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「本立寺」を訪ねた後は「韮山城跡」に向かう。「城池親水公園」沿いを駐車場に向かって進む。「城池親水公園」韮山城の堀の跡を利用して作られた公園。駐車場に車を駐め散策開始。「ようこそ伊豆の国市へ」観光案内地図。池の岸からの富士山。水面の静かな早朝であれば・・・逆さ富士が。案内に従い「韮山城跡」に向かって進む。「城池親水公園」の「城池」では釣り人の姿もあった。再び富士山をズームして。「城池の野鳥たち」案内板。三叉路を直進する。「北条氏のミツウロコと韮山城」の幟であったが。「韮山城跡」案内板。「韮山城跡韮山城とは明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正1 6年(1519)早雲が没したのも韮山城である。北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・ニの丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態で残存している。平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る。(現県立韮山高校校地)。また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの遺構が確認できる。」「伊豆国田方郡韮山古地図」。更に「韮山城跡」に向かって坂を上って行った。石段が整備された場所も。「静岡県立韮山高等学校」のテニスコート横を進んでいった。「三の丸」案内板。案内に従い右手に進む。前方に石鳥居が姿を現した。「熊野神社」の石鳥居。「由緒一、神社名 熊野神社一、鎮座地 静岡県伊豆の国市韮山字天主百九十五番地一、祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと)一、由緒沿革 当社は、後北条の初代伊勢宗瑞(新九郎盛時 通称北条早雲)が 明応二年堀越御所の 内紛時に伊豆に進出し、ほどなく伊豆一円を平定し、この地に韮山城を築いた。 明応九年韮山城の守護神として伊邪那美命を祀り熊野神社を創建した。 その後、天正十八年(一五九〇年)秀吉の天下統一の戦いで北条氏滅亡後、江川家に 於いて社屋を修復して同地区の土手和田村松並の 鎮守の神として祭りつがれ、 現在、土手和田区松並地区に於いて 維持管理をしている。一、境内地 二百五十八坪(江川家所有)一、氏子崇敬者 二百六十余戶 平成二十八年十二月吉日」「熊野神社」の社殿。扁額「熊野大神」。内陣。「二の丸跡」。「二の丸跡」案内と「韮山城 早雲公 終生の居城」幟。富士山の絶景をジワジワとズームで追う。そして「本丸跡」に向かって木製の階段を上って行った。そして「本丸跡」に到着。「本丸跡」から「北条義時館」方面の眺望。「韮山城跡周辺案内図」。ズームして。「韮山城跡の立地と構成韮山城は中心となる①本城と、天ヶ岳(てんがたけ)に配置された「外郭の遺構群」によって構成されています。さらに、周囲には豊臣秀吉軍の「付城(つけじろ)」があります。本城本城は龍城山(りゅうじょうさん)とも呼ばれる細い尾根上にあります。尾根の長さは約400m、幅は約100mです。北から「三ノ丸」・「権現曲輪」・「二ノ丸」・「本丸」の4つの曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪があります。現在地が本城の最高地点で、標高は約53mです。周囲の低地部との比高差は38mあります。本城まわりの低地部分には、幾重にも堀が廻っていました。現在 ②県立韮山高校のある一帯には、「御座敷」・「大手」などの小字名が残っており、城主などが住んでいた場所であったと考えられます。また、③韮山中学校と④城地付近は、当時も湿地が広がっていました。まわりには家臣や職人の住む屋敷が集中していたようです。」「外郭の遺構群(砦)天ヶ岳は、南北約1,100m・東西約700mの山体で、山頂部の高さは128mです。山頂部に⑤天ヶ岳砦、北東と南西の尾根末端部に⑥江川遺構群」・⑦土手和田遺構群があります。各遺構群と山体との間には、独立性と防御性を保つための深い堀切をみることができます。付城跡(つけじろあと)天正18年(1590)、韮山城は豊臣秀吉軍に囲まれますが、その時に豊臣軍が築いた⑧太閤陣場付城跡・⑨本立寺付城跡・⑩追越山付城跡・⑪上山田付城跡・⑫昌溪院付城跡が東側の山中に残されています。」再び富士山の勇姿を。手前が「静岡県立韮山高等学校」。「韮山城跡」の「本丸跡」を後にし坂道を下って行くと右手にあったのが「ほほえみ観音このお地蔵様は昭和35年当時13才の韮中生2名が舟遊び中水難事故死したものを御供養した地蔵様です。お気付きになりましたら、御手合せください」と。「ほほえみ観音」に近づいて私も合掌。更に下って行った。右手には深い堀切が確認できた。韮山城主郭部と天ヶ岳とを繋ぐ尾根筋を断ち切っていた。そして「城池」岸に再び出る。近くには白梅の林があったが、漸く開花が始まったばかりであった。ところで鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代に相模国の小田原城を本拠とした「北条氏」は同じ「北条氏」を名乗っている為、同じ一族かと思うかもしれませんが、両氏族は全く関係がないのです。というのも、戦国時代の「後北条氏」の祖とされる北条早雲は、もともと伊勢宗瑞(いせそうずい盛時)という名前で、「北条」ではなかったのです。戦国時代の後北条氏が「北条」を名乗ったのは2代目の氏綱の時代からで、初代の北条早雲はあくまでも後年の呼び名であって、生前には一度もその名で呼ばれていなかったと言います。鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」の家紋も異なるのです。どちらも三角形を用いた家紋でとてもよく似ているが。鎌倉時代の「北条氏」の家紋は正三角形を用いた家紋であるのに対し、戦国時代の「後北条氏」は二等辺三角形を用いているという違いがあるのです。鎌倉時代の「北条氏」は、鎌倉幕府の執権として権勢を誇っていた。幕府は日本の武家の頂点に位置していますから、現代で言えば内閣にあたる存在。一方、戦国時代の「後北条氏」は、室町幕府を武家の頂点とした制度の地方を統治する大名であり、言わば都道府県知事のような存在。簡単に言うと、「国」を統治していた「北条氏」と、「地方」を統治していた「後北条氏」という立場の違いがあるのです。戦国時代の「後北条氏」の祖である北条早雲は「伊勢氏」であったのに、なぜ2代目の氏綱は「北条」に改姓したのか?本格的に関東地域全域の支配を目指す2代目の氏綱は、「伊勢氏」よりも鎌倉時代に関東で栄華を誇った「北条氏」の方が関東の武士には馴染みがあると考え「北条」を名乗るようになったのだと。「北条早雲」像をネットから ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.05
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「立木皇大神宮」を後にして次の目的地の「本立寺(ほんりゅうじ)」に到着。山門の前におられた地元のオジサンが駐車場の位置を教えてくださいました。本立寺は江川氏の菩提寺。世界遺産の「韮山反射炉」👈リンク は、江川家三十六代目江川英龍の建言によって造られた大砲鋳造のための施設。1261年(弘長元年)、伊豆(伊東)に流されていた日蓮(参考:伊豆法難)が、十六代当主江川太郎左衛門英親に招かれて教化を行ったところとされる。のちに、英親は身延山へ登り、日蓮より「日久」の法号を授けられている。1506年(永正3年)、二十四代当主英盛が江川邸内にあった大乗庵を移して本立寺を建立。江川氏は平安時代末から続く名家で、五代執権北条時頼に酒を寄進して褒められているという。また、北条早雲はそれを「江川酒」として贈答品としたという。「本立寺」の「山門」を見る。静岡県伊豆の国市韮山金谷268−1。右側に題目碑「南無妙法蓮華経」。左側の石碑には???「山門」の扁額は山号の「大成山」。「日蓮宗本山 本立寺」。「命はかぎりある事なり すこしもをどろく事なかれ」。日蓮聖人ご遺文『法華證明鈔』からであると。本書は別名『死活鈔』とも呼ばれ、弟子日興上人を介して檀越南条時光公に与えられた書状。日蓮聖人自身病床にありながらも檀越南条時光公が重病との知らせに、治病の護符の作法を日興上人に伝授されたのだと。併せて本人には、自らの病魔を呵責し信心堅固にして病悩を克服するように励まされた。その結果、時光公の大病は全快し長寿を遂げたのであった と。こちらの碑にも「南無妙法蓮華経」と。「日蓮宗 本山 大成山 本立寺(江川家菩提寺)縁起当山は、比叡山で修行中の大擅那江川家十六代の当主江川太郎左衛門英親公か日蓮聖人を当地に招き、そのおり日蓮聖人より御自筆の火伏の曼荼羅を授与され、家門繁栄・子孫長久の祈願を奉行される。以来江川家は七百年の伝統を継承し現在に至る。英親公七十三歳の春、身延山に登詣、日蓮聖人より優婆塞日久の法号を授け御眞筆の曼荼羅・祖師像を授かる。本立寺建立の歴史は英親公(日久上人)のカ大なるものあり。後、永正三年六月(一五〇六)江川家ニ十四代英盛公が邸内にあった大乗庵を当地に移し本立寺を建立す。現在の本堂は、昭和三年四月八日落慶入仏式を奉行す。本堂裏に江川家代々の墓碑が並び一段目の中心に開基優婆塞日久上人の墓、最上段に源英龍・坦庵公・源英敏公・源英武公の墓碑が七百年の伝統を伝え現代に至る。」「参道」からの富士山の勇姿をここでも。「本堂」への石段が前方に。左手にあったのは「寺務所」であろうか。ここにも「本立寺」と。入口にあった石碑には「菩提の庭」と。寺務所の玄関。参道の石段を上って行く。右手に「手水場」。玉を抱えた龍の手水口。「江川太郎左衛門英龍(坦庵公)像」。近づいて。銀杏の御神木。ここにも「手水舎」。「鐘楼」が右手に。本立寺の鐘は、鎌倉の東慶寺にあったものであると。大旦那は北条高時の母・覚海尼。1332年(元徳4年・元弘2年)の鋳造だが、その翌年に鎌倉幕府は滅亡した。幕府滅亡後、覚海尼は伊豆に移り住んだが、その時に鐘も伊豆に持ち込んだものと考えられているのだ と。別の角度から。ズームして。梵鐘銘文「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘梵刹置鐘号令人天休息輪苦利益大矣松岡住山了道長老以寺用百緡鋳洪鐘求銘於円覚清拙叟銘曰松岡之山 寺曰東慶 鉄磨華宗末山芳循 緇流駢羅 禅学鼎盛必仮洪鐘 発号施令 孔方載馳工倕是命 炉鞴奏功 範模畢正簨簴既張 蒲牢斯震 晨興夜坐朝諷夕詠 鯨音一吼 趨集率敬」 と。梵鐘銘文「左建右円 天近楼迥 新声飄揚邇答遐応 層旻開聡 厚壌徹聴十虚消殞 五濁清浄 聞塵忽空返我聞性 檀門福寿 紺園殊勝千秋万年 国界安静壬申元徳二二年結制後十一日 都寺比丘尼 遠峯性玄 首座比丘尼 無渠親證 住持比丘尼 果庵了道 大檀那菩薩戒尼 円成」と。「鐘楼」の扁額は「鯨海」。正面に「本堂」。見事な龍の彫刻。ズームして。「日蓮宗の寺紋」が。「日蓮宗の寺紋」は井伊家の家紋とよく似ているのだ。井桁紋の中に橘が配置されており、まるで井伊家の定紋と替紋が合体している如くに。日蓮宗の祖・日蓮上人の出自が井伊家の支流に連なっているという伝説もあるので、意外なところでつながりがあるのかも。横の梁の上の彫刻(右)。横の梁の上の彫刻(左)。日蓮聖人像。像の材質 青銅高 さ 十二尺 3.6m重 量 一・五t 1500kgお顔をズームして。墓石が並ぶ。戦争で亡くなった方の墓石であるようだ。「故陸軍兵長大倉武之墓」と。「佛殿位牌堂」。右側には鳥居と石段があった。「玉女峰」と書かれた鳥居。石段を上って行くと小さな社・「山神社」があった。江川家の墓を。向かって左側が韮山反射炉で有名な江川英龍こと坦庵の墓であると。江川家36世「源英龍墓」。江川 英龍(えがわ ひでたつ、享和元年5月13日 - 安政2年1月16日)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん/たんなん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。江川家37世「源英敏墓」。天保10年(1839年)、第36代当主・江川英龍の三男として生まれる。安政2年(1855年)に父が死去した(2人の兄は既に早世していた)ため、家督を継いで第37代当主となり、太郎左衛門を称した。生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の作成などを次々と推し進めたが、家督を継いでから7年後の文久2年(1862年)に夭折した。享年24。継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継いだ。江川家38世「源英武墓」。戊辰戦争のときの当主。文久2年(1862)兄・英敏のあとを継ぎ当主となる。嘉永6年(1853)生まれらしいので11歳で当主、15歳で戊辰戦争。明治天皇が慶応2年(1866)12月1日に16歳で踐祚(せんそ) と。遠く南アルプスの山々の姿が。境内の参道脇にも墓地が並んでいた。そして再び富士山をズームして。更に宝永火口、山頂を。「山門」に向かって進む。富士山頂付近は強風なのであろうか。雲が湧き上がっているのであろうか?それとも雪が舞い上がって?右手にあったのが「霊儼大明神」。社殿。社殿の扁額「霊儼堂」。内陣。「霊儼大明神当堂は今を去る一八〇年前に建立祭祀の霊儼明神を勧請し信者の守護神老若男女の信仰をあつめて今日に至る。堂内には頸(くび)の真骨が安置され渇仰(かつごう)の象徴といわれ頸から上の難病を平癒する明神であります。病を祈願する者は必ず霊験あらたかに不思議の力よく病体を加被(かび)して苦悩を除き災厄、病難を消除する明神であります。特に子供に知慧をさずけ試験合格 学業成就 頸から上の眼病、頭痛、熱病、痴呆諸病を消滅し息災延命を司る御守護神であります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.04
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そして次に「成願寺」の近くにあった「荒木神社」を訪ねた。県道136号線沿いにあった「一の鳥居」。社号標石「郷社荒木神社」。「式内社 郷社 荒木神社神社名 荒木神社(茨城(ばらき)神社 鞍掛神社)鎮座地 原木上町九〇番地の一外御祭神 天津日子根命(あまつひこねのみこと)例祭日 十月十八日創建 不詳由緒創建はさだかでないが、境内や隣接する荒真木遺蹟からは古墳時代の祭祀土器が見つかり、遺蹟包蔵地に指定されていることからも神社の存在が推測される。「延喜式神明帳」(九〇五年)に荒木神社名があり「伊豆の国神名帳」に正四位上あらきの明神と記載されている中古は茨城神社、鞍掛神社とも称しており、歴史ある神社といえる。原木(ばらき)の地名は「荒木神社」「茨城郷」の「あらき」「いばらぎ」「ばらき」に転訛したものと考えられている。」「二の鳥居」に向かって進む。参道両側は様々な花木が植栽されていた。「二の鳥居」の先に「拝殿」。「手水舎」。左側にあったのが「神楽殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。社殿正面。荒木神社は、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝頼朝が参拝の度に社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたという。扁額「郷社 荒木神社」。「疫病終息祈願 静岡県神社庁」と。荒木神社のクスノキ(楠)。樹高 :28m目通り幹囲 :6.6m推定樹齢 :300年以上「本殿」を見る。「境内社」。社殿の右手に境内社がいくつか並んでいるが詳細は不明。昭和十六年の『静岡県神社誌』には、伊勢両大神宮、三珠神社、風神社、御門神社、稲荷神社、許登比良神社、山神社、八坂神社、厳島神社、八衢神社の十社相殿の祠があると記されているとのことだが。巨大な石碑。詳細不明。巨大な石碑。砲弾が祭られていた。日露戦争の慰霊碑であろうか。こちらも詳細不明。「拝殿」を振り返る。狛犬をズームして。そして次の「山木皇大神宮」に向かう途中に車窓から富士山を。雲一つない富士山の勇姿。これぞ日本のシンボル!!そして「山木皇大神宮」に到着。 皇大神社は、山木地区の鎮守。本殿に平兼隆、天照大神、相殿に菅原道真・八牧幣座神(やまきみてぐらのかみ)を祀っている。平兼隆とは山木 兼隆(やまき かねたか)のこと。治承4年(1180年)8月、頼朝は 以仁王の令旨を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討たれた(山木館襲撃)1880年(明治13年)、山木地区の神明宮・天神社などが合祀されて成立した神社。毎年年末には、江川家から供え餅と注連縄飾りが納められている。一の石鳥居。前回は「山木兼隆邸」があった「香山寺」👈リンク を訪ねたが、この「山木皇大神宮」は訪ねなかったのでこの日に。石鳥居の扁額「皇大神社」。「手水舎」。二の石鳥居。そして「拝殿」。内陣。右隣に「境内社」。境内社に、来宮神社・八牧別所幣座神社・滝山明神・山木稲荷がある。来宮神社(右)と「八牧別所幣座神社」(左)。来宮神社の御札には・・・・その縁起が。中央に「滝山神社」の文字が。「本殿」を見る。「山木神社」。山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の山木大火で堂社を焼失し、皇大(こうたい)神社に合祀されたのだと。「正一位山木・・・」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.03
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「仁田忠常」の墓があった「慶音寺」を後にして、伊豆縦貫自動車道を進み、「狩野川」に掛かる「日の出橋」、「石堂橋」を渡って次に訪ねたのが県道129号線沿いにあった「成願寺」。静岡県伊豆の国市原木158。寺号標石「曹洞宗成願寺」。頼朝が餅売りの媼(おうな・老女)の為に建立した寺。源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある餅売りの媼の店に立ち寄りました。媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ餅を献じることもあったといいます。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ 平家を倒して鎌倉幕府を開きました。頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよう」と言ったところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったといいます。頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやりました。成願寺は媼の「我が願い成る」と喜ん だ言葉を寺号としたもので、本堂に向かって左側に餅売媼の墓があった。山門の左側にあった「童地蔵」。入口に享和2年(1802)建立「三世一切諸経塔」、「六地蔵」、萬霊塔、庚申塔等石仏石塔群等が祀られていた。「六地蔵」。「成願寺源頼朝が流人として蛭ヶ島にいた頃、たびたび三嶋大明神(現・三嶋大社)に参詣していました。途中の原木に餅売りのお婆さんの店があり、頼朝は参詣の折に立ち寄り休息しました。その後、将軍となった頼朝は、恩に報いるため、お婆さんの願いである寺を建立しました。その寺が成願寺で、境内には「餅売り媼の墓」があります。」「庚申塔」。近づいて。立派な「檀信徒会館 真慈閣」が左側に。多くの墓石、石仏が並ぶ。無縁仏塚だっただろうか。「檀信徒会館 真慈閣」前にあった石の祠。山門方向を振り返る。「心經五萬部讀誦供養塔」。「戦没者霊供養塔」。「本堂」。曹洞宗 宝樹山 成願寺。「本堂」の扁額は「徳光」であろうか。「本堂」の「内陣」。「本堂」前の白梅。近づいて。歴代住職の墓か。その中の左側にあったのが「餅売りの嫗の墓」。場所を変えて。「本堂」裏の墓地内からの富士山の勇姿。富士山を追う。多くの古い墓石が並んでいた。「廣雲孩児」と書かれた卒塔婆の前には石仏が。「孩児」とは乳飲み子のことと。境内の紅梅。屋根には「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋が。笹竜胆は鎌倉幕府を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)の家紋。「飾り瓦」。そして「成願寺」の斜め向かいにあった「実相寺」も訪ねた。静岡県伊豆の国市原木154。「浄土宗 実相寺」。「狩野川台風洪水之碑」。境内左側には、狩野川台風の際に浸水した洪水の水位が示されていた。「昭和三十三年九月二十六日天城山に七百ミリ以上の雨が降り、いたる所で狩野川の堤防は決壊し八百六十人もの尊い人命が奪われた。当地の浸水位はこの碑の高さである。今、防災意識の高揚を計ると共に犠牲者の冥福と住民の幸を祈るためこの碑を建立す。」ここにも「六地蔵」。「本堂」。仁安2年(1167年)840年昔、「俊乗坊重源」が源平の争乱で東大寺が「平重衡」の放火で消失し「源頼朝」の発願で再建費用の調達の為にこの地に来たとき、住民の要望に答えて「小松院」と称する真言宗の寺院を建立した。その後、明徳3年(1392年)室町幕府三代将軍「義満」の時、「実蓮社相誉真阿至誠不脱上人」が浄土宗に改宗し、「実相寺」と改め、現在に至っている。現在の本堂は、昭和63年4月「落成」した。扁額「名號山」。内陣。ズームして。観音像。石祠。「當山 浄誉代」と。「実相寺」から「成願寺」を見る。 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2022.03.02
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次に訪ねたのが「日蓮宗 正福山 慶福寺」。 静岡県田方郡函南町仁田164。掲示板。「令和四壬寅(みずのえとら)年」と。2022年(令和4年)は寅年(とら年)ですが、「干支は寅・とら」というのは正しくない と。「干支(えと)」とは、正確には「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせ。< 十干(じっかん) >甲:きのえ乙:きのと丙:ひのえ丁:ひのと戊:つちのえ己:つちのと庚:かのえ辛:かのと壬:みずのえ癸:みずのと< 十二支(じゅうにし) >子:ね丑:うし寅:とら卯:う辰:たつ巳:み午:うま未:ひつじ申:さる酉:とり戌:いぬ亥:い今年、2022年の場合、十干は「壬(みずのえ・じん)」、十二支はご存知の「寅(とら・いん)」なので、干支は「壬寅(みずのえとら・じんいん)」となるのだと。丑(うし) う=憂う日常 し=しばし我慢 ⬇寅(とら) と=共に歩む ら=礼拝の日々 と。 山門には「日蓮宗 正福山 慶福寺」と。1570年(元亀元年)に創建された、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院。背に霊峰富士を仰ぎて山門をくぐると、紅葉並木と紫陽花の参道がつづき、その右側には大黒堂があり、正面に本堂を拝す。鎌倉時代より続く仁田家の菩提寺でもあり、先祖の仁田四郎忠常公は鎌倉幕府初代将軍 源頼朝公の信頼厚く重要な任務を度々任されていた。1193年の富士の巻狩での猪退治は有名な逸話として現代に語りつがれている と。境内の右手にあった「大黒堂」。扁額「大黒天」。「大黒堂」の内陣。「歴代上人廟」。「本堂」。1570年(元亀元年)に創建。一族が居住した仁田館があったのがこの場所。「仁田四郎忠常」は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。伊豆国仁田郷の住人。1180年(治承4年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が挙兵するとこれに従った。1185年(元暦2年)の平家追討では源範頼に従って活躍し、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂天野遠景・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。1189年(文治5年)の奥州征伐でも武功を挙げた。1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」では、十郎祐成を討ち取っている。頼朝亡き後も二代将軍源頼家の信任を得て、頼家の嫡子一幡の乳母夫に就任。1203年(建仁3年)9月2日の比企の乱では、北条時政の命により天野遠景とともに比企能員を暗殺したが、9月6日には、恩賞を受けに北条時政邸に向かい、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽率な行動を理由に謀反の疑いをかけられ、加藤景廉に誅殺される。享年37歳。」扁額「慶音寺」。「本堂」の「内陣」。「事務所」。掲示板「浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」。「この堀はから八〇〇年前頃、源頼朝の平家追討に従うなど、鎌倉時代初期に活躍した武将、仁田四郎忠常一族が居住した仁田館の一部で、館の周囲に土塁を築くために堀られた空堀(からぼり)です。県下でも数少ない遺構の一つです。」東側は、来光川が天然の堀となっており、西にある慶音寺との間に空堀(からぼり)が確認できた。別の場所から。「本堂」裏の墓地に進む。大きな石仏が。ズームして。「仁田家之墓」碑と大きな五輪塔。「仁田家之墓」。墓地を望む。歴史を感じさせる石碑。「南無妙法蓮華経法界」の文字が。ここにも「仁田家之墓」。こちらの方が古そうであった。再び空堀、土塁を見る。そして「仁田忠常・忠正・忠時公の墓」が境内の南側にあった。現在もご子孫の仁田さんが墓地の奥にお住まいになっているようであった。中央が仁田四郎忠常、左が弟五郎忠正、右が同じく六郎忠時の墓。「仁田四郎忠常兄弟の墓所在 西南町仁田 素封家仁田家邸内にあり、仁田四郎の富士の巻狩の猪退治は有名である。治承四年(一、一八〇)の山木判官平兼隆邸夜襲を初陣として平家追討奥州藤原攻め等において数多くの手柄をあげ、頼朝の信が厚かった。頼朝の没後建仁三年(一、ニ〇三)北条時政のために弟と共に殺された。墓は右 六郎忠時 中央 四郎忠常 左 五郎忠正」「鎌倉殿の13人」で「仁田四郎忠常」役の高岸宏行(たかぎし・ひろゆき/ティモンディ)さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.01
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この日は2月18日(金)、「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の2回目に二宮にお住まいの先輩と家へと西湘バイパスを利用して向かう。時間は6:28。山頂付近に積雪が残る箱根の山々。そして二宮のOさん宅を6:40に出発。そして国道135号を利用して熱海まで行き、静岡県の熱海-函南を結ぶ県道11号線・熱函道路の鷹ノ巣山トンネル(L=1268m)を通過。この日も、その先の第ニ丹那橋(L=129m)手前のログハウスのbigbox の空き地に車を止め富士山の勇姿をカメラに納める。こちらが、前回の2月2日(水)の同じ場所からの富士山の勇姿。積雪量が前回より多くなった様な光景であった。この日の最初に訪ねた地は、「北条宗時 狩野茂光の墓」。近くにおられた地元のオジサンに駐車できる場所を教えていただく。小高い丘の上にあった「北条宗時 狩野茂光の墓」。前回も訪ねたJR函南駅近くにあった。急な狭い石段を上って行った。「源頼朝・北条政子の史跡を巡る 北条義時のゆかりの地」と書かれた幟。「北条宗時 狩野茂光の墓由来石橋山合戦(一、一八〇年)の際の頼朝方武将「北条三郎宗時」と「狩野茂光」の両者を祀る。北条三郎宗時北条時政の嫡子、父、弟義時と共に頼朝に従い石橋山にて戦うが敗走の途上小平井名主紀六久重に討たれる。狩野茂光狩野の豪族で源為朝を討っ等軍功あり。石橋山合戦には頼朝に従うが敗れ割腹する。「注」毎年秋のお彼岸中日に二氏供養のための祭例を行う。静岡県田方郡函南町大竹218−4。北条宗時は北条時政の嫡男。北条政子の弟・北条義時の兄。1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。頼朝は山中へ逃れた。『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され地元・平井郷の名主・小平井久重に討ち取られたのだという。ちなみに、北条宗時を討った小平井久重は、80歳くらいとされる工藤景光(くどうかげみつ)が捕縛して、1181年1月6日、処刑されたのだと。工藤景光は、石橋山の源氏勢とは別行動しており、甲斐の安田義定らと挙兵し、俣野景久を破っていたが、同じ工藤氏の一族であったと推測されると。丘の上に「北条宗時 狩野茂光の墓」があった。「土地の人から「時まっつあん」と呼び親しまれた宗時神社としてこの地に祭られている。五輪の小塔、大小ニ基があり、大が北条宗時、小が狩野茂光の墓といわれている。石橋山の合戦に敗れ後退の途上この地で戦死後年父時政によりこの台上に祭られたといわれている。」大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓。『吾妻鏡』によれば、1202年(建仁2年)6月1日、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の墳墓堂で追善供養を行っている と。正面の大きな宝篋印塔が「北条宗時」の墓。近づいて。「鎌倉殿の13人」で「北条宗時」を演じる片岡愛之助さん。左にあった小さな塔が「狩野(工藤)茂光」の墓。1180年(治承4年)、石橋山の戦いで負傷し、歩けなくなったことから自害したと伝えられている。一説には、肥満だった茂光は、足手まといになるの嫌い、孫の田代信綱に介錯してもらったともいわれる。「鎌倉殿の13人」で恰幅の良い武士・「狩野(工藤)茂光」役を演じる米本学仁さん。北条館まで少しの川辺。「狩野(工藤)茂光」は「ここで別れよう。鎧を替えたら、北条館に行く」。北条宗時は「鎧が小さくなったのではなく、工藤殿が太られたのではないか。一体、何を食べれば、そんなに大きくなる…」と。川の水を水筒に入れ、振り返ると、「狩野(工藤)茂光」が突っ伏している。茂光に駆け寄ると、背後に人の影。刀を抜こうとしたが…伊東祐親の下人・善児(梶原善さん)の小刀に襲われた。実はこの善児は、実在しない人物で、ドラマオリジナルのキャラクターであるようだ。史実は地元・平井郷の名主・小平井久重によって殺害されたのだと。伊東祐親にとって「北条宗時」は孫だが、善児に命じたのであった。右側にあった大きな石碑。「北条宗時 狩野茂光 碑」と上部に刻まれていたが、下部の文字は解読不能であった。墓の前には大きな霜柱が。横にあったのが「宗時神社」のはずであったが・・・。内陣にはご神体等がなく、廃社になっているようであったが、何処かに遷座したのか。あまりにも無残な姿なのであったが。墓地前からの北西側の眺望。こんな看板を見つけたのであったが・・・。 ネットには「北条宗時 狩野茂光の墓」👈リンク に対する、リンクの如きページがあったので紹介する。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.28
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県道739号線を利用して「岩漁港」に向かって進む。左手にあったのが「石工先祖の碑」。「石工先祖の碑平安末期に石材業を始めた土屋格衛や江戸城造営の採石に当たって小松山に口開丁場(くちあけちょうば)を開拓した黒田長政配下の7人の石工たちの業績をたたえ、江戸末期に再建された供養碑がこの山の上にあります。真鶴町は、こうした人々の開発の努力を受け継いで、いまなお、名石小松石に代表される全国有数の石材産地としての伝統を誇っております。」石段の上の小さな広場にあった「石工先祖の碑」。真鶴の石材業は、平安時代末、京より下ってきた土屋格衛という人物によって始められたのだといいます。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、多くの巨石が鎌倉へ運ばれ、寺社などの建設に使用されたそうです。江戸城築城の際にも大量の石が積み出されました。「石工先祖の碑」は、真鶴石材業の生みの親・土屋格衛と、江戸城を築くための採石にあたった黒田長政支配下の7人の石工たちの業績をたたえた碑。そしてその先の三叉路の角にあったのが「謡坂」碑。「謡坂之記」碑。下記はネットから。「この地の謡坂荘主高井徳造氏が謡坂の由来を知り、頼朝の遺跡を顕彰するために昭和9年1月に建てた碑であると。長い碑文を要約すると「治承4年8月23日、石橋山合戦に敗れ8月28日にここまで逃れてきた頼朝主従が土肥実平の館のある西の方を望むと土肥村から兵火が上がり炎が空を覆った。実平は之を見て頼朝が危険を脱したことを喜び、併せてその前途を祝福し『土肥に三つの光あり。第一には、八幡大菩薩、我君を守り給う和光の光と覚えたり。第二には、我君平家を討ち亡ぼし、一天四海を照らし給う光なり。第三には、実平より始めて、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光なり。嬉しや水、水、鳴るは瀧の水。悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ。我家は何度も焼かば焼け。君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って邸など何度でも造りかえる。君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽』と勇み踊り謡った地であり爾来此地は謡坂と称されるようになった。この十二年後、頼朝公は建久三年征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府をお開きになった。公の史跡は天下に多いけれども、この地は挙兵の当初、敵の虎口を脱した地であることを石に刻んで後世に伝えるものである。」「和光の光」とは仏が日本の地に神として顕れるその光をいい、土肥実平が自分の家が敵勢に焼かれるのを見て「あの光は、我が君や我々の未来を照らす光だ。」と謡い舞ったという『源平盛衰記』にちなむ話。「神奈川県の地名」によると、岩村について敵の追跡を免れた頼朝が喜びのあまり「祝村」と命名したという村民の伝承を記しているのだ」と。「謡坂治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れでて、岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「 源平盛衰記 」 にあります。この付近の謡坂という地名は、それに由来するといわれます。」そして再び「真鶴町岩の浜」・岩漁港入口(町道1号線側)まで戻る。「源頼朝船出の浜」碑が「源頼朝開帆處」碑と背中を合わせる位置にあった。「石橋山の合戦 治承4年(1180年)に敗れた源頼朝は、箱根山中や鵐窟(しとどのいわや)などに難をのがれ、謠坂を経てこの海岸から房州(千葉県)に向かって船出し、虎口を脱したと伝えられています。船出に協力した村民たちの鮫追船(さめおいぶね)2そうについては税が免除されたといわれ、小田原北条氏によるその確認の文書が伝えられています。海岸東の崖の下には、塩谷温博士の文による源頼朝開帆記念の碑があります。」「岩の浜」は真鶴半島唯一の砂浜の海岸であると。「弁天島」。岩海岸(岩海水浴場)の左手にある直径10mほどの島である。波間に浮かぶ岩に聳える松と鳥居があり、背後にはかながわの橋100選に選ばれた岩大橋がある。朱の鳥居が。奥には社があったのだろうか。それとも弁天島自体が社なのであろうか。再び「弁天島」と「岩大橋」を。石橋山の戦い後の源頼朝の敗走ルートをネットから。 【https://ameblo.jp/oyomaru-0826/entry-12336753749.html】より以下は2月13日(日)のNHK「鎌倉殿の13人(6)「悪い知らせ」」のテレビ画面より。北条時政(坂東彌十郎)と三浦義村(山本耕史)らは頼朝を待つが、敵に追われて先に安房へと舟で逃亡。源頼朝(大泉洋)と北条義時(小栗旬)も追って真鶴町「岩海岸」より土肥実平が手配した小舟で安房へ逃げる。1艘(そう)の小舟(平舟)に、武将2名程度と、漕ぎ手3名の組み合わせだったと。頼朝他6人の武将が同行し(七騎落ち)とのことであるので、4~5艘(そう)の小舟(平舟)で安房に逃げたのであろうか。真鶴から安房への海上ルート。そして何とか安房国・「竜島海岸」に上陸。湯河原町の城願寺に伝わる七騎落ちの伝説によると、頼朝とともに真鶴岬から安房国へ向けて船出したのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。しかし、ここには北条義時の名はない、史実は如何に?そして、主従七騎のうち、土肥実平の息子・小早川遠平(こばやかわ とおひら)は舟に乗らず、伊豆山権現へと向かった。頼朝の妻・北条政子へ、頼朝が伊豆を出発してからこれまでの経緯を知らせるためであった と。安房国へ命からがら逃げ延びた頼朝。そしてこちらが「源頼朝」が上陸した「竜島海岸」。以下の3枚の写真はネットから。「源頼朝 上陸地」碑が2基。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、伝承をもとに数か所の地名があげられてきた。なかでも、安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、大森金五郎文学博士の研究により、『吾妻鏡』の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定された。先に到着していた北条時政らが迎えたのだという。安房郡鋸南町竜島165-1。「源頼朝上陸地治承四年(一一八〇)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んた理由と考えられています。房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、九月三日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、十三日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を減ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。」そして真鶴半島巡りの最後に訪ねたのが「瀧門寺(りゅうもんじ)」「瀧門寺」は神奈川県足柄下郡真鶴町岩にある曹洞宗の寺院である。山号は久遠山不動院、本尊は阿弥陀如来(但唱作)。真鶴町指定文化財の五層塔と頌徳碑と宝篋印塔がある。「宝篋印塔」と「石仏」。「奉納大乗妙典六十六部供養」と刻まれた石仏。「宝篋印塔」。基台を含め6.8m、明和四年(1767)に十三世鳳洲了悟和尚(ほうしゅうりょうごおしょう)が万民の幸せを祈って建立したもの。多くの善男善女の浄財と労力奉仕により、宝篋印塔が建立されたと刻まれている。宝篋印塔は小松石による関東随一の石造物といわれている。小松石は箱根の火山活動によってできた安山岩。真鶴しか採れない石で、鎌倉に幕府を開いた源頼朝も小松石の巨石を運ばせたのだという。「観世音菩薩」碑。参道の左手には風雪に耐えた多くの石碑が並んでいた。六地蔵。山門への石段に向かって進む。山門への石段の前。右手に「五層塔」が。「五層塔」(左)と「大乗妙典六十六部供養塔」(右)。「五層塔」は、万寿冠者を葬った塔で、もとは光西寺(廃寺)にあったものだという。万寿は、土肥遠平の子で、母は伊東祐親の娘・万劫。父は源氏に、母は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。近くの児子神社には、村人によって万寿が祀られたと伝えられている と。「頌徳碑(しょうとくひ)」。1831年天保2年に建立。宮石工の功績をたたえたものである。「五層塔と頌徳碑山門に向かって階段下右手にある五層塔は、廃寺となった岩松山光西寺の遺物です。塔身は一つの石から作りあげられたもので、江戸初期(1654年建立)の彫刻技術水準の高さを示しています。また参道の左手にある頌徳碑は、東叡山寛永寺(東京・上野)の宝塔造営事業をなしとげた宮石工の三津木徳兵衛の功績をたたえた、天保二年(一八三一)に建てられたものです。いずれもこの地方の石材業や石材技術を示す貴重な資料です。」左手に古くから伝わっているのであろう石仏の姿が。水子・子育地蔵の社が右手前方に。水子・子育地蔵。近づいて。水子・子育地蔵菩薩碑本来「水子」は「すいじ」と読んで、生後間もない赤ちゃんのことを指していたと。江戸時代を含めいわゆる流れてしまったほうの「水子」は多数存在しましたが、特にその魂の行方について心配する風習はなかったのだと。人間の魂はあくまで生まれてから7日たった以降しか宿らないと考えられていたためであると。これも藁葺の鐘楼堂。山門。藁葺き屋根の「本堂」。瀧門寺は、弘法大師の草創と伝えられる寺。1374年(応安7年)、熱海に湯治に行く途中に立ち寄った義堂周信は、詩集『空華集』の中に「遊瀧門寺観瀑布題観音堂壁」という文字を残している。(瀧門寺に遊び瀑布を観、観音堂壁に題す)伝説によると、開山の道禅は、かつて寺の背後にあった瀧に鬼神を感じて一夜にして堂宇を建てたのだという。その後、瀧門寺は周辺の村々に6つの末寺を抱える当地でも有数の寺格寺院の1つであった。 山号は瀧門寺背後の山の頂に多宝塔があったところから、また寺号は背後に滝を抱えていたところから名付けられたとされている。伊豆の国市(旧韮山町)の昌渓院を本寺とするが、古い時代は密宗だったと伝えられている。1573年(天正元年)に林屋(りんおく)という僧によって中興開山され曹洞宗に寺院になった。「本堂」の右側には「寺務所」・「庫裡」が。本堂の内陣では住職による「節分会」追儺式が行われていた。本堂前から山門、鐘楼堂を振り返る。扁額「多寶山」。順番に焼香を行ったのであった。この日の「節分会」の案内。近所の檀家の方達であろうか15人前後が集まっていた。住職がご挨拶。唐の玄奘三蔵(602~664)が漢訳した経典・大般若経について説明する御住職。御住職が十六尊の大般若経を守るとされる護法善神の十六善神名(じゅうろくぜんしんめい)の書かれた経本を見せて下さいました。ズームして。正面は釈迦如来で、その右手前に獅子に乗っておられる文殊菩薩、左に象に乗った普賢菩薩。文殊菩薩が智恵、普賢菩薩は慈悲の象徴です。仏徳は慈悲と智恵とを円満に備えているとの事です。他に優しい顔の法涌菩薩、泣き顔をした常啼菩薩、ともに大般若経に深い因縁のある菩薩です。向って右一番前にお経を背負った玄奘三蔵。玄奘三蔵と向き合って左の方に、シャレコウベをネックレスにしている深沙大王という元・悪魔の王が居ます。深沙大王はシルクロード途中の砂漠に潜み、仏教を研究してお経を持ち帰るお坊さんを殺し、仏教が外国に伝わるのを妨害してました と。御住職が転読(宗門では最初に「大般若波羅蜜多経巻第何々巻」と唱え、教典を一巻一巻パラパラとめくりつつ転読唱文などの偈文を誦し、最後に「降伏一切大魔最勝成就」と喝破、一巻を読誦したことにするのが、一般的な大般若会の儀式作法 と。そして豆まき用の豆を頂きました。御住職から豆まきの掛け声の説明がありました。そいて全員で大きな声で!!「コロナ退散」と。自宅へのお土産に、封筒に入った「福豆」を頂きました。御住職と記念撮影する方々。我々は「鐘楼堂」に近づいて。「梵鐘」。そして帰路に「ししどの窟」の前の「真鶴 魚座」に立ち寄り昼食を。入口の水槽には鯵が元気に。入口の「大漁旗」。店内の「大漁旗」。新鮮な「海鮮丼」を楽しみ早目の帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.27
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県道739号線を真鶴半島の奥に向かって進むと、道路沿いから見える位置に「モアイ像」が藪に埋もれてひっそりと立っていた。周囲の斜面地は草木が鬱蒼と茂り、モアイ像のみが単独設置されるのも不自然なため、何らかの施設跡の可能性があるのか?ネット情報では「2021年9月12日に放送された「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)で取り上げられ、それによるとこのモアイ像は土地のオーナーが個人でお守りとして制作したもので、発泡スチロール製らしい。」とのこと。モアイ像の向かいの空き地?にも石碑が。「人生は経験である 本山恒◯ 昭和四十五年 九月二十五日(還暦)」と。車で真鶴半島の最先端まで行き、道端の空き地に車を駐めて散策開始。ケ-プ真鶴の裏手で、三つ石を見下ろす位置にひっそり立っていたのが「与謝野晶子の歌碑」。「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆のしら波」昭和7年(1932年)正月、与謝野鉄幹・晶子は初めて真鶴駅に下車され、水彩画家の三宅克己の案内により真鶴半島を訪れたのだと。「与謝野晶子の歌碑歌人の与謝野晶子が、当地を訪れた際に、ここから岬を見下ろしたときに詠んだ歌。三ツ石が、相模湾をニつに分けるような海の情景を詠みこんだ。」「幕末の台場の遺蹟」碑。「江戸時代の末期、外国船が日本の近海にも現れるようになると、幕府は「外国船打ち払い令」を出して海防を厳重にした。小田原藩でも、小田原海岸に3ヶ所の外、大磯の照ヶ崎海岸と真鶴岬のこの場所の計5ヶ所に台場(砲台)を築きました。この台場は、たて約36メートル、よこ約30メートルの規模をもっていましたが、その台座の石材が、わずかに当時のおもかげをつたえています。」そして相模湾をニつに分ける「真鶴半島」の「三ツ石」の姿を。15万年ほど前の箱根外輪山爆発の溶岩流でできた、長さ3kmほどの真鶴半島。十国峠などから俯瞰すると鶴が羽を広げたように見えることから、この名「真鶴」がある と。岬の突端、海面に巨石が3つ突き出したように見える場所が、「三ツ石」と呼ばれる景勝地。海岸から200mにわたって続く岩礁の先にあり、干潮時なら三ツ石まで歩いて渡ることができるが、潮の干満、高波などには十分な注意が必要なのであったが・・・・。中学生の頃、無謀にも学友4人で自宅からここまでママチャリで海釣りに来て、潮の干満の意識もなく、最先端の「三ツ石」まで歩いて行き、ひたすら外海に向かって釣りをしていたのだ。そして振り返って見ると、歩いて来た岩場は潮が満ちて全く姿がなくなっていたのであった。慌てて、腰以上まで海水に浸かりながら、必死に泣きべそをかきながら、陸地まで戻ったのであった。我々の横で同様に釣っていたオジサン2名は、我々には一言もなくいなくなっていたのであったが・・・。子供の頃の無知による苦い想い出なのである。天童よしみの「珍島物語」👈リンク を聴くたびに♫海が割れるのよ道ができるのよ 島と島とがつながるの♫ を♬海が満ちるのよ道が消えるのよ 島と陸とが別れるの♬ と。二つの岩の間には「しめ縄」が。昨年末に44年ぶりに劣化した「しめ縄」👈リンク の掛け替えが行われたのだと。左側の岩をズームで。朱の鳥居の姿も確認できた。右側の岩二つをズームで。人工的な石垣?の姿も確認できた。そして熱海沖に浮かぶ「初島」の姿。遠く「伊豆大島」の姿も確認できた。そして車に向かって引き返す。風雨に晒されながらも頑張る松の巨木。伊豆半島と初島の姿。この老松は命尽きて?。その前には、「二人乗りブランコ「Find happiness」」が。「県西地域の観光振興の一つに」と会社経営・古川氏より寄贈を受け、令和2年3月14日ホワイトデーに設置されました。真鶴町の観光グランドコンセプト「幸せをつくる真鶴時間」を海からの潮風や小鳥のさえずり、森からの柔らかな光を感じながら、恋人やご夫婦、たくさんの方の笑顔や思い出をこのブランコに乗せて、大切なひとときをお過ごしください とネットから。「Love Stone(ラヴストーン)」1963年、前回東京オリンピックに合わせ、真鶴町で開催した日本初の野外彫刻祭「世界近代彫刻シンポジウム」。その文化遺産の記憶を現代に蘇らせようと「真鶴町・石の彫刻祭」を2020年東京オリンピックに合わせ、2019年真鶴町で開催しました。「Love Stone(ラヴストーン)」は、この彫刻祭の作品の一つで、彫刻家・冨永敦也氏の作品です。絹谷幸太氏の小松石による作品。「創知彫刻 2020(石の遊具)」2020年度に設置。「石は生きています。石にふれて、耳をあてて、においをかいで、石に話しかけてみませんか?石はみなさんとあそびたがっています。石は生きています。石は地球のできごとを記憶しています。 あなたは石のメッセージがわかりますか? 石に触れて、耳を当てて、においをかいで、石に話しかけてみませんか?石はみなさんと話をしたがっています。」 と。三沢厚彦氏の作品・「マツル」。2021年設置。「この状況の中、真鶴のための作品と制作動機がシンクロし、当初のプランから変化し、それぞれを取り込んでいく感覚があった。モチーフは梟、荒波、豊穣、人魚、岩屋、真鶴。全くもってハイブリッドだ。」石の先端が光っているが・・・???。「ようこそ箱根ジオパークへ」。「ジオパーク って?「ジオ(地球)」を体感し、学び、楽しむ自然公園がジオバークです。箱根ジオバークでは、この地に生息する動植物や私たち人間の歴史・文化と、箱根火山がつくる地形・地質のつながりを見つけることができます。」「真鶴半島」をズームで。「名勝 三ツ石 Scenic spot Mitsuishi三ツ石は初日の出のスポットとしても有名で、元旦の朝は多くの人でにきわいます。日の出の美しさは遠方の風景と共に、お正月でなくとも楽しむことができます。」そして車に戻り来た道を引き返し、「岩海水浴場」手前に到着。植栽の中に目的の「源頼朝開帆處」があった。「誓復父讎擧義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆 處謡曲長傳七騎名 文學博士 鹽谷 温 題」 と刻まれていた。読み下しは、「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ 石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す 佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」意味は、「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と兵を挙げて、石橋山にて(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)佐公(頼朝)が再起を図り船出した昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)七騎の名を伝えていることからも分かる。」以下ネットから「ここで『源平盛衰記』から頼朝船出の様子をご紹介します。土肥実平は海人から小船を借りて、真鶴岩ケ崎から漕げや、急げ、とて4、5町ばかり漕ぎ出して浦の方をふりかえると、伊東入道50余騎が馳せ来たり「あれ、あれ」と叫び騒いでいる。背後には大庭三郎景親千余騎が続き、間一髪のところであった。一行が安房の国洲崎(すのさき)を目指して舟を漕ぐうち、突然の強風にあおられ、いずことも知れぬ渚に漂着しました。「ここはいずくやらん」と頼朝。土肥実平が舷(ふなばた)に立ち見廻すと早川の河口。(小田原と石橋の間)しかも、大庭勢3千余騎が土肥椙山で頼朝捜索の帰途、汀に幕を引き七か所に篝火をたき、酒盛りをしている敵陣に吹きつけられたのでした。幸い平家方は頼朝に気づいていません。土肥椙山で滅ぶはずの身が大菩薩の御加護でここまで生き延びたのに、終に八幡様にも見捨てられたのかと思いながらも頼朝は懸命に祈られた。実平は「この辺には自分の家人でない者はいない」酒肴を探してこようと船から飛び降り、片手に弓矢をもって走り廻り、「我が君がこの浦にお着きになった。実平に志あらんものは酒肴参らすべし」と大声で言うと、或る者は徳利に、或る者は桶にと、我も我もと船に酒肴、食糧を運んで来ました。敵の篝火の灯りを頼りに酒を呑むと全員飢えも休まった。実に八幡大菩薩のお陰です。やがて風もおさまり波も静かになったので、舟を出し安房の国洲崎にと向かいます。巻第二十二(佐殿三浦に漕ぎ会ふ事)『吾妻鏡』治承4年(1180)8月28日条によると「頼朝は実平が土肥の住人である貞恒に命じて準備させた船に乗り、土肥の真鶴崎から安房国に赴かれた。頼朝は乗船の前に土肥弥太郎遠平を御使者として政子のもとに遣わされ、離れ離れになってからの消息を伝えられた。」と記されています。」と。そして反対側にあったのが「源頼朝船出の浜」碑。石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中に逃れ、一時箱根権現に潜んでいたが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、この浜から安房へと向かった。湯河原町の城願寺に残されている頼朝主従七騎の伝説によれば、従っていたのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。頼朝の脱出に協力した漁船は、その後長く税が免除されたと伝えられている。岩海岸の前には真鶴道路の「岩大橋」が。真鶴道路は、神奈川県南部の湯河原町から真鶴町を結ぶ有料道路。全線が国道135号に指定されており、真鶴ブルーラインという愛称が付けられている。そして「岩海水浴場」の海岸の陸地側奥にあったのが「如来寺跡」。「帰命山如来寺」は1620年に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったと言われています。古い境内には石窟があり、中には石造りの十王像や菩薩坐像(聖観音像)、地蔵菩薩立像などが安置されており。地獄から天国を表しているのであった。石窟入口がこの場所。「如来寺あと新編相模風土記稿によると、帰命山如来寺は、元和6年(1620年)に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったといわれます。のちに瀧門寺の末寺となり、明治年間に廃寺となりました。古い境内には石窟があり、中に石造の十王像や聖観音像、地蔵菩薩像などが安置されています。これらの造られた時期は明確ではありませんが、享保10年(1725年)の如来寺の財産目録に記されていますから、寺が建てられて間もないころと思われます。」。「閻魔様」が手前に。別の場所から。「大日如来像」(左)と右の像は「聖観音菩薩」。「閻魔大王」、「大日如来像」と「聖観音菩薩」を上部から。「地蔵菩薩」。入口正面から再び。外にも多くの石仏が。江戸後期のものと。中央上部には「萬霊供養塔」があった。そして近くにあったのが「稲荷大明神」。「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟。内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.26
