JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.06.07
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カテゴリ: 茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

道路が狭いので大型車は進入禁止になっている神奈川県道44号伊勢原藤沢線を西に進む。
江の島から田村(平塚市)を経由し、大山へ向かう「田村通り大山道」が元になっている
道路である。
前方右に「赤羽根神明大神社(あかばねしんめいおおかみしゃ) 」の「一之鳥居」と
大ケヤキ(欅)が姿を現した。



「神明大神社 」の「一之鳥居」とその先の参道を見る。



「一之鳥居」の右側には「指定村社 神明大神」と刻まれた石碑があった。
「赤羽根神明大神社」とも呼ばれているとのこと。



石碑の裏側には「大正七年十月二十九日指定」と刻まれていた。




「一之鳥居」の左側には大ケヤキ。



根元は樹齢数百年以上と思われる歴史を感じさせる姿なのであった。
この部分の大山道の道幅は約3.6mあり、1841(天保12)年にまとめられた
『新編相模国風土記稿』にある「道幅約2間」に一致していると。
かつての大山道をしのぶことができる貴重な場所なのであった。



そして「一之鳥居」を潜り長い参道を北の方向に進む。



その先に住宅街を東西に走る舗装道路がありこれを横断してさらに進む。



左手にあった瓦屋根のこの建物は?
隣には「下赤自治会防災資材置場」と書かれたスチール製物置があったが、これも同じ目的で
使われているのであろうか?
近くにお住まいの方から書き込み頂きました。





そして右手参道横には「鐘楼」があった。
梵鐘の下には、安全確保の目的であろうか、ブロック基礎の上に鉄柵が設けられていた。
明治に入る前は神仏習合で「満蔵寺」という寺院があったが、今は廃絶され姿を消したのだ と。
その名残でこちらの神社にも梵鐘が残っているのであった。



梵鐘。







石灯籠(左)。



そして石段を上って行った。



見えて来たのは「拝殿」ではなく「新湘南バイパス」の高架道路。



その先には「ニ之鳥居」と拝殿が漸く姿を現した。



ズームして。
この歩道橋は「神明歩道橋」と呼ばれているのであった。



参道・「神明歩道橋」は新湘南バイパスの側道をオーバーパスし、新湘南バイパスをアンダーパス
しているのであった。
新湘南バイパスのこの場所の真下は緑地帯になっており、木が植栽されていた。



そして側道の先に「ニ之鳥居」が現れた。




よってこの場所は4輪自動車の通行は不可能。



「ニ之鳥居」から「拝殿」を見る。



白い大きなマスク姿の狛犬(右)。足下の子供もマスク姿。



狛犬(左)。



「相刕(州)赤羽根 鎮座 神明大神」碑。



「ニ之鳥居」を潜り「拝殿」に向かって進む。



「記念碑
湘南地域交通緩和に伴う新湘南国道の建設にあたり、神明大神境内地参道の一部が建設省の
計画路線に掛かる。このため神社の財産たる境内地保全と神社の尊厳維持のため深く憂慮し、
財産処分の決定については氏子を挙げその英知を結集する。昭和五十四年を起点として
建設省との度重なる協議の末、買収価格に神木銀杏の保存を条件に加えて譲渡成立する。
昭和五十五年神社本庁への財産処分申請を手始めとして、境内地の模様替え造成工事と
神殿、神楽殿、社務所、手水舍等主要建築工事の設計契約を経て、諸工事は年度を追って着々と
進み各々その竣工をみるに至る。思うに昭和五十八年、御遷宮までの5か年間建設委員を
はじめ氏子は一致団結してその精魂を傾け数多の困難を克服して、ひたすら由緒ある神明大神の
保全と御神徳の発揚を念じ、また関係建設業者の熱意ある貢献のもと慈に御遷宮の大業を
成就するに至る。
昭和五十八年九月十七日 赤羽根 神明大神氏子中」



「神楽殿」。



「赤羽根神明大神 掲示板
祭 事
一月 元旦祭
七月 浜降祭(海の日)
九月 例大祭(第三日曜日)」



「手水舎」。



「神輿殿」。



「赤羽根神明大神社」の「神輿」。


   【https://ameblo.jp/syounan0211/entry-10142027320.html】より

「社務所」。



「拝殿」は神明造(しんめいづくり)。
切妻造、平入りで弥生時代の穀倉としての高床建築と類似する。伊勢神宮の本殿の様式である。
神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468。



「拝殿」前の狛犬はマスクなし(右側)。



左側。



比較的新しい「拝殿」。
昭和五十七年新湘南道路計画により、新築されたのであろう。



「神明大神由緒
祭神   大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
合妃神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真公・福津日神(ふくつびのかみ)
大日貴命は天照大神の別称、大日霎貴ともいい日神とある。
合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の
一村一社制度の施行に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)のニ社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。
新相摸風土記稿によれば、神明宮は十一世紀後期に陸奥守源義家(八幡太郎義家)の建立と伝う、
とある。慶安ニ年(一六四九)には、大猷院三代将軍家光公より社領六石の御朱印を賜う。往古は
神仏混淆であったと思われる。その満蔵寺も明治四年の廃仏毀釈で廃絶し姿を消した。
千古の歳月を村民の崇拝によって、畿度も再建が繰り返され、元和七年(一六ニ一)や、宝永ニ年
(一七〇五)等棟礼が今尚残存する。明治一七年(一八八四)九月に再建された、社檀には間ロ
四尺八寸、奥行四尺の僅か六合の神殿が安置された。
昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、
平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。
七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と神輿渡御で賑わい日々常々は地区民が平穏を願う
鎮守神である。」



扁額「神明大神」。



内陣。



「拝殿」前から境内その先に「新湘南バイパス」の高架を振り返る。



境内の様子。



「千木(ちぎ)」と「堅魚木(かつおぎ)」をズームして。
「千木」は社殿などで、破風の先端が棟上にのびて交差した木。
「堅魚木」は屋根の上に乗っている丸太のような部材。権威の象徴として古墳時代からあったと。



そして「赤羽根神明大神社」を後にして再び「新湘南バイパス」の高架下を歩く。



そして「神明歩道橋」を渡り、振り返る。



「一之鳥居」手前から大ケヤキそしてその先の「長屋門」を見る。



「水越家の長屋門」
茅ヶ崎町長をした水越良介氏の生家で、江戸時代の名主の家の長屋門がそのまま残っていると。
水越良介と孫の悔ニは俳人、孫の茅村は書家であったと。
「長屋の一部に門を開いたもので、当時は領主の許可がなければ建てられなかったと
言われている。
水越家は代々続く大地主の家。(「茅ヶ崎市史」によると、高田村(現在の高田)の有力地主)
長屋門とは(小学館:日本大百科全書2001から)門の扉の両側に部屋が連なっている
形式の門をいう。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まる。
この道は藤沢市四谷からつながっている旧大山街道で茅ヶ崎歴史街道に『「この大ケヤキ
の辺りは、江戸時代の大山街道の道幅と大体同じ」と聞いたことがある。史料にも「村の南
に大山道 幅2間余(1間は約1.8m)と記されているので、実際に測ると史料通り約4m
だった。』と記載あり。以上 ネット情報である。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.06.07 18:33:05
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