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そして『稲生沢川』の河口に沿った道を海にむって進むと左手にあったのが下田港を臨む『ペリー上陸記念公園』内の『ペリー艦隊来航記念碑』。河津桜の先にペリーの胸像が。ペリー提督の胸像と、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られていた。『ペリー提督の胸像』。『日米交流150周年によせて』。「ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ1854年の日米和親条約調印から150 1周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向けて出航した。今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」「日米友好の灯この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューボート黒船祭のおり、「NEW!!わかふじ国体」の矩火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。矩火リレーとして利用後、平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。日米友好の灯宣言下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します。」『ペリー上陸の碑』。「ペリー上陸の碑嘉永七年(安取元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親桑約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港か外洋と接近していて安全に容易に近づけること、舶の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊か次々と入港した。ペリー艦隊の乗組員が上陸したのか、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、『ペリー上陸の碑』が建てられた。この記倉碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の鐘は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。」『日本最初の開港地』日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します。3月18日 2隻 サザンプトン 帆船 567トン 艦長 ボイル大尉 サプライ 帆船 547トン 艦長 シンクレ尉3月20日 2隻 レキシントン 帆船 691トン 艦長 グラソン大尉 バンダリア 帆船 700トン 艦長 ホープ中佐3月21日 2隻 ポーハタン 蒸気船 2,415トン 艦長 マックラニー大佐 ペリー搭乗 ミシシッピー蒸気船 1,692トン 艦長 リー中佐4月6日 1隻 マセドニアン 帆船 1,341トン 艦長 アボット大佐(小笠原へ食糧調達に行っていたため、マセドニアンは遅れて入港)浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航したと。アメリカ海軍から寄贈された錨。下田港を臨む。遠く寝姿山から下る『下田ロープウェイ』の青いゴンドラの姿が確認できた。県道117号線を戻り、右折するとあったのが『史跡 安直楼』。「史跡 安直楼この建物は唐人お吉が明治15年より料亭 「安直楼」 を経営した店でお吉の没後当店が寿司店を開業。以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、 現在下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存してありますのでどうぞお気軽にお入り下さい。 安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます。 (主人敬白)」「安直楼米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が明治15(1882)年に、小料理屋を営んだ建物です。安政4(1857)年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消します。年月を経て、当家 「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。幕末開港の陰に咲いた一輪の花お吉は、明治23(1890)年に稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。48歳であった。なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている。」『史跡 安直楼』を振り返る。『大工町』の道標も確認できた。『KARAOKE Ra-maru』の建物の壁にはペリー・キンメ・アロハ、3パターンの『ぺるりん』が勢揃い。さすが下田街中。全員マイクを持って、バンド結成か?『ぺるりん』は、下田商工会議所青年部が2015年(平成27年)に考案した下田市PRマスコットキャラクター。交差点の角にあったなまこ壁の老舗の『松本旅館』。この旅館は、安政2年に建てられ、築後約150年が経っていると。現在も旅館業は続けられているようであった。『松本旅館』の漢字の字体は貫禄と歴史が感じられたのであった。ガラス戸が開いていたので中へ。瀬戸物の更が陳列されていた。中には人の姿もなく。ズームで。角の左手には『下田酒場 もり田』。「船宿角谷跡下田における勝海舟(幕臣)と山内容堂(土佐藩主)が暴風の為、共に下田に上陸した。山内容堂と勝海舟による下田会談(宝福寺)で坂本龍馬脱藩罪が許された。船宿角谷には勝海舟、板垣退助など宿泊。山内容堂は宝福寺に宿泊。」下田に昔からある老舗洋菓子店『日新堂』。 『大久保婦久子』「下田出身の日本画家「中村岳陵」画伯(文化勲章受章者)の影響を置け現在の女子美術大学に進み「皮の染色」を学び前例のない「皮革工芸」の世界で独自の技法を開発(金唐草技法)創造性豊かな作品を発表してきた。平成十二年「文化勲章」受賞、同年十一月四日急逝された。同年十二月下田市名誉市民の称号を贈りました。(現在のスナック房州屋(昔は旅館大正館)が生家でした。」『日新堂菓子店』「大正十一年創業の老舗菓子店。昭和天皇献上銘菓「下田節」。作家「三島由紀夫氏」がこよなく愛した「マドレーヌ」など、歴史あるお菓子を作り続けている。」『篠田雲凰』「明治維新後開拓子女学校で儒学を専攻したが詩文……・能筆で美人の為・・・襟を正したという。東京愛宕山麓に塾を・・・高橋是清、藤堂・・・・以下解読不能」『森斧薬局跡』森斧薬局は市内でも最も歴史のある薬局。日本薬剤師第 1号 森 斧治郎 ( おのじろう )の森斧薬局跡。隣家との間に伊豆石の壁がほんの少しだけれど観察が出来た。『下田商工会議所』を右に入った場所奥にあったのが『櫛田蔵』。明治30年から40年にかけて建築された伊豆石なまこ壁造りの蔵。『下田商工会議所』前を通過。『下田 了仙寺』前を通過。『下田 了仙寺』前の交差点を右折し進むと左側にあったのが『欠乏所跡』。『欠乏所跡』そして『貿易所跡 平野屋』。『欠乏所跡』碑と案内板。『市指定史跡 欠乏所跡 昭和五十一年五月二十七日指定 史跡』「嘉永七年(安政元年-一八五四)三月に締結された日米和親条約により、開港場となった下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。その上、「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判のよ。取りきめ候事」(第六条)とのあいまいな条文があったため、ベリー艦隊が入港すると貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等がここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始された。なお、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。商人達は、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。幕府は欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった。」今は「喫茶と御食事 平野屋」になっていた。ここが「喫茶と御食事 平野屋」の入口。『下田市教育委員会 下田市立中央公民館』前に到着。道路沿いにあったが『吉田松陰拘禁之跡』碑。「吉田松陰拘禁之跡幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来港したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず、翌嘉永7年(1854年)3月再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ来た。 機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所が、ここ長命寺(廃寺)であった。 さらに平滑(ひらなめ)の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な1頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。」今回は訪ねることが出来なかったが、松蔭が密航を企てた弁天島の西に建設された公園には「踏海の朝」と題した吉田松陰と金子重輔の銅像が建っているのであった。以下、ネットからの写真。 【https://jibusakon.jp/history/bakumatu/yoshidakurofune】よりこれも訪ね残った三島神社内にある「吉田松陰像」をネットから。 【https://tokuhain.arukikata.co.jp/izu/2020/01/post_90.html】よりそして次に訪ねたのが『泰平寺』。『泰平寺』の入口が解らずほぼ1周してしまったのであった。入口右の神社。「長松山 泰平寺 臨済宗 天正十八年(一五九〇)再建 開山 雪叟紹立もと本郷にあって、建長寺七十三世仏印国師を請じて開山としたか、雪叟がこの地に移して、下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建した。三河国田原の豪族であった戸田忠次は、天正十八年秀吉の小田原攻めに際し、徳川氏の下で功をたて伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられた。海善寺の辺りに居館を構えていたが慶長二年(一五九七)死去し、ここ泰平寺に葬られた。跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたで五千石を加増、祖先の地三河田原に一万石をもって移封された。戸田氏が下田を統治したのは慶長六年(一六〇一)までの十年余であったが、この間、町並が整えられ、殿小路・紺屋町・町店町等の町名は当時の名残を示している。忠次の墓は田原への移封により移されたが、第三代下田奉行石野八兵衛が泰平寺の故地に墓碑を建てて記念した。これを知った尊次の孫戸田山城守は元禄三年(一六九〇)、当寺に忠次の墓(下田市指定文化財)を再建した。なお、幕末開港時の安政元年(一八五四)ロシア使節プチャーチンと和親条約の交渉に当った応接掛川路聖 が当寺を宿舎にした。また、ここ泰平寺は伊豆横道三十三観音の第二十四番となっている。」泰平寺にあった山頭火の句碑『伊豆はあたたかく 野宿によろし 波音も』。大山澄太揮毫、昭和57年3月に建碑された。漂泊の俳人、種田山頭火は昭和11年4月に伊豆を訪れている。伊豆訪問を心からよろこんでいることが感じられる句であると。六地蔵が祀られていた。入口から本堂を。この寺は観光客には非公開となっているようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.27
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『開国記念碑』の下に『2012下田トモダチ宣言』碑が日本語と米語で並んでいた。「今から150年以上前、ここ下田の地にて日本とアメリカ合衆国の交流が始まりました。それ以降、私たちはともに友情を深めてきました。2011年3月11日、東日本大震災が起こり、日本中が悲しみと嘆きの中にいたそのとき、「トモダチ作戦」でいち早く手を差し伸べてくれたのは、アメリカ合衆国のみなさんでした。私たちはその気持ちと行動を決して忘れません。「本当にありがとうございました」今、日本は、復興への道を力強く歩み始めました。両国の「絆」をさらに強め、光り輝く末来に向かい、永遠の「トモダチ」であることを宣言します。2012年5月19日 第73回下田黒船祭」『開国記念碑』は階段の上に。『下田公園 開国記念広場』碑。『開国記念碑』を斜めから。「開国記念碑嘉永七年(安政元年-1854)日米和親条約の締結により、日本最初の開港場となったここ下田に、ペリー艦隊か入港し、同3年には米国総領事ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和29年(1954)に開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーとハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。「余は平和の使節として此の地に来れり」(ペリー)「私の使命はあらゆる点て友好的なものであった」(ハリス)ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合国軍最高司令官たったマッカーサー元帥。ハリスの言葉はウィリアム・J・シーボルト。「開国記念の碑」の揮毫は、戦後の日米時代をきりひらいた吉田茂総理。碑の設計と、ペリー、ハリスのレリーフの制作者は、日展審査員をつとめた西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である。」石碑には『日米修好の基礎は下田に於いて築かれた 1960年5月18日』と。『開国記念碑』を正面から。 昭和28年5月、下田開港百年を記念して建立された。中央に『開国記念碑 内閣総理大臣吉田茂書』と。右側にはペルリのレリーフが。「余は平和の使節として此の地に来れり ペルリ西暦1950年8月14日 元帥ダクラス・マックァサー これを撰す」と英文、和文で記されていた。左にハリスのレリーフが。「私の使命はあらゆる点て友好的なものであった ハリス西暦1951年12月7日 ウイリアム・ジェー・シーボルト これを撰す」と英文、和文で記されていた。下田の町並みと寝姿山。眼下に広がる下田の町並みと稲生沢川。川岸には多くの豪華なヨットが係留されていた。下田公園の『開国記念碑』前の広場を坂道の途中から見おろす。白く輝く下田の街並みと「稲生沢川」。左手に見えた山が「下田富士」。「火山の中心部には地下から上昇してくるマグマの通り道があります。下田富士は、はるか昔に活動を終えた海底火山が伊豆と本州の衝突とともに隆起、浸食され、火山の中心にあったマグマの通り道が姿を現したものです。登山道入り口から108段の階段と山道をあがると30分ほどで山頂に着きます。途中、女人禁制と書かれた石碑があり、信仰の面影が残ります。3月と9月には例祭が行われています。」更に下田公園の坂道を登っていくと裸像が姿を現す。『萌える 松田裕康作』。『大地 山本利治』。『La Mer 堤達男』『陽炎 木野和彦』歌碑『天城嶺に 空も経なす 蝉しぐれ 悦男』。昭和9年(1934)静岡県生れ。東京都在住、「海」主宰の高橋悦男氏の作品。左行くと『馬場ヶ崎展望台』、右に行くと伝『天守台』跡。『馬場ヶ崎展望台』からは静かな下田湾を眺めることができるようになっていると。下田港の日の出を楽しめるスポットであるようだ。伝『天守台』跡に向かって整備された遊歩道を上る。『大正八年七月二十七日 東宮殿下御行啓趾』。『東屋』前方に伝『天守台』跡の鵜島城(下田城)主郭部。『鵜島城址』碑。「正確な築城年については不明だが、延元ニ年(1337)に記された基氏帳(土肥神社蔵)に『本郷氏島城主志水長門守』とあることから、室町時代の初期には存在していたと考えられる。その後、小田原に本拠を持った北条氏はこの城を北条水軍の拠点の一つとして整備し、城代として笠原能登守を入城させる。天正十六年(1588)豊臣秀吉との関係が悪化する中で、北条氏政は伊豆衆筆頭の清水上野介康英を水軍の総大将に任命し、下田城の守備に当てさせる。さらに高橋丹波守や江戸摂津守らも入城させ臨戦体制を整えさせた。天正十八年(1590)三月、いよいよ秀吉の小田原征伐が始まると、この下田城も脇坂安治・長曽我部元親らに率いられた水軍によって攻められる。他の北条水軍城が続々と降伏する中、この下田城は康英の指揮のもと、よくこれを防いだ。しかし衆寡敵せず五十日後ついに開城。康英は河津三養院に身を寄せ翌年病没。小田原落城後には家康の家臣、戸田忠次は五千石の禄高で入城するが、江戸幕府成立後は幕府直轄の天領地となり、下田町奉行が置かれた。」ここにも『下田公園案内板』が。「下田市指定文化財 下田城址 昭和四十八年六月十二日指定(史跡)天下統一を進める豊臣秀吉と。小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正十六年(一五八八)、陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長七百メートルを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。天正十七年(一五八九)十二月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や 妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。天正十八年三月、清水湊(江尻)に集結した豊臣方水軍は、長宗我 部元親や脇坂安治らが率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康ら六百余名の箭城軍は、五十日ほど防戦に努めたが、四月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。」山頂には石碑、案内板等はなかった。再び、下田の街並み、稲生沢川、寝姿山を見る。『下田城址』を後にし、細い坂道を下って行くと、前方に『幸福稲荷』があった。「幸福稲荷と土岐丹波守幸福稲荷は、元は金花(きんか)稲荷と呼ばれていました。創建時代は定かでありませんが、江戸時代の後期の天保十四年(一八四三)に下田奉行土岐丹波守頼旨によって再建されてから幸福稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられています。土岐丹波守は上州(現在の群馬県)沼田城主であった土岐市の一族で、浦賀奉行を経て幕府大目付兼海防掛に任ぜられ、日米通称条約のハリスとの交渉では日本川代表の一人として活躍しました。社殿の傍らに残り石の祠は土岐丹波守が奉納したもので側面には次のように刻まれています。天保十四年十一月 土岐丹波守 再建立なお、土岐岐丹波守は、安政の東海地震と津波による犠牲者の霊を弔う市内稲田寺(とうでんじ)の「つなみ塚」の建立者の一人でもああります。」『下田の街と「火山の根」』案内板。写真入見える「寝姿山」や「下田富士」が「火山の根」なのであると。火山の直下で冷え固まったマグマが、後の浸食によって洗い出されたものを「火山岩頸(かざんがんけい、火山の根)」というと。一枚岩は急峻な山をつくることがあるのだと。海底にたまった火山灰や軽石からなる「伊豆石」でつくられた建物があり、独特な街並みを作り出しているのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.26
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『平滑川(ひらなめがわ)』に架かる『柳橋』を渡る。ペリーロード・『了仙寺』方向の眺め。ペリーロード・『旧澤村邸』方向の眺め。これはペリーロードの江戸時代当時のかつての姿。「ペリー艦隊日本遠征記」に載っているウィルヘルムハイネの残した画とのこと。『平滑川』沿いのペリーロードをさらに進む。右手に『逢坂橋』。『逢坂橋』。『大工町』と刻まれた道標も。『ギャラリーアンドカフェ 草画房』が『逢坂橋』を渡った先右手に。築100年の古民家を改造してカフェにした草画房は、大正3年に建てられたという石造りで土日祝日のみオープンしている古民家ギャラリー兼カフェが併設され、畳の上でゆっくり過ごすにはちょうど良い場所なのであると。ペリーロードを下田港・下田公園方面に更に進む。『平滑川』には多くの鴨が。そして突き当りにあったのが『旧澤村邸』1985年に下田市の歴史的建築物に指定された「なまこ壁」と「伊豆石」を特徴とする旧民家。旧下田ドックの創業者で、戦前には旧下田町の町長を務めた澤村久右衛門氏が、1915年に建築し市へ寄贈したものであると。この先『稲生沢川(いのうざわがわ)』に流れ込む『平滑川』。『旧澤村邸』入口開館:10:00~16:00・無料 とのことであったが、この日は水曜日で定休日なのであった。『的場稲荷神社』の一の鳥居。昔弓矢の的場があったことに由来しているそうなのだが、人が少なくちょっとしたパワースポットのような雰囲気も。『オオキバナカタバミ』の群生。更に別の朱の鳥居と、その先に古いなまこ壁の土蔵が。『お吉霊社』の朱の一の鳥居の先右手には案内板が。『唐人物語 (ラシャメンのうた)』👈リンクテレビ朝日系ドキュメンタリー番組『驚きももの木20世紀』テーマソング。原由子のボーカル曲。前曲終了直後にイントロなく歌い出される。括弧内の「ラシャメンのうた」はサブタイトルであり、タイトルは「とうじんものがたり」と読む。歌詞は江戸時代末期に実在した芸者“唐人お吉”こと斎藤きちの事を綴っており、お吉の出身地である下田の情景が随所に記されている(唐人坂、稲生沢など)。また“ラシャメン”とは「洋妾」の事で、異国人にその身を売った者を迫害する意味の言葉でもあった。なお、「鐘鳴る了仙寺」とあるものの、第二次世界大戦時の金属回収により了仙寺に鐘は現存しない。『おりじなる雑貨 下田日待』江戸時代からあるなまこ壁の土蔵を改装した和雑貨店。営業日は土、日のみとのことで入れなかった。「お吉霊社について 「唐人お吉」のモデルとなった斎藤きち所縁のお稲荷さん昭和のはじめ、日本中でブームとなった「唐人お吉」。そのモデルとなった「斎籐きち」の「実家」があったのが、ここ旧坂下町。安政四年、十六歳のきちは、ここ坂下からアxリカ領事館となた柿崎・玉泉寺に通いました。当時、村人が山へ薪を取りに行く時ほ.このお稲荷さんに通じる細い石段を上り登り、お稲荷さんに挨拶し山へ入りました。きちも幼い頃には、四つ年上の姉・もとに手を引かれ、何度もここを上り下りしたことでLよう. 幕末お吉研究会」玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになったのだと、ウィキペディアから。石段の途中に「階段が崩れやすくなっていますので、参拝はお控え下さい」自己責任にてとの表示板があったので、参拝を取りやめたのであった。『1829年製30ポンドカロネード』カロネード砲(カロネードほう)は、大砲の一種イギリス海軍のロバート・メルビル中尉の発案で、スコットランドのカロン社で作られた近距離用の前装式滑腔砲。1776年に開発、1779年からイギリス海軍に正式採用され、1860年代頃まで使われたと。導入当初はその圧倒的な火力が魅力となり、イギリス海軍に積極的に配備され、間もなく世界各国の海軍に広まり、独立戦争ではアメリカ海軍にも採用された。その最盛期はナポレオン戦争頃で、英仏両海軍の戦列艦に装備されていたとか。しかし、19世紀中頃には命中精度や射程に優れ、発射速度の速い後装式施条砲の登場によって、カロネード砲は登場一世紀にも満たない内に過去の物となったとのこと。『この先、50m ペリー(さんの)隠れ家』の案内板が。歴史上の建物と思い、向かったが・・・・。空き家をリノベーションして造られたカフェなのであった。紛らわしい看板なのであったが、店主の思惑にまんまと・・・・・。県道117号線に出ると右手に『弁天橋』そのさきに『粉もん茶屋あほや 』。大きなタコの姿と『かき小屋』と書かれた看板も。再び『旧澤村邸』の角まで戻る。『下田城復元模型』案内図。「下田城趾(鵜嶋城趾)天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が将武となった、海に落ちる断崖に回まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。天守跡と伝えられる城山の傾きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く渫い空堀の遺構は現在もよく残されている。天正17年(1589)12月から翌年にかけて籠城の準備が行なわれ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆の武士が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣されてきた。天正18年(1590)3月、秀吉の水軍脇坂安治、長曽我部元親、安国寺恵瓊による下田誠攻撃か始まった。およそ50日の籠城の末開城となり、城将清水康英は河津Ξ養院に身を寄せた。この下田城は山城で、標高約70mの鵜島山頂に主郭(現在の天守台跡)を置き、そこから伸びる尾根の要所には曲輪(くるわ:役割や機能に応じて城内で区画された小区域のこと)や櫓台(やぐらだい:城の物見をするための櫓の基礎となる土壇)を配置した。敵の軍勢からの防備のためにめぐらされた空堀は、現在も当時の様相を色濃く残している。『下田公園』案内図。春にはツツジ、初夏には紫陽花、冬には椿が満開となる自然公園。小高い丘の上にあり、下田港が一望できるのであった。公園内には開国記念碑や下岡蓮杖の碑などがあり、下田の歴史を偲びながら静かに散策を楽しめたのであった。坂を上って行くと小さな広場に『下岡蓮杖記念碑』があった。『下岡蓮杖翁之碑』日本の写真技術の開祖は、西の上野彦馬、東の下岡蓮杖と言われています。下岡蓮杖は、安政3年に米使ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学びました。文久元年(1861)横浜弁天通に写真館を開業し、後に東京の浅草で多数の門下を養成し、日本における写真技術の先駆者となりました。日本での写真技術の隆盛は下岡蓮杖の功績によるとして、全関東写真連盟と当時の下田町によって、昭和3年5月13日にこの碑が建立された。『下岡蓮杖翁』像。朝日小学校6年 石井さおり 昭和五十九年アルバムを広げた 12年前の私がいたあのころはかわいい顔をしていた学校も勉強も宿題もなにもない ちょっぴりもどりたいなーお父さんの写真も白黒ではってある まるまる太っている私に似ているかな日本ではじめて写真を考えた人 すばらしい人だなー母がいった 下岡蓮杖という人だよアルバムにいる私 写真はひとつの物語をつくってくれるすてきだな すばらしいな 私の思い出を大切にしよう下田生まれの蓮杖さんは えらい人なんだなー『下岡蓮杖(1823~1914)』「わが国写真師の開祖となった下岡蓮杖は、浦賀船改番所問屋である下田町中原町の桜田家に生まれ、久之助と称しました。少年の頃、狩野薫川の門に入り、狩野派の絵を学びました。江戸の薩摩藩屋敷で銀板写真を見て、その精巧さに驚歎したことを転機に写真術の習得を志しました。嘉永6(1853)年30歳の時に蓮杖と号しました。安政3(1856)年、ハリスが玉泉寺を領事館にすると、下田奉行所の足軽となり、外国人との接触の機会を得ました。オランダ人通訳ヒュースケンから写真の手ほどきを受け、下田開港場が閉鎖されると横浜に出て、米人ウンシンと知り合い、彼の帰国の際写真機を譲り受けました。そして、実験を重ね、辛苦の末ようやく湿版写真術を習得しました。横浜野毛ついで弁天町に写真館を開業、画家としての心得を生かして人工着色や画像の演出を行い、写真館は繁昌しました。蓮杖の門下からは優れた写真家が輩出しました。写真の他、牛乳搾取業、京浜間乗合馬車の開設、石版印刷等多方面に活動し、明治日本の近代化に貢献しました。なお、靖国神社遊就館に蓮杖の描いた「函館戦争図」「台湾戦争図」の巨大油絵が残されている。」そして更に坂を上り『下田公園』内の『開国記念碑』を目指す。眼下に『稲生沢川』の河口そして下田の街並みが見えた。右側の山はロープウェイが繋がっている『寝姿山』。『カーター大統領記念碑』。ジミー・カーター第39代米国大統領の下田来訪の記念碑。「ここ下田で」‥と書かれた記念碑には、こんな言葉が刻まれていた。日米両国民の友情が初めて根おろし花開いた。私たちは共に信頼と理解に基づいた永遠の友情を築き上げてきた。私たちのパートナーシップはすべての人々がいつの日か兄弟愛と繁栄と平和のうちに共に暮らすことを学ぶだろうという希望そのものである。これは、1979年(昭和54年)6月27日、東京サミットで来日中のカーター大統領が下田市内に訪れた時のメッセージ。ここは園内でもあじさいが特に美しい場所で、大人気の記念撮影スポットであると。『下田公園』案内板が再び。公園内の広場。ペリー提督とハリス領事の言葉が刻まれた『開国記念碑』が階段の上に。『佐藤惣之助歌碑』。「春の港の街にてわたしは熱い春の天城の天辺から火のついた鵜のやうに飛んで来た港は恋しい春の夕の港は一目見たばかりで異様に美しく埋もれてゐる」『村松春水翁』碑。「村松春水翁村松春水翁は 維新の志士 後の伊那懸*判事 村松文三の二男として 文久三年十月六日 静岡懸焼津に生まる明治十二年 志を抱いて 東都に遊学し 成島柳北 伊藤聡水 栗本鋤雲 等に師事し 聖**斉 山田美妙 幸田露伴 等と交遊す同十六年 祖母あさの遺言に従い 医術を学び二十一年 静岡懸城東病院医長 兼 復明館眼科医院 副院長となる同二十六年 居を伊豆下田に移し 幕末下田を中心とする開国史の研究を広く史学の探究に専念特に大正末期完成を見たる 唐人お吉の研究**とその資料提供は 下田を中心とする観光事業に多大な貢献をなし まこと本日の観光下田を招来したる功労者と言うべきである翁 又 博覧強記 詩書に*く 風*に深く 当世稀に見る 異色の異色の文人であったここに下田観光協会は 翁の生世中の偉業を讃え 下田の象徴 鵜島公園の一角に 翁の記念碑を建立して 永くその功績を顕彰せんとするものである。」更に高い場所まで来て『稲生沢川』の河口そして下田の街並みを見る。遠く『稲生沢川』に架かる『人魚橋』をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.25
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南伊豆町の日野(ひんの)交差点にある「菜の花畑」を楽しんだ後に、下田まで国道135号線を利用して戻る。そしてこの日は、帰路に江戸時代の鎖国以来、日本で最初の開港場となった下田、開国の歴史が残る下田を散策したのであった。黒船により来航したペリー提督一行は、『了仙寺』へ向かって参道を行進して行ったのだと。日本の民間異文化交流は、日米下田条約締結の地、この『了仙寺』で始まりを告げたのだと。『了仙寺』の駐車場にあった黒船の描かれた「顔出しパネル」。そして車を降り『了仙寺』の境内へ。下田は幕末に黒船が入港するよりも、ずっと前から下田港は開かれていた。 徳川家康が江戸幕府を開いた頃から関西と江戸の間を航行する千石船の要所として海上の関所の役目をしていた。下田が開港した訳は江戸との距離が近からず遠からずの理由という。当時は浦賀にも港があったか、江戸城に近すぎるという理由で、下田が開港され、これに伴い下田奉行がおかれることになる。 函館も開港されたが時期的には下田の方が早く、ペリー艦隊の船団が数隻づつ計7隻が入港した。日米和親条約が締結され、嘉永7年に了仙寺でペリーと日本全権の林大学で日米和親条約附録の細目13ヶ条が批准されたのであった。境内の紅梅もほころび始めていた。『国指定史跡文化財 了仙寺』。「法順山 了仙寺 日蓮宗 寛永十二年(一六三五)創建 開山 日朝第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行 父・彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の基城の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四大伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられてる。嘉永7年(安政元年ー1854)3月、神奈川県において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ、了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休憩所となった。なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金鋼製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。 下田市」『了仙寺 本堂』。『本堂』入口の両側の柱には、白文字で『和親友好萬世掔』(左)と『日米締交法燈下』(右)と書いてあった。『和親友好萬世掔』とはここで日米条約が結ばれ、日米の友好は万世に固く続くという意味なのであろう。本堂の扁額は『開国殿』。『本堂内陣 中央』。『本堂内陣 正面左側』。『本堂』前には大小の『こぞうくん』が一緒に写真を撮りましょうと。本堂より境内、山門を見る。『黨山 略誌』。『安政元年(1854) ペリー提督黒船陸戦隊調練の図』 黒船従軍画家ハイネ筆。「調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で日米下田条約が締結された。図中の本堂は現存、庫裏鐘楼は安政の大津波によって消失した。」御朱印を頂きました。御首題には『日米締交法燈下』、『和親友好萬世掔』、中央に『開国殿』と。御首題には『日米下田条約締結地』、中央に『南無妙法蓮華経』と。本堂の傍らにはこの石碑も。「了仙寺 調練の図 ウィルヘルム ハイネ画」。調練とは兵士を訓練すること。『日蓮聖人像』の台座には『立正安国』と。「立正安国」とは「正を立て国を安んず」と読みます。「立正」とは、人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されること。「安国」とは、社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現すること。了仙寺とペリーロードをつなぐ『山門』。山門越しに日蓮聖人像を見る。日米和親下田条約の石碑。身延山久遠寺にあった『祖廟塔』に似た塔が山の斜面に。この場所に行くにはどのように?『山門』越しに『本堂』を見る。了仙寺の境内には、下田の町の異文化交流に関する様々な史料や、ペリーと黒船のコレクションを誇る了仙寺宝物館があった。異文化交流黒船ミュージアム「Mobs」(モッブス)は2016年1月1日伊豆下田・了仙寺に誕生。この宝物館の館内には、国内外で収集された3000点を超える所蔵品があり、それらの原本が、2~3ヶ月ごとに入れ替わり展示されているのだと。中でも黒船来航絵巻・黒船来航絵図・ペリー来航かわら版など、黒船の巻物だけでも17巻所有しており、ペリーや黒船に関しては、日本最大のコレクションとなっている。そんな宝物館の館内では、了仙寺関連文書をはじめ、幕末における異文化交流に関する史料や宝物展示のほか、いくつかの映像展示も行われており、開国の歴史や絵画の解説がわかりやすくされていると。参道からのガラス越しに内部を。ガラス面には「購買の方法はパントマイムである。品物を指差して、How much ? と聞く。店主はハウマッチ~という言葉を繰り返して、暗算をし、我々の目の前に片手か両手の指を立てる。指一つが百キャッシュで、1ドルは千二百キャッシュである。 スポルディング日本遠征記」と書かれていた。山の斜面にも『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑が。そしてこちらが『了仙寺』の正式な入口。『下田まちなか案内図』。歌碑『秋の蝶 利島へ紺の 海十里』和泉/好。最近、立てられた石碑のようであった。山門方向を振り返る。なまこ壁の民家。『平滑川(ひらなめがわ)』に出て来た。『ガス灯』も風情が。『ペリーロード』とはペリー一行が上陸した下田港から下田条約が結ばれた『了仙寺』までの平滑川沿いの約700mの道のりの事。既に柳が新芽を出し緑の葉が。マンホールの蓋には『黒船』が描かれていた。『史跡 長楽寺』の案内に従い階段を上っていく。蝋梅が。蝋梅の実も残っていた。以前、別の場所から蝋梅の実を持ち帰り、撒いたが芽が出なかった事を想い出したのであった。そして『長楽寺』に到着。『長楽寺』は、1854年ロシア使節プチャーチンとの『日露和親条約』が調印され翌年、日米和親条約の批書交換が行われた寺で、下田市の史跡に指定されている。この建物は『長楽寺宝物館』。『大浦山長楽寺 真言宗 弘治元年(一五五五)中興開山尊有により再興』「安政元年(一八五四)十二月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の筒に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫鳥以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。また、同二年(一八五五)一月、米国使節アダムズ中佐と日本側応接掛井戸島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。参道左側の高台にあった梵鐘は良く響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。現在の鐘楼と梵鐘は昭和五一年に再建されたものである。なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されている。」『長楽寺 本堂』。空海(弘法大師)像。赤の涎掛けと帽子の石仏が右手に。地蔵菩薩と女性の守り仏の如意輪観音であろうか。なまこ壁をバックに干支によっていろいろな菩薩様が祀られていた。左から千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩 ・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来。不動明王の後背は真っ赤に。『長楽寺』の横の『なまこ壁』のある坂道。『「日魯通好条約」署名150年 記念植樹』案内板。左の桜の木であろうか。『鐘楼』。『淡嶋神社』。『長楽寺 本堂』の屋根が見えた。こちらが長楽寺の正門入口のようであった。案内板の下には『七軒町』と刻まれた石碑が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.24
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巴川沿いの土産物屋、食べ物の出店が並ぶ遊歩道を進む。遊歩道からの巴川そして対岸の紅葉。巴川には巨岩がゴロゴロと。巴川沿いの遊歩道を左折して進む。こちらにも様々な食物の出店が並んでいた。今年もこんにゃくの味噌田楽を楽しむ。香嵐渓観光センター前の広場。そして国道153号線沿いにある『足助八幡宮』を訪ねた。木製の鳥居には『八幡宮』と書かれた扁額が。足助八幡宮拝殿前の『神馬』。足助八幡宮の創建は天武天皇白鳳二年(673)と伝えられ、檜皮葺三間社流造の御本殿は国の重要文化財に指定されている。また、県指定文化財で第18回東京オリンピック ライフル射撃競技の手帳表紙図案となった「鉄砲扇的打図」絵馬を始め、数多くの貴重な絵馬が奉納されているが一般公開はしていないとのこと。古くから足、旅、交通の守護神として信仰されて来たと。豊田市 足助支所前の名物の銀杏の老木。樹の上の方の銀杏の葉は既に役目を終えて。銀杏の樹の下で記念撮影する観光客の姿が。樹齢は?真っ黄色の絨毯が敷き詰められていた。豊田市役所足助支所(旧足助町役場)の先にある巴川を渡る国道153号線の『巴橋』を渡る。『巴橋』の先には『香嵐渓(Korankei)』と書かれた道路標識が。『巴橋』から見る香嵐渓の紅葉。紅葉の名所として名高い香嵐渓はこの橋より上流部分に広がっており、秋の観光シーズンには狭い街中に各地から観光客が集うため、交通渋滞が多発する場所。前日の日曜日は大渋滞が発生していたのであろう。朱の『待月橋』が見えた。足助西町第2駐車場前のモミジの樹の紅葉も見事であった。入口に『香嵐渓』と赤字で刻まれた巨大な石碑。以前は適度に苔むして、より一層の味わいを感じることが出来たのであったが・・・。ズームで。『延命地蔵』と『六地蔵』。山麓にある香積寺の『六角堂 』。この山の斜面は約0.5haの「『カタクリ』の群生地」👈リンク でもあるのだ。『カタクリ』とは、片栗粉のとれる植物。『カタクリ』の花を見たことがない人は多いかもしれませんが、薄紫色の花が地面に向かって咲く姿はつつましく可憐なのです。スプリングエフェメラル(早春の妖精)と呼ばれる草花のひとつで、早春の温かい日にだけ咲いて、曇った寒い日や雨の日は花が咲かないのです。夜も花を閉じてしまうという、春の乙女のような繊細な花なのです。巴川を見下ろす。更に紅葉のカオスの中を進む。現在、香嵐渓にはイロハカエデ・ヤマモミジ・ウラゲエンコウカエデ・オオモミジ・コハウチワカエデなど11種類の楓があり、今ではその数4000本とも言われ、見事な景観に。『待月橋』が見えて来た。相変わらず多くの観光客が橋の上に。『五色もみじ』越しに『待月橋』を再び見る。繰り返しになるが、香嵐渓のもみじは、寛永11年(1634)に香積寺(こうじゃくじ)11世住職の三栄和尚が巴川沿いのこの参道に植樹したのが始まりとされ、般若心経を一巻読むごとに楓や杉を1本ずつ参道に植えたのだと。その後、大正から昭和の初めにかけて住民も植え足し、この素晴らしい紅葉名所が生まれたのだ。紅葉の名所と言われているが、紅葉のこの時期に限らず四季折々の美しさが楽しめる。春は新緑の緑とともに美しい花々があちこちで見られ、夏から秋にかけては緑が一斉に色づく光景が美しいと。冬はしんしんと降り積もる雪に風情を感じ、日本の四季を贅沢に楽しむことが出来るのだと。一度新緑、そして雪の香嵐渓も見てみたいとも。奥に香嵐渓・香積寺の25世住職であった風外本高(ふうがい・ほんこう)の「風外碑」が。いつまでも、どこまでも続く紅葉・黄葉の世界。『飯盛山 香積寺 参道入口』。参道の階段を上り詰めた場所から振り返って。山門下から。香積寺参道から山門を振り返る。本殿への階段を上ると、両脇には竹灯篭が。本堂を背に左手。本堂を背に右手。竹にも紅葉シーズンを意識した竹あかり彫刻が施されていた。香積寺(こうじゃくじ) 本殿。香積寺は豊田市足助町にある曹洞宗の寺。山号は飯盛山(はんせいざん)。開基は関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山(いいもりやま)の足助氏の居館」(飯盛山城)跡に建立された。応永34年(1427年)、白峰祥瑞禅師により開山。寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。本尊は聖観世音菩薩。境内には江戸時代後期に建てられた座禅堂が現存し、本道の脇には開山当時から寺の鎮守として豊栄稲荷が奉られている。飯盛山中には歴代住職の墓や十六羅漢の石仏のほか、足助城主だった鈴木氏五代の墓も現存し、二条良基の死を伝え聞いた滝野が良基の残した装束を埋めたと伝わる「装束塚」があるほか、山頂近くには平安時代の末法思想に基づき、仏教の経典や仏具などを土中に埋めた「経塚」がある。ご本尊 聖観世音菩薩。扁額は『飯盛山』。香積寺 木造毘沙門天立像本殿右側の建物(寺務所)には木造毘沙門天立像が安置されていた。平安時代に製作されたもので高さは1.7m。香積寺で一番古い仏様で,少し丸みを帯びた姿を。H27年8月に豊田市指定有形文化財になったと。ズームで。僧堂(坐禅堂)。坐禅堂の内部には、文殊菩薩像が祀られていた。『僧堂(座禅像)』「曹洞宗は、道元禅師に始まり、瑩山禅師(けいざんぜんじ)によって広まり座禅を宗旨としています。当坐禅堂は江戸後期の様式、この地方では唯一つ昔のままで残っています。幕末二十五世風外禅師二十六世俊龍禅師と共に高邁な人格で、随身より多くの俊英が輩出し香積寺の名を天下に伝えました。」本殿前の階段上から山門を見る。幽玄・神秘的な世界が拡がる。参道を歩き山門前まで戻る。香積寺山門前の階段上からの絶景。毎年、電線が気になるのだが。紅葉の色の波のうねり(アンジュレーション)の美。一の谷に向かっての帰路。陽光が射したり隠れたり。再び三州足助屋敷が右手に。巴川の白き流れ。再び朱の吊り橋・香嵐橋。巴川沿いの「紅葉庵」の建物。藁ぶき屋根と紅葉、これぞ和の風景。白の漆喰塀と紅葉、これぞ和の風景。今年2019年の香嵐渓の紅葉も見納め。そして駐車場に戻り自宅への帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.12.17
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11月25日(月)のこの日、小原四季咲き桜の鑑賞の後は、今年も香嵐渓へ向かう。今年も香嵐渓の奥にある駐車場・落部駐車場に車を駐める。足助の街並みからはやや遠いが、香嵐渓へのアクセスは比較的よい落部駐車場。香嵐渓は何故か毎年この駐車場を利用して10年以上連続して訪ねているのである。まるで、小原四季咲き桜、香嵐渓の紅葉の『オタク』の如くに。駐車場の背面の山の紅葉も今が盛りと迎えてくれた。昔は営業していた店『のんびり』も今年も閉まっており、時計も動いていなかった。香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。愛知高原国定公園の一角に当たる。1634年(寛永11年)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の令和元年11月1日(金)から30日(土)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだ。今年の第64回香嵐渓もみじまつり ポスター。今年の散策も下記地図の右から左へと巴川沿いを。一の谷入口から巴川の下流に向かう。散策を始めると太陽も姿を現し、陽光が射し込み一面真っ赤な世界が拡がって来た。飯森山の巴川沿いは陽光が射しこみ既に絶景に変身。和風料亭・一の谷前から三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)へと歩いて行く。最初は一の谷前の紅葉。香嵐渓 一の谷の茅葺きの屋根には美しい緑の苔が生え、赤との補色で共演。ズームで。白の漆喰壁を建物を背景に。香嵐渓 一の谷への坂道を下る。地面に映る影も黒から赤に変わりそう。小さな池の後ろの紅葉。藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感を主張。常緑樹の中で黄色の銀杏もエピローグへと。これぞ紅葉の『カオス』。巴川の流れもキラキラと光る。食事処の店の前には綿の実がはじけて、純白の綿花がのぞく。朱の吊り橋・香嵐橋を既に多くの観光客が渡っていた。さらに巴川沿いを進む。この美しさを表現する言葉を探すが・・・・。三州足助屋敷が左手に。三州足助屋敷は、昭和55年に開館した施設で、生きた民俗資料館といわれていると。かつての豪農屋敷を再現し、長屋門、母屋、竹屋などは茅葺の木造建築。足助屋敷の中では、かつてこの地域で行われていた「炭焼き」「木地」「紙漉き」「機織り」など、暮らしに必要なものは手づくりしていた10種の"手仕事"が行われている。手仕事の中には、体験できるものもあるとのこと。既に三州足助屋敷の名物のイチョウの木はほぼ完全に葉を落とし、今年も昨年と同様にわずかに下部に葉を残すLast stage。茅葺きの苔屋根には銀杏の葉が降り積もって。ズームで。銀杏の葉のエピローグには絶好の舞台か?刈り込んだツツジの上にも。再び2019年・今年の『第64回香嵐渓もみじまつり』のポスターを。今年も『山粧う(やまよそおう)』を堪能したのであった。珍しく子供たちの姿がポスターに、そして『私たちの願い、百年先も美しい香嵐渓を』と。三州足助屋敷の土産物売り場、広場には多くの観光客が食事を楽しんでいた。そして今年も広場では猿君が一生懸命働いていた。日光さる軍団?の猿回しのショーもこの時は待機中。「そこら辺の紅葉より顔、真っ赤です」 と使い手の繋ぎの言葉が。なるほど顔と乳首は真っ赤っか。緑、黄色、赤これぞ日本の紅葉。ルーマニアの紅葉も美しかったが、赤が少ない海外の『黄葉』の景色であった。そして紅葉(もみじ)葉の合間から朱の待月橋(たいげつきょう)が下方に見えて来た。前日の日曜日はこの待月橋(たいげつきょう)は多くの人で大渋滞が発生し動きが取れなかった事間違いなし。手前のモミジの木は毎年様々な色合いを同時に見せてくれる香嵐渓の名物の『五色もみじ』。この銘木『五色もみじ』の全体像。種類としてはオオモミジの木で、香嵐渓ではこの木を含む数本が一本で葉がオレンジ、黄色、赤、黄緑、緑などの五色の色が見られるため『五色もみじ』と呼ばれているのだと。この『五色もみじ』の紅葉の『粧い』のClimaxはこれからか。多くの観光客が待月橋の上で記念撮影を。我々も待月橋(たいげつきょう)を渡り巴川の上流側を見る。この時は太陽が雲に隠れてしまった。待月橋(たいげつきょう)を渡り終わり振り返る。名物のモミジの木も紅葉のClimaxに向けての兆しが滲み出ていた。待月橋の近くの小さな滝へ歩を進める。名はあるのか?通称『宮の滝』か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.16
