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そして遅い時間になってしまったが、いつもの「沖あがり食堂」で昼食。時間は14:06。賀茂郡西伊豆町仁科980-6 、伊豆漁港仁科支所の前にあった。ドアを開けて店に入ると、いつもは外で迎えてくれていた味のある看板オジサンが赤い眼鏡をかけて、室内で「入店前に手の消毒」を見張ってくれていた。「メニュー」ここ「沖あがり食堂」は、刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など”イカ”と”丼”にこだわるユニークな食堂。「伊豆半島西岸に位置する西伊豆仁科で、古くから営まれるイカの一本釣り漁業。主な漁場は、日本で一番深い湾として知られる駿河湾中央部にある石花海(せのうみ)です。深い場所ばかりでなく40mほどの浅い場所があるため、その高低差によって湧昇流が発生し、豊かな漁場を形成しています。イカの水揚は一年中行われますが、夏はスルメイカ、秋から冬にかけてはヤリイカの水揚が最盛期。希少価値の高いヤリイカは、高い鮮度を保ったまま市場へ届けるため活魚で出荷しています。旬のヤリイカは、肉厚でありながら柔らかく、独特のトロリとした甘みのある味わいが魅力です。夜に出航し、船の明かりに集まって浮上してきたイカを釣り上げる一般的なイカ漁と異なり、仁科では昼に出航して海底近くのイカを釣り上げるため、イカにストレスがかかりません。それが、甘みの強さにつながっています。内臓が透けるほど透明な刺身は、絶品。後味はサッパリとしているため、いくらでも食べられてしまいます。」とネットから。 【http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1412832814】より多くの「大漁旗」が壁面に。「沖あがり食堂」の「大漁旗」も。そしていつもの「いか様丼」が食べたかったが。写真は以前訪ねた時のもの。スルメイカと漬けの二種類を乗せ、更に生卵の黄身を乗せてある。西伊豆はイカ漁が盛んなので、イカ様様といったところでしょうか。そして、西伊豆は「日本一の夕陽」をキャッチフレーズにしている。黄金崎は夕陽で岩肌が輝くことで有名ですし、他にも夕陽の絶景ポイントはいくつもあるのだ。ということで、この卵の黄身は西伊豆の夕陽を表しているのだと。これに醤油をちょっと垂らし、イカと黄身とショウガを混ぜてご飯と一緒に。新鮮なイカの、甘みのあるねっとりとした食感が絶妙!なのであったが・・・。この日は既に売り切れと!!やむなく「サザエ丼」を注文して待つ。すると、ご飯がなくなり炊き込み中であるので後20分待って欲しいと。そしてその間はサービスの一口ケーキを と。そして漸く「サザエ丼」が目の前に。生のサザエ丼を想像していたが、生ではなく卵とじなのであった。1個分のサザエがスライスされて。しかし、やはり「いか様丼」が食べたかったのであった。店内には、海産物の土産物売り場もあった。多くの海産物が。入口の反対側には「はんばた市場」が出来ていた。昨年の5月にオープンしたようであった。店名の“はんばた”とは、“浜の端”という地元の方言からとったものだと。「はんばた市場」は、地元の農業・漁業者たちが卸した新鮮な野菜や鮮魚が販売される、農林水産物の直売所。地域の一次産業の活性化を目指し、西伊豆町が店舗を建設、地域の企業組合が運営管理していると。「いか様丼」に、少なくなった!!「後ろ髪」を引かれる思いで車に乗り込み、更に国道136号を北上したのであった。前方に「堂ヶ島公園」👈リンク 案内表示が。英文表示は「Dogashima Park」。伊豆半島の中でも、景勝地として知られる「堂ヶ島」。ここに立つと、自然という芸術家がいかに偉大でユニークかがよく分かるのだ。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には天窓洞や三四郎島、トンボロなど目を見張る多くの観光スポットが。前方の「河津桜」の先に「浮島トンネル」が。しばし国道136号で次々に出くわす「トンネル」をカメラで追う。「平羽根トンネル」。「平野トンネル」。「新田子トンネル」。「大田子トンネル」。「新安良里トンネル」。左手に安良里の湾が見えた。「小谷トンネル」。「浜川トンネル」。「黄金岬トンネル」。左手に「黄金崎クリスタルパーク」が。ここは訪ねた事はないが。「新宇久須トンネル」。「三瀧トンネル」。「松ヶ坂トンネル」。伊豆市八木沢手前から前方に「御浜岬」が見えて来た。「駿河湾フェリー」の姿が。静岡清水港と西伊豆土肥港をわずか70分で結ぶ駿河湾フェリー。絶景の富士山を体感できるパノラマクルーズが出来ると。フェリー乗り場入口を国道136号から車窓越しに。左手に県道223号・清水港土肥線の表示が。ここ静岡県の「県道223号」は海の上にあり、駿河湾の清水港と土肥港を結ぶ航路。天候に恵まれれば、富士山が見えることから2013年に「県道2(ふ)2(じ)3(さん)号」に認定されたのだと。この県道には駿河湾フェリーが通っており、土肥港から清水港まで約1時間で行くことができるのだ。「八木沢トンネル」。右手に「土肥金山」。ギネス登録の世界一の巨大金塊、砂金採り体験、お食事、お土産、パワースポットと家族で楽しめる金のテーマパーク。これは、昔子供たちと一緒に訪ねた時の写真であるが金塊重量250kgでケースの穴から家族全員が手を入れて触れて来たが、現在でも出来るのであろうか?現在の金価格は約6500円/gであるので何と16億2500万円となるが。土肥の「山川」を渡りすぐ先を右折し、国道136号を更に山に向かって東に進む。急な坂道を上って行く。左手に西伊豆海岸を隔てる山が連なる。「小嵐トンネル」。「本沢大橋」を渡る。「西尾平トンネル」を渡る。「小松原橋」を渡る。船原峠(土肥峠)の下を通過している「船原トンネル」。船原峠(土肥峠)は静岡県伊豆市に位置する標高574mの峠。別名は土肥峠。 下を通るこの国道136号の「船原トンネル」で中伊豆と西伊豆が結ばれている。そして「天城ドーム」が姿を現した。静岡県伊豆市上船原1120-1。船原温泉の先天城湯ヶ島上船原を左に山手へ1㎞入った丘陵に位置する市営の大規模スポーツレジャー施設。木立に囲まれ た50万㎡の広場に、天城ドーム、ナイター設備付き4面を含むテニスコート10面、9ホールのゴルフコース、サッカーなど2試合が同時にできる多目的総合グラウンド、両翼100mの大型野球場などのスポーツ施設と、公園、宿泊施設、陶芸を楽しめる陶芸の家天城、キャンプ場、が設けられている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.07
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「みなみの桜まつり」を後にして、西伊豆を目指して「青野川」に架かる「ゆけむりばし」を渡る。これは以前の写真です。少し進むと右側に見えて来たのが「銀の湯会館」。2016年3月にリニューアルオープンした「銀の湯会館(ぎんのゆかいかん)」は南伊豆町営の日帰り温泉施設。国道136号線沿いにあり、白い湯煙が立ち上る大きな温泉櫓が目印。温泉櫓の上部からは湯けむりがモクモクと。「加納」交差点を右折し再び「青野川」に向かって進むと前方に「河津桜」の姿が再び姿を現す。「青野川」に架かる「前原橋」を渡る。「河津桜」の先に「下賀茂温泉」の湯けむりが見えた。「上賀茂」交差点を左折し、県道121号線・南伊豆松崎線を進み、西伊豆を目指す。途中交通規制表示があり、案内に従い左折しひたすら山道を進んで行く。そして「一町田」交差点で国道136号に合流し右折して西伊豆を北上する。「国道136号は富士箱根国立公園や伊豆西南海岸に指定される景勝地にある主要道路。伊豆半島最南端に位置する下田市から西伊豆の海岸沿い沿って半島を縦貫し、中伊豆から三島市を結ぶ延長約128 km)の一般国道で、主な通過地は南伊豆町、松崎町、西伊豆町、伊豆市、伊豆の国市、函南町である。本道は全線無料で、松崎町の駿河湾を臨む道路沿いには彫刻が展示されている区間があり、「富士見彫刻ライン」の愛称でよばれている。」とウィキペディアより。静岡県賀茂郡松崎町雲見のヘアピンカーブの先の斜面にも「河津桜」が。桜の下には「法經塔」と刻まれた石碑があった。標識には「ここは松崎エリア」、「雲見温泉まで0.3km」の表示が。「烏帽子岩」。「烏帽子岩」は、標高160メートルを越える高さにそびえる「火山の根」であると。火山の地下には地下深くからマグマが通ってくるマグマの通り道がある。このマグマの通り道が地殻変動などで隆起して地表に姿を現したものを「火山の根」と呼ぶのだと。海から急傾斜で立ち上がる烏帽子山の姿。烏帽子山は、標高160メートルを越える高さにそびえる火山の根。山頂の雲見浅間神社へ続く歩道もあり、山頂からは伊豆西南海岸や富士山、駿河湾の絶景を楽しむことが出来るのだと。この山には、木花咲耶姫命と磐長姫命にまつわる物語もあると。そして「雲見海岸」に立ち寄り車を駐めた。駿河湾越しの富士山の眺望で知られている雲見海岸。残念がら下の方は雲に隠れていたが。海に浮かぶ富士山を眺めることができるのは、ここ西伊豆だけなのであったが・・・。岩の間に富士山が見える絶景の場所。雲見海岸から富士山を眺めると、二つの大きな岩が良いアクセントになっていた。これが「牛着岩(うしつきいわ)」。歩いて場所を移動し、富士山が「牛着岩」の中央に見える場所に。「時は、文化13年(1816年)。伊能忠敬さんが全国を測量していた頃の話。雲見に大洪水が起こり、十数軒の住居が流されたり埋まったりと大変な被害を出た。その際、家畜も海に流されてしまったが、牛が岩に流れ着き生きながらえていたため、この岩を「牛着岩」と呼ぶようになったのだとか。今は確認できないが、以前は岩の頂上に鳥居が建っていたと。海上安全の神様が祀られているのだと。西伊豆の海岸。「牛着岩」の左側の岩の頂部下には四角い祠の如きものが見えたが。正面に「堂ヶ島」、「堂ヶ島温泉ホテル」が見えた。林立する「堂ヶ島」の島々をズームで。右から象島(伝兵衛島)、中ノ島、沖ノ瀬島、高島。駐車場に戻りながら。1977年4月15日、雲見港に迷い込んで死んでしまったセミクジラのために建てられた「供養碑」。「雲見の浦に漂いつきぬ大魚 こころ優しき人々により ここに眠る 滄海院鯨音魚士」セミクジラに戒名「滄海院鯨音魚士」(そうかいいんげいいんぎょじ)が与えられたのだと。山の上にある「牛島神社由来雲見村は文化十三年、今から約100年前大洪水になり、太田川通り住家9軒全てが消失し7軒余り押し埋め、住居屋敷に大石が押し込み大災害になりました。海上の向島にこの時流された牛が着いたので牛島呼ぶようになりました。天草倉庫助監督を十年余り努め事故もなく無事で喜寿を迎へ休職しましたので、町内松田彫刻家に依頼し〇〇〇造ってもらい、牛島頂上に奉納しました。其れ以来海上安全の神様になり人々の信仰も多くなりました。」この周辺はダイビングスポットであると。「烏帽子山」を振り返る。「烏帽子山」山頂からの「光景」👈リンク をネットから。「雲見想い出岬」を左手前方に見る。「烏帽子山に登ろう!西伊豆や南伊豆をはしめとする伊豆半島南部の広い地域は、伊豆が本州に衝突する前に噴火した海底火山や火山島の噴出物からできています。右手にそびえる標高162mの烏帽子山は、かって海底火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現した「火山の根(火山岩頸)」です。山頂には雲見浅間神社がまつられ、天気の良い日には伊豆西海岸や富士山の絶景を望むことができます。雲見の港を取り囲む崖では、海底に降りつもった火山灰や軽石の地層が美しい縞模様を作り出しています。」雲の上にある「富士山頂」。「アオサギ」に似ているが・・・???西伊豆海岸を左手に見ながら国道136号を北上する。「萩谷トンネル」を通過。松崎町の駿河湾を臨む道路沿いには彫刻が展示されている区間があり、「富士見彫刻ライン」の愛称でよばれている。賀茂郡松崎町岩地にある道路脇の駐車場に車を駐める。「浜辺の歌」は「平馬学」作の彫刻。後ろに「堂ヶ島」そして富士山の姿も。正面から。「堂ヶ島」と「富士山」をズームで。白い建物は「堂ヶ島ホテル 天遊」と「堂ヶ島温泉ホテル」。南アルプスの山々、清水市、そして静岡市方面の景色の案内板であったが・・・・。「ここからおよそ、富士山 65km 富士市街 45km 清水市街 40km 静岡市街 40km南アルプスの北岳 110km 荒川岳 100km 赤石岳 95km 聖岳 95km◎前方の山々の左端 ここからおよそ約50kmに御前崎があります」天候に恵まれれば、下の写真の如くに(ネットから)。 【https://gramho.com/explore-hashtag/%E9%9B%B2%E8%A6%8B%E6%B5%B7%E5%B2%B8】より国道136号・賀茂郡松崎町にある「道部」交差点を左折すると右手にあったのが「長八美術館」。こてと漆喰の名人・入江長八の業績や、伝統の左官技術のすばらしさを伝えることを目的とした美術館であると。国道136号沿いにあった海鼠壁(なまこかべ)の「夢の蔵」。左官の天才、入江長八が明治9年に描いた鏝絵。左官の仕事道具「こて」を操り、漆喰で立体感のある絵画を描くもの。龍は長八が得意とした題材。この躍動感と緊迫感が長八作品の大きな特徴だとネットから。 【https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00861/】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.06
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「貞祥寺」の紅葉を楽しんだ後は帰路につく。「洞源湖入口」交差点を右折し、国道141号を南下していく。途中、「伊勢宮」交差点手前からは、左前方に「稲荷山公園 コスモタワー」が見えた。稲荷山公園は、臼田城山にある広さ4haの眺望が素晴らしい公園。信州サンセットポイント100選にも選ばれている高さ35mの宇宙ロケット型展望台「コスモタワー」。「コスモタワー」全景をネットから。 【http://id77055.ldblog.jp/archives/42881851.html】より「馬流橋」手前の「小海町農産物加工直売所」。千曲川に沿ってひたすら国道141号を進むと左手に「南牧村役場」案内が。 長野県南佐久郡南牧村海ノ口1051。山々の紅葉もこの辺りはエピローグに。国道141号沿いにある「ヤマホ青果びっくり市」に立ち寄り土産を購入。小海線「野辺山駅」の近くから「八ヶ岳」の「赤岳」、「横岳」を見る。「赤岳標高2,899 m)」をズームで。JR鉄道最高地点手前から。「南佐久郡」から「北杜市(ほくとし)」に入る。10月に行ったのは北海道の「北斗市(ほくとし)」。「間違いやすい主な同音の自治体」をネットより。 【北斗市と北杜市 | 毎日ことば (mainichi-kotoba.jp)】より国道141号・清里ラインを順調に進む。清里を通過する。左前方に富士山が見えて来たので。道路脇に車を止め、暫しの撮影タイム。前方に県道28号線・北杜八ヶ岳公園線の「八ヶ岳高原大橋」が姿を現す。その先に「赤岳」。左手のダム湖は「清里湖」の「大門ダム」。ネットから。「南八ヶ岳 花の森公園」へ登るリフトカーが左手に見えた。道の駅「南きよさと」にある「まごい駅」から「 こいのぼり号」で、山頂の「花の森公園」を結ぶリフトカー。これもネットから。青空の中を「花の森公園」に450匹の鯉のぼりが泳ぐ。全長180m、高低差100mを登るリフトカーに乗って山頂にある「南八ヶ岳 花の森公園」では季節の花を楽しめるのだと。更に車が進むと富士山の姿が大きく見えて来た。富士山の勇姿を車窓からカメラで追う。そして御坂トンネル、河口湖、山中湖を経て小山町から山北、松田を通過し大井松田へ。今回の夕食も「かつや大井松田店」で。神奈川県足柄上郡大井町金子1636-1。ヒレカツ定食を楽しむ。そして国道1号で旅友邸に無事到着。2日間の走行距離は511kmであったと旅友から。運転お疲れさまでした。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.12.31
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右側にあった「通用門」を振り返る。形式的には薬医門。装飾性の廃された簡素な成り立ち。門の左手には「禁葷酒」の三文字の石碑が。「不許葷酒入山門」が一般的であるがこれは珍しいのでは。多く禅宗の寺の門前に立つ戒律の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜 ・「葷」は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、持ち込み禁止または、これを口にした者は清浄な寺内にはいることを許さないということ。「通用門」を正面から。その先に「鐘楼」が、逆光に黄葉も輝いて。再び狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。逆光に紅葉も輝いて。白壁の「図書館」が左手に。貞祥寺(ていしょうじ)は紅葉はもちろん苔も美しい古刹。美しい苔を接写で。参道そして「惣門」前の階段を振り返る。「観音菩薩 地蔵大士 両尊像」ズームして。こちら苔に囲まれた正式の「参道」なのであった。参道の石段を下って行くと、茅葺き屋根の「島崎藤村の旧宅」がひっそりと佇んでいた。正面から。「島崎藤村旧宅につきましては、10月26日から令和3年4月下旬まで閉館とさせていただきます。」「島崎藤村(小諸時代)旧栖の家島崎藤村は明治三十二年四月小諸義塾教師として信州小諸へ赴任、小諸市馬場裏旧小諸藩士宅に新家庭を構え明治三十八年三月小諸義塾教師を辞するまでの六年間をこの家ですごした。この間、島崎藤村は『落梅集』、『藤村詩集』を刊行するかたわら、散文集『千曲川のスケッチ』名作『破戒』などの稿を起して詩人から小説家へ転生させたのは小諸時代の生活で藤村文学にとって最も重要な時代と言えよう。この家は大正九年その消失を惜しむ本間隆氏によって ひとたびは佐久市大字前山南に移築されたが以上の文学的意義に鑑み藤村生誕一〇〇年につづく没後三十年を記念して昭和四十九年一月十日から総工費七〇〇万円をもって重ねて当所に解体復元工事に着手し、同四十九年六月三十日完成した。建物についての構造形式の踏襲はもちろん後世改変部については、資料に基づき可及的当初の形式に復旧整備し保存を期するものである。建物面積 三十五.五坪。」更に参道を下る。途中に歌碑があった。「禅の寺 ここにひらきし 遠き世の 聖の心 うつつせまり来」阿部 太参道の石段、両脇の石垣を振り返る。「洞源山貞祥寺」案内板を再び。「洞源山貞祥寺 大永元年(一五ニ一年)創建開山 節香徳忠禅師開基 前山城主伴野貞祥公七堂伽藍備わる曹洞宗の寺です。末寺十ニケ寺を有す。一 仏殿 本尊釈迦牟尼佛。ニ 法堂 佛殿ガ氛ねる。法要の場(本堂)。三 僧堂 枯木堂(座禅堂)文珠菩薩を祀る。四 庫院(庫裡) 守護神韋駄天様を祀る。五 山門 左右に増長天、持国天(仁王)。六 東司(西浄)雪隠 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を安置。七 香水海(浴室) 跋陀婆羅菩薩(ばっだばらぼさつ)を祀る。外に開山堂、経蔵、知客寮、方文、江湖景、宝蔵、鐘楼、位牌堂、地蔵堂、三重塔(県宝)等がある・又、財団法人洞源育英会の図書館がある。山門中庭の杉、銀杳樹は四百五十年を経ている。」そしてこちらが、正式な「参道」の入口。「貞祥寺郷土環境保全地域この地域は、貞祥寺一帯の歴史的に特色のある自然環境を守るために指定された地域です。貞祥寺は、大永元年( 1521年)前山城主伴野貞祥が慶徳寺(埼玉県)の節香徳忠禅師を招いて開山としました.境内は、ケヤキやスギの大木に囲まれ、七堂伽藍が整っています.この優れた歴中的自然環境を大切に守り育てましよう。」「井出一太郎先生應制歌碑碑」案内柱。石仏の姿が。島崎藤村(小諸時代)旧宅入口長野県宝洞源山貞祥寺三重塔入口と正式な参道には様々な案内柱が。そして古刹「貞祥寺」の紅葉を楽しんだ後は、この日の帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.30
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「中嶋公園」の紅葉を楽しんだ後は、国道254号で千曲川を再び渡り、県道145号線、国道141号を進み、「洞源湖入口」交差点を左折し、この日の最終訪問地の「貞祥寺(ていしょうじ)の門前に到着。眼下に「佐久平」と右手に「浅間山」が見えた。ズームで。浅間山の白き噴煙も確認出来た。門前の緑地にあった「奉?百番供養塔」。「百番供養塔」とは百の寺を訪ねたら建てる塔であると。石灯籠と石碑。貞祥寺は室町時代の大永元年(1521年)にこの地を治めていた伴野貞祥が開基した曹洞宗の寺で、七堂伽藍(金堂・塔・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・僧坊・回廊・門など、必要な建物を全て備え、大勢の僧侶が住んでいる大きな寺院を示す言葉)を備えた佐久を代表する古刹。正面の舗装された市道を山門に向かって進む。正式な参道にあった案内板。「洞源山貞祥寺 大永元年(一五ニ一年)創建開山 節香徳忠禅師開基 前山城主伴野貞祥公七堂伽藍備わる曹洞宗の寺です。末寺十ニケ寺を有す。一 仏殿 本尊釈迦牟尼佛。ニ 法堂 佛殿が兼ねる。法要の場(本堂)。三 僧堂 枯木堂(座禅堂)文珠菩薩を祀る。四 庫院(庫裡) 守護神韋駄天様を祀る。五 山門 左右に増長天、持国天(仁王)。六 東司(西浄) 雪隠 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を安置。七 香水海(浴室) 跋陀婆羅菩薩(ばっだばらぼさつ)を祀る。外に開山堂、経蔵、知客寮、方文、江湖景、宝蔵、鐘楼、位牌堂、地蔵堂、三重塔(県宝)等がある・又、財団法人洞源育英会の図書館がある。山門中庭の杉、銀杳樹は四百五十年を経ている。」入口左の門柱。禅の言葉「鳥啼山更幽(とりないてやまさらにしずかなり)」と。右の反対側の門柱には何と書いてあったのだろうか?貞祥寺境内の「配置図」。境内の紅葉も期待できそう。「圖書館入口」碑。 紅葉からの逆光の木漏れ日。坂道の上に「鐘楼」、右手に「知客寮」。境内の一角には先の大戦のける前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷「回天」の創始者である仁科少佐の出身地であることから、戦没された方々への哀悼の意と、世界平和を念じた「回天の碑」が建立されていた。世界平和を念じた「回天之碑」。「碑文昭和十九年 太平洋戦争年を重ねて苛烈となり 戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えて黒木博司少佐 仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて 前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成 もって頽勢の挽回を計らんと「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め 日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む 黒木少佐は訓練に殉じたるも同年十一月回天特別攻撃隊 菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下 敵前進基地ウルシー パラオ コッスル水道 ホーランジア グアム アブラ港に また硫黄島 沖縄付近海域 中西部太平洋上に 大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当り攻撃を敢行せり戦遂に利あらず昭和二十年八月 兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻 その乗員八百十余柱を数う 散華せし勇魂を迎慕し回天の偉業を後世に伝えんと 創始者仁科少佐の出身地佐久に永遠の世界平和を念じつつ 長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員 仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉 の霊安からんことを祈念し 戦友相寄り「回天之碑」これを建つ。」人間魚雷「回天」の1/3 の模型であると。「要目表 回天一型炸 薬 1.6 トン 速力 射程能 力 10ノット 78,000M 20 43,000 30 24,000直 径 1.000M全 長 14.500M全重量 8.0 トン排水量 8.1 トン仝上中心 8.800M・・・ ・・・モミジの先には「観音像」も見えた。近づいて、「鐘楼」を横から見上げる。見事に赤く輝く紅葉。その先に「山門」。歌碑「母まさば 大内山に 初春の けふの節会(せちえ)の よし告げ麻之乎(ましを)」。郷土の政治家、井出一太郎氏の歌碑。農林・郵政、各大臣・三木内閣では内閣官房長官を勤めた清廉な政治家であり政治世界では数少ない歌人。 歿84歳(1912 ~ 1996)。歌会始めに召人として参列し、その栄誉を亡き母に告げたい気持ちが詠われていると。逆光に、真っ赤に燃えて炎の如くに。増長天と持国天の仁王を左右に配した茅葺の「山門」。山門の屋根には伴野氏の松皮菱と武田菱が融合した紋が戦国の栄枯盛衰を伝えるようで印象的。初層、上層とも桁行(横)三間、梁間(奥行き)二間の三間楼門。四天王の増長天が正面左に。網目にレンズを近づけてズームで。四天王の持国天は右に。網目にレンズを近づけてズームで。扁額「禅那窟」。「山門」と「鐘楼」、「僧堂」は回廊で繋がっていた。「宝篋印塔(ほうきょういんとう)この塔は、佐久仏教婦人会員が創立十周年を記念して般若心経を一字一石に謹写し、この塔の中に奉蔵し、世界の平和を祈願して、昭和42年5月21日に建立されたものであります。」と案内板に。「本堂屋根銅板葺記念塚」碑。イチョウの大木も真っ黄色に輝いて。紅葉の見事さに狛犬も驚いて「アッ!!」と。植木屋さん?が松の手入れ中。「仏殿(本堂、法堂)」。扁額「覺皇寶殿」。左側に「僧堂(枯木堂、座禅堂)」。「道元禅師」それとも「開基 節香徳忠禅師」であろうか。扁額「枯木堂」。黃と赤のコラボ。「山門」を潜って内部から。「回廊」。唐門形式の山門の右脇に建つ「通用門」。裏山に廻って墓地の中を「三重塔」に向かって進む。墓地の奥にあるのは「東司(西浄)」であろうか。そして「三重塔」が紅葉の奥に姿を現した。「三重塔」は本堂の裏山にある。神仏分離が実行され明治3年(1870)に小海町神光寺から移築。江戸後期の建築と伝わり、扉に施された花鳥の彫刻、先端の水煙は繊細。「蜻蛉(とんぼ)」五言絶句歌碑。攢珠眼晴輝 四翼織紗妍 莫陷邨童計 繊綸柳畔懸」か?「玉を集めたような美しいひとみが輝く、四枚の翅(はね)は薄絹を織ったように美しいさて、邨童の計略に陷らないようにしなさい、細い糸が柳のそばにかかっているぞ」と「蜻蛉(とんぼ)」に話しかけているのであろう。「お道具塚」。長年共にした大切な道具とお別れの供養をする塚。正面に「三重塔」。県指定文化財、江戸時代後期建立、銅板葺き、高さ 15.88m。「長野県宝洞源山貞祥寺三重塔」幕末の名宮大工といわれた小林源蔵の手になるもので神光寺にあったものを移築したと。塔は、亀腹の上に建つ。擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間板張りで窓の部分に彫刻をはめる。中備えはない二層部、中央間板唐戸、脇間板張り、軒は二軒繁垂木。三層部、中央間板唐戸、中備えはない、軒は扇垂木。扁額「大?観音」か。先端の水煙は繊細。見上げて。中央間板唐戸の小窓の彫刻が華やかであった。フクロウや花鳥が刻まれていたので、カメラで追いかける。年輪が見事な造形。歴史を感じさせる「三重塔」を振り返る。紅葉のピークには、ネットより。紅葉の木々の合間から境内の建物を見下ろす。「三重塔」を後にし、石段を降り進むと池の中にも石仏が。ズームして。再び「山門」前に。再び「鐘楼」前の紅葉を。「鐘楼」を再び。鐘をズームで。更に。別の木も負けじと。「境内社」。「惣門」を内側から。惣門は承応2(1653)年の造営で銅板葺の切妻(平入)、正面1間・側面1間の薬医門(やくいもん)。貞祥寺内で最古の建物である。「惣門」の手前左に湧き水を石垣を貫通して導いた手水鉢が。手水鉢。歴史を感じさせるユニークな木を中心を刳り貫いた樋も朽ちて。「惣門」を再び。扁額は「洞源山」。「惣門」を斜めから。「長野県宝 貞祥寺惣門及び山門惣門一間一戸草葺切妻造薬医門で承応二年(一六五三)に建立された寺最古の建物である。小平(長方形断面)の親柱、控柱を円柱としたあまり例を見ないものである。組み物につけられている象が鼻を上に巻き上げたような木鼻に特徴がある。また大瓶束(だいへいそく)の結綿は室町後期の様式を持ち、 木鼻は複雑な輪郭をとる。山門三間一戸草葺入母屋造楼門で、寛文十ニ年(一六七ニ)に小泉三右衛門、重右衛門によって建立されたものである建立時資料が現存し大変貴重である。」「貞祥寺 惣門」柱。「惣門」前の美しい苔の庭。参道はここで突き当り、左手(写真手前)が「惣門」へ、右手が「通用門」。左手奥に惣門、右手に通用門、いずれも長野県宝。「通用門」の奥の石積みの上に白壁が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.29
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今回の旅行の最後に、7,000円分の「地域共通クーポン券」を使うために新川町にある「箱館自由市場」に向かった。この場所は、現役中にお世話になった協力会社の方から旅友Sさんが事前に情報を頂いていたのであった。駐車場に車を駐め、「自由市場」の中に入る。そして紹介して頂いていた店に向かう。毛ガニも並んでいたが・・・高価!!こちらは「浜ゆで」。「浜ゆで」とは、水揚げされたばかりの蟹を漁港にある釜や、漁港近くの加工場などで即時ゆで上げること。活き毛がに。市場内を散策。生イクラ、ウニ入塩辛、松前漬け・・・を土産に購入しました。そして「自由市場」内の食堂・市場亭で遅い昼食を。時間は14:10。帰路の新幹線の時間から、15時前後にここを出れば良いことを確認。私が楽しんだウニ・イクラ丼(2800円)。イカの活き造りもオーダーすれば良かったと今更ながら・・・・。ウニ&イクラがたっぷりと。大満足した後は車で「新箱館北斗駅」前に向かいレンタカーを返却して駅に向かう。4日間の全走行距離は637kmと。旅友Sさん、運転ご苦労さまでした。「新箱館北斗駅」西口公園にはひっそりと石碑が建っていた。「三橋美智也生誕の地」碑。三橋美智也氏の偉業を讃える黒御影石の部分が縦1.1m×横2.1mの超ビックサイズ。黒御影石にはミリオンセラー曲の以下のタイトル「(歌謡曲)古城、リンゴ村から、星屑の町、哀愁列車、夕焼けとんび、達者でナ、 おんな船頭唄、母恋吹雪、あの娘が泣いてる波止場、ギター鴎、お花ちゃん、 一本刀土俵入り、赤い夕陽の故郷、石狩川悲歌、男涙の子守唄、岩手の和尚さん 、 あゝ新撰組、おさげと花と地蔵さんと、おさらば東京、東京五輪音頭、 (民謡・新民謡) 相馬盆歌、炭坑節、花笠音頭、黒田節、北海盆唄、ソーラン節、 斎太郎ぶし、佐渡おけさ、木曽節、江差追分、武田節、 (津軽三味線)津軽じょんがら節、寺内タケシのエレキと競演」が刻まれていた。「三橋美智也生誕の地記念碑建立の由来平成二十八年三月の北海道新幹線開業に際し、当地(旧上磯町)出身で昭和を代表する歌手・三橋美智也の名曲の数々を、駅ホームに流して観光客をお迎えしたいという、地元有志の声を受けたのが発端です。三橋美智也は民謡・津軽三味線・歌謡曲の三分野でいずれも頂点を極め、特に昭和三十年代は「三橋であけて三橋で暮れる」とまで言われ、生涯のレコード発売数は日本人歌手最高の一億六百万枚突破、ミリオンセラー曲三十ニ曲という前人未到の大記録を打ち立て、不出世の歌手と言われました。駅ホームで美智也の曲を流したいという発想に、全国後援会・みちや会が賛同、これを機に「生誕の地記念碑」建立を決意、全国三百余名の方々からの基金によって完成したものである。三橋美智也 その生い立ち昭和五年 (一九三〇)十一月十日、上磯町峩郎に生まれる昭和八年 三歳の誕生日の前日、父三橋亀蔵事故死昭和十一年 函館市万代町に転居、巴座で初舞台昭和十ニ年 函館市巴小学校入学昭和十四年 五月「全国郷土民謡大会」で「江差追分」を歌い優勝、天才少年出現と騒がら れる(八歳六ヶ月)昭和十七年 三月上京、コロムビアレコードで「追分」「たんと節」など八曲吹込み (十一歳四ヶ月)昭和十八年 函館市的場高等小学校入学、民謡一座で北海道・東北・樺太等巡業、勤労動員昭和十九年 津軽三味線の白川軍八郎に師事、「金谷美智也」として座長格で巡業昭和二十ニ年 三浦為七郎一座・陸奥乃家演芸団(寺森県弘前市)に加わり巡業を続ける昭和二十五年 巡業生活に終止符を打ち、函館から姉夫婦に見送られ五月上京、尺八の菊地 淡水の鬥をたたく・綱島温泉のボイラーマンのかたわら民謡教室を開く昭和二十七年 明治大学付属中野高校(昼間部)に二十一歳で入学「おとっつぁん高校生」 として親しまれる昭和二十八年 キングレコードと専属契約・九月二十五日「酒の苦さよ」初吹込み、十二月 二十一日発売昭和三十~ 三十年三月、デビュー一年余に発売の「おんな船頭唄」が初のヒット 三十九年 (歌謡曲、民謡併せて十曲目)同月中野高校卒業。明冶大学進学を断念し 歌手業に専念決意・三十一年・函館を皮切りに北海道公演スタート、 「哀愁列車」に超満員のステージ続く・以後三十九年まで毎年ニ十曲以上、 十年間でニ四〇曲吹込み、ミリオンセラー三十ニ曲という前人朱到の 大記録樹立・三十四年発売の「古城」は三百万枚、三十七年の「星屑の町」は 日木レコード大賞歌唱賞を受賞し、「リンゴ村から」と並ぶニ百七十万枚の 大ヒット、三十八年六月ニ十三日「東京五音頭」を皇太子(平成天皇)御夫妻の 前で披露(上野文化会餘、NHK総合テレビ生放送)昭和五十三年 ラジオ関東「電撃ワイドウルトラ放送」のDJでミッチー・ブーム起こる昭和五十八年 歌手生活三十周年記念曲「越後絶唱」で前人未到のレコードプレス一億枚達成平成元年 八月発足の「みちや会」を「美鈴会」後援の後援会として承認平成七年 十月二十六日、滋賀のゴルフ場帰りの車中で意識不明となる平成八年 (一九九六)一月八日、一度も意識を回復することなく多臓器不全にて逝去、 享年六十五歳ニヶ月 (大阪市立大学付属病院) 「油庫」「明治時代に設置された油庫明治44年( 1911年)に建築され、当時、駅構内の照明用ランプや機械設備などに使用する油類を保管していた倉庫である。レンガ造リで開口部をアーチ状にするなど独特の趣があリ、北海道における鉄道の歴史を伝える貴重な建物といえる。旧渡島大野駅のホームの一角に設置されていたが、北海道新幹線新函館北斗駅の整備に伴い、現在の位置へ移設した。」「峩朗(がろう)鉱山の石灰石」。「峩朗鉱山の石灰石太平洋セメント峩朗鉱山は東日本屈指の石灰石鉱山であリ、明治25年頃よリ採掘が行われている。年間数百万トンもの石灰石が採掘されておリ、同社上磯工場のセメント原料やコンクリート用の骨材などに用いられている。」「マルメロ」「マルメロ」の実。マルメロは秋が旬の果実。「西洋かりん」とも呼ばれ、見た目がかりんに似ていて、熟すと果皮が明るい黄色になりよい香りが漂う。生食には適しておらず、果実酒やハチミツ漬け、ジャムなどに利用されるのだと。よい香りが漂うとのことで、宿泊ホテルのロビーにも置かれていたのであった。「マルメロバラ科マルメロ属の一種である中央アジアが原産の落葉高木で、別名を西洋カリンという。果実は芳香があるが硬くて酸味と渋みがあるため生食には適しておらず、果実酒やジャムの原料として用いられている。北斗市内では明治時代から栽培され、「マルメロの里」としても知られている。」新函館北斗駅から札幌間の約211kmの新幹線は令和12年度(2030年度)開業予定と。「新函館北斗駅 周辺&駅前広場」案内図。再び「土方歳三 1835~1869」掲示塔「箱館戦争最烈の陸戦 死闘・二股口の戦い1869(明治2)年4月9日、乙部より上陸した新政府軍が五稜郭を目指し江差から間道を進撃中との情報を得た旧幕府軍は、市渡村(現・北斗市渡)から西三里(約12km )、間道途上の要害の地・ニ股で迎え撃つことを決める。土方歳三は補佐役・大野右仲らと共に兵を率い出発、翌10日二股着。この時すでに新政府は二股の西五里(約20km )まで迫っていた。上方らは二日間で二股に16簡所、およびその西にある天狗岳に3簡所の胸壁を築き、迎撃体制を整える。13日午後、新政府軍が天狗岳を攻略、戦端が開かれる。倍以上の兵力で迫る新政府軍と、二股の地の利を活かし防戦する旧幕府軍との戦闘は長期間にもつれこむこととなるが、同日夜半、旧幕府軍の決死隊による雨中の奇襲により新政府軍は混乱、夜明け間際に撤退する。戦闘はのべ16時間にわたり、旧幕府軍側の消費した弾薬は約35,000発、将兵の顔は皆硝煙のため真っ黒であったとう。23日、新政府軍が雪辱を期し来襲、再度激しい銃撃戦となる。兵力・物量に劣る旧幕府軍は窮地に立つが、24日に援軍・滝川充太郎が突撃を敢行、新政府軍軍監・駒井政五郎が戦死。戦況は再び一進一退の状況に陥る。絶え間なく撃ち続けた旧幕府軍の銃は手に持てないほどの熱を帯び、冷水で冷やしながら撃つ有様てあった。25日夕刻、新政府軍は別働隊による奇襲で旧幕府軍の混乱を狙うも、大川正次郎、大野右仲らの督戦により失敗。26日深夜、新政府軍は撤退する。箱館戦争最烈の陸戦はこうして幕を閉じ、29日に矢不来台場陥落の報を受け旧幕府軍が自ら撤退するまで、新政府軍は二股を抜くことはできなかった。」「箱館戦争図幅」より「二股付近戦地図」。「大野右仲元肥前唐津藩士、新選組頭取。学才があり昌平坂学問所でも学ぶ。戊辰戦争後、仙台にて唐津藩士を率い新選組に入隊。」補佐役として土方歳三を支えた。ニ設ロの戦いでは開戦当初折り悪くし不在であった土方に代わり指揮を執り、またその後もよく土方を支え旧第府軍を勝利に導いた。後に著した「箱館戦記」は箱館戦争の貴重な記録である。」「大川正次郎伝習歩兵隊隊長。戊辰戦争の歴戦の中、大鳥圭介をその軍才で支えた。箱館戦争緒戦となる新政府軍の峠下村夜襲を滝川充太郎らと共に退け、大野村進軍では先鋒を務めた。二股口の戦いでは土方歳三らとともに防衛にあたり、その際に背面より奇襲を受け全軍が狼狽する中「剣を右に提げ左に冷酒を携え笑って」(『蝦夷之夢』)兵を督戦し、ついには打ち破るなど、豪胆な人物であった。」「滝川充太郎名は具綏。伝習士官隊隊長。大川正次郎らとともに大鳥圭介を軍事面で支えた。二股口の戦いでは援軍を率い駆けつけ、真っ先に馬を駆り敵陣に突撃。新政府軍の軍監・駒井政五郎を討ち取るなど大きな戦果を挙げるも、突出して反撃に合う。これに大川が激怒するところを土方歳三が「大川氏の言もとより理有り、滝川氏の勇もまた感ずべきなり」(『函館戦記』)と仲裁したという逸話が残る。」「今井信郎直心影流免許皆伝。遊撃隊・京都見廻組などを経て、箱館戦争には衝鋒隊頭並隊長(副総督)として参戦。二股口の戦いでは彼の率いた衝鋒隊が防衛の一角を担った。後に著した『衝鋒隊戦争略記』『蝦夷之夢』は、二股口戦を始め箱館戦争の詳細を語る貴重な史料のひとつである。京都・近江屋における坂本龍馬暗殺への関与を自供したことでも知られる。」3連泊した「Hotel La'gent Plaza 函館北斗」(ブログの最後まで函館⇔箱館の変換に気を使ったのであった。)新函館北斗駅1階ロビーにも三橋美智也氏の偉業を讃える縦1.5m×横3.6mの超ビックサイズのパネルも設置されていた。白と黒の2色のみで三味線を弾く三橋美智也氏を表現。「だれもがきいたあのこえ 万人がきいたあのうた みはしで明け みはしで暮れた 三橋美智也 ふる里 ほくとへ」江差追分をイメージした挿絵も描かれていた。「北斗市の7つの輝き」👈リンク北斗市を7つのテーマで紹介展示。1:トラピスト修道院と童謡「赤とんぼ」の詩2:松前藩戸切地陣屋跡と北斗桜回廊3:土方歳三が奮戦した箱館戦争の地 北斗市。 4:北海道水田発祥の地 と「ふっくりんこ」5:茂辺地川の鮭 6:峩朗鉱山と三橋美智也7:北斗市の煉瓦「2016年北斗市応援大使北海道日本ハムファイターズ 27・大野奨太選手 63・上沢直之選手」のサイン。「人形装飾付異形注口土器」抽象的な文様が多い縄文時代の土器の中で、人形装飾は非常に珍しいモノである。この土器は、形が独特の「異形注口土器」というだけではなく、顔や全身を表現する装飾がつくもので、大変貴重なものとして国指定重要文化財となっている。「『明日への秘孔』ケンシロウ像」日本(世界)でここにしかない「北斗の拳」ケンシロウ像を展示しています。「タイトル 『明日への秘孔』「明日は「北斗の拳」において重要な言葉です。希望に満ちた「明日」への道をひらくため、立ちはだかる障壁を、ケンシロウは、北斗神拳の秘孔を突いて消し去ります。全ての人の心に「ケンシロウ」を」」そして「新箱館北斗駅」構内では定番の「白い恋人」もお土産に。新幹線ホームの上の通路は、少し派手目なデザインの装飾が。何をイメージしたものなのだろうか。そして定刻の16:20発のはやぶさ40号で帰路についたのであった。途中、キヨスクで購入した、ちらし寿司弁当を楽しんだ後はアルコールも入り爆睡しての帰路なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・ END・・・
2020.12.29
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次に訪ねたのが「国指定重要文化財・史跡 旧中込学校・資料館」。長野県佐久市中込1877-1県道139号線(小諸中込線)沿いにあり、JR小海線「滑津駅」から約400メートルの場所。木造・二階寄棟造・棧瓦葺、中央部八角塔屋付、間口7間(12.8m)・奥行11間(20.0m)・高さ5尺8丈(17.6m)、1階81坪(267.5平方メートル)・2階77坪(254.3平方メートル)。旧中込学校は、明治8年(1875)に村民及び村内篤志者の寄付により建築された、日本最古の擬洋風学校の一つ。アメリカのサクラメントへの渡航経験を持つ、地元出身の棟梁・市川代治郎の設計および施工により建設された擬洋風建築。建設当時には珍しかったステンドグラスを使用したため、「ギヤマン学校」とも呼ばれ、各地からの見学者が大勢訪れたと。昭和41年(1966)1月27日に長野県宝に指定され、昭和44年3月12日には重要文化財(附帯指定:学校新築請負書・新築入費勘定帳・学校新築諸入費調帳)に、同年4月12日にはその敷地も国史跡に指定された。併設された資料館では、学校教育資料を中心に展示を行っている。史跡内にはサクラやフジの古木があり、四季折々の姿を見せてくれる。また隣接する公園には、「高原のポニー」として親しまれたC56型蒸気機関車が展示されていた。屋根にそびえたつ八角形の塔は、中央の天井から、時を告げるための太鼓がつるされていたので、「太鼓楼」と呼ばれた。そして「太鼓楼をそなえたギヤマン学校」として現在もなお佐久の人々に親しまれているのだと。塔頂をズームして。屋根瓦には「中込」の文字が。駐車場に立つ「中込・野沢のみち案内」。「千曲川流域の佐久盆地に岩村田(いわむらだ)、中込(なかごみ)、野沢(のざわ)、臼田(うすだ) といった集落があり、中心街はそれぞれに分散する。古くは中山道と佐久甲州街道との交点であり、宿場町として発達し、岩村田藩ならびに田野口藩の陣屋町としての側面もあった。なお長野県外では「佐久」は頭高型アクセントで「さく」(「裂く」と同じ発音)と発音されることがあるが、地元では公的な場面を含めて尾高型アクセントで「さく」(「柵」と同じ発音)と発音されており、佐久市民の多くが「さく」を誤った発音であると認識している。」とウィキペディアより。正面に「旧中込学校資料館」そして右に「受付」棟。「旧中込学校・資料館 受付。この日は11月4日の水曜日、時間は12:42であったが、前日の11月3日は文化の日・祝日でありこの翌日であったので閉館中のようであった。旧中込学校校舎は、令和元年東日本台風(台風第19号)により、外壁の一部崩落及び亀裂 等の被害を受けた。 現在、復旧のため国(文化庁)及び長野県から補助金の交付を受け修理を行っていると。「旧中込学校校舎保存修理(災害復旧)事業の概要 建 築 年: 明治8年(1875 年) 所 在 地 :佐久市中込 1877 番地 修 理 期 間: 令和2年4月24日~令和3年1月29日 事 業 者: 佐久市教育委員会 設計監理 :公益財団法人文化財建造物保存技術協会 施 工: 北野建設株式会社」「重要文化財 旧中込学校」案内。「重要文化財 旧中込学校この建築物は、明治8年4月に着工し、同年12月25日に総工費 6,098円51銭8里をもって完成され、当時は「成知学校」と呼ばれていたが、翌年中込学校と改称された。設計者は明治2年2月から6年6月までアメリカに学んだ佐久市石神出身の市川代治郎氏で、建物の内外に欧米風が多くとり入れられギヤマン学校として広くその名を知られ、見学に訪れる人が後を絶たなかったという。現在日本に残っている洋風の学校建築では最古のものであり、昭和44年3月12日 国の「重要文化財」に指定され、さらに敷地は同年4月12日 国の「史跡」に指定された。昭和46年8月1日から、国県の補助を得て解体復原工事に着手し、総工費4,735万円をもって48年6月30日に完成した。建物は一たん解体し、組直したが構造形式の踏襲はもちろん後世改変部については資料に基づき可及的当初の形式に復旧整備した。」昭和44年3月12日 国重要文化財指定昭和44年4月12日 国史跡指定フジの老木が。建築面積259.4m2。木造2階建、屋根は寄棟造妻入、桟瓦葺き。屋上に平面八角の塔屋を設ける。外壁は漆喰塗の大壁(柱を塗り込めて外部に見せない)とし、窓回りのアーチ形や建物四隅の隅石形は黒漆喰で形成する。正面側を除く他の3面は腰壁(1階窓から下)を下見板張りとする。内部は1・2階とも奥行方向に廊下を設け、その左右に部屋を配する中廊下式平面である。1階は玄関の左右に小部屋(小使室、控所)を設け、その先は右手に2階への階段と宿直室があり、その奥は講堂と教室とする。講堂・教室間の廊下は内法から上を板壁、下を開放とする。室内は板張りだが、1階奥の奥行半間分は土間とし、もとあった付属屋への通路となっている。2階は廊下の左右に校長室、教員室、教室など計6室を配する。玄関扉上の半月窓と、2階廊下突き当りの円窓にはそれぞれ色ガラスを嵌めこむ災害復旧工事中で一面は養生シートに覆われていた。そして次に旧中込学校の南に隣接する、小海線蒸気機関車を見る。JR小海線は大正4年(1915年)8月8日に「佐久鉄道」として小諸・中込間が開業し、昭和10年(1935年)11月29日に山梨県の小淵沢までの全線が開通した。平成27年(2015年)には、小海線開業100周年、全線開通80周年を迎えた。この小海線をかつて走っていた機関車が2台が中込の成知公園(旧中込学校がある公園)に保存されていた。蒸気機関車C56とガソリンカー。小海線蒸気機関車 C56 101号● 蒸気機関車について 明治5年の新橋・横浜間の鉄道開業以来蒸気機関車は鉄道の主力となり、当初輸入機 ばかりだった機関車は、大正期から優秀な国産機が多量に製造され、一時は国力の象徴に すらなりました。最多量時(昭和21年)には6,000両近くいましたが、時には勝てずその座を 追われ昭和51年12月には国鉄線上からその姿を消しました。● Ⅽ56型蒸気機関車に 比較的距離の長いローカル線用に、タンク型蒸気機関車のⅭ12型テンダ型版として昭和10~ 12年にかけて164両が造られました。軍供出でタイ・ビルマ(泰面鉄道など)、樺太へ大勢 90両が 渡っていった戦争の申し子でもあるのです。全長:14.3M、全副:2.3M、全高:3.9M、重量:65.5M、動輪直径:1.4M。火格子面積:1.3㎡、ボイラ圧力:1.4kg/c㎡、最高速度:75km/h、出力:505馬力。フェンスの中に、蒸気機関車とガソリンカ―が展示されていた。こちらは「ガソリンカ―」。横から。保存されているガソリンカー「キホハニ56」は日本車輛製造で昭和5年(1930年)に製造された車体で、当時最新鋭のボギー台車という走り装置をつけた県下初のガソリンカー。車体の横には「佐久鉄道」のエンブレムが装飾されていた。「ガソリンカ―及び蒸気機関車の見学についてガソリンカ―及び蒸気機関車は、安全管理のため、施錠しています。見学を希望される方は、旧中込学校管理室受付にお申し出ください。< 見学上の注意 >☆ 機関車とホームとの間には隙間があり大変危険です。足元には十分注意してください。☆ 吊り革及び計器類には手をふれないでください。☆ 中学生以下の場合は必ず保護者または責任者同伴で見学してください。」「蒸気機関車 C56 101」。横から。斜め後ろから。「三菱神戸造船所製造」の文字が。フエンス越しに「蒸気機関車 C56 101」を最後に。そして次に訪ねたのが千曲川の近くにあった「諏訪社」。長野県佐久市原19。境内には黃葉真っ盛りのケヤキの巨樹が。境内。大沢地区(旧大澤村)が開発された頃には、豊富な湧水が有り近くに水神様が祭られ「滝ノ宮」と称されていた。祭神が諏訪の神になったのは棟札から延亨4年(1747)で、現在の本殿は文化2年(1805)に新しく建て替えられたものである。構造は「流れ切妻二間造り」で正面の扉が2箇所有り、滝ノ宮と諏訪の神の2神を合祀していることを示している。本殿の外周全面の彫刻は、文化2年の創建時の作と考えられ、作風から往時全盛の文化文政期の華麗な時代色を良く現わし、極めて文化的価値の高い建造物であり、後世に継承すべきものである。作者は不詳。神社の周囲の堀には湧水を通しており、滝ノ宮の名残りとも言え珍しい造りである。湧水の減少による用水不足から、神社に天明8年(1788)に溜池を築造している。池は傾斜地の低部に長さ30間・高さ9尺の土手を造り、広さは30間×10間の矩形状で神社の湧水を引いている。農耕神・水神としての神格の面を良く示している と。祭神は滝ノ宮大明神(たきのみやだいみょうじん)建御名方命(たけみなかたのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)。拝殿の扁額「水除稲荷社」。「諏訪社由緒記祭神は建御名方神、譽田別神稲倉魂神にして以前は宮の木に鎮座されし社にして、宝永2年に本場所に遷宮したり、尚、明治42年3月に村内北方に祀られし野沢八幡社、東方に在りし川除稲荷社と西方に在りし社口社を合祀したる社なり、社殿は宝永4年に造営あり其后寛政8年に再建され今日に及ぶ、この氏神は鬼内除、水防農事の守護を司る。 春祭 4月25日 秋祭 9月19日」再びケヤキの巨樹を見上げる。見上げて。そして近くにある「中嶋公園」を徒歩にて訪ねた。「中嶋公園」は野沢市街地の東、千曲川の河畔にあった。約1.7haの広い園内には緑の木々や四阿・池などがあり、緑と水に囲まれ、静かな雰囲気に包まれた環境の良い公園。見事な紅葉が迎えてくれた。紅葉のundulation・うねり。池の周りには柳の大木が並んでいた。緑と赤のコラボが美しかった。池の周囲は「日本庭園」の如きつくり。紅葉のピークは1週間先か?小さな池の横には小さな社が。見事な紅葉を追う。四阿。逆光により輝く紅葉。歌碑。「あたらしき 毛布に包み つぎつぎに 戦う海へ 戦友をながす」。歌碑の裏面。「エンダービー沖海戦戦雲急を告げる昭和十八年八月 前進基地トラック島を死守するべく松本第一五〇部隊に動員下る翌年一月輸送船辰羽、暁天、新京の三隻に分乗 駆逐艦藤波を旗艦とする護衛艦六隻と共に一路南下せり ニ月十七日午前三時敵潜水艦の攻撃を受け暁天丸は左舷船腹に続いて中央部に魚雷命中 火柱と共に吹き上げられし兵諸共明けの南海に沈む 護衛艦は爆雷攻撃と漂流せる兵の救助に当たり船団は危険水域を脱出すべく単独航行中 午前八時無電にて敵機動部隊の接近を知る 輸送指揮官は最悪の事態を訓示全火力を配備戦闘態勢に入る 午後一時敵機グラマン来襲爆弾投下と反復機銃掃射にて襲いかかるに敢然とこれを迎え撃ち高射機関砲重火器の弾道は天を覆えるも血を噴き斃れる(たおれる)もの多く凄惨なる戦場と化したり 斯くて一弾は辰羽丸の船橋に命中不運にも船艙のダイナマイトを誘発 大爆発を起こし船体は二つに折れ一瞬にして部隊主力は船と共に沈没せり 残余の将兵は辛くも逃れしが波荒く五時間余りの漂流に次々波に消え日没に至り駆逐艦に一部救助せられしも尚多く漂流せり 弾薬を満載せる駆逐艦に余力なく断腸の思いにて出航す 救助せられし兵の息絶ゆるもの多く 手厚く弔う術とてなく暗夜の海へ黙々と水葬せり 戦場を逃れし新京丸はトラック島を目前に執拗な潜水艦の攻撃に無念なる最期を遂げたり その後四月本隊を追及せる補充部隊もサイパン島にて全員玉砕せるは何たる悲運ぞ ここに拙き一首を手向けて亡き戦友の霊を慰めんとする昭和六十年 ニ月十七日 元松本一五〇部隊第二大隊第四中隊 掛川通典 」「平和祈念碑についてこの石碑は、佐久市甲(浅科下原)元兵士故掛川通典氏が、太平洋戦争において、中部太平洋トラッつ諸島エンタービー沖海戦での自からの戦争体験を和歌に詠み、戦場の悲惨な模様を後世に伝え継ぐだめに、また戦友の霊を慰めるために建立されたものです。都合により移築することになり、洞源山貞祥寺32世住職岡本有光住職様と、株式会社安井建設社長安井英ニ氏のご理解とこ協力によりこの地に再建立することができました。先の大戦の歴史を正しく次世代に語り継き、英霊の顕彰をし、平和への思いを新たにし、感謝したいものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.28
