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東京の西部に位置する調布市『國領神社』に行ってきましたゴールデンウィーク満開です〜2024年4月25日訪問 こくりょうじんじゃ調布市『國領神社』国領神社 こくりょうじんじゃ「國領神社」・・・とは?東京都調布市国領町1-7-1に鎮座する神社登記上の宗教法人名は「国領神社」(旧字体)國領→国領(新字体)境内の御神木の『千年乃藤のお宮』とも呼ばれておりこの藤の木は・・・「ちょうふ八景」調布八景の一つに数えられる。主祭神は、神産巣日神。配祭神として「天照御大神」「建速須佐之男命」を祀る。國領神社は・・・古く多摩川のほとり(杉森の地)に鎮座していた第六天社(のちの國領神社)と神明社(八雲神明社または杉森神社とも)の二社を合祀し『國領神社』と総称される神社である。『國領神社の千年乃藤』The Thousand-year Wisteria of Kokuryo-jinja Shrine神社の大木の藤は、毎年4月中旬から5月中旬にかけゴールデンウィークの頃に開花し薄紫色の華麗な花を咲かせる。國領神社は、もと八雲台小学校北裏にあった國領神社の境内地近辺に都営住宅建設の計画が持ち上がり現在地にあった神明社を合祀して1963年(昭和38年)10月12日に旧國領神社を迎えて新社殿を造営し鎮座しました。「神明社」当時1640年(寛永17年)には、すでにこの藤の木は存在しており樹齢400年〜500年とも言われている。あらら〜1000年ではない当時の人々により古くから畏敬の念を込めて「千年乃藤」「千年藤」と呼ばれ長い歳月を経て今もなおよく延びて茂るため延命や子孫繁栄などの御利益があるとされている。國領神社への行き方・・・とは?東京都調布市国領町1-7-1甲州街道沿い「八雲台小学校」の向かい 京王線「布田駅」北口から5分 京王線「調布駅北口」発のバス 【吉14】【調34】【調35】に乗車 「八雲台小学校前」下車し2分「神戸屋キッチン」と「八雲台小学校」間の交差点から新宿方向にすぐ見える小さな神社写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.28
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池上本門寺に行ったのは七五三以来です〜おっと何十年ぶり いけがみほんもんじ『池上本門寺』 大堂(祖師堂)2024年4月6日(土)訪問満開の桜ですが〜お天気がイマイチ翌日7日が「花まつり」春まつりという事で象さんがスタンバっています。花の精に選ばれた子どもたちが大堂(祖師堂)の前から白い象の山車を引いて歩くのです。大堂「祖師堂」の左奥には・・・建設中の三重塔が三重塔『清正公堂』ほぼ完成ですか せいしょうこうどう加藤清正生誕960年と此経難坂建設400年の報恩事業として建設されています。その左には、一段と古い建築物が・・・『経堂』1784年(天明4年)健立。第二次世界大戦の空襲で焼失を免れた建築物の一つで内部には、輪蔵形式の回転する八角形の書架があり天海版一切経が収められていた。(現在は別途保管)『鐘楼』現在の鐘楼は、1958年(昭和33年)の再建。旧梵鐘は、1647年(正保4年)加藤清正の娘で徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進旧鐘楼が空襲で焼失したため現在は、再建された鐘楼に保存されている。『日朝堂』常唱堂左右に「日朝上人」学業成就・眼病平癒の旗日朝上人・・・とは?応永29年(1422年)伊豆宇佐美で誕生8歳で出家、優秀で苦しい修行に耐え41歳の時に身延山第11世法王となり現在の身延山久遠寺の基礎を築かれ関東に布教し40余の寺を健立する長年の苦労で61歳の時に両目を失明のちに視力を回復したことから目病平癒、学業成就のご利益があるとされる。 2024年4月6日(土)残念な天気桜は満開 祖師堂の手前満開の桜の下でお茶会祖師堂の裏から西に下った所まで行くと宝塔『多宝塔』重要文化財新編武蔵風土記によるとこの地にはかつては2間に3間の灰堂があり当初、本門寺の池上宗仲が宝塔を作り日蓮の遺灰を中に盛って奉安したと伝えられる。1828年(文政11年)日蓮の550遠忌を記念し犬山城主・成瀬氏らを本願主として再建1851年(嘉永4年)修復円筒型の塔身に宝形屋根を載せた宝塔形式の木造塔で内部空間を有するものは他にほとんど類例がない。♪池上名物グルメ♪元祖 久寿餅 池上『池田屋』大田区池上4-24-1池上本門寺にお参りして池田屋さんへ賞味期限は6日間で一人前からあります池上本門寺のくず餅は、柔らかめです(賞味期限6日間)亀戸天神社のくず餅は、硬めです(賞味期限2日間)食べ比べました〜どちらも美味しい場所は「総門」から出て2分ほど右側池上本門寺への行き方・・・とは?車:第二京浜「池上二丁目」信号右バスでは「本門寺前」下車が近い電車:JR山手線「五反田」で乗り換え電車:東急池上線「池上駅」下車 JR京浜東北線「大森」からバスで「本門寺前」下車写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.27
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750万アクセス達成!ありがとうございます〜池上本門寺の「春まつり」満開の桜とお釈迦様のお誕生日「花まつり」が華やか いけがみほんもんじ『池上本門寺』桜広場2024年4月6日(土)午前訪問池上本門寺は、日蓮宗の大本山です。弘安5年(1282年)日蓮聖人は、病気療養のため身延山を下山し常陸の湯に向かいましたが、途中の武蔵国・池上宗仲公の館(現在の大坊本行寺)にて10月13日(午前8時頃)61歳でお亡くなりになりました。本門寺の五重塔の左側にこんな看板が五重塔は桜広場で周囲は、墓地です。有名人の墓地が多々あるのだそうで・・力道山の墓所はあちらです『力道山の碑』力道山の墓所『力道山』・・・とは?本名:百田光浩1924年11月14日〜1963年12月15日大相撲の力士から、プロレスラーに転向し当時の日本は街頭テレビに庶民が熱狂し群衆は力道山の空手チョップに熱中。本門寺には、多くの有名人のお墓がある宗祖:日蓮、力道山、幸田露伴、11代目:片岡仁左衛門 児玉誉士夫初代:松本白鸚 川上彦斎・・・ほか。いよいよ『大堂』へ大きい池上本門寺『大堂』祖師堂「祖師」すなわち、『日蓮』を祀ることから「祖師堂」ともいう。旧大堂は、本門寺14世:日詔の時代1606年(慶長11年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため健立したが、1619年(元和5年)に焼失1628年(宝永7年)再び焼失1723年(享保8年)本門寺24世:日等時代の8代将軍:徳川吉宗の用材寄進により規模を縮小の上再建された。1945年(昭和20年)4月の空襲で焼失1948年(昭和23年)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設1964年(昭和39年)現在の大堂を再建した。現在の大堂は、鉄筋コンクリート造、高さ:27m「大堂」の文字は本門寺80世:金子日威の書それでは、中に入りましょう〜4月8日は、お釈迦様のお誕生日お釈迦様が生まれた時に天より甘露が降り注いだとの言い伝えから甘茶をかけてお祝いします。その時「天井天下唯我独尊」唱えと右手を挙げ左手で地を示した。順番に甘茶をかけましょう〜堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には、日輪聖人坐像、左には、日朗聖人坐像1966年(昭和41年)川端龍子による天上画「未完の龍」が描かれている。この日は、お宮参り?お寺の初参り?の方がさすが本門寺は、煌びやかですね〜健やかに育ちますように写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.26