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「禊(みそぎ)の石段」を一段一段、懺悔しながら更に上って行った。鳥居を潜り初の石段から本殿までは、仏教でいう人間の数多い煩悩の数とちょうど同じ数、108段の石段があり、一段一段踏み祓う「禊(みそぎ)の石段」と呼ばれているのであった。108段の「禊(みそぎ)の石段」の両脇には石灯籠が並ぶ。石段と石灯篭は真鶴で採掘された「小松石」で作られているのだと。108段の「禊(みそぎ)の石段」を上り終わり、「拝殿」に到着。この「拝殿」は関東大震災の後に石段の上の場所に遷座され、当時としては珍しい鉄筋で建立されたものと。「拝殿」に近づいて。扁額「貴船神社」。脇から「本殿」を。左手にあったのが「祖霊舎」。「祖霊舎修復記念碑私どもの死後、霊魂は結局生前お守りいただいた氏神様のもとに帰り、安らかに鎮まって、子孫や後継者の活動を見守るものであるというのが、日本人古来の信仰であります。この祖霊舎は昭和三十九年、貴船神社の御造営が竣功した時、私どもの祖先のみたまを祀るため、嘉永元年以来使用されていた旧本殿を活用し創建されました。その社殿は、神社本建築としては郡内最古の文化財的建造物でありますが、百四十年の風雪により近年ようやく破損が目立ちはじめました。このたび貴船神社御鎮座壱千壱百年祭に当たり、記念事業の一つとして祖霊舎の修復を企画したところ、氏子、崇敬者五百余名の方々からの多額の浄財が寄せられ、大修理が見事完成に至ったので、ここにその旨を記録し永く後世に伝えます。」その左隣にあったのが「山神社」。もともと真鶴半島内に奉斎されていたそうですが、遠隔で参拝に不便なため、明治初年に同社の里宮として現在の地に移動したとのこと。鳥居の扁額「貴船 山神社」。社殿の扁額「山神社」。このコロナ禍で「鈴緒(すずお)」は触れない場所に、そして頭上に吊るされている大きな鈴「御鈴(みすず)」の姿もなかったのであった。それとも最初から鈴は・・・?。「山神社改築記念碑当社は大山祇神(おおやまつみのかみ)を奉斎する。 由緒は不詳であるが、当地方は奈良時代より石材の産出がなされるにより、古来より石材関係者の信仰篤く、真鶴半島に奉祀されていたが、数次の移転改築を行ない、明治の初期社殿腐朽 のため、当地石工組合により通称愛宕山に移転改築されたところ、大正七年三月二十八日、本村の大火により類焼し、同年十月組合によって復旧したが、土地遠隔にて参拝に不便のため屡々移転の問題が起り、翌八年四月二十八日貴船神社境内に奉遷した。今回関係有志の発企によりて、茲にまた社地の移転、社殿の改築を行うこととなったのであるが、採石に携われし人達の当時の苦労を偲びて、その冥福を祈るとともに、今回これに奉賛 した人々の家業の安全隆昌を偏えに祈念するも のである。」「神輿舎」。貴船まつり(きぶねまつり)は、貴船神社(神奈川県足柄下郡真鶴町)の例大祭で、華やかな花飾りや吹き流しで飾られた小早船と神輿船などが櫂伝馬に曳かれて海上渡御する船祭り。昭和33年に神奈川県指定無形文化財に、昭和51年に神奈川県指定無形民俗文化財に、平成8年に重要無形民俗文化財に指定(指定名称:貴船神社の船祭り)され、広島県廿日市市宮島町の厳島神社で実施される管絃祭、宮城県塩竈市の鹽竈神社・志波彦神社で実施される塩竈みなと祭とあわせ、日本三大船祭りとされている。令和2&3年度の「貴船まつり」👈リンク は新型コロナウイルスの感染拡大により残念ながら開催を中止した と。「神輿」は祭り2日間にわたり町内を巡幸する。貴船神社の神輿は、7月27日の発輿式の後、神社境内の急な階段を降りることから巡幸がはじまる。神社周辺を練り歩くと、宮ノ前岸壁から神輿船に乗せられ、東西櫂伝馬、東西小早船、東西囃子船と共に華麗な海上渡御の神事を行なう。お仮殿前岸壁に着くと、すぐに西の浜、次いで東の浜に於いて、神輿を屋根まで海に入れるみそぎと呼ばれる神事が行なわれる。町内を巡幸する際は、町の人々から水をかけられずぶ濡れになるなど、その勇壮な姿が印象的である。水を含んだ神輿は重さ1トンになるともいわれ、担ぎ手の力の見せどころとなる。2日間にわたり町内を巡幸してきた神輿は28日夜に、27日と逆コースの海上渡御を経て、神社へ還御する と。「神輿舎建設記念日本三大祭りのひとつである当社舟祭り(神輿海上渡御)は昭和三十三年十一月二十八日神奈川県無形文化財として指定され、例大祭ごとにその華麗なることで知られておるが、神輿を保管せし木造庫も三十余年の風雨のため腐朽したので、今回役員諸氏の計らいのもと、壱千壱百余の氏子崇敬者の浄財をあおぎ鉄筋コンクリート造に改造することとなった。これ偏に当計画に御賛同たまわりし諸氏の協力によるものであるので、芳名を永く書きとどめ神輿舎内部に奉安するものである。」「本堂」前の右手にあったのが「御船社」。和船模型「貴船丸」(町指定重要文化財)本船は明治12年(1879)、相州真鶴村船頭組合が豊漁と渡海安全を祈願して郷社賢船神社に奉納したものて、当村の船匠、田倉幸蔵の手になる。江戸時代から明治にかけ、近郷と小田原・江戸との間の主に米穀・雑貨類の運送にあたった帆走廻船(弁才船)の模型で、大きさは400石積船級の5分の1縮尺のものと推定される。明沿20年(1887)、500石積以上の和船建造が禁止され、以降洋式帆船化しているので、伝統的な和船(廻船)の形状・構造を知る上での貴重な資料てある。真鶴村船頭組合「大山講諸掛帳」に「貴船丸」奉納に関する詳細な記録があり、甲板艤装・帆装等、今日実見できない資材名を、この模型と対照しながら窺い知ることができる。なお昭和初期まては、「貴船丸」も例祭において、神興の海上渡御に随行して帆走することがあった。「神輿社」の壁に描かれた「小早船」。「貴船祭り海上渡御(背景画)貴船神社の起源は古く、今を去る1,000余年の寛平元年、平井翁が大国主、事代主、少彦名の三神を祭神として、勧請以来、明治元年に社号が改まるまて貴宮大明神として近郷漁民の崇敬をあつめてきた。祭りの形は、縁起によれば、中世の頃男女の一日社参祝いに始まり、江戸初期まては神座船をつくり、港内の漁船や運送船の祈疇をして回ったものが、その後は村内を巡行し、村祭りとして定着したといわれ、現在「貴船祭り」(毎年7月27・28日)は日本三大船祭りの一つにかぞえられている。(神奈川県指定無形民俗文化財)背景画は船祭りの主体てある擢伝馬船(曳き船)・小早船・神興船・囃子船各ニ艘が、昭和初期の港で、祭り初日に岬の神社から神霊を移乗させ、港内岸辺の「御旅所」へ向かう伝統的祭り形式(海上渡御) を春陽会々員大石洋ニ郎氏に依頼して描いたものである。」「御船舎」。そして大きな「貴船神社の船祭り」碑。(平成11年(1999年)銘)。これも小松石製。「厄除厄祓門」を私も潜る。「厄除厄祓門(やくよけやくはらいもん)穢れ(けがれ)を除き、厄祓をして心身を清め、明るく健やかに人間生活を続けることが、日本古来の伝統的信仰です。この門の形は、神道の浄めの神事である「大祓(おおはらえ)」に用いられる、人形が模(かたど)られたものです。お潜りになられます皆様の限りない発展を願うべく、篤志家より奉納されました。」こちらは「心願成就石」。丸い石には「心」と。丸い石にふれながら強く願うと、願いが叶えられるとのこと。台座には「求願」と。「心願成就石手を添えて心静かにお祈り下さい。自らの心の奥底にある強き願いについて考え、見つめなおすことは、平素、日常においてなし難いものです。神様に祈りを捧げる時間は、また自らの願いや苦しみを、自らに対し問いなおす機会でもあります。心の揺れ動き、さざ波を抑え、「心の願い」を祈念下さい。「石庭奉納碑」。近づいて。「本殿」とその奥に「社務所」が見えた。108段の「禊(みそぎ)の石段」を見下ろす。「つもりちがい 十ヶ条一、高いつもりで低いのが (教養)ニ、低いつもりで高いのが (気位)三、深いつもりで浅いのが (知恵)四、浅いつもりで深いのが (欲望)五、厚いつもりで薄いのが (人情)六、薄いつもりで厚いのが (面の皮)七、強いつもりで弱いのが (根性)八、弱いつもりで強いのが (自我)九、多いつもりで少ないのが (分別)十、少ないつもりで多いのが (無駄)」「今月のまことの道目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心の誠なりけれ 明治天皇」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.25
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次に訪ねたのが、県道739号線・真鶴半島公園線沿いにあった「貴船神社(きぶねじんじゃ)」。神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1117。「貴船神社」碑。古くは 貴宮(きのみや)大明神ととなえていましたが、明治維新の際 貴船神社と改めました。寛平元年(889年)の創建といわれ 大国主神 事代主神 少彦名神がまつられております。毎年7月の27・28の両日におこなわれる貴船祭は、日本三大船祭の一つとして有名で、同時に奉納される鹿島踊りとともに、神奈川県の無形文化財(昭和33年)無形民俗文化財(昭和51年)に指定されております。」「貴船神社」案内板。「貴船神社はもと、貴宮大明神とよばれていましたが明治初年から現在の名称になりました。当社の歴史は古く寛平元年(平安前期の889年)の創建といわれ、平成元年に御鎮座1100年祭を行いました。毎年7月27日、28日の祭礼『貴船まつり』は当地の神話をもとに江戸時代前期から行われ、日本三船祭りの一つとして有名です。なお、社殿の石段の数は、鳥居をくぐり上境内まで108段で、仏教では煩悩の数とされます。これを踏み越えるので、当社ではこの石段を「清めの石段」などと申します。足に自信のおありの方は、是非参道の石段をお登り下さい。御祭神 主祭神 大国主神(大黒さん) 事代主神(恵比寿さん) 少彦名神当神社の例祭は、左記の指定を受けています。 県指定無形文化財(昭和三十三年) 県指定無形民俗文化財(昭和五十一年) 国指定重要無形民俗文化財(平成八年)「境内案内図」。石鳥居。「大正十五年五月再建」と刻まれていた。関東大震災(大正12年(1923年))の3年後の大正15年(1926年)に石鳥居が建立されていることが解ったのであった。社号標石「貴船神社」。「烈霊碑」。近づいて。「忠魂碑」。石段を上って行った。右手に「震災復舊記念」碑。「小早船彫刻修復 櫂伝馬船新造記念碑」。「日本三大船祭りにも数えられる「貴船祭り」に使用してきた、小早船、櫂伝馬船は昭和二十八年に建造され、以来四十余年の風雪に耐えた小早船の彫刻等も(江戸天期作)永い歳月のあいだ彩色、修理もせぬまま打過ぎ損傷も激しく、平成五年日光市小西美術工芸社に依頼し、県、町の補助金と奉賛会基金により無事完了し、六年七月華麗なる状に復元した。一方、櫂伝馬船は当時船材を町より払下げられ、建造費は西櫂伝馬船を船主組合・海運関係者等で賄われたが、東櫂伝馬船は昔よりの「しきたり」により棟梁故平井幸作氏の寄付により建造された。また、櫂伝馬船も毎年修理を重ねつつ使用してきたが、最早や限界に達したので、平成七年徳島市(株)浜本造船所に建造を委託した。今回の新造に際し町(株)鈴木組、奉賛会及び花漕花山車関係者の御協力により無事完成され、九年度例大祭に勇姿を真鶴港に浮かべることができた。なお、この貴船祭りは平成八年十二月二十日、国指定無形民族文化財に指定されたので、茲に過ぎ来し事跡を録して記念とする。」「小早船」。海上渡御の際、舳には、陣笠、袴姿に脇差をさし、監視の役割をする「舳乗り」が乗船し、艫には船頭と櫂使い、水夫を乗せ、運行に万全を期します。東西2隻の櫂伝馬に曳航され、神輿船、東西囃子船を従える勇壮華麗な「小早船」の姿は、時代絵巻を思わせるもので、多くの観客が魅了される と。 【https://kibunematsuri.jp/kobayabune.html】より「櫂伝馬船」。 【https://4travel.jp/travelogue/11168127】より「手水舎」。御神紋の「三つ巴」紋が手水鉢に。「源頼朝の腰掛石源頼朝一行が休息された岩石を「鵐窟」付近より移設したものと伝えられており、現場では水平だったものを垂直に立て、「腰掛石」として設置してある と。「貴船神社」案内板。「貴船神社御祭神 大国主神 事代主神 少彦名神創建は平安時代、宇多天皇の寛平元年(八八九)六月十五日と伝える。古来真鶴の鎮守で、漁業や海上安全の守り神ともされ、人々の篤い信仰を受けて貴宮大明神と呼ばれた。明治初年貴船神社と改称し、同六年郷社に列せられた。大正十二年の関東大震災から復興するに当り、境内を拡張して昭和十年現在地に社殿を移転、同三十八年本格的な造営が完成した。拝殿内部の彫刻一切は、幕末の巨匠江奈の半兵衛の名作である。大正三年二月、華頂宮博忠王殿下、久邇宮邦久王殿下の御参拝があった。例祭は毎年七月二十七・二十八日・神輿の海上渡御は日本三船祭りの一つとして名高くこれを含む「貴船神社の船祭り」は昭和三十三年に神奈川県無形文化財、同五十一年に同県無形民俗文化財、平成八年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。」狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。更に石段を上って行った。左手にあったのが「龍神社」。海神をお祀りする社。漁民の多い真鶴町においては、航海の安全と大漁を祈念する参拝者によって篤く信仰されていると。正面から。見事な彫刻。反対側には、「貴船稲荷社(きぶねいなりしゃ)」があった。朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」と。朱の鳥居を潜って。「貴船稲荷社御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたま) 例祭日 二月初午御神徳 五穀豊穣 商売繁盛 福徳円満 家運隆昌当社に古く祀られていた稲荷社に、真鶴町の各家庭で祀られていた稲荷を合祀した社。近年、京都伏見稲荷大社より御分霊を勧請した。稲荷は食物・稲作・農耕の神として広く信仰され、狐の姿をした神、あるいは狐が大神の使者とみなされることも多い。」「恵比寿大黒社」(右)と「淡島明神社」(左)。「恵比寿大黒社」恵比寿様と大黒様のお姿が。恵比寿が大漁追福の漁業の神、大黒様は五穀豊穣の農業の神である。「淡島明神社」。「恵比寿大黒社御祭神 事代主神(恵比寿さん) 大国主神(大黒さん)御神徳 海上安全 大漁祈願 開運招福 商売繁盛貴船神社の御祭神で、恵比寿・大黒は古来、福の神とされる。七福神は様々な神仏が宝船に乗り、合祀されるものであるが、地域や時代により交代がなされたのに対し、恵比寿と大黒は移るこなく、七福神の中心として崇敬された。当社は商売、業にわる人達の信仰が篤い。淡島(あわじま)明神社御祭神 淡島明神御神徳 安産 子授け ご婦人の病気の守護和歌山県に鎮座する加太(かだ)神社は、淡島神社と呼ばれ、各地の淡島社はこの神社より御分霊を勧請したものと伝えられる。櫛や簪の奉納、またニ月八日の折針を供えた針供養、三月三日の娘雛などの人形供養をすることも、この信仰の特色である。」「猿田彦神」碑。出雲大社守、天鈿女命(あまのうずめのみこと)等の文字が刻まれていた。2基の寄進碑。「貴船神社御道営寄附芳名」碑。こちらにも多くの寄進碑が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.24
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この日は2月3日(木)、保養所の7:30からの朝食。そしてこの日は、富士山の山頂が保養所から美しく見えたので「大観山(たいかんぜん)展望所」に立ち寄ることにする。「だいかんざん」と思っていたが。途中、「仙石原すすき草原」で車を止める。台ヶ岳の斜面を覆い尽くす様に、数えきれないほどのススキが一面に広がっていた。「かながわの景勝50選」「かながわの花の名所100選」にも選ばれている名所。そして「芦ノ湖」湖畔まで下り「東京箱根間往復大学駅伝競走往路ゴール」地点に立ち寄る。反対側に「東京箱根間往復大学駅伝競走復路スタート」地点。「箱根駅伝栄光の碑 若き力を讃えて」碑。そして県道75号線・椿ラインを上って行き「大観山展望台」に到着。芦ノ湖と富士山、駒ヶ岳などの中央火口丘、金時山などの外輪山、そして遠くには南アルプス、三浦半島、房総半島、大島までも眺望でき、まさに360度の絶景を楽しむことが出来るのであった。ほぼ左右対称の富士山の勇姿に感動したのであった。「箱根の地形が一望できる絶景ポイント 大観山箱根火山の成り立ちを風景から読み取ろう!大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山です。①・・・約40 ~ 23万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。②・・・約23 ~ 13万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな 噴火が起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。目の前に広がる 風景で外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。③・・・約13 ~ 8万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。④・・・約8 ~ 4万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。⑤・・・約4万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが 駒ヶ岳やニ子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。大観山では、この箱根火山の形成モデルに出てくる外輪山と中央火口丘の全ての山々を観察することができ、箱根火山がどのようにできたのか観察することができます。」「箱根火山の形成モデル」案内板。「芦ノ湖」湖面には遊覧船の姿が。乗客も極めて少ないのであろうが。「駒ケ岳」山頂・標高1,356mの「駒ヶ岳ロープウェイ山頂駅」の姿が確認できた。そして「大観山展望台」を後にして「椿ライン」を戻る。途中、ビュースポットで車を止めカメラに。この朝は、富士山周辺には雲ひとつなく絶景!!「椿ライン」から県道20号線熱海箱根峠線を進み「十国峠」を通過。その昔、十の国(伊豆、相模、駿河、遠江、甲斐、安房、上総、下総、武蔵、信濃と五島<大島・新島・神津島・三宅島・利島>)が見えたことからその名がついたといわれる十国峠。日金山の頂上からは、北に富士山、西に駿河湾、東に相模湾の景色が広がっているのだ。そして往路と同じ県道11号線・あたみ梅ラインにて「熱海梅園」の横を通過し国道135号に出て真鶴方面に向かう。左手にあったのが「熱海陸軍病院裏門跡 二・二六事件 河野寿大尉自決の地」👈リンク案内柱。静岡県熱海市春日町14付近。更に進むと左手にあったのが「馬頭観世音」碑。その先直ぐ右手にあったのが「秋戸郷跡」碑。 静岡県熱海市伊豆山189。「北条政子・源頼朝ゆかりの地」碑。源氏再興を目指して挙兵した源頼朝、石橋山の戦いで敗れ、海を渡って今の千葉県に逃亡した。その時北条政子は伊豆山神社に逃げていたが、平家方の追っ手を避けて逃げ込んだのがここ「秋戸郷」。「この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。治承4年(1180)8月23日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて安房に逃れました。この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。9月2日、政子は、伊豆山権現の別当文陽房覚淵:かくえん:の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。秋戸郷は足川を南の境とする走湯山(そうとうさん)の神域東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神威を後ろ楯に覚淵の保護も行き届き、平氏方の捜査をくらませることが出来ました。その日のうちに土肥実平の子・遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。この年の10月7日頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、12日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。」伊豆山権現の別当文陽房覚淵(かくえん)の計らいで密かに熱海の秋戸郷に移された北条政子姉妹の姿。真鶴駅前を通過。そして信号を右折して「真鶴半島」に入り、海に向かって進み「しとどの窟(いわや)」に到着。「しとどの窟」案内板。「しとどの窟波の浸食によってできたこの海食洞はしとどの窟と呼ばれています。1180年(治承4年)、石橋山の合戦で平家に敗れた源頼朝は箱根山中や湯河原のしとどの窟などを経て、最後はここ真鶴のしとどの窟に身を隠しました。追っ手をやり過ごした頼朝は、7人の家臣と共に真鶴の海岸から安房の国へ脱出したと伝えられています。また、頼朝が窟に逃げ込んだ際に、追っ手が窟を覗くと「シトト」と言われる鳥(ホオジロの一種)が急に飛び出してきたので、人影がないものとして追っ手が立ち去ったことからこの名前が付いたと言われています。■しとどの窟の変化頼朝の時代には130mの奥行きがあったと言われる窟も徐々に波に削られ、幕末には幅3m、奥行き11 mほどの大きさとなっていました。当時の窟は海に面していましたが、大正関東地震による土地の隆起で現在の高さとなります。さらに第ニ次世界大戦時、真鶴岬溶岩(安山岩質)から成るこの場所は、三浦半島に海軍飛行場を作るため、資材として多くの石が切り出され、今の規模となりました。■真鶴の三名字の由来真鶴に古くからある名字として「青木」「五味(ごみ)」「御守(おんもり)」の3つがあります。頼朝がしとどの窟に身を隠した際に手助けをした功として、手助けの内容にちなんだ姓を与えたという言い伝えがあります。木の枝で入り口を隠した者には「青木」、食料の手配をした者には五つの味わいを意味する「五味」、追っ手から頼朝を守るための見張り役をした者に「御守」の三名字です。」「鵐窟(しとどのいわや)源頼朝が、治承4年8月(1180年)石橋山の戦いに敗れたとき、この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれました。その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと「シトド(ほおじろ)」といわれる鳥が急にが飛び出たので人影はないものと立ち去った。ということから鵐窟といわれ、かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがありました。江戸時代に陰山道人による頼朝画像と銘文のある石碑が残っています。」右手の格子扉のある場所が「鵐窟(しとどのいわや)」。近づいて。「鵐」とはホオジロの仲間をひっくるめた総称の古語らしい。頼朝を探していた追手がこの窟に近づいたとき「しとど」が飛び立ったたために、人が隠れていないと判断して去ったことに因んでいる。この「しとどの窟」、石橋山合戦で敗れた源頼朝が隠れていたところなのだが、実は湯河原町とここ真鶴町に2つあり、どちらが本当に頼朝が隠れていたところかははっきりしない。現在では、途中から移ったのではないかとされているようだ。源頼朝の線刻画と業績を刻んだ石碑。「鵐窟(しとどの窟)」の内部を格子の隙間から。内部には石仏の姿も。かつては約130mほど、長い洞穴だったそうだが、落盤などもあり、今では数mほどしかないと。昔の鵐窟(しとどの窟)。こちらは「品川 台場礎石之碑」。1853年(嘉永6年)、江戸の海防のために築かれた品川砲台がその役目を終えたときに、砲台の礎石の一部が払い下げられ、この地に移された。幅3mほどの大きな石。 江戸時代末期に築かれた品川台場(砲台)にも真鶴産の石が使われた。「品川台場礎石之碑の記」。「品川台場礎石之碑の記江戸末期の嘉永六年、海防のため砲台を築造せし品川台場の遺蹟が、埋立工事により空しく失われることを思い、真鶴町株式会社鈴木組社長鈴木亀蔵及び横浜市松浦企業株式会社会長松浦信太郎の両氏が、浄財を投じてその礎石の一部をここに移し碑を建つ。創立者がこの地を以てしたるは、礎石の大石が当地算出の名石であることを世に残さんとし、且つ採石に當りし当時の労苦を偲びてその冥福と当地の石材関係者の発展を祈願するにありと云う。これにより品川台場の遺蹟が、この地に於て保存せられるのもならず、當時に於ける郷土の石材開発の状況の一端をも知ることを得、将来貴重なる文化財となり名所地とならん。茲に建立の由来を記し、両氏の功績と愛郷心に敬意を表す。」「海防のため砲台築造の台場」。その先には朱の太鼓橋と祠があった。「志とゝはし」と書かれた銘板が。「観音堂」であろうか。内陣の仏像。ズームして。前立観音とその背後にはご本尊の聖観世音。そして目の前にあったのが「真鶴漁港」。波静かな「真鶴港」。対岸の、海に面した真鶴町の街並。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.23
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次に訪ねたのが「香山寺」。「香山寺」の駐車場横にあった案内板。「山木判官兼隆館跡と菩提寺香山寺平安時代末期に伊豆国は平家の直轄地でした。その目代であった山木判官兼隆は、この山木地区に館を構えていたと伝わっています。治承4年( 1180 )に源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵、最初に攻撃したのが山木館で、兼隆は牧之郷の加藤景廉に討たれたとされています。この時の軍勢には、北条時政・義時父子も加わっています。高台にある香山寺は兼隆によって創建されたと伝わり、境内からは山木地区を一望することができ、兼隆の供養塔があります。」。ユニークな形の「香山寺」の山門。臨済宗の寺らしくないアーチ型の石造り山門は明治初期の韮山県庁に使われていたもの。変遷の末に香山寺に移設再建されたという。韮山県庁は江川家のある韮山代官所に置かれ、早い時期に新政府に恭順した代官の江川英武が県知事を務めたが、数年で足柄県に統合され廃止となった。この門はその時期(慶応四年・1868年 )に移設したと推定されるから、既に154年近くが経過しているとのこと。「兼隆菩提所」碑。「香山寺」。スロープを上って行った。梅も僅かに咲き出し始めていた。こちらが昔からの「山門」であろう。無縁仏塚。山号は「景雲山」。「香山寺」。「景雲山 香山寺(こうざんじ)臨済宗建長寺派(諸山)開山密宗 不明 臨済宗 直諡佛乗禅師天岸慧廣大和尚開基密宗 伝・八牧判官平兼隆公臨済尺利家時公(氏公太父) 臨済宗 足利家時公(尊氏公太父) 中興間基・北条早雲公 再中興開基内藤信成公 千手観世音菩薩伊豆中道十ニ番札所由緒・略歴草創久寿元年(一一五四)開基八牧判官平兼隆公、治承四年(一一八〇)八月十七日逝去す。法名は香山寺殿興峰兼隆大禪定門。この当時は禅宗にあらず密宗なりしという。それ故当時の開山和尚は不明なり。その後百七十余年を経て寺門頽廃するに至る。この時足利尊氏公の太父家時公、元徳二年(一三三〇)四月開榛して野州雲岩寺開山勅諡佛国禅師応供広済国師の法嗣佛乗禅師を請じて開祖とす。その頃独立本山にして塔頭五院ありて輪番地なり。七堂伽藍整備して百器具足豆南の巨刹、東海の厳林と称せらる其後足利氏の末世に及び天下争乱の世となり寺門頽廃、塔頭両院を残す有様となった。然る時小田原北条氏長氏公(北条早雲)、諸堂伽藍を中興し、境内地ニ万五千ニ百六十一坪門外の寺領永ニ十三貫文を寄付せらる。然れども世は更に再転して秀吉の小田原征伐となり、本堂もその災を受けて宝物器具を焼失するに至る。慶長ニ年(一五九七)韮山城主内藤三左衛門尉藤原信成公又費を投じて再興せらる。元禄五年(一六九ニ)建長寺の指名を受けてその末寺となる。江戸幕府の本末制度の励行受けざるを得ざる法令に従いしなり。幕末に及んで嘉永六年(一八五三)十月二十五日町家の延焼により類焼を免れず、遂に堂宇宝物古記録残らず灰燼に帰せりと云う。宝物・古記 薬師如来座像(伝・兼隆公室念持仏) 開山直諡佛乗禅師像。 小田原北条氏・虎之御朱印等 三通他石造遺物 六地蔵石憧(室町前期) 笑華・川派和尚塔 山門(元・韮山県庁の門)他「薬師堂」であっただろうか?扁額は「瑠璃光」。内陣。中央に「南無薬師如来」像。「鎌倉殿の13人」のポスター。左側には庫裏(旧本堂)があった。そして右に進み左折するとすぐ先の一角にあったのが「八木兼隆の供養塔」。800回忌を記念して建てられたものだそうで、それからまた月日が流れ今年で842回忌ということに。「香山寺(山木兼隆供養塔)山木兼隆は平氏の一族で、伊豆に流人として暮らしていましたが、京都の政変により伊豆国の目代(国を治める長官の代官)として取り立てられました。そのため、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げでは最初の標的とされ、滅ぼされました。その日は三島大社の祭礼で、頼朝たちは祭りで行きかう人々にまぎれ、また山木館の守りが手薄になる機会を狙ったとも言われています。禅宗に改宗後、「香山寺殿興峯兼隆大禅定門」と法名を授けられました。山木兼隆供養塔は、この地で減ぼされた兼隆を偲び、平成2年に建立されました。」「山木兼隆供養塔」は五輪塔。「香山寺興峰兼隆大禅追善菩提供養塔」。山木兼隆の法名は「香山寺殿興峰兼隆大禅定門」と「本堂」に向かって更に山木兼隆の「供養塔」の横を進んで行った。「本堂」を正面から。禅寺(臨済宗)らしい、広くはないが華美な印象を避けた豪壮な雰囲気を持つ。久寿元年(1154年)、伊豆国目代の山木(平)兼隆によって建立された臨済宗建長寺派の寺院。 御本尊は千手観音菩薩。静岡県伊豆の国市韮山山木868−1。扁額は山号の「景雲山」。「内陣」。中央に「薬師如来座像」が。「沼津アルプス」方面の眺望。一番左の山が「鷲頭山 392m」であろう。伊豆半島の付け根に位置する、400mにも満たない低山だが、首都圏からのハイカーも多い人気の山。北にある徳倉山(256m)や西に位置する大平山(356m)などと併せて「沼津アルプス」の愛称で親しまれ、縦走を楽しむ登山者も少なくなく、首都圏から訪れるハイカーも多い。季節を問わず楽しめ、登山道中は富士山、南アルプス、駿河湾の眺望が楽しめるのだと。頼朝は、ここ山木館への襲撃を山の麓(写真左手)の屋敷から見守り、火の手を襲撃成功の証として確認したのだと。時政・義時父子は見事に初戦を飾り、こうして頼朝とともに平家打倒を目指す戦いは幕を開けたのだった。 【大人の休日倶楽部 2月号】より山を背にした静かな場所にあり、古代から中世に変わる治承・寿永の乱における重要な舞台の一つでから、リアルに歴史を感じながら、参拝することが出来たのであった。周辺には源頼朝挙兵関連の史跡が点在しており、一日かけてゆっくりまわるのはとても楽しいのであったが・・・・。御朱印を頂きました。この後近くにあった「山木皇大神宮」👈リンク は今回は訪ねなかったが、2月18日(木)2回目の「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の際に訪ねたのであった。そして次に訪ねたのが「平兼隆館の跡」。案内板はこれのみで他には何もなかった。突き当りになる坂道を上って行った。「山木判官平兼隆館跡」。治承4年(1180年)8月17日の夜、源頼朝は挙兵するとその手始めとして伊豆目代平兼隆(もくだい たいらかねたか)の屋敷を襲ったのであった。奇しくもその日は三島大社の例祭の日。そのため館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄であった。激戦の末、平兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉。館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている源頼朝への知らせとし、これが源氏再興ののろしとなったのであった と。現在は個人宅となっており、許可なく入れなくなっていた。敷地内に篤志家が建てた?「兼隆館跡」の石碑があった。静岡県伊豆の国市山木822-1付近。これが「兼隆館跡」と刻まれた石碑。そして2月6日(日)放送ののNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人(5)「兄との約束」」のテレビ画面より。「山木判官平兼隆館」の襲撃隊の先導役を務めている北条宗時そしてその後ろに弟北条義時、父時政。山木判官平兼隆館へ攻め入る北条勢。討ち取られる「山木判官平兼隆」。しかしその後「石橋山の戦い」に敗れて、箱根山中に逃走し「ししどの窟」👈リンク に隠れる頼朝勢。そして次に向かったのが「江川邸」。駐車場には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーが駐車中。伊豆の国市内に宿泊された方は、宿泊施設、指定の観光拠点及び最寄り駅を自由に移動できるよう、シャトルタクシーが無料で利用できるとのことであった。ラッピングは全部で3種類。運行期間 2021年12月1日(水)~2022年2月20日(日)運行台数 13台/日「ようこそ、歴史とのかけはし韮山町へここに住む人も、訪れる人も、ともに気持ちよくありたい。わたしたちの郷土がいつまでもきれいで美しく、誇れますようみなさまのちょっとした「ふるさとへのこころづかい」をお願いします。韮山町の良き想い出は大切に持ち帰り、旅でのごみはマナ-を守ってお捨てくたさいどなたも気持ちよく過ごせますようご理解・ご協力をお願い申し上げます。」と。「江川家菩提寺 江川太郎左衛門・江川家代々の墓碑 本立寺」案内板。「江川邸が「島津家屋敷」に」と書かれた2018年の新聞記事。ここ江川邸で大河「西郷どん」のロケが行われたと。「担庵公思索の道」案内板。「坦庵公思索の道」という愛称は、平成 26 年度道路愛称選定事業 で、市民から応募のあった路線、愛称名から決定した。 江川邸から反射炉までを結ぶ古い山沿いの道(根方道)の一部で、旧 韮山町時代から、「坦庵思索の路」として親しまれていた。伊豆の山の西麓に位置し、韮山反射炉と江川邸を結ぶ南北の道で、水田、畑などの 農地や集落地及び丘陵の間を通る、自然豊かな2.7Kmのルートである。江川坦庵公はこの道を通って反射炉まで通った。江川家の菩提寺である本立寺には坦庵の墓がある。江川太郎左衛門 享和元年(1801年)~安政2年(1855年)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官であった。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。号の坦庵の呼び名で知られている。近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。赤のラインが「坦庵公思索の道」。そして「江川邸」正面へ。韮山反射炉を建設した江川太郎左信門英龍(担庵)が暮らした家てあり、韮山代官所としても使われた。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されている。「重要文化財 江川家住宅江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現在の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁・静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られている。昭和42年(1967)に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。江川家住宅宅地 11837平方米同 主屋 552平方米同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等」「江川邸」は現在も工事中であった。【主屋工事実施に伴う限定公開について】 主屋屋根工事実施のため、江川邸(江川家住宅)は臨時休館しておりましたが、 2021年11月7日(日)より開館しております。 まだ工事中ですので、通常とは異なる動線でご案内することが続きます。 また、展示品なども工事の影響を考えてご覧いただけない場合もございます。 なお現在は、通常見学では使用していない正面玄関から主屋にご入場いただいております と。 「江川邸」👈リンク の内部見学はこの日はパスして駐車場に向かって引き返したので あったが・・・・。「JINの撮影風景」の写真集。NHK大河ドラマ「篤姫の撮影風景」の写真集。そして、この日の散策は、ここまでとし、しばしベンチで休憩、その後宿泊予定の箱根・仙石原にある保養所にと向かったのであった。この日の夕飯。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.22
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「毘沙門堂」を後にして次に訪ねたのが「伊豆滝山不動堂」。 静岡県伊豆の国市韮山山木。「伊豆滝山不動」案内板。「源平合戦端緒の地治承四年七月十七日、源頼朝は山木目代平兼隆を夜襲しこの山木の地で源平合戦の火蓋がきられた。これに先立ち、この滝山不動で、平家の流人文覚上人と頼朝が、平家追討の策謀を練ったと伝えられる。」「伊豆滝山不動」案内板。「伊豆滝山不動名称 伊豆滝山不動明王(別名 旗揚不動・呼止不動)堂宇 本堂・奥の院名所 不動の滝(高さ十八M)、文覚上人の隠れ穴本尊 不動三尊像(不動明王・矜羯童子・制吐童子)由来 不動明王は大日如来の使者で、衆生を救うための仮の姿とされる。慣怒の相をし、手には 三鈷剣と羂索を持ち迦楼羅の焔という火炎を背員う。本不動明王の由来は詳らかではないが、 石造物や伝承から江戸時代中期までは遡れる。 奥の院の下には、鎌倉時代の僧、文覚が隠れたとされる洞窟があり、文覚がここで、 源頼朝に平家打倒を勧めたとの謂れから、旗揚不動とも呼ばれている。また、この洞窟は 文覚が配流されていた奈古谷の毘沙門堂へつながっていると言い伝えられている。 このように、中世には既に祀られてあり、古くは修験者の震場として知られていたと 推察できる。 堂内の奉納物などからは、地元をはじめ近郷近在の人々を護ってくれる不動として、 江戸時代から大変栄えていたことが窺えます。」素朴な冠木門を進んで行った。参道を進む。「奉納 滝山不動明王」碑、「滝山大不動明王」案内板。「奉納 滝山不動明王」碑に近づいて。「奉納 滝山水神由来当山最古の様なり 現在の滝壺の◯◯近にあり 再度の台風水害により流失此の水神様の神勅に基き昭和五十六年二月四日現在地に再建神祭す」参道横には「蠟梅」の花が満開状態。こちらの蠟梅は鮮やかな黄色の花が。そして左手にあったのが「滝山不動堂」の「本堂」。内陣。平家の流人文覚上人と頼朝が平家追討の策謀をこの場所でも練ったのであろうか?本堂(不動堂)には、源頼朝が文覚とともに祈願崇拝した不動明王(旗挙不動明王)が安置されているとのことであったが、御開帳されていなかった。近くにおられた氏子?のオジサンに聞くと、奥の院まで徒歩で約15分とのことで奥の院、不動の滝を訪ねる事とした。巨岩の転がる中に出来た狭い参道を慎重に上って行った。雨の日は極めて危険な場所となるのは確実。奥の院へ向かう参道は、巨岩をぬって山の上へと続いていた。落石がないことを祈るのみ の心境で上って行った。「滝山明神」。ステンレス製の鳥居の先に小さな石祠があった。「奉納 滝山明神」碑。洞窟の如き場所に、石蓋の如き岩の白き面には「南無妙法蓮華経」の文字が。この巨岩の下の隙間が「文覚上人隠窟」なのであろうか。案内板は汚れていて解読不能。なんとか「奥の院」に到着。「奥の院」には、江川家三十五代当主江川英毅が奉納した大不動明王が安置されている三十六代英龍が盗まれた不動明王を日本橋で発見し、買い戻したという伝説が残されている。内陣。「滝山不動明王」と書かれた提灯が対で。「滝山不動由来 江川家三十五代当主江川太郎左衛門英毅滝山に天保三年十二月十五日大不動明王奉納神祭する三十六代英毅時代・・・盗難にあって英龍江戸勤番も無事終り自宅に帰る道すがら日本橋の角の古道具屋の前に来た時太郎左衛門、太郎左衛門と云う声にかごを止めて出て見れば小道具屋の前何にげなく店に入る。奥にきて見れば韮山不動明王ほこりまみれてあわれな姿早速店の主人に実状を話し手持金全部ニ銭三厘三毛七買戻し不動明王を駕籠にのせ自分は歩きつづけ故郷に到着、自宅によらず滝山に一直無事奉納再神祭せらる由、今にして大不動明王故こに鎮座す。今直を伝説として世に残る英龍こと坦庵公信仰の深さを知る。」「不動の滝」には水はチョロチョロと僅かに。多賀火山の溶岩の端にかかる滝であると。落差18mの滝壺周辺を見る。小さな石灯籠も。巨大な岩壁の下に小さな「滝山明神」。そして足元に注意しながら慎重に、上って来た参道を下って行った。太鼓橋もあった。そしてもう一度、黄金色に輝く「蠟梅」を楽しんだのであった。蝋細工のような花を咲かせることから「蠟梅」。よってこれぞ「蠟梅」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.21
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「奈古谷観音堂」を後にして、次の目的地である、伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている「毘沙門堂」を目指して「文覚さんと毘沙門道」の坂道を上って行った。途中左手に立派な石碑があった。「史跡 文覚上人流寓(るぐう)之跡文覚上人 承安四年(一一七四年)伊豆国奈古谷村に配流、居寓六歳、その間、東奔西走、専ら源家の再興斡旋に努めた、治承四年八月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勧説による所と、平家物語は叙している。即ちこの地が「上人籠居」の地である。後 頼朝公神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙門堂宇を建立、源家の万福を祈った春風秋雨八百年 茲に往時を追思しつつ略史を刻み、建碑の所以とする。 田方郡韮山町奈古谷 史跡保存会長 木内栄撰 世話人 沼津市 山田梅軒 三島市 木村庄三 昭和五十一年十一月 東京都台東区上野二丁目 建碑者 倉島延三」上記の木内栄撰氏は「天長山国清禅寺盛衰沿革史」(韮山町史『町史の栞』第三集)を著された木内栄撰氏。また建碑者の倉島延三氏は、三島市出身の中央財界の方で、三島大社内、旧三島宿関連等、三島市内の史跡碑を多く寄贈している倉島延三氏である とネットから。文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた。文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をし、誤って袈裟御前を殺してしまう。その後、文覚は真言宗の僧となった。神護寺再興の勧進で後白河法皇の怒りに遭い、伊豆に流されたといわれているのだ。石碑の奥、寓居跡と思しき場所に石仏が三躰祀られていた。ズームして。左の一体はお顔が失われていたが・・・。「文覚上人」を演ずるのは市川猿之助さん。その先左手にあったのが、「蛇石」。「奈古谷七つ石 蛇石(じゃいし)」碑。「蛇石 ー七つ石①ー蓮華座に乗る月輪(がちりん)中に、刷毛書きの書体で種子(しゅじ)・アを平底彫りにしていますが、石が傾いたため、種字も傾いてしまっています。アは、一般に胎蔵界大日如来の種子として用いられますが、「通種子(つうしゅじ)」として、全ての仏をも表します。書体や彫り方は、鎌倉時代前期の特徴を備えています。江戸時代後期に著された「槃遊餘録(はんゆうよりょく)」には蛇石来訪の記録があって、弘法大師の筆と伝えていたことが分かります。この石には白蛇が棲んで、里人を怖がらせていましたが、国清寺の高僧がこの岩に封じ込めたという伝説が残されており、蛇石の名の由来となっています。また、蛇石裏の石祠には乾元二年(1303)銘の地蔵石仏龕(がん)があり、市指定文化財に指定されています。また、他の2つの地蔵は延享4(1747)と天保2 (1831)に祀られたものです。灯篭は文政5(1822)のものです。」更に樹々に囲まれた狭い坂道を車で上って行った。右カーブの場所にあったのが「夫婦石」。二つの巨石が向かい合って。「夫婦石 ー七つ石②ー治承年間、頼朝・政子夫婦が、毘沙門堂付近にいた文覚上人を訪ねて来た折、この石に腰をおろして一息入れたという伝承が残されています。元は、道路の中央付近にありましたが、道路拡張のため、現在地に移されました。」更にくねくねと上って行った。そして左手に「毘沙門堂」の入口の石鳥が姿を現した。その右には「金剛力士門由来記(仁王門)」案内板。「金剛力士門由来記(仁王門)当山は平安時代末期奈古谷寺という寺院であった。文覚上人と源頼朝の二人によって大改修され端龍山授福寺と改めた。境内に毘沙門堂その下に金剛力士門(仁王門)を建立して守護神とした。授福寺は現在大護摩石のある平坦地に建立されていた。金剛力士像保存のため昭和四十九年に同士十数名により保存会を結成する。昭和五十年三月十九日学術調査を終わり県交化財に指定を受ける。金剛力士像の破損や虫食いが進んだために修復することを計画昭和五十一年七月東京芸術大学保存技術研究室に移し西村公朝先生のご指導により解体修理を始める。二年間の歳月を費やして修復が完了した。非常に古形式の金剛力士像である。京都の大非山峰山寺金剛力士像(国指定)が最近発見され続いて当山の金剛力士像が発見されて全国にニケ寺にしか無い貴重な金剛力士像となった。このたび修復が終わり帰山した。」石鳥居。扁額「毘沙門天堂」か。石鳥居を潜り石段を上って行くと前方に「仁王門」の姿が見えて来た。「仁王門」。仁王門の金剛力士像は、源頼朝の寄進で、運慶・湛慶父子の作とも、運慶が修理したとも伝えられ、静岡県の重要文化財に指定されている。「阿形像」。設定を変えて。「吽形像」。設定を変えて。パンフレットより全体の姿を。「静岡県重要文化財 授福寺・毘沙門堂仁王像毘沙門を守る仁王門内の仁王像は、昭和五十一年東京芸術大学に運ばれ約二年間の歳月を掛けて解体修理を行ったところ、尊像体内より板書が出現しました。それによると一一八六年文治二年壇ノ浦にて平家滅亡の翌年源頼朝公は、天下安全のため運慶父子に命じ彫刻を寄進しました。その後六百余年を経過した亨保八年、尊像の破損甚だしく大仏師辻式部兼房、塗純又八の手によって修復されました。その記録として尊像胎内に修められた板書です。昭和五十ニ年修復完成後再び胎内に修められています。板書の山護主大川浅右衛門は、大川家推定ですが十代前の先祖にあたります。」「仁王門」を潜り、更に石段を進む。「護摩石」。ズームして。「奈古谷七つ石 護摩石(ごまいし)」。「護摩石(硯石・鏡石)ー七つ石⑥ー授福寺の跡にあるこの石の上には、51センチ四方の穴があけられ、文学上人が護摩を焚いたとも、硯として使用したとも伝えています。鑿(のみ)の跡が残ったままであることなどから、礎石ではないかとも考えられています。」「文覚さんと毘沙門道」に出ると再び石鳥居と石碑があった。「大開帳記念碑」。慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」が50年に一度、本開帳された時の記念碑であろう。石鳥居の扁額には「瑞龍山 授福閣」と。手水舎。再び苔生した石段を上る。正面に「毘沙門堂」。50年に一度本開帳される、慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」を安置する「授福閣」とも言われる御堂。元々伊豆に流されていた文覚上人が草庵を結んでいた場所で、源頼朝の命により改修された「瑞龍山授福寺」の御堂だったが、廃寺となり現在は「国清寺」が管理している。扁額「毘沙門天堂」。「毘沙門天」は日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる とウィキペディアより。「豆州奈古谷毘沙門天略縁起縁起凡そ千百余前年前 平安時代の初期天台宗の高僧慈覚大師が入唐の行を了て皈朝せられ衆生済度の一大悲願をこめて刻まれた御自作の尊像である。本山は住吉安養浄土院と云った。承安三年僧文覚が此の地に流された時、源頼朝に源氏再興をすすめた由緒の地である 頼朝が大願成就した時、瑞夢をみて文覚に毘沙門堂を建立させて瑞龍山授福寺と改名した。特に当毘沙門天は古来より無病息災、交通安全、商売繁昌、心願成就の開運授福の神として広域に亘り深く信仰されている。例祭 正月三日、九月三日 早朝より行われるお開帳 大開帳 五十年毎に一回 中開帳二十五年毎に厳修される境内 授福門(毘沙門堂) 仁王門(金剛力士像 県重要文化財) 文覚荒行の滝 文覚の護摩石及び沿道の銘石 昭和五拾九年拾壱月 毘沙門天 世話役 韮山町産業観光課」毘沙門堂入口の石鳥居まで戻る。道路を渡って振り返る。防寒、防コロナ姿の地蔵様。こちらはメガネを掛けて本を読む。車に乗り込み坂を下る。「谷響石(こだまいし)ー七つ石③ー南側の谷奥、200メートルにあり、山の神が祀られています。ここより北側の川を隔てた旧道で手を叩くと、こだまが返ったと伝えています。」「奈古谷七つ石 谷響石(こだまいし)」。下まで坂を下って富士山の姿を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.20
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「国清寺」の鐘楼。延宝8年 (1680)の建立 と。「梵鐘」。そして正面に「本堂(方丈)」。寄棟造瓦葺の「本堂(方丈)」は、昭和9年(1934)の建立である。扁額「天長山」。「方丈」内部の扁額は後花園天皇直筆の「勅諡佛真禅師(ちょくしぶっしんぜんじ)」と。「勅諡佛真禅師」とは初代國清寺住職「無礙妙謙(むげみょうけん)」和尚のこと。「無礙妙謙」和尚は、武州比企県人(現在の埼玉県比企郡)と言われる。上杉憲顯によって國清寺が修理増築された頃に中国へ渡り、天目山禪寺に修行する一方、多くの寺々をめぐり佛法の真髄を求め、その奥義をきわめた。帰国後、鎌倉5山中第3位の壽福寺住職や圓覚寺の住持となり、礼に篤いその人柄からにじみ出る徳を持って優れた人を育てるなど、卓越した手腕を寺院経営に発揮した、と言われている。その後、上杉憲顯によって開山として國清寺に迎えられた妙謙和尚は、人材育成や伽藍の造営にも努力を続け、立派な禪学の道場を創りあげた。また妙謙和尚はその功績を自分だけのものにせず、隠退した翌年の春、國清寺を諸山に昇格させると共に、源叟(げんそう)和尚を國清寺の二世に推挙し、栄光ある寺格と共に管主の座に就かせるなど、数々の偉大な足跡を残している。没後も、勅諡(ちょくし・勅命による法名)「佛眞禅師」や勅諡・佛眞神師額(國清寺本堂正面に掲げられている後花園天皇直筆の額)などに見られる様に、その優れた人徳が今に伝わり広く人々に崇敬されている。この無礙妙謙和尚の霊は、國清寺開基・畠山國清・再開基・上杉憲顯たちの霊と共に、國清寺の裏山懐にそびえる椎の巨木に見守られ、静かに眠っている。「本堂」の内陣を見る。ズームして。「本堂」手前左にあった「六地蔵尊」。「国清寺のスダジイ」に向かって境内を北に進む。「畠山國清・上杉憲顕 開基塔」碑。正面にあったのが開山である畠山國清を祀る「開山塔」。史実としての「国清寺」の正式な読みは「こくしょうじ」だが、現在では「こくせいじ」を正としている。ここにも支配者による史実と土着民との隔たりを感じるのではあったが。そして「国清寺のスダジイ」。「國清寺椎の木について椎の木はブナ科の常緑高木で、気候温暖な地に多く鬱蒼とした大木になると言われる。室町の古刹國清寺の森に残るこの椎は正にその樹木で樹齢八百年と伝わる貴重な古木である。」近づいて見上げて。「スダジイ」の「スダ」の意について下記の如きHPがネットにあったので紹介する。シイノキがシイタケ栽培に使われる木に使用されるが、シイタケの種菌をつけた原木を「ほだぎ」と呼ぶ。原木とする椎の木に丸棒型材(種駒)を打ち込ち込んだ物である。この作業を挿し木の場合と関連づけて記すと、次のような相関的図式が成り立つ。「台木+穂木=接ぎ木。原木+種駒=ほだ木。」これにより、「原木」を「台木」になぞらえて、「ほだ木」に穂木の台木を代入して当てはめれば、「穂台木」という名詞を構成できる。このホダイギという語が略音転訛し、「ほだぎ」の呼び名になったものと考察する。関連して、「すだぎ」については、「素台木」の語を想起する。しいたけ栽培の「もと」(基礎)となる台の木という意味を持。素台木の語音ソダイギがスダイギに音韻変化したものと思われる。しかし、素の字の漢音はソ、呉音はスであり、後者に基づいても考えられ、スダイギがスダギ→スダと略音化し、この略音スダをシイ(椎)と結合して連濁音化した呼び名の「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。」富士山の勇姿を見る。引き返すと左手前方にも石塔と石碑群があった。手前に「十三重塔」。近づいて。「上杉憲顯公顕彰碑南北朝武将上杉憲顯は関東管領、上野、越後、伊豆守護などの要職を歴任し晩年伊豆に国清寺を建立、壮麗な寺院に修築整備された。國清寺は三代将軍足利義満の代に関東十刹の一寺に数えられたと伝えられる。憲顯公は応安元年(一三六八)九月十九日足利陣中に没し此処國清寺の森に眠る。因みに鎌倉九代記に卒去後の上杉憲顯公葬送の記録があると郷土史家木下喜衛氏は講ず。上杉憲顯公 世を去りて六百三十年その功を称え徳を偲びて碑を刻み後世に残す。」奥にある墓は上杉憲顯と関係者の墓であろうか?五輪塔の墓石?に近づいて。「本堂」前まで戻り六地蔵と共に。朱の鳥居のある神社をズームで。「仏殿(釈迦堂)」北側の「般若塔」と刻まれた石碑。「慈母観音像」。「慈母観音像」は慈しみの母であり、抱いている子供が衆生の私たちを常に母親の愛情で見守る意味もある。その為、家内安全・子授け・子供無事成長・水子供養等々の願いを成就するといわれているのだ。お顔をそして抱いている子供のお姿をズームで。「建光空◯」と刻まれた石碑。そして先程見えた「神社」を振り返った後に「國清寺」を後にしたのであった。そして次に立ち寄ったのが「奈古谷観音堂」。静岡県伊豆の国市奈古谷。「奈古谷観音堂室町時代、奈古谷は国清寺を中心として大変栄えていました。今でも、七堂、七坂、七ツ石や多くの史跡が残っており、往時の繁栄ぶりを伝えています。この観音堂は、地蔵堂、阿弥陀堂、庚申堂などとともに、奈古谷七堂の一つで、他の諸堂は廃堂になりましたが、唯一旧位置に建っています。堂内には、本尊聖観音立像の他、十王堂や阿弥陀堂などにあった諸仏が安置されています。また、境内地には、庚申塔、唯念碑、五輪塔、宝篋印塔などが諸堂から集められています。付近の屋号を観音堂、堂の前、辻、横道といい、観音堂が道路の四つ角にあって、今よりも大きなものであったことがわかります。現在のお堂は、昭和十二年に再建されたもので、平成九年八月、屋根の修理を実施しています。今でも毎月十七日には観音講が行われています。」「奈古谷観音堂」は、いずれも国清寺の祠堂や支院に由来する建造物であり、中世以来国清寺を中心に形作られてきた宗教的空間の一部をなすものである。大きい石塔が並んでいた。中央左奥は南無阿弥陀仏と刻まれた念仏塔。説明板にある「唯念碑」のことであっただろうか。境内には多くの石碑、石仏が並んでいた。「奈古谷観音堂」を正面から。「馬頭観世音」。入口の階段脇には馬頭観音が数基並んでいた。馬頭観音碑で建立年の読み取れるものは昭和36年と昭和26年 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.19
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車窓前方にこれから訪ねる「国清寺(こくせいじ)」の「仏殿」への参道が姿を現した。駐車場に車を駐め散策開始。駐車場と「華頂峰・高岩院(かちょうほう ・こうがんいん) 」との間の庭園には多くの石碑、石仏が立ち並んでいた。岩の上に立つ石仏。スイマセン!!お顔が・・・。「萬霊塔」。「庚申塔」。梅も僅かに開花を始めていた。伊豆の国市奈古谷(なごや)にある「国清寺」の塔頭のひとつ、「華頂峰・高岩院」。石碑には「国清寺塔頭奉行職之寺也 臨済宗円覚寺派 華頂峰高岩院 豆国八十八遍路 第十五番 札所」と刻まれていた。山号は「華頂峰(かちょうほう)」寺院名は「高岩院(こうがんいん)」。「六地蔵尊」。「陸軍・・ 八等・・工藤常・之墓」と刻まれた石碑。「故陸軍兵長 神尾恵一郎之墓故海軍二等勲七等機関兵曹功六級 神尾圓一郎之墓」(右)。「本堂」。創建 1368(応安元)年 南朝は 正平23年 1338年に 足利尊氏が征夷大将軍になり、室町幕府を開く御本尊 薬師如来 由緒 五山十刹のひとつ国清寺に隣接し、かつて79あった塔頭のうちの一寺 住所 静岡県伊豆の国市奈古谷68 扁額は「華頂峰」。そして「国清寺」への参道近くにあった掲示板。「右の手と 左の手を 合わせると ほら 仏さまの お声が」。伊豆の国市奈古谷のここ「国清寺」は観世音菩薩を本尊とし、山号を天長山と称する臨済宗圓覚寺派の寺である。康安元年(1361)、室町幕府の有力者であった畠山國清は、関東管領にそむき鎌倉から伊豆に居を移し、翌康安2年春、奈古谷に一寺を建てこれを「国清寺」と呼んだ。應安元年(1368)、上杉憲顯(1306~1368・関東管須)が国清寺を大いに修築して大きな寺にした。これにより、生い茂る杉の木立ちに囲まれた国清寺の殿堂は、ひときわ荘厳さを増し、室町三代将軍足利義満の時に関東十刹の一に加えられ、「天長山国清萬年禪寺」と号せられる大きな寺院となった。正面に見えたのが「仏殿」。「豆州田方郡奈古谷村國清寺并諸塔頭繪圖面(へいしょたっちゅうえずめん)貞治年間は、國清寺が隆盛をきわめた時代といわれ、全盛期には、子院7 8・末寺300を誇っていた。延徳3年(1491)、北条早雲が堀越御所を攻め落とした頃より國清寺は衰え始め、その後、鎌倉五山の一寺「瑞鹿山圓覚寺」末寺となった。「豆州田方郡奈古谷村國清寺并諸塔頭第圖面」(國清寺所蔵・寛政11年・1799)を見ると、想門・佛殿(現存)・鐘楼(現存)。方丈(現存)・庫裡(現存)などの描写に加え、現存子院の高巌院・徳燐院・龍泉院・松月院・鳳林庵(跡地)・授福寺(野火焼失)・要津庵(廃寺)白泉庵(廃寺)などの位置関係が巧みに描かれ、200余年前の國清寺の姿やその近隣に点在した子院、そして、これを囲むかのような山並みの様子が見事に描かれている。この繪圖面もまた、往昔の國清寺の姿を知ることができる貴重な資料として今に残されている」と頂いた「パンフレット」👈リンク より。寺号標石「臨済宗円覚寺派 天長山 国清寺」。「天長山国清萬年禪寺 臨済宗円覚寺派」案内板。「天長山国清萬年禪寺 臨済宗円覚寺派本尊 観世音菩薩創立 康安ニ年春(一三六ニ)開基 畠山国清(天猷道誓大禅定門)足利管領の執事再開基 慶安元年(一三六八)上杉憲顕(桂山道昌大禅定門)大いに修築巨刹となす。 本堂正面にあります開山 無礙妙謙敕諡佛真禅師(後花園天皇直筆の額が本堂正面にあります)十刹六位 往昔殿堂壮麗にして子院78宇を有しなり 足利三代将軍義満の時、関東十刹の一に 加えられる 天長山、国清萬年禅寺と号せらる。旧朱印 弐拾石境内二千九百余坪(佛殿右側に徳川歴代将軍の位牌を祠ってある) 往昔末寺三百余ヶ寺塔中七十八院あり 延徳三年伊勢新九郎長氏御所を隠れし時より漸く衰退せり、其の後鎌倉円覚寺の 付属となる。子院現存するもの 高岩院 徳隣院 龍泉院 松月院である。旧十境 一、十里松 二、愈好橋 三、雙峠 四、石橋 五、馬鬣峰 六、寒山窟 七、石牛洞 八、芍薬渓 九、華頂峰 十、寶珠嶺 鎮守 毘沙門堂 寺を距ること十余町の山中にあり、国清寺に属す。伝え云ふ 僧文覚此の地に流寓す。 堂中に慈覚大師作の毘沙門尊天あり。仁王門に運慶修飾の金剛像あり。 辨財天、は佛殿左側に祠る。 (豆州志稿による)」「仏殿(釈迦堂)」に向かって更に進む。「仏殿(釈迦堂)」。本尊が安置されている方形造鋼板葺の「仏殿(釈迦堂)」・「大雄殿」は、延宝年中(1673~80)の建立と伝えられている。「仏殿(釈迦堂)」には、鎌倉時代慶派の作による「釈迦如来像」が安置されていた。國清寺釈迦堂に祀る「釈迦如来坐像」。国清寺境内のほぼ中央に一棟のお堂がある。これが釈迦堂である。寛政11年の「國清寺所蔵繪圖面」では、ここが佛殿として描かれている。「釈迦如来坐像」は、このお堂の本尊で、桧材の割ぎ造り、漆箔、玉眼造りの像である。その全体の穏やかな作風や造法には、平安時代後期の仏像に伝わる古風さが見られるが、水晶を眼にはめ込む技法や、顔面部のはちきれる様な力強い表現には、鎌倉時代初期の仏師「運慶」の作にも近い趣が感じられ、慶派との関係を考慮すれば、その周辺の古参仏師あたりの作である可能性も考えられている。光背を装い蓮華座に安置されているこの「釈迦如来坐像」は、正に貴重な文化遺産と言えよう。本尊 観世音菩薩 と案内板には書かれていたが・・。ズームして。両脇の仏像は開山・「無礙妙謙敕諡佛真禅師」、再開基 ・「上杉憲顕」の像であろうか?両脇の仏像(右)。両脇の仏像(左)。釈迦堂に祀る「福徳賦与の弁財天」をパンフレットから。弁財天は、弁天様として人々に親しまれ、音楽・弁財・財福などを司る神で、妙音天などとも言われ、吉祥天と共にインドで最も尊崇された女神で、福徳賦与の神と称され七福神の一として信仰される。釈迦堂に祀られる弁財天は、往昔の広い國清寺の境内にあった大きな池の辺に祀られていたが、寛文111年(1671)に発生した大洪水「亥の満水」で流失し、何年かを経て國清寺に帰り、再び元の池の辺に安置されたと伝えられる。以来、幾星霜、風雪に耐え人々に深く信仰されて来た。この弁天様も、平成5年10月・東北芸術工科大学・牧野隆夫助教授(吉備文化財修復所)による修復成って、現在、國清寺釈迦堂内左側に安置されている。また、この釈迦堂内右側には、徳川歴代将軍の位牌が祀られているが、これもまた貴重な文化遺産である。「鳳林庵地蔵尊」。「鳳林庵地蔵尊お地蔵様裏の処に、明治の頃まで鳳林庵とゆう国清寺塔中のお寺がありました。その為鳳林のお地蔵様として部落人達に親しまれて来ました。作者は不詳ですが、約三百年程前に刻まれたのではないかと言われています。立て膝で思椎姿のお地蔵様は非常に珍らしいのです。頬に手をあてられた姿の為か、昔から、土地の人は歯の痛い佛様として、尊崇祈願し、今でも、石を積み、お膳を供えて御利益を願う古老の方を見かけます。また安産の佛様としても知られ、願いをかける時は、通リの良いようにとの意味からか、底無し柄杓を泰納するのが例になっています。木立の中、幾星霜を経た、素朴なお顔のお地蔵様は、野の佛としても人の心をうつのかいろんな本の表にもなります。例奈は、毎年八月ニ十三日に行っています。」「やすらぎ子育て・水子地蔵尊」。「やすらぎ子育て・水子地蔵尊」碑。正面に現れたのが「庫裡」。「庫裡」に近づいて。天明年中(1781~88) の建立と伝えられ、昭和9年(1934)に改修されている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.18