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まずは、昨日12月27日の早朝の朝焼けです。時間は7:58。放射状の陽光が確認できたのであった。雲も黄色く輝いて。--------------------------------------------------------------------------------------------------そして次に車で訪ねたのが「Winning Hotel」。そして「はるばる来たぜGoto函館」で来たのであるから「北島三郎記念館」に。ホテルの、1、2、3Fが「北島三郎記念館」になっているとのこと。駐車場側のホテルの入口にあった「北島三郎記念館」案内。「函館市電」の通る道路側に進んでいくと、「日和坂」とその先に「函館山」が。「北島三郎記念館」案内。「Winning Hall」入口。「Winning Hall」の中に「Winning Hotel」と「北島三郎記念館」がある形なのであろう。入口で「北島三郎 男の勝負」ののぼり旗。 2016年06月に発売された歌のようであるが・・・・。「和魂」。こちらは今年2020年の発売か。「北島三郎記念館」には入らずにthroughする。大人の一般「入場」👈リンク の料金は1,540円(税込)と高額。レコードジャケットが並ぶ写真をネットから。「北島三郎記念館」の斜め前に合ったのが「市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)」。「函館は、明治から昭和にわたり、未曾有の大火を経験してきました。明治11(1878)年、12年の大火では、ほとんどの市街区域を失いました。このため開拓使は、市街の区画整理と不燃質家屋の奨励に乗り出し、明治12年に被災した初代渡辺熊四郎もその施策に応じ、明治13(1880)年11月、開拓使の茂辺地煉瓦石製造所の煉瓦を使用した洋風不燃質店舗「金森洋物店」を開店させました。当時の金森洋物店は、舶来製の小間物、雑貨品を販売し、明治40(1907)年の大火では、周囲の不燃質店舗が焼失する中で、金森洋物店のみが難を逃れました。大正14(1925)年まで金森洋物店として使用された建物は、昭和38年、北海道指定有形文化財とに指定されています。この建物は、昭和44(1969)年から旧金森洋物店「市立函館博物館郷土資料館」として開館してしていましたが、建築以来、すでに100年以上の年月が経過していたため老朽化が著しく、平成10(1998)年から休館し、明治13年建設当時の形に限りなく近い形に復元され、平成12(2000)年10月1日より新しく「市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)」という名称でリニューアル・オープンしました。」函館観光のメインスポット「金森赤レンガ倉庫」は、渡邊熊四郎が明治13年(1880)に創業した輸入雑貨店「金森洋物店」から始まったのだと。「森」と書かれた西洋酒の樽が。「市立函館博物館郷土資料館」案内。「市立函館博物館郷土資料館」の前にあったのが「函館市文学館」。北海道函館市末広町22-5。函館市文学館は、石川啄木など主に函館市にゆかりのある作家に関連する資料約250点を収蔵・展示していると。「函館市臨海研究所」 函館の歴史的建造物である旧函館西警察署庁舎を,水産・海洋関連事業の技術の高度化や水産振興に貢献する研究施設として再整備したと。「函館市臨海研究所」前にあった「函館郵便役所跡」碑。「函館郵便役所は道内最初の郵便局として明治5年(1812年)7月ここに設けられた。郵便制度の創始者前島密は幕末期にこの地で学び修め、また箱館戦争の幕軍総裁榎本武揚は後に初代逓信大臣になる等函館は郵政先覚者ゆかりの地である。ここに先達の偉業を偲びつつ碑を建てる。昭和54年(1979年)6月 北海道郵便局長 平林宏次」「沖之口番所跡江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その後江差と箱館(18世紀のはじめ頃)にも設けられ、文政4(1821)年沖之口役所と改められた。明治2(1869)年に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。なお、明治18年に船改所構内に函館水上警察署が置かれたが、船改所閉鎖後も存続し、大正15(1926)年に建てられた建物が現存している。(水上警察署は昭和27年に西警察署と改称し、昭和59年に新築移転した。)」「景観形成指定建築物等之證」。岸壁に向かって進むとあったのが「箱館丸(日本初洋式帆船)」この船は、続豊治(つづき とよじ)が造った日本初の洋式帆船(スクーネル船)。彼は造船技術を学んでおり、1854年にペリーが箱館に来航した際、箱館奉行から艦内見学を許可された。その後、スクーネル船の模型を製作。この模型の出来が良かったため、箱館奉行は続豊治に本物のスクーネル船を作るように命じ、この箱館丸を完成させた。(1857年)自分で工夫して設計し造り上げた所が凄い。奉行の堀利煕は江戸に帰るときにこの箱館丸に乗って帰った。更に2隻目の亀田丸が1859年に完成しロシアへ航海に出た。この船は本物ではなく、青函トンネル開通記念博覧会(昭和63年)のために復元されたものを続豊治の6代目、続博さんなどが寄贈してくれたものであると。幕府は、安政元年3月、日米和親条約を締結、下田・函館の2港が開港されることとなった。箱館奉行所では、幕府に対し蝦夷地の警備および、開港に伴う外国との交渉上、奉行所所属の船舶が必要となり、箱館で造ることを申語し許可されたため船大工績豊治に造船の命令をくだし、安政4年11月完成、船名を「箱館丸」とした。日本造船界に偉大なる員献をもたらしたこの「箱館丸」は、日本人の創造設計による日本で最初に造られた洋式帆船であり箱館(函館)の人により箱館(函館)で造られたことに意義深いものがある。」「箱館丸」後方から。重さ56トンの箱館丸は2本マストで、長さが30メートル。「太刀川(たちかわ)家住宅店舗」。明治34(1901)年、米穀商初代太刀川善吉が建築した土蔵造り2階建店舗。煉瓦積み漆喰塗りの不燃建築。国指定重要文化財。太刀川家は、江戸末期から米穀店、漁業、回漕業を営んで財を成した商家で、この住宅兼店舗は、1901(明治34)年に建てられたもの。レンガ積みの土蔵造りで、洋風アーチを取り入れ、左右に卯建(うだつ。防火用袖壁)がついているのが特徴です。明治40年の大火でも難を免れた防火造りの建物。内部の梁や柱などの木組、欅の大きな一枚戸なども見事です。明治の商家建築として、1971(昭和46)年に国指定の重要文化財となりました。函館市景観形成指定建築物。「佐藤商会」木造3階建ての洋館。明治40年に開設され、ロシアの鮭鱒を扱う漁業会社だった堤商会の事務所であった。ライトブルーの下見板貼り、3階正面にバルコニーを持つお洒落な建物。大幸機動興業所社屋として紹介されている場合が多いのだが、現在は「日用雑貨諸道具類販売佐藤商会」の看板がかかっていた。函館市景観形成指定建築物の木造3階建て。現在は「ROMANTiCO・ROMANTiCA」というカフェになっているようであった。「ペリー会見所跡」。安政元年(1854年)日米和親条約を締結したペリーはそのまま艦隊を率いて箱館に入港。有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老松前勘解由らと会見をした。山田屋跡地にはその会見があったことを示す看板のみが設置されていた。「ペリー会見所跡安政元年( 1854年) 3月、アメリカ海軍提督M. C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老・松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って箱館を去った。この図は、ペリー著「日本遠征記」の挿し絵のなかの一つで、会見の模様を描いたものである。」幕府と開港について会談するペリー「函館土木作業所 マンホール蓋」北海道庁旧本庁舎の周囲に星のような模様(七光星)の北海道章を描いたデザイン。「北海道警察官派出所発祥の地」碑。明治五年六月開拓使函館支庁邏卒分営を 地蔵町(現在地)と西浜町の二箇所に設置し、 北海道警察官派出所発祥の地となる。函館市弁天町21−7。「新選組最後の地」碑。箱館戦争の折に旧幕府軍に所属した新選組が守備に当たり、最後を迎えた弁天台場跡の近くにある碑。市電「函館どつく前」電停そばの児童公園内に設置されていた。箱館戦争時、新選組が中心となった旧幕府軍が陣取っていた「弁天台場(弁天岬台場とも)」が、新政府軍の攻撃を受けて、1869(明治2)年の旧暦5月15日(現在の暦で6月24日)に降伏。これにより、京都で名を馳せた新選組の戦いに終止符が打たれたのであった。この碑の前が「魚見坂函館で一番西にある坂で、坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだったのでこの名が付いたといわれている。この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。」「弁天岬台場跡西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。」東南端にはトンネル式通路のアーチ型入口を構えていました。砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備し、その中にはプチャーチン搭乗のロシア艦ディアナ号のものもあったといわれています。土石は主に函館山より切り出し、大手門などの重要な部分には、大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれています。工事は松川弁之助が請け負い、翌年から井上喜三郎がこれを引き継ぎました。江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて、外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設しました。「みなみ北海道 最後の武士達の物語」ポスター・「箱館奉行 永井玄蕃」「箱館港の要塞 弁天台場弁天台場は、箱館開港に伴う諸外国船からの防衛拠点として、箱館港人口に築造された。ペリー来航時に築造された江戸・品川台場の西洋式砲台を手本に、諸術調所教授武田斐三郎が設計を担当し、1856 (安政3 )年に工事着工、1864(元治元)年9月に完成した。総面積は9,800坪(約32,340m2)、周囲380間(約684m )の規模であった。台場砲座に備付けの大砲は、1860 (万延元)年に伊豆戸田村で座礁したロシア軍艦ディアナ号寄贈の大砲(80斤・24斤カノン砲)が設置された。幕末開港期は祝砲・答砲のみの使用であったが、箱館戦争時には箱館港海戦の主戦場となり、明治政府軍艦へ砲門を開くなど要塞としての機能を果たした。1869 (明治2 )年5月15日に弁天台場を守備した旧幕府軍が降伏し、台場の役割を終えた。箱館戦争終結後は、明治29年からの函館港湾整備に伴い、明治31年までに解体されて、外面石垣は函館漁港護岸整備に転用された。」「箱館奉行 永井玄蕃 1816~18911816 (文化13 )年生まれ。25歳の頃に旗本永井尚徳の養子となった。名は尚志(なおゆき)。1853 (嘉永6 )年、幕府の目付に登用後、長崎海軍伝習所総監理、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行、大目付を歴任。1867 (慶応3 )年、旗本では最高位の年寄に就任した。1868 (慶応4 )年、復本武揚と共に蝦夷地へ渡り函館戦争に参戦し、蝦夷地平宗後の仮政権では箱館奉行として、箱館の統治および外国との交渉を行った。翌年の新政府軍箱館総攻撃時に弁天台場で陣頭指揮をとって奮戦したが、6月24日(旧5月15日)に新政府の勧告を受けて降伏した。投獄されたが、1872(明治5)年に特赦で出獄して明治政府に出仕。開拓使御用係、左院小議官、元老院権大書記官を歴任した。1891(明治24)年に76歳で没した。」「会計奉行 川村 録四郎 生没年不詳生没年は不明。蝦夷地仮政権時には会計奉行となり、箱館戦争終結時には海軍取調方として、箱館奉行永井玄蕃の補佐役を勤めていた。弁天台場降伏の前日の6月23日に、新政府軍田島圭蔵の願いにより、永井玄蕃とともに五稜郭に赴き、田島と榎本武揚の会見の執り成しを行った。翌6月24日(旧5月15日)に新政府の勧告を受け入れて、永井玄蕃らとともに降伏した。特赦で出獄の後、明治政府の逓信省書記官を勤めたとされる。」「新選組頭取 島田 魁 1828~19001828 (文政11)年、濃州厚見郡雄綱村(現・岐阜県岐阜市)生まれ。1863(文久3)年、新選組に入隊し、調役並監察、ニ番組伍長を勤めた。新選組一番の巨漢として知られ、箱館戦争では、土方歳三の松前攻略に同行するなど各地を転戦した。1869 (明治2 )年6月20日(旧5月15日)、弁天台場救助のため土方歳三が一本木関門を突破し、異国橋付近で読弾を受けて戦死した経緯など、箱館戦争の詳細な経緯を「島田魁日記」に記した。5月15日弁天台場で降伏し、名古屋に送られた。1900 (明治33)年死去。享年73歳。」「弁天岬台場跡」の前、道路を隔てた場所にあったのが「厳島神社」。「厳島神社」は、元々「弁天社」という名称であったが、1902年(明治35年)に「厳島神社」と改称されたとのこと。「手水舎」。手水鉢には奉納 文政六癸未年正月 願主 伊達氏 栖原氏とあり、1823年の事で願主は当時の場所請負人の名前であると。近づいて。一ノ鳥居は天保8年(1837)に、加賀国橋立(石川県加賀市)の船頭たちが寄進した石鳥居。左:天保八丁酉歳三月吉日 辨天宮講中世話方 池田屋博六 江別屋博右衛門 蛯子長兵衛右:奉寄進 加州橋立浦廻船中(現在の石川県加賀市地方)とあり遠く現石川県加賀市から北前船主で運んで来ての奉納したものなのであった。石鳥居の柱の下にあったのが「方向石」。 「方向石」とは「方位」を見定める石のことで、一般的には方角石と呼ばれ、 江戸時代から明治初期にかけて、回船業者や漁師が天候予測のため、港の見える小高い丘に置いたものと、 単に置磁石的なものとして、高い山やある地点に置いたものがあるとのこと。上面には十二支方位が刻まれていた。花崗岩製の石鳥居の「扁額」に「嚴島神社」と。「嚴島神社この神社は江戸前期に創建された神社で以前は弁天社と称された。場所は何度か移され、現在地には慶応二年(1866年)に移ってきた。現在の建物は明治四十年(1907年)の大火後、大正四年(1915年)に建てられたものである。弁天社は明治四年(1871年)に市杵島神社と改められ、明治三十五年(1902年)に厳島神社と改称された。境内には寄進された貴重な遺物が多く、文政六年(1823年)の手水石鉢を始め、天保八年(1837年)に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や嘉永七年(1854年に)海上安全のため奉納された方位石など古い建造物がある。この神社は古くから海の守護神として地元漁業者のみならず、松前を始め遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことが、これら遺物でわかる。」「拝殿」。前方に狛犬(慶応四戊辰年五月吉日、北前船主の奉納。江戸時代最後の年で1868年10月23日(慶応4年9月8日)には 明治天皇の即位による改元が行われたのであった。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)で例祭日は7月20日。ご利益は、海上安全・商売繁盛・知恵・技芸・音楽・金運アップなどと。扁額「嚴島神社」。左は「道祖神」と右に「稲荷社」。隣に「弁財天・恵比須堂」。小さな「社務所」。そして「嚴島神社」の境内を出て「新選組最後の地」の「弁天岬台場跡」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.28
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「軽井沢 絵本の森美術館」。南軽井沢の風越公園の北に1990年7月に開館した「欧米絵本の歩み」をテーマとする絵本美術館。15,000m2の敷地に二つの展示館(第一展示館:吉田新一文庫など、第二展示館:企画展を開催する展示館)、絵本図書館、ショップ(「木のおもちゃのお店」「森の生活館」「絵本のお店」)、カフェ(「ルーエ」)などが点在し、森の中で静かに絵本の世界に浸れる。年に数回企画展を開催し、様々な角度から絵本文化を紹介している。設計は類設計室が行ったと。「軽井沢 絵本の森美術館」。再び、浅間山頂の噴煙。「軽井沢高原文庫」。小説家、野上弥生子(日本芸術員会員、文化勲章受賞)の書斎兼茶室である。1933年に北軽井沢に建設され、その後1996年この軽井沢高原文庫の庭内に移築し公開している。弥生子は「ホトトギス」への掲載を機に文壇にデビュー。また夏目漱石の門下である野上豊一郎の妻であることでも知られている。弥生子の軽井沢を舞台にした作品には「迷路」、随筆「鬼女山房記」がある。この山荘は文人達の交流の場でもあった。旧有島武郎の別荘浄月庵「一房の葡萄」というライブラリーカフェ。有島武郎が1916~22まで夏を過ごした三笠の別荘。「信濃日記」他を執筆。1923年(大正12)6月、有島が雑誌記者波多野秋子とここで情死したことで有名な建物。浄月庵「一房の葡萄」を正面から。「有島武郎別荘浄月庵この建物は小説家・有島武郎(1878~1923)の軽井沢・三笠にあった別荘を移築したものである。明治の末に父・武によって建てられ、父の死後武郎が譲り受けた大正5年から大正11年まで毎年家族と避暑を楽しんだ別荘で、大正12年6月、彼が思いがけない最期を遂げた別荘としても名高い。彼の代表作の一つ「生れ出(いづ)る悩み」はこの別荘で執筆された。そのほか軽井沢を舞台にした作品に「小さき影」や「信濃日記」などがある。平成元年(1989年)秋、長年この別荘の維持管理にあたってきた旧軽井沢区青年部樫の実会より寄贈を受け、この地に移築保存した。移築に際しては、当初あったと思われるベランダ部分その他数か所の復元を試みた。なお、この建物のあったもとの三笠の地には、現在、有島武郎終焉の地碑が建てられている有島武郎の辞世の歌の一つを収めた扁額。「せみひとつ 木をばはなれて 地におちぬ 風なき秋の しづかなるかな」室内には有嶋武郎の著書、原稿の原紙、この他に室生犀星の原稿などの貴重な資料を公開。資料展示用のケースは細密な軽井沢彫で作られていた。「有島武郎全集」、「有島武郎滞欧画帖」。有島武郎の情死を伝える東京日日新聞の記事の一部「文士有島武郎氏 軽井沢で情死す」。「軽井沢の別荘に於いて有嶋武郎氏愛人と情死す」有島武郎の代表作である「或る女」が映画化された時のポスター。京マチ子、 船越英二 、若尾文子が出演したようであった。2階は遺品などの展示がされ、ここの別荘で『生まれ出る悩み』を執筆し大正12年に最期を遂げた別荘。軽井沢旧三笠ホテルの南東の山道に碑が建つ「有島武郎終焉地碑」の写真。「チルダへの友情の碑」の写真。チルダは武朗がスイスへ旅行した時の友人であり、帰国後も文通が続いた。「有島武郎 — 有島武郎と軽井沢 —有島武郎は東京小石川区水道町(現、文京区水道)に生まれた。有島生馬・里見弴らの長兄。横浜英和学校、学習院中等科を経て、明治29年(1896)札幌農学校(現、北海道大学)に学ぶ。34年卒業。この間、キリスト教に入信、また貧しい家庭の子供を集めた遠友夜学校を手伝った。36年米国に留学、3年間の研究生活の後、ヨーロッパ各地を歴訪して40年帰国。41年母校の講師(のち教授)となる。42年神尾安子と結婚。43年、志賀直哉・武者小路実篤らと同人雑誌「白樺」を創刊、また信仰に疑問を感じてキリスト教から離れた。大正3年(1914)安子が肺結核を発病、札幌生活を切り上げ、鎌倉に移転。5年安子、父を相次いで亡くしたのを転機に本格的に作家の道を進む。」・・・・・・・・・・・・・・・「有島武郎別荘 浄月庵」を後にし、駐車場に戻る。再び浅間山山頂の噴煙を見る。ズームで。白煙が雲の如くに棚引いて。そして国道18号まで戻り、中軽井沢駅方面に向かって進む。右手に「軽井沢町役場」の案内が。正面に「浅間山」。「中軽井沢駅」に到着。中軽井沢駅は、長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉にあるしなの鉄道線の駅である。しなの鉄道移管後に2012年、駅舎が全面改築され、地上駅から橋上駅になった。軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」と接続している。時間は10:35。軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」や「中軽井沢図書館」が併設されている。こちらがしなの鉄道「中軽井沢駅」。構内の「観光案内所」。くつかけテラスの「人family」(1989年)。白と黒の大理石で彫られた、1989年作でタイトルは「人-family-」。2本の支柱の間に小さい柱があり、まるで子どもを中心に夫婦が寄り添っているかのように見える。新潟県出身の彫刻家・高橋清さん(1925-1996)の作品で2015年に妻の玲子さんが寄贈したものとのこと。再び国道18号に戻り、県道9号線・旧中山道に入ると小田井交差点からは「長野リサイクルセンター」ビルの屋上に巨大なフクロウの姿が。2003年に閉館した星野リゾートのホテルのシンボルとして鎮座していたが、これを引き取ったようだ。そして久しぶりに訪ねた「佐久平駅前」の蕎麦屋「草笛」。軽井沢で話題になっている人気蕎麦店「佐久の草笛」。江戸時代から続く伝統の信州七割蕎麦を伝承する名店。店先の石碑には、4名の俳句・短歌が刻まれていた。句・歌には「そばの花」の文字が。「そばの花文学賞」の優秀作品を石碑として残しているのだと。「新墾の丘の起伏やそばの花」 足立忠司「減反を支えた棚田そばの花」「そばの花・・・・・・・・」「いちめんの秋そばの花波うつは 透明な風の渡りゆく道」 古川隆子裏側にはそばの花文学賞 創設者 中村 利勝 選 者 宮坂 静生平成12年10月 建立 の文字も。ざる蕎麦700円とかき揚げ天ぷら250円を注文。巨大な「かき揚げ」。「信州蕎麦」を楽しんだ後には「創造の森 駒場公園」を訪ねた。長野県佐久市猿久保字丸山55駒場公園は、佐久平のほぼ中央に位置し、広さ約10haの公園です。園内には、創造館、多目的ひろば、プール、美術館などが設けられ、佐久地方広域圏におけるスポーツ・文化・芸術の拠点として整備されたもの。また、樹木などの植栽が多く、緑あふれる安らぎの空間を創出していたのであった。「駒場公園案内図」「駒場公園 屋外彫刻案内」駒場公園内には18体の彫刻作品が屋外展示されていた。佐久出身の「油井一二」氏が寄贈したものが多いと。一つずつ順番にカメラで追ったのであった。野外彫刻パンフレット。淀井 敏夫作「渚のエウローペ(Europe on the beach)1878」。ギリシャ神話エウローペの話を元に作られた彫刻。ゼウスは、一目ぼれした美しい娘エウローペに近づくために白い牡牛になった。心を開いた彼女が牡牛の背中にまたがった途端、海を渡りゼウスは、思いを遂げたという話。馬の背に仰向けになったエウローペ。モミジの紅葉も楽しみながら散策。この公園のモミジも青空に映えて。「美術館」もあるようだ。中央の噴水は、コロナの影響でお休み中。清水 多嘉示作「メディタッション(Meditation)1954」「ギリシャ劇場」樹木に囲まれた、598人収容可な屋外劇場。圓鍔(えんつば)勝三作「みどりのリズム(Rhythm of Green)1958」。土手の斜面にも彫刻が。菅原 安男作「立 女(Woman)1975」。木内 克(よし)作「エーゲ海に捧ぐ(Dedicate to the Aegean Sea)1972」「佐久創造館」の横を歩く。本郷 新作「踊る女(Dancing) 1973」ユニークな造形の遊具・砂場が続く。晝間(ひるま) 弘作「母と子 1978」。富永直樹作「砂漠に生きる男 1977」「佐久市立近代美術館」。「佐久市立近代美術館」の前を歩く。「噴水」が回転する仕掛けのようであったが・・・。そして「佐久創造館」前の像。北村西望作「馬上天女」。「馬上天女この像は貢馬(くめ)にゆかりの駒場の地にあいふさわしく、駿馬の背なに佐久の童女が牧笛きよく奏する姿を象徴した作品です。」噴水の先にあった、田辺光彰作「さく 1983」👈リンクこの造形作品は、高さ40メートルのステンレス鋼管製の風導塔と、長さ20メートルの佐久石張りの本体とから成り立っている。塔は、その頂上に直径2メートルの柱頭部が北に向って153度の角度で開口し、佐久上空に四季を通じてもっとも多い浅間山方向からの気流を迎え入れる。その気流は、風圧によって、断熱された風導管を下降し、除水装置のほどこされた地下導管を通って、本体内部へ流れ込む。風速と温度差によっては、この逆の経路で、地表の空気が吸い上げられることもある。本体は、千曲川の流れを思わせる通路のほぼ中間にあって、トンネル状をなし、美術館の入口へ通じている。したがって本体内部は通り抜けになっており、天窓に用いた大理石板を透してもれる明りと、内壁にはめ込まれた孔雀貝の響きをたよりに、佐久の自然と生活の息吹を伝える風のそよぎ、風の音、風の香を肌で感じながら歩むことができる。薄明の中に浮ぶ壁石と出口に近い座石の白御影は、風の絶えた日にも清爽の気を保ちつづける。佐久の天と地、自然と人間にたいしてひらかれたこの造形作品は、美術館を訪れる人々に創造への夢をはぐくみ、この地に花咲く未来を待望して「さく」と命名された。ズームで。公園内の焼却炉の煙突にも見えたのであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.27
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そして次に「外国人墓地」の前にあった「地蔵寺」を訪ねたのであった。「曹洞宗延命山 地蔵寺」寺号標。「本堂」。外人墓地の反対側の山側のこの寺は1804年からあり、遊女達の駆け込み寺と言われたと。扁額「延命殿」。「有無両縁塔」台座には、「廓内遊女屋」とあり、施主である山ノ上町遊廓の30名ほどの店主名が彫り込まれていると。住吉屋、小田屋、廣田屋、増屋、宮川屋、中里屋、東屋、金子屋、田中屋、小嶋屋、大須屋、高田屋、納屋の13名。側面に、仲屋、菱屋、北越屋、中嶋屋、新屋、上田屋、玉屋、佐藤屋、盛屋、茂村屋、伊勢屋、甲屋の12銘。計25名。「有無両縁塔この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊廓の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5年(1858年)に、その一画を山ノ上遊廓として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廊も一層の賑わいをみせるようになった。この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。」「万平塚(まんぺいつか)」。「万平塚石川啄木の歌に、「むやむやとロの中にてたふとけの事を咳く乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。-例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の茶箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身-塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・・」などとある。この塚は、大阪から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万兵にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らすに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4年( 1915年)万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。「地蔵尊」。左の「地蔵尊」の台座には多くの女性の名前が刻まれていた。こちらは祠の中に。そして「地蔵寺」を後にし、駐車場への道・魚見坂を下り途中弥生町13のT字路を右折して進むと左手にあったのが「蕎麦蔵」。函館市弥生町23-5、ミシュラン2017のビブグルマンを取得した人気の店。従来の星(三つ星、二つ星、一つ星)の評価からは外れるものの、安くてオススメできる店舗に与えられる印である。 ビブグルマン(Bib Gourmand)の「Gourmand」はフランス語で欲張り・食いしん坊といった意味、Bibはミシュランのマスコットキャラクターであるビバンダム(Bibendum)の愛称に由来するという。こちらは「大正湯」。開国の時代に外国文化の影響を強く受けた北海道函館市。街のなかには昔ながらの和洋折衷建築が現存していた。庶民の生活に欠かせなかった銭湯であるが、洋風の建物が残っているのであった。大正3年創業の銭湯。昭和3年に立て替えられた現在のピンクの建物は、レトロな和洋折衷様式で、函館市景観形成指定建築物。「幸坂」の「弥生町2」交差点の角にあった石碑。「校歌幸坂は向上の 針路をしめす山の口 仰げば高きまなびやの 庭のおしえの 尊さよ」「幸小学校百周年事業」で建てたものらしい。明治16(1883)年9月、「公立幸(さいわい)小学校」として開校. 明治34(1901)年1月、「函館区立幸尋常小学校」改称. 昭和22(1947)年4月、「函館市立幸小学校」改称. 昭和45(1970)年3月31日、閉校。「幸坂(さいわいざか)」の先には「函館山」の裾野が見えた。「大町4」の「弥生坂」の角近くにあったのが「新選組 屯所」跡地。蔵の前には「新撰組 屯所」跡地と書かれた史跡案内が建っていた。このあたりには、1880(明治12)年の大火までは称名寺があった場所と。称名寺は幕末には英国・仏国の仮領事館がおかれ、箱館戦争時は、土方歳三の箱館市中取締就任にともなって箱館警備の任に就いた「新撰組の屯所」となったとのこと。「この周辺は、明治12(1879)年の大火までは称名寺があり、焼失後は現在の船見町に移転しました。称名寺は幕末には英国・仏国の領事館、箱館戦争時には「土方歳三」の箱館市中取締就任にともない箱館警備の任に就いた「新選組」の屯所となりました。土方歳三が戦死した場所は一本木関門、鶴岡町、栄国橋(異国橋/現在の十字街付近)など諸説ありますが、日野高幡不動尊金剛寺の過去帳に「箱館称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の土方歳三供養碑がある」と記されています。当時、旧幕府・箱館政府には財源がなく、地元民から運上金や通行税を徴収していました。戦況が逼迫してくると軍事金は底をつき、榎本武揚らは富裕な商家から金品を徴収することを計画しました。この時土方が猛反対して徴収は中止されました。これを知った大和屋友次郎はじめ箱館の商家の人々は、土方の死を悼んで称名寺に供養碑を建てたといわれています。称名寺は明治期に3度の大火に見舞われ、その碑は現存していません。現在ある称名寺の供養碑は、昭和47(1972)年、有志により建立されたものです。現在は「蔵宿 屯所の庵」明治42年、 築100年 旧桂久蔵邸の蔵を改修した離れの和室の客室であると。桂久蔵氏は当時オホーツク・千島・樺太と大きな範囲で活動していた大漁業家であったと。客室内の天井は総ひのき作りになっており丸いステンドグラスが入った窓もあり洒落た感じになっているとのこと。白壁の左上にステンドグラスが入った窓が見えた。「みなみ北海道最後の武士達の物語」ポスターの「旧幕府軍陸軍奉行並・函館市中取締裁判局頭取 土方歳三」。「新選組の屯所 称名寺跡1644 (正保元)年、伊勢国渡来の円龍が亀田村に阿弥陀庵を開創、1655 (明暦元)年に阿弥陀堂と改称後、1690 (元禄3)年に松前町の浄上宗光善寺の末寺として、寺号を称名寺と公称した。1708 (宝永5 )年に富岡町(現・弥生町)へ移転し、本堂、庫裏等を建立。幕未期には書院を箱館奉行仮本陣として利用され、1859 (安政6)年の箱館開港時にはイギリスの仮領事館が置かれた。1868 (明治元)年12月15日(旧暦)に旧幕府軍の蝦夷地仮政権が樹立。箱館方面の警備に当たった新選組隊士は称名寺を屯所としたが、翌1869 (明治2)年5月18日(旧4月7日)には、新政府軍の攻撃に備えて称名寺から弁天台場へ移動、守備に就いた。なお、同年6月27日(旧5月18日)に箱館戦争が終結した後は、箱館病院高龍寺分院が火災で焼失したこともあって、称名寺も箱館病院分院としての役割を担い、傷病兵の治療に利用された。この後、1879(明治12)年の大火により本堂を焼失し、1881 (明治14)年に現在地の船見町へ移転。1896 (明治29 )年、1907 (明治40 )年の大火に遭遇し、1929 (昭和4 )年に鉄筋コンクリート造の本堂が完成となった。現在の称名寺境内には、箱館戦争時に新選組の屯所でもあった由縁で、新選組副長の土方歳三とその隊士達の供養碑が建立されている。」「新選組隊長・函館市中取締 相馬 主計(かずえ) 生没年不詳常陸国笠間藩藩士の家に誕生。生没年は不詳。1865 (慶応元)年に脱藩し、江戸幕府の歩兵徴募に応じた。長州征討車の解散後、新選組に入隊。局長付組頭として隊士を率いた。流山で近藤勇とともに捕縛。近藤の嘆願により処刑を免れ、笠間藩に預けられて謹慣した。この後、彰義隊に参加し東北戦争を転戦後、仙台で土方歳三と合流、蝦夷地へ渡り箱館戦争へ参加し、主に箱館市中の取締の任に当たった。1869 (明治2)年6月20日(旧5月1 1日)の新政府軍箱館総攻撃により弁天台場は龍城。6月24日(旧5月15日)に弁天台場降伏となり、相馬は箱館での新選組隊長である森常吉から隊長を引き継ぎ、新選組の終焉を看取った。台場での謹慣の後、1870 (明治3)年に伊豆新島に流罪、1872 (明治5)年に赦免となり東京に移り住むが、突然の切腹死を道げた。」「新選組隊士 中島 登(のぼり) 1838~18871838 (天保9 )年、武州多摩郡小田野(現東京都八王子市)生まれ。1864 (元治元)年、新選組に入隊し、伍長を勤めた。土方歳三や島田魁ら新選組隊士と宇都宮・会津戦争を転戦した後、蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参加した。箱館方面の警備に就き、弁天台場に配置された。1869 (明治2 )年6月24日(旧5月15日)に弁天台場が降伏し、そのまま弁天台場で謹慎となり、謹慎中に新選組隊士などの肖像を「戦友姿絵」として描くなど箱館戦争関連の貴重な記録を残した。翌明治3年に赦免となり多摩に帰還した。1887 (明治20 )年死去。享年50歳。「新選組袖章中島登が所持していた新選組の袖章。市立函館博物館所蔵のもので、国内には同様の袖章が京都の霊山歴史館に所蔵されている。(新選組頭取の島田魁が所持していたものとされる。)」「戦友姿絵の新選組隊士新選組隊士の中島登が弁天台場で謹慎中に描いた、箱館戦争時に戦死した新選組隊士である。いずれも、戦争当時は称名寺の屯所に居住していた隊士と考えられる。」「新撰組 屯所」跡地の前の道路の反対側にも「校歌」を刻んだ碑が。「弥生小学校 校歌「後に髙き臥牛山 雲間に聳ゆる駒が岳 雄々しき姿あけくれの 書讀む窓に親しめり」石川啄木は明治40年(1907年)6月11日、ここ函館区立弥生尋常小学校代用教員を拝命、月給は12円であったと。「旧寺町界隈江戸時代から明治初期まで、このあたりは浄玄寺(現真宗大谷派函館別院)、称名寺、実行寺が建ち並び、参拝客で賑わったので寺町と呼ばれた。開港後の一時期、これらの寺はアメリカ、イギリス、ロシア領事の仮住居として使用された。また、浄玄寺は、明治5年( 1872年)に邏卒本営(警察)が置かれたり、同9年( 1876年)、明治天畠巡幸の際には、行在所として用いられたこともあった。明治1 2年( 1879年)、大火はこの一帯を焼き尽くし、これらの寺は新たな場所に再建された。浄玄寺と称名寺の跡地には、同15年( 1882年)に弥生小学校が建てられた。石川啄木が代用教員となったり、文芸評論家の亀井勝一郎が通った学校である。現在の校舎は平成23年( 2011年)に、旧校舎の外壁を一部利用して新築された。 函館市」「北海道警察発祥の地」碑。明治五年六月浄玄寺(東本願寺函館別院の古号)に開拓使函館支庁邏卒本営を置く明治八年十月邏卒屯所と改称明治九年二月開拓使函館支庁警察係と改称明治十年三月函館警察署と改称「函館市立弥生小学校」。1882(明治15)年創建、昭和9年大火後鉄筋コンクリート造りの耐火建築で再建。老朽化のため2010年に解体、2012年に旧校舎の外壁を一部利用して新校舎に。「幾度となく大火に見舞われた函館で、最大規模であった1934年(昭和9年)の大火後の復興建築として建てられた学校のひとつが弥生小学校です。1938年(昭和13年)に完成した校舎は、4階建の重厚な鉄筋コンクリート造り。中央にグラウンドを置いたロの字型で、大火時の住民の避難所としての役割も当てられました。坂の街・函館らしい傾斜のある地形を生かしたデザインで、街並みを彩る「市景観形成指定建築物」に指定されています。設計したのは、函館市の建築課長として復興建築に携わった建築家・小南武一。大火後に再建された小学校のほか、函館公園にある旧市立函館図書館本館、函館市公民館、大火遭難記念慰霊堂などを手がけています。校舎の老朽化のため、2010年に外壁の一部を除いて解体され、2012年に新校舎を建造。旧校舎の北東角、特徴的な曲面仕上げの正面入口の外壁を保存して、道路に面した外観デザインのイメージを継承しています。なお、校内は一般公開しておりません。」とのネット情報。「明治九年御巡幸行在之地」。明治天皇の第1回目の北海道行幸は、1876年(明治9年)7月16日~18日の2泊3日で函館周辺と限られていた。2泊とも現在の弥生小学校の地にあった東本願寺(浄玄寺)掛所に泊まられたのだと。これは昔の校門柱であったのだろう。現弥生小学校の次の角にあった「旧アメリカ領事館跡」「旧アメリカ領事館跡安政元年(1854)に締結された日米和親条約を端緒に、伊豆下田とともに箱館は諸外国との窓口として翌年開港されました。安政4年の春、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが鯨猟船に乗って来港し、浄玄寺(現在の元町公園の下辺からここ弥生小学校あたり、当時の第1大区1小区富岡町14番地)の別堂を借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開設しました。以来、ライスは箱館に出入港する米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、日米間の融和を計り、のち1865年にライスは、初代米国領事に任命されました。明治9年(1876)領事館は一時閉鎖されて横浜領事館の管轄となり、その後、現在の元町4番の遺愛幼稚園(ハリストス正教会の北隣)、さらに現在の船見町3番(咬菜園跡東側)に移転し、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが自宅を領事館として執務しました。アメリカ領事館が函館における役割を終え、正式に閉鎖されたのは、大正7年(1918)11月15日でありました。」総赤煉瓦作りの「中華会館」👈リンク。国内に唯一残る中国清朝建築様式の建造物「函館中華会館」。「中華会館中華会館は純中国様式の建築として日本に現存する唯一の貴重な建物である。函館から中国への海産物質易の盛んな頃に在函華商が信仰する三国時代(魏・呉・蜀)の蜀の武将として活躍した関羽=関帝を奉祀する聖所として中国から大工・彫刻師・漆工らを招き、煉瓦・祭壇・什器等資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じて明治43年(1910年)12月に竣工した。内部は金色燦然たる関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗を極めている。建物は社団法人函館中華合館の所有である。 函館市」。「東坂」との角にあった洋菓子店に、修学旅行学生グループに誘われて我々も入る。店の名は「アンジェリック・ヴォヤージュ」。店の新聞記事が。ケーキや焼菓子を販売するロッジ風のテイクアウト専門洋菓子店。バナナ入り生クレープ?をテイクアウトで楽しんだのであった。そして「基坂」、「日和坂」、を横切り「八幡坂」まで進む。この「八幡坂」を上って行き次の路地を左折して、駐車場になんとか辿り着いたのであった。「北海道第一歩の地碑ここは東浜桟橋という場所らしいのだが、青森と函館の航路は1873年(明治6)に開拓使の弘明丸が最初であり、1908年(明治41)に比羅夫丸、田村丸が青函連絡船として就航した。その当時は連絡船は桟橋まで来ることが出来なかったので沖に停泊して、艀舟(はしけ)で桟橋と連絡船を行き来していたそうだ。そしてこの東浜桟橋は1871年(明治4)に作られたものだ。その後、連絡船の桟橋は1910年(明治43)に若松埠頭に移転したが、東浜桟橋も色々と活用されたのだと。この碑は北海道の開道100年を記念して1968(昭和43)に建立された熊とイカリをモチーフにした碑である。ちなみにその100年前は1868年という事になるが、これは鎖国から函館が開港した年である。ただし、函館が本当に最初に開港したのは1854年に有名なペリーが来航して開港を求め、日米和親条約により、下田(即刻開港)と箱館(翌年開港)を開港することになった。ただ、この開港は船の欠乏品の補給や漂流民の保護、救助等に限られていた。その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、自由な貿易や人々の行き来が出来るようになったという事もあり、この年(1858年)が開港の年というふうに考えるのが一般的らしい。(その意味での函館の開港は1859年)この碑は北海道の開道100年を記念して1968(昭和43)に建立された熊とイカリをモチーフにした碑であると。ちなみにその100年前は1868年という事になるが、これは鎖国から函館が開港した年であるのだ。「北海道第一歩の地碑明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この京浜桟橋は、明治4年(1871年)に作られた。連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年(1868年)9月建立されたものである。」「北海道第一歩の地明治新後、函館は名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのはこの東浜桟橋である。後に若松町に欽道桟橋ができてからは旧桟橋とも呼ばれた。国道四号線が認定されるや北海道の道路の基点としてここに道路元標が建てられた。明治百年を迎えるに当り此地に記念碑をたてて開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。昭和四十三年十一月三日寄贈 日本中央競馬会」錨にも「北海道第一歩の地」と。「北海道第一本の地碑」から「金森赤レンガ倉庫」群を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.27
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そして国道146号沿いの「Hotel Bleston Court」入口で車を駐める。真っ赤な紅葉が青空、陽光に映えて。「Hotel Bleston Court」看板。 真っ赤な落ち葉が一面に。道端の紅葉を楽しみながら坂道を上る。駐車場は、隣接した軽井沢ホテルレストンコート駐車場を利用。この辺りの紅葉はこの日がピーク。車を降りて散策開始。「星野リゾート 軽井沢ホテルブレストンコート(Hotel Bleston Cour)」正面。ホテル前に広がる森は、木々が紅葉や黄葉に覆われ、絵画のような美しい景色。「円満」を表す「幸せのモスボール」が散りばめられた森。木の実や、落ち葉、枝葉に加え、モス(苔)で作られた大小の球体が語り合っているかのような、大切な人へ想いをよせる時間が流れていた。「Art of Forest」は、「祝福と芸術の秋」をテーマに、木の実や落ち葉、枝葉などを使用した作品が森を彩るアートイベント。そして「軽井沢高原教会」。森の中の隠れ家のような、木の温もりあふれる、「軽井沢高原教会」。周囲には並木道があり、散歩にもぴったり。木々のマイナスイオンと綺麗な空気は、最高の癒し。歴史ある教会で、大正10年(1921)に材木小屋で始まり、北原白秋や島崎藤村ら文化人が集った「芸術自由教育講習会」を原点として誕生した。軽井沢の自然に囲まれた建物。地面までつながる三角屋根が特徴の建物は、上部が広いガラス張り。温かな光が常に教会内部に降り注ぎ、とても荘厳な雰囲気を醸し出していると。全ての人に開かれた教会であり、毎週日曜のゴスペル礼拝や季節に合わせたイベントを開催。リゾートウェディングの式場としても人気があるのだと。教会内部をネットから。 【https://travel.navitime.com/ja/m/kanko/article/2776/】より「軽井沢高原教会」を振り返る。遊歩道の突き当りにあった「四阿(あずまや)」。衝立の如き壁の造形を接写。「幸せのモスボール」をカメラで追う。紅葉の森の散策を続ける。真っ赤な輝き。車に戻りながら白き流れを追う。「せきれい橋」近くの見事な紅葉。軽井沢の短い秋ゆえの色の濃さが。赤の絨毯。「せきれい橋」を背景に。「星のや 軽井沢」入口。軽井沢野鳥の森の谷あいに、川のせせらぎに包まれて離れ家のような客室が建ち並びぶ。日本の原風景が鮮やかに蘇る敷地内を散策し、今も脈動する浅間山から湧出する源泉かけ流しの温泉を浴す。意のままに食事処を選び気儘に逗留する宿であると。ホテル受付が離れた場所に。現在このレセプション・「集いの館」はクローズ中と。電話すると送迎車が来ると。雑誌などでよく紹介されているのが水辺の部屋。川の流れに沿って立ち並び、ゆるやかに流れる水の音や鳥の声が響くのを心地よく感じる客室。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/39776/】より再び「せきれい橋」まで戻る。大きな石に生えた苔の上にはモミジ葉が落ちて。軽井沢町の汚水マンホール蓋。中央に噴煙を上げている浅間山と、かるいざわの「か」をデザインした町章を配し、周りをシラカバの木が囲んでいる。 「軽井沢」の文字入りのデザイン。そし「浅間・白根・志賀さわやか街道」を南下して左折して国道18号を進み、この先を右折し「しなの鉄道線」の踏切を渡り、北陸新幹線の跨線橋を渡り更に南下する。そして次に訪れたのは、「軽井沢タリアセン」。駐車場前の道路沿いの紅葉はエピローグに。この付近の「ミュージアムマップ」。軽井沢高原文庫、 ペイネ美術館、 深沢紅子野の花美術館、軽井沢タリアセンがあると。再び駐車場前の道沿いの紅葉を追う。一級河川の泥川に架かる風越橋を渡り軽井沢タリアセン方面へ。「軽井沢タリアセン 案内図」。南軽井沢・塩沢湖のほとりに広がる自然とアート・歴史が融合した観光スポット。ボート遊びや季節の花々、秋の紅葉など軽井沢の魅力的な自然も楽しめる人気の観光地。「タリアセン」とは直訳すれば、ウェールズ語で「輝ける額」という意味であると。もともの語源はケルト神話に由来し「知恵者」であり芸術をつかさどる妖精「タリエシン」から、といわれていると。フェンスの外から園内を覗き込む。園内の「塩沢湖」そして「中の島」を見る。訪ねなかった「ペイネ美術館」絵本のような温かく可愛らしいイラストを多く残したフランスの画家、レイモン・ペイネ。軽井沢タリアセンには、そんなペイネの原画やリトグラフを展示した美術館「ペイネ美術館」があります。メルヘンな絵柄は温かみに満ちており、幸せな気分になれる空間であると。 【https://twitter.com/museumpeynet/status/1192232450530758656】同じく「深沢紅子 野の花美術館」。軽井沢にゆかりのある画家・深沢紅子は、軽井沢の草花を描き続けてきた画家。油絵や本の挿絵の展示を通して、四季折々の軽井沢の自然を感じ取ることができます。また、愛蔵品の公開、アトリエの復元も行われていますので、そちらも合わせて鑑賞をと。 【http://www.karuizawataliesin.com/look/kouko】より「軽井沢高原文庫」入口方面を見る。左側に「軽井沢高原文庫」入口が。軽井沢は文人たちに愛された地で、多くの作家・詩人が軽井沢を訪れ、その作品にこの地を登場させて来た。軽井沢タリアセンの「軽井沢高原文庫」はそんな軌跡をたどることのできるスポットで、堀辰雄、有島武郎など作家たちの書斎や別荘が移築。ゆかりの品々も公開されているのだと。道路脇に「ライブラリーカフェ 一房の葡萄」・ 旧有島武郎別荘「浄月庵」が。道路を風越公園方向へ向かって徒歩で坂道を進むと、道路沿いに真っ赤に紅葉したモミジが。陽光が紅葉の隙間から漏れ込んで。右手にあったのが「エルツおもちゃ博物館 軽井沢」。「エルツおもちゃ博物館 軽井沢」は1998年に開館。ドイツ・エルツ地方でマイスター(高度な技術を承継する職人)によって生み出された、「くるみ割り人形」や「パイプ人形」「クリスマスピラミッド」など、約300年以上の歴史を持つ伝統木工芸品と、欧州の良質な知育玩具を展示する博物館。館外のショーウインドーには北欧諸国を中心とした巨大玩具が展示されている。右から「サンタクロース」、「クリスマスピラミッド」、「くるみ割人形」であろうか。「天使が歌うクリスマス」。「サンタクロース」。「クリスマスピラミッド」。「くるみ割人形」。そして、創作料理を提供するカフェ「ルーエ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.26
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「称名寺」を後にして、「魚見坂」に出て交差点を左折して船見町を進む。お寺が多いので花屋がところどころに。左手に堂々たる山門が姿を現した。「曹洞宗・国華山高龍寺」の山門。「高龍寺高龍寺は、寛永10年(1633年)松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたことに始まる、市内で最も古い寺院である。その後、洪水による被害などで亀田村が衰退したため、宝永3年(1706年)に箱館の弁天町(現在の入舟町)に移転した。箱館開港当初には実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となり、明治2年(1869年)の箱館戦争時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れた。幾度か大火で建物を焼失したが、明治12年( 1879年)にこの地に移転し、明治33年( 1900年)には現在の本堂が完成、同43年(1910年)に完成した山門は彫刻が見事である。いずれも越後出身の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院であり、平成23年(2011年)には国の有形文化財に登録された。函館山を借景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり、墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治など著名な人の墓がある。また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蠣崎波響(かきざきはきょう)の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を所蔵している。」ヒバ材を用い、前後に4本ずつの柱を立てる八脚門。東北以北で最大の山門で、獅子(左)、龍(中)、鳳凰(右)などの彫刻が豊かに配された外観が特徴です。この山門だけで、なんと207個の彫刻があるそう。これらは越後で製作され、帆船で運ばれてきました。「 建築は、江戸時代の最高の技術集団・柏崎グループによるもの。5代目篠田宗吉を中心とした大工や彫師による彫刻は、高龍寺最大の見どころ」であると。「曹洞宗 國華山 高龍寺」寺号標とその奥に「山門」。「山門」の見事な彫刻を角度を変えながら追う。ズームで。横梁の間はすべて彫刻が嵌め込まれて。そして横梁にも彫刻が。見事な龍の彫刻が施された「扁額 国華山」。2012年、高龍寺の建造物10件が、国の「登録有形文化財」に登録された。歴史的な価値とともに、伝統的な木造建築の技術を結集した芸術性が評価されたもの。「山門」前にあった「写真術の先覚者『横山松三郎の墓』案内板。1838 ~1884年幕末、明治初期の日本の写真術創成期に東京で活躍した写真師。ステレオ写真装置を創作 明治3年( 1870 )に日光東照宮などを同機で撮影、同9年に陸軍士官学校教官となり写真術を教えた。同10年気球から日本初の”航空撮影”をしたり、永久不変色、写真油絵、写真石版など技術開発に業績を残した。工トロフで生まれ、函館に移り住む、来港したロシア軍艦の絵師に洋画法を学び、その先覚者としても有名。東京泉岳寺の山門脇に墓碣銘があり当寺に墓がある。北洋漁場を開いた高田屋とは親類。」「境内案内図」。境内とその先に「本堂」。「本堂」。向拝の虹梁木鼻や虹梁上の見事な彫刻をカメラで追う。中央の見事な彫刻。扁額は「高龍寺」。本堂右前には青銅製の大きな「聖観音像」が。この像、実はもともと松前にあったものだと。松前には明治45年(1912年)まで寿養寺という曹洞宗の寺院があったが、この寺は開拓集落の拠点となるべく、天塩町に移転した。その際に松前の旧寺内にあった聖観音像が高龍寺に移転されたのだということである。台座の銘を調べてみると、この像は嘉永2年(1849年)に、松前藩家老の松前内蔵が大坂の鋳物師に作らせ、それを寿養寺に寄進したのだという事が判ったのだと。「高松凌雲」の「供養塔」が奥にも。「献樹一、樹種 ベニサラサドウダンベニサラサドウダンは、福島県会津地方の山地にひろく自生している樹木である。遠くこの地にねむる会津藩士のためこれを献樹し、つつしんでその霊を慰めるものである。」「傷心惨目の碑」。「撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉 会津残同抱共建 明治十三年」と刻まれているとネットから。src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/0f6ca18befcaac810a28d21529e0d5aa60482c3e.15.9.9.3.jpeg" border="0" name="insertImg" />「傷心惨目の碑明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。」「みなみ北海道最後の武士達の物語」掲示塔。「箱根病院 頭取(院長) 高松凌雲 1836~1916」「敵味方なく冶療の箱館病院、降伏勧告を仲介し戦争終喆へ1868 (明治元)年10月(旧暦)、高松凌雲は、旧幕府軍が制圧した箱館へ入り、箱館病院で治療を開始した。病院長高松凌雲、事務長小野権之丞ほか4名の病院係の体制で開始されたが、箱館病院が狭隘で多くの負傷兵受け人れが難しいため、高龍寺を分院とした。しかしながら、傷病兵が日増しに増加したため、新病院建築を決意し、11月22日に工事着工、翌年2月23日に二階建ての病院2棟が落成し、病人には敵味方の区別なく平等に治療にあたるという赤十字精神に基づく対応で治療に臨んだ。1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)、新政府軍箱館総攻撃の際、箱館病院も新政府軍の襲撃を受けたが、高松凌雲が身をもって保護し、薩摩藩兵の取りなしもあって事なきを得た。この翌日の12日、箱館病院へ新政府軍軍監村橋直衛と薩摩藩隊長池田次郎兵衛らが人院中の会津藩遊撃隊長諏訪常吉の見舞いとして来院した。新政府軍の降伏勧告の仲介依頼のためであったが、諏訪は瀕死の状態であったため、その役割は高松凌雲と小野権之丞へ託された。高松と小野の連名の書状は、五稜郭と弁天台場へ伝達され、5日後の5月17日に旧幕府軍が降伏を申し出て、戦争は終結となった。」「小野 権之丞1818 (文政元)年、会津藩士小野家に生まれる。1862 (文久2 )年、会津藩主松平容保が京都守護職就任の時、公用人として公武間の折衝にあたり公武合体に尽力したが、戊辰戦争では、会津藩の次席家老として新政府軍との戦闘に臨んだ。この後旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡った。箱館では、箱館病院の事務長として病院運営を行った。明治2年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、新政府軍に捕えられたがアイヌ人の働きにより無事タ方までに病院へ帰還し、翌12日の夕方、新政府軍軍監村橋直衛らから降伏勧告の仲介を髙松凌雲とともに託された。小野が旧幕府軍側への書状を草案し、弁天台場、五稜郭へ伝達され、5月15日には弁天台場が降伏し、18日には五稜郭も降伏して戦争は終結した。箱館戦争の早期終結に向けて、小野権之丞は大きな役割を果し、依頼側の村橋を通じて新政府軍の多大な支援のもとで傷病兵受入れ・治療等の任務の遂行にあたった。同年6月に古河藩の預かり(禁固)となり、謹慎中に「小野権之丞日記」を著した。1889 (明治22 )年4月2日に死去した。享年72歳。」「高松凌雲 1836~19161836 (天保7 )年、筑後国(現・福岡県)生まれ。20歳の時に久留米藩川原家の養子となった。22歳の時、兄の古屋佐久左衛門を頼り江戸へ出て医師を志し、蘭方医石川桜所の門下生となり、後に大坂の適塾で緒方洪庵の指導を受けた。1865 (慶応元)年、一橋家の専属医師に抜擢され、徳川慶喜の第15代将軍就任により幕府奥詰医師に登用された。1867 (慶応3 )年のパリ万国博覧会の日本代表団の随行医となり、パリの医学学校で1年半学んだ後、1868 (慶応4 )年1月に幕府崩壊の報せにより同年5月に帰国した。幕府艦隊の品川沖脱出に同行して蝦夷地へ渡り、箱館では、榎本武揚の依頼により箱館病院の頭取(院長)に就任し、傷病兵の治療に当たっては、パリ留学時代に学んだ赤十字精神に基づき、敵味方を問わずに受け人れる対応を貫いた。1869 (明治2 )年5月11日(旧暦)の新政府軍箱館総攻撃時に箱館病院が襲撃された時には、凌雲自らが新政府軍兵士と対峙して、その場を収めている。また、降伏勧告の仲介を小野権之丞とともに受諾して、館戦争の早期終結に貢献した。館戦争の終結後も、凌雲は箱館に残り病院長として患者の治療にあたった。同年10月下旬に阿州藩お預け(謹慎)となり、翌年には東京へ帰還した。凌雲は東京で個人病院を開院し、町医者として赤十字精神に基づいた道を進ことを決意した。1878 (明治11 )年に、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案した。」「金毘羅堂」~航海安全・漁業の神を祀る(1915年建立)金毘羅堂は魚神を奉るもので、地元に密着した神仏習合の象徴。北洋漁業が盛んな時期に作られたとのこと。「鐘楼」~朝夕、鐘の音が響く(1922年建立) 。戦争で供出された鐘は、1951年(昭和29年)に再鋳されました。その奥に宝蔵~寺宝を収蔵(1916年建立)宝蔵は、レンガ造りの入り口、白い漆喰壁、腰周りにはめ込み下見板をまわした蔵造りという外観がユニーク。「位牌堂」と黄色く色づいた銀杏。先祖の位牌を永代に祀る(1933年建立)御堂。開山堂と金毘羅堂の間に西面して建ち、南北面に開山堂と金毘羅堂へ至る廊下を附属する桁行5間梁間4間、入母屋造、向拝一間付、桟瓦葺で、鉄筋コンクリート造の地階を持ち、上下階とも内部は位牌を安置する。位牌堂の入母屋瓦葺は本堂の小型版で、全体的に雰囲気もよく似ています。銀杏越しに。近づいて。「向拝虹梁」の上の見事な彫刻(右)。「向拝虹梁」の上の見事な彫刻(左)。開山堂(臥龍廟)堂内には、歴代の住職をはじめ、33観音、500羅漢、16羅漢、釈迦十大弟子などが祀られ、荘厳な雰囲気に満ちている。改修時に漆貼りされた天井絵も見事であると。扁額は「臥龍廟」。「高龍寺五百羅漢 永代祠堂供養のお勧め」。「水盤舎」。1917年建立。金毘羅堂と位牌堂間の前面に南北棟で建つ。方1間入母屋造銅板葺で、東西面に軒唐破風を付す。柱間を吹放ちとし、三斗上に小組格天井を張る。蟇股などの立体的で充実した彫刻は山門や金毘羅堂と類似し、澤田吉平ら越後大工による普請と考えられる。「山門」を入って右側の奥には墓地が。そして右手には寺を囲む趣のある土塀・防火塀が。特に重厚なレンガ塀は大火の歴史の象徴(1910年建立、一部はそれ以前のものも)手前には「蟹工船 第二萬盛丸 遭難者之墓」と刻まれた墓石が。「六地蔵尊」であろうか?脇門から境内を出て「山門」方向を振り返る。「山門」、「鐘楼」、「宝蔵」の屋根が見えた。「馬車止」碑。馬車の停車場だったのであろう。山門脇の袖塀に続いて、土塀、レンガ塀が寺の周囲に巡らされています。特に見どころは、坂の下方(東面)と上方(北面奥)に設けられたレンガ造りの防火塀。度重なる大火の歴史から、厚さ60センチにもなる重厚なレンガ塀で延焼を防止しました。1910年(明治43年)の建築とされていますが、上方の塀には明治40年の大火の跡らしい焼け焦げがあり(下左)、それ以前(明治10年代?)に造られたものと思われます。レンガの積み方の違いにも注目で、写真のものはフランス積み(横一列に小口と長手が交互に並んで見える)。もうひとつはこの先の「函館中華山荘」の塀のイギリス積み。「旧町名 だいまち」碑。ちなにみ今の町名は「船見町」。「台町は、明治五年(一八七ニ)に設けられた町です。山背泊町の町はずれの高台の地に弁天台場が築造され函館の港口を見下ろすことができたことから名付けられた町名といわれています。」更に進みY字路を右手に進むと、赤レンガの長い塀が右手に見えて来た。「函館中華山荘」・「中国人墓地」と刻まれた門が。函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9(1876)年に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8(1919)年に隣接の土地を買収し、466坪(1,538㎡)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日日)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。こちらの塀がイギリス積み(一列ごとに小口のみ、長手のみ......と交互に積んである)。一般に、フランス積みのほうが時代が古いと言われていると。階段を下りた先には裏門もあり、その先に函館の海、北斗市が見えた。左手には墓地が。墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日日)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。立派な墓石が並んでいた。裏門からの美しい光景。道路を隔てたあ反対側にあったのが「在日ロシア人墓地」・「函館ハリストス正教会」の入口。外国人墓地ゆえ、宗教が違うので、それぞれ分かれているのであった。「ロシア人墓地」。「外国人墓地(ロシア人墓地)ここが、ロシア人望地として公式に認められたのは、明治3年( 1870年)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ホウリケヴィチのものです。現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の説教者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られています。故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。」ロシア十字架(八端十字架、東方十字)ロシア正教会て用いられる十字架。八端十字架」の名称は8箇所の先端部分が存在することに由来するのだと。その先の道路脇には六地蔵が、一体はどこかに?「高清水金太夫墓」が手前に。山ノ上町遊廓の名妓だった高清水近大夫の墓(万延元年(1860年)であると。函館市船見町23-2の地蔵寺門前に。萬延元庚申年 ( 1860 ) 五月十五日の文字が刻まれていた。昔は、この道路の部分も「地蔵寺」の境内であったのだろうか。その先には「外国人墓地(プロテスタント墓地)」が。「外国人墓地(プロテスタント墓地)誰いうことなくこの墓地を外人墓地と呼んでますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっている。しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外人墓地の名ができたのであろう。古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基ある。」同じく海を望める場所に。一番奥にあったのが「函館キリスト教会 共同墓地ここは函館キリスト教4教会(下記)の共同墓地です。ご用の方は、管理している日本キリスト教団函館教会にお尋ねください。 日本キリスト教団函館教会 日本キリスト教団函館千歳教会 日本基督教会函館相生教会 日本聖公会函館聖ヨハネ教会」様々な形の墓石が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.26