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池上本門寺を訪問したのは、2024年4月6日(土)桜が満開でした いけがみほんもんじ『池上本門寺』Ikegami Honmon-ji Temple東京都大田区池上1-1-1曇り空ですが〜桜は満開です池上本門寺「総門」Ikegami Honmon-ji Temple So-mon 東急池上線「池上駅」10分池上本門寺は、日蓮宗の大本山である。総門(そうもん)は、区指定文化財元禄年間(1688年〜1704年)の建造広重の「江戸百景」にも描かれた名所「本門寺」の文字は・・・本阿弥光悦の書を彫刻したもの。(現在の彫刻は複製)総門をくぐると目前に聳え立つ石段が しきょうなんじざか『此経難持坂』Ikegami Honmon-ji Temple Stone Steps石段の段数は・・・96段「法華経」宝塔品の詩句96文字にちなんで96段の石段とし、詩句の文頭の「此経難持」をとっての坂名である。下から登ると・・・15段・16段・16段・16段・16段・17段長さ:58m幅:6.0m高低差:17m踏み面:36cm~38cm 斜度:26度小さな子どもは、パパに手を引かれおばあちゃまは、杖をついて一段一段加藤清正が、慶長年間(1596年〜1615年)に建設し寄進したと伝わる。石段を登って右満開の桜の下で休憩『日蓮大聖人説法像』満開この像は、宗祖第700年遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので北村西望先生の作品です。材質:純アルミ高さ:3.4m重量:1t.日蓮宗の宗祖:日蓮さまのお姿でした。 におうもん『仁王門』正面に建つ二重の屋根になった二重門は、旧国宝の山門。1945年(昭和20年)第二次世界大戦空襲で消失1977年(昭和52年)『仁王門』として再建。左右の門の中には・・仁王像が安置されプロレスの「アントニオ猪木」さんをモデルに製作されて有名になりましたが近年、修理を機に本殿内に移設され、現在の仁王像は、新たに2001年(平成13年)10月仏師:原田佳美作の「仁王像」が開眼供養され奉納アントニオ猪木さんがモデルではない。山門の前には、こんな立て看が「五重塔まつり」一年に一度のご開帳数量限定『五重塔開運守り』一体1000円あら〜すごい日に来てしまいました私って幸運があちらからやって来てますと思ったら右手の方から「お経が聞こえて来ました!」小坊主さんの声ではなく・・・満開の桜の先から聞こえてきます『五重塔』の方角から一年に一度のご開帳のお経が〜「五重塔まつり」です!右のテントには、大行列が・・・年に一度の御朱印がいただけるこの日に遭遇両側は、墓地ですが桜が満開今まさにお経が唱えられています〜人々は『五重塔』の前で待っております〜『五重塔』の由来江戸幕府2第将軍:徳川秀忠公の武運長久・病気平癒を池上本門寺に祈願した秀忠公の乳母部局(法号:正心院日幸)が願主となり秀忠公が健立・寄進した古〜い建物。慶長12年(1607年)に上棟、翌13年4月に落成供養を修している。関東に現存する最古の五重塔である国の重要文化財に指定されている。毎年4月の第一土日に行われる(この日)「五重塔特別祈願」において開扉される1年に一度、この時だけ開かれる扉の中美しい重要文化財 桃山時代・慶長13年(1608年)健立長いお経が終わり和尚さんがお守りを手渡しテントに運ばれました〜即購入私は、黄色の房の五重塔を購入「金運」が良くなるかしら?と言うと次に並んだオバちゃまは、年だからお金はもう要らないから「健康」だわ!紫かしらね笑(木製の五重塔に鈴が付いて1000円也)写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.25
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亀戸天神社にやってきました〜拝殿の上にスカイツリーが角みたい亀戸天神社(亀戸天満宮)本殿2024年4月20日(土)訪問入場:無料亀戸天神社のはじまりは・・・正保年間(1644年-1647年)菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官菅原大鳥居信裕は、天神信仰を広めるため社殿健立の志をもち諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った「天神像」を奉祀したのが始まりとされる。当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は、復興開発事業の地として本所の町をさだめ、4代将軍:徳川家綱は、その鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。寛文2年(1662年)地形を初め社殿・楼門・回廊・心寺池・太鼓橋などが太宰府天満宮に倣い造営された。その昔、総本社にあたる「太宰府天満宮」に対して、 さいふ東の宰府として「東宰府天満宮」あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが明治6年(1873年)に府社となり「亀戸神社」昭和11年(1936年)現在の『亀戸天神社』となり学問の神様として信仰を集め、藤と梅の名所で知られる。菅原道真とゆかりの牛『御神牛』の坐像 拝殿の左に祀られている牛さん菅原道真と牛との関係とは?菅原道真は・・・承和12年「乙丑の年」6月25日に誕生太宰府の配所で亡くなった際ご遺体を乗せた車を引く黒牛が臥して動かなくなり・・・これは道真公の御心による事としてその場を墓所と定め社殿が健立されたのが太宰府天満宮の起源とされています。また、道真公が京都から太宰府へ下向の途中白牛によって危難から救われたという故事も伝えられています。この神牛の坐像は、昭和36年、御鎮座300年祭にあたり御神殿の復興とともに奉納されたものです。拝殿の左手前にある像は・・・『五歳の菅公像』拝殿の右にある建物は・・・『舞殿』その右奥には・・・ みたけじんじや『御嶽神社』御嶽神社と菅原道真公御祭神 比叡山延暦寺第13代座主:法性坊尊意僧正御社殿 寛文9年(1669年)11月21日に九州太宰府御嶽山より勤請し健立され古くは亀戸妙義社とも号されました。現在の御社殿は、菅原道真公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして昭和51年に再建されたものです。祭日 初卯 正月の初卯日 卯日祭 毎月の卯の日法性坊は・・・道真公(天神様)の教学、御祈の師で道真公が逝去ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道真公とのご関係は深く、よって亀戸天神社境内に奉納されました。法性坊は・・・智徳世にすぐれ、天慶3年(930年)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから春の陽気を迎える「卯の神」と尊敬され以来月毎の卯日にはもとより特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、徐病・延命を祈りました。御嶽神社の前にある大きな石灯籠は・・・塩原太助奉納の『石灯籠』天明元年丑年(1781年)8月17日太助は、本所相生町(墨田区両国)で薪炭商を営み、辛苦を重ね豪商をなした。塩原太助(1873年2月26日〜1816年10月5日)心寺池と女橋・男橋・藤棚を右に見ながら下って行くと・・・『筆塚』筆塚は・・・書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。『宮居に遠き人文為に吉書初め(書初め)に 可用筆を文政4年(1821年)より 毎年12月朔日から晦日迄出す』と伝えられ、今も『梅ヶ枝筆』を授与しています。筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行し、廃筆清書の焼納式を行います。筆塚前の藤も美しいです鳥居の左側に入ってから進みます老舗料亭『若福』Wakafuku亀戸三丁目6-4 戦前から亀戸天神社の境内にある懐石料理のお店日本伝統の宮大工建築で落ち着いた雰囲気名物「梅とろろ」国産の大和芋を包丁で叩き紀州産の南高梅の実と特製だしを加えすり鉢で丁寧に混ぜ合わせている(1650円)若福の前あたりに・・・『紅梅殿』御本社と時を同じくして寛文2年(1662年)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勤請し、社殿前に奉斎したのを起源とし昭和63年に現在地に再建される。国産マッチの創始者『清水誠』の頌 岸信介書人類は、原始以来火を自由に使うことによって今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた西欧からマッチの製法を輸入しこれを改良工夫した先人の努力によって飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度100年前でありその創始者が清水誠氏である。明治3年藩命を受けフランスに留学しパリで学んだ・・・省略この辺りからの眺めも良いですね〜亀戸天神社ぐるっと周りました(おわり)写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.23