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瑠璃光山 薬師寺からの帰路は、境内の紅葉を楽しみながら階段ではなく坂道を下る。坂道の両脇の紅葉を楽しむ。山門の下の紅葉。落葉したモミジ葉を美しかった。皇帝ダリアも紅葉に負けじとスラッと。この山道を登り『川見四季桜の里』の頂きを目指す。蔦の紅葉も美しく。坂道を更に登っていく。下から見て黄色の存在感を主張していた銀杏が姿を表す。ここには四季桜の姿はなし。陽光が差し込み一面赤の世界が拡がる。真っ黄色なイチョウの葉。頂上にあった『川見四季桜(せんみしきざくら)の里ウォキングマップ』。そして国道とは反対側の坂道を下る。裏側の紅葉も大いに楽しみながら。そして紅葉が池に映り込む『柏ヶ洞の郷』に到着。池の水面に映り込みメタセコイヤ、銀杏、モミジ』この時はやや風もあったので・・・。風が弱くなる瞬間を狙って。樟茶屋 (くすのきちゃや)のオジサンの詩であろうか。「朝焼けや 映る紅葉や この姿た 夢を追いつつ 老を知ても」再びメタセコイヤの紅葉を撮す。田代川の白き流れ。再び駐車場の裏の法面の紅葉&四季桜のコラボを。樟茶屋前の小原北部生活改善センター中庭には多くのテントが張られ、地元名産品を販売中であった。様々な野菜類が。地元のおばあちゃんが造った布製品も。『ヘボの箱寿司』は700円。へぼというのは、特にクロスズメバチの子のことで、秋が近づくと山に蜂の巣を取りに行き、養殖用の箱で蜂の子を育てます。へぼは値段もかなり高価。ここ豊田市小原で秋に作られるのがこの『ヘボの箱寿司』。大きな柿も。「蜂屋柿」と呼ばれる柿であろうか?表皮が橙色で食感をそそる美しい柿。熟すか、干し柿にして食べますが非常に甘味が強い為、毎年「干し柿にするなら蜂屋柿」と人気があると。そして最後に『樟茶屋 (くすのきちゃや)』に立ち寄る。毎年必ず立ち寄る『樟茶屋 (くすのきちゃや)』。五平餅を作るオバチャンたちも元気。今年も五平餅を注文。ここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の御主人が食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しようとこの形になったのだと以前に。長野県から取り寄せた赤味噌にくるみ、ゴマ、ピーナッツ、醤油、砂糖を調合し、煮詰めて作った特製味噌はちょっと甘めで香ばしく、地元米ミネアサヒとも相性バッチリ。すると樟茶屋を切り盛りするオバちゃんが我々の席に来て、東京に勤めるお孫さんが結婚式前の挨拶回りにそろそろ来ると嬉しそうに。式前の記念撮影も兼ねての訪問と。そしてカップルが到着。嬉しそうな樟茶屋のオバちゃんも孫の好青年と一緒に。すると、店を手伝うオバチャン達そして赤いセーターに青のジャケットのオジイチャンもいつの間にか。そして来年の再会を約束して、川見の四季桜を後にし、香嵐渓へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.15
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『旧東海道を歩く』で11月23日(土)に愛知県にある豊明駅から名古屋市熱田区の宮宿『七里の渡し』そして翌日の24日(日)は桑名市東船馬町にある桑名宿『七里の渡し』から近鉄四日市駅までの旧東海道を歩いて来ました。江戸から東海道を宮宿まで来ると、本道は次の桑名宿まで海上七里を船で渡ることになる。これを七里の渡しと言ったのです。そして帰路の25日(月)は、今年も小原の四季咲き桜、そして香嵐渓の紅葉を訪ねたのでした。ホテルの朝食を6:30に済ませてまずは小原の四季咲き桜に向けて出発。東岡崎駅近くのホテルから国道248号線を北上する。県道349号線(深見亀首線)を進み猿投グリーンロードの猿投IC下を通過し更に進むと前方に見えて来たのが東海環状自動車道の猿投高架橋。前方に見えたのが『猿投神社 山門』。周囲の紅葉を楽しみながら木瀬川に沿って国道419号線を更に進む。小原町に近づくと道路の脇には開花した四季咲き桜が姿を表す。そして左手に現れたのが目的地の『川見四季桜の里』。いつもの樟茶屋 (くすのきちゃや)の駐車場に車を駐め散策開始。駐車場裏の赤とピンクのコラボがいきなり。黃から赤、朱への色のうねり(undulation)に感激。青空を背景に黃、赤の共演。メタセコイアも負けじと。カメラの向きを変えて。国道419号線を徒歩で戻って行くと樟茶屋を経営するオジサンが以前に造った紅葉が水面に映り込む池が四季咲き桜の合間に見えた。この場所は帰路に立ち寄ったのであった。田代川沿いの紅葉、桜のコラボを楽しみながら進む。銀杏の黄色も交えて。田代川とモミジ。そして見事な『川見四季桜の里』が姿を表す。この日がこの秋のピークの如き光景が拡がる。四季桜の由来はその昔豊田市小原北のひとりの医師が小原に苗を植えたのが最初と言われている。四季桜は春とこの11月の二回花を咲かせ、11中旬から12月上旬に見頃となるのです。『小原四季桜まつり』のポスター。今年2019年の開催は2019年11月1日(金)から2019年11月30日(土)まで。小原地区内の四季桜は約1万本に達していると。これほど多くの四季桜を鑑賞できる場所は他になく、秋は全国で随一の絶景が広がっているのだと。丘の最長部の銀杏の黄色が存在感を主張。マメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられ、花は一重の白又は淡紅色。夏の間に充実した花芽が秋から冬にかけて順次咲き、小さい花芽は冬を越して3月中旬頃から咲き始める。このため、春より秋の方がよく花を咲かせると。田代川の川面に映る紅葉。川見・薬師寺下の紅葉も見事。川見・薬師寺への階段を上る。地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂は階段を88段、33段、42段最後に12段のぼった上にあります。本堂までの階段は四国八十八ヶ所にちなんで88段の石段になっていると。次は33段、女性33歳の厄除け石段。その次は42段、男性42歳の厄除け石段。最後は12段、十二支にちなんだ石段。33+42+12=87?『是より33段』。階段を登りながら両脇の紅葉を楽しむ。四季桜と紅葉を眺めながら登る急な階段途中の右側にあった石仏群。ズームで。階段の上に鐘楼門(山門)が。『是より四十二段』。階段の上にある鐘楼門(山門)。『瑠璃光山』と書かれた扁額。正面に『無尽堂』、『本堂』はこの左。『薬師観音像』。本堂への階段下から境内を見る。本堂への階段には『南無瑠璃光薬師如来』の幟が両脇に。階段下の大黒天像。手水舎の龍。川見薬師寺(せんみやくしじ):本堂真言宗高野山派 瑠璃光山薬師寺 が、本当の名前です。本寺の開山は記録に残っていませんが、2冊の「中興建立記」によると、寛文5年(1665年)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され、整備されました。その当時は、現在の場所ではなく、山の麓の、田代川右岸の今の畑地に建てられました。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立されたものです。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長筆の山号木額が掲げられています。現在の本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり:屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式になっています。間口は3間(5.4m)、奥行きは2間(3.6m)で、本堂向拝の軒下には、精巧な龍の彫刻がされた蝦虹梁(えびこうりょう)があります。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれており、日光・月光初め仏像13体は、岩村城内の薬師寺より迎えられました。本尊仏と石灯篭は、小原村(※)文化財に指定されています。真言宗高野山派『瑠璃光山薬師寺』「本寺の開山は不明であるが、二冊の中興建立記によると、寛文五年(1665)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され整備された。その地は、山麓田代川右岸の今の畑地である。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立された。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長の山号木額は立派である。本堂向拝には、龍の彫刻された蝦虹梁(えびこうりょう)は精巧である。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれ、日光・月光初め仏像十三体は、岩村城内の薬師寺より迎えられた。村文化財指定は本尊仏と石燈籠である。」『扁額』の文字は?。本堂向拝には欅一木彫りの見事な精細な蝦虹梁(えびこうりょう)を見ることが出来た。蝦虹梁とは曲がりくねった形をした向拝(ごはい)柱と本堂を繋ぐ梁のことを指し、彫刻や彩色を施されている虹梁はよく見かけるが、このような透かし彫りの蝦虹梁はなかなか見掛けることは出来ないのであった。欅一木彫りの龍は、写真手前が降り龍で、後方が登り龍。間近で見れば見るほど、その素晴らしさに感激。豊田市指定文化財(建造物)『薬師寺本堂・鐘楼門』。「本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり(屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式が用いられています。間口は3間(5.4m)、奥行は2間(3.6m)で、龍の透かし彫りが施された蝦虹梁(えびこうりょう)は見事なものです。鐘楼門は明治15年に建てられたもので、形もよく、虹梁の彫りや回廊欄間(かいろうらんま)(2階部分)には、十二支の彫刻が配されていて、装飾的に価値が高いものです。」『本堂』内部。本尊『薬師如来像』。市指定有形文化財『木造薬師如来座像』。「この坐像は、高さ40.5cm、台座総高33.5cmです。銘文に天平3年5月8日とあるのは疑わしいですが、弘治とみえることから、弘治年間(1555~1558)頃のものと思われます。なお、蓮華銘文に于時(ときに)元禄2年(1689)11月26日奉彩色臺座とあるのは、この時期に台座部分の彩色を行った記録だと思われます。寄木造の漆塗で、作風もよく工芸的に優れています。」重要文化財 『燈籠』。市指定文化財(有形物)『燈籠』。指定 昭和57年7月23日高さ 香縄(こうつな)燈籠(本堂に向かって右)218cm 内方(うちかた)燈籠(本堂に向かって左)215cm建立 両灯籠ともに元禄16年(1703年)10月8日石材 地元産の花崗岩香縄(こうつな)は上仁木村春日部庄大夫香縄であり、乙ヶ林城主春日部佐渡守の末裔でその子孫は現在の上仁木の春日井氏です。内方は庄大夫香縄の妻です。御朱印を頂きました。 ・・・つづく・・・
2019.12.14
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『寒霞橋』が再び前方に。『三溪園 昔むかし 21 月影の茶屋』。「屋根は杉皮葺きであろうか、隣接した田舎家の風情にあわせた簡素な建物である。詳細は不明であるが、園遊会などの際に茶の接待などに用いられたものと考えられる。明治41(1908)年の新聞(横浜貿易新報)記事によれば障子に”白露の里 月影の茶屋”と記されているとある。今ではこの月影の茶屋も田舎家もその姿はなくなってしまったが、周辺の山里の風情は変わらずにいる。」旧燈明寺本堂の手前にあった石像・『大漁地蔵』。『待春軒』。おそばやうどんをメインに和食弁当や定番甘味等も供されていますが、名物はやはり原三溪考案という、『三溪そば』であると。『三溪園 昔むかし 22 待春軒』。「寒月庵(No.13)と同じく、もと江戸の豪商 川村伝左衛門(迂捜)が所有していたもので、栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。場内にあった明治12(1879)年には、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント(1822-1885)が日光滞在中のある日ここに遊び、昼食をとったという。三溪園に移築後、この建物には”御やすみ、お茶御随意 待春軒”という案内書きがつけられ、初音茶屋(No.14)と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらには句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようである。」『三溪園 昔むかし 23 待春軒より横笛庵、六角堂を望む』。『三溪園 昔むかし 13 寒月庵』。「三溪が所有していた製糸場の一つ栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。かつては江戸の十人衆の一人といわれた赤穂藩出入りの豪商・川村伝左衛門(迂叟)が所有していた草庵で、元禄の頃(18世紀)には忠臣蔵で有名な大石内蔵助がたびたび遊んだといわれる。昭和26(1951)年伊豆山の旅館に移され、現在跡地にこの林洞庵が建てられた。」東屋の『初音茶屋』。『林洞庵(りんどうあん)』『林洞庵』1970年(昭和45年)建築。宗徧流林洞会から寄贈された茶室です。屋内には流祖山田宋宗徧筆”林洞”の板額があります。八畳の広間と四畳の小間からなっています。そして池の先に垣間見えて来たのが『旧燈明寺本堂』。本牧三之谷にある『三溪園茶寮』まで足を延ばす。『月影の茶屋』・『雁ヶ音茶屋』と粋な名前のおやすみ処。『旧燈明寺本堂』。『旧燈明寺本堂』。重要文化財、室町時代建築。燈明寺は現在廃寺となっていますが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。昭和22年の台風で被害を受けた後解体し保存されていましたが、昭和62年(1987)に三溪園に移築されました。『三溪園 昔むかし 24 皇大神宮』。「寒月庵(No.13)、待春庵(No.22)とともに栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。三溪園は、梅・桜のほかに秋草の名所としても知られ、秋にはこの皇大神宮の石段の上からフヨウやオミナエシ、ハギ、ススキなどの花野が眼下一面に眺められたという。昭和20(1945)年、空襲の爆撃により消失。現在、鳥居や石段・灯籠の一部が残るのみである。」『三溪園 昔むかし 25 皇大神宮から楠公社への道』。「園路の傍らにベンチ2基が置かれ、その背後の山すそにはススキやノギクなどが咲き乱れる。季節は秋である。三溪園の秋草は、遠く群馬県高崎から取り寄せられたもので、見ごろの季節にはこの風情を味わいに訪れる来園者も少なくなかった。ベンチの脚にデザインされた”丸に花菱”は原家の家紋である。」『三溪園 昔むかし 26 夕日ヶ岡と稲荷社』。「夕日の射す時刻に美しいながめが見られることからの名であろうか。山の斜面の中腹には稲荷社の鳥居が見える。稲荷社は、由緒など不明で空襲により消失したのか、現存しない。」『三溪園 昔むかし 27 杉の茶屋』。「名のとおり、屋根ばかりでなく壁面にも杉皮が張り込まれた建物。柱や梁などの木部も皮付きの杉材が用いられていたようで、写真からも野趣に富んだものであったことが想像される。詳しくは不明であるが、休憩所として、また催事などの際に茶の接待所などとして用いられたものであろう。空襲の爆撃により消失。」『三溪園 天満宮』。この天満宮はもと間門天神といい、三溪園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。昭和52年(1977)三溪園に移されました。『天満宮』と書かれた新しい扁額。『天満宮 拝殿』。『観梅俳句大会 入賞句』。『観心橋』。大池の中にある島の四阿(あずまや)、『涵花亭(かんかてい)』。『三溪園 昔むかし 28 楠公社と観心橋』。「楠公とは、南北朝時代の武将・楠 正成のこと。社殿の建物は、もと大坂・観心寺にあったもので、楠 正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。」『観心橋』から見た『天満宮』。『旧燈明寺三重塔』も見えた。島の四阿・『涵花亭』。『涵花亭』の木造ベンチには猫がのんびりと。『観心橋』を再び、その先に『天満宮』。。三溪園の入口方面に向かって進む。左手には『大池』が。『八ツ橋』を渡る。『藤棚』に向かう途中『大池』を見る。舟が静かに浮かんでいた。夕日を浴びて光る『大池』。そしてこの日((8月24日(土))の長い一日の『港・ヨコハマ』巡りの予定の全ての行程を終わり、三溪園入口からバスにて桜木町駅に戻り、地下鉄で帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.10.03
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『寒霞橋(かんかきょう)』が前方に。『寒霞橋』寒霞橋を渡るとすぐに現れた建物が『横笛庵(よこぶえあん)』。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『三溪園 昔むかし 16 安置されていた横笛の像』「横笛は今から800年程前、平 清盛の娘・建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)に仕えた女官で、平家物語には平 重盛の従者・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。この像はその横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作ったと伝えられたが、現存しない。なお、横笛が出家後に住んだといわれる奈良・法華寺にも同様の像が伝わっているが、関わりなどは不明である。」『三溪園 昔むかし 17 寒霞橋と横笛庵』。「奥に見える茅葺きの建物は、今ではもう失われた待春軒。手前の風景は現在もほぼ変わっていないが、横笛庵の屋根の頭頂部には植物を植え付けた”芝棟”と呼ばれるしゃれた演出が施されている。芝棟は、山梨県から関東・東北地方にかけてみられるもので、三溪園ではアヤメ科のイチハツなどを植えていたようである。横笛庵は、落飾した(尼姿の)横笛像を安置した詫びた草庵風の建物だが、芝棟にイチハツの花が咲く初夏の一時期、あたかも髪飾りをつけた清楚な女性を思わせる装いとなった。」『三溪園 昔むかし 18 松風閣の別景』。「松風閣は当初、原家初代・善三郎が別荘として建て、三溪の代となってさらに増築が重ねられた。その規模は、本邸・鶴翔閣をしのぐものであったといわれるが、惜しくも関東大震災で倒壊、現存しない。ここから見上げるその姿は、和風木造建築が大部分で、No.12のレンガ造の玄関邸とはだいぶ異なっている。この一部に三溪の支援を受けた日本画家・下村観山の障壁画「四季草花図」の描かれた”観山の間”があった。その名のとおり、まさに松林の中にたたずむ建物である。」『旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん、重要文化財)』。禅宗様で棟札に1634年(寛永11年)の銘がある建物で、徳川二代将軍秀忠の娘・千姫の寄進と伝えられている。別の角度から。鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。 明治に入って寺領を失った東慶寺が維持することが困難となって手放したものと考えられている。禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。『三溪園 昔むかし 20 田舎家』。「石置き屋根の古民家で、由緒は不明。障子に古い証文や暦、子どもの手習いの反故紙を用い、入口には箕笠や鍬などを掛けるなど建物自体に趣向が凝らされていたばかりでなく、周辺にも季節の野菜を植えた畑や竹林、鶏を入れた籠や井戸などを配し、田舎の生活を疑似体験できるような演出が随所に盛り込まれていた。こうした田舎家の鄙びた風情は、三溪が最も好んだものの一つで、来客があった場合などにその接待に使われ喜ばれた。」『三溪園 昔むかし 19 六角堂』。「正式には”望仙亭”と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない。」『合掌造・旧矢箆原(やのはら)家住宅』。1750年頃(宝暦年間)の建物。大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家。 岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築された。 屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は要注目。内部では、古い民具の展示もおこなっていた。屋根の妻部に禅宗寺院によく見受けられる火灯窓が開けられており、格式の高さをよく表しています。さらに同じく格式の高さは軒にも見受けられ、軒の出桁を高い柱で受けて深い庇を造るいわゆる「せがい造り」が施されています。『合掌造・旧矢箆原家住宅(重要文化財)』岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 (普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。『国指定 重要文化財 旧矢箆原家住宅』。建物に向かって右手の、農家出入口から中に入った。右手に土間があって、農作業や運搬に使う馬が体調管理するため、ここで飼われていたと。表側の広い囲炉裏のある部屋「おいえ」は家族のだんらんの部屋で、村の寄り合いも行われました。家族の団欒スペースの囲炉裏。『機織り機』であろうか?旧矢箆原(やのはら)家住宅 間取り図。ズームで。式台玄関上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、普段は使われませんでした。この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。『ざしき(座敷)』左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間。また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が施されていた。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の横。広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、代官が泊まるという格式を備えています。右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の違い棚。扇面散らしの欄間。『櫂の欄間』山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間。『錨の欄間』であろうか。『中の間』涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりした場所。仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。浄土真宗の仏壇、お彼岸とお盆に特別公開するのだと。『ざしき』の書棚。縁側から外を見る。「だいどころ」囲炉裏 こちらには火が入ってました。『うすなわ』では味噌醤油樽、臼、石臼、農具などを保管し、冬は「むしろ」を編んだり縄をなったりしていたと。樽の大きさでその家の裕福さが分かったようです。様々な樽が。『ちょうだ』は長男夫婦の部屋でタンスや大きな長持ちが置いてあった。次男・三男の部屋はこの上の天井の低い中二階であったと。水屋 の『水舟(みずふね)』。説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から物色し、持ち込んだものだそうです。水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための沈殿槽として使っていたものです。そして2階への急な階段を恐る恐る上る。2階の大きな茅葺屋根を見上げる。梁や柱は真っ黒に煤光していた。典型的な合掌造りの光景。2階から1階からの階段付近を覗き見る。2階は昔の日用品の展示コーナーにもなっていた。『たてばた』たて糸を垂直状態に張って織る織機で、現在は「じゅうたん」など、ごく一部のみ使用と。いろいろな部品や道具も。酒樽、盆、皿も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.02
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先程横から見えた沢に架かる石橋を渡って更に進む。緑に覆われた『十三重石塔』。『聴秋閣(ちょうしゅうかく、旧二条城移築三笠閣)』も重要文化財。緑のモミジ葉が陽光に輝く。「『聴秋閣』は元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に建立されました。当初は三笠閣という名前でした。その後これを乳母春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移しましたが、明治14年(1881)には更に牛込若松町の二条公邸に移築、大正11年、三溪園に移築されました。」『聴秋閣』は内苑でも一番奥の渓流沿いに建てられ、山間の中にひっそりと現れる洒脱な楼閣といった趣きで、新緑や紅葉の頃には色づく木々とあいまって特に秀麗な姿を見せてくれると。緑のモミジ葉で覆われた楼を見上げて。外観は小さな楼閣を乗せた二層構造で、正面から見た時には中央上部に楼が突き上がり下層が横に広がっていますが、横から見た時には上下とも同じ幅になっています。さらに楼の下の主室を中心に左右非対称の異なる内部構成になっており、それに合わせて屋根の構成も変化をつけるなど、その見る位置によって様々な顔を見せる複雑妙味な建造物です。『春草廬(しゅんそうろ)』。『春草廬』は三畳台目の茶室で、後掲の月華殿と共に宇治三室戸寺の金蔵院にあり、当時は9つの窓があることから、九窓亭と呼ばれていました。有楽斎は利休十哲(りきゅうじってつ)のひとりとされる茶人だ。躍り口脇の刀掛けの踏石は稲葉と名づけ、岐阜県稲葉山より持ち来たもの、庭前の手洗石は京都嵯峨天竜寺にあったもので、夢窓国師が使用されたものだそうです。ガラス戸に映った景色も見事。春草廬からの小道の傍らには苔むした石棺などが置かれ、ここは特に奈良の風情が色濃い場所だ。『石棺』。奈良は海竜寺付近から出土した5~6世紀の石棺。それより100年以上も古い石棺の蓋古代に思いを寄せつつ進んだ先に待つ、窓が多く優しい華やかさを感じさせる小さな空間。更に緑の散策路を進む。『蓮華院』。もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた 蓮華を飾ったことに由来しています。『横笛庵』草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。 横笛の像は、戦争の際に失われました。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『海岸門』を潜る。こちらも御門と同様に京都西方寺から移築されたものである。魔除けの桃瓦が写真左に。鬼瓦は阿吽でこちらは阿形。『松風閣展望台』に向かって進む。狭い山道。『三溪園 昔むかし 9 御谷館』。「御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。明治41(1908)年に移築され、来園者の休憩用にあてられたようであるが、詳しくは不明。大正4(1915)年に焼失した。」『三溪園 昔むかし 10 造成中の内苑(大正10年頃)』。「当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアであった。写真では公開部分との境に仮説の塀が設けられ、その向こうに資材置き場であろうか、簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源 頼朝の木像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない。」秋にはオオスズメバチがいそうな坂道。岩がゴロゴロした場所には、木製階段が。『松風閣跡地』。『三溪園 昔むかし 12 松風閣』。「初代・善三郎が別荘として明治20年ごろに築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三溪の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5(1916)年には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数ヶ月間滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。また、その一室”観山の間”には三渓が支援した中でも最も好んだ日本画家下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが、大正12(1923)年の関東大震災により建物とともに消失した。」そして松風閣跡を南側に登ると展望台に着く(展望台に松風閣の名が残る)。階段を上り展望台へ。展望台から東京湾の豊浦町、本牧埠頭の景色を楽しむ。『JXTGエネルギー(株) 根岸製油所』。南本牧ふ頭のコンテナクレーンが並んでいた。手前には『首都高速湾岸線』が。『三溪園 昔むかし 11 聚星軒(じゅせいけん)』竹を編みこんだ壁など、中国風の意匠が特徴の建物。明治20(1827)年ごろ、松風閣とともに原家初代・善三郎が築造したもののようであるが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊し、現存しない。周辺には、中国で産する太湖石の石組みなどが今も残り、善三郎の中国趣味の一端がかいま見える。展望台を後にして、尾根道を下る。大明竹が覆いかぶさるような径を抜けると、樹々の合間から三重塔が見えて来た。三溪園のシンボルともいえる建物。そのちょっと手前、径の左側に石の仏像が置かれていた。名付けて『出世観音』と呼ばれていると。三溪園あるいは三溪と縁の深かった文化人たちの多くが、文化勲章の栄誉を受けているという事実から、なんとなく呼ばれるようになって来たようであった。そして『重文 旧燈明寺三重塔』三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、京都府相楽郡加茂町燈明寺にあったものを、大正3年3月に移築したもの。1485年の建立で、関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたものとはいえ、横浜市最古の建築物。塔の先端までの高さは24mで、全体が安定感のある優美な姿をしていると評価されています。勿論、国の重要文化財に指定されている。建築様式としては、典型的な和様と呼ばれる形式で、室町時代の特徴をよく備えていると。各層に欄干付の廻縁が設けられ、斗供を始め細部も室町のしきたりに添っている。現在関東地区に所在する木造の塔としては最古のものになるのだと。三溪園の『大池』が下方に見えた。『旧燈明寺三重塔』からの本牧の町並みの眺め。ここ三重塔の丘から大池越しに眺めると、住宅地の先には横浜港のクレーンの先端がずらりと揃って見え、さらにベイブリッジの橋塔がかすかに望むことが出来たのであった。三重塔をズームで見上げる。ところで、この塔の心柱ですが、一層目の屋根裏から立ちあがっていて、一層目は仏像が置かれる空間になっているのだと。実はこの心柱ですが、地面に接した心礎から立ちあがっている場合と、ここの塔のように一層目の天井から立ちあがっている場合があると。これは時代の変化によるもので、古くからの塔は前者のように地面から立ちあがっているのだが、後者の例は、平安末期以降見られるようになった構法であると。 【https://ameblo.jp/sankei-mietaro/entry-12202404368.html】より『初音茶屋(はつねぢゃや)』。その昔『初音茶屋』では、来園する人に麦茶を振る舞う、「麦茶接待」が行われていた。 「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」と、その様子を詠んだのが、芥川龍之介。『三溪園 昔むかし 15 初音茶屋』「開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎を入れたものや温かい麦茶がふるまわれたという。大正4(1915)年三溪園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三溪の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、”ひとはかり浮く香煎や白湯の秋”という句を詠んで締めくくっている。また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその蔓の端が六方の軒に垂れ下がっていたとあるが、写真はまさにその風情である。」更に進むと梅林・『臥竜梅(がりょうばい)』が拡がっていた。三溪園は古くから梅の名所としても有名で2月から3月にかけて、約600本ある白梅・紅梅などが見事な花を咲かせる。竜が地を這うような枝振りの「臥竜梅」、花弁の根元にある萼が緑の「緑萼梅(りょくがくばい)」など、珍しい梅も見ることが出来ると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.01
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中区妙香寺台にあった『妙香寺』を訪ねた後は、本牧通りに出て『上野町』バス停からバスに乗り、この日の最後の訪問場所の『三溪園』に向かう。10分ほどで八王子街道にある『三溪園入口』バス停に到着しバスを降りる。10分弱住宅街を歩き『三溪園』入口に到着。『三溪園』は実業家 原三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開された。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されているのだ。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至った。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれた。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っている。原三溪は青木久衛の長男として生まれる。生まれは、岐阜市柳津町佐波。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。神奈川県横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また『富岡製糸場👈リンク』を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。『富岡製糸場』 【https://hakyubun.hatenablog.com/entry/20140505/p1】より入口の反対側に会った『かながわの景勝50選 三溪園』と刻まれた石碑。『三溪園』と書かれた入口正門。有名人の筆なのであろうか?500円の入場券を購入し園内に。『三溪園案内図』。ネットから。入口の先の『蓮池』では、多くの家族がザリガニ釣りを楽しんでいた。蓮にとって成長のじゃまになるザリガニを駆除するため、この期間だけ特別に釣りが出来るようであった。蓮の花もところどころに。『大池』越しに『旧燈明寺三重塔【重要文化財】』を見る。蓮の花を入れて。『三溪園 昔むかし 2 明治末頃の園内』。「桜花のころの桜道。道の両側には、桜の時期にあわせて設けられたものだろうか、雪洞(せつどう)が並んでいる。今では車の往来で遠慮がちに立っている桜の木も、当時はその名のとおりの主役であった。華やいだ中にも、どこか昔ののどかさを感じさせてくれる写真である。」『三溪園 昔むかし 3 大正初期頃の園内』。「現在と比較すると、もの足りないほどすっきりとした園内の景観である。主園路沿いに松の木が植えられたのは近年のことで、今では雑木となっている三重塔の山は往事黒松ばかりであった。」『鶴翔閣(かくしょうかく、旧原家住宅)』。1902年(明治35年)三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった。 広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。 上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられました。 震災、戦災などをへて多くの改変がなされましたが、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復元されました。 鶴翔閣には日本を代表する政治家や文学者が集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在した。 こうした由緒ある歴史を背景に、現在、“利用できる横浜市有形文化財”として活用されている。 大規模な日本間や広大な前庭を有し、茶会、句会などの日本的文化活動の場はもとより、国内外の賓客接遇、結婚披露宴、演奏会や展示会など、幅広い用途に利用されている。『鶴翔閣(旧原家住宅)』入口。この日は、団体が使用しているようで、閣中には入れなかった。巨大な大きさの『鶴翔閣(旧原家住宅)』をGoogle Earth から。現在も現役で文化的行事(茶会・句会等)の施設として活用されているのだ。950㎡(287坪).。『内苑』入口にあった『三溪園案内図』。『内苑』は、戦後に初めて一般公開されたエリアで、それまでは原家の私庭として一般には立ち入れなかった。よって当時三溪園のみやげ物として売り出された絵はがきにも内苑の写真はほとんど見られなかったと。左の三溪記念館には受付所のような建物が付設されていた。『三溪園 内苑 御門(ごもん)』は横浜市指定有形文化財。御門は、当時“桃山御殿門”あるいは“桃山御門”と呼ばれ、これは奥の臨春閣が豊臣秀吉築造の桃山建築・聚楽第(じゅらくだい)の遺構とされていたことによる呼称であった。戦後、臨春閣は江戸初期に建てられた紀州徳川家の別荘“巌出御殿(いわでごてん)”と判明したため、“桃山御門”は“御門”となった。「この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三溪園に移築されたものです。規模の大きい薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の遺構として貴重なものです。」『御門』を潜ると右手には『白雲邸(はくうんてい、横浜市指定有形文化財)』が。「この建物は原三溪が大正9年(1920)隠居所として建てた数寄屋風建築で明治以降における近代和風建築を代表するものです。建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっています。」正面の『臨春閣(りんしゅんかく、重要文化財)』は修復工事中。『臨春閣』。「この建物は、紀州侯初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649)に、和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘巌出御殿といわれています。8代将軍吉宗は幼時この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。また、この建物は数寄屋風書院造として、宮家別荘桂離宮と共に我国住宅史上において別荘建築の双璧といわれています。三溪園には大正6年(1917)に移築されました。」修復工事中の『臨春閣』を横から。正面が第二屋の『浪華の間』、右が第一屋の『台子の間』。こちらは『臨春閣』・第三屋の一階『天楽の間』と二階『村雨の間』。臨春閣は渡り廊下でつながれ、開放された縁側が池に張り出す形で伸びている第二屋であるが、残念ながらこの日は工事中。『旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう、重要文化財)』。「寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです、豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902)三溪園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺にあります。」現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。見事な彫刻が全面に。『亭榭(ていしゃ)』は四阿(あずまや)が付いた橋で、写真の右側には臨春閣がある。『榭』とは、見晴し用の高い壇を指す台,台の上に亭(あずまや)を築いた建物を言うと。豊臣の家紋『五七の桐』紋が。『亭榭(ていしゃ)』を渡ると、再び右手に『臨春閣』・第三屋の一階『天楽の間』が。床の間には『違い棚』が。壁や唐紙には水墨画が描かれていた。『瓢箪文手水鉢』。豊臣秀吉が愛用したという手水鉢(ちょうずばち)で周囲に瓢箪の文様がある。 秀吉から藤堂高虎に与えられ、高虎の居城であった伊賀上野城にあった物の由。 三溪園では臨春閣の脇に設えていた。園内の彼方此方に由緒ある石の加工品が置いてあり、奈良東大寺の柱の礎石とか石棺、石灯籠など。 明治の廃仏毀釈令で奈良や京都の古刹も経営難で由緒あるものが流出したものを三溪が集めたものと思われる。更に奥にある『月華殿』への階段を上っていく。横には沢に架かる石橋が。『月華殿【重要文化財】』。近くには小さな沢の流れが。正面から『月華殿』を。徳川家康が京都伏見城に居た頃に城内に建てられたもので、関が原の戦いで勝利した東軍リーダーであり、将軍となる家康に伺候する大名・武将達の控の間として使われた物の由。 写真左側に12.5畳、右側に15畳の大部屋があり奥に小部屋が幾つかある。 1603年(慶長8)築と云う事であるから丁度家康が将軍宣下を受けた時にあたり、既に400年以上経た建物である。『月華殿』の奥にあったのが『金毛窟(きんもうくつ)』。1918年(大正7年)建築三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小茶室。台目とは3/4の大きさの畳のこと。一畳台目は点前(亭主)畳が3/4畳で、客畳が一畳の茶席。その奥に『天授院(てんじゅいん)』。1651年(慶安4年)建築もとは、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築された。 建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としている。『天授院』前の石灯籠。帰りに再び『金毛窟(きんもうくつ)』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.30