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「雲場池」を後にし、紅葉が盛りの旧中山道を進む。「三笠通り」の松並木。そして「旧三笠ホテル」前に到着。「旧三笠ホテル」は、耐震補強を含む大規模保存修理工事を行うため、令和元年12月28日より長期休館中であった。「事業名:重要文化財旧三笠ホテル建造物保存修理事業文化財の名称:重要文化財(建造物)旧三笠ホテル建築年:明治38年(1905年)所在地:長野県北佐久都井沢町大字軽井沢1339-342予定事業期問:令和元年6月3日~令和6年3月31日予定工事期間:令和2年1月10日~令和6年3月31日事業者:軽井沢町設計監理:公益財団法人文化財建造物保存技術協会施工:第1期工事 清水建設株式会社 第2期工事 令和3年度第2四半期発注予定工事概要:今回の保存修理事業では、竣工から115年が経過して進行した各部の劣化を補補します。外部は主に屋根スレート葺を全面葺き替えや外壁塗装全面塗リ直し、内部は主に木部破損部取リ換え、リノリウム解体復旧などの修理をします。また.大地震が発生した際に来訪者の方の安全を確保するため、耐震補強工事を行います。」「補修工事内容」紹介パネル。「旧三笠ホテル」見どころ案内板と補修工事内容紹介の看板。「旧三笠ホテル正面全景(Front view of the 0ld Mikasa Hotel)。三笠ホテルは、明治37年に建設が計画され、翌々年5月にはホテルとして営業が開始されました。設計は圄田時太郎、棟梁は土地の大工小林代造で、万平ホテルの佐藤万吉が監督するなど日本人の手によって建築されました。建築後、日本館・別館・浴室棟・食堂棟が増築され、本館もロビー等が改造されよした。大正14年に明治屋の手に移って株式会社三笠ホテルとなり、昭和19年には戦争のため営業を休止戦後米軍に接収されました。同27年の接収解除後、名称を三笠ハウスと改めて営業を再開し、同45年まで営業されました。昭和47年にはれ株式会社日本長期信用銀行の所有となり、同55年には軽井沢の所有となり、重要文化財に指定されました。」「階段」。明治以降の近代日本の著名な建物が消えつつある中、明治38年に建築された三笠ホテルは、木造純西洋式ホテルとしては我が国唯一のものとして高く評価され、昭和515年5月31日に国の重要文化財に指定されました。この建物の特徴は、設計・監督・棟梁が全て日本人で、施工は地元の人が当たりました。更に、デザイン的にも優れた技巧が随所に見られます。例えば、湾曲したブラケット(腕木)で支えられた軒、太い縁取りの窓枠、階段の手すり、木製のカーテンボックスなどが代表的なものと言えます。以下略。 【http://www.photo-shinsyu.com/spdb_area/8836】より工事フェンス越しにシート養生された「旧三笠ホテル」を見る。草軽交通の「三笠」バス停。そして軽井沢(長野)と北軽井沢(群馬)を結ぶ「白糸ハイランドウェイ」の坂道をひたすら上り「白糸の滝」の駐車場に到着。右手に白糸の滝売店・「いわな炭火塩焼」の店。「軽井沢の国有林案内板この国有林は、昭和57年8月(1982年》の台風10 号、平成13年9月(2001年)台風15号によって山崩れや倒木などの大きな被害を受けました。白糸の滝も被害を受けました。「緊急治山事業」を行って結果、みどりと清流が蘇って来ました。東信森林管理者では、現在も引き続き森林管理や治山事業を行っています。」「白糸の滝」に向かって坂道を上って行く。「白糸の滝」からの「湯川」の流れ。「白糸の瀧」まで150m。小さな滝の如き流れが続く。水はあくまでも澄んでおり、マイナスイオンたっぷり。シャッタースピードを変えて。「自糸の滝湯川の水源にあるこの滝は、高さ3 m、幅7Omの岩肌より数百条の地下水が白糸の如くに落下し、実に美しい滝です.冬も枯れることなく湧き出しており、浅間山に降った雨が地下浸透し湧き出るまでに6年程度かかります。水温は11.8度と高めですが、これは火山活動に作う地熱の影響によるものと考えられています。」「白糸の滝緑の樹木がたくわえた、浅間山の地下水が白糸の滝となってこの景観をつくり、休むことなく千曲川に流れて信濃の国土をうるおしています。」そして「白糸の滝」の前に到着。湯川の源流になっている滝で、湾曲した岩壁に数百条の地下水が白糸のように落ち、清涼感に包まれるのであった。絹糸のような水が幾重にも降り注ぎ、この「白糸の滝」をつくっているのであった。この湾曲した水面がなんともステージの如くで、さながら透明度の高い水で織り成すショーを見ているようなのであった。我々が滝の前に行くと、埼玉の陶芸家が自分の陶芸作品を滝の前に置いて撮影していた。自分に作品をこの様な背景を使って撮影しネットで公開しているのだと。2019年7月26日(金)~8月25日(日) 毎週金・土・日に「軽井沢・白糸の滝 プロジェクションマッピング」を開催したと。8年前より開催、平成26年7月には日本夜景遺産にも認定された夏の風物詩イベントであると。しかし今年はコロナ禍で中止。 【https://tabizine.jp/2019/07/21/274175/】より冬の氷結時も美しい姿を見せるのだと。 【https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Wt1GvstD7tY】👈リンク より伏流水を源流とする潜流瀑のため流量はおおむね一定で濁らず常に白糸のような清水が流れ落ちることから「白糸の滝」と命名されたのだと。シャワーのように流れ落ちる滝。そしてその下流も小さな滝になって。「町内観光案内図」。そして、土産物屋まで戻る。岩魚の塩焼きの準備中か?バーナーで炭焼きの炭を起こしているのであった。「白糸の滝」を後にし、再び白糸ハイランドウェイを進み、峰の茶屋側(峰の茶屋料金所)の料金所を何故か無料で通過できたのであった。そして国道146号の「白糸の滝入口」交差点に到着し車を駐める。前方に噴煙を上げる浅間山の姿が。手前の白い建物は東大地震研究所の浅間火山観測所。浅間山は危険な爆発を伴う噴火の危険性のある山として日本で、もっとも、危険な火山。そのため火口から4キロ以内には民家はないのだと。そうした危険な火山のために、古くから火山観測が行われ、ここは、1933年に我が国最初の火山観測所として、現在まで、観測所が続けられているのだ。 今は無人で観測データは東京に送られていると。浅間山の活動は、13の地震観測点で、24時間監視され、火山性地震の波形の分析をしらべて、噴火予知を行なっているのだと。「中部北陸自然歩道 案内図」。解読不能のため、ネットから。「中部北陸自然歩道 案内図 軽井沢木漏れびのみち 16.0km沿線の風景中山道最大の難所といわれた碓氷峠は、県境にまたがる神社・熊野皇大神社がある。境内には多くの文学碑、樹齢800年といわれる「シナノキ」があり、静寂な雰囲気な中を散策できる。峠を下がると見晴らし台があり、榛名、妙義、赤城の上州三山や遠くかすんで広がる関東平野、八ヶ岳や南アルプス、浅間山等が眺望できる。コースは、谷あいを流れる清流の音、見え隠れするリスや野鳥、森林浴を楽しみながら、旧軽井沢へ向かう。ここからは、シラカバ、カラマツの林の中の自然歩道を通り、竜返しの滝を経て、数百状の地下水が白糸のごとく落下する「白糸の滝」を目にする。しばらく自然歩道を歩くと峠の茶屋に着く。」国道146号は群馬県吾妻郡長野原町から長野県北佐久郡軽井沢町に至る一般国道である。通称「日本ロマンチック街道」とも呼ばれている。その他に「浅間・白根・志賀さわやか街道」とも呼ばれていると。右手前の国道146号は、草津温泉まで 31km、嬬恋まで 29km、川原湯温泉 30km、長野原 24km。左斜め方向は、「浅間・白根火山ルート」、「鬼押ハイウェー」、「浅間・白根・志賀さわやか街道」とも呼ばれから鬼押出し方向への道。浅間山の頂上からは白煙が猛々と。更にズームして。山肌には白きものが見えた。「登山の注意」案内板。一、浅間山火口より4km以内は立入禁止区域ですが、小浅間山頂へ至る登山コースに限り入山を 認めています。登山コース及び案内標識に従って楽しい登山にしましょう。一、登山計画書を所定の場所に提出してください。一、浅間山の噴火警報・予報が発表されたときは、小浅間山付近の防災行政無線により危険を知 らせますので、ただちに下山しましょう。一、山の天気は変わりやすいので、落雷の危険のある時や悪天候の時等は引き返す勇気をもちま しょう。一、火の扱いには十分注意し、山火事防止に努めましょう。一、登山マナーを守り高山植物の採取は厳禁、ゴミは持ち帰りましょう。登山コース案内図。「登山する皆さまへ浅間山は爆発的な噴火をする活火山です。登山は自己責任で!ただいまの噴火警戒レベルは2です。小浅間山頂までは登山ができます。火山ガスについて主な火山ガスは、ニ酸化硫黄・硫化水素・ニ酸化炭素の3つで人体に有害なガスです。風の弱いときにくぼ地では注意が必要です。火山ガスを感じたら、濡れタオルを口に当てるなどしてすぐ下山しましよう。登山前に浅間山上空の風向きを調べておきましよう。」峠の茶屋の駐車場から浅間山を見上げる。次々に白煙が。国道146号(浅間・白根・志賀さわやか街道)を下り、中軽井沢へと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.25
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「己巳役海軍戦死碑」を後にし、往路と同じ坂を戻り「咬菜園跡」の手前を左折し「旧ロシア領事館」方面に向って進む。途中眼下の展望が開け「函館どつく㈱ 函館造船所」が見えた。そして「幸坂」通りに突き当たると左手の坂の上には「山上大神宮」の鳥居が見えた。「幸坂」の下り方面を見る。正面にあったのが「旧ロシア領事館」。「旧ロシア領事館安政元年(1854年) 12月の日露通好条約に基づき、安政5年(1858年) 9月初代領事ゴシケーヴィチ一行が着任、実行寺に領事館を置いた。万延元年(1860年)、元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てたが、隣の英国領事館の火災で被災した。明治36年(1903年)、現在地で領事館の建設が始められたが、翌年の日露戦争で中断し、完成したのは明治39年であった。この建物は明治40年の大火で焼失するが、その直後から同じ場所で再建工事が始まり、同41年暮れに完成した(現在の建物)。ロシア革命後、大正14年(1925年)からはソ連領事館となったが、最後の領事ザベーリエフが本国に引揚げた翌日の昭和19年(1944年) 10月1日、領事館は閉鎖された。昭和39年(1964年)に外務省から函館市が建物を購入、翌年5月から「函館市立道南青年の家」として近隣町村を含めた青少年宿泊研修施設として使用されたが、平成8年(1996年) 7月「函館市青少年研修センター」の開館により、その機能は終了した。設計はドイツ人建築家のR.ゼールで、レンガ造り2階建ての本館は、玄関に唐破風を用い、日本的な意匠が加味されている。」「景観形成指定建築物等之證 平成元年三月一日指定 函館市」レンガ造り2階建ての本館は、玄関に唐破風を用い、日本的な意匠そのもの。「旧ロシア領事館前より「幸坂」を見る。「幸坂」を下って行くと左手にはこの後に訪ねた「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の大きな墓地があった。ピラカンサスには真っ赤な実が、そして歩道にも落ちて。そして左に曲がり進むと左手にあったのが「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の巨大な楼門が。楼門の土台がレンガ造りというのが珍しいと感じたのであった。「実行寺」の東にある寺で、元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するために建てられた寺であると。「本堂」。日本初の鉄筋コンクリートの寺院で、国の重要指定文化財になっている。「東本願寺函館別院船見支院船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するため、明治37年(1904年)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926年)に完成した。この寺の墓地には、安政3年(1856年)幕府が箱館に設置した諸術調所(洋学の高等教育専門機関)の教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。当時、箱館の町名主を勤め、内間町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリー来航時の記録「亜墨利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政2年(1855年)に嫁いだが、8年後の文久3年(1863年)27歳の若さで病没した。また、安政3年(1856年)日本最初の西洋型船「箱館丸」を建造した続豊治(明治13年82歳で没)のほか、明治期の函館発展に活躍した著名人の墓が多い。 函館市」「中原悌ニ郎の墓」。「近代彫刻の先駆者中原悌ニ郎の墓中原悌ニ郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。始め画家を志したが、荻原守衛・ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年(1910年)文展に出品、第3回院展では罍牢賞を受け、第5回院展で同人に推薦された。代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。「平櫛田中像」は、かのプルーデルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、一本の柱となっている。中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業および漁業を営む。悌ニ郎は、明治21年(1888年)、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。苦学と過労により肺結核を発症し、33歳の若さで没した。悌ニ郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、一瞬の光芒であった。遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院の中原家の墓に葬られている。1983年12月赤光社美術協会 函館市」「千歳坂」を見る。 千歳坂は明治12年(1879)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、ここに松の大木があったので、千歳の松に因んでこの名・「千歳坂」が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東脇に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであったと。そして「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の隣にあったのが「實行寺(実行寺)」。北海道函館市船見町18−18。「妙法大東亜戦争戦死病没者供養塔」は左に、掲示板には「人には不孝がおそろしき事に候ぞ」と。「日露役戦死忠魂塔」「日蓮宗一乗山實行寺」。実行寺は、六老僧の日持上人に縁のある寺のようであった。「本堂」。箱館(現在の函館)開港後は一時ロシア領事館の仮止宿所としても使用されたと。「実行寺実行寺は、明暦元年(1655年)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりで、元禄3年(1690年)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、実行寺と称するようになったのはいつ頃からか明らかではない。(明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。)正徳4年(1714年)、富岡町(現弥生町)に移転し、明治12年(1879年)の大火後、同14年(1881年)にこの地に移った。 その後も幾度か大火に見まわれ、同43年(1910年)現在の建物が完成した。実行寺は、安政元年(1854年) ペリーが来航したとき写真班の宿舎にあてられ、同5年(1858年)にはロシア領事館にも利用された。また、明治2年(1869年)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていたとき、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されている。」「海外布教ノ初祖 日持(にちじ)上人像」。日持は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。駿河国蓮永寺の開山。「日持上人ノ銅像ハ昭和十六年身延山八十三世日謙上人ノ宿願ニ賛同セル当山総代初代梅津福次郎翁ノ寄進セルモノナリ然ルニ之ガ建立ハ当時ノ情勢ヨリ一時中止ス猶昭和十七年ニハ翁逝去ノ事アリ此事遂ニ止ムカト憂慮セル時梅津タケ子夫人亡父ノ志ヲ継ギ之ガ完成ヲ申出デラレ開宗七百年ヲ迎フルノ時除幕ノ式典ヲ奉修ス依テ爰ニ其ノ経緯ヲ記シ篤志ヲ永ク伝ヘントス」お顔を見上げて。「日仏親善函館発祥記念碑」丸い窓の空いた石の彫刻が載っていて, 窓の中央で 左右から突き出た2人の手が しっかり握手しているという 印象的なモニュメント。横の面には「日仏親善函館発祥之碑1855年フランス・インドシナ艦隊のシヴィル号、ヴィルジニ号、コンスタンチヌ号の緊急寄港に際し、箱館奉行、竹内下野守保徳は独断で人道的立場から入港と養生の為の上陸を許可した。奉行の要請に応じた実行寺16世住職、松尾日隆上人は、傷病乗組員の平癒につとめ、病○した六名の乗組員を除いてその大半は無事祖国への帰還を果たすことができた。百有余年の時を経て今、日仏親善の発祥の地、あわせて仏教とキリス教の両宗教者の友愛の永遠なる証しとなるよう、この地に記念碑を建立する。2001年(平成13年)10月6日 日仏親善函館発祥記念碑建立準備会 代表・神父フィリップ・グロード 函館日仏協会」そして次に隣の「称名寺」を訪ねた。「称名寺」通用門から境内を。「称名寺」の「山門」。「山門」を正面から。1644年創建、1881(明治14)年に現在地に移る。開港当初は英仏の仮領事館が置かれるなど、頻繁に歴史に登場する。境内には新選組副長・土方歳三の供養碑や著名人の墓も多数。「称名寺称名寺は、正保元年(1644年)円龍上人(えんりゅうしょうにん)が亀田村(現市内亀田八幡宮辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれており、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院である。明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)称名寺を公称し、宝永5年(1708年)亀田の衰退と箱館の繁栄により箱館の富岡町(現・弥生町 弥生小学校)に移転した。明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。境内には河野政通の供養碑を始め、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治(じょうじ)の碑(ひ)」〔貞治6年2月(1367年)の銘がある板碑(いたび)で北海道指定有形文化財〕が保存されている。また、墓地には箱館発展のもとを築いた高田屋一族の墓、新島襄(にいじまじょう)の海外渡航を助け日本最初の気象観測所を開設した福士成豊(ふくしなりとよ)、日魯漁業株式会社創立者堤清六(つつみせいろく)の碑など、著名な人の墓がある。」「本堂」「土方・河野供養碑、高田屋一族の墓」土方歳三と新選組隊士の供養碑土方歳三(新選組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一林(若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)なと諸説があるが、土方ゆかりの鯨都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記してある。称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。他の4名は新選組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年(1954年)の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。河野加賀守政通の供養碑河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。永正9年(1512年)、子・季通の時アイヌに攻められ館は陥落した。この碑は、宝暦3年( 1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰印殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。高田屋嘉兵衛一族の墓高田屋嘉兵衙は、明治6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)箱館大町に支店を設けた。以来、弟・金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に、巨富をもって箱館の殖産興業に多大な業績を残した。日露両国問の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衙の系統が函館に住んだので、称名寺にも墓が建てられた。「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」。「第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑第2次世界大戦末期昭和20年(1945)7月14・15の両日アメリカ艦隊機動部隊の戦闘爆撃機グラマン・コルセア50余機により主要攻撃目標であった函館港内や津軽海峡航行中の船舶は爆撃を受けて85隻が沈没や破壊され多数の犠牲者が出ました。市内では駒止町天神町旅籠町船見町鍛冶町松風町若松町大森町海岸町等の民家が空襲を受け家屋169棟戸数384戸余を焼失。破壊家屋も多数にのぼり、多くの死傷者を出しました。特に駒止町天神町旅籠町船見町鍛冶町地区は函館空襲最大の戦災地で老人と子ども等23人が爆弾や機銃掃射を浴びて犠牲者となり、また多数の負傷者を出し384戸が全半焼しました。この戦争・空襲による悲惨な歴史的事実を想起して函館における空襲犠牲者の霊を慰め、軍縮を希求し、平和を守り抜く誓いを堅持いたしたく、有志者一同が称名寺住職須藤隆仙師の御高配を頂いて、戦災跡地を見下ろすこの境内に記念碑を建立しました。」「日魯漁業株式會社 従業員精霊塔」1924年(大正13年)、操業中に命を落とした従業員への追善供養と、人間の食品とされる動物や植物供養のために建立された。題字は、日魯漁業株式会社の創業者である堤清六による。毎年、日魯漁業株式会社株式を創業した堤清六の命日である9月12日に、ニチロ会が施主となり、施餓鬼法要が営まれている。「河野加賀守正通公の供養塔河野政通公は享徳三年(一四五四)南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き函館一帯の地を治めた。後、アイヌ等を和人の間に争を生じ館は陥ち政通公も戦歿す。ここの供養碑は宝暦三年(一七五三)時の亀田奉行、政通公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし称名寺に建立せしが、後称名寺の移転と共に現在地に至りしものである。」。河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。永正9年(1512年)、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。「称名寺 合葬墓」。「高田屋嘉兵衛顕彰碑」「高田屋嘉兵衛顕彰碑高田屋嘉兵衛(1769-1827)は淡路の人。28歳のとき渡来し、50で皈国するまで、函館を根拠地として北海の天地に活躍した。初めてエトロフ島への海路を開き、17の漁場を作って北海漁業の先駆をなし、又箱館に大店舗を構え、奉行所松前移轉後もエトロフ、幌泉、根室場所の漁獲物の集散と仕込物資の調達をになって、箱館の繁栄を築き、更にゴロウイン拘囚のとき、沈着剛胆よく日露の側を奔走して無事釈放につとめ、永く露国感謝せられた。今年嘉兵衛の百四回忌に当り、高田屋まつりを行い、この碑を建ててその功績を顕彰する。」ロシア語で「ТАКАТАЙ-КАХИ“Вь КАЖДОЙ ЗЕМЛЕ ЕСТЬ СВОИ ОБЫКНОВЕНИЯ, НО ПРЯМО ДОБРЫЕ ДЕЛА ВЕЗДЕ ТАКОВЫМИ СЧИТАЮТСЯ”何れの邦土にも其の邦の風習はあるが 斯様な仕事を為せる者を真の愛国者とす」「観音堂」。
2020.12.25
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この日は11月4日(水)、NHKのニュース放送で「軽井沢の雲場池の紅葉が見頃になっている」との映像放送があり「行って見たい」といつもの旅友に連絡し、前日の夜から軽井沢に向かって茅ヶ崎を20:20に出発。国道468号で相模原までひたすら北上し、国道16号で埼玉県入間市河原町交差点を左折し、東松山市を経由して国道254号を八高線に沿って進む。そして富岡市を経由して安中市から国道18号(中山道)で信越本線の横川駅前を通り、碓氷峠を経由して軽井沢に到着したのであった。到着時間は11月4日午前2時前。途中、朝までの仮眠用の睡眠薬のアルコール販売のコンビニを探して、走り回ったが、コロナ禍の影響で全て閉店していたのであった。私は自宅から持ち込んだワンカップを1本飲み干して車の助手席で朝の5時半頃まで仮眠が取れたのであった。そして車を駐め仮眠をとった「雲場池」近くの駐車場。駐車していたのは我々の車1台のみ。そして「雲場池」に向かって徒歩で進む。別荘の入口門であろうか。駐車場から数分で「雲場池(くもばいけ)」に到着すると、既に数人のカメラマンが。ここは長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢、番地はないのであろうか?「雲場池四季折々の自然が美しい雲場池、特に、湖面に映る春の新緑、春の新緑、秋のもみじの紅葉は素晴らしく、軽井沢の必見の名所なっています。」かって白鳥が飛来したことから、「スワンレイク」という愛称で親しまれており、地元では「お水場」と呼ばれています。池の源は、上流にある、ホテルの敷地内から湧き出ています。この湧き水は、江戸代よリ水質が良く、量が豊富なため、本陣等に宿する武家諸大名・官公家門跡の御膳に使用されたことから、「御膳水」と呼ばれています。」こちらにも「雲場池」案内板が。「雲場池スワンレイクの愛称を持つ池で、初夏の緑と空の青さは何ともいえず美しく、秋の紅葉は色鮮やかに雲場池に映し出されます。せり出すように茂る木々が水面に影を落とし四季を通じて軽井沢ならではの風景を描いてくれます。」「雲場池」から流れ出る2本の白き帯が。ズームして。細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止めて造った人造湖である とウィキペディアより。紅葉は今が盛りであったが、陽光が差し込むには、時間が早く。水面には、枯れ葉が浮いて。無風を期待したが、微風により水面も揺れて。そして野鳥も泳ぎ更に水面を揺らし。湖畔の遊歩道を左回りに進む。水面に映る紅葉を追う。きらぼし銀行 軽井沢保養所であろうか。紅葉をズームで。折返しの橋を渡る。橋の下の湧水量はこの日は多く。「雲場池」の下流側を望む。木橋を振り返る。この真紅の葉もエピローグを迎え。「雲場池」の入口方面に向かって遊歩道を進む。真っ赤な紅葉を追う。そして「雲場池」をほぼ1周してスタート地点に戻る。「カルガモさん 動かずに静かに波をたてないで」と我儘にも!!こちらは「マガモ」の雄であろうか。水面に映る紅葉を期待していたが・・・・。「池見橋(いけみばし)」から。下流側の水は「精進場川」に流れ出ていた。別荘であろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.24
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「函館ハリストス正教会」を後にして、下って来た「大三坂」を振り返る。右側にあったのが「日本の道百選 大三坂道」碑。右に折れると直ぐ左にあったのが「函館アイヌ協会」。北海道アイヌ協会の函館支部で、この組織は、北方領土出身者、北千島、中部千島、釧路、根室、十勝、網走のアイヌ民族の結束を固めることが目的であるとのこと。その隣りにあったのは、「カール・レイモン 歴史展示館」。ドイツのマイスターで、本格派ハム・ソーセージを作り続けたカール・レイモン氏の生涯を紹介する展示館。レイモンハウス元町店2階では、波瀾万丈な人生を送った、カール・レイモンの人生を多数のパネルで紹介している。また、展示品やカール・レイモン語録なども取り揃えており、カール・レイモンのルーツを知る事が出来る。なお、ここレイモンハウス元町店1階では各商品を購入出来るのであった。「カール・レイモン」像。「カール・レイモン旧住宅「カール・レイモン旧住宅この建物は昭和5年(1930)に、当時函館で貿易業を営んでいた、サハリン出身のロシア人シュウェツさんが作居として建てました。その後、昭和12年(1937)ドイツのハム・ソーセージ作りに情熱を傾けたカール・レイモンが購入し、居宅として使っていました。木造2階建てで、市の伝統的建造物に指定されています。」「カール・レイモン旧住宅建てられたのは昭和5年( 1930年)。木造2階建てで、市の伝統的建造物に指定されていますドイツのハム・ソーセージ作りに情熱を傾けたカール・レイモンが居宅として使っていました。レイモンがここに移り住んだのは昭和12年(1937年)のことです。」そして更に進んで行くと右手にあったのが、「真宗大谷派 東本願寺 函館別院」。明治40年の大火で類焼、1915(大正4)年建替えに際して日本初の鉄筋コンクリート造りとした。ニ十間坂沿いに威風堂々と建つ。国指定重要文化財。東本願寺函館別院とも呼ばれる。重厚な山門が迎えてくれた。「本堂」日射しを受けて黒光りする瓦屋根の建物が威風堂々とそびえていた。 1915(大正4)年の建て替え時に、鉄筋コンクリート造りとなり、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古であると。函館別院の起こりは、1668(寛文8)年、松前専念寺6世浄玄が、阿弥陀堂を創設したことにはじまる。 1710(宝永7)年に、現在の弥生小学校付近に移り、当時は僧の名前にちなんで浄玄寺と呼ばれていました。1806(文化3)年、1829(文政12)年の2度の大火に見舞われ、1879(明治12)年の大火で建物を焼失し、現在地に移転。「東本願寺函館別院」とも呼ばれる。銀杏の黄葉はこれから。「本堂」の内陣。ズームして。「二十間坂」側の脇門。「二十間坂」側の門の外から。「二十間坂」を見る。元町の駐車場に車を駐め、再び散策を再開する。左手の奥に「船魂神社」の鳥居が見えた。この角の民家の黒の板塀の前にあったのが「日和坂(ひよりざか)」案内板。坂の上から港の景色を一望でき、空模様をよく判断できるということからこの名が付いた。また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。日和もトビも共に天気に関係がある。右手に「日和坂」を見る。修学旅行生の男女グループの姿も。更に進むと右手に黒板塀の大きな邸宅が。「旧相馬家住宅」1908(明治41)年、基坂上に豪商相馬哲平の私邸として建築。延床面積680平方メートルの名建築で、2018年に国の重要文化財に指定。函館市伝統的建造物。令和3年4月から開館するとの案内板があった。旧相馬家は、1908(明治41)年築の邸宅。この豪邸を建てた相馬哲平は、1861(文久元)年に新潟に生まれ、後に箱館(函館)に渡って米穀商で財を築き、旧函館区公会堂の建設費5万8千円のうち、私財を投じて5万円を負担するなど、函館の発展に貢献しました。2010(平成22)年6月に一般公開が開始され、2018(平成30)年に国の重要文化財に指定。函館市伝統的建造物。場所は元町地区の、旧函館区公会堂、旧イギリス領事館近くにあった。老松の手入れも行き届いた大邸宅。蔵を改築した「元町ギャラリー」は歴史回廊・歴史的美術館として活用され、アイヌ絵巻や江差屏風などの展示物も見学できるとのことであったが残念ながら閉館中であった。「ようこそ『国指定重要文化財 旧相馬家住宅へ』~北海道屈指の豪商 相馬哲平の館~」徳川時代末期(1861)、28歳の時、徒手空拳で箱館に渡り、一代で北海道屈指の豪商に上りつめた相馬哲平の私邸。伝統的スタイルの邸内は当時の豪商の生活ぶりを見ることができます。隣接の土蔵(重要文化財)ギャラリーはわが国先住民族"アイヌ"の風俗を描いた美術資料を豊富に展示しています。旧相馬家住宅に興味を持っていただきありがとうございます。英語、台湾語、中国語、韓国語での案内も。左手に坂を上って行き右手の折れるとあったのが「元町公園」碑。「元町公園」の上の左手にあったのが「函館市重要文化財 旧函館区公会堂」。函館港を見下ろす高台に建つ「旧函館区公会堂」は、ブルーグレーとイエローの美しい建物。館内は貴賓室や130坪の大広間など、当時の華やかな雰囲気をそのままに残しているのだと。しかしながら、耐震補強を含めた大規模な保存修理工事が実施されていたのであった。工事用の保護シートには「旧函館区公会堂」の姿が。「旧函館公会堂明治40年(1907年) 8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りが焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の寄付を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。当時、函館の豪商、初代相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらす5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階にはバルコニーを配しているほか、屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表わしている。昭和49年(1974年) 5月、国の重要文化財に指定され、同55年(1980年)から約3年を費やして修復、平成30年(2018年) 10月からは耐震補強を含めた保存修理工事を実施。」正面入口は工事用シートで完全に覆われてしまっていた。工事前の姿。 【https://gipsypapa.exblog.jp/15031484/】より「重要文化財旧函館区公会堂の保存修理について」工事工程表。2012年春にはリニューアルオープンの予定であると。「旧函館区公会堂」前から函館の町並みを見る。湾の先に「五稜郭タワー」が見えた。「元町公園」の先の坂を見る。現住所:函館市元町12。更に進むと「東坂」。ここを下っていくと、初日に訪ねた「新島襄 海外渡航の地碑」がある。次の坂は「弥生坂」。左折して「弥生坂」を上って行くと「箱館戦争ゆかりの地」案内板が。「函館聖マリア教会」が右手に。ステンドグラスを教会内から見たかったが・・・。教会内から見るとこんな美しい世界があったのだが・・・。 【https://www.baroque-web.com/works/works_0034.html】より右手に教会へのエントランスが。左手にあったのが「咬菜園(こうさいえん)跡」。「咬菜園跡安政4(1857)年名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3,770㎡)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親みました。咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親です。明治2(1869)年箱館戦争時、追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本軍(旧幕府脱走軍)総裁榎本武揚は同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みました。箱館奉行並中鳥三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作がありますが、「ほととぎす われも血を吐く思い哉」「われもまた 死土で呼ばれん 白牡丹」の辞世の句などはこの時残したものです。同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ケ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げました。」「みなみ北海道最後の武士達の物語」ポスター・「箱館奉行並砲兵頭並 中鳥三郎助」。「土方歳三 1835~18691863 (文久3 )年、幕府兵募集に参加し近藤勇と新選組を結成し、副長を務めた。戊戦争時には第羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合して蝦夷地へり、函館戦争へ従軍した。蝦夷地上陸後、函館進攻、松前・江差方面の攻略を指揮し、蝦夷地平定後は蝦夷島政権の陸軍奉行並、函館市中取締裁判局頭取に就任した。函館市中警備の新選組を指揮する一方で、俳号「豊玉」として句会にも参加するなど、文人としての側面も持ち合わせていた。宮古湾奇襲作戦や大野ニ股の戦闘に奮戦したが、5月11日の新政府軍函館総攻撃時に戦死した。」「永井玄蕃 1816~1891名は尚志。幕府の目付、長崎海軍伝習所総監理、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行、大目付を歴任し、旗本では最高位の若年寄に就任した。戊辰戦争勃発により、榎本武揚らとともに蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参戦した。蝦夷島政権では箱館奉行となり、箱館の本陣(旧箱館奉行所庁舎)、運上所において、統治および諸外国領事等との交渉にあたった。明治2年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、弁天台場で陣頭指揮をとって奮戦したが、新政府の勧告を受け入れて降伏した。投獄されたが特赦で出獄した後.明治政府に出仕した。開拓使御用係、左院小議官、元老院大書記官を歴任した。」「榎本武揚 1836~1908通称は釜次郎、号は梁川。蝦夷御用地掛堀利煕の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。長崎海軍伝習所に学び、築地軍艦操練所教授に就任した。1862 (文久2 )年、オランダ留学に派遣され、帰国後、海軍副総裁に任命された。1868(慶応4 )年8月に旧幕府海軍を率いて蝦夷地へ渡り蝦夷島政権の総裁に選出された。政権樹立後は、函館本陣において政権運営にあたる一方、咬菜園に出入りして書を認めるなど、文人としての才能も豊かであった。新政府軍との戦闘に敗れ、明治2年5月18日に五稜郭で降伏し、東京で投獄されたが、出獄の後は、開拓使へ出仕し、海軍中将としてロシア特命全権公使を務め、通信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任した。」「孤山堂無外 1819~1893常陸国生まれ、「雪耕」と号し連歌や俳諧を嗜んだ。俳友に函館や江差関係者がいたことから俳諧普及のため蝦夷地へ渡り、「孤山堂」を継いだ。1868(明治元)年の函館戦争開戦時に、俳友の中島三郎助と出逢い、七面山に庵を構えて、近所の咬菜園で定期的に句会を開催し、中島や土方歳三ら旧幕府軍の幹部参加したとされる。明治2年4月に中島三郎助が千代が岡陣屋へ転出後は、陣屋に出向いて三郎助を激励し、三郎助戦死の後に、「武士の魂か一声郭公」の句を詠んだとされる。箱館戦争後は、開拓使函館支所、函館裁判所、函館公園看守を歴任し、函館八幡宮の神主を務めた。」「旧幕府軍武士達の清遊諸術調書教授役の武田斐三郎が命名した「咬菜園」は、基坂上に箱館奉行所が有った頃から役人達が楽しんだ名園と伝えられる。函館戦争時は旧函館奉行所庁舎に旧幕府軍の本陣が置かれ、箱館奉行永井玄蕃、同並中島三郎助らが諸外国との交渉や函館の治安を司っていて、多くの旧幕府軍の武士達が咬菜園を訪れる機会は多かったとされる。中でも「木鶏」の俳号を持つ中島三郎助は、咬菜園の貯金にある七面山に庵を構えていた俳人の孤山堂無外と邂逅し、咬菜園での句会に参加していたとされる。明治元年12月15日に蝦夷島政権が誕生し、翌年3月までは戦闘がなく平穏な日々であり、函館市中取締役でもあった土方歳三も句会に参加するなど咬菜園は旧幕府軍の武士達にとって格好の清遊の場となった。同年3月14日、旧幕府軍の幹部が咬菜園に集い、新政府軍艦隊への奇襲作戦成就に向けて壮行会が行われた。この後、旧幕府軍は臨戦態勢に入り、咬菜園での清遊は終わりを告げた。函館は新政府軍に制圧され、数日後には旧幕府軍は降伏して箱館戦争は終結。咬菜園に集まった旧幕府軍の武士達は獄につながれ、あるいは戦死を遂げ、再度、この場に戻ることはなかった。」「中島三郎助 1821~1869浦賀奉行与力として、1853(嘉永6)年のアメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカとの応接を務めた。長崎伝習所へ人所し、後に築地軍艦操練所教授方出役を務めた。戊辰戦争勃発後に、榎本武揚らと蝦夷地に渡り箱館戦争に従軍した。蝦夷島政権では函館奉行並として、函館本陣で諸外国との交渉にあたった。1869(明治2)年4月1日に砲兵頭並の武官へ転出し、千代ヶ岡陣屋の守備隊長に就いたが5月16日の新政府軍の攻撃により、千代ヶ岡陣屋で息子らとともに戦死した。中島三郎助は俳号「木鶏」の俳人としても知られ、函館で俳人孤山堂無外と出逢い、咬菜園での句会には三郎助も参加していたようである。」咬菜園の庭。咬菜園の庭。更に進んで、右に折れて林の中に向かって歩いていくと右手にあったのが「己巳役海軍戦死碑」。函館市船見町6-8 弥生坂上の林の中。「己巳役海軍戦死碑」「己巳役海軍戦死碑ここは、明治2年の函館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府脱走軍に攻撃を開始、5月11日函館湾海戦で新政府軍の軍艦「朝陽」は、旧幕府脱走軍軍艦「蟠龍」の砲撃を受けて沈没した。この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府海軍の戦死者名が刻まれている。建立年月は刻まれていないが、明治2年に建立されたものと思われる。碑の石は、「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部である。高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えられていたものである。嘉兵衛が、貧民救済の目的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。函館護国神社(青柳町)にある「階陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じ亀石を割って作られたものであり、いずれも箱館戦争新政府軍戦没者を祀った記念碑である。」「みなみ北海道最後の武士達の物語」ポスター・「松岡磐吉」。「函館港の海戦 軍艦蟠龍が新政府軍艦朝陽を撃沈1869 (明治2)年6月20日(旧5月11日)、午前3時から新政府軍の函館総攻撃が開始された。函館港においても新政府軍艦甲鉄、春日の2艦は弁天台場を攻撃し、朝陽、丁卯の2艦は七重浜の陸軍を援護攻撃して港内へ進出した。これに対して函館港内に旧幕府軍軍艦蟠龍、回天から砲撃、弁天台場および亀田の浜一本木台場からも発泡し応戦となった。港内に乗り入れた朝陽と丁卯に対して蟠龍が交戦し、朝陽と蟠龍が約1200mの至近距離となった午前7時35分、蟠龍の砲撃が朝陽の右舷を貫き、火薬庫にて破裂し、朝陽の後部は破壊されて前部も次第に沈没した。この交戦で、朝陽艦長中牟田倉之助以下62名は英国軍艦や漁船に救助されて有川へ上陸したが副館長夏秋又之助ら54名が戦死した。朝陽を爆沈させた蟠龍は、甲鉄と春日に追撃された後に弾薬が尽き、機関に故障を起こして座礁し、艦長松岡磐吉以下乗務員は弁天台場へ上陸した。また、浮き砲台となった旧府車繿回天も自ら火を放って艦を焼いて、海軍奉行荒井郁之助以下の乗組員は一本木から上陸、五稜郭へ退却し、旧幕府海軍は全滅となった。午後4時、甲鉄と春日は戦闘を中止し七重浜に碇泊して函館港の海戦は終結した。」「松岡磐吉(ばんきち) 不詳~1871生年は不詳。長崎海軍伝習所で航海術を学び、卒業後幕府に仕え、1860(万延元)年の咸臨丸渡米時に測量方を勤めた。1868(明治元)年に軍艦頭並となり、旧幕府海軍艦蟠龍の艦長として箱館戦争に参戦した。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍函館総攻撃時に函館港海戦で蟠龍を指揮して砲弾を放ち、新政府軍艦朝陽を撃沈させた。しかしながら、蟠龍も操船不能になり、松岡らは弁天台場に上陸した後に、弁天台場で降伏した。東京に護送された後、1871(明治4)年に病死した。」「中牟田倉之助1837(天保8)年、金丸孫七郎の次男として生まれ、中牟田家の養子となる。佐賀藩主鍋島直正の推薦で1856 (安政3)年に長崎海重伝習所へ入所し、幕臣榎本釜次郎らと同窓となる。伝習所卒業後は三重津海軍所で佐賀藩海軍方助役を務めた。1868 (慶応4 )年の戊辰戦争で奥州方面へ出陣し、北越戦争に参戦。1869(明治2 )年に新政府軍艦朝陽の艦長に任命され蝦夷地での函館戦争に参戦した。そして6月20日(旧5月11日)の新政府軍函館総攻撃時に、旧幕府軍艦蟠龍の砲弾が朝陽の火薬庫を直撃して朝陽は沈没したが、中牟田は一命を取り留めた。箱館戦争後の1870(明治3 )年に海軍中佐、1872(明治5 )年、海軍大佐に昇進。1877(明治10 )年の西南戦争後に海軍中将に昇進。以後、海軍大学校長、枢密願問官を歴任。1905(明治38 )年に退役し、1916(大正5 )年に死去した。享年80歳。」「箱館府在住隊碑」己巳役海軍戦死碑の脇にある「函館府在住隊碑」。撃沈された新政府軍艦「朝陽」に乗船していた林六三郎等9名の名前が刻まれていると。「海軍薩摩藩士戦死者墓」函館湾の海戦で戦死した薩摩藩士和田彦兵衛の墓、和田は新政府軍艦「春日」に乗船していた。「春日」では6名が戦死し、海軍戦死碑にも名前が刻まれているが、和田だけは遺族が後に個人の墓を建立した。かなり磨耗が激しく読み取るのも一苦労である。和田の墓に並んで、同じく薩摩藩士「土屋傳太郎直道」の墓がある。土屋も同じく「春日」に水夫として乗船していた。 更に隣には「黒阪源右衛門墓」の墓もある。「和田彦兵衛の墓」の石碑の横には「鹿児島藩士・・」の文字が。薩摩藩士「土屋傳太郎直道」の墓。更に奥に進むとあった大きな碑 ・「御華山寄附記念碑」。「御華山」の文字が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.24
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今年も山陰・鳥取県境港市の丸八水産から松葉がにを2匹購入し、昨日到着しました。発泡スチロールの箱を開けると。2匹とも元気に脚を動かせていました。ズワイガニのうち、成長した雄を「松葉がに」と呼び、ぎっしりと詰まった身と上品な旨味が楽しめる、鳥取を代表する冬の味覚なのです。毎年、年末恒例の松葉ガニを楽しむ行事なのです。顔をズームで。昨日は1匹を妻と二人でシェアー。生蟹の刺し身で。足をはずし横にハサミを入れて、手でからを外しながら皮を殻から取る。氷水にいれて約5分。花が咲いた様に綺麗な刺身の出来上がり。とろっとした食感と独特の甘さが今年も味わえたのです。残りも茹で蟹で二人で1匹をシェアー。かにみそも量が多く絶品でした。今日も同じメニューでもう一匹を楽しみたいと思っています。いや今日は焼き蟹か?--------------------------------------------------------------------------------------------------「妙福寺」の横の石畳の道・「チャチャ登り」を下っていくと右側にあったのが「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」。茶色の十字形をした屋根が印象的なこの建物は、四面の白壁に十字架をあしらい、函館山山頂やロープウエイからも眺めることができたのであった。4方に鋭角の尖塔アーチ型の妻面を張り出した斬新で現代的なデザイン。教会の裏側の入口から入り「聖ヨハネ教会」正面に。既に毎年の10月31日に行われる「ハロウィン」用のカボチャが階段途中に置かれていた。「日本聖公会函館聖ヨハネ教会この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874 )英国聖公会海外伝道教会の宣教師デニンクガ函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内にあける宣教活動の根拠地であった。明治11年(1878)末広町に初めてを堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度な移転した。度重なる火災にまる類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921)の大火災後である。この聞、教育(アイヌ学校を始め清和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行なった。現在の建物は、昭和54年(1979 )に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世紀のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代なテザインとしてのものである。」「函館聖ヨハネ教会」の内部に入る。正面の祭壇。天井はドーム構造。階段上の美しいステンドグラス。壁の絵画。こちらはピンボケ。外に出て別の角度から。こちらが「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」正門。「チャチャ登り函館では珍しいアイヌ語の坂道で、幕末頃ついた名前らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。」そして「チャチャ登り」を隔てて隣りにあったのが「カトリック元町教会」。最初の教会堂は1859(安政6)年創建。現在の建物は1923(大正12)年に再建。大聖堂内の祭壇はローマ教皇から贈られたもの。元町の代表的風景、教会群の一角を占める。大三坂先のチャチャ登りへ入る手前に建つカトリック元町教会は、12世紀のゴシック建築様式を用いた、高くそびえるとがった屋根の大鐘楼が特徴。徳川幕府が発布していたキリシタン禁教令が廃止されるのに先駆け、キリスト教宣教再開の象徴として、横浜と長崎に建立するカトリック教会と並び、国内では最も古い歴史を持ちます。「カトリック元町教会元町教会は、安政6年(1859年)フランスの宣教師メルメ・ドウ・カション(バリー外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として横浜の山手、長崎の大浦と共に最も古い歴史をもつ教会である。明治元年( 1868年)同宣教会司祭ム二クー、アンブルステル両氏が現地に仮聖堂を建て、その後、明治10年(1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。以降、3回の大火で類焼したのち、大正13年( 1924年)現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁十四景の十字架道行の聖像は、イタリーのチロル地方の木彫で、時のローマ教皇ベネディクト十五世から贈られた由緒あるものである。」正面にファサード、右側に高さ百尺(33メートル)の尖塔を持つ鐘楼があるゴシック様式の聖堂。聖堂入口・ファサードの上にキリストを抱くマリア像が。ファサードの 重厚な扉の両脇には聖人が二人左側の聖人。お顔をズームで。右側の聖人。お顔をズームで。「聖堂内」中央祭壇と左右両壁十四景の十字架道行の聖像👈リンク。聖堂内の中央祭壇や副祭壇、両壁にある14景の十字架の道行きは、火事の見舞いとして、ローマ教皇ベネディクト15世から贈られたもの。14景の十字架の道行きとは主イエスが裁判にかけられてから葬られるまでの出来事を語ったものであると。また、聖堂裏には、高さ1.5mの聖母マリア像をまつる「ルルドの洞窟」があり、毎年5、10月に信者が祈りをささげているとのこと。右側にあった「天主公教會」と書かれた建物。この屋根にもキリストを抱くマリア像が。尖塔をズームで。「カトリック元町教会」前にあったのが「亀井勝一郎生誕之地」碑。「亀井勝一郎生誕之地 武者小路実篤書」と刻まれた石柱が左に。そして石碑には「私の家のすぐ隣は、フランスの神父のいるローマカソリック教会堂であった。その隣はロシヤ系のハリストス正教会である。この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メートルほどの塔をもっているので、船で港へはいるとすぐ目につく。ハリストス正教会の前には、イギリス系の聖公会があり やや坂を下ったところにはアメリカ系のメソヂスト教会がある。私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだててわが家の門前にあるまた同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下ったところには、中国領事館があって、ここは道教の廟堂を兼ねていた。要するに世界中の宗教が私の家を中心に集まっていたようなもので、私は幼少年時代を、これら教会や寺院を遊び場として過ごしたのである。″東海の小島の思い出″の一節より」と。「亀井勝一郎生誕之地亀井勝一郎は、明治40年(1907)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。昭和12年(1937)「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年(1965)日本芸術院会員に推挙された。晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年(1966)11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し瞑目す」と刻まれた文学碑がある。」再び「チャチャ登り」方面に「大三坂」を登って行った。「函館ハリストス正教会」に向かって右折する。「カトリック元町教会」の壁に張り付き、真っ赤に紅葉した蔦の葉。そしてその蔦の葉越しの尖塔を見る。見事に紅葉した蔦の葉が陽光に輝いて。「函館市元町末広町重要伝統的建造物群保存地区」案内板。「函館市元町末広町重要伝統的建造物群保存地区函館は、安政6年( 1859年)に、長崎・横浜とともに、我が国最初の開港場として開かれたまちで、以来、諸外国との買易や北洋漁業の基地そして北海道の玄関口として繁栄してきたまちであります。当該保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところで、現在でも旧外国公館や各宗教施設、公共施設や煉反倉庫群などのほか和風、洋風および函館独特の上下和洋折衷様式の町家が混在し、異国情緒豊かな町並みを形成しております。面積は、約14.5ヘクタールで、弥生町、大町、末広町、元町および豊川町の各一部の範囲となっており、指定されている伝統的建造物等が歴史的な雰囲気を醸し出して往時の姿を残しております。函館市では、こうした町並みを後世に継承するため、「函館市都市景観条例」に基づき「伝統的建造物群保存地区」を定め、北海道で唯一国の選定を受けた「重要伝統的建造物群保存地区」の貴重な歴史的町並みの保護保存に努めております。」そして次に訪ねたのが「函館ハリストス正教会」。ハリストスとはギリシャ語で救世主の意。日本初のロシア正教会聖堂。白壁と緑屋根の対比が美しく、函館を代表する歴史的建造物。現存する聖堂は1916年築。週末などには美しい鐘の音色が響きわたる。異国情緒漂うエキゾチックな町並みを形作る洋風建築物の代表格と言えるのが、函館ハリストス正教会。白壁と緑屋根の外観に加え、美しい音色を奏でる鐘があることも有名で、市民には「ガンガン寺」の愛称で親しまれています。ハリストス正教会の鐘「日本の音風景100選 」👈リンク 認定。1859年、初代ロシア領事ゴシケヴィッチが現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保しました。翌1860年、領事館付属聖堂として建てられたのが、初代の聖堂です。1861年に来函した青年司祭聖ニコライが、この聖堂を拠点に日本で初めて正教会を布教しました。1907年に起きた大火で建物を焼失しましたが、1916年に二代目となる現聖堂が再建され、1983年に国の重要文化財に指定されました。正面玄関上にそびえる八角形の「鐘塔」。「鐘楼」をズームで。「重要文化財 函館ハリストス正教会復活聖堂 昭和大修理ロシア・ビザンチン様式の外観がひときわ美しいこの聖堂は、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記念して建てられたため、「復活聖堂」と呼ばれる。当時、正教会の副輔祭であった河村伊蔵の設計で、1916年(大正5年)に竣功した。平面構造は、正方形の聖所を中心とし、前方に啓蒙所と玄関、後方に半円形の至聖所が付く正教会聖堂の標準的な十字形平面である。正面玄関上には、八角形平面の鐘塔がそびえ、屋根上にはロシア正教独特のクーポルがのる。壁はレンガ造白漆喰塗で、大小のアーチや蛇腹が外観にアクセントを加えている。天井は唐草模様の花ゴザ敷で、聖所にはハリストスや聖人を描いたイコノスタス(聖障)が壁面いっぱいに広がる。修復工事は、1986年(昭和61年)5月から始まり、主として内外壁および天井の漆喰塗り直し屋根銅板葺きと小屋組木部腐朽部分の補修、基礎石および蛇腹石の補修、正面石階段の据直しフニスおよびペンキの塗直し、イコノスタスのクリーニングなどが行われた。また、修復工事にともなう綿密な調査によって、聖堂内にパニカジーロ(シャンデリア)・ランバート(吊燭台)や花ゴザ、および正門鉄扉の建設当初の姿が明らかとなったので、これらもあわせて復元した。1988年(昭和63年)10月、とどこおりなく修復工事を終え、翌月6日に成聖式を挙行しまさに神の宮として”復活”した。」「ハリストス」。屋根の上には玉ネギのようなクーポラ(小さなドーム)が飛び出ていたが、これはロシア式聖堂の特徴で、ロウソクの炎をかたどっているのだ。屋根には多くの「クーポラ」が。周囲を散策しながら「クーポラ」をカメラで追う。先程訪ねた「カトリック元町教会」を再び。「カトリック元町教会」入口・ファサードの上のキリストを抱くマリア像をズームで。「ハリストス正教会」の「鐘楼」を再びズームで。現在取り付けられている鐘は5個で5代目であると。裏に廻って。庭の一角には、この教会を拠点にロシア正教を布教した宣教師ニコライ像が「亜使徒 日本の大主教 聖ニコライ 1836~1912」。ズームで。裏側から。クーポラの数は中央に大1,四隅に小4。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.23