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そして、「六萬部寺(ろくまんべじ)」の奥の駐車場に到着。平治の乱後、伊豆国流罪となった源頼朝は、配流地の蛭ヶ小島で父義朝の菩提を弔いながら過ごしていたという。六萬部寺の経塚は、頼朝が、父祖の冥福と源氏の再興を祈念し、法華経六萬部を埋納した場所と伝えられている。経塚はもとは円墳だったものを利用したものらしい。『吾妻鏡』によると、源頼朝は挙兵直前の1180年(治承4年)7月4日、伊豆山権現の僧文陽房覺淵(もんようぼうかくえん)を北条館に呼び出している。山木館襲撃が8月17日であるから、約1.5ヶ月前のこと。頼朝は、挙兵前に法華経を千回唱えるつもりでいたのだという。しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなってしまうそこで、「たとえば八百回だとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覺淵に訪ねた。すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたという本堂に対面する形で「経塚」があった。「経塚」の前にあったのが「南無日蓮大菩薩」碑。そして「六萬部寺」の本堂。「六萬部寺」は現在は日蓮宗の寺。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、韮山城を攻める豊臣方の出城として使用されたという。本堂には花頭窓が。 静岡県田方郡函南町柏谷430。扁額は山号の「王城山」。「永代供養 悠久廟」。小さな「稲荷神社」。「本堂」前の石仏。聖観音立像であろうか。「本堂」前には七重石塔も。六萬部寺境内とその周辺が「向原館跡」だと言われている。鎌倉時代には狩野川の古流が流れ込み、台地側は一面の湿地帯であった。館の遺構は明らかではない。近年の研究によれば、韮山城攻めの付城(陣城)の可能性が高いようだ。 なるほど、韮山城まで一望できる地形であり、寺の本堂裏手には低いが土塁が残り、西側に面して切岸状の地形を見れば陣城の可能性は極めて高いように思われた。そしてこちらが「六萬部寺」入口の山門・四脚冠木門(かぶきもん)。我々は裏口から境内に入ったのであった。「日蓮宗」、「六萬部寺」と。右には「法界萬霊」塔。「南無妙法蓮華経 王城山 六萬部寺」の文字が。法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、萬霊とはこの世の中の、一切の生きもののこと。 この塔は供養塔としてあるが、造立することが供養の目的ではなく、造立し万霊をこの塔に宿らせ供養することが目的であるとのこと。「頼朝公経塚」と。「鎌倉殿十三人の配役」発表の新聞記事。秋元才加(あきもとさやか)さんが木曽義仲の愛妾・巴御前役に選ばれたと。武勇に優れ、敬愛する義仲とともに戦場を駆け抜ける強く気高き女武者であると。そして青木崇高さんが、木曽義仲に扮(ふん)すると。木曽義仲は源氏の棟梁(とうりょう)の座を争う頼朝のライバル。快進撃で都に乗り込み、平家を追放する武功をあげるが、後白河法皇と頼朝の政治力に翻弄(ほんろう)される人物。「鎌倉殿の13人」の相関図。【https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/07/09/gazo/20210709s00041000180000p.html】「稲妻堂」。昔々稲妻ケ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています と「経塚」案内板には。「稲妻堂」碑。そして再び「頼朝公の経塚」。「頼朝公の経塚」案内板。「頼朝公の経塚経塚とは、経典などを土中に埋めた塚のことです。この地の経塚は古墳を転用したと考えられています。平安時代未期、伊豆に流された源頼朝は、父の冥福と源氏再興を願って、治承4年(1180年)7月、僧と共に法華経を六萬部(六万部)読経しました。それを祝して経塚を築きました。当初は高さ3メートル、縦15メートル程あったと言われています。これが「六萬部寺」いう寺の名前の由来になっています。その後頼朝は、平氏を倒して鎌倉幕府を開き、見事に祈願成就することとなりました。山門横には「稲妻堂」があります。昔々稲妻ケ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています。」「経塚のイメージ」。石室を造り、その中央に六萬部読経した記録を納めた経筒を配し、それを土盛りしたもの。土盛りの上部には五輪塔を奉納。「源頼朝/日蓮上人/六萬部寺」源頼朝の年表をウィキペディアより。日蓮上人の年表部をズームして。「頼朝公の経塚」に近づいて。古墳を後世経塚(柏谷の横穴群と同時代の古墳(円墳))に転用したと思われる経塚。源頼朝が韮山蛭ヶ小島に配流中、父祖の冥福と源氏の再興を念じ自ら衆僧とともに法華経六萬部を読誦し、この地に経塚を築いたのが経塚の由来。「六萬部寺」の墓地を見る。再び「本堂」を見る。鳳凰の姿が螺鈿細工の如くに。駐車場近くから富士山の勇姿を。境内にあった張り紙。『ほんの少しの違い』出来ない人は言葉で説得し出来る人は行動で説得する出来ない人は話したがり出来る人は聞きたがる出来ない人はお金を求め出来る人は成長を求める出来ない人は過去にこだわり出来る人は未来にこだわる出来ない人は不可能と思い出来る人は可能と思う出来ない人は他人のせいにして出来る人は自分のせいにする出来ない人は一人で頑張り出来る人はみんなで頑張る出来る人も出来ない人も能力にほとんど差はないほんの少しの意識の違いによって結果に差が生まれる。』さあ皆さん一つだけでもチョイスして、本年は昨年以上良い年にしましょう!新型コロナウイルス早期終息を祈念します。 合掌そして近くにあった「天降(あまおり)神社」に立ち寄った。「向原鎮守天降神社」碑。静岡県田方郡函南町柏谷443。石段を上がると社殿が姿を現した。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。社殿の内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.17
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歴史の重みを感じ、頼朝、文覚の声が聞こえて来そうな「高源寺」を後にして、来た道を引き返し坂道を冷川に沿って下って行った。そして右手にあったのが「不動の滝」。入口左に石碑が並ぶ。京都高雄にある神護寺の再興を後白河上皇に強<訴えた為、伊豆に流された文覚上人により造られたといわれている。大正7年に始まった丹那トンネルエ事の頃、鹿島組配下の伊沢組がこの不動尊を篤<信仰していたため大変賑わった。今も地元の人達に篤く信仰されている。「不動明王」と書かれた石碑。青竹が再び命を吹き込まれ整えられた手水場。「冷川(ひえかわ)不動堂」が右手に。そして奥に「不動の滝」。落差2m前後の滝であったが、この日は水量が少なかった。「冷川不動明王略縁起」案内板。石祠が置かれた「冷川不動」が滝の右側、屋根付きの社の中に鎮座。「冷川不動明王略縁起創建年代は不詳なれども伝説として次の事頃を伝えている。平治の乱頼朝伊豆に配流され、(永暦元年、一一六〇年)源家再興を伊豆三島大社、箱根権現、伊豆山権現に祈願、その後文覚上人(一一七三年)伊豆奈古屋に流され、頼朝文覚と共に舟山大平山長久寺に参詣(現宅舟山高源寺)、源氏再興祈願と旗上げを議したという。当時高源寺は真言宗にて修行の道場として伊豆一円を支配していたものと思われ、塔中に安養寺臨川寺瑞雲寺不動院ありしと豆州志稿にあり、案ずるに不動院は今の冷川不動なりしやと思われる。本尊赤不動明王は文覚の作なりと云われるのも、この関係ありやと思われる。頼朝幕府を開くや長久寺は、比企能員の母己れの乳母として奉せしを以って、朱印地六十町歩を寄進したと云う。文覚は後御白河法皇の許しを享け、京都高雄の新護寺の再興に努力せりと云う。この故を以って冷川不動尊も真言宗本山派の道場として栄えたものと思われる。その後栄枯盛衰あり徳川時代になり本地衰跡院(神佛混合)により、佛教の寺院に対し鳥居が建立され、川口勇氏入口ニ十米程の所に一の烏居境内にニの烏居が立てられて居れど、伊豆震災でニの烏居は倒壊し、一の島居は台座だけ昭和の初期まで残されていた。最も栄えたのは文化、文政(化政期一八〇三~一八三七)時代で当時は桑原川口氏所有(上川口氏)なりと云われる。その後堂主も常仼なく荒れるにまかせたりしも、大正十ニ年川口利三郎氏(上川口の分家)の世話に依り近隣十七戸で引継ぎ、今日に至っているのが現況である。大正七年丹那トンネルの工事がはじまり、鹿島組西口を受け持ち配下の伊沢組がこの不動尊を信仰し、境内に板碑を立て岡田清海老師が住し盛況なりしも、トンネル工事終了と共に亦静閑になったものである。本不動尊院に安置される佛体は次の如きものである。本尊赤不動明王 石像 座像 ニ童子 矜羯羅童子(こんがらどうじ) 滝右側石屈の内 制咜迦童子(せいたかどうじ) 道路(山之田方面中央石屈内)現在不明降摩の剣に炎 滝上岩上に在り 青銅製当入穴よりの湧水で滝が出来ているが、奥の院と云われている。滝壺には座禪石が置かれている。冷川の岸にカグラ石が在りミソギの場所だったと云われているが、道路の拡張で現在はない。」滝壺には「座禪石」が置かれていた。滝の上部をズームして。滝上岩上に在った「降摩の剣に炎」は青銅製。「不動の滝」を後にして次の目的地に向かう。「JR函南駅」前で車を止めた。静岡県田方郡函南町大竹190-6。函南町の北東のはずれに位置し、函南町の中心部から離れた場所にある。静岡県内にある東海道本線の駅としては唯一、町に所在する駅である。丹那トンネルの西口にあり、このトンネルが貫通した1934年(昭和9年)の12月に駅は開業した。現在の停車列車は普通列車のみである。1996年(平成8年)3月に特急列車に格上げされるまでは、急行「東海」1号・4号が停車していた と。「かんなみへ ようこそ!」。「土木学会選奨土木遺産」案内板。旧熱海線鉄道施設群桑原川橋梁 延長22.5m 径間長6.1m X3函南駅の西側を流れる来光川(当時桑原川)に3つのアーチ型の橋梁(拱渠)が、丹那トンネルの工事とともに建設された。(昭和9年)表面には自然石のポータルが施され、同じ形が連続する3連の拱渠は珍しく、力強い曲線が周囲の景観を引き締め、地域のシンボルとなっており、丹那トンネルとともに、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。※函南駅より600m 所要時間:徒歩10分旧熱海線鉄道施設群丹那トンネル(函南ロ) 延長7,804m。東海道線を輸送強化するため、熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故など多くの犠牲を払い、困難を克服して昭和9年に完成した。その過程では、丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多くあり、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。 ※JR東海用地内のため立入れません。」両方の「土木學會選奨土木遺産」プレートが埋め込まれていた。「新日本 歩く道紀行 100選シリーズ」👈リンク 案内板が駅前に。「JR函南駅」を振り返る。「名所案内」板。そして次に訪ねたのが「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」。狭い坂を上っていくと突き当りに。駐車場がなく、悩んでいると左にあった工場の社長がここに駐めて良いとご親切に。言葉に甘えて駐車させて頂き、更に坂を上っていった。「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」👈リンク と刻された石碑。丹那トンネル工事の犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺える。ここ函南口の犠牲者は36名であり、その方全員の名前が石碑の裏に刻まれていた。ズームして一部の犠牲者の方の名前を。合掌!!毎年慰霊祭が行われていたが、このコロナ禍で中止となっていると、先程の社長から。近くにある「臨江寺」の住職が菩提を弔っているようであった。石碑横から新幹線の線路も見えた。坂道を下り「丹那トンネル」の函南側出口を見る。そして駐車場に戻ると、工場の社長が工場内を案内して下さいました。靴紐等紐の製造工場・「有限会社中川製紐(せいちゅう)工場」であった。まるで、世界遺産の「富岡製糸工場」の世界であった。静岡県田方郡函南町平井1746。そして次に訪ねたのが「柏谷横穴群」。東西600m・南北250mにわたり、6~8世紀末に作られた県内最大規模の300基以上の横穴墓が残っていた。保存状態が良好な範囲は国指定の史跡に認定されている。約6.6万年前に箱根で起きた大噴火では西は富士市、東は鎌倉付近まで到達するような巨大な火砕流が発生したとのこと。柏谷横穴群はこの火砕流の堆積物が厚くつもっている丘陵に作られているのだと。「柏谷横穴群B群」を見る。南・東・西面の標高約20~30mの所に、前面に田方平野を望み、富士・箱根を背後に仰ぐ地に存在していた。柏谷横穴群の最初の学術調査は、1947年(昭和22年)日本大学の軽部慈恩によって実施された。群集する横穴を、A~Eの5地区に区分し、横穴の形態を5類型に分類しているとのこと。「自然な状態の横穴墓(B地区)西側に向いた斜面に造られたグループで、上から三段目にあります。現在は埋まっていますが、四・五段目にも横穴墓が確認されていますので、この西斜面にも今開口している数と同じくらいの数の横穴墓があるものと推定されています。写真は、この三段目の横穴墓を発見した時の発掘調査(一九七四年)のようすです。小さな穴は火葬骨を埋納したと考えられているミニ横穴墓です。」整備された横穴開口部。根っこの合間をぬって横穴が。「柏谷横穴群B群」を追う。B地区の1~6号墓は調査後に埋め戻して保存されているのだと。そして「柏谷横穴群A群」に移動する。公園の東側の斜面に掘られた横穴群で、125号と127号は伊豆地方で最古の横穴で、古墳時代後期の六世紀末頃であることがわかったと。入口は、閉塞石と呼ばれる石組みで塞がれていて、内部を玄室といい黄泉の国(あの世)となり死者が生活する場となる。食料品や食器(土器)や耳飾りなどの装飾品、武具、馬具などが副葬品として出土しているのだと。遺体は玄室の中に安置されて、閉塞石を積んで放置され、土をかぶせたわけではない。玄室の中で腐敗し、白骨化した後は長い時間をかけて風化したようで、骨は残っていなかったと。「埋めてある横穴墓ここから見上げた一番上の段のグループの横穴墓は、そのままにしておくと崩れてしまうので今は埋めてあります。これは横穴墓の保存方法のひとつです。この方法以外には、崩れる恐れのないものは現状のまま保存・公開ているものと、保存整備を行った後に公開しているものとあります。50号の左側で発見されたA・B二つの超小型の横穴は、火葬骨を納骨したミニ横穴墓と考えられています。」横穴は十分な奥行きもあった。「墓前域(前庭部)墓前域とは、遺骸(亡くなった人)を納めた玄室と呼ばれる部屋の前面に造られた、小さな広場で、前庭部とも呼ばれています。墓前域では、亡くなった人の霊(れい)を慰めるための供養祭のようなことが行われたと考えられています。そしてそれを示すように、その時に供えられたと思われる土器などの遺物が数多く見つかっています。」横穴に近づいて。修復、補強の跡も。玄室には凹んだ場所も。「国指定史跡柏谷横穴群全体で三〇〇基以上が東西六〇〇メートル、南北二五〇メートルにわたって造られたと考えられている静岡県内で最大規模の横穴墓(よこあなぼ)群です。横穴墓は、六世紀末頃から八世紀末頃までの二〇〇年間にわたって、お墓として利用されました。後半期には新たな横穴墓は造られず、今まであった横穴墓に追葬が行われ、最後の頃には火葬骨を納めた例もみられます。横穴墓が造られている地質は、箱根火山の噴火のときに流れ出た「箱根火山新期軽石流」と呼ばれる軽石を主体としたもので、加工がしやすい反面こわれやすいという特徴があります。昭和五十一年二月ニ十日に国の史跡に指定され、その後、発見された北伊豆で一番古い横穴墓が、平成十年七月三十一日に追加指定されました。」「横穴墓の形と部分の名前」。遺骸を安置した部屋・玄室の前に「閉塞石」が積まれ玄室を護っていると。家族は同じ玄室に埋葬される事があり、この「閉塞石」を一旦外して埋葬されるのだと。「柏谷横穴群A群」全体を見る。「柏谷横穴群の分布」。国指定史跡「柏谷横穴群」案内図。「史跡 柏谷横穴群」碑。再び、我々以外に観光客の姿は殆どなく。少しずつズームして。木橋の上から「植栽ゾーン」を見る。春先の花や紅葉も美しいようであった。最後に再び「柏谷横穴群A群」全体を見て、次の目的地に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.16
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そして「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地」の最初に訪ねたのが「高源寺」。伊豆へ流された源頼朝が平家の監視役の目を逃れ、遠く離れた山の中にあるこの高源寺で頼朝の乳母比企尼の計らいで文覚上人と源氏再興の密議をしたと言われ、平家討伐の初陣となる石橋山の戦い(1180年)に臨む際の旗揚げの地とも云われている.参道は苔むして古刹の風情が色濃い。静岡県田方郡函南町桑原1265。幟には「義時ゆかりの地 伊豆の国 源頼朝・北条政子の史跡を巡る北条義時ゆかりの地」と。「高源寺」碑。苔むした長い石畳とその先に「四脚門」が続いていた。「四脚門」。斜めから。扁額は山号の「寶船山」右側には苔生した石仏が。四脚門を潜って進むと苔生した石畳が更に続いていた。古木の下には石灯籠がひっそりと。歴史を感じさせる石畳・石段。左手には巨石の上に小ぶりの社が。歴史の趣を色濃く感じる「高源寺」の参道を楽しむ。頼朝、僧文覚も源氏再興を決断しこの参道を歩いたのであろう。頼朝公の乳母「比企尼の供養塔」。「比企尼の供養塔源頼朝公が伊豆に流された時、乳母である比企尼も現在の函南町大竹に住み、頼朝公を守られました。その比企尼の供養塔(宝筺印塔)です。」『一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。』とウィキペディアには。「鎌倉殿の13人」では草笛光子さんが、「比企尼」を演じている。なまこ壁のある白き蔵の如き建物が右手に。そして正面に「鐘楼門(しょうろうもん)」。「鐘楼門」は、鐘楼が付いた門。 二層で、下層が門、上層に梵鐘をさげる堂があるものが 多い。「鐘楼門」。「懸衣翁」像。懸衣翁(けんえおう、けんねおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆(だつえば)の隣にいるといわれる老人の妖怪である。奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという地獄の熟女「奪衣婆」の像。三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。「鐘楼門」内の「梵鐘」を下から見上げる。「鐘楼門」の先には岩を彫りあげた苔生した手水鉢があった。左手には「六地蔵」。「鐘楼門」を振り返る。「鐘楼門」の梵鐘をズームで。そして「本堂」。頼朝が蛭が小島に流されてから、その乳母である比企尼(ひきのあま)も伊豆に来て、頼朝に付かず離れずの、函南・大竹に起居していたことから、頼朝が比企尼に頼んで、この高源寺を文覚上人との面会場所として用意してもらったのだと。扁額「高源寺」。扁額の位置から、入口中心と屋根の位置がズレているのであったが。「寶船山 高源寺 縁起」案内板。「寶船山 高源寺 縁起當山は諸天神仙の霊地箱根山の旧蹟にして道昭法師行基菩薩万券上人弘法大師等諸法師の修法堂場として文武聖武嵯峨帝の御勅願所たり 古源頼朝公義旗を揚げんと欲するの時武運長久の祈願あり公甞て試むるに檜を以て椿に挟み柷して曰く椿寿八千才と云えり亦公が椎の樹下にまどろみし時其の実落ちて公が面を打てり公恨みて曰く若し椎なるとも実らざれとその椎実らず之敵軍降服の徴なりと云う。頼朝公が姫妾丹後局御懐妊の時参籠当山安置の子育地蔵尊に御祈願あり伊予国に落延る途次攝津国住吉明神の社庭に於て安ず其の時当山守護地蔵尊異人と為りて介抱せられたり神佛加護の霊験なりと頼朝公深く感激し寺領六十町歩を寄進せらる。當山の靈石靈木 七木 七石として伝えらるゝは頼朝公旗掛の松、諸天降臨の松、檜椿、実無し椎、陰陽杉、源平椿、つつじ椿、弘法の疱水石、弘法座禅石、龍頭石、龍胴石、龍尾石、怒り石、兜石 且寺后五丁奥に弘法大師爪堀不動尊あり」。屋根には源氏・源頼朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」が。「萬霊等」碑。ズームして。萬霊等(ばんれいとう)は三界萬霊等ともいい三界とは欲界・色界・無色界をいい、一切の生の生滅流転(せいせいるてん)してやむことのない世(迷界)のことである。萬霊等自体に有情(うじょう)と呼ばれるところのこの世の中における生命有るもの事々(ことごとく)無の霊を宿らせ、この塔を回向することにより霊を供養しようとした。なまこ壁の建物を正面から。寺蔵であろうか。2階建ての建物のようであった。白壁にも「笹竜胆」の家紋が確認できた。様々な角度から。「鐘楼門」を横から。墓地を見る。歴代住職の墓地であろうか。数多くの 無縫塔(むほうとう)が並んでいた。「本堂」を斜めから。右手に寺務所。「本堂」前から「鐘楼門」を振り返る。ズームして。「梵鐘」を再びズーム。境内横の坂道を進むと右手には小さな池が。寺の裏側から墓地、本堂を見る。車に戻る途中に「四脚門」、苔むした石畳を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.15
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ドラゴン橋の袂に4基のガス燈があった。実はこれ、本物のガス燈。現在がは照明というと、蛍光灯やLEDだが、こちらは正真正銘、ガスで照らすのだと。再びブーゲンビリアとの競演。「桜橋」の欄干中央には桜の花のモニュメント。反対側にも。ズームして。上を見上げて。雲ひとつないこれぞ快晴。「糸川橋」。そしてその先の石段を下り糸川の川面に降りる。ブーゲンビリアの枝が川面に垂れ下がり。「桜橋」の下には絵画風モニュメントが両脇に。正面に「柳橋」。川の堤防壁には様々な彫刻が。「柳橋」の欄干には水鳥の姿が、いやモニュメント。地上に上がって「糸川橋」を振り返る。「糸川橋」の欄干にはカモメが飛び交う姿が。モニュメントの水鳥と熱海桜。「渚歩道橋」を見る。「柳橋」から糸川の上流を再び。「渚歩道橋」。歩いて来た遊歩道、熱海桜を振り返る。ズームして。更に。「熱海城」をズームして。「熱海渚橋」を渡り、糸川沿いの熱海桜の並木を振り返る。正面から。「熱海親水公園」の遊歩道に上がって行った。ウネウネと曲がったスカイデッキ。南欧をイメージして作られたと。ヨットハーバー、その後ろの山の上に「熱海城」が。「初島」の姿が。「初島」は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島、端島、波津幾島との表記もある。 熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している とウィキペディアより。熱海の山の斜面には多くの高級マンションが立ち並んでいた。そして駐車場に戻り、次の目的地に向かって進む。「JR来宮駅」前を通過。この駅が「熱海梅園」への下車駅。県道11号線・あたみ梅ラインを進む。右手前方に「熱海梅園」の入口が姿を現した。入口付近の紅梅はすでに開花が始まっていた。そして静岡県の熱海-函南を結ぶ県道11号線・熱函道路の鷹ノ巣山トンネル(L=1268m)を通過。その先の第ニ丹那橋(L=129m)手前のログハウスのbigbox の空き地に車を止め富士山の勇姿をカメラに納める。手前には僅かに白い雲が。「宝永火口」をズームして。「宝永火口」だが、表口とも呼ばれる富士宮口五合目から割と近い位置にあり、富士山の南東斜面、標高約2100mから3150m地点にかけて、3つの大きな火口が北西-南東方向に並んでいるのだ。これが、富士山の噴火史上もっとも激しい噴火のひとつであった宝永噴火(1707年)でできた「宝永火口」。3つの火口は山頂側から順に宝永第1、第2、第3火口と呼ばれている。一番大きい宝永第1火口の直径は約1.2km、深さ400m、富士山の山頂火口より大きいのだと。宝永噴火は第2・第3火口からの軽石噴火で始まった。その後第1火口からスコリア(たくさんの気泡をふくむ暗色の火山れき)を放出する噴火が約半月続いて、ようやく終息。この噴火では、わずか半月の間に0.7km3ものマグマが噴出したと。火山灰は、遠く離れた江戸の町にも降り続き、厚さで数cmも積もった。噴火が激しい時には江戸の上空は真っ暗となり、昼間でもろうそくの灯をともさなければならないほどであった。すり鉢状の巨大な宝永火口が、その噴火のすさまじさを物語っている。私が生きているうちに、再噴火があるのであろうか?山頂付近をズームで。更に。一番高い場所が最高峰の剣ヶ峰(3,776m)であろうか。駿河湾沿いの沼津市~富士市の市街が眼下に。富士市内の紙パルプ工場の煙突からの白き水蒸気も確認できた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.14
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熱海・糸川桜前に到着し、熱海市営第1親水公園駐車場に車を駐め散策開始する。国道135号に架かる「熱海渚橋」を見る。円形のサイトグラスのある小さな白い橋。そしてこの日の「第12回あたみ桜 糸川桜まつり」の糸川沿いの糸川遊歩道の散策を始める。今年の「第12回あたみ桜糸川桜まつり」と「第78回熱海梅園梅まつり」のポスター。八分咲きのいとかわ桜が青空に映えて。「あたみ桜」は、明治初期にイタリア人の手によってレモンやナツメヤシと共に、熱海に伝わったと言われている。開花時期が非常に早いのが特徴で、沖縄のカンヒザクラ(寒緋桜)とほぼ同時期の1月に開花することから、早咲きの桜として親しまれ、それを目当てに熱海を訪れる観光客もたくさんいるとのことであるが今年もオミクロンコロナ禍で・・・・!?。ひとつひとつの花が大きく、濃いピンク色をした美しいあたみ桜は、熱海を訪れる人々に少し早い春を感じさせてくれるのであるが。「熱海渚橋」の横にあったのが「渚歩道橋」。上流に向かって右側の遊歩道を進む。あたみ桜の開花時期は、例年1月から2月上旬。1つの枝に早期開花の芽と後期開花の芽の2種類を形成するため、開花期間が非常に長いのも、あたみ桜の特徴。一般的な桜が1~2週間で散ってしまうところ、あたみ桜は1カ月以上も咲き続けるので美しい桜を長く楽しめるのだ。前方に見えてきたのが、「渚橋」。大きな波の姿か欄干に。糸川の上流に向かって渚橋→ 柳橋→ 糸川橋 → 桜橋→ ドラゴン橋→ 新柳橋→ 御成橋 とデザインがそれぞれ異なる橋が姿を現すのであった。渚橋から下流側を振り返る。このあたみ桜は満開に。そして多くの「メジロ」の姿が。メジロはその名前の通り、目の周りが白く、縁取られていることが特徴。オスとメスで色味に大きな違いはないが、オスの場合はお腹に黄色の線が入っているのだと。桜の蜜を採食中の「メジロ」。目の周りが白く、縁取られていることが解るのであった。スズメより小さい「メジロ」。前方「糸川橋」の袂に満開となった「糸川あたみ桜 基準木」が。「糸川あたみ桜 基準木」案内板。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」近寄って。「糸川あたみ桜 基準木」案内柱もあった。「熱海桜」碑。赤いブーゲンビリアの花も。更に遊歩道を進む。朝早いこともあり、人の姿は少なく。青空に映えるあたみ桜。石のベンチは草木に覆われていた。左手に「桜橋」。「坪内逍遥」の歌碑が左手に。「ちかき山 ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に、別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「桐一葉」「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。」亀とマンボウのオブジェ。上部は波の姿が。鈴なりの花。「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。」そして次に「ドラゴン橋」に。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。欄干がドラゴンの骨格のように。そして「新柳橋」。「新柳橋」の欄干のモニュメントには揺らめく柳の葉の姿が。前方のベンチにはタコの姿が。タコがのんびりと日向ぼっこ。再び「メジロ」を追う。ズームして。「メジロの鳴き声」👈リンク も賑やかに。そして「御成橋」に到着。「御成橋」の名は、家康公が熱海を訪れた際、この橋を通って「御成り」になったことに由来し、橋には家康公が詠んだとされる句が刻まれていた。「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」。 徳川家康熱海入湯句碑「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」 慶長9年3月3日 徳川家康。「春の夜は短くすぐ明けてしまうのにそのはかない夢にもこの地・熱海の波が現れて来たのだ」か。慶長9年(1604年)3月、家康は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した。関ヶ原合戦前の慶長2年(1597年)3月にも訪れ、熱海の湯で天下取りへ心身の疲れを癒した。計2度訪れたと。そして対岸の遊歩道を海に向かって引き返す。ヒラメのモニュメント。ブーゲンビリアとのコラボ。ズームして。ブーゲンビリアの花も負けじと濃いピンクの花を。再び「新柳橋」を見る。シャコガイの先にワタリガニ?が。ワタリガニ。マンボー。糸川には白き鳥が羽を休めていた。熱海桜をズームして。「静岡県都市景観賞 優秀賞 糸川遊歩道」。ドラゴン橋のドラゴンの姿。「ドラゴン橋は他の橋とは違い、広場や舞台のようになっており、橋の上でイベントを開くことができる。デザインは当時の市職員たちが話し合い、「話題になるようなものにしよう」と決まった。糸川地区とドラゴンに深い関わりがあるわけではなかったという。完成当時、斬新なデザインが地元で話題になった。その後、富士フイルムのテレビコマーシャルのロケ地になり、知名度はさらに上がった。鈴木さんは「アイドルがドラゴンの口に頭を近づけて写真を撮る様子が印象に残っている。今で言う『映える』場所だった」と笑う。かつて赤線地区だった一帯のイメージを変えたかった」と ネット情報から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.13
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2022年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。鎌倉時代を舞台に、主人公となるのは小栗旬演じる北条義時。合議制で集まった13人による権力のパワーゲームの中で、最も若かった義時が最高権力者になるまでを描くドラマ。1160年(永暦元年)3月11日、前年の平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となった。この時、頼朝は14歳。在地豪族の北条時政の娘で、のちに頼朝と結婚する北条政子はまだ幼女。それから数年後、北条時政邸では、のちに二代執権となる北条義時が誕生。源頼朝の武家政権樹立の歴史は、伊豆国から始まるのであった。1月30日(日)放送のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人の第4話では、8月17日を挙兵の日とした頼朝。標的は伊豆国の目代山木兼隆。兼隆を討った後は相模国へ進出して鎌倉を本拠とする計画。しかし、山内経俊が暴言を吐くなどなかなか兵が集まらず悩む頼朝と義時・・・そんな中、八重姫が矢を放って山木兼隆が館に居ることが知らせるという驚きの展開。そして、佐々木経高が平家征伐の最初の矢を放って源平の戦いが始まったのであった。そしてこの日は2月2日(火)、源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地・寺社遺跡を訪ねることに。この日も早朝6時に自宅を我が車で出発し茅ヶ崎の旅友を訪ねた。そこから旅友の車に乗り換え、二宮の先輩の家に向かう。国道134号の湘南大橋から朝焼けに淡く輝く富士山の勇姿を見る。湘南大橋を渡り終わると、前方に箱根の山の姿が。平塚市・花水川に架かる「花水大橋」からの日の出の光景。相模湾に朝の陽光の帯が。そして二宮の先輩も同乗して、熱海・糸川桜に向かって進む。前方に箱根・二子山の姿が。小田原市酒匂4丁目13付近の松並木の下を進む。「酒匂橋東側」交差点手前。「酒匂川」を渡る。「酒匂橋」から「明星ヶ岳」、「明神ヶ岳」を見る。小田原市本町2丁目を進む。「小田原城」はこの先を直進し800m先を左折と。国道1号早川口を左折して国道135に入り東海道本線に沿って真鶴方面に進む。西湘バイパス・新早川橋の下を潜る。国道135号を進むと前方左に真鶴半島が姿を現した。相模湾の水面が光る。この先の山の上にあるのが「石橋山古戦場」👈リンク。そして「JR真鶴駅」前を通過。前方に湯河原の街並みが見えて来た。そして2021/7/3 に発生した熱海市伊豆山の土石流災害で土砂が流れ込み、発生から26日間通行止めになった国道135号線の逢初橋(あいぞめばし)手前を通過。土石流は、同市伊豆山地区を流れる二級河川「逢初(あいぞめ)川」に沿うように流れ落ち、海沿いのここ国道135号を越え、海まで達したのであった。そして熱海の海光町バス停前から白亜の高級マンション「熱海サニーハイツ」を前方に見る。前方山の上に「熱海城」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2022.02.12
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「角牟礼城跡」を後にして、玖珠町・森本町通りを熊本空港へ向かって走る。古い民家、商家が並び旧森藩城下町の雰囲気を伝える森本町通りには桃太郎、金太郎など童話にちなんだ石像12体が設置されているのであった。「森町界隈」案内図。 【http://capricorn09928.blog84.fc2.com/blog-entry-490.html】より左手にあったのが金太郎と熊の石像。「金太郎この像は、久留島侯森藩に縁故のある瀬戸内村上水軍の本拠地、愛媛県宮窪町で産出される日本一の大島石を使用して彫られました。彫刻を、宮窪町の宮内宏先生に依頼して建立した平成五年の秋に、瀬戸内の能島村上水軍ふる里会と玖珠町の久留島三島水軍会が、四百年ぶりに再会した年でした。この縁で両町が、今後末長い交流が続くことを願っています。」「金太郎」像。足柄山で相撲をとった「熊」の像。そしてその先にあった「亀」に載った「浦島太郎」像を車窓から。旅館 高田屋、歴史を感じさせる「旅籠」を車窓から。玖珠町・森本町通りを更に進む。「鬼」の像には「勇気」と。この「勇気」の文字は「鬼に立ち向かう勇気を」の意味なのであろうか。この日・11月18日は、東京都内のコロナ感染確認は20人で、33日連続で50人を下回っていたのであったが、現在は鬼より怖い「オミクロン」なのである。「久留島武彦先生 犬張子」。「久留島武彦先生の「犬張子」久留島武彦先生は、明治大正昭和の三代にわたる、六十年もの間、口演童話を主に子供達に語り聞かせた児童教育者です。先生の座右の銘は「継続はカなり」を実践し又、玩具の犬張子を収集し、掛け軸等にも多く描いた犬張子です。」「一寸法師」像。近づいて。「童話の里 一寸法師像昔一寸法師は、おわんの舟で一人荒波をこえ、京の都にのぼりました。京では、娘をうばおうとする悪い鬼をたいじし、鬼から得た打出のこづちのカで、背たけを伸ばし、りつぱな男子となりました。」ここにも「鬼」が。台座には「鬼ヶ城」と。ここ玖珠町には、鬼ヶ城古墳があるとのこと。鬼ヶ城古墳は、小岩扇山から南西に伸びる標高410メートルの丘陵上に立地し、平野部からの比高差は約70メートルである。古墳は石室の壁面に線刻で文様が描かれた装飾古墳である。 現状で直径約14メートル、高さ約5メートルを測る円墳であるとのこと。町の入口に立つ「日本のアンデルセン」と称された「久留島 武彦」氏の石像。「継続は力なり」、「身動かざれば心働かず」、の言葉も添えられていた。角度を変えて。台座にも「身動かざれば心働かず 話道は人道」と。「童話の父久留島武彦先生は明治7年森藩の藩侯邸で出生。生涯を口演童話一筋に語り部として子供のいる処なら場所を問わず出かけ、全国の子供達へ夢と希望を与え続け人々から日本のアンデルセンと慕われ童話の父と讃えられた人です。「継続は力なり」は座右の銘です。」お顔をズームで。「森本町通り」を振り返る。豊後森藩の久留島家は、村上三島水軍(能島・因島・来島)の一派であり、かつては来島を根城に瀬戸内海を縦横に活躍していた海賊衆であった。三島公園へと続く森本町通り。左前方には「角埋山」がみえたのであった。そして「森本町通り」の最後の突き当りの右手に「かぐや姫」。「かぐや姫は「竹取物語」の主人公で世界最古の書物に出た宇宙人です。この像は玖珠町と交流している愛媛県宮窪町の「水軍ふる里会」矢野久志氏に製作の協力を願い勝羅石材、矢野勝羅氏より有名な大島石の提供を受けて完成しました。」最後に「桃太郎」像が見送ってくれた。「森本町通り」を後にして国道387号に入り進むと、大分自動車道玖珠インター近くの山の斜面に立つ「赤鬼」像の姿が。「童話の里 くす」と。 大分県玖珠郡玖珠町帆足。大分自動車の高架を潜ると右手にあったのが「道の駅 童話の里 くす」。大分県玖珠郡玖珠町帆足2121。巨大な桃太郎、犬、猿のモニュメントも。国道387号を進む。この先に「くすまちメルサンホール」があった。国道210号に向かって南下する。国道210号から富士山に似た山の姿が。国道210号を九重町に向かって走る。「龍門の滝」案内板。「龍門の滝」をネットから。 【https://jp.zekkeijapan.com/spot/index/1208/】から県道681号線から国道387号に入り「宝泉寺大橋」を渡る。小国町に入り、この交差点を左折して国道212号に入る。熊本県阿蘇郡小国町にある「JA阿蘇 小国郷SS」手前を進む。国道212号から県道134号・南小国上津江線に入る。西の空は茜色に。時間は17:19過ぎ。熊本空港からの帰路の飛行機は20:20発なので、時間には余裕があった。夕景を楽しむ。そして満月前日の月。マゼノミステリーロードを走り、339号線・ミルクロードに。遠く阿蘇山からの白き噴煙も見えた。西の空も暗くなり始めた。阿蘇の噴煙をズームしたが・・・。遠く阿蘇山を見る。月も輝きを増して。山の姿も黒くなり山の端がくっきりと。そして「ニッポンレンタカー 熊本空港営業所」に無事に到着。時間は18:25。このレンタカーによる走行距離は5日間で1022kmであった。熊本空港ロビーまで送迎車で送ってもらうチェックイン後熊本ラーメンを楽しんだのであった。そしてジェットスターGK616・成田空港行きは定時の20:20に出発。離陸後Uターンして成田空港に向かって飛行。左手下には熊本空港の姿が。そして22:00に成田空港に到着後、USAパーキングで旅友の愛車に乗り換え、自宅まで送って頂いたのであった。到着時間は23:57、成田空港近くのUSAパーキングから1時間20分程で帰宅できたのであった。旅友が纏めてくれたデータによると、自宅からの走行距離は約1350km、これを旅友一人で運転してくれたのであった。お疲れさまでした。そして旅費総額は4泊5日で約7.3万円の旅であった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.01.31
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ここにも見事に残る石垣が「角牟礼城」の「二の丸西曲輪の石垣」。積み直したものであろうか。「ニの丸西曲輪西門跡の南側にある曲輪。南端に礎石建物跡が見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。曲輪周囲に石垣があるが崩落が進んでいる。南側虎口石垣の石よりも小さな石材が使われている。」さらに進む。「礎石建物跡」とかかれた案内板が。そして「本丸 展望所」、「角埋神社」案内板。「本丸跡左折」案内板。案内板に従い進んで行った。虎口(出入口)。階段状の虎口は砂利で保護養生されているようであった。そして「本丸」跡に辿り着いた。正面に案内板が。「本丸跡角埋山頂上部に位置し標高は577mで周囲には土塁を巡らせている。北側には石垣が築かれ石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。南側からは階段状の虎口が検出されこいる。」「角牟礼城」の「本丸隅櫓跡」。本丸北西側の石垣はかなりが崩れ落ちていた。その横には作業員の方の姿が。横に廻って。多くの石が崩れ落ちて。その石垣修復工事が行われていた。「本丸跡」の「隅櫓」の場所からの北方向の眺望。そして「本丸」を後にして下って行った。二の丸の手前まで下って行くと、大手門跡の石垣(城内から見て左側)。見事な穴太積みの石垣に近づいて。黄葉。再び「二の丸西曲輪」の石垣。巨石の石垣が並ぶ。「水の手曲輪石垣」を上から。「水の手曲輪石垣」を位置を変えて見る。石仏の姿もあった。帰路も黄葉の中を。「二の丸」南虎口には穴太積を再び。「角牟礼城」の紅葉をこれでもかと楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.30
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「深耶馬渓」を後にして次の目的地の「角牟礼(つのむれ)城跡」に向かって県道28号線を「山移川」に沿って南下する。この辺りが「もみじ谷」と呼ばれている場所であろう。蕎麦の「茶屋 一ツ家」手前のカーブ。大分県道28号線・森耶馬渓線沿いの紅葉を楽しみながら進む。そして「角牟礼城」の下にある「三島公園駐車場」に到着。「青の洞門」~「深耶馬渓」~「角牟礼城」へのこの日のルート。国道500号~中津日田道路~県道28号線を利用してひたすら南下したのであった。駐車場に車を駐め散策開始。「角牟礼城跡」遊歩道案内図が水墨画の如くに。大分県玖珠郡玖珠町森。「角牟礼城」の「三の丸」から「本丸」部分をズームで。「角牟礼城」は、毛利高政によって、中世の山城から石垣や櫓門をもつ近世の城郭に作り変えられたとされ、その遺構からは中世の城郭から近世の城郭への移行の様子をうかがうことができる。角埋山の頂上から本丸、二ノ丸、三ノ丸の順に配置され、伝搦手門跡には穴太積み(あのうづみ)とも呼ばれる野面積みの石垣が残っている。これは、安土城にも見られるという近世の山城の特徴である と。「続日本百名城」のスタンプが置いてあるという「豊後森藩資料館」に向かって進む。駐車場横にあった見事な銀杏の樹の黄葉。黄葉がこれでもかと青空に映えて。これぞ「銀杏黄葉(いちょうもみじ)」。そしてその先にあったのが「豊後森藩資料館」。大分県玖珠郡玖珠町森868−2。「豊後森藩資料館」入口。中に入ると「角牟礼城」のジオラマが展示されていた。場所を変えてズームして。櫓や門、木柵も確認できた。「角牟礼城跡模型(スケール: 1 / 1000 )標高470m付近から頂上にかけての模型です。山の急峻さを表現するために高さを1 .5倍にしています。なお、建物等の構造物については発掘調査報告書等を参考にイメージしたものです。」「角牟礼(つのむれ)城跡/大分県玖珠郡玖珠町森大分県西部にある玖珠盆地の中央には、九州を横断する筑後川の源流である玖珠川が西流している。角牟礼城はその支流である森川西側の、標高577mの角埋山頂に立地する。中世から戦国時代の玖珠地方には、玖珠郡衆とよばれる屈強な在地領主によって、数多くの山城が築かれた。角牟礼城もそのような山城のひとつで、森氏の詰城であった。天正14年(1586)の豊薩戦では、玖珠群衆と共同で守備し、唯一落城しなかった要害堅固な山城として有名である。豊臣秀吉は、文禄2年(1593)の文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、豊後を諸将に分与する。このことにより、文禄3年毛利高政が玖珠郡に入部し、角牟礼城は土づくりの中世山城から石垣を使った近世城郭へと生まれ変わった。関ヶ原の戦い(慶長5年・1600)後、高政は、佐伯城主に転封する。代わって伊予より来島康親(ニ代から久留島)が入部するが、城持ち大名ではなく、山頂の角牟礼城はその機能を失い、長い歴史の幕を閉じた。」「角牟礼城」散策用パンフレットより。「続日本百名城」・「各牟礼城」のスタンプを頂きました。「続日本百名城」・「角牟礼城」の「認定証」。「続日本百名城」・「角牟礼城」の「御城印」。「豊後森藩資料館」内での説明員の方に、角埋山頂に立地する「角牟礼城」の「本丸」への道を詳しく教えていただき、「本丸」まで登城する事に決めたのであった。「豊後森藩資料館」前の広場を見る。「久留島武彦記念館」。「玖珠町出身の児童教育者、久留島武彦の生涯や童話の世界を楽しく学ぶことができます。10種類の展示空間には、船の中をイメージした展示室や、来館者がくるしま童話のキャラクターに変身できる不思議な部屋など、楽しい仕掛けがたくさん施されています。閲覧コーナーやグッズコーナーもあり、子どもから大人まで遊んで学べる施設です。」「三島公園駐車場」から、角埋山頂にある「角牟礼城」の「本丸」方向を見上げる。東側に見えた「大岩扇山(おおがんせんざん)」。大分県玖珠郡玖珠町にある標高691.1mの山。1935年6月7日に国の天然記念物に指定されている。頂上は扁平で、草原になっているようであった。大岩扇山という名は、柱状節理が岩の扇を広げたようであることにちなみ、近隣にあって同様に柱状節理を有する小岩扇山(こがんせんざん)に対比して「大」が付けられたものである。これらの二山は柱状節理を櫛(くし)に例えて雄櫛山、雌櫛山とも呼ばれた。Iphoneのナビに従い「国指定史跡 角牟礼城跡」を目指す。この先を右折して、ひたすら狭い坂道を車で登って行った。角牟礼城三の丸跡(駐車場)に到着。大分県玖珠郡玖珠町森の街並みが眼下に見えた。大分県玖珠郡玖珠町太田 森。「玖珠町文化財案内板 角牟礼城跡角牟礼城跡は標高五七七メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(一四七五)の志賀親家文書である。その後天文ニ年(一五三ニ)や翌三年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防く豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。天正十四、十五年(一五八五、ハ六)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄ニ年には(一五九三)豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(一五九六)からは毛利高政が日田・玖珠郡ニ万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。そして慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預り地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は一万四千石の小大名であり、城を持っことは許されす、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(一六四四)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。平成五年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎ロ(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、またニの丸には礎石建物が発見されている。ニつの門には瓦が葺かれていたと考えられている。」「三の丸林道により一部が壊されているが、三方を石垣で囲まれた曲輸。石垣の角には櫓台の遺構が残る。平成24年度の石垣解体修復工事で積直しの跡と石垣内部からコンニャク印判の碗が見つかった。」現在地は「三の丸」駐車場前。「本丸跡方面へ」向かう。岩肌が顕になった坂道を上って行った。「竪堀」。そして前方に美しい紅葉の林が拡がっていた。「本丸 二の丸」に向かって進む。そして前方が「二の丸」。「ニの丸南側と西側に外桝形の虎口があり、同規模の櫓門を思われる礎石が見つかった。特に南側虎ロは全長100mの石垣があり、穴太積みと呼ばれる初期野面積みがよく残る。」毛利高政が手がけた「角牟礼城」の「二の丸」南虎口には穴太積が残っていた。豊臣秀吉の九州平定後、文禄2年(1593)に大友義統(おおともよしむね)が改易され、豊臣秀吉の家臣である、尾張国(愛知県)出身の毛利高政(もうりたかまさ)が角牟礼城主に。毛利高政は、その後角牟礼城を織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)へと改修した。改修の際、豊臣秀吉の大坂城築城に関わっていた経験を生かし、当時最先端の築城技術を角牟礼城に用いた毛利高政。ちなみに織豊系城郭とは、織田信長や豊臣秀吉の時代に流行し、瓦屋根や石垣、天守に特徴がある。ここ二の丸周辺には、当時屈指の石工集団・穴太(あのう)衆による穴太積みが残っている。穴太積みは、野面積み(のづらづみ)の代表的な積み方といわれている。粗野・乱雑な積み方に見えるが、実は強度や安定性が高い組み方。緻密な計算がなされている職人技。強固な石垣は400年を超える年月にも耐えているのであった。積み石の表面から3分の1くらい奥のところへ重量がかかるように積まれており、一見雑多な積み方に見えて、じつは安定性が抜群とのこと。この穴太積みは、角牟礼城跡の見どころでもあるのだと。「難攻不落の角牟礼城略年表」1122(保安3年) 11月19日の「清原氏所領配分状」(大友文書)に「角牟礼鐘突堂」とあり、 これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。1155(久寿2年 このころ源為朝が築城したと伝えられる。1278~1287(弘安年間) このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。1534(天文3年) 大友義鑑(よしあき)は、古後中務少輔以下8名の玖珠郡衆あてに、新堀築造の感状を出す (菊池氏、大内氏に対する備えとして)。1586(天正14年) 12月、大友氏攻略の島津軍約6千人が玖珠郡に攻め入る。1587(天正15年) 1~3月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門はじめ古後、太田氏等約11千人、島津軍数度の 猛攻に屈せず、これを撃退する。1593(文禄2年) 豊臣秀吉は大友吉統(よしむね)を罰し、除国。豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏等も城を 捨てる。1594(文禄3年) 毛利高政は、秀吉の命を受けて日田・玖珠郡に入部。以後6年の間に本格的な築城を目指し、 穴太積みの石垣や櫓門も造られたのではないかといわれている。1600(慶長5年) 9月、関ヶ原の戦いで西軍敗北。城は黒田如水により開城。1601(慶長6年) 徳川家康、元伊予の水軍大将久留嶋(来島)康親を森に封ずる。康親は館を角埋山の麓 (童話碑のところ)に構える。角牟礼城は廃城となる(毛利高政は佐伯城へ移る)。1615(元和元年) 幕府、一国一城令を公布。2代藩主久留嶋通春は、城の建物・石垣の一部を破却。 (藩政時代) その後森藩では、有事に備えて山一帯を管理し、通常は一般の入場を禁じていた。1993(平成5年) 玖珠町教育委員会により、城跡の発掘調査が始まる。(櫓門跡などの礎石・瓦片・磁器などが出土)「角牟礼城跡」幟。島津軍の攻撃にも落城しなかった難攻不落の堅城。再び美しい紅葉の林を振り返る。これぞ「山粧う」。現在地はここ。「水の手曲輪石垣」「二の丸」の南東下にあるのが「水の手」で、城内で最も状態の良い石垣が残っていた。「水の手」には現在も湧き出る井戸があり、搦手から登ってくる道は石垣で造られたスロープを上るようになっていた。「二の丸」の南西下にあるのが三の丸で、現在はこの部分まで車道が付いており、駐車場にもなっていた。「三の丸」は石塁を周囲に配して曲輪を形成している。「水の手」に続く道の眼下には畝状竪堀群があるのだと。「井戸曲輪跡(伝)」「角埋神社・山頂」案内板に向かって更に登って行った。前方に「大手門跡」と書かれた案内板があった。「大手門跡」といわれる虎口は、幅が2.9mもあり、高低差1.8mを9段内外の石段で登ったと思われる。登り切った位置に門を構えていた と。「大手門跡西門跡と同規模の櫓門と考えられる礎石が見つかる。周囲からは瓦片が見つかっている。東側奥には湧水がある。」更に登って行った。ズームして。「大手門跡」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.29
