JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.27
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

「長勝寺」を後にして、県道311号線・「鎌倉・葉山線」を逗子市方面に進む。
「長勝寺」入口の「厄除開運 帝釈尊天 石井山 長勝寺」碑を振り返る。



以前に訪ねた「​ 銚子ノ井(鎌倉十井) ​」👈リンク の手前、長勝寺入口から2つ目、
「鎌倉材木座霊園入口」の看板がある路地ところをを右折して、坂道を上って行った。
途中の擁壁の蔦の葉は既に色を変え初めていた。



5分ほど進んで行くと、左側には苔むした石段の上に大きな像と石碑が。
ここが「松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん)」。




日蓮は、小町大路を中心に布教活動を行い、弟子には、のちに日蓮六老僧といわれる日昭と
日朗がいた。
1260年(文応元年)7月16日、日蓮は松葉ヶ谷の草庵で書き上げた『立正安国論』を
北条時頼に提出する。
その冒頭には・・・
「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。
牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族
敢えて一人もなし」
と書かれ、このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、人々を惑わす法然の
念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言した。
しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによって焼き討ちされ、
下総国へ避難する(松葉ヶ谷法難)。時に38歳であった。
正面に大きな「日蓮上人像」が。台座には「忍難慈勝」の文字が。
日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けた。
四大法難とは、
●40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」。
●43歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された「小松原法難」。
●50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。
 このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名。
 これを「龍口法難」という。
●同じその年、佐渡遠流の難にあい、配所の佐渡における生活は、寒さと飢えに悩まされる
 過酷なものであった。これが「佐渡法難」。



ズームして。



祈りのお顔が。



銅像の後ろには、「立正 松葉ヶ谷御草庵霊跡」碑が立っていた。



「頌徳碑(しょうとくひ)」
青森県青森市の日蓮宗寺院「妙覚寺」関連の石碑のようだ。



「小庵之跡」碑。



斜めから「日蓮上人像」と「立正 松葉ヶ谷御草庵霊跡」碑を見る。



「三重石塔」。



そして「松葉ヶ谷草庵」を後にして、県道311号線まで坂道を下る。
右手に「材木座霊園入口」案内板が。



JR横須賀線「名越踏切」方面に戻る。



振り返ると、先程、「長勝寺」の墓地から見えた「名越クリーンセンター」焼却場の




道路脇の民家の庭の芙蓉(フヨウ)の花。
朝開花し、夕方にはしぼむ1日花。1日でしぼんでしまう儚さと、柔らかい印象の花。



そして「長勝寺」の「帝釈天堂」の屋根に金色に輝く宝珠、「六角堂」の屋根等が見えた。



次に訪れたのが「実相寺(じつそうじ)」。
鎌倉市材木座4丁目3−13。







ここが「実相寺」、次に訪ねた「九品寺」まで250mの表示。



ここにも「実相寺」題目碑。



「山門」。



當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一大成辨阿闇梨日昭尊者潜居の地
宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)
乃霊跡にて玉澤妙法華寺の旧地也傳つ工藤祐経邸趾と云ふ
日昭尊者濱土法華堂霊跡
御廟  裏山の麓にあり往古ハ峯​の岩屋ニ有しを元禄三年現所に移せり
                       弘延山 實相寺



「本堂」。
この地は、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡で、その後娘の子という日昭がその屋敷跡に
法華堂を建てたのがはじまりで、その後、法華堂は法華寺となり三島市に移り、1621年
(元和7)に日潤が再建したといわれる。



右手に「三日月大神」碑。



ここにも「南無妙法蓮華経」碑。



境内のアジサイの花。



掲示板には「我をはるな 心ころころ 丸くなれ」と、こう在りたいが既に遅しか。



次に「九品寺」に向かって材木座4丁目と5丁目の境の道を進む。



正面に小さな稲荷社があった。



そし「九品寺」横の海岸通りを西に行くと民家の庭にあったのが
「新居閻魔堂阯」碑。
「滑川ノ下流ヲ閻魔川ト称スルハ 往昔此ノ辺ニ閻魔堂アリシタメニ生ゼシ名ナリト言ヒ 
其ノ堂ハ後 山ノ内ニ移サレ 今新居山円応寺ト唱ヘラレルルモ 其ノ移転ノ年代ハ
詳(つまびらか)ナラズ」

【滑川(なめりがわ)の下流を閻魔(えんま)川と言うのは、昔この辺りに閻魔堂が在ったために
名付けられたといいます。その堂は、後に鎌倉北部の山の内に移され、現在は新居(あらい)山
円応(えんおう)寺といいます。しかしそも移動の時期はよく分かりません。】



そして次に「九品寺」に到着。
「九品寺交差点」横の入口から「山門」を見る。
鎌倉市材木座5−13−14。



鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ「新田義貞(源義貞)」が建武3(1336)年北条一族の
菩提を弔うため風航順西を開山として創建したと伝わる、鎌倉攻めの本陣が置かれた地。