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亀戸天神社に行ってきました(^0^)太鼓橋から見たスカイツリーに藤が綺麗です〜かめいどてんじんしゃ亀戸天神社 ・・・とは?KAMEIDO TENJINSYA東京都江東区亀戸3-6-1亀戸にある神社(天満宮)である。菅原道真を祀る学問の神様で受験生やその家族のお参りが多い通称=亀戸天神、亀戸天満宮とも呼ばれる。亀戸天神社の大鳥居は、立派ですね『亀戸天神社』へのアクセスは・・・ JR総武線「亀戸」北口から15分 都営バス【上26】上野公園←→亀戸駅で「亀戸天神前」下車すると目の前が亀戸天神社ですさぁ〜赤い鳥居をくぐるとすぐに2つの太鼓橋が見える『男橋』があります続いて『女橋』があります。太宰府天満宮を模して造られました。池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」に基づきこの橋は、過去を表します。『女橋』は、希望の未来を表します。太鼓橋は・・・歌川広重作『名所江戸百景』シリーズ「亀戸天神境内」に描かれた。太鼓橋右側から見た藤棚(2024年4月20日撮影)真上から藤棚が見える景色は、ここだけです。『女橋』からはスカイツリーと「本殿」が見える思ったより高いので景色を楽しめます『女橋』を下ると下から「藤棚」が楽しめます4月19日〜29日頃が見頃でしょうか?水面に映る藤の花と香りが楽しめる右には弁天様が『弁天社』七福神のお一人であり無量の福徳を与える「弁財天」水の神音楽の神の信仰を集め一般には、弁天様として信仰されてきました。芸能人や音楽関係の方のお参りが多い『心字池』と亀九州の太宰府天満宮を模したという池には、クサガメ、ニホンイシガメ、ミシシッピアカミミガメなどの3種類がいる。受験生が合格のお礼として池に亀を放流していく人がいるそうです。本殿の手前まで来ると・・・「手水」で清めましょう〜いよいよ『本殿』到着です。お賽銭を用意して並びましょうかううう〜長くなりましたので(つづく)写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.22
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東京十社めぐりをしています〜昨日は「亀戸天神社」の藤まつりに行きましたかめいどてんじんしゃ亀戸天神社『藤まつり』KAMEIDO TENJINSYA2024年4月20日(土)午前訪問めっちゃ〜良い香り〜♪亀戸天神社の「藤」は・・・4月の中旬から境内に50株以上ある藤の花が次々と咲き始めます。心寺池に映る姿と淡く上品な香りに魅了され「東京一の藤の名所」であります。江戸っ子だけの楽しみは、海外にまで知られるようになり外国からのお客さまにも知られ観光バスを並べていらっしゃるようになりました『新東京百景』亀戸天神社新東京百景・・・とは?1982年10月1日、「都民の日制定三十周年」を記念して東京都によって選定された100の風景。都内ならではの「都市の景観」「自然の景観」「名所・旧跡」など都内の景勝地が、東京都民の公募によってエリア別に選出された。いやいや〜この百景制覇は無理それにしても「都民の日」っていつから無くなったのかしら?2024年4月20日(土)藤の花は・・咲き始めです〜が美しい一番の見頃は、来週かしら?おや?花より団子亀戸天神社の名物は・・・葛餅創業文化2年『船橋屋』本店 くずもち元祖「くず餅」すごい行列ですが〜ネットで買える時代パッケージが素敵なのです描いたのは、歌川広重 Utagawa Hiroshige名所江戸百景『亀戸天神境内』広重の描いた「江戸百景」の一枚江戸時代には・・・すでに藤の名所として知られていました。藤の奥に太鼓橋と池が描かれ素敵な画面構成ですね〜 平成の太鼓橋は、赤く塗られています東京都内の「藤」の名所・・・とは?◯亀戸天神社(亀戸)◯日枝神社(赤坂)◯小石川後楽園(飯田橋)◯旧芝離宮恩賜庭園(浜松町)◯國領神社(調布)◯神代植物園(調布)まだ間に合います写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.21
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東京下町散歩をしています〜亀戸天神社「藤まつり」に行ってきました(^0^)b『亀戸天神社』藤まつり2024年4月20日(土)朝の様子『東京十社めぐり』・・・とは?THE 10 JINJA OF TOKYO1.王子神社 OJI JINJA2. 白山神社HAKUSAN JINJA3.亀戸天神社KAMEIDOTEN JINJA4.神田神社KANDA JINJIA5.根津神社NEDU JINJA6.氷川神社HIKAWA JINJA7. 富岡八幡宮TOMIOKA HACHIMANGU8. 品川神社SHINAGAWA JINJA9. 日枝神社HIE JINJA10. 芝大神宮SHIBA DAIJINGUうううう〜お参りした神社は赤く塗りましたがなるほど・・・まだ半分です今日、亀戸天神社に行きました〜♪藤の花が咲いていました♪藤まつり4月6日から・・今日は20日こんな感じ かめいどてんじんしゃ3.『亀戸天神社』・・・とは?KAMEIDOTEN JINSYA136-0071 東京都江東区亀戸3-6-1【行き方】 JR総武線「亀戸駅」「錦糸町駅」から15分 15分も歩きたくない私「錦糸町駅」と「亀戸駅」の間ですね〜確か?都営バスが走っているはず・・・都営地下鉄新宿線「押上」下車都営バス【上26】亀戸駅前行→7分 (08)押上→(03)亀戸天神社前[時刻表]8:54→9:01 9:32→9:39 10:11→10:18写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.20
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富岡八幡宮はお相撲の世界では、横綱にとって重要な八幡さまであり小学生にとっては地理のお勉強で大人気です。春の東京下町散歩 とみおかはちまんぐう『富岡八問宮』Tomioka-hachimangu Shr.東京都江東区富岡1-20-3富岡八幡宮には、いくつかの銅像がありますがその中で小学生たちが興味深く見ていた銅像は、このおじいちゃまの姿です いのうただたかどうぞう『伊能忠敬銅像』近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は・・・1745年2月11日〜1818年5月17日(享年73歳)事業に成功したあと50歳の時江戸に出て、富岡八幡宮近くの黒江町(門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に富岡八幡宮にお参りして蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生は、この時を含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して無事を祈念したのち千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。富岡八幡宮は、伊能測量にとってたいへんご縁の深い場所であります。伊能測量開始200年にあたり、「伊能ウォーク』、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して健立されました。平成13年10月 伊能忠敬銅像健立実行委員会その向かいにあるのが「大関力士蔵」・・・とは?