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ーーが(その14)の散策ルート。更に横浜市中区山手町の散策を続ける。『フェリス女学院大学山手キャンパス』。1870年(明治3年)、アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始した。これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる(のちに男子部は明治学院となる)。1875年(明治8年)、アメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって、横浜・山手178番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、フェリス女学院中学校・高等学校の基となった。その後1947年(昭和22年)に(旧制)専門学校を設置し、これを1950年(昭和25年)にフェリス女学院短期大学に改組、1965年(昭和40年)に4年制の女子大学が誕生した。更に『汐汲坂』を下ると左手にあったのが『山手カトリック教会』。キリスト教カトリックの教会および聖堂。英語名はSacred HeartCathedral(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区の司教座聖堂(カテドラル、大聖堂)である。文久元年12月13日(1862年1月12日)、パリ外国宣教会が居留地80番に建てた横浜天主堂が、開港後の日本で初めてのキリスト教会堂です。マリア像を載せたポーチをイオニア式オーダーが支え、ペディメント等の古典様式の味付けがなされたものでした。見る限りは石造建築か煉瓦との混合造と思われます。同教会は明治39年、2つの塔を持つ煉瓦造の聖堂を山手44番に建設します。そこへ活動の拠点を移したものが、カトリック山手教会のはじまりです。『告知板』ところが、その煉瓦造教会の寿命は短く、大正12年の関東大震災によって完全に崩壊してしまい、現在の建物は昭和8年に再建されたものです。尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築ですが、内部には細かな装飾が施された列柱などを備え、この山手カトリック教会は、日本一美しい聖堂とも呼ばれています。『山手カトリック教会』を横から見る。そして『山手公園北側入口交差点』を左折し、緩やかな坂を下っていくと正面にあったのが『日本庭球発祥之地』の石碑。「山手公園は1870年(明治3年)横浜の居留地外国人のレクリエーションの場としてつくられた。1878年レディースローンテニスアンドクロッケークラブ、現在の横浜インターナショナルテニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建設した。この地は日本のテニス発祥の地とされている。」 眼下にテニスコートが。テニスの発祥の地を記念して建てられたのが『横浜・山手 テニス発祥記念館』。テニスウェアやラケットの変遷など、テニスの歴史を展示公開していた。『横浜・山手 テニス発祥記念館』内部。これが当時の女性のテニス時の服装のようだ。テニスのラケットの変遷も。近寄って。昔のテニスラケット、テニスボールが展示されており、移り変わりを知ることが出来たのであった。こちらは、人工芝のテニスコート。土&人工芝のテニスコートが各6面づつ?あるようであった。『旧山手68番館(公園管理センター)』に向かって進む。『山手公園120周年記念碑』。『日本最初の様式公園』「横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を望む声があり、慶応二年(1866)に外国公使団との間で結ばれた「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」(慶応約書)によって、その要求が幕府に認められました。しかし、この中の公園計画は具体化しないで終わりました。明治二年(1869)に居留民代表から改めて要求が出されたのに対して、日本政府は山手妙光寺付近の土地約六千坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸与しました。公園の造成は居留民が行い、明治三年五月六日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。明治十一年(1878)からは、居留外国人女性で組織された横浜レディズ・ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブ(横浜婦女弄鞠(ろうきゅう)社)が管理することなり、クラブハウスとコートがここに設けられました。」『旧山手68番館(公園管理センター)』。1934(昭和9)年に建てられた外国人向け貸家を1986(昭和61)年に公園内に移築したもので、現在は公園管理センターとして利用されている。『旧山手68番館(公園管理センター)』の前の道を奥に進み東屋で一休みし水分補給。そして東屋の更に奥の『山手公園』の南側出口の階段を降り、住宅街を進む。そして『本牧通り』の一本北側の道を東に進むと左手にあったのが『妙香寺』。入口には『君が代由緒地』と赤く刻まれた巨石碑が。『浄行菩薩像』の祠。『浄行菩薩像』。多くのタワシが。タワシで像をきれいに洗ってやると、ご利益があるのであろう。階段上には山門が。『日本吹奏楽発祥の地』。我が国の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)、薩摩藩が軍楽隊を編成したことに始まる。薩摩藩は薩摩藩軍楽隊30名を横浜に派遣し、当時横浜に駐留していたイギリス公使館護衛隊歩兵大隊のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けた。その場所がここ『妙香寺』。翌1870年(明治3年)には、フェントンによって「君が代」が作曲され、山手公園野外音楽堂ではフェントンの指揮で演奏会が開催された。『国家君ヶ代発祥之地』石碑。石碑には「名勝史跡四十五佳選当選記念」とあり、昭和10年ごろに横浜貿易新報社(神奈川新聞社の前身)が県内の名勝史跡45カ所を募集し選ばれた場所であることを示している。君が代は外交儀礼上の必要から、薩摩琵琶歌『蓬莱山』から選ばれた歌詞に、英国歩兵隊軍楽隊長だったイギリス人フェントンに作曲を依頼して作られ、明治3年わが国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で初めて演奏された。しかしこの『最初のバージョンの君が代』👈リンクは、メロディーが日本語になじまないため日本人には受け入れられず、10年後に現代版の『君が代』に変更されたと。初めて聴く『最初のバージョンの君が代』なのであった。『本堂』814年(弘仁5)真言宗の祖、弘法大師(空海)の創立、その後日蓮聖人の教化で日蓮宗に改宗、東海寺から妙香寺となりました。 1923年(大正12)9月1日関東大震災、1927年(昭和2)1月10日失火により全山焼失、 1945年(昭和20)5月19日第二次世界大戦横浜空襲により全山焼失、現在は全山復興。残念ながら御朱印は頂けなかった。途中、『妙香寺交差点』を右折し本牧通りに向かうと、上野町のセブンイレブンの近く二差路入口に、『皇紀二千六百年記念』の石碑が。そして本牧通りの『上野町バス停』からバスに乗車し、この日の最後の訪問地である『三渓園』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.28
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ーーが(その13)の散策ルート。『山手十番館 / 仏レストラン&カフェ』。横浜 外人墓地を臨む山手の丘にある異国情緒あふれる小さな洋館。昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた「山手十番館」。向かいには日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠る外国人墓地があり。結婚式も出来るようであった。横の庭には緑豊かな西洋庭園に客席を設け、ガーデンBBQと共に歴史を感じながらビールを味わえるビアガーデンが。そしてその隣にあったのが『山手資料館』。山手資料館の前庭はバラ園として設えられていたが、バラはほぼ終わっていた。山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示。横浜市の歴史的建造物に指定されている。牧場主として財を成した中澤兼吉の和洋併設住宅のうち、洋館部分だけを1977年(昭和52年)に移設したとのこと。この移設には人気レストラン「山手十番館」のオーナー、故・本多正道が携わっており、この山手資料館は山手十番館の敷地内にある。『山手資料館』建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものとして知られる。内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されている。建物の脇には『クリーンベンチとガス燈』が。明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで親しまれました。ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。ガス灯には灯が灯っていた。山手本通り側から見る。『横浜山手聖公会』。横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、開国3番目のキリスト教会。創建当時の教会堂は現在の中華街近くにあったが、明治34年(1901年)に現在地に赤レンガ造りの聖堂が建てられた。『横浜山手聖公会』と書かれたプレート。この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家のモーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっていると。2005年1月に放火により大きな損傷を受けたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇った。横浜市認定歴史的建造物に指定。塔の各面に3つづつ並ぶ窓枠は大谷石を蝋燭形にしてある。『自働電話』。エリスマン邸から山手十番館に行く途中にある、灯台のようなレトロな電話ボックス。電話100年を記念して、1990年に設置された公衆電話。公衆電話が初めて設置された当時は、『自働電話』と呼ばれていたと。『山手234番館』。1923年9月1日に発生した関東大震災では横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。駐留していた外国人は神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次ぎ、震災前に7650人いた外国人は、震災の翌年には2156人まで減少した。横浜市では外国人に市外から戻ってきてもらうべく、復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。山手234番館も、市営ではなく民間の事業であるものの、こうした外国人向けの集合住宅の一つである。竣工は1927年で、第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向けアパートメントとして使用された。1989年に、景観の保全を目的として横浜市が建物を取得。1997年より保全改修工事が行われ、1999年より一般公開されている。1999年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。『えの木てい 本店』。山手外国人墓地を過ぎたところにある「えの木てい」。昭和2年(1927)日本人建築家 朝香吉蔵氏が設計した英国式洋館で、アメリカ人検事が暮らしていた。昭和45年(1970)現オーナーのご両親が自宅用として購入。西洋館のリビングを、そのまま喫茶店として利用しています。木製の上げ下げ窓や暖炉をそのまま残したリビングは、当時の面影を残しています。看板商品はチェリーサンド、店舗自慢のテラス席からは目の前に広がるローズガーデンに咲き並ぶ様々な薔薇を眺めながら優雅なティータイムを楽しめると。『エリスマン邸』。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて、山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。設計はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。エリスマンの没後は数度所有者が変更となり、第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体された。歴史的価値を見出した横浜市は部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元した。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建の木造建築で、施工は清水組。1階は応接間や台所、居間兼食堂、2階は主に寝室や浴室として使われていた。移築前は和館が併設されていたが、部材が残っておらず復元されなかった。屋根の勾配を緩くし、1階と2階の間に庇を設け、水平性を強調する意匠とした。外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。2階の2か所に壁面を後退させてバルコニーを設け、寄棟造の屋根を雁行させて単調な直方体とすることを避けた。窓など開口部は大きくとられ、青緑色の鎧戸が設えられている。全館にスチーム暖房が採用されていたが、施主のリクエストにより応接間に暖炉が設けられた。エリスマンの妻が日本人であったことから、浴室とトイレはそれぞれ独立した造りになっている。建物の横の塀には、『エリスマン邸』の案内板が。『横浜雙葉中学高等学校』校門。この建物は重厚感溢れるものだが、山手の雰囲気とはちょっと違う?エンタシスの柱が至るところに。『ベーリック・ホール』への入口門。『ベーリック・ホール』。イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベーリックの邸宅として、1930年に建設された。設計はアメリカ出身の建築家・H・モーガンで、山手111番館と並び彼の住宅建築の代表作の一つ。ベーリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、マリア会の命名によるものである。2000年に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈された。元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されている。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造である。山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模。スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。1階は応接間や食堂、居間とこれに続くパームルームなど、2階は主に寝室として使われていた。食堂と居間には暖炉、横浜港を見渡せるよう北側に作られたパームルームには獅子頭の壁泉が設えられている。2階は主人・婦人・子息と来客用の寝室、それぞれに附属する浴室が設けられている。3連アーチや煙突が印象的な外観と、和洋様々な手法を取り混ぜたインテリアは、建築学的にもたいへん大きな意味を持っているのだと。『横浜ユニオン教会』。1859年10月以来、ジェームス・カーティス・ヘボンが神奈川の成仏寺で合同礼拝を行っていた。横浜で1866年以来合同礼拝が行われ、1871年9月から1872年8月の間に教会として組織された。最初、山手町のアメリカン・ミッション・ホームで行い、次にゲイティ座で行われた。1875年から日曜日の午後に日本の教会を借りて行った。1888年に最初の専任牧師の聖公会の祭司ジョージ・ミーチャムが就任する。1889年から、1907年までユージーン・ブースが奉仕をする。1910年山手町で礼拝堂を建設するが、1923年に関東大震災で倒壊する。現在と同じ場所の、山手町66に再建する。太平洋戦争中は米軍の空襲により完全に破壊される。戦後、進駐軍のチャペル・センターにより礼拝出席者が減少した。1960年代にフェリス女学院礼拝堂で行われた合同礼拝により横浜ユニオン・チャーチは再建された。以前は大きな駐車場で会った場所は更地に。なにが建つのであろうか?『代官坂上』「YAMATE LINER」こと神奈中11系統は、横浜市営バスから引き継いだ路線である。茶色とクリーム色のカラーリングを纏い「YAMATE LINER」のロゴが付いたいつもの神奈中バスとは異なる専用塗装車。『末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード』大正10年(1921年)に建設され、横浜市指定文化財でもある旧露亜銀行横浜支店の建物(イギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計)をリニューアルし、平成23年(2011年)9月に、生演奏の音楽やオルゴールセレモニーなどの音楽の演出ができる結婚式場「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしている。1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・ スミス・ジュニアによって立ち上げられたキリスト教系の新宗教であり、通称モルモン教といわれる。山下町・音の教会と詠っている。末日聖徒イエス・キリスト教会の塔。記念レリーフの銘文。『日本郵船山手クラブ』。日本郵船株式会社は、1885年9月29日に創立された船会社である。三菱財閥の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。1893年12月15日に株式会社となった。日本の3大海運会社の一つであり、戦後の株式特定銘柄12社の一つでもある名門企業。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.27
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ーーが(その12)の散策ルート。『大佛次郎記念館』の下の人工のせせらぎ沿いの散策道を歩く。丘の上には、ガゼボ(gazebo)と呼ばれる西洋風四阿(東屋・あずまや)。このカスケードと呼ばれる階段状の水流の左右にある階段道をのぼると、観光バス「赤い靴号」のUターン場所でもある噴水広場に出る。『山手111番館』。山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館。 ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設された。 設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガン。玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えます。 大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つ。 赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造り。 創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していると。 そして『噴水広場』に到着。この噴水は、日本初の近代水道が横浜に完成したことを記念して明治20年に横浜停車場前広場に設置された噴水塔を再現したものだそうです。(横浜水道記念館には同じ意匠の「横浜水道創設記念噴水塔」があります)。4メートルの高さがあり、まさに塔のような、凝った造りの噴水。噴水の広場のベンチに座り、しばし水分補給と休憩。そして『谷戸坂』に向かって進む。右手に先程訪ねた『横浜市イギリス館』の正門が。『港の見える丘公園前交差点』前を通過。この先が『港の見える丘公園 展望台』。ここが正式な『港の見える丘公園』の入口なのであろう。『山手ローズテラス』の正門。真っ直ぐ坂を登ると『東洋信号通信社』。こちらが『港の見える丘公園 フランス山地区』の正門。この時期は6時~19時の間は開いているようだ。『やとざか』を元町に向かって下る。『クリーニング業発祥の地』碑。横浜開港後、本格的な西洋式洗濯の需要が高まり、多くの業者が開業し、現在のクリーニング業に発展しました。安政6(1859)年、青木屋忠七が「外国人衣類仕洗張」の許可を得て外国人相手に衣類を洗濯したのがクリーニング業の始まりといわれています。同じくクリーニング業の祖の一人、脇澤金次郎が店を営んでいたとされるフランス山谷戸坂付近は水のよく出る場所で、「クリーニング業発祥の地」の記念碑が立っています。石鹸は明治6(1873)年に堤磯右衛門がフランス人から製法を教わり製造を開始しました。『山手迎賓館 横浜』。古き佳き横浜・山手に佇む結婚式場。『あかいくつ号』。横浜中心部の観光地を巡る路線を走るバスとして、2005年3月28日より運行を開始した。一般市民からの公募で「あかいくつ」の愛称が決定し、当初からその愛称で運行・案内されているが、書類上では271系統となっている。愛称は童謡『赤い靴』に由来する。左手が『横浜元町商店街』。元町川岸通りの角にあったのが歴史ある桜の木・『シドモア桜』。。紀行作家で「日本・人力車旅情(Jinrikisha Days in Japan)」の著者であるアメリカ人女性、エリザ・R・シドモア(1856~1928年)さんの写真が掲載されていた。シドモアさんは1885年(明治17年)頃、ジャーナリストとして日本各地を人力車で訪ねて、日本の文化や風俗を欧米に紹介した方です。この文章が「日本・人力車旅情」というタイトルで出版されました。日本語訳は横浜の有隣堂から出版されています。アメリカに帰国後シドモアさんは、日本の桜並木の素晴らしさ母国でも再現したいと、ワシントン市のポトマック河畔に桜並木を作りたいと提案しました。シドモアさんや世界的化学者で実業家でもある高峰譲吉氏の尽力があって、1912年(明治45年)、東京市から寄贈された6000本の桜の苗木を積んだ「阿波丸」は、2月14日横浜港から出航した。3月27日にワシントン市で開催された植樹式にはシドモアさんも参加されたと。ポトマック河畔の桜並木は、世界的な桜の名所になっています。毎年3月末から4月初めのシーズンには、「桜まつり」が開催され、多くの観光客が訪れています。『横浜元町商店街』を散策したが、土曜日の12時近くであったが以前に比べて人出が少ないと感じたのであった。『横浜元町商店街』店舗配置案内図革製品専門店『ヒロキ』の店頭には、真っ赤なクラシックカーが。近寄って。赤いクラシックカーが店頭からはみ出していたが目的は『客寄せ』?老舗のジュエリーショップ『CHARMY』。創業52年目を迎えた、横浜元町の株式会社CHARMYはこの度、腕時計専門店『COMMON TIME 横浜元町 by CHARMY』を移転リニューアルオープンしたのだと。ビルの角に設置された『カリヨン時計』👈リンクが12時・正午の鐘を奏でていた。カリヨン(carilon)には「組み鐘、鐘演奏」の意味があり、多数の鐘を音律に従って配列し、鍵盤の機械仕掛けにより打ち鳴らす楽器。CHARMYのカリヨンの鐘は、オランダのロイヤル・アイズバウツ社で鋳造され、時計と制御装置は」ベルギーのクロコマティック社で製造された。伝統技術と最新技術をもった両社が協力して作り上げるカリヨンは現在、世界のトップ・ブランドとして評価されているのだと。そして12時をすぎると元町通り周辺は『歩行者天国』に。元町仲町通りにあったのが『ファニーの像』。元町・霧笛楼の入口付近にちょこんとある銅像。土台には「’88」、「新槐樹社委員・竹林昭吉作」の記述があり、それほど古いものではなさそう。元町公園に向かって坂を登っていくと左手にあったのが『ジェラール水屋敷地下貯水槽』。横浜市街地の井戸水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、市街地近くの丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したアルフレッド・ジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。横浜の水は船の中で保存しても腐りにくいと評判だったそうです。この施設は明治10年代(1878〜1887年)に築造。設計者、施工者は不明。平成11年(1999年)、ポケットパーク的に現在の姿に整備され、平成13年(2001年)、国登録有形文化財となりました。更に坂を上っていくと右手には『元町公園水泳場事務所』が。1868年ごろ、フランス人実業家のアルフレッド・ジェラールは、居留地77番と呼ばれたこの地を取得。湧水を活用した、船舶向けの給水事業や、「ジェラール瓦」と呼ばれた西洋瓦の工場を開設した。ジェラールが1878年に帰国したのちも後継者により操業が続けられたが、1907年に工場は売りに出された。1920年に大正活映の映画撮影所、1922年に日本人による「ジェラール給水会社」が設立された。1923年の関東大震災では設備が損壊したが、水源は被災者たちを潤した。1927年、横浜市はこの土地の永代借地権を買い取り、1930年に元町公園としたと。プール管理棟は煉瓦工場をイメージして建てられ、その屋根の一部には「ジェラール瓦」が用いられていると。 複数の市民らから寄贈を受けた「ジェラール瓦」を1999年度に葺き直したと。『ジェラールの瓦とレンガ』説明板。この外国人居留地に住んだ人達は、初めは日本で造られた瓦で葺いた日本建築に棲んでいたが、だんだんと西洋風の建物を作り棲む様になって来た。 当然ながら建築資材は輸入に頼る事になり、品不足と言う事態が起き、そこに眼を付けたジェラールは此処に瓦とレンガの工場を建て、製造に携わった。現存するこの管理棟の屋根に使われている瓦には1850年代の年号とサインが入っていると。ジェラール水屋敷、西洋瓦・レンガ製造工場跡は、1930(昭和5)年横浜市青年連合団の提案により、湧水を利用したプールが建設され、周囲一帯は公園として整備された。『ジェラールの瓦工場と水屋敷跡の石碑』。『元町公園プール』横浜唯一の公式プールとして昭和5年につくられた元町公園のプール。水屋敷の名のとおり湧き水なので真夏でも非常に冷たいのだと。プール脇の坂を更に登っていくと左側には『カトリック山手教会 納骨堂』が。納骨が行われているのであろうか?多くの参列者の姿が。横浜外国人墓地の最南端の外にある、カトリックの聖職者たちが眠る墓地。『貝殻坂』。元町公園と外国人墓地の間を通り山手本通りへ至る『貝殻坂』。坂上を見上げると横浜山手聖公会の建物が顔をのぞかせ、頂上手前でL字に大きく曲がり階段となる景観が特徴的。坂の名の由来は、外国人墓地の崖土の中に貝殻片が混ざっていたから、周辺に貝塚があったから、などといわれる。『外国人墓地』説明板。安政6年6月2日(1859年7月1日)の開港後、横浜に居留した外国人の墓地として、横浜の発展に尽くした外国人たちが眠る墓地が横浜外国人墓地。もとはペリー提督の艦隊の中の一隻である「ミシシッピー号」の墜死した水兵を葬ったのが始まりで、ペリーの要求した「海の見える地」という条件に合致する山手の高台が選ばれて墓地が築かれました。横浜開港後は、遺留外国人の葬地となり、生麦・井土ヶ谷事件の被害者や、ワーグマン、モレル、ヘールツなど日本文化に貢献した人物が眠っている。埋葬者の名簿。外国人墓地からランドマークタワーが見えた。多くの十字架が。そして再び『山手本通り』に戻る。『ヨコハマ山手観光案内』ボード。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.26
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ーーが(その11)の散策ルート。関東大震災により倒壊した『フランス領事官邸』は昭和5年に再建された。フランス山は、かつて日本へ居留したフランス海兵隊の駐屯地であった。1863年06月から1875年03月の期間、フランス海兵隊はこの山に兵舎を建てて駐留する。その後、海兵隊当局がこの地区の借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡し、1894年にフランス人建築家サルダの設計により領事館と領事官邸が建設された。この時に作られた領事館は、関東大震災で倒壊し、1930年にスイス人建築家ヒンデルの設計で再建されている。しかし、この建築物も1947年に火事で焼失してしまう。現在残されている廃墟は、この1947年の火事の際に焼け残った1階部分である。サルダが設計した当時の領事館は、建坪約24m×18mの規模でレンガ造りの2階建て建造物だったそうだ。緑豊かなフランス山。フランス領事官邸の遺構を過ぎるとすぐに愛の母子像が。1977年(昭和52年)9月27日、横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、母と幼い子2人が亡くなった。子供2人は即死だったが、お母さんだけはしばらく意識があったと。生前に海が見たいと話していたことから、設置された像。乗員二人は緊急脱出してパラシュートで200m程の小山に脱出したと。像の後ろから。『寄贈者 土志田 勇 昭和60年1月17日 山本正道作』『白き巨船きたれり 音も遠からず』。大野林火作。大野林火は1904年生まれ。神奈川県出身の俳人という。近現代的で叙情あふれる作風。俳句雑誌『浜』を創刊、次々と作品を発表した。昭和28年、俳人協会の会長に就任。昭和48年に神奈川文化賞文学部門を受賞。昭和57年、79歳で亡くなったという。フランス山に上水道が敷設されていなかったため使われていた井戸が残されている。深さは30mで水を汲み上げるのに風車を利用していた。整備前の井戸の写真がプレートとして張ってあった。このレンガ造り井戸は、明治29年(1896年)のフランス領事公邸竣工時に、上水道が山手まで敷設されていなかったために設置されたものです。水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mで、使われているレンガは、円形に積むために扇型をしています。また公園整備の工事に際し、井戸の周囲から井戸水汲み揚げ用風車の基礎4基も出土しました。右側に現状保存したのは、そのうちの一つです。今回、かつてのフランス山をしのぶ貴重な遺構として保存整備を行いました。井戸を覗き込む。『港の見える丘公園 展望台』への木製デッキの遊歩道を進む。目の前が開けてきて、『港の見える丘公園の展望台』に到着。港の見える丘公園は、谷戸坂に沿うように元町から山手へと広がる細長い公園。公園は山のすそ側(北西側)の「フランス山」、展望台のある中心部そして、高台(南東側)の「ローズガーデン」があり、横浜市イギリス館、山手111番館、大佛次郎記念館、県立神奈川近代文学館などを併設している。横浜港やベイブリッジ、横浜の街並みを一望できる展望台は見どころ。『ベイブリッジ』をズームで。『横浜マリンタワー』。『山手ローズテラス』。港の見える丘公園に隣接する、ポートヒル横浜の1階レストラン 『山手ローズテラス』。店内からは、昼も夜もベイブリッジを一望できる、とっておきのビュースポット。『港の見える丘公園の展望台』の細い遊歩道を進むと『コクリコ坂からの舞台』の案内板が。2011年の夏に公開されたスタジオジブリ、宮崎吾朗監督の映画「コクリコ坂から」。「コクリコ荘」の存在する場所のモデルとされており、展望台の脇にはコクリコ坂の記念碑が。宮崎吾朗監督直筆のイラストとサインの入った記念パネルが設置され、2012年3月22日に設置式が行われたのだと。映画内で主人公が毎朝掲げていた「安全な航海を祈る」という意味の国際信号旗(U・W旗)を掲揚するポール。再び『山手ローズテラス』。『港の見える丘公園の展望台』の全景。『イングリッシュ・ローズの庭』。『イングリッシュ・ローズの庭』のバラはすでに終わっていた。その先にあった建物が『横浜市イギリス館』。『イングリッシュ・ローズの庭』案内板。『横浜市イギリス館』に向かって進む。ウィキペディアによると1937年に、イギリス軍駐屯地の跡にあたる現在地に鉄筋コンクリート構造地上2階・地下1階建のイギリス総領事公邸として完成した。設計にあたったイギリス政府工務局上海事務所は東アジアにおけるイギリスの在外公館の営繕を所管しており、1931年に日本大通に開設されたイギリス総領事館(現 横浜開港記念館旧館)や東京の駐日英国大使館、山口県の旧下関英国領事館、北海道の函館市旧イギリス領事館なども設計している。この総領事公邸が完成した1937年に日中戦争が勃発し、1941年12月に日本がイギリスとアメリカに宣戦布告すると両国の大使館員は日本の監視下に置かれた。1942年3月にはマクビティ代理領事ら3人が収監され、主不在のまま終戦を迎えた。1969年に総領事が本国に引き揚げた際に公邸の土地と建物が競売にかけられ、横浜市が買収した。その後、港の見える丘公園の施設として「横浜市イギリス館」の名称でホールや会議室が整備された。1990年には、横浜市指定有形文化財に指定されている。2002年からは、2階の展示室と復元された寝室を一般公開している。『横浜市イギリス館』正面玄関か?入場無料とのことであったが、先を急ぐ。そして次に見えて来たのが『大佛次郎(おさらぎ じろう)記念館』。近づいて。アーチ型の屋根と赤レンガの外観が一際目立つ館。神奈川近代文学館、大佛次郎記念館への案内表示板。港の見える丘公園の展望台の南側に広がる沈床花壇の奥にアーチ型の屋根と赤レンガの外観が一際目立つ館。大佛次郎の没後、遺族より蔵書や愛用品などの寄贈を受けた横浜市がそれらを収める施設として、大佛次郎の作品「霧笛」や「帰郷」の舞台となった、横浜市の山手に記念館を建設、1978年(昭和53年)5月1日に開館した。記念館はアーチ型の屋根と赤レンガが特徴的な2階建ての建物で、館内には大佛次郎が収集した文献や雑誌、執筆のための素材や愛用品など、大佛次郎に関する様々な資料が展示されている。『大佛次郎記念館』案内板。愛猫家としても知られる大佛次郎が生涯愛した猫の置物が、帽子を被って。生涯で500匹位上飼ったと言われる程の愛猫家であったと。大佛次郎記念館の隣に日本初のワルツ(明治29年吉田信太作曲)唱歌 『港』👈リンク の作曲碑があった。楽譜も付いていたので見てみると、小学生の子どもの頃歌ったことのある歌か?1 空も港も夜ははれて 月に数(かず)ます船のかげ 端艇(はしけ)の通いにぎやかに 寄せくる波も黄金なり2 林なしたるほばしらに 花と見まごう船旗章(ふなじるし) 積荷の歌のにぎわいて 港はいつも春なれや 大佛次郎記念館に続く沈床花壇広場から。大佛次郎記念館のすぐ横手に氏の横浜を題材にした代表作『霧笛』の名が付いた『霧笛橋』を渡った先は『神奈川近代文学館』。『霧笛橋』を渡る。『神奈川近代文学館』。『神奈川近代文学館』案内図。『わたしのワンピース』50周年 西巻茅子展―子どものように、子どもとともにが開催中であった。2016年度末で図書約48万冊、雑誌約51万冊、肉筆資料(特別資料)約21万点以上、所蔵総数は約120万点に達している。収蔵内容としては個人作家、収集家の業績を顕彰するコレクションとしての尾崎一雄文庫、中島敦文庫、大岡昇平文庫、井上靖文庫など40をこえる個人文庫を有するほか、神奈川ゆかりの多数の作家の肉筆資料、書籍類、文芸雑誌を中心とする膨大な雑誌が所蔵されているとのこと。『神奈川近代文学館』を後にし『霧笛橋』を下から見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.25
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『港・ヨコハマ』を巡る を再開いたします。ーーが(その10)の散策ルート。更に『シルク通り』を中華街方面に向かって歩く。右手にあったのが『旧居留地91番地塀』。中区山下町91番地に半端に残された塀が。「イタリア系蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地」と書かれており、通りの名前はシルク通り。デローロ商会は、山下町の旧外国人居留地で最も古く、長く存在していた外国商社。その塀は当時の建築の面影を残す唯一の遺構。構 造 レンガ造り 腰壁部石造 及び規模 高さ 一七〇cm、厚さ石部分 三〇cm、煉瓦部分 一八・五cm 総延長 三五六cm 所 在 地 中区山下町九一番地 指 定 平成十三年十一月一日山下町九十一番地は、横浜居留地九十一番地をそのまま踏襲しており、当初の居留地の南端部に位置します。明治三年(一八七〇)から明治五年(一八七二)までと、明治十二年(一八七九)から昭和四十年(一九六五)までの通算九〇年弱の間、イタリア系蚕種・生糸輸出商社デローロ商会の所在地でした。創業者のデローロ(G.O.Dell'Oro)はミラノの出身で、明治元年(一八六八)来日しており、主として蚕種を扱いました。最も古くから存在し、最も永く在続した横浜の外国商社の一つです。この塀は、煉瓦と石で出来ており、石造の腰壁部分の上に煉瓦壁が載る旧居留地の構造物の特色を色濃くとどめており、また旧居留地の建物の外構の姿を示す唯一の遺構です。また、敷地内からは、小菅集治監製と思われる刻印を持つ明治初期の煉瓦が多数発見され、明治以来の歴史を持つことを語っており、かつての居留地の町並みを想起させる貴重な存在です。そして再び『みなとみらい21線』に戻ると左手には2011年開館の『KAAT神奈川芸術劇場』。KAAT 神奈川芸術劇場は、「モノをつくる」「ヒトをつくる」「まちをつくる」の「3つのつくる」をテーマとする創造型の舞台芸術専用劇場。KAATは「KANAGAWA ART THEATER」の略。右手に『中華街』の入口門が。横浜中華街には現在、10基の牌楼(門)👈リンクが建っています。大通りにある善隣門は、テレビや雑誌などでよく見かけると思いますが、その他に9基もあり、中でも東南西北の4基には深い意味があるのだと。『朝陽門(青龍門)』こちら側には、朝陽門の文字はなく、ただ『中華街』と書いてあるだけ。そして裏には『朝陽門』の文字が。朝陽門は、中華街の東門にあたり、みなとみらい線の『元町・中華街駅』のすぐ近くに。日の出を迎える門。朝日が街全体を覆い繁栄をもたらす。守護神は青龍神。色は青。 2003年2月1日に立派な牌楼が落成し、高さ13.5メートル、幅12メートルで中華街で最大の門となりました。みなとみらい線が開通(2004年2月)し、元町・中華街駅からは、この牌楼を通って中華街へ入ることになるのです。『日本洋裁業 発祥 顕彰碑』。1995年(平成7年)、みなとみらい線「元町・中華街駅」3番を出たすぐの場所に「日本洋裁業発祥顕彰碑」が建てられた。1863(文久3年)、英国人ピアソン夫人が横浜居留地97番地にドレス・メーカー「サムエル・ クリフト支店」を開店したのが、横浜の洋裁業の始まりといわれる。みなとみらい線「元町・中華街駅」3番出入口の壁面。「この壁面は、明治時代のこの場所にあった婦人衣服裁縫所「ビンセンド商会」の建物外観のイメージを再現したものです。」『ウエインズインポート横浜(株) Volkswagenベイサイド横浜』前を進む。『首都高速神奈川3号狩場線』の高架が目の前に。現役時代は、出張の折、羽田空港に向かうバスに載って通る場所。『谷戸橋交差点』を左折すると左手に『テレビ神奈川(TVK)開局の記念碑』。1972年4月開局、2004年5月に社屋がこの山下町から関内に移転。旧社屋のあった山下町に小さなひざ丈もないほどの記念碑が建っていた。そしてその先にあったのが『ヘボン博士邸跡』。誕生した1815年は日本では文化12年にあたる。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日した。44歳の時であった。ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここ横浜居留地39番に移ってきた。住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられたが、明治15年(1882年)には山手に移った。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸である。ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で明治3年(1870年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は明治20年(1887年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任した。「ヘボン博士邸跡開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。」この白い花は?『ヘボン博士邸跡』から山下橋方面にさらに進む。そして『山下橋交差点』を左折し『山下公園通り』に入ると左手には『横浜人形の家』が。『横浜人形の家』。横浜人形の家は「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」をコンセプトに展開する、世代を超えて楽しめるドールミュージアム。地域色豊かな人形から人間国宝の手による人形まで、世界140以上の国と地域、約1万点以上の人形を収蔵。そして、『山下公園通り』を引き返すと、左手方面は『山下埠頭』方面。『山下橋』を渡る。下を流れる川は『堀川』そしてその上には『首都高速神奈川3号狩場線』が。『MEGAドン・キホーテ 港山下総本店』の店頭には小さな水族館が。この水槽にいる熱帯魚は「パラオ共和国」のサンゴ礁にいる熱帯魚だと。ガラスが反射してしまって・・・・。そして進むと左手に『港の見える公園』入口の階段が。『フランス領事館メタリオン』。中区山下町の人形の家とフランス山・港の見える丘を連絡するフランス橋・ポーリン橋(歩道橋)のアーチ橋の基部(橋脚的な部分)に埋め込まれていた。明治29年(1896年)に建築されたフランス領事館は、大正12年(1923年)の大震災により倒壊したが、このメダリオンは、その建物の両翼部の外壁に取りつけられていた円形の飾りである。またRFはRepublique Francalse(フランス共和国)のイニシャルである。『フランス橋』を見上げる。堀川をまたいで山下町方面と元町・山手方面を結び、港の見える丘公園のフランス山地区へと続く「フランス橋」。石張りのアーチ部は公園の入口ゲートを兼ねている。階段を上がり、『フランス橋』を歩く。『フランス山公園バルタール広場』に到着。『「港の見える丘公園」案内図。』『フランス山公園バルタール広場』。『バルタール記念碑(Rue Baltard)』。パビリオンバルタールこの純鋳鉄製骨組みは、1860年代フランスのパリに建てられ1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部です。 設計者の名を取ってパビリオン・バルタールと称されました。この中央市場は、再開発のため全て取り壊されました。その際横浜市が19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺構であるためパリ市にその一部の移設を申し入れパリ市当局の好意により寄贈を受け、かつてフランス領事館があったこの地に1980(昭和55)年に復元設置しました。『フランス山』の階段を上る。気温もあがり、かなり暑くなって来た。時間は11:02。幕末の文久3年(1863)から明治8年(1875)までフランス軍が駐屯したことから『フランス山』と呼ばれるようになった港の見える丘公園のフランス山地区。『震災後のフランス領事官邸(1)』1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって領事官邸は倒壊したため、マックス・ヒンデルの設計で1930(昭和5)年に新しい領事官邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2・3階部分は木造の3階建ての建物でした。一部に4階建てに相当する塔屋があり、また大きい屋根窓が設けられていることから、4階に相当する屋根裏部屋があったものと推測されます。天井高は3m、建築面積は222.5㎡、建設費用は53万3,000フランと伝えられています。マックス・ヒンデル(Max Hinder 1887~1963)1887年生れのスイス人建築家で、1924(大正13)年に来日。札幌で建築活動を開始し、1927(昭和2)年に横浜に移転、中区本牧満坂に事務所兼住宅を設け、1935(昭和10)年に事務所を閉鎖するまで横浜で活動しました。その後ドイツに渡り、1963年に死去しています。『震災後のフランス領事官邸(2)』。今回、公園の整備を行うにあたり、震災後に建てられたフランス領事官邸1階部分の建築遺構の調査を行いました。1階部分は、145m×14mの正方形に「近い短形をしており、東隅に設けられた主玄関は、幅5.5m、奥行2mのポーチとその奥の5.5m×5mのホールからなります。ポーチは擬石積みで仕上げられており、ホールには壁と床のタイル張りが残されています。西側には、同じく擬石積の仕上げが施された脇玄関と思われる開口部があり、そのかたわらに便所および2階に通じる階段があります。その他の部屋は、使用人の部屋や厨房等と思われます。『フランス山の風車』。1896年(明治29年)、フランス山にはフランス領事館と領事官邸が建設され、井戸水を汲み上げるために風車が設置された。フランスに残されている資料から1909年(明治42年)頃まで存在していたいう。現在、フランス領事館遺構の横に設置されている風車は、かつてのフランス山を偲ぶモニュメントとして設置されたもの。風車の形は、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車が再現されている。別の場所から。1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、1909(明治42)年頃までは存在していたようです。今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、多翼型の風車を設置しました。風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗りわけられています。また、風車が回ると水を汲み揚げるようになっています。今回の公園整備に伴う工事の際に、風車のレンガ造り基礎が見つかりました。井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。北側の基礎は、斜面の整備に支障をきたすため、堀り上げて新たに設置した風車を中心に、元の位置に合わせて展示しました。また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。『フランス山の歴史』。1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定した。1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設された。1875年(明治8年)3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けた。こらがフランス山と呼ばれるようになった由来です。撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡した。横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしたが、なかなか実現しないでいたところ、1885年(明治18年)になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出した。このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894年(明治27年)にフランス人建築家サルダの設計で、領事館と領事官邸の新築工事が始まった。1896年(明治29年)3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成する。領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られた。1923年(大正12年)、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊する。震災後、領事館は仮設の建物を使用していたが、官邸は、1930年(昭和5年)、スイス人建築家ヒンデルの設計で山手186番に再建された。その官邸も、戦後まもない1947年(昭和22年)には火災で焼失してしまう。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。 『フランス山の歴史年表』。文久 2年(1862) 生麦事件おこる文久 3年(1863) フランス海兵隊横浜に到着、山手186番に駐屯明治 8年(1875) フランス軍撤退明治18年(1885) フランス人居留民の有志、領事館建設の嘆願書提出明治27年(1894) 領事館・領事官邸新築工事着手明治29年(1896) 3月領事館完成 12月領事館完成大正12年(1923) 関東大震災により領事館・領事官邸倒壊昭和 5年(1930) 領事完成再建昭和22年(1947) 領事官邸、不審火で焼失昭和46年(1971) 横浜市、フランス政府から山手185・186番の土地を購入昭和47年(1972) 港の見える丘公園フランス山地区として整備、開園『仏軍駐屯時代のフランス山』。フランス軍のキャンプ場は山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1.555坪がありました。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、208名陸、海軍追加部隊などが加わり、併せて300名以上が横浜に駐屯しました。『フランス領事館時代』。震災前のフランス領事官邸1894(明治27)年、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、1896(明治29)年12月に完成しました。設計図によると、煉瓦造2階建て、建坪およそ24m×18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地からは建物に使用されたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、同時に建設された用水用水車の基礎が掘り出されました。官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設いなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.24
