JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.06.06
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昨日6月5日の17時頃、マスクをした郵便配達の方が我が家のポストに、あの「アベノマスク」を

確か2020年4月1日。そして昨日6月5日に漸く我が家に届いたのであった。



「みなさまへ
 みなさまには、コロナウイルス感染拡大防止に向けた取り組みにご協力いただいていることに、
感謝申し上げます。
感染拡大を防ぐため、これまでどおり「3つの密(密閉、密集、密接)を避けていただくとともに
「新しい生活様式jを実践いただくようお願いします。その際、目分は感染者かもしれないという
意識をもっていただき、症状がない人でもマスクの着用をお願いします。

おりますが、使い捨てではなく、洗剤を使って洗うことで、再利用可能ですので、
ご活用ください。」



「新しい生活様式」の実践例。
①一人ひとりの基本的感染対策 感染防止の3つの基本
②日常生活を営む上での基本的生活様式



このマスクは洗っていただくことで、再利用できます。
布マスクの利用・洗濯方法



新型コロナウィルスを防ぐには。
日常生活で気をつけること



縦95mm✕横135mmの布マスクが2枚、ビニール袋に入れられて。



報道では今回の「アベノマスク」配布について、かまびすしく、その大きさ、効果や経済性に

関わる課題そして医療システムを破壊する全く新しいタイプの疫病に立ち向かい、
一人でも多くの国民を救えるか、ということに集中すべき時なのに、この問題が
政治利用されて国民が分断される方向に向かっていることに甚だ疑問を感じて
いるのである。
そんな中、今回の「布マスク」、「2枚郵送」について、的確に説明してくれている
ページ👈 リンク があったのでここに紹介させていただきます。



製造、品質管理、配送等に関わったすべての方々に感謝し「大切に」使わさせていただきます。




『旧東海道を歩く』ブログ 目次


追分道標を右に旧東海道を進む。



追分町自治会館前に『追分町標柱』が。



「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。
追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。
なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」
と記されていた。



『追分町標柱』の直ぐ先右手に高い『山門』が姿を表す。



真宗大谷派の『放光山 閑栖寺(かんせいじ)』の『鐘楼門』。



その門脇にある『東海道』道標と『車石・車道』の説明駒札。



「車石・車道
東海道大津・京都間三里(約12㎞)の道には、物資を運送する牛車の通行を楽にするために、
花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって
擦り削られて出来たものである。
文化2年(1805)には、画期的な車石施設工事が行われ、歩車道分離が整備された。
この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道であった。
人馬道は、旅人の安全の確保のために、一段高く設けられていた。
境内には、当時の状況を一部復元して保存している。」



『車石』。



『放光山 閑栖寺』寺標と『鐘楼門』。



『閑栖寺 本堂』。



再び『宝暦時代期 車石
本堂内陣 余間
基礎石 二基   
斜め溝 一基』
文化二年(一八〇五)以前の宝暦年間(一七五一~一七六四)に
西原宗佐エ門が用いたとする車石。



元禄2年(1689)和風句碑



「大津絵の源流 追分絵
追分の 絵師もしらしな けさの春」



緩やかな下り坂を進む。



『閑栖寺』の先の国道1号線と西大津バイパスの合流地点の脇にプラスチックの鞘堂が現れた。



『上横木町地蔵堂』。



国道1号線側に回ると京銘菓で知られる「井筒八橋本舗」の追分店があった。
玄関には名水「走り井」と、大津絵発祥の地碑が建っていた。
江戸時代にこの水で作った名物「走り井餅」を食べ、のどを潤したと。



駐車場には坂上田村麿像と天智天皇像が。
坂上田村麻呂は、桓武天皇から征夷大将軍を任じられたほか、清水寺(京都市東山区)を創建したと
され、京都市山科区の西野山古墓に埋葬されたとみられる。石像は台座も含み、高さ約7mと。



急ぎ足で旧東海道に戻る。
『旧藤尾小学校跡地』碑が建っていた。



地蔵堂の先左手筋角に小さな道標が建っていた。
道標には 『牛尾山を指していると思われた。
『法厳寺』は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、
かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれているのだと。



左手には連子格子の旧家そしてその先に蔵が。



旧家の板壁の年輪の板目模様の見事さに感動。



こちらは蔵の板塀。
『煌めき大津賞 都市景観部門受賞』



振り返って。



直ぐ先で国道1号線に突き当たり、旧東海道は分断されるが、横断するには手前の
横断歩道橋を渡らなければならなかった。



歩道橋上から国道1号線の大津方面を。



山科方面。



電波塔であろうか。



歩道橋を渡り暫く進み前方の三叉路を右に進む。



『旧東海道マップ』を確認。



三叉路にあった横木一、二丁目『住宅表示区案内図』。



『車石』案内板。
「車石
大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきまよした。
江戸時代中期の安永8年(1778)には、牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。
京都の心理学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から
京都三条大橋にかけて約12㎞の間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、
牛車の通行んき役立てました。これを車石と呼んでいます。」



『車石』絵図。



その下にも『車石』案内。
「旧東海道をお歩きの皆様へ
「以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で
通行に大変な苦労をしたので、堅い丈夫な木を横に敷き詰め荷車の通行に役立っていたので、
その名前が付いたと言われています。
しかし、荷物の重さで直ぐに取り換えなくてはならず、以後花崗岩の石に取り換えられ
車石となりました。」



別の場所にも、同様な案内板が。
「旧東海道をお歩きの皆様へ
江戸時代この地は近江の国滋賀郡藤尾村北上ゲ田、(以後横木)と言う地名でした、現在の
地名は大津市横木1丁目です。近江米を京都に運ぶ重要な街道で水車を使って精米する米屋が
点在して、小関道の石碑角に立派な縁台の付いた茶店も御座いました。」



『車石』。



右手に石灯籠と道標が。



道標には 『三井寺観音道・小関越・願諸来者入重玄門・文政五季十一月建立常飛脚問屋』と
刻まれていた。
三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院。
三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)。
北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だったのだと。



明治36年(1903)の『常夜燈』。



『三井寺観音道』を振り返る。



小関越道標の筋を5mほど入ったところにあった『地蔵堂』。



旧東海道に戻り進むと滋賀県大津市から京都府京都市に入る。
標識の建っているところに細い水路があり、ここが県境になっているようであった。



右手の民家の塀の角の中にあったのが『四ノ宮岩久保町地蔵尊』。



『山科四宮郵便局』が左手に。



『道標 山科区 四ノ宮大将軍町』。



前方に『旧三条四ノ宮』の案内標識が。



標識『旧三条四ノ宮』。
ここを右手に入ると京阪京津線『四宮駅』があった。



更に暫く進んでいくと「シティホール山科 玉泉院」手前の右側にも旧家が。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.06.07 18:09:40
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