『大関力士碑』富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地として知られ明治年間には、歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側の奥)が健立されましたが、この大関力士碑は、歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際には取組みには 入らなかった看板大関を除きます)昭和58年に建てられた碑で、9代目市川團十郎と5代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。富岡八幡宮への行きと方は・・・?最寄駅は『門前仲町』です住所:東京都江東区富岡1-20-3東京メトロ:東西線「門前仲町駅」3分都営地下鉄:大江戸線「門前仲町駅」6分どちらも徒歩圏内で江戸時代からの歴史ある門前町で商店も多く歩くのは苦にならないです下町散歩を楽しめるおすすめスポットお隣には「深川不動堂」がありますここも見所いっぱいです富岡八幡宮殺人事件・・・とは?7年前のこと(忘れていました)2017年(平成29年)12月7日、富岡八幡宮の敷地内で起こった殺人事件。富岡八幡宮第21代宮司(兄)が、神社近郊の路上で前々任の第20代宮司であった(実の弟)に日本刀で斬りつけられ兄を殺害した。共謀していたと思われる弟宮司の妻と二人で日本刀を持ち追跡され運転手さんも傷害を負ったが「お前だけは許してやる」と言われ運転手の命は助かる。その後、弟宮司は、兄宮司を神社敷地内で殺害した後、弟は自殺した。弟宮司は、事件を起こす前に「私は死後も怨霊となり、永遠にたたり続ける」と脅迫めいた文を関係者などに2,800通送った。年始の初詣は、前年5万人の参拝者であったが3万5000人であったと報道され・・あぁ忘れていました〜この事件。ワイドショーで空から空撮された記憶が・・写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.19
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東京の下町をお散歩することを始めて1年ほどでまだまだ行きたい所がいっぱい春の東京下町散歩 とみおかはちまんぐう『富岡八問宮』Tomioka-hachimangu Shr.東京都江東区富岡1-20-3 とみおかはちまんぐう『富岡八幡宮』は・・・通称を「深川八幡宮」“深川の八幡さま”として親しまれ“江戸最大の八幡様”です寛永4年(1627年)当時、永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創設された。周辺の砂洲一帯を埋め立て社地と氏子の居住地を開き総じて60,508坪の社有地を得たのです。江戸時代には・・・源氏の氏神である八幡大神をことのほか尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けた。明治維新には・・・朝廷が准勅祭社に御治定になり勅使を遣わされ幣帛を賜り新しい御代の弥栄を記念されました。毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日。8月、祭礼「深川八幡祭り」は・・・江戸三大祭りの一つ。歌川広重『名所江戸百景』より「深川八幡開き」春に半月の間「山開き」として永代寺の庭園を一般公開したという。社殿は・・・1683年(天和3年)に消失1703年(元禄16年)には地震で損壊1923年(大正12年)関東大震災で損壊第二次世界大戦の空襲でも被害を受けた再建や修復を繰り返した。現在の社殿は・・・1956年(昭和31年)造営され鉄筋コンクリートを使用している。「重層型準八幡造り」となっている。祭礼である通称『深川八幡祭り』は、毎年、8月15日を中心に行われ江戸三代祭りの一つに数えられる。「わっしょい、わっしょい」の伝統的な掛け声と、別名「水かけ祭り」と別称される通り沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられる3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ各町の大人神輿が勢揃いして連合渡御が行われる。おみこしは『富岡八幡宮御本社神輿』日本一の大神輿!!富岡八幡宮は、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より、三神託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納されみこし深川と云われて参りましたが大正12年の関東大震災で惜しくもその全てを消失してしましました。それ以来、御本社神輿の復活は、深川っ子の念願でありました。平成の御世になり昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活いたしました。◯型の名称:屋根延神社型金地塗神輿◯台輪幅:五尺(151.5cm)◯高さ:十四尺五寸(約4.4m)◯重量:4.5トン◯屋根の大きさ:最大幅十六尺(約4.8m)◯担ぎ棒:10本◯ダイヤモンド 鳳凰の目(4カラット2個) 鳳凰の火烙(7カラット) 狛犬の目(3カラット2個、一対) 隅木の目(1カラット2個、4体) 小鳥の目(1カラット2個、4体)◯ルビー 鳳凰の鶏冠(2,010個)日本一の黄金神輿と言われるお隣には・・・「深川不動堂」がありますが小さな寺院マークのみが表示されています。写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.18
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東京の下町をお散歩することを始めて1年ほどでまだまだ行きたい所がいっぱい春の東京下町散歩 ふかがわふどうどう『深川不動堂』Fukagawa Fudoudou東京都江東区富岡1-17-13山門には『成田山』東京別院「深川不動堂」と記されているのでええ・・・っ。成田山ですか?深川不動堂は、古くから『深川のお不動様』と親しまれましたあの 千葉県成田市にある『大本山・成田山・新勝寺の東京別院』なのです。その開創は、元禄16年と伝わり成田山のご本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まります。ご本尊は・・・弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており現在、深川不動堂で奉祀する御本尊は、その御分霊を勧請した、御分身であります。成田山別院の嚆矢(こうし)として法燈は今も守り継がれている。今では、海外からの観光客も多くみなさま一身にお願い事を祈願しています。成田山が庶民の不動信仰が高まったのは江戸中期のことです。成田山といえば・・・「成田屋」成田屋さんは、子供に恵まれなかったので初代:團十郎が、成田山の不動明王に祈願し2代目:團十郎を授かって以来、市川家は、代々成田山を信仰し屋号を「成田屋」と称し芝居の中でも成田山のご利益を上演して大当たりを取ったと言われる作品は『不動』市川團十郎白猿が演じる「不動」ふどう不動・・・とは?独立した演目ではなく、不動明王の扮装で登場する演技形態をいう。元禄10年(1697年)江戸中村座の二世團十郎による『兵根元曽我』が原型とされる。寛保2年(1742年)二世團十郎の『雷神不動北山桜』が初演。「歌舞伎十八番」ではないが、十二世團十郎は、平成4年(1992年)8月歌舞伎座で、『成田山分身不動』を復活させ、十三代目團十郎(当時・七代目新之助)とともに胎蔵界・金剛界の不動を演じている。歌舞伎の人気が不動信仰へ・・・そうしたことと相まって成田山の不動信仰は、江戸庶民の中に浸透していきました。庶民のお不動様ですから〜気軽に階段を上がり靴を脱ぐと、靴を入れるビニール袋がもらえます。中に入ると・・・お参りする所がいっぱいです四国のお遍路を簡単に経験できたり、お願い事に分かれて自由に祈願できます。小銭をいっぱい持参すると良いです。まぁ〜お札でも、大丈夫ですが可愛いお守りも各種売っています。深川開運出世稲荷成田山出世稲荷を勧請したものらしいですが華やかです。深川不動堂への行き方・・・とは?【地図】東京メトロ:東西線「門前仲町」1番出口2分「人情深川ご利益通り」に出ると大きな鳥居を進む 毎月1日・15日・28日に縁日が開かれる。都営地下鉄:大江戸線「門前仲町」6番出口5分拝観料・入場料は、無料です。お隣には・・・「富岡八幡宮」があります写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.17