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ーーが(その9)の散策ルート。『山下公園』の散策を終え、『山下公園通り』の『山下公園東口交差点』に出る。右手にあったのが『ホテルニューグランド』。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏されたと。ホテルニューグランドを開業した『AD1927』が刻まれていた。開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、喜劇王チャーリー・チャップリン、米国の野球選手ジョージ・ハーマン・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、それぞれ滞在している。日本が第二次世界大戦に敗れた後の7年間は、マッカーサーが率いる占領軍将校宿舎として接収され、戦前の錚々たる宿泊者を記したゲストブックが持ち去られた。なお、マッカーサーが当時宿泊していた315号室は「マッカーサーズスイート」として一般客も宿泊できるとのこと。横浜市認定歴史的建造物でもある本館は、開業当時の面影を現在も色濃く残している。ホテルニューグランド本館の大階段。階下から見上げる気品ある姿は、歴史と伝統を感じさせてくれたのであった。ホテル本館の中庭。そして『山下公園通り』にあった石碑。『かながわの景勝50選 山下公園といちょう並木』道路の左側にあったのが『旧英国七番館』。道路を渡り、『旧英国七番館』前に。現在は、山下公園に面していて、戸田平和記念館として建っている赤煉瓦の建物は、1922年にイギリスの貿易会社横浜支店として建設され、関東大震災で全焼したが、外装だけは残っていたため再建された。現在では、外国商館唯一現在も存在している建物である。近くには、横浜開港資料館(旧 元英国領事館)や旧 横浜居留地48番館跡が建っている。また、入口付近にある柱には旧 イギリス7番館と書かれており、コンクリートの部分にも7とゆう文字が浮き彫られている。2001年に横浜市の歴史的建造物に認定され、現在では横浜から世界に向けて平和・文化・教育をメッセージとして発信している。山下町7番地に建っているため7番館と言われている。現在もイギリス7番館だった頃の雰囲気はどことなく残されている。現在は、宗教団体が所有しており、戸田平和祈念館として使われている。『旧 英国七番館の柱』。入口付近にある柱には『旧イギリス7番館』と書かれており、コンクリートの部分にもNo.7の文字が浮き彫られていた。外国語による説明板も。最後に正面から。『県民ホール前交差点』を通過。『神奈川県民ホール』の催し物案内板。2019年10月19日(土)~20日(日)には、ビゼー作曲 オペラ『カルメン』全4幕が上演されるとのこと。この日も多くの若者の列が。ネット情報によると、この日は『スカイピース Enjoy Summer Fest Buddy~まつり~ 追加公演』が行われたとのことであるがその列であったのだろうか。『神奈川県民ホール』全景。神奈川県民ホール(かながわけんみんホール、Kanagawa Kenmin Hall)とKAAT神奈川芸術劇場(かーとかながわげいじゅつげきじょう、KAnagawa Arts Theatre)の二棟から構成され、大小5つの劇場で約4,600名の収容人数を誇る大型複合文化施設である。そして次に訪ねたのが『旧横浜居留地48番館』。横浜最古の洋風建築物。創建から大正15年(1926年)までモリソン商会の建物として用いられていた。関東大震災で、当初の2階建てが平屋となり、平面規模も6割に縮小されている。石灰製の目地を持つフランス積で、設計尺度はメートル法が用いられている。北側主入口のアーチ上部に創建時と見なされるキーストーンが置かれている。所在地:中区山下町54構造・規模:煉瓦造建築年代:明治16年(1883年)指定・認定:神奈川県指定重要文化財(2001年2月)設計・施工:不明内部に陳列されているものは『小屋組トラス』と言って、震災後に残った部分の屋根などを補強するために使用されていたものであると。奥の壁のレンガ積みは、『フランス積み(フランドル積み)』という積み方で、レンガの小口面(小さい面)と長手面(長い面)が交互に見えるように積まれているのだと。裏側から。『発掘調査の成果』が説明されていた。「この建物は、日本で紅茶やダイナマイトなどの取引を行っていた商人J・P・モリソンの事務所兼住宅として、明治16年(1883年)に建てられたといわれている。大正12年(1923年)に横浜を襲った関東大震災で2階部分を損壊し、また、その復興事業の道路整備によって建物の西側部分が除却された。その後大正15年(1926年)から昭和53年(1978年)までヘルム兄弟紹介が所有し、補修が繰り返されていたが、神奈川県は、平成13年2月(2001年)に県指定重要文化財に指定し、平成13年度に保存工事を実施した。横浜居留地時代唯一の煉瓦造りの遺構といわれており、煉瓦は同じ段に小口面と長手面が交互に現れる「フランス積み」と呼ばれる手法が使われている。」元々2階建てだった建物が関東大震災によって崩落したとはいえ2階部分のみがなくなったので平屋建てに改修して従来の6割くらいの規模の建物として新たに使い続けていたようです。そのため新たに木造トラスを組み屋根を改修した模様であった。(株)大和地所の銅板仕上げの如きビル。『旧露亜銀行横浜支店』入口近くから見上げる。1921年に露亜銀行横浜支店として建設され、1923年の関東大震災や1945年の横浜大空襲も耐え抜いてきた。横浜で唯一現存する外国資本の銀行建築の遺構である。露亜銀行は1910年に露清銀行とソシエテ・ジェネラル子会社の北方銀行とが合併して出来た銀行であるが、露清銀行は1902年に横浜支店を開設していた。本ビルにほど近い中区役所そばの大桟橋通り沿いで、神奈川県立歴史博物館同様ドームを設けた華麗な建物であったが関東大震災で損壊。長らく半地下部分が残っていたが、1987年に取り壊されたと。現在は、ラ・バンク・ド・ロア(仏: La Banque du LoA)と呼ばれ、横浜市中区山下町に所在する結婚式場である。『旧露亜銀行横浜支店』の対面にあったのが『横浜市研修センター』。横浜市役所職員研修及び防火管理者講習会を実施している施設。『中消防署 山下町消防出張所』にもなっているようであった。『中消防署開設100周年記念 過去から現在そして未来へ』。現在この消防署は、本町通り沿いの山下町72に移転して中消防署山下町出張所と名称を変更しているが、元を辿るとその前身は、この辺りがまだ外国人居留地だった時代の居留地消防隊薩摩町消防屯所がこの場所に置かれたことに端を発し、その後、日本で初めて消防車や救急車を配備し、消防隊員は金属製の防火ヘルメットを着用して消火にあたるという、現代の消防隊のハシリのような存在で、その当時の様子を写した写真が山下町出張所のガレージのシャッターにラッピングされていた。横浜では、開港と同時に8 消防組の民間消防隊が設置、1864 年には居留地消防隊が組織された。ポンプ車を備えた消防隊は日本で初めてと言われている。その後、1914 年に日本初の消防車、1933 年には日本初の救急車が配置されるなど、近代消防発祥ゆかりの地と言える。現在山下消防出張所のシャッターが下りている時に、当時の貴重な写真を見ることができるのであった。『旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構』と『消防救急発祥之地』の石碑。幕末期、豚屋料理屋鉄五郎から出火、瞬く間に火は関内に広がり、外国人居留地と日本人街の大半が焼失した。通称豚屋火事。そのときすでに外国人居留地消防隊はあったがこの事件をきっかけにより防火対策、消防隊を強化。外国人居留地と日本人居留地を隔て、防火対策として建物と建物が隣接しないように区画整理された。そのため、今でも関内は道幅は広く、建物が隣接しないような街並にしたのだと。そして『旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構』。奥正面には旧中消防署日本大通消防出張所のメダリオンも。1994 年まで日本発の消防署、中消防署日本大通り消防出張所が建っていたが、老朽化にともない新築移転。現在は貯水池跡が残されており、その歴史を伺い知ることができるのであった。この貯水槽は湧き水で満たされており、平時は冷蔵庫の代わりとしても用いられていたそうだ。貯水槽の特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の間仕切りによって4室に分かれていること。底面3.19m×3.17m、高さ4.5mで、貯水量は28㎥。ガラス越しに覗き込むと貯水槽部分を見ることができるのであった。『ストラチャン商会跡地』。開港後、この辺り一帯は外国の商館が建ち並ぶ外国人居留地で、同商会は汽船会社や保険会社の代理店業務を手がけるイギリス系貿易会社。明治22年(1889年)にこの地に移転してきた同商会は、2年後にイギリス人建築家ジョン・ダイアックの設計、清水組(現=清水建設株式会社)の施工で煉瓦造りの新社屋を建てたそうです。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊・焼失。写真後方の煉瓦はこの建物の基礎部分といわれています。すぐ前の山下公園は関東大震災の瓦礫が再利用されているので、この商館の煉瓦などもおそらく埋め立てられていると。ビルの前には『居留地90番地の大砲』が。近づいて。明治期に製造された鋳鉄製の大砲。90番地にはスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会があり、大砲を錨に造り替えるために置いておいた時、関東大震災で埋没したと推定。1959(昭和34)年、建物跡地工事中に発見された3門の大砲のうちの1つ。ほか1つは2003(平成15)年に横浜市に寄贈され開港広場に移された。ほか1つは歴史資料館に保存されている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.16
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ーーが(その8)の散策ルート。『大さん橋』を後にして『象の鼻防波堤』入口前を『開港広場前交差点』に向かって歩く。『開港広場前交差点』。『開港広場前交差点』手前から『日本キリスト教会横浜海岸教会』をズームで。『日本キリスト教会横浜海岸教会』は1872年に設立された日本で最初のプロテスタント教会。関東大震災で倒壊。2014年12月に改修工事が完了、毎晩、ライトアップされていると。前まで行って。『開港広場前交差点』まで戻ると『山下公園通り』沿いにあった『史跡 英一番館跡(ジャーディン・マセソン商会)』碑。日米修好通商条約によって、横浜は安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港した。開港と同時に、それまで上海、香港を拠点にして中国との貿易に従事していた商人たちが、続々と横浜入りをした。居留地一番地に店舗をかまえた当時の東アジア最大の商社「ジャーディン・マセソン商会」の横浜支店は「英一番館」と呼ばれ、当地の代表的な商社として昭和初期まで活動を続けた。ジャーディン・マセソンは現在も有力な国際商社として存続している。シルクセンター前の史跡英一番館跡と書かれた碑のところに、小さな「桑の森」が。この傍に植えてある1本の桑の木は、横浜が開港したころに神奈川県津久井郡津久井町で栽培されはじめた木を持ってきたもの。土地の関係であまり大きく成長していないが、小さいながらも歴史ある古木とのこと。そして「桑の森」の後ろに彫刻家安田周三郎 氏の秀作「絹と乙女」像が。『シルクセンター』ビル。ウィキペディアによると「シルク博物館はシルクセンターの2階と3階にあり、2階前半の「ふしぎファーム」コーナーでは養蚕や紡績、染織に関する展示のほか、通年に渡りカイコを飼育しており、糸繰りや機織りの体験ができる。2階後半の「しらべライブラリ」コーナーでは横浜港と生糸貿易の関わり、暮らしの身近にあるシルク、絹の最新技術などに関する展示がある。階の「シルクのあゆみ」コーナーでは、日本および世界各地の絹を使った時代風俗衣装や民族衣装が展示されている。」と。『シルク博物館』入口。『開港の道・山下臨港線プロムナード』横浜税関付近から大さん橋入口を経て山下公園西端を結ぶ500mほどの遊歩道であり、桜木町駅から港の見える丘公園を経路とする「開港の道」の一部と位置づけられている。遊歩道の大半が線路の高架橋部分を流用して造営されているため大半の部分が高架であり、大さん橋と山下公園の付近においては設置された階段やスロープから遊歩道に出入りすることになる。『山下公園』に入る。山下公園は関東大震災の瓦礫などを埋め立てて昭和5年(1930年)3月に開園。海沿いに長さ約750m、幅約100mと細長く、面積は7万4121㎡。正面に姿を現したのが『インド水塔』。1923年(大正12年)の関東大震災では、横浜に在住し被災した在日インド人救済のため、横浜市民が被災インド人への住宅の手当てなどに力を注いだ。1930年(昭和5年)に瓦礫処分場として埋め立てられた場所の上に山下公園が開園。そして1939年(昭和14年)に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が山下公園内に建立したのがこのインド水塔である。設計は鷲巣 昌、施工は清水組。イスラム教の寺院モスクの中庭にあるハウズ(泉亭)を想起させる珍しいスタイルのモニュメント。イスラム風、インド風、日本風が混在したデザインが特徴的で、東京の築地本願寺を思わせるような形であるとの評もある。横浜市認定歴史的建造物。『山下公園』から先程訪ねた『大さん橋ふ頭ビル』をズームで。そして『大さん橋』とエンターテイメント レストラン船『ロイヤルウイング』。『横浜ベイブリッジ』。『山下公園』を湾沿いの遊歩道を歩く。『潮位標尺』が設置されていることを発見。これは簡単に云えば海面の水位を測るモノサシ。海面の変動の要因・横浜港おける海面の高さの基準・警戒水位の3項目についてで、かなり詳細な記述で参考になった。潮位計については、超音波の反射により測定し、そのデーターを自動的に災害対策本部に送信する方式の機器が全国に配備されているようです。それに比較すると、この設備は何ともレトロでローテクの感じを否定出来ませんが、簡単素朴な構造ですから手軽に数多く設置できるメリットが有るようですし、バックアップとしても有効でしょう。『山下公園』から『横浜マリンタワー』を見る。この花は『ハゴロモジャスミン』であろうか?『氷川丸』を見る。『赤い靴はいてた女の子』。大正11年、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡『赤い靴』。童謡『赤い靴』の2番の歌詞には「横浜の埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった」という歌詞があり、その歌詞をイメージして昭和54年、山下公園に造られたのがこの『赤い靴はいてた女の子像』。像を寄贈したのは赤い靴を愛する市民の会(現・赤い靴記念文化事業団)。平成22年には山下公園の少女像と同型の像が、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市(San Diego)の海辺に建立されていると。海の彼方に向かって座っている少女の姿は、童謡の歌詞を考えると切ない、悲しい姿。童謡『赤い靴』 作詞:野口雨情 作曲:本居長世1.赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった2.横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった3.今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう4.赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える『山下公園』内では扇子を持って体を動かしている老々男女。山下公園の広場の真ん中近くにあったのが『西洋理髪発祥之地』碑。断髪令が出された明治4(1871)年より早く、西洋式床屋は外国人相手に開業されていました。日本最初の床屋は、小倉虎吉が明治2(1869)年に居留地で開いていたものとされています。山下公園に建つ「ZANGIRI」とタイトルされた「西洋理髪発祥之地」を記す石像は、一見の価値あり。当時、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と囃されていましたが、斬新な散切り頭に負けず劣らずユニークな像。『氷川丸』を再び見る。そして山下公園の日本郵船氷川丸の係留地に近い、中心に噴水『水の守護神』が。昭和30年10月、サンディエゴ在住の日系市民の要請にこたえ、横浜市は「雪見灯篭」を寄贈したのが提携促進の始まり。昭和30年11月、横浜で開催された日米市長会議に出席したサンディエゴ市長から姉妹都市提携の申し入れがあり、横浜市とサンディエゴ市は昭和32年10月29日に姉妹都市として提携しました(横浜市として初めてとなる姉妹都市提携)。その年からお互いの動物園に飼育される動物交換も開始されています。横浜からサンディエゴへは、昭和35年4月に茶室を寄贈。そのお返しとして昭和35年7月に「水の守護神」がサンディエゴ市から贈られ、山下公園に設置されたのです。水の守護神像を囲むように4基の「ミッションベル」さらに『美しきサンディエゴ』の歌碑が立ち、一帯は、「サンディエゴ友好の泉」と付けられています。噴水が高々と。『エル・カミーノ・レアールのミッションベル』。1769年から1832年にかけて、聖フランシス派の修道士たちが、アメリカのサンディエゴからサンフランシスコまでの960kmに21ヶ所の伝道所を設けた。このルートは「エル カミーノ レアール」(スペイン国王の道)と呼ばれる。20世紀になって、このルートを確認して、道路に沿ってミッションベルが立てられた。1983年(昭和58)に横浜市とサンディエゴ市(カリフォルニア州)との姉妹都市提携25周年を記念して複製が贈られたと。『横浜マリンタワー』が大きく見えて来た。『かもめの水兵さんの歌碑』。武内俊子が作詞を行ったきっかけは、ハワイに旅行する叔父 足利瑞義(浄土真宗本願寺派 勝願寺住職)を見送るために横浜港の大さん橋に行ったことにあると。夕暮れの中で数十羽のかもめに魅了され、帰途でかもめの白い姿を水兵に見立てて詞を完成させたと。1.かもめの水兵さん 並んだ水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服 波にチャップチャップ 浮かんでる2.かもめの水兵さん 駆け足水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服 波をチャップチャップ 越えていく『氷川丸』。氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した全長163.3mの貨客船。当時最新鋭の船として竣工した。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れ、戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰。船齢30年に達し第一線を退くまでに、太平洋横断254回、船客数は2万5千余名と、活躍した。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定された。大人300円で氷川丸船内の見学が可能。『日米友好ガールスカウトの像』。この銅像は日米友好の記念としてアメリカガールスカウト50周年とガールスカウト本連盟の世界連携加入を記念して1962(昭和37)年3月18日に建てられた。台座には「やくそく」と彫られていて「ガールスカウトの友情」を示す像とされています。約160種1900株の『未来のバラ園』はピークは過ぎていたが、バラの花を楽しむことは出来た。純白のバラの花。『横浜港観光船』乗り場。再び『横浜マリンタワー』。『展望台』1961年の開業より横浜を見守り続けてきた「横浜マリンタワー」は、保全を目的とした改修工事のため、2019年3月31日をもって全館一時休館中。2022年4月以降に再開予定とのこと。おまつり広場の南東、石のステージ。涼し気な水の流れにホット一息。石のステージから水の階段を上ると世界の広場へ。山下公園の南東端、駐車場屋上の『世界の広場』。『世界の広場』からの『みなとみらい21』の景色。そして階段を降り『おまつり広場』の木陰に立っていたのが『リカルテ将軍記念碑』。アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.15
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ーーが(その7)の散策ルート。『大さん橋』に向かって歩く。『山下臨港線プロムナード』の橋には『横浜港大さん橋国際客船ターミナル』の文字が。『山下臨港線プロムナード』への階段下のコンクリート橋脚にはパネル絵画が。『1870年(明治3)頃の横浜港』。右側から飛び出している『象の鼻』と呼ばれる石積みの突堤は、現在も、このパネルの裏手右方向に残っていた。道路の反対側のパネル絵画。明治43年(1910年)頃の横浜港。中央に伸びているのが明治27年(1894年)創建の『大さん橋』。1923年の関東大震災で壊れるが、昭和初期の復旧工事などを経て、現在にいたっている。『大さん橋』の中ほど左手に、当時の『象の鼻』突堤が見える。更にその左に『赤レンガ倉庫』も。『大さん橋』部分をズームで。これも歴史を感じさせる『横浜艦船商工業協同組合』の建物。右側に『神奈川県 横浜水上警察署』。道路脇の案内板『日本近代化の出発点 象の花 ー支倉大使欧米派遣ー』。「象の鼻から欧米へ明治4年11月12日(1871年12月23日)、国の命運をかけて特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ほか、同行者を含め100余名の岩倉使節団は、欧米へと汽船アメリカ号でここ「象の鼻」から出航しました。その目的は、幕末に欧米諸国と締結した不平等条約の改正交渉をすることと、欧米の国家制度や産業技術などを学び日本の近代化を急いで進めることでした。使節団、随行員そして同行した若き留学生たちは、それぞれに壮大な夢と強い使命感を持って海を渡りました。欧米諸国の文明に触れて使節団は、当初10ヶ月の予定のところ、1年9ヶ月の月日を費やし帰国しました。条約改正交渉には至らなかったものの、欧米の制度、技術、文化に直接触れ、新しい国づくりの必要性を強く自覚し、日本の近代化を急速に進めることとなりました、また、同行した留学生たちも、様々な分野で欧米の最新の知識や学問を日本にもたらし活躍しました。日本近代化の青写真を創った岩倉使節団の壮大な旅の出発点ともいえる「象の鼻」は、現在も当時と変わらない場所にその姿を残しています。」日の丸が掲げられた艀に立つ三人の人物。中央が岩倉具視、向かって左側が大久保利通、右側が木戸孝允。『象の鼻防波堤』入口付近から、『みなとみらい21』地区、『赤レンガ倉庫』を見る。『象の鼻防波堤』先端部。象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元されている。ガス灯を模した照明灯が設置され、関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部は、そのままの形で保存・復元されている。今は、横浜港を見渡すことができる、新たなビューポイントになっているのだ。以前訪ねた際は、ライトアップ用のリングが設置されていたが・・・。前方右側には『大さん橋ふ頭ビル』が。『大さん橋』のふもとに在る逆三角形の屋根が特徴的な建物が『大さん橋ふ頭ビル』。以前はここが『旧横浜港大さん橋国際客船ターミナル』であった。設計は、株式会社松田平田設計で、竣工は1993年3月。さらに『大さん橋』に向かって進む。前方に大きなウッドデッキが両側に見えて来た。『象の鼻と神奈川台場』。「「象の鼻」と「神奈川台場」について 日本が開国した当時、国際港には波止場とあわせて台場(砲台)が備えられており、明治4年(1871年)岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に「象の鼻(波止場)」から出発した際にも、「神奈川台場」から祝砲が打たれた記録が残っている。 「象の鼻」と「神奈川台場」の2つの史跡は現在もその遺構の一部が残っていることから、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在、そして後世に伝えるため、「象の鼻」の復元工事、「神奈川台場」の周辺設備工事を行った。象の鼻とは 安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が造られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の「象の鼻」)は、国際航路に乗船した旅客の出入りや輸出入品の上げ下ろしに利用された。 初代の波止場は、2本の平行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきっかけに周辺道路が再整備されたのにともない、波止場の延長工事が行われた。その際、東側の波止場は、波除けとして機能するよう大きく湾曲した形状に造り変えられた。こうして、後に「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。神奈川台場とは 安政6年(1859年)5月、幕府は伊代松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を神奈川宿(現在の神奈川区)の沖合に構築した。 台場は、総面積約26,000m2(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。 国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてなくてはならない重要な役割を担った施設である。 明治32年2月に廃止されるまで台場として使われていたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられた。現在は、周辺整備工事により石垣の一部をみることができる。」『大さん橋ふ頭ビル』を正面から。入口左にあった『大さん橋』を支えた螺旋杭であると。そして『ウッドデッキ』が始まる。建物2Fや屋上床はブラジル産イペを使用したウッドデッキになっており、さらに天然芝の緑地を設けてあった。『ウッドデッキ』を歩く。現在の『大桟橋国際客船ターミナル』は海面から少し隆起したように建っていた。『大桟橋国際客船ターミナル』のホールを入口を見下ろす。大さん橋の2Fの奥に位置する多目的ホールである。床面・壁面はウッドデッキ仕上げ、正面奥は強化ガラスウォールであり、横浜ベイブリッジ方面を望むことができる。広さは約2,000m2であり、天井高は6.5〜7.5mある。最大で1,200名の収容が可能であり、屋上フリースペースから連続した空間としての利用も可能である。波静かな横浜港そしてみなとみらい21地区を見る。ウッドデッキが先端まで続く。赤レンガ倉庫と高層ビル群。先程近くで見た巡視船『あきつしま PLH32』。湾内を走る『警戒船』。『横浜税関』。『横浜ランドマークタワー』と『クイーンズスクエア』そして『観覧車』。漸く『大さん橋』の先端近くまで。『横浜ベイブリッジ』を見る。ズームで。その奥に自動車運搬船の姿も。『横浜市風力発電所(ハマウィング)』は回転していなかった。『大さん橋』先端から『JERA(株)横浜火力発電所』方面を見る。歩いて来たウッドデッキを振り返る。巡視船『あきつしま PLH32』の奥に『ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル』。空の雲も少なくなり、青空の横浜港の景色を堪能する。反対側には『横浜マリンタワー』と『氷川丸』の姿が。これから歩く『山下公園』。一人佇む女性の姿。見事な色を維持している芝生。塩害に強い品種なのであろう。『大桟橋国際客船ターミナル』のホールを訪ねた。ホール正面は、強化ガラスウォール。『ロイヤルウイング』は、2017年現在、神奈川県横浜港の大桟橋を拠点として営業しているエンターテイメント・レストラン船。旧船名は「くれない丸」。日本で唯一のエンターテイメント レストラン船「ロイヤルウイング」は、旅客定員630名を誇る大型客船。美しい景色や夜景で有名な横浜港内を2時間弱かけて運航しているのだと。『大桟橋国際客船ターミナル』のホール内を訪ねる。約2,000㎡の広々としたスペースは、最大約1,200名の収容能力があると。ホール正面には和風の石庭そして朝顔の花が迎えてくれた。『伊豆諸島 東京行き』の船の案內所も。竹芝客船ターミナルからここを経由して伊豆諸島に行く船もあるようだ。『ロイヤルウイング』のディナークルーズ他のポスター。『ロイヤルウイング』の模型船体。こちらは『Diamond Princess(ダイヤモンド・プリンセス)』。日本の長崎で建造され、日本発着のクルーズ旅行に就航している大型客船。主に夏季はアジア、冬季はオーストラリアをクルーズすると。旅客定員: 2,706名。『大桟橋国際客船ターミナル』案内図。ウッドデッキがあるのは屋上・RF。今度、大型クルーズ船が『大さん橋』に着岸している日に再び訪ねたいと思ったのであった。そして次の目的地『山下公園』に向かって戻る。再び『大さん橋ふ頭ビル』の前を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.14
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ーーが(その6)の散策ルート。『横浜地方裁判所』の前の『日本大通り』のT字路交差点から『横浜地方裁判所』を振り返る。『横浜三井物産ビル』の路地を中に入っていくと、反対側にあったのが『横浜情報文化センター』の建物。横浜情報文化センターは、日本新聞博物館と放送ライブラリーを中核として、多目的ホールやオフィススペースを備えた複合施設である。オフィススペースには情報関連企業が入居している。旧・横浜商工奨励館(昭和4年に関東大震災により打撃を受けた市内商工業界の復興事業として建築)を再利用した4階建ての旧館部分と新たに造られた12階建ての新館部分から構成される。旧館部分は、横浜らしい建築を創り出している近代建築として平成11年2月に「横浜市認定歴史的建造物」に認定されている。内部には『日本新聞博物館』、『放送ライブラリー』も入っているようであった。『新聞少年の像』。戦後の経済発展とともにその歴史を刻んできた新聞配達。その一翼を担っていたのが新聞少年たち。日本新聞博物館の「新聞少年の像」は、日本新聞販売協会創立50周年を記念して、2004年(平成16年)に寄贈されたものであると。こちらが、『日本大通り』側の正面入口であろうか。『大さん橋入口交差点』にあったのが『旧横浜市外電話局』。「旧横浜市外電話局は、昭和4(1929)年に横浜中央電話局として建設されました。設計をおこなったのは横浜出身の逓信省技師中山広吉で外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコー二スに古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。各階の高さは異なっており、1階と3階は高くそれぞれ営業室、交換室として使用されました。また、2階には局長室、技術官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休息室や食堂、宿直室が設けられていました。その後、市外電話局及びNTT横浜情報案内センターの時代を経た後、NTTの移転を機会に、横浜の施設として活用されることとなり、本町通り側および大桟橋通り側の外壁を創建当時のまま残して、平成15年(2003)年、新しく生まれ変わりました。」シックで落ち着いた風格が、横浜の町並みに映えていたのであった。黒の扉も重層感が。『大さん橋入口交差点』の角、『旧横浜市外電話局』の対角線上にあったのが『ホテルコンチネンタル横浜』『本町通り』を県庁方面に戻ると、『横浜港郵便局』の建物の壁に展示されていた絵画。2015年(平成27年)の神奈川県版年賀はがきデザイン。『伝えたい想いがそこにある』『手紙って、いいね!』の文字が上に。再び『横浜地方検察庁』の建物が『港湾郵便局交差点』の向かいに。交差点の渡ると目の前にあったのが『神奈川運上所跡』。安政5(1858)年、米英仏露蘭5か国との間に修好通商条約が結ばれ、神奈川宿の名寺には各国領事館や公使館が開設されました。翌年、貿易や外交業務、外国人の居留地整備などを総合的に行う機関として、神奈川宿対岸の横浜村、現在の神奈川県庁あたりに設けられたのが運上所です。運上とは税金のことで、明治5(1872)年に横浜税関に改められ、今に至ります。『日本大通り』の銀杏並木の歩道を神奈川県庁方面に向かって進む。『神奈川県庁』。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、公募で当選した小尾嘉郎の案を基に、神奈川県内務部(成富又三)により設計され、建築顧問として佐野利器が迎えられた。昭和初期に流行した帝冠様式が取り入れられている。1926年(大正15年)12月4日に地鎮祭が執行されたのち、1927年(昭和2年)1月15日より建設に着手され、建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成した。塔屋は「キングの塔」として親しまれており、横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)、横浜市開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。また歴史的建造物として、1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。大桟橋通と日本大通にはさまれた場所にある『横浜開港資料館』。ここは、もともと『英国総領事館』として、1931(昭和6)年に建てられた。総領事館としての横浜の業務は1972年に停止され、それを利用して1981年に横浜開港資料館として開館したと。英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物。『横浜開港資料館』入口前。『横浜開港160周年記念 開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860』が開催中。『開港前後の横浜』のポスター。「今からちょうど160年前のこと。江戸幕府は、横浜村という海に面した村を開発して町と波止場をつくり、外国人と貿易をはじめました。村に住んでいた「和兵衛」と「おはま」は、開港前後(おおよそ1858~1860年)の横浜の移り変わりをつぶさに見聞します。ふたりはいったいどんな光景を見たのでしょうか? 当館が保管する浮世絵、地図、古文書のほか、新たに見出された歴史資料もまじえながら、ふたりの視点から横浜開港をわかりやすく紹介します。」と。『脇玄関』。隣にある玉楠の木の下で日米和親条約が結ばれたという土地に建つこの建物は、昭和47年までイギリス領事館として使われていた。設計も英国工務省らしく18世紀のジョージアンスタイルの都市邸宅をほうふつとさせるデザインで、玄関周りが特徴的。こちらが正門玄関なのであろう。左右に立つ大きな柱はキャピタル(柱上部)にアカンサス(葉薊/ハアザミ)の葉と蔓が彫刻されているコリント式で、その奥に玄関ドア、2階窓、そして3階の半円窓までを吹き抜けとした印象的なデザイン。そして『開港広場前交差点』に出る。正面に『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』。もとは大倉商事の出張所として建てられたもの。右隣にある『横浜貿易会館』と設計・施工・施工時期も同じ兄弟ビル。特に特徴のない典型的なスタイルの建物ですが、現在は解体されてしまった「キッコーマンビル」を含めて、連続する四棟のスクラッチタイルのビルディングのひとつとして「港町ヨコハマ」の雰囲気を印象づける、いい味を醸し出している建物。『横浜貿易会館』『横浜貿易会館』は、横浜における貿易振興の為に設立された”横浜貿易協会”の事務所ビルとして、関東大震災復興期の昭和4年(1929)に竣工した。設計・施工は大倉土木で、外壁のスクラッチタイルが特徴的。隣に現在も残る『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』と同時に同じ設計・施工で建てられた。『昭和ビル(旧カスタム・ブローカー・ビルディング)』。海岸通りに連なるスクラッチタイルの外壁が特徴的な戦前期のモダンビル群のうち、西端の象の鼻パーク入口脇に立つ「昭和ビル」。「昭和ビル」は関東大震災後の昭和6年(1931)に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。多くの横文字の店が並び、米国の田舎の居酒屋の如し。一番手前にあったのが『Restraunt AQUA 0LIVINE』。漁港直送の魚介を生かした魅惑的で色鮮やかな料理 明るく温かな雰囲気のフレンチレストラン。店内は2階にあるため窓からは海が見え、とても落ち着くレストランであると。そして『象の鼻パーク』へ再び。『横浜税関(神奈川運上所)』の案内板。「安政6年(1859)、幕府は開港のために神奈川奉行所を設けました。その下で、通商事務のほか、船の出入港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取締りなど幅広い業務を取り扱ったのが、神奈川運上所でした。運上所の庁舎は波止場の中央正面に建てられていました。明治4年(1871)には運上所業務のうち通商事務などが大蔵省の所管をされ、明治5年(1872)には全国の運上所の名称が「税関」に統一されました。明治6年(1873)、「横浜税関」となってからの初代本庁舎が初代運上所の建屋があった位置よりやや海側に石造3階建てで建設され、明治16年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に譲渡されました。明治18年(1885)になると、中央に「塔を配した煉瓦造2階建の2代目本庁舎が建設されました。大正12年(1923)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが現在の3代目本庁舎です。この庁舎にそびえる高さ51mのエキゾチックな塔は一般に「クイーンの塔」と呼ばれ、今も広く親しまれています。右写真上より初代横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜開港資料館所蔵2代目横浜税関本庁舎 「横浜税関庁舎」 横浜開港資料館所蔵3代目横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜都市発展記念館所蔵歴代の横浜税関本庁舎の位置図」『「海の日」の由来』案内板。「海の日は、1876年(明治9年)、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台視察船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港(象の鼻地区)に入港して、横浜御用邸伊勢山離宮へ帰着したことにちなみ、制定された。」しかし、2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となった。なお、2020年(令和2年)は東京五輪・パラリンピック特措法により、東京オリンピックの開会式の前日に当たる7月23日(木曜日)に変更されるのだ。『象の鼻パーク』案内板。1854年3月31日にアメリカのペリー提督が2度目の来日で、上陸した場所。安政6年(1859)日米修好通商条約により、開港場に指定される。横浜で最初の波止場。象の鼻パークには歴史解説板があちこちにあり、歴史を物語っていた。『象の鼻地区の変遷』案内板。安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と修好通商条約が結ばれ、翌年横浜港が開港すると、港には東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場が時代とともに少しずつ形を変え、現在の象の鼻の原型となりました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。『港を支えた艀荷役』案内板。そして『波止場会館』。波止場会館は、みなとみらい線日本大通り駅から徒歩5分、ベイブリッジや大桟橋ふ頭など横浜港をのぞみ、象の鼻パークに隣接する好立地な環境の会議室。『横浜港港湾労働者供養塔』。供養塔は横浜港で不慮の事故で亡くなった港湾労働者を供養するため1974年に山下ふ頭に設置。昨年5月に開港150周年を記念して横浜港発祥の地である象の鼻パークに移転した。現在まで2830柱近くが合祀(ごうし)されているとのこと。『藤木幸夫』の文字が。何か心当たりがあると思ったが、実は今回の、横浜市の林文子市長がカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の誘致を正式表明した事に対して、噛み付いていた『ハマのドン』なのであった。『RESTAURANT SCANDIA』。横浜を代表する山下公園からほど近くの海岸通り、大桟橋の入り口の角に位置するひときわ風格ある石造りの建物がその「スカンディヤ」。竣工は1929年。もともとは、進駐軍に接収されていた横浜貿易ビル。1階はカジュアルな「スカンディヤ ガーデン」、2階が、瀟洒な空間が広がる北欧料理レストラン「レストラン スカンディヤ」。古くは横浜港を利用した外国人らで賑わい、ヒッチコック監督や美空ひばりも訪れたのだ。なんでも、昔の従業員は全員英語が話せたとか。今でも有名人がお忍びで来訪することがあるのだと。私も大学時代、研究室の先輩に連れられて何度か訪ねて食事をご馳走になった懐かしい店なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.13
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ーーが(その5)の散策ルート。更に『馬車道』を進む。『神奈川県立歴史博物館』前の道路の向かいにあったのが『牛馬飲水』。レトロな雰囲気の馬車道十番館前に置かれている「牛馬飲水槽」。牛馬が人や荷を運び町を行き交った当時、道中で給水しひと休みした休憩所で、日本人道会(神奈川縣動物愛護協会の前身)と横浜荷馬車協会によって設置された。馬車道十番館前のものは大正6年(1917)に磯子区の八幡橋に設置され昭和45年(1970)に移設されたもの。当時は他に中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばにも置かれたという。なお、神奈川県立歴史博物館前にもレプリカが設置されている。外国人の馬車が行き交い、明治2年(1869)に開通した東京~横浜間の乗合馬車の発着所が吉田橋のわきに設けられたことなどから「馬車道」と呼ばれるようになったとされる馬車道周辺で、まちが牛馬とともに在った当時の雰囲気を感じさせてくれる小さな遺構。『馬車道歴史散策ガイド』。案内板の『QRコード』をスマートフォンなどで読み込むと、各地点の現在の映像と、明治期の風景が写真や絵で見られるのだ。『QRコード』を接写で。『旧川崎銀行横浜支店(日本興亜馬車道ビル)』。『旧川崎銀行 横浜支店』。1922年(大正11年)の建築物。 設計者は横浜生まれの建築家・矢部又吉。旧横浜銀行本店の設計者・妻木頼黄の弟子。横浜市認定歴史的建造物。『下岡蓮杖顕彰碑』横浜初の日本人写真家・下岡蓮杖の顕彰碑。蓮杖は、1862年(文久25年)に野毛で開業し、のちに馬車道に写真館を新設。多くの門下生を育てた。 碑の上にのっているのは、当時の写真機をイメージしたもの。そして馬車道をUターンして『本町4丁目』交差点まで戻る。交差点角の横浜第一ビルディングの前にあったモニュメント。再び『旧安田銀行横浜支店・東京芸術大学 大学院映像研究科 馬車道校舎』を本町通り越しに。1929(昭和4)年竣工。設計は安田銀行営繕課、施工は大倉土木(現大成建設)。横浜市の歴史的建造物に認定され、鉄筋コンクリート造、石張り、2階建の馬車道入口のシンボルマークでもある。安田財閥の基幹企業であった安田銀行の店舗のひとつですが、他に現存するものは少なく、この建造物は貴重な存在となっている。『旧東京三菱銀行 横浜中央支店』後ろに建つ高層ビルは「D’ グラフォート横浜クルージングタワー」という高層マンション。イオニア式オーダーが銀行らしい重厚な印象を与える建物で横浜市認定歴史的建造物だが、いわゆるファサード保存した、日本興亜馬車道ビルと同じく「かざぶた建築」の物件。新築の高層ビルに昔のレトロな外壁を貼りつけるこの方式は、「かざぶた建築」ともいわれる。設計は日本興亜馬車道ビルを設計した矢部又吉。横浜市認定歴史的建造物の鉄筋コンクリート造り、2階建て。旧東京三菱銀行横浜中央支店元第百銀行横浜支店1934(昭和9)年横浜市認定歴史的建造物設計 : 矢部又吉施工 : 戸田組横浜市中区本町4-41重厚な黒の入口。『横浜銀行協会、旧横浜銀行集会所』戦前は横浜正金銀行本店を始め、 三井・住友・安田・第一・三菱の、当時で言うところの五大銀行が店舗を構えていた一帯だった。そのような横浜の金融の中心街である本町通りに、銀行員の親睦・保養を目的として昭和11年に建てられたのが、この『横浜銀行協会』だったと。アールデコ調の直線的なデザインで纏められている。玄関ポーチの屋根に施されたチョコレート色の装飾と一本足の白い8角形の柱に施されたアールヌーヴォー調な花模様のレリーフ装飾がエレガント。◎設計:大熊喜邦、林豪蔵◎施工:清水組◎竣工:昭和11(1936)年7月◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て・・・・竣工時◎所在地:横浜市中区本町3-28『本町2丁目交差点』を右に入った場所・東京都民銀行横浜支店前にあったのが『中居屋重兵衛店跡』中居屋重兵衛は群馬県の出身で開港直後に横浜に進出して、生糸貿易の過半数を占めていたと。当時の屋敷には生糸を買付けに来る外国人を楽しませる為に、中庭に金網を張って小鳥を放ち、座敷の周りにはガラス張りの大きな水槽を置いて金魚を泳がせていたという。この豪商がいたことで、横浜が日本最大の貿易都市に成長できたのかもしれません。本町通りに戻り更に進む。右手に見えて来たのは、『三井住友銀行 横浜支店』。1931年(昭和6年)に完成し、現在でも現役の銀行店舗として使用されている。正面に4本、側面に2本のイオニア式の柱が特徴で、縦に溝が彫られた円柱と、柱頭に渦巻状の装飾が乗る。内部はコリント式の柱列が吹き抜けの天井を支える。軒には40cmの庇が張り出し、上部窓の下の壁面には、帯状にギリシア雷文が彫られている。外壁は2~3年ごとにサンドブラストで研磨され、美観が保たれている。細部の造形は、アメリカより現物大の石膏模型が送られてきて、これに基づいて製作されたと。更に『本町通り』を進むと『県庁前交差点』の角にあったのが『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』。『県庁前交差点』を右折し写真SPOTから撮影。赤煉瓦の時計塔として親しまれているこの建物は、明治42年に横浜の開港50周年を記念して公募設計(コンペ方式)により建設され、大正6年6月に竣工した。大正12年の関東大震災では、外壁を残して屋根と内部を焼失、その後昭和2年に再建されたが、銅製のドームは省略され、内装もやや簡略化された。戦時中の被災は免れたものの、終戦から昭和33年9月まで米軍の接収を受けた。そして、市街地建築物の高層化が進むなか、老朽化のため保存か取り壊しかも岐路に立たされたこともあったが、昭和53年に修理、さらに平成元年にはドームが復元されて建設当時の姿がよみがえった。館のシンボルである高さ約36メートルの時計塔は”ジャック”と呼ばれ、県庁本館の”キング”横浜税関の”クィーン”と並び、入港する船員からトランプの三塔として親しまれている。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』の海側。時間は8:23。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館』の正面入口。『横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)』の関内側。「横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。」『史跡 横濱町会所跡』と刻まれた石碑「この地に、明治7年(1874年)4月に竣功した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開校50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。また、この地は開港期より明治初年まで、岡倉天心の父 勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生糸売込店)があったところです。」『岡倉天心誕生之地の碑』『横浜市開港記念会館』の正面入口の左側に、明治期に美術界の基礎を築いた岡倉天心(1862~1913)の誕生地を示す碑が。この場所で父が商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めていたと。石川屋には多くの外国人が出入りしてにぎわい、その繁盛ぶりは浮世絵にも残された。ここで幼少期を過ごした天心は、自然と英語を身に付け、後に米国人教師フェノロサの通訳として日本美術研究を手伝うことになり、美術行政の道を歩み始めたと。『横浜商工会議所発祥の地』。横浜開港記念会館がある建物の正面入口の左手に、「岡倉天心誕生の地」碑と並んでこの『横浜商工会議所発祥の地』碑が建つ。1874(明治7)年この場所に「町会所」が建てられた。当時非常に珍しかった時計塔のある建物で横浜名所になった。この町会所に1880(明治13)年に、外国を相手とする横浜商人の結束と自立をはかることを目的に「横浜商法会議所」が開設された。1928(昭和3)年に「横浜商工会議所」と改称。碑は商工会議所開設100周年を記念して1980(昭和55)年に建立された。そして再び『本町通り』に戻ると左手には『神奈川県庁』の姿が。『本町通り』から見た『神奈川県庁』。『港郵便局前交差点』の角にあったのが『横浜港郵便局』。『港郵便局前交差点』手前右側にあったのが『横浜地方検察庁』。『横浜地方検察庁 横浜区検察庁』。入口左横にあったのが『電信創業の地』碑。「明治2年(1869)12月25日この場所にあった横浜電信局と東京電信局の間にわが国ではじめて電報の取扱がおこなわれました。 昭和38年12月25日 日本電信電話公社」その隣りにあったのが『横浜地方裁判所』。『横浜地方裁判所 横浜簡易裁判所』。旧建物は1929年(昭和4年)の竣工で、神奈川県庁のデザインを参考にしたとされる。竣工 - 昭和4年構造- RC造規模 - 地上4階建設計者 - 大蔵省営繕管財局施工者 -大倉土木横浜市認定歴史的建造物として認定されている。『横浜地方裁判所 横浜簡易裁判所』を入口反対側から。『日本大通り』と銀杏並木。『横浜三井物産ビル』。1911年に三井物産横浜支店の事務所棟として竣工。2019年現在の名称は「KN日本大通ビル」。1927年(昭和2年)に増築。設計は日本人初の独立設計事務所を山下町に構えたといわれる遠藤於莵による。 同ビルは遠藤のモダニズム時代の総決算といえる建物であり、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルである。関東大震災で横浜の建物群が壊滅的な打撃を受けた際にも、当建物は倒壊を免れ、鉄筋コンクリート造の地震に対する有効性を印象付けた。旧名称:横浜三井物産ビル建築主:三井物産構造形式:鉄筋コンクリート造地上4階地下1階屋根付階数:地上4階、地下1階竣工:1911年8月改築:1927年所在地:〒231-0021 神奈川県横浜市中区日本大通14『日本大通り』の先に横浜スタジアムの照明灯が見えた。『日本大通り』と書かれた標識。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.12