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「青の洞門」を後にして、国道500号を南下する。大分県北部の奇岩・奇峰で知られる耶馬溪の一角にあり、雄岳(標高758m)と雌岳(標高730m)からなる「九州百名山」の一つ・鹿嵐山方向を右手に見る。中津市本耶馬渓町折元附近の長閑な秋の山並みを見ながら進む。途中、国道500号の本耶馬渓ICを右折して中津日田道路(本耶馬渓耶馬渓道路)を進む。山移川を渡り右折して県道28号線に入る。中津日田道路の山移川に架かる鉄骨トラス橋・「山移大橋88.6m」を見る。一目八景で有名な深耶馬と伊福盆地を取り巻く岩峰群・伊福の景で有名な裏耶馬溪を結ぶ道路・メイプルファーム道路耶馬入口手前の紅葉。この辺りは紅葉のピークであった。深耶馬渓駐車場に車を駐めて深耶馬渓の散策開始。大分県中津市耶馬溪町大字深耶馬。駐車場脇の紅葉を楽しむ。これぞ「錦秋」。これぞ「照紅葉(てりもみじ)」。こちらは「薄紅葉(うすもみじ)」。再び「照葉(てりは)」。左手には、奇岩が飛び出している山並みが現れた。頂上付近の奇岩をカメラで追う。ズームして。大分県北西部・中津市を流れる「山国川」、その支流「山移(やまうつり)川」沿いの、広域にわたる渓谷である「耶馬渓」は、日本三大奇勝として知られ、日本新三景・名勝に指定されていて、最近では日本遺産にも選定されたとのこと。その成り立ちは、古代の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩・熔岩からなる台地が「山国川」の侵食によって形成されたという、ほぼ垂直にそそり立つ奇岩の連なる絶景。「高榎家之墓」がポツンと。この地域の名家の墓地なのであろう。銀杏の葉も散って。これぞ「黄落(こうらく)」。倉本聰の「樹木の独り言」を想い出す。『落ち葉には落ち葉の一枚一枚に未来に伝えるべき遺言が書かれている。』と。「仙人ヶ岩」案内板が見えて来た。右手の奇岩の上に松?の老木が。横に割れが入っている奇岩の上に松?が。「 だるま落とし」の如き姿。「仙人ヶ岩仙人が数人居るように見える」と。こちらは「烏帽子岩」。ズームして。「烏帽子岩神職の装束である烏帽子(帽子)に形が似ている岩」「見晴らし台」案内に従い進む。狭い坂道を登って行った。巨岩の隙間は「切通し」の如し。もみじ橋を渡る。「深耶馬渓」 案内図。「一目八景展望台」から「夫婦岩」を見る。一目八景は、一目で、海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、群猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鷲の巣山の8つの景観が見られるということから付けられた名称。山間の奇岩には、自然の営力(えいりょく)と人の営みが作った景観が。ズームして。左の鳶ノ巣山と群猿山の間に見える岩が夫婦岩。更に。「夫婦岩(ふうふいわ)ニつの岩が寄り添うよらに立つ姿から夫婦岩と呼ばれています。このたびの修景により、群猿山~夫婦岩~鳶巣山(とびすやま)の大パノラマが広がりました。」「一目八景展望台」を見上げる。「群猿山(ぐんえんざん)」。「群猿山下から眺めると猿が群がっているように見えることから群猿山と評ばれています。展望台からも近く、岩が迫ってくるような迫力を感じます。」「仙人ヶ岩」、「烏帽子岩」も見えた。「深耶馬渓一目八景展望台」。一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地。大分県中津市耶馬溪町大字深耶馬。県道28号線・森耶馬渓線を見る。道路の両側には土産物屋や食堂が並んでいた。「かじか茶屋」。店先では 鮎の塩焼きと耶馬溪地鶏を焼いていて 香ばしい薫りと煙りが一面に広がっていたがグッ!!と我慢。自然薯(天然の山芋)を使ったソバも人気があると。道路脇の紅葉。右手に「えぼし屋」。一目八景を臨む「えぼし屋」の展望温泉は、その景色とアルカリ性単純温泉の効能により人気と。その先の店頭にあった「おにゆず」。この「おにゆず(鬼柚子)」、名前に「柚子」と付いているが、実は柚子の仲間ではなく、文旦(ぶんたん)の亜種であるとのこと。大きさの割に軽いのだが、これは表皮と果肉の間にかなり厚く白い綿状のものが詰まっていて果肉が小さいから。香りは柚子というよりは、グレープフルーツのような感じとのこと。「断面」をネットから。左が普通の柚子。なるほど!!そして長芋。自然薯ではなさそうであった。銀杏も最後の仕上げで天日干し中。長期保存する場合は殻にカビが生えないように天日干しすると良いのだ。そして駐車場まで戻り、再び紅葉を追う。「薄紅葉」は、緑や黄緑から、赤や黄色、オレンジへと染まりゆく過程。「山装う」。深耶馬溪観光案内所内にあった「羅漢寺」の「五百羅漢」の写真。「羅漢寺」は、大分県中津市にある曹洞宗の寺院。山号は耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。羅漢寺の総本山。深耶馬溪観光案内所内にあった「福澤諭吉旧居・福澤記念館」の写真。福澤諭吉旧居は、福澤諭吉が幼少年期を過ごした大分県中津市にある旧居である。国史跡。中津城から400mほどの大分県中津市留守居町586にあるとのことだが、今回は立ち寄らなかったのであった。そして駐車場前の紅葉を見ながら最後の目的地の「角牟礼城(つのむれじょう)」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.28
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「中津城跡」を後にして、次の目的地の「青の洞門」に向かって車を進める。ステンドグラスが美しいと言う「中津カトリック教会」の前を通過。国道212号を利用して「耶馬渓(やばけい)」方面に向かって進む。大分県と福岡県の県境を流れ中津城の近くから豊前湾・周防灘に流れ込む「山国川」に沿って南下する。道路標識に従い「青の洞門」を目指して進む。「洞門橋」の手前を左折、右奥には「山国川」に架かる「耶馬渓橋」が見えた。青の洞門の下流にある橋で1923年に竣工。日本で唯一の8連石造アーチ橋で、日本最長の石造アーチ橋。大分県の有形文化財に指定されており、日本百名橋の一つ。上流の馬渓橋、羅漢寺橋とともに耶馬渓三橋と呼ばれているのだ。地元では、オランダ橋という愛称で呼ばれているが、これは大分県や熊本県の石橋とは異なり、長崎県に多い水平な石積みを採用しているためと言われている。建設目的は観光用であったが、近隣の日出生台への要路確保の意味合いもあったのだと。形式:8連石造アーチ橋、橋長:116.0m、最大支間:12.8m、 拱矢(こうし・アーチの高さ):3.0m、設計者:永松昇。「耶馬渓橋」👈リンク をウィキペディアより。右手前方に山国川に面した毛蕨(けわらび)神社の石鳥居が見えた。勝宮守(すぐりみやもり)と難波部首子刀自売(なにわべのことじめ)の夫婦を祀った神社。縁結びの神様としてここ中津では有名な神社であると。嵯峨天皇の御宇(ぎょう・御代)に失敗した勝宮守が左遷されてきたのがこの耶馬渓の地。都に残っていた妻の難波部首子刀自売は夫を追ってここ蕨野(わらびの)まで辿り着き再会を果たしたという伝説がある と。正面に黄葉真っ盛りの銀杏の樹が現れた。山国川に面してそそり立つ競秀峰(きょうしゅうほう)が前方に。競秀峰は耶馬渓を代表する名勝で、山国川下流側から一の峰・二の峰・三の峰・恵比須岩・大黒岩(帯岩)・妙見岩・殿岩・釣鐘岩・陣の岩・八王子岩などの巨峰や奇岩群が約1キロに渡り連なっていて、その裾野には青の洞門が穿たれている。競秀峰の名は宝暦13年(1763年)に訪れた江戸にある浅草寺の金龍和尚に命名されたが、文政元年(1818年)に訪れた頼山陽が描いた水墨画の代表作「耶馬渓図巻」によって天下に紹介された。競秀峰の姿を楽しむには、山国川の対岸からであったが、今回は時間不足のため諦めたのであった。 【https://iwasebunko.jp/event/exhibition/entry-315.html】より頼山陽が描いた絵巻ー耶馬溪図巻記ーをネットから。一部分、左下隅部分をネットから。 【https://yabakei-yuran.jp/inspiration4/】より「競秀峰」の詳細案内写真もネットから。 【https://tosyama.sakura.ne.jp/yabakei19/00_yabakei19.htm】よりそして道路脇の空き地に車を駐め「青の洞門」の散策開始。江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がった。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られた鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていた。諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚(ぜんかいおしょう)は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めた。禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させた。寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、『日本初の有料道路』とも言われている と。大分県中津市本耶馬渓町曽木。山国川そして対岸を望む。対岸の紅葉も進んでいた。禅海和尚が掘った洞門を進む。なぜここを「『青』の洞門」と言うのか?この洞門(トンネル)は、現在、本耶馬溪町にあるが、町の中に「青」という名前の地区があると。洞門は、この青地区にあるので、「青の洞門」といわれるのだと。下を流れる山国川の水面が「青」く見えるからではなかったのであった。次々に洞門が現れた。洞門の天井を見る。「山国川」に架かる「青の禅海橋」を振り返る。橋長120m、幅9.75m。昭和60年度に着工、平成3年に完成。更に次の洞門に向かって進む。自動車がすれ違うのは難しい路幅の洞門。洞門の天井。約30年もの歳月をかけて完成させた手掘りの跡の如くに見えたが・・・。洞門が連続する。青の洞門は、明治39年から翌40年にかけて行われた大改修で、完成当初の原型はかなり失われてしまったのだと。現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っているのだ。唯一当初の洞門の跡の手掘り部分が残っている明かり採り窓が左手にあった。比較的新しい石仏・地蔵菩薩像。台座の左側には、「1993年七月耶馬トピア竣工に伴い、かってこの地に僧禅海がここに建立していた地蔵菩薩像を同風物館に移転安置した。このためここに新しく地蔵菩薩像を建立し禅海の意志を永く伝えると共に、人々の安全を祈願する。」と。禅海和尚の石像。諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、1735年から自力で岩壁を掘り始めたと。雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続けて、1764年に全長342mの洞門を完成させた。「あの角のついてゐる所が堀ちがひをした所であります。」と。上の写真の禅海和尚の石像の奥の場所が右方向にズレてしまった場所なのであろう。明かり窓から山国川の水面を見る。「この窓が最初に明けた明かり窓であります」と。禅海和尚の手彫りの跡であろうか。出口が前方に。ここが初期の洞門の様子が色濃く残る隧道。徒歩でのみ通行可能。その先には先程車内から見た銀杏の樹が。洞門を出て。ズームして。そして引き返す。洞門の入口右には石碑が。「県指定史跡 青の洞門」碑。その先には禅海和尚の手掘り跡の入口が。「禅海和尚の手掘り跡 青の洞門の明かり窓」案内板。そして前方に明かり窓。山国川を望める「青の洞門」の明かり窓。地蔵菩薩像と禅海和尚像を再び。この右の凹んだ場所が「あの角のついてゐる所が堀ちがひをした所であります。」の場所。ノミを持ち岩を穿つ禅海和尚の姿が。明かり窓を再び。石段を上り自動車道へ戻る。競秀峰(きょうしゅうほう)、山国川を再び。競秀峰の全景をネットから。1Kmにわたり、巨大な屏風を立て並べたような岩峰が続く。明治時代、土地が売りに出されたとき、福沢諭吉が土地を買い上げ、開発から守った景勝地であるとのこと。中津城下町にある「福沢諭吉旧居・記念館」には、そのときの証拠である「福澤家土地台帳」が展示されているのだと。 【https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story054/spot.html】より観光客も比較的少なく。そして車に戻ったのであった。そして以下の5枚の写真は、昔、10年近く前であろうか、同僚と訪れた時の写真。この写真は対岸からであっただろうか。この先の駐車場にあった禅海和尚(ぜんかいおしょう)像。正面からズームして。石碑の裏側の台座近くには「菊池寛肖像」。その横に「「恩讐の彼方に」と菊池寛菊池寛は、明治21年( 1888 )現在の香川県高松市に生まれ、25才で短編小説「禁断の木の実」を発表して以来、大正から昭和にかけて短編小説、曲、新聞小説、大衆小説なとに数多くのすぐれた文芸作品を発表しました。また、作家活動だけでなく、文芸春秋社を創設、「芥川賞」、「直木賞」、「菊池寛賞」を設定するなど、作家の育成や地位向上にも大きな功績を残しました。代表作には、「父帰る」、「忠直卿行状記」、「藤十郎の恋」、「真珠夫人」などがあり、作品のいくつかは学校の教科書にも取り上げられています。「思讐の彼方に」👈リンクは、大正8年(1919)に耶馬渓の青の洞門に伝わる話を題材にして書かれたもので、それまでは、江戸時代の道徳に反するため、小説にもならなかった話を、仇討ちの非人間性をテーマに小説に仕上げたものです。翌大正9年には「敵討ち以上」という題で、文学座により劇場公演されました。」「青の洞門と禅海和尚今から二百三十余年前、この付近は鎖渡(くさりど)と呼ばれ岩角に並べられた板を踏み、鎖を伝って通行していた。このため人馬は足を踏み外して転落し、死傷することが多かった。越後の僧、禅海和尚は、仏道修行のため諸国遍歴の途中、この地にさしかかり、人々が難渋するのを見て、ついにこの大岸壁を堀抜こうという一大誓願を起こした。和尚は、村々を廻って熱心に説いたが、これに耳をかす者は誰一人としていなかった。和尚は独り鑿(のみ)と鎚を手に大岸壁に向ったのである。村人達は狂人と嘲笑したが、念力堅固な和尚の鎚の音は日に月にさえ、年を重ねるごとに洞の深さを増していった。和尚の不動心はしだいに村人の心に浸み渡り、志用を喜捨したり、洞窟で鑿と鎚を振るう者もあり、仕事は大いにはかどってきた。和尚の念願に率いられた多くの人々の力が合して三十年、ついにこの洞門は完成した。貫通三百八歩(百五十米)、以来ここを往来する幾千万の人々は、ことごとく和尚の余徳を受けているのである。今ではこの洞門を堀り拡げ、処々に手を加えて旧態を改めているが、一部はなお昔の面影を留めて、禅海一生の苦心を永久に物語っている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.27
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更に中津城模擬天守(奥平家歴史資料館)の散策を続ける。最上部の5階に到着。南側の「二重櫓(大鞁櫓)(だいひやぐら)」を見る。その先に中津市市街地が拡がっていた。「二重櫓(大鞁櫓)」をズームして。南側の山並みの案内図。左からズームして。山並みの案内図から、奥の山並みは、左から瓦岳625m、桧原山735m、樋桶山、中央に雁股山807m、小屋ヶ岳、経読岳(仏岳)992m、犬ケ岳(神の山)1131mであることが判ったのであった。紅葉にズームして。東側の「中津市民プール」、この先が宇佐・国東半島方面。北東方向には瀬戸内海?・豊前海に流れ込む「中津川」と右岸には「中津干潟」👈リンク が。「中津干潟」は一級河川の山国川と二級河川の犬丸川という2本の河川とその支川が流れ込んでいることによって出来た干潟。日本最大の干潟は有明海と八代海に集中していて、日本の干潟面積の約6~7割を占めている。「中津干潟」を中心とする豊前海の干潟は、これに次ぐ国内の約1割の面積を有し、瀬戸内海最大の干潟。有明・八代の干潟はシルト分の多い泥質干潟ですが、中津干潟は砂分の混じった砂泥質干潟。"潟スキー"などの特殊な道具を使わなくても、大潮時には沖合約3kmあたりまで、歩いて行くことができる。20年程前までは潮干狩りも盛んに行われ、アサリを中心に豊富な貝類がでとれていましたが、近年は減少が心配されている と。「北の橋」その先に「龍王橋」が見えた。西側には中津川と山国川との間にある中洲・「小祝(こいわい)島」への「小祝橋」が見えた。南西方向の山並みを見る。左に「小屋ヶ岳」、「経読岳(仏岳)・992m」そして中央右側の尖った山が「求菩提山・782m」。左手に「瓦岳・625m」、「桧原山・735m」、「樋樋山・877m」そして右側に「雁股山・807m」。この南方向の山の名は?鬼落山の方向であろうか。JR中津駅方向。5階の展望台からの眺望を楽しんだ後は階段を5→4階へ下る。4→3階へ下る。3→2階へ下る。2→1階へ下る。階段を下りた右側が「続日本百名城」のスタンプ置場であった。1階の左手には土産物売場、右側に歴代藩主の甲冑展示。そして再び模擬天守入口から模擬二重櫓を見る。「大鞁櫓(だいひやぐら)」とも呼ばれているようだ。「城主の馬具等を格納するところ」と。「大鞁櫓」を下りて再び黄葉を見る。「天守」、「大鞁櫓」を振り返る。手水鉢は空であった。「大久保麑山(おおくぼ げいざん)先生紀年碑」。「大久保麑山先生の碑」。1826*-1885 幕末-明治時代の武士、教育者。文政8年12月11日生まれ。豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩士。叔父の野本白巌の塾で学ぶ。陣道具奉行、三百間砲台守隊長をへて藩校進脩館の助教となる。維新後は片端中学で教えた。明治18年8月18日死去。61歳。名は教之。字(あざな)は子誨。通称は逕三。そして「中津大神宮」へ。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。拝殿に向かって石畳を進む。「豊前の国のお伊勢様 中津大神宮」と。「七五三詣」の絵馬、その奥には砲弾が安置されている「日露記念」碑。「中津大神宮由緒記御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)ほか二柱 明治十四年九月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。明治三十二年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦頒布業務を担当、豊前の国(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和二十一年四月中津大神宮として今日に至る。また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵二一六枚が奉納されている。」「拝殿」。「御祭神 天照大御神当神宮には天照大御神(あまてらすおおみかみ)がお祀りされています。「古事記」によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)という神さまが、黄泉(よみ)の国での穢(けが)れを祓うために禊(みそ)ぎをした時、多くの神々を生み、最後に天照大御神・月讀命(つくよみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)という神さまが生まれました。伊邪那岐命は「最後にとても尊い神々を生んだ」と大変喜ばれ、天照大御神に神々の国である高天原を治めるようにとおっしゃいました。これにより、天照大御神は神々の世界を治める神さまとなるのです。またあるとき、高天原で須佐之男命が、様々ないたずらを行い、多くの神さまに迷惑をかけてしまいます。そのことに天照大御神は大変心を痛め、天石屋戸(あめのいわやど)に隠れてしまいました。これが「天石屋戸」の神話です天照大御神が隠れると世界は真っ暗になり、災いが溢れ、八百万(やおよろず)の神々も困りはてました。そこで神々が集まり、知恵とわざをこらしてなんとか天照大御神に出てきて截くと、再び世界は光を取り戻し、平和と秩序が回復しました。天照大御神は、秩序と平和を司る神さまとして、時には万物を育む「太陽」にも例えられます。「日本書記」では、天照大御神が生まれたとき、「光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(あめつち)の内に照り徹(とお)る」とたたえられており、この上なく輝かしい存在として、また神々の世界を治める最も尊い神さまと伝えられます。当神宮は、皇室の祖先神であり日本の最高神の天照大御神をお祀りしていることから、広く人々より慕われ、厚く崇敬されています。」「拝殿」の扁額には「天照皇大神」の文字が。「内陣」。「西南之役 中津隊 百年祭記念」碑。近寄って。「歌碑」。「歌碑説明壮士悲秋歌並反歌 増田宗太郎武士(もののふ)と名に負ふ吾も 正心夫(ますらお)と於(お)もへる吾も匏形(ひさかた)の空に向ひて 野干玉(ぬばたま)の月を悲しみ白露の身にしむ夜半に 秋風の彳(たたず)み居つつ荒妙の袖しぼるべき時は来にけり反歌照る月の影をゆゝしみ劔大刀とりてぞしぬぶ秋の夜な夜な楳谷安良明冶十年八月ニ十ニ日日向国三田井ニテ幾年か於(お)も比こめにし真心を都くしの国に今盡す南利(なり)裏面の碑文に日く今年三月三十日、中津隊決起百年祭を仕へまつりその献詠の中に雄々しくも健き思ひややさしくもまた香細(かぐ)はしき大丈夫(ますらお)の君が詠み歌眼交(まなかひ)につね顕(た)ち給ふ大丈夫の君が御面輪(おもわ)と追慕景仰の思を籠め参りしが に秋季百年大祭を作へまつるに当り、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良先生の国風(くにぶり)を夫々自筆のまま拡大して石に刻し、挙げてわが中津隊一統の真精神を永く後昆に傳へんと志し之を建つ」「恭事神明碑」。「中津大神宮」の向かって左手にも、また別の社があった。「城井神社」参道左に「芭蕉句碑」。「古池や 蛙飛びこむ 水の音」。「芭蕉句碑貞享三年(一六八六年)春に深川芭蕉庵て詠まれた句宝暦三年(一七五三年)池大雅が自性寺を訪ねた時に揮毫(きごう)したといわれる『諸国翁墳記』に、「古池塚 豊前中津ニアリ門人等建」とある」「拝殿」に向かって進む。「城井神社(きいじんじゃ)」の「拝殿」。「城井神社御祭神 宇都宮鎮房城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る十六代およそ四百年の間豊前国守として徳政を布いた。天正十五年(一五八七年)五月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(十二万石)移封の御証判を与えた。鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正十六年(一五八八年)四月二十日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。宝永二年(一七〇五年)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。」扁額「城井神社」そして「扇城(せんじょう)神社」。「宇都宮鎮房公従臣四十五柱 扇城神社」。「社殿」。「扇城神社宇都宮鎮房公従臣四十五柱天正十六年(一五八八年)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。異変を知った家臣群は次々に城内に駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は十九人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い広津広運寺まで通り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他はことごとく討死した。家老渡部右京進は七・八人を薙(な)ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。宝永ニ年(一七〇五年)小笠原長円公は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正九年(一九ニ〇年)四月二十日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。」「扇城神社 御祭神四十五柱」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.25
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そして3階へ。「蘭学の里・中津に夢と希望を~蘭学の島ここに湧く~」中津ロータリークラブ創立50周年記念展示「前野良沢 木像」「前野良沢 木像平成十六年三月十三日福岡県田川郡 永原陽宝 作 (初義)七十歳前野良沢(一七ニ三~一八〇三)中津藩医前野東元の養子で青木昆陽、吉雄耕牛に蘭学を学びターヘル・アナトミアの翻訳の中心的役割りを果たして「蘭学の鼻祖」と呼ばれている。翻訳書は「解体新書」として安永三年(一七七四年)に杉田玄白たちによって出版された日本の蘭学研究出発点となった。生涯を蘭学研究に費やしたため藩主奥平昌高公より「和蘭人の化け物」と称され、墓標には「前野蘭化」という名前が刻まれている。」①『解体新書』を巡る人々前野良沢と中津藩主・奥平昌鹿、昌高。「前野良沢」。中津藩奥平家7代「奥平昌鹿」。中津藩奥平家9代「奥平昌高」。②日本とオランダとの交流のはじまり1600年4月1 9日、大分県日杵市の黒島に初めてオランダ船が漂着5隻の帆船隊が多くの苦難に見舞われ、日本にたどり着いたのはリーフデ号のみであった。リーフテ号は、300トン、砲18門、3本マストの木造帆船。乗組員は110人であったが、臼杵市左志生黒島に漂着した時には24人に減少。上陸後、さらに6人死亡という惨状であった。ヤン・ヨーステンは東京都中央区八重洲の語源となった人物。(ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」から)漂着した「リーフデ号」。「黒島に建立されたオランダ人上陸の碑」。③日本の解剖のはじまり山脇東洋(1705 ~ 1762 )1754年、日本初の人体解剖を京都にて行う。山脇東洋著「蔵志」1749年日本最初の解剖記録「三浦梅園が模写した人骨図三浦梅園( 1723 ~ 1789 )杵築藩の医師、哲学者。名は晋、字は安貞。中津の漢学者・藤田敬所に師事。中津に来訪して、根来東麟の父親である根来東叔の人骨図を模写し、「造物余譚」という書物に掲載して、東叔のバイオニア精神を評価した。」④中津藩主・奥平昌鹿の強力な支援中津城3代目の藩主・奥平昌鹿は母の骨折を長崎の蘭方医・吉雄耕牛が見事に治療した事から蘭学に興味を抱き、藩医・前野良沢を1769年11月6日、長崎に派遣した。江戸に戻った後、前野良沢が翻訳に明け暮れて本業を怠ったという、家中の非難にも「良沢、元来異人なり、和蘭人の化物なり」と庇った事で知られている。「吉雄耕牛(1724~1800)」(左)と「前野良沢(1723~1803)」(右)⑤『ターヘル・アナトミア』についてオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』とはドイツ人、ヨハン・アダム・クルムス著「アナトミッシェ・タベレン』を元に、オランダのライデン大学外科医ゲラルドス・ディクテンがオランダ語に翻訳した解剖学表のこと。『解体新書』の歴史的意義中津藩医・前野良沢(1723 ~ 1803 )が盟主となって西洋の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳した「解体新書』は、真の意味で蘭学の幕開けであり、日本の科学史はここに始まったと言っても過言ではない。「解体新書」。適塾所蔵『解体新書』扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とは大きく異なっている。⑥1771年3月5日、翻訳開始『解体新書』出版への第一歩を踏み出す。「ターヘル・アナトミア」を片手に解剖を観察する良沢と玄白。1771年3月4日(翻訳開始の前日)前野良沢、杉田玄白らと骨が原にて腑分け(解剖)を観臓(観察)。⑦『解体新書』の解剖図「解体新書」に掲載する解剖図を描くにあたり良沢や玄白の身近には西洋画法にたけた人物がいなかった。「角館に良い絵描きがいる」と知った杉田玄白は、平賀源内に依頼して佐竹曙山(秋田藩主)の許しを得て、角館の小田野直武を江戸に呼び寄せた。1773年、小田野直武は平賀源内から西洋画法を学んだ後、翌1774年、『解体新書』の解剖図を描いた。「小田野直武が描いた「ターヘル・アナトミア」の解剖図」。⑧『解体新書』出版にあたっての背景『解体新書』出版当時、オランダに関する書物は幕府の厳しい監視下に置かれていた。1765年に、後藤梨春が出版した『紅毛談』が咎めを受けて島流しになり、発禁絶版となった事も踏まえ、杉田玄白は出版にあたり用意周到な配慮をした。1773年、『解体約図』5枚1組を予告版(バンフレット)として作成し世の(実際には幕府や天皇)反応を見た。桂川甫周の父・甫三(奥医師・大奥に仕える医師)の推挙で徳川家治の大奥に献上。更に従兄弟・吉村辰碩学の推挙で関白九条家、近衛家、広橋家へも献上したが咎めも無く称された。玄白の周到な準備が功を奏した。(良沢を通じて玄白から耕牛へ)序文の執筆を依頼。⑨日本初の翻訳本『解体新書』出版1774年8月江戸の須原屋市兵衛により『解体新書』か出版された。【翻訳者】杉田玄白、中川淳庵、石川玄常、桂川甫周翻訳者に前野良沢の名前がない?以下が3つの説が有力とされている。①完璧主義の良沢が翻訳にあたり、解読・翻訳レベルに満足できなかった②長崎に行く途中「大宰府天満宮に学問成就を祈った時に、名利のために学問をしない」と誓った (野崎謙: 「前野蘭化先生碑」に記載)③当時の政治状況で、もし発禁となり咎を受けることがあれば、良沢を温存し罪は小浜藩医の 玄白達が受ける覚悟『解体新書』の序文 吉雄耕牛「先に中津の官医・前野良沢なる人が私を長崎に訪ねて来たが、見るところ豪傑の士である。蘭学を熱心に学び日が暮れても倦ます、私はその篤好に感じ自分の知っているものを全部伝えた。出藍の才能以上である。今や前野、杉田のニ君、豪傑の天性と篤好の志をもって、精神力と英知を働かせて、ああ、このように成し遂けたのである。」(原文ママ)⑩福澤諭吉『蘭学事始』を復活復刻版によって明らかになった良沢の功績福澤諭吉(1835 ~ 1901)諭吉は、辞書も無い時代に良沢か江戸中津藩中屋敷にて大変な苦労をして翻訳したことを踏まえ、1858年、オランダ語塾を江戸中津藩中屋敷跡に設立。1868年、移転の際、当時の元号か慶応だったことから慶応義塾(後の慶應義塾)と改称する。『蘭学事始』を2度復刻版に慶応義塾設立から十数年経った後、「和蘭事始」を偶然発見したことから、復刻・再販を行った。1869年「蘭学事始」として復刻玄白が耕牛に序文を依頼したと思われる文章が「蘭学事始」に記載されていた。これにより、良沢か翻訳の盟主として携わっていたことか明らかとなった。1890年に再復刻された「蘭学事始」。福澤諭吉は、友人の医務局長・長与専斎の依頼で、更に1890年に再復刻。その際『蘭学事始第ニ版』の序文を書いた。福澤諭吉の序文「我々は、之を読む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」⑪前野良沢👈リンク の人柄前野良沢の趣味『一節截(ひとよぎり)』一節截(ひとよぎり)は鎌倉時代頃から始まった竹の笛(縦笛)で、尺ハの原型とも言われている。良沢は大森宗勲流の名人と言われ、中津の親戚の簗次正に伝授。次正は更に中津の医師達にも教えて当時の中津にも広まった。一節截は、飛鳥、奈良、平安時代と続く尺ハを原型として、鎌倉から江戸の元禄あたりまで、様々な階層の人達によって盛んに吹き伝えられ、"中世の竹笛"と呼んでもよい、優れた日本の民俗楽器の一つである。前野良沢の自然思想人間が自然界の一部を支配したりする事ができると非常に做慢になって自分の独力でしたように思う自分の力は自然のカの一部という謙讓の心が重要である⑫奥平昌高 良沢から蘭学を学ぶ中津藩主4代目・昌男は、1786年24歳で天折し、後継きの男児がいなかったため、薩摩藩・島津重豪の次男、富之進(後の5代藩主・奥平昌高) 6歳を12歳と称して跡目を継がせ奥平藩はお家断絶を免れた。薩摩藩25代藩主・島津重豪(昌高の実父)の政治教育姿勢を学び中津に藩校「進修館」を創立し蘭学への情熱を継承。昌高は父親の蘭学を学ぶ姿勢からも大きな影響を受け、中津藩に着任してからも前野良沢に蘭学を学んだ。昌高はオランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフから”フレデリック・ヘンドリック”のオランダ名を貰うほどオランダ学問に熱心であった。⑬シーボルトと昌高の交流フィリップ・シーボルト(1796 ~ 1866 )ドイツのヴュルップルグ生まれの医師。1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。1824年、鳴滝塾を設立。美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。『日本博物誌』『日本』『日本植物誌』を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。1826年、江戸参府中に中津藩主・奥平昌高と頻繁に交流。1826年2月15日、長崎出島を出発し江戸参府後、7月7日に出島に帰着するまでの日記。江戸では頻繁に奧平昌高と交流、日記に記された人名の内、昌高の名前が最多数の26回登場する。医師では高良斎、ニ宮敬作が同行。画家は川原慶賀。植物、動物、文化情報を収集した。➡昌高とシーボルトの親交の深さが伺える1828年、シーボルト事件勃発。翌年、国外追放となる。1828年、積荷の中に日本地図などの禁制品か発見されシーボルト事件が起こった関係者50人が逮捕処罰され、1829年、国外追放となったシーボルト肖像ドイツのヴュルツプルグ生まれの医師。1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。1824年、鳴滝塾を設立。美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。「日本博物誌」「日本」「日本植物誌」を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。⑭シーボルトの弟子と娘ニ宮敬作がシーボルトの娘・イネを養育。ニ宮敬作(1804 ~ 1862)1804年宇和島藩磯津に出生1819年吉雄塾にて蘭学を学び後にシーボルトの高弟となる1826年シーボルトの江戸参府に同行、富士山を測量1828年シーボルト事件に連座、入獄3年。宇和藩卯之町で開業しシーボルトの娘・イネを養育、高野長英を匿った1859年シーボルト30年ぶりに再会シーボルトとイネも再会、感涙したと言われている1862年長崎にて死去イネ、日本最初の産科女医となる。産科女医となったイネを福澤諭吉が宮内省産科医に推薦明治天皇の第1男児を取り上げた⑮ライデン大学で使われた中津辞書奥平昌高が作成した2つの辞書奥平昌高は1810年、日本最初の和蘭辞書「蘭語訳撰」を作成する。その後、1822年、日本で3番目となる蘭和辞書「バスタールド辞書」も作成した。この2点を通称“中津辞書”と呼ぶ。現在も貴重な本としてライデン大学図書館等に厳重に保管されている。中津藩蘭学の碑文・蘭学の里碑文蘭学の碑文豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出した。その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにある。福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったためである。ここに中津藩の蘭学興隆に、多くの力を尽くした人々を掲げ、その功績を記す。奥平昌鹿(1744年~1780年) 第3代中津藩主として、蘭学に関心をもち、前野良沢を育成した。前野良沢(1723年~1803年) 杉田玄白らと共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著し、 日本の蘭学の鼻祖となった。奥平昌高(1781年~1855年) 第5代中津藩主。 シーボルトと交流し、神谷弘孝(源内)に「蘭学訳撰(和蘭辞書)」大江春塘に 蘭和辞書を出版させた。村上玄水(1781年~1843年) 1819年、九州で初の人体解剖を行い「解剖図説」「解蔵記」を著した。大江春塘(1787年~1844年) 長崎に留学して蘭学を学び、「中津バスタード辞書」を出版した。田代基徳(1839年~1898年) 「切断要法」を出版、「外科手術」「医事新聞」を発行し、近代外科学の礎を築いた。「顕彰碑」碑文 「蘭学の里・中津と中津城 」中津藩は、前野良沢から福沢諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした藩である。 中津藩主三代目・奥平昌鹿(1744~1780)は母の骨折を長崎の蘭方医吉雄耕牛が見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。明和七年(1770)、藩医の前野良沢 を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。良沢は、藩主の期待に応え、オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白等と翻訳し、蘭学の開祖と なった。その成果は安永三年(1744)、杉田玄白、中川淳庵等により『解体新書』として出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。 中津藩主五代目・奥平昌高(1781~1855)は、薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪(1745~1833)とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ 語を学んだ。文化七年(1810)に、日本で最初の和蘭辞書『蘭語訳撰』を、文政五年(1822)には日本で三番目の蘭和辞書『中津バスタード辞書』を出版し、蘭学の 普及に努めた。これらの辞書に関与した蘭学者は、前者は神谷弘孝、後者は大江春塘(1787~1844)である。二冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称され、日本各地で活用されたのみならず、出島やオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、大いに利用された。文政二年(1819)、昌高は、藩医村上玄水(1781 ~1843)による九州で史料が残る最初の人体解剖を許可した。玄水は、解剖の詳細な記録を『解臓記』として残し、生家は、三〇〇〇点の医学史料を蔵する「村上医 家史料館」として、中津市諸町に保存公開されている。 嘉永二年(1849)、辛島正庵を筆頭とする中津の医師十名は、長崎に赴き、バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗を入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功し た。この年は種痘元年ともいわれ、日本で最も早い時期の成功であった。なお、辛島家では、種痘を含めた四〇〇点を越す医学史料が発見されている。種痘の成功により、 多くの子供の命が救済された。この事に感動した住民からのボランティアにより、文久元年(1861)、勢留に「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。 明治に入り「医学館」は、奥平家が、年に米二百二十五俵を提供して、西洋医学の必要性から「中津医学校」へと発展的に改称された。 明治四年(1871)中津医学校校長に就任した大江雲澤(1822~1899)は“医は仁ならざるの術、努めて仁なさんと欲す”という医訓を示し、外科医としてのみなら ず、教育者としても、優れた業績を残した。市内鷹匠町にある大江家からは、世界で始めて全身麻酔による手術に成功した華岡青洲の肖像画や多数の華岡流外科手術 図が発見された。その他に『解体新書』や『重訂解体新書』なども発見されている。当時の中津藩から華岡塾の大阪分塾に五名の医師が派遣され、学んでいたことが 明らかになった。前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に至ってもなお続いていたことが伺える。 中津出身の外科医として、陸軍・医学校校長を務めた田代基徳(1839~1898)がいる。松本良順(1832~1907)等と医学会の前身である「医学会社」を起したり、『外 科手術』や『医事新聞』を発行するなど幅広い活動を行った。基徳は、大阪にある緒方洪庵の適塾に学んだ。そこでは中津から福沢諭吉をはじめ十一人が学び、幕末 の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。基徳の養子田代義徳(1864~1938)は初代東大教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。さらに、日本の歯科 学の開祖小幡英之助(1850~1909)や近代医学史上に残る心臓の刺激伝導系の発見者田原淳(1873~1952)など中津には次々と医歯学のパイオニアが出現した。 洋学史上に残る中津人の活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと考えられる。時代に対して先見の明があり、人材 育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福沢諭吉によって行われた。諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を成し遂げた苦労を顕彰する為、杉田玄白が晩年著した『蘭学事始』を、明治二年(1869)に復刻させた。その序文の中で諭吉は―良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れない―と述べている。 中津城には中津の「蘭学の光芒」を示す史料が数多く展示されている。そして4階へロータリー地区史業績略年。黒官石瀬戸内海に面したこの街は、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛が開いた城下町。2014年の大河ドラマは「軍師・官兵衛」であったことで、普段は 静かなこの街が観光客でにぎわった。その時から中津城のお土産として売られているこの黒官石は、中津城の石垣の石の破片を御守りにしたもの。ガラスケースの上に「たにし祭り」の写真が。日本の歴史上最も有名な戦いの一つである「長篠の戦い」。たにし祭(奥平神社例大祭)は、その前哨戦である長篠城籠城戦において、奥平信昌(貞昌)公の率いる籠城部隊が、城内の食料が尽きても、堀の「たにし」を食べて織田・徳川の援軍が到着するまで、城を守り通した事に由来しています。この戦いにより家名をおおいに上げ、未来を切り開いた奥平信昌(貞昌)公は、信長公の一字を与えられ、家康公の長女「亀姫」を娶りました。その後奥平家は、徳川御連枝として、宇都宮藩主などを経て、幕末まで中津藩十万石を長く治めたのです。また、自らの命を省みず城を脱出して家康公の元に赴き、そして戦場に引き返した際、敵に捕らわれながらも援軍が到着することを味方に伝え、磔にされた武士の鑑「鳥居強右衛門」の逸話は、あまりにも有名です。ガラスケース内には「奥平家 御座船 朝陽丸」と「奥平団扇」展示が右に。右側に再び「御紋 鑑軍配 奥平団扇」。団扇紋には丸い団扇と、羽団扇、男系の軍配団扇(唐団扇)の3種類がある。団扇は道教の八仙の一人である鍾離権(しょうりけん)の持ち物で死者を蘇らせる神通力があったということから瑞祥的な意義がるが、家紋としては軍配団扇などからも尚武的な側面が強い。そして中央に「奥平家 御座船 朝陽丸」の「帆印」。帆印は白地に紺で縦に五筋、横に三筋 幔幕は紫地に白の『中津団扇紋』船印は紺地に白の『中津団扇紋』の旗と五色「五色思想 では、青・緑 を用いられることもある (東 )、赤 (南 )、黄 (中央 )、白 (西 )、黒 (北 )が五色とされる。」の吹貫き、先には銀の瓢箪飾りがついています。豊前中津藩は大阪より舟路138里五代藩主奥平昌高公の時代と推測されます「本丸御殿鬼瓦」。「中津城下町や近郷の商店の引札」引札は、江戸から明治・大正期に商店などが開店・売出しの披露や商品広告のために配ったちらしのことで、その配布方法には、特定のお得意に限る、町内各戸へ、通行人に配るなど、商売の業種や店の規模によってさまざまな形態がありました。田村東京堂煙草問屋 大家善蔵醤油 松本勘治醸造「中津城下町や近郷の商店の引札引札(ひきふだ)引札、または引き札は、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元等の宣伝のために作られた広告チラシである。石版印刷という研磨した石面に墨やクレヨンで直接文字や絵を描くか、転写紙に描いたものを転写して製版し、水と油の反発性を応用して印刷する手法が取られている。広告の貴重な歴史資料としてだけでなく、その独特の色合いと大胆な図柄に魅了された収集家も多く存在し、全国各地で博物館に所蔵されていたり、展覧会も催されるなど、今では美術的価値を持った印刷物でもある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.24
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奥平昌成(まさしげ)公着用の鎧(右)と奥平昌高(まさたか)公着用の鎧(左)「奥平昌成公着用の鎧」。卯花縅(うのはなおどし)腹巻(江戸時代中期)黒漆盛上本小札(こざね)に卯花縅、八双金物唐草透し彫軍配団扇の居文金物(すえかなもの)小縁(こえん)は菖蒲革、化粧の板は菖蒲革包み、地革は正平革(しょうへいがわ)、冑(かぶと)は覆輪懸筋の星鉢、五枚𩊱(しころ)」「奥平昌高公着用の鎧」。紺糸縅(こんいとおどし)大鎧(江戸時代中期)弦走(つるばしり)の革を付けず采配付の鐶(かん)を配し背に押付の板を備えて具足の様式との折衷を示している。小札(こざね)は盛上本小札、裾金物は左右唐草透し彫り、中央軍配団扇(うちわ)の紋、笄金物(こうがいかなもの)は出八双(ではっそう )配置、胸板の小縁は菖蒲革、地革は正平革、小桜鉄留めの、全体として製作が細密巧緻(こうち)で工芸品としても勝れたものと云える。尚冑(かぶと)が傳えられていない事がうらまれる。」「大鎧甲冑の内、その中心となるものが大鎧である。元来鎧と云う名称は具足と同様「よりそろう」意で物の集合構成を示す語であり物具と云うのも同意である。それ故胴冑は勿論籠手脛当(こてすねあての如き小具足をも總て含めたものが本義である。大鎧とは他の形式の胴丸腹巻き等に比して大き目に製作せられたが為にこの様に云われたもので式正鎧(しきしょうよろい)と呼ばれた。大鎧の構造は最も騎射戦に適する様製作されて居る。つまり引合わせを右脇に設け右脇の間隙は脇盾で塞いで居る。草摺(くさずり)は馬上に於て其の大腿部を完全に覆うべく大きく前後左右に分かれて居り左右の肩には大袖を付け胸板の左右には鳩尾板(きゅうびのいた)、梅檀板(せんだんのいた)を附属して居る。」手前に軍扇と采配。「軍扇」は軍配団扇(ぐんばいうちわ)の一種で、武将が戦場の指揮具として用いた扇。「采配」は戦場で大将が士卒を指揮するために振った道具。厚紙を細く切ってふさをつくり、これに柄(え)をつけたもの。中津藩奥平家4代 奥平昌章公着用の鎧。「胴丸胴丸は大鎧が騎馬に適切なのに対して全く徒歩(かちいくさ)戦斗に適応すべく構成されいる故、軽快に製作されている。胴は引合を右脇に設け草摺は通常五段下り八間に分かれて徒歩の便を良くしている。尚元は杏葉を以て左右の肩を覆い大袖の用をなして居たが南北朝時代以後戦闘様式の変化に伴って次㐧に高級の者も胴丸を着用する様になり大袖を併用すると共に杏葉は前方に下って恰も(あたかも)栴段鳩尾の如き観を呈するに至った。」説明文に専門用語が多すぎてついて行けないので、鎧の各名称をネットから。これにも「よみがな」が欲しいのであった。徳川家康公より拝領した奥平家重代の家宝「白鳥鞘(さや)の鑓(やり)(鎭西八郎爲朝用ゆる鏃(やじり))」(平安時代末期)□刃 長さ:三寸 量目:三十九匁 □三条小鍛冶宗近 作「穂先は源氏の弓の名手、源為朝公が使用した鏃(やじり)と伝えられている。徳川家康公が織田信長公より拝領し、徳川家の家宝とされていた。その後、家康公の曾孫にあたる奥平忠昌公が、元和二年(1616年)家老桑名主米と共に駿府で家康公の病状を見舞うため、初めての拝謁を賜った際、当時六歳の忠昌公がこの槍を所望して拝領。奥平家の行列は、この槍の威光で諸大名より特に重視され、また江戸城登城の際玄関先追持入ご免であった。以来奥平家の重宝とされている。三条小鍛冶宗近の作と云う。」旅友もカメラの手を休めて、多くの展示物を観る。●「奥平昌暢公 奥平家第十二代 豊前中津藩第六代主 従四位 大膳大夫」の鎧(左)。 文化6年(1809年)ー天保3年(1832年) ●「蘭癖大名「フレデリック・ヘンドリック」 奥平昌高公 奥平家第十一代 中津藩第五代藩主 従四位下侍従 大膳太夫」の鎧(右)。 天明元年(1781年)ー安政2年(1855年)「奥平昌暢公着用鎧 奥平家第十二代 中津藩第六代藩主茶色威革包金箔押伊予札縫延胴具足(江戸時代後期)胴は伊予札を金箔押の革包にし、縫延(あいのべ)という横縫いする手法を採用。草摺は茶色威で、杏葉(きょうよう)(肩上に染め革でくるんで付けた鉄板)には、奥平家の家紋である軍配団扇をかたどった居分(すえ)金物という飾りの金具が付けられている。具足の背後には、旗指物を差すための受筒を装備、冑は、黒漆四枚矧の日根野鉢に素懸威(すがけおどし)の日根野錏(しころ)を垂らし、前立には、高くとがらせた高角の鍬形と、車配団扇が用いられている。この洗練された、まるで美術品の様な鎧が放つ色の輝きを見ると、若き藩主の貴公子然とした姿が、自然と眼に浮かんでくる。」「奥平昌暢公 奥平家第十二代 豊前中津藩第六代主 従四位 大膳大夫文化6年(1809年)ー天保3年(1832年)中津藩第五代藩主の昌高公の次男として江戸で誕生。薩摩藩第八代藩主の島津重豪公の孫にあたる。母は、中津藩代四代藩主の昌男公の娘、八千姫。文政5年(1822年)10月、義理の伯父である第十一代将軍徳川家斉公に初めて謁見し、12月に従四位下美作守に叙任。文政8年1825年)、父昌高公の隠居に伴い家督を相続、大膳大夫に遷任。文政10年(1827年)、農民の献金額に応じて庄屋格または名字帯刀を許すという、藩法である授格条例を改正、増補。文政12年(1829年)には、数万両もの多額の資金を投じて水田開発をおこない、また、多数の犠牲者を出した前年の大洪水を受けて、三百間(約545メートル)に及ぶ頑丈な石堤を造成。藩政改革に意欲を燃やす若き藩主は、同年2月、一橋斉敦公の五女、国子姫と結婚。徳川御三卿一橋家と諸代の名門、徳川御連枝奥平家が結ばれるという、幕閣をはじめ諸大名から庶民までもが注目する華燭の典であった。」「采配」が下に展示されていた。「「蘭癖大名「フレデリック・ヘンドリック」 奥平昌高公 奥平家第十一代 中津藩第五代藩主 従四位下侍従 大膳太夫」 天明元年(1781年)ー安政2年(1855年)」薩摩藩第八代藩主、島津重豪公の次男として江戸藩邸で誕生。第十一代将軍徳川家斉公の正室、広大院及び薩摩藩第九代藩主島津斉宣公(重豪公長男、篤姫の祖父)の弟。また福岡藩第十一代藩主、黒田長溥公(重豪公十三男)及び八戸藩第九代最後の藩主、南部信順公(重豪公十四男)の兄にあたる。天明6年(1786年)、六歳の時に二十四歳で急逝した中津藩第四代藩主、奥平昌男公の未期養子として迎えられ家督を継ぐ。昌男公は、実父重豪公の蘭学仲間であった。昌高公も成長するにつれ蘭学に没頭し、「蘭癖大名」と呼ばれる。寛政8年(1796年)、藩校進脩館を創設し文武両道を奨励。歴代のオラダ商館長と親交を結び、「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名を贈られている。文化7年(1810年)、中津辞書と呼ばれる「蘭語訳撰」を、文政5年(1822年)には「中津パスタード辞書」を出版。文政9年(1826年)、ドイツ人医師シーボルトがオランダ商館医として江戸参府した際、実父重豪公と共に対面を果たし、以後深い交流を重ねる。江戸後期、西洋文明の導入に大いなる功績を遣した名君である。」「奥平家第十五代 奥平昌邁(まさゆき)公」着用の鎧。「奥平昌邁公 奥平家第十五代豊前中津藩第九代最後の藩主 従五位下美作守安政2年(1855年)ー明治17年(1884年)幕来の四賢侯と言われた伊予字和島藩主、伊達宗城公の四男として江戸で誕生。信濃松代藩第十代最後の藩主、真田幸民公(宗城公長男)の弟にあたる。文久3年(1863年)、第八代藩主の奥平昌服公の養子として迎えられ、慶応4年(1868年)に家督を継ぎ藩主となる。明治2年(1869年)、維新の主旨に基づいた藩政改革に次々と着手。旧来の慣習を打破して人材の登用を実行し目安箱の制度を拡充。また、官吏を任用するにあたって初めて選挙法を用いた。同年、版籍奉還により中津藩知事となる。明治4年(1871年)、中津藩上の福澤諭吉が設立した慶応義塾に入学し、同年未アメリカへ留学。明治6年(1873年)、病を得て帰国。明治9年(1876年)、天保の改革を行った老中水野忠邦公の孫である静子姫と結婚。明治13年(1880年)、東京府会議員に当選し、翌年東京府芝区長に就任。明治17年(1884年) 7月、家格により伯爵を授けられるも11月に病没。旧領中津と明治新国家の発展に尽力した昌邁公の30歳という若すぎる死は、多くの人に惜しまれ、華族(旧大名)の中において比類無き人物を失ったと悲痛の記事を掲載した新聞もあった。」1階の「双葉山」展示コーナー。明治45年(1912年)2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。相撲界で前人未到の大記録、69連勝で知られる昭和の大横綱「双葉山」。「横綱双葉山関と父祖の地中津天下の名横綱・双葉山(本名・穐吉定次)は、明治四十五年(一九一ニ)二月、隣村の宇佐市下庄(布津部)で生まれ、生まれ育った家は、現在、双葉公民館として利用されています。双葉山の先祖は、もと中津藩の武家・内田氏で、代々刀匠・刀鍛治を務め、苗字帯刀を許され、内田小三治淡路守と名のっていました。定次は、小学校を終えた十三歳のとき、伯父を頼って下正路の汐湯で手伝いをしていました。体格はずばぬけて大きく、カも強いうえ、誠実で実力があることから、毎日汐湯に人浴するお年寄りたちに評判の少年でした。そのうち、お年寄りの有志や角力(すもう)びいきの県の役人、警察部長、安藤氏、中野氏、横松氏などの肝いりで蔵前の東京角力に人門し、みんなの期待通りぐんぐんと成長し角界未曽有の六十九連勝(横綱ニ十六連勝)の大制覇をしたことは不減の輝きです。五十余年前、少年双葉山が風呂の火をたいたり、父と共に回漕の船をこいだ所は護岸工事でなくなりましたが、横綱の化粧まわしや写真、筆をふるった扁額などが市内各地で大切に保存されています。また、国鉄、天津駅には「横綱双葉山生誕之地」の大記念塔が健てられています。」中央に双葉山自筆の額「忠魂輝寿康」。化粧回。かなり色褪せてしまってはいたが。「化粧回伯爵 奥平昌恭公が双葉山(中津出身)の大関時代に贈った化粧回しで、双葉山は横綱昇進後昭和十三年奥平神社に奉納」手形。私の手を双葉山の手形に合わせて。旅友が撮ってくれました。「昭和の角聖 双葉山生誕百年」。徳川家康公 没後400年 特別記念展示品「奥平第ニ代奥平信昌公義父 徳川家康公 没後400年 特別記念展示品」。「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足」(左)「紺糸威金溜塗仏胴具足」(右)徳川家康公着用の「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足」。「大水牛脇立熊毛植黒糸威具足徳川家康公着用写(レプリカ)天文11年(1542年)ー元和2年(1616年)徳川家康公が着用した具足の写(レプリカ)です。 兜は水牛の角をかたどリ、具足全体に熊の毛を植え付け、黒い糸で威(おど)しています。前身真黒の中に真紅(しんく)の面頬(めんぼう)がいかにも鮮やかで、こういった奇抜な意匠は、戦国時代以降に流行した当世具足(とうせいぐそく)の特徴をよく示しています。神君家康公の遺品として、御三家の尾張徳川家で大切にされ、江戸時代は名古屋城小天守内に特別の場所を設けて安置してありました。徳川美術館蔵」松平元康(徳川家康)公着用の「紺糸威金溜塗仏胴具足」。「紺糸威金溜塗仏胴具足松平元康(徳川家康)公着用写天文11年(1542年)ー元和2年(1616年)奥平忠昌公(おっくん)の曾祖父である徳川家康公(ひーじじ)が、永禄3年(1560年)、まだ19歳の若武者で「松平元康」と名乗り、今川方の傘下として織田家と刃を交えた際(桶狭間の戦いの前哨戦)に、着用したとされる甲冑のレプリカです。当時は敵の織田信長公も称賛した、その鮮やかな戦いぶりから縁起が良いとされ、徳川家の家宝として代々伝わるものです。紺糸威金溜塗仏胴具足(こんいとおどしきんためぬりほとけどうぐそく)、通称、大高城兵糧入具足(おおだかじょうひょうろういれぐそく)と言います。」「中津城歴代城主一覧」。<黒田時代>・黒田孝高(如水)・・・天正15年(1587年)入城・黒田長政(長子)・・・慶長5年(1600年)関ヶ原戦功により筑前国52万石に移封<細川時代>・細川忠興(三斎)・・・慶長5年(1600年)入城・細川忠利(長子)・・・寛永9年(1632年)大坂の役後、肥後国54万石に移封<小笠原時代>・小笠原長次・・・寛永9年(1632年)大坂の役後、入城・小笠原長勝・・・寛文6年(1666年)長次の封をつぐ・小笠原長胤・・・天和2年(1682年)長勝の封をつぐ・小笠原長円・・・元禄11年(1698年)長胤の封をつぐ・小笠原長邕・・・正徳3年(1713年)長円の封をつぐ、享保元年嗣子なく亡ぶ<奥平時代>・奥平昌成(昌章長子)・・・享保2年(1717年)入城・奥平昌敦(昌成次男)・・・延享2年(1745年)昌成の封をつぐ・奥平昌鹿(昌敦長子)・・・宝暦8年(1758年)昌敦の封をつぐ・奥平昌男(昌鹿長子)・・・安永9年(1780年)昌鹿の封をつぐ・奥平昌高(鹿児島・島津重豪次男)・・・天明6年(1786年)昌男の封をつぐ・奥平昌暢(昌高次男)・・・文政8年(1825年)昌高の封をつぐ・奥平昌猷(昌高五男)・・・天保3年(1832年)昌暢の封をつぐ・奥平昌服(昌暢長子)・・・天保13年(1842年)昌猷の封をつぐ・奥平昌邁(宇和島・伊達宗城三男)・・・慶応元年(1865年)封をつぐ明治2年廃藩となる。そして2階の「特別展示室」へ移動する。「長篠の戦い 特別展示会場」案内。「長篠の戦い 特別展示会場」。「館長 伯爵 奥平昌恭 氏」の写真。NHK朝ドラ「花子とアン」と奥平家仲間由紀恵さん演じる葉山蓮子のモデルである柳原白蓮と伊藤伝右衛門(ドラマ/嘉納伝助)の離婚の仲介役をし、記者発表を行ったのは、写真の奥平家十六代当主の奥平昌恭伯爵 (最後の当主奥平昌邁公の長男である。白蓮の兄、柳原義光伯爵(ドラマ/葉山晶貴伯爵)とは従兄弟の関係であり、二人は伊達宗城公の孫にあたる。また共に貴族院議員を務め、年齢も一歳違い、そんな関係から仲介役となったのでしょう。」「鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)」コーナー。鳥居強右衛門勝商の磔(はりつけ)の絵。「鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)天文9年(1540年)ー天正3年(1575年)天正3年(1575年) 5月8日、21歳の若き青年武将、奥平貞昌(信昌)公に率いられたわずか500の将兵が籠る長篠城は、1万5000の武田軍によって包囲された。この大軍にも億せず、奥平軍の士気は非常に高く、武田軍の猛攻をよく耐えていたのだが、13日に城の兵糧蔵を焼失してしまい、一気に落城の危機へとさらされた。このため貞昌(信昌)公は、一刻も早い援軍の要請を行うため、家康公のいる岡崎域へと決死の使者を送ることを決断する。この命がけの役目に自ら応じたのが、それまでは名もなき下級武士の鳥居強右衛門であった。翌14日、夜の闇に紛れて下水口から城を抜け出した強右衛門は、川を潜って武田軍の包囲網を突破すると、岡崎城へたどり着くことに成功した。すると織田・徳川3万8000の大連合軍は、3000丁もの鉄砲を携え、翌日にでも出陣する手はずになっていた。強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報をいち早く伝えるために、信長公、家康公の慰留を辞し、すぐさま長篠城へ向けて引き返したのだった。16日の早朝、城の近くの山で狼煙を上げて援軍が来ることを城内に知らせた強右衛門は、さらに詳細を伝えるため再入城を試みるも、武田軍の兵に見付かり、捕縛されてしまった。強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠城に向かっていることを知った武田勝頼は、武田家の家臣として厚遇することを引き換えに、「援軍は来ない。早くあきらめろ」と城に向かって叫ぶように命じた。もとより死を覚悟して、この命令を受け人れるふりをした強石衛門は、長篠城の近くへ連れていかれると、仲間が見守る城内に向かって「二、三日のうちに援車は来る。絶対にあきらめるな」と、大声で叫んだ。烈火の如く怒った勝頼は、その場で強右衛門を磔にして処刑した。この強右衛門の命をかけた忠義と壮絶な最期は、長篠城内の奥平軍を大いに奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、堀のたにしを食べて飢えをしのいで戦い続け、見事に城を守り通したのだ。この歴史に残る忠義が、5月21日の武田軍を壊滅に追いやった設楽原本戦の大勝利を呼び寄せたのである。」「烈士鳥居強右衛門勝商御木像 愛知県豊川市 松永寺所蔵」。「長篠合戦図六幅掛軸」。ズームして。「織田信長」。「羽柴秀吉」。「徳川家康」。各大名江戸藩邸之図(文久年間)「奥平家中屋敷」、「奥平家上屋敷」。国宝の日本刀のコーナー。「徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀国宝 太刀 大般若長光(模造)(鎌倉時代・13世紀)」「徳川家康公より奥平信昌公拝領の太刀国宝 太刀 大般若長光(模造)(鎌倉時代・13世紀)室町幕府の足利将軍家に代々伝えられたこの天下の銘刀は、やがて織田信長公の手に渡り、姉川の戦いの功で徳川家康公へ、そして長篠の戦いの戦功として奥平信昌公に与えられた。その後は、信昌公の四男で家康公の養子になった幕府大政参与松平忠明公が所有し忠明公の家系である武蔵国忍藩が所蔵したまま明治維新を迎え、紆余曲折を経て現在は、東京国立博物館で所蔵されている。やがて国宝となる程の銘刀を与えられていた事でも、長篠の戦いにおける信昌公の武勲がいかに輝かしいものだったかが分かる。」奥平信昌公のコーナー。着用した鎧、徳川家康公直筆の書、陣羽織、など貴重な家宝が展示されていた。「奥平信昌公 長篠の戦い時着用の鎧」「奥平信昌公 長篠の戦い時着用の鎧錆地打延五枚胴具足(安土桃山時代)飾り気の無い錆地の五枚胴で草摺は黒漆一文字板札に啄木糸の素懸威、杏葉に丸に沢瀉の紋の据文金物。冑は錆地筋冑、三枚錣啄木糸素懸威、目の下頬当に喉輪、中袖は冠板祈り立て七枚下り。」陣羽織。長篠の戦い時使用「自鳴の法螺貝」。奥平信昌率いる500の軍勢が「長篠城」籠城中、独りでに鳴り出したという法螺貝。今も旧暦5月8日から21日までに夜の中津城から、法螺貝の音が響くという噂がある と。「各大名江戸藩邸之図(文久年間)」2階から中津城の本丸から望んだ中津川と北門橋を望む。その向こう微かに龍王橋も見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.23