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浜離宮恩賜庭園を周って来ましたが、桜の時期には早かったので残念でしたが静かな庭園をゆっくり散策できたことは幸せな時間春は、梅→菜の花→桜→藤棚令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens 「中の御門」中の御門に入ると桜満開今年はすでに葉桜「中の御門」・・・とは?Nakanogomon(Gate)中の御門は、江戸時代の初期の頃から大正時代まで使用されていた出入口です。通用門、表門、と時代ごとに役割が変わりました。大正12年(1923年)の関東大震災で中の御門橋がなくなり昭和2年(1927年)に橋台の石垣が撤去されました。平成17年(2005年)に中の御門地区の整備を行いました。浜離宮恩賜庭園の入口は・・・表門とも言える「大手門」と「中の御門」の2箇所があります。大手門 Ootemon(Gate)浜離宮は・・・江戸時代の出城でもあったため「大手門」には、将軍家の別邸である わたりやぐらことを示す渡櫓がありました。大手門の左右の石垣にその形跡を確認できます2つの御門のどちらから入りましょうか?都営地下鉄の大江戸線「汐留駅」から 5分「中の御門口」到着 江戸時代から大正時代まで使用された出入口 コインロッカーは受付棟の脇にあります。入場料は、受付とスイカ利用可能の販売機があります。お隣の「旧芝離宮恩賜庭園」へは、「中の御門」を出て左にあります。大手門口の方が窓口が多いので入場までの時間誤差は無い都営地下鉄の大江戸線「汐留駅」から 信号機を2度渡りは、7分「大手門口」到着「大手門」から入場して 園内を一周し、「中の御門」から出て「旧芝離宮恩賜公園」へ行っても問題はありませんお花畑は・・・大手門が近い300年の松は「大手門」の近く大手門 Ootemon(Gate)浜離宮恩賜庭園の歴史・・・ざっくり海水を引き入れた潮入の池と、二つの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。承応3年(1654年)、徳川将軍家の鷹狩り場に4代将軍家綱の弟で甲斐宰相の松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを機にこの屋敷は、将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの増援と改修工事が行われ11代将軍家斉の時代に、ほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新の後は、皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えました。関東大震災や第二次世界大戦によって、御茶屋など数かすの建造物や樹木が損傷し、往時の面影は無くなりましたが昭和20年(1945年)11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21年(1946年)4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和27年(1952年)11月22日に「旧浜離宮庭園」(文化財指定名所)として国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。入園料(一般)300円(65歳以上)150円(小学生以下)無料(都内在住か在学の中学生)無料写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.16
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浜離宮恩賜庭園で4つの御茶屋を周って3000年の松へ行こうとしていますこれは誰?庭園と日本建築のコラボ令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens 浜離宮恩賜庭園の銅像は誰なのか?うまし ま でのみこと ぞう可美真手命像Umashimade-no-mikoto Statue明治27年(1894年)、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。うましまでのみこと可美真手命・・・とは?日本神話中の神。物部連、穂積臣、采女臣の先祖神。長髓彦を殺し、10種類の神宝を献じ、矛盾を立てて神武天皇に奉仕したという。場所は、中の御門が近いです。 ほうばいてい『香梅亭』・・・とは? Hobai-tei香梅亭は、優良の集会設備です。ご利用は、事前申し込みとなります。利用のご案内利用定員:25名まで利用時間及び料金 『香梅亭』営業時間:料金午前(9:00~12:00)3600円午後(13:00~16:00)3600円全日(9:00~16:00)7200円備え付け器具は、座卓、座布団、茶碗、急須、給湯ポット詳しくは、サービスセンターにお尋ねください。ここから、「300年の松」へ戻りました(大手門の近く) 300ねんのまつ『三百年の松』 300 Year Pine(Old Pine)およそ300年前の宝永6年(1709年) とくがわいえのぶ6代将軍:徳川家宣が、この庭園の大改修を行った(その頃から「浜御殿」と改称された)頃に植えられたものといわれ、現在では、都内最大級の黒松となっています。こんなに大きくても1本の黒松なのですお手入れが大変そうです〜場所は、大手門口のすぐ左側ですお花畑お花畑は「300年の松」を通り土手を上がった先お花畑に一番乗りするには、大手門口から入場梅林一番乗りも・・・大手門口が早い写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.15
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浜離宮恩賜庭園の「松の御茶屋」までやってきました〜庭園と建築の美しい調和に感動です令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens まつのおちゃ『松の御茶屋』Matsu-no-ochaya江戸時代の華を受け継ぐ浜離宮恩賜庭園歴代将軍が賓客をもてなした庭園と御茶屋御茶屋は、歴代将軍たちが賓客と庭園の景色を楽しみながら食事をしたり、和歌を詠むなど、優雅な時間を過ごす場所でした。将軍や賓客が庭園の魅力を最大限に堪能できるよう移動ルートや鑑賞の順序などがあらかじめ計画され、各お茶室にある掛け軸、茶器、文房具などの作者や、それらを飾る場所なども趣向を凝らしたものでした。この庭園の各御茶屋群は、庭園の景色を構成する上でも重要な存在です。これらのお茶室は、11代将軍:徳川家斉の時代に建てられましたが関東大震災や、第二次世界大戦の戦災により消失してしまいました。松の御茶屋は、平成22年に燕の御茶屋は、平成27年に鷹の御茶屋は、平成30年にそれぞれ復元され、往時と変わらぬ姿がよみがえりました『松の御茶屋の復元』歴史をひも解くfact-finding【歴史資料調査】宮内庁、東京国立博物館、都立中央図書館の協力により絵図、古写真、古文書等の調査を行いました。【発掘調査】平成20年に、建物跡の発掘調査を行い「松の御茶屋」本来の磁石(柱などを支えた石)の存在を確認。歴史に忠実に復元するFaithful Restoration【史実に沿った復元】多くの歴史資料に基づいて綿密に時代考証を行い寸・法、材料、工法に至るまで可能な限り、歴史資料度おりに再建されています。【構造の保存】現存していた磁石は、主に神奈川県足柄産の小松石です。建物が復元後もそのままの形で残されています。【建物と庭園との調和】「松の御茶屋」と庭園とが自然に連続するよう、池に面した側は開放的な作りになっています。室内から庭園を眺めると、まるで庭の中に身を置いているかのように感じられます。潮入の池の先には中島の御茶屋が見えます。再現された精緻な技法賓客をもてなすしつらえ室内の壁と漆による仕上げ【貼り付け壁】室内の壁は「貼り付け壁」という技法で作られています。これは、和紙を貼った板をはめ込み黒い漆を塗った細い角材で壁に固定する伝統技法です。この建物に使われた和紙は、 どろまにあいし「泥間似合紙」と呼ばれる紙です。