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ーーが(その4)の散策ルート。更に海岸通りを進むと『海岸通3丁目』交差点前にあったのが『横浜郵船ビル』。現在も日本の海運業界を代表する企業である、日本郵船株式会社。『横浜郵船ビル』。1885(明治18)年に設立され、当時、欧米の名門海運会社が独占していた世界の主要都市への航路を短い期間で開設し、以後、世界有数の海運業者として歴史を重ねている。重厚で威厳のある横浜郵船ビルは、1936(昭和11)年、日本郵船株式会社創立50周年を記念して建てられた。設計したのは、金沢出身の和田順顕(わだじゅんけん)。東京美術学校(現:東京藝術大学)図案科を主席で卒業し、アメリカ各地を視察して当時の建築を学んだ建築家だ。当時、日本郵船に金沢出身の重役がいて、その関係から抜擢されたのではないかと伝わっている。機能優先のシンプルなモダニズムが台頭してきた時代に建てられた、ギリシャの神殿を思わせるアメリカ古典主義様式のこの建物は、前面に16本並んだ列柱が圧倒的な存在感を放っている。『日本郵船歴史博物館』催物案内。『日本郵船歴史博物館』は、2003年に横浜郵船ビルを竣工当時の姿にリフォームして併設された施設。近代日本海運の黎明期から今日に至るまでを紹介する常設展の他、さまざまな企画展が行われている。大きすぎてカメラに収まらないので道路を渡って。16本並んだ見事な重厚感ある列柱。柱頭にアカンサス(葉アザミ)の飾りを持ち、小さな渦巻きが入ったコリント式であると。『赤レンガ倉庫』、『馬車道』の案内標識。ここは海岸通4丁目。『海岸通4丁目交差点』から『赤レンガ倉庫』方面を見る。『海岸通4丁目交差点』を左折し、『万国橋通り』を進むと右手にあったのが『横浜第二合同庁舎』。当地には1873年(明治6年)には壮行学舎(のちの横浜小学校)が、1926年(大正15年)には横浜生糸検査所が設置されていた。1990年(平成2年)に横浜市認定歴史的建造物として認定されている。1995年(平成7年)に高層棟の建設を含む大改築が行われ、その際に旧生糸検査所の外観を復元した造りになっている。名称に「第二」とついているのは、すでに山下町に合同庁舎が存在したためである。横浜に残る生糸関連遺構の一つ『生糸検査所(現横浜第二合同庁舎)』の正面玄関に掲げられた彫刻。正面上部には蚕の成虫と菊の紋、桑の葉をあしらった紋章が設けられてると。戦前日本の主力輸出品であった生糸の品質検査を行う建物ならではの装飾。しかし、どこが蚕の成虫?どこが桑の葉?本町通りとの交差点・本町4丁目交差点角には『みなとみらい線 馬車道駅』入口が。ここを右折し、本町通りを進むと前方、『本町5丁目交差点』の道路の反対側にあったのが『旧第一銀行横浜支店(横浜アイランドタワー)』。高さ119mの超高層オフィスビル。2003年に建築家 槇文彦氏の設計により、都市基盤整備公団が建てた。みなとみらい開発以降では横浜を代表する高層ビルのひとつだが、現代的なビルの手前には重厚な石造りの古典建築がひっそりと佇んでいた。アイランドタワーが横浜を代表する現代作品なら、旧第一銀行横浜支店は戦前の代表作と言え、吹き抜けのバルコニーがよいアイストップ(eyestop)になっている。1929(昭和4)年竣工の歴史的建造物を移築・復元したビルで、ギリシア神殿風のトスカナ式柱頭を持つ列柱を並べた華麗な半円形のバルコニーと軒のデンテル模様が美しい建物。また、天井に吊り下げられたランタンはジャポニズムのエッセンスとしてよいアクセントとなっている。半円形部分のみが創建当初のオリジナルであると。『本町5丁目交差点』から『横浜ランドマークタワー』方面を見る。『旧第一銀行横浜支店(横浜アイランドタワー)』を正面から見る。『南仲通り』入口にあったのが『キングスバー(King’s Bar)』.馬車道駅3番出口すぐ前、東横イン隣りのビル地下1Fにあるジャズライブハウス『キングスバー』。『神奈川県立博物館』裏には大砲が展示されていた。『旧居留地90番地の大砲』。「外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戌辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。」再び『本町4丁目交差点』方面に引き返す。前方にある塔のビルは結婚式場『Casa d' Angela』近くまで行って。歴史的な建物だと思っていたが、違うようであったが。塔頂部は時計塔、時間は8:07。『CASAD' ANGELA(天使の住処)』。しかし、豪華なステンドグラスが人気の結婚式場であると。 【http://www.casadangela.com/facility/chapel.php】より『本町4丁目交差点』角にあったジョナサン 馬車道店前の馬のモニュメント。『本町4丁目交差点』を右折し『馬車道』に入る。アメリカが江戸幕府に開国を要求し、日米通商修好条約が結ばれた。これによって貿易のため横浜港が開かれ、関内に外国人居留地が置かれた。その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの一つとしてこの道は1868年に開通した。外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになった。さらに翌年の1869年(明治初年)には下岡蓮杖ら日本人商人の共同出資によって東京横浜間の日本初の乗合馬車の営業が始まった。『馬車道』案内図。『旧富士銀行 横浜支店』1929年(昭和4年)に完成し、2001年まで富士銀行の支店として使われた後、2005年より東京藝術大学大学院の校舎として使用されている。本町通りと馬車道が交わる、現在の本町4丁目交差点角に、1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として建設された。1923年に11行が合同で設立された安田銀行は、大正末期から昭和初期にかけて各地に支店を設けたが、盛岡・福島・本所・横浜の支店はいずれもルスティカ積みの外壁と4本の付柱で構成され、よく似た外観をもっていた。本ビルはその中でも最大の規模で、かつ唯一現存するものである。『東京芸術大学』の文字が。現在は東京芸術大学大学院映像研究科の校舎として使用されているとのこと。 扉の彫刻は、重厚感たっぷり。『ガス灯』。『イギリスからやってきたガス灯たち』。「英国国会議事堂のガス灯」テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065 年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は 1834 年の火災で焼失しましたが、1852 年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。このガス灯は、この建物の北西部に立つ ガス灯 と同じものです。1872 年(明治5年 )日本最初のガス灯が 馬車道 にともされたことを記念して、 東京ガス の協力により設置しました。『旧東京海上火災保険ビル(馬車道大津ビル)』。神奈川県立歴史博物館の斜向かいに建つベージュのタイルと縦長窓が特徴の味のあるビル。建造は1936年でこの地に約80年建ち続けている。シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオヒィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。建築年代:昭和11(1936)構造・規模:RC造4階・地下1階設計/施工:木下益治郎/大林組指定/分類:横浜市認定歴史的建造物指定年月日:平成12年度所在地:横浜市中区南仲通4-43そして『旧横浜正金銀行本店本館 (神奈川県立歴史博物館)』『国指定重要文化財 旧横浜正金銀行本店本館 』。『国指定史跡 旧横浜正金銀行本店』 「横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。」創建当初のドームは、関東大震災で消失しており、現在のドームは県立博物館開館にあわせて、旧状にできるだけ近いかたちで復元された。ドーム全体の高さは、18.7メートルの隅欠き八角形。ドームの上には、高さ9.2メートルの尖塔飾りがそびえている。ドームは復元時にビルの屋上に載せた形になっていると。内部は鉄骨造りで内装は木材で覆われているとのこと。八角形のドームのそれぞれの下部にはドルフィン(イルカをモチーフにした想像上の生き物)が置かれているのだと。下からはシャチホコの如く見えたのであったが。建物はネオ・バロック様式の本格的な石造西洋建築で、外壁に浮彫りを与え重厚感が。現在は『神奈川県立 歴史博物館』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.11
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ーーが(その3)の散策ルート。赤レンガ倉庫2号館。2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。明治政府によって保税倉庫として建設され、建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていた。2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。2号館と1号館の間を国際通りに向かって歩く。1号館の赤レンガ倉庫沿いを進む。1号館は2002年(平成14年)4月12日、文化施設として開館。1階:床下には瓦などが展示されている2階 :展示スペース3室:各200㎡、天井高2.4m3階 :ホール:約400席 面積=約400m2/天井高=トラス下5.1m。『横浜赤レンガ倉庫1号館』案内板。こちらは2号館。2002年(平成14年)4月12日、商業施設として開館。当初は31店舗であったが、現在のテナント数は40店舗を超える。多くの店舗で横浜赤レンガ倉庫ならではの商品を置いている。また、3階のレストラン・ビアネクストのロゴマークは、倉庫内にある防火扉の開閉に使っていた滑車に由来する。ただしこの滑車式の防火扉は現在は保存されているだけで使われていない。1号館と2号館の間の広場は横文字だらけ。再び2号館。2号館を海に向かって振り返る。2号館を国際通り近くから。『横浜赤レンガ倉庫 2号館』。1号館と2号館の間には多くのテントが設置されていた。赤レンガ前から『横浜税関』ビルを見る。『赤レンガ倉庫』交差点。この土、日で横浜防災フェアが開催されるようであった。『津波避難情報』案内板。水色部分が浸水予想地域、ピンクが津波避難ビル。赤レンガ倉庫を振り返る。左手の海の向こうに見えたのが『大さん橋ふ頭ビル』。『新港橋』そして『横浜税関』が前方に。『新港橋』には線路も。元は今から100年以上前の大正元年(1912)に建造された貨物線(横浜臨港線)の鉄道橋。橋は100フィート・ポニー型ワーレントラス橋で、設計は大蔵省臨時建築部、施工は浦賀船渠。先行して架設され現在も汽車道に現存する「港一号橋梁・港二号橋梁」がアメリカ製、「港三号橋梁」がイギリス製であるのに対し、「新港橋梁」は日本における初期の国産トラス橋として知られる。部材同士は英国系のピン結合と異なり、リベット結合によって強固な剛性に組立られている。『神奈川県警察本部』ビル。地上83メートルの展望ロビーは回転しない??左手にあったのが『象の鼻パーク』案内板。象の鼻波止場を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年6月2日に開園。現在、『象の鼻パーク』と呼ばれている場所は、1854年3月31日、アメリカ合衆国のペリー提督が2度目の来日で初めて横浜に上陸した場所。1859年、日米修好通商条約により横浜が5つの開港場の一つに指定されて以降、この地区は横浜で最初の本格的な波止場となり、諸外国との活発な貿易、交易の舞台となった。「象の鼻」の名称は、時代と共に少しずつ形を変えてきた堤防の形状が、象の鼻に似ていたことに由来していると。『開港の丘』より『赤レンガ倉庫』を見る。『横浜150周年記念碑』と『横浜税関』。『横浜150周年記念碑』。記念碑は、2009年の横浜開港150周年の記念の年に「開国博Y150」を実施した証として、横浜の礎を築いた先人の業績への感謝と、これからの横浜の発展に願いを込めて建立されたと。開国博Y150マスコットキャラクター「たねまる」を御影石で復元した記念碑で高さ1.2メートル、幅2.7メートル。手前には黒の御影石のタイムカプセルが。同カプセルは市民の夢をのせた絵やメッセージが納められていて、横浜開港200周年・2059年に開封される予定とのこと。右から『大さん橋ふ頭ビル』、『大桟橋』そして後方に『横浜ベイブリッジ』。『横浜税関』。5階建てのエキゾチックな庁舎には、「ロマネスク」などの西欧建築様式が混在し、それをベージュ色の磁器タイルが優しく覆っている。イスラム寺院を想わせる緑青色のドームは、「クイーンの塔」の愛称で親しまれていると。横浜税関の「クイーンの塔」、神奈川県庁の「キングの塔」、横浜市開港記念会館の「ジャックの塔」は、横浜三塔と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれているようだ。手前には『山下臨港線プロムナード』が。横浜税関付近から大さん橋入口を経て山下公園西端を結ぶ500mほどの遊歩道であり、桜木町駅から港の見える丘公園を経路とする「開港の道」の一部と位置づけられている。遊歩道の大半が線路の高架橋部分を流用して造営されているため大半の部分が高架であり、大さん橋と山下公園の付近においては設置された階段やスロープから遊歩道に出入りすることになる。海に突き出た石垣は『象の鼻防波堤』。横浜市中区の観光名所「大桟橋」に寄り添うように造られているのが『象の鼻防波堤』で、そこを起点として、港の入り江を取り囲むようにして造られているのが『象の鼻パーク』。『象の鼻防波堤』をズームで。再び『赤レンガ倉庫1号館』。『象の鼻テラス』。『象の鼻テラス』は、横浜市・開港150周年事業として、2009年6月2日に開館しました。横浜港発祥の地を、横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間として整備した象の鼻パーク内に、アートスペースを兼ね備えたレストハウス(休憩所)としてオープン。青い置物は象型オブジェ『ペリコ』。『鉄軌道と転車台』。鉄軌道(線路)と転車台(ターンテーブル)は、横浜税関敷地内に設けられた手押し車両用の設備だったもので、象の鼻パーク整備中に発見された遺構。築造は、1895年(明治28年)から翌年にかけて。強化ガラスの蓋を通して見学することが出来る。鉄軌道(線路):鉄製 車軸幅1.06m転車台(ターンテーブル):鉄及び鋳鉄製 直径2.50m4基、支承軸及び支承車輪8基付強化ガラス越しに。『鉄軌道と転車台』説明板。「明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年代後半に整備されました。明治40年代の写真(右下)には、鉄桟橋(現在の大桟橋)方面に向かって敷かれた鉄軌道、転車台、鉄軌道の上を走る台車上の車両が写っています。鉄軌道の幅員は1.06mあり、わが国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました、この大きさでは回転できる車両の規模も限られることから、発見された鉄軌道は敷地内で荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。当時の工事記録によれば、当初は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。」『横浜港発祥の地の今昔』横浜港内で活躍した貨物線路が細かく描かれていた。横浜税関を国際通り側から。『横浜税関資料展示室』資料展示室「クイーンのひろば」では、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるグラフィック年表や貿易の変遷、麻薬やけん銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を、映像や実物展示により紹介していると。時間は未だ7:41、よって中には入れず。歩道に埋め込まれたタイル。「日本丸」と「赤い靴」が描かれていた。『横浜税関前』交差点から『神奈川県警察本部』ビル方面を見る。『横浜税関』正面入口。『横濱税関』と彫られた銘板。『横浜税関』説明板。『横浜税関』正面。そして右手に『神奈川県警察本部』と『海岸通り』。正面の広場にはモニュメントが。「地域、県民、警察」の三位一体を表現したものと。そしてその裏手の花壇の中に『三菱倉庫株式会社 支店事務所・倉庫跡地』の碑が。碑には「この倉庫は当港唯一の綿花取り扱い施設として永らく横浜港の発展に寄与した」と記されていた。警察官と子供達の銅像。『神奈川県公安委員会 神奈川県警察本部の標石』再び『神奈川県警察本部』の建物、展望台を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.10
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中区新港1丁目地域の散策を続ける。ーーが(その2)の散策ルート。そして『ホテル・ナビオス横浜(横浜国際船員センター)』前に。ホテルには大きな口が開けられていて汽車のレールはその口の中に吸い込まれるように続いていた。口の向こうには『赤レンガ倉庫』が小さく見えた。以前はこのレールは倉庫まで続いていたのかもしれないなどという想いに耽りながら進む。一般財団法人日本船員厚生協会が運営する船員・海事関係者のための福利厚生施設であるが、一般の人も利用可能であるとのこと。ウィキペディアによると「ホテルの下部には吹き抜けがあり、遊歩道として汽車道が整備されている。この吹き抜けは「絵画の額」をモチーフとしており、運河パーク側からは横浜赤レンガ倉庫など「古き良き横浜」の景色が、反対の新港中央広場側からは横浜ランドマークタワーなど「新しい横浜」の景色が絵画のように見える設計となっているのだと。2000年に「第1回横浜・人・まち・デザイン賞」と「第45回神奈川県建築コンクール優秀賞」を受賞している。」と。『ナビオス横浜』前の芝生広場・運河パークのモニュメント。ナビオス横浜のすぐ脇にある『アンカー(錨)のモニュメント』。イカリのそばに解説板が。それによると、「この錨は(株)アイ・エイチ・アイ・アムテックで1971年に建造され、中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(前長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量21万5850トン)に備え付けられていたものと同型のものです。」 重量は18.27K/T、長さ4.8m、幅2.9m。我々日本人は、1トンは1,000キログラムであると教わって来たが、欧米では異なったトンが存在したのです。即ち、日本人の考えるトンは正式にはメトリック・トンと呼ばれるもので、次ぎの通りとなります。M/T = M/Ton = Metric Ton = K/T = K/Ton = Kilo Ton = 1,000kgs.= 1,000 kilo grams = about 2,204.62 lbs (lbs = pound)。よって18.17K/Tは18.17TONのこと。『万国橋交差点』。時間は6:55。交差点から『ナビオス横浜』を振り返る。そして『新港中央交差点』にある楕円形の歩道橋『サークルウォーク』。国際大通りと万国橋通りの交差点に架けられた楕円形の歩道橋。1999年(平成11年)の竣工。橋長は一周、約225m。歩道橋に上がり交差点を見下ろす。今年の5月に行われた「2019世界トライアスロンシリーズ横浜大会」でバイク、ランでここがコースになっていた事を思い出したのであった。歩道用の床板が内側のトラス桁橋げたから張り出し、外側に取り付けられた形になっていたのであった。構造的にもデザイン的にも非常にユニークな歩道橋。平成11年度の土木学会田中賞を受賞したと。歩きながら、周囲の風景を楽しむには、トラスの鉄骨が邪魔にならない設計。そして『サークルウォーク』から観覧車を見る。時間は6:59。そして『サークルウォーク』の先に『神奈川県警察本部』のビルが見えた。『サークルウォーク』を降りると左手にあったのが『国際協力機構(JICA)横浜国際センター』。窓には『Next Stage“Africa』の文字が。TICAD(ティカッド:アフリカ開発会議)は今年で第7回を迎え、2019年8月28日~30日に横浜で開催されル予定。これに合わせて、JICA横浜では8月2日(金)~12月1日(日)まで『Next Stage“Africa” アフリカの現在と未来【TICAD7】』を開催しているようであった。ここを真っ直ぐ進むと『新港埠頭8号バース』。しかし工事中であり関係者以外立ち入り禁止と。前方の建物は2019年11月にオープン予定の『インターコンチネンタル横浜Pier 8』。『客船ターミナル入口』交差点から『サークルウォーク』を振り返る。後方に『アパホテル&リゾート横浜ベイタワー』とその右手に横浜市内最大規模・最高層(総戸数1,176戸、地上58階建)の『ザ・タワー横浜北仲』。『BAYSIDE GEIHINKAN VERANDA』。2016年3月にオープンしたベイサイド迎賓館ベランダ はみなとみらいでの結婚式場。道路脇にはブラシノキの赤い花が。ビン洗いのブラシに、なるほどそっくり。そして立入禁止で入れなかった『新港埠頭8号バース』を見る。埠頭の先端には『50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)』の遺構が残っていた。新港埠頭は明治32年(1899年)から海面埋立工事が行われ、その後、1917(大正6)年に陸上施設整備を含む埠頭整備が完了した。この結果、埋立面積約230,500 m2、岸壁延長約2,060m、鉄道上屋11 棟、木造上屋3棟、レンガ造倉庫2棟、50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)1機、その他鉄道、道路、上下水道、発電所等が完備され、わが国初の近代的埠頭として、横浜港の中心的役割を担うこととなる。そして手前にあったのが『ララ物資の記念碑』。50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)の遺構をズームで。大正初期イギリスから導入し設置した日本に3基のみ現存するクレーンの一つであり、関東大震災にも耐えた歴史的に貴重な電動式クレーンである。他に現存するクレーンは三菱長崎造船所の200トン吊り(大正元年(1912)竣工)、佐世保電工株式会社の250トン吊り(大正2年(1913)竣工)で、世界でも17基しか現存していないと言われていると。『ララ物資の記念碑』。1946(昭和21)年、戦災により何もかもが足りなかった時、横浜新港ふ頭に、ララ物資を積んだ米国船が到着。積み込まれた食品や衣類などの物資は横浜市内の倉庫、通称「ララ倉庫」にいったん移され、そこから政府へ引き渡された後、全国の施設等約1700ヶ所余りに配られたのだと。ララ倉庫と呼ばれていたのは、旧三井物産横浜支店倉庫。1910(明治43)年竣工のレンガ造りの倉庫で、横浜に現存する最も古い倉庫建築だった。2014(平成26)年取り壊しが決まり、貴重な歴史建築として保存運動がさかんに行われたが、2015(平成27)年解体されてしまったと。『ララ物資の記念碑』には香淳皇后 御歌が2句。「ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしつ」「あた>かき とつ国人の心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも 」左側のパネルに「ララ」についての詳しい説明があった。「第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大なご尽力もあったと伝えられる。この救済物資は、『アジア救援公認団体』の英語名“Licensed Agencies for Relief in Asia”の頭文字から『ララ』物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に『ララ』物資を積んだ第1船ハワード・スタンズベリー号が、ここ横浜新港埠頭に着岸し、以後昭和27年6月まで送られ続けた。記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の『ララ』倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである。」。この碑は2001(平成13)年、地元横浜の有志によって建てられたものだと。『横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)』を振り返る。『第三管区海上保安本部 横浜海上防災基地』。雨水マンホールの蓋。港湾局が管理する雨水用。「PORT OF YOKOHAMA」の文字と横浜開港の年「1859」の文字。横浜らしい赤灯台と船と2羽の鳥がデザインされていた。今いる場所は○ここ。『横浜港駅プラットホーム跡』。生糸の輸出全盛時代に、新港埠頭と当時の横浜駅(現在の桜木町駅)を結ぶ横浜臨港線として、明治43年8月15日に開通し、明治44年9月1日に横浜港荷扱所として開業したのが横浜港駅。大正9年7月23日付で正式に横浜港駅(よこはまみなとえき)となったプラットホームが横浜赤レンガ倉庫横に、旧横浜港駅プラットホームとして現存しているのだ。線路は赤レンガ倉庫に向かって。『旧横浜港駅プラットホーム(旅客昇降場)』「「横浜港駅」は明治44年(1911)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れました。列車はその後「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」のプラットホームが設けられ華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、悼んでいた上屋は新材料で復元しています。」そしてこちらが『海上保安資料館横浜館』。平成13年12月22日に発生した九州南西海域工作船事件の際に自爆・沈没し後に引き上げられた北朝鮮の工作船が展示されているのがこの建物の中。以前2009年にここは訪ね、『ブログ』👈リンク にアップ済み。そして目の前には『横浜ベイブリッジ』の勇姿が。長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)である。東京港方面と横浜港を結ぶ港湾物流の一端を担うことにより、都市部の渋滞を緩和する重要な輸送路である。しかし、『横浜ベイブリッジ』の下を通過できない大型外国クルーズ客船が続々と登場している。ベイブリッジの海面からの高さ(クリアランス)は約55mで、パナマックスの最大高57.91mを下回っており、くぐれなければ横浜港「大さん橋」を活用できず、クルーズ客船の誘致合戦で後れをとって、外国船寄港数は九州地方の港を下回っているのだと。通過する事例でも、クイーン・エリザベスは、あらかじめ汐待ちして(干潮時間帯を狙って)ギリギリのクリアランスで通過したのだと。黒く見えるのが、『横浜大桟橋』。『横浜大桟橋』に寄港するためには『横浜ベイブリッジ』を通過しなければならないのだ。『横浜マリンタワー』をズームで。『赤レンガ倉庫』が前方右手に。奥から1号館、2号館。海上保安庁の埠頭には海上保安庁の船が停泊中。『あきつしま PLH32』は2013年に建造されたヘリコプター2機搭載型巡視船。全長 :約150.0メートル幅 :約17.0メートル総トン数 :約6,500トン主要装備 :40ミリ機関砲×2門 20ミリ機関砲×2門 遠隔監視採証装置 ヘリコプター×2機(スーパーピューマ225)配属先 :横浜海上保安部赤レンガ倉庫の隣にのこる三角形の遺跡「旧税関事務所遺構」。朽ちた煉瓦が生い茂る植物の緑と溶け合うような佇まいは、独特の歴史的雰囲気を創り出していた。そしてその先には『みなとみらい21』。『赤レンガ倉庫1号館』。左手に『PIER AKA-RENGA(ピア赤レンガのりば)シーバスターミナル』。『PIER AKA-RENGA(ピア赤レンガのりば)シーバスターミナル』案内板。赤レンガ倉庫1号館&2号館を海側より望む。『かもめハープ』。この作品は、一般社団法人横浜青年会議所の創立50周年(2001年)記念事業として公募されたデザインの中から選ばれた最優秀作品。かもめが横浜ベイブリッジの前を飛び去った瞬間にこのデザインを思いついた作品と。横浜ベイブリッジのワイヤーからハープを発想し、「かもめが横浜の音色を奏で、優しく育んでいる姿」をイメージしたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.09
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この日(8月24日(土))は、一日中曇天で暑さも30℃止まりであるとの天気予報であったのでブログ取材も兼ねて、久しぶりに急遽『港・ヨコハマ』の散策に出掛けたのであった。起床時間の流れで、地元の小田急線の駅を5:50に出発。土曜日でもあり、空いた電車に乗り込む。湘南台駅から横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り桜木町駅まで行く。地下道を桜木町駅前広場に向かって歩く。時間は6:30。エスカレータに乗り地上に向かう。そして桜木町駅前に。ーーがこの日・(その1)の散策ルート駅前にあった、昔の桜木町駅前の写真。『この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。』と写真右下部に。この姿は竣工当時の新橋停車場に酷似しているのであった。因みに、こちらが新橋停車場(復元写真)。 【https://www.sanko-e.co.jp/read/memory/kyu-shinbashi】よりこの塔の下部はその名も『獅子頭共用栓(ししがしら きょうようせん)』と呼ばれていたと。そう言えば、日本の水道事業は、明治20年(1887年)に横浜で初めて近代水道が布設されたことから始まったのだ。これは当時、外国の窓口であった港湾都市を中心に、海外から持ち込まれるコレラなどの伝染病が、水を介して広がり蔓延するのを防ぐことを目的としたもの。横浜に続いて、明治22年に函館、明治24年に長崎と、港湾都市を中心に次々と水道が整備されて行ったのであった。桜木町駅前のワシントンホテル。横浜港周辺地図・『横浜みなと 観光マップ』。横断歩道の近くに、このようなプレートが。かつて「東横浜駅」という貨物駅があったのだ。『ここに駅があった 大きな貨物駅だった 往時は六十五万トンが発着 多くの人が働き汗を流した ある時代は生糸だった ある時代は疎開荷物だった ある時代は進駐軍輸送 それに輸入食料だった そしてこの駅はいつの時代も 市民の生活とともにあった 一九七九年十月 この駅の使命は終わった かって日本の鉄道開業の 栄えをになった駅 追憶のなかに永遠 東横浜駅』帆を張った日本丸のマンホール蓋。久しぶりの『横浜みなとみらい』。『横浜ランドマークタワー』。『クイーンズタワー』、『パシフィコ横浜』、大観覧車『コスモクロック21』が見えた。『みなとみらい大通り』から山下公園方面を見る。左が『ザ・タワー横浜北仲』、右が『YCC ヨコハマ創造都市センター』。『北仲橋』からこれから歩く『汽車道』を見る。『北仲橋』。そして再び『横浜ランドマークタワー』。1993年7月16日に開業した70階建て、高さ296.33mの高層ビル。タワー棟を中心とするオフィス、ホテル、ショッピングモールを核に、展望フロアや多目的ホール、さらには石づくりのドックを復元活用した広場など、多彩な施設を併設している。2017年に国の重要文化財として認定された「帆船日本丸」。日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています海上で保存されている帆船としては日本初の国の重要文化財。全29枚の帆がすべて開く「総帆展帆(そうはんてんぱん)」や船でお祝いのときに国際信号旗を掲げる「満船飾(まんせんしょく)」も定期的に開催されるのだ。翌日が日本丸の帆をひろげる日であったのだ。汽車道の入口。ここはかつて貨物輸送の列車や旅客列車が走っていた場所で、明治44年(1911年)に開通した臨港線(通称 税関線)のレールの一部が残されています。その鉄道の廃線跡を利用して平成9年(1997年)に汽車道ができました。この遊歩道は両サイドが海で、ランドマークなど高層群の眺めが最高。『みなとみらい21 エリアマップ』。『開港の道』。開港の道(かいこうのみち)はJR桜木町駅前から横浜赤レンガ倉庫、 山下公園を経て、港の見える丘公園に至るルートの愛称。延長約3.2km。ルート上には、約500mごとに設置されている誘導サインと、約10 - 20 mごとに設置されている路面表示サインがあり、サインをたどっていくことで、迷わずルートを歩いていくことができるのであった。消えかかっている『汽車道』と刻まれた木柱。『汽車道』を進む。早朝散歩の方々が行き交っていた。1911年(明治44年)開通の旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡を利用し、その一部にあたる約500mの区間をレールも残した上で緑地として整備したもの。左手に、よこはまコスモワールドの観覧車、横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)が。『港一号橋梁』。ウィキペディアによると「1907年(明治40年)に、港2号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作されたトラス橋で、1909年(明治42年)に鉄道院により架設された。30フィートの鈑桁橋2連と100フィートのトラス橋からなる。複線相当の幅がある。2012年(平成24年)10月24日から2013年(平成25年)3月15日まで補修工事を実施している。」。当時の製作会社の『AMERICAN BRIDGE COMPANY』の銘板。ウィキペディアと同じ説明分が。更に馬車道を進む。クイーンズスクエア横浜のショッピングモール、シティホテルで構成される複合商業施設『クイーンズタワー』。クイーンズタワーは、左からクイーンズタワーA・B・Cと3つのビルに分かれている。再び、よこはまコスモワールドの観覧車、横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)。横浜のシンボルとしての顔を持つ大観覧車「コスモクロック21」は、全高112.5m、定員480名の世界最大の時計機能付き大観覧車。約15分の空中散歩では、昼は360度の雄大なパノラマを、夜は宝石をちりばめたような美しい夜景を楽しめるのだと。再び『ランドマークタワー』。『港二号橋梁』を渡る。『港二号橋梁』からの『ランドマークタワー』を。こちらも『港一号橋梁』と同じで、アメリカン・ブリッジ・カンパニー製作のトラス橋。100フィートの複線トラス橋。港1号橋梁と同年に製作された。さるすべり(百日紅)の紅い花を背景に。前方に『ナビオス横浜』そして運河を隔てた場所に『アパホテル&リゾート横浜ベイタワー』ビルが。『港三号橋梁』。1、2号とは造りが違うのであった。元は1906年(明治39年)に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィートトラス橋と1907年(明治40年)に架設された総武鉄道江戸川橋梁の2基の100フィートトラス橋であり、1928年(昭和3年)に横浜生糸検査所引込線の大岡橋梁として転用された。現在は夕張川橋梁のトラスの一部が再移設され、プロムナードに沿って保存されている。1号・2号橋梁と異なりイギリス製であり、トラスの高さが低くなっている左下に『運河パーク 観光船乗り場』が。みなとみらい21地区とピア運河パーク、ピア日本丸と中華街・山下公園そばのピア象の鼻、ピア大さん橋を海から結び、カジュアルに横浜の海を楽しめる水上バスの発着場所 。『水上バス航路航路・乗り場アクセスマップ』。再び『ランドマークタワー』、『クイーンズタワー』を振り返る。『横浜ワールドポーターズ』の正面エントランスが左手に。ショッピングセンター。1999年(平成11年)9月10日開業。略称はワーポ。 ・・・つづく・・・
2019.09.08
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更に片瀬龍口寺の幻想の竹灯篭を楽しむ。刻々と色の変わる本堂のライトアップ。カメラの設定を変えて、本堂屋根、五重塔を再び。本堂前の階段を上がった場所には花燈籠が揺らめく。ズームで。本堂のライトアップの変化と幻想的な竹燈籠をしばし楽しむ。ズームで。撮影モードを変えて。接写で。本堂右脇の白壁にはこれも幻想的な姿が。「令和」や「2019年」の灯籠文字が描かれて、インスタ映えスポットで多くの人が。2019と。写真ではチョット解りにくかったが。日蓮聖人像。ズームで。更に。左手に法華経の巻物、数珠を持つ日蓮上人。竹燈籠の総合芸術。富士山と琵琶を持っている弁財天であろうか?花、葉、並・・・・。ズームで。鐘楼(延寿の鐘)。鐘楼前の竹灯籠を。本堂の屋根の色の変化を楽しむ。日蓮上人も刻々とお色直し?大書院の前には、青竹に施されたアート作品が飾られて、竹美術広場となっていた。正面から。向日葵それとも太陽?多くの大小の孔をドリルで開けている姿を思い浮かべながら。こちらは花燈籠。そして上空には三日月が。周囲には向日葵も。更に近づいて。竹灯籠の螺旋階段の如きアイデア作品。ズームで。設定を変えて接写。竹の中を覗いて。最後に和の美しさを魅せる竹灯篭をズームで。かぐや姫が出てきそうな??幻想的な世界。竹灯篭の火の揺らめきを楽しみながら。そして一方通行で境内を進み、再び仁王門前に戻る。仁王門前の左手の広場は屋台コーナーに。『日蓮大聖人龍ノ口御法難之霊場』。お父さんとフランクフルトに並ぶ子供たち。テーブルではビールを楽しむ人々の姿が。仁王門を拝啓に。そして江ノ電・江ノ島駅への帰路に。歩道には、これも美しい模様の燈籠が。そして江ノ島駅に。駅舎正面もライトアップされて。江ノ電路線図。藤沢駅から鎌倉駅まで15の駅を約35分でと、いまさらながらに。藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。303の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの。ジオラマや展示スペースも。そして鎌倉行きの電車が向かいのホームに。『セーリング日本代表「日の丸セーラーズ」』の文字が。「日の丸セーラーズ」はセーリング競技日本代表の呼称。日本セーリング連盟(JSAF)と共に、ここ江の島で開催される2019年江の島大会(2019年8月25日~9月1日)ワールドカップと、2020年の東京オリンピック・セーリング競技を盛り上げるラッピング車両。 そして仁王門から五重塔までの龍口寺境内に、青竹の竹灯籠が5000基ほども灯されていた幻想的な竹灯籠の光景を十二分に楽しんでの帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・
2019.08.21
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この日・8月4日(日)は、自宅から電車で40分ほどの片瀬・龍口寺で行われる『竹燈籠』を見に行って来ました。藤沢駅高架橋通路からの夕焼けの富士山の姿。時間は18:40過ぎ。江ノ電・藤沢駅に向かう。運良く江ノ電電車がホームに入って来ていた。ホーム入り口の花時計。『第9回 龍の口 竹灯籠』のポスター。ポスターの裏側。『龍の口竹燈籠』申込書が裏面に。そして江ノ電で江ノ島駅に向かう。境川の鉄橋を渡る。そして江ノ島駅から徒歩にて龍口寺に向かう。龍口寺前の三叉路を鎌倉方面に向かう江ノ電電車。そして龍口寺仁王門。日蓮上人法難の地、『日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺』この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では『龍ノ口法難』と呼ぶ。鎌倉幕府の反感を買った日蓮聖人が捕えられこの場所へ連行された。処刑直前、江の島の方から光の玉が飛んできて斬首役人の目をくらませたとか、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたとも伝えられる。結局、処刑は中止になった。龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人以外誰もいないとされている。境内には連行された折に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残る。日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法上人は、この霊蹟を保護する為に寂光山龍口寺と称し草庵を結んだ。延元ニ年(1337)自ら刻んだ日蓮像を安置する寺を創建した。のち六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)らが協力して、延文二年(1357)に豪荘な伽藍の大寺を建立したのである。『龍乃口』と書かれた扁額。仁王門の仁王像(阿形像)仁王門の仁王像(吽形像)。竹灯籠 受付。1000円/基で竹灯籠の奉納が出来るようであった。龍口寺 境内図。山門への階段の両脇にも竹灯籠が並ぶ。そして山門へ。山門の扁額は『龍口寺』。山門を潜ると境内には、灯りの灯った竹灯籠が一面に。 仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約5000基が並べられていたのであった。本物のロウソクを使った灯籠が、地面に敷き詰められていたのであった。電気の明かりとは一味、いや二味も違う幻想的な光景。 その先に本堂と五重塔が。まだ上空は薄暗く。幻想的な竹灯籠をカメラで追いかける。亡くなられた方々を偲ぶと共に、私たちの心に灯った明かりを消すことなく未来も照らせるようにと祈る姿が。そして未来への灯火は 決して自ら消すまいとも 。山門の見事な彫刻を振り返る。心休まる光景が拡がっていた。右手に手水舎。階段上の本堂が様々な色にライトアップされて。竹灯籠の灯りをズームで。大書院前の竹灯篭を境内側から。後ろの丸い穴から、それぞれロウソクを入れる事が理解できたのであった。しばし辺りが暗くなるのを待つ。本堂と五重塔と竹灯籠の美。カメラの向きを変えて。本堂への階段の両側には和紙燈籠には奉納者の名前が書かれて。そして本堂前へ。刻々とライトアップされる色が変わって行った。ロウソクの灯りに癒される空間と時間。回り階段の如き竹灯籠と本堂。幻想的なライトアップと 繊細な細工の竹灯籠。そして五重塔に向かう。神奈川県には3つの五重塔がある。他の2つは鉄筋コンクリート造。龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。明治43年(1910年)竣工。一辺4,5m。白木。 総欅造。建造には竹中工務店が携わった。全国的にも数少ない明治期の五重塔和様を基本とし、組物には唐様を取り入れる。5重は扇垂木。中備には近世風な彫刻を置く。法華題目が本尊とのこと。五重塔も微妙に色を変えて。私もいろいろとカメラの設定を変えてみたが。五重塔内部。斜めから。五重塔の後は坂を下り本堂内部へ。本堂内部ではコンサートが行われていた。ケーナ(quena)演奏の山下孝之×ソプラノ鳥井麗香×辻賢のユニットらしい。ケーナ(quena)は、南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)であると。鳥井麗香さん辻賢氏のチャップマン・スティック(Chapman Stick)演奏。 ・・・つづく・・・
2019.08.20
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更にビッグプレミアムスターマインがつづく。時間は20:13そしてオランダ風車「リーフデ」の後ろから水上花火が。下から半円形に広がるのは水上スターマイン。水上スターマインが続く。そして特大スターマイン。特大スターマインが続く。尺玉以上になると、花火の大きさもさることながら音が断然違うのであった。腹に響くようなその音が、花火の広がりから遅れること無く直ぐに聞こえる場所で見れるのは最高なのであった。佐倉のFさんに今年も感謝。フィナーレは県内最大・二尺玉の打ち上げ。 二尺玉は、直径が約60センチで、打ち上がると直径が500メートルほどに広がるのだと。 二尺玉が打ち上げられる花火大会は関東では数少なく、印旛沼湖畔から打ち上がる ダイナミックな花火は圧巻そのものであった。目と耳と腹、身体全体で味わう二尺玉の迫力!オランダ風車に降り注ぐ火花。そして20:30近くになり『佐倉花火フェスタ2019』も終了。混雑を避けるためにしばし、帰りを遅らす為の待機。そして、花火にはつきものの会場帰りの渋滞にハマりながらも臼井駅に向かって歩く。今年も佐倉の花火👈リンク を大いに楽しませていただきました。楽しい時間はあっという間。家族全員でいることの楽しさを感じながら、そして一生懸命に歩く孫たちの姿を見ながらの帰路であった。佐倉の地でF家、K家の絆の「花火」も大いに咲き誇ったのでした。『家族の集い』はこれぞ『幸せの絆』!!Fさん、今年もご準備ありがとうございました。 ・・・完・・・