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豊後高田市の「昭和の町」を後にして、県道23号線を「中津城」に向かって西に進む。駅館川(やっかんがわ)に架かる「小松橋」を渡る。左手にはJR日豊本線の駅館川鉄橋が見えた。左手にはJR日豊本線。正面に「中津日田道路」が現れた。そして県道108号線に入り、「新博多町交流センター」の角を右折して進み「中津城本丸跡」の駐車場に到着し、「中津城跡」の散策開始。大分県中津市二ノ丁1273−1。「扇形の石垣」案内板。「扇形の石垣本丸南東隅に位置する小さな鳥居がある入口は、「椎木門跡」です。絵図①をみると、入って西側正面は塀でふさがれ、北側に折れて門をくぐるという「枡形虎ロ」の構造だったことがわかります。正面をふさぐ塀は細かい線が多数書き込まれていることから、平瓦と練土を交互に積み上げた練塀だったのではないかと考えられます。また、絵図①では椎木門をくぐると扇型に弧を描く石垣が描かれていますが、これは他の絵図にも見られます。幕末の絵図②では、扇型の石垣内に2つの入口が描かれています。赤で囲んだ部分がこの説明版の正面の入口です。足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を⑤に見ることができます。細川時代に中津城は大改修が行われ、1620年頃に8つの門と22の櫓が完成しました。扇型の石垣は小笠原時代の1663年の絵図にも描かれており、1620~1663年の間には築かれていたと考えられます。その後さらに改修の手が加えられました。この周辺の石垣には、川沿いの黒田時代の石垣にみられる7世紀の山城の石(直方体)が使用されています。また石の中には文字が刻まれたものがいくつかあります。「田」「井」「△」などで、同様のものは他の場所でも見ることができます。いずれも改修工事が行われた部分で、同じ字体であることから、石垣改修年代の手がかりになるかもしれません。これらの文字は石工たちが記した記号と思われますが、その目的は不明です。」①練塀が表現された弘化ニ年(1845)の絵図②扇形の石垣に入口が描かれた幕末の絵図。③「田」の文字④「井」の文字⑤扉をとりつけていた痕跡。「椎木門跡」の左部分の石垣。「椎木門跡」を進むと、紅葉が拡がっていた。左手にあったのが「三斎池」。「三斎池慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東(くにさき)・速見(はやみ)の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元(おきもと)を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和6年(1620)家督を忠利(ただとし)に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(おおいでぜき)三口(みくち)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。忠興の号”三斎”の名を冠して「三斎池」という。現在は、中津上水道を引いている。」紅葉を見上げながら進む。紅葉と黄葉のコラボを楽しむ。前方に黄&紅葉のトンネルが。その先にあったのが「高輪地蔵」を安置した祠。「高輪地蔵」。「高輪地蔵の由来徳川家四代将軍家綱の頃(明暦ニ年・一六五六年)奥平家は東京高輪南町に下屋敷を賜った。その頃も現在と変わらず、隣との地境争いは頻繁であり、奥平家下屋敷も隣藩との境界争いとなっていた。しかし裁き所で証人として出た隣藩の名も知れぬ家臣は正直に「ここまでは我が藩の屋敷だが、そこからは奥平藩の土地である。」と堂々と証言したと伝えられている。これに腹を立てた上司達は即刻彼を死罪にし、奥平の屋敷内に亡骸を投げ入れたという。中津藩主四代奥平忠昌公はこれにとても心を痛め懇ろに供養し、この家臣を地蔵菩薩として地蔵堂に納め終生お参りをした。大地の神、地蔵菩薩は屋敷神として古より尊ばれ受け継がれ、このたび新たな使命に燃えてここ中津城本丸に移る。」「奥平神社」の東側入口の石鳥居。石鳥居を潜って石段を下りて外から「天守」、「大鞁櫓」を見る。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。そして戻り、「中津城天守(奥平家歴史資料館)」を正面に見る。「旧中津藩主 奥平家奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能(さだよし)と貞昌(さだまさ、後の信昌)父子の頃からで、天正三年五月(一五七五年)の史上名高い「長篠の戦い」において貞能・貞昌父子が活躍しました。武田勝頼軍一万五千人によって長篠域が包囲され、長篠域主貞昌は僅か五百人で籠域、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約三キロの設楽原(したらがはら)で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川連合軍が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で貞昌には新にな領地が与えられたほが、信長からは「信」の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。信昌と亀姫の間には家康にとって孫となる四男一女が生まれ、長男家昌は奥平家を継ぎ、ニ男から四男は松平の姓を賜りました。四男の松平忠明は大坂城や姫路城の城主を務めています。奥平家は長篠の戦いの後、新城(しんしろ)城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て享保ニ年(一七一七年)奥平家第七代昌成(まさしげ)が中津十万石の領主として中津城に入りましに。第十五代昌邁(まさゆき)までの一五五年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。その間、第九代昌鹿(まさか)、第十一代昌高などは蘭学史上特筆すべき功績をあげています当地の奥平神社では、長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食へて戦い続けたことにちなみ、毎年五月ニ十一日頃に「たにし祭」を行っています。現在、中津城天守閣内は資料館として「長篠合戦図」、家康から贈られに「白鳥鞘の鑓」や「歴代藩主の甲冑」など、重宝が展示・公開されています。」「武運と戦勝 奥平神社御由来ご神体は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目奥平昌成公は中津城入城の翌年享保三年正月(一七一八年)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明七年(一七八八年)、祈祷所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。 御祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄三年(一五六一年)より元亀・天正・文禄を経て慶長十九年(一六一九年)に至る五八年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。 特に奥平家ニ代目の信昌公は関が原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎(いしずえ)を築き、人々から義勇と武功を称えられました。」「奥平神社」の「社殿」。「三所宮 奥平神社御祭神 貞能霊神 知勇の神 信昌霊神 開運の神 家昌霊神 天徳除災の神 仙丸君霊神 護国の神略記御祭神は人皇第六十ニ代村上天皇の皇子具平親王(村上源氏)の後裔なり、享保ニ年中津城主奥平昌成公、五穀豊穣、世の泰平を祈念し豊前一円の守護神として奉祀す。大正五年内務省は大分縣々社に列す。御神徳学問、開運、交通安全、無病息災、家内安全祭典日元旦祭 一月一日祈念祭(春祭) 三月ニ十日例大祭 五月ニ十日・ニ十一日新嘗祭(秋祭) 十一月ニ十八日除夜祭 十ニ月三十一日」「奉弔 仙千代君明治十一年十一月 福澤諭吉莫由生戦死酬恩。総髻首埋黒屋村誰識当年濺袖血。滴余今尚潤家門生きて戦うに由莫く、死して思に酬(むく)ゆ。総髻(そうげい)の首は埋む黒屋邨(むら)誰か識らむ当年袖に濺(そそ)ぎし血の、滴余(てきよ)今尚を家門潤さむとは。」扁額「奥平神社」。「内陣」。「おみくじ処」👈リンク。この日は「故障中」と。リンクした動画はネットからのものです。そして「水城 奥平 続日本一〇〇名城 中津城」御入口。周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城で。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。日本三水城(日本名城大図鑑)は■ 中津城(大分県中津市) 中津川河口周防灘に臨む 築城者:黒田 孝高 築城年:天正16年(1588)■ 高松城👈リンク(香川県高松市) 瀬戸内海に臨む 縄張 黒田孝高 築城者:生駒 親正 築城年:天正18年(1590)■ 今治城👈リンク(愛媛県今治市) 海浜平城来島海峡に臨む 築城者:藤堂 高虎 築城年:慶長7年(1602)「天守(奥平家歴史資料館)」。手前に「日本風景街道 中津城」案内柱。「天守」に向かって進む。江戸時代の絵図には天守は描かれておらず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とある。その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られたが、実際の明石城には天守はなく、他の建物に転用されたと考えられる。また、文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述があるが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明である と。昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。奥平昌信が中心となって構想し、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23mある。模擬天守は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、徳川家康からの軍法事書など古文書類が展示されていた。先程訪ねた「奥平神社」の拝殿と本殿を左下に見る。同時に、模擬天守南に望楼型の二重櫓・「大鞁櫓(だいひやぐら)」も建てられていた。かつてこの場所には南東隅櫓があり層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真があるのだと。模擬天守入口扉に奥平家の家紋・「奥平唐団扇」があった。歴史資料館には、奥平家歴代当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織などが展示されていたのであった。模擬天守の内部に入る。「奥平家歴史資料館」見学のチケットを400円で購入。「中津城(奥平家歴史資料館)」のポスター。「中津城」の模擬天守は「奥平家歴史資料館」になっていた。「中津城 案内図」5階 一目六万石 中津藩は城付六万石・飛び地(筑前二万石・備後二万石) 北 中津川・周防灘・本州 東 宇佐・国東半島 南 中津市街地・耶馬溪・山国 西 吉富・豊前4階 奥平家関連重宝 御座船・奥平家紋(奥平軍配)・備後飛び地検地資料・本丸御殿鬼瓦・ 亀姫書・小倉県知事書・写生大会優秀賞作品3階 中津藩と蘭学 中津藩蘭学の系譜(川嶌整形外科提供) 前野良沢(解体新書翻訳)胸像 藩主正装一式・奥平家歴代当主肖像図2階 広間展示 徳川諸侯格付一覧・大名紋章城郭図・中津旧藩住宅図(←御土産処にて販売中) 徳川吉宗公地行書・歴代中津城主・松平元康公甲冑< 長篠の戦い特別展示 徳川家康公真蹟書二通(軍法事書・手書き花押印書) 長篠合戦図・鳥居強右衛門磔図・奥平信昌公甲冑(長篠の戦い時着用) 火縄銃・法螺貝(長篠の戦い使用)・前田利家公首取り図 城代の間1階 徳川家康公拝領「白鳥鞘の鑓」 双葉山の化粧まわし・歴代藩主甲冑・奥平家馬印・武田信玄公拝領の陣羽織 大名行列関連資料・鷹狩り道具「大名家と鷹狩」の展示ブース。鷹狩の道具等が展示されていた。「大名家と鷹狩日本で鷹狩りが始まったのは仁徳天皇三年(三一五年)であったとされている。(日本書紀)百済の帰化人酒公(さけのきみ)が見慣れぬ異鳥(鷹)を調教し鈴・足緒をつけて仁徳天皇に献上し、天皇は雉数十羽をとり、病みつきとなり鷹を飼育、調教する為の鷹部を設けたという。武家時代になると鎌倉幕府を開いた源頼朝は仏心あっく殺生を嫌ったようで宇都宮、諏訪などの神社への供物以外の鷹狩を禁じていた。しかし鎌倉暮府が倒れると鷹狩も公然となり、公家なみに小鷹を据えまわしアクセサリーとすることが流行し尾羽を切って飛べないようにした。室町幕府も鷹狩りを好み戦国末期になると、大名・武将に好まれて盛んとなった。いろいろな流派の芽生えもこの頃である。また鷹の売買もさかんになり、中でも織田信長は強烈なマニアで上杉嫌信・伊達正宗などに鷹を求めており、一度に求めた数が五十連のこともあった。次の豊臣秀吉も織田信長の後継者という自覚か示威運動か、何十人もの鷹狩行列を天覧に供し、造り物の鷹まで据え、中から魚を出して天皇を驚かせ得意になっていたことが記述に残っている。徳川家康は史上最大の鷹狩の名人で駿府の人質時代、家康十歳の頃から始まっており、亡くなる直前の七四歳まで精力的に行われた。ここにニ、三のワンマンぶりを紹介する。大雪の中、谷で従者五、六人を凍死させたこと、武蔵忍、遠江中泉の鷹部屋にいた大鷹が流行病で多数だめになり、鷹師数人がとがめられたこと。また駿府近郊の刈田に水が多く名主ら十余人が入牢させられた。理山はこうだ。鷹は水を嫌ううえに遣い手も足場が悪いので田の水は落としておくべきだった。との理由である。などなど数え上げたらキリがない。将軍家も五代綱吉以前は歴代将軍は好んで鷹狩を行い、各大名もほとんどが上にならい従っており細川忠興・伊達正宗・佐竹義宣・前田利常・京極忠常らが特に好み、奥平家でも、ニ代信昌と亀姫との四男 松平忠明(徳川家康の養子)はニ代将軍家光より恩賜鷹場を下賜され(武蔵国小机)奥平宗家もこの鷹場を借りて、江戸詰のときは行ったと思われる。中津では近郷で盛んに行われたため、「鷹匠町」が存在する。五代将軍綱吉は生類憐みの令を発布し七代家継までの三〇年間鷹狩は禁止された。しかし八代吉宗は大の鷹狩好きで下々では、綱吉の生類憐みで泣き、今度は吉宗の殺生で苦しんだと言われる。吉宗のあと代々鷹狩は継承され雉(四月)、ばん(五月)、鶉(十月)、雁鴨(十月)、鶴(寒以後)など形式化、年中行事として行われた。」「オオタカ」の剥製。「オオタカこの小さな体で雉、雁、鴨、鶴、ウサギまでも一撃でしとめることができる。」「続日本100名城 中津城」のスタンプを頂きました。「中津城 認定証」。「中津城 御城印」。大名行列関連資料を展示。上に「参勤交代 奥平藩 御道中 行列 順序」下に「中津奥平公の参勤交代」の様子を再現した写真。「参勤交代の制度化三代将軍家光の寛永十二年(一六三五)以降、明治維新に至るまで諸大名を統括するための、幕府の基本政策になった。◆おもな取り決め(抜粋)・譜代大名は六月、または八月・外様大名は東西にわけて四月に交代・尾張・紀伊の親藩は三月・対馬の宗家は三年に一度(朝鮮通信使の応援があるため)・蝦夷地福山の松前氏は五年に一度(北方警備・開発の要務があるため)・水戸家・老中・若年寄・奉行は常時江戸詰め・大名の養子は江戸藩邸にあって、許可なくして帰国を禁ず(人質の意)武家諸法度のおもな内容(将軍の代がわりごとに出された)・新しい城づくりの禁止と修理の制限。・文武両道の奨励。・大名、近習、物頭(常傭兵の隊長)は幕府の許可なく、勝手に結婚してはならない。・勝手に関所をもうけない。・五百石積み以上の船をもつことを禁ずる。・キリスト教はどこにおいても厳禁する。・新義(謀反)を企て、仲間を作り誓いあうような事を禁ずる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.22
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「熊野磨崖仏」、「胎蔵寺」を後にして県道655号線・新城山鹿線を豊後高田市に向けて北上する。左手前方には、「西叡山」近くの尾根の岩肌が顕になった山の姿が。京都の比叡山、東京の東叡山、そして豊後高田市西叡山を合わせて三叡山と呼ばれている。一時は栄華を極めた場所であり、登山口付近には平安時代に六郷満山65カ寺を統括していた「高山寺」があるのだ と。道路沿いには、イチョウの黃葉がピークに。富士山に似た山の姿が。屋山(八面山)(543.4m)であろう。そして左手にはオレンジ色のハッピ姿の案山子が迎えてくれたので、車を止めた。大分県豊後高田市田染真木(たしぶまき)。豊後高田市の田染地区の秋の風物詩「第11回田染かかしコンクール」の作品のようであった。「オリ・パラリンピック応援隊」👈リンク と名付けられた優秀賞を獲得した作品。製作者は女性の「小畑京子」さんと。そのせいか女性の案山子が多かったのでは。全部で15人以上ではなかっただろうか。マスクを取って列に入っている男が一人。何故か、上着の色も似て、妙に溶け込んでいたのであった。そして案山子達の後ろに鎮座していた「随願寺」。「隋願寺縁起六郷満山分末寺の一なり。 養老年間(717-724)、馬城山傅乗寺36坊の1坊として創始。 一時寺観壮麗を極めたりと言うも、今は唯9尺4面の堂宇を存するのみ。 断礎塔碑累々として往時の盛観を偲ばしむ。 ものふりたる堂内には、厨子に下御門本尊地蔵仏を安置す。「隋願寺」と墨書した扁額、その裏に残る墨筆・六郷満山峰入行者祈祷墨書柱・2柱(文化14年(1817)・天保8年(1837))・ 格子戸に墨書・彫刻された欄間・長押(なげし)に唐草模様を遺す。老朽化にともない平成15年2月小幡通治の遺志をつぎ妻京子これを再建す。 落慶にあたり之の碑を建立して後世に遺す。」と。大分県豊後高田市田染真木。「随願寺」碑。境内の建物は地蔵堂1宇のみであった。安置されていた「地蔵菩薩像」はかなりの古仏とみられる。 地蔵堂前にも石塔・石仏などがみられたのであった。空き地では皇帝ダリアの八重咲きが青空に映えていた。黄色の皇帝ダリアであれば、初めて見たのであったが。我々を応援してくれているような案山子たちに別れを告げて。県道665号線・真中交差点を左折して県道34号線・豊後高田安岐線に入り、桂川沿いを進む。竹林が拡がる山道を進んでいった。豊後高田市市街に入り「昭和の町」に向かって銀杏並木の道を進む。「新町通り」を進む。「豊後高田昭和の町 新町通り商店街」と書かれた看板が前方頭上に。大分県豊後高田市新町973。駐車場に車を駐め散策開始。懐かしい井戸とその奥に石祠が。「昭和の町 散策ご案内」昭和の町とは..総延長550mの通りは普通に歩けば15分もかかりませんが、その通り沿いに点々と立ち並ぶ"昭和の店"の一軒一軒を訪ねてみましよう。昭和の思い出をさがして、昭和の建物に足をとめ、一店一宝に目をとめ、一店一品を手にとり、そして笑顔でお客様と語らう昭和の商人に心をとめていただければ、いつの間にかやさしくなつかしい昭和の時間が流れ過ぎているかもしれません。この場所を訪ねた多くの有名人の写真が。芸能人の写真。同窓会の写真。清流、水場もあって。「想い道」にあった黒毛和牛のメンチカツ屋さん。「旧共同野村銀行」。「神仏習合発祥の地(宇佐神宮・国東半島)」の垂れ幕も。大分県・国東半島には、約1300年の歴史を誇る「六郷満山」と呼ばれる一つの宗教文化圏がある。全国八幡総本宮・宇佐神宮を起源とし、718年に仁聞菩薩によって開かれた神仏習合の原点となる山岳信仰だ。六郷とは、円形の国東半島の中心に位置する両子山から放射状に広がる六つの郷を指し、満山とは郷内の寺院群の総称である。 古来より中国・朝鮮半島などからの新しい文化を受け入れてきたこの地には、様々なものが混在しながら、古の文化や風習が今なお暮らしに根付く。脈々と受け継がれてきた六郷満山文化を紐解き、人生を切り開くためのヒントを見つける旅へ とネットから。「旧共同野村銀行社屋その昔、当地は優れた仏教文化の宝庫として知られていた。その後、江戸時代から、肥前の国・島原藩の飛地として独自の発展を遂げた。地理的には交通の要衝であり、桂川は天然の良港で国東半島の産物の集積地として栄え、農業・塩田・製竹・養蚕・和蝋等新産業により、明治に入っても大いに繁栄していた。日清戦争(明治27 ~ 28年)の後、経済界は空前の好景気となり、当地にも富豪「野村財閥」が生まれた。この野村財閥の開祖、野村礼次郎氏は明治45年(1912年)に共同野村銀行を設立した。昭和8年(1933年)に本社事務所を建設。これが現在の建物である。共同野村銀行は第2次世界大戦(昭和18 ~20年)による戦時金融統制の一環として大分合同銀行(現在の大分銀行)に合併された。戦後、昭和23年(1948年)2月、西日本無尽(株) (その後、西日本銀行から西日本シティ銀行へ)が当建物を買収し、同社高田支店となった。平成5年(1993年)西日本銀行が移転し、大分市の投資家が購入したが、利用されず廃墟同然の姿となっていた。平成5年(2004年)10月、大分石油㈱・ホテル清照がこれを買収し、補修の上、保存・活用する事となった。店舗の内部は、一階の道路に面した部屋は吹き抜けで自然の光あふれる大きな空間になっており、キャットウォークを巡らし優雅さを表現し、外部は、正面壁のタイル張り、中央に鋼製模様欄間付きの出入口、その上壁に3本の装飾円柱、高い軒蛇腹には上部の唐模模様と彫刻装飾を施してあり、古典主義的な様式をデザインした優れた姿形をもっている。大分石油㈱・ホテル清照」「国指定登録有形文化財建造物」であると。「親子ガエル」の置物。「カエルには古来より金カエル福カエル無事カエルなどの語呂合わせからお金が還ってくる幸運が還ってくる人が帰ってくるという非常に縁起のいい生き物として愛されてきました。また迎えるとの意味もあり、市外県外より多くのお客様を迎えられるようにいう願いも込められます。そしてカエルは前にしか飛ばないため、仕事運が向上する象徴にもなっています。さらには、変えるという意味もあり、様々な状況を良い方向へ変えてくれると言われています。」「昭和29年の新町1丁目商店街(旧共同野村銀行)」前での写真。大分県きっての大金持ち”野村財閥”が昭和8年に金庫代わリに建てたといわれるこの建物の前で、豊後高田市の誕生(市制施行)を祝ってバチリ。右手に「野村電機商会」、左手に「佐田屋」。人通りはコロナ禍の影響もありほとんどなし。「野村電機商会」のショーウィンドウには獅子頭が。さらに「新町通り商店街」を進む。左手に「松田はきもの店」、右手に「長田商店」。「昆虫の館」。レトロな雰囲気の漂う看板が。「昆虫の館」には昆虫のグッズや写真が多く飾られていて、店内には訪れた芸能人の写真も多く飾られていたのであった。未来の食糧危機を救う食品として世界でも注目されている「昆虫食」。日本でもコオロギの粉末を練り込んだお菓子がテレビで紹介されていたが・・・。当たり前のように昆虫を食べてタンパク質をとる必要が出てくる日が本当に来るのであろうか?その時、私は・・・・。和牛肉「金岡(かなおか)」。この店の「一店一宝」は初代手回しの肉切り機お店での人気商品は初代おかみが家族のおかずに作っていたコロッケ。懐かしいコロッケの味はB級グルメと呼ぶにはあまりにももったいなく、安くて美味しい極上のテイクアウト商品。お店自慢のあつあつコロッケを頬張りながら商店街を散策ください。上記の言葉に誘われて、キムチコロッケとカレーコロッケを購入。店の反対側にあったベンチで楽しむ。店の女性に以前訪ねたことのある「蜂屋」さんについて訪ねたが、数年前に店を閉じたとのこと。「ウエガキ薬局」。「薬」の文字が。書体は「小篆(しょうてん)」であろうか。薬は艸(草カンムリ)+「楽」から構成されるている。しかしこの楽が何を意味するかについてはいまだに諸説紛々をしているのだと。「楽」のその形は松の木に由来しているのだと。下部は「木」、樹木を意味し、上部は松ぼっくりの象形文字。松の枝を篝火や祭祀に使うときは、音楽やダンスの素材になると。松葉、松の樹脂、松の花を病気の治療に使い、中国の薬草の起源でもあると。 私は、野草(草カンムリ)を煎じて呑むと「楽」になるから と単純に思っていたが「語源」は、そう簡単な話ではないようだ。同居人にも聞いてみよう。「二代目餅屋清末・杵や」。「豊後高田 昭和の町豊後高田市の商店街は、江戸時代から明治・大正・昭和30年代にかけ国東半島一の賑やかな町として栄えていました。しかし高度経済成長を境に徐々に元気を失い、現在を迎えています。豊後高田「昭和の町」は、そんな商店街に再び賑わいと元気をよみがえらせようと、平成13年9月に始まったまちづくりです。懐かしさが、ここにはまだ大切に残っています。貧しく不便でも生きる手ごたえがあったあの時代に一瞬でも思いを馳せていただければ、これに過きる喜びはありません。」「中野鮮魚店」。店のおばあちゃんに誘われて、いや、このコロナ禍でも頑張っている姿に想いを致しイカの足の茹でたもの(写真の一番右)を買い、車の移動中に二人で楽しんだのであった。「甲イカ塩焼 700円」であった。「町内商工案内図」。そして「昭和ロマン蔵」を訪ねた。明治から昭和にかけて大分県きっての豪商であった野村家の倉庫(昭和10年頃の建築)を改造し、“昭和の町”のランドマーク(中核施設)となった『昭和ロマン蔵』。 ここはオート三輪車『ミゼット』をはじめとする自動車、木製の机やチョークで描く黒板のある教室、当時花形であった電化製品など、なつかしい昭和が満載で再現されている『昭和のテーマパーク』なのであった。正面にボンネットバス。これぞトトロの世界!!「昭和ロマン蔵 ご案内」。「この建物は、明治から昭和にかけて大分県きっての大金持ちといわれた”野村財閥"が昭和10年ごろに米蔵として建てた旧高田農業倉庫です。”野村財閥”は、かって豊後高田の商店街の中心に豪壮な屋敷を構え、小作人に貸しつけていた田畑は西国東・宇佐・下毛の3郡にまたがる360歩、小作米だけでも1年に1万俵を誇ったといわれています。その後時代は変わり、この旧高田農業倉庫は、”昭和の町”の拠点施設、”昭和ロン蔵”として生まれ変わりました。日本一の駄菓子屋のおもちやコレクションを展示する”駄菓子屋の夢博物館”をはじめ、昭和時代の暮らしに思いを馳せることのできる”昭和ロマン蔵”は、昭和30年代の思い出を探す記憶の宝箱です。日々昭和の時代へと回帰していく豊後高田、昭和の町で、心の旅をごゆっくりとお楽しみください。」「昭和ロマン蔵」案内地図。手前には最新鋭のEV車・超小型モビリティも。ネットによると、レンタル可能のようである。その先に、懐かしい昭和の車が並んでいた。正面から。車種には全くの門外漢いや無関心の私なのであった。「昭和ロマン号」案内ボード。昭和32年式ボンネットバスのようだ。街をは走っているようであるが。35年以上眠っていたものを、部品を手作りし作り上げたと。いすゞボンネットバス型式 B X 1 4 1年式 1957年を(昭和32年)全長 8,310mm全幅 2,430mm全高 2,960mm再生 福山自動車時計博物館(2009年)前輪がセンターにない?三輪自動車。昭和53年製のトヨタクラウンが手前に。オート三輪車ミゼット。斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.21
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そして熊野磨崖仏駐車場に到着。大分県豊後高田市田染平野。「赤鬼がきずいた九十九の石段の話10むかしむかしのお話です。この田染(たしぶ)の里に、毛むくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。それを聞いた熊野(くまの)の権現(ごんげん)さまは、何か良い方法はないかと考えました。そして、いち夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。権現(ごんげん)さまは、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっという間に五十段をこしらえました。その早いこと早いこと、みるみるうちに九十九段築いたのでした。おどろいた権現(ごんげん)さまは、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」と、にわとりの鳴き声をまねしたのでした。赤鬼は、「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。熊野山たいぞう寺から、磨崖仏(まがいぶつ)を通って熊野権現(くまのごんげん)さままで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段といわれ、今でも多くの人々に親しまれています。」五十段の石段を築いた赤鬼の姿。「豊後高田市観光案内」。①国宝・富貴寺大堂 ②真木大堂 ③熊野磨崖仏 ④世界農業遺産の郷 田染荘⑤天念寺・川中不動三尊像 ⑥鬼会の里 歴史博物館 ⑦長安寺 ⑧豊後高田 昭和の町⑨日本の夕景百景 真玉海岸 ⑩花の岬 長崎鼻現在地はここ。「熊野磨崖仏」への入り口は、豊後高田市田染の田原山(鋸山)山麓にある「今熊野山胎蔵寺」(いまくまのさんたいぞうじ)である。「今熊野山祈願所胎蔵寺」碑。「日本遺産認定~鬼が仏になった里「くにさき」大分県 国東半島・宇佐地域六郷満山開山一三〇〇年の幟が風に閃く。「大分県国東半島一帯にある寺院群の総称を「六郷満山」と呼び、神仏習合の文化が今日まで受け継がれている。六郷は両子山を中心とした山稜の間に開かれた六つの郷、満山はそこに築かれた寺院群を指し、古くから六郷満山と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄え、2018年に開山1300年という大きな節目を迎えた」 のだと。「今熊野山胎蔵寺」には、「熊野磨崖仏」から下山後に訪ねる事とした。「熊野権現の道」を上って行った。熊野権現(くまのごんげん)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある とウィキペディアより。入口の両脇の大きな石灯籠が迎えてくれた。「熊野磨崖仏入口」との案内板。左手には胎蔵寺内に新たに出来た、国東唯一の尼寺、雨風庵(うふうあん)が。入口の紅葉はピークに向けて。そして石段を上って行った。右手の照明ポールの上には監視カメラが設置されていたのであったが・・・。ここにも「熊野権現の道」碑が。そして石段の先に石鳥居が姿を現した。歌碑「よう来たと 汗をねぎらう 磨崖佛 凡柳」。そして石鳥居の先には、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段が続いていたのであった。石鳥居の右前には、三基の寄進石碑が。●一金五萬円也 豊田利鴻●大太鼓壱張 北野嘉雄 昭和三十三年一月一日●一金貮萬五千圓 豊田亀吉 立石町 豊田要右エ門長男 昭和丗一年四月 同 マツここにも「歌碑」が。「磨崖仏 千年が過ぎ 蝶が過ぐ」 岸原清行作 と。「浩宮徳仁親王御誕生記念植樹」碑。「浩宮徳仁親王」とは 1960年(昭和35年)2月23日御誕生の現在の天皇陛下。「歌碑」「信心を 石段で見る 磨崖仏」内藤凡柳(本名 喬木) 別府市不老町出身 十五才大阪井上剣花坊に師事 大正八年頃大阪で岸本水府のもとで川柳詩「番傘」所属 大正十三年帰郷大分に本格川柳を普及平成元年没 八十八才そして石鳥居の前で、ここからの乱積石段を登るために、帰路の参拝客の勧めで杖をもう一本貸してもらい、気合を入れる旅友の姿。鳥居の扁額は破損しており「三社大権現」と刻まれていた。鬼が一夜で築いた、九十九段の乱積石段を私も2本の杖を駆使しながら登って行ったのであった。「国東半島峯道ロングトレイル 熊野磨崖仏→高山寺 11.5km」案内柱。「国東半島で古くから行われてきた六郷満山峯入行(ろくごうまんざんみねいりぎょう)のコースをベースに、トレッキングやウォーキングの醍醐味を味わうことのできる登山道や遊歩道を追加するなどの工夫を加え、楽しく、そして心地よく歩けるトレイルとして再構成したものです。世界農業遺産にも認定されたこの地域には、豊かな自然だけではなく、何世紀にもわたる伝統的な農業が形づくった文化や景観、環境や自然条件を受け入れ適応してきた先人の知恵を見ることができます。また、宇佐・国東半島は神仏習合発祥の地。コースのいたるところにある有名無名の石造文化財や名もなき野仏は、まさに「み仏の里」と呼ばれるふさわしいところです と。そして左手に現れたのが、「熊野磨崖仏」。平安時代末期の作と言われている「大日如来(約6.8m)」(右)と「不動明王(約8m)」(左)の磨崖仏があり、国指定の重要文化財となっているのだ。国内最古にして最大級の磨崖仏であると。また、約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入るのだと。「熊野磨崖仏一、所在地 豊後高田市大字平野字登尺一、国史跡指定 昭和三十年二月十五日一、国重要文化財指定 昭和三十九年五月二十六日一、解説大岩に刻まれた仏は向って右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏とよばれている。大日如来は、六・八米、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼茶羅が刻まれている。不動明王は、八米、慎怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例である。六郷満山諸勤行注進目録や華頂要略などにより磨崖仏は藤原時代末期(約九0 0年前)の作と推定されている。厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたものである伝説では、磨崖仏は養老二年(七一八年)仁聞菩薩が設立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられる。」「不動明王像二童子像」向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。鎌倉時代の作とされ、安山岩質の礫混じりの硬い岩壁に造られたため、彫り口がやや浅く、明王像ではあるが口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子像、制多迦童子像の痕跡が認められる。「大日如来像(如来形像)」向かって右に位置する高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が遡ると推定されている。光背上部の種子曼荼羅は鎌倉時代の追刻。通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形(にょらいぎょう)像」となっている。」お顔をズームして。そして熊野摩崖仏からさらに45mほど鬼の階段を上がると。「熊野神社」の「拝殿」があった。内陣。「本殿」。「拝殿」の右の崖下にあった石仏。赤い衣装を纏って。神殿の崖には磨崖仏はなかったが、岩を削って多くの石灯籠が崖の斜面に鎮座。再び「熊野神社」の「拝殿」を。「熊野神社」境内から見下ろした乱積の石段。これを下りるには慎重にバランスをとりながら下りる。強制的?に渡された追加の1本の杖は、両手が塞がってしまい、手摺を掴めないため、私にとってはかえって危険であると感じたのであった。何とか無事に「胎蔵寺」手前まで辿り着き、「胎蔵寺」の「本堂」の屋根そしてその先の険しい岩肌の山並みを見る。無事に下って来た「熊野権現の道」を振り返る。そして「胎蔵寺」を訪ねた。石仏群そして、トタン屋根の「本堂」を見上げる。「胎蔵寺」の「石造仁王像・阿形像」1863年作製、石材は安山岩で、像高は190cm。胎蔵寺の境内入口に立っていた。。吽形像。金ピカの「仁王像」。「本堂」近くまでは何故か近づけないようになっていた。「本堂」前の常香炉の両脇にも銀ピカの像が。干支の像にもべたべたとシールが貼られていた。胎蔵寺の像はやたらと金ピカ!!。正面に回って観音像の如き姿も。「熊野磨崖仏」の券売所を見下ろす。ここで300円を支払ったのであった。「熊野磨崖仏」入口横の茶屋・土産物屋もようやく開店したようであった。時間は9:48過ぎ。この地には「熊野磨崖仏」の他に多くの「豊後高田の磨崖仏」👈リンク があるとのこと。そして駐車場に戻り、「胎蔵寺」に別れを告げて、次の目的地の豊後高田市の「昭和の町」に向かってスタートしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.20
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この日は11月18日(木)・この旅行の5日目の最終日。宿泊したホテルは「ホテル日航大分 オアシスタワー」。大分県大分市高砂町2−48。2Fから1Fのホールを見る。開放的な吹抜が特徴のロビー。チェックアウト後に、近くにある駐車場まで歩く。大分市の汚水管マンホール蓋には、市の花サザンカが6個描かれていた。大分市中心部の中央町にあるアーケード商店街「ガレリア竹町」の入口近くにあったモニュメント。円形の部分にはこの周辺の地図が描かれていた。宿泊したホテル「ホテル日航大分 オアシスタワー」を振り返る。以前は全日空のホテルであった時代もあったとネットより。そして駐車場を後にして、この日のスタート。時間は6:57。「昭和通り」を進み「産業道路」との交差点手前左にあった「Times」の「カーシェアステーション」👈リンク。「カーシェアリング」とは、登録を行った会員間で車を共同で使用するサービスのこと。短い時間から車を借りることができたり、短い時間であればレンタカーよりも安価になるように設定されていることが多い。そのため、家族や友人の送迎や買い物など、ちょっとした用事や気分転換のドライブで気軽に利用することができる。短時間・高頻度で車を使いたいという人に向いている仕組みと言えるのだと。そして国道10号を別府方面に進む。左手にはJR日豊本線、右手には別府湾が拡がっていた。「高崎山」に向かって走る。「高崎山前歩道橋」が前方に姿を現した。橋 長:133.70m 幅 員:5.00m 高 さ: 31.50m/22.50m 橋 種 2径間連続吊り形式鋼床版箱桁 概 要 別大国道(国道 10 号)に架かる歩道橋は、海側施設(うみたまご・おさる館)と山側施設(高崎山自 然動物公園)の歩行者動線の確保を目的に整備され た吊り形式の橋梁。 主塔部の形式は大分市内からみる由布・鶴見の山 並みをデザインのモチーフとしており、主塔部の青色については(近くの山々は濃く、遠くの山々は薄 く見えることから)遠近感を感じられるよう少しだ け色を変えていると。 歩道橋から眺める別府湾の美しさに加え、2010 年 からは別大マラソンのスタート地点となり、マラソ ン応援の絶好のポジションにもなっている。 ※主塔部の「青色」と桁部の「オレンジ色」は 2002 年ワールドカップの「おもてなしカラー」として主要施設を装飾したことから採用された色である。左手の「東別府」そして「別府」の温泉街を見る。右手前方に「別府タワー」が現れた。別府タワー(べっぷタワー)は、大分県別府市にある観光塔である。旧名、観光センターテレビ塔(かんこうセンターテレビとう)。高さは90m。名古屋テレビ塔、通天閣に次ぎ、日本で3番目に建てられた高層タワーで、別府観光のシンボルとして親しまれる。登録有形文化財(2007年10月2日登録)。運営は開世通商株式会社、管理はカイセイ・プロパティーズ株式会社。広告ネオンサインは朝日ソーラーを経て、2002年以降はアサヒビールと契約している と。埋立によって出来た国道10号の「亀川バイパス」を走る。大分県速見郡日出町から国道213号に入り、ひたすら走りこの日の最初の目的地の「杵築城(きつきじょう)」が姿を現した。断崖の上に立つ「杵築城」。「城山公園駐車場」に車を駐め散策開始。大分県杵築市杵築64。「杵築城の歴史と杵築城(台山部分)の調査成果」案内板。「国指定史跡 杵築城跡」案内板。「国指定史跡 杵築城跡指定日:令和ニ年三月十日指定理由:豊臣政権から江戸幕府の成立、安定へと向かう社会・政治情勢の変化に応じて、その構造を大きく変えることが確認された城跡。「一国一城令(いっこくいちじようれい)」による破却以前の城の建物構成や構造が分かるなど、江戸時代初期の城郭の実態を知る上でも重要。(守江湾に面する丘陵に位置し、その変遷は戦国から江戸時代の社会・政治情勢の変化によく対応している。)杵築城の概要杵築(木付)城の成立は、応永元年(1394)に、木付頼直(豊後国守護大友氏一族)が、この場所から北西へ2 km程の内陸の竹ノ尾城より、この場所周辺に本拠を移したのがはじまリです。文禄ニ年(1593)の大友氏豊後(今の大分県の大半)没収に伴ない、豊後(約41万8000石)には、豊臣秀吉の腹心・縁者等の家臣が1万石~ 12万石で配され、豊後国は細切れに領有されることになります。慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦いを経て、豊前小倉~豊後木付にかけての39万9000石は細川忠興が領有することになり、同六年(1601)に木付城代には家臣中でも別格の松井康之を2万5000石で配置することになります。配置の年、台山に三層の天守が造られますが、慶長十三年(1608)の落雷により天守は焼失します。その後再建されますが、元和元年(1615)の一国一城令により台山の城郭は壊され、その後、杵築城の中心は台山北麓に移動します(後の藩主御殿)。寛永7年(1630)までにはその移動が完了すると思われます。」その後、寛永九年(1632)に、細川氏の肥後(熊本県)への領地替えに伴い、小笠原忠知が4万石で城主となります。正保2年(1645)には、忠知の三河吉田(愛知県豊橋市)への領地替えに伴い、甥の松平英親が豊後高田より3万78000石で配されます。以後、途中5000石を分地し、3万2000石になるものの、幕末まで能見松平氏が杵築藩主として続きます。杵築城の立地と構造杵築(木付)城は、北を高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近、最大標高30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができます。前者は、木付氏時代に中世城館として築かれ、大友氏の豊後没収後、豊臣系の領主らにより石垣をもつ近世城郭に改修されました。元和元年(1615)に一国一城令で壊されるまで、城の中心部でした。後者は、台山北麓に築かれた中世居館を経て、一国一城令後に御殿(藩主御殿跡)などが建てられました。前者が壊された後、城の中心機能を担いました。この両者を含めた範囲が杵築城の中心部です。城を含めた城下町全体には大きく起伏があり、その自然地形を巧みに利用して、堀や土塁と同様の防御の役目を持たせています。ぜひ、地形の起伏に富んた独特な地形の城下町をご堪能ください。※当初の表記は「木付(きつき/きづき)」、正徳ニ年(1712)以降は幕府の朱印状が「杵築」になっていたため、それ以降「杵築(きつき)」になりました。」「杵築城の中心部」の航空写真。「城山公園」の紅葉。「城下町きつき歴史の散歩道」案内。「忠魂碑」。日露戦争のものであろうか?「杵築詩道会会誌杵築城厳映碧旻養眞詩道国風新淡窓流統霊門会願正人倫徳照隣」「杵築詩道会会誌杵築城は厳として碧旻(へきびん)に映し真を養う詩道 国風新たなり淡窓流統霊門の会 願わくは人倫を正して徳隣を照らさん」「叙勲記念碑」。「八坂善一郎翁之像」。「頌像の記八坂善一郎翁は清廉潔白な人格者であり温厚篤実な性格のなかに不撓不屈の信念で熱烈な郷土愛に徹した人である。翁は明治二十八年八坂村に生を享け大正八年早稲田大学政経学部に学び爾来政治家として大分県議会及び国会に議席を列ね地負の経倫を傾けられた昭和三十年杵築市誕生と共に初代市長に就任され十有余年の長きに亘って卓越せる政治識見と実行力とにより縦横無盡の活躍をとげられた。特に産業振興に意を注ぎ埋もれる山野の開発に着目して「柑橘典市」のスローガンをかざし率先斯業の開発育成にその発展を期せられた。また業界の先達として幾多の要職にあり挺身奔走してここに一千ヘクタールの大柑橘園を造成し全国屈指の生産地を形成する今日の盛業を観るに至った。その功績まことに大なりと言うべく茲に我々同士は柑橘業者を中心に相図り相應えて翁の徳を讃えこの像を建立して英姿の永世ならんことを祈るものである。「法政大学創立者顕彰碑」。法政大学を創立した金丸鉄と伊藤修は杵築市の出身。「杵築藩士 金丸鐵」。「杵築藩士 伊藤修」。「杵築城天守閣」に続く門は閉鎖されていた。営業時間 10:00~17:00(入場は16:30まで)この時の時刻は8:15前なので諦めて引き返す。「城山公園」の黄葉。紅葉「善隣友好」碑。「日中平和友好條約締結記念 1978年10月28日」。杵築城の天守を見る為に、海側に車で向かう。国道213号の海側から「杵築城」を見る。大分県杵築市杵築塩田665−554附近。杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。城跡のうち台山上の部分は、公園として整備され、天守台跡に「資料館」👈リンクと「展望所」👈リンクを兼ねた模擬天守が建てられているのであった。台地上の台山地区には、城山公園が整備されている。本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ、資料館及び展望所として利用されている。2017年(平成29年)に国の史跡指定を目指して行われた発掘調査では、土塁や堀切りが確認され、大友氏による豊後国支配が終焉を迎えた文禄2年(1593年)から、慶長20年(1615年)の破却に至るまでの城郭の変遷が明らかとなった。山麓の藩主御殿地区は、杵築神社、旧杵築中学校、旧杵築市立図書館一帯に位置しており、堀、石垣、庭園の遺構が残されている。旧杵築中学校の校舎建て替えに伴い2010年(平成22年)から行われた発掘調査で、校庭から藩主御殿跡が発見され、2016年(平成28年)2月23日に県の史跡に指定された。「杵築城」の「御城印」。そして振り返ると朝の陽光に光る海が。「守江港」入口の「住吉浜」とその先の海の中に小さな「守江港灯標」があった。「守江港は、江戸時代は参勤交代の途中の寄港地となり、明治時代に入っても内海航路の重要な港で、多くの船が寄港していましたが、難破する船も少なくなかったようです。そのため、明治33年に守江港口の洲上に煉瓦造の灯標(当時は「挂燈立標」と言っていた。)を建設したのが守江港灯標の始まりです。最初は奈狩江(ながえ)村立の「守江港挂燈立標」として建設され、大正13年に大分県の所管となっています。その翌年に名称が「守江港立標」に改称され、昭和24年まで大分県で管理していましたが、海上保安庁設置に伴い、海上保安庁に移管され、現在は、大分海上保安部が管理しています。建設当時は、塗色が白黒の横線でしたが、明治37年に塗色が紅色となり、昭和48年に電化に伴う灯器の変更等により改築され、その後外装や浮標式の変更を経て現在の姿となっています」 と。「杵築城」を後にして、県道644号線・藤原杵築線を西に走り「杵築駅」の前を通り進む。正面に見えてきたのが「大分空港道路」。「赤松山願成就寺」の山門が左手前方に見えた。大分県速見郡日出町藤原6599−1。赤松山願成就寺 願成就寺(日出妙見尊)は、養老年間(717~724)、六郷満山の創建者・仁聞(にんもん)が建立したと伝えられる由緒ある寺で、天徳4年(960)空也上人が建立したともいわれています。速見郡に多くの寺院建立の願をたて、最後にこの寺を建立し、願いが成就したことから願成就寺と呼ばれたといわれています。地元の人々からは「赤松の妙見様」と呼ばれ親しまれています とネットから。右折して国道10号に入り北上する。「下市北」交差点を右折し県道655号線・新城山香線に入り「熊野磨崖仏」を目指す。県道655号線・新城山香線から脇道に入り車を止める。右手に石鳥居が立っていた。ズームして。扁額は「熊野社」となっており、ここも「熊野磨崖仏」への参道であったようだ。「広い道(県道)に迂回して!」と。この参道はこの先は道幅が狭かったのであろう。庚申塔もあった。そして我々の車はUターンして「熊野磨崖仏」の案内板に従い、ここを左折したのであった。途中、右側にあった駐車場で一時停止。「千年ロマン 豊後高田市 観光案内」。地図をズームして。そして場所を確認して「熊野磨崖仏」へと車を走らせたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.19