がんひ雁皮という植物の繊維に粘土を混ぜてすいたもので、丈夫で燃えにくい紙です。兵庫県西宮市名塩の人間国宝、たにのたけのぶ谷野剛惟さんがこの建物のためにすいたものです。ちょうじびき丁字引きと金小松模様壁紙の縞模様は・・・「丁字引き」と呼ばれる技法です。香辛料にも使われる「丁字」のつぼみから採った染料を櫛状のはけで塗ったもので防虫効果があります。金色に輝く松の模様は、老舗の紙屋さんが所蔵していた1840年(天保11年)製作のはんぎ半疑で刷られたものです。雲母の粉とフノリを混ぜて板木に塗り「泥間似合紙」に手作業で刷られました。棚板の「拭き漆仕上げ」 うるし5段重ねの棚板は「拭き漆仕上げ」です。ヒノキの一枚板に、生漆を塗っては拭き取る作業を2〜3回繰り返し美しい木目を際立たせています。5段の棚板を重ねた独特のつくりで江戸時代にはここに調度品を飾って鑑賞したそうです。 ろいろ丸窓の「呂色仕上げ」丸窓などにみられる黒の漆喰は「呂色仕上げ」と呼ばれる技法です。漆を塗っては木炭で研ぎ出しこれを何度も繰り返すことで他の染料では出せない深い黒味に仕上げています。特徴的な屋根のかたち 屋根の葺き方【こけら葺き】屋根は、池側からの姿にも配慮した形に柔らかなカーブが描かれており庭園の景色になじむように工夫されています。屋根の葺き方は「こけら葺き」と呼ばれる技法天然のサワラ材を手作業で3mmほどの薄さに割りそれを竹の釘で一枚ずつ屋根に止めていきます。 まきがや【巻茅】屋根の端部は「こけら」で巻き込むように葺かれています。「巻茅」と呼ばれる技法で、屋根を軽快に見せるための工夫です。京都の修学院離宮の建物でも見ることができる技法です。趣向を凝らした木材選び 銘木の使用【屋久杉】天井の板は、樹齢1000年ほどにもなる屋久杉が使われています。【国産のツガ材】 つがざい柱や床板などは国産の栂材が使われて最質が綿密で堅く木肌も美しいことから つがぶしんかつては「栂普請」として広く用いられ近年ではとても入手が困難です。写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.14
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つばめのおちゃや・・・とは?いや感動〜高層ビル群と潮入の池に庭園と日本建築のコラボ令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens つばめ いえなり燕の御茶屋は、11代将軍:家斉の時代天保5年(1834年)に建てられたもので、室内には、将軍が座るための上段が構えられ将軍自身が接客・利用するための建築である。 つばめ「燕」の由来は・・・ くぎかくし燕型の釘隠金具が使われていたことや燕子花が由来とも言われたいますが詳細は不明です。歴史に忠実に復元する史資料や遺構から江戸時代末期から創設された家斉の時代を志向した複眼は可能と判断されました。遺構の保存遺構を保護した上に鉄筋コンクリートの基礎を造り耐震性も確保されています。建物と庭園との調和中島の御茶屋やお伝い橋など潮入の池の素晴らしい景色が眺められます。見えない補強基礎や小屋裏、壁の内側など見えないところに構造補強が施されています。歴史をひも解く古写真、絵図、文献などの史資料調査や発掘調査など様々な調査から復元を行いました「燕の御茶屋」は・・・戦災で消失しましたが礎石などはそのまま残っていました。平成23年に発掘調査を行い礎石の位置から建物の規模や柱の間隔などが分かりましたが、古い図面に描かれていた内容とも一致しました。歴史をひも解く古写真、絵図、文献などの史資料調査や発掘調査など様々な調査から復元を行う発掘作業では・・・燕型の釘隠金具類、漆喰、色壁片、便器などが出土しました。特徴的な意匠◯室内中央に上段を構えています。◯上段には三角形の地袋と円形の棚板 背面張り出しの地袋が付いています。さんかくじぶくろ こぶすま はくじせい とうばん◯三角地袋の小襖には白磁製の陶板を使用 えん らんま かすみ す◯縁の欄間は、霞模様の透かし彫りです。写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.13
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浜離宮庭園の4つの御茶屋は、中島の御茶屋・燕の御茶屋・鷹の御茶屋・松の御茶屋があります。令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens燕の御茶屋・鷹の御茶屋・松の御茶屋があります左に「燕の御茶屋」少し高台に「鷹の御茶屋」鷹の御茶屋の裏側から見て行きましょう〜鷹の御茶屋には、鴨を捉えるための鷹の育成方法などの説明がされています。 さであみ『叉手網』・・・とは?Sadeami net人が立った姿勢で両手を胸の前で重ねる所作を「叉手」(さし・さす)と呼び、その所作のように2本の竹を交叉させて袋状に網を張った捕獲用具を「叉手網」と言います。叉手網は、野生の鴨を無傷のまま捕獲する技法です。鷹は、鷹の御茶屋の裏側で飼われています。「鷹部屋」には、リアルな鷹の剥製がおります。鷹と鷹匠慣らし 鷹匠に対する警戒心を解く◯羽の汚れを取り、爪と嘴を整え、 足皮などの必要な鷹道具を装着します。◯最初は鷹を驚かせないように、真っ暗な 鷹部屋に入れて落ち着かせます。◯鷹の体調や様子を見て、1〜2週間の絶食を行い 体脂肪を下げる「詰め」を行います。◯この後、暗闇の中で鷹を挙に乗せる「据え」を行い 鷹が人間から餌をもらっても安全だと覚えたら 鷹部屋内に据えて歩き、音に慣らすなど徐々に 様々な儒教に慣らしていきます。◯鷹の警戒心が解けてきたら、鷹部屋の外に出て 歩き回って三桝。鷹は見慣れない人や物事に 驚き安いので、全て夜に行います。 ◯十分な据え回しを行い、必要な合図を教えることが できれば、丸い鷹(素直で癖のない物事に動じない鷹) に仕上げることが容易になると言われます。それでは、鷹の御茶屋の中に入りましょう〜室内には、ビデオでの解説があります。鷹の御茶屋は・・・寛政7年(1795年)頃に建設され将軍が鷹狩りを行う際の待合いや休憩所として利用されたと考えられています。他の御茶屋とは異なり、茅葺(かやぶき)屋根で、内部の土間叩きが特徴の農家風の佇まいの建築です。構造は・・・木造・平家建て延べ床面積:86.21平方メートル(26.1坪)建物の高さ:6.215m屋根:こけら葺き天井:茅葺、こけら葺き壁:板壁床:土間叩き、上段は畳敷き浜離宮恩賜庭園(特別名勝・特別史跡)の復元整備事業により、江戸時代に創建され戦災で消失した御茶屋の復元工事によって平成30年(2018年)に史資料に基付き忠実に複眼されました。写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.12
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春の浜離宮恩賜庭園へ行って来ました〜日本庭園の美しい池にかかるお伝い橋を渡ると中島のお茶屋令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens浜離宮恩賜庭園で一番立派な建物中島の御茶屋浜離宮恩賜庭園の地図では・・・南側満開の桜を眺め→お伝い橋を渡ると檜の「お伝い橋」をすすむと「中島の御茶屋」が見ます なかじまのおちゃや『中島のお茶屋』・・・とは?Nakajima-no-Ochaya江戸時代の将軍さま・・・宝永4年(1707年)のちの6代将軍:徳川家宣が建てたもので、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。 こうおうてい別名を「鴨鴨亭」とも呼ばれていました。享保9年(1724年)火災のため消失し64年後の天明8年(1788年)、11代将軍:家斉の治世に再建されました。明治維新後、皇室の離宮となりしばしば国賓等も迎えましたが、第二次世界大戦の空襲により消失しました。その後、昭和58年(1983年)、財団法人日本宝くじ協会の助成事業自治として再建しました。御茶室・・・?茶室とは異なり将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。