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函館山展望台からの絶景を「二人占め」した後は、車に戻り400mほど坂道を下り「つつじ山駐車場」に車を駐める。実は、写真正面の坂道を更に上って行き、「千畳敷戦闘指令所跡」を訪ねたかったのであるが「進入禁止」でゲートが閉まっていた為、諦めてこの駐車場に。ゲートの手前左側にあった2体の石仏像。左手が西国三十三所観音霊場・「第二十番 山城國乙訓郡西山 善峯寺 千手観世音のおもすぎ やまじにむかう あめのそら よしみねよりも はるるゆうだち」・(御詠歌)右手が西国三十三所観音霊場・「第廿四番 摂津國河邊郡 紫雲山 中山寺 ニ臀十一面観世音のをもすぎ さとをも ゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため」・(御詠歌)函館山山頂を振り返る。「御殿山第2砲台跡」案内板。注意事項■砲台跡内には立ち入り禁止箇所が多数ありますので、現地の表示に従ってください。 急な階段がありますので、足元に気をつけて通行してください。■千畳敷コースは一般車両の通行禁止のため、冬季間以外はゲートを閉めております。 徒歩での通行は可能ですので、ゲートの隙間をお通り下さい。 現在地から砲台跡までは約5分で着きます。上記案内「徒歩での通行は可能ですので、ゲートの隙間をお通り下さい。現在地から砲台跡までは約5分で着きます。」とのことで、「御殿山第2砲台跡」に歩いて向かう。道標に従い、狭い山道を上って行った。数分で「御殿山第2砲台跡」に到着。日清戦争終結後、函館港などの防衛を目的に明治31年(1898)から4年余りをかけて築かれた5カ所の函館要塞跡が残る。函館山山頂下の「御殿山第2砲台跡」は、当時の面影のまま現存している希少なもので、平成13年(2001)年10月、北海道遺産に選定された。ほかにも函館山には弾薬庫や観測所など77施設が築かれてあり、貴重な歴史を今に伝えていると。「砲台」前の通路。「函館山の地質函館山は、おおよそ100万年前に活動していた火山で、溶岩等の火山噴出物が積み重なってできています。すでに活動していた頃の姿は残っていませんが、旧登山道や尾根の一部、海岸の切り立った崖などに見られる岩石にその跡を見ることができます。函館山をつくる火山岩は、最初に噴出した立待岬溶岩、その次に堆積した千畳敷集塊岩、さらに溶岩の噴出によって形成された高龍寺山溶岩、最後の噴火により流し出された千畳敷溶岩と御殿山溶岩に区分されていて、いずれもディサイト(流紋岩と安山岩の中間の岩石)と呼ばれる岩質のものです。」函館山展望台にも同じものがあったが「函館山の自然函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂で亀田半島とつながった陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲約9mとなっており、別名「臥牛山」とも呼ばれています。函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20年(1945年)まで約半世紀にわたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵まれた自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。さらに、四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として重要な役割を果たしており約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区に指定されています。」こちらも同様に函館山展望台にも同じものがあったが「函館要塞について函館要塞は明治35年(1902年)の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31年(1898年)から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に砲台が建設されました。他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を守るために建設されました。日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館港は攻撃されることはありませんでした。その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。函館要塞建設直後の明治32年(1899年)に要塞地帯法が制定され、昭和21年(1946年)に開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。」大正11年に撮影された「御殿山第2砲台」。砲台から一段上にある「つつじ山広場」に向かう。「御殿山第2砲台見取り図」1901(明治34)年2月、遠方から侵入する敵艦船を攻撃する砲戦砲台として、28センチ榴弾砲6門が配置された。着弾地観測(兼見張所)には砲座跡が、その周りを囲むように石垣がある。ちなみにこの大砲は演習用で、ロシアの艦隊が津軽海峡を通過した時も、第二次世界大戦で函館が空襲を受けた時も、実戦で使われたことは一度もなかったとのこと。2門の砲台の間には3つの「地下砲側庫」があり、右側には「砲具・弾薬庫・士官詰所」があったようだ。2台の砲台跡を「つつじ山広場」より見下ろす。ネットからの写真。「米軍が撮影した御殿山第二砲台 写真提供:工藤洋三 様米軍(戦略爆撃調査団)が1945(昭和20)年10月14日に撮影した御殿山第二砲台の様子。第一・第二砲座にあった4門の28cm榴弾砲はすべて砲身が切断された状態となっている。写真奥には観測所が、通路には、調査団が使用したものと考えられるジープ写りこんでおり、撮影時点ではまだ、砲台のトンネルや掩蔽部などが破壊されていないことが分かる。」と。 【https://japanese-fortifications.com/tsugaru/gotenyama2_p1.html】より転載再び函館山山頂の電波塔群を見る。最奥の砲台跡。更に奥から「御殿山第2砲台跡」を振り返る。「地下砲側庫」への石段が見えた。そして「御殿山第2砲台跡」からの帰路に。「北海道駒ヶ岳」を望む。そして「つつじ山駐車場」に戻り、函館山を下り、一方通行の分岐手前で車を駐める。左手にあったのが「青函連絡船殉難者慰霊碑」。石段を上っていくと正面にあったのが「慰霊碑」。碑の正面?には梵字の釈迦如来を意味する「バク」が刻まれているのだと。太平洋戦争で撃沈された青函連絡船とその乗員の慰霊のため、1953年(昭和28年)に、青函連絡船殉職者功績顕彰会(青函連絡船の船員を中心とする国鉄職員らによる会)により建立された慰霊碑。しかし、奇しくもその翌年に洞爺丸台風海難事故が発生し、その殉職者も合祀された。建立当時は、悲惨な戦争への回顧の念を持つための目的であったものが、よもや日本最大の海難事故殉職者までもが祀られるとは・・・。手前に「台風十五号青函連絡船船員遭難者遺族会」と刻まれた石碑が。そして奥の袖垣の内側には殉難者の氏名を刻んだ真鍮のプレートが嵌め込まれていた。1954年(昭和29年)には、15号台風(洞爺丸台風)によって洞爺丸、北見丸、日高丸、十勝丸、第十一青函丸の青函連絡船5隻が沈没する日本海難史上最大の事故が発生し多くの死者がでたが、その時に殉職した職員もこの碑に合祀されているのであった。慰霊碑の右奥には「殉難船碑」が建てられていた。近づくといろいろな石碑が。右手には洞爺丸台風で沈没し、復旧されることなく廃船となった「洞爺丸」「第十一青函丸」の文字が彫られ(第十一青函丸の文字は裏側)ていた。碑の表側には、「北見丸の船底の一部」が切り出され、はめ込まれているのだと。その左手の石碑。「国鉄青函連絡船の航跡●1908年(明治41年)3月7日 航路開設 比羅夫・田村丸就航●1924年(大正13年)5月 翔凰丸、客貸船として建造、貨車航送開始●1945年(昭和20年)2月7日 第九青函丸 浦賀ドック建造 函館港に廻航中、 千葉県勝浦沖で座礁沈没 殉職者13名●1945年(昭和20年)3月6日 第五青函丸 青森港北防波堤西側に猛吹雪のため接触沈没 殉職者74名●1945年(昭和20年)7月14・15日 翔凰丸、飛鸞丸、津軽丸、松前丸、第一青函丸、第二青函丸 第三青函丸、第四青函丸、第六青函丸、第十青函丸、第二次大戦空爆により函館港、津軽海峡 青森港などで殉職者364名●1945年(昭和20年)8月9日 亜庭丸 第二次大戦空爆により青森県茂浦港で沈没●1945年(昭和20年)9月26日 洞爺丸、北見丸、十勝丸、日高丸、第十一青函丸、 台風十五号により沈没 殉職者379名●1988年(昭和63年)3月13日 青函トンネル開業により国鉄青函連絡船航路80年の 歴史を終えた。星霜80年、国鉄青函連絡船船員として、光輝ある航跡は、津軽海峡とともに不滅であります。霊の永遠の安らぎをお祈りします。」「比羅夫丸(ひらふまる)」碑。比羅夫丸は日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。「羊蹄丸(ようていまる)」碑。羊蹄丸は、1965年(昭和40年)から1988年(昭和63年)まで日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函航路で運航された客載車両渡船で、同航路における羊蹄丸という船名は2代目であった。次に訪ねたのが「妙福寺」。北海道函館市元町3−31。函館山山頂を見上げる。この「妙福寺」は、日蓮宗の最上(さいじょう)稲荷教という教派の施設であると。明治の神仏分離令の際、他の神社仏閣とは違い「神仏習合」の祭祀形式が許された。よって鳥居や大注連縄もあり、神宮形式の本殿なのであると。朱の鳥居の扁額は「真如山 妙福寺」。入口には「最上稲荷総本山函館分院」の表札がかかっていた。そしてぐるっと廻って進むとこちらが「本殿」であろう。本殿には注連縄も。大小の朱の鳥居が。「久遠稲荷大明神」。「春日大明神」。「南無妙法蓮華経 八大龍王」と刻まれた石碑。小さな社が4社。本堂を奥から見る。扁額「妙福寺」。「最上稲荷総本山函館分院」こちらが正式な入口なのであろう。「真如山 妙福寺」掲示板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.22
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そして「函館山山頂駐車場」に到着し散策開始。時間は7:52。駐車場には早朝から多くの車両が駐車していた。函館山ロープウェイは定期整備点検のため、2020年10月19日から12日間の運休となっており、この日は10月21日であり、この定期整備点検工事の為の工事車両なのであった。まずは山頂の石畳の展望台から箱館の町並みを見る。「函館山の自然函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂で亀田半島とつながった陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲約9mとなっており、別名「臥牛山」とも呼ばれています。函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20年(1945年)まで約半世紀にわたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵まれた自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。さらに、四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として重要な役割を果たしており約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区に指定されています。」「函館要塞について函館要塞は明治35年(1902年)の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31年(1898年)から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に砲台が建設されました。他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を守るために建設されました。日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館港は攻撃されることはありませんでした。その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。函館要塞建設直後の明治32年(1899年)に要塞地帯法が制定され、昭和21年(1946年)に開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。」「渡島半島」地図。 「函館山函館山は、幾たびもの火山活動により海中に隆起した孤島であったが、約3000年位前に、海水により港側と外海側から次第に砂が堆積されて砂州(さす)ができ、函館山は渡島(おしま)半島と陸つづきになった。函館の中心街はこの砂州の上にある。函館山の地質は、約2500万年前に噴出した安山岩で、五稜郭や弁天台場などの工事にこの山の石を用いた。函館山の最高峰は、ここ御殿山(ごてんやま)で標高334mあり、このほか、薬師山(やくしやま)、観音山(かんのんやま)、千畳敷(せんじょうじき)、鞍掛山(くらかけやま)などがあるが、この山の形が牛の臥している姿に似ているので、別名臥牛山(がぎゅうさん)とも呼ばれている。山頂からは、扇状にひろがる市街地、遠く駒ケ岳、汐首岬も望まれ、晴れた日は、本州の下北半島も見られるが、特に市街地の夜景は世界一といわれる美しさである。函館山の右手、西端には、異郷の地で永遠に眠る外国人の墓、外国人墓地があり、左手、東端には薄幸の詩人石川啄木とその一族が眠る立待岬があるほか、山麓には数多くの名所、旧跡が散在している。展望台壁面には、寛政12年(1800年)5月28日、伊能忠敬(いのうただたか)が北海道最初に測量したことを記念したレリーフがあり、また、前方の広場には、ブラキストンラインで有名なブラキストンの記念碑もあるなど、学術的にも貴重な山である。」「はこだて観光案内」「津軽要塞と函館山の植物●津軽要塞跡 明治30 ( 1897 )年、函館山で要塞工事が始まり、32年11月函館要塞として完成したが 昭和2(1927)年4月に津軽要塞と改称された。敷地は保安林も含め御殿山、薬師山、千畳敷、 谷地頭付近の約16万坪が陸軍省の所管となり、昭和21(1946)年5月の開放までは、一般市民の 立入りはもちろん、写生、撮影ならびに測量などが一切禁止された。 現在も函館山の各所に地下壕跡などが残されている。●函館山の植物 函館山は、その山容が標高わずか334m 、周囲約9 kmの小さい山でありながら、地形が 複雑多岐であり、植物の生育環境が多様であることから、植物種は極めて多く、北方系と 南方系が混生しており、その数は600種余りと言われ、まさに自然が造りあげた植物園である。 自然林もさることながら、箱館奉行や開拓使によって植林されたスギやマツの群生が見られる。 また、道路沿いや裸地に目立つセイヨウタンポポなどは,明治初期に移入されたものであるが、 このような帰化植物は30数種類あると言われている。これらの豊富な植物は、要塞が築かれて から50年近くも入山禁止となったために自然が守られ、保護された結果であろう。 ここはまた鳥類の楽園としても知られている。津軽海峡が動物分布上の境界線をなすことを 発見した、英国人プラキストンは、函館山の鳥類を調べてこの境界線(ブラキストンライン)を 発表した。現在、留鳥と渡り鳥を合わせて約150種が見られる。」「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 掲載箱館スポット」☆☆☆になっている「函館山からの眺望」。海上棧橋をズームアップ、後方には北海道新幹線の高架。太平洋セメント㈱上磯工場から2kmにわたって延びる海上棧橋。太平洋セメントは我が国で100年を越える歴史を持つコンクリート工場。上磯工場で生産されたセメントは、函館湾に延びる約2キロのこの海上桟橋のベルトコンベアによって大型船に運ばれ、国内出荷はもとより海外輸出も行っているとのこと。明治時代に稼働を始めたという上磯工場で海上桟橋が完成したのは1970年。その後1987年に延伸し、今の2kmという長さになったと。「日時計」。太陽光によって出来た影を利用し時刻を読む装置・日時計が設置されていた。先端の地球儀に陽が当たっている国が現時点で正午を意味するため、子供連れには人気のオブジェ。日時計の計測を横にある時差表で修正すれば、誤差はごくわずかという性能の良さ。晴れた日に試すことが出来る先人の知恵。別の角度から。函館山山頂にあった「三角点」。三角点とは、三角測量を行う時に地表に埋定された基準点のことを三角点と言う。函館山の三角点は三等三角点であるとのこと。6月3日は「測量の日」。1949年6月3日、「測量法」が公布されたことにちなんで、建設省(現在の国土交通省)、国土地理院等が1989年に制定したと。「伊能忠敬・北海道最初の測量地碑五月二十八日 新暦七月十九日土用 朝五つ迄曇る 夫より晴天江戸出立後の上天気なり 併し山々白雲おほし 箱館山に登て所々の方位を測 夜も晴測量……寛政十二年 一八〇〇年伊能忠敬測量日誌より昭和三十二年四月 函館市」。日本地図を作った伊能忠敬は、寛政12年(1800年)に箱館(現在の函館)を出発点として東海岸から根室まで蝦夷地の実測を開始。その起点が函館山だったことを記念し、函館山山頂展望台の側壁に肖像ブロンズを嵌め込んだ碑を設置しているのだ。「函館山のモニュメント」越しに眺める海。そして遠くにこの朝に周遊した「北海道駒ヶ岳」の勇姿。展望台は人の姿は他になく、これぞ「2人占め」の函館山展望台。早朝のこの日は、函館山からも亀田半島や恵山方面、そして津軽海峡を挟んで本州の下北・津軽半島を彼方に望めたのであった。函館山からの豊川ふ頭エリアの風景。教会や領事館跡など、異国情緒漂う元町・ベイエリアを従えた函館港。豊川ふ頭には昭和63年(1988年)に廃止された「青函連絡船記念館摩周丸」を保存・公開しているのも見られたのであった。「スイングパノラマ」モードで。左に「北海道駒ヶ岳」、右手に「亀田半島」が先端まで。これが函館山から見たズームでの「青函連絡船記念館摩周丸」。「函館どつく㈱ 函館造船所」。「津軽海峡フェリー」が定期修繕で停泊中であった。「コスモ石油㈱ 函館物流基地」のタンク群とその先に「北海道駒ヶ岳」。「山頂駅(函館山ロープウェイ)」前の支柱。1段下の展望台にも人の姿はなかった。「五稜郭タワーをズームで」。鏡のように静かな函館湾。遠く静かな海の先に函館空港、亀田半島も鮮明に見えたのであった。函館山から見る「函館ハリストス正教会」、「カトリック元町教会」、「函館聖ヨハネ教会」。「函館ハリストス正教会」、「カトリック元町教会」をズームして。再び「函館どつく㈱ 函館造船所」。東北以北で最大の造船メーカーであり、函館と室蘭に造船所がある。函館では幕末の開港から函館港を中心に発展を遂げ、造船は北洋漁業とともに函館の経済を支えてきた。「湯川町」方面を見る。その先に「函館空港」。「函館山ロープウェイ山麓駅」。「函館駅」周辺を見る。「金森赤レンガ倉庫群」。この写真のカメラ設定はどうなっていたのであろうか?まるで上空からの写真の如くに。津軽海峡を航行する「津軽海峡フェリー」を。松前半島の「大千軒岳」を見る。松前半島の「渡島廃棄物処理広域連合・クリーンおしま」と「道南いさりび鉄道」の高架橋をズームで。まだまだ「2人占め」。「松前半島」を見る。北斗市昭和1丁目にある「太平洋セメント㈱上磯工場」方面を見る。全長6.2kmの巨大コンベアーの姿もはっきりと見えた。「北海道駒ヶ岳」方面を見る。右手に「函館山のモニュメント」。「ブラキストンの碑」。「トーマス・ライト・ブラキストンについて ( Thomas Wright Blakiston ) ブラキストンは、1832年イギリス生まれ、文久3 (1863) 年に日本での事業をおこすために来函 ( らいかん ) し、事業を継続しながら鳥類を捕獲・研究、気象観測も行いました。明治12 (1879) 年には、函館滞在中に道内で捕獲した鳥類標本を開拓使函館支庁仮博物場 ( 現在の市立函館博物館 ) に寄贈しています。この標本は、現在北海道大学植物園・博物館に所蔵されています。明治16 (1883) 年、本州と北海道の動物の著しい違いがあることを、アジア協会報に発表して注目され、津軽海峡が「ブラキストン・ライン」と呼ばれるようになりました。」「NHK&HBC テレビ送信所」。函館山山頂の絶景を思う存分「2人占め」し堪能した後は駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.21
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「御岳山古墳」を後にして、環八通りの「等々力不動前」交差点を左折し「野毛大塚古墳」に向かって進む。「等々力不動尊」案内板。石仏が砂利店の前に。ここが「等々力渓谷」の入口。「等々力渓谷と周辺のご案内等々力渓谷 東京都指定名勝等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 k mの東京23区内唯一の渓谷です。谷沢川沿いには、武蔵野の代表的な植生であるケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。玉沢橋(環状8号線)あたりは、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷第3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には桜の名勝として知られている等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行を訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。」階段を下った先に「等々力渓谷横穴墓群三号横穴」前の小さな広場が見えた。「都史跡 等々力渓谷三号横穴」碑。「玉沢橋」から「等々力渓谷」の谷沢川の水面が陽光を反射して。更に進むと「世田谷区立玉川野毛町公園」が左手に。園内の黄葉。「玉川野毛町公園案内図」。中央に大きな野球場と左手に2面のテニスコートそしてその横に「野毛大塚古墳」があった。公園内の像「翼を持った女 Women with Wings」。そして公園内を奥に進み「野毛大塚古墳」前に到着。「大塚古墳」碑。近くに「都史跡 野毛大塚古墳」碑。ここが正式な入口であるようであった。所在地:東京都世田谷区野毛1-25-1。「東京都指定史跡 野毛大塚古墳野毛大塚古墳は全長八二メートル、後円部の高さ一〇メートルの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は一〇四メートルである。三段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺が納められている。割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、二基の箱形木棺からは、刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などがそれぞれ出土している。野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。」「古墳」頂部に上りながら野球場を見る。「野毛大塚古墳」頂部に到着。発掘物配置案内図。後円部頂上には四基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺が納められていたのだと。発掘時の上空からの写真をネットから。 【http://inoues.net/ruins/noge_ohtsuka.html】より中央の第1主体部。中央の第1主体部は式の王にふさわしく、粘土槨にくるまれた長さ8 mの割竹形木棺で、甲冑、刀剣、鉄などの武器・武具とともに、銅鏡、石製模造品、装身具(銅釧・玉類・縦櫛)などが副葬されています。 【http://inoues.net/ruins/noge_ohtsuka.html】より第3、第4主体部。古墳の周囲の黄葉。古墳を見下ろし帆立貝式の「前方部」を見る。 「野毛大塚古墳野毛大塚古墳は5世紀初めに造られた全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳です。墳丘の全長は約82mで、後円部は直径が約68m、高さ約10m、前方部は前端の幅約28m、高さ約2mで、後円部に比べて極端に小さく、低いことが特徴です。また、前方部の脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの造出部と呼ばれる小さな方形部分が付設されています。さらに、古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空堀で馬蹄形に囲まれています。墳丘は平坦な地面に盛土をして築かれていて、前方部は1段、後円部は3段になっています。また、その表面はすべて多摩川の河原石を使った葺石で覆われています。幅約3mのテラス(平坦な部分)と後円部および前方部の頂上には、円筒埴輪と朝顔形埴輪による埴輪列が、造出部には柵形埴輪がそれぞれ1重に巡っています。この他には家、盾、鶏などの器物や動物などをかたどった形象埴輪が置かれています。また、濠の中からは、本来は墳丘の上に立てられていた埴輪や、祭りに使われた高坏などの土器(土師器)が出土しました。」5世紀初めに造られた全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳です。墳丘の全長は約82mで、後円部は直径が約68m、高さ約10m、前方部は前端の幅約28m、高さ約2mの「野毛大塚古墳」。古墳の下から見上げる。手前が古墳の「周濠」部。そして「野毛大塚古墳」を後にして等々力駅に向かって進む。左手に「玉川野毛町公園」の正門を再び。「ゴルフ橋」を渡る。「ゴルフ橋」から等々力渓谷を見る。歩道には等々力渓谷への道順が描かれていた。等々力駅前の左手横に茅葺屋根の民家があった。スーパー成城石井等々力店の駐車場の横にある、世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。 東京都世田谷区等々力2丁目39番。「鈴木家住宅穀倉鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋染を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。」内部は非公開であった。「鈴木家住宅」は明治時代の建物で桁行2間(3.6メートル)、梁間1.5間(3.0メートル)、寄棟造、茅葺。世田谷区指定有形文化財(建造物)に平成21年11月16日に指定された。土蔵2棟と穀倉が建っていた。穀倉は、明治8年(1875)に建てられた小規模な建物である。外壁には板を打ち付け、建物の三方に下屋を設けて屋根を深く葺き下ろし、風雨から建物を守っている。内部は床・天井・壁ともに板張りで、ネズミや害虫の侵入を防ぐ工夫がされている。入口には錠前が付き、厳重な戸締りがされている。天井裏には梁がなく物置として利用していたようだ。かつては多くの農家に穀倉があったが、時代とともに取り壊され、現在区内で確認できるものは他にない とのこと。そしてこの日の午前中の「浄真寺」、「等々力渓谷」の紅葉散策を終えたのであった。そしてこの紅葉散策の一連のブログを書き上げ、12月16日に放送されたフジテレビ「林修のニッポンドリル」で、「歌がうまい国宝級歌姫TOP15」の1位にランキングされた「MISIA」👈リンク の歌を聴きながら紅葉の余韻に浸っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2020.12.20
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函館山に向かって国道5号・函館新道の「函館IC」を通過する。函館市電の「函館駅前」駅前を通過する。市電は「湯の川」行き。函館市豊川町から「函館山山頂」を車窓から望む。「十字街」交差点から「北海道 坂本龍馬 記念館」を車窓から。道路の向かいには「坂本龍馬像」があったが、間に合わず、ネットから。 【https://hakodate-kankou.com/see/580/】よりそして正面角には「操作塔」が見えた。昭和十四年(1939年)に、交差点での電車信号表示とポイントの切り替えを手動による遠隔操作をするために建てられたもので、現存する路面電車の操車塔としては国内最古のものと言われている。高さは五・四メートル、制御室の直径は一・九メートル。昭和四十四年(1969年)当時は、市内に六基あったが、施設の自動化などで徐々に姿を消し、ここにある操車塔だけが、平成七年(1995年)六月まで、電車信号機の制御装置が置かれ、使用されていた。当時は、交差点を挟んで反対側(北洋銀行側)に建てられていたが、道路改良に伴い、平成七年九月に現在の場所に移設し、形態保存されているとのこと。この「十字街」交差点を左折して進むと右側に像があり、ここで車を駐める。「高田屋嘉兵衛銅像」。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装。44歳の精悍な顔立ち。後ろ姿。「高田屋嘉兵衛銅像この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。」そして台座の横には「高田屋嘉兵衛(明和六年~文政十年一七六九~一八二七)は淡路の人二十八歳の時 渡来し五十歳の時帰国するまで箱館を基地としエトロフ島を開発経営して北洋漁業を営み奉行所松前移転後も本店を大町に 屋敷を蓬来町に構えて大船十余・蔵四十余をもち大いに箱館の繁栄を築いた。又ゴローイン拘因のとき沈着剛胆よく、日露の間を奔走してその釈放につとめ、永く露国に感謝せられた。今年箱館開港百年に当り、本市出身の梁川剛一氏に嘱しこの銅像を建立して、永くその功績を記念する。昭和三十三年七月十五日 函館市長 吉谷一次」とも。「高田屋嘉兵衛銅像」と向かい合うように建っていたのが「日露友好の碑」「1811年、ロシア軍艦ディアナ号の艦長V.M.ゴローニンが千島列島を測量中、徳川幕府役人に捕らえられて、松前に監禁されたゴローニン事件。翌年、高田屋嘉兵衛がクナシリ沖にてロシア船に拿捕され、カムチャッカに連行された。しかし高田屋嘉兵衛は逆境を好機ととらえ、副艦長リコルドとの友情を深め、言葉の壁を乗り越え両国和平を説き、1813年ゴローニン釈放を実現させ、日露武力衝突の危機より日本を救った。ゴローニンは帰国後『日本幽閉記』を著し、嘉兵衛を評し「この世で最もすばらしい尊敬すべき人物」とたたえた。ゴローニンは松前へ護送される前、ここ函館市宝泉町の地にあった牢獄に幽閉されていた。1999年、ロシアよりゴローニン、リコルドの子孫が来日され、高田屋嘉兵衛七代目を交え事件から186年後の子孫を通じての再会をこの地にて果たしました。ここに3人の深い友情と邂逅を記念し、21世紀を前に国際親善を深く願い、日露友好の永遠のシンボルとしてこの碑を建立した。」「高橋掬太郎歌碑」がその先に。「掬太郎 酒は涙か溜息か心のうさの捨てどころ」「高橋掬太郎歌碑高橋掬太郎は、大正11(1922)年函館日日新聞社に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけていた。昭和6年「酒は涙か溜息か…」の歌詞をコロムビアレコードに投稿して採用され、古賀政男が作曲、藤山一郎が歌って大ヒットした。昭和8年、コロムビアレコード専属作詞家となり、のちにキングレコードに移り、昭和45年4月、69歳で他界するまでに約3千の作詩をしている。作品には「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「ここに幸あり」「高原の宿」「雨に咲く花」など数々の名作がある。この碑は、函館で生まれた「酒は涙か溜息か…」を永く記念するため、昭和36年有志により同町内にあった温泉敷地内に建てられたが、平成10年4月に現在の場所に移設されたもので、碑文は掬太郎の真筆である。」「函館さのさ」歌碑。一.函館の立待岬に啄木が「東海の 小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 蟹とたはむる」薄命詩人の 情熱を今に偲んで 杖を曳く二.鴎啼く巴港を 見下ろせば「函館の 青柳町こそ かなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花 矢ぐるまの花」別れテープに ドラが鳴る今も啄木の 語り草三.潮騒の津軽海峡ながめつつ「潮かをる 北の浜辺の砂山のかの浜薔薇 ( はまなす ) よ今年も咲けるや 今年も咲けるや」すぎにし思い出 はかなくも消えし歌人の 面影よ「蕎麦百年碑」。平成9年に函館麺類飲食業組合によって建立された「蕎麦百年碑」であると。「高田屋屋敷跡」碑。石碑の表面には「高田屋嘉兵衛(一七六九~一八一七)淡路国都志本村の人 若くして函館に渡り千島エトロフの漁場開発日露事件の和平解決等、各方面に活躍して自ら豪冨をなすと共に土地を繁栄せしめた。一族の墓は称名寺にある」と刻まれているのだと。「高田屋屋敷跡箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。明和6年(1769年)兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8年(1796年)28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元年(1818年)郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。高田屋の全盛は、寛政13年(1801年)に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。」「高田屋通り」から「函館山」、「護国神社坂」と「函館護国神社」の鳥居を見る。「函館護国神社」の朱の鳥居。1869(明治2)年に箱館戦争で殉難した政府軍兵士を祀る招魂社として創建され、1939(昭和14)年に函館護國神社と改称された。広大な境内には、箱館戦争の戦没者を葬る旧官修墳墓(新政府軍墓地)、高田屋嘉兵衛が行った失業対策の象徴である「亀石」を2つに分断した「招魂場碑」、戦死者人名碑、戊辰薩藩戦死者墓ニューギニア慰霊碑などがあり、箱館戦争から太平洋戦争に至る北海道南部の戦没者が祀られているとのこと。函館山への一方通行の坂道を上って函館山山頂を目指す。くねくねとした道道675号線・「函館登山道路」を旅友Sさんの巧みな運転で上って行く。そして絶景が眼下に見えるヘアピンカーブで車を駐める。函館の町並みが眼下に現れた。「海岸町」、「万代町」、「浅野町」そして「青函フェリー 函館ターミナル」方面を見る。「亀田半島」の「汐首岬」方面を見る。ズームで。函館山山頂展望台、函館ロープウェイ山頂駅を見上げる。箱館湾を航行する漁船?「箱館空港」方面を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.20
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「等々力渓谷」の「日本庭園」を後にして、再び「不動の滝」、「等々力不動尊」への木橋・「利剣の橋」を渡る。「等々力不動尊」への階段を上る。左への小さな石段を入ると「役の行者」の「神変窟」があった。岩場の斜面に祀られた小さなお堂。両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは老婆の如き姿。神変窟付近には他にも小さな御堂が奉られていた。「神変大菩薩」は役の行者のおくり名。 舒明天皇の六年(六三四)年 大和の国生まれ深く仏教に帰依御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊不動明王は当初、役の行者が彫んだと伝えられると。更に階段を上って行き「等々力不動尊」境内に入ると、前方に見事な紅葉が陽光を浴びて。見上げて。境内の紅葉は今が盛りか。「手水場」。この「手水場」にも柄杓はなく、花入れ?それとも??になっていた。上空には、樹木の伐採の作業員の姿が。その下の真っ赤な紅葉。等々力不動尊の拝殿正面。この裏に本殿があった。等々力不動尊は満願寺(まんがんじ)の別院。関東三十六不動尊霊場の第17番で正式名称は滝轟山(りゅうごうさん)明王院。本尊は不動明王。寺に残る言い伝えによれば不動像は1300年前の作で、そして800年前に興教大師が夢を見て、武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、当時の豊富な水量を流す当地の滝を見て、霊地と悟り、この地に不動堂を創建したのが始まりであると。「瀧轟山」と書かれた扁額。満願寺の山号は「致航山」、院号は「感應院」、寺号は「満願寺」。本尊は金剛界大日如来、宗派は真言宗智山派で、開創は平安時代末です。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されました。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していました。鰐口(わにぐち)の綱も上部に上げられて、これもコロナ対策。そして「不動尊」と書かれた大きな真っ赤な提灯が。「社務所」。境内「拝殿」から山門を見る。境内にはイチョウの葉が舞い落ちて。境内の小さな祠・「厄除大師堂(明王院大師堂)」。玉川八十八ヶ所 等々力不動尊第十三番 厄除大師堂真言宗・御詠歌 「わけのぼる はなのあらしの こずえより おむろのやまに 月ぞかがやく」弘法大師像。境内を再び。崖や斜面にへばりつくように建てられた寺院建築を、懸造り(かけづくり)もしくは懸崖造り(けんがいづくり)というのだと。「草木供養碑」。「山門」。「関東三十六不動霊場第十七番玉川八十八ヶ所霊場第三十三番 札所」「弘法大師 空海 ご誕生1250年」。空海は774年(宝亀5年)生まれであるので西暦2023年が1250年になるのだ。都道312号線白金台町等々力線沿いの駐車場横の見事な紅葉。ズームで。都道312号線白金台町等々力線を渡ると「等々力不動尊」の向かいにあったのが「御岳山古墳」。入口の扉は閉じられ、中には入れなかった。「東京都指定史跡 御岳山古墳」碑。「東京都指定史跡 御岳山古墳(みたけさんこふん)所在地:世田谷区等々力1-18 指定:昭和55年2月21日御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状台地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地縁辺部一帯には、連なるように50数基から成る荏原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡)があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。学習院大学の調査によって、埋葬施設である内部主体は。木棺を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。平成22年3月建設 東京都教育委員会」古墳の斜面には多くの石碑が。墳頂にある祠は「不動明王」を祀ると。そして「御岳山古墳」から「等々力不動尊」の「山門」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.19
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この日は旅行4日目、旅行最終日の10月21日(水)。この朝は茅部郡鹿部町本別の「本別」近くの道南太平洋の海岸からの日の出を見に行こうと旅友Sさんからの提案があり、早起きして車で向かう。海岸に到着した時間は5:53。東の空は既にオレンジ色に染まっていた。奥の「内浦湾」の先には北海道後志地方南部(胆振国北西部)にある、標高1,898mの成層火山である「羊蹄山(ようていざん)」らしき姿が見えた。振り返ると「北海道駒ヶ岳 」の北側の山頂部の「砂原岳」(1113m)の姿が。「ゴリラの横顔」、「獅子のたてがみ」に見える言われている「砂原岳」。水平線にオレンジ色に輝く小さな点が姿を現した。時間は5:56。そしてこの日の道南太平洋からの「日の出」。日の出をカメラで追う。右手の岩場には釣り人の姿も。小舟の姿も。そして水平線上にこの日の太陽が。水面には赤い帯が。再び更に赤く染まるゴジラ顔の「砂原岳」。道南太平洋には大小の漁船の姿が。時間は6:02。そして雲に隠れ始める。北海道駒ヶ岳を1周して函館に向かう事とし、国道278号を北上する。赤く染まった「砂原岳」を見ながらその姿、色合いの変化を楽しみながら進む。茅部郡森町砂原6丁目付近からの「駒ケ岳」の頂上はフラットに。渡島砂原駅手前の電波塔。「道の駅 つど〜る・プラザ・さわら」でトイレ休憩。「駒ケ岳」周辺地図。「森町砂原地区観光のご案内」。正面に内浦湾(噴火湾)が。渡島半島の基部東岸、室蘭市のチキウ岬(絵鞆半島)及び駒ヶ岳北東麓の松屋崎に囲まれた、ほぼ円形(直径約50km)の海域である。別称である「噴火湾」は、1796年(寛政8年)に当地を訪れた英国の調査船のブロートン海尉が、内浦湾がほぼ円形な事と、周囲を取り囲む北海道駒ヶ岳や有珠山などの火山を見て「これは Volcano Bay だ」と語ったことに由来するといわれる。しかし、内浦湾には陥没量に見合うだけの火山噴出物が周囲に分布しないので、カルデラに海水が進入してできた地形ではないと論じられているとのこと。国道278号・砂原バイパスを進む。砂原バイパスを左折して白川1号線に入る。駒ケ岳の右側に 最高峰である剣ヶ峰1,131m森町からは荒々しく男性的な姿に変わって来た。稜線の凹みは三百数十年前の大爆発で吹き飛んだ部分で元々は1700mもある端正な山だったと言うから驚きである。そして三百数十年前の大爆発で吹き飛んだ稜線の凹みがオレンジ色に変わって来たので車を停める。そして「北海道駒ヶ岳」のダイヤモンド富士?時間は6:42であり、先程見た茅部郡鹿部町の「本別」近くの海岸の日の出時間は5:53。よってこの地区の日の出は、この時期は50分遅れとなっていたのであった。函館本線の踏切を渡ると国道5号に合流しここを左折した。。更に駒ケ岳の稜線の変化を楽しみながら進む。道道149号線大沼公園インター線との交差点を直進する。前方に函館山に似た「小暮山」の姿が。そして「小沼」の上には霧がかかっている様子も。この現象は「蒸気霧(じょうきぎり)」といって、空気が冷たく、水面が温かい時に起こる現象。北海道では海での現象は「けあらし」と呼ぶようです。、漢字で「気嵐」または「毛嵐」と書くのだと。「蒸気霧」との違いは、「けあらし」は海面の霧のことを指しますが、「蒸気霧」は海だけでなく、川や湖沼など、水面に発生する霧のことを指すのだと。外気温は2℃の表示が。「蓴菜沼」、「小沼」に近づくにつれて霧が激しくなる。前方に「大沼こ線橋」が姿を現した。そして「大沼トンネル」を通過し、さらに函館方面に坂道を下って行った。「北海道縦貫自動車道・函館新道」の無料区間を走ると、右手奥にこれから向かう「函館山」の姿が現れて来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.19
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我がブログも、昨日16:20過ぎにアクセス回数が400万回を通過いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。300万回通過時から延べ430日になります。300万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』とし日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。--------------------------------------------------------------------------------------------------「立待岬」からの帰路、一方通行の狭い下り坂を進み「妙心寺」近くに車を駐めて進んで行く。「妙心寺」の裏山にあったのが「碧血碑(へきけつひ)」。時間も17:05を過ぎ、周囲も暗くなって来たのでカメラのピントがあいにくく。題字は、箱館戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の筆と言われているが、定かではないと。台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑で、明治2年(1869)5月函館市内で政府軍と、旧徳川家臣の戦いで戦死した旧徳川家臣の方々を葬った墓碑である。石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運び明治8年(1875)5月に建立したものである。「碧血碑箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはしめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は, 7回忌にあたる明治8 ( 1875 )年、大鳥圭介や榎本武揚らの協員を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は。戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは.、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。なお、碧血とは「義に殉して流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」「旧幕府軍戦死者への鎮魂ー碧血碑」。鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、函館が最後の舞台となり、1869(明治2)年5月、五稜郭の開城でその幕を閉じた。この戦いによる官軍の戦死者は靖国神社をはじめ各地の招魂社(護国神社)へ手厚くまつられているが、旧幕府脱走軍の陣没者は賊軍の汚名を受けて弔う人もいなかった。この碑は1875(明治8)年5月の7回忌に、箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助をはじめ、北関東から東北各地で戦死した旧幕府脱走軍約800人の霊を弔うために、東京の碧血会により建立されたもので、伊豆産の石を使って東京霊岸島で造られ、海路函館へ運ばれた。四角い石の祠の上に「碧血碑」と刻まれた碑が建てられている。題字は箱館戦争当時、陸軍奉行だった大鳥圭介の書といわれているが定かではない。 「碧血」とは「義に殉じて流した武士の血は3年経つと碧に変る」という中国の故事(荘子・外篇)による。さらに、台座裏側には建立の由来を記した次のような碑文(上記 碑文(台座裏)参照)が刻まれている。明治辰己(しんし)実に此の事あり石を山上に立て以てその志を表す函館にも、函館碧血会ができ、柳川熊吉や旧会津藩の人々が中心になって、毎年慰霊祭を行っていた。昔は毎年定まった日に催されていなかったが、近年は毎年6月25日(千代ヶ岡の決戦の日で、千代ヶ岡陣屋の守将中島三郎助父子らが討死した旧暦の5月16日にあたる)には碑前祭が行われている。「碧血碑」の下にあったのが「榎本武揚」案内柱。「榎本武揚」「宮路助三郎宮路助三郎は、戊辰戦争時に遊撃隊に所属して小田原で奮戦し、その後は仙台・庄内へ転戦したが、新政府軍に捕縛され江戸で投獄された。1872(明治5)年に函館へ渡り、海運業を営んだ。「碧血碑」建立工事の責任者を東京の碧血会から託され、柳川熊吉や大岡助右衛門らの協力のもとで石碑建立を成し遂げた。この後、1881(明治14)年に自費で実行寺、称名寺、浄玄寺などに仮埋葬されていた旧幕府軍戦死者の遺骨を、碧血碑へ移葬した。1886(明治19)年に上京して鉄道の軌道布設工事請負いをしたが、翌年に病没した。」「柳川熊吉 下記」「大鳥圭介1832(天保3)年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。1858(安政5)年に尼崎藩に出仕、その後1859(安政6)年に蕃書調所へ出仕した。1861(文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。1865(元治2)年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867(慶応3)年に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府陸軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。1868(明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、1872(明治5)年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官などを歴任した。1911(明治44)年に78歳で没した。」「柳川熊吉1825(文政8)年江戸生まれ。1856(安政3)年、侠客として箱郎へ渡り、柳川鍋を商売として生活。箱館戦争終結後に旧幕府軍戦死者の遺体が函館市内に放置された惨状に堪えられずに、大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと遺体の回収に尽力し、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。その接。碧血碑建立の発起人の一人として工事に協力し、碧血碑の管理人を務めたが、1913(大正2)年に死去した。享年89歳。」その奥にあったのが「柳川熊吉翁之寿碑」。碑文の表には、下記のごとく刻まれていると。柳川翁之壽碑前逓信大臣正三位勲一等 伯爵林 董篆額翁名熊吉姓野村後有故改柳川江戸人少属侠客新門辰五郎夙有名始来北海為函館奉行堀織部正所知侠名愈顕戊辰之役東軍来據函館也受巨師榎本武揚君之親信蓋曩榎本君年十六七以在奉行織部君之家之時有面識故也後東軍之敗于五稜郭也遺骸横野而無復顧也者翁深惻之與當山十六世日隆師相謀収葬之於谷地頭之西丘而歳時祀焉後有志者建石題曰碧血碑翁今茲齢八十八猶矍鑠因欲傳翁之義擧于不朽今記其梗概建諸血碑之傍云大正二年癸丑六月日蓮宗一乗山實行寺十九世 權僧正望月日謙誌羽陰 龍湖 石川重友書石工 吉田辰己刻碑文の訓読は、「前逓信大臣・正三位・勲一等・伯爵林董篆額す。翁の名は熊吉、姓は野村にして、後に故有りて柳川と改む。江戸の人なり。少(わか)くして侠客の新門辰五郎に属し、夙(つと)に名有り。始めて北海に来るや、函館奉行堀織部正の知る所と為り、侠名愈(いよ)いよ顕われり。戊辰之役、東軍の来りて函館に拠(よ)るや、巨帥榎本武揚君の親信を受く。蓋(けだ)し曩(さき)に榎本君年十六、七、奉行織部君の家に在りし時、面識有るを以ての故なり。後東軍の五稜郭に敗るるや、遺骸野に横たわり、復之を顧る者無し。翁深く之を惻(いた)み、当山十六世日隆師と相謀り、収めて之れを谷地頭の西丘に葬り、而して歳時焉(これ)を祀(まつ)れり。後に有志の者、石を建て題して碧血碑と曰う。翁は今茲(ことし)齢八十八、猶矍鑠(かくしゃく)たり。因りて翁の義挙を不朽に伝えんと欲し、今其の梗概(こうがい)を記し、諸(これ)を血碑の傍らに建つと云う。」とネットから。「柳川熊吉翁の碑柳川熊吉は、安政3(1856)に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供拾に貢献した。明冶2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。」案内板の傍にあった墓石ですが、これも函館戦争に因んだものであろうか?そしてこの日も、コロナのことを考え、スーパーで食料を調達してホテルの部屋での宴を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.18
