JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.04.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『東海道反野畷碑』前から更に旧東海道を進む。



左に『野洲川』を見る。



左手前方が『東海道徳原村 ひょうたん屋跡』



『東海道徳原村 ひょうたん屋跡』の木札が板塀に。



『東海道反野畷碑』の先で左に野洲川を見て、100m程進んだ右手筋角に『花枝神社』鳥居が
建っていた。



『村社 花枝神社』社標。



『花枝神社』社殿はここから北へ300m程先の国道1号線を越えたところにあった。
『花枝神社』は、嘉祥3年(851)甲賀郡喜多牧大野村喜多兵官が坂本の日吉大社・八王子社の
分霊を勧請したと伝えられている。
ズームで『花枝神社』社標と石灯籠、一の鳥居を見る。



「シーボルトとトキの剥製
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(一七九六年~一八六六年)はドイツの医師であり
博物学者である。江戸時代の日本は海外との自由な交流が制限されていたため、西欧との接点は
長崎出島のオランダ商館に限られていた。シーボルトはオランダ商館医として文政六年
(一八ニ三年)に長崎に赴任し、石として活躍する傍ら、西洋医学を始めとする蘭学を日本人に
教えた。
当寺、オランダ商節長は四年に一度、江戸に赴き将軍に拝謁する義務があり、文政九年
(一八ニ六年)の江戸参府には、シーボルトも随行した。
日本に関心が高かったシーボルトは道中で植物や動物を採集し、また日本人絵師に生物や
風景なども写生させていた。三月二十六日には土山に宿泊したが、その途中の大野村で
トキの剥製を買い求めた。
また鈴鹿峠ではサンショウウオも買ったと記されている。ニ年後に発覚したシーボルト事件では
幕府の禁制に反したとしてシーボルトは国外退去させられるが、トキの剥製などの収集品は
オランダに送られた。現在もこの剥製はライデン市の自然史博物館で展示されているが、
日本を代表する鳥だということで大英博物館からニッポアニア・ニッポンという学名が
つけられている。」



『甲賀市立大野小学校』が右手に。



両側に見事な生け垣の旧宅が。



『旅籠松坂屋跡碑』前には『長圓寺寺標』が。



旧東海道左手の『長圓寺寺標』前に『旅籠 松坂屋跡』碑があった。
ここ旧大野村は、土山宿と水口宿の間にあった間の宿であった。
往時は多くの旅籠が並び、名物は雉・鴨・鷺などの野鳥の焼鳥と玉井という銘柄の酒であったと。



『長圓寺寺標』の建つ筋を入って行くと突当りに浄土宗の『明鏡山長圓寺』があった。
『長圓寺山門』。『五重双伝會(ごじゅうそうでんえ)』の案内の木札が立っていた。
『五重双伝會』とは浄土宗の教えを五つの順序にのっとって伝える法会であると。
五重相伝の「五重」には、「お念仏の教えの中でも特に重要な五つの要点」と、
「お念仏の教えの基礎から一つずつ積み重ねて真髄に至る」の意味があるとのこと。



境内の巨木は御神木?







本堂に掛かる『長圓寺』の扁額。



『長圓寺の由来』
「はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃兵火に罹リ堂宇消失す。其の頃伊勢参宮
の僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正七年(西暦千五百七十九年)
禅宗を改め浄土宗となり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。
安政五年拾壱月拾四日、(西暦千八百五袷八年)の夜、火災の為堂宇消失す(甲賀郡史による)。
その後再建され現代に至るまで約百五十年、風風雪に耐えてきたか頓に危機感を憶える程に
老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒お願いをかなえるベく、平成拾参年拾壱月
(西暦二千壱年)当時の寺役員が発起人となり建築委員会を発足、以来三年の歳月を経て
見事な輪灸の美整い、檀信徒集まり平成拾六年拾壱月(西暦ニ千四年)落慶法要を執り行った。」



『旅籠 吉野屋跡』碑。







『河内屋』。



更に旧東海道を水口に向かって進む。



『指物屋』。



先に進むと左手の三軒家集会所の隣に『神社』があった。
社殿には扁額もなく名前は分からないが、中には本殿の小社があり、神札が貼られていた。




昔はこの辺り、「三軒家」の地名を称していた数少ない名残であると。



『三軒家集会所』の斜向かいにあったのが『大野公民館が』。



大野村の茶摘み風景を描写した眞風軒の『漢詩碑』。
眞風軒は江戸時代後期から明治期にかけての漢詩人で、農民が茶摘みに忙しい季節、
この地へ訪れて碑面の漢詩を残したのだと。



「漢詩の碑
過土山即興    土山を過ぎて即興する。
採茶時節事匁忙  採茶の時節 事匁忙(ことそうぼう)す。
緑髄青芽壮僻郷  緑髄(りょくずい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に
清風一淪君知否  清風あり。一淪(いちれん)、君知るや否や
遠到紅洋黒漠香  遠きに到る。紅洋黒漠(こうようこくばく)として香し。
    眞風軒
[ 意 訳 ]
茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙がしく
働いておられた。 茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には
新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。
この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。
また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。
お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。 尚、眞風軒という人は、
「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、
各地の風情を漢詩にしておられる人で、 江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。
(注)「一淪」は、「いちれん」とも「いちやく」とも読む。」



『鴨 長明(かもの ちょうめい)歌碑』が写真左側に。
鴨 長明(かもの ちょうめい、かも の ながあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期に
かけての日本の歌人・随筆家。
建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つ。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
と『方丈記』の冒頭を高校時代に暗記した事を懐かしく想い出したのであった。



『鴨長明歌碑』
「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらぎえ渡る 布引の山 鴨長明」



「布引山
布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。
春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月さえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿は
うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。 平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、
大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。
有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。
あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山
水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に技を引く。 江戸時代、東海道の大改修により
道すじは変わるも東西布引にそったコースに変わりなく、近世、明治天皇明治十三年行幸の
供奉池原香採のよまれし歌に
 ○吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風
 ○みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は



『大野公民館』横から田園地帯を眺めながらどれが『布引山』かと。



『一人はみんなのためにみんなは一人のために』➡これぞ『ONE TEAM』!!



『あいの土山観光案内図』更新が必要。



『甲賀警察署 大野警察官駐在所』が右手に。



この石柱には??道標であろうか。『駐在所』で?聞いてみたかったが・・・。



相変わらず、ここ街道には車、人の姿はなかった。



『旅籠 丸屋跡』



『ぬしや』



『萬塗物・泰誠堂・岡商店』。
塗物を生業としていたのであろう。
旧大野村・旧徳原村の家々には昔の屋号が掲げられ往時を偲ぶ。



商品?の仏壇が飾られていた。



『旅籠 井筒屋跡』。



『旅籠 井筒屋跡』碑。



『旅籠 篤居屋跡』。



『旅籠 篤居屋跡』碑。



『旅籠 中屋跡』。



『旅籠 中屋跡』碑。



『旅籠 舛屋』。



『旅籠 舛屋』碑。



更に『旅籠』の続く旧東海道を歩く。



『旅籠 日野屋跡』。



『旅籠 日野屋跡』碑。



『防火水』とタイルで。



『旅籠 柏屋跡』碑。



街道右手に『明治天皇聖蹟』が建っていた。
ここは『旅籠 小幡屋跡』であった。



『旅籠 小幡屋跡』碑。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.26 06:34:45
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