JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…

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2020.04.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





その前には民家の前庭にピンクの鳥が二羽。フラミンゴであろうか。



『米屋』の屋号を掛けた旧家。



十字路を渡る。



更に旧東海道を進む。



右手にあったのが『前野保五郎旧居跡』。
「前野保五郎は安永5年(1778)に頓宮村で生まれた。江戸時代には近江商人が北関東に赴いて
醸造業を営むという事が多くあり、保五郎もまたそれらの近江商人の店で奉公した後、
上野国(群馬県)伊勢崎で大阪屋という酒造店を開いて独立した。この店は大いに繁盛し
巨富を得たが、事業はそのまま伊勢崎で続けながら、文化年間(1804-17)には頓宮村にも
家を構えて居住した。やがて庄屋も勤めるようになったが、頓宮村や隣の野上野村が水不足に
苦しむ様を見かねて、未完であった野上野用水の完成に力を注いだ、1200両という巨額の私財を
投じ、18年の歳月をかけて文政8年(1825)に総延長7.3㎞の用水を完成させた。
この用水により約2000㌶の水田が豊かに潤い、離村する者すらあった両村の困窮は解消された。
この野上野用水は昭和32年の新用水完成まで利用されたが、保五郎なくては成されなかった
事業として、末代まで伝えられるべきものである。」



更に先に進むと左手に三角屋根の旧家がある。
現在はトタン葺きであるが、かつては茅葺であった旧家であると。



街道脇には「蝋梅」の花が。



左手に石碑が。



三角屋根の家の直ぐ先左手に、『垂水頓宮御殿跡』碑が。



「垂水頓宮御殿跡
伊勢神宮に伝わる 「倭姫命世記」 によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の
ご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである 「甲可日雲宮」 があったとされ、この時の殿舎が
この付近に設けられたことが 「御殿」 という地名の由来とされる。
また後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。」



この先にあったのが『八幡屋』。



『垂水頓宮御殿跡』から程なく、左手に諏訪神社があった。



一の鳥居の扁額。
諏訪神社は、天文11年(1542)甲賀三郎兼家が、関東から故郷に帰る途次、
信濃国諏訪大社より分霊したもといわれる。境内には金刀比羅神社・山神社・稲荷社があると。
この日は天候の心配もあり『諏訪神社』はパス。



旧東海道沿いの民家の庭には紅梅が開花。



『市場区 住宅案内図』。ここは甲賀市土山町市場。



『諏訪神社』の直ぐ先右手にあったのが、浄土宗の『生徳山長泉寺』。
この辺りが市場集落の中心であろう。



『山門』。



『浄土宗 長泉寺』寺標。



『子安延命地蔵尊標石』。
「はかりなき ひかりをつつむ かくれさも いちはのむらに かけとどむらん」



『水子供養五重塔』。



『本堂』。
長泉寺の創建年代は不詳であるが、永禄元年(1558)喜伝中興と伝わり、本尊は阿弥陀如来で、
延命地蔵尊も祀っていると。



『観音堂』。



この扁額には何と書かれていたのであろうか。



『宝篋印塔』



『殉国英霊碑』。



多くの『五輪塔』が『殉国英霊碑』の前に。



そして再び旧東海道に戻り進む。



右手に石碑が。



『土山地先一里塚』碑。
江戸日本橋から111里目(約436km)、京三条大橋からは14番目(実測で約58km地点)。
両塚とも現存せず。



「東海道一里塚跡
旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。
この制度が整ったのは、慶長八年(一六○三年)家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を
起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、 その折三十六町毎に道の左右に相対して
一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことに
はじまっている。 土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、
現在その跡はほとんど残っていない。 塚の規模は、およそ高さ二.五メートル、
円周十二メートルの大きさであったと伝えられている。
土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は
一里山と名づけられている。」



前方に橋が見えて来た。



『大日川堀割』碑。



橋の名は『大日川橋』。



『大日川(堀切川)堀割』を見る。



『東海道 反野畷』碑。



「大日川(堀切川)堀割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため
一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。
大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、
間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(一六九九年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、
領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長五○四間、 川幅四間の排水路工事に
着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(一七○三年)に完成した。」 



前方に『松並木』が所々に。



松の巨木も枯れてしまったのか・・・。



松が1本だけ寂しそうに。



樹齢何年の松であろうか。



『従是東淀領』と刻まれた石碑。
淀藩の領地(飛び地)であることを示す遺構。



『東海道 反野畷』碑。
この先、旧東海道は松並木が残る直線に。反野畷は”たんのなわて”と読むのだろう。
ここから大日川堀割(土山町大野・市場境)にかけての約400m、田園の中を真っ直ぐに
延びる旧東海道・畷を指している。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.26 06:35:10コメント(0) | コメントを書く


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