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「臼杵城跡」の散策を続ける。「臼杵護国神社」を振り返る。「臼杵城 大門櫓」を遠くに見る。「臼杵護国神社」の「社務所」が右手に。巨大な石鳥居の先に「大東亜戦争(第二次世界大戦)」案内板があった。「大東亜戦争(第二次世界大戦)馬締安正命馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チヨの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引き続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において米艦船群に体当たり攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。遺書実父馬締兵市様皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。ご健康をお祈りします。実兄馬締中尉殿弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたします。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のところに行きます。」古絵図を見ると二之丸・本丸にはかなり多数の櫓が建ち並んでいたようだ。大門櫓から少し奥へ行ったところに残る巨大な石垣の土台。これが「会所櫓跡」であると。切りそろえられた石材がビッシリ積み上げられた櫓台。「会所櫓跡」碑。「会所櫓跡」からの夕景。「武功抜群 木梨鷹一海軍少将の戦死鷹一は、明治三十五年三月七日臼杵町野田753番地で生誕した。大正九年臼杵中学から、当時受験競争率最高三十倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵五十一期生)、大正十二年卒業。昭和五年航海学校航海学生(大尉)となり同六年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同十二年十一月海軍少佐となり、同十五年三月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号十九潜水艦長として、昭和十七年九月十五日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷六本を発射うち五本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。昭和十八年十一月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和十九年三月十一日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受け取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。八十七日を経て、七月十二日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、厳谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。七月二十六日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年四十三歳。」「臼杵護国神社」の石鳥居越しに「大門櫓」を見る。「大門櫓」下から臼杵市臼杵方面の街並みを見る。「帯曲輪」の少し出っ張った先には、「鐘楼」があった。「時鐘」碑。「この時鐘楼の鐘は「原山時鐘」といいます。鐘に刻まれた銘によると元禄十三年(一七〇〇年)に鋳造されたとあります。その後、寛政ニ年(一七九〇年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(ニ王座)で時を告げていたものと記録に残っています。明治六年(一八七三年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで鐘の音を聞くことができました。しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。平成二十年(ニ〇〇八年)臼杵城跡西の丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約一四〇年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。そこで、平成二十ニ年(ニ〇一〇年)六月、臼杵ロータリークラブは創立五〇周年記念事業として、鐘の音を復活するため「時報楼」の整備をおこないました。遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。」「時鐘櫓跡」碑。「時鐘」。「時鐘櫓跡」から「大門櫓」、「畳櫓」そして「帯曲輪」の横に美しく畝る屋根付きの白塀を見る。白壁の下に見えたのが「大手門公園」。「大門櫓」を振り返る。「中門櫓跡」「中門櫓跡」碑。「中門櫓跡」前から「古橋口」方面に進む。往路と同様に「狭間」付きの白塀の美を楽しみながら下る。そして往路で見た横穴。ネットによると大東亜戦争中の「防空壕」だと。再び振り返って。石橋の古橋を再び渡る。「古橋」の右側には時計塔その先にトイレがあった。駐車場前から「臼杵城」の西側全景を見る。「大門櫓」、「畳櫓」そして白壁。「畳櫓」の横奥には十三夜の月が出ていた。「大手門公園」の片隅に銅像があった。「吉丸一昌像」。「吉丸ー昌(よしまるかずまさ)は1873年(明治6年)臼杵市に生まれる。臼杵学校、大分中学校(上野丘高校)を卒業後、第五高等学校(熊本大学)へ進学。ここで教授夏目漱石と出会う。その後、東京帝国大学(東京大学)国文科へ進む。修養塾、下谷中等夜学校(東京都台東区)を開設し、貧しい青少年の生活支援と教育活動を終生行う。卒業後、東京府立第三中学校(両国高校)の教諭を務め、芥川龍之介を教える。明治41年東京音楽学校(東京藝術大学)教授に招かれ、文部省から唱歌の編さん委員に任命される。明治45年新作唱歌全10集を発表。この中に吉丸の作詞した「早春賦」(作曲中田章)「故郷を離るゝ歌」が収録されている。1916年(大正5年) 42歳の若さで他界した。 没後100年を記念して 2016年記」「吉丸一昌先生歌碑早春賦春は名のみの 風の寒さや谷の鶯 歌は思えど時にあらずと 声も立てず時にあらずと 声も立てず」「吉丸一昌先生の生いたち出生 明治六年九月十五日、臼杵市海添(現在)~第五高等学校~東京帝国大学国文料 明治三十四年七月卒業学業 臼杵尋常等高等小学校~大分中学校~職歴 東京府立第三中学校教諭 東京音楽学校(現東京芸大)教授 大正五年三月七日逝去(四十ニ才)先生は、性質極めて磊落、常に故郷を愛し、苦しい生活の中にも向学の志を抱いた苦学生の為に、修養塾を作り修学の便を与えられ、又「成功の華は墓前に咲く」を信条とし、日常の訓戒とされていた。文部省唱歌の編集委員でもあったが、自らも編集し、新作唱歌十冊を刊行した。我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の時鐘を鳴らされた。「早春賦」は春を待ちわびる心であり「故郷を離るる歌」と双璧をなす傑作で、広く愛唱されている歌である。先生が、こよなく故郷を愛されたように、我々もとこしえに先生の功績を称え、郷土の限りない誇りとして顕彰するものである。」次第に周辺も暗くなり。そして「畳櫓」の真上にこの日の十三夜の月が。ズームして。そしてこの日の「臼杵城跡」の散策ルート。そして県道21号線を旅友のタフな運転で走り、この日の宿泊場所の大分市内の「ホテル日航大分オアシスタワー」に無事到着したのであった。この日のツインの部屋。超格安ツアーで最後の宿として日航・JAL関連のホテルに宿泊出来るとは・・・・満足!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.18
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更に「臼杵城跡」の散策を続ける。多目的広場の北側の散策道を進む。現在地は多目的広場の北側の場所。右手にあったのが「勤皇臼杵隊之碑」。「勤皇臼杵隊之碑この碑は、明治十年(一八七七)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものです。当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約三千人、これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。」「明治十年六月一日薩軍臼杵に迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ邀撃シテ利アラス 死スル者四十三 當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラス 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ炳乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス昭和十七年六月臼杵隊義戦顕彰會 戦死者 片切八三郎 遺腹 中根貞彦撰竝書」「中根貞彦歌碑」。「ちゝのみのちゝは 吾をみず ははそばの母は わが知らず 恋しき父母」「中根貞彦歌碑この碑には、次のような歌が刻まれています。「父のみの父は 吾をみず ははそばの母は わが知らず 恋しき父母」中根貞彦氏は明治十一年(一八七八)二王座の片切家に生まれました。早く父母を亡くしたため、父母の顔を知らずに育ち十五歳の時、佐伯の中根家に養子に入り、昭和八年(一九三三)三和銀行の初代頭取に就任しました。また、彼はアララギ派の歌人としても知られ、早くして亡くした父母に対する深い思慕の念を歌に詠んでいます。」多目的広場の本丸寄りに「俳諧塚」があった。「俳諧塚この碑には「稲妻や 闇の方ゆく 五位の聲」の句が刻まれています。「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。夜行性があり、夕方、不気味な声を出して飛ぶ。稲妻が発している方角は黒雲が立ち上り、そこが無気味に光っている。その反対側の空は闇の暗さだ。その中を飛んでいるのであろう五位鷺が不気味な声を張り上げなら渡っていく。この五位鷺の姿は見えないと。この句碑は、臼杵の横町で生まれた久家常蔵(俳号嵐影)が、大正11年(1922年)臼杵の俳句同好者と図って「南欧吟社」を組織し、その仲間と共に昭和14年(1939年)6月に建てたものです。臼杵では誹諧が盛んな時があった様で、このほか龍源寺に蓑塚、平原地区にしぐれ塚などの俳諧塚が建てられています。」夕日が山の端に沈みかけていた。そしてこの場所からの日没が迫っていた。日没を追う。そしてこの日の日没。時間は16:58。「着見櫓跡」の石垣を見る。そして「臼杵護国神社」に立ち寄る。本殿の手前に池があって、そこに石橋・神橋が架かっていた。「顕彰 砲弾記念碑」。「顕彰 砲弾記念碑明治二十九年四月奉納 陸軍歩兵中尉 平井富蔵清國威海衛戦利品威海衛の要塞砲口径二十三・四糎弾の長さ八十四糎黄海海戦 明治二十七年九月十七日威海衛占領 明治二十八年ニ月十ニ日講和条約(下関条約)明治二十八年四月砲弾は昭和二十年終戦後地下に埋没されたが現在その場所不明現砲弾は模造品」「臼杵護国神社」碑。「臼杵護国神社由緒略記御祭神 稲葉良通ならびに歴代藩主と国家公共につくした人の神霊境内地 七六九八・八三平方メートル主な祭典 一月一日 歳旦祭 四月十日 春季例大祭 十月十日 秋季例大祭由緒臼杵護国神社は明治十一年創立の招魂社(昭和十四年四月一日臼杵護国神社となるが、終戦後は招魂社と称した)を明治十二年創立の稲葉神社に昭和三十五年合併、稲葉神社を臼杵護国神社と名称を変更した。旧招魂社は、明治十年西南の役で薩摩軍が臼杵に侵入した時、旧臼杵藩士の日下東命等らが、臼杵隊を組織して防戦したが遂に破れ四十三名の戦死者を出した。明治十一年六月有志が戦死者の霊を祀るため、臼杵城趾に一社を創建した。以後、臼杵町に本籍がある者、或いは縁故がある者で、戦時又は事変で戦死し、靖国神社に奉斎された者すべてを合祀した。又市制施行により合併した旧六カ村の戦没者も合祀した。旧稲葉神社は稲葉家の旧臣が、臼杵藩祖稲葉良通公(一鉄)と歴代藩主の霊を祭祀するため建てられた。明治十二年十一月五日勘請式を行い、稲葉神社と公称した。」この神門をくぐって神橋を渡る。神門には「臼杵護国神社」と。「神橋」を渡る。「拝殿」西南の役で薩軍が臼杵に侵入したとき、臼杵隊が防戦したが、43人の戦死者をだした。この霊を祭ったのが神社の始まりで、明治11年の創建当時は招魂社といった と。・明治11(1878)年創立の招魂神社に西南の役の戦死者を祀る。 以後日清、日露戦争の戦死者を合祀・明治12(1879)年 臼杵藩祖稲葉良通公をはじめ、歴代の藩主の霊を祀る・昭和35(1960)年 招魂社と稲葉神社が合併。稲葉社は残し、招魂社は現在の臼杵八坂神社へ 粟島社として移築・昭和53(1978)年 護国神社と名称を変更「拝殿」、「本殿」を横から。そして「神橋」手前にあった「遥拝所」?を振り返る。昔の「招魂社」の名残の建物なのであろう。天井には臼杵市指定有形文化財である南画家による絵が描かれていた。鎌倉八幡宮で言えば「舞殿」のある位置にあったが。内部には「招魂社」と書かれた扁額が。「招魂社」という扁額の文字は、15代藩主稲葉久通の書であるようだ。「神楽殿」「稲葉神社」と書かれた扁額が掛かっていた。「臼杵市指定有形文化財臼杵護国神社神楽殿右を臼杵市指定有形文化財に指定する平成二十年六月三十日臼杵市教育委員会明治四十ニ年十月稲葉神社神楽殿及び神門を増築する」初冬の夕焼けを桜の木越しに見る。「大東亜戦争(第ニ次世界大戦)硫黄島の玉碎臼杵の人で死亡場所硫黄島と確認された人田井ヶ迫 阿南藤吉 命 江無田 首藤都彦 命 栗林 大戸貞雄 命高倉 安東克己 命 尾本 首藤 弘 命 南海添 野川 武 命洲崎 板井 守 命 下末広 武生 輝 命 中津浦 東 正信 命立野 大塚数雄 命 本町 歳国 鼎 命 宋広 藤澤芳生 命尾本 河野 渉 命 板知屋 冨田杉雄 命 城南 三島忠美 命港東 木元太郎 命 掛町 中西秀男 命 ニ王座 村本辰生 命尾本 小坂文作 命 浜 仲村 修 命 破礎 薬師寺信彦 命清太郎 佐世四郎 命 浜 西山孝夫 命 清水 吉水信清 命昭和ニ十年三月十七日、栗林中将は大本営に決別電を発した後みずから先頭に立っての攻撃にあたり、次の訓示を述べた。「いま日本は戦いに敗れたといえども、日本の国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え諸君の霊に対し涙し黙祷を捧げる日がいっか来るであろう。安じて諸君は国に殉ずべし」硫黄島にて戦死せられたニ万一千の英霊に対し後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを固く信じていたのである。大本営に決別電国の為 重き勤めを 果たし得て 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生まれて 矛を執らむぞ醜草の 島に蔓る その時の 皇国の行く手を 一途に思ふ平成六年ニ月初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った精魂込め 戦ひし人 未だ地下に 眠りて島は 悲しき 「散るぞ悲しき」梯久美子より」「大東亜戦争全般作戦図」。これは「砲弾記念碑」。「砲弾記念碑 明治二十八年九月十七日 敬献 海軍中将軍医総監 河村豊州臼杵藩士として代々医療を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(一八四九)一月二十六日生まる。荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋学を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。明治八年 海軍中軍医となる明治十年 西南戦役に功あり海軍大軍医となり勲五等を受く明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く明治三十八年 功四級金鶏勲章を賜り九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する (現在の砲弾は実物大レプリカ)明治三十五年 従四位高等官一等に叙せられ予備役となる退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り、北海道開拓に尽力する昭和八年(一九三三)十一月八日 八十五才にて永眠 青山墓地に眠る」「稲葉良通(一鉄)公一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成頼に仕え土豪になったとされている。永正十ニ年(一五一五年)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永五年(一五ニ五年)に父と五人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して家督と曽根城を継いだ。はじめ土岐成頼の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。永禄十年(一五六七年)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍典が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。永禄十一年(一五六八年)、信長の上洛に第一隊として従い、姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。一鉄の号の初見はこの後の頃である。その後も、殿軍を指揮、軍使も務め、後詰め、先鋒など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。天正五年(一五七七年)には有岡城の戦い(織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。各地の戦に参加しその戦功は、二十年負けなしと言われるほどである。天正七年(一五七九年)家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。天正十年(一五八ニ年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。本能寺の変の後、織田信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。天正十三年(一五八五年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。同十五年(一五八七年)、「島津攻め」から斡旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大阪城山里丸の茶室に招かれる。天正十六年(一五八八年)十一月十九日、美濃清水城にて死去。享年七十四。後を子の稲葉貞通が継いだ。一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に務めた。又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生れたとされている。文武両道、智勇兼備の名将と言われる由縁である。臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。」「稲葉歴代藩主とその時代」。江戸時代の大名。先祖は代々美濃国土岐(とき)氏に属し、土岐氏没落後斎藤、織田氏と主家をかえ、良通(よしみち)(稲葉一鉄)のとき豊臣秀吉に仕え、美濃郡上八幡(ぐじょうはちまん)城主となった。良通の子貞通(さだみち)は関ヶ原の戦で東軍に属し、戦後豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)に移り(4万石)、同地で15代続いた(臼杵藩(うすきはん))。1.稲葉貞通(1546-1603)👈リンク 豊後国臼杵藩の初代藩主。2.稲葉典通(1566-1626)👈リンク3.稲葉一通(1587-1641) 👈リンク4.稲葉信通(1608-1673)👈リンク5.稲葉景通 (1639-1694) 👈リンク6.稲葉知通 (1652-1703)👈リンク7.稲葉恒通(1690-1720)👈リンク8.稲葉董通 (1709-1737)👈リンク9.稲葉泰通 (1730-1768)👈リンク10.稲葉弘通(1752-1818)👈リンク11.稲葉雍通(1776-1847)👈リンク12.稲葉尊通(1801-1821)👈リンク13.稲葉幾通(1815-1844)👈リンク14.稲葉観通(1839-1862)👈リンク15.稲葉久通(1843-1893)👈リンク 明治4年(1871年)の廃藩置県により藩知事を免官される。 「稲葉家下屋敷」👈リンクは、廃藩置県に伴って東京へ移住した旧藩主・稲葉家の臼杵滞在所として建築されたもの。「西南の役」案内板。「西南の役藤丸宗造命弘化ニ年(一八四五年)臼杵町海添で生誕した。明治十年西南の役で、藤丸宗造は重岡警察分隊長であった。薩摩西郷軍が延岡から重岡に侵入すると直ちに敵情を熊本鎮西総府に報告した。そののち、竹田地方の敵情探索中に捕えられた藤丸は、西郷軍に強く降伏を進められたが、「捕えらるるは命なり。降らざるは義なり。顧ふに唯一死あるのみ。余は、大分県警部を奉ずる。請う死せん。」と従容として刃をうけ、警察官として殉職した。享年三十ニ歳。明治十年五月ニ十三日竹田市稻葉川原でのことである。日露戦争宗造の子陸軍歩兵大尉藤丸宗造は、明治三十七年九月一日 日露戦争で戦死。藤丸宗造と子宗造のニ柱共臼杵護国神社にお祀りされている。「近代臼杵人物事典」より」大分縣護國神社(大分県大分市)にある「大分県十等警部藤丸宗造の墓」 【https://ameblo.jp/oitajapan/entry-10546767685.html】より「藤丸宗造墓碑文大分県十等警部藤丸宗造の墓碑文「大分県臼杵市出身。宮崎県日向方面からの薩軍の侵入に備え、1877年(明治10年)3月1日、大分縣佐伯署 重岡(しげおか)分署長として赴任。薩軍の延岡侵入、そして重岡侵入の際に、その報告と出兵要請に熊本鎮台や竹田署にいた政府軍に通報し、帰路捕えられて5月23日、竹田町会々(現竹田市)にある西光寺の前に流れる川の畔で斬首された。その場所には藤丸警部殉職の地の石碑が立っています。西光寺には銅像が建立されています。」と ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.17
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更に「臼杵城跡」の散策を続ける。次に訪ねたのが「卯寅(うとの)稲荷神社」。「これより先卯寅口」の石碑が手前に。臼杵城本丸の鬼門にある神社。卯寅櫓などがある卯寅口にあり、「卯寅稲荷神社」の朱色の鳥居がたくさん並んでいた。キリシタン大名で有名な大友宗麟が創建。まだ大友義鎮だったころの建立であろう。このころはまだキリシタンではなかったので、この神社を崇敬していたのであろうか?城内に白狐が棲み着き、一族の参勤交代を護衛するなど忠節を尽くした。ある時、藩主の狩りの邪魔をしたとして城から退去を命ぜられた。しかし数年後、江戸屋敷の火事の時、火消しに化けて屋敷を守ったため帰参を許されたという。こちらが表参道なのであろうか。拝殿。拝殿の右に遠く、臼杵湾に津久見島が浮かぶ。津久見島は臼杵湾の沖合い約7kmにぽっかりと浮かぶ島。「おにぎり島」と呼ぶ人もいるほど市民に愛されている島である。古くは、臼杵七島の一つ「竹生島、竹島」と呼ばれていた。「卯寅稲荷神社の由来永禄五年(一五六ニ)大友宗麟公、丹生島築城の際、卯寅口が城中の鬼門にあたるため外郭岸上に城の地主丹生島明神として祭られたのが始まりであります。慶長五年(一六〇〇)稲葉貞通公が美濃(岐阜県)から転封されてからは歴代城主の信仰厚く五万石領民のために豊漁豊作家内安全商売繁昌、航海安全を祈願し、毎年十一月に祭典が行われたと伝えられており明治六年廃城のとき、現在の卯寅櫓に移され卯寅稲荷大明神として信仰されております。戦後は港町地区でお守りしていましたが、地区内有志の間に復元遷宮の声が上がり、多くの賛同者の寄進を得て昭和六十年十一月(一九八五)新社殿の建立が行われました。なお当社は竹田市玉来の扇森稲荷と並び称される高位の稲荷神社であります。」そして「臼杵城の石垣---武具櫓台石垣」案内板。「臼杵城の石垣---武具櫓台石垣この石垣は、臼杵城本丸の西南隅に築かれた、武具櫓の櫓台石垣です。西面は空堀底から立ち上がるおよそ七メートルの高さを持ちます。現在はこの櫓台石垣の南面が壊されて通路となっていますが、江戸時代は絵図のように堀の東面を仕切るような形状をしていました。しかし壊されているおかげで、当時の石垣かどのように積まれているのか、断面を観察することができます。稲葉氏の臼杵城改修期である一六〇〇年代初頭に空堀が造られたのに伴って築かれ、その後に何度か修理されているようてす。」武具櫓台石垣の構造、断面。そして正面に桜の林が拡がっていた。「これより本丸」碑。ここが本丸跡。「天守櫓、天守台の石垣」案内板。「天守櫓この場所にはかって、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。最近の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった文禄3年~慶長2年(1594 ~ 1597)ごろである可能性が高くなっています。その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼柞城絵図と発掘調査の成果から判明しました天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m )であったことが記録されています。ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。」「本丸指図の天守櫓、付櫓部分=延宝4年(1676年)頃」。「天守台 石垣天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほば石山で割った状態のまま積み上げる、野面積みと呼ばれる工法をとっています。一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしつかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造りとなっています。これに対して臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれたものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積み方になっています。見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。」「臼杵城絵図 天守部拡大(幕末頃)」。「臼杵城 天守櫓跡」碑。「臼杵城 天守櫓跡」。「臼杵城 天守櫓」下の石垣を見る。そして井戸丸の井戸を見下ろす。本丸跡と卯寅ロ門協櫓の間の谷間にあります江戸時代のものと。「井戸丸この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10メートル以上あり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。」井戸の囲いの隅に石仏が鎮座し井戸を守っていた。現存する「卯寅口門脇櫓」を見る。「卯寅口(うとのくち)、卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)」案内板。「卯寅口(うとのくち)いわゆる「搦手口(からめてぐち)」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島(>にうじま)」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。なお、港町側から現在の卯寅口への参道は、明治以降に新たに開削された道です。」「御鉄砲薬櫓」(のちの卯寅ロ門脇櫓)周辺(延宝4年= 1676年頃)。寛永臼杵城下絵図(本丸・卯寅ロ部拡大)「卯寅ロ門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)卯寅ロ門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根の櫓です。現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854年)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。延宝4年(1676年)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓(おんてっぽうくすりやぐら)」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。」「卯寅ロ門脇櫓」下の石垣を見る。「卯寅ロ門脇櫓」への石段上から「卯寅稲荷神社」下の石垣を見る。「卯寅稲荷神社」の朱の鳥居が並んでいた。「卯寅口門脇櫓」に近づいて。「卯寅口門脇櫓」碑。朱の鳥居がどこまでも続く。切通しの如き場所に朱の鳥居が並ぶ。港町側から現在の卯寅口へのこの参道は、明治以降に新たに開削された道であると。朱の鳥居をこれでもかと追う。「卯寅口門脇櫓」の屋根の頂部は緩やかにカーブして。「卯寅口門脇櫓」からの夕景。ズームして。再び空濠を反対側から見る空濠の左側が二之丸、右側が本丸となり、土橋後方に天守台が位置し、二之丸から土橋を渡ったすぐの右側石垣は鉄門櫓跡石垣。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となったが、初代藩主・稲葉貞通と典通(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空濠を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けた。土橋を渡るとすぐのところに鉄門(くろがねもん)という櫓門を設け、本丸の出入口を固めた。空濠は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたもの。明治維新後、公園として整備され、今のような姿となった と。「野上弥生子文学碑」。左の石碑には彼女の作品「迷路」の一節が刻まれていた。彼女は明治18年に臼杵の造り酒屋の家に生まれて、15歳のとき単身で上京した。明治女学校を卒業後、同郷の野上豊一郎と結婚。夫の紹介で夏目漱石の門に入った。99歳で他界するまで、現役作家として活躍した。右の石碑には「野上彌生子先生略歴明治十八年五月六日 北海部郡臼杵町大字臼杵(父小手川角三郎・母マサの長女として)で出生明治三十二年 臼杵尋常高等小学校卒業明治三十九年 明治女学校高等科卒業 夏目漱石の高弟・野上豊一郎と結婚 (豊一郎は、北海部郡臼杵町大字福良の出身で父野上庄三郎・母チヨの 長男 元法政大学総長)昭和二十二年 日本芸術院会員昭和三十二年 第九回読売文学賞受賞(「迷路」により)昭和三十九年 第三回女流文学賞受賞」(「秀吉と利休」により)昭和四十年 第十五回文化功労者昭和四十六年 文化勲章受章昭和四十七年 臼杵市名誉市民に推挙昭和五十六年 朝日賞受賞昭和五十九年 日本文藝家協会外三団体により「白寿のお祝い」主な著作小説 「新しき命」「海神丸」「真知子」「若い息子 「草分」「鍵」「迷路」「秀吉と利休」「森」等他に随筆・日記・旅行記・翻訳等昭和六十年三月三十日 九十九才にて没」「迷路」は、「黒い行列」の続編で昭和12年11月に「迷路」として『中央公論』に掲載されていたが、戦中に中断。戦後の昭和24年1月号の『世界』に「江島宗通」として再び掲載され、完結したのは昭和31年のことであった。20年をかけた大作で、野上弥生子の人生5分の1を占める と。「迷路「実際、僕、いま死んだら生まれて来なかっと同じに、なんにも知らないで死ぬといっていでしよう。たとえば、なかにあるものに対して憧れや、崇拝や、好奇心を一杯にもちながら、覗き見もしないうち◯際から閉めだされるのですからね。そりゃ世の中って、ずいぶん厭な、汚ならしいものなことは、僕の浅い経験にだって分っています。その代わりにまたずいぶん、美しいことや、良いことや、愉しいこともある筈です。決して二度は来られない地球に、何年か長く住むというだけでも、素晴らしいことです。そのためには僕のようなものだって、僕なりになにか世の中に役立つことができそうな気がするけど、死んじまえばそれっきりです。」と小説「迷路」の最終章の「夏雲」の一節が刻まれていた。剣道の先生だったらしい「河崎義教先生剣道記念壽表」碑。明治三十五年八月有志建之。「蘭畹野中君記念碑」。臼杵藩校学古館の教授野中蘭畹の顕彰碑。帆足万里に師事し臼杵の海沿いに私塾を開いて、漢文、語学、算術、習字などを教え、後に藩校学古館に教授として招かれました。維新後は大蔵省に出仕しています。「野中蘭畹顕彰碑この碑は、藩校「学古館(西館)」の教授として師弟の教育にあたり、人材の育成に努めた彼の功績を讃えて建てられたものです。彼は天保二年(一八三一)、現在の大分市戸次本町に生れ、十五歳の時日出の帆足万里(ほあし ばんり)師事し教えを受けました。その後、臼杵の海添に「謀道館」と称する塾を開き、漢文をはじめ、語学・算術・習字・などを教え、後に藩校の教授として招かれました。明治四年(一八七一)の廃藩後は松方正義の知遇を得て、大蔵省に入り明治二十一年東京にて亡くなりました。」小さな漢字のみが並んでいたが・・・・。学友から鮮明な写真が届きました。 【http://kintoun51.blog.fc2.com/blog-entry-1376.html】より「田中豊吉氏功績碑」「ここ臼杵公園は大友宗麟ガ築城後、歴代藩主の居城跡で明治の廃藩後国有財産のまま公園として臼杵町の管理下にあったため昭和二十年内務省から大蔵省に移管されるにあたり公園として永久に管理する必要を痛感して町議をもって払下げを受けるべく計画が進められたが当時の町財政の状況からその資金捻出に極めて苦慮していた際田中豊吉氏から必要資金額の寄付行為により公園払い下げが実現した。このことは、田中氏が歴史のある城跡を緑あふるる自然環境のまま保存し町のシンボルとして又住民憩いの場として後代にのこし更には都市美の構成上必要不可欠の役割をもたせようとした先見の明と郷土愛の賜であり市民斉しくその篤志に対し深く敬意を表するものである。ここに公園整備事業の完成を機に建碑をもってその功績をたたえ末永く後世に伝えるものである。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.16
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「臼杵城跡」の散策を続ける。「大門櫓」前から「畳櫓」を振り返る。「大門櫓」手前、帯曲輪の左側にあった「稲葉氏の城郭改修」案内板。「稲葉氏の城郭改修帯曲輪(おびぐるわ)大友氏時代から太田時代( 1556-1600 )にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂(あぶみさか)を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。また、この新しい登城口を今橋ロ、それ以前の鐙坂の登城ロは古橋ロと呼ぶようになったのもこの頃からです。」「畳櫓(たたみやぐら)畳櫓は、桁行4間( 7.92m )、梁行3間( 4.44m )の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644 ~ 1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764 ~ 1772年)頃ではないかと推定されます。「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。」「井楼櫓」が現存していた明治初期の古写真。「臼杵城絵図(延宝4年=1676年)」「大門櫓」。近づいて。威風堂々たる姿は小高い丘の上にあり 臼杵の町が一望できるのであった。「県指定史跡 臼杵城跡 大門櫓大門櫓は、稲葉氏入城直後の十七世紀初頭に建てられたもので、宝暦十三年(一七六三年)の大火で焼失した後、明和五年(一七六八年)に再興され、明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていました。復元にあたっては、現存するニ基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の成果などを参考にし、楼門形式・ニ枚開戸・櫓部壁下見板張・入母屋屋根・塗込垂木など、廃城直前の形状、この門の特徴である中央門柱後ろに控え柱を持たない独特の形状を再現しています。施工については、古建築の雰囲気を醸し出すよう、地元の職人が伝統的工法を駆使して、可能な限り江戸末期の姿となるよう努めました。この大門櫓復元を契機に、ここを訪ねる方々が往時の臼杵城の雄姿をしのびつつ、この城郭史跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願ってやみません。」「大門櫓」を潜り振り返る。「大門櫓」越しの夕景。「大門櫓」から「畳櫓」を見る。右手奥にあった「井楼櫓跡」に向かう。「井楼櫓跡」碑。「城下町 うすきを一望」パネル。近づいて。手前に「畳櫓」の屋根、その先に臼杵市街「二王座地区」、「平清水地区」、「町八町」が拡がっていた。「東九州自動車道(大分宮崎区間)」の高架橋と「鎮南山(536 m)」の姿が。「井楼櫓跡」の端から真下を見る。「畳櫓」の屋根が見下ろせたが。手摺等は全く無く危険なのであったが・・・。「大門櫓」の横からの姿を「井楼櫓跡」から見る。「二の丸跡」には「臼杵城」の歴史年表が。左から。臼杵城の歴史【室町時代、安土・桃山時代、江戸時代】弘治2年(1556) この頃までに大友義鎮(よししげ)が丹生島に城を築く。永禄6年(1563) 大友義鎮が出家し宗麟と名乗る。天正6年(1578) 日向に出兵するが高城川の戦いで大敗。宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。天正8年(1580) この頃、イエズス会修練院・聖堂が臼杵城下に建立される。天正10年(1582) 宗麟、キリシタン大名大村純忠、有馬晴信らと共に少年遣欧使節をローマに 派遣する。天正14年(1586) 島津軍が臼杵に侵入。宗麟は、臼杵住民を臼杵城に避難させる。天正15年(1587) 宗麟、津久見で没する(58歳)。天正16年(1588) 臼杵城及び城下が全焼する。 宗麟死後、臼杵城は府内城(長男義統が城主)の支城となる。 文禄3年(1594) 福原直高、臼杵城主となる。はじめて天守櫓建てられる。慶長2年(1597) 太田一吉、臼杵城主となる。また、城郭の大改修を行う。この時期に祇園洲 「三の丸」となる。慶長5年(1600) 稲葉貞通(さだみち)、美濃国郡上八幡城主から臼杵城主となる。慶長8年(1603) 典道、二代臼杵城主となる。慶長15年(1610) 臼杵城の三の丸に祇園社(八坂神社)が造営される。寛永元年(1624) 典道、臼杵城「鬼門」鎮護のため津久見島に弁財天をまつる。臼杵城の歴史【江戸時代】寛永4年(1627) 一通(かずみち)、三代臼杵城主となる。寛永18年(1641) 信通(のぶみち)、四代臼杵城主となる。延宝元年(1673) 景通(かげみち)、五代臼杵城主となる。元禄7年(1694) 知通(ともみち)、六代臼杵城主となる。宝永3年(1706) 恒通(つねみち)、七代臼杵城主となる。享保5年(1720) 董通(まさみち)、八代臼杵城主となる。元文2年(1737) 泰通(やすみち)、九代臼杵城主となる。明和5年(1768) 弘道(ひろみち)、十代臼杵城主となる。臼杵城の歴史【江戸時代末期から明治時代】寛政12年(1800) 雍通(てるみち)、十一代臼杵城主となる。文政3年(1820) 尊通(たかみち)、十二代臼杵城主となる。 文政4年(1821) 幾通(ちかみち)、十三代臼杵城主となる。弘化元年(1844) 観通(あきみち)、十四代臼杵城主となる。文久2年(1862) 久通(ひさみち)、十五代臼杵城主となる。明治2年(1869) 各藩、版籍奉還を行う。明治4年(1871) 廃藩置県により、臼杵藩が臼杵県となる。明治6年(1873) 「城取り壊し令」により、一部の建物を残し、殆どの建物を取り壊した。 ※現在は、「畳櫓」「卯寅口門脇櫓」の二棟が残る。 臼杵城を公園とする。 「二の丸(にのまる)二之丸(にのまる)江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557年)、天正16年(1588年)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直嵩、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋ロなどもこの時に整備されました。その後、延宝4年(1676年)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。」「二之丸御殿(にのまるごてん)二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者しか出入りできなかったと考えられます。奥空間には「内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常生活の場です。「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と呼ばれる茶室が造られた時期もありました。」ニ之丸御殿「指図」(西暦1750年頃)。「佛狼機砲(国崩)」。1576年(天正4年)にポルトガル人から宗麟に送られた佛狼機砲(ふらんきほう)。これが日本初の大砲といわれる。宗麟はこの大砲を 国崩 と名付け、臼杵城に配備した。廃藩置県後、国崩は国に献上され、現在は靖国神社境内に展示されている。ここにあるのは複製されたもの。「佛狼機砲(国崩(くにくずし))天正四年(一五七六年)にポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。宗麟公はその大砲を「国崩」と名付けてそれをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備え付けました。この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有したのち、薩摩藩主島津氏の手にわたり、明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。」「大友宗麟公」碑。大友宗麟公像(レリーフ)。「大友宗麟公大友宗麟(義鎮)(一五三〇~一五八七)は九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一の覇者として内外にその名を高め一五六ニ年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を下しました。 このときから臼杵は名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。 また宗麟はキリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵に往来する外国船や城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。その宗麟の偉業を偲んで一九三七年郷土出身の彫刻家日名子實三氏によりブロンズのレリーフが製作され城跡に建設されておりましたが第ニ次世界大戦(一九四四年)での軍事資材として政府に献納されその雄大な人物像も姿を消しておりましたものを一九八ニ年京都嵯峨美術短期大学の辻浩氏の手によってここに復元製作されたものであります。」掲示板には「神社写真時報」が。9月1日~12月31日までの神社行事の予定が記載されていた。「村瀬庄兵衛政績碑」。「村瀬庄兵衛政績碑この石碑は、天保ニ年(一八三一)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていたとき、担当責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量入制出」の制度を取り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されています。」「「廃墟」の像」「「廃墟」の像臼杵市出身の彫刻家 日名子実三(一八九三~一九四五)の手によるこの「廃墟」は、実三自身が大正九(一九ニ〇)年発行の「美術写真画報第一巻第十号」で述べているように俊寛という平安時代の僧侶がモデルです。俊寛は同士とともに平家打倒を目指していましたが、安元三年(一一七七)この密議(鹿ヶ谷の陰謀)が平家に見つかり、俊寛は同士とともに薩摩国(鹿児島県)喜界島(硫黄島)に流され、そこで不運の生涯を送りました。実三は俊寛への思いと、自らの中にある頽廃的な気分をこの彫刻で表しました。実三は旧制臼杵中学校(現・臼杵高等学校)から東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)に進み、朝倉文夫に師事するなどして次々と作品を発表しますが、創作活動の後期においてはスポーツに関心を強く持ちはつらっとした健康的な作品も製作しています。」「日本一大きなモミの木のクリスマスツリー」「臼杵城跡には、推定樹齢140年という、高さ29.3メートルと28.9メートル(2002年11月現在)のモミの木が二本並んで立っている。2002年12月1日、この二本のモミの木にイルミネーションが点灯され、日本一大きなクリスマスツリーとなる。」と。しかしこの日の写真はこれだけであり、モミの木の写真は撮り忘れたのであった・・・。二ノ丸と本丸を仕切る「空堀」 。様々な角度から。「本丸」、「本丸の建物」案内碑。「本丸(ほんまる)江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。」「本丸の建物江戸時代に入り、平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担いました。「表」も「奥」も、「書院造り」を基本としていました。現在残されている絵図(指図)によると、「表」(茶色部分)には「御広間」「大書院」等、政務遂行や儀礼に使われた部屋が見られます。「御広間」等からは「御舞台」が見える構造になっています。舞台は主に能に使われていたと考えられます。一方、「奥」(青色部分)には、「御座間」と呼ばれる藩主の部屋があります。本丸北側の崖ぎわには「御湯殿」が設けられ、現在で言う展望風呂のような状態になっています。本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年(一六七六年)、主な機能を二之丸(西の丸)御搬に移転しました。」「臼杵城絵図 本丸部分拡大(1636-1660)」。「延宝年間の本丸御殿(指図)(平面図)」。「臼杵城跡(臼杵公園)」。「臼杵城の石垣---鉄門枡形石垣」案内板。「臼杵城の石垣---鉄門枡形石垣正面に見える石垣は、臼杵城本丸の入り口にあたる鉄門の桝形石垣で、桝形北側部分の石垣は大正時代に撤去されました。城の心臓部に当たり、防衛的にも格式的にも高さが求められたこの石垣は、臼杵城のほかの石垣より大きな築石(石垣を構成する石材)が用いられています。ひときわ大きな「鏡石」を中央に置くという技法は、角石が長さの長短を規則的にそろえる算木積みの技法とあわせ、十世紀初頭から主流になった積み方て、稲葉氏が城主となった直後の改修て築かれた石垣とみられます。」「鉄門枡形石垣」。算木積みーさんぎづみー 角の部分に長方形に加工された石が長短交互に積まれています。鏡石ーかがみいしー 石の表面が鏡のように平らなことからつけられたようです。枡形石垣ーますがたいしがきー 城郭の出入り口の最も発達した形状で、四角形の空間を囲む様に石垣を築くものです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.15
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「佐伯城跡」を後にして、次の目的地の「臼杵(うすき)城跡」に向かって県道36号線・佐伯津久見線を利用して北上する。前方には「東九州自動車道」の高架が見えた。「東九州自動車道」は福岡県北九州市小倉南区を起点とし、大分県、宮崎県を経由し、鹿児島県姶良市に至る、高速道路(高速自動車国道)。前方の信号で国道217号に合流し、「臼杵市」に向かって進む。再び前方に「東九州自動車道」の高架が現れた。国道217号・柳原交差点を右折して進むと前方に「臼杵城」の「畳櫓」が現れた。臼杵市稲田にある臼塚古墳の入口に立っている石甲(石で作られた武人の像)が、「臼(うす)」と「杵(きね)」の形に似ており、昔から地元では「うすきね様」と呼ばれ親しまれてきたことから「臼杵」の地名が起こったと言われているのだと。そして「臼杵市観光交流プラザ」前の駐車場に車を駐め散策開始。「続日本100名城」のスタンプがここ「臼杵市観光交流プラザ」に置かれているのでまずはスタンプをGETすることとする。入口付近にあった「臼杵城跡」案内板。「戦国大名大友宗麟が築城した臼杵城は、文禄二年(一五九三年)以降、福原直高、太田一吉が相次いで城主を務めたのち、慶長五年(一六〇〇年)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで十五代にわたってこの城を居城とし、臼杵藩の支配にあたってきました。この城は丹生島(にうじま)に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。廃藩置県後、明治六年(一八七三年)明治政府は臼杵城の廃城を決定し、取り壊され公園地に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっているとともに、春は桜の名所として市内をはじめ県の内外から訪れる花見客でたいへんな賑わいを見せます。」そして同じく入口で「続日本100名城」のスタンプの置場を確認。まずは「続日本100名城」のスタンプをGET。「臼杵城跡」の「御城印」。総合観光案内所の脇を中に入ると「観光情報案内コーナー」があった。「野津地域の見どころ」「吉四六さん(きっちょむさん)「吉四六さん」は野津地域で伝承されている民話の主人公。ゆかいなとんちで知られる「吉四六さん」は実在の人物で本名を「廣田吉右衛門」といい、江戸時代初期、現在の臼杵市野津町の庄屋で、苗字帯刀を許された由緒ある家柄でした。多くの吉四六話がある中で、代表的な44話が「吉四六かるた」となり、誰でもわかりやすく吉四六話に触れることができます。今なお人気のすたれることを知らない「吉四六さん」は、その当時から年貢のとりたてに苦しむ庶民の味方になったり、つらく厳しい時代であっても、庶民の相談役となり持ち前のとんち・奇才で人々の難儀を救ったといわれています。」「二孝女豊後臼杵藩大野群川登村(現・臼杵市野津町大字泊)から、江戸時代、旅先で病に倒れた父を迎えに常陸国(現・茨城県)まで苦難の旅をした「つゆ」と「とき」姉妹を二孝女と言い、物語として受け継がれています。父・初右衛門が親鸞縁の地を巡りながら、亡き妻の供養巡礼の旅に出ますが、持病が悪化し、常陸国のお寺で療養する事を余儀なくされます。数年が経過し初右衛門の消息が判明し、これを聞いた「つゆ」と「とき」は居ても立っても居られず臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。」臼杵市の地図。現在地はここ。「四季の風物詩」。「臼杵城下まちあるきマップ」。① 臼杵城跡 ② 稲葉家下屋敷 ③ 旧平井家住宅 ④ 久家の大蔵⑤ サーラ・デ・うすき ⑥ ニ王座歴史の道 ⑦ 旧真光寺 ⑧ 三重塔(龍原寺)「臼杵紹介コーナー戦国の時より続く城下町」大友宗麟の築城 大友宗麟の築城により幕を開け、稲葉氏によって広がり、発展した城下町臼杵。情緒あふ れる町並みは今も守り継がれています。理想郷を夢見た宗麟 キリシタンとして洗礼を受けた宗麟は、キリシタンの楽園を夢見た理想郷「ムジカ」(現: 宮崎県延岡市)の建国に着手します。ところが薩摩の島津氏と衝突し、この戦いに敗れ、衰 退の一途を辿っていきます。その後、島津軍の侵攻に対し、臼杵城に籠城する際、宗麟は キリシタンにかかわらず数千の領民を避難させ食糧を分け与えたといわれています。『天然の要塞』 宗麟が築城したのは四方を海に囲まれた丹生嶋でした。日本国内で初めて大砲を使用したのは宗麟といわれています。稲葉氏の統治 15代270年最後の臼杵藩主 廃藩置県のため、臼杵城は廃城となり、代々臼杵を統治してきた稲葉氏は東京に住むことに なりました。その15代藩主稲葉久通の長男・順通の里帰りの屋敷として建てられたのが「稲 葉家下屋敷」です。「異国との出会い 歴史とロマン」。「繁栄した国際都市臼杵宗の時代に臼杵は、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市として栄えました。この地図に、「Usugi(臼杵)」が読み取れます。当時、ヨーロッパにおいても臼杵が強く認識されていたことが伺えます。」「オランダ帆船「リーフデ号」漂着慶長5年(1600)春、臼杵市佐志生に漂着しました。佐志生の黒島にある記念公園には、乗組員であったウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンの像などがあります。」「悠久の時に思いをはせる 石仏の里国宝 臼杵石仏臼杵石仏は凝灰岩の岩壁に刻まれた磨崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれています。その数は60体にもおよび、4群に分かれています。表情豊かな御仏の姿は、みる者の心にやすらぎをあたえてくれます。」「国宝 臼杵石仏」。「臼杵大仏 [国宝]磨崖仏では全国で唯一指定されている国宝。切リ立った岩肌に刻まれている4群60余体からなり、平安時代後期から鎌倉時代にかけて刻まれたといわれ、その規模と数量、彫刻の質の高さにおいて、日本を代表する石仏群です。」「臼杵大仏」。特産品紹介コーナー「ふぐぐぐぐぐぐぐぐ うすき ふぐ割」「自然と伝統がはぐくむ郷土の食フグ、きらすまめし、カボス、黄飯」。臼杵絵巻(年表)。そして「現在地」。臼杵市観光交流プラザ前にあるトラフグと子どもの像「臼杵っ子と福呼ぶ一番魚(ふぐ)」。駐車場に戻ると右手正面に見えたのが「臼杵城」の「畳櫓」(右)と「大門櫓」(左)。「畳櫓」をズームして。「大門櫓」(右)と「時鐘櫓跡」(左)。「臼杵城」の入口に到着。「臼杵公園」碑。「史跡 臼杵城跡」碑と「古橋口(ふるはしぐち)」碑。手前の橋は現存する石橋の古橋。古橋口から白い土塀が続く。鐙坂を登って、右端典の畳(現存)の前を通って左に曲がり、中央奥の大門をくぐるとニの丸へ出るのであった。内堀に架かる石橋・古橋(ふるはし)を渡る。一対の石鳥居と木製の鳥居が前方に。「臼杵護国神社」の一の鳥居であろう。「臼杵護国神社境内地」碑。右手に「古橋門櫓跡」と「亭櫓跡(ていやぐら)」の櫓台があった。「大分県指定史跡 臼杵城跡」案内板。「臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎖(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に人ります。以後、明治維新まで白杵藩は稲葉氏によって支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシンポルとして、皆さんに親しまれています。」明治初期の臼杵城大手口。現在の臼杵市街地地図。幕末の臼杵城下絵図「臼杵城絵図 寛永13年~万治3年頃(1636-1660)」海上に浮かぶ「復元CG ありし日の臼杵城」。江戸の頃の臼杵城の再現図であると。臼杵城は、大友宗麟が臼杵湾に浮かぶ丹生島に築いた海城。当時は断崖絶壁の島で、四方を海に囲まれた珍しい城だったが、現在は埋め立てられて陸続きになっている。江戸時代には稲葉貞通の居城となり、明治維新まで稲葉氏15代が藩主を務めた。現在は臼杵公園として整備されており、石垣や空堀が残っている。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存しているのであった。 【https://www.reallocal.jp/20446】より坂の登り口に「鐙坂(あぶみざか)」と坂名を彫った石標があった。馬の鐙に似ていることから「鐙坂」と呼ばれたと。その正面の岩壁の城壁には横穴の如きものがあり、石垣で埋められていた。右手に「弓道場」、「卯寅稲荷神社」の案内板があった。「鎧坂」城壁に挟まれた狭い道が続く。坂の中程から傾斜はやや緩やかになる。高い城壁の上から鉄砲や矢を射かけられれば攻撃する側の被害は甚大であろう。坂は城壁に沿って屈曲して上る。角を曲がるとすぐに道は狭く急な上りとなった。そして道幅が広い緩やかな坂になり、正面に「畳櫓」が見えて来た。右側には狭間(さま)のある白壁が。石段の上に石鳥居が。坂を登りきると、左手に「中門櫓跡」 があった。「中門櫓跡」碑。「中門櫓跡」碑に近づいて。そして「畳櫓」。この「畳櫓」は正保年間(1644~1648年)頃に建てられたのが始まりで、1763年(宝暦13年)の大火で焼失、1764~1772年(明和年間)頃に再建されたと推測されているとのこと。この名の由来は、祇園社(現 八坂神社)から見た方角から付いたという説や中に畳が敷かれていたからという説があるが、はっきりしていない と。1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造。「畳櫓」前の石段を上がり左に折れると「大門櫓」へと続く。「臼杵城の石垣 ---井楼櫓台石垣(せいろうやぐらだいいしがき)」案内板。「正面に見える石垣は、臼杵城ニの丸西南端に築かれた、他の櫓に比べかなり規模が大きかった井楼櫓の櫓台石垣です。西面石垣の高さは約四メートル、東面石垣の高さは約一一メートルです。この石垣の西南隅は鞘石垣という、ニ重の角を持つものて、臼杵城ではここだけにみられる特徴です。この石垣の角に積まれた角石は、本丸の天守台石垣と同じように、大きさや積み方が不揃いで、第ニ十ニ代当主大友義統(宗麟の長男)が改易された後に入城した、福原直高か太田一吉の頃である、一五九〇年代に築造されたと考られます。ここは臼杵城下を一望できる絶好の位置なので、奥まった位置にある天守の代わりとして比較的早い時期に櫓が置かれたと思われます。」「井楼櫓西面石垣」の写真。「井楼櫓跡石垣」、こちらは帰路時に撮影。城下を一望できる重要な櫓で、城内でも最大規模のもの。この時の「井楼(せいろう)櫓跡石垣」の二重の角の写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.14