2019.08.19
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シャッターを押す手を休める暇もなく次々に豪華な花火が、時間は19:48。10号玉(1尺玉)が連続で。冠スターマイン。俗に柳(やなぎ)と呼ばれる打ち上げ花火で、豪華な金色に輝く火の粉が連続で降り注ぐ。そしてビッグプレミアムスターマインのスタート。様々な色の花が今年も開く。夏の風物詩といえば打ち上げ花火。この時期、全国津々浦々で花火大会が開催されており、多くの人々が楽しむイベントとなっている。もっとも歴史の古い隅田川花火大会は、100万人近い観客を動員しているし、そのほか、東京では江戸川のエキサイティング花火大会の人気が高まっている。また、大阪でも天神祭りの奉納花火に130万人もの観客が集まっている。北は北海道の道新納涼花火大会、南は沖縄の浦添てだこまつりと、全国で毎年1000前後の大会が開催されているようだ。現在見つかっている資料から考察して、私たちが見ている打ち上げ花火に近いものを初めて見た日本人は、徳川家康と考えるのが定説らしい。『駿府政事録』の中に「二之丸立花火」の記事があり、英国王ジェームズ1世の使者のジョン・セーリスが、駿府城で披露したと伝えられているのだと。江戸時代になって戦がなくなり、火薬の使い道が激減すると、火薬屋たちは花火を扱うようになる。日本最古の花火大会である、隅田川花火大会が始まったのは、享保18年(1733)。当時は「両国川開き」と呼ばれていた。このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火業者である鍵屋で、万治2年(1659)に売り出した玩具花火のヒットで、繁盛していたという。約150年後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋。これ以降は、両国の川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、ライバルとして、さらに発展したようだ。しかし、江戸庶民が見ていた花火は、現在のように様々な色のあるものでなく、白っぽいものだったらしい。マグネシウムなどの金属粉を利用した、色鮮やかな花火が登場するのは大正時代になってからで、現在では炭酸ストロンチウム(赤)や硝酸バリウム(緑)、タンサンカルシウム(黄)、酸化銅(青)などを組み合わせ、さらに華やかな花火が生み出され続けているのだと。しかし花火は、ただ美しいだけのものではない。日本人にとって火は、鎮魂の意味を持つのだ。意外に思われるかもしれないが、お盆の迎え火や送り火を思いだせば、納得がいく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.18
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今年も、8/4(土)に長女の嫁ぎ先のご両親から、「佐倉花火フェスタ 2019」へのご招待をいただきました。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。嫁いだ長女家族もこの日はこのホテルに宿泊。長男は海外出張中のため今年は長男家族は不参加となりました。そして、チェックイン後7Fの部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。17時過ぎに臼井駅で合流し、総勢13名で花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。臼井駅にあった今年の「佐倉花火フェスタ 2019」のポスター。印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場周辺)で19:00~開会。毎年8月の第1土曜日に開催されており、夏の風物詩イベントとして定着。総打上数20,000発ビッグプレミアムスターマイン8,000発、二尺玉4発、尺玉30連発、手筒花火、 水上花火などの花火大会であると。そして準備していただいていた席に到着。本格的オランダ風車「リーフデ」が目の前の座席。準備頂いた私のチケット。佐蘭花 (オランダ風無料休憩所、売店、トイレ)前には貴賓席、招待席が並んでいた。佐倉市民の楽団が演奏中。『花火大会会場まで行けない人集まれ!』のポスターが。ビールを飲みながらCATVで花火フェスタの生中継を見られると。4本のポプラの木の後ろもオレンジ色に染まって来た。佐倉市長・西田三十五氏の姿も。手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。今年4月21日執行の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの新市長であるとFさんから。真っ赤な太陽が沈んで行った。ズームで。オランダ風車「リーフデ」も花火を待つ。そして開催セレモニーも間近に。上空には成田空港を離陸した旅客機の姿が。日も沈み、辺りが暗くなり始めた。そいて準備していただいた弁当を楽しむ。様々な巻き寿司が美しく詰め合わせて。あっという間に平らげたのであった。上空には眉月が。そして開催セレモニーも終わり、花火大会のスタート。時間は17:02過ぎ。まずは、恒例の手筒花火のスタート。席を離れて、手筒花火に近づいて。手筒花火は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火。打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと10数mにもなるのであった。5本の手筒花火が一斉に。そして火柱を勢いよく。今度は7本が一斉に。火柱の高さは10m以上にも及び豪快な柱が一瞬で夜空を彩ったのであった。筒の底が抜けて揚げ手の足元で爆発しておこる、轟音と広がる炎は最大の特徴。白煙がモウモウと。風車にも灯りが灯り。そして佐倉市長も手筒花火を。ズームで。市長の勇姿をうまく撮ることが出来ました。そして小スターマインのスタート。カメラにリモコンシャッターを繋げ花火を見ながらシャッターを押し続ける。10号玉(1尺玉)も上がり。芯菊の輝き。シャッターのタイミングが・・・。更に大、中、小のスターマインが次々に。高圧線鉄柱の直線と花火の曲線がBEST MATCHIして。ナイスタイミング!!。 ・・・つづく・・・
2019.08.17
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この日(5月23日)の旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)を完歩し、前夜に宿泊したホテルの提携駐車場で旅ともの愛車に乗り換え、この日のJR鷲津駅前のホテルに向かう予定であったが、時間が早いため、浜松市内の遠州灘に面した『中田島砂丘』を途中、車で訪ねた。馬込川河口にある『風車公園』の無料駐車場に車を駐める。回転はしていなかったが、大きな風車が迎えてくれた。ここは『遠州灘海浜公園』の一つ。『遠州灘海浜公園』には3箇所の大きな公園があり、愛称を公募し、そsれぞれ風車公園、石人の星公園、凧場公園に決定したとのこと。 【http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-ennsyuu/ennsyuu-kahinn.htm】よりここ風車公園には中田島砂丘あり、築山から馬込川河口や遠州灘を望むことが出来た。その砂丘には風と砂が生み出す「風紋」も見られ、また海浜植物が自生する恵まれた環境の中に位置していたのであった。。『海岸までの歩行者通路』案内。今は話題になっているプラスチック問題を提起しているガイド板。そしてこの『中田島砂丘』は、夏にはアカウミガメが産卵のために上陸すると。産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流されるのだと。およそ『中田島砂丘』12kmが文化財(天然記念物)に指定されているのだ。また砂丘という環境からハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られると。アカウミガメの囲いの中の『ハマヒルガオ』。近くに生えていた『コウボウムギ』。砂丘を上っていく。旅友のSさんは、カメラの電池切れとのことで電池交換のために駐車場の愛車まで戻る。鳥取県の鳥取砂丘ほどは広くないが、正しく『砂丘』。ここ中田島砂丘には、写真のごとく『堆砂垣(たいさがき)』と呼ばれる施設があった。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。 近隣の静岡県立浜松江之島高等学校や、市内の郵便局、ボランティア団体等が毎年設置していると。急な砂丘の斜面をひたすら登って行った。横には『堆砂垣』が。そして砂丘の頂上まで辿り着くと、前方には真っ青な遠州灘が拡がっていた。左手奥には『浜松市 南部清掃工場』が。登って来た砂丘斜面を振り返る。海岸には親子であろうか、カップルであろうか二人連れが。白波が打ち寄せて。時々、大きな波も。浜松市内方面の眺望。浜松アクトタワーが聳え立つ。そして漸く旅友が戻って来て砂丘を必死に登る。私は美しい貝殻を拾う。クレーターの如き形状の場所も。そして帰路に『風紋』を発見。東西4km、南北600mにわたる中田島砂丘は、日本三大砂丘のひとつとも。遠州灘から吹く強い風によって生み出される「風紋」は一見の価値あり。連続するやわらかな曲線は、まさに風の芸術。砂丘を越えるとどこまでも続く太平洋が広がり、水平線に沈む夕陽の美しさは格別なのだと。『中田島砂丘』を後にし、国道1号線に向けて進む。そして国道301号線に入り浜名湖を渡る。弁天島に架かる『中浜名橋』からの国道1号線『浜名大橋』。そして中浜名橋を渡り『湖西市』に入る。『西浜名橋』を渡る。右手前方にオレンジ瓦の白の如き建物が。そして鷲津駅前のこの日のホテルに到着。部屋からの浜名湖の眺め。浜名湖の浜松方面。 ・・・つづく・・・
2019.06.21
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小田原城を後にし、二宮町の旧東海道を走りながら、以前も訪ねた寺『等覚院』を訪ねた。所在地: 二宮町山西793この写真は、前回訪れた時の写真。『本堂』。山号、梅沢山東光寺。別名、藤巻寺ともいわれる。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。境内の『六地蔵』。『鐘楼』。『歴代住職の墓』。『三猿』が刻まれた墓石。等覚院は別名、藤巻寺ともいわれ、藤の花が人気の寺。この日は既に花は完全に終わっていたが、同行の旅友Sさんは、4/29(月)に藤の花を見にこの寺を訪ねていたのであった。その時のSさんがブログにアップしためずらしい白い藤の写真。そして境内のアジサイ(紫陽花)の花を此処でも楽しんだのです。八重咲きのガクアジサイ。こちらも八重のガクアジサイ。緑色のアジサイ。そして次に訪ねたのが、中井町にある『厳島湿生公園』。ここ厳島湿生公園は県下でも稀な清水が出ている湿生地を復元し保全することを目的に整備された公園。湧出量は一日およそ2600トンにも及ぶと。駐車場にあった案内板。厳島湿生公園は、湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全しており、相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっています。湿地には、ホタル、カワセミ、ホトケドジョウなど、水辺に集まる希少な生き物が生息しており、園内を巡る木道や散策路からは、四季折々の草花など楽しむことができます。公園中央の厳島神社は、古くから地域の方々に「弁天様」と親しまれており、弁天様やホタルにまつわる民話が今も残されています。『厳島湿生公園案内図』。『花マップ』パンフレット。『厳島湿生公園 花マップ』。湿生地を巡る木道400m・休憩広場・芝生広場・東屋・トイレなどが整備されていた。アブラハヤ、シマドジョウ、ホトケドジョウ、シュレーゲルアオガエルなどの希少な生き物が確認されていると。池の上には木道がきちんと整備されていた。木橋の前方に「弁天さん」として地域の方々に親しまれている『厳島神社』の朱の鳥居が。扁額『厳島神社』。『拝殿』。「厳島神社(いつくしまじんじゃ)この神社は、文化4年(1807年)に建てられ天保11年(1840年)、安政4年(1857年)及び昭和62年(1987年)に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869年)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、祭日は4月16日であったが、現在は、蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧き出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水しかいない小動物が、今でも生息する湿原である。」 『私たち、住み替えます 成長とともに住かを変える公園の水棲動物たち』「この公園には大きくなるにつれて、住む場所を変えてゆく水棲動物がいます。ホタルやトンボの幼虫は水中で生活するので、水棲昆虫と呼ばれています。ホタルの幼虫はカワニナを、トンボの幼虫ヤゴはミジンコや蚊の幼虫、小魚などをエサとしています。彼らは、脱皮を繰り返して成長します。両方とも成虫になると空を飛びます。カエルはオタマジャクシのときは水中で生活しますが、成長して尾がなくなり四本足となって水中や陸上で生活するので、両生類と呼ばれます。」睡蓮が群生する池、しかし花の姿はまだ無かった。『中井町 厳島湿生公園 周辺あんない』。このユニークな石の彫刻は、中井町民の彫刻家・高田 大(たかだ・だい)さんの作品。タイトルは「水の妖精」。ちなみに、ここは湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全している公園で相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっていると。池の中には、野鳥の止まり木が置かれていた。ここに止り羽を休めたり、池の魚を狙うカワセミ(翡翠)等の野鳥を、『鳥撮り』が大きなカメラを3脚に乗せてひたすら待つのであろう公園内に掲示されていた、止まり木のカワセミ(翡翠)の写真。5月にはゲンジボタル、6〜7月にはヘイケボタルの観賞を楽しむことができると。木製のベンチに座り一休み。二宮で合流された元同僚・先輩のOさんが、「近くの食品館あおば 中井町店」で寿司弁当とビールを調達して来てくれ、これを3人で楽しんだのであった。我々、車を運転しない二人は缶ビール、運転する旅友Sさんはノンアルコールビールを楽しみながら寿司弁当を平らげたのであった。Oさん、ご馳走になりました!!近くにあったキンシバイ(金糸梅)の黄色い花。「キアゲハ」の幼虫を発見。「トカゲ」も。ピンボケになりましたがこの透明な羽のトンボの名は?ルリイトトンボだったのでしょうか?数年前に別の場所で撮ったルリイトトンボの写真を紹介します。そして、ネット情報によると、毎年、この厳島湿性公園では『竹灯篭の夕べ👈リンク』が開催されていると。2019年の竹灯篭の夕べは5月25日(土)に開催されたとのこと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】より竹林整備によって出た竹を「灯篭」にして厳島湿生公園に並べ灯りをともし、その幽玄な雰囲気を楽しむイベントで、竹林再生事業の一環として平成18年度から始まり今年で14回目の開催。会場内は、灯篭の火の揺らめき、水面に映る景色などが幻想的な雰囲気を醸し出し、来場者を魅了したと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】よりそして帰路は、明治末から昭和初期まで稼動していた湘南軌道(しょうなんきどう)の線路跡に出来た道路を進む。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、1927年(昭和2年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止されたと。通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在二宮町二宮)~井ノ口村(現在中井町井ノ口)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりと。下図の赤い点線部分が軽便鉄道・湘南軌道の線路が通っていた場所。湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れていたとのこと。葛川(くずかわ)沿いを二宮駅に向かって南下。そして二宮駅まで路線距離は最終的に10.0kmであったと。『湘南軌道』の歴史をウィキペディアより。・1906年(明治39年)8月1日発起人を集め湘南馬車鉄道として秦野 - 二宮間開業 (9.0km) 開業当初は馬車鉄道であった。当時の発起人は秦野市、二宮町、中井町など沿線の有力者を もって行われた。なお、発起人に名を連ねた人物には国会議員の伊達時や慶應義塾出身の 山口(旧姓高橋)喜十郎など福沢諭吉の知己を直接得ている人物が存在する。 また、伊達時および山口喜十郎は伊勢原市に存在した自由民権運動の団体「湘南社」に 深くかかわっていた。・1913年(大正2年) 2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更 2月24日 湘南軽便鉄道に改称・1918年(大正7年) 経営難により一時休止、その後経営移管され湘南軌道となる・1923年(大正12年)9月1日 関東大震災により被災・1924年(大正13年)3月 秦野駅(初代)を台町駅に改称、 秦野(2代目) - 台町間開業 (1.0km)、全通・1927年(昭和2年)4月1日 小田原急行鉄道開通・1929年(昭和4年)8月14日 乗合自動車運行開始[5][6]・1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる・1935年(昭和10年)10月9日 秦野 - 二宮間全線営業休止・1937年(昭和12年)8月25日 秦野 - 二宮間全線廃止 (-10.0km)『当時の駅・敷設・接続路線』をウィキペディアより。・路線データ (廃止時点のもの) 路線距離(営業キロ):10.0km 軌間:762mm・駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし(全線非電化)・駅一覧 秦野駅※ - 台町駅 - 大竹駅 - 上井ノ口駅 - 下井ノ口駅 - 一色駅 - 中里駅 - 二宮駅 ※湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、 現在の小田急秦野駅からは離れている。以下の古い写真は『湘南軌道👈リンク』からのものを利用させていただきました。『湘南軌道 二宮駅』の当時の写真。創業当初は、鉄製のレールの上を走る客車を馬に引かせる馬車鉄道であったと。『省線二宮駅構内を進行する湘南軌道の蒸気機関車。』1913年(大正2年)2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更されたと。大正13年(1924)頃の古写真「湘南軌道株式会社・二宮本社屋」『2号機関車』。そして『下井ノ口停留所跡』。湘南軌道下井ノ口停留所付近は若干昔の名残で商店等があったが。写真を撮るOさんは二宮に50年以上お住まいだが、この湘南軌道についてはご存じなかったのであった。『一色停留所跡』。一色駅(いしきえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町一色に在った駅。『中里停留所跡』。中里駅(なかざとえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町中里にかつて存在した湘南軌道の駅。今まで、この湘南軌道の存在については、全く知らなかった私。今回、中井町にあった『厳島湿生公園』を訪れ、その存在を知り、帰路にその路線上に出来た道路を走り、またネットで調べこのブログを書きながら大いに学ぶことが出来たのであった。
2019.06.13
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花菖蒲園を後にし、常盤木門を目指して常盤木橋を渡る。常盤木橋からハナショウブ園を見る。右手に『常盤木門』と刻まれた石碑が。『小田原城 常盤木門』。「小田原城 本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていた。常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえてこの名がつけられたと言われている。市制30周年事業として、昭和46年(1971)に再建された。」こちらにも案内板が。小田原城は江戸時代だけでも地震や火災で3度大きな被害を受けているのだと。常盤木とは常緑樹の意味とのことで、門の傍らに植えられている松が何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたと。『常盤木門』。江戸期小田原城の中でもっとも堅固な門で、本丸正面に位置します。多門櫓と渡り櫓から構成される枡形構造の門で、上の写真の如く江戸時代初期の古地図にも描かれています。現在の常盤木門は昭和46年に市政30周年を記念して再現された。原型は元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に再建されたもの。『常盤木門』を潜り本丸跡へ。正面に勇壮な『天守』が。小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなっていると。大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守となっている。これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮だと。天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70m。ちなみに5重天守の設計図と雛形の模型もあるのだと。これは江戸時代の震災後の修復の為に書かれたものらしいですが、幕府への配慮からか結局5重天守は小田原城に造られることはなかったのだと。『本丸跡』案内板。「最初の戦国大名」はいかにして関東を制したか 伊勢宗端(いせそうずい)。伊勢宗端とは北条早雲のこと。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義があると。『小田原城常盤木門売店』の壁にも北条早雲が。『小田原城常盤木門売店』。天守を背景にした記念撮影のスポットには『令和』の文字が。江戸時代、小田原城の初代城主となった大久保忠世の家紋は上がり藤に大の字・「大久保藤」。我が実家の家紋は大のない『上がり藤』。本丸を後にし、小田原城正面入口に向かって下る。『イヌマキ』の巨木が前方に。『小田原城跡のイヌマキ』。「所在 城内三ー二二 樹相 目通り幹囲 四.五メートル 株元周囲 約六メートル 樹高 約二十メートル 枝張り状況 東西二十五メートル 南北十三メートルイヌマキは関東南部以西のの海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。 この木は、幹回り四・五メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上五メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ蜜に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。 しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 」再び『銅門』まで戻る。『銅門(あかがねもん)』銅門は、小田原城二の丸の表門にあたり、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸主部へと通じる大手筋に設けられた桝形門です。銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。江戸時代前期に稲葉正勝が城主となった時期に行われた普請の中で銅門も築かれたものと考えられています。銅門という名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。『銅門』の「渡櫓門(わたりやぐらもん)』を潜ると見えてきたのが『内仕切門(うちじきりもん)』。『内仕切門(うちじきりもん)』を潜り『住吉橋』を渡る。木製の『住吉橋』そして『内仕切門(うちじきりもん)』を振り返る。正面に見えるのが『観光案内所』。『馬家曲輪』。城址公園の南側に位置する馬屋曲輪は、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸からは馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り銅門へと続きます。江戸時代では登城者に対しての番所として機能していたようです。馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、曲輪(お城の区切られた敷地)の外周は土塀と石垣で覆われていました。又内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。『内冠木門(うちかぶきもん)』。『馬出門(うまだしもん)』『馬出門土橋』を渡る。『馬出門土橋』から『馬出門』を振り返る。そして駐車場に戻り、車で『小峯御鐘ノ台大堀切』に向かう。小峯御鐘ノ台大堀切は小田原城本丸から近い順に東堀、中堀、西堀の3本の堀が並び、これまでは東堀と中堀が散策可能でした。大堀切西堀では雄大な空堀と土塁が残り、小田原城の最も外側に展開する堀や土塁からなる総構と西堀が接続している様子や、小田原城の広大さを観察することができます。東堀の堀底は遊歩道として公開されていたのでここを歩く。『小峯御鐘ノ台大堀切東堀』大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀であると。『小田原を守った総構と三本の堀切』。小峯御鐘ノ台大堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたものです。この遺構は、慰霊塔側にある東堀、現在は道路になっている中堀、西側にある西堀の三本の空堀で構成されています。当時の様子が最も良く残っている東堀は幅が約20 ~ 30m、深さは土塁の頂上から約12m あり、堀の法面は50 度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。巨大な大堀切。大堀切をふたり占め。そして日蓮宗・蓮船寺を訪ねた。『本堂』。小田原七福神の『大黒様』。寺の前の広場(発掘跡か?)にいたのはは烏骨鶏(ウコッケイ)?そして、純白のテマリ咲きアジサイが。
2019.06.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新金谷駅を後にして、次の目的地は静岡県掛川市上土方嶺向にある『高天神城跡』。国道473号線を走り、JR金谷駅前を通過し右手に旧東海道石畳(金谷坂)を右手に見ながら坂道を登っていく。途中車を駐め、大井川そして県道381号線に架かる大井川橋を見下ろす。静岡『空港入口』交差点を直進。此処を左折すると静岡空港へ。私が日本国内で利用したことのない数少ない空港の一つ。そして茶畑の中を30分ほど走ると左手に『高天神城址(たかてんじんじょうあと)』と書かれた案内板が。後ろの山が鶴翁山と言われ、山全体が『高天神城址』であると。標高132メートルの鶴翁山の北麓に到着。ここは高天神城の搦手側にあたり、ここから整備された登山道が山頂まで通じていた。鶴翁山の裾野に在った大きすぎる?駐車場に車を駐め散策開始。搦め手門跡には『高天神城想像図』が二つの峰を真ん中で繋いでいた。「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城。標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。 兵(つわもの)どもが夢の跡。うっそうとした杉や檜に覆われた昼なお暗い石段は、木漏れ日の光と影の中、戦国ロマンを抱いて、静かに時を重ねていた。城跡は国の文化財に指定。平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定された。『武田勝頼が開城させた「難攻不落の名城」高天神城跡』。『続日本1004名城スタンプラリー設置場所案内図』。スタンプはここにはなく、『大東北公民館』内にあると。『郷社高天神社(たかてんじんじゃ)』石碑。高天神社は、静岡県掛川市下土方嶺向にある神社。高天神山の山頂付近に立地する。『郷社高天神社』石鳥居。高天神城城への道は西の峯に鎮座している高天神社の参道にもなっており鳥居を潜り進んで行く。その前に鳥居の右側には広場があり石碑が建っていた。説明板によると赤堀磯平と言う方の顕彰碑のようであった。お茶に関係した方のようであった。そういえばこの城の周りは茶畑が一面に。『史跡 高天神城跡』石碑。ここから東峰の本曲輪跡までは階段を200段以上?登って行ったのであった。『高天神社境内案内図』『高天神保健休養林案内図』。高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」。まさに松本亀次郎の「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」の通りですが、私的には「2つの羽を広げて空を飛ぶ鶴」型というより、「クランク」状、「Hの字」型。『搦手門跡』と書かれた木柱が右手に。その奥に杖も用意されていた。『搦手門址』。「この城は、1つの城に曲輪が2つあり、一城別郭の敷と言われている。東の曲輪は、この城の「うり」である。大河内政局(まさふさ)の石牢があります。また、西の曲輪には武田氏が補強のため造った横堀といくつかの切割(尾根を切る)の跡が残っています。」『搦手門』「城の裏門に当たり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正二年にかけて、渡辺金太夫照が大将として城兵二百十余騎を率いて守備した所である。」渡辺金太夫照は渡辺金太夫信重ともいい、姉川七本槍 の一人。下土方村(城東郡の大字)を領した。城の裏門に当たるこの搦手門は、元亀から天正二年にかけて徳川方の渡辺金太夫が守備していたと。落城後、金太夫は武田氏に仕えた。衰亡する武田氏に対して金太夫の忠誠は変わることなく、最期は甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。比較的緩やかな階段を右に左に登っていく。周りの崖には堆積してできた縞模様が見られ、この山は大昔海の底だったのではないかと。そして道の突き当りの崖の所・左手に『三日月井戸』が。天正二年の七月に武田側によって作られたと云う『三日月井戸』。城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。井戸と言うより小さな水たまり?しかし山城に水は貴重な物であり、これは湧き水の様であったが大切な施設であったこと間違いなし。上方から見下ろすとなるほど『三日月井戸』。岸壁に沿うように造られた井戸で、誰が入れたのか金魚が何匹か泳いでいた。三ケ月井戸を超えたあたりから石段から丸太の階段に変わり、勾配も少し急になって来た。『高天神城跡略図』再び『高天神保健休養林案内図』。そして階段を登り終えると、高天神社境内に入り狛犬が迎えてくれた。二頭の牛も迎えてくれた。「天神社」(天満宮)=「菅原道真」。死した不遇の道真の怨霊が雷神となって、清涼殿への落雷他天変地異の数々、それらが「天に満ちた」ことからその名となったのだ。右に尾白稲荷、左に『かな井戸 井戸曲輪跡』。『尾白稲荷』。「最後の戦い(天正9年)の後に城山に『白い大きな動物がいるらしい』という上方が入った。城主の叔父に当たる小笠原氏義が武士をやめ農民になっていた(帰農)が弓矢の名人であった。この事から、その者が射ると白い尾の狐だった。それを家康に報告した所、以後『尾白と名乗れと言われた。』と言い伝えられている。その後、御子孫が先祖の供養のため祀っておられる。」「由来 今から、千六百年余り前、この高天神に地の神、護国長寿の神として降臨。その後、当山での修験者「藤原仙翁」を下僕として附近一帯を守ってこられました。戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがために、賞金を付けてのお触れが出され、ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を、三の丸の大将小笠原與左衛門(強弓の師)に射止められました。與左衛門は、褒賞を得、性を「尾白」と改めてきたものの、以後、高天神は魔の山として恐れられるようになりました・・・・。神通力を奪われ、四百有余年間、このたび、高天神社の祭神、菅原道真公、また、藤原仙翁、大河内政局、四坊僧のお力添えを得て、目出たく、此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の同意により祭祀されることになりました。大変な神通力がある故、商売繁盛、縁談、難病諸病は勿論のこと、真心を以っての合掌には後霊験あらたかです。」前方を右に進み、坂道を登って行き、北へ回り込むと二の丸、袖曲輪があり、西下へ降りていく虎口がある。ここから北へ伸びた細い尾根には堀切で遮断された堂の尾曲輪、井楼曲輪があり、いずれも西下にある長大な横堀に面して土塁を設けており、見所の一つであるとのことであったが・・・・。しかし、この日はこれ以上、高天神城跡は目指さず、左手の高天神社社殿へ。『高天神城合戦将士英魂之碑』。『かな井戸 井戸曲輪跡』。井戸曲輪にあり高天神城内にある二つの井戸のうちの一つ、名の由来は不明だが、湧き出る水が鉄(かな)分を多く含んでいるためとも言われる。武田軍が高天神城攻めの際井戸の水脈を切ったためとも言われ、そのためか今は水は出ない。一説には篭城方のお姫様が落城時に身を投げて自害したとも言われる。『かな井戸 井戸曲輪跡』の奥に高天神社の二ノ鳥居と階段が。『この付近は、東西の曲輪の中央で、馬の背にあたる所で、激しい戦いが行われた場所と言われている。井戸の「かな」の表示は、鉄分が含まれているとか・・・。右方向に進むと、武田方が造った横堀、切割が確認できる。』『高天神社』二ノ鳥居と階段。『高天神社』。御祭神は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)天菩毘命(あめのほひのみこと)菅原道真公(すがわらみちざねこう)の3柱を祀っており、社名の「天神」も天神である菅原に由来すると考えられると。階段を上っていくと、『西の丸跡』という杭が建てられていてその後ろには御神木が。つまり元々はここは西の丸。西の丸は岡部丹波守真幸が守っていた時期があり、丹波曲輪と呼ばれてもいたそうです。ちなみに岡部丹場守真幸(元信とも言われる)は元今川家の武将で武田家に仕え、天正2年の戦いでは攻める側でしたが、天正9年の戦いでは高天神城主として徳川軍と戦い、壮絶な最期を遂げた武将であると。『社務所』。御朱印を頂きたかったが、社務所内に人の姿はなし。『高天神社例大祭』のポスター。高天神社は、高天神城跡にあり、かつての高天神城を守護する神社。この祭礼は、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、3月最終日曜日に東峰の社(元宮)に神様が里帰りされる行事として行われると。今年は3月31日に行われたようであった。祭礼は桜の見ごろと重なることもあり、毎年多くの見物人でにぎわう。また、高天神城は、駿河・甲斐の武田氏と三河・遠江の徳川氏の領土争いで、戦国末期の激しい攻防が繰り返された場所。その攻防で重要だった火縄銃の演武も見応えがあるのだと。『高天神社』社殿前から登ってきた階段を振り返る。社殿近くからの駿河湾方面の眺望。『高天神社』社殿。小さいながらもなかなか立派な神社。優雅な姿をした鶴翁山にある高天神社は、旧城飼郡(きこう・紀甲評)土方にあり、式内「比奈多乃神社」の論社のひとつとも。扁額『高天神社』。高天神社の脇にひっそりとあった『高天神城記』石碑。ひたすら漢字で、由緒が書かれていのであろうか?お参りを済ませ、帰路に。高天神の井戸曲輪の近くにあった、この地出身の偉人 松本亀次郎の『高天神歌碑』『もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ 姿かな たか天神山 又の名鶴翁山 鶴峯 松本亀次郎 』 『日本の中心の架け橋となった松本亀治郎』「1866年(慶応2年)現在の掛川市上土方嶺向に生まれた。ある時、「中国の学生達が日本に来て勉強したくても日本語を教えてくれる学校や本がない」という事を知り、日本語を教えてくれる教師になった。教えた学生は2万人余と言われている。その中には、文学者の魯迅(ろじん)、政治家の郭沫若(かくまつじゃく)、中国の首相となった周恩来(しゅうおんらい)がいる。」さきの大戦により東京からふるさとの生家に戻り、昭和20年(1945)に79才で亡くなった。」左に上って行くと『大川内石窟 御前曲輪』の案内板が。『大川内石窟』 【https://kojodan.jp/castle/264/photo/150779.html】より『御前曲輪跡』。本丸の南東を守護する曲輪で、本丸の前に位置することから付いた名称か、神様の前に位置することから付いた名称か不明である。太平洋戦争前に模擬天守が造られ、そのコンクリートの土台が今も残っていると(落雷で焼失)。 【https://kojodan.jp/castle/264/photo/54382.html】よりそして車に戻り、スタンプの置かれている『大東北公民館』に向かった。公民館内には子供達の『令和』の毛書が。スタンプを頂きました。『高天神城史年表』。『松本亀次郎の故郷』碑。『松本亀次郎先生(1866年~1945年)略年表』1866年(慶応2年) - 遠江国城東郡嶺村(現在の静岡県掛川市上土方嶺向)に生まれる。1888年(明治21年) - 静岡師範学校を卒業し、静岡高等小学校の国語教師となる。1903年(明治36年) - 佐賀師範学校を退職し上京。弘文学院、後の宏文学院で魯迅に日本語を教える。1914年(大正3年) - 東京・神田神保町に東亜高等予備校を設立。1945年(昭和20年) - 生家にて死去。
2019.06.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大井川を渡り、『水神公園』を訪ねた後は、新金谷駅(しんかなやえき)に向かう。新金谷駅は、静岡県島田市金谷東2丁目にある大井川鐵道大井川本線の駅。トーマス号やSL(蒸気機関車)の発着駅となる大井川鐵道・新金谷駅へは、新東名高速道路「島田金谷」I.Cから約8分。JR東海道線を利用した場合、「金谷駅」下車後、改札を出て大井川鐵道本線に乗換え約4分で到着すると。ここ新金谷駅は大正15年(1926年)に建てられたレトロな木造2階建て。1階部分には駅の改札口やカフェ、売店、コインロッカーなどがあり、2階が大井川鐵道の本社事務所になっていると。駐車場に車を駐め、駅舎に向かって歩いていると、係の男性が来られてこの場所は無料駐車場ではなく有料駐車場であると。写真撮影のみであるから直ぐに出ると話し、了解をもらう。入口の案内板を見ると、なるほど有料表示が、ただし入庫後20分まで無料と。本日のSL座席状況。蒸気機関車はこの日(5月22日)には11:52発、14:53発の1日2本であるがこの日は水曜日でもあり空席があるようであった。時間は13:36。正面には記念撮影ができるボードとSL色に塗られたポスト。ボードには機関車THOMASU(トーマス)の姿が。きかんしゃジェームス号が運転されると。学校の夏休み期間中はきかんしゃトーマス号ときかんしゃジェームス号が2台がほぼ毎日運転されるとのこと。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より運転カレンダー、運転時刻や乗車料金は「大井川鉄道のHP👈リンク」にアクセスして下さい。大人片道3000円、子供片道1500円(乗車記念グッズ付き)、予約が必要のようだ。 【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より改札口への扉付近には、黒いSLポストが。大井川鐵道で黒いと言えば…、そう、このポストはSLの車両塗装と同じ塗料で塗られたもの。このポストから投函した郵便物にはSLと富士山、茶娘がデザインされた風景印が押されると。ポストカードと切手は売店やプラザロコで販売中。トーマス号に乗る前後にしたためて、自分あてに投函する人が多いと。駅舎内はこの日は人の数は少なかった。売店には、観光客の姿が、そしてSLに関連した様々なお土産が。駅構内には、大井川本線を走る蒸気機関車 (SL) の勇姿や車窓からの風景を写した写真が展示されていたがピンボケ。駅舎を出て駐車場方面に戻る。「トーマス」といえば青や赤や緑といったカラフルな蒸気機関車たちがたくさん登場するが、「ヒロ」は真っ黒なボディがクールな印象。駅構内には蒸気機関車を含む大井川本線の車両の整備を行っている新金谷車両区が併設されている。ここがSLの実質的な発着場所であり、運用を終えたSLはここへ戻ってくる。過去に存在した転車台は1970年(昭和45年)9月28日に撤去されたため、SLの方向転換ができない状態となり、長い間上り千頭発金谷方面行きのSLは原則的にバック運転(逆機)で客車を牽引していた。しかし、転車台を再度設置することが2010年(平成22年)ごろに決定され、2011年(平成23年)6月ごろに工事を開始、同年10月7日に使用を開始した。島田市の観光政策の一環でもあった。車両区西側・SLの留置場北側に設置され、通常は電動だが手押しで動かすことも可能であると。左手には花の終わった藤棚が。開花時の見事な姿の写真をネットから。今年の4月29日の姿のようだ。 【https://www.train-watch.com/2019/04/29/1996113】より蒸気機関車『C11227』が新金谷車両区内に停車していた。「1942(昭和17)年9月に製造された、戦前仕様の程度良い機関車といえます。(翌年製造分からSLの設計は戦時設計に変更されました。)C10形の改良型として生まれたタンク式機関車です。大変すぐれた性能で、時速85キロでの高速で走行ができます。227号機は北海道標津線から大井川鉄道へ、1975(昭和50)年11月22日に入線しました。1976(昭和51)年7月9日に大井川鉄道でSLの復活運転を開始して以来、今もなお活躍し続ける大井川鐵道を代表する機関車です。」車歴:1942-09-18製造→納入;国鉄;C11227→1942-09-18竣工→1945-09-30現在;苗穂→1949-03-01現在;苗穂→1953-11-03現在;苗穂→1964-04-01現在;苗穂→苫小牧→1974-03-11釧路→1975-06-25廃車;釧路→譲渡;大井川鉄道(静岡県);C11227→1976-07-09営業運転開始新金谷駅改札から駅構内を東南へ約250メートル進むと、そこには平成23年(2011年)に設置された転車台が。新金谷駅から出発したトーマス号やSLは、終点の千頭駅で方向転換をし、こちらに戻ります。そして往復の運行を終えると次の出発に向け、ここでもくるっと方向転換。動画👈リンクでその様子が見ることが出来ます。この日は、『C12164』が転車台に。『C12164』は「1937(昭和12)年に日本車両で製造されました。C12形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されたSLです。大変便利に使えたSLで、15年間で293両が製造されました。中央本線 木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存展示を経て、1987(昭和62)年2月に日本ナショナルトラストの保有となり、同年7月25日に営業運転を開始しました。車両の管理は大井川鐵道が行っています。2018(平成30)年現在、運休中です。」転車台に乗った『C12164』を横から。『SL転車台完成記念』の碑。平成23年10月7日の文字が。大井川鉄道の蒸気機関車関連の説明ボード。蒸気機関車は『C11190』、『C11227』、『C108』、『C56 44』の4種類の蒸気機関車(SL)が新金谷駅~千頭駅間・路線距離は39.5kmを約80分で運行中のようであった。蒸気機関車用の石炭ヤード。『C12164』を後ろから。そして急いで車に戻ったのであった。