それでは、潮入の池の先へお伝い橋を渡って「中島の御茶屋」へ なかじまのおちゃや『中島のお茶屋』Nakajima-no-Ochaya浜離宮庭園では、4つの「御茶屋」で、歴代の徳川将軍たちが、賓客とともに景色を楽しみながら食事をしたり、調度品を鑑賞するなどして過ごすほか、鷹狩の際の休憩場所としても使われた。中島の御茶屋の裏側は、間口が広く鷹狩を終えた時に使われたのでしょうか。2024年2月24日(土)訪問時は こもまき『菰巻』Komo-makiこもまきは、冬の風物詩寒くなってくると、枝先にいた害虫が越冬するために幹を伝って地中へ下りようとする。これを捕え、殺虫するために「菰巻」と呼ばれる作業を行う。幹に巻いた菰は、上下二箇所を荒縄で結ぶが、上は緩めに、下はきつめに結ぶ。すると害虫たちは、その部分が暖かいため、また下の荒縄がきつく出口がないために地面に降りずに菰の中で越冬する。そして、春が来て虫が動き出す前に菰を取り外し害虫を共に焼却する。菰を巻く時期は、10月下旬、霜降り前後取り外しは、2月上旬から中旬、立春を目安にする。中島の御茶屋を出て橋を渡ると・・・主張する樹木が よしむねゆかりのとうかえで『吉宗ゆかりのトウカエデ』Japanese maple related to Yoshomune「トウカエデ」は・・・中国原産の落葉樹で訪問時には、葉を落としていました。直立する幹から細やかな枝を確認春になると葉が新緑となり秋には鮮やかに紅葉します冬の時期は、こんな姿で誰も立ち止まる人も少ないです〜大都市特有の夏の高温にも水不足にも耐えて育つので街路樹や公園に多く植えられました。浜離宮のトウカエデは・・・言い伝えに寄れば、徳川八代将軍吉宗が、享保6年(1721年)に当時の清国(現在:中華人民共和国)から船で運ばれ贈られました。6本のうちの5本を「お手植え」したとされ当時の「浜殿旧記」には、そのような記録がないそうですが、吉宗のお手植えであれば・・・樹齢は、300年となります。巨樹のトウカエデは2本あり、このトウカエデは潮入の池の西側で「中島の御茶屋」を背にして進と小さなこんもりとした丘に大きく太い樹冠を力強く支えていて大迫力そのお姿は、きっと将軍さまにゆかりがあると私は感じた。写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.11
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江戸時代から令和時代にタイムスリップするようなミステリアスな中の橋を渡ると桜花筏令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens なかのはし『中の橋』を渡ると満開の桜がNakano-hashi-Bridgeきっと今頃桜が満開に2024年2月24日訪問(想像しました)桜吹雪の中を「中の橋」を渡るのは妄想 しおいりのいけ『潮入の池』には、花いかだShioiri-no-ike(Tidal Pond)潮入の池は、本当に「潮」東京湾の海水が引き入れられ潮の干満によって池の趣が変化する池美しいです〜中の橋を渡ると立派な松が目の前に芝生が整備されていますこの芝生は通り抜け禁止!この後ろに見えるこんもりとした丘は、「富士見山」です〜右の方へ進むと登山口が・・・おおお〜っ。先ほど登った「御亭山」Ochin'yama Hillより「富士見山」Fujimi'yama Hill は、ちょっと厳しい坂みたいでできるならバスしたい・・・あらっ。上から叔父様が降りてきますよ〜「どうですか?景色は」と聞くと「う・・そうでもないね!」との答えどうもさっきの「御亭山」からの景色を比較しての感想かと確信し、登山を断念。「富士見山」からは、当然見えるはずあ・・・やはり登るべきだったかと(後悔)ビル群で見れないのか?(確認する価値はある)さぁ〜この辺りはお花見スポット今年は、4月5日〜4月12日くらいまでかしら?散りゆく桜が一番好きな私だけどおおお〜っ。逆さ汐留ビル群羽田からの飛行機雲真っ青な空と潮入りの池汐留エリアビル群と江戸時代のコラボ『潮入の池』の先に見えるのは『中島のお茶屋』うわ〜素敵ですね早く早くここから行くのですね・・・ おつたいばし『お伝い橋』O-tsutai-bashi Bridgeこの橋は、全長120mもあって「潮入の池」→「中島」→「小の字島」を結ぶ総檜造りの贅沢な橋です。5月になると藤棚が見事だそうです小の字島の藤棚までのお伝い橋ひのき良いですね〜日本の伝統美平成24年(2012年)に改修された橋藤棚。ここで終点(ここから渡っても良い)もとい、渡る前の写真ここからの景色も最高です〜水鳥が集まって羽を休めています。なんと〜美しいどうも外国からのお客様も増えていますああここも・・・見つかってしまったか美しい日本庭園築地にも近い!300円(子供無料)という格安入場料。9時の開園とともに入場するとこんな感じお散歩はつづく写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.10
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浜離宮恩賜公園の絶景写真は、御亭山Ochin'yama Hill に登って撮りましょう浜離宮庭園とは?令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens徳川将軍家の庭園海水を引き入れた潮入の池と二つの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家のお庭です。絶景を見るならぜひ登ってみてください1分で登頂「御亭山」Ochin'yama Hill 承応3年(1654年)徳川将軍家の鷹狩場に4代将軍:家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて「甲府浜屋敷」と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が、6代将軍になったのをきっかけにこの屋敷は、将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、11代将軍:家斉の時代にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは、皇室の離宮となり、名称を『浜離宮』と変えました。関東大震災や戦災によって、お茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し往時の面影は無くなりましたが、昭和20年(1945年)11月30日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21年(1946年)4月から『浜離宮恩賜庭園』として公開されました。その後、昭和27年(1952年)11月22日に『旧浜離宮庭園』(文化財指定名称)として国の特別名勝及び特別史跡に指定されました写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.09
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浜離宮恩賜公園は、皇室の方が外国からの賓客を招いて「鴨場」にご案内する光景が思い出されますが、鴨場では何をするのでしょうか?令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gadens かもば『鴨場』・・・とは?Duck Hunting Sites前から見ると木々に囲まれ、こんな形の山でハンティングの罠とは思えませんが・・・中央に扉が見えます。近付いてみましょうピラミッド「王家の墓」の入り口的な?そんな訳は、ないでしょう〜ここは「鴨場」江戸時代の鴨を捕獲する場所です。どうなっているのでしょうか?奥まですすむと、細〜い横一の穴がはは〜ん!ここから覗くのですね立っている高さと目の位置が一致するから中には、何かありますよ!何か後ろに仕掛けがありそう〜裏に回って見ると・・・おやっ形は、そのままで内側には溝が長〜く掘ってあるのですあの横一の覗き窓は、こちら側からは覗くことができないので、溝には何が・・・どれだけ深いのかしら?おおお〜っ。結構しっかりした堀です ひきぼりこれは、「引堀」というものです。引堀は、森まで続いて先には池があり、 もとだまり池は「元溜まり」と言います。かなり茂った先に元溜まりがあります。『鴨場』の仕掛けとは?秋から冬にかけて、鴨などの水鳥が渡って来て奥の池「元溜まり」に入ります。そこには、囮のアヒルを放っておきます。アヒルは、飼い慣らされていて「板木」を木槌で叩くとアヒルは「引堀」に入るように訓練されそれは、引堀にエサ(ヒエ・あわ)をまいてアヒルは、エサがもらえる合図と認識しているカァ〜カァ〜と「引堀」に入る様子をこの穴から覗きます野の鴨は、アヒルの後を追う習性があるのでアヒルにつられて「引堀」に入って来てここから覗いて必要な数を確認すると合図で引堀の両側にスタン張っていた「鷹匠」が合図で、一斉に掌から鷹を放って、空中で鴨を捕獲する・・という、ちょっと怖い?残酷な狩です。明治以降は「叉手網」で捕獲するようになりましたが叉手網から逃げた鴨は、罠の様子を仲間に教えると困るので鷹に追いかけさせ捕獲したのです。やはり、ちょっと怖い!うううっつづく写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.08