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本丸に入る、幅の狭い階段と橋・「廊下橋」が左に。有事の際には、「廊下橋」を落として敵の侵入を防ぐのだと。「廊下橋」を見上げる。本来、本丸に入るには二の丸を通って廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登らなくてはならなかった。有事の際には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐといわれ、堅固で実践的と評される佐伯城を象徴する施設である。幅の狭い階段を上る。「本丸跡」から下を見る。「本丸跡」碑。本丸跡石段を上がった場所にあった小さな「毛利神社」。毛利神社の社殿は太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたと。かつては土台に見合う大きさの社があったのだろうが、今は何故か再建されず失われ、社殿跡の中央附近に小さな岩と朱の鳥居そして石祠が祀られていた。寂しい限り。近づいて。石の社は、焼け残った石灯籠等を集めて積み上げたものであろうか。別の場所にも。「本丸跡」からの眺望。右方向。右奥の島は「大島」、中央の島の名は「八島」。同じアングルの眺望案内板。眺望案内板をズームして。「本丸外郭二層櫓台」。「映画 釣りバカ日誌19 ロケ地 佐伯市 城山」👈リンク 案内板。本丸・天守台跡への巨大な石階段。階段を見ても分かるとおり、後年の神社化に伴う参道で、城があった当時はこの階段は無く、こちら側は一面の高石垣で大型の2層櫓が睨みを利かしていたとのこと。独歩碑の道が整備され、こちらから上がってくる人が多くなり、その正面の石垣を壊して階段を造ったのだろう。天守は3層で最上階に高欄があり千鳥破風、唐破風などがあったとされる。石段途中から紅葉を見上げて。さらに。ここにも「独歩碑」があった。明治26年(1893年)、鶴谷学館に教師として招かれた国木田独歩は、後年、佐伯を舞台とした作品を残した。「春の鳥」「源おぢ」の舞台である城山山頂に、佐伯独歩会によってこの「独歩碑」が建立された と。廻り込んで「本丸」の高石垣を見る。「天守台跡」を振り返る。「豊後佐伯城址」碑。見事な石垣が至る所に残されていたのであった。再び佐伯市街を見る。帰路は比較的緩やかな坂道の「独歩碑の道」を利用して下る。そして登山ルートの分岐まで戻る。「しいの実」掲示板には俳句が色紙に書かれて掲示されていた。「城下町さいき散策マップ」。こちらは「大分県観光MAP」。「佐伯城三の丸櫓門」を表から。近づいて。更に。「三の丸跡」碑。「三の丸御殿」のジオラマをネットから。御殿が存在した。この御殿に関しては、古写真も残るのだと。しかも、明治期の解体ではなく、昭和45年(1970年)の解体だけに、非常に残念至極!!解体後に「佐伯文化会館」が昭和46年(1971年)に建ったが、これも50余年で近々解体と!! 【https://eiko-s.dreamlog.jp/archives/12313052.html】より山頂に建つ「佐伯城」を入れて。 【https://livedoor.blogimg.jp/syouanmaki/imgs/8/8/88a0f128.jpg】より「県指定有形文化財 佐伯城三ノ丸櫓門指定年月日 昭和五十一年三月三十日所在地 佐伯市鶴谷七九番地一この櫓門は、三大藩主毛利高尚の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永十四年(一六三七年)に藩庁の正門として創建された。佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。」再びズームして。「三ノ丸櫓門」に繋がる石垣を櫓門下から見る。そして「三ノ丸櫓門」を潜り、再び2020年10月31日をもって閉館した「佐伯文化会館」を見る。「佐伯文化会館」の外壁に描かれいている鶴のマーク。これは、JALの鶴丸マークではない。佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「佐伯鶴の丸」。「鶴は千年」というように長寿の象徴。両翼を丸く上に掲げた「鶴丸」が有名だが、二羽を向かい合わせたもの、頭を下に向けて飛ぶものなど様々な意匠がある。「三ノ丸櫓門」を石段を上がって振り返る。「佐伯市章」が建てられていた。佐伯市のイニシャル「S」の文字を図案化したもので、緑豊かな山々と清流、豊かな魚場の豊後水道のなかで、市民が連携し、今までの歴史・文化を大切にしながら未来へ向かっていくことを意味している のだと。市章の色は上段を緑(DIC―173番)、中段を橙(DIC―198番)、下段を青(DIC―179番)を基本とする。「DIC」👈リンク とはDIC株式会社が製造している特色インキのこと。DICカラーガイドという色見本帳があり、希望の印刷色を伝えるために「DIC○○番」という番号を指定するのだ。私も現役中に、この色見本帳で調達品の塗装色を指定したのであった。「野村先生像」。野村越三(1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身。「野村越三先生は1884年6月佐伯市山際(当時)に生れ、幼いときから秀才の誉れが髙くそのひとがらからは円満誠実で聖者の風格を備え、すべての人にしたわれるまれにみる立派な人であった。若くして佐伯小学校の教師となったがそのすぐれたひとがらは生徒の心をつよくとらえわずかのあいだに全校生徒の尊敬の中心となった。当時わが国の体育、スポーツは黎明期であり、当地方ではまだほとんど行われていなかったが、先生はいちはやくその重要性をみとめ心身鍛錬の手段としてこれを奨励した、かずすくない先覚者であった。指導にあたって先生はつねに生徒とともに行い、その先頭にたって実行したので、生徒におよぼす影響は非常に大きく、そのため体育スポーツ熱は全校にたかまり効果も目をみはるものがあったので、当時としてはきわめてめずらしい、優秀校として文部省から表彰された。1914年退職後は、餘暇をみて青年の指導に力をそそいだので、青年の体育スポーツの普及発達はいちじるしく、県下における先進地としてみとめられるにいたったのである。当地方における体育スポーツの今日の隆盛のもとは先生にあるといっても決して過言ではない。このような、先生のすばらしいひとがらと指導力とがみとめられ、1924年和歌山高商(現和歌山大学)の学生監として招へいされた。先生のすぐれたひとがらは、ここでもきわめて短期間に全学校の絶大の信頼をあつめ敬慕のまととなりその指導の将来性に大きな期待がかけられたのであったが1925年4月29日やまいのため逝去された。行年41才であった。1970年4月29日 教え子有志」三の丸「御下櫓」近くにあった「中根貞彦の歌碑」。「ふるさとの移ろう もうしふる里の かはらふも宇し はしき布る里」歌人は茂吉の弟子で三和銀行(現UFJ)の初代頭取、中根貞彦。そして「佐伯市歴史資料館」に、「続日本100名城スタンプ」をいただきに向かう。近づいて。「佐伯市歴史資料館」。「続日本100名城」の「佐伯城」のスタンプをいただきました。「認定証」。「佐伯城」の「御城印」。横にあった「毛利家御居間」を訪ねた。「佐伯市指定有形文化財 毛利家御居間」案内板。「毛利家御居間 佐伯市指定有形文化財佐伯城内であったこの場所は、江戸時代後期には佐伯藩の役所が置かれ、明治時代に入ると旧藩主毛利家の屋敷地となりました。毛利家御居間は、13代当主・毛利高範子爵の一家が、明治26年(1893 )から明治40年(1907)まで暮らした屋敷の一部で、発見された棟札から明治23年(1890)に建築されたと考えられています。建物は昭和初期から料亭として利用され、しばらくは明治時代の姿を留めていましたが、昭和50年(1975)に御居間と次の間のみを残して、建て替えられました。佐伯市は、歴史資料館を整備するにあたり、建物を保存・公開するため修理を行い、当初の姿に復原しました。修理は、建物の柱や梁などを残して一旦解体し、可能な限り古い部材を残しつつ、傷んだ部材は補強・交換して組み直すという方法で行いました。各部屋は、次の間( 6帖)・御居間( 8帖)・御化粧の間( 6帖)の順に配置されています。御化粧の間は、現代の改修によって失われていましたが、今回の修理で復原しました。この他、基礎工事の前に行った発掘調査で、建物の北西にのびる石列(地覆石)、風呂桶の土台と思われる半円形の叩き士及び便所跡のような丸い穴が見つかりました。古写真をみると同じ位置に小規模な建物が写っており、ここが風呂や便所であったことが推測されます。」「御居間」。奥に「次の間」。御居間8帖(床の間)。左外壁には県選択無形民俗文化財の「堅田踊り」👈リンク を舞う女性の姿が描かれ、周辺の城山の景観に溶け込んでいたのであったが・・・。最後に駐車場から「佐伯城」の「西の丸」、「二の丸」下の石垣を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.13
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「延岡城跡」を後にして「国道218号」を五ヶ瀬川に沿って東に進む。「延岡バイパス」に入り佐伯方面に向かって進む。「国道10号」をJR日豊線に沿って北に進む。国道10号に沿って流れる「鎧川」に沿って進む。「番匠川」に架かる国道10号・「番匠大橋」を渡る。佩楯山(はいだてさん、標高754m)南麓の三国峠(標高664m)に発し東流。旧本匠村では小半(おながら)鍾乳洞を経て佐伯市市街地の南から佐伯湾に注ぐ「番匠川」。「国道217号」に入り東に進むと前方に「東九州自動車道」の高架が現れた。そして閉館している「佐伯文化会館」横の駐車場に到着し車を駐め、「佐伯城跡」の散策を開始する。大分県佐伯市大手町1丁目1−1。駐車場横にあった「村上勇先生」像。大正7年早稲田工手学校卒。土木建設業にはいり、飛島組重役を経て地元に大和土建を設立。昭和21年衆議院議員(当選14回、自民党)。大野伴睦の派閥に属し、第3次鳩山内閣の郵政相、第2次岸内閣の建設相、三木内閣の郵政相をつとめた。日本遺族会会長として靖国法案づくりを推進した人物 と。「碑文村上勇先生は、明治三十五年四月佐伯市に生まれ 苦学力行ののち建設業に従事されたが第ニ次世界大戦終戦を転記に 戦後日本の復興は政党政治にありと決然として政治家を志し昭和ニ十一年四月の戦後第一回の総選挙に初当選 衆議院議員として以来三十七年の長きにわたり名聞利達を求めることなく一意専心 国家と郷土のために一身を捧げられた。この間 鳩山内間の郵政大臣 岸内閣では安保前夜の国会対策委員長 引き続き建設大臣 三木内閣で再度郵政大臣等 政府与党の要職を歴任して 日本の治山治水の礎を築き 通信 情報の発達等に才幹を振るわれた その功績まことに顕著にして 勲一等旭日大綬章の栄誉に輝いたのである先生は 時流を洞察して遠く慮り 問題の真相を見極めて深く謀り 新しい日本建設の道を拓かれたまた 激動する世界に平和と繁栄を求め 内政の充実に政局安定の必要性を痛感して 保守合同の実務を担当し その責を全うされた三十七年にわたる先生の政治生活は 一億国民の繁栄と郷土の発展を願う至純の精神によって貫かれた 荒らぶる世になお理想を求め 信義を重んじ馥郁(ふくいん)とした友情を育んてきた先生の人生はまことに清冽であり 芳淳であった茲に郷土の生んだ偉大な政治家 村上 勇先生の偉徳と無窮の生命を永遠に擁護顕彰するために有志相諮り 生誕の地に銅像を建立して郷土の後進の亀鑑となすものである」「矢野龍渓顕彰碑」。「萬里之洋 千仭之岳 天地秀霊 其俗淳厚」この碑文の詩は、明治四十五年龍渓が佐伯中学校(佐伯鶴城高校)開校記念のために帰郷した際、城山より佐伯湾を望み、尺間山・彦岳を仰いで、ふるさとの風土のすばらしさをたたえた漢詩である と。「龍渓矢野文雄について(1850年~1931年)嘉永3年山手区に生まれる。佐伯藩校四教堂に学び、常に成績抜群であった。上京して慶応義塾に入学、福澤諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。郵便報知新聞を主宰し、藤田茂吉(佐伯市出身)箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞 東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。鶴谷中学への国木田独歩招聘は龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。」「種田山頭火句碑母ようどんそなへてわたくしもいただきます」句意は次のようであると。「お母さんが亡くなって、もう四十七回忌となりました。わたしも五十七歳になりましたよ。流転の旅にいつもついてきてくれてありがとうございます。今日はお供えするお米がないので白いご飯が炊けないので、うどんを茹でました。わたしも一緒にいただきます。」と。「種田山頭火句碑工藤好美歌碑放浪の俳人山頭火は親友工藤好美の故郷佐伯を生涯でニ度訪れている。それはいずれも好美の妹千代の菩提を弔う旅であった。山頭火の佐伯訪問についてはこれまで謎とされてきたが、平成ニ十一年古川敬氏が著した「山頭火の恋」によっての全貌が明らかとなった山頭火の人生は東京で大正九年から好美、千代と過ごした時期が最も穏やかであったと言われている。その小春日和の如き日々は千代の死で終止符を打たれるが、山頭火と工藤好美との友情は千代の死を経てより深いものとなった。それは、山頭火の母への思い、好美の妹千代への思いを投影した絆ともいえる。ここに、山頭火の句と工藤好美の歌を石に刻みその心情を後世に伝える。母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火いま一度 この世に生きよと 同じ名を おのが娘に つけにけるかも 工藤好美」「工藤好美」と妹「工藤千代」そして「種田山頭火」の写真。見事な銀杏の黄葉。「公衆お手洗い」。「公衆お手洗い 御下櫓」と。「城下町佐伯の昔と今」案内板。「城山登山道案内図」。「佐伯城は、慶長6年(1601)日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が新たな居城の建設を考え、番匠川沿いの水上交通に便利で、守り易く攻め難い地形を良しとした周囲約3km、高さ約140mの八幡山に4年の歳月をかけて築いた山城。山頂城郭は本丸を中心に、西南にニ丸・西出丸、東北に北出丸と、鶴が翼を広げた姿を連想させ「鶴屋城」とも呼ばれた。今も残る石垣は、当時の威容を偲ぶことが出来る。」「本丸」までの登山ルートは4ルートあると。●独歩碑の道 緩やかで登りやすい、散策に適したコース。 山頂付近には、捨曲輪(すてぐるわ)の一つが見られる●翠明の道 かなリの急勾配で階段の段差もあるため、足元に十分気を付け休憩しながら散策を。 尾根の上には、藩主の涼み場と伝わる翠明台の跡がある。●登城の道 藩政時代よリ続く、当時に実際使用されたままの勾配のあるコース。 中腹からは昔ながらの景観を見られる。●若宮の道 若宮八幡宮へと続く雄池・雌池のある裏手のコース。 雄池への道は非常に細いため、注意して通行を。 山頂までの所要時間は各コースおおむね20 ~ 30分程度落ち葉等で滑りやすい箇所もあるため、 運動靴・動きやすい服装での登山を推奨します。毛利神社の石鳥居を潜って坂道を進む。山頂にあった毛利神社の社殿は、太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたが、この鳥居のみが現存する と。まだこの場所は紅葉が始まったばかりであった。今年の紅葉のプロローグを楽しみながら進む。緑と赤のコラボは陽光に輝いていた。「史跡 豊後佐伯城址城山山頂の城址は海抜一四〇メートル、遠く近く南豊の山々をめぐらし、番匠川は曲がりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口五万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて十五分で登れる景勝の地である。慶長六年(1601)四月、日田より入封の初代毛利高政は、この地を相して佐伯荘二万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設にかかった。三層の天守閣をもつ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南にのばし、北の丸を東北にひろげ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。城は四年後の慶長十一年に完成したが、程よく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえておこなわず、寛永十四年(1637)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。それは山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆ど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている慶長六年 (一六〇一) 毛利高政日田より佐伯荘に入封する慶長七年 (一六〇ニ) 近江の人市田祐定に命じて築城を始める慶長十一年(一六〇六) 築城完工 鶴屋城と呼ぶ 元和元年 (一六一五) 高政 大阪夏の陣に参加する元和三年 (一六一七) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失寛永十四年(一六三七) 山ろくに三の丸をつくり藩政を執る宝永四年 (一七〇七) 地震津波のため四ハ六戸倒壊する享保十四年(一七ニ七) 鶴屋城修復する。但し天守閣を設けず安永六年 (一七七七) 八代藩主高標藩校「四教堂」をつくる天明元年 (一七八一) 高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつく文化九年 (一八一ニ) 直川ほか七ヶ村の農民が一揆を起こす明治ニ年 (一八六九) 十二代藩主高謙 版籍を奉還する明治四年 (一八七一) 廃藩置県 七月佐伯県のち大分県となる」「城山還原之碑」。「「城山還原之碑」は三の丸上の段、城山登山口にあった。以前は三の丸広庭の一隅に建っていたが、昭和四十五年十一月、佐伯文化会館着工のため現在地に移された。石碑は御影石、台座は凝灰石で総高四メートル余り、壮大且つ重厚な構えである。書家としての誉れ高かった故子爵毛利高範の雄渾な楷書が刻みこまれている。「慶長六年、我祖養賢公就封、相収於佐伯之邑、築城於鶴谷山 山抜海約百八十尺、 広褒凡肆拾陸町、(四十六町)周囲壱里強、前臨市街、云々・・・・・・・」城山は佐伯藩毛利氏の居城であったが、明治ニ年版籍奉選によって国有林となり、同三十五年ニ月、特売の許可を得て再び毛利家の所有となった。そのことを永く伝えるため、同四十四年九月、この記念碑を建立した」 とのこと。正面に、「← 翠明の道 登り口」。往路は正面の「登城の道」で登ることを決断。「国木田独歩の文学碑」。昭和五十年ニ月、佐伯ロータリークラブが創立十五周年を記念して建てたもの。独歩の「豊後の国佐伯」から選んだ一文、かの有名な「城山の賦」ともいうべき絶唱である。書は臼井龍峯。『佐伯の春先づ城山に来り 夏先づ城山に来り 秋又た早く城山に来り 冬はうそ寒き風の音を 先づ城山の林にきく也 城山寂たる時佐伯寂たり 城山鳴る時佐伯鳴る 佐伯は城山のものなればなり』この後に下山して、駐車場に向かう際に見つけた佐伯市の汚水マンホール蓋。佐伯城の三の丸櫓門 と明治26年に教師として、佐伯市に赴任した文豪国木田独歩の短編小説「春の鳥」の一部の「佐伯の春先づ城山に来り 独歩」の文字が入っている。 右下の花は、旧市の花・サザンカ(現在はヤマザクラ)。根っこが顕になった急な坂道、いわゆる「木の根坂」を登って行った。正面に石垣が現れた。崩れた石垣の上を進む。そして「西の丸跡」手前からの佐伯の絶景眺望。ズームして佐伯の市街地を望む。この辺りは紅葉も進んでいた。「西の丸」への石段を上る。「豊後佐伯城(さいきじょう) 鳥瞰図」をネットから。「さえき」と読むのは誤りであると。左から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」そして「北の丸」。別名を、鶴屋城、鶴城、鶴谷城と。 【https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12414900185.html】より「西の丸」に到着すると「西の丸跡」碑がった。西の丸跡から「番匠川」を望む。手前の川は「中江川」。中央に「佐伯大橋」左手に「新佐伯大橋」と青の大きな「水管橋」が見えた。同じアングルの案内板。ズームして。「城山(八幡山)144M」と。かつては八幡山と呼ばれていたが、江戸時代初期に山頂に佐伯城が築かれたために城山と呼ばれるようになった。築城に際しては、山頂を平坦に削って本丸、本丸外曲輪、二の丸、西出丸、北出丸が設けられ、山麓には三の丸が設けられた。また、城の裏手にあたる西側斜面には水源池として雄池(おんいけ)・雌池(めんいけ)が築かれた。築城から間もない1617年(元和3年)に佐伯城の天守閣等が焼失。その後、山麓の三の丸を増築して居館が移され、周囲に武家屋敷や町人町が形成された。佐伯城の建築物で現存するのは三の丸櫓門のみで、山頂部には礎石や石畳が一部に残るのみである。「西出丸二重櫓跡」。西出丸の南端部。二重櫓が置かれていた と。「西の丸跡」から「二の丸跡」に向かう。「二の丸 虎口」。虎ロとは城部における出入りロのことで、ニの丸では敵の侵入を阻むために通路を屈曲させ、幅を狭めてている。当時は渡櫓と門があり、現在も門の礎石をみることができた。見事に石垣が残っていた。そして「二の丸跡」へ到着。「二の丸跡」からの展望。同じアングルの展望案内板。展望案内板をズームして。「番匠川」、「稲垣橋」と奥の一番高い山が「米花山(べいかざん)」、手前右側が「左間岳(さまがたけ)」。さらに。「二の丸跡」碑。「独歩文学碑」があった。裏面。「佐伯 国木田独歩文豪国木田独歩は、矢野龍渓、徳富蘇峰の推挙で毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館の教師として赴任した。佐伯在任はわずか1年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、広く天下に紹介した作家は他にない。源をぢ、春の鳥、鹿狩、小春、忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざる記などの名作は湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生まれた独歩独特の文学作品である。傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発祥の記念とする」「設計主旨私にとって、作家独歩は、「自然」への求道者と銘している。求道の意は、自然への愛着や没入が、自己表現に於て、自然への憎悪や拒否と相克し限りなく矛盾的自己同一的に昇華した、この作家の生きざまを看る故である。その故に作家独歩のイメージが、形態として焦点を結像するのは、楕円 ― 決して一つではなく、二つの点を結んで軌跡の合理する楕円形である。私は、その終焉の日まで、懈む(ひるむ)ことなく続けられたあの相克を ― 独歩の世界の全てを、その軌跡の中に封じこんでいると考える。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.12
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「ニ階櫓門」の礎石の位置が分かるのであった。本物の礎石は四角いコンクリート板の下にあり見えないようになっていた。右端の石垣は補修して、切り込みハギになっていた。ここ延岡城の本丸跡に立てられている銅像と石碑を桜の木越しに。「内藤政擧(まさたか)」像。現在の銅像は3代目で1985年の建立。内藤政擧は日向国延岡藩の第8代・最後の藩主。廃藩置県後は教育や産業に功績を残したとのこと。台座の下部の周囲の柱は銃砲の如き形状で。「内藤政擧公」の銘板。内藤政挙は遠江掛川藩主太田資始の六男として生まれ、後に延岡藩の第7代藩主内藤政義の養子となり、家督を継いで最後の延岡藩藩主となる。明治維新後、延岡藩知事になるが廃藩置県で藩知事を免官されたが、後に旧領の復興と教育振興のため多くの貢献をした。城山本丸広場に記念の銅像が建てられたのも、そう言った多くの功績からであろう。勲章がついた洋装姿で、頭に洋服の帽子をかぶり、手にはサーベルを握っている立像。その右側に「殉國慰霊塔」。戦前の延岡市は、日本窒素化学工業株式会社(現・旭化成株式会社)があり、宮崎県下で唯一の総合化学工業地帯として発展を遂げていた。しかし戦争突入後は、旭化成も人絹設備(人造絹糸・レーヨン)は強制供出にあい、火薬部門および硝酸部門は海軍の管理工場として活用され、軍用火薬の製造に重点がおかれた。戦火がいよいよ激烈となり、本土決戦の様相が深刻となってきた昭和20(1945)年6月29日、「延岡大空襲」を受け、即死者130人、戦災面積2.18平方km、被災戸数3,765戸、被災者15,232人という大惨事となった。「延岡大空襲」を語り継ぐ為に戦後、遺族会などを中心に、慰霊塔の建立を望む声が高まり、「殉国慰霊塔建設委員会」が組織された。そして、昭和33(1958)年10月、延岡城本丸広場に「殉国慰霊塔」が建立されたのだと。本丸跡の「天守台」への坂道の手前にあった小さな和風庭園そして石灯籠。「天守台」への坂道を上って行った。前方が開けて来た。「天守台跡」柱。「内藤家文書の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」によると、「天守台」とあるが天守閣はみられない。これは、天守閣がない南九州の近世城郭の特色にもなっている。また、明治初年頃の絵図には鐘つき堂の前身となる太鼓櫓があったとされるが、同十年の西南の役で焼失した。」「天守台」案内板。「ここは有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)では、「天主台」と記されていますが、天守閣は描かれていません。しかし、慶長年間の「日向国絵図」(臼杵市教育委員会所蔵)には、望楼型の三重天守が描かれています。このことから天守閣が存在したという可能性も否定できませんが、平成6・7年( 1994・1995年)に発掘調査を行った結果では、天守閣の存在を示す資料は得られませんでした。明治初年頃の絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓があったとされますが、同10年( 1877年)に西南の役で焼失。翌11年(1878年)、有馬氏時代に今山八幡宮に寄進された梵鐘が天守台に移設され、以後、現在も鐘守の手によって時を告げる鐘の音が鳴り続けています。なお、現在の鐘は二代目にあたり、昭和38年(1963年)の市制施行30周年念事業で鋳造・設置されたものです。初代の鐘は、教育委員会に保存されています。」現在地。「鐘楼」。「梵鐘」👈リンク。「鐘守の歴史」城山の鐘は1878(明治11)年から戦争で中断する1943(昭和18)年ごろまでは、毎日24時間、1時間ごとに鐘守が鐘を突いて時を知らせてきた。日向市東郷町坪谷生まれの歌人若山牧水も旧制・延岡小学校に学び、この鐘に親しんできたことから、「なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」「ふるさとに 帰り来りて まず聞くは かの城山の 時告ぐる鐘」の2首を残した。初代・鐘守は、旧藩主・内藤政擧(ないとう・まさたか)公の計らいで、稲田藤三郎さんがその任につき、以来、1996(平成8)年8月まで、稲田家が5代にわたって鐘を突き続けた。現在は市の委嘱を受けた鐘守が毎日、午前6時から午後5時までの1日6回、鐘を突いて市民に時を知らせている。日高夫妻は同市北浦町出身で、2年前に鐘守に就任した。「郷土が生んだ歌人若山牧水の歌と共に全国に知られている城山の鐘は延岡地方に於ける最古の有銘鐘でその銘文に奉寄進華鯨蓬莱山八幡宮明暦二年丙申六月吉日日州延岡城主有馬左衛門佐従五位藤原朝臣康純とあり地名延岡に関するもっとも古い金石文であり当市の重要文化財である。西南の役に薩軍の挑發の難をまぬがれ明治十一年時鐘としてこの延岡城址の城山の園に移されてより春風秋雨星霜うつり変る郷土の姿を見守りながら時を報じつづけてきた。なつかしき城山の鐘 鳴り出でぬ 幼かりし日 聞きし如くにいみじくも詠んだ牧水の歌のように城山の鐘はいつの時代にも延岡市民の心のふるさとであったこの城山の鐘もようやく損傷の度がふかくなったので三百余年にわたるその労をねぎらい永久保存の道を講ずるための新鐘の鋳造を企画し會を結成して廣くよびかけたところ欣然として浄財が集まりこゝに第二代の城山の鐘が誕生した。母鐘のなつかしい響きを受けつぎ発展をつゞける郷土の空に永くその余韻を伝えることを祈るものである。」「お願い!鐘撞堂まで登って来ていただきましてありがとうございます。城山の鐘は、1 8 7 8年から「時を告げる鐘」として市民に親しまれております。定時( 6時、8時、1 0時、1 2時、1 5時、1 7時)以外の鐘は市民に混乱を与えますので来園者の皆様には鐘を撞かないようお願いいたします。」「延岡城」碑。(株)NTT西日本ー九州 宮崎事業部延岡営業所越しに「五ヶ瀬川」、「大瀬川」そして安賀多橋(あがたはし)、日向灘方面を見る。「旭化成」延岡のベンベルグ工場煙突と手前に「大瀬川」。その右に「愛宕山(あたごやま、標高251.2m)」の姿そしてその奥に「遠見山」の姿が。「行幸記念碑」。「行幸記念碑、昭和11年11月15日 延岡市長」と昭和10年(1935)に天皇陛下を城山にお迎えしたと。城山から全市を展望され、旭化成のベンベルグ工場をご視察になられた と。「天守台」の広場の「鐘楼」を振り返りながら。「鐘楼」の左側の家は、鐘を突く方が住んでいらっしゃるようであった。「天守台」を後にして「二の丸」への坂道を下る。「三階櫓跡地」には「後藤勇吉之碑」が立っていた。「後藤勇吉之碑」。「空の先駆者 後藤勇吉の碑」。1934(昭和9)年建立。太平洋に輝く太陽と、勇吉が果たすことのできなかった太平洋横断無着陸飛行の姿を彫刻したレリーフがはめ込まれているのだと。「後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士として修練を重ねた。大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県◯◯(岳)上空で墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。 延岡観光協会」とネットから。「後藤勇吉之碑」の手前右側にあったのが「三階櫓跡地」碑。「三階櫓(やぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての櫓があり、南北下階六間(10.8 m)東西五間の大きさで高さ七間(約14 m)であった。 昭和59年3月20日建立」とその奥に見えたのが「延岡市役所」。「三階櫓跡」案内板。「三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の1階部分は、東西5間(約10 m )、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m )ありました。明暦元年(1655年)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年( 1683年) (一説に天和2年( 1682年) )に武家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が当時の姿のま残っています。」「三階櫓模型と櫓台のCG」。ネットより「三階櫓復元CG」を。 【https://ameblo.jp/idryou/entry-12574886218.html】より崖の上に立つ「鐘楼」を見上げる。「吹上坂」案内板。「吹上坂は、三の丸から本丸へと続くつづら折れの道路で、有馬氏時代に描かれた「有馬家中延岡城下屋敷付図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。以降、三浦氏、牧野氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと考えられ、一定の大きさに揃えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。吹上坂の石垣は、城内の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと考えられます。」「吹上坂」と「三階櫓跡」を振り返る。正面に「三階櫓跡」を見る。「三の丸跡」案内柱。「明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての櫓があり、南北下階六間(10.8m)東西五間の大きさで高さ七間(約14m)であった。 昭和59年3月20日建立」と「三の丸跡」には和風庭園が。「牧水歌碑」。「なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」。「牧水歌碑」案内柱。「若山牧水(本名 繁)は、明治十八年八月ニ十四日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷に生まれました。尋常小学校を終えると、延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校(現・県立延岡高等学校)を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。延岡の八年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、歌人としての素養を培いました。そして、若山繁が雅号を「牧水」とした町が延岡です。この歌は昭和ニ年七月二十四日、台雲寺(北小路)で詠んだもので、昭和十年春、全国三番目の牧水歌碑として建てられました。毎年、三月に歌碑まつりが行われます。」右隣に立つ古くから門下だった谷自路(次郎)の歌碑「石の面に 樹々に冬日の 照り沁みて 凪ぎはてし庭に 山茶花の散る」昭和27年(1952年)3月17日、建立。左隣に立つ古くから門下だった越智渓水(通規)の歌碑。「家にゐて ものおもふことの 愚かさよ やまに来たれば 良き日なりけり」昭和43年(1968年)7月21日、建立。そして最後に再び「千人殺しの石垣」を見上げる。延岡市の汚水マンホール蓋。市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。 のぼり猿は、延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、 ハナショウブを描いた幟が風を受けると張り子の猿が上り下りする仕組みで、5月の節句に子どもの健やかな成長と五穀豊穣を願って、 鯉のぼりと一緒に庭先に立てるそうです。「汚水」の表記も。そして駐車場に戻り、次の目的地の「佐伯城」に向かって出発したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.11
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「延岡城址」下の「北城山街区公園」駐車場に車を駐め、「延岡城址」の散策を開始する。入口にあった「延岡城(城山公園)案内図」。「延岡城(城山公園)案内図延岡城の概要延岡城は宮崎県を代表する近世城郭で、高橋元種により、慶長6年(1601年)から慶長8年(1603年)にかけて築城されました。天然の要害を利用し、本市の中心部を流れる五ヶ瀬川、大瀬川を南北の外堀とし、その中洲に所在する標高約53メートルの独立丘陵に本城を築いています。本城(城山公園)は、本丸、ニノ丸、三ノ丸の三区画で構成され、本丸とニノ丸の間に築かれた石垣は高さ約19メートルを誇り、通称「千人殺し」と呼ばれています。「千人殺し」とはその規模、構造から石垣の隅石を外すことで、千人の敵を倒すことができるとの伝承からこの名称がつけられたと言われています。延岡城は、(公財)日本城郭協会により、平成29年( 2017年) 4月6日に続日本100名城に認定されました。」「延岡城配置図」。パンフレットより「城山公園のご案内」。「ニノ丸広場ニノ丸広場(約5000m2)は本城最大の平場。四季を通じて様々な行事が行われます。城内の主な行事・牧水歌碑祭 3月・夜桜電飾(花見) 3月中旬~ 4月上旬・仲田又次郎翁顕彰会 4月・時の記念日 6月10日・のべおか天下一薪能 10月・城山かぐらまつり 11月・除夜の鐘大晦日」「市指定史跡 延岡城内堀跡」案内柱。「平成10年3月30日指定 平成23年3月25日建立」と。正面に「北大手門」が姿を現した。手前左側に様々な形の刻印が確認できた「北大手門東側石垣」が。右手に「内藤家墓地」の入口門。正面から。「内藤家墓碑及び供養塔ここは、旧藩主内藤家の墓所です。以前は三福寺にありまし、五ケ瀬川の河川改修に伴い、明治四十二年九月にこの地に移されました。内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々徳川家に仕えた三河以来の譜代で、元和八(一六二ニ)年、四代政長が盤城平藩(福島県いわき市)七万石の領主となり、延享四(一七四七)年、九代政樹のときに日向国延岡藩に転封となりました。墓所内には藩主の墓碑五基、一族の墓碑十九基、供養塔二十一基があります。藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった四代政長、六代義泰、八代義稠と延岡藩の十一代政修、十二代政韶のもので、十四代政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。墓碑の形式は、宝篋印塔七基、五輪塔五基、笠塔婆十一基、角碑一基となっています。このうち宝篋印塔は「神奈川県鎌倉市・光明寺の内藤家(昭和三十七年文化財指定)」👈リンクにも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。」「北大手門東側石垣」の石には様々な印が刻まれていた。「北大手門東側石垣本城の玄関口である大手門の東面石垣は、大小不揃いの割石を用い、横目地が通らない「乱積み」で積まれています。出角は、長辺と短辺が交互になるよう積み上げ、角石と角脇石からなる「算木積み」で積まれており、上部は緩やかな反りを持っています。また、この石面には、400個以上の「刻印」が残っています。これらは有馬家が携わった、元和6年(1620)から寛永5年(1628)の徳川大坂城天下普請の有馬家普請丁場周辺でみられる刻印に類似点が多く、大坂城築城に関わった技術者が延岡城の北大手門周辺石垣の構築を行った可能性が考えられます。この時期は有馬家が延岡城の大改修を行ったとされる時期(承応2年(1653)から明暦元年(1655) )よりも古く、有馬家が延岡へ入封したすぐ後に、北大手門周辺を改修したことが想像されます。」この石面には、400個以上の「刻印」が残っているのだと。そして正面に「北大手門」。「北大手門」案内板。「北大手門北大手門は、延岡城本城に入る登城ロの1つで、城の表門にあたります。北大手門の周辺は、石垣だけが残る状態でしたが、昭和63年(1988年)に、都市景観形成モデル都市に指定されたことを受け公園整備がスタートし、北大手門の復元整備を行うため、平成4年(1992年)に発掘調査を行いました。調査の結果、多くの絵図に描かれているとおり、門礎石を置く根固め基礎や、番所跡が確認されました。また、絵図にはありませんが平瓦を敷いた排水溝が確認されました。北大手門は、発掘調査で確認された門礎石を置く根固め基礎から四脚門と判断しました。門の袖塀は、東側の石垣に残るホゾ穴や、屋根型の彫り込みが確認されたことから位置を決めています。また、文化13年(1816年)の「日向国延岡御本城要害絵図」、明治維新前後(1868年前後)の「延岡藩士族屋敷図」等の絵図も参考に復元しています。北大手門を挟み南北に走る排水溝や、本城内へ上る階段も発掘調査を基に同じ位置に復元しています。」「断面図事業年度 平成4年度 事業費 1億6千万円(北大手門、石段等)建築面積 30.01m2門幅 5.4m門高 7.2m材質 ヒノキ(一部スギ)基礎 自然石」ズームして。手前に「延岡城 続日本100名城 平成29年4月6日」碑。「北大手門」を潜り石段下から振り返る。「ニノ丸広場」の北側から「内藤家墓所」を見下ろす。左手に藩主の墓碑が並んでいた。「延享4年(1747)、に内藤政樹(ないとうまさき)が陸奥磐城国平(福島県いわき市)から7万石で入封した。明治維新に至るまでの123年間、延岡藩は内藤氏の時代となる。その後、明治2 年(1869)に版籍奉還が行われ、内藤政挙(ないとうまさたか)が延岡藩知事に任命された。明治4年 (1871) に廃藩置県が実施された後、明治維新後も内藤氏の時代は続き、内藤政挙(まさたか)が延岡藩知事に任命。延岡藩 は延岡県、宮崎県を経て鹿児島県に含まれた時期に、 明治11年(1877)の西南戦争を迎えた。延岡の旧藩士たちは「延岡隊」として西郷隆盛率いる薩摩軍に加わわった。 薩摩軍が熊本城の攻略に失敗して敗退すると、延岡も陥落。海から新政府軍の艦艇が延岡城付近に艦砲射撃を浴びせたが、すでに新政府軍が延岡を占領した後であり、新政府軍は艦砲射撃をやめさせるため、延岡城の太鼓櫓を焼いて戦い終了の 合図とした 。内藤氏はその後も延岡の発展のために貢献したが、昭和9年(1934)、内藤政道(まさみち)が城山を公園用地として延岡市に寄付。内藤氏の時代が幕を閉じた。」 と。 「延岡藩」7万石 内藤家 歴代藩主。手前から延岡藩藩主・十代政修、延岡藩内藤家宗家初代政長、延岡藩内藤家宗家3代義概(義泰)、そして義概(義泰)後室の宝篋印塔墓。入口門そして宝篋印塔を見る。ズームして。平成15年に東京天徳寺に移設された「位牌堂」の場所が中央に。延岡藩内藤家宗家5代内藤義稠(よししげ)の宝篋印塔墓。そして「延岡市 城山公園管理事務所」に向かう。「城山公園(延岡城)」案内板。館内の「続日本100名城」のスタンプ置き場を確認。「続日本100名城」のスタンプをいただく。「延岡城」の「御城印」。そして「延岡城跡 千人殺しの石垣」を見る。正面の石垣の上部は本丸になる。この石垣を、通称、「千人殺し」と明治時代から呼ぶと。「千人殺しの石垣」案内板。「この石垣は、一番下の根石を外すと石垣全体が一度に崩れ、「千人の敵兵を殲滅する」と言われ、通称「千人殺しの石垣」と呼ばれています。石垣は法長約22m、高さ約19mあり、熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ九州屈指の規模を誇り、宮崎県唯一の高石垣です。石垣の積み方は、自然の石をそのまま使用する「野面積み」を主体とし、隅角部は細長い直方体の石を長辺・短辺が互い違いになるよう積み上げ強度を高める「算木積み」、石垣上部は、当時の最先端技術である石垣に勾配をつける「反り」の技法が用いられています。石垣に用いられている築石には、矢穴や刻印がありますので、じっくりと観察してください。隅角部にあるコンクリートは、昭和10年の昭和天皇行幸の際に補強されたものです。」「現在地」は「千人殺しの石垣」の下。「千人殺しこの石垣は千人殺しと呼ばれ、攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。」「延岡城跡 石垣マップ」。「市指定史跡 延岡城跡」案内板。「延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長六~八(一六〇一~一六〇三)年にかけて築かれました。元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ケ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、ニつの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、ニノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)のニ郭で構成され、門・櫓などが整備されました。なかでも、二の丸にそびえる高さ約十九メートル、総延長約七十メートルの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。慶長十八(一六一三)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が五万三千石で入封しました。康純の時、承応元年~明暦元年(一六五ニ~一六五五)には城の大修築が行われ、三階櫓、ニ階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。しかし、永純の時の天和ニ(一六八ニ・天和三年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後三階櫓は再建されませんでした。元禄四(一六九一)年、永純は無城地の越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)に転封となり、さらに越前国丸岡(福井県坂井市)に移封されました。その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県壬生町)からニ万三千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。明敬は、正徳ニ(一七一ニ)年、三河国刈谷(愛知県刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国吉田(愛知県豊橋市)から八万石で入封。延享四(一七四七)年には、陸奥国磐城平(福島県いわき市)から内藤政樹が七万石で入封し、明治四(一八七一)年の廃藩置県まで八代続きました。」「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」。「延岡城の歴代藩主」。高橋元種が1601年(慶長6年)に築城を始め、1603年(慶長8年)に落成した。その後、明暦期の有馬氏による改築を経て、明治維新までの江戸期をつうじて、縣藩(三浦明敬支配期以降は延岡藩)の政庁となった。しかし、高橋元種は1613年に罪人を匿ったとして改易され、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏支配で幕末を迎えた。明暦1年(1655年)の有馬康純修築時に建設された天守代用の三階櫓は、1683年に焼失して以後再建されなかった。1870年(明治3年旧暦10月)に薬園として活用することを新政府へ出願して聴許され、廃城となった。西ノ丸は内藤氏の私有地となるが、1881年(明治14年)に延岡市へ寄贈され、「内藤記念館」として利用されたが太平洋戦争時の1945年(昭和20年)の空襲によって焼失した。「城山ヤブツバキ群についてここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。花は毎年十二月から三月にかけて咲きます。ヤブツバキといえば、紅色の花が普通ですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑入り、絞りあるいは覆輪などの複色の花もたくさん見られます。花の大きさも形もいろいろで又、一本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもありなおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。どの樹もれぞれ異った特徴をもち同じものがみられないことから、この『城山ヤブツバキ群』は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な変異をみるつけて今後も新しい変異の発現が期待されます。この『城山ヤブツバキ群』のように、せまい範囲に集中して多彩な変異が発現している側は、他に島根県松江城の椿谷と千葉県大原町伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の一つとして、『城山ヤブツバキ群』は、全国に誇り得る貴重な存在であります。」ヤブツバキの花。「井戸跡」案内柱。城内に掘られた数カ所の井戸のうちの一つである。 井戸水は城を築く条件として重要なもので籠城(ろうじょう、城に立てこもること)時の備えとしても大切なものである。 延岡史談会」と。案内柱の側面には「内藤家文書の「日向国延岡御本城御要害絵図」によると、ここに二ヶ所の井戸が描かれており、発掘調査によって絵図資料と合致して確認された。ここは、元来丘陵の谷筋にあたることから北大手門階段方向に延びる暗渠(排水路)も確認されており、井戸を確保しつつ地盤強化を図るなど、当時の技術水準の高さが窺える。」二ヶ所の井戸。「城山児童遊園地」碑。「千人殺しの石垣」を見上げながら進む。ズームして。外側に膨らんでいる場所もあった。「千人殺しの石垣」とその下の石段・「長坂」を腰を曲げながら上って行く旅友の姿。二の丸から標高30mの長坂門までの10mの高度差を一気に駆け上がる坂。傾斜角10度、距離約55mの延岡城西町の坂。上った先が、「二階門櫓跡の枡形」を通って「本丸跡」に至るのであった。上って来た石段を振り返る。「千人殺しの石垣」の高さは22m。登り切ったところに(長坂)門があり、本丸を守る重要な門だったそうだ。石段の先に「二階門(櫓門)跡の枡形」。「二階門(櫓門)跡二階門(櫓門)は、千人發し石垣西側の長坂門から本丸までの経路を護る「内枡形門」で、ニ階部分が櫓、下部が開閉式の門になっていました。門の大きさは、南北3間(約6m)、東西8間半(約17m )あり、城内では三階櫓に次ぐ規模の建物でした。突入して来る敵兵をここで迎え討つために設けられ、背後の本丸を守護する堅固な防御施設でした。1998年(平成10年)に発掘調査を行った結果、櫓門の柱を載せる根石跡が検出されました。現在、園路面にある四角い石は、その根石跡の場所になります。」「現在地」はここ。「二階門(櫓門)跡」「二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家絵図(元禄時代)によると、この位置に二階建の門櫓(もんやぐら)があり、大扉(とびら)を開いて本丸へ入城した。 昭和59年3月20日建立」と。廻り込んで、根石跡を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.10
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「大御神社(おおみじんじゃ)」を後にして、近くの海蝕洞に鎮座する摂社、「鵜戸神社」を訪ねることに。摂社とは神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものを境内摂社、境外にあるものを境外摂社という。「「龍宮(鵜戸神社)」案内板。ここから歩いて三分の所にあります。五〇〇〇年前、縄文時代の人々が龍神信仰をしていたと思われる岩窟であることが解りました。奥にある御社の前に立ち、入口の方を振り返ると天に昇る白龍がご覧いただけます。」「皇太子殿下御生誕記念 植林碑」。「「龍宮(鵜戸神社)」に向かう路から「大御神社」を見る。「三代の亀(親・子・孫)今から約一五〇〇万年前のこと。神社の沖にある海底火山の活動により、この海岸一帯は多量の火砕流が押寄せ堆積しました。そして長い年月をかけて固まったのが柱状節理(溶結凝灰岩)です。長寿を象徴するめでたい亀。悠久の時を経て、大自然がもたらすこの三匹の亀岩の見事な芸術をご覧下さい。」「親亀」であると。「子亀」・「孫亀」であると。「日知屋城(ひちやじょう)阯」の「西の曲輪」・「堀切」案内板。「堀切」。「日知屋城跡 堀切岬の城である日知屋城跡を陸地から攻められにくくするために掘られたU字型の溝が「堀切」です。ただこの場所は岩場であるため深い溝を掘るのは大変な作業だったと思われます。」「日知屋城跡 西の曲輪日知屋城は西側だけが陸とつながっていて敵に攻められやすい弱点をもっています。そこで本丸を守るため尾根の西側に城兵のこもる曲輪をつくりました。ここでは城兵たちが野営の際に利用した石組みの囲炉裏が発見されています。」「鵜戸神社(龍宮)」の一の鳥居が現れた。右手に屋根付きの木製の展望台があった。展望台から「大御神社」を見下ろす。「鵜戸神社(龍宮)」のニの鳥居周辺には、石段を降りる順番を待つ子供たちの姿が。「大御神社境内社 鵜戸神社御由緒と御祭神鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)彦火瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)塩筒大神(シオツチノオオカミ)五柱を御祭神として奉祀し、奉祀の年代は詳らかではないが、古くより鵜戸さま鵜戸さまと御威徳を慕われ、安産、航海安全、交通安全、厄難消除、事業繁栄の御霊験灼たか(あらたか)としてご霊域をたずねる奉賽の人は、いよいよ多くなってきた。例祭日 旧暦正月十六日 三月十六日 十一月十六日」「鵜戸神社」碑。そして「鵜戸神社(龍宮)」への狭い石段を下って行った。海蝕洞の入口には、無事に狭い石段を下って行った子供たちの姿が。石段の手摺の隙間は広く、子供達が摺り抜けて転落しても不思議ではない石段であったがこの場所まで子供達を連れて来るのはかなりリスクがあると感じたのであったが・・・。海蝕洞・岩窟の入口から見上げて。正面に朱の三の鳥居が。振返って。鳥居を潜って。「鵜戸神社(龍宮)」「ここから入口を振り返って下さい」と。摂社・鵜戸神社の「昇龍の光」を追う。岩窟の奥にある御社の前に立って入口を振り返ると、左右の岩の間を通して天に昇る白龍が見えることから、「龍宮」とも言われているのである。「天に昇る白龍」のBESTな撮影時間は?そして天に昇る白龍が現れるBESTアングルは・・・。そして洞窟を出て。上って来た狭い急な石段を振り返る。更に進み石段を上って進む。再び「日向仏舎利塔」をズームする。再び「大御神社」を望む。左には日向灘の海が拡がっていた。ズームして。三方を海に囲まれた「日知屋城址」の本丸方向への登城には、歩道が整備されておりここが別のルートの入口なのであろう。車に戻り宮崎県道15号線・日知屋財光寺線(ひちやざいこうじせん)を進む。右折して北上する。国道10号を日豊本線に沿って進む。「大瀬川」に架かる「大瀬橋」を渡り「延岡城跡」に向かって進む。「北城山街区公園」駐車場に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.09
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「美々津重要伝統的建造物群保存地区」を後にして、国道10号に入り耳川に架かる「美々津大橋」を渡る。手前に「日豊本線」の「耳川橋梁」その奥に「県道51号線」の「美々津橋」を見る。奥の「美々津橋」。「・形式: 2連鋼トラスアーチ槁・完成: 1934年(昭和9年)現在の国道1 0号は鉄道橋の下流に架かる「美々津大橋」を通っている。この「美々津大橋」は昭和42年(1967)に架設されたPC床版橋で我国ではじめて川中の橋脚から「やじろべえ工法」で造られた橋です。この「美々津大橋」ができるまでは「美々津橋」が国道10号の橋でした。今でも堂々たる2連の大橋です。A級近代土木遺産となっており日向市の文化財に指定されています。近くに明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれている「美々津」があります」と。この交差点を右折して県道15号線に入る。右手に「お倉ケ浜総合公園内 サンドーム日向」が現れた。サンドーム日向 (全天候型運動施設)は日向市や入郷で育った木で造られていると。 近鉄バッファローの練習場としても活用する目的で、林野庁の地域材利用促進木造公共事業で1/2の国の補助金で建設された。木造平屋建て(1部は2階建て)で、延床面積4809平方メートル。 梁や柱に構造用大断面集成材を用いた建物としては、国内最大級の木造建設である と。前方左手に見えたのが、櫛ノ山(くしのやま)山頂にある白い「日向仏舎利塔」。「大御神社(おおみじんじゃ)」に向かって進む。日向灘が右手に現れた。「伊勢ヶ浜門前まち観光案内所」前の駐車場に向かって進む。駐車場に車を駐めて、散策開始。「大御神社(おおみじんじゃ)」案内板。 宮崎県日向市伊勢ケ浜186。「日知屋城趾」碑。「「日知屋城趾」は、伊勢ケ浜南岸の岬に築かれた城で、伊東氏と係わりが深く、塩見城・門川城とともに三城と呼ばれ重要視された。文明18年(1486)には、伊東氏5代祐国の弟祐邑が当城で暗殺されており、また伊東氏の飫肥侵攻をはじめとする宿敵島津氏との合戦に際しては城番の福永氏や日知屋衆が軍勢催促を受けて、」入郷地域の諸将とともに出陣していた。したがって日知屋城の歴史は伊東氏の歴史とも言える。城内に入ると不整形に削平された6ヶ所ほどの曲輪があり、要所には土塁や空堀、それに櫓台等の防御施設も付設されている。全体的な縄張りは、地形や岩盤に制約されているためか、まとまりに欠けるきらいもあるが、こうした状況が中世城郭に見られる特徴であることは言うまでもない。」とネットから。「日知屋城趾案内図」。ズームして。「大御神社」の石鳥居を潜り進む。「大御神社」碑。「ホソバワダン(細葉海菜)」の花であっただろうか。そして前方に「大御神社」が姿を現した。「大神神社御由緒並に沿革」案内板。「大神神社御由緒並に沿革大神神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年代は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古、皇大御神日向の国の高千穂に皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)を天降し給うた節、尊は当地をご通過遊ばされ、千畳敷の盤石にてこれより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照皇大御神をお祭りして平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在る所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言うまた、神武天皇御東遷の砌(みぎり)には大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(脇の浜)から港に入られ、皇大御神を奉納する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大神神社の西に横たわる櫛の山(槵の山)と東に隆起する米の山(久米の山)に神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命(あまくしつおおくめのみこと)名に因むものであると言う。その後当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんで来たのである。最近ことに御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名としたと伝えられている。現在の御社殿の改築は、昭和十三年に完成し、資材は、高千穂地方の神社の境内木が使用されている。」「神札所」。「手水舎」に水はなかった。多くの子供達が、校外学習であろうか。「拝殿」。宮崎県日向市日知屋1。国内では珍しく絶景の大海原を見渡す柱状岩を背に立つ神社。「拝殿」横から絶景の大海原を見渡す。波打ち際の「柱状岩」を見る。横から「本殿」を見る。扁額「大御神社」。「内陣」。ズームして。「登録有形文化財」のプレート。神社の奥にあった「日本一大きいさざれ石」をズームで。「大御神社周辺の「さざれ石」この巨石(神座)は、国歌「君が代」に詠われている「さざれ石の巌」です。今から約二千万年前、日本列島がユーラシア大陸の縁にあったとき、このあたりは広範囲にわたり浅い海岸平野でした。そして大きな川があり、河口付近には大量の「細石(さざれいし)」がたまって、粘土・砂などと混じり、長い年月の間に固まり巨石「さざれ石の巌」となりました。「君が代」君が代は千代に八千代にきぎれ石の 巌となりて 苔のすまで注・この付近の石を持ち帰ることは固く禁じられております。」「絵馬所」。天照大御神の絵馬。「大御神社」の拝殿・本殿を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.08