2019.06.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次田中城跡を訪ねた跡は、藤枝市南駿河台にある古代駿河国志太郡の郡家(郡衙)の遺跡志太郡衙跡(しだぐんがあと)を訪ねた。今からおよそ1300年前の奈良・平安時代の郡役所跡であると。別名を「御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき)」。国の史跡に指定されている。青島北地区交流センター駐車場に車を駐め、『志太郡衙跡』に向かって歩く。『国史跡志太郡衙跡・志太郡衙資料館』の案内柱。青木川に流れ込む水路沿いに進む。『国指定史跡・志太郡の郡衙跡』案内板1977年(昭和52年)に団地造営のための区画整備を行っている際に発見され、その後の発掘調査によって掘立柱建物30棟をはじめ、門や板塀、井戸・道路などの遺構が次々と発見され、古代郡衙の構造を示すものとされた。さらに出土した260点余りの墨書土器から、「志太」という地名と大領・少領・主帳などの郡司の官職名が確認され、志太郡の郡衙跡と判明した。このため、当該区域での団地造営は中止され、史跡公園として整備された。遺構は東西と南側を丘陵に囲まれた谷部に位置し、8世紀前半から9世紀前半にかけて3期の造替を繰り返したと見られる。建物は南北に棟の方位を揃えた規則的な配置であるが、小規模かつ典型的な郡庁と異なる構成であるため、郡庁や正倉ではなく厨家や館の遺構と推測される。『志太郡衙跡』全体の写真を。郡衙とは、奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所のことを言う。志太郡衙跡は、御子ヶ谷遺跡とも呼ばれ、昭和55年に国の指定史跡となっている。東側にある丘陵には、5~6基の古墳があるようです。古墳の上は展望台のようになっているとのことで、そこからの写真であろうか? 【https://www.shizuoka-fc.net/location/detail.html?C=2789】より青島北地区交流センター側の水路沿いの入り口から『志太郡衙跡』に入る。板塀と土塁で囲われていたようですが、土塁の痕跡はなくなっていた。石敷道路は、川原石を敷き詰めたもの。古代から道路を舗装する技術があったことに驚き。『石敷道路と板塀』。遺構はこの谷口の微高地上に集中しており、掘立柱建物30のほか、井戸・板塀・道路などがみとめられる。建物は東西あるいは南北に棟の方位をそろえ、一見して官衙風に整然とした配置をとっているが、これらは、柱穴の重複関係や柱穴からの出土土器により、およそ8世紀前半から9世紀前半にかけて3期にわたって造替がくりかえされたものとみとめられる。建物群の西半部には規模の大きい東西棟を中心として、井戸をもつ広場や脇殿様の南北棟が展開し、本遺跡の中枢部分を構成しているものと推定される。建物群東半部の東辺及び南辺は土塁状施設あるいは板塀によって囲まれるが、ここには8世紀後半以降、倉庫及び雑舎様の建物が密集して建ち並び、また東南隅には柵で小区画をもうけ廂付建物を配置している。南辺の板塀の外側に沿って幅4〜6メートルの道路がある。板塀の西端に開く門を経て建物群中枢部に通じたものと考えられ、礫がまばらに敷かれている。『正門跡』。『正門と板塀』。「この門は、志太郡衙へ入る正門で巾が2m、高さが2.5mあります。2本の円柱の上に切妻造りの屋根がのる形の門で棟門(むねもん)といいます。両側についている板塀は、高さ1.8m、長さは右3.6m、左は3m、柱は径24cmあります。この正門を入って右側に曲がって正面にある大きな建物が郡衙の主な建物です。正門の南側は、三方を山に囲まれている沼地となっており、ここから墨書土器や木簡を書き込んだもので「志太領」、「志太少額」、「主帳」、「志厨」など260点余りが出土しています。木簡は木を薄く短冊状にして墨で文字を書いたもので、上が貴重な時代には文書、机札(つくえふだ、荷札)などに使用されました。出土した10点の木簡はほとんど読めなくなっていますが、「女召 付里正 丈夫麻:呂」、「安人」、「友足」、「申進上夫事 小長谷浄成」などの文字が書かれています。沼地で発見された木製品には大足、シロカキ、エブリなどの農機具、曲物、下駄、箸、斎串、杓などがあります」『板塀』。板塀は丸太を縄で固定し補強されていた。復元された掘立柱建物が中心に。『掘立柱建物(A)』「3棟の掘立柱建物はすべて床張建物です。南側に5間(11.6m)✕3間(5.4m)の大型掘立柱建物があり、その北側に接するようにして3間(4.5m)✕2間(5.1m)、2間(4.5m)✕2間(4.4m)の建物が2棟並んで建てられています。南側の建物は、郡衙の中で最大規模の立派な建物です。柱はすべてヒノキでその径は、30~40cmもあり、束柱をもち建物の周囲には雨落溝をめぐらしています。柱は地面に一辺1.2~1.4m、深さ70~100cmの穴を掘り、柱が重みで沈まないように底を礎板(板片)や礫を敷き、その上に柱を立て、周囲には礫などを詰めて補強しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」東側にある丘陵方面にも建物(掘立柱建物(B))が。『掘立柱建物(B)』「6棟の掘立柱建物は、大型掘立柱建物(60m2~62.5m2)と比べて規模(19.5m2~37m2)も小さく倉庫などとして利用されていた建物です。この6棟のうち、2棟が床張建物で4棟が土間建物です。円柱のあるものが床張建物で、ないものが土間建物です。また、柱に囲まれた石貼にもその違いを明示してあります。」『井戸』跡。『井戸』「井戸は、一辺2.5m、深さ1.6mの穴の中に井戸枠を7~8段に積みあげたもので井戸枠内側は一辺75cmの正方形をしています。井戸枠は、長さ1~1.6m、厚さ3~5cmのスギ板の両端に組みやすいようにノコギリで切り込みを入れ、組む順番を隅や釘の先を使って「東三」や「八東」などと書き込まれています、井戸の底の真ん中には、径38.5cmの曲物井筒が据えられています。井戸の中からは、曲物、挽物皿、下駄、土師器、ヒョウタンなどが出土しています。」掘立柱建物(B)と一部復元された掘立柱建物(C)。『建物平面表示』。別の場所にも。柱の位置も確認出来た。『掘建柱建物(C)』。「この建物は、四方を板塀によって囲まれ,他の建物とは隔離された特別な配慮がなされています。 復元にあたっては、当時の建物が現存していないため建物構造については、「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」に残されていまる藤原豊成板殿(ふじわらとよなりいたどの)を参考にし、屋根は板葺(いたぶき)きの切妻(きりづま)で一枚板の葺降(ふきおろし)しとしています。壁については,土塁とし,春日大社着到殿を参考にして,北及び東西の一部だけを復元しています。建物の規模は、5間(8.7m)✕3間(6.9m)で出入口については南側に扉があったと思われます。土間造りになっていますが、床には台などを置いて使用されていたものと思われます。発掘調査によると柱材はヒノキで南側一列(6本)は径23cm、他(14本)は径27cmで、復元にあたっては、これと同じものにし、屋根材には杉を使用しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」復元された建物。復元とはいっても、屋根と柱以外は、壁が北側だけ復元されているものである。南側には、さらに壁と扉があったものと考えられていると。『志太郡衙跡』を一番奥から。遺跡の隣には、『志太郡衙資料館👈リンク』もあり、発掘の様子や出土品を見学することができるとのことであったが、この日は時間の関係上訪ねなかった。
2019.06.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『史跡田中城下屋敷』の見学を続ける。下屋敷内にあったとされる『茶室』。明治38年頃千歳(ちとせ)の村松家にあったものを、上伝馬の奥野氏が譲り受け屋敷内に移築したとされます。元は田中城家老の茶室であったとされ、数寄屋建築で西側に4畳半の茶室、東側には給仕口の付いた6畳の待合がつながっています。江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山・泉水・茶屋などを設けて四季の景色を楽しんだと。そして、『田中城本丸櫓』の内部を見学。『田中城本丸櫓1階展示室』。入り口直ぐ左には『まぼろしに田中城 天守閣』(左)と『田中城櫓模型』(右)実際には田中城には天守閣は存在しないが、西益津小学校の校庭にあった模型を参考にして作ったと。『田中城櫓模型』。模型は、アイスキャンデーの棒約7000本を使用し、石垣は松笠(松ぼっくり)の鱗片、3000枚で作成したと。そしてこの松笠は、地元西益津中学校とニの堀の間の松の木から落下したものであると。田中城は、平野に作られた平城。本丸を中心に4重の堀が同心円状に配置された全国でも珍しい構造の城。『田中城清水御殿(二の丸御殿)』「清水御殿は、現在の西益津中学校の校舎付近にありました。田中藩の政務をつかさどる中心的な建物で、建てられた場所は三ノ丸にあたりますが、二ノ丸の一部とみなされていました。1632年に幕府に出された絵図には、すでに御殿らしい建物が描かれています。その後、火災にあったり、地震で倒壊したこともありました。1860年に再建された御殿は6棟からなり、建坪は約535坪(約1850m2)の立派な建物となっています。廃城後は、田中高等小学校や藤枝農学部の校舎に利用されましたが、昭和2年に消失しました。」『田中城遺構と現在周辺地図』。今年の干支『亥(イノシシ)』の彫り物。2階は田中城の資料の展示がメイン。田中奉行だった高橋泥舟の書が並んでいた。『田中藩の領地と田中藩士』。『田中城主の変遷』。田中城の変遷では、松平氏→水野氏→松平氏→北条氏→西尾氏→酒井氏→土屋氏→太田氏→内藤氏→土岐氏→本多氏と目まぐるしく変わった事が解った。『信玄・信長・秀吉・家康も宿泊した田中城』。東海道の要衝地という事もあり、戦略上重要な拠点として今川氏、武田氏から注目された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家光なども宿泊しており、御殿は格式が高いとされる檜皮葺の屋根であったと。『田中城本丸櫓と高橋泥舟』。1869年 静岡藩田中勤番組頭、田中奉行として高橋泥舟が入った。徳川慶喜の身辺警固を勤め「幕末三舟」の一人。『幕府の要職に出世した田中藩主』。関ヶ原の戦い以前に徳川氏に従った1万石以上の大名を譜代大名と呼ぶ。幕府の要職者は譜代大名が多く、田中藩主も譜代大名が多く、藩主になった後に出世していくケースが多かったのだと。『田中城本丸櫓』二階から入り口の冠木門を見下ろす。『田中城の構造』。田中城は4つの曲輪(区画)と4つの堀が同心円状に配置されており、その形 状から別名「亀城」「亀甲城」と呼ばれていました。城の始まりは一色信茂の居館 であるといわれており、本丸・二の丸の方形の部分がこのことに由来すると考え られています。三の丸は四隅が突出しており、この形状が亀に似ているとも言わ れています。 武田信玄が攻略した際には既に三の丸まで存在しており、武田氏による改修 で6箇所の馬出しの曲輪が築かれたとみられます。そして、田中藩初代藩主であ る酒井忠利が、三の丸の外側に円形の堀と土塁を設けました。その内外に侍屋敷 を造成し、近世田中城の基本的な形が整いました。 田中城には江戸後期には天守閣は無く、本丸隅の石垣上2箇所に二階建ての 櫓が建てられていました。また、堀はかきあげのままで、このかきあげた土で作っ た土塁も高く積み上げただけの素朴な築城でした。その一方で、六間川と四の堀 を繋いでおり、川をせき止めることで全ての堀に水が進み文字通り浮城化する 仕組みとなっており、周囲の湿田とあわせ、堅固な城でした。 田中城は、東海道の近くに立地し街道の押さえの城であるとともに、青池から 発する六間川の水運により、瀬戸川から海につながる城でもありました。そして『幕末のころの田中城復元図』。『戦国期の田中城鳥瞰図(推定復元)』。田中城の構造上の特徴は、1.平城 2.同心円形の縄張りである。そのため亀甲城又は、亀城と称された。3.馬出曲輪(三日月堀)が6ケ所にある。4.六間川の水を水運や城濠の増水用に利用した。5.姥ヶ池の浄水を引き入れ城内に配管設備を施した。ことなどがあげられる。『志太地域の領主と農村』。江戸時代、幕府は大名の力を抑える為に、所領を分散させる飛び地政策を取りました。この地域も田中藩だけではなく、旗本領、掛川藩領、沼津藩領など複雑に入り組んでいました。『江戸(嘉永)時代大名紋章及城郭図』。今の日本地図をベースに各藩ごとに区切りしている。どの藩が、何万石か、城主は誰なのか見ているだけで飽きないのであった。二階窓から風景。手前に見えているのが、長楽寺村郷蔵。入り口に戻り再び冠木門、本丸櫓を。敷地内に残されていた土塁と復元された泉水。庭園の緑を楽しみながら駐車場に向かう。『史跡 田中城下屋敷』の駐車場側入り口。『田中城三日月掘(馬出曲輪)』。芝生の向こう側が三日月状にへこんでいて、水が貯まり堀のごとくなっているのがわかったのであった。馬出曲輪は写真のような三日月形の堀の背後(写真のコンクリ壁の部分)に土塁を盛った曲輪のこと。「三日月堀と言うのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田 式)築城法の一つである。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、 江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が 備えつけられている。 馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居 (土塁)を設けて、敵が場内へ侵入するのを防ぐための備えである。 したがって、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と 土塁、その奥の広場、耕形を持った城門の三つが一組になって城の 守りを固めていたのである。 田中城には大手一之門・ニ之門、平島一之門、新宿一之門・ニ之門、清水御門の外の六箇所に馬出曲輪が備えつけられ ていた。しかし、現在眼にすることのできるのは新宿ニ之門の外につ くられた三日月堀だけで、それも実際の大きさの約三分の一位 である。 下の絵図でわかるように、ニ之堀に突き出た外耕形を持つ新 宿ニ之門、ニ之堀と橋、広場、土居と三日月堀でニ之丸への 敵の侵入を守っていたのである。三日月堀の大きさは長さ四五.四五メートル、幅〇.〇〇メートル、深さー.八ニメートルで あった。背後の土居は長さ三五.四五メートル、高さ三.四ニメー トルもあった。背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集まり、三日月堀によって二分されて場内に侵入しようとする敵を 待ち伏せしていたものと思われる。」 そして車に戻り、次に向かったのが藤枝市南駿河台1丁目にある『志太郡衙跡』。 その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次興国寺城跡を後にし、再び国道1号線を進む。次に向かったのは藤枝市に残る駿河『田中城跡』。前方には薩埵峠の姿が。そして興津川を渡る。国道1号線 新宇津之谷隧道に入る。『田中城』位置図。JR東海道本線、西焼津駅下車、バス7分「西益津中学校前」降車、徒歩すぐで田中城本丸跡。Google map より。県道30号線から県道224号線に入る場所にあった『田中城跡』石碑が。田中城は天文6年(1537年)に駿河今川氏によって築かれた。永禄13年(1570年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された。天正10年(1582年)、徳川勢により攻められ開城。天正18年(1590年)の徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となった。慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。酒井忠利は慶長14年(1609年)に川越に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された。なお、元和2年(1616年)1月に徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。寛永10年(1633年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられた後、享保15年(1730年)、本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠った。明治元年(1868年)、最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封される。駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かる。のち廃城となった。県道224号線を進むと、大手二之門跡と大手二之堀跡が右手に。木橋の太鼓橋とその先の掘。田中城 ニ之掘。ここには『大手ニ之門』も。『藤枝市指定史跡 田中城 ニ之掘』「戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。二之掘は、本丸から二重目の掘りで、幅12.7~21.8m、深さ2.1~2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.3m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。」本丸を中心に、直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を示している。本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。また、不浄門が旭傳院山門として、長楽寺に村郷蔵が、それぞれ移築され現存する。『田中城 鳥瞰図』。上図と向きが反対。堀は全部で4重ほどあり、すべて水堀である。これらの堀の水は、下屋敷との間を流れている川の水を利用していたのであろう。堀の幅は10~20mほどであり、郭内側には土塁が盛られていたようである。これは3の丸周辺に何カ所か確認できる場所があるが、高さ4m、累上の幅が3,4mほどと、けっこう大規模なものであったと。 【http://yogoazusa.my.coocan.jp/marikotanakakoyama.htm】より西益津小学校・校門前に「田中城本丸跡」の木柱が立っていた。今は、藤枝市立西益津小学校の敷地となっている本丸跡。ここを中心として同心円状に三重の堀を巡らした平城。『西益津小学校の生徒通用門』。『西益津小学校の沿革』。西益津小学校は、1872年に田中城本丸跡に創立された歴史と伝統のある小学校。地域の高い教育力に支えられ、音楽の世界では『月の砂漠』を作詞した加藤まさを、サッカーの世界では名波浩など、多くの著名な人を育てて来たと。 「学ぶ喜びと自信をもって進む子」を学校教育目標とし、「自ら進んでよりよい判断・実行」を重点目標にして実践。歴史と伝統を支えるために、毎年亀城祭を催し、大名行列などを行っている と。本丸跡に建つ西益津小学校内にある田中城の模型。わりとよくできている。ミニチュア系の模擬天守があるのも楽しい。しかし、実際にはこのような天守は存在してはいなかったと。車に乗り田中城の周囲を巡る。『田中城 三日月掘(馬出曲輪)』。「三日月堀と言うのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田 式)築城法の一つである。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、 江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が 備えつけられている。 馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居 (土塁)を設けて、敵が場内へ侵入するのを防ぐための備えである。 したがって、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と 土塁、その奥の広場、耕形を持った城門の三つが一組になって城の 守りを固めていたのである。 田中城には大手一之門・ニ之門、半島一之門、新宿「え 門・ニ之門、清水御門の外の六箇所に馬出曲輪が備えつけられ ていた。しかし、現在眼にすることのできるのは新宿ニ之門の外につ くられた三日月堀だけで、それも実際の大きさの約三分の一位 である。 下の絵図でわかるように、ニ之堀に突き出た外耕形を持つ新 宿ニ之門、ニ之堀と橋、広場、土居と三日月堀でニ之丸への 敵の侵入を守っていたのである。三日月堀の大きさは長さ四五・ 四五メートル、幅-0.00メートル、深さーヘニメートルで あった。背後の土居は長さ三五・四五メートル、高さ三・四ニメー トルもあった。背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集ま り、三日月堀によって二分されて場内に侵入しようとする敵を 待ち伏せしていたものと思われる。 」。この三之堀付近は三之丸西にある御館(おたて)のちょうど西側にあたり、この堀に面した四之曲輪には家老らの屋敷が立ち並んでいたと云う。四之曲輪は、江戸時代の初めに駿河田中藩・初代藩主である酒井忠利が実施した改修で追加され、最終的に田中城は四重の堀で囲まれる縄張となった。『藤枝市指定史跡 田中城 三之掘』。戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。三之掘は、本丸から三重目の掘りで、幅18~27m、深さ1.7~4.2m、土塁の高さは、水面からおよそ5mです。堀の北側からは今でもきれこの掘りに面した四之曲輪には藩士たちの屋敷が並んでいました。土塁の跡から三の丸の堀を見る。次ぐには田中城の南東隅にあっ下屋敷跡へ。『田中城下屋敷』パンフレットの表。『田中城下屋敷』パンフレットの裏。ここは一色氏やその後裔の屋敷跡と伝われ、江戸後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、茶屋や庭園(築山、泉水)、稲荷社が設けられていたと。『田中城下屋敷』の幟。白塀の奥には『田中城本丸櫓』が。『史跡・田中城下屋敷案内図』。静岡県藤枝市では平成8(1996)年に、この下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりの本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、そして長楽寺村郷蔵などを移築・復元したとのこと。但し、時代が経過して宅地化が進むとともに南側にあった庭園の一部(築山や泉水)などが埋め立てられて畑となった。なお入場料は無料だった。入り口には冠木門が。当時の図面(1/20縮尺)をもとに復元したものであると。門を抜けると右手に受付が。『入場ご案内』。開場時間は9~17時で入場無料。様々な案内が。『田中城復元図面』こちらは田中城復元図の上に現在の図面を重畳させたもの(赤字は廃城直前まであった建築物、青色は堀川、茶色は土塁をそれぞれ示す)。現在、本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、本丸堀や二之堀は埋め立てられ、県道224号線が城を縦断しているのであった。櫓は田中城の本丸にあったもので、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていた。往時と同様に復元された石垣の上に移築されていた本丸櫓は木造で二層二階、屋根は銅板葺きであるから江戸後期のものと推測されている。『田中藩 牓示石(ほうじせき)蹟』と『顕彰碑』。『従是(これより)西田中領』と書かれていた。この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っている。内部から入り口方面を見る。『静岡県都市景観賞』銘板。『田中城本丸櫓』藤枝市指定有形文化財(平成5年4月指定)○構造 木造・2階建て銅板葺○規模 桁行3間・梁間2間(京間・46.57m2)この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれてます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物のあったことが記録にみえ、これに該当するもののようです。明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村上氏はその配下にあり、しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住宅としました。また、泥舟はこの建物を「光風霽月楼」と名付け扁額を掲げています。屋根はもと柿葺であったようです。田中城より移築した建築物の中で、昔から最も著名な建物です。」『長楽寺村郷蔵』。「郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ことに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切りとり移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであったとみられます。長楽寺村郷蔵は、市内に現存する唯一の郷蔵であり、貴重な建築物です。また、建替した時の年月と村役人(庄屋)の名が柱に書き付けられています。 「天保十四卯歳九月建替 長楽寺村 庄屋 恵助 (1843年) 同断 八郎右衛門」 『中間部屋・厩(うまや)』。『間取り図』。「古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてぎましたが、調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだと分かりました。仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が刻まれていました。また、解体にあたって、「安政六年」(1859年)と書かれた板材が見出されており、建築年代もその頃と推定されます。」『仲間部屋(ちゅうげんべや)』。『納屋』。これは仲間部屋(ちゅうげん・べや)の横にあった『厩(うまや)』。これは木造平屋瓦葺きの長屋に付属していたもので、この長屋の鬼瓦には享保15(1730)年から田中城主を務めた本多家の家紋である「立葵(たちあおい)紋」が刻まれていたと云う。 ・・・つづく・・・
2019.06.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日、5月22日(水)は『旧東海道を歩く 見付~浜松~新居宿』に向けて旅友のSさんの愛車で向かう。今まではJR東海道線で早朝出発し、日帰りで歩いてきたが既に静岡県の天竜川手前まで辿り着いているので、距離的、時間的に日帰りでは限界がありこの日は浜松駅近くのホテルまで、費用削減、訪ねて居ない、訪ね忘れた場所を巡る為に一般道で移動し、浜松駅近くの格安ホテルに宿泊し、早朝にJR東海道線で見付(磐田駅)まで戻り、見付~浜松を歩く事としたのであった。茅ヶ崎のSさん宅を7:30に出発し国道1号線を西に向けて進む。ここのみ有料の西湘バイパスを利用。この日は富士山の姿は見えなかった。箱根新道を登る。箱根旧街道の下・石畳橋を潜る。山中城の横を走る。三島スカイウォークが右手に。そしてこの日は浜松までの移動日であるため、今までの旧東海道歩きでは訪ねなかった静岡県にある『続100名城』跡を訪ねながら進むことことしたのであった。この日の最初に向かったのが『駿州 興国寺城跡』。沼津市内の国道1号線を進む。 沼津市西椎路交差点を右折し、県道22号線(三島富士線)に向かう。突き当りを左折し、県道22号線を西に進む。根古屋交差点の手前を右折し、興国寺城駐車場に向かう。入り口には赤い文字で『興国寺城』と書かれた石碑が。駐車城前には「続日本100名城 駿州興国寺城」と書かれた幟が立っていた。興国寺城跡案内図。興国寺城(こうこくじじょう)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 連郭式平山城で、根小屋城、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城とも呼ばれている。興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。詳細図。興国寺城は、北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる平場が直線に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪(城の中に造られる平場)が配されている。静岡県東部を代表する山城で、約113,000平方メートルの面積をもつ。 本丸の背後には、天守台と伝えられる高台が。 【http://rekishi.tokyo/rupo_siduoka/numadu/20131123_2.html】より車を降り駐車場前の大手道を進む。ここは、東海道に続く竹田道と根本街道が交差する交通の要所でもあり、もともとは興国寺という寺院があったようだが、これを鳥谷に移転させ、その跡に築城したのだと。興国寺城の主郭(本丸)は、一番高い所ではなく、穂見神社がある標高20mほどの場所。『興国寺城跡』説明板。「興国寺城跡は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点にあたり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。城郭の遺構をよく残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二ノ丸、三ノ丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天守台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢代と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。二ノ丸は土塁がほとんど崩されており、三ノ丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。三ノ丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんどうめられているが、ところどころに小さな池や沼として残され、その思かげをしのぶことができる。」本丸、二ノ丸、三ノ丸の周囲は水堀が巡らされていた。戦国期には東側の低地は『浮島沼(蓮池)』だったようで、その水を南や西まで引き込んでいたと。『国指定史跡 興国寺城跡(こうこくじじょうあと)』「興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。早雲は備中荏原荘(現岡山県井原市)の『北越城』に生まれはじめ伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)と称し、駿河守護今川義忠(いまがわよしただ)の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方(ほりごえくぼう)の内紛に乗じて足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城(にらやまじょう)に移り、戦国大名へと成長しました。その後、興国寺城は、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪(あなやまばいせつ)の持城となりました。天正十年(一五八二)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清(そねしもつけのかみまさきよ)が開城し、徳川方の城となり家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏(なかむらかずうじ)の家臣河毛重次(かわげしげつぐ)が城主となりました。関ヶ原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうびょうえやすかげ)が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。歴代の城主および城代は【今川氏時代】伊勢宗瑞(北条早雲)、秋山三郎左衛門尉【北条氏時代】垪和氏続(永禄12年正月?~元亀3年正月)【武田氏時代】保坂掃部、向井正重、曽根昌世【徳川氏時代】牧野康成、松平清宗、川毛重次、天野康景」『興国寺城 想像復元図』 【https://75330369.at.webry.info/201711/article_3.html】より『初代城主 北条早雲碑』。興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府将軍の申次集を務めたが、駿河の守護今川氏とは、姉北川殿が今川義忠の正室というつながりがあった。文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の家督争いで甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる と。『早雲の足跡』。北条早雲、生誕の地と言われる岡山・高越城で伊勢盛定の次男として生まれ、青年になり京に出仕するまでこの地で過ごした。その後、駿河守護・今川家の家督争いを鎮めた功績により、東駿河の領地と共に与えられた興国寺城。 その後、五代百年におよぶ小田原北条氏の基礎を作った早雲の、戦国大名としての第一歩を踏み出した城がこの興国寺城であり、早雲旗揚げの城と言われている。海上に突き出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地と言われた長浜城址も沼津市にある。そして堀越御所を攻め落とした早雲が築き生涯の居城としたのが韮山城。そして小田原城へ。 【http://hojosoun.com/wp-content/uploads/2018/04/sokuseki.jpg】より『初代城主 北条早雲碑』の向かって左には徳川時代の『興国寺城主 天野康景碑』が。『天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうびょうえやすかげ)』「天野三郎兵衛康景は元の名を景能(かげよし)といい、天文(てんぶん)六年(一五三七)三河国(みかわのくに)に生まれ、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えました。岡崎三奉行(おかざきさんぶぎょう)の一人に任ぜられ、「彼是偏無(どちへんな)しの三郎兵衛(さぶろべい)」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」の字を拝領(はいりょう)し康景と称し、慶長(けいちょう)六年(一六〇一)関ヶ原(せきがはら)の合戦後一万石を与えられ、興国寺城主となりました。 伝えられるところでは、慶長十二年(一六〇七)、家来の足軽(あしがる)が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領(てんりょう)の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次(だいかんいでしまのかみまさつぐ)の争いになりました。家康の側近本田上野介正純(そっきんほんだこうずけのすけまさずみ)は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄(す)て、行方(ゆくえ)をくらましてしまいました。このため康景は改易(かいえき)になり、興国寺城は廃城となりました。 その後、康景は慶長十八年(一六一三)、相模国沼田村(さがみのくにぬまたむら)(神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺(さいねんじ)にあります。」『穂見神社』。穂見神社『扁額』。『根古屋高尾山穂見神社の由来』。興国寺城跡本丸北側の天守台下には穂見神社があり札には「安政四歳巳正月奉勧請高尾大明神」と書かれている。伝聞によると、安政4年巳正月に施主15人が山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとされている。安政の大地震が発生し、大津波のため塩害により凶作が続き五穀豊穣を願い、農業神である「高尾山穂見神社」を建立したとされる。『根古屋の力石』。重さ110kgの丸石で明治~昭和初期頃まで村人達が肩まで担げるか力較べに興じたのだと。『本丸』跡は発掘調査後に埋め戻され広場になっていた。『伝天守台』に向けて細い坂道を登る。正面に『伝天守台』の野面積みの石垣が。一面草に覆われ城跡とは判りにくかったが、この石垣を見て城跡そして天守台跡と納得したのであった。規模は天場の長さ約24メートル、下端の長さ約13メートル、高さ4メートル(推定)と。『天守台』跡。2棟の礎石建物跡が残されていたが、発掘調査では瓦等が発見されなかったことから、一般的な城のイメージにある「天守閣」ではなかったと考えられるが、ここから城の南を通る根方街道やさらに南の東海道を監視していたと思われると。『伝天守台』の後ろには深い空堀が。空堀の規模:幅約13メートル、本丸側の深さ7メートル、二の丸側の深さ3メートル と。『伝天守台』からは原の市街と駿河湾の景色を楽しむことができた。下の屋根は穂見神社。自然の姿を上手く利用して空堀、土塁を作ったのであろう。空堀の下に降りて『伝天守台』を下から見上げたかったが・・・。この空堀の北には東海道新幹線が走っていた。『伝天守台』を下る。この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれており、平成29年4月に日本城郭協会が選ぶ「続日本百名城」に選定されている。スタンプを頂いて来ました。スタンプの右側には『初代城主 北条早雲碑』が。
2019.06.02
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昼食後に向かったのは、『信玄館』から徒歩にて5分強の場所にあった『放光寺』。正面に現れたのが『総門』。縁結びと花の寺として知られ、境内には梅、椿、花桃、山吹、ぼたん、れんぎょう、花菖蒲、あじさい、萩、金もくせい等四季折々の花が楽しめる寺であると。本尊の大日如来坐像、不動明王立像、天弓愛染明王坐像の三尊と、仁王門に安置されている金剛力士像は国の重要文化財。『放光寺略縁起』放光寺は平安時代の末期元暦元年(1184年)甲斐源氏の新羅三郎義光の孫、安田遠江守義定の創立。開山は賀賢上人である。始めは、大菩薩峠の山麓一ノ瀬高橋に建立されたが、義貞がこの地に移し安田一門の菩提寺とした。安田一門の悲劇を産んで以来武田氏の護持をうけ、とくに武田信玄は祈願所に定め、寺領を寄進した。天正十年(1581年)織田勢の陛下をこうむって一山ことごとく無に帰したが、徳川氏の保護をうけ、寛文年間義定の直子孫保田若狭守雪宗が中期開基となり現在の基礎をなした。寺は往古から塔頭十二坊、末派多数を有し真言宗の甲斐国談林七ヶ所に数えられ、また修験場の根本道場であった。延宝年間山城国醍醐寺報恩院末になり、明治二十七年に現在の真言宗智山派総本山智積院末となる。当山には義定が京洛より将来した平安時代の仏像、大日如来像、天弓愛染明王像、不動明王立像、鎌倉時代の金剛力士像など什宝を有する。」ちょっと変わった形そして梵字文字。この門についてご存知の方教えてください。そして更に参道を進む。紅白の花桃の木、一本の木だったのであろうか?そして『仁王門』に。三間一戸八脚門,入母屋造,銅板葺。『高橋山』と書かれた扁額。仁王門に安置されていた『木造金剛力士立像』。「鎌倉時代(12世紀)の金剛力士像。木造・檜材の寄木造。彩色。像高は阿形像が263.0センチメートル・吽形像は264.0センチメートル。放光寺が創建された元暦元年(1184年)頃の造立と考えられている。本像は大仏師・成朝の作と考えられている。頭体幹部は中心線に沿って四材を矧ぐ寄木造とし、内刳りを施す。阿形・吽形両像とも上半身、腕、脚などの筋肉の表現を強調し、腰を外側に引き内側の足を踏み出す典型的な仁王像であるが、鬢髪を束ねて髷を結い、両耳前にもみあげが表現されているところが特色であり、奈良県の東大寺戒壇厨子扉絵の仁王像吽形に類似することが指摘されていると。」『阿形像』。正面からズームで。『吽形像』。国重要文化財。正面からズームで。更に本堂に向かって進む。手入れの行き届いた境内には花がいたるところに。『高橋山放光寺の沿革』。仁王門から本堂へ、右側に鐘楼が。『中門』。太鼓橋の先には七福神『弁天様』が。放光寺『本堂』。17世紀末の建造,入母屋造,銅板葺(元は茅葺),甲州市指定文化財.本尊木造大日如来坐像,木造不動明王立像,木造愛染明王坐像の三像が国重要文化財に指定されており,宝物殿に安置されている。本堂には観音様が立っていました。本堂扁額の文字は『放光寺』??ズームで。『宝物殿』。『愛染堂』。中門(阿字門)を本堂側から。『庫裡』。『寺務所』。寺務所内部。ご本尊の『御朱印』を頂きました。右側にも別の中門?が。『大黒天堂』。そして放光寺の周囲には花桃が咲き誇っていた。花桃と山吹。放光寺横の水路には清き流れが。放光寺の駐車場を訪ねる。『花の寺 放光寺 御案内』。事前予約制の「名物の精進料理」も食べれる寺であると。駐車場の奥には紅白の花桃、レンギョウが見事に咲いていた。花桃、そして奥に鐘楼が。花のカオスの世界。菜の花も主張して。いつもでも見つめていたい空間と時間。再び仁王門を。何故か人の姿は少なかった。集合時間が迫り急ぎ足で『信玄館』駐車場に向かう。桜の花は既に終わっていたが、総門を境内側から。『信玄のみち』を急ぐ。この先、左手には武田信玄の菩提寺である『恵林寺』👈リンク は以前そして前回に訪ねたこと、更に時間がなかったため、今回は諦めたのであった。左手の擁壁には武田信玄や騎馬の武将の姿が長く刻まれていた。そしてこの日の最後に訪ねたのが『ハーブ庭園 旅日記 勝沼庭園』時間は13:40。ここも前回に続き2回目。出発予定は、14:30とのことで50分間の滞在。ユーモアたっぷりのお兄さんが、絶妙なトークで案内してくれたのも前回同様。来園記念の撮影場所。様々な色のビオラ。そしてこの日の見学のメインはチューリップ畑。マスコットキャラの『ミンティー』が出迎えてくれた。見事な色彩。こちらは新品種であると。見事に一斉に咲き誇って。大理石の彫刻も。そして、土産物売り場の前でお兄さんが自社製品を熱く語ってくれたのであった。そして実物の商品を使ってのデモンストレーションに聞き入るツアー仲間。ブルーベリージュースを、毎朝空腹時に50㎖をゆっくり飲むと飛蚊症に良いと。1,620円を1,200円にするとのことで、妻の土産用に1本購入。そして帰路に。往路と同じく中央道、圏央道を利用して茅ヶ崎へ。途中、左手に車窓から相模川の対岸の堤防に咲く芝桜を発見。濃いピンクの帯が。この後茅ヶ崎中央ICから出発地の茅ヶ崎市民文化会館前に、16:00前に到着し解散。そして茅ヶ崎駅前の旅友Sさんの行きつけの居酒屋へ立ち寄る。Sさんが、自らの菜園に行き、天麩羅用にタラの芽、アスパラ、ヨモギ他を収穫してきてくれた。そして店のママが天麩羅にしてくれて大いに楽しんだのであった。キャラブキの天麩羅も美味で酒が進んだのであった。そして私は早めに店を後にし、帰路へ。茅ヶ崎駅ビルの成城石井に立ち寄ってチーズを購入していると突然横から私の名前を『◯◯◯ちゃん!!』と呼ぶ女性が。私の中学時代の同級生で、北茅ケ崎駅から850mの円蔵で焼肉『あっこちゃんち』を営む友人であったのだ。横にあるカフェでしばしの会話。昨年7月に急逝されたご主人の話を涙ながらに話してくれたのであった。そして近い内に、同級生を誘って焼肉を食べに行くことを約束して別れたのであった。 その2 に戻る。 ・・・完・・・
2019.04.27
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次にはフルーツパークの側にある「甲州わさび漬センター」へ。前回2017年12月に同じこのツアーに参加したが、この時も立ち寄った店。バスが駐車場に止まると、この店の店員のオバチャンがバスに乗り込んできて店内、商品の説明が、この日も。入り口で試食用のスプーンが渡され店に入ると、眼の前が試食コーナー。各種わさび漬け等7種類が並んでいた。すべてを試食。そして好きなわさび漬けを3個選び、前回と同様に今回も購入したのであった(1,100円/セット)。他にも多種の土産品を眺めながら、そして更に試食を楽しんだのであった。滞在時間はあっという間の15分。そして甲州わさび漬センターを後にして、国道20号線を走り「ジュエリー工房」へ。添乗員の若い男性から、ここの滞在時間は1時間半だとのこと。今回の格安ツアーの大スポンサーなのであろう、何しろ私には時間が長いのであったがグッと我慢しなければなるまいと。株式会社ラッキー商会に到着。ここも前回も訪れた場所。山梨県甲府は、ジュエリーの地場産業で地あるとのこと。㈱ラッキー商会は1937年創業の老舗で、水晶の研磨技術から発展した業界でも屈指の歴史と実績を有しているメーカーであると。工場内に入る。壁にはジュエリーの型が。一階ホールに約40,000点のリング型を展示中と女性説明員から。以前は手作りであったが、現在は3Dプリンターで製作していると。階段の踏み面(ふみづら)の下のダイヤも輝く。2階に上がり小ホールで10分程の説明を聞く。もちろん話の内容は前回と同じ。そして工場の内部見学。しかし工場と言っても、事務所の如き光景が続いていたのであった。通路には女優を使った宣伝が続いていた。似合う人には似合うのであった。『神明シリカ』のネックレスをかけると、冷え性・肩こり等がなくなる等々の効果があると。神明シリカは北海道・函館近くの山から掘り出しているのだと。シリカは発熱するとのことで、氷を解かすと実演。そしてネックレスをかけてくれ、見学の間着用させてくれ、血行が良くなるとのことであった。旅友も首にかけてもらっていたが効果は??。価格は確か約13万円であったが、購入したツアー仲間はいたのであろうか?工場内部には人の数は極めて少なかったが。様々なパネルが通路等に掲げられてあった。私は、奥の部屋の椅子に座り時間が過ぎるのをひたすら待つ。そのうち、ツアー仲間も次々に部屋の椅子に座り休憩を。そして工場の外にジュエリーより美しいものを発見したのであった。バラ色の宝石『ロードクロサイト』より美しく輝いていたのであった。11:45までの『忍耐』の見学予定であったが、15分早く11:30に出発したのであった。ツアー仲間も思いは皆同じであることが容易に想像できたのであった。そして次に訪れたのが山梨県笛吹市石和町市部にあった『モンデ酒造㈱』葡萄とワインの郷・山梨で愛されるモンデ酒造はさまざまなワインやリキュール清涼飲料水等を造っている会社。バスを降りて工場見学へ。歓迎の大きな文字が。はじめに、瓶詰め、ラベル貼り等のラインを見学。この場所の写真撮影は禁止されていた。美しいぶどうのステンドグラスが入口に。ワインボトルによる光の芸術も。音楽を聞かせながらワインを樽で保存・熟成中であると。アルコール飲料の分類が細かく。醸造酒、蒸留酒、混成酒が原料ごとに次々に別れて。ゆっくり勉強したい資料!!製品が樽の断面の如き棚に陳列されていた。こちらにも多くの樽が。歴史を感じさせる蒸留器そして冷却器。モンデのオリジナル製品の陳列コーナー。様々なワインが。土産物展入り口にあった社紋。モンド(MONDE:フランス読みモンド、日本読みモンデ)は、フランス語で「世界」、ラテン語で「宇宙」という意味で、世界または宇宙規模のワイン・洋酒を造る精神が社名となったものであると。そして一旦工場を出て土産売り場&試飲コーナーへ。旅友も早速試飲の開始。バスを降りる前の「昼食前ですので空腹での試飲に十分注意してください」との言葉を思い出しながらも・・・。各種試飲を大いに楽しんだのであった。顔を火照らせながらバスに乗り、昼食会場の『信玄館』に向かったのであった。中央本線の踏切を渡る。そしてアルコールも入りウトウトと。添乗員から昼食会場の『信玄館』が近づいたと。バスを降り昼食会場へ向かう。入口にあった「武田信玄像」。この後別の場所でも同じ像を見たのであった。風林火山の旗『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』。「疾きこと風のごとく 徐(しず)かなること林のごとく 侵掠すること火のごとく動かざること山のごとし」そして2階の昼食会場でツアー料金に含まれる「しゃぶしゃぶとおこわセット」を楽しむ。まずは野菜を全部鍋に入れて。山菜入りおこわは美味、お変わりしたかったが。早めに食事を終え席を立つ。食度の壁にあったのが信玄公と武田二十四将が執り行う出陣の儀式『武田信玄出陣式 三献の儀』の姿が。 その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.27