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「等々力渓谷3号横穴」への橋を渡る。橋の上から「谷沢川」を見る。「等々力渓谷3号横穴」手前の広場。近くにある「等々力不動尊瀧轟山(りゅうごうさん)明王院等々力不動尊は平安時代の末(110 0年頃)に、真言宗中興の祖、興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)上人が開かれた霊場で等々力の「お不動様」として親しまれています。戦国時代には世田谷城主の蒔田吉良(まいたきら)氏が戦勝祈願を祈り、村人は厄難招福を祈りました。「お不動さま」から渓谷に降リると開創由来の「お瀧」(不動の滝)があり、古来から今日まで瀧に打たれ行をする人が各地から訪れています。この瀧の轟く音が、「等々力」の地名の由来という言い伝えもあります。境内は数多くの桜や紅葉も美しく、等々カ渓谷を代表する自然豊かな樹林地となっています。」「日本庭園・書院等々カ渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年(1961年) に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。池、毓れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年( 1973年)に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。庭園内には陽当たりのよい芝生広場があリ、併せて、渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。また、庭園周辺に、竹林やみかん畑がり、子どもたちによるたけのこ掘り体験やみかん狩り体験が地域の等々カ渓谷保存会によって行われています。日本庭園・書院は夜間、年末年始は休園です。」広場の時計は11:00過ぎ。「等々カ渓谷、武蔵野台地の南端に位する延長約1kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の浸食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷として知られています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝』の音が響き渡り「轟いた』ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の霊場とされた等々力不動尊があり、かってはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。渓谷内には、「等々カ渓谷第3号横穴古墳』があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。この渓谷は、昭和8年( 1933年)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年( 1974年)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。等々カ渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。」多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の浸食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷。「野毛大塚古墳(東京都指定史跡)等々カ渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなり、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあります。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部)の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。等々カ渓谷とその周辺には、等々カ渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々カ1-18 )、狐塚古墳(尾山台2-17)、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分布しています。」「等々力渓谷3号横穴(東京都指定史跡)渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されています。中でも昭和48年(1973年)に発見された3号横穴は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられました。横穴基は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしています。玄室(遺体の安置場所)と羨道(せんどう)からなる基室と、これに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画しています。横穴基からは、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金銅製耳環、などが出土しました。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々カ周辺を治めてた有力者であると推定されています。」「等々力渓谷」案内板。「等々力渓谷」案内地図。「等々力渓谷公園で見られるおもな野鳥」「等々力渓谷3号横穴」案内碑。「都史跡 等々力渓谷3号横穴等々カ渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代( 7 ~ 8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々カ渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた隣道があり墓前祭が行なわれたことがわかります。」「都史跡 等々力渓谷3号横穴」第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのは上の写真の第3号のみ。「2号横穴跡」碑。2号横穴から出土した土師器は、当時都であった大和(奈良県)で使われていたもので、この横穴に葬られた人物が、都(みやこ)に遥役(ようえき)で働きに行ったことが推定される貴重な資料であると。「1号横穴跡」碑。そして周囲の紅葉を見上げて。再び谷沢川に架かる橋を渡って進む。川の流れは緩やかに。「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)「おもいはせの路」は、国分を川線周辺を歩いて楽しむ散策ルートです。季節や時の流れとともに表情を変え、古代から現代までの様々なを見せる路で、歴史に「おもいをはせる」ということから名付けられました。「等々カ渓谷公園」のみどころは、全長約1キロの23区内唯一の渓谷で、都指定名勝として文化財指定されており、途中には8世紀ごろのものとはわれる横穴占墳があります。さらに川下へ降りて歩いて行くと、「不動の滝」がとどろいています。等々力不動の本尊の不動明王は役の行者の作といわれ、様々な願い事にご利益があると言われています。」「渓谷の水、湧水等々カ渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々カ駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川と流れていきます。この谷沢川には、平成6年( 1994年)より仙川浄化施設からの導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。また、等々カ渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々カ渓谷の湧水は、東京都により平成15年(2003年)に「東京の名湧水57選」に選定されています。」「等々力渓谷 案内図」の現在地。「案内板」設置スペース。更に遊歩道を進む。「稚児大師御影堂」が前方に。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂 慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。境内に入ると御影堂の中に稚児大師像が見えた。「稚児大師像」。「稚児大師さま」小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときのお姿です。弘法大師の時代は、大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して、庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました。綜芸とは総ゆる学芸を統合すること、種智とは、智恵を植えることです。その智恵はやがて大きく成長し、色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます。智恵とは密教では決断力のことです。知識だけでは物事の判断は出来ません。その智恵を養うのがあらゆる学問 技術 文学 芸術 書 思想を広く学び総合することです。弘法大師の創った大学は、月謝もなく教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした。弘法大師は幼いとき、土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました。この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.17
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「五稜郭」近くで昼食を楽しんだ後は、車で北上し「四稜郭(しりょうかく)跡」を訪ねた。「四稜郭」は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。「史跡四稜郭の保存について旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結しを後、四稜郭はななり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和九年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはしめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和四十四年度から四十七年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成十ニ年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。この貴重な国民的財産てある史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。一、土塁等に登らないこと一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと一、火気を使用しないこと一、ゴミは捨てないで特ち帰ること「大島圭介」掲示塔。「大島圭介 1832~19111832 (天保3 )年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。1858 (安政5 )年に尼崎藩に出仕、その後1859 (安政6 )年に蕃書調所へ出仕した。1861 (文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。1865 (元治2 )年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867 (慶応3 )年に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。1868 (明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、1872(明治5 )年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧間官などを歴任した。1911(明治4 4 )年に78歳で没した。「大鳥圭介訳「築城典刑」四稜郭は、蝶が羽を広げたような四稜の突角を有する形からその名が付けられたもので、西洋式築城法に基づく砲台の形状からみて、設計者は蘭学に通じた大鳥圭介とする見方が多い。しかしながら、大鳥圭介訳本の「築城典刑」の中には、四稜郭に類似した洋式台場の絵図は見られるものの、具体的なものは含まれてはいない。大鳥圭介が蘭学書をもとに四稜郭を設計した可能性は低いと推定される。「ジュール・ブリュネ 1838~19111838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に幕府の要請で、フランス軍事爾問団の副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練を指導した。その後、1868(明治元)年10月に、カズヌーブ、マルラン、フォルタン、フッフィエなどのフランス人下士官と共に旧幕府軍に加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では。海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。1869(明治2)年、旧幕府軍が敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、フランスに帰還した。帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、1911年に73歳で没した。」「フランス軍事顧問団と旧幕府脱走軍士官」前列左からニ人目がJ.ブリュネ、同三人目は蝦夷地仮政権副総裁松平太郎。後列に左からカズメープ、マルラン、一人おいてフィルタンらのフランス軍人が旧幕府説走軍の士官とともに写る。「フランス・ベルフォールの城塞」ジュール・ブリュネの出身地フランス・ベルフォールは「美しい要塞」の地のとおり、典型的な洋式要塞が存在する州であり、築城学を学ぶ最適な環境を持ち合わせていた。また、大島圭介はブリュネに対して「年命は若いが度量学築城学に長ぜり」と高く評価をしていることからみて、ブリュネが七重峠下台場と四稜郭についての設計、築造指導を行っていた可能性が高いと推定される。」「旧幕府軍、神山東照宮北側に四稜郭を急造1869 (明治2 )年、新政府軍による攻撃へ対応するため、旧幕府軍は五稜郭の土塁強化を始めとして重要守備拠点となる各地に台場(砲台)の設置を進めた。主戦場となる函館近郊を一望でき、同時に五稜郭および鎮守府である東照宮を防御する目的で、神山東照宮の北側1kmの丘陵上に洋式築城法による砲台が急造された。同年4月下旬から脱走軍兵士200名と付近の住民約100名を動員し、昼夜兼行の工事により短期間で築造したとされる。陸軍奉行大鳥圭介の『南柯紀行』に「神山の小堡築造未だ成功せざれども」「神山の砲台」などと記されている。同年6月初旬(旧5月)、新政府軍の攻撃に備えて、松岡四郎次郎隊が完成前の四稜郭の守備に配置された。6月20日(旧5月11日)の新政府軍総攻撃に守備隊は奮戦したが、多数の死傷者を生じたため撤退を決定し、五稜郭へと後退して四稜郭は僅か半日ほどで陥落した。」「箱館戦争図幅(四稜郭・東照宮の図)岡山藩士で箱館戦争に従車した兵士、水原久雄によって描かれた四稜郭・東照宮(権現台場)の図で、新政府軍箱館総攻撃時に岡山藩士は福山藩士とともに四稜郭での戦闘に従事していたとされる。」「四稜郭」の土塁内部を東側から見る。規模は東西約100m、南北約70m、周りには幅5.4m、高さ3mの土塁が巡らされ、土塁の周辺には幅2.7mの、深さ0.9mの空濠が掘られていた。別の角度から「稜突出部」。人の気配はなく我々のみか。南西にある入口右にあった「史跡 四稜郭」碑。南西にあるここが「四稜郭」入口。前方に堀、土塁が。「史跡 四稜郭」案内板。「史跡 四稜郭昭和九年一月ニ十ニ日史跡指定明治ニ年(一ハ六九)春、五稜郭にたてこもる旧募府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空濠をめぐらし、郭内(面積約ニ三○○平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約ニ〇〇名と付近の村民(赤川・神山・鍛治村)約一〇〇名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。明治ニ年五月十一日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱定軍は四稜郭の防御に勤めたが、新政府軍には福山藩兵も加わりさらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。五月十ハ日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。」そしてこの日の最後に「立待岬」に向かう。箱館市電「宝来・谷地頭線」。「ロマンス坂」を下って来た。ここが路面電車の終点「谷地頭駅」。谷地頭温泉から宝来町に繋がる坂道を「ロマンス坂」と言う。世界的にも珍しい坂で940mの長い坂道が左や左に曲がりながら続くのだ。ここには路面電車が通っており、「ロマンス坂」の下り坂は電車の運転手も緊張するのだと。「立待岬」への下り坂に入る。前方に津軽海峡が姿を現す。駐車場に車を駐め散策開始。残念ながら日没は函館山の断崖に隠れて。時間は16:28。この日の日没時間は16:48なので函館山の影に夕日が隠れているのであった。函館山の断崖の黒と夕焼けのオレンジとコラボ。その先には「松前半島」の姿が。この日に周遊した「亀田半島」を見る。津軽海峡の先には下北半島の姿が。「立待岬」👈リンク 碑。「森昌子」の名の刻まれた石碑は見当たらなかったが・・・。「立待岬」案内板。「立待岬この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第ニ次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。 函館市」「函館山散策コース案内図」。「箱館海峡ライオンズクラブ創立30周年記念」&「箱館海峡LC・藤沢湘南LC姉妹提携記念」石碑石碑の正面には「かつて「はまなす」が群生した立待岬は、厳しい気候風土にさらされ、枯れ果ててしまいました。私達は、1985年から植栽を続けいつしか「はまなす公園」と親しまれるようになりました。函館海峡ライオンズクラブは、結成30周年を記念して、スポンサークラブや姉妹友好クラブと共に「はまなすの咲く岬」を完成し再現することができました。この地を訪れる人々に、憩い楽しんで頂ければ望外の喜びであります。」と。「ライオンズ「はまなす」公園」碑と東屋。夕日に染められた「五稜郭タワー」を見る。手前にはNTT函館千歳ビルの通信用鉄塔。「与謝野 寛・晶子の歌碑」。「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛」「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 晶子」「此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊した時の詠草の中から選んだもので、歌の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木石川一、図書裡岡田健蔵である。昭和三十二年八月十五日建立計画 図書裡会賛助 棒二森屋」「与謝野寛・晶子の歌碑昭和31年( 1956年)、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年( 1957年)同会は棒ニ森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年( 1931年)に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。」ここにも歌碑が。函館市出身の書家・中村朝山の句碑「海峡や 波音ちかく 朧月」。歌碑の裏側。俳誌「蝦夷野」主宰した中村舟路の歌碑であるようだ。「芭蕉道統系譜 立机免許師範 海睴庵 中村舟路」の文字が。もう一つの歌碑は「烏賊つりの 父の灯見分け 子の立てり 竹堂」と。「赤壁」「さいかち」「葦牙」「河」の同人、七飯町出身の俳人庭田竹堂の句碑であると。津軽海峡をはさんで下北・津軽半島を彼方に望む。夜はイカつりの漁火を間近に眺められるロマンティックな場所でもあるという。「立待岬」の岩場には釣り人の姿が。道路を面して反対側に「消防碑」。「殉職者」の文字も。「函館山」山頂の鉄塔群とロープウェイ駅。遠く「北海道駒ヶ岳」も見えた。なにかと啄木の面倒をみた義弟の歌人宮崎郁雨の一族の墓もあった。「宮崎郁雨と影ニの歌碑宮崎郁雨の歌碑宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年( 1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年( 1906年)に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年( 1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年( 1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年( 1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年( 1968年)に函館図書裡会が健立した。砂山影ニの歌碑砂山影ニ(本名、中野寅雄)は、大正7年( 1918年)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影ニは、大正10年( 1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年( 1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。」「蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ 酒はひとりし 飲むものならず」。「蹣跚」とは「足もとがよろめくさま」。砂山影ニの歌碑「わがいのち 海峡の浪の間に 消ゆる日を 想ふ~~岬に立ちて」「石川啄木一族の墓道路沿いでは最も高い位置に石川啄木の奥様と家族のお墓が。東京で亡くなった啄木の遺骨は、奥様の希望で、ここ函館に埋葬され、のちに啄木を慕う人々により、市街と海を望む場所に、一家のお墓が建てられたのだと。啄木の死後、妻の実家があったこの地に改葬されたのだと。「石川啄木一族の墓明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月後の後を追うかのようにこの世を去った。大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。」「啄木一族墓」「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」啄木の最初の歌集『一握の砂』の冒頭に収録された一首。 青森県の大間町大間崎にある石川啄木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されているのだと。大間は函館の対岸だが、啄木一族の墓碑がここにあることから、こちらにもあるのだろう。眼下に住吉町の海岸そして住吉漁港を望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.17
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今年も「淨真寺」の紅葉を堪能した後は「九品仏駅」に戻る。折しも、「大井町線」の「大井町駅」行きの電車が入線中であった。私は下りの溝の口行きの電車で「等々力渓谷」を訪ねる事とし「等々力駅」で下車。等々力の名は、等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説などがあり、いずれが正しいのかは詳らかではないとのこと。「等々力駅」。等々力駅(とどろきえき)は東急大井町線沿線の駅。東京23区の中で唯一の渓谷である「等々力渓谷」や「等々力渓谷公園」の最寄り駅となっており、自然豊かで落ち着ける環境が魅力で、休日も家族連れなど多くの人々で賑わう駅。「現在のロゴは1973年から使用されており、創立50周年を記念して東急グループの統一マークとして制定されたました。マーク中央の楕円は「グローバルな企業集団を目指す東急グループ」という意味を込め、地球を表現しているそうです。さらに「TOKYUU」の頭文字「T」を図案化したものが内部の白抜きの部分です。交通・開発・流通・健康産業の4事業部門それぞれが拡大・発展するようにという願いが下の曲線に表れているように見えます。」とネットより。「等々力駅」周辺案内図。東京都世田谷区を流れる多摩川水系の一級河川である谷沢川(やざわがわ)にある「等々力渓谷」を訪ねたのであった。環八通りが渓谷を横断していることが解るのであった、「等々力渓谷と周辺のご案内」。「等々力渓谷 東京都指定名勝等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川(やざわがわ)が浸食してできた、延長約1 kmの東京23区内唯一の渓谷です。谷沢川沿いには、武蔵野の代表的な植生であるケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。玉沢橋(環状8号線)あたりは、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷第三号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には桜の名勝として知られている等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。」正面に『ゴルフ橋』が。大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれている。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来していると。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場。「等々力渓谷公園入口」の看板と反対側には階段があった。東京都世田谷区の閑静な住宅街の一角に、ひっそりたたずむ等々力渓谷。豊かな緑と清らかな水に恵まれ、東京であることを忘れそうな、まさに都会のオアシス。この日の気温はこの場所が9.3℃、渓谷内が8.2℃との表示が。「等々力渓谷」の「名勝」に関する「指定書」。平成十一年三月三日 東京都教育委員会 の文字が。「等々力渓谷等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約一〇メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。また、等々力渓谷には谷間の崖地に横に穴を掘って造られてた野毛地区の有力な農民の墓である横穴があり、これまでの調査で三基の横穴が発見され、現在は三号横穴が完全な形で残っています。等々力渓谷は、東京二十三区内で唯一の渓谷として知られています。ここはかつて、九品仏川とぶつかった谷沢川が河川の争奪現象により水量を増し、その激しい浸食作用によって形成された渓谷で、深い谷地形は現在も概ね自然の状態で残されています。そのため、武蔵野台地の地形や地質を学ぶ上では大変貴重な場所となっており、斜面地に数多く分布する湧水地は、「東京の名湧水五十七選」にも選定されています。渓谷の急峻な斜面には近年の開発から難を逃れた樹林が広がり、東京区部とは思えない幽邃な景観を呈しています。これらの植生は過去に農業の営みの中で利用されていましたが、その利用がなくなった現在では遷移が進んで自然の植生が回復してきています。一方、渓谷と人々のつながりは横穴古墳の築造に始まり、その後神聖な滝によって多<の人の信仰を集め、村の雨乞いのための水取り場となるなど、暮らしの中に深<関わる場所でもありました。これら優れた自然環境と歴史的背景を持つ等々力渓谷は、等々力不動尊とともに人々の知るところとなり、今では東京の名所として数多くの人が訪れる場所になっています。そして、平成十一年三月、風致景観・名所・学術の面で高く評価された等々力渓谷は、東京都指定名勝として文化財の指定を受けました。世田谷区は、「等々力渓谷名勝区域保存管理計画」を策定し、等々力渓谷公園の整備をはじめ、渓谷の環境を将来にわたり守り伝える取り組みを進めています。」「等々力渓谷と周辺のご案内等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた.延長約1kmの東京23区内第一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分はどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」協の階段を下リると、下流に向かって谷沢川いに散策路があります。夏でもひんやリとした渓谷内はケヤキ、シラカン、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷3号横穴】があリます。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や桜の名所として知られる等々カ不動尊があリます。不動尊から渓谷に下リた所に「不動の滝」があリ、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあリます。」「等々力渓谷公園」碑の下に「等々力渓谷」への階段が。「等々力渓谷公園」碑。真っ赤な「ゴルフ橋」。「ゴルフ橋東急大井町線の等々カ駅近く、等々カ渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和36年( 1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。」「ゴルフ橋」下を進む。階段をおりれば、たちまち木に囲まれた小さいくて幅も狭い谷沢川が。階段の上と下とでは別の世界。都心とは思えない空気感が。「地形・地質等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには、武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があリます。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野礫層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層(武蔵野口一ム層、立川口一ム層)の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野礫層の間からは、湧水が多く見られます。」「等々力渓谷と周辺のご案内」。「ゴルフ橋」を振り返る。そして水面に映る「ゴルフ橋」。都会の中に居るとは思えない景色。近場の人達が羨ましい限り。更に遊歩道を進み、「ゴルフ橋」を再び。途中、堰の如くで渡れる場所も。しかしこの日は、堰の上には濡れた枯れ葉が積もっていた。前方に遊歩道の石橋が現れた。「植生等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生とおの工なの当在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であリ、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面には、セキショウ草地が見られ、湧水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。」案内板。木々が水面に映り込み。何ガモであろうか。「環八通り」の「玉沢橋」の下を潜る。「谷沢川」案内板。更に遊歩道を進む。「野毛町公園」方面への階段が右手に。そして前方に「等々力渓谷3号横穴」に向かう石橋が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.16
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復元された「箱館奉行所」を正面から。設計は、伊予(愛媛県)大洲藩士で緒方洪庵の適塾などで学んだ武田斐三郎、工事を請け負ったのは、函館在住商人の佐藤半兵衛 ・山田寿兵衛・杉浦嘉七、越後の松川弁之助、江戸の中川伝蔵、備前の石工喜三郎である。 五稜郭は従来の日本式築造ではなく、ヨーロッパなどみ見られる城塞都市モデルとしている、日本では数少ない様式築造である。 初期の五稜郭の設計図と現在の五稜郭を比較するとその構造は異なっていて、工期と予算の関係から初期の設計よりも大分縮小 されたようである。元治1年(1864)年一応完成し、函館奉行小出秀実(こいでひでざね)が五稜郭に移った。五稜郭の外には 役人達の住居が建てられ、人家も少なかった五稜郭周辺が急速に開けていった。「箱館奉行所箱館奉行所は幕末の開港地箱館に置かれた江戸慕府の役所です。箱館戦争後、解体されましたが、発掘調査や古写真、絵図面、文献資料などを詳細に分析し、可能な限り当時と同じ材料、工法を用い、4年の歳月をかけて2 0 1 0年に復元されました。」「正面から見た奉行所の作りと名称」。 【http://blog.livedoor.jp/dorako_rushiusu/archives/51527067.html】より「パンフレット」。「奉行所館内 ご案内」。奉行所「内部」👈リンク には入らなかったのでリンクを参照願います。 「箱館奉行所 古写真箱館奉行所は、幕末の箱館開港によリ設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です。安政4年( 1857 )に着工して7年後の元治元年( 1864 )に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました。明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年( 1871 )に奉行所庁舎は解体されました。それから140年の時を経て、平成22年( 2010)に箱館奉行所が復元されました。」「玄関・式台之間」。「玄関・式台之間」とその上の「千鳥破風」を振り返る。「千鳥破風」と「太鼓櫓」。最も高く突き出ているのが5階部分の「太鼓櫓」。約 16.5メートルの高さで、時を告げたり、港を監視するための役割があったと。千鳥破風屋の鬼瓦には、葵文の家紋が付き、箕甲(みのこ)の軒丸瓦にも葵文が付いていた。「太鼓櫓」の銅葺きの「宝形屋根」(上側)と同じく銅葺きの「腰屋根」(下側)。「五稜郭タワー」をズームで振り返る。五稜郭タワーで展示されているミニチュアである。 【https://ganref.jp/m/hanamomo/portfolios/photo_detail/516967】より「箱館奉行所北側遺構平面表示(部屋割り区画)」「箱館奉行所北側遺」を正面から。箱館奉行所は、公務を執る役所部分と奥向とよはれる奉行の役宅部分に分かれていて、その総面積は約3,000m2となっています。このうらの約3分の1の範囲(約1,000m2)は建物を復元し、残りの約2,000m2分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示しました.いすれも発掘調査によって発見された柱の礎石などの建物遺構の真上に復元しています.役所部分は、玄関・大広間などの儀式の部屋、裁判などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがありました。また、奉行所を囲む板塀や木柵、井戸などの遺構の位置も表示しています。「箱館奉行所 部屋割図」。「箱館奉行所」の北側を見る。赤松の老木の後ろに五稜郭の土塁が見えた。再び「五稜郭タワー」を振り返る。右側に「板蔵」、正面に「公事人腰掛跡」。「仮牢跡仮牢跡は、罪人を一時的に拘置しておく牢屋で、記録によると、男仮牢と女仮牢に分かれていました。また、男仮牢の北側には、用場小用所(トイレ) と腰掛がありました。」「公事人腰掛跡裁判や訴訟のために来訪した者の控え場所となる建物です。発掘調査の結果、文献資料の記述どおりの規模の建物跡が発見されました。」「板蔵奉行所の裁きに関する記録や物品などを保管していた建物と考えられます。」「仮牢跡」。「箱館奉行所」の裏門方面を見る。再び「箱館奉行所」と「五稜郭タワー」。左側にあった「土蔵(兵糧庫)」そして「土塁」を見る。真っ赤に紅葉して。「総堀」越しの「五稜郭タワー」。「箱館奉行所」を振り返る。「二の橋」に向かって帰路に。「一の橋」から「五稜郭 半月堡」方向を振り返る。函館市汚水カラーマンホール蓋。函館市の文化財であり観光資源でもある「五稜郭」と「旧函館区公会堂」をモチーフに描かれた蓋。そして「北海道丸ごと食べ放題 ふでむら 函館五稜郭店」で腹ごしらえ。「メニュー」。「いくら丼」を注文。美味しかった!!そしてブログを書きながら、大いに「箱館戦争」について学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.16
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左手に有った「開山堂」への「中門」を潜り中に入る。左手に「手水舎」。手水舎の「鷺草(さぎそう)」。「開山堂」には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。「開山堂」のそばに立つ「水子観音菩薩像」。稚児と花に囲まれて。「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。「浄大供養 地蔵」。「三十三観音堂」。羂索を手にあらゆる衆生を紋済する誓いを立てた不空峭索観音替薩をお祀りしている。「西国三拾三番札所供養塔」。左が「如意輪観音像」。右に「千手観音像」。「仁王門」側を見る。三十三観音堂前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。反対側にも。整然と一列に並んだ石造観音像。。「開山堂」を斜めから。「開山堂」の1階の九品山寺務所。寺紋の竜胆車(りんどうぐるま)が正面に。奉納する献花が既に準備されていた。「開山堂」周辺の林を散策。人の少ない紅葉狩りは最高。「檀家使用墓地 見取図」。墓地入口にある手水舎。桶置き場。そして再び「総門」方面に戻る。「開山堂」の屋根上の黄金の「宝珠」を再び。「駐車場」の先の光景。左手に「東門」。淨眞寺の車両であろうか。「は」、「ひ」で同じ「白鷺」の絵のあるナンバーの車が2台、行儀よく並んでいた。少ない!!後ろ髪を引かれながら「淨眞寺」総門に向かって帰路に。ここは「黄色」の世界。総門に向かって進む。総門前の紅葉の色の「うねり」を最後に楽しむ。そして参道を「九品仏」駅に向かっていくと、大理石?で出来た将棋盤が。こちらは碁盤(ごばん)。そして大井町線の踏切まで戻る。踏切を渡ると右手に「九品仏駅」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.15
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そして3名の「掲示塔」・円筒形歴史展示物「函館リトファスゾイレ」👈リンク が。中央:杉浦 兵庫頭誠 幕末の幕臣 1866年箱館奉行勤務 ロシア、イギリスなどの 外交問題に対応、1869(明治2)に新政府の一員として再び箱館勤務右:武田斐三郎(あやさぶろう)伊予大洲藩士 弁天岬台場、五稜郭の建設などをおこなう。左:清水谷公考(きんなる) 江戸時代後期の公家 函館府知事として函館戦争の戦後処理を 行った。「箱館奉行支配諸術調所教授役 武田斐三郎(あやさぶろう)」「蝦夷地経営の拠点 五稜郭築造1854 (安政元)年、箱館奉行の上申により箱館御役所(奉行所)の移転計画が決定し、四方に西洋式土塁を巡らした役所を亀田の地に建設することとなった。西洋式土塁の設計は、函館諸術調書教授役で蘭学者の武田斐三郎が担当しフランス軍人から教授を受けた五稜星形をデザインした土塁を設計・提案した。最終的には、経費節減とエ期短縮のために半月堡塁の数を減じた五稜星形からなる土塁とその中央部に配置する御殿様式の役所建物が決定した。この後、1857 (安政4 )年春に武田斐三郎立ち会いのもとで現地測量を開始し、五稜郭築造が着工となった。築造工事の請負は、箱館御役所御用達の佐藤半兵衛、山田寿兵衛、杉浦嘉七および松川弁之助、備前の喜三郎、中川伝蔵代人伊兵衛の6名で、主に、松川弁之助が掘割と土塁・石垣工事、備前の喜三郎が石垣工事と上水道工事、中川伝蔵代人伊兵衛が役所および役宅建築工事などを担当した。掘役所建物の建凱訳が決定した。堀割・土塁・石垣の工事に約3~4年を費して1864(元治元)年4月にはほぼ完成し、同年6月15日に役所業務が開始となったが、附属建物等の一部の追加工事は、その後1866 (慶応2 )年まで継続された。五稜郭築造工事の総経費は、掘割・土塁・石垣工事が53,144両、役所建築が13570両、役宅建築が26,860両、その他工事が4,426両の合計98,000両であった。」「五郭目論見図」郭内中央部に箱館奉行所庁舎および20数模の附属建物が配された最終設計図。「武田斐三郎(あやさぶろう)1827~18801827(文政10)年、伊予国喜多郡中村(現・愛媛県喜多郡)生まれ。名は成章、斐三郎。号は竹塘。大阪で緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸では伊東玄朴や佐久間象山に兵学、砲学などを学んだ。1853(嘉永6 )年、ペリー提督浦賀来航の際に出向き調査した。翌1854 (安政元) 3月に蝦夷地御用掛の堀織部正に随行し、函館に渡った。幕府から箱館詰を命じられて、器械、弾薬製造の任に就き、弁天岬台場と五稜郭の設計に携わった。1856 (安政3 )年に学問所の諸術調書を設置して.教授役に就く一方で、和製大砲製造目的に古武井に溶融炉を建設した。さらには、門下生とともに西洋型帆船「亀田丸」で航海測量の一方で露領ニコライスキーまで航海して交易を行うなど多方面にわたり活躍した。この後、1864(元治元)年江戸に帰り、開成所教授に就き、1871(明治4)年兵部省に出仕して、砲兵大佐、士官学校学科提理を歴任した。1880(明治13)年に54歳で没した。」「中川伝蔵 代人 伊兵衛五稜郭内の箱館奉行所庁舎の建築工事は、小普請方・鍛冶方・石方請負人中川(伊勢谷)伝蔵の一手請負により実施された。中川伝蔵は江戸浅草橋場町在住の大工で、上野御霊屋御廟の普請の功績により中川姓を許されたが、諸事情により、家督を息子に継がせて、自分は代人伊兵衛として箱館に渡って建築工事を実施したとされる。奉行所庁舎の建設に当たり、諸経費削減のため秋田の能代で建築資材の下拵えを行い、その資材を能代から箱館に回漕して、1862 (文久2 )年秋から建築工事が開始された。箱館奉行役宅を付設した総坪数800坪余りの御殿様式の奉行所庁舎は、1864 (元治元)年4月に完成となった。なお、代人伊兵衛をは奉行所建築に併せて、箱館奉行支配組頭以下の役宅建築や弁天橋台場の土塁築立も請負い、工事を実施した。慶応4年に撮影された「函館奉行所」。「松川 弁之助 1802~18761802 (亨保2 )年、越後国蒲原郡井栗村(現・新潟県三条市)にまれ。1855 (安政2 )年、北方開拓を目指して江戸へ出て、幕府から蝦夷地御用方を拝命した。翌年配下の者を数10名引き連れて箱館へ渡り、箱館御用取扱を命じられた。当初は、谷地頭に御用畑や箱館近郊の石川に官営の御手作場を開くなどに携わった。この後、1856 (安政3 )年からは弁天岬台場および亀田御役所土塁(五稜郭)築造工事を請負い、主に掘割り、土塁、石垣工事を担当した。特に、五稜郭築造時には、物資運搬用の道路を自費で完成させ、後世には「松川街道」との呼び名が付けられた。また、樺太漁場開拓や箱館の埋立工事なども計画・実行に移すが、後に差配人元締を辞退し、1862 (文久2 )年帰郷。1876 (明治9 )年に75歳で没した。」「最後の箱館奉行 杉浦 兵庫頭誠」「開港場箱館の象徴、五稜郭の完成1864(元治元)年4月、五稜郭内の箱館御役所(奉行所)建設工事が完了し、同年6月15日に箱館山麓(現在の元町公園)の箱館奉行所から箱館奉行小出大和守(こいでやまとのかみ)が移転して、五稜郭での業務が開始された。徳川幕府にとって、開港場箱館および蝦夷地統治の中心的役割を担う待望の新役所の誕生であった。また、同年9月には諸外国からの軍事的脅威に対する備えとなる要塞の弁天岬台場も完成となった。さらには、蝦夷三官寺の東樹院(とうじゅいん)の願いを受けた箱館奉行が、翌年4月17日に上山(神山)村の地に、徳川家康を祀る鎮守府の東照宮を建立して、箱館の防御計画は完成をみた。こうして、五稜郭は名実ともに開港場箱館の象徴としての存在となった。1866(慶応2 )年、小山大和守が遣露使節団代表正使となり、代わりに杉浦兵庫頭が箱館奉行に赴任した。杉浦は、課題の一つであった岩内炭鉱開発に成功したものの慶応3年の大政奉遠により幕府崩壊となり、新政府に五稜郭を引き継ぐ役割を託された。1868 (慶応4 )年閏4月27日に、箱館奉行杉浦兵庫頭から新政府総督へ引き継ぎが行われ、五稜郭完成から僅か4年弱で徳川幕府の箱館御役所(奉行所)の役割を終えることとなった。」「杉浦 兵庫頭誠 1826~19001826(文政9)年、幕臣久須美家に生まれ、後0に杉浦家の養子となり家督を継ぐ。名は勝静、誠、通称は正一郎号は梅潭。鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取から、1862 (文久2 )年に目付となった。翌年、長崎奉行へ転じたものの直後に再び目付に任命され. 1864 (元治元)年に辞職し非職となった。1866(慶応2 )年、箱館奉行に任命され箱館に赴任し、翌年9月からは勘定奉行兼務となった。大政奉還による募府崩壊の後も、新政府に対抗して箱館に止まっていたが、1868(慶応4 )年閏4月27日に、新政府総督清水谷公考に引き継ぎを終えて、江戸へ帰任した。箱館戦争終了後の1869 (明治2 )年7月、開拓使が設置され、同年末に函館の開拓使出張所に主任宮(開拓権判官)として着任した。後に開拓使判官となり、1877(明治10 )年に開拓使を退官し東京に帰着した。1900(明治33)年に75歳で没した。」「小出 大和守 1834~18691834(天保5)年幕臣旗本の土岐家に生まれ、小出家の養子となる。名は秀実、佐衛門尉、修理、実など。1861(文久元)年に使番、目付に登用。翌年9月箱館奉行に任命され、箱館に赴任した。箱館では、1864 (元治元)年6月15日に箱館山麓の奉行所庁舎から、五稜郭内の奉行所庁舎に移り、業務を開始した。翌慶応元年には、徳川家康を祀る鎮守府の東照宮を上山村に建立した。また、イギリス領事館職員によるアイヌ人盗骨事件の解決に奔走した。1866 (慶応2)年8月に外国奉行を兼務し、10月に樺太国境画定交渉の遣露使節団の代表正使としてロシアに派遣された。日露間樺太島仮規則を仮調印し、1867 (慶応3 )5月に帰国した。後に、勘定奉行、金銀座調締役から留守居となり、1868 (慶応4 )年に江戸北町奉行を辞職し、翌1869 (明治2 )年に没した。」「1868(慶応4)年の函館御役所(奉行所)名簿」「松岡 徳次郎 1826~18691826 (文政9 )年、駿河国(現・静岡県)生まれ。1854(安政元)年に蝦夷地に渡り、問宮鉄次郎の樺太東海岸探検に同行した。同年に開設された箱館奉行所に調役下役として勤務し、1863 (文久3 )年に調役並、1866(慶応2)年に調役に昇進した。その後、新政府の箱館裁判所引き継ぎ時点まで一貫して奉行所役人を努めた。写真は、箱館裁判所へ引き継ぎされる直前の慶応4年閏4月21日に、五後郭北側の役宅で損影された。調役の正装姿(素袴)のものである。1869(明治2 )年に43歳で没した。」「函館裁判所総督 函館府知事 清水谷公考(きんなる)」「徳川幕府の箱館奉行から新政府の箱館裁判所・箱館府へ1867 (慶応3 )年10月、徳川慶喜が朝廷に大政奉還の上表を提出し、12月に朝廷が王政復古の大号令を発して徳川幕府が倒壊した。幕閣から新政府への蝦夷地引き継ぎ指令が出されて、箱館奉行杉浦兵庫頭は平穏に引き継ぎすることを決断した。新政府は、蝦夷地経営のため箱館裁判所を設置し、総督に清水谷公考、実務責任者の判事に井上長秋(石見)、実務担当の権判事に岡本監輔、山東一郎、小野淳輔、堀真五郎、宇野監物らを任命した。1868 (慶応4 )年閏4月26日に杉浦奉行と小野淳輔の間で五稜郭の管理引き継ぎを終え、翌4月27日には新政府の役所となった五稜郭へ杉浦兵庫頭が出頭して、清水谷公考総督との引き継ぎに臨んだ。この後、5月1日には五稜郭で箱館裁判所の開庁が宣せられ、蝦夷全島の政務が開始となった。なお、「箱館裁判所」は直ぐに「箱館府」と改称され、総督清水谷公考は箱館府知事となった一方、旧箱館奉行所の上級役人の大半は、旧幕府が差し向け軍艦回天丸で江戸へ帰府し、下級役人のうち希望者については、そのまま箱館裁判所に雇用され箱館に止まった。また、幕府が行ってきた蝦夷地政策は基本的にそのまま継続されたが、約半年後には箱館戦争へ突人し、五稜郭の庁舎は旧幕府脱走軍が占拠するところとなった。」「箱館裁判所への引き継ぎ直後に、軍艦回天丸が箱館入港1868(慶応4)年5月4日、旧幕府軍艦回天丸が箱館に入港した。箱館奉行所から箱館裁判所への引き継ぎ直後であり、裁判所側は大いに警戒したが、旧箱館奉行の杉浦兵庫頭が箱館裁判所判事の井上長秋に対し、粗暴の問題はない旨を弁解し事なきを得た。その夕方、旧幕府海軍荒井郁之助と甲賀源吾が杉浦を訪問し、勘定奉行からの要望書(蝦夷地の米・金等の江戸への回付要望)を届け、軍艦回天丸を差し向けた理由が判明した。また荒井・甲賀の両名は、江戸表や戊辰戦争の状況等の情報を杉浦に伝達した。3日後の5月7日、回天丸に旧箱館奉行支配組頭も山村惣三郎以下。22名の役人達が乗船して江戸へ向けて帰帆した。回天丸はこの約半年後に箱館戦争の中心的役割を担って再び函館港に入港する。なお、杉浦と面談した荒井・甲賀の両名が、箱館の実態を情報として江戸へ持ち帰ったかは定かではない。ただ、箱館戦争の展開に極めて大きな役割を果たしたことは疑いない。」「清水谷公考(1845~1882)箱館裁判所総督 函館府知事 1845(弘化2 )年、京都生まれ。公卿清水谷家の家督を継ぎ、1861(文久元)年正五位下に叙され侍従を申しつけられ、1866(慶応2 )年には正四位下に叙された。1868 (慶応4)年の戊辰戦争勃発により、蝦夷地鎮撫を朝廷に進言したことに伴い、函館裁判所設置時に、新政府から副総督に任命された。また函館裁判所から箱館府への変更時には箱館府知事となった。その後、10月に旧幕府脱走軍か蝦夷地上陸し、函館戦争が開始となった際に、清水谷は側近らと共に青森へ撤退した。翌年5月に箱館戦争が終了し、箱館府知事として再任され、7月に開拓使次官に就任した。9月に次官を辞職し、1871(明治4 )年にロシア留学となり、4年後に帰国して家督を継いだ。1882 (明治15 )年に従三位に叙され、同日37歳で没した。」「小野淳輔 1842~1898 1842 (天保13 )年、土佐郷士・高松家に生まれる。母は坂本龍馬の姉千鶴で、龍馬の甥にあたる。1861 (文久元)、土佐勤王党に加盟し尊皇攘夷運動に奔走後、勝海舟の門下生となり、海軍術を学んだ。1867(慶応3 )年に小野淳輔と改名し、維新後は新政府に出仕した。翌慶応4年閏4月26日に箱館奉行杉浦兵庫頭との事務引き継ぎを行い、5月1日に開庁した函館裁判所の権判事に就任して、外国方を担当した。同年t0月の函館戦争勃発により、新政府軍の一員として参戦し、翌年戦争終結後に再び箱館府に勤務したが、12月に免職となった。また、明治4年には朝廷の命で坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名した。この後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任するも、明治22年に宮内省を免職となり高知に帰郷した。1898(明治31)年に56歳で没した。」「岡本監輔 1839~19041839 (天保10 )年、阿波・穴吹(現・徳島県美馬市)の医薬家に生まれる。通称は文平。1863 (文久3 )年、樺太を探検し、1865(慶応元)年には丸木舟で樺太一周に成功した。慶応4年5月1日開庁した箱館裁判所権判事に就任し、樺太経営を担当した。この後、明治2年に開拓判官となったが、黒田清隆と意見が合わすに翌年辞任し、東大予備門御用掛、一高講師、台湾総督府国語学校教授などを歴任した。明治25年に千島義会を設立し、択提島などを探検し「千島見聞録」などを著した。1904(明治37 )年に65歳で没した。」「堀 真五郎 1838~19131838 (天保9 )年、萩の堀家に生まれる。長州藩士であったが、脱藩して尊皇攘夷活動に加わった。戊辰戦争時に徴土内国事務局判事となり、後に箱館府兵事取扱役に就いた。1868(慶応4 )年5月1日開庁の箱館裁判所権判事に就任し、文武方を担当した。同年の箱館戦争勃発時に清水谷府知事とともに青森へ逃れ、東京へ状況報告後に免職となった。この後、東京始審裁判所長や大審院判事などを歴任し、1913 (大正2 )年に76歳で没した。」「井上長秋 1831~18861831 (天保2 )年、鹿児島生まれ。通称は石見(いわみ)。鹿児島諏訪神社神職の家出身で、1860 (万延元)年に上京し、兄とともに岩倉具視ら倒幕派公家と藩との連絡役を務めた。1868(慶応4 )年、新政府から西郷降盛、大久保利通らとともに参与に任命、箱館府判事を命ぜられた。箱館府五稜郭庁舎(旧箱館奉行所庁舎)では、実務の筆頭として民政方を担当した。同年9月、井上長秋一行は択捉・根室の視察に向かい、帰途に道難し行方不明となった。箱館府の実質的な政務の責任者を失ったことにより、その後の開拓施策は停滞を余儀なくされた。特に、箱館奉行杉浦兵庫頭が開発に成功した岩内炭鉱の継続に意欲を持っていたといわれる。」「甲賀源吾」「荒井郁之助」そして反対側にも3人の「掲示塔」があった。中央:榎本武揚(えのもと たけあき) 箱館戦争での幕府側首脳右:ジュール・フリュネ 江戸幕府の榎本武揚を支援して箱館の防衛を指示したフランス人軍人、 幕府側が降伏したさいは、フランス船に逃れていた。左:中川嘉兵衛 静岡県出身の実業家、箱館の天然水を「函館水」として売り出す。 彼の創った横浜氷会社は、ニチレイとなっている。「榎本武揚」。「旧幕府脱走軍蝦夷地を平定、仮政権を樹立1868 (慶応4 )年8月、旧幕府軍艦開陽を旗艦とした8隻の艦隊が品川沖を脱走し、仙台を経由の後、10月20日に蝦夷地森村鷲ノ木へ到着し箱館戦争が開始となった。蝦夷地上陸後に、旧幕府脱走軍陸軍隊は二手に分かれて箱館に進攻し、10月26日に蝦夷地統治の中心地五稜郭を占拠して箱館を制圧した。この後、11月5日に海陸軍の共同作戦により松前福山城を陥落させるなど、蝦夷地の平定に成功した。こうして、12月15日には、旧幕府脱走軍の士官以上の人れ札(選挙)が行われ、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三、箱館奉行永井玄蕃、箱館奉行並中島三郎助、海軍奉行荒井郁之助などの役職が決定し、蝦夷地仮政権が樹立となった。」「麦叢録附図 十ニ月十五日於函港祝砲之図」。「榎本軍旧幕府軍の函館政権時の組織編成」 【http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/tourism/history/boshin4/】より「榎本武揚 1836-1908蝦夷地仮政権総裁1836(天保7)年、江戸生まれ。通称は釜次郎。号は梁川。1854(安政元)年、蝦夷御用地掛堀利煕の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。1856(安政3)年に長崎海軍伝習所に入所し、後に築地軍艦操練所教授に就任した。1862(文久2)年、オランダ留学に派遣され、兵制・法律・器械学を修め、1867(慶応3)年に幕府がオランダに発注した開陽丸で帰国し、海軍副総裁に任命された。旧幕府艦隊を率いて1868(明治元)年10月に蝦夷地へ上陸し、五稜郭占拠や松前方面攻略の後、旧幕府脱走軍の蝦夷地仮政権総裁に選出された。翌2年5月、新政府軍に降伏して東京で入獄したが、1872(明治5)年に特赦で出獄後に開拓使へ出仕した。2年後には海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。この後、逓信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任して、子爵となり、1908(明治41)年に73歳で没した。」「永井玄蕃 1816~18911816(文化13)年、三河奥殿藩藩主松平家に生まれ25歳の時に旗本永井尚徳の養子になった。名は志志(なおゆき)。1853(嘉永6)年、幕府から目付に登用され、翌年には長崎海軍伝習所総監理に就任した。1858(安政5)年に岩瀬忠震と共に、外国奉行となり、後に軍艦奉行に転進したが、罷免されて失脚した。この後、1862(文久2)年に京都町奉行、1864(元治元)年に大目付、1867(慶応3)年には若年寄を歴任するなど、高い交渉能力を発揮して幕府に貢献した。1868(慶応4)年、榎本武揚と共に蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地平定後の仮政府では箱館奉行となり函館の統治および外国との交渉を行った。翌年の新政府軍函館総攻撃時には弁天台場で陣頭指揮をとって戦うが、5月15日に新政府の勧告を受けて降伏した。その後投獄されたが1872(明治5)年に特赦で出獄して明治政府に出仕、開拓使御用係、左院小議官を経て、元老院権大書記官を歴任した。1891(明治24)年に76歳で没した。」「荒井郁之助 1836~19091836 (天保7 )年、幕府御家人新井家に生まれる。14歳で昌平坂学問所に入学し、20歳で幕府に出仕して軍艦操練所教授、軍艦操練所頭取を勤めた。1868 (慶応4 )年に軍艦頭に任命された。その後、榎本武揚らと共に江戸を脱出し、蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地仮政権で海軍奉行となり、宮古湾の甲鉄艦奪取作戦に奮闘した。1869 (明治2 )年5月11日の新政府軍箱館総攻撃の際に、陣頭指揮で箱館湾海戦で奮戦したが敗退し、一本木関門上陸後に五稜郭で降伏して、5月18日に榎本武場らと降伏調印に臨んだ。1872(明治5 )年釈放後に開拓使へ出仕し、1890 (明治23 )年に初代中央気象台長に就任した。1909 (明治42 )年74歳で没した。」「甲賀源吾 1839~18691839 (天保10 )年、掛川藩の江戸藩邸生まれ。1858(安政5)年、築地軍艦教授所教授頭の矢田崛鴻の下で航海術を学んだ後に幕府に出仕し、軍艦操練方手伝出役、軍艦操練授方出役、御軍艦組出役を歴任した。1863(文久3)年の下関戦争で朝陽丸艦長、1866(慶応2)年に奇捷丸艦長、1868(慶応4)年に軍艦頭並となり、回天丸艦長に就任した。同年5月4日に荒井郁之助とともに回天丸で函館に入港し新政府引き継ぎした旧函館奉行所役人の江戸帰還に尽力した。3ヵ月後に旧幕府軍艦回天丸艦長として品川を脱出し、再ひ蝦夷地へ向かい、箱館戦争に参戦した。1869 (明治2 )年3月、宮古湾に集結した新政府軍務隊の甲鉄艦奪取作戦に、旗艦回天丸が突入を図ったが、甲賀は甲鉄艦からの銃撃を受けて戦死した。享年31歳。」「物記船之図宮古奇襲」。この絵の中で船が10艘描かれています。船の上にうっすらと文字が書かれていますが、右上から時計回りに朝陽、ストンモール、回天艦、亜米利加、春日とあります。「ストンモール」は「甲鉄」のことで、もともとは「ストンウォール・ジャクソン」という名前です。「春日」は薩摩の軍艦です。「亜米利加」は新政府軍がアメリカから雇った船「ヤンシー」だと思われます。「回天」は脱走軍の軍艦で、当初「回天」「蟠龍」「高雄」の3艦で奇襲をかける作戦でしたが、途中「蟠龍」と「高雄」が暴風で離散し、「回天」のみで決行しました。「フランス軍士官隊体調 ジュール・ブリュネ」と「蝦夷地仮政権 副総裁 松平太郎」。「箱館の救出と一本木関門奪回のため、五稜郭を出撃1869 (明治2 )年5月11日、早朝から新政府軍は箱館総攻撃を開始して、弁天台場を孤立させ、箱館市中を制圧した。これに対して、五稜郭の旧幕府脱走軍本営地では、弁天台場と箱館の救出に向かうべく、直ちに出撃を開始した。副総裁松平太郎、陸軍奉行並土方歳三以下、額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊などにり、五稜郭から千代ケ岡に向い、箱館への分岐点である一本木関門の奪還を目指した。しかしながら、一本木関門での戦闘は激しく、出撃隊は五稜郭方面に敗走した。土方歳三は関門突破の後、箱館方面への途中で銃弾を受けて戦死した。土方戦死の報を受けて、松平太郎は再度、一本木関門の突破を試みたが、叶わずに五稜郭へ引き揚げすることとなった。」「大島圭介 1832-19111832 (天保3 )年、援磨国赤穂郡赤松村(現・兵庫県赤穂郡上郡町)生まれ。大仮の緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学び、1865 (慶応元)年に陸軍所に出仕した。戊辰戦争では、旧幕府陸軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流後に蝦夷地へ渡った。