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更に「美々津重要伝統的建造物群保存地区」の散策を続ける。「日向市歴史民俗資料館」。江戸期から大正期まで交易港として栄えた、ここ「美々津」を代表する建物として復元されたもので、当時の様子をうかがい知ることが出来る場所。ニ階右手に「虫籠窓」。幕末に建てられた廻船問屋「河内屋」を復元したと。「市指定文化財 廻船問屋河内屋敷区分 有形文化財(建造物)指定年月日 昭和五十六(一九八一)年一月二十日所在地 日向市美々津町三ニ四四番地面積 三一三. 六三平方メートル管理所有者 日向市沿革美々津は江戸時代から高鍋藩の商業港として栄えた町です。当時の美々津には数多くの商家が軒を並べていました。なかでも河内屋は、有力な廻船問屋のひとつに数えられていました。河内屋は安政ニ(一八五五)年に建てられたもので、広い間口と奥行きを持ち構造上は平入造りに属し、一階南側に通り庭を築き、正面には出格子や格子戸を設け、二階の正面には虫籠窓を設けるなど典型的な商家造りの意匠を残しています。また、江戸時代末期から明治時代にかけての商取引関係の古文書も残されています。昭和五十五(一九八〇)年に土地・建物が所有者(黒木久仁子氏)から日向市に寄贈されました。昭和五十七(一九八ニ)年に日向市が国・県の補助を受けて修理復元を行い、日向市歴史民俗資料館として活用しているものです。」「石敷道路について」現在の石敷路面は平成四年度地域個性形成事業により景観に併せて修景したものであり、復元したものではありません。本来の石敷は、自宅玄関前の一部に自然石を敷き詰めて施されていました。実際に敷れていた石は露路の突き抜け部分に移転復元しております。」館内に入ると。右側には秤、樽や酒瓶が並んでいた。一階の和室。「立磐神社改修費用御奉納のお願い【令和元年、立磐神社の改修工事がはじまります。】今般、氏子会を始め行政等のご支援をも頂き、立磐神社改修工事を3か年計画で行う予定てす。つきましては、今年度の屋根銅板葺き工事にあたり、新しく使用する銅板をを次の要領で御奉納頂ければ有難く存じます。以下略・・・・銅板一枚 3000円・・・」「日向市歴史民俗資料館」を振り返る。「日向市消防団第七分団第二十ニ部」と書かれていた。壁の下部には「なまこ壁」が。観光案内板もあった。丸石の敷かれた路地。中二階のある白壁の建物。そして海に突き当たり左折すると、右手に大きな石塔が建つ広場があった。ここにも「日向市美々津重要伝統的建造物保存地区所在地 日向市美々津町字上町・中町・下町・上別府の一部選定年月日 昭和六十一年十ニ月ハ日面積 七・ニヘクタール概要美々津は、古い歴史を持っ港町で、中世には集落が営まれていたと考えられてあり、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。保存地区に選定された上町・中町・下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当り、江戸時代から明治時代の平入・妻入建物が数多く残されている。また港から南に延びる三本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられてあり、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。」「美々津渡し場・高瀬舟終着場之跡」碑。そして巨大な「日本海軍発祥之地」碑。「神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地「日本海軍発祥之地」碑建立・昭和17年(紀元ニ千六百ニ年) 9月10日 復元・昭和44年(紀元ニ千六百ニ十九年) 9月12日建立・復元の経緯と碑文の由来日本海軍は、天皇が統師された海軍でありました。このことから国が、神武天皇御親率の水軍がはじめて構成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元ニ干六百年記念事業の一環として建立されました。碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫により、碑面に刻記されたものです。この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通り復元されたものです。」巨大な「海軍両爪錨」。「海軍両爪錨展示碑文当地は、神武天皇が大水軍を編成され、御親率されて御東行の御船出をされた日本海軍発祥の地と伝えられている。昭和十五年(一九四〇)には、皇紀ニ六〇〇年記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、軍船「おきよ丸」を造船し、この美々津港から大阪中ノ島まで神武天皇東行の聖蹟を巡航し橿原神宮に神楯を奉献した。この日を記念して企画された「日本海軍発祥の碑」の建立と「両爪錨」の製造が昭和十七年、(一九四ニ)に実現したのである。爾来、この錨は、太平洋戦争から戦後の混乱期を経て昭和ニ十七年(一九五ニ)に創設された海上自衛隊に移管されていたものである。そして、その錨が半世紀余を経た今、海上自衛隊のご厚意により、生誕地である日本海軍発祥の地に帰還したことは、日本海軍史の象徴といえるこの錨と神武天皇御船出の地の奇しき因縁を感じるのである。私たちはここに、わが国の平和と安全を希求し、国民の財産と生命を守るため日夜、刻苦精励されている海上自衛隊の一層のご発展を祈りながら、この錨を恒久の平和のシンボルとして世界中に発信して行くことを誓うものである。」「日本海軍発祥之地」碑を斜めから見る。横から。「内閣総理大臣 海軍大将 米内光政書」と。国道10号、「耳川」に架かる「美々津大橋」を見る。その奥に「日豊本線」の「耳川橋梁」。そして「立磐(たていわ)神社」に向かう。「立磐神社の由緒当社は神武天皇御東遷の際、美々津港より御船出し給うに当り、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭に住吉大神とも申し奉る、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第十二代景行天皇の御代に創祀されたものである。其後多くの変遷隆替を経ましたが、貴き伝説と特異の行事等は、今も尚連綿として継承されています。かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も殷盛となっていました。然るに天正六年(約四百四十年前)大友氏と島津氏との戦火にかかり、宝物文献記録等皆烏有に帰したのであります。其後元和九年に再興し、寛文宝永の頃完く旧観に復して、領主より神領を供されて社殿増築をなし、又神事ある毎に寄進あり。かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。 更に境内には「神武天皇御腰掛岩」があり、玉垣を巡らして岩そのものを御神体として崇拝しています。明治4年郷社に列格、やがて、昭和九年は恰も神武天皇が御船出せられて丁度二千六百年に相当するので、之を記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申出し処承諾され、終に秩父宮殿下を総裁に仰ぎ、松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷二千六百年祭典が斎行されました。当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した。(2)竜神バエの岩上に住吉灯籠を摸したる神のみあかし灯台が設置された。(3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された。(4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。これは日向国の青年百五十名が漕舟して 美々津港を船出し途中天皇がその昔寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、 其月浪波に上陸御楯を奉持陸路橿原神宮に奉納した末曽有の大行事であった。 御東遷 二千六百五十四年 皇 紀 二千六百四十八年」左手奥に「手水舎」。一の鳥居に向かって進む。「立縫の歌碑」「ゆるぎなき 神岩つ根に踞しませる み影をしのぶ 立縫の里」「神武天皇御舟出の歌伝説」碑。「神武天皇御舟出の歌伝説「日の草の 赤が見栄えてとことわに 瑞穂の国は 栄まつらむ 日本おもと愛好者 建之」歌碑の台座には、おもとの彫刻が。万年青(オモト)は、この漢字からも伝わる通り、いつも青々と色褪せず、葉の様子も張りのある美しいグリーンをしている事から長寿や健康を司る縁起の良い植物と言われているのだ。脇にあった歌碑案内碑には「神武天皇自ら「おもと」を観賞されおもとの雄大な葉緑素の強い葉姿のおもとが大地にへばりついた根本に赤い見栄え横には数限りない繁殖したおもとの姿を見て我が瑞穂の国をおもとに託された歌と思われます。其の後江戸時代以降も現在に至るまで新築、移転、誕生祝いなどにおもとのもつ生命力にあやかって飾ったり贈られたりしています。」と刻まれていた。「神武天皇 御腰掛之石」前の石鳥居。「立磐神社」の二の鳥居もその先、左に見えた。「神武天皇 御腰掛之石」神武天皇がお船出の際に腰掛けたとされる岩。「奉建猿田彦尊祈願圓満所」碑。前方に「立磐神社」の二の鳥居が正面に。「立磐神社」の「拝殿」。御祭神底筒男命(そこつつおのみこと)中筒男命(なかつつおのみこと)表筒男命(うわつつおのみこと)神武天皇(じんむてんのう) 例祭等夏祭 6月30日 例祭 11月14日前の日曜日扁額「立磐神社」。懸魚、破風の彫刻も美しかった。小さな「松吉稲荷神社」が左手に。これぞ「立磐神社」の光景であったが。様々な石塔が巨岩、立磐の近くに。蔓植物を纏った「御神木」のクス(樟)。そして「立磐神社」を後にして、「美々津重要伝統的建造物群保存地区」の旧上町の入口まで歩く。下記の写真の「高札場跡」が以前はあったようだが撤去されたようだ・・・。港から南に延びる三本の主道路や、それに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている と。 【https://4travel.jp/travelogue/10885054】前方、白壁の前にあったのが「高札場跡景観整備について」の立札。「高札場跡景観整備について高札は、立札ともいう。木の板に法令・禁令等を墨書したものである。江戸時代は幕府や藩が民衆に対し直接的に伝達する手段とした。都市や農村の交通の多い市場や辻等の要衝の地の高札場に掲げた。高札の規格は、伝達文の内容により大小様々である。奈良時代にはじまり、鎌倉時代は禁制・制札とも呼称される。高札場は、政治的的権利の主張する場であり、民衆は立札と呼ばれる自らの札を立て一揆を呼びかけることもあった。高札・高札場は、支配の象徴であり、民衆の自治と情報伝達の場でもあった。明治六年(一八七ニ)廃止される。本事業では、高鍋藩支配の美々津において、この場所が高札場であった旨伝えられていることから修景事業として整備した。なお、藩政時代の高札・高札場の状況は明らかではないが、私本「立縫抄」(渡辺綱男著)に昭和初期地元古老より聞き取り調査した地図が掲載してあり、高札場・札の辻の記載がある。現在、宮崎県においては、唯一、明治初期の太政官布告の高札(一四五✕五五、山型)が県立博物館に所蔵されている。」「美々津重要伝統的建造物群保存地区案内図」。高札場札前のモニュメント。「立磐神社」方向を振り返る。「お休み処 旧近藤家」。2階の窓は「虫籠窓」風、その横は「なまこ壁」風。旧上町の家並みが続いていた。東側の路地と家並。そして「南部ぷらっとバス 立縫の里(たちあい、たちぬいのさと)」停留所。神武天皇の衣服が破れたが、立ったまま縫ったので、立ち縫いの里と呼ばれるようになった、と伝わると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.07
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国道10号に向かって進む。民家の横の畑にも色の濃いコスモスの花が咲き乱れていた。車を止めて。車の助手席からズームして。「国指定史跡 持田古墳群古墳が散在するこの地は標高五十メートルの洪積台地で、東日向灘、西に霧島山、北に尾鈴山が望まれる景勝雄大な地である。五世紀から六世紀頃にかけて築造されたといわれる古墳のうち、大小種々の様式をもつ八五基(前方後円墳)一〇基、円墳七五基)が国の史跡として指定されており、周辺には縄文、弥生時代の遺跡も多い前方後円墳の中には全長一〇〇メートルを越すものもあり、次の古墳が著名である。計塚(舟形木棺) 全長約 一一〇メートル石船塚(石棺) 全長約 四〇メートル山の神塚 全長約 四六メートル亀塚(木棺) 全長約 五〇メートル」国道10号に戻り、延岡方面に進む。「宮崎県農業科学公園 ルピナスパーク」の前を走る。正面に「尾鈴山」・1405.2mに繋がる山並みが現れた。耳川にかかる国道10号・美々津大橋を渡る。日豊本線の耳川橋梁を見る。その上流にあるトラスで構成された2連のアーチを持つ橋・「美々津橋」も見えた。九州で唯一残存する2連鋼トラスアーチ橋の美々津橋(昭和9年竣工)。「道の駅 日向」で一時休憩する。「海の道しるべ」案内板。「宮崎県の主要航路標識」★「道の駅 日向」の10km程先にある「細島灯台」 細島半島東端の日向岬に建つ。灯塔は高さ11メートルの円筒形で、鉄筋コンクリート造の 塔身上部にバルコニーを廻し、金属製・ドーム屋根の灯室を載せる。 半円アーチ形に突出する出入口やバルコニーの大きな三角形の持送りなど細部に昭和期流行の 意匠をもつ。★鞍崎灯台 日向灘の大島南端に建つ。切妻造の附属舎中央に高さ14メートル・一二角形平面の灯塔を立て、 金属製・円形平面ドーム屋根の灯室を載せる。我が国最初の無筋コンクリート造灯台で出入口や 窓回りに石を廻す。附属屋中央の灯塔の配置が明治期灯台の特徴を示す。★都井岬灯台 県最南端の都井岬に建つ。鉄筋コンクリート造で、陸屋根の附属舎正面中央に高さ15メートル・ 八角形平面の灯塔を立て、塔身上部にバルコニーを廻し、金属製・円形平面ドーム屋根の灯室を 載せる。内部を常時公開する九州唯一の参観灯台として広く親しまれる。道の駅「日向」駐車場から見えた「美々津港灯台」。日向市美々津沖の岩礁「七ッ碆(ななつばえ)」に立つ「美々津灯台」。正式な標識名称は「美々津港灯台」であると。神話の地「美々津」にちなんでデザインされた石灯籠型の灯台。塔の高さ:約17m 海面から灯火までの高さ:約24m。灯台の脇には神話の地らしく小さな祠(ほこら)も立っているようだ。「古事記」によれば、神武天皇は水軍を率いて日向を出発、瀬戸内海を経て大和の国を征服し初代天皇に即位したとされます。これがいわゆる「神武東征」の神話です。このとき船出したのが、ここ美々津の湊とされているのだと。昭和9年10月1日の初点と。電球:LED(白色LED球を1段の全周に102個配し、これを6段計612個で 1つの灯器としています。)灯質:閃白光(Fl W 4s)4秒毎に白光1回光度:390カンデラ光達距離:約7.5海里(約15km)電源:太陽電池そして少し引き返して「美々津大橋」を渡り「美々津重要伝統的建造物群保存地区」に立ち寄った。「美々津は江戸時代から高鍋藩の商業港として栄えた町で、多くの回船問屋の建物が今も街なみに残り、昭和61(1986)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。美々津にある旧い建物は、虫籠窓や京格子をはじめ、通り庭風の土間があり、京都や大阪の町家造りを取り入れたものです。通りを歩くと趣のある建物がならび、昔ながらの景観を保ちながら、今もなお町並みが整えられています。また美々津は神武天皇が討征への出発地(お船出の地)として伝えられており、美々津港の右岸にある立磐神社には、神武天皇が日向から東方に向かって船出する際、岩の上から指図したとされる岩が保存されています。」駐車場に車を駐め、まずは近くにあった「橋口氏庭園 立磐神社社務所」を訪ねた。宮崎県指定名勝。「橋口氏庭園」は重要伝統的建造物群保存地区である日向市美々津にある庭園。安土桃山時代に造られたとされる池泉鑑賞式庭園で、元々この地にあったお寺の本山である醍醐寺三宝院庭園を模した とのこと。「立磐神社社務所」にもなっているようであった。「県指定名勝 橋口氏庭園一、文化財保護委員会指定年月日 昭和三十ニ年十ニ月十五日県指定 (昭和十一年十一月文部大臣指定)ニ、様式 池泉観賞式三 指定地面積 五七〇平方メートル四 所有者 橋ロ朝典この庭物は、橋口氏初代が天文年間(約四百九十年前室町時代末期)日向国の要街であった美々津の愛宕神社祠官として移住した頃より作庭されたものと伝えられています。橋ロ家「永代日誌」には、寛文ニ年(一六六ニ) ~宝暦八年(一七五八)には、松の植栽か行われたと記されています。愛宕山南側の岩盤を自然のまま利用し、その西側に池石組、樹木を配し、中心部を築いています。岩肌から湧き出る清水は、瓢簟形の池に湛えられさらに弓なりの岩裾に沿って東の池に続き『心』字池をも想像させます。池畔には、石橋を架け陰陽の石組、書院との間には飛び石を置き、沓ぬぎ石、平石を配し、岩桧葉、縞笹、つつじ、くちなし、山茶花、椿、また浜桧榊、銀杏、榎の古木も副景となり小規模ながら風雅な景観をもっています。」池泉式庭園で、崖を利用し、池石組 みや石橋、樹木を配している。縁側付きの家屋。水場。そして「美々津重要伝統的建造物群保存地区」の山側の街道に出る。北にある「立磐神社」の方向に向かって散策する。「美々津千軒」と称された風情ある建物を見ながら進む。2階は白壁の建物。ポストがあったが郵便局ではなさそう。1階は縦(竪)格子戸の家。細い竪子が整然と並んだ、縦格子戸。縦のラインが均等に並び白壁とのコラボなデザインで、伝統的な和風の雰囲気が溢れ出ていた。この左側の白き家は民家であった。左手には「正覚寺」の山門が現れた。 宮崎県日向市美々津町3385。「山門」屋根と「鐘楼」そして「本堂」の屋根が見えた。高い位置にあった「鐘楼」。「本堂」。「本堂」脇の石段。ここを上れば海が望めたのであったが・・・。ショッピングセンター「かわの」の先にあった民家の建物。「立縫(たちあい)公民館」。「TOSHIBA ヒサシ電器」と書かれた看板。国指定「美々津重要伝統的建造物群保存地区」案内板。「国指定 美々津重要伝統的建造物群保存地区概要美々津の伝統的建造物群保存地区は、耳川河口から南に向かって延びる上町・中町・下町の道筋と町を見下ろす台地上の別府、それに新町の一部によって構成されています。上町 江戸時代の豊後街道にあたる道筋です。 明治時代の平入・大壁作りの町家が多く寺院も建てられています。中町 上町に次ぐ繁華街で江戸時代に建てられた妻入・平入の大壁造りの町家ガあり、 商人町として栄えました。下町 度重なる津波によって南部の道や町家は流失しています。現在の町並は明治時代以後に 成立したものです。上別府 標高三十メートルの高台にあり、藩主の仮屋跡や緑地帯かあり、異国船警護の役割を 担った台場跡も残っています。新町 京都醍餬寺の三宝院庭園を模倣した県指定名勝「橋口氏庭園」かあります。」この「記念碑」には「職工組合 ◯◯台建設」の文字が。「旧上町共同井戸」。その先、左手にあったのが「日向美々津の宿」とその隣に「畳屋」・原田畳店。車や人の姿もほとんど無く。しかし「無電柱化」「電線地中化」の予定はないのであろうか?「ところで、日本でも電線地中化の流れが戦前からあり、東京都文京区などで整備が進められていました。また、満州の植民地に日本軍が建設した都市でも、電線地中化が行われていました。しかし、太平洋戦争時の米軍空襲により、都市は焼け野原に。戦争のショックから速やかに復興するために「一時的に」という名目で、電柱が立てられていきました。電線を地中に埋設すると、架空線をかけるよりも高い費用がかかり、「まずは電柱で電気を送り、余裕が出てきたら地中化しよう」ということになったのです。ところが、日本はその後、高度経済成長期に突入。電気や電話の需要がどんどん高まり、電柱を次々に立てて対応しなければなりませんでした。そうして、本来は「一時的」のはずだった電柱が、当たり前」のものになっていったのです。」とネットから。地中線の方が災害に強そうだが、復旧が早いのは架空線であると。地上にある電線は、断線箇所がすぐに見つけられる。しかし、地中線はどこが断線しているのか分かりづらく、掘り返して作業をしないと復旧できない。また、阪神淡路大震災で起きた地中線被害の多くは、地盤の液状化によるものであった。河川の沿岸や埋め立て地、干拓地などでは、電柱を利用した方が被害を抑えられる可能性がある。災害対策を考えるのであれば、場所に応じて地中線、架空線を使い分ける必要があるのだと。山側の街道から連絡道を歩いて海側の街道に出てみた。海側の街道の南方向を見る。ここにも車、人の姿は無く。北側左の民家の扉は閉ざされていた。海側の街道の北側を見る。そして駐車場に戻る為、山側への路地を進む。城の如き石垣の上に白壁が。そして車で海側の街道・旧中町筋を北に向かって走る。この場所からも「美々津港灯台」が見えた。「美々津海岸」の岩場を見る。前方左に「旧中町共同井戸」。正面から。井戸に近づいて。池の奥には社と石碑もあった。そして車で更に海側の街道・旧中町筋を北に向かって進む。白壁の家が続いていた。そして「旧下町共同井戸」。更に旧中町筋を北に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.06
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この日は4日目の11月17日(水)。宿泊した「コンフォートホテル宮崎」の無料朝食に向かう。時間は6:25前。ホテルのフロント。バイキング形式の朝食を楽しむ。そしてこの日も国道10号を延岡に向けて北上する。宮崎市内の橘通りを進む。前方に国道10号「佐土原バイパス」。直進して宮崎インター佐土原線を北上。「一ツ瀬川」に架かる「日向大橋」を渡る。国道10号新富バイパスの一部であり、3本の橋で構成される。・1954年に8代目として建設され、下り線車道橋として供用されている橋を「旧橋」・1988年に建設された歩行者専用の側道橋を「側道橋」・2016年に建設され、歩行者・上り線車両共通の橋を「新橋」我々が走ったのは、上り線車両用「新橋」。「一ツ瀬川(ひとつせがわ)」上流方向を見る。一ツ瀬川は、宮崎県中部を流れる一ツ瀬川水系の本流で、二級河川。上流域の西米良村は、平家の落武者が隠棲したといわれる隠れ里「米良荘」が有名。河口域にある日向大橋下河川敷では、8月下旬に花火大会(サマーフェスティバル in 一ツ瀬)が催される。そして「小丸川」を渡る。「小丸川」は、その源を宮崎県東臼杵郡椎葉村三方岳(標高1,479m)に発し、山間部を流下し、渡川等を合わせながら木城町の平野部を貫流。その後、下流部において切原川、宮田川を合わせ日向灘に注ぐ幹川流路延長75㎞、流域面積474km の一級河川。「小丸川」に架かる「高鍋大橋」を渡った直後に左折して進むと左手にはコスモス畑が。そしてこの日の最初の目的地の「高鍋大師」に到着。「持田古墳群」の霊を慰めるために故岩岡保吉翁が開山。八十八ヶ所札仏と岩岡氏自身が刻んだ石像が700体以上あり、なかには6メートルを超える巨大なものもあった。町北部の丘陵地に位置し、日向灘も一望できる絶景地なのであった。「持田古墳群の概要この地は、海抜四〇~五〇メートルの洪積世の台地にあり、東に太平洋を望み、西方はるかに高千穂峰を県北に尾鈴山を仰ぎ、高鍋町の市街地を眼下に見下ろす景勝地であります。縄文時代から弥生時代に至る長い間、繁栄した遺跡上に更に西暦五世紀後から六世紀頃までの大小さまざまな様式を持った、八十五基の古墳が二十ヘクタールの地域に所在して往時を物語っております。実に朝日の直射する所であり、夕日の照り映える丘であります。古墳の種類一、円墳ニ、前方後円墳三、方墳等に大別されます。この中には次のように通俗的な名称のあるものがあります。一、計塚(はかりづか) 粘土槨を持っています。ニ、石舟塚 石棺を持っています。三、山の神四、亀塚 木棺を持っています。亀塚のみは、沖積世の低地にあります。計塚は、この古墳群の中で最大のもので、後円部の高さ十二メートル、周回部三十メートルの大古墳であります。この古墳群の特色全国各地には、大古墳群がまれにありますが、比較的小範囲に、このように多数の古墳が所在しその出土品がいずれも優秀なものであったことはあまり類例がありません。」花色の濃いコスモス畑であった。「高鍋大師高鍋大師は、岩岡保吉氏(一八八九~一九七七)が私財を投じ、地元の方々と共に半世紀をかけて造りあげました。氏は香川県出身、七才時に高鍋に移住しました。小学校卒業後、文具の行商などを経た後、十九才の時に米穀販売業として独立、成功を収めます。一九一八年(二十九才)、四国八十八ヶ所の巡礼に出かけ、これをきっかけとして高鍋に八十八ヶ所を造る構想を抱く事となりました。十年後、石像用の石材調達を開始。土地を取得・整備し、石像の制作に着手。その際、大分より招いた石工に石像彫刻を学び、共に制作に励みました。一九九三年(四十四才)八十八体の石像が完成。後に高野山で得度、大師堂を一般に開放しました。当時周辺の持田古墳の盗掘に心を痛め、古墳に眠る古代の人々の霊を鎮めるとともに人々の幸せを願い、八十八ヶ所完成の後も石像の制作を続け、弘法大師空海修行像、アマテラスオオミカミ、かぜのかみ、といった巨大なものから、みとこモン等のユニークな像なども造りあげました。生涯をかけ大小様々な石像を造りつづけ、その総制作数は 7百余体に及びました。素朴で奔放なこれらの石像を残し一九七七年、八十七才で永眠。人々の幸せを神に仏に、そして皆の心の中に願ったその魂は、未だここにあるかのように人々の癒しの場となっています。平成二十一年三月、宮崎県より観光遺産の指定を受けました。」そして「高鍋大師」の700体以上の石像の散策開始。駐車場前にあった「3体の鬼」、左の青鬼には「をにあらわれた」の文字が。赤鬼の赤は色合いが劣化していたが。「高鍋大師花守山 てくてく 散策マップ」。これらの仏像を作ったのは高鍋に住んでいた故・岩岡弘覚(保吉)氏。米屋を営んでいた岩岡氏は29歳で四国巡礼に出発したのを機に仏像に興味を持ったと。当時の高鍋では持田古墳群の古墳の盗掘が相次ぎ、それに心を痛めた岩岡氏は、古墳の霊を鎮めるために仏像を作り始めたと。1977年に87歳で逝去するまで、岩岡氏は自由な発想で700体以上の石像を制作。十二面薬師像や十一面観音像の胴体には「岩岡山七十五戈のサク」と刻まれている と。像の高さは7~8mほど。こんな巨大像を75歳のときに作ったとは!!祈りの像。不動明王像。石碑の前には小さな石仏が並んでいた。これも不動明王像であろうか。椿の花も負けじと赤の花を。真っ裸の石仏は局部も赤く顕に。持っている酒瓶?には「水神」の文字が。唇も赤く、嬉しそうに笑っていた。左:十二めんやくし(十二面薬師)。仏像の名前が仏像自体に刻まれていた。漢字とひらがなの混ざった手書き文字から手作り臭が漂うのであった。右:十一めんのくわんのん(十一面観音)。白い歯をむき出しにしてほほえんでいるのであった。大小様々な石仏が並んでいた。赤子を抱くこのおかたの名前は、「不動明王」と。「火よけ みまもり」の文字が。「弘法大師空海修行像」のようだ。左手にぶら下げている赤いものには「からいも」と。南九州の方言でサツマイモのことを「からいも」と呼ぶようだが。かぜのかみ(風神)。かみなり(雷神)。「岩岡弘覚」「顕彰の碑」。境内の様子。左に水戸黄門像、右手に亀が。別の角度から。仏像だけでなく、誰でも一度はテレビで見かけたことのある像も並んでいたのであった。「みとこもん 人を たすけ まわる」の両端に「すけサん」と「かくサん」。86歳のときの作品ということは、亡くなる前年に作り上げたということか!!。早口言葉?の「親亀の背中に子亀を乗せて~、子亀の背中に孫亀乗せて~、孫亀の背中にひい孫亀乗せて~、親亀こけたら、子亀孫亀ひい孫亀こけた」を想い出したのであった。太平洋を見つめる石仏。真ん中に「大師堂」その手前両脇に2体の巨大な石仏が。「正一いいない大神 (正一位稲荷大神)」。昭和34年作 高さ7.5m赤い口紅?とストライプが印象的。横にはビーナス的な美女?の上半身が顕な姿の像が。再び「不動明王」「せんたいじぞう(千体地蔵)」とその左に「をやこ」と刻まれた「おやこ地蔵」。その右側には、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)しているお釈迦さまと思われる像があった。「太師堂」を訪ねた。扁額は「高鍋大師」。入口には様々なパンフレットが。正面には七福神の姿も。内陣。「岩岡保吉翁 享年八十九歳 仏も神も越えた石像750体。古墳を守り、眠る人を供養するため、岩岡保吉翁が半生をかけて彫像」と書かれた写真が。朝の陽光に光る海・太平洋・日向灘。日向灘をズームして。石仏群を太平洋・日向灘の方向に向かって見る。右側に「十一めんのくわんのん(十一面観音)」。白い歯をむき出しにしてほほえんでいた。仏像の名前が仏像自体に刻まれていた。鳥居の先にあったのが「アマテラス」(天照大御神)と思われます。「アマテラス」に近づいて。更に。「明治百年 むえん こ中 まもれ 昭和四十三年 五月五日 岩岡弘覚 八十才のさく」と。朱の稲荷神社。内陣には狐様が鎮座。十二めんやくし(十二面薬師)。「スサノオノミコト」。顔の周囲が旭日旗の如くに。「茶碑 無門尼 宗城先生」。その先にも石仏が並ぶ。そして駐車場方面に戻り「持田古墳群」を訪ねた。「国指定史跡 持田古墳群 四十八号墳」柱。太平洋・日向灘の方向を再び。駐車場の戻る途中にあった石仏。ご真言の「南無薬師瑠璃光如来」・「おん ころころせんだりまとうぎそわか」と刻まれていた。五十番 ハンタ寺 とも。四国八十八箇所霊場の第50番札所の「繁多寺」か。そして駐車場を出るとあったのが「四十七号墳」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.05
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国道219号沿い右手にあった「宮崎市城の駅 佐土原いろは館」に到着。「宮崎市佐土原交流センター」にもなっているようであった。佐土原人形の看板。佐土原人形の始まりはおよそ400年前と言われ島津開藩の時藩主が陶工を迎え入れ日向の国佐土原の城下町(現在に宮崎県佐土原町西佐土原地区)に育ったものと言われています。土の素朴さと温かい彩りの調和が佐土原人形の特徴と言われています。佐土原人形は慶長の頃(藩主:島津豊久)朝鮮の役で迎えた高麗人が戯れに人形を作ったのが始まりとされ、明治初期から大正時代には人形作りが盛んで14軒あった窯元も戦後は殆どが絶え、現在は佐土原町内に2軒の製作所で残された型を基に復興されている。そのうち阪本家は次のように技術が伝承され、現在は阪本兼次・由美子夫婦により継承されている。佐土原 観光案内地図。現在地●はここ。「いろは館」は直売所・飲食スペース・ガイダンスの3つで構成されている店舗。佐土原の文化・歴史・観光の情報はもとより地元の新鮮野菜や佐土原銘菓・手工芸作家作品など佐土原の魅力をぎゅ~っと城の駅へ詰め込んでいると。店の外でも、切り花、花・野菜の苗、種の販売もしていた。館内に入ると「続日本100名城 スタンプはこちら」の案内板があった。「延岡城」、「佐土原城」案内板。「続日本百名城」のスタンプを頂きました。「続日本百名城 認定証 佐土原城」は歴史資料館内にあると。「国史跡 佐土原城跡 もののふの息吹」ポスター。「国史跡 佐土原城跡 佐土原城関係略歴表」「佐土原城関係略歴表」。佐土原城跡は、周囲を弁天山などの山塊で囲まれ、北を一ツ瀬川で限る位置にあり、内部に居館地域を含む中世から近世に当地域の支配に使われた城跡である。佐土原城跡の所在する一帯は、鎌倉期以降、伊東氏の一族である工藤氏や田島氏が城を構えたとされる。応永34年(1427)に伊東氏が田島氏を滅ぼし佐土原城に入るが、特に天文5年(1536)、伊東義祐が城主の時に城を整備して日向48城の中心的城郭として機能することになる。伊東氏は、元亀3年(1572)の木崎原の戦いで島津軍に大敗を喫し、天正5年(1577)には日向を捨て豊後へ退くことになる。その後、日向は島津氏の支配下となり、佐土原城には、島津家久が天正7年(1579)に入った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで2代豊久が亡くなり、佐土原は一時幕府領となったが、慶長8年(1603)徳川家康により島津以久が佐土原3万石に封ぜられると、佐土原城は、明治3年(1870)に広瀬へ移転したが廃城になるまで、居城として機能した。このように佐土原城跡は、中世から近世、当地を支配した伊東氏から島津氏に至る450年余、当地域の政治・経済・文化の中心として機能した城跡であった。「佐土原城跡 天守台跡」 【https://ameblo.jp/napo-jou/entry-12355775324.html】より以下の写真は頂いたパンフレットから。発掘調査で出土した天守台の礎石と瓦(平成29年調査)発掘調査で出土した金箔鯱瓦。「大手道両側にそびえたガケの下を延々とのぼる大手道(城の最も主要な道)。尾根を縦に断ち割ってつくられた非常に珍しい構造。」「佐土原城の赤色立体地図」。ズームして。①天守台 平成8年度の発掘調査で、南九州の城では唯一となる天守の存在が確認された。②本丸 主郭(しゅかく)。城の中心部。 江戸時代前期の文書『御家記』に2代藩主忠興が天守、櫓、塀、門を建てたと記されている。③虎口(こぐち) 本丸の入口である桝形虎口。L字型に折れ曲がり、進入してきた敵が直進できないように工夫 されている。⑪鶴松館(かくしょうかん) 現在鶴松館の建っている場所が山城破却後の佐土原城。佐土原城の解説や出土遺物が展示 されている。「佐土原城散策マップ」。○が本丸、天守台の場所。「甲冑」顔出しパネル?「島津家久、豊久」。「島津豊久」。そして「根井三郎」コーナー。「命のバトンリレーとは人類史上最大の戦争となった第二次世界大戦下で、ロシア・ウラジオストクに外交官として赴任した「根井三郎」は、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、リトアニアて杉原千畝からビザの発給を受けたユダヤ人難民などが日本に渡れるよう、外務省からの命令に異を唱えつつ抵抗した。最近の研究では、ビザを持たないユダヤ人難民などには、独断でビザや渡航証明書を発給していたことも明らかとなった。「根井三郎」が杉原千畝から受けた、”命のビザ"は、日本国内でユダヤ人難民などへの救済を行っていた小辻節三へと繋がれており、まさに、”命のバトンリレー”が行われていた。戦後、外交官の職から離れてからも、この出来事を誰にも語らぬまま平成4年に亡くなっている。」「根井三郎」年譜 (34歳以降)。「命のバトンリレー --起こり--1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツ国首相となり、ドイツがナチス・ドイツと呼ばれた時代、ドイツは宗教・経済など様々な要因からユダヤ人などを迫害するようになった。1938年にはオーストリア併合を始めとして東ヨーロッパへ支配力を強め、1939年9月にはポーランドに侵攻(第二次世界大戦の起こり)した。当時、ポーランドに住んでいた約300 ~ 400万人のユダヤ系住民は、ドイツ軍に呼応したソ連軍の侵攻などに身の危険を感じ、隣国リトアニアへ脱出し難民となった。リトアニアに避難した彼らは、1940年6月、ソ連軍がリトアニアに進駐したことにより更なる他国への避難が必要となった。リトアニアに逃れていたユダヤ人難民は、他国のビザを求めて各国の在外公館が集まる首都カウナスに集まっていた。」。「--命のバトンを送る-- 杉原千畝(1900~1986)岐阜県出身。第2次世界大戦開戦の直前となる1939年8月にリトアニア・カウナス日本領事館に副領事として着任。1940年7月、カウナス日本領事館前に多くのユダヤ人難民などがビザを求めて集まってきた。日に日に増えていく彼らの窮状を聞き、ビザの発給について外務省に間い合わせるも、通過ビザに関する規定に従うこと、特例としては認められないとの回答であった。「杉原千畝」は悩みながらも、人の命に関わることであるとし、ビザの発給要件を満たせていない場合でも、ビザを発給することを決断。7月から8月、寝る間も惜しみ、本来認められていないスタンプを作って書く手間を極力省くなどして大量のビザを発給し続けた。1985年、イスラエルからヤド・バシエム(諸国民の中の正義の人賞)を贈られる。「杉原千敵」がこの際に発給したビザは”命のピザ”とも呼ばれている。」「--命のバトンを繋ぐ-- 根井三郎(1902~1992)宮崎県宮崎市佐土原町出身。1940年8月に4度目となるウラジオストクの日本領事館に赴任。同12月にはウラジオストク総領事代理(副領事)となる。1941年3月、外務大臣より「杉原千畝が発給したビザを持っユダヤ人難民などを日本行きの船に乗せるな、ビザを持たない者にはモスクワへ引き返すよう伝えよ」と暗に示した命令を受けるも、『面白からず』と強い表現を用いつつ毅然と異を唱え、ビザを持っユダヤ人難民などを日本行きの船に乗せ、ビザを持たない者には独断でビザ、又は、渡航証明書を発給し船に載せた。「根井三郎」の人道的、且つ、自身の利益を顧みない行いにより”命のバトン”は日本へと繋がれていった。1992年3月、ウラジオストクでの人道的な行いについて誰にも語らねまま永眠。」。「外務省の命令に反論した「根井三郎」1941 (昭和16)年2月10日、松岡洋右外務大臣からウラジオストク総領事代理「根井三郎」へ電報が送られた。それは、リトアニア・カウナスのオランダ領事館が出したキュラソービザは当てにはならない。そのビザの他にオランダ政府の入国許可が必要であるというものだった。3月19日には、外務大臣を兼務していた近衛文麿首相が、第69号「欧州避難民の取扱方に関する件」の表題で、ウラジオストクに集まったユダヤ難民の持っビザを再検閲して、日本入国を厳しく取り締るように命令した。再度、杉原が発給した「キュラソーピザ」に対して容認できない、言い換えれば入国拒否の命令がウラジオストクの根井三郎のもとに届いた。しかし、「根井三郎」は、同年3月30日発の第109号の電文で、その命令に毅然と反論した。」「第109号(昭和16年3月30日発)第109号ー解説ー「避難民は、ウラジオストクに到着したが、現実的に引き返すことは無理である。連日、領事館に来て自分たちの窮状を訴え、通過ピザの発給または日本入国の検印を求めている。リトアニアの領事館が発給したビザを持ち、やっとの思いでウラジオへたどり着き、単に第三国のビザが中南米行きだけの理由で、日本入国の検印を拒否することは、帝国在外公館が発給した国際的信用から考えて面白からず。又、ビザを持たない者に対しても、避難民を適切に取締るという目的の為だけに、当館でのビザ発給を停止することは、彼らがモスクワに引き返す事が困難な現状からして、適当ではない・・、」この様に、「杉原千畝」が発給したビザを既成事実として擁護し、自身がウラジオストクでビザや渡航証明書を発給する妥当性についても訴えている。」「--命のバトンを受ける-- 小辻節三(1899~1973)京都府出身。ユダヤ教研究者。1940年11月、鎌倉の自宅へ神戸ユダヤ協会から一通の封書が届く。文面には、ヨーロッパを追われ日本・神戸に辿り着いたユダヤ人難民たちを助けて欲しいと、記されていた。すぐに神戸に向かった「小辻節三」は、彼らの持つ”命のビザ”が通過ビザであり、10日間ほどしか日本滞在が許されていないことを知った。「小辻節三」は外務省、自治体と奔走し滞在延長を可能にし、また、ユダヤ人難民が安全な国へ渡航できるよう船便の確保にも尽力した。「杉原千畝」が送り、「根井三郎」が繋いだ”命のビザ”を日本にてしっかりと受け取っている。しかしながら、このユダヤ人難民に対する人道的行動により、戦時中迫害を受け、満州へ逃れた。満州で小辻とその家族はユダヤ人に保護され難を逃れ、その後ユダヤ教へ改宗、死後遣言によりエルサレムへ眠る。」「根井三郎」。「根井三郎(1902~1992)~国の命令に異を唱え、人道的な行いをした宮崎市佐土原町出身の外交官~第2次世界大戦のさなか、数千人のユダヤ人難民などにビザ(通過査証)を発給し救ったとされる杉原千畝(1900~86)の人道的な行いは世界的に有名です。近年、この功績に関する新たな資料が明らかになり、宮崎市佐土原町出身の外交官 根井三郎(1902~86)が、ロシア・ウラジオストクで、”杉原が発給したビザを認めるなど暗に示した国(外務省)からの命令に「面白からず(良くない)」と異を唱えつつ、独断でユダヤ人難民などを教った人道的な行いが注目されています。宮崎市内でもその功績を伝える活動が始まっています。」「根井三郎(宮崎県出身 命のビザ発見旧広瀬村(現宮崎市佐土原町)出身の外交官根井三郎(1902~92年)が、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人に発給したビザ(通過査証)が米国で見つかりました。実物が確認されたのは初めてです。」「根井三郎」が発行したビザ(通過査証)。第ニ一號 昭和拾六年貮月廿八日 通過査証 敦賀 横浜経由「アメリカ」行き在浦潮斯徳 日本帝國總領事館 總領事代理 根井三郎」「ユダヤ難民救済の外交官 根井三郎は現広瀬小出身宮崎市は20日、ユダヤ難民の救済に尽くした旧広瀬村(現宮崎市佐土原町)出身の外交官根井三郎(1902~92年)が広瀬尋常高等小学校(現広瀬小)出身だと分かったと発表した。」「根井三郎を顕彰する会」(根井翼会長)が広瀬小に調査を依頼したところ、卒業名簿に氏名があった。同会によると、根井は1921 (大正10)年3月に長崎県立大村中を卒業、同年4月、外務省留学生試験に合格した。幼少・少年期は不明だったため、今年7月。広瀬小に調査依頼。14(同3)年3月の卒業名簿に「根井三郎」との記載があった。生年も一致するため、出身校と判断した。根井会長(77)は「情報が乏しい中で出身校が判明したのは、地元の子どもや出身者たちにとって大きな励み。宮崎の偉人としてさらに啓発したい」と話す。第2次世界大戦中、ウラジオストク総領事代理だった根井はナチス・ドイツから迫害されたユダヤ人を救うため、外務省からの命令に背きビザなどを発給。「リトアニア領事代理」👈リンクだった外交官「杉原千畝」👈リンク と共に”命のバトン”をつないだ。」「根井三郎発給ビザ発見 第2次大戦中 ユダヤ人の命つなぐ宮崎市出身外交官 単独て救済 裏付け」の新聞記事。ウラジオストクに「杉原千畝」👈リンク のビザに積極的に応じた人物がいたことは知っていたがその人の名や救済活動の詳細について初めて知り感動したのであった。「日本ミツバチ」の待受箱も販売されていた。そして「宮崎市城の駅佐土原いろは館」の外に出て、道路の反対側にあった「宮崎市佐土原歴史資料館」に向かって進む。「鶴松館 史跡 佐渡原城址公園 駐車場佐土原城は、戦国大名の伊東氏・島津氏によって山城の要害としての整備がおこなわれたようです。その後、寛永二年に二代藩主島津忠興が、山城の本丸から山の下に居館を移し、佐土原島津藩三万石(元禄三年以後二万七千石)として明治二年の広瀬転城まで、この地で藩を統治していました。鶴松館 休館日 平日(※祝日・特別開館期間5 / 15 ~ 6 / 14を除く) 12月29日から翌年1月3日まで開館時間 午前9時から午後4時半まで入館料 無料」「宮崎市佐土原歴史資料館 続日本百名城 佐土原城 鶴松館」「”佐土原城” 続日本100名城(平成29認定)宮崎市佐土原歴史資料館 【鶴松館・商家資料館(旧阪本家)】」「国指定史跡 佐土原城跡 歴史資料館」。「佐土原城跡 歴史資料館」山門に向かって進む。「配置案内図」。明治2年(1869)佐土原藩主島津家は居城を広瀬に移し、佐土原城は廃城となった。城跡は田畑になっていたが、それから120年後の平成元年(1989)に発掘調査が行われ、柱穴・根石や石組・木組の暗渠などの遺構が見つかった。これらの遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が復元され、平成5年6月に鶴松館が開館した。「鶴松館」の左に「書院」、右に「大広間」。入口 山門は閉まっていた。「鶴松館」。【開館日変更のおしらせ】佐土原歴史資料館(鶴松館、商家資料館)は、平成29年4月より開館日が変更になりました。開館日: 土曜、日曜、祝日 ※12/29~1/3は閉館です.特別開館期: 5/15 ~ 6/14(この期間、体館日なしです 。)閉館日の続100名城スタンプ押印は道を挟んで向かいの城の駅 佐土原いろは館でお願いします。「国指定史跡 佐渡原城跡二の丸跡」碑。隙間から内部をカメラで「大広間」の玄関を覗く。「山城の全体説明(佐土原城) 文・八巻孝夫 絵・すがやみつる佐土原城は、山城と平地の居館がセットになった城で、戦国大名の伊東氏そして島津氏によって約二百年にわたり使われました。現在の山城の遺構は、寛永二年(1625)に山城が廃止された時のものと考えられます。それは山城の遺構の中に桝形虎口(防御を強化した出入り口)など新しい技術がみられるので、天正十五年(1587年)の秀吉の九州征圧以降の改修と考えられるからです。この山には金山に曲輪(山を切り開いて平坦にして建物を建てられるようにした平地のことで本丸や南の城をいう)や堀切(尾根を切りさいて、敵が尾根上を進行するのを防ぐ役割を果たす)、土塁(土を盛って線状に高くしたもの)、虎ロ(曲輪の出入り口で、防御をほどこしたもの)などがいたる所に見られます。建物こそ残っていませんが、これらの遺構は自然の山に手を加えて作り上げたものです。城は本来建物だけをさすことばではありません。むしろ城にとって最も重要な要素は、建物よりもこのような土木工事によって作られた堀や土塁であると考えられていました。これらの遺構がほとんど無傷で山の中に残っている佐土原城は、南九州の城を考える上で、極めて重要な価値を占めるものです。(この山城には、いろいろなポイントでまんがによる説明がしてあります。しかし、その建物などはいずれも全くの想像によったもので、実際のありさまとは違います。)「大広間」と「書院」をズームで。「佐土原城」と書かれた幟。上部に伊東氏の家紋「庵木瓜(いおりもっこう)」と下部に島津家の家紋「丸に十の字」が。「鶴松館」の「大広間」の玄関。「大広間①藩主が他藩の使節等と対面する際に使用した大広間を復元しています。佐土原島津家に伝わる鎧、金屏風など展示してあります。お殿様の席に座って写真を撮ることが出来ます。」。「大広間②佐土原人形が展示してあります。佐土原人形は素朴で愛らしい造りが特徴の人形です。400年以上の歴史があるとされ、歌舞伎人形・風俗人形・節句人形の4種類に分けられます。」「書院藩主が日常政務をとる書院の外観を復元しています。古代から近代にかけての佐土原の歴史をご覧いただける展示になっており、巨田神社棟札・西郷札などが展示してあります。」「数寄屋茶室などで使用された数寄屋の外観を復元しています。佐土原島津家や皇室関係に関する調度品が展示してあります。」「商家「旧坂本家」」。この建物は佐土原町の有形文化財「旧坂本家」です。宮崎市に合併された特区佐土原町の西佐土原(旧城下町)に残されている旧商家で、味噌・醤油等の製造販売業を江戸から昭和にかけて営んできた商家です。当時としては珍しい2階建ての建物です。西佐土原は旧城下町で、江戸期に幕府直轄領を経て佐土原藩初代藩主に任命された島津以久の居城佐土原城の城址には、現在鶴松館(かくしょうかん)という資料展示館が建てられ公開されています。この建物は佐土原城二ノ丸跡を復元、佐土原の歴史資料が展示されています。佐土原町には「うずら車」「佐土原人形」「高麗町登り窯跡、最近復活した「佐土原歌舞伎」等、多くの庶民芸能、伝統工芸が残っています。「帳場」。再び現在の「歴史資料館」を見る。宮崎市佐土原町全体の案内板が陶板にて。現在地はここ。両側には焼き物が。「宮崎市佐土原歴史資料館」を振り返る。宮崎市汚水管マンホール蓋宮崎市市章を中心に4分割し、市の花ハナショウブと市の花木ツバキを対角に入れたデザイン。 WELCOME TO MIYAZAKI 「T14 OSUI」と入っていた。そしてこの日の予定を全て終了し、国道219号を利用して宮崎市内のホテルに向かう。春田バイパスの下を通過する。そして国道10号を利用して南下。北九州市門司区の起点から333.3km地点であると。宮崎市橘通東5丁目附近の「橘通り」を走る。ワシントニアパーム(ワシントンヤシ)が中央分離帯に。北米西部の乾燥地域を原産とするヤシ科の亜熱帯植物。一般にはワシントンヤシと呼ばれる。高いもので20メートル以上に成長する。走行車両の視野を妨げないため、中央分離帯の植栽に適しており、1964年にJR南宮崎駅から宮崎交通旧本社前に最初に植樹されて以降、県内各地の幹線道路で植樹されるようになった。国道10号や220号、一ツ葉有料道路にも植栽され、宮崎を代表する景観となっている とネットから。そしてこの日のホテルの「コンフォートホテル宮崎」の我が部屋。この日の夕食は外に出ずに、15年ぶりに再会した旧友からいただいたお土産の「みやざき地鶏」をつまみに我が部屋での宴を行ったのであった。「地鶏の炭火焼き」。「若鶏ササミ」。「親鶏のたたき」であっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.04
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そして次の目的地の続日本百名城「佐土原城本丸跡」に向かう。途中国道10号沿いにあった「去川(さるかわ)のイチョウ」を訪ねた。「国指定天然記念物 去川のイチョウ 指定年月日 昭和1 0年12月24日このイチョウは、島津家初代当主忠久公(1179年~ 1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に植えたものと伝えられています。幹の周囲約10m、高さ41m、枝張りは東に約6m、西に約7m、南に9m、北に約15mあります。幹は、空に向かって大きく伸びており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には多くの実をつけます。去川には、薩摩藩の街道の要衝として関所(境目番所)が設けられ、関跡やその関守(御定番)を勤めたニ見家の住宅など、多くの文化遺産か残されています。」「国指定天然記念物 去川のイチョウ」黄葉には少し早かったがイチョウの最頂部を見る。ズームして。この辺りは黄葉が始まっていた。太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴とのこと。幹の途中には樹木医による治療の跡も。「去川の大イチョウ」碑。「みやざきの巨樹百選」案内板。「みやざきの巨樹百選樹木名・イチョウ樹齢・八〇〇年幹周・一〇.〇m樹高・四一.〇m所有者・ニ見家後10日もすれば・・・・(ネットより) 【http://mpv21hiro.blog.fc2.com/blog-entry-676.html?sp】より 【http://mpv21hiro.blog.fc2.com/blog-entry-676.html?sp】より現在地はここ。去川周辺には、江戸時代に設置された8体の神官型の田の神像があるようです。「去川のイチョウ」から「去川の関」へ向かう道路沿いでみかけた「田の神」像。国道10号を横断し「関川の関跡」へ。宮崎交通「去川」バス停の裏の草むらを入って行く。~当時のはやりうた~ 『薩摩去川に 御番所がなけりゃ 連れて行こうもの 身どもが郷に』(意味)去川関所がなければ、わたしたちの故郷薩摩に連れて行ってあげられるのにこのような歌が詠まれるほど、去川関所の取り締まりは厳しいものであったと。川の向こう岸から「おーい」などと声を掛けたりしようものなら「無礼者」と首を斬(き)られたと。この石碑は関門柱の基礎であったのだろう。 「宮崎県指定史跡 去川の関跡」案内板。「宮崎県指定史跡 去川の関跡二見家の伝記によると、伊勢国の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主、二見岩見守久信(ふたみいわみのかみひさのぶ)は、今から約450年前の永禄年間(1558年~1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷(かもうこうり)に逃げ移ったと伝えられています。天正年間(1573年~1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代、島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番(ごじょうばん)に二見守久信を命じました。以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871)のため関所も御定番も廃せられてしましました。去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取調べが行われていた所といわれています。当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅につきました。今ではその遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけです。」 と何とか転記しました。「関所見取図」そして再び国道10号を渡り、2009年に閉校したという去川小学校の脇の道を歩いて行くと、「去川墓地」があった。多くの墓石が並んでいた。「殉国之碑」も。石碑には多くの家の名が。再び車を国道10号沿いに走らせ「大淀川」に架かる橋を何度か渡る。「大淀川」に架かる「仁反尾橋」を渡る。宮崎県宮崎市高岡町浦之名2881近くの交差点を右折し宮崎市街方面へ。そして途中「天ヶ城公園(あまがじょうこうえん)」の案内板があったので急遽立ち寄ることに。カーナビの案内に従い坂道を上って行くと駐車場に到着し、散策開始。宮崎県宮崎市、高岡町中心部の北側に広がる丘陵を利用した公園が天ヶ城公園。本丸、二の丸、三の丸などからなる天ヶ城の城跡一帯が公園として整備され、本丸跡の高台に、天守をかたどった「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」(入館無料)が建っていた。関ヶ原合戦(島津軍は合戦にはほとんど加わらず、東軍の陣中を敵中突破し、逃走=有名な「島津の退き口」)直後の慶長5年(1600年)に島津義弘(しまづよしひろ)は、北方の日向国・伊東氏に備える国境警備の拠点として天ケ城を整備し、比志島国貞(ひしじまくにさだ)を城主にした。当時、島津家は島津征伐を目論む徳川家と緊張関係があり、慶長7年(1602年)に家康が島津本領安堵を決定するまでは、徳川軍に対する最前線にもなっていた。高岡は鹿児島へ通じる主要な幹線道路が交わる要衝の地で、高岡から都城を経て鹿児島に至る道筋は「高岡筋」と呼ばれていた。薩摩は琉球や明(中国)との密貿易を行なっており、薩摩と幕府の対立は、幕府と明との交易に悪影響を与え、関ヶ原で敗れた西軍諸将の反乱を生みかねないという危惧があり、家康も島津討伐を諦め、島津本領安堵を決めたのだ。天ケ城は元名元年(1615年)の一国一城令により廃城になったのだ と。宮崎市天ケ城歴史民俗資料館は模擬天守(3重4階、複合式望楼型)で、宮崎平野を流れる大淀川と高岡、高岡郷士の生活を紹介するほか、江戸時代の高岡の町の様子を再現したジオラマなどが置かれている。「大手門」。開館日は「土、日、祝日」とのことで、この日は休館日であった。「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」👈リンク 内の展示案内。扉の隙間から天守をかたどった「宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館」を見る。ズームして。「大手門」と「天守」。航空写真をネットから。高岡町の街並みと大淀川を望む。ズームして。右側に「大の丸橋」。別の場所から「大手門」と「天守」を再び。そして再び国道9号を利用して宮崎市内に向けて走る。「福岡ソフトバンク 宮崎キャンプ 駐車場」案内板。宮崎市生目の杜運動公園野球場・サンマリンスタジアム宮崎が福岡ソフトバンクの春季・秋季のキャンプ場になっているのだ。県道9号線で「大谷川」を渡る。更に進み「相生橋」を渡る。「相生橋は、木の橋として昭和25年に完成しましたが、完成1週間後、台風により橋中央部が流されました。」下を流れる川は「大淀川」。県道44号線に入り、石橋川の先にコスモスの花畑が拡がっていた。その先にあったのが国道219号「春田バイパス」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.03
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