台座の裏側には
「平成二十三年三月十一日 
為 東日本大震災被災者
各霊位追善菩提
「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」と。

法然上人御作
この御詠歌は法然上人が詠まれたお歌で、現在では浄土宗の宗歌として歌われております。
月の光は山にも里にもくまなく照らしておりますが、ただこれを眺めている人にだけに
美しい澄んだ月を見ることが出来ます。同じように阿弥陀様の全ての人々を平等に救おうと
されるお慈悲の光は、その阿弥陀様の御心を抱きお念仏をする人のみに住し澄み渡るのであります。

月の光は美しいもので、その光は全てものを分け隔て無く照らしております。しかしその美しさ、
感動は、夜空の月に気づき見上げた人の心にしか起こりえません。同様に阿弥陀様のお慈悲の光は
常に私たちを平等に照らして下さっておりますが、その御心に気づかなければお救いいただく
ことはかないません。そしてその御心に気づきお念仏をお称えしたときこそ、私たちは阿弥陀様
よりお救いいただけるのです  と。



「山門」。
宝暦十年 四脚門 虹梁蟇股式 切妻・瓦葺 丸柱 三斗詰組
江戸時代の建物。



山門の扁額は「内裏山」。



九品寺(くほんじ)
九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々生前の
行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、
合わせて九品とされます。
鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養
するために、材木座に建立しました。山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、
新田義貞の筆を写したものといわれます。本尊は阿弥陀三尊です。
  ● 宗  派:浄土宗
  ● 山号寺号:内裏山 霊獄院 九品寺
  ● 創  建:建武3年 (1336)
  ● 開  山:風航順西(ふうこうじゅんさい)
  ● 開  基:新田義貞



「鎌倉三十三観音霊場 第十六番札所」碑。



「山門」前の「廿一ヶ所 第九番 弘法大師」碑。



境内の石仏。六地蔵であろうか。



宗祖法然上人のお姿が刻まれている石碑
宗祖法然上人讃仰
浄土宗開宗八百年記念
   宗 歌
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」。



脇門の木戸の板戸には桐の紋が切り抜かれていた。



そして正面に「本堂」。
宗派   浄土宗
山号寺号 内裏山 霊嶽院 九品寺 (ないりざん れいがくいん くひんじ)
創建   建武三年(1336)
開山   風航順西
開基   新田義貞
本尊   阿弥陀如来



「本堂」扁額「九品寺」。



「本堂 内陣」。



「寺務所」。



扁額「霊嶽院」。



以前に頂いた「 鎌倉三十三観音霊場 第十六番 九品寺 」の「聖観世音」の御朱印です。



そして次に訪ねたのが「補陀洛寺(ふだらくじ)」。
鎌倉市材木座6丁目7−31。



「源頼朝公御祈願所 南向山 補陀洛寺」碑
源頼朝が1181年(養和元)文覚上人(もんがくしょうにん)を開山として建てたと。
ここは、源頼朝公御祈願所であり、頼朝の供養をここですることになっていたと。



補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻や火災にあったりして、寺のいわれを
書いた文書(もんじょ)は失われていて、詳しい寺の由来はわかりませんが、寺に伝わるもの
として、本尊の十一面観音や頼朝にゆかりの物が多く、中でも珍しいのが、平家の赤旗で、
平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものだといわれ、頼朝がこの寺に奉納したと
いわれています。
平家の赤旗は「鎌倉まつり」期間中(4月第2日曜日~4月第3日曜日)から5月末日まで
公開されます。
「無縁塔」。



「本堂」
真言宗 大覚寺派  南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ)。
補陀洛寺(真言宗大覚寺派)は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立された。
たびたび竜巻に襲われたため、別名「竜巻寺」と呼ばれている
補陀洛(ふだらく)とは、サンスクリット語の音を漢字に当てはめたもので、「観音菩薩が住む山」
という意味。
薬師如来が本尊だった時代もあったというが、文和年間、鶴岡八幡宮の供僧頼基が十一面観音を
本尊として再興したと伝えられている。
本堂内には、源頼朝像(自作)、文覚上人裸形像(自作)、行基作と伝わる薬師如来像、
運慶作と伝わる日光・月光菩薩像、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像、平安時代作の不動明王像
などが安置されている。
鎌倉観音巡礼第17番札所(十一面観世音)
開山文覚(伝)
開基源頼朝(伝)
本尊十一面観音菩薩



真言宗 大覚寺派  南向山 帰命院 補陀洛寺 」。



「本堂 内陣」。



ズームして。



「無縁仏」碑と「七重塔」。



石碑「市瀬正毅(いちのせ まさたけ)先生を偲ぶ」。
昭和二十四年(1949年)に我が母校の湘南高校が夏の甲子園に初出場初優勝の快挙を
成し遂げた際の野球部長なのであった。生物担当の教師であったと記憶しているが。



「市瀬正毅先生を偲ぶ」



以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十七番 補陀洛寺」の「十一面観世音」の御朱印。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:03:49
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