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4月17日(水)にJ:COM主催のバスツアーに旅友Sさんを誘い参加してきました。今回のバスツアーは下記を順番に巡るツアー。①河口湖の桜 ➡②わさび漬けセンター ➡③山梨FUJIフルーツパーク ➡④ファッション工房 ➡⑤信玄館 ➡⑥チューリップパーク(ハーブ庭園)J:COM会員の一人参加は招待(無料)ですが、追加参加の方は6460円/人の追加料金が必要と。今回は旅友Sさんとの2名参加でしたので、6460円を二人で均等割りしての参加。ツアー料金には、昼食代も含まれていて格安バスツアー。1週間前に『旅行参加証』が自宅に到着。今回のバスツアーは旅友Sさんお住まいの茅ヶ崎駅出発のツアーに申し込んだのです。集合場所は茅ヶ崎市民文化会館前に6:30にと。いつもの『旧東海道を歩く』で利用している沼津行きにのり茅ヶ崎駅で下車。ペデストリアンデッキを利用して茅ヶ崎市民文化会館に徒歩で向かう。地上に降りて進むと、雨水用マンホール蓋を撮影。烏帽子岩(姥島)と日の出、カモメ、舟が描かれ、「ちがさき あめ」とひらがなで書かれていた。そして前方に茅ヶ崎市民文化会館が見えて来た。既に旅友Sさんは到着済みで、受付を完了させてくれていました。今回のこのツアーはバス2台で出発すると。茅ヶ崎市民文化会館前の茅ヶ崎市中央公園の牡丹桜も満開であり河口湖の桜が楽しみなのであった。指定されたバス、座席で定刻の6:40に出発。国道1号線から新湘南バイパスの茅ヶ崎西ICから高速に。途中、大山の姿が車窓から。圏央道を相模川沿いに北上し中央道を目指す。厚木市金田から海老名にかかる横須賀水道橋が右手に見えた。順調に八王子JCTから中央道に入り大月JCTから河口湖方面へ。車窓から若い頃通った、NECプラットフォームズ 大月事業所が懐かしく見えた。途中、中央リニア線の実験線架橋が前方に。そして車窓に富士山の姿も。富士急ハイランドが左手に。そして最初の観光地の河口湖畔へ到着。時間は8:10。観光時間は8:40までで30分間と。場所は河口湖さくら回廊。『第八回 富士・河口湖さくら祭り』のポスター。期間は2019年4月6日(土)~14日(日)までと。バスを降り河口湖湖畔に向かって急いで向かう。満開の桜並木の下では、観光客(中国人)がウェディング姿で記念撮影中。手前にいるカップルも中国人の観光客。カメラマンも中国人?いろいろなポーズで想い出をと。新婦はチョット寒そう。富士山と桜の絶景を楽しむ。早朝のため、人数は少なく。残念ながら逆さ富士の姿は・・・。時間の関係上であろうか?様々な角度から。芝桜はイマイチであったが。富士山頂をズームで。今年に入ってから、何度富士山の写真を撮ったのであろうかと、ふと。松も桜の後ろから背伸びして富士山を覗き込んでいた。慌ただしい花見であったが。出店もほぼこの日の準備完了。河口湖の流れ込む西川の橋の欄干にも富士山の姿が。富士山を振り返りながら集合場所の駐車場に向かう。途中、右側に人気漫談家の『綾小路きみまろの店』が。お土産屋『るりびょうたん』西側入口。庭には『布袋尊』の鎮座する東屋が。なでしこジャパンの佐々木監督がワールドカップの必勝祈願をされた事でも有名になったと。『女子ワールドカップ ドイツ 2011 祝 金メダル』の黄金のトロフィー。高さは約50センチ、重さ約25キロ。綾小路きみまろさんが東北唯一の釣り鐘メーカー、渡辺梵鐘(山形県天童市)に製作依頼したものと。『るりびょうたん』の店の前に黄金の布袋尊が祀られていた。優しい笑顔。『河口湖 黄金の七福神巡り』がるようで、ここは『布袋様』の場所のようだ。『るりびょうたん』はなまこ壁付きの白い蔵の如し。富士河口湖町特別町民第一号であるとのこと。駐車場横の枝垂れ桜。そしてバスに戻り『山梨FUJIフルーツパーク』に向けて出発。途中、ピンクの桃の花の先には、再び中央リニア線の実験線架橋が姿を現す。山の斜面には、桃の花と菜の花のBEST MIXの絶景が拡がっていた。この付近は山の斜面のため、桃の開花も遅く今がピークか。そして『山梨FUJIフルーツパーク』に到着。時間はまだ8:10過ぎ。場所は山梨県笛吹市御坂町。2019年1月12日から山梨県笛吹市にオープンした新施設であると。一年を通して様々な季節のフルーツを楽しめると。入り口のカーペット。館内に入ると光のモニュメントが迎えてくれた。1階に受付と果物やワインなど特産品のショップがあり、2階はレストラン。近づいて。イチゴ『恋のぞみ』。隣の大型温室で収穫したイチゴと思っていたが、写真を見ると『熊本県産』と書かれたラッピングシートが。値段表の左上の『熊本』の文字は何故か?中途半端に消えていたのであったが・・・・・。館内には様々なお土産屋や試食コーナーも。エスカレータで上がった2階はレストラン。『ぶどうの種のオイル』が販売されていた。ネット情報によると「身体のバランスを整える必須脂肪酸の含有率はオリーブオイルの約6倍。 老化を防止・抑制し、美容に欠かせないビタミンEも、オリーブオイルの約2倍。 油分を制限しながら美味しく食べたい方にぴったり。 高温でもはねないので鉄板焼きや炒め物にも重宝します。 」と。後ろの説明書きにはフランス国旗が。やはりこれも地元産ではない模様。早くも『令和』のミニ提灯が紅白2種類で。商魂のたくましさに感服。『生ワイン』。“生”といえばビール!ビールといえば“生”!!…ですが、なんと世の中には『生ワイン』なんてものもあるんですね。『生ワイン』とは、基本的に、濾過をしない、加熱殺菌もしないワインのことと。一般的なワインのような行程を踏まないため、日本酒で言うと『にごり酒』のように濁っていることが特徴的であるとのこと。酵母をそのままボトル内に残し、酸化防止剤も添加していないことから、ブドウ本来の香りが楽しめる他、フレッシュな美味しさが感じられるワインであると。そして店を出て隣の温室を除きに。今回のツアー仲間のなかには、イチゴ狩りに向かった方達もいたのであった。ビニールハウス内を外からカメラで覗き込む。プランターによる水耕栽培のようであった。通路には『らくらく交配』と書かれた箱が並んでいた。この箱の中には、花粉交配用ミツバチが飼われているのです。ビニールハウスで栽培するイチゴ、メロン等の果物や野菜などはミツバチが受粉しないとしっかりとした実がならないのです。そして集合時間の9:30にバスに戻り、次の訪問場所に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.04.27
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136号線を北上し、浮子トンネルの手前の田子南の交差点を斜めに入り大田子(おおたご)海岸に向かって進む。水門・「潮騒の塔」の前の駐車場に車を駐める。車を降りると後方にあったのが「大田子海岸夕陽展望所(OTAGO Sunset View Terrace)」。2種類の案内ボードが。右手にあったのが「大田子海岸」の夕陽の案内ボード。ここ大田子海岸の夕日は絶景で、「日本の夕陽百選」にも選ばれていると。小島や奇岩のシルエットに夕日が映える様子は、日本一と呼ぶに相応しい光景。写真撮影にも最適で、普通に写しても素晴らしい絶景が撮影出来る。西伊豆町は夕日で町おこしをしており「夕陽日本一宣言」をしている程。堂ヶ島海岸の夕日も有名だが、特に3月と9月に見頃になる大田子海岸は断然おすすめであると。案内板の写真を撮影。大田子海岸には田子島という、大小二つのコブのような男島・女島があり、「メガネッチョ」と呼ばれるゴジラのような岩が手前にあるのだ。大小二つのコブの間にメガネッチョを重ねた角度で眺めた時に、丁度メガネッチョに太陽が沈むのが、春分の日と秋分の日なのだと。メガネッチョ(ゴジラ岩)の隣の丸い島が弁天島。弁財天を祀ってあり、祭礼は毎年5月最初の己の日で、本開帳は60年、中開帳は30年に一度行なわれるのだと。一番最近に行われた本開帳は昭和35年。これが春分の夕景であろうか? 【https://www.travel.co.jp/guide/article/28610/】より展望所にあるイルカのガラスのオブジェが美しかった。森あきほ氏デザインのガラス作品「共演」。手前のゴジラ岩(メガネッチョ)。メガネッチョの意味は「めがねみたい!」と言う意味らしい。左の島は尊之島、そして田子島(右:女島、左:男島)、ゴジラ岩(メガネッチョ)、弁天島。尊之島は三つこぶの島で漁業の神、事代主尊(ことしろぬしのみこと)が釣りをされたので、「尊」の字をとって尊之島と呼ばれるようになった、あるいは日本武尊が蝦夷征伐のとき、」立ち寄ったことから命名されたともいわれているのだと。田子島の女島の頂きには小さな灯台が。オブジェの穴からゴジラ岩を望む。この日の日の入時間は17:30頃で、約2時間待つことに。スマホで日没の方向を調べると、もっと北側に陣取る方が良さそうなので車で細い坂道を弁天山の裏の山道を登って駐車できる場所まで行き、更に徒歩で進む。右の島は尊の山、手前にゴジラ岩が見える場所に。ゴジラ岩とその奥に田子の岬が。西の空が漸く赤く染まり始めて来た。時間は16:42。駿河湾の水平線近くはスポットライトを浴びて。光の帯がこちらに向かって伸びて来た。帯の幅も広がり、刻々と変化していく夕景を楽しむ。太陽の下には雲が陣取っていた。カメラをズームしてみると、太陽が沈む方向には御前崎の岬があり水平線には沈まないことを知ったのであった。小さな船が田子島方面に向かっていた。そして暫くすると灯台に灯が入る。回転しているので灯は数秒ごとに。田子島の釣り人を迎えに行って戻って来た船であった。行きは2人であったが、帰りは総勢6人以上。そして雲の下に真っ赤な夕日が姿を現す。時間は17:25。海、そして空がもっともっと赤く染まって欲しいのであったが・・・。黒い雲の下だけが真っ赤に染まる。その下に御前崎の岬が。光の帯がやや赤く染まって来たが。太陽をズームで。御前崎の岬の鉄塔の姿がおぼろげに。しかし赤い光の帯は消えて。そして御前崎の岬の陸地に沈む太陽。時間は17:31。太陽の半分が沈み、日没直前に。更に沈み。そしてこの日の日没、時間は17:33。しかし周囲は真っ赤に染まらず。ゴジラ岩を再び。田子島の男島・女島。女島の灯台の灯だけは刻々と鮮やかに。3月の春分の頃にサンセット撮影で再度来たいとの旅友Sさんの言葉に合意。そしてこんな写真を撮りたいと。 【http://acchan98.com/archives/384.html】より ・・・完・・・
2019.03.26
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「みなみの桜」の散策を終え、西伊豆を目指してマーガレットラインを進む。右手には下賀茂温泉・銀の湯会館が。左手に子浦の海岸が。更に進んで別の場所から子浦を。伊浜展望広場で休憩。手前の島は「宇留井島」。岬をズームで。こちらが「波勝崎」。下の村は伊浜。今でもビニールハウス内ではマーガレット栽培が行われているのであろうか。波勝崎の猿園があるので、猿の家族の像であろうか。「夕日ヶ丘 五猿(ご縁)の像」と。「みなみの桜」もピンクに染まって。雲見海岸近くからの西伊豆海岸。遠くにダイビングスポット「三競」のある岬が見えた。その手前にあったのが牛着岩(うしつきいわ)の大牛と子牛。牛着岩というちょっと変わった名前には、次のようないわれがあるのだと。『その昔、子の年に暴風雨があり、雲見一帯は大洪水になりました。民家や家畜はみな海に押し流されましたが、一夜明けてみると、港の正面の岩に牛が流れ着いていて、無事だったということです。それ以来、雲見の人たちはこの岩を牛着岩と呼ぷようになりました。今でも人々は、大きい岩を「大牛着」小さい岩を「小牛着」と呼ぴ、鳥居を建ててしめ縄を張り、港と船の安全を祈願しています。』と。西伊豆の青い海。正面は黒崎の岬。天気は良ければ富士山の勇姿が見えたのであったが・・・。石部の町を通過。そして松崎町を通過し、仁科漁港に在る「沖あがり食堂」で今年も昼食を。いつものオジサンが迎えてくれた。1年ぶりの再会で記念撮影を。「沖あがり食堂」は魚介類の直売所と食堂が一体となっている漁協直営の店。西伊豆町は海の幸が豊富な上、日本一の夕日がみれる観光スポットが多数あるのだ。「沖あがり食堂」は、刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など『イカ』と『丼』にこだわるユニークな食堂。今年も『イカ様丼』(820円)を楽しむ。刺身イカと漬けたイカを乗せた『いか様丼』。店内の壁には『夕日』のポスターが。旅友の勧めでこの光景を見に西伊豆に車を向かたのであった。「きっとそれは一生ものの絶景です」と。食事を済ませ堂ヶ島に向かって車を走らせる。中央の島が「蛇島(じゃじま)」。島の中段の地層が蛇のウロコや流のような形をしていることから「蛇島」と名付けられたと。 車窓から蛇島を振り返る。そして堂ヶ島に到着し、車を降り散策開始。岩場を歩く。港には観光遊覧船の姿はなく強風で欠航していると。手摺のない岩場を慎重に。朝は風が強かったようだが、この時は風もほとんど無く。亀岩そして蛇島。風がないとはいえ、白波が押し寄せ渦を。思わず吸い込まれそうに。正面の島が「三四郎島」。「三四郎島」は、静岡県堂ヶ島の沖合約200メートルのところにある。1つの島ではなく、象島(伝兵衛島)・中ノ島・沖ノ瀬島・高島の総称。沖ノ瀬島と中ノ島は潮が引くとつながるので、1つに数え「中ノ島」と呼ぶことも。見る角度によっても島の数が変わって見えることが、「三四郎島」の名前の由来となったと。この三四郎島は、大変珍しい「トンボロ現象」が起こることで知られているのだ。干潮の潮位が50センチ以下の時、瀬浜海岸と一番手前の「象島」との間に、長さ250メートル・幅30メートルの「トンボロ」(陸地と島をつなぐ州)が出現。大潮の日や潮位が30センチ以下の時ならば、足を濡らさず歩いて島まで渡ることができると。渡った先の、象島と中ノ島の間にある「潮だまり」は磯遊びに絶好の場所。瀬浜海岸から見る三四郎島とトンボロを前に沈む夕陽は、心に残る素晴らしいものであると。残念ながら、この時は満潮に向かう時期で「トンボロ」の姿は・・・。トンボロ現象とは普段は海によって隔てられている陸地と島が、干潮時に干上がった海底で繋がる現象である。我が市にある「江の島」も「トンボロ現象」の発生する島として知られているのです。「トンボロ」が起きるとこの様な光景になるのだと。(ポスターより)「♪♪海が割れるのよ 道ができるのよ 島と島がつながるの こちら珍島(ちんど)から あちら芽島里(もどり)まで 海の神様 カムサハムニダ♪♪」この歌は、もちろん天童よしみの「珍島物語」そして凝灰岩の海蝕によってできた天然記念物の堂ヶ島の「天窓洞」。その天井に空いた穴から見る景観、射し込む光の美しさは、まるで天使が舞い降りてくるように幻想的であるのだと。堂ヶ島の天然記念物「天窓洞(てんそうどう)」案内板。昭和天皇・皇后陛下堂ヶ島行幸記念植樹の横に石碑。昭和天皇に同行した、入江相政侍従の歌であると。『たらちねの 母の好みし つはぶきは この海のへに 花咲にほふ』陸地側からの洞の入口。天窓洞への入口は、西口、南口、東口と三カ所あるのだと。裸像、誰の作品であったのだろうか。そして堂ヶ島 地下道の壁にあった夕日の写真。この後、この夕景を見に向かったのであったが・・・・。これでも良いかとも・・・。遊覧船の乗船券売り場にはやはり『欠航』のパネルが。 ・・・つづく・・・
2019.03.25
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1月11日(金)に都内に行った折、足を延ばして東京駅そして丸の内のイルミネーションを楽しんで来ました。2012年に赤レンガ作りの東京駅の復元工事が終了し、2013年にKITTEが開業してから丸の内周辺はますます賑わいを見せているのです。東京駅へと到着して丸の内中央口からロータリーへと出てみると、工事中だったスペースが開放されて広場になっていました。東京駅正面広場から。KITTE(キッテ)は、日本郵便が展開する商業施設である。日本郵政が初めて展開する商業施設である。「KITTE」というネーミングは、「切手」を貼ると郵便として大切な人に想いが届くのと同じように、商品やサービスに「KITTE」という付加価値を加えることで、それらに込められた想いまでもきちんと届けることができる施設でありたいという気持ちを込めて名付けられた。また「KITTE」には“来て”という意味も込められており、商業施設にとって大切な“賑わい”をつくることと、“多くの人に来ていただきたい”という想いを楽しく伝えることを目標に名付けられたのだと。丸の内の三菱ビル(左)と丸の内ビルディング(丸ビル)(右)。2014年から駅前の整備の工事が続いていて、ロータリーの整備が進んでいましたが、元々ロータリーだった部分を広場にして、歩行者が自由に往来できるスペースに。これによって、皇居前の「和田倉門」交差点からはじまる行幸通りと東京駅前の広場が繋がったことになったのです。東京駅・丸の内・南側。丸の内・中央出口。日本国旗が。再び丸ビル側を。ビルの間に月の姿を発見。駅前広場を更に進んで振り返る。東京駅越しに八重洲口側のビル群の姿も。グランドトウキョウサウスタワー(左)とパシフィックセンチュリープレイス丸の内(右)。そして丸の内エリアの冬の風物詩として街を彩る恒例のイベント「丸の内イルミネーション2018」を今年も開催中。2018/11/08~2019/02/17 17:30~23:00。 ブランドショップが並ぶ約1.2kmにおよぶ丸の内仲通りの、200本を越える街路樹が上品に輝く丸の内オリジナルカラー「シャンパンゴールド」のLED約100万球で彩られていたのです。丸の内仲通りのイルミネーションを楽しむ。丸の内仲通りの200本を越える木々がLED約100万球で彩られていると。「丸の内イルミネーション」は17年目を迎えると。どの様なやり方で木々にLEDを取り付けて行ったのであろうかと。白い虎?もイルミネーションを楽しんでいた。正面から。三沢厚彦氏のアニマルアートのようだ。1986年より東京藝術大学美術学部彫刻科で教鞭をとられていた木戸修氏の作品と。ズームで。ウエディング姿の女性が記念撮影中。桑田卓郎氏の作品 「つくしんぼう 2018」。近づいて。鹿田淳史氏の作品「コズミック・アーチ '89」更に丸の内仲通りを進む。店のショッピングウィンドウの景色も美しかった。桜の花も。加藤 泉氏の作品「無題 2018」。様々な工夫がアクセントに。ステンドグラスの如き造形を楽しむ。色も刻々と変わり。そして晴海通りを渡る。「TOKYO MIDTOWN HIBIYA」。東京ミッドタウン日比谷香取慎吾作品『フリーダムガンネン』。日比谷シャンテ。添好運 (Tim Ho Wan / ティム・ホー・ワン)。香港に本店を構える手作り点心専門店。アジアンモダンで広々とした店内で、餃子、ライスロール、蒸しご飯を提供。デザートもあると。東京ミッドタウン日比谷は、約60店舗に及ぶショップ&レストラン、オフィス、映画館、空中庭園や広場空間が集約された複合施設。芸術文化・エンターテインメントの街「東京ミッドタウン日比谷」。そして有楽町駅から五反田駅に向かったのであった。
2019.02.08
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熱海サンビーチからバスにてJR熱海駅まで戻り、バスを乗り換えてJR熱海駅の北東約1.5kmにある『伊豆山神社(いずさんじんじゃ)』に向かう。ひたすら坂を上って行き、途中MOA美術館への分岐を反対に伊豆山神社方面へ。そして伊豆山神社前バス停で下車。バス停の反対側には参道の階段がひたすら続いていた。伊豆山神社の参道はほとんどが階段であり、出発地点の伊豆山浜から本殿に到着するまで837段をのぼることになるのだと。この日の私の如く、バスでなら階段を登らずに神社前まで行くことが可能なのです。伊豆山浜の参道には、日本でも珍しい横穴式源泉「走り湯」があり、古来より伊豆山神社の神湯として信仰されて来たと。発見は約1200年前、奈良時代の養老年間(717年~724年)で、日本三大古泉の一つに数えられていると。神社前の仲道公民館横の道祖神。神社の一の鳥居と向かい合うところに三体の道祖神が祀られていた。単体・座像だが、像は瓶子(ヘイシ)・酒器を持っている珍しい道祖神。三体とも毛糸のマフラーを首に巻いて。『伊豆山神社 案内図』。そして一の鳥居から189段の階段を登って行った。『伊豆山神社』と書かれた扁額。『祖霊社』が階段右手に。「祖霊社とは、先祖の御霊(みたま)をまつる社です。 この社は、古来、関八州総鎮護と称えられた伊豆大権現(伊豆山神社)に仕えた氏人の祖霊をお祀りしています。 この祖霊社は、伊豆山の人々の守護神として景仰されており、例祭は、毎年春分の日・秋分の日の年二回斎行されています。」『足立権現社』も右手に。役小角(えんのおづの)が祀られている堂。足立権現社(あしだてさん)とも呼ばれている。役小角は、634年(舒明天皇6年)、大和国葛城上郡茅原で生まれた。飛鳥・奈良時代の呪術者で、修験道の基礎を築いた人物とされる。699年(文武天皇3年)に人々を惑わしたとして伊豆大島に流罪となるが、夜は飛行の術で伊豆山権現に飛来し修行を重ねたと伝えられ、毎晩海上を歩き富士山に登っていたとも伝えられている。2年後の701年(大宝元年)に赦されて故郷に還るが、その年に入寂した。古くから足の病に悩める者が祈願すれば神の加護が受けられると伝わると。役小角は、平安時代には「役行者」(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになり、亡くなってから千百余年後の1799年(寛政11年)には、その神徳を讃えられ「神変大菩薩」(じんべんだいぼさつ)の神号を賜った。「役行者本記」によれば、役小角は、その飛行術で江の島にも飛来したという。そして、江の島岩屋で最初に修行したのは役小角だという伝承があり、江島神社には自作という像が伝えられているのだと。左手には『結明神社』が。結明神社は既に私には無縁の縁結びの神様。そして階段を登り終えると、伊豆山神社の境内へ。手水舎には『紅白二龍(せきびゃくにりゅう)』が。「伊豆山神社」のシンボルである「紅白二龍」は、温泉の街・熱海の最強の「守護神」とされており、その頭を伊豆山の地下に、その尾を箱根の芦ノ湖に付けていると言われていると。二頭の内、赤龍は火を操り、白龍は水の力を操る事により二頭が力を合わせ熱海に有難い温泉の源泉を生み出していると伝えられているのだと。『雷電社』。御祭神は「伊豆大神荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊・ににぎのみこと)」であり、事業・経営・商売繁盛・心願成就・良縁成就・家内安全・夫婦円満・子孫繁栄など数多くのご利益がある強力なパワースポットとなっています。政治などの行動力のパワースポットとして、源頼朝などの歴代の将軍家に深く信仰されて来たと。そして『拝殿』。伊豆山神社は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格である。江戸時代以前には、伊豆山権現(いずさんごんげん)、伊豆大権現(いずだいごんげん)、走湯権現(そうとうごんげん、はしりゆごんげん)等とも呼ばれた。源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場にするなど関わりが深く、後に鎌倉幕府を開くと箱根神社(箱根権現)と共に当社を「二所権現」(にしょごんげん)とし、「二所詣」(にしょもうで)が行われた(三嶋大社も入れて「三社詣」(さんしゃもうで)とする場合もある)。また幕府の最高の崇敬を示す「関八州鎮護」として、多くの社領を寄進した。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有したとされるなど、この時期、当社が最盛期を迎えていたことがうかがわれる。戦国時代、小田原の北条氏の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失したと。御祭神は伊豆山神(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。見事な色彩の彫刻。見上げると龍がにらみをきかせていた。極彩色の龍が今にも動き出しそう。横に廻って『本殿』を。『伊豆山郷土資料館』。建立年代が定かではない「伊豆山神社」は、社伝の記録だと孝昭天皇の時代の紀元前4世紀から5世紀頃の物と見られており、かつては「伊豆大権現(いずだいごんげん)」「伊豆御宮(いずおんみや)」等と呼ばれていた。「伊豆山郷土資料館」には、「伊豆山神社」や伊豆山地区についての興味深い資料が展示してあり詳しく知る事が出来るのだと。『白山神社』入口。「伊豆山神社」の本殿を右側に登ると「白山神社」の遥拝殿があるので更に上に登ると「白山神社」に着くのだと。「白山神社」の御祭神は「菊理媛命」で病気平癒、厄難消除のご利益があるパワースポットとなっていると。伊豆山記や走湯山記によると、夏の猛暑の時期に疫病が流行った為に「白山神社」の神様に祈願すると夏なのに雪が降ったのだと。この日は時間が無かったため、白山神社はここまでであった。そして拝殿の反対側にあったのが、『頼朝・政子腰掛け石』。「伊豆山神社」は鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝と北条政子が崇敬した神社であり、周りに反対されても密かに恋を成就させた場所であり最後に結ばれた事でも有名。「伊豆山神社」にあるこの「頼朝・政子腰掛け石」には源頼朝と北条政子が腰掛けて美しい相模灘を眺めながら愛を語ったと伝えられ、強力な縁結びのパワースポットとなっているのだと。私もつかの間に腰かけて・・・・。そしてその奥に駐車場入り口にもなっている朱の鳥居が。『奉納 小泉今日子』の文字が。ネットで調べてみると、お年寄りや足が不自由な方は、長い石段を登るのは難しいので車で登る。車道から境内に入るのですが、そこには鳥居がなかったと。参拝者も結界を通らずに裏口から入っているような後ろめたさがあったのだと。神社としても鳥居を設置したかったのですが、当時は不景気の中、簡単に寄付は集まらなかった。そこで伊豆山の神職さんと交流のあった小泉今日子さんが、快く寄付をしたのだと。平成22年に小泉今日子が仕事がないときに、伊豆山神社に鳥居を奉納したら、途端に運気アップしてあまちゃんの仕事他次々と仕事が増えたのだと。そしてそれ以来人気のスポットになっていると。『龍神湯社』。駐車場奥、小泉今日子の奉納の鳥居向かって右にひっそりとあった「龍神湯社」。まだとても真新しく、看板など出ていなかった。そして境内からの『初島』。『大島』も。そして伊豆半島方面に大室山の姿も。社務所。御朱印を頂きました。そして階段を下り帰路に。帰路はバスでなく徒歩にて熱海駅まで向かう。途中左手にあったのが『逢初橋(旧)(あいぞめばし)』。その昔、伊豆半島で船が難破し、姫が漂着しました。姫が焚き火をして対岸の初島に合図を送ったところ、伊豆山の一男神がこれに応じました。ふたりが出逢った場所が逢初橋だと言われていると。また、源頼朝と北条政子が出逢った場所との言い伝えも。そして『逢初橋』の近くにあったのが無料の足湯。三叉路の右正面角に境内に入る入口があり、その下、国道に沿うように駐車場に入る入口が。足湯の向かい側に源泉があり、以前はここに共同浴場があったのだが、老朽化で取り壊す際に、『般若院』のご厚意で足湯ができたのだと。5人ほどが座れるベンチがあり、源泉かけ流しで、無料の足拭きタオルまで置いてあった。毎朝、お寺の方(?)が掃除されているそうで、きれいであった。正面に熱海の街並みや初島が見えて絶景。『般若院』山門。走湯山(はしりゆさん)般若院(はんにゃいん)。高野山真言宗の寺で御本尊は阿弥陀如来。伊豆山神社の別当寺であった走湯山東明寺が前身であると。 徳川家の厚い崇敬を受け、寺号を改めた際も徳川家康によって命名されたと云われていると。大師堂には、弘法大師自ら刻んだとされる等身大の大師像が安置されていると。 そして更に坂を登って、下って行くと左手の高台にあったのが『池田満寿夫・佐藤陽子創作の家』。創作の家では、池田満寿夫の版画や油絵、陶などの芸術作品を始め、佐藤陽子が演奏活動で使用したドレスや楽譜、そして、池田満寿夫が芥川賞を受賞した小説「エーゲ海に捧ぐ」の直筆原稿も展示していると。そして漸くJR熱海駅まで戻る。折しもこの日は旅友のSさんは、旧東海道の箱根峠、接待茶屋跡、山中城跡を車で散策中。メールをしてみると熱海駅まで車で来て私を拾ってくれると嬉しい返事。それまでは、私は駅前の無料足湯を楽しみながら到着を待ったのであった。そして暫く経つと私の足も赤く染まり逆上せ状態に。そしてSさんの車に合流し海岸沿いの真鶴通りを走り帰路に。小田原城の姿も車窓から。そして西湘バイパスを利用して茅ケ崎駅まで送っていただいたのであった。そして無事帰宅してのこの夜は今年最初の満月の日。そしてこの日の満月は「スーパームーン」と呼ばれ、1年で最も小さい満月に比べて最大で約14%も大きく、約30%ほども明るく見えたのであった。
2019.02.07
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昨日1月2日に孫家族と一緒に地元の藤沢橋付近まで応援に行った第95回東京箱根間往復大学駅伝競争の往路は、東京・読売新聞東京本社前から箱根・芦ノ湖までの全5区間、107.5キロのコースで行われ、東洋大が5時間26分31秒で2年連続の往路優勝を果たしたのであった。以下の写真は、日本テレビの録画画面を転載させていただきます。2位は1分14秒差で東海大、3位は2分44秒差で国学院大。総合5連覇の懸かる青山学院大は先頭から5分30秒差の6位と大きく出遅れたのであった。東洋大は1区の西山和弥が2年連続の区間賞を獲得する走りで勢いをつけた。2区は2位、3区も2位と好位置をキープすると、4区では8秒差でたすきを受けた3年生エースの相澤晃が区間記録を大幅に更新する快走。後続を一気に引き離し、2位の東海大以下を2分48秒引き離す大差をつけた。最後は2年連続山上りとなる5区の田中龍誠が首位をキープし、笑顔でゴールテープを切った。優勝候補の青山学院大は3区のエース・森田歩希が区間新記録の走りでトップに立つも、4区の岩見秀哉、5区の竹石尚人が振るわず、東洋大の後塵を拝す結果に。総合5連覇は厳しい状況となったのであった。往路の総合成績は以下の通り。しかしトラブルもあったのだ。スタート直後に前の選手の足と接触し転倒する大東大・新井選手。遅れながらも足を痛め引きずりながら走る大東大・新井選手。最後まで走りきり1位東洋大から8分40秒差で襷をつなげる。(10分差で繰り上げスタート)しかしこの完走が、悔いとして残らない事を、そして早期のけがの回復、ランナーとしての早期復帰を祈らずにはいられないのであった。更に、1区から2区の中継点で襷を渡す駒沢大学の2区の選手がいないのであった。襷の引継ぎが出来ずに、選手を探す片西選手。約10秒のロスタイム。3区から4区の国士舘大学の引継ぎにおいても同様に。こちらも5秒前後のロスタイムか?これらは運営の責任、部付き人&選手の責任なのであろうか?そして我々が応援した3区の終盤では青学の森田選手が激走。戸塚中継点では8位でスタートしたが首位を捉えた。そして平塚中継点で区間新で走り切り( 1時間01分26秒)、首位で引き継いだのであったが・・・・・。これまでの区間最高記録=1時間1分38秒(2012年 山梨学院大・O・コスマス)。そして今日の復路のコースです。7区と最終10区が距離、コースが往路と一部異なるのです。今日の応援場所は下図の「遊行寺交差点」から100m強の固定カメラの前付近を予定。そして6区は昨日の5区山登りの下り。高低差約860メートルを。最初の上りをこなしてから、一気に下る山下り。朝の箱根は相当冷えるので、防寒面の注意が必要。急な下りを飛ばしすぎると、残り数キロは足が止まるほど苦しくなる。ペース配分がカギであると。昨日と同じバスで遊行寺に向かう。遊行寺境内の大銀杏。一遍上人像。遊行寺の急坂の途中の最前列に陣取る。下り車線側の斜め前方に日テレの固定カメラポイントが。そしていつの間にかカメラマンの姿が。対向車線の黒の車の窓には、帝京大学の赤い幟が映り込んでいた。私の横には大きな2頭の犬が仲良く駅伝見物に。そしてこれも毎年恒例のクラシックカーが対向車線に。持ち主の方の年1度の晴れ舞台?オープンカーが続く。いつもの紫のクラシックカーが、そしてその後ろにも黒の車が続く。そして漸く第1テレビ中継車が目の前に。時間は10:49。遊行寺坂の前で首位に躍り出て差をつけながら急坂を必死に上る1位 東海大 小松陽平 選手。この後の激走でこの8区で最古の区間記録を更新した。更に95回大会の最優秀選手賞(金栗賞)を獲得したのであった。1時間3分50秒の快走で、区間新記録を22年ぶりに15秒更新。創部59年目の初優勝の原動力となったのであった。遊行寺坂手前でリードを許した2位 東洋大 鈴木宗孝 選手。ラジオ放送車。必死に追い上げる3位 青学大 飯田貴之 選手。青学大 原監督に笑顔はなかった。4位 駒沢大 伊勢翔吾 選手。第2テレビ中継車。5位 法政大 鎌田航生 選手。6位 国学院大 殿地琢朗 選手。7位 帝京大 鳥飼悠生 選手。8位 順天堂大 金原弘直 選手。9位 拓殖大 白髪大輝 選手。10位 中央学院大 大濱輝 選手。テレビ オートバイが通過。11位 明治大 角出龍哉 選手。12位 日本大 松木之衣 選手。13位以下は4人の集団。13位 東京国際大 山瀬大成 選手。14位 早稲田大 太田直希 選手。15位 中央大 矢野郁人 選手。OP 学連選抜 鈴木悠太(平成国際大4年) 選手。16位 神奈川大 安田響 選手17位 大東大 片根洋平 選手18位 日体大 森田諒太 選手。白バイ群団。19位 国士館大 藤江千紘 選手。20位 山梨学院大 山田大輔 選手。21位 城西大 大石巧 選手。医務車が何故か先行。22位 上武大 岩崎大洋 選手。そして今年は東海大が初の総合優勝を果たしたのであった。往路2位だった東海大は6区の中島怜利(3年)、7区の坂口竜平(3年)がともに安定した走りで往路1位の東洋大を追いかけた。8区の小松陽平(3年)が区間新の快走でトップに立ち、そのまま逃げ切った。10時間52分9秒の大会新記録で初の栄冠をつかんだのであった。ゴールでアンカーのゴールを待つ東海大学の選手たち。初優勝し、ガッツポーズでゴールする東海大の10区の郡司選手。胴上げされる郡司選手。首位を必死に追い上げる青学の鈴木選手であったが・・・。五連覇を逃すものの、笑顔でゴールする鈴木選手。我が早稲田大は12位と13年ぶりにシード権を失ったのであった。箱根駅伝の今日の復路では、青山学院大が5時間23分49秒の復路新記録で優勝した。総合優勝の東海大は2位。3位には帝京大が入った。よって今年は往路優勝は東洋大、復路優勝は青山学院大、そして総合優勝は東海大となり実力が接近していたことを示す結果となったのであった。そして帰路に。マスコットキャラクター 『トーレくん』の姿が。藤嶺学園藤沢中・高等学校のマスコットキャラクターであるようだ。そして帰路のバスがないので、自宅に向かって約4.5kmを徒歩で。途中の富士山の姿。山頂付近をズームで。日本大学湘南校舎とその右に大山の姿が。そして帰宅してテレビ録画画面を見る。すると赤い帽子で応援する我が姿を確認できたのであった。今年も2日間にわたり、日本人が最も興奮する、そして正月の恒例のスポーツイベントのひとつとなっている「箱根駅伝」を生で楽しんだのであった。毎年、この箱根駅伝はどの大学が勝つかだけではなく、各選手によるパフォーマンスも大きな見どころ。特に注目が集まるのは最長距離のコースや、坂道が続くなどの最難関コース。日本最強の若いアスリートたちが極限に挑む姿を生で見ることは興奮は止まらないのである。そして箱根駅伝観戦&初詣をセットで済ませる人の数が益々増えているのを感じたのであった。箱根駅伝中継の裏番組は何をやっても太刀打ちできないのが平和な日本の現実の姿なのである。
2019.01.03
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仁王門に向かって帰路を歩く。手水鉢には紅葉の落葉が。本堂右の裏手に鷺草園が。池には菖蒲や水草が植栽されているようであった。春にはサギソウ(鷺草)の花が。仁王門を背景に本堂側の紅葉。仁王門の彫刻は龍。開山堂の前にある手水鉢。鷺草がモチーフに。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並びのだと。開山堂。開山堂には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめていると。屋根上の黄金の宝珠。宝珠とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?開山堂のそばに立つ水子観音菩薩像。浄大供養地蔵。開山堂の脇には三十三観音。中央にあるのが観音堂、周りを三十三の石の観音像が取り囲んでいた。奥沢神社(世田谷区奥沢)の前々代の本殿で、天保年間(1831~45)から江戸時代末頃に建立され、明治時代に浄真寺に移築されたのだと。三十三観音堂前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三体の舟後光型観音菩薩石仏。再び水子観音菩薩像。開山堂前の紅葉。開山堂周辺の紅葉を巡る。「九品佛浄真寺東門」。東横線・自由が丘駅から来るとこちらの門に辿り着くようだ。東門の扁額には『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と。そして総門へと。「愛心講講元 鳥海はま先生 頌徳碑(しょうとくひ)」焔魔堂前から。総門前の猫。そして参道を歩き九品仏駅へ。ホームで電車を待っていると、旅友から『傘は?』と。浄真寺本堂に上がる際に、階段下に傘を置きそのまま忘れて来たのであった。旅友から待っているからとの言葉を頂き、急ぎ足で浄真寺に戻ると傘は置いた場所に。これぞ阿弥陀如来様の功徳のお陰!!。そして大井町線に乗り旗の台駅経由で池上線の大崎広小路駅で下車したが宴会の時間にはまだまだ早い為、渋谷駅のバスに乗り中目黒駅前へ。目的は目黒川のイルミネーション。黄金のイルミネーションが行われていたが、目黒川の一部の場所だけ。本格的にはライトアップ期間 2018年12月15日(金)~12月24日(日)ライトアップ時間 16:00~21:00とのこと。ゴールドのイルミネーション。そして再びバスに乗り、大埼郵便局前で下車しこの日の宴会場へ。参加された元同僚が石巻の生ガキを宴会場に事前に送ってくれていて、今年初めての生ガキを楽しんだのであった。お皿には、私が等々力渓谷で拾って店主のママにプレゼントしたモミジ葉が添えられていたのでした。そしてこの日は14時前ころから我がソフトバンクのIphoneが「圏外」と表示され全く繋がらなくなってしまったのであった。最初は理由がわからず、何故世田谷区のこの場所が『圏外』と。しかし移動しても変化がない為、これはシステム障害間違いなしと感じたのであった。この日は、大崎駅前にある銀行を16時に訪ねる予定であったが、全く電話が繋がらずしかも大崎広小路駅周辺で公衆電話を探すも、見つからず、公衆電話のない現実を目の当たりにし驚愕したのであった。向こうからもかかって来ず、今までに経験したことのない、無言でのドタキャンとなってしまったのであった。 【テレビのニュース画面より】 ・・・END・・・-----------------------------------------------------------------------------------------------そして今年、2018年(平成30年)も残すこと11時間足らずになってしまいました。今年も、旅友のSさんのお陰で、海外旅行そして車での国内観光、徒歩での旧東海道巡り等々、元気に忙しく動き回ったアクティブシニアの1年でした。そして昨日は正月のお飾りの準備を。我が家の門には。略式門松用の一組の松〈雄松と雌松〉を購入してきました。そして玄関。小さめのものを。神棚も清掃し、新たな牛蒡注連も取り付けました。「注連縄」は、神聖な場所と他を区別する縄で、新年に神棚や家の門口に張り、紙垂(しで)・御幣(ごへい)を垂らすのは、その家が歳神(としがみ)さまをお祀りする神聖な場所であることを示すものなのです。鏡餅とダイダイセットを神棚と床の間に。床の間。今年もスーパーで鏡餅のお飾りセット付きを購入して来ました。中には一体型の樹脂に包まれた鏡餅、三方・御幣付き四方紅・扇・鶴水引飾り・ミカンなどがセットで入っていて至れり尽くせり。鏡型のパッケージの中に個包装された小餅が入っているはず。箱に書いてあるの組み立てマニュアルを参考に組み立てました。そしてウラジロ(裏白)とユズリハ(譲り葉)との上にダイダイ(橙)を。ウラジロは常緑葉であることから長寿を、ユズリハは新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を譲って絶やさないとの願いが込められています。ダイダイは、家が「代々」栄えるとの語呂から縁起ものとして使われるようになったのです。そして2018年の『今年の漢字』は「災」に決定。「災」の選抜理由は、大阪府北部地震、西日本豪雨、記録的猛暑、台風第21号、北海道胆振東部地震といった天災、スポーツ界のパワハラ問題などの人災が相次いだことが挙げられたことから。2018年の日本はどんな年であっただろうか。1月には関東で大雪が降り、2月には平昌五輪が開幕。羽生選手の連覇とスピートスケートのメダルラッシュに沸いた。2020年の東京五輪のマスコットキャラクターが小学生の投票により決定したのも2月だった。3月には車いすの天才宇宙物理学者・ホーキング博士、4月にはアニメーション監督の高畑勲さん、5月には歌手の西城秀樹さんなど著名人の訃報が続いた。6月には大阪で震度6弱の地震、7月には西日本豪雨が発生し多くの犠牲者が出る結果となった。8月には医学部の不正入試やスポーツ界のパワハラなど教育に関わる問題が明るみに出た。平成を代表する漫画家のさくらももこさんの訃報も8月だった。9月には平成を象徴する歌手の安室奈美恵さんが引退、女優の樹木希林さんの訃報もあり、時代の移り変わりを感じるような出来事が続いた。10月はノーベル医学・生理学賞を京大特別教授の本庶佑氏が受賞し、12月10日(日本時間11日)の受賞式に羽織はかま姿で出席したのであった。そして11月19日には、1999年に筆頭株主の仏ルノーから派遣され経営難の日産を大胆なコストカットでV字回復させたカルロス・ゴーン会長が、報酬を50億円過少申告したとして金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕された。そして21日には自身や第三者の利益を図って日産に損害を与えていたとして、元会長を会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕したのであった。12月13日には米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平選手が投打の「二刀流」で活躍したことにより新人王に選出された。日本選手では1995年の野茂英雄投手(ドジャース)、00年の佐々木主浩投手(マリナーズ)、01年のイチロー外野手(同)に続く4人目の受賞であった。12月23日には平成最後の天皇誕生日にあたり、今上天皇が一般参賀で8万人から祝福を受けた。それに先立ち行なわれた最後の記者会見で天皇は、平成が戦禍なく終わることに安堵し、象徴として天皇を受け入れ支えてきた国民に感謝すると共に、60年にわたる皇后の献身的な支えを時おり涙声になりながら労ったのであった。そして政府は平成31年4月30日に、天皇陛下が退位されることを、閣議決定した。また、翌日5月1日に、皇太子さまが即位され、新元号に改元されることも、閣議決定したのだ。よって今日・大晦日が「平成最後の大晦日」になるのです。そしてネット情報によると元号を今も使っているのは2つの国(地域)で、それは台湾と北朝鮮です。(台湾も北朝鮮も日本と正式な国交がないので地域と表記しています)台湾は「民國」という元号を使用しています。これは新聞や雑誌、テレビなどでも見かけることができます。今年は、「民國106年」になります。今度台湾に旅行予定なので、ちょっと確認してみよう。また北朝鮮は「主体(チュチェ)」という元号を使っています。これはある日突然決まったようで、その日からさかのぼって過去の年も「主体」という元号で表記しているようです。今年は「主体106年」ということです。日本の元号で、これまで使われてきた漢字の種類はわずか72種類だと。1372年間の247の元号で最も使われているのは「永」で29回以下、27回の「天」と「元」、21回の「治」、20回の「応」と続くのだと。また「平成」「昭和」「大正」など、元号のほとんどは漢字2つの組み合わせで作られています。日本史には「大化」「応仁」「元禄」といった元号も登場しますが、やはりこれらも2文字。しかし、歴史をたどってみると、そうではなかった時期もあるのだと。奈良時代、729年から20年間続いた「天平」が終わると天平感宝(749年4月~同年7月)天平勝宝(749年7月~757年)天平宝字(757年~765年)天平神護(765年~767年)神護景雲(767年~770年)と、約20年のあいだに漢字4文字の元号が立て続けに登場したと。しかし元号選定のやり方について具体的に定めた「昭和54年10月23日閣議報告」(1979年)というものがあり、この中には「(元号は)漢字2字であること」と記されているのだと。よって3文字はないのだと。さて、4月1日に発表される新しい元号は??そしてこのブログも今年2018年も皆勤賞を達成できたのです。 アクセス数も240万回超えを示しています。毎日平均2500~3000回のアクセスを頂いているのです。 あくまでも備忘録・国内外の旅行等で訪れた場所の復習・学習の場として『徒然なるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心に映りゆく由無し事を そこはかとなく書きつくれば、 怪しうこそ物狂おしけれ』の精神で自分の足跡をと。来年も、今年の学習や体験を活かしながら、更に活き活きと日々を過ごし、好奇心をいつまでも忘れずに、何か新しい事にも挑戦したいと大胆にも?思っているのです。毎年、同じ事を書いている記憶がありますが、慣れた日々の繰り返しではなく、新しい発想でいろんな『志』を『織』りなし更なる自分自身を『創』り『真』に、実り多き『樹』となるべく、老体にむち打ち更なる自分磨きの1年にもしたいと欲張って考えているのです。(孫たちの名前の漢字を使ってみました。)この1年間 いろいろとお世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様、良き新年をお迎え下さい。
2018.12.31
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九品仏浄真寺 中央の三仏堂(阿弥陀堂)本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されています。元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年に大修復工事が行われ、創建当時の姿を取り戻した。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかないそうです。まずは左から下品阿弥陀堂(げぼんあみだどう)。下品上生、下品中生、下品下生と書かれたそれぞれの扁額が。下品仏(げぼんぶつ)三体。下品仏は右手が胸の前、左手が膝の上の来迎印。来迎印は右手を上げて左手を下げてともに手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。信者の臨終に際して、阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来る時の印相であると。右手の人差し指を曲げた中央の「下品上生」仏。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。下品阿弥陀堂から本堂方面を見る。本堂への道。本堂と三仏堂(阿弥陀堂)の間の庭の紅葉。真ん中の堂が上品阿弥陀堂。上品上生仏。両手の手のひらを上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形である。これは仏が思惟(瞑想)に入っていることを指す印相の定印。上品下生仏。阿弥陀如来の定印は密教では法界定印とされるが、浄土教などでの場合は同じように両手を重ねて親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るものもある。阿弥陀如来の印相には沢山のバリエーションがあると。上品中生仏。阿育王塔(あしょかおうとう)。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの右側の堂が中品阿弥陀堂。中品上生仏。中品は両手が胸の前にあります。(説法印)説法印は両手を胸の高さまで上げ、親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。日本での作例としては、京都・広隆寺講堂本尊像、法華寺像などがあるが、比較的珍しい印相。当麻曼荼羅の中尊像もこの印相であると。中品下生仏は修復工事中でいらっしゃらなかった。3ヶ年の修繕の旅に出ているのだ。入口の総門には2014年~2034年の20年間で「平成九品佛大修繕事業」大勧進が行われている旨の巨大な立札が置かれていたのであった。中品中生仏は友の中品下生仏がいないため、チョット淋しそう。左に「開山廟」の説明板と中央に「一者女人泰産供養塔」。『開山歴代上人御廟』。『開山歴代上人御廟』入口付近の見事な紅葉。本堂に向かって歩く。河口慧海師碑。慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建立したと。「和」と刻まれた球状の石碑。平和の塔(へいわのとう)であると。台座には「超世無倫(ちょうせむりん=世に並ぶ者がない)」と刻まれていた。昭和四十年(1965)建立と。紅葉に緑も交じりこれも絶景。本堂前の花供養塔。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。本堂手前の紅葉にも緑が。本堂横の紅葉。九品仏浄真寺 本堂本尊は釈迦如来坐像。浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。本堂には珂碩上人(かせきしょうにん)自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれる本堂は、元禄十一年(1698)に三仏堂とともに完成。本堂は、浄土(彼岸(ひがん))の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(えど:現世、此岸(しがん))を表しているのだと。本堂から上品阿弥陀堂。本堂右手の枯山水庭園。本堂前の地蔵菩薩その先に下品阿弥陀堂が。銀杏の木の」葉はおちているが銀杏がまだ落ちずに。本堂前の地蔵菩薩。仏の足跡をかたどった仏足石。本堂を銀杏の樹の前から振り返る。天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つの歌碑が『掃きよせて 落ち葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)であると。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。幹周:4. 4m、樹高:17. 9mであると。『東京都天然記念物 九品仏のイチョウ』。まだ頑張って銀杏(ぎんなん)を拾っているオバチャン二人。 ・・・つづく・・・
2018.12.30
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