1868 (明治元)年10月20日、森村鷲ノ木に上陸後に、大鳥圭介隊は大野・七重での戦闘の後、箱館に進攻して10月26日に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘指揮に当たるも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄となり、1872 (明治5 )年に釈放され北海道開拓使に出仕した。後に、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密願問官などを歴任し、1911 (明治44 )年に78歳で没した。」「土方歳三 1835-18691835 (天保6 )年、武州多摩郡石田村(現・東京都日野市)生まれ。1863(文久3 )年、幕府兵の募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新撰組を結成し、副長を動めた。会津藩の指揮下、京都の警備に活躍したが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、会津や仙台を転戦の後、旧幕府脱走軍に合流し、蝦夷地で箱館戦争に参戦。1868 (明治元)年11月の松前・江差攻略を果し、蝦夷地仮政権陸軍奉行並となり、翌1869年の宮古湾奇襲攻撃や大野ニ股ロの戦闘に奮戦した。同年5月11日、弁天台場救助のためー本木関門(現・若松町付近)の突破をはかり、箱館市中へ赴く途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。」「函館大戦争之図1869『明治2)年5月11日、新政府軍箱館総攻撃により箱館市中が新政府軍の制圧下に置かれた。副総裁松平太郎と陸軍奉行並土方歳三が、一本木関門の奪還を目指して新政府軍との激戦となった。」「箱館戦争図1869(明治2)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時の、函館港、函館市中での戦闘の様子が描かれる。」「ジュール・ブリュネ 1838~1911フランス軍士官隊隊長1838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に幕府の要請で、フランス軍事顧問団の副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練に当たった。その後、1868(明治元)年10月に、カズヌーブ、マルラン、フォルタン.ブッフィエなどのフランス人下士官と共に旧幕府脱走軍に加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では、海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。1869 (明治2 )年、旧幕府脱走軍が敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、フランスに帰還した。帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、1911年に73歳で没した。」「松平太郎 1839・1909蝦夷地仮政権副総裁1839(天保10)年、幕臣松平家に生まれる。文久年間に奥右筆、後に外国奉行支配組頭を勤めた。1868(慶応4)年、歩兵頭から陸軍奉行並となり、大鳥圭介や、榎本武揚らとともに戊辰戦争に参戦した。会津戦争の後、蝦夷地へ渡り、旧幕府脱走軍の蝦夷地仮政権の副総裁に就任した。主に民政・外交面で活動し、人望は厚かったとされる。1869(明治2)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃の際には、一本木関門奪還に陣頭指揮で出撃したが敗退し、5月18日には榎本武揚らと共に降伏調印に臨んだ。東京で投獄の後、1872(明治5)年に釈放され開拓使出仕したが早々に退職し、1909(明治42)年に71歳で没した。」「伊庭八郎 1844~18691844 (天保15 )年、江戸に生まれ。「幕末江戸四大道場」の一つとされた御徒町の剣術道場「練武館」開祖の心形刀流宗家・伊庭家の長男。1864 (元治元)年、江戸幕府に大御番衆として登用され、奥詰となり、後に奥詰が改編されて遊撃隊となり、伊庭も一員となる。将軍の護衛として鳥羽伏見の戦いに敗退し、その後遊撃隊として各地に転戦した。戦闘で負傷し治療後に、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊に投じ蝦夷地へ渡った。箱館では、仮政権の歩兵頭並、遊撃隊隊長を勤めた。隻腕で有りながらも軍を率いて徹底抗戦を続ける中、木古内の戦いで重傷を負し、五複郭内で治療を続けた。しかしながら、1869 (明治2 )年5月12日、新政府軍艦甲鉄からの艦砲射撃が五稜郭内に多数飛弾するようになり、敗北が決定的となったことを悟って、モルヒネを飲み干し自決したとされる。享年26歳。」「函館戦争図幅」四稜郭の南側1kmには、1865 (慶応元)年に五稜郭の鎮守府として神山に設置された東照宮が存在した。大鳥圭介の記録には四稜郭は「神山の砲台、小堡」などと記されている。「東照宮守備の台場、四稜郭1869 (明治2 )年4月頃に、五稜郭の北東側3kmの高台に急造された西洋式土塁の砲台で、四偶の稜堡塁の特徴から四稜郭と呼ばれる。5月11日の新軍攻撃時には半日ほどで陥落し、兵は五稜郭へ敗走したとされる。」「軍備強化に五稜郭改造、東照宮守備に四稜郭を築造1868 (明治元)年10月、蝦夷地に上陸した旧幕府説走陸軍は、ニ手に分ガれて函館に進攻した。大鳥圭介の隊は、大野・峠下方面から、土方歳三の隊は川汲峠方面から、共に箱館府兵との戦闘に勝利してほぼ無人の箱館府五稜郭を占拠した。五稜郭は役所が置かれていたが、軍事的防御施設がほとんどなく、要塞として極めて不十分な状態にあったため、土塁を強化して砲台を設置する改造に着手した。改造工事は冬期間を通して行われ、翌年春頃に工事が完了して、土塁上の10か所に24ポンド長カノン砲が配備された。また、五稜郭の北東側鬼門の方角に置かれた鎮守府の東照宮を守備するため、東照宮のさらに北側の高台に、砲台を2か所に備える西洋式土塁の四稜郭が築造された。稜郭の設計・指導には、フランス士官隊隊長のジュール・プリュネがあたったとみられ、短期間の工事でフランススタイルの砲台が完成し、5月初めには松岡四郎次郎隊が守備に就いた。新政府軍の反撃に対する五稜郭の要塞化と四稜郭の急造であったが、軍の攻撃に対しては効力を発揮することなく、旧幕府脱走軍は敗退し戦争が終結した。」「「後役十一日戦争五弼より 発砲応援の団」1869 (明治2 )年5月11日の新政府軍箱館攻撃時に、五稜郭土塁上設置の大砲から七重浜方面の援護射撃の様子を描いたとされるが、24ポンドカノ冫砲は到達距離に乏しく、砲弾の大半は途中の亀田周辺に落下した。」「「函館氷」の創始者 中川嘉兵衛」「五稜耶の上水と函館氷五稜郭への上水道の設置については、箱館御役所(奉行所)の亀田移転計画時に「赤川の清流を引き入れ」と亀田川から取水することが決定された。五稜郭の北側を流れる亀田川から箱樋を延長し、8か所の溜桝で中継する形で、役宅、堀、郭内の役所に配水する上水道であって、請負工事は石工の備前の喜三郎が担当した。役宅および堀までの工事は、1860 (万延元)年中までに終了し、五稜郭内への工事は、奉行所庁舎建築前の文久年間初め頃までに完了したようで、所要経費は6,000両余りであった。導水した亀田川の水は、箱館奉行所、箱館裁判所(函館府)、函館戦争時の旧幕府脱走軍本営地にとって、貴重な飲料・生活用水としての利用がなされていた。1865(明治2)年5月に函館戦争が集結した後も、五稜郭は役所としての利用はなくなったが、上水道の通水経路は継続され、水質は良好に保たれていた。各地で製水を試みていた中川嘉兵衛が、この五稜郭の堀水に着目し、1871(明治4)年に結氷670トンの切り出しに成功し、「函館氷」として商品化した。切り出された氷は、馬ソリで港の氷室に蓄えられた後、外国商船により横浜方面に輸送され販売された。「函館水」はアメリカからの輸人氷より品質が良く、函館の特産品として高く評価されていた。その後も、五稜郭の製氷は大正期まで継続されたが、1953(昭和28)年の亀田川改修工事により取水路が断たれて製氷は姿を消すこととなった。」「大日本物産圖會」「中川嘉兵衛「函館水」の創始者1817 (文化14 )年、三河国額田郡伊賀村(現・愛知県岡崎市)生まれ。16歳で京都の厳垣松苗翁のもとで漢学を修めた後、江戸へ出て、英国公使の料理方となった。牛乳店や衛生・食品などの新事業を手がける中、製氷事業にも着目した。1861 (文久元)年に国内最初の採氷を富士山麓で試みたが失敗し、その後、信州諏訪湖、日光山中、奥州釜石、青森県堤川と失敗続きとなった。1863 (文久3 )年函館に渡り、上磯有川で採氷池を設けたが失敗となった。ようやく、1868 (明治元)年、五稜郭の外濠で天然氷約500トンの採氷に成功した。1871 (明治4 )年から、五稜郭で採氷され、函館港の氷室に蓄えられて、横浜に輸送し、「函館氷」として函館名産品となった。その後は、亀田郡神山村に製氷池を新設し、事業を拡張してい晩年まで採氷を継続した。1869(明治29)年、北原鉦太郎に事業を譲り東京に移住した。1897(明治30 )年に80歳没した。」「五稜郭の製氷(明治~大正期)」、「五稜郭の採氷の運搬(明治~大正期)」、「1871 (明治4 )年頃設立の中川氷室」「五稜郭の製氷(明治~大正期)」「備前の喜三郎 弁天橋台場および五稜郭の土塁、石垣工事は松川弁之助が請負い進められ、1857(安政4)年には備前の喜三郎が加わった。喜三郎は、備前国(現・岡山県)の大工であったが、品川台場の五番と六番の普請を下請けして築造に当たる他、江戸や遠国の石垣工事を講け負っていた。弁天台場と五稜郭の工事が急がれたために、急遽、江戸から呼び寄せられたとされる。喜三郎は、石垣工事に加えて亀田川から導入する上水道工事も請負い、短期間で完成させたと伝えられる。生没年は不詳とされるが、一説には1881(文久元)年に死去してその後ニ代目喜三郎が家督を相続したとされる。明治期に井上喜三郎を名乗ったのはニ代目喜三郎とされる。なお、備前の喜三郎は、五稜郭と弁天岬台場の石垣工事・上水道工事の他に、神山東照宮の鳥居、亀田八幅宮の狛犬など、多くの仕事をてがけた人物であった。」「箱館亀田一円切絵図(五稜郭部分)五稜郭の北側を流れる亀田川から取水し、五稜郭の堀に至る上水道の経路図」「五稜郭内の上水道経路図発握調査で確認された五稜郭内の上水道経路で、ほぼ計画段階の通り上水道木桶と水溜桝が設置されたことか明らかとなった。」「五稜郭外に設置の上水道木樋(長さ約4m、幅45cm)亀田川から五稜郭までの間(約1km)を導水する上水道木樋。継ぎ手を使わずに凸型と凹型を繋ぐ。内面には銅板が葺かれていた。」「函館奉行所」前から「五稜郭タワー」を紅葉越しに再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.15
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「本堂(龍護殿)」前の「白鷺」のモニュメントを再び。その先に石碑も。「南無阿弥陀仏 金三拾両」と刻まれた石碑。「本堂(龍護殿)」左の植栽の紅葉。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、花屋さんの有志が1年間花にお世話になった、そして花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。「和」と刻まれた球状の石碑。平和の塔(へいわのとう)であると。台座には「超世無倫(ちょうせむりん=世に並ぶ者がない)」と刻まれていた。昭和四十年(1965)建立と。「河口慧海師碑」。慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建立したと。右手に墓石と左手に石仏。墓石には2名の戒名が。濡れていたが水かけ地蔵様なのであろうか?枯れ葉の上を「五社殿」に向かって進むと左に有った石仏。「五社殿」淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、呑日大社、石済水八幡宮、住吉大社、熊野大社の五社の御分身を祀っていると。「五社殿」から本堂方面に戻る。その先に「下品堂」の姿が垣間見えた。左に折れ、再び「本堂(龍護殿)」前に向かって進む。本堂前の「白鷺像」のモニュメントを見る。本堂前の紅葉。陽光が紅葉に差し込んで見事な赤の世界。「天皇陛下御手植之松」。「天皇陛下御手植之松」碑。「仏足石」。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさくれい)により人々は衷心慕情の誠を示した。御人滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、麾減している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つ歌碑が。『掃きよせて 落ち葉焚く間も銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)であると。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。「都天然記念物 九品仏のイチョウ」碑。五重石塔。「本堂(龍護殿)」とその横の枯山水庭園。「本堂(龍護殿)」の屋根にも寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が。本道横に掲げられている「戦捷紀年」。1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた日露戦争戦争への玉川村奥澤の従軍者の名前が書かれていた。手水場。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の句碑があった。『天碧き日は 鷺草の天に翔つ』。本堂の裏手に鷺草園が。池には菖蒲や水草が植栽されているのだと。右手に見えるのが「仁王門」。鷺草園の水の流れ。園の中に、玉川公園管理事務所が掲げる案内板に、鷺草のことが詳しく解説してあった。「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです………」。「鷺草園」から「本堂」を見る。天然の湧水なのであろうか。多くの水は流れていなかった。前方に「仁王門」へ通じる道が。「仁王門」を本堂側から。「仁王門」の脇には4基の「青面金剛像」が。その脇には「玻璃摩権現」と刻まれた石碑が。「青面金剛像」を反対側から。夜のライトアップも行われているのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.14
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五稜郭公園に向かって進んでいくと、正面に石碑や案内板が。「特別史跡 五稜郭跡」碑。「特別史跡 五稜郭跡」碑。五稜郭内の建物案内図。ネットより。 【https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012100380/】より「特別史跡 五稜郭跡昭和27年3月29日指定五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパて発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよはれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼はれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物2 0数棟が建てられました。安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年1 0月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんとが解体され、大正時代以降は公園として開放されています五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。」「五稜郭跡」配置案内図。「旧幕府軍 総裁 榎本武揚 と 明治新政府軍 陸軍参謀 黒田了介」円筒形掲示塔。「激動の函館戦争~戊辰・己巳の役~江戸・品川を出航、北の新天地へ1868 (明治元)年8月19日夜、軍艦開陽を旗艦とする8隻から成る旧幕府艦隊が品川湾を出帆し、針路を北へ向けた。艦隊には旧幕府海軍副総裁榎本武揚率いる約2000名が乗り込んでいた。徳川幕府崩壊による旧幕臣救済のため、蝦夷地の開拓を行う大きな目的を果すための船出である。仙台で旧幕府の陸軍部隊と合流し、一路、蝦夷地へ向った。蝦夷地鷲ノ木へ上陸、函館へ侵攻を開始仙台から北上し、蝦夷地の鷲ノ木に10月20日に到着した。箱館は開港場であり、諸外国に対する配慮のため、大艦隊で直接の箱館人りを回避して鷲ノ木へ上陸、直ちに、箱館府へ蝦夷地開拓の嘆願書を持参する使者を向かわせたが、函館府兵の攻撃を受けたため、箱館攻略に向けて進軍を開始した。陸軍部隊は、内陸部の本道部隊と海岸線沿いに南下する間道部隊の二方向から箱館へ進軍した。本道部隊は七重・峠下の戦闘に勝利し、間道部隊は川汲峠の戦闘に勝利して箱館へ進軍し、10月26日に新政府の箱館府が置かれていた五稜郭を占拠し、港湾の要塞の弁天台場、箱館市街地も旧幕府軍の制圧下に置いた。」蝦夷地平定へ松前・江差攻略箱館を制圧後、旧幕府軍は直ちに松前・江差方面の攻略に着手した。1868(明治元)年10月27日、上方歳三が率いる部隊が函館を出発・11月5日に松前・福山城を占領、15日には江差を制圧し松前藩の新城である館城をも陥落させ、松前藩軍はほぼ全滅となった。「麦叢録附図」より「慶応戊辰秋八月品港出帆之図 其一」。「麦叢録附図」より「十月廿日南蝦夷地之内鷲ノ木着舩之圖」「麦叢録附図」より「十一月五日海陸相合而陥福山城図」旧幕府軍艦開陽の座礁・沈没1868(明治元)年11月1日に軍艦開陽で箱館人りした榎本武揚は、11月1日に松前・江差方面視察のため軍艦開陽で江差へ向い、翌15日早朝に江差沖へ到着したが、同日夕方から江差を襲った暴風雪により開陽が暗礁に乗り上げて座礁、その後10日ほどで船体が損壊し沈没した。旧幕府軍の旗艦として誕生した開陽は活躍することなく海中へ没し、旧幕府軍にとって大きな痛手となった。「麦叢録附図」より「開陽於江差破船之図」旧幕府軍 総裁 榎本武揚(1836-1908)通称は釜次郎。1856 (安政3 )年に長崎海軍伝習所へ入所、後に築地軍艦操練所教授を務めた。1862(文久2 )年、オランダ留学に派遣され兵制・法律・器械学などを修め、1867 (慶応3 )年、幕府がオランダに発注して建造した開陽丸で帰国し、海軍副総裁に任命された。1868 (慶応4 )年8月に旧幕府艦隊を率いて江戸(品川)を脱出して蝦夷地渡り、蝦夷地南部を平定、旧幕府軍の蝦夷島政権の総裁となった。翌明治2年5月18日に新政府軍に敗北・降伏し、東京で投獄されたが出獄後は開拓使、出仕、海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。後、逓信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任して子爵となった。蝦夷地を平定・占領し、旧第府軍瑕夷島政権の樹立松前・江差方面を制圧したことにより、旧幕府軍の蝦夷地南部の占領が確定し、攻撃部隊は函館へ凱旋した。1868(明治元)年12月15日、函館港に碇泊の軍艦と弁天橋台場から祝砲が放たれ、函館は蝦夷地平定の祝賀一色となった。旧幕府軍は朝廷から蝦夷地開拓の許可がおりるまでの措置として、士官以上の者による入札を行い、各役職を決定。総裁榎本武揚以下からなる蝦夷島政権の樹立となった。「旧幕府軍 組織図」。 【http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/tourism/history/boshin4/】より新敢府軍艦甲鉄艦奪取へ、宮古湾奇襲作戦1869(明治2)年3月、軍艦甲鉄を旗艦とする新政府軍艦隊が品川を出航し、宮古湾へ寄港するという情報を得た旧幕府軍は、主力艦甲鉄の奪取を目論んだ。3月19日、回天、蟠龍、高雄の3艦による作戦を目指して箱館を出航するが、途中、暴風雨により蟠龍、高雄の2艦が脱落した。3月25日、宮古湾内碇泊の甲鉄に回天単独で作戦を敢行したが、奇襲作戦は失敗に終わった。新政府軍が蝦夷地上陵、箱館へ進軍新政府軍は、青森に陸海軍を集結し体制を整え、4月6日早朝、蝦夷地乙部沖へ到着した。陸軍部鎌は乙部へ上差し、進軍を開始、新政府軍艦隊は江差を攻撃して、乙部・江差を制圧した。4月17日には松前・福山城を制圧、その後も海岸部の旧幕府軍拠点を制圧しで進軍を続けた。一方、内陸を違む陸軍部隊は、土方歳三率いる旧幕府軍との戦闘に苦戦したものの、五稜郭本部からの命令で土方隊が撤退したために箱館平野へ進出し五稜郵に迫った。新政府軍函館総攻撃1869 (明治2 )年5月11日(旧歴)、払暁から新政府軍の函館総攻撃が開始された。陸重参黒田了介の率いる部隊が函館山裏側の断崖から山上へ登頂、山裏の箱館市街地へ殺到し、短時間で函館市街を制圧、旧幕府軍の箱館守備隊は弁天橋台場へ籠城した。一方、新政府軍艦が箱館港内に進攻し、弁天橋台場や旧幕府軍艦への砲撃を行う大海戦になった。旧幕府軍蟠龍の砲撃で新政府軍艦朝陽が爆沈したが、間もなく旧幕府軍艦は全て操船不能となり乗組兵は上陸して弁天岬台場や五稜郭へ敗走。旧基府海軍は全滅状態にとなり、箱館港内は新政府海軍の制圧下に置かれた。また、七重浜方面の戦聞でも新政府が圧勝した結果、旧幕府軍は五稜郭と千代ヶ岡陣屋に孤立し、函館方面との連絡路も絶たれた。箱館と弁天岬台場の奪回・救出に出撃した土方歳三の部隊は、一時は市街地付近まで反撃したが、土方ら多数の死傷者が出て、失地回復は叶わなか。旧幕府軍は壊滅的な状況に陥り、新政府軍は夕方までに総攻撃を経了した。五稜郭からの応戦5月11日の新政府軍総攻撃時に、五稜郭は直接攻撃を受けていなかったが、七重浜方面の戦闘への支援として、土塁上に設置した24ポンドカノン砲を猛射した。しかし海岸線までの距離が遠く発射されたほうだんはのほとんどが途中の亀田の街中へ落下するなど、その効力を発揮することなく五稜郭からの応戦は終了した。新政府軍艦甲鉄から五稜郭へ鑑砲射撃新政府軍総攻撃の翌日の5月12日、箱館港に碇泊した新政府軍艦甲鉄から五稜郭へ向けて、七十斤( 70ポンド)砲による砲撃が開始され、五稜郭内庁舎に被弾し、多くの死傷者が生じる事態となり脱走兵も相次いだとされる。艦砲射撃による攻撃と併行して、新政府軍による降伏勧告が進められ、15日には弁天岬台場が降伏、翌16日には五稜郭の前衛基地であった千代ケ岡陣屋も陥落し、五稜郭の旧幕府軍は完全に孤立。榎本武揚ら旧幕府軍幹部の会議により、降伏動告の受け入れが決定された。箱館戦争終結旧幕府軍降伏5月17日、旧幕府軍の総裁榎本武揚、副総載松平太郎、陸軍奉行大島圭介、海軍奉行荒井郁之助の4名が亀田の新政府軍会議所へ出向き、新政府軍陸軍参謀黒田了介らに降伏を申し出た。新政府軍側からは、①翌18日の朝に榎本ら4名が軍門に降伏すること②午後に兵隊以下が五稜郭を出て降伏すること③その後、夕方までに兵器を全て差し出し、五稜郭を明け渡すこと の三ヵ条が降伏の実行条件として、求められた。五稜郭の明け渡し5月1 8日、早朝に総裁榎本武揚以下4名が五稜郭を出て、新政府軍の軍門に下り、その後に五稜郭内の兵士ら全員が五稜郭を出て降伏した。最後に、をト旧幕府軍会計奉行榎本対馬が、新政府軍軍監前田雅楽へ五稜郭内の武器等の目録を渡し、降伏実行条件三か条を全て満たして、五稜郭は新政府軍へ明け渡され、終結することとなった。【五郭引継目録】ー、元込銃合百七挺 ー、四斤施條砲(4ポンド施條砲)三門 (内、十三発込ー挺「スナイトル」三十一挺 ー、加農十ニ斤(カノン12ポンド砲)一門 七発ー発合セテ九十九挺、長元込七挺 ー、短葱微砲(短ホーイッスル砲)二門ー、「ヒストール」四十八挺 ー、亜ホート葱微砲(アメリカ・ボート ホーイッスル砲)三門ー、ニツ「バント」三ツ「バント」「ミニュー」銃 ー、十三拇臼砲(13ドイム・モルチール砲) 合千六百挺 十六門ー、長加農ニ十四斤(長カノン24ポンド砲)九門 ー、米五百俵餘 外味噌井干魚其他 書籍蒲団雑具類「一の橋」。「箱館奉行所」開館案内板。「一の橋」を渡る。堀の先の紅葉と「二の橋」を見る。振り返るとあったのが、「五稜郭 半月堡」。「半月堡半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁ともいいます。郭内への出入口を防御するために設置されています。当初の設計では各稜堡間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。※刎ね出し武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出し てれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。」そして「二の橋」。「総堀」の左側を見る。「総堀」のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた。「総堀」の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった とのこと。紅葉の始まった「総堀」の右側を見る。「一の橋」、「二の橋」を渡ると「箱館奉行所」の門が見えて来た。道幅は広めだが石垣があり、曲がり角のある通路になっていた。石垣の中で,正面側の石垣の一番上には、石が一列飛び出しているところがあった。これは「はね出し」や「武者返し」または「しのび返し」と呼ばれるもので、五稜郭の石垣の大きな特徴の一つだと。この下にも堀があり、水が溜まっていた。「はね出し」をズームして。「土塁・石垣五稜郭の土塁は、堀割からの揚け主を積んたもので、土を層状に突き固める版築という工法で造られています。郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよはれる防御のための迫り出しがあります。石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。」「本塁石垣の構造本塁石垣は裏込め奥に土留めの石垣を据えた二重構造になっています。」藤棚の下を通過。「門番所跡」。「門番所跡郭内への出入口となる3か所の本塁には門が設置され、その内側には門番所があったことが古文書に記されています。発掘調査により正面入口となる南西側の本塁の間で、古文書の記録と同じ規模の建物跡が発見されました。6畳と5畳半の2部屋と主間・縁側の間取りで、外には便所があったようです。」紅葉もかなり進んで。赤松そして紅葉の下には石碑があった。「武田斐三郎先生 顕彰碑」。五稜郭は我が国のはじめての洋式築城で安政4年に着工、7年の歳月を費して元治元年(1864)に竣工した。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当たってこの碑を建てた。」箱館戦争当時使用された「ブラッケリー砲とクルップ砲」が展示されていた。左側の短い大砲は「ブラッケリー砲」と呼ばれるもので、1866年にイギリスのオードナンス社で製造されていると。旧幕府軍が、函館港内における砲撃のために築島台場に設置していたもので、全長2m55cm、重量は2,500kgで、推定射程距離は1,000メートル。1961年に函館市豊川町で発見されたと。右は、1860年にドイツで製造された「クルップ砲」。こちらは旧幕府軍の軍艦に撃沈された新政府軍軍艦「朝陽」の大砲で、全長2m85cm、重量は1,000kgで、推定射程距離は3,000メートル。1932年に、現在の北斗市七重浜の埋め立て工事の際に発見されたと。「復元された板庫(左)と土蔵(右)」。「土蔵(兵糧庫)五稜郭造時の建物で、唯一現存しているものです.館戦争の記憶から、いっしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようです。大正時代には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されていました。文献資料や発掘調査成果から庇屋があったことが確認されにことから、平成13・14年度の修の際に、現在の姿に復元しました。」「板庫・土蔵文書や物品などを保管・収納していた建物で、板庫は板壁造、土蔵は土壁造の建物です。土蔵(兵糧庫)・板庫・土蔵は2間ずつ離れて、3棟並んで建てられていました。板庫は休憩所、土蔵は管理事務所として外観を復元的に整備しています。」「板庫と土蔵」の前の広場の木々の紅葉も始まっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.14
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続日本百名城の「志苔館」のスタンプをGETした後は、紅葉見物の為に「函館香雪園」に向かったが、未だ紅葉が進んでいなかったので引き返して「五稜郭タワー」に向かう。「五稜郭タワー」は五稜郭築城100年にあたる1964年12月1日に初代タワーが開業。高さ(避雷針高)60mで展望台の位置は45mだった。同タワーが2004年に創業40周年を迎えるのを機に、タワー施設の老朽化もあり、新タワーの建て替え計画構想が浮上。2004年11月に総工費30億円を投じて着工。建設地には旧タワーの隣にあった料亭「稜雲亭」跡地が選ばれた。高さを決める際には、五稜郭から直線距離で5kmの場所に函館空港があるため、航空法により108mの高さまでと制限があり、避雷針高で107mとなる。2004年11月25日着工、2006年3月31日竣工、同年4月1日に開業。同年12月1日に旧タワー跡地に「アトリウム」が完成しグランドオープンした と。真っ赤な身を付けた「ナナカマド」の街路樹。「ナナカマド」の名前の由来はこの木が非常に硬く燃え難く、七度かまどに入れても燃えきらぬとか、極上の堅炭を得るために七日間かまどで蒸し焼きにするという意味であると諸書に書かれている。この木は初夏に白い花をつけるが、秋の紅葉と赤い実が殊のほか美しい。この実は葉がまだ緑のうちから色づき始めるが、冬が始まる頃には葉も実も全体が赤くなってくる。 そして準備を終えた木から落葉が始まるが、紅葉した葉と実とが枝ごとかたまりで石畳に落ちる印象が私にはある。他の街路樹も紅葉を始めていた。「五稜郭タワー」周辺地図と案内。駐車場に車を駐め、五稜郭タワーのアトリウム(イベントホール)に入る。チケット売場には、『函館五稜郭奮戦之図』-榎本武揚・大鳥圭介・土方歳三・新選組-の錦絵が。本戦争浮世絵は、1868年(慶応4年)から始まった「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の最終局面、1869年(明治2年)に起きた「五稜郭の戦い」を描いた1枚。本戦争浮世絵の中心で、黒い軍服を着ているのが、旧幕府軍の海軍副総裁「榎本武揚」。その隣、橙色の軍服を着ているのが、同じく旧幕府軍・陸軍奉行並の「松平太郎」。ふたりは、五稜郭(現在の北海道函館市)の高台から、戦況を冷静に見極めているのだと。「トンボロ」がもたらした函館の歴史夜景で有名な函館の街は函館山から北東方向に扇形に広がっています。これは、島であった函館山と対岸の陸地が海流に運はれた土砂で続きになった「陸繋砂州=トンボロ(tombolo)」という地形の上に街か出来たためです。砂州に囲まれて波か静かな函館山の麓には、蝦夷地産物の交易の港として人々か移リ住み、街が出来ました。安政元年(1854)の日米和親条約によって開港場となった函館の歴史や五稜郭の誕生、そして現在の夜景の美しさも、函館山と「トンボロ」によって形づくられた天然の良港という地形によるものと言えます。」「函館はこうしてできた?①日本海を北上して津軽海峡に流れ込んだ対馬海流の一部が沿岸流となる。②川から流れ出た土砂が沿岸流で運ばれ、波の静かな島と陸の間に堆積して、 約6000年前から砂州が成長。③3500~3000年前頃に函館山と対岸の陸地がつながり「トンボロ」が形成された。」「五稜郭築造当時の「箱館」床下に設置している模型は、五稜郭がほぼ完成し、郭内に建設された新しい役所が業務を開始した元治元年(1864)頃の箱館の姿を再現したものです。この年の函館の人口は12206人、戸数は2804戸(『函館市史』)との記録があり、市街地は函館山の麓から港に面した狭い地域に密集しています。その他、現在の函館とは以下のような違いがあります。■函館山の木々は燃料や建築材料として伐採され、山肌が露出しています。■津軽海峡に面した海岸には、広大な砂丘が広がっています。■生活用水確保などのために安政6年(1859)に造られた「願乗寺川」。■五稜郭の北方には、役人の屋敷や「同心長屋」などの住宅地が建設されました。■港の入口には、大砲を備えた要塞「弁天岬台場」が築造されていました。■蝦夷地警備のために派遣された津軽(弘前)藩と南部(盛岡)藩が建設した「陣屋」 函館山は、太古の昔に火山の噴火によってできた島でした。その後、島と半島の間に砂州が形成され、約3000年前には、中央部分がくびれた独特の地形「陸繋島(トンボロ)」ができ上がった。現在の市街地の主要部分はこの砂州の上にあるのだ。「五稜郭築造当時の「箱館」(1/1500)」エレベーターホールには、ガラスの床下に直径6mのリアルで精密な五稜郭築造当時、元治元年(1864年)頃の箱館の姿を資・史料に基づき再現した地形模型があった。しかしガラスの床の上には、エラベーター待ちの整列用の ベルトパーテーションが置かれていたので・・・。五稜郭タワーHPより。 【https://www.goryokaku-tower.co.jp/info/20141121-438/】より「五稜郭の設計者 武田斐三郎」像。正面から。「五稜郭の設計者 武田斐三郎(1827~1880)像伊予・大洲藩出身。江戸や大阪で洋学を学んだ後、通訳として蝦夷地へ派遣される。箱館諸術調所教授として洋学による人材育成に当たると同時に五稜郭や弁天岬台場の建造など箱館の防備強化に貢献する。江戸に戻り開成所教授となり、維新後も陸軍士官学校教授など、生涯を通じて教育に尽くした。」「旧幕府軍 脱走者 総裁 榎本武揚(1836~1908)像幕臣。「長崎海軍伝習所」で航海術を学んだ後オランダに留学して国際法・器械学などを修める。大政奉還後、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱走。五稜郭を占領するが新政府軍の総攻撃により敗北、投獄。赦免後は開拓使に出仕。逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任した。」大砲(模型)。模型だが、土方歳三の像の両脇にあると臨場感があった。「30ポンド短カノン砲(模型)」この大砲は、徳川幕府海軍の軍艦「開陽」に搭載されていた「30ポンド短カノン砲」を参考に製作した実物大の模型です。幕府がオランダに発注して建造した軍艦「開陽」には、当初26門、後に9門が追加され、35門の大砲が装備されていたようです。(備砲の数は資料により異なります)。「開陽」は箱館戦争の松前藩攻撃に際して江差沖で防風により座礁・沈没しましたが、多くの大砲を含めて約3万点もの遺物が海底から引き揚げられています。毎年5月に行われる「函館五稜郭祭」や夏の「市民創作函館野外劇」などの五稜郭を舞台とするイベントで、この大砲は号砲を轟かせます。」土方歳三の銅像。「新政府軍の大砲」。土方歳三の立ち姿のブロンズ像。「五稜郭に立つ 土方歳三天保6年(1835年)、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(1863年)幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京都で新選組を結成、「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取締まりと同時に、「鬼の副長」として新選組隊士を厳しく統率し恐れられた。鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新撰組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、会津と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる「蝦夷共和国」では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869年)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。この像は、旧幕府軍が蝦夷地から一時的に新政府の勢力を駆逐し、暫定政権を樹立した明治元年12月15日、戦場から凱旋した土方歳三が、乗馬用の鞭を片手に五稜郭に降り立った姿を再現したもので、函館出身の彫刻家、小寺眞知子さんの作品です。また展望2階には、小寺さん制作による座像「土方歳三之像」が設置されております。」像の横に「土方歳三 手植えの矢竹」。東京・日野市にある土方歳三の生家「土方歳三資料館」から1985年に株分け・寄贈いただいた「矢竹」です。 「矢竹」は節が小さく節と節の間が長いために矢を作るのに適しており、いざという時のために武士が庭に植えたとされています。 まだ幼い土方歳三が、「われ壮年、武人となって名を天下に挙げん」と侍になって、将来、世に出ることを誓い、自ら庭先に植えたと伝えられています。」今回は「五稜郭タワー」に上らなかったので、以前訪ねた時の写真です。五稜郭タワーのアトリウム(イベントホール)を出て五稜郭の入口に向かう。アトリウムから公園に出る出口のところに、ひっそりとあったのが「箱館戦争供養塔」。「この供養塔はその名のとおり、箱館戦争と五稜郭に関った人々の慰霊・供養のために、昭和47年(1972)に建立されたもので、以来、毎年5月11日に碑前で供養祭を執り行っています。この5月11日という日は、明治2年(1869)5月11日、箱館戦争の最終局面、明治新政府軍による旧幕府脱走軍に対する総攻撃が行われ、陸軍奉行並・土方歳三を始め多くの戦死者が出た日を記念(?)しています。供養祭は、5月の第3土・日曜日に開催される「箱館五稜郭祭」の協賛行事でもあり、五稜郭祭の先触れとして、五稜郭祭が安全に盛大に挙行できるように祈念する事業としての性格も持っています。「五稜郭祭」自体が五稜郭の歴史に関った人々の慰霊と顕彰を目的として始められた「祭り」であることから「土方歳三コンテスト」などのイベント性が求められるようになった昨今、特に意義は大きくなっていると思います。」と。そして右手にあったのが「土方歳三 大鳥圭介」掲示塔。「幕末維新の激動 戊辰戦争1868(慶応4 /明治1 )年1月3日(新磨1月27日)に始まった「鳥羽・伏見の戦」から翌1869 (明治2 )年5月18日(新歴6月27日)の「箱館戦争」終結に至る、明治維新期の約一年半に及ぶ一連の戦いを「戊辰戦争」と呼ぶ。この呼称は、古来からの「十干十二支」の組み合わせによる暦法に基づき、戦いの始まった明治元年が「戊辰(ぼしん、つちのえたっ)」の年に当たるためである。」「開国、そして徳川幕府の崩壊1853(嘉永6年)、日本に開国を求めるアメリカ合衆国大統領の親書を携えたペリー提督率いる艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」。この開国要求に屈した徳川幕府は、翌1854(安政1)年、「日米和親条約」を締結したが、アメリカの要求に屈した幕府に対する不満は、薩摩藩や長州藩などの西南諸藩を中心とした倒幕運動へと発展。この動きを抑えることができなかった幕府は、1867(慶応3)年、十五代将軍徳川慶喜が将軍職を朝廷に還し(「大政奉還」)、緒川幕府は崩壊した。」「戊辰戦争ー日本を二分する戦い「大政奉還」から「王政復古」の経緯に納得できない旧幕府の軍隊が京都に向け進軍、京都郊外で新政府軍と激突し(「鳥羽・伏見の戦い」)、日本を二分しての「戊辰戦争」が勃発した。緒戦は、天皇の軍隊であることを示す「錦旗(きんき)」が新政府軍に掲げられたことによる旧幕府軍将兵の戦意喪失・指揮系統の混乱などにより新政府軍の勝利に終わり、この余勢を駆って江戸に向け進軍した新政府軍は江戸城の明け渡しを実現させ、抵抗する「彰義隊」をも壊滅させた(「上野戦争」)。」「戦線の拡大、東北諸藩の壮絶な抵抗この間、徳川幕府を支持する会津藩、庄内藩などの東北諸藩は列藩同盟を組織し、徹底抗戦を唱えて江戸を「脱走」した幕府陸軍の部隊とともに、藩を挙げての総力戦により激しい抵抗を続けたが、新政府軍の分断工作による同盟内部の離反と、圧倒的な戦力の投入によって相次ぎ制圧され、同盟の中心となる仙台、米沢、会津などの雄藩の抗戦も空しく、降伏することとなった(「東北戦争」)。「最終局面ー蝦夷地での戦い一方、榎本武揚が率いる旧幕府海軍の残存艦隊は江戸湾を「脱走」して北上、仙台湾で旧幕府陸軍と東北諸藩の部隊を収容して蝦夷地を目指した。彼らは、1868 (明治1)年10月20日(新暦12月3日)、蝦夷地に上陸し、新政府の役所となっていた五稜郭を占拠。蝦夷地から新政府の勢力を駆逐し、「人札」(投票)により暫定的な役職を決定、旧幕臣による蝦夷地開拓の許可を新政府に求めたが、この嘆願は却下され、翌1869(明治2 )年4月9日(新暦5月20日)、新政府軍が蝦夷地に上陸し、箱館を目指して進撃を開始、各地で戦闘が繰り広げられた(「箱館戦争」)。「明治維新動乱の集結新政府軍の圧倒的な戦力に対して、上方歳三を始めとする歴戦の将兵が抗戦したが箱館は奪還され、港内の軍艦からの艦砲射撃に晒された五稜郭で旧幕府軍は降伏を決定、1869 (明治2 )年5月18日(新暦6月27日)、新政府軍の軍門に降った。「鳥羽・伏見の戦い」に始まる、近代日本の誕生を前にした産みの苦しみとも言える、我が国最後にして最大の内戦「戊辰戦争」は、多くの人々の犠牲によって、ここ函館と北海道南部一帯を戦場とした「箱館戦争」の終結により幕を閉じ、明治近代の新時代が本格的に動き出したのである。」「箱館大戦争之図」。「戊辰戦争の特徴1 国際関係の中の戦争フランス軍士官と旧幕府軍士官 ※画館市中央図書館戊辰戦争の経過はヨーロッパ列強諸国による極東での植民地拡大の動きの中で、各国の権益・利害も絡んで大きな関心を持って注視されていた。徳川幕府にはフランスから軍事願問団が派遣され、大政奉還の後も箱館まで従軍した。薩摩藩・長州藩の背後にはイギリスの動きも見え隠れしている。特に外国人が多数居留する開港場が戦場となる可能性の有る箱館戦争では、「局外中立」の撤廃を巡る各国問の駆け引きも存在した。「戊辰戦争の特徴2 海軍力の重要性が認識された戦争「麦叢録附図」より「四月廿九日於矢不来海陸軍戦之図」 ※画館市中央図書館海軍力の増強の必要性が旧幕府軍、新政府車ともに重要視され、籍館戦争での旧幕府海車の「開陽」の座礎・沈没に見られるように、制海権の掌握がその後の戦局を左右した。また、軍艦からの艦砲射撃による味方の陸兵に対する支援は絶大な効果を発揮した。海軍と陸軍による連携しての作戦が実施された最初の戦争であり、艦船による大量の物資・兵力の輸送も海軍の重要な機能として注目された。「戊辰戦争の特徴3 思想・イデオロギーの対立に基づく戦争「錦裂れ戊展戦争は、中世の封建諸侯間の戦争とは異なり、日本の今後の進むべき方向性に対する考え方の相違に起因する闘争であったと言える。「賊軍」とされた盛岡藩出身で後にを総理大臣となる原敬による、戊辰戦争殉難者五十年祭での「戊辰戦争は政見の異同のみ」は言葉に端的に表れている。朝廷の軍隊である「官軍」の象徴として新政府軍兵土が身に着けた「錦」の袖章は、戦場に翻る「錦の御旗」とともに新政府軍将兵の戦意高揚に大きな役割を特つ反面、幕府軍の戦意喪失を招いたことは疑いない。」ここにも「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 掲載 函館観光スポット」ここ、「五稜郭跡」は☆☆。「箱館戦争と特別史跡五稜郭跡江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことだ。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げ、日本の新しい時代が始まった。」「特別史跡五稜郭跡(五稜郭公園)箱館奉行が蝦夷地(北海道)を統治するために、役所を新築する敷地として整備した洋式の城郭であり、5つの突角をもつ星型であるところから五稜郭と呼ばれている。蘭学者武田霆三郎の設計で安政4年( 1857年)着工。元治元年( 1864年)完成。昭和27年( 1952年) 3月、国の特別史跡に指定された。」「榎本武揚天保7年~明治41年( 1836年~1908年)。江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。明治元年( 1868年)旧募府軍脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占領した。」「土方歳三天保6年~明治2年( 1835年~ 1869年)。武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、旧幕府脱走軍では陸軍奉行並となる。明治2年( 1869年) 5月1 1日箱館の一本関門(現若松町)付近で戦死。」「箱館奉行所当初、箱館奉行所は函館山山麓にあったが、]開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させた。写真は慶応年間( 1865年~ 1868年)のもの。」「はこだて観光案内」。再び「五稜郭タワー」を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.13
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「中品堂」の先の墓地への入口に進む。門柱には「浄真寺境内墓地」の文字が。右手に、正面に火灯窓・花頭窓(かとうまど)がある祠が。「開山歴代上人御廟」の案内板が右手に。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。 「本堂 石墻(せきしょう・いしがき) 建立供養塔」(左) 仏像石碑(中央)「本堂永代畳替資料」(右)。正面に「開山廟」。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寳塔」。ズームで。中央に「一者女人泰産」と台座に刻まれた石仏が。「一者女人泰産」と刻まれた石碑。安産祈願のようである。「開山珂碩大和尚」墓石。歴代上人の墓石が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」が並んでいた。こちらは、どなたの墓石か?歴代上人の墓石を正面から。無縫塔以外にも様々な形の墓石が並んでいた。墓石の前には花が供えられ。「開山歴代上人御廟」から「中品堂」の裏の墓地を望む。そして再び墓地の入口に戻る。「中品堂」の前から三堂前の紅葉を楽しむ。そして「本堂(龍護殿)」を「上品堂」前から見る。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。穏やかなお顔。「本堂(龍護殿)」正面。本堂には珂碩上人(かせきしょうにん)自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれる本堂は、元禄十一年(1698)に三仏堂とともに完成。本堂は、浄土(彼岸(ひがん))の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(えど:現世、此岸(しがん))を表しているのだと。「龍護殿」と書かれた扁額も。「大香炉」には寺紋の龍胆車(りんどうぐるま)が。扁額はもちろん「龍護殿」。「向拝」の見事な彫刻。この後、しばらくしてから「本堂(龍護殿)」内陣に。ご本尊は釈迦如来。近寄って。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。「本堂」左手。「霊瑞(れいずい)」の扁額が。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。正面右手の部屋。扁額には『松露斎』と書かれてあった。浄真寺開山の珂碩上人の号は松露で、松露と号された上人像をまつっているのであろう。欄間の彫刻も見事。天井には天女が描かれていた。欄間の彫刻にも。本堂右手の「枯山水庭園」。波間にイチョウの枯れ葉が浮かぶ光景。そして再び本堂から「上品堂」を見る。これは以前頂いた「御朱印」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.13
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そして「仁王門」を潜ると左手にあったのが「奥沢城跡」碑。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。そしてその奥に「鐘楼堂」。流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも誉れ高く、宝永五年(1708)の建立。鐘にも様々な絵が彫り込まれていた。楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名桜の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鏝は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」「本堂(龍護殿」を横から見る。境内にある東京都天然記念物に指定されている古木の大イチョウ(幹周4.4m、樹高17.9m)は既にほぼ葉を落としていた。幹の下の様子。イチョウの枯れ葉の絨毯。そしてこれは数年前に訪ねた時のイチョウ周辺の姿の写真を数枚。現在の反対側のイチョウはまだ葉を付けて頑張っていた。そして左側にある「下品堂」に向って進む。「九品仏と三仏堂珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも18歳で発願、51歳のとき完成した九體の阿弥陀如来像(九品仏)は上人○生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九體とも文化財の指定をうけ、上品(じょうぼん)堂、中品(ちゅうぼん)堂、下品(げぼん)堂の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三體ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名あり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から段々念仏によって身とロと意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九躰寺)ともにわが国における東西の九品仏像の双望である。」「下品堂」の中央の扁額は「下品上生」。浄真寺の九品仏は、九品を手の位置と印(指の形)で表します。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)。徳によるすべての階位を、その姿は様々だが、一様に浄土に導いて戴けると。ここで大事なのは、九体すべてが同じ大きさだということ。どのような階位の人でも、等しく極楽に到達することができるのだと。以前訪ねた時の「下品堂」の三仏。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指中央の人差し指を曲げた中央の「下品上生」仏。「下品上生」仏のお顔。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。(以前の写真)「下品中生」仏のお顔(以前の写真)。しかしこの日の「下品中生」仏はお色直しで留守中であった。向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。「下品下生」仏のお顔。「下品堂」から「上品堂」を見る。「上品堂」の真ん中の扁額はもちろん「上品上生」。「本堂(龍護殿)」を見る。「上品堂」を正面から。中央の扁額「上品上生」を再び。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道(ぎょうどう)する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているのでご来観ください。」坐禅をする時のように手をお腹の前で組んだ禅定印の阿弥陀如来像が三体安置されていた。中央には親指-人差し指で定印を作る「上品上生」仏。ズームでお顔を。更に。向かって右側には親指-中指で定印を作る「上品中生」仏。お顔を。向かって左側には親指-薬指で定印を作る「上品下生」仏。お顔を。そして「上品堂」と「中品堂」の間の奥にあったのが「阿育王塔(あしょかおうとう)」。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの。加藤楸邨句碑(かとうしゅうそんくひ)俳人、国文学者。俳誌「寒雷(かんらい)」を創刊・主宰。『しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(はたはた)とぶ』「はたはた」は昆虫のバッタの異称とのこと。「中品堂」手前の紅葉。「中品堂」前の紅葉。そしてイチョウの「黄葉」。「中品堂」を正面から。「三仏堂修繕元禄11年~12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財)。「中品堂」の三仏。向かって右側には親指-中指で説法印を作る「中品中生」仏。ズームで。更に。中央には親指-人差し指で説法印を作る「中品上生」仏。ズームで。「中品下生」仏。ズームで。「中品堂」前から境内のイチョウの樹を見上げる。「中品堂」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.12
