた」という意。
転じて、人から聞いたことをそのまま信じて疑わないこと。



『本堂』屋根の鬼瓦の龍像。



『抱牡丹紋』も。



『光圓寺』の『光』の文字も。



『鐘楼』。



境内の『三重塔』。



『三重塔』を正面から。



『三重塔』の背後、墓所入口の『蓮如上人巡化』銅像。



『蓮如上人御巡化』石碑。



境内中央に『切支丹灯籠』。
下部には密かに地蔵に似せた聖像が刻まれていた。



『私が人生に意味を問うのではない。人生にあなたに問うているのだ VEフランクル。』と
『はい、解りました』!!



『蓮如 歌碑』
 「弥陀の名を聞きうることのあるならば、南無阿弥陀佛とたのめみなひと」。



この『扁額』は?



『寺務所』。



『霊堂』碑。



ズームで。『釋常念』の文字や戒名が刻まれていたが。



『角文碑』。



『境内』。



『佐屋路』に戻り、『庄内川』の堤防方向を振り返る。
万場宿は,1634(嘉永11)年の『佐屋路(佐屋街道)』開設時から設置されていたと。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.02 16:43:33コメント(0) | コメントを書く


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