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国道278号を進み、函館市志海苔(しのり)町を流れる志海苔川の手前を右折して「志海苔ふれあいひがし広場」の駐車場に到着する。駐車場の横は、「函館空港」の滑走路であった。折しも、全日空の飛行機が離陸して行った。「空港緑地志海苔ふれあい広場 中央広場案内図」。しかし、この駐車場は目的の「志苔館(しのりたて)跡」の駐車場ではないことに気が付き車で来た道を戻り進んだが、駐車場が見つからないので、道路脇の空きスペースに駐車し散策を開始する。右手奥の志苔館跡入口にあったのが和人・アイヌ慰霊碑。「和人殉難慰霊碑」と「阿伊努(アイヌ)悵魂慰霊碑」の2基の慰霊碑。戦った相手同士の慰霊碑が同一座にあるということは珍しいのではと。ラグビーの「ノーサイド」に似て。「志苔館 和人殉難御霊 阿伊努悵魂御霊 慰霊碑由緒下北半島、津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達、道南に館を築きてありしが、康正ニ年(一四五六)志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり 翌長禄元年館は攻め落とされ その後再び永正九年(一五一ニ)戦いあり 館は陥落し廃館となった。ここに コシャマインの戦いにおいて亡くなりし館主和人御霊 阿伊努御霊 双方を同一座にお祭りしたものであります。祭神 小林良景命 小林良定命 他和人殉難御霊 阿伊努悵魂御霊例大祭 七月ニ十ニ日」「御祭神志苔館(しのりたて) 小林重弘命(こばやししげひろみこと) 小林良景命(こばやしよしかげみこと) 小林良定命(こばやしよしさだみこと)和人殉難御霊・阿供努帳魂御合祀後の御祭神戸井館 岡部季澄命(おかべすえすみみこと)国分館 江口顕輝命(えぐちあきてるみこと)花沢館 蠣崎季繁命(かきざきすえしげみこと)比石館 厚谷重政命(あつやしげまさみこと)大 館 相原政胤命(あいばらまさたねみこと)原口館 岡部季澄命(おかべすえすみみこと)禰保田館 近藤季常命(こんどうすえつねみこと)覃部館 今泉季友命(いまいずみすえともみこと)穏内館 蒋上季直命(こもつちすえなおみこと)脇本館 南條季継命(なんじょうすえつぐみこと)中野館 佐藤季則命(さとうすえのりみこと)茂別館 安藤家政命(あんどういえまさみこと)与倉前館 弥衛門川館 小林政景命(こばやしまさかげみこと)」御祭神となっている館主のいた「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」👈リンク 配置図。「道南十二館」は、蝦夷地(後の渡島国、現北海道)渡島半島にあった和人領主層の館の総称。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。「道南十二館」配置図をウィキペディアより。「史跡 志苔館跡」碑と「史跡 志苔館跡」案内板。「史跡 志苔館跡」碑。「史跡志苔館跡」案内板。「史跡志苔館跡 昭和九年八月九日 史跡指定 昭和五十ニ年四月ニ十七日 史跡追加指定志苔館跡は、函館市の中心部から約九キロメートル離れた標高ニ十五メートル程の海岸段丘南端部に位置している。西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さニ~四メートル、幅十~十五メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。郭内は、東西七十~八十メートル、南北五十~六十五メートルで、約四千百平方メートルの広さがある。また、館跡の正面にあたる西側には、ニ重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。松前藩の史書『新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には十ニの和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。この記述によれば、康正ニ年(一四五六)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年五月十四日志苔館が攻め落とされたといわれている。戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正九年(一五一ニ)四月十六日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。」「史跡志苔館跡の保存について志苔館が廃館になった十六世紀中期以降、館跡がどのように使用されていたかは不明ですが、明治時代にはかなり荒廃が進んでいたようです。このため、地元の人達の手により保存の努力がなされ、そのことは郭内に残されている記念碑からもうかがい知ることができます。大正時代には、北海道庁による調査が行われ、保存状態が良好なことから、昭和九年に史跡に指定され、昭和五十ニ年には指定地周辺部も追加指定を受けています。函館市では、史跡の保存と活用を図るため、国・道の補助を受けて、昭和五十一年度から「史跡志苔館跡土地買上事業」を実施して指定地の公有化を進めるとともに、昭和五十八年度から六十ニ年度にかけて、「史跡志苔館跡環境整備事業」を実施しました。この環境整備事業により、郭内外の遺構確認発掘調査を実施し、志苔館が構築された当時の様子を明らかにするとともに、調査結果に基づいて遺構の復原・整備を実施しました。また、あすまや等の施設を設置し、この館跡を歴史学習の場や市民の憩いの場として広く利用していただくよう整備してまいりました。この館跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。一、土塁等に登らないこと一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと一、火気を使用しないこと一、ゴミは捨てないで持ちかえること 函館市教育委員会」「案内図」。土塁に囲まれた内部に、左から東西に長い掘っ立て柱の「建物跡」、中央にも南北に長い掘っ立て柱「建物跡」、そしてその右には用途不明の策に囲まれた建物、北側の隅には井戸跡も。函館市の中心部から約9km離れた高さ25mほどの津軽海峡に面した海岸段丘の南端部に築かれていることが解る写真。 【https://twitter.com/yuki_oha/status/1238385952189378561】より「郭外遺構郭外には、主に外敵からの防御を目的とした壕、土塁、門、柵、のほか、橋、土橋等が配されている。壕は、土塁外側の四方に巡らされている。館の開口部に当たる西側には、重の壕が掘られ、北、東、南側は自然の沢を利用して壕としている。発掘調査の結果、館を構築した当時は、西側に外柵を設け、その中央の門を通過し、薬研(やげん)の二重壕に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して郭内に入る構造であったことがわかった。その後、郭外は郭内とともに造り替えられていった。外柵は埋められて土塁が築かれ、郭内側の壕も薬研から箱薬研へ、また橋も土橋へと移行した。ここには、館の構築当時の姿を、できるだけ復原するとともに、その後に構築された土塁、土橋等も保護・保存し、館の変遷がわかるようにしている。」「開口部の変遷」南側の堀。青函海峡の先には津軽半島も見えた。北側の堀。土塁を超えて内部への入口を内部から振り返る。東の方向を見る。草の背丈が高くなり、杭の配置が判りにくくなっていた。「郭内遺構&出土遺物」案内板。「郭内遺構郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、相、堀、井戸などの遺構が発見されている。建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大きく三つの時代に分類することがてきる。建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m )のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m )のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした柵と塀の跡が発見されている。当初は柵が設置され、後に塀へ変わって行ったものと考えられる。これらの変遷を想定すると、右図0ようになる。」「出土遺物発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。陶磁器類は.船載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして76点出土している。船載陶磁器は青磁、白磯、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等かある。金属製品は、古銭22点、銅製品18点、鉄製品279点が出土している。石製品は.硯・砥石が8点、木製品は、井戸枠、著、曲物、桶の一部等が出土している。」北東方向にある「建物跡」方向を見る。「遺構遺跡発掘調査により、さまざまな遺構が検出されたが、調査終了後、埋め戻し、保存をしている。ここには、志苔館が築かれた初期の頃と推定される14世紀末から1 5世紀初頭(南北朝時代から室町時代初期)の門、建物、柵、井戸の遺構を表示している。人り口部分には、門とともに郭内を防御するかたちて冊が設けられている.西側から中央部分にかけては、長軸約20m、短軸約11mの掘立柱建物(桁行7間、梁間5間で四面に庇を持つ。柱間寸法は7尺以上)が2棟並び、周囲には柵が設置されている。東側には柵で囲まれた建物、それに用途は不明だが建物のものと思われる柱が配列している。北側の隅には、井戸がある。」用途不明の「建物跡」とその先に「井戸跡」。「建物跡」碑。「井戸跡発掘調査により地表下約4mのところから木製の井戸枠が発見されている(郭内に存在した雎一の井戸である。この本製の井戸枠は、四隅に置いた柱を桟でつなぎ柱と柱の間に縦板をならべた「方形隅柱横桟式」と呼ばれるものである。この井戸は、形式的に見て、また本州の発見例と比較して、おおよそ室明時代頃に造られたものと考えられる。井戸の中からは、箸、曲物、桶の一部、銅銭等が発見されている。ここには、発見された井戸枠と同し構造ものを地表に復原し表示している。」復元された「井戸枠」。北側から中央の「建物跡」を見る。下記のごとく刻まれていると、ネットから。「千秋不●志苔館墟碑志苔之館●●荒廃久埃初爲陸軍用地後轉皈于民有宇賀同窓會憂其遺跡之●滅●方●●●●其●●●●●●保存焉頃議●●將●碑表之●會長中宮亀吉氏●我●事一●長●●●次郎氏表田志苔●者●起●●●●●禄老年小秋●●●●●夷酋●奢●之●●戰不●死子良定亦俄遭夷虜虜猛襲錐防戰厄力●●不敵遂屠両死館●●●●實永章正二年之春●小松●台臣事松前●子孫相承十有八●●●●●維新●嗚呼古英雄之遺跡 ●●于寒畑荒草之中不●●志●●●●舎戦適會●本道開拓軍十●●興乃欲●●警蹟村石以傳于●●●文之余田善哉會●表章之擧荳●●●其時者哉●悪可●●乃摩●享併記當●●●●一首代銘 宇●●●● 志苔●館 ● 阿登斗遍婆 ●●●●氏 雨●●栄利 大正●年●月●● 函館支廰長 北●道廰支廰長從二位勲四等河毛三郎撰書正二位●●●」「留目政治先生頌徳碑」。志苔館は明治時代に入ると個人所有になっていたらしく、宇賀小学校の校長だった留目政治を中心とした保存活動が行われ、同窓会に寄贈されたようです。保存状態の良さが、昭和9年の史跡指定へと繋がったのだと。「名存久地 留目政治先生頌徳碑先生南部大向村人也執教鞭於宇賀校舎有五年諄々不倦夙肇同窓會指導青年 而専盡瘁智德向上興習俗改善又克繹史蹟勗之保存焉爾來會運月進教化歳顯師恩寔大也浴薫陶者 景慕轉難止万勒事績報鴻恩以傳是後人矣 大正八年九月 宇賀同窓會」そして西側の「建物跡」。土塁の合間の通路の先に「函館山」が見えた。ズームで。「西門跡」に向かって下っていくと、堀に架かる木橋が。「門跡」碑。そして右手奥に東屋を発見。続100名城のスタンプは、志苔館内にあるここ東屋に置かれていた。スタンプ置場。スタンプを無事に頂きました。志苔館跡から車で10分ほど北へ行くと「トラピスチヌ修道院」がある。フランスから派遣された8名の修道女によって明治31年に創設された我が国最初の女子修道院なのであったが、この「トラピスチヌ修道院」👈リンク 以前に訪ねたこともあり、「五稜郭」を優先しスルーしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.12
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「閻魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。「総門」を振り返る。様々な色合いのモミジ葉に囲まれて。「総門」を様々な角度から。輝く緑葉も追う。そして「六地蔵」への小径の角の地蔵像群。正面から。そして「六地蔵」への小径を。小径の両脇にも地蔵様が。「六地蔵」への径は紅葉のトンネル。そして奥には六地蔵が並んでいた。六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様たち。「六地蔵」から引き返す。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」。「三界万霊塔」とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。ズームして。参道は、丁字になっており、正面に「2014年~ 2034年 浄真寺「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進九品佛像(上品上生仏より下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。ー躯ずっ修理所に搬出し、一躯当たり一年半からニ年の修繕となります。この稀代の「平成九品佛大修繕事業」広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。浄財を喜捨された方の芳名は、結縁高名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安されます。何卒この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。詳しくは、寺務所、龍護殿にございます勧進趣意書をご覧項ければ幸甚てす。浄真寺」 と「未来に残す『貴方の化佛』2881軀の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」「三界万霊塔」を裏側から。右には「東門」が建っていた。東横線自由が丘駅から来るとこちらの門をくぐることになる。左側の「仁王門」を見る。「東門」に向かって進むと、左側の駐車場入口の紅葉。「東門」を出て正面から。「九品佛浄真寺東門」。扁額には何と書かれているのであろうか?『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』意味は『 お釈迦様が説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』そして「仁王門」方向に引き返す。左手に石塔が。手前に「禁銃猟 警視廳」碑とその先に十三重石塔。「総門」方向の絶景。真紅の紅葉を見上げる。「愛心講 講元 鳥海はま先生頌徳碑」。後ろに「閻魔堂」が見えた。銀杏の「黄葉」の先には「下弦の月」が見えた。「仁王門」手前には大きな銀杏の老木が。再び左手に石塔。右手に開山堂への中門が。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂硯上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む。九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る。師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり。堂宇荘嚴志有って遂げず。老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす。汝宜しく修立せよ。「中門」「珂硯上人 安産厄除開運」(右)と「九品山事務所」(右)正面に「開山堂」。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」屋根上の黄金の「宝珠宝珠とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?開山堂の前にある「手水舎」と「手水鉢」。「手水鉢」には寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が刻まれていた。鷺草(さぎそう)がモチーフに。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだと。そして銀杏の「黄葉」の先に巨大な「仁王門」。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。上層は見ていないが、中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているとのこと。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年( 1793 )の建立である。一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「紫雲桜(仁王門)桜上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この桜門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」「仁王門」横の庚申塔群。「仁王像・阿形像」。斜めから。お顔を。「仁王像・吽形像」。斜めから。お顔を。「仁王門」を斜めから。桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺。近づいて。正面から「仁王門」を見上げて。扁額は「紫雲樓」。見事な仁王門正面の竜虎の彫り物は金網に守られて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.11
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国道278号を更に進むと、前方に「日浦岬」の姿が見えて来た。そしてズーム写真には「日浦岬灯台」が映っていたのであった。日浦トンネルの手前を左折した突き当りが「日浦岬」。岬に向かって進んでいくと、階段があった。そこを進むと、灯台に向かう道になっていた。先に進みたかったが、橋には立ち入り禁止のチェーンが張られていたので諦めたのであった。階段を上がっていくと見えるのがこの「日浦岬灯台」であったが・・・。 【https://twitter.com/AeugMsz006/status/1007103376373440512/photo/1】よりそして「日浦岬灯台」。塗色構造:白塔形灯 質:群明暗白赤光 明6秒暗2秒明2秒暗2秒 (赤光は分弧) Oc(2) W R 12s光達距離:13.0海里塔 高:9.5メートル灯 高:23メートル初 点 灯:昭和26年3月 【http://ryujinkai84.blog.fc2.com/blog-entry-447.html】より「一男死亡の地」碑。一男さんがこの地で不慮の死を遂げたのであろうか?柱状節理の岩場には青い海水が入り込み白波に。そして振り返ると「恵山」の姿と、地熱発電調査の水蒸気がこの時も。ズームして。「日浦漁港」には小さな漁船が。日浦はイカ類がよく釣れることで知られているのでイカ釣り船であろう。海の安全祈願の地蔵様か?これから向かって行く戸井漁港の先に浮かぶ「武井(むい)ノ島」が見えた。右の島には鳥居があり「弁財天」が祀られていると。江戸時代 漂流船がこのあたりに漂着し 乗っていた人が全員無事という「伝説」👈リンク もあるという。このため 「神の島」とも呼ばれるらしい。日浦トンネルが出来る前は、ここに道が出来ていたのであろうか?自然の状態の柱状節理を目の前で見ることが出来たのであった。両側が崖になっており、それがどちらも柱状節理、まさに圧巻。「柱状節理」は主に火成岩に見られる現象で,露頭に見られる規則性のある割れ目をいう。 火成岩に節理ができるのは、熱いマグマが約700~1000℃で固まって岩石になり、その後、常温に冷える過程で体積がわずかに収縮するためであると。角柱の断面は六角形のことが多いが、必ずしもそうではなく、四角形、五角形、七角形、八角形のものもあると。一般的には、時間をかけて冷えるほど太くなるのだと。崖下には、崩れた柱状節理がごろごろしていた。ということは、こんなのが崩れてくる危険は常にあるということ、我々もむやみに両側の崖に近寄らないで中央を歩いたのであった。「日浦岬」を後にして、更に国道278号を進むと、「武井ノ島」の姿もじわじわと変化して行った。そして旅友Sさんの希望で、国道から斜め右に分岐して狭い坂を上る。「戸井町立鎌歌(かまうた)小学校」と書かれた門柱があった。旅友Sさんの話によると、俳優・火野正平さんが相棒・チャリオ(自転車)に乗って日本全国を巡るNHK「日本縦断 こころ旅」。935日目の10月2日の放送はこの先の函館市戸井町からであったと。横浜在住の版画家・佐々木孝さんの手紙を元に「こころの風景」と題して旅したのだと。佐々木さんの思い出は函館市の「鎌歌」。故郷を思う佐々木さんは、その地名が忘れ去られてしまう前に、廃校になった母校の小学校跡や鎌のように曲がった入江がある海の風景を訪ねてほしいと火野正平さんへ依頼をしたのだと。撮影の日はあいにくの悪天候で、火野正平さんは悪戦苦闘したが、たどり着いた元小学校の門には今も「鎌歌」の文字があったと。「鎌歌小学校」跡地にあった建物。そして国道278号に戻る坂の途中から「日浦岬」方面を見る。前方に見えたのが「戸井トンネル」。「武井の島展望台」👈リンク 下の岩場。道路の脇には海鳥が日向ぼっこ中。嘴、脚の色から「セグロカモメ」であろうか。そして戸井町内を通過し更に進み亀田半島の最南端にある「汐首岬」近くを通過。国道278号の別称「恵山内浦ライン 戸井町」と書かれた支柱を車窓から。その先にあったのが「北海道~本州 最短の地 17.5km」案内板。その先には下北半島の姿が見えた。車を駐めたかったが駐車場がなくカーブもあり諦めたのであった。北海道~本州 最短 17.5km。一方現在青函トンネルが通っている近くにある北海道最南端の松前町白神岬 と津軽半島の竜飛崎までは19.2kmあるのだと。かつて青函トンネルルートの候補としてあがっていたようですが、深さと海流といった問題があったため断念し、現在の青函トンネルが出来上がったのだと。更に進むと右手にあったのが「旧戸井線コンクリートアーチ橋」。 民家前の空き地に車を駐める北海道函館市汐首町。「はこだて施設ご案内」。ズームで。「戸井線」は昭和11年に着工を開始し、昭和18年に中断された未完成の鉄道路線。日中戦争時代、戸井町に軍事要塞を作る際に資材運搬また兵員輸送を目的として、五稜郭から戸井町までの29.2kmを結ぶ線路として建設されていたものであったと。1937(昭和12)年、北海道建設事務所の所管で五稜郭側から工事着手、1942(昭和17)年に瀬田来まで路盤工事は完成し、湯の川まではレールも敷設されたが、資材不足により中止。 1944(昭和19)年「鉄道敷設法」戦時特例が公布、この特例では戦力増強など緊急に鉄道が必要な場合は敷設が認められたが、実際に行われたものはなく、戸井線の工事も再開することはなかったのだと。 【http://www.hk-curators.jp/archives/684】より戦時中だったこともあり、資源節約の為に鉄筋を使用せずコンクリートで出来ていると。しかし、その後太平洋戦争が勃発し資源不足に陥り工事は中断された。その後も工事は再開されることなく、未完成のまま現在に至っているのだと。工事中断以降、補修されることもなく長年放置されているという現状もあり老朽化が進んでいるのだとか。元は軍事物資輸送用で1937年に着工。五稜郭~戸井駅までの29.2kmを結ぶ予定だったが、大東亜戦争の戦況悪化による資材不足で、戸井までの約2.8kmを残して建設が中断したのだと。歴史を感じたのであった。しかし80年以上前の技術で作って海岸沿いの塩害もある中で、メンテナンスしていないのに この状態は凄い!!と感じたのであった。道路を渡り、空き地から振り返ると、「汐首岬灯台」の上部が僅かに顔を出していたのでズームで。旧戸井町 マンホール蓋。イメージキャラクター・トーパスちゃんはタコで、シュノーケルをし、手(足)には指がある。トーパスちゃんを中心に海の仲間たちが多数(ヒラメのような魚、イカ、ウニ、カニ、コンブのような海藻など。魚と海藻以外は擬人化した顔が描かれている)。上下に扇面型の文字枠があって上部には「戸井町」、下部には「おすい」の文字が入っていた。そして国道278号を進んでいくと、左手前方はるかに「函館山」の姿が見えて来たので車を駐める。ズームで。更に。函館山山頂の鉄塔の姿もズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.11
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この日は12月8日(火)、仕事の応援で五反田に打ち合わせに行く途中に、晩秋の紅葉を愛でに、東京・世田谷区奥沢にある浄真寺(じょうしんじ)を訪ねました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。最寄り駅は東急大井町線・九品仏駅。小田急線、田園都市線、東急大井町線を利用して九品仏駅に。自宅を出て1時間15分ほどで九品仏駅に到着。駅北側の踏切を渡り、九品仏駅を振り返る。駅北側の踏切を渡ると、参道の入口へは徒歩1分強で着く駅に隣接した寺。「浄真寺参道」と刻まれた石碑。「九品佛参道界隈」案内。「浄真寺」境内案内地図。「浄真寺」のHPより。 【https://kuhombutsu.jp/guide/map/】より案内図にあった「総門」の切絵図。絵の左下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館。「浄真寺参道」標石の右奥は九品仏交番。参道を進む。時間は7:45、参道に朝の陽光が差し込む。「禁銃猟 警視廳」と刻まれた石碑が右側に。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていた。「2014年~2034年 浄真寺 「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」案内板。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄真寺は、上品上生仏より下品下生仏の九品阿弥陀佛が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。以下略」前方に総門が見えて来た。約200mの長さで参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先に「参道の石碑群」参道の左側には庚申塔や地蔵様が並んでいた。。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。「参道の石碑群」を振り返る。そして「浄真寺 総門」前に到着。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。「掲示板」「佛日増輝 法輪常転仏の光明が輝きを増し仏の教えである法輪が永遠に転じて衆生を救済する」コロナ禍の影響で、今年の大晦日は除夜の鐘はあるが、閉門すると。初詣客の三密を回避する為なのであろう。「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。「総門」。「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧,仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「扁額 般舟場(はんじゅじょう) 説明当山二世珂憶(かおく)上人の高弟珂慶(かけい)上人の御筆で流麗雄渾(りゅうれいゆうこん)な筆致である。般舟とは般舟三昧の事でつねに行道念仏して現前に諸仏を見奉るを言う。般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重んぜられている。当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり参ずる人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。」「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2 ( 3万6十坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年( 1678 )に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺きを銅板葺に改修した。」総門の柱の場所に厚い板に書かれている「九品佛浄真寺總門」。書体は新篆書体か?「浄真寺」石碑。そして「総門」から境内に入ると左手に新たにあったのが「閻魔堂」。境内は朝の陽光と紅葉でオレンジ色の世界が拡がっていた。到着直後は扉が閉じられていたが、その後はいつの間にか扉が開いていた。2019年8月に落慶した新「閻魔堂」。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔大王」。お顔をズームで。斜めから。左手に「奪衣婆(だつえば)三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。「奪衣婆(だつえばぁ)」、「葬頭河婆(そうずかばぁ)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゆ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓るのであろうか?極楽浄土、大叫喚地獄絵。朝の陽光で画面が光ってしまって。極楽浄土、等活地獄絵。そして「閻魔堂」前の「三途の川」。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」「三瀬川(みつせかわ)」、「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになるそうです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだと。「三途の川」に架かる石橋と「閻魔堂」を振り返る。 ・・・つづく・・・
2020.12.10
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「恵山」の「火口駐車場」に向けて、海岸に沿った道道635号線・元村恵山線を進む。前方に白煙を吹き出す「恵山」の勇姿を楽しみながら進む。そして道道635号線・元村恵山線を左折し、「恵山」の「火口駐車場」に向かって「恵山登山道路(市道柏野2号線)」を進んで行くと前方の山の斜面から大量の水蒸気が吹き出していた。火山活動の水蒸気が山頂付近ではなく、裾野にまで降りて来ていることに、この時は驚いたのであった。「恵山登山道路(市道柏野2号線)」を水蒸気の方向に向かって進む。クネクネと曲がった坂道を登って行くと、水蒸気の発生場所を眼下に確認できる場所があったのでその近くの道路脇に車を駐めて見下ろす。その場所には、作業着、ヘルメットをつけた男性がいたので訪ねると、地熱開発を計画する 3 社共同事業者による地熱資源の資源量調査を実施しているのだと。この日は初めての水蒸気放出であるとのこと。発電に必要となる蒸気の量や特性を確認するための噴気試験を実施しているのだと。地熱資源量を把握するための井戸をΦ250mm径で2000mまで掘削したのだと。この試験が順調に完了し、発電に必要な蒸気量が十分確認出来れば、資源開発の段階を終え、いよいよ地熱発電所の建設に向けた関係者との協議に移るのだと。水蒸気と共に同伴して来る湯水を貯留する大型タンク3基が満杯になるまで、水蒸気を放出し、騒音、水蒸気の流れ等の環境アセスメント(環境影響評価)も同時に行っているとのこと。道路脇の近くには「九番」と刻まれた石仏があった。そして「恵山(えさん)」👈動画リンク 火口駐車場に到着。「恵山」という名前の由来は、アイヌ語の「イエサンヌプリ」(火を噴き溶岩が流れ出る山)という説、同じくアイヌ語で「エ」(頭)と「サン」(前に出る)で、つまり岬を意味するという説など、いろいろな説があるが、他の北海道の多くの地名がそうであるように、アイヌ語が由来となっているのは間違いないと。そして車を降り、散策開始。駐車場の前の山の紅葉も始まっていた。とりあえず散策路を進む。火口原駐車場で車を降りると、視線の先には白い噴気の立ち上る露出した山肌が。まさに「山が生きている」ことを感じさせる姿に息をのんだのであった。駐車場から山頂までは3キロ弱とのこと、所要時間は約1時間であると。いろいろな場所から白き噴煙が。地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラを設置し24時間体制の観測が行われているのだと。火口の白き山肌と紅葉とのコラボ。白き噴煙をズームで。隣の海向山(569m)方面の紅葉も始まっていた。低標高にもかかわらず、多様な高山植物が見られる恵山、特に南東側斜面に多く見られるツツジ類。5月下旬から6月上旬になると、約60万本のエゾヤマツツジやサラサドウダンツツジやムラサキヤシオ等の開花で山肌が真っ赤に染まります。この時期には「恵山つつじまつり」が開催されるのだが今年は???。「薬師堂」。堂内には石仏が安置されていた。土砂の流れ止めが拡がっていた。水の流れている場所が賽ノ河原。熱水の湧き出す場所も。この付近はエゾシカなどの「ヌタ場」になっていると。「ヌタ場」(沼田場、ぬた場、ぬたば、英語: wallow、ドイツ語: Suhle)とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びる場所のこと。 沼、湖や川の畔、休耕田など。 ノタ場とも。449mピーク南尾根上部付近を見上げる。正面が恵山山頂・標高618m。恵山道立自然公園にあり、新日本百名山、北海道百名山、北海道の百名山にも選ばれている。「火口原駐車場」から「恵山」山頂コース(権現堂コース)は,片道約70分ほどと。(標高差約310m)恵山溶岩ドーム西側の爆裂火口を見る。噴煙をカメラで追う。札幌管区気象台・地域火山監視・警報センターからは「火山活動は静穏に経過しており、噴火の兆候は認められません。 噴火予報(噴火警戒レベル1、活火山であることに留意)」の予報事項に変更はないと。恵山の活動は、約4.5 ~ 5万年前頃に始まり、その後は約5千年~ 1.5万年ごとに新たな位置に溶岩ドームを形成する活動を5回繰り返してきた。恵山における最近1万年問の火山活動は、約8000年前の噴火で大規模な火砕流が発生して山麓に台地が作られるとともに、恵山瀋岩ドームが形成された。その後、約5000年前、約3000年前、約2500年前、約600年前にも噴火が起こり、約3000年前の噴火以外では火砕流や火砕サージが発生した。また、約2500年前の噴火では恵山溶岩ドームの山体崩壊により岩屑なだれが発生し、現在の爆裂火口が形成された。有史以降では、1846年と1874年に水蒸気噴火が起こっている。このうち1846年噴火では発生した火山泥流により多数の死者が出たが、これら2回の噴火活動に関する詳細な記録は残っておらず、地球物理学的観測データもないため、どのような時問的推移を辿ったのか不明な点が多い。最近1万年以降の火山活動履歴(厩要)を表1ー2にまとめる。 【https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014022500217/files/esanhinankeikaku_soan_1bukai.pdf】より2003(平成 15)年に火山噴火予知連絡会が、「概ね過去1万年以内に噴火した火山および現在活発な噴気活動のある火山」を「活火山」と定義し直した。現在我が国には 110 の活火山があるとのこと。モウモウと噴煙が出ていて、硫黄の臭いも。これ以上は「危険」と。ここからは引き返すことに。別のルートから山頂まで行き、絶景を見たかったが、時間的にシンドそうなので諦め、展望はこの後に「海峡展望台」に立ち寄ったのであった。こんない噴煙の場所の近くまで来たのは初めてか。数々の噴火口から溶融硫黄が噴出していた。「爆裂火口」👈動画リンク をズームで。もうもうと勢いよく。「南無阿弥陀仏の碑」。「24番石仏」。「石仏」古くから信仰の対象となってきた歴史を持つ恵山は、津軽海峡の向こう側、下北半島の恐山と並ぶ霊場と呼ばれているのだと。噴煙が直線状に並ぶ。これは?「恵山山頂へ」案内。海向山コース、恵山展望台コース、岬眺望コース、権現堂登山コースがあるとのこと。右下に「砂防ダム」。石仏群。そして下方に「火口原駐車場」への道が。「権現堂(恵山山頂)コース入口」案内板。駐車場の車に戻り「海峡展望台」に立ち寄る。地熱発電調査の水蒸気がこの時も上がっていた。水蒸気の流れから、風向きは変化していないようであった。ここにも関係者が騒音計をSETして騒音測定中であったが、後から来た老夫婦のオバチャンが大声で話をしていたのであったが・・・・。「海峡展望台」案内図。「海峡展望台」は函館市の東部、標高618mの恵山にある展望地。恵山温泉旅館の横にある恵山登山道を登りきったS字カーブの一番上、恵山の中腹の標高約350m地点に位置すると。津軽海峡が一望できるので、その名前がつけられたのであろう。津軽海峡だけでなく、晴れていれば下北半島・津軽半島も望める景勝地。左から青森県むつ市にある「釜臥山」、「北国山」、「障子山」をズームで望む。「釜臥山」(かまふせやま、かまぶせやま)は、下北半島中央部に位置する恐山山地の最高峰であり標高は878.2m、「北国山」844m、「障子山」863m。これは、ピンボケであったが「朝比奈岳(標高874m)」。「日浦岬」方面を望む。手間に「大澗(おおま)漁港」、その先に「武井ノ島」が見えた。正面に青森市方面を望む。光る津軽海峡。下北半島の「尻屋岬」方面であったが。そして山を下り、道道635号線に戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.10
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「恵山岬灯台」への道・道道635号線を進み、「恵山」のよく見える場所で路肩に車を止める。道端のノアザミの花にはミツバチや蝶の姿が。蝶は黒とオレンジ色の模様から「ヒメアカタテハ」であろうか。そして「恵山」の東側の白き火口を見る。ズームで。恵山も硫黄を吹き出していて、白く見えるのであろう。荒々しい活火山の山肌の下には静かな海が。右手に「ホテル恵風(けいぷ)」入口、左手に「恵山岬 灯台公園」が見えたが、そのまま進む。まずは「水無海浜温泉」へ一方通行の道を進む。「露天風呂」案内が左手に。そして水無海浜温泉駐車場に車を駐め徒歩で進むと、「恵山岬灯台」下の岩場が見えた。「水無海浜温泉」が眼下に見えて来た。「道の駅しかべ間歇泉公園」で見かけた3人連れが既に温泉の横に到着していた。緩やかな坂の階段を下って行く。正面には比較的新しい「更衣室」が。「ようこそ水無海浜温泉へ」と書かれた看板が現れた。この温泉の紹介や、入浴マナー、ここにまつわるエピソードや伝説、そして泉質が書かれていた。【幻の温泉】 水無海浜温泉は、活火山恵山(六一八m)の裾野に広がる恵山岬の入り江から湧き出す、 全国でも非常に珍しい渚の温泉です。 お湯に浸かり太平洋を望むと、水平線や目の前で砕け散る白波、湯船の周りに戯れている 磯ガニが疲れをいやし、普段の生活では体験できない『開放的空間』の世界に導いてくれる 野趣満点の海浜露天風呂として、地元住民を中心に利用されています。 湯加減は自然任せであるため、潮の満ち引きによって調整されますが、満潮時には海中に没し てしまい、干潮時には現れるものの残ったお鴻だけでは熱すぎて入れなくなったりするので 入浴時間が限られる「幻の温泉」と呼ばれています。【産まれたままが最高】 太平洋を望み「産まれたままの姿で入浴寸る気分は最高」、海を独り占めした贅沢さと入浴 された方だけにしか解からない不思議な爽快感か心に残ります。 テレ屋さんは、水着でもOK。【エピソード】 海浜露天風呂は満潮時には海の中に没してしまうことから、時々、イワシの大群やタコなどが 迷い込み、干潮になるに従って湯船に取り残されることがあります。【むかしむかしの伝説】 鎌倉時代、日蓮宗の開祖日蓮大聖人のお弟子で六老僧の一人、日持聖人(一二五〇年~?)と いう偉いお坊さんがおりました。伝説では、日持聖人は今から約七百年前、海外布教を志し 奥州から北海道に渡り、海岸づたいに椴法華に入り、水無海岸に涌き出ている不思議な湯で 旅の疲れをいやしたと言われています。しばらく滞在した後、この地(水無海岸)より 永仁七年(一二九九年)唐(中国)に渡ったことから「唐渡法華」といわれるふうになったと 言い伝えがあります。【泉質と効能】 泉質…ナトリウム塩化物・硫酸塩泉(低張性中性高温泉) 泉温…約50℃ 効能…神経痛・関節痛、五十肩・運動麻痺・痔症・慢性皮膚病・動脈硬化症等 注意 高波、悪天候時はたいへん危険ですので入浴しないようにして下さい。 又、足下が大変スベリやすくなっておりますので十分注意願います。 函館市」男女別の「更衣室」入口。女性用の更衣室のドアは開放されており、女性の温泉利用者はいない模様。手前の大きな石で囲まれた場所が「水無海浜温泉」。潮の干満によって使い分ける、三つの湯船があるようだ。源泉は湯船の下、足元湧出であるとのこと。海水で交じり合って適温となるため、コンクリートと岩で作られた高さが異なる浴槽が用意され、潮位や好みにより使い分けるのだと。もちろん混浴であるが、この時は若い男性観光客が一人だけ足湯を楽しんでいた。実は、この「光景」👈リンク が見たかったのであったが・・・・冬になると水蒸気がもうもうと上がるのであろうか?湯に手を入れてみたが、あまり熱くはなかった。それにしても、海底から湧き出る源泉と海水が混ざり合って潮汐の限られた時間のみ入浴を楽しめる、まさに自然からの贈り物なのであった。「恵山岬灯台」上部も見えた。近くの岩場には白き波が押し寄せて来ていた。これから満潮に向かうようであった。この岩場には何かあったのだろう。それとも磯遊び用の休憩場所なのであろうか?「水無海浜温泉ご案内」満潮時は水没してしまい海と化してしまうため、1日の中で入浴できるのは数時間程度。ちょうどここにたどり着いた時間は入浴可能時間と、なんとも偶然ではあったのだ。「水無」の村名の由来は「水利の便がなく平地のみを耕作していたことに因んだ。」「その昔、村に周囲一丈もある古木の梨の木があり、甘く水分の多い実をつけるので村人が「水梨」と呼んでいたのが村名になり、それがいつしか「水無」という漢字が使われるようになった。」 ・・・・等々有力説はありますが、未だ定かではないのだと。そして、駐車場に戻り一方通行の坂道を利用して「恵山岬灯台公園」方面に向かう。「恵山岬灯台公園」内には小さな子供が喜びそうな水の広場があったが、コロナ禍の影響で水無し。再び「恵山」の荒々しい白き姿をズームで。そして「恵山岬灯台」の近くまで行く。岬周辺の海は、昔から荒れやすい難所であり、特に夏場は、二つの海流がぶつかり合い、船の航行が危険になるほどの霧が発生することがあります。そのため、恵山岬沖の航海を見守る施設として、1890(明治23)年に恵山岬灯台が作られた。初代の灯台は、六角形のやぐらの形をした鉄製の白い灯台でした。光源にはレンズの裏側で石油が燃やされていて、光の届く距離はおおよそ17浬(かいり)、約31.5キロ。1908(明治41)年には霧信号所がつくられ、恵山岬灯台は音の灯台としての役割も果たすようになった。その後、1920(大正8)年には、より明るい光を放つ電球が使われるようになり、現在も船舶の安全航海を見守っているのだと。廻り込んで。高さは18.85 mm。展望台があったが、コロナ禍以前の2016年から無期限休館中である模様。更に。灯火標高は44.00 m (平均海面 ~ 灯火)であると。「水無海浜温泉」の先の光景を「恵山岬灯台公園」から。「恵山岬」碑と「恵山岬灯台」。裏から。椴法華村長の名が。灯台まわりの遊歩道には全国や海外の灯台が描かれたレリーフが埋め込まれていたのであった。「大王崎(三重県)」途中から複数あることに気がつき撮影開始。龍飛崎(青森県)、白神岬(北海道)、松前大島(北海道)、襟裳岬(北海道)。行っていないのは松前大島灯台、白神岬は前日に訪ねたのであった。納沙布岬(北海道)、地球岬(北海道)、神威岬(北海道)、日和山(北海道)。こちらの灯台は全て制覇済み。そして最後の残り一枚は「宗谷岬(北海道)」。もちろん、「日本の本土における最北端の地であり、私人(一般人)が通常訪れることのできる最北端の地になっている場所。宗谷岬から事実上ロシア連邦の樺太(サハリン島)最南端の西能登呂岬(ロシア名:クリリオン岬 (Mыс Крильон))までは約43 kmの距離がある。晴れた日には樺太の姿を見ることができる。周辺を宗谷岬公園として整備しており、日本最北端の地碑はじめとする記念碑、祈念碑、慰霊碑などが点在している。後背地には宗谷丘陵が広がっており、周氷河地形を形成している。宗谷岬はフットパス「宗谷丘陵コース」(ロングコース)の起点になっているほか、観光地としてトリップアドバイザーによる「2015エクセレンス認証」を受賞している。同じ北緯45度にある都市として、イタリアのミラノ、カナダのモントリオール、フランスのリヨンが挙げられる。なお、東京は北緯35度、日本最南端は沖ノ鳥島の北緯20度である。」とウィキペディアより。この場所は、半世紀近く前の大学時代に訪れたのであったが。立っている鉄塔は無線方位信号所(レーマークビーコン)。無線方位信号所(むせんほういしんごうしょ)は、航路標識のうち電波を利用して位置を知らせる電波標識局の一種。しかし、既に10年に以上前から稼働していないようだ。大きな木製アスレチックが人気の、白い灯台と海を眺める絶景公園。パブリックアート「バンザイ」。「バンザイ両手を高々と挙げ「バンザイ」をしているイメージ。(材質:青森ヒバ)。作者 彫刻家「向井 勝實」 1946年生まれ青森県大間町出身再び「恵山岬灯台」を見る。再び「恵山」山頂付近をズームで見る。更にズームして。そして「恵山岬灯台公園」を後にして往路と同じ道道635号線を国道278号に向かって引き返す。正面眼下には再び「椴法華港」が姿を現した。そして「銚子岬」も。国道278号に入り「恵山町」に向かって進む。我々のレンタカーの「ODO meter」・走行距離計が丁度50,000kmを示す。外気温は18℃と観光日和。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.09
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次に史跡「大船遺跡(おおふね いせき)」の前に建っていた「大船遺跡管理棟」を訪ねた。「国指定史跡 大船遺跡内 容:縄文時代中期(約5~4,000年前)の集落跡指定面積: 71,832.03㎡指定年月日:平成13年8月13日 文部科学省告示第138号指定理由: 大船遺跡は大規模集落で,中心には推定600軒を越える竪穴住居と盛上遺構, 山側には貯蔵穴、北側の沢にはシカの落とし穴などが広がっています。 この遺跡は,深く掘りこんだ大型の竪穴住居が特徴です。日常用具のほか, クジラやオットセイの骨,炭化したクリなど,当時の食生活を知る貴重な遺物が 出土しています。」朽ち果てた案内柱。「大船C遺跡速報展示室」、「ニ〇〇○年に開く南茅部町」、「悠久の時を迎えて」の文字が書かれていたようだが。管理棟の建物脇にも「石皿」がたくさん置かれていた。この石で縄文時代の人々は、木の実や肉など食べものをすりつぶしていたのだと。「大船遺跡管理棟」の入口正面。南茅部地域の主な縄文遺跡や北海道・北東北の縄文遺跡群について、パネル展示で紹介されていた。「縄文 縄文遺跡群を世界遺産に」の幟が並んでいた。「大船遺跡の概要この遺跡は大船の海岸から200mほど内陸に入った台地にあり、約6万㎡の広さがあります。平成8年の発掘餌査で、多くの竪穴式住居が見つかりました。大船遺跡は縄文中期の大規模なムラであり、恵まれた自然環境を背景として、縄文の人々は狩猟・採集や交易などによって豊かな暮らしをしていました。いままでの縄文観を大きく変える、貴重な文化遺産であるといえます。」「竪穴住居の土層断面」と発掘品の展示コーナー。「竪穴住居の埋まるようす」。①竪穴住居で人が生活していました。②使われなくなった住居の柱は、建て替えるため抜きとられます。③埋まりかけたくぼみで、ゴミを捨てたり、火を焚いたりしました。④年月と共に竪穴には土が埋まって平らになりました。発掘当時の模型。遺跡群の発掘には多くの人が関わっていたことがよく分かるのであった。そして重なり合う住居跡。「大船遺跡縄文前期末から中期の約千年間にわたる集落跡です。これまでの調査で100軒を超える住居跡や大規模な盛土遺構、動物の骨やクリなどが発見されています。縄文時代の生活や文化を解明する上で極めて貴重な遺跡です。」「北海道・北東北の縄文遺跡群」「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、長期間継続した先史文化の内容を示す学術的価値の高い史跡、特別史跡となっている集落や環状列石などの遺跡で構成されています。これらの遺跡は多様な場所に立地するとともに、文化の移り変わりを具体的に示しています。」「世界遺産に必要な顕著な普遍的価値を示す17遺跡」「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」。「縄文史跡 大船遺跡」噴火湾を臨む海岸段丘上に立地する、中期の大規模な集落遺跡です。100棟以上の竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛土遺構があり、墓などの土坑群も確認されています。竪穴建物跡は床を深く掘り込んだ大型のものが多く、深さ2mを超えるものもあります。大量の土器等のほか、クジラやオットセイの骨、クリなども出土しています。盛土遺構からは多量の遺物が出土し、いわゆる「捨て場」として機能するとともに、アイヌ民族の「送り」にも通じる概念が存在していたことがうかがえます。「見学情報 大船遺跡管理棟」竪穴建物や盛土遺構を復元しだ縄文のにわ'や、当時の環境の再現を目指している”縄文の森”などを見学することができます。「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群縄文文化は、紀元前13,000年頃、温暖湿潤な気候の中で、自然との共生のもと、約10,000年もの長期間にわたって営まれた、高度に発達・成熟した定住的な狩猟・採集・漁労文化です。世界に先駆けて土器を生み出し、ヨーロッパなどの先史文化と較べ、本格的な農耕と牧畜を持たないなど、新石器時代の文化としては極めて特徴的であり、世界史上希有な文化です。また、縄文時代は日本の歴史の大半を占めており、現代に至るまで、縄文文化に起源や系譜を求めることができる伝統や文化的要素が数多く認められるなど、日本の基層文化であると言えます。北海道・北東北には数多くの縄文遺跡が所在し、円筒土器文化や亀ヶ岡文化など縄文文化を代表する文化が栄えた中心地域です。また、縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など豊かな自然環境が保全されている遺跡が数多くあります。「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」は、多くの特別史跡、史跡で構成され、集落跡、貝塚、環状列石など縄文文化の顕著な要素を含んでおり、しかも、海岸部、内陸部、湖沼地帯、河川流域など多様な場所に立地しているため、縄文時代の生活様式や生業のあり方など、細文文化の様相とその変遷を如実に示し、きわめて貴重なものと言えます。「世界文化遺産登録を目指す縄文遺跡群世界遺産とは、世界遺産条約に基づいて世界遺産一覧表に登載された、顕著で普遍的価値を有する「遺跡」や「自然」などのことであり、世界のすべての人々が共有し、未来の世代に引き継いでいくべき人類共通の宝物です。世界遺産には、「文化遺産」、「自然遺産」、「複合遺産」があり、青森県と秋田県にまたがる白神山地は「自然遺産」として、平成5年に世界遺産に登録されています。世界遺産になるためには、候補となる資産(遺跡など)の、顕著で普遍的な価値の証明や、適切な保存管理が必要です。登録の可否は、ユネスコの世界遺産委員会が行いますが、ユネスコに申請されるためには、文化庁が作成する世界遺産暫定一覧表(正式な国内の候補遺産リスト)に記載される必要があります。青森県・北海道・秋田県・岩手県では、4道県に所在する主な縄文遺跡を世界遺産候補として文化庁に共同で提案し、平成21年1月5日に「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界遺産暫定一覧表に記載されました。」「南茅部と縄文の道」「縄文遺跡群を世界遺跡に」。こちらも「縄文遺跡群を世界遺跡に」。2021年夏頃のユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産の登録審査がなされるとの事ですので世界遺産登録を期待したいのであった。駐車場の横にはハマナスの花と赤い実が。「世界遺産登録」を願いながら「大船遺跡管理棟」を後にした。「大船遺跡」を見学中に「道の駅」縄文ロマン南かやべ内にある「函館市縄文文化交流センター」👈リンク を訪ねる事を進められたが、残念ながら訪ね残ったのであった。国道278号を恵山岬方面に向って進むと銚子岬が前方に見えて来た。「豊崎トンネル」を通過。この「豊崎トンネル」は、旧南茅部町の臼尻地区と大船地区の境目にあるトンネルで、冬場の大船側の入口の海側の旧道跡の崖にできる氷爆が有名とのこと。「黒鷲岬」入口の先にある「尾札部トンネル」・130mが前方に。「恵山」まで29kmの表示案内。海岸沿いにはおにぎりの形の岩が。岩場を切り開いて作った道路であることが解るのであった。南かやべ漁協の「尾札部漁港」前を通過。浜辺ではクレーン車で巨大網を引き上げ高圧洗浄中。断崖が迫る海岸線を更に進む。「獅子鼻覆道」。左手には「獅子鼻岬」が続いている場所。「覆道(ふくどう)」の内部。覆道とは雪崩や落石、土砂崩れから道路や線路を守るために作られた、トンネルに類似の形状の防護用の建造物。道路用のものは「洞門」と呼ばれることが多いと。こちらでも巨大網の高圧洗浄中。「銚子トンネル」を出ると左手は「とどほっけ 銚子サーフビーチ」。「とどほっけ 銚子サーフビーチ」の案内板。椴法華村(とどほっけむら)は、北海道渡島支庁南東端にあった村。2004年(平成16年)12月1日に戸井町、恵山町、南茅部町とともに函館市に編入された。太平洋に面した漁村であり、編入までは長らく道内で最小の面積の自治体であったとのこと。アイヌ語の「トゥポㇰケ(tu-pok-ke)」(山の走り根・の下・の所)に字を当てたもの。村がある恵山の山裾を現したものであると。北海道No.1の呼び声高い「椴法華・銚子サーフビーチ」であると。そして前方に「恵山」の姿と、火口からの水蒸気が見えて来た。この日は波も穏やかでサーファーの姿はほとんどなかった。ズームで「銚子岬」を振り返る。「恵山 山頂」付近をズームで。「恵山」山頂と「光る海」を見る。「恵山山頂付近から噴出する「水蒸気」をズームで。漁師の船。「恵山」山頂から「恵山岬」への稜線。この先で国道278号を離れ、道道231号線に入り椴法華港(とどほっけこう)方面に向かう。ここを左折して、道道231号線へ。函館市元村町83付近。そして再び海岸線に。「恵山岬方面➡4.0km」の案内表示。ここでも。この洗浄方法が、省スペース、高効率な洗浄方法なのあろう。洗浄水は横に無限に。そしてこの先1.5km➡で「恵山岬灯台公園」、「ホテル 恵風」、「水無海浜温泉郷」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.08
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「大沼国定公園」を後にして、道道43号線に向かって進む。そしてこの先で左折して道道43号線・大沼公園鹿部線に入る。道道43号線・大沼公園鹿部線に入り、左手の「北海道駒ヶ岳」の絶景を車窓から楽しみながら進む。中央のやや盛り上がった峰部分が「馬の背(うまのせ・900m)」そしてその奥にわずかに「砂原岳(さわらだけ・1112.1m)」が見えた。駒ケ岳には、火口原を囲むように、主峰の剣ヶ峰(1131m)、砂原岳(1112.1m)、隅田盛の(892.2m)3つのピークと、山麓に西円山(544m)と東円山(481.3m)のコブのようなピーク(寄生火山?)がある。写真右が東円山(481.3m)。「北海道駒ヶ岳」がほぼ正面に。更に左手に見えた来た「北海道駒ヶ岳」の景色を楽しみながら進む。そして鹿部町に入り国道278号に合流し、この交差点を右折して進む。直ぐに左折して海岸線の道に出てVIEW SPOTで車を止めた。左手の太平洋の先に、昔訪ねた事のある北海道の室蘭市、地球岬方面がはっきりと見えた。地球岬の由来はアイヌ語で断崖を意味するチケプで、読み方が似ていたので地球と名付けられた。地球が丸く見えるので地球岬と名付けられた訳ではないと昔し知った。断崖絶壁の一角が地球岬で、先端にはチキウ岬灯台が建っていたのであった。左手の山の斜面には、株)日本製鋼所室蘭製作所の風力発電設備・「伊達ウィンドファーム」、そして噴火湾(室蘭港沖)の先に聳える「鷲別岳(わしべつだけ)」・標高911mも確認できたのであった。「道の駅 しかべ間歇泉公園 (かんけつせんこうえん)」に立ち寄る。大正13年、温泉の試掘中に偶然発見された間歇泉(かんけつせん)。茅部郡鹿部町字鹿部18番地1。間欠泉の「温泉蒸し処」。温泉の高温の蒸気を利用した蒸し釜体験。道の駅内の物産館で購入したホタテやタコなどの食材を、自分で蒸して食べることができるのだと。鹿部町の売りである「温泉」を活用しようと、2016年3月にオープンした道の駅内に設置されたのが、この「温泉蒸し処」です。素材を高温の蒸気で一気に蒸し上げるため、持ち味が引き立ち、油を一切使わないのでヘルシー。地球のエネルギーを使った調理法であると。これが「温泉蒸し処」の蒸気取り入れ箇所。ここが蒸気を利用した蒸し釜体験場所。暫くすると「蒸し釜」の準備も進み始めていた。「蒸し釜セットの作り方」案内板。この時は、時間が早く未だ「準備中」であったが。「道の駅 しかべ間歇泉公園 」入口。未だ8:30前の開店準備仲で、ここにも入れなかった。道路を渡り「道の駅 しかべ間歇泉公園 」の建物を見る。「道の駅 しかべ間歇泉公園 」施設案内図。 【https://shikabe-tara.com/information】より塀の隙間から中を覗いたが、見えたのは「しかべ間欠泉ひろば」とその手前の黒松。「しかべ間欠泉」は手前右手に背を向かてあるようで、外から見えない配置になっていた。間歇泉公園の入場は入場料がかかるが、足湯に入りながら「しかべ間欠泉」👈リンクを見ることが出来るのだと。ウィキペディアからの、15mほどの高さまで噴き上がる「しかべ間欠泉」の写真。「道の駅 しかべ間歇泉公園 」の前、海側にあったのが「北斗船歌碑」。「北斗船👈リンク作詞 星野哲郎作曲 船村 徹編曲 南郷達也歌唱 鳥羽一郎みぞれましりの しぶきを頭から浴びてり出す 噴火湾海は荒れても 行かねばならぬ今年六十の お袋さんにハワイ旅行が させたくて」「作詞家・星野哲郎氏が、町おこしグループの熱い誘いに乗り、初めて鹿都町を訪れたのは昭和62年のこと。以来、毎夏2 ~ 3日現代漁業の勉強を兼ね、地元を訪れ交流を深めた。そんな背景から生まれた、「北斗船」は1988年(昭和63年)全国的なヒット作となった。詞は星野先生直筆による。」なぜ鳥羽一郎が鹿部町???実は、鳥羽一郎の別荘がかつて鹿部町にあり、鳥羽一郎鹿部共和国なるイベントも開催されていたとのこと。「北斗船歌碑」の近くにある石柱の上面に両手を置くと、鳥羽一郎の「北斗船」の歌が下の写真のスピーカーから流れて来るのであった。そして函館市岩戸町の海岸線・道道43号線(大沼公園鹿部線)を進む。漁船の姿も。沖には定置網の白い球形の浮子(あば)が。海岸線の景色を楽しみながら進む。黒羽尻川手前の岩場。左手の先には「恵山」そして「銚子岬」へと続く山々の姿が。そして国道278号の右手高台にあった史跡「大船遺跡(おおふね いせき)」を訪ねた。上空からの「大船遺跡」。「太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大規模な集落遺跡です。100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛土遺構があり、その南西には墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群が確認されています。 約千年間にわたり継続した集落は、大船川に沿った台地上に帯状に構成されており、北東北における集落構造と共通しています。また、発見された竪穴建物跡は、床を深く掘り込んだ大型のものが多く、クジラやオットセイの骨やクリなどが出土しています。多数の竪穴建物跡からは、縄文時代中期初頭から末葉(紀元前3,000年から紀元前2,000年頃)にかけての連続した変遷を辿ることができます。 盛土遺構からは多量の遺物が出土しており、いわゆる「捨て場」として機能するとともに、古来より日本人が有したアニミズム的な観念やアイヌ民族の「送り」にも通じる概念が存在していたことが伺えます。捨て場であり祭祀の場と考えられる盛土遺構の在り方は、円筒土器文化に共通する性格を有する典型的な事例となっており、当時の精神文化を考える上でも貴重なものです。」とネットから。「竪穴住居」の骨組み。「竪穴住居跡」竪穴住居は、縄文時代につくられた住居の形態です。地面を円形や方形に掘って床とし、柱を立て骨組みを作り、その上に土やヨシなどで屋根をふいた建物で、床には炉が設けられていす。大船遺跡の竪穴住居は規模が大きく、長さ8 ~ 11m 、深さ2m以上の住居が見つかっています。炉は、床そのものを火床としたものから土器を埋めたもの、石で囲んだ炉へと変化が見られます。この復元住居では、発掘調査の成果をもとに、クリの木を使い、竪穴住居の骨組みを再現しています。」大船遺跡の特徴は●500年以上継続して集落が営まれたこと●個々の住居規模が非常に大きいこと●食料資源や精神文化に北海道の独自性が見られること の3点であると。再現された茅葺屋根の住居。大船遺跡では深さ1.5~2m、長さ8~11mを超える大型住居が発見されていて、最も深いものでは深さ2.4mもあるのだと。ここまで深い竪穴はみたことがなかった。ほぼ地下室に暮らしていたといってもいいくらいの深さなおであった。これは安定した定住生活が営まれていたことを示していると。さらに土器や石器などの生活道具のほかに、クジラやオットセイの骨、炭化したクリなど、当時の環境や生業、食糧事情を知る上で重要な資料も見つかっています。 深く掘ることで、冬場、夏場の室温を緩和できたのだと。そして竪穴の床面はローム層まで掘り込んでいるのだとも。ロームとは黄砂、火山灰などを含む埃やチリが風化し、長い時間をかけて堆積した地層で、有名なものには関東ローム層がある。栄養に乏しいためカビやコケなどが生えづらい。つまり、住居の床面にするには適した土壌なのだ。しかし、たびたび噴火する駒ケ岳の影響で段丘上には火山灰が厚く堆積しているため、深く掘らないとローム層は出てこない。つまり、必要な条件を満たす床面が出てくるまで掘った可能性もあるのだと。しかし、竪穴の底の中央付近がさらに深く掘られているのが気になったのであった。竪穴住居跡が正確に復元されているものと考えると、この二段目の穴も謎のひとつか。古い時代の住居跡が現れ、一段と深くなった穴だったのであろうか?「重なり合う住居」跡。大船遺跡では、多くの建物が重なり合って見つかった。同時に当時の土器も出土し、分析の結果、年代によって様々な形態や特徴が見えてくるようです。「重なり合う住居大船遺跡の特徴として、遺跡内の竪穴住居の密度が非常に高いことがあげられます。大船遺跡では、発掘調査の結果、縄文時代中期(約4,500年前)を中心とした竪穴住居跡が120軒以上発見されています。この平面表示は、多くの竪穴住居が重なっている状態を示しています。これは、数百年にわたり定住生活をしていた証であり、その背景にはこの地域が海や山野の豊かな食料資源に恵まれていたためとみられています。」「盛土遺構」。「盛土遺構盛上遺構は、長い期間にわたり大量の土器や石器などが捨てられ.周囲より高く盛り上がった場所です。火をたいた跡や人骨が発見されることがあることから、単なるゴミ捨て場ではなく道具や食べ物の魂を送る場所ではないかと考えられています。大船遺跡の盛上遺構からは、マグロ・サケなどの魚類やクジラ・イルカ・シカなどの哺乳類の骨、クリ、クルミなど植物の残りが見つかっており,当時の人々の食生活がうかがえます。」この後に、観光に来ていた?地元の男性3人と暫しの歓談。これぞ一期一会。ここ亀田半島のお勧めの観光スポット他を紹介してくれたのであった。竪穴住居跡と再現された茅葺屋根の住居を見る。こちらは竪穴住居の骨組み、竪穴住居跡、重なり合う住居跡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.07
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更に「大沼公園」の「島巡りの路」の散策を続ける。紅葉が始まり、大沼の水面に鏡の如く映り、これぞ絶景!水鏡・Water Mirror。「アイヌ島」のカエデの紅葉も進み。紅葉の進み方が目で解るのであった。以下、ネット情報です。(https://weathernews.jp/s/topics/201810/150095/)葉は以下の条件になると色づき始めるといわれている。1.気温が低くなる紅葉は、一般的に朝の最低気温が8℃前後(※)より低くなる日があってから、しばらくして色づき出します。※この気温はエリアによって異なります。2.日が短くなる昼間の時間が短くなることで色づき始めます。葉は、緑→黄色→赤色と変化していきますが、これは葉の中に含まれる色素の違いによるものです。・緑色の色素:葉緑素クロロフィル・黄色の色素:カロチノイド・赤色の色素:アントシアニン【用語解説】・クロロフィル 葉を緑色にしている色素のこと(葉緑素)。「クロロフィル」は光を吸収し、二酸化炭素+水を、 酸素+炭水化物に換えるためのエネルギーを供給しています。・カロチノイド 葉を黄色にする色素。光からエネルギーを吸収する役割を持ち、そのエネルギーは クロロフィルに運ばれます。・アントシアニン 葉を赤色にする色素。熟したリンゴやブドウの皮の赤い色の原因となるものです。赤く染まる葉は、秋が深まり気温が低下・日が短くなると、葉の根元と枝の間に【離層(りそう)】と呼ばれるコルクのような組織が形成されます。すると、光合成で作られた糖が枝などに届かず、日光を浴びて糖とタンパク質が化学反応し、アントシアニンという赤い色素が作られるのです。対して、黄色くなる葉はカロチノイドとクロロフィルが含まれています。季節が進み気温が下がると、クロロフィルが先に分解され、分解が遅いカロチノイドの色が際立って見えるようになり、黄色く見えるようになるのです。朝の陽光が差し込み、鮮やかさを増すのであった。先程渡った「湖月橋」が見えた。再び写真を逆さにして遊んでみました。ズームして。大沼の水面に映る紅葉の絶景をカメラでこれでもかと追う。「三密」を避けたこの島は紅葉の「準備中」。いや、「三密」でないため、「紅葉」の感染がないのか???紅葉シンメトリー・「水鏡」が終わることなく。これぞ「早起きは三文の得(徳)」!!紅葉シンメトリー・「水鏡」を楽しめる条件は、晴れの日の明け方であること。朝焼けで紅葉が映えるのです。そして風がないこと。水面が波立つと紅葉が映らない。もちろんこれらの条件が全て揃わなくても、それなりに美しい景色を見ることはできますが。ズームで。「浮島」から右手に「浮島橋」。「長島園路護岸」を渡る。「長島遠路護岸」を渡りながら「浮島」を見る。「浮島橋」を「公魚島」から見る。「北海道駒ケ岳」を「公魚島」から再び。北海道森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)である。渡島国・渡島半島のランドマークとなっている。蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれる。江戸時代の旧称は内浦岳。富士山型の紡錘状の山容から谷元旦が描いた絵画が渡島富士(おしまふじ)と呼ばれ、郷土富士となっている。「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元・北海道では単に駒ヶ岳と呼ばれると。「駒ヶ岳はかつて、富士山のような円錐形の1,700mほどの火山だったといわれています。たび重なる噴火活動を経て、寛永17年(1640年)の大噴火によって山頂部が崩壊し、火口原を取り巻く外輪山として、主峰の剣ケ峯(1,131m)、砂原岳(1,113m)、隅田盛(892m)、稜線の駒ノ背(約900m)、馬ノ背(約850m)が形成されたのです。その後、安政年間の大噴火、昭和4年の大噴火、昭和17年に中噴火を起しています。」とネットから。「最近では、平成8年と10年の小噴火が記憶に新しいです。道南きっての景勝地大沼公園も、この駒ヶ岳の噴火によってできたものです。」標高約900ⅿ「馬ノ背」までの登山道が見終えた。「公魚(わかさぎ)島」から見る、湖面に浮かぶ「流山」の紅葉はこれもこれから。紅葉の進んでいる木々をカメラで追う。青空に映えて。「公魚橋」を振り返る。大沼湖と小沼湖を周遊する遊覧船クルージングやボートの貸し出しを行っている「大沼合同遊船(株)」の建物とその手前の「西大島橋」をズームで。「大沼公園散策マップ」で現在位置を確認する。更に南下し、大沼公園広場から散策路「島巡りの路」への入り口にある「後楽橋」に向かうのであるが、「島巡りの路」の散策はここまでとして「湖月橋」に向かって湖畔に沿って戻ったのであった。「島巡りの路」の歩いた路―をズームで。暫く進み「VIEW POINT」から「湖月橋」と「金波橋」そして「北海道駒ヶ岳」を。「湖月橋」と「北海道駒ヶ岳」をズームで。「湖月橋」とその先に大沼公園の遊覧船がこの日の出番を待っていた。料金は個人で大人一人960円、。所要時間は約30分間で、大沼と小沼を回るのだと。「睡蓮」の咲く時期は、この水面も美しいのであろう。と言うことで「ネット」から。 【https://loconavi.jp/events/112242】より真っ赤な紅葉。散り紅葉も。これぞ「紅葉筵(もみじむしろ)」。紅葉が散り敷いたさまを筵(むしろ)に見立てていう言葉。まさにこの大沼には晩秋の季語「火恋し」(ひこいし)が似合う季節が到来しているのであった。これは黄葉。「逆さ駒ケ岳」を再び。「逆さ駒ケ岳」を何枚も。「剣ヶ峯」をズームで。駒ヶ岳の山頂、鋭く立ち上がる「剣ヶ峰」。更に。噴火によって形作られた現在の駒ケ岳の最高峰の姿。紅葉の見事なグラデーション。そして「島巡りの路」の散策を終え、車に戻り道道338号線を進む。左手の踏切手前から函館本線の貨物列車を。この先の踏切を渡ったところ左に、冬場にオオハクチョウやカモなどの野鳥が飛来する「白鳥台セバット」があるようだ。そして最後尾。そして次に「霊泉洞」を訪ねた。この案内板が小さいので気が付かず行き過ぎて戻る。「霊泉洞」は函館市の北部に位置する七飯町にある湧き水。大沼国定公園の中で、最大の沼である大沼の北側で湧出していた。大沼の水源の一つであると。細い獣道の如き山道を下って行くと、朽ちかけた鳥居と小さな祠があった。この「祠」周辺はパワースポットになっていると。鉄梯子の奥に湧き水の流れが見えた。湖に下る鉄梯子。湧き水の出口をはっきりと見たかったが、鉄梯子を降りるのは危険と判断して諦めたのであった。鉄梯子を降りるとこの様な光景が見られるのであったが、ネットより。 【http://www.onuma-guide.com/diaryblog/2012/08/post-153.html】より道道338号線・大沼公園線を更に進む。道道43号線に向かうT字路の先の駐車場に車を駐め、大沼の沼岸・「はまなすの浜」に徒歩で。再び「北海道駒ヶ岳」の姿を見る。「剣ヶ峰」の姿が次第に変わって見えて来た。花の見頃の7月から9月頃まで、濃いピンク色の花を咲かすハマナスの群生を見ることが出来るのだと。ズームで。険しい「剣ヶ峰」山頂の稜線が。北斗市と森町の境界の山々の姿を大沼から見る。中央右に僅かに山頂が見えた三九郎岳・標高802m 、そして左手には平坦な稜線の先には二股岳・標高826mがはっきりと。「はまなすの浜」に立っていた「北緯42度の標」。北緯42度はイタリアのローマや昨年10月末に訪ねたブルガリア・ソフィアがほぼ同じ緯度なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.06
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10月20日(火)、この日はこの旅行・「はるばる来たぜGoto函館」の3日目。この日の朝もエレベータホールからの日の出をカメラで追う。山の端がだんだんと鮮やかのオレンジ色に変わって来た。時間は6:05過ぎ。上空が赤く染まった「函館山」。そして、手前には多くのビニールハウスが。ここ北斗市は北海道内で最も早くから野菜の栽培に取り組んでおり、北海道内有数の長ネギ、トマト、キュウリ、ホウレンソウ産地になっているとのこと。「五稜郭タワー」。手前には北海道新幹線の線路が。そしてこの日の日の出の直前。そして日の出。時間は6:11。そして、この日も二重の日の出が。そしてこの日の出発。この日は、「大沼国定公園」から道道43号線で太平洋内浦湾入口に面する「鹿部町(しかべちょう)」に出て、その後はひたすら海沿いの国道278号を走り「渡島半島」を一周して「五稜郭」を訪ねその後、「立待岬」まで行く、いつものように忙しいハードな行程。ホテルの前の道路にあった北斗市の雨水マンホール蓋。市内当別にある「トラピスト修道院」と、「北海道新幹線」をデザインしたマンホール。新幹線の車両が決まる前のデザインであるため、鼻が短めになっているのだと。朝の陽光を浴びるホテルを振り返る。この朝も脚長オジサンを自撮り。3日目のこの日・11月20日は「亀田半島」を―の如く一周することに。まずは北上して「大沼国定公園」を巡り、太平洋内浦湾沿いの鹿部町から国道278号、道道231、635号線で「恵山岬」へ。そして再び新八幡町の分岐まで戻り、再び国道278号で日ノ浜町へ、そして再び道道635号線を利用して恵山の火口原駐車場へ。その後も国道278号に戻り左に津軽海峡を見ながら「志苔館跡」、「五稜郭」、「四稜郭」、「立待岬」等を訪ねたのであった。道道1176号線を北上し、この先を左折し国道5号を「大沼」方面に進む。国道5号の遊歩道には赤いサルビアの帯が。「大沼トンネル」を通過する。「西大沼」交差点からは。山頂付近が白くなった「北海道駒ヶ岳」が姿を現す。右折して、道道338号・大沼公園線を走る。そして車窓から「小沼」と「北海道駒ヶ岳」を見る。函館本線に沿って進む。函館本線の「大沼駅」に立ち寄る。「大沼駅」前広場にあった「大沼公園観光案内図」。「小沼」と「大沼」の間を走る道道338号線・大沼公園鹿部線を更に進む。そして右に折れ、沼畔近くに車を駐め「大沼」の散策開始。「大沼」と「北海道駒ヶ岳」の勇姿。そして風のない沼面に見事な「逆さ駒ケ岳」の姿が。沼面に映る盆栽の如き島の光景を楽しむ。一両編成の函館本線の姿も。鏡の如き沼面。「大沼」と「北海道駒ヶ岳」の勇姿。ズームして。「剣ヶ峯と呼ばれる大沼方面から見て左側に尖った部分が標高1,131 mのこの山の最高点。いろいろなアングルで。レストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」周辺の紅葉。レストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」前の広場の紅葉は始まっていた。レストラン「ターブル・ドゥ・リバージュ」の角に「虚子の径」と刻まれた石碑が。この径が「虚子の径」と呼ばれているのであろう。「虚子の径 俳人高浜虚子曽遊(そうゆう)の地昭和十四年五月二十三日 折柄来函中の虚子は 、この日大沼吟行を思い立ち、糸夫人と五女高木晴子、その夫高木餅花、六女高浜章子、それに内藤松籟、阿部慧月と共に杖を引かれ、この場所にあった旅館「湖月」の2階で小句会が行われた。その折虚子が一人俳句を作り乍ら湖畔を逍遥した道である。爾来この地を「虚子の径」と名付け、多くの俳人達が四季折々に訪れ親しんでいる。」虚子句碑は大沼公園駅近くの大沼婦人会館敷地内に建立されていると。「駒ヶ嶽聳えてここに沼の春」高浜虚子(1874-1959)は明治-昭和時代の俳人、小説家。明治7年2月22日生まれ。中学時代から正岡子規に師事。明治31年「ホトトギス」をひきつぐ。一時小説や写生文を書いたが大正2年俳句に復帰。客観写生、花鳥諷詠(ふうえい)をといて俳句の伝統擁護につとめた。昭和29年文化勲章受章。芸術院会員。昭和34年4月8日死去。85歳。愛媛県出身。旧姓は池内。本名は清。句集に「虚子句集」「五百句」、小説に「俳諧師」「柿二つ」などがあると。木々が「大沼」の水面に映り込み。上の写真を逆さにしてみましたが、全く違和感はなし。大沼での漁業用のボートであろうか。「島巡りの路」の一部を歩くことにした。ここは「湖月橋(こげつばし)」。「大沼」の水面からは霧が湧き上がっていた。「湖月橋」。「大沼公園散策マップ」。大沼の湖畔遊歩道は、青の点線で大沼に浮かぶ小島や多数の橋を巡る「島巡りの路」の他、「森の小径」「大島の路」と合計3つある。「森の小径」は20分のコースで、「島巡りの路」の一部を歩く短縮コース。「大島の路」は、15分コースだが景色も良く、名曲「千の風になって」のモニュメントもあり、時間がない方にはこちらがお勧めだと。「島巡りの路」は所要時間50分の散策コースとのことだが、その一部を歩く事としたのだ。。「湖月橋」を渡る。「湖月橋」を振り返る。道道338号線に架かる赤い桁の「月見橋」。この写真の「月見橋」の奥は、「白鳥台セバット」と呼ばれ、大沼国定公園の一角で、冬でも湖面が凍結することなく、渡り鳥の休息場所になっており、オオハクチョウやカモなどの野鳥を間近に見ることができるのだと。あまり聞き慣れない「セバット」という言葉。地元では「狭まった場所」を意味するそうです。大沼国定公園は、大沼と小沼と蓴菜沼(じゅんさいぬま)の3つの湖沼からなり、ここ「白鳥台セバット」は大沼と小沼がつながっている、まさに狭まった場所。冬は湖面のほとんどが凍結して氷の厚さは60cmほどにもなるが、この付近だけは水の流れがあって冬でも凍結することなく、冬の渡り鳥の休息場所となっているのだと。冬の「白鳥台セバット」の光景を【ネット】から。例年12月下旬から3月上旬にかけて、越冬するオオハクチョウを見ることができるのだと。大沼、小沼両湖が全面結氷する冬も水面が顔をのぞかせ、カモやカワアイサ、ミコアイサといった水鳥の憩いの場所となっている。オオワシやオジロワシなどが飛来することもあり、バードウォッチングを楽しむ人々で賑わうと。 「金波橋(きんぱばし)」紅葉が青空に映える。野鳥の姿が。カモであろうか。見事な盆栽が2つ。大沼や小沼の湖中に点在するこれらの大小の島々は、数度の大噴火の際の岩屑なだれがつくった「流れ山」であると。岩屑なだれ堆積物の表面には、直径数mから数百mにおよぶ丘状の流れ山地形が形成され、大沼周辺一帯には多くの流れ山が分布しているのだと。右手の盆栽。漁業用の小舟が水面を走り去る。大沼の水面にはボール上の浮きが所々に。大沼に仕掛けられている網は川エビを獲るためのもの。10月中旬から12月下旬にはワカサギ漁の小定置網も張られると。これらは大沼名産の佃煮に加工されていると。小舟の波紋が「逆さ駒ケ岳」の姿を隠す。「袴腰橋(はかまごしばし)」。「日の出橋」が見えた。「袴腰橋」から見る「北海道駒ヶ岳」。水面に映る姿を追って。別の盆栽の如き島。僅かに風が出て来た。「東宮殿下 御展望之地 大正十一年七月十日」東宮殿下とは昭和天皇のことであろう。そして「日の出橋」を渡る。この先の島は「アイヌ島」と呼ばれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.05
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復元開陽丸の見学を終え、「開陽丸青少年センター」内に脇の入口から入る。「開陽丸記念館は、海底引揚遺物 3,000点を展示しております。150年前、開陽丸と共に夢と沈んだ「幕末ロマン」、その歴史に触れては」正面に「ピストル」の展示コーナー。左は「S&W・32(No.2【アーミー】)全長27.4cm 銃身長15.2cm 口径32 回転弾倉付6連発32口径 弾径8mm リムファイア式1861年米国で開発された南北戦争で使用された、高杉晋作が坂本龍馬に贈った銃も同型とされ、寺田屋事件(慶応2年1866年)ではこのピストルで応戦したといわれる。右は「S&W1 1/2 装弾数5発全長20.3cm 銃身長15.6cm 口径32 回転弾倉付5連発32口径 弾径8mm リムファイア式。この銃も土方歳三や坂本龍馬、お龍が愛用したとの議論が多い」「革靴」。「革靴」と共にあった写真。箱館政府の閣僚の多くは旧幕府軍の重役であった。後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚であろうか。この中の人物の「革靴」なのであろうか。「英式ミニーエ銃弾」。ミニーエ銃の弾丸(ミニーエ銃弾)はドングリ型(椎の実型)の鉛弾(プリチェット弾)で、弾丸の円周には溝(タミシエ・グルーヴ)が3条切られて凹凸があり、この凹部にはグリス状の脂を付着させていた。底部はスカート状に窪んでおり、窪みはコルクなどで埋められている。弾頭とコルク、火薬はそれまでのマスケット銃と同様に紙製薬莢の形態で兵士に支給された。「開陽丸」の1/50の模型。オランダに保存してあった開陽丸の図面から起こしたのだと。「開陽丸近代国家として海防強化を目指す幕府にとり、1866年オランダのヒップス父子社で建造した開陽丸は最強の旗艦となった。木造艦とはいえ、各所に鉄材を使い、主なロープにワイアを用いている。大砲も当初よりも増備している可能性が大きく、アメリカ南北戦争で活躍したダルグレン砲をも装備していた。なお、帆走時には煙突をちぢめスクリューを引き揚げる方式をとっている。 ■ 諸 元:L 72.80m、W 13.04m、Ⅾ 5.70m(前) 6.40m(後) トン数 2,590排水トン、 エンジン 2気筒400馬力、 大砲 26門 ■ スケール:1:50 反対側から。前方から。後方側から。スクリュー部分。開陽丸紋章・舟印(建造当時の紋章・実物大複製)この船の紋章は徳川家の家紋(三葉葵)をデザイン化したものと言われている。海底から引き揚げられた実物は開陽丸記念館に保存されているのだと。しかし、これが「葵の御紋・三葉葵」??と思ったのであった。ネットで調べてみると受注したオランダでは「葵の御紋」が理解できずにヨーロッパでよく使われていた「ハート型」と誤認しててしまったのだと。なるほど、「三葉葵」の葵の葉はもっと丸みがあり、この紋章は一葉ごとが離れすぎて位置がおかしい!!「箱館戦争 二大戦跡 海の江差・開陽丸 陸の函館・五稜郭」。「箱館戦争史跡マップ」、「開陽丸の見どころ」。「開陽丸の見どころ開陽丸は座礁・沈没という悲劇の運命に終わったが、榎本武揚旧幕府軍の有為な人材は、新しい日本の近代化に大きく貢献した。」いかめしい大砲だけではありません。ソフトでおしゃれな一面も見逃せません。<~歴史ファンのあなたに~>・戊辰戦争史(ぼしん)・開陽丸の歴史、オランダで造られた最新鋭艦 機関、大砲、砲釁、ピストルなどの武器・水中考古学の先駆( 3万3千点に及ふ遺物の脱塩処理・保存・展示など)・幕末、明治初期における科学技術水準、造船技術史、海事史上の貴重な資料。・旧幕府脱走軍、榎本武揚、土方歳三などの人物史<~青少年でも楽しめる施設~>・大砲隊体験、映像展示、操作シュミレーション、砲弾重量体験、保存処理体験なども 楽しめます。<~歴史がにがての方のために~>・開陽丸メニュー、ナイフ、フォーク、スプーン、メジャーカップ、フライ返し、ワインカップ など・ドアノブなどおしゃれなアンティーク(ライオン装飾品など)・当時のビール瓶、懐中電灯、双眼鏡、キセル、温度計、ランプ、楽器など。・技術屋さんにはたまらない滑車、銅ネジ釘、スパナ、バルブ、ボルト・ナット、鎖などの 工具類・日本刀、つば、サーベルなどの刀剣類「明治元年旧幕府軍進行図」明治元(1868)年8月、旧幕府軍海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走した。仙台で新撰組をふくむ旧幕府陸軍と合流し、10月20日に鷲ノ木(現在の森町)から蝦夷地に上陸。戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の始まり。隊を分けて箱館に進軍した旧幕府脱走軍と箱館府軍や松前藩軍は、峠下や川汲峠で交戦し、旧幕府脱走軍が撃破した。この報告を受けた箱館府知事・清水谷公考は、10月25日に青森へ退却し、翌26日に旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠したのであった。さらに、旧幕府脱走軍は、松前・江差へ進軍し蝦夷地全域を制圧したのであった。「函館戦争」👈リンク海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が明治2年4月6日に青森を出発、4月9日早朝、乙部に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。新政府軍が江差を奪還すると、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名、4月16日にも増援が江差へ上陸し、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内口(山越えで木古内に向かう)、二股口(乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦湾に面する落部に向かう)の四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。一方、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した二関源治率いる見国隊400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されている。「榎本武揚」。「土方歳三」。「江差観光コース案内」。もう少し時間があれば、別の場所も訪ねたかったが・・・・。「江差町案内図」。そして日没間近の光景。「開陽丸」の奥への日の入り。そして「開陽丸青少年センター」を後にして国道228号に戻る。前方左手に「江差追分会館・江差山車会館」が。そして「土方歳三 嘆きの松」へ。「土方歳三 嘆きの松旧徳川幕府軍の軍艦「開陽丸」は、明治元(1868)年11月15日、暴風雪により江差沖で座礁・沈没しました。伝説では、土方歳三と榎本武揚が、この場所で座礁した「開陽丸」を見て土方が松の木を叩き嘆いたそうです。その後、松の木には瘤ができ曲がっていきました。後になり、江差の人はこの松の木を「土方歳三 嘆きの松」というようになった。」そして隣にあったのが「旧檜山爾志郡役所(きゅうひやまにしぐんやくしょ)」。「旧檜山爾志郡役所」は、北海道庁の出先機関である郡役所と警察署の業務を執り行なう建物として、明治20年(1887)に建てられた。その後、檜山支庁と江差警察署の合同庁舎、江差警察署の単独庁舎、江差町役場の分庁舎などに使用され、明治・大正・昭和・平成の江差を見続けて来た。またその間には、建物にさまざまな手が加えられてきた。1992年(平成4年)には、道内でただひとつ現存する郡役所として、道指定有形文化財の指定を受け、江差町では、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけて、創建当時の姿に復すべく保存修理を行った。現在は、明治時代の貴重な建物とともに、江差町郷土資料館としても活用をしているのだと。そして「いにしえ街道」へ。「北海道の中でも古くから和人が訪れ、最も早く開港した港町のひとつ、江差町。17世紀以降、日本海航路の北前船の往来を基盤に、檜材とニシン漁、ニシン取引による繁栄を築いたこの町には、数多くの歴史的・文化的遺産が残されました。この美しく貴重な景観を後世に永く伝え、また訪れる方々に心の安らぎを感じていただこうと、歴史の香り漂う街並みの整備を進めています。その核となるのが、中歌、姥神町一帯の旧国道沿い地区の「いにしえ街道」。ここには明治初期まで盛んに行われた檜材とニシン取引に関連した問屋、蔵、商家、町屋、それに社寺などの歴史的建造物や史跡、旧跡が数多く残されているのです。車をおりて気軽に散策を楽しみながら、歴史のスポットを探勝し、瓦屋根や木造家屋の素朴な美しさを愛で、ニシンそばなど郷土の味覚を味わっていただこうと、快適な散策コースの整備、休憩スポットの設置が進められています。その一角に観光拠点となる建造物「江差町会所会館」が改修・整備され、無料休憩所などとして活用されております。」とネットから。そして「旧中村家住宅」。江差の町中、いにしえ街道沿いに旧中村家住宅がある。江戸時代からこの場所で近江商人の大橋宇兵衛氏が日本海沿岸の漁家を相手に海産物の仲買商を営んでいたが1915年に大橋家が江差を離れるにあたり支配人の中村米吉が譲り受けたものだ。この建物は1971年に重要文化財に指定され、さらに1974年に中村家より江差町に寄贈。1982年からは一般に公開している。建物は主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟からなり、下ノ倉は江戸時代末期の建築、主屋と文庫倉が1889年に建築された。近江商人だった大橋家では北前船がハネダシに直接乗り入れられるようにして、本州の各藩から持ち込んだ物資の数々を直接陸揚げしていた。笏谷石を積み上げた土台に、総ヒノキアスナロ切妻造りの大きな二階建ての主屋に入ると3人の手代が座れる帳場となっており、中でも2階部分は隠し階段や釣り上げ階段があり容易には入れないようになっている。これは北前船との商談の内容を他者に絶対聞かれてはいけないという商人らしい発想から作られたものだ。また主屋2階の窓ガラスは明治時代の日本製のガラスがそのまま使われており、ガラスが平板ではなく波打っているのが明らかにわかる。当時は火災が多かったことから倉は4重の防火扉となっており、重い扉でも簡単に開け閉めできるように木のコロがついている。奥の下ノ倉とハネダシは展示資料室になっており、下ノ倉では北前船を始めとした日本海交易の資料の数々を、そしてハネダシではニシン漁を始めとした漁具の数々を展示している。「旧中村家住宅」の内部。そして車窓から日没間近の夕日を追う。そして、国道227号に入り「道の駅 江差」の隣の「繁次郎浜」に車を駐め夕日を追う。夕日を追って。そして日没、時間は16:51。「道の駅 江差町の紹介江差町は北海道の南西部に位置し、北海道文化発祥の地といわれています。 ’江戸末期から明治後期まで続いたニシン漁最盛期には「江差の五月は江戸にもない」と言われたほどで、「江差姥神大神宮渡御祭」や数々の文化財が残されております。 また、江差追分発祥の地としても有名で、全国から選抜された追分の歌い手が集い、日本一ののどを競い合う「江差追分全国大会」が行われます。これらは、海上安全と大漁を祈願して行われる「かもめ島まつり」とあわせて”江差三大まつり”とされております。道の駅について「道の駅」は、一般道路で安心して利用できる道路利用者のための休憩施設で、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せもつ、個性豊かなにぎわいの場として、快適で質の高いサービスを提供するものです。「道の駅江差」は江戸時代に実在したといわれる繁次郎の名をとった観光物産館『繁次郎笑店』があり、地元の特産品販売・地域情報・観光案内を行っています。また、附近には鰊御殿をはじめに、江差の歴史あふれる名所が数多くあります。」鳥居越しの夕景。鳥居の下に木彫りの鯛?がぶら下がっていたはずだが、なぜか「江差の繁次郎」像の前に置かれていた。そして、以前はこの『案内板』👈リンク もぶら下がっていたようだが、これは何処に?「夢っこ有るから 頑張れる 夢っこ大きい程 ふんばれる 夢こ近い程 泣ぐ事出来る 夢っこ早ぐ来い 笑って来い こんな世だから なをさらに 繁次郎さん オマハンば 好ぎだ 笑いと福祉の里づくり研究会」この様な姿で(ネット👈リンク より)。「江差の繁次郎」👈リンク の像。台座には江差独特の方言で「 笑え わらえ へば ええごとある 」と刻まれていた。白いパイプをふかしているのであろうか?「道の駅 江差 繁二郎浜」。そして日没後の江差の山々を見ながら国道227号を北上。そして国道229号への分岐を過ぎ、ひたすら新函館北斗駅に向けて旅友Sさん運転の車は進んで行ったのであった。そして旅友Sさんの巧みな夜道の運転でホテルに到着。フロントでカードキーをいただき3連泊の我が部屋に。我が部屋からの「新函館北斗駅」。早速、1Fにある風呂に向かう。貸切状態。風呂から上がって、途中のスーパーで購入したツマミでこの日の反省会を。まずは缶ビールで「お疲れ様!!」、そして焼酎へと。アジのフライ。イカ刺し。塩辛。私はカニ飯を楽しみました。仕上げはぶどうを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.04
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国道228号を走り北海道檜山郡江差町にある開陽丸青少年センター「えさし海の駅 開陽丸」に到着。開陽丸管理棟の「えさし海の駅 開陽丸」には、江差町の様々な特産品や農家から直送された農産物・海産物などを一堂に揃えたお土産店「アンテナショップぷらっと江差」があり、開陽丸見学後の立ち寄りスポットとして便利な場所。入口には榎本武揚、土方歳三の写真入りの「開陽丸沈没百五十年記念 開陽丸」と書かれたパンフレットの表紙と同じ看板が。ようこそ「開陽丸記念館」へ。”よみがえる幕末ロマン”開陽丸は、江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました。昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。まずは、「開陽丸記念館」方向に向かう。「開陽丸」は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦で、1868年(明治元年)11月15日に江差沖で暴風雪に遭い、座礁、沈没。1974年(昭和49年)から遺留品の発掘調査が本格的に開始され、大砲やシャフト、古文書などの遺留品が3万点以上引き揚げられた。1990年(平成2年)4月に復元され、船内は記念館として遺留品約3000点が展示されているのだ。「えさし海の駅 開陽丸」の横には「引き揚げられた大砲」3門が展示されていた。「9インチ ダルグレン砲」 ペリー提督が搭乗していたサスケハナには12門のダルグレン砲が搭載されていた。ライフリング(施条、銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝)が彫られていない為に射程距離は延びないが砲身後部の肉厚が太い為に大量の火薬を詰込む事が可能であり距離の近い敵に一撃を食らわす事に優れていた。 9インチ ダルグレン砲 全長:3m33cm 口径:22.5cm重量:4200kg 装薬:4. Okg 射角:4.0度て射程:1,400m 施条無 アメリカ製「16サンチクルップ砲」「サンチ」とはcmのフランス読みで、帝国陸軍の大砲口径の呼称。「クルップ砲」とはクルップ社の製作した大砲。特に、1847年に製作した、世界初の鋼鉄製の後装砲(こうそうしき)。後装式は、銃砲の装填方式を2つに大別した1つで、銃砲身の尾部から砲弾と装薬を装填する方式を言う。銃砲口から装填する前装式の対義語。16サンチクルップ砲全長:3m35cm 口径:15.8cm重量:2,855kg 装薬:2.5kg射角:4.5度で射程:3,983m施条有 ドイツ製「12ポンドカノン砲」。「カノン砲」は遠距離を射撃するために、長い砲身から大きな初速の砲弾を平らな弾道で発射する。ほかの同口径の火器に比べ、砲身、砲架ともに大型で,重量も大きい。カノン砲は砲弾の重さによって分類される。12ポンド砲とは(通常)12ポンド・5.44kgの重量を持つ砲弾を使用するように設計されているということ。12ポンドカノン砲全長:2m13cm 口径11.6cm重量:1,000kg 装薬:1.2kg射角:32.5度で射程:4,700m施条有スクリューシャフトと上下装置(真鍮製)。写真の右側がエンジンの方へ繋がり、右端の溝のある部分がスクリュー側になると。つまりスクリューユニットが上からストンとこの溝に嵌まって、マイナスのネジを回す要領でスクリューを回転させる構造。後ろにあるギザギザの部品がスクリューの昇降装置のようだ。修学旅行?生の姿も前方に。「スクリューシャフトと上下装置開陽丸のシャフトの最後部。長さ重量とも出土遺物のなかでも最大級のもの。全長 680cm、最大径 88cm、推定重量 6t、左手前は上下装置。帆走時には波の抵抗を避ける為、スクリューを上昇させる装置。帆船から蒸気船に移行する過渡期の特徴である。」帆走のみの時には二枚羽根のスクリュー抵抗になり、かえって邪魔になるので、スクリューユニットを主軸からはずして引き上げられるような当時では最新式の設計がしてあったのだと。 【http://www5f.biglobe.ne.jp/~wakatake/SS/kaiyoumalu.htm】より沈没していた船体の一部も展示されていた。そして前方に復元された「開陽丸」が夕日を浴びて。復元された「開陽丸」の内部は「開陽丸記念館」になっていた。「開陽丸記念館」入口がここであったが、この日は館内には入らなかった。「開陽丸記念館」案内ボード。「開陽丸記念館開陽丸は、江戸幕府か諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました、昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。」別の場所にあった「開陽丸記念館」案内板。開陽丸は、江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸はヽ江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたがヽ明治元年(1968)に工差沖で座礁・沈没しました。昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。と、説明文は上のものと同じであったが・・・???。案内板下部にあった、沈没した「開陽丸」の遺物引き上げ時の写真。「開陽丸」2F 作戦会議室の写真。開陽丸に積まれていたドイツ製の武器・クルップ砲の写真。幕末の軍艦「開陽丸」をパンフレットから。「開陽丸」の基本情報。3本マストの汽帆船で、補助蒸気機関は約400馬力で、蒸気エンジンだけで約10ノット(約18km)で航行することができた。「開陽丸」は蒸気船だが、帆を展開して帆走もできるいわゆる汽帆船であった。帆装:3檣シップ型 面積:2,097.8平方メートル 最大速力約10ノット(汽走時)写真の煙突は、帆走時には潜水艦の潜望鏡のように艦内に収納できるような仕組み。また蒸気船としての推進システムでは、スクリュープロペラを使った「スクリュー船」。これは幕末に浦賀沖に現れたペリー艦隊の蒸気船さえ、水車のような外輪で水を掻いて進む「外輪船」だったことを思うと画期的なことであったと。「えさし海の駅 開陽丸」を裏から見る。「開陽丸」が暴風雨に襲われ江差沖に座礁・沈没したのは、1868年(明治元年)11月15日の夜。土方歳三らと打ち合わせて、江差攻略戦に参加した際の遭難であった。「開陽丸」の喪失により、旧幕府軍の海軍力は急速に低下。逆に勢いづいた明治新政府軍の攻撃を受け、翌年の1869年(明治2年)5月に榎本武揚ら旧幕府軍は降伏することになったのであった。「開陽丸」の後部に回り込み。前方の島が「鴎島(かもめじま)」。「北海道立自然公園 かもめ島」案内板。「かもめ島お散歩MAP」。江差港にある海抜20メートル、周囲約2.6キロメートルの陸繋島で、多くの釣り客で賑わうフィッシングスポットとして知られる。島の入口付近は砂浜になっていて、島に向かって右側は「前浜」、左側は「えびす浜」と呼ばれている。「えびす浜」は夏期間の海水浴場としても使われている。鷗島にはいろんなスポットがある。① 馬岩(うまいわ)、② 瓶子岩(へいしいわ )、③ 千畳敷、④ 江差追分記念碑、⑤ 厳島神社⑥ 浪切鳥居、⑦ 北前船係留跡&北前船飲用井戸、⑧ 徳川幕府砲台跡 等前浜側の島の隣には高さ約10mの「瓶子岩(へいしいわ)」があり、古来より漁民の守り神として地元漁師から崇拝されている。2015年(平成27年)4月には、厳島神社建立400年を記念して、厳島神社四百年記念実行委員会の有志によって「瓶子岩」の前に「朱の鳥居」が建立された。鳥居は厳島神社と瓶子岩を望む方角を向く位置に設けられている。鴎島の脇に建つ「瓶子岩」。瓶子(へいし・酒徳利)を逆さまにした様な姿であることから名が付いた。伝説では、折居(おりい)という姥が、神から託された瓶に入っている水を海に注いだところニシンが集まり、江差でニシン漁が盛んになった。その瓶が岩に化したとされている。毎年、「かもめ島まつり」が行われている7月第1土曜日に、しめ縄飾りの架け替えが行われる。左側の「えびす浜」の浜辺を歩くと右手に遊歩道が。ズームで。「馬岩伝説では、源義経は衣川(岩手県)で死んでおらず、江差へ渡ってきました。鴎島の断崖にある白い岩は、義経がさらに北へ逃れる時に、残された義経の愛馬が石になったものと伝えられています。」これが義経の愛馬が石になったと言われている「馬岩」。ライオンの顔の如し。「開陽丸」が夕日に輝く。そろそろ、塗装補修が必要。この時は、引き潮の時間であったのだろうか?座礁の状態?夕日も「鴎島」の丘に沈んで行く。ズームして。更に。再び「えびす浜」の波打ち際を歩き「開陽丸」の前まで戻る。正面から。上部に取り付けられているこの船の紋章は、徳川家の家紋(三葉葵)をデザイン化したものであると。しかし「三葉葵」の形に違和感を感じたのであったが・・・・。夕日を背景に。アシナガオジサンの勇姿をここでも自撮り。マストには数え切れない数のロープが複雑に。帆を張り航行する「開陽丸」の絵の姿をネットから。【https://hananomichi.at.webry.info/upload/detail/005/646/54/N000/000/000/156766351423511637318-t humbnail2.jpg.html】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.03
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「上之国館(勝山館)跡」の散策を楽しんだ後は、再び国道228号に戻り、「上之国館(勝山館)跡」のスタンプを頂きに行く。「続日本100名城」のスタンプラリーのスタンプは、平成31年4月6日(土)から「勝山館跡ガイダンス施設」に設置してあるとのことであったがこの日は休館日。ネットで調べてみると「勝山館跡ガイダンス施設」が休館日や閉館期間の場合には「上ノ国町総合福祉センター ジョイ・じょぐら」に設置をしてあるとのことであった。「上ノ国町総合福祉センター ジョイ・じょぐら」を探したが、良く判らない為、TELし確認すると「建物の入口に『鳥居』がある」と。『鳥居』のある建物が見つからず更に国道228号沿いの「上ノ国郵便局」に立ち寄り尋ねてみると、目の前にあることが解ったのであった。この木製の『灯籠』(『鳥居』ではなく)から入った場所であることが判ったのであった。ここは教育委員会の事務所にもなっているのであった。入口には、地元の方の手作りの作品が展示されていた。ところで「ジョイ・じょぐら」の名前の意味は?「じょぐら」はこの地方の方言?巨大な鯉の絵画も。そして、なんとか「上之国館(勝山館)跡」の続日本百名城のスタンプをGET出来たのであった。次に訪ねたのが、近くにあった「史跡 洲崎館跡」。北海道檜山郡上ノ国町北村92。「史跡 洲崎館跡 長禄元年(1457年)の戦いで功を挙げた武田信広が上ノ国守護であった蛎崎季繁の養女である安東政季の娘を妻とし同年築いた館である。またこの時信広は「建国の大礼」を行なったとされている。その後信広は地の利と景勝を誇る夷王山のふもとに勝山館を築き松前藩300年の基を作った。 近年中国銭2,500枚、中国製青磁、白磁、国産の珠洲系陶器や人骨が発見されている。館の内部構造については未調査の為不明なところが多い。この館は武田・蛎崎氏が道南和人社会の中で支配者として成長する基礎を固めたところであり、更に和人勢力の移り変わりを知ることのできるところとして大変重要な遺跡である。又この館は北海道の館の中でただ一つ成立年代が明らかである。 館の保存に御協力をお願いします。尚近くで工事等を行なう時には事前に連絡して下さい。」「史跡上之国館跡のうち洲崎館跡」碑。そして右手には「上ノ国小学校発祥之地 砂館小学校跡」碑が立っていた。そしてこの場所には「砂館神社(すなだてじんじゃ)」もあった。狛犬も風雪に耐えて(左)。狛犬も風雪に耐えて(右)。「社殿」。「砂館神社」はもと毘沙門堂といって、寛正3年(1462)松前氏祖武田信廣が洲崎館内に建てた社で、以後、洲崎館の守り神として祀られた。洲崎館はコシャマインの戦い後、武田信廣により長禄元年(1462)8月に築かれ、後に造られた勝山館とともに松前藩の基礎を築いた館として貴重な史跡。これらのことから、砂館神社は上ノ国八幡宮、夷王山神社とともに上ノ国三社として、松前藩から敬われ、江戸時代末頃まで、藩主による一代一参(藩主が代わった時に1回は参拝すること)が行われ、また、毎年正月には家臣たちが藩主に代わって参拝した。安永7年(1778)12月の火事で焼失したため、翌安永8年藩主松前道廣によって再建された。再建の経緯を示す棟札4点が、合わせて北海道指定有形文化財 に指定されているのだと。扁額は「砂館神社」。「社殿」の奥に「本殿」。洲崎館からは、現在までに、銭2500枚、中国製青磁、白磁、国産の珠洲焼擂鉢、人の頭骨等が発見されているのだと。そして再び国道228号に戻り江差方面に向かって進む。前方に我が市にある「江の島」の如き島が見えて来た。鎌倉の海岸から見る湘南海岸の景色にそっくりなのであった。島の名は「鴎島(かもめじま)」。島の手前に帆船の姿が確認できた。これが次に訪ねる「開陽丸」なのであった。途中、廃線になった「旧江差線江差駅」にも立ち寄った。函館から各駅停車で約2時間半。峠を越え、凍(い)てつく川を越え、日本海沿いへ。渡島(おしま)半島をゆっくりと走る江差線は、しかし非電化区間の木古内(きこない)~江差駅間42.1kmが2014年(平成26年)5月12日に廃止になったのだ。さらに北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間の開業に伴い、2016年(平成28年)3月26日に並行在来線区間となる五稜郭駅 - 木古内駅間が第3セクター・道南いさりび鉄道へ移管され、「道南いさりび鉄道線」となったのであった。しかし「旧江差資料展示館」👈リンク は開いていなかった。町では江差駅があったことを記憶にとどめるため、また地域の方々が気軽に立ち寄り交流できるスペースを設けるため、江差駅前の空き店舗を利用し、2018年(平成30年)3月26日に「旧江差駅資料展示館・地域交流館」をオープンさせた。資料館では実際に江差駅で使われていたイスや備品などのほか、JR北海道から提供された制服を展示していると。また、江差町在住の写真家辻晴穂氏が撮影した写真の巨大パネルや、開業当時と廃線当日の様子を伝えるパネルも展示しているとのことであったが。「旧江差線江差駅」に立つ「ありがとう江差駅」👈リンク。その下には線路も残されていた。木柱の上には駅長の帽子が載っていた。線路も途中までで線路止めがあった。しかしここが江差線の終点駅であった。駅名標「えさし 江差」。手前の駅が「上ノ国(かみのくに)」であったと。「江差線のあゆみと記念モニュメント 江差線は、湯ノ岱・江差間が昭和11(1936)年11月10日に開業し全線が開業となりました。檜山の人と物との輸送で活況を呈し、昭和36(1961)年には準急が定期列車化となり、昭和43(1968)年には準急が急行へ昇格しました。その後自動車の普及に加え人口も減少し始めたことなどから鉄道の利用者も少なくなっていき、昭和55(1980)年には急行が廃止され、北海道新幹線が開業すると同時に江差線(五稜郭・木古内間)が第三セクターに移行するため、木古内・江差間がいわば飛び地となることもあり平成26(2014)年5月11日の最終営業をもって江差線(木古内・江差間)が廃線となりました。最後の江差駅となった駅舎は昭和50(1975)年にコンクリート造に改築されたものですが、江差線(木古内一江差間)の廃線に伴い、平成28(2016)年にレールとともに解体・撤去されました。跡地には町営住宅とともに公園を整備しましたが。江差線があったことを偲ぶため、公園内に実際に江差線で使用されていたレールや枕木などを利用したモニュメントを整備しました。」在りし日の「江差駅」の姿をウィキペディアより。平成26(2014)年5月11日の「最終便を見送る町の人々」をネットから。 【https://www.iza.ne.jp/kiji/life/photos/140511/lif14051122300027-p4.html】より 平成26(2014)年5月11日 の当日、駅前で配布されていた号外 もネットから。 【http://bono-kingston.blogspot.com/2014/05/】よりそして旧江差駅を後に国道228号を北上すると、次第に太陽も水平線に近づいて。時間は16:03。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.02
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上之国館(勝山館)跡の散策を続ける。再び江差方面の町並みと山々、そして風力発電設備を見る。「中央の通りと櫓門」「中央の通りと櫓門勝山館跡中心部の中央を幅約3. 6mの道が通っています。道の両端には、板と杭で土留めをした幅45cmほどの溝があり、両側の住居から流れ出る雨水などを流す工夫がされています。正面の橋を渡って40mほど中に入った所に、通りをまたぐように立つ、とても大きな四本一組の柱跡が見つかりました。遠くまで見渡す櫓門という高い門があったと思われます。」「中央通りと櫓門」のCGによる復元イメージ。四本一組の「櫓門の柱跡」を見る。「城代の住居あと」ズームして。「城代と住居あとこの建物は城代(城主に代わって城を守る人)または重臣の住居と思われるもので、勝山館の中では客殿の次に大きく、立派な建物です。正面を中央の通りに向けた長方形の建物です。内部は客間、居間、寝室、台所などの部屋に分かれていたと思われます。」「城代の住居の跡」のCGによる復元イメージ。「柵の復元」「柵のあと勝山館の中心部(主郭)は柵で囲まれています。溝を掘り、その中に丸太を立て並べ、柵を作ります。急な斜面や深い堀、櫓などとあわせ、敵からの攻撃を防ぎました。」「客殿のあと」通りからの正面に廻って。「客殿のあとこの建物は勝山館跡の中ではもっとも大きな、中心になる建物で、館の主が使っていたと思われます。板塀で囲まれた約2000m2の敷地の中にあります。客殿は広さ約30m2の正方形(三間九間)の部屋がニ室続いています。南側の部屋は客人をもてなすための部屋(客殿)で、畳が敷かれ掛軸などが飾られていたと思われます。その隣は居間(常居)、奥の部屋は寝室・書院(御座の間)などと考えられています。また客殿のまわりには別棟の玄関や台所と思われる建物や、庭、専用の井戸などもありました。発握調査ではルソン壺と呼ばれる高級な茶壺などのお茶道具、紅を溶いた皿(紅皿)などが見つかっています。茶碗や皿などの食器も中国製のものが多く使われています。(ルソン:現在のフィリビンのことですが、ルソン畳自体は中国製のものでした。)」CGによる復元イメージ。「井戸と板塀のあと」「井戸と板塀のあと客殿や城代の住居がある敷地は、南西部を一段高くして板塀を立て、ほかの地区とはっきり区別しています。客殿には広場に面した板塀の南端の門から出入りします。板塀の近くには深さ5. 2mの客殿専用の井戸がありました。」深さ5. 2mの客殿専用の「井戸」。「庭のあと」。「庭のあと客殿の北西部に直径5mmほとの小砂利が一面に敷かれ、中央には直径12cm前後の平らな小石が立て並べてありました。石が抜けてしまった部分もありますが、「平庭」のようなものだったようです。客殿の主は、北隅の書院(御座の間)からこの庭を眺めていたと思われます。寺ノ沢にある石積みの「鶴の池」の周りにも庭があったようです。」「鍛冶工房のあと」「鍛冶工房のあと ー鎧修理・作業場のあとー板塀で囲まれた敷地の西隅に、4✕5mの範囲で小砂利が敷き詰めてありました。純度99 %の銅の地釜や銅を溶かす皿、炉に風を送り火力を高める鞴(ふいご)の羽口などの鍛冶作業に必要な道具や、釘317本、鎧を作る鉄の板(小札)149枚、鎧の鋼製飾り金具37点などが見つかりました。館主の鎧を修理したりする作業場だったと思われます。」「井戸」の先には、風力発電設備も見えた。ズームして。大手門前の東側の「二重空堀」。反対・西側にも「二重空堀」が。「大手虎口」。「大手空堀」に架かる木橋。館の「土塁」とその傾斜。「大手空堀」に架かる木橋手前から、「館神八幡宮」方面を見る。勝山館ジオラマから。散策はここまでとし、帰路につき「中央通り」をガイダンス施設の駐車場に向かって戻る。「櫓門跡」を「館神八幡宮跡」に向かって見る。道に埋め込まれた「櫓門跡」石板。「館神八幡宮跡」の丘を再び見る。樹木の手前が「搦手門」。帰路に再び「館神八幡宮跡」の先の堀を見る。そして上之国館(勝山館)跡の山道を下り「夷王山」を再び見上げる。「夷王山」の山頂付近には「夷王山神社」の鳥居が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.01
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「道の駅 上ノ国もんじゅ」を後にして、国道228号から分岐した坂道を暫く上っていくと左手下に駐車場があり、ここに車を駐め「勝山館(かつやまだて)跡」の散策を開始する。駐車場横には「勝山館跡ガイダンス施設」があった。「勝山館跡ガイダンス施設」では模型や映像で勝山館を案内していると。映像コーナーでは、北の中世史を解説するビデオ、「勝山館とその時代」が放映されているが、勝山館の発掘結果をもとにしたコンピューターグラフィックスによる勝山館の復元が話題を呼び、注目されている。また、この建物の地下にある勝山館の人たちのお墓のうち、火葬墓1、火葬の跡1、屈葬土葬墓5の計7基のお墓が発掘されたそのままに型取りして元の位置に再現されていると。同時に特別展示されている過去4半世紀におよぶ発掘調査の出土品は、勝山館の成り立ちや人々の暮らしや、北の豊かな中世世界を教えてくれるのだと。しかし入り口には「準備中 開館 午前10時」との案内表示があったが時間は14:29。ネットで調べてみると、この日10月19日は月曜日で休館日と。「勝山館跡ガイダンス施設」内のこの続日本百名城「認定証」の写真を撮りたかったが・・・。 【https://kazu1207.blog.fc2.com/blog-entry-480.html】より館内の中央に置いた勝山館の200分の1の復元模型は、正面のガラス越しに現地と見比べることで、より高い臨場感を得られるものとなっていると。 【https://japanin.jp/image/c1ea2be11b49a6】より「勝山館跡」散策マップ。上空からの想像図です。下の想像図の左側が、上の地図の下側になります。 【http://napoleone.at-ninja.jp/Hokkaido/Katsuyama/Katsuyama.html】より駐車場の横には小高い山・「夷王山」があった。標高159mの山頂からは、上ノ国市街はもとより、日本海に浮かぶ奥尻と大島の島影、熊石方向へ延びる海岸線が一望できる。付近一帯には約500種の山野草が咲き乱れ、エゾヤマツツジの名所としても有名。「夷王山」は、松前氏の祖武田信廣や蠣崎氏一族の居館・「勝山館跡」の「詰めの丸」ともいわれ、山頂には武田信広を祀る夷王山神社(古くは薬師如来などを祀り、医王山頭陀寺と言った。)があると。「夷王山墳墓群勝山館跡の背後から夷王山ののあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2✕1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積ん墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には硯、玉なども副えられていました。いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。」「史跡上之国館跡のうち勝山館跡」碑。「勝山館」は、北海道檜山郡上ノ国町にあった中世の日本の城(山城)。昭和52年(1977年)4月12日、「上之国館跡」のうちの一つ「勝山館跡」として国の史跡に指定された。平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(102番)に選定された。築城年代は不明だが、館北端にある館神八幡宮(たてがみはちまんぐう)の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、この頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。」とウィキペディアより。山の斜面には、遺跡の存在を示す白い杭が打たれていた。「第Ⅱ地区36号墳」。途中、このような看板が。そしてその直後に、山の木々の間に動くものを発見しビックリ。カメラでズームして見ると、熊ではなさそうで安堵。色合いと体毛の状況からタヌキのようであった。それにしてもフクヨカなタヌキであった。「夷王山墳墓群のアイヌ墓仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾りをつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。」山道を下っていく。そして舗装された小路まで来る。「勝山館の後ろの守り(-神仏に守られて-)1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部はニつの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。」「搦手」「城の正面を大手といい、背後を搦手といいます。勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを堀り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がV字形の「薬研堀」となっていました。空堀は15世紀後半から16世紀の間にIからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。」周囲は山に囲まれて。空堀、土塁、そして上部に柵が見えて来た。そして空堀には木橋が架かっていた。「空堀跡」「館神(たてがみ)八幡宮跡」。全ての遺跡群は発掘調査後、境界を石で、内部は砂利を敷き詰めて保存されていた。右手に「室町創建社跡」と。左手に「江戸再建社跡」と。「館神八幡宮跡1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。高い部分を削り下げ、西から南を囲む土塁を造って柵を立て、正面に搦手門を設け堀を渡る橋を架けています。土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。現在の上ノ國八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。」別の角度からを見る。「館神八幡宮跡」周りの遺跡の配置図。中央通りの右手にあったのが「掘立柱建物跡」。「掘立柱建物跡」と。反対側にも「掘立柱建物跡」があった。「柵列跡」。そして前方には江差方面の海が見えて来た。なだらかな曲線美の「内郷浜」そして厚沢部川河口の「砂坂海岸」方面が眼下に。ここから先の遺跡群が「勝山館」の中心地。「東の厳重な守り ー帯郭と物見櫓ー」「東の厳重な守り ー帯郭と物見櫓ー勝山館跡の中央には幅3. 6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100 ~ 140m2ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになっています(帯郭)。堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。」「住居群」のCGによる復元イメージ。「建物の配置と種類」。中央には幅3. 6mの通路が通り、道の両側に、広さ100 ~ 140m2ほどの土地を階段状に造って住居などが建っていた事が理解できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.11.30
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