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東京・汐留『浜離宮恩賜公園』をお散歩しています〜春ですねシートを広げお花見できるコーナーあり令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』内Hama-rikyu Gardens しんひのくちやま『新樋の口山』右東京湾沿いにお散歩していますとても良いお天気で羽田方向から飛行機雲が空に向かっている「新樋の口山」からは、臨海副都心が背景に映ります。湾沿いに進んで行くと よこぼりすいもん『横掘水門』にぶち当たります。Yokobori Sluice とくがわいえのぶ6代将軍「徳川家宣」の時代には、この辺りに堰(せき)があり、海水の出入りを調整したと考えられています。「横堀水門」は現在、園内で一番大きな水門で潮の干満を利用して東京湾の海水を「潮入の池」に引き入れたり出したりしています。水門を通るとこんもりとした山が ひぐちのやま『樋口の山』がありますSin-Hinokuchiyama Hill樋の口山は、新樋の口山より、こんもりと高くなっていますね〜ここからは、レインボーブリッジやお台場の臨海副都心が一望できるそうですが登山口が見当たらないので登山は断念この辺りは、お花見スポットです今日は、満開になったようです しおいりのいけ『潮入りの池』は、すぐ右です。Shioiri-no-ike(Tidal Pond)「横堀水門」から、東京湾の海水を引き入れて、潮の干満によって池の趣を変える様式は東京都内にある江戸時代の庭園では唯一現存する「海水の池」です。 うみておつたいばし『海手お伝い橋』を渡りましょう〜Umite-O -Tsutai-bashi「潮入の池」の上を渡る橋です橋の上からは・・・お魚が見える『潮入りの池の生きもの』とは?マハゼ ドロメ チチュウカイミドリガニチチブ ボラビリンゴ マルタウグイ ユビナガスジエビなど海水魚が生息していると書いてあります。お子ちゃま連れでお魚探しも楽しいですねうううっ見所かなりありますつづく写真撮影:ほしのきらり。撮影日:2024年2月24日世界遺産にぽち
2024.04.07
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浜離宮恩師庭園で菜の花と梅のコラボを期待しながら行って来たのは2024年2月24日梅はほぼ終わり令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens きゅういなぶじんじゃ『旧稲生神社』・・・とは?旧稲生神社の創建は、明らかではありませんが、江戸時代後期の絵図には、現在の場所より西方に稲荷神社が描かれていることから、庭園内に稲荷社が、すぐから祭られていたことが知られています。現在の建物は、前身となる社殿が明治27年(1894年)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため翌年に当時の宮内省匠寮の手によって同規模・同形式で再建されたものです。きっちりとした匠の技を伝えていますね目の前の「お花畑」の菜の花が美しかったです〜菜の花は、4月中旬までお花畑と汐留ビル群エリアのコラボに感激したら東京湾方向へここは「大手門」から入って進み「お花畑」から「梅林」を歩き「水上バス発着場」に到着水上バスは、見えないですね〜磯の香りを感じて来ました・・こんもりとした芝生の前には、「灯台跡」Ste of Lighthouse灯台跡に登ってみると・・・おおっ中心の石を囲むように四角い石が等間隔で円を描いているので大きな灯台があったことが確認できます。海が(東京湾)広がります〜うわ〜来てよかったなぁ湾沿いに・・・お散歩「将軍お上がり場」Shogun's Landing Place江戸時代、歴代将軍が舟で御成りする際にこの「お上がり場」が使用されました。幕末、鳥羽伏見の戦いに敗れた最後の将軍徳川慶喜が、大阪から船で帰還して上陸した歴史もあります。美しい湾沿いのお散歩は続きます〜 しんひのぐちやま「新樋の口山」です東京湾に面した水門近くの山、ここからは、レインボーブリッジやお台場の臨海副都心が一望できます。満開のお花見ができるのは、この先ですううう見所かなりありますつづく写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.06
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黄色い菜の花畑の中に春を感じに「浜離宮恩賜公園」へ行って来ました〜令和6年春のお散歩令和6年春のお散歩 はまりきゅうおんしていえん『浜離宮恩賜庭園』Hama-rikyu Gardens菜の花畑『浜離宮恩賜公園』2024年2月24日訪問東京都 中央区 浜離宮庭園 1-1「浜離宮庭園で菜の花が咲きました」とテレビで放送されてすぐに出かけました寒い冬から「春」の使者が来た〜っ。晴天です〜素晴らしい朝の「お花畑」の空気はビシッと澄んでいた浜離宮庭園の良さは・・・東京・お台場のビル群と菜の花のコラボそして徳川将軍家の素晴らしい日本庭園美し〜い!!!こんな世界が東京にあるなんて・・・「お花畑」一番乗りはははっ。二番乗りです〜浜離宮庭園の開門は、朝の9時早朝に家を出てやって来ました都営大江戸線「光が丘行」で『汐留』下車汐留駅から5分橋を渡ると・・・「大手門入口」到着です〜何でも値上がりするけれども、入場料が安い!大人は、300円(シニア150円)小学生以下と中学生は、無料なのでお散歩には、最適です〜かなり元気なお子ちゃまでも、走り回りお花畑で遊び今日は、桜も満開海を眺め、お魚を見つけたり、池の鴨に必ず会えて丘に登ったり、橋をいくつも渡り芝生でゴロゴロしたり、お弁当を持って行って食べたりも自由でこぼして食べてもママに叱られない!こんな幸せ気分これが・・・無料!もう〜とりあえず春は、超おすすめ。江戸時代の将軍さまのお庭です〜シニア世代もゆっくり歩いて歴史探訪4つのお茶屋さんから景色を楽しみ皇室の鴨場を見学し300年の松に驚くううう見所かなりありますつづく写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.04.05
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浅草寺の奥まで進んで来ました〜露天のお店が並んでいます。ここはインバウンドの方達に大人気♪浅草寺の食べ歩きグルメ♪大きな串焼きが並んでいますね〜インパクト抜群ですホタテ・イイダコ・ツブ・イカ・ホタテ・牛肉などカタカナ・英語・中国語・タイ語?韓国語?らしき表記。お客様は、全て外国からのお客さまです。この場で、焼いてくれるみたいです特選「ずわい蟹」と「白身魚のコラボ」?これは・・・びっくり「カニ料理の贅沢」って表記ありますが、巨大な「カニカマ」です!!こんな大きなカニカマ見たことないです〜「インスタ映え」する?目の前で焼いてくれます〜浅草寺の本堂を左に進むと「花やしき」そうそうここが、遊園地「花やしき」浅草門入場料金は・・・大人:1200円小人:600円シニア:600円幼児:入場無料障がいをお持ちの方:入場無料ううう〜ランドに比べるとリーズナブルです。「花やしき」の先に・・・「金魚すくい屋さん」中国系のお父さんが夢中です。その向かいにあるのが・・・『浅草花月堂』本店ジャンボ・メロンパンのお店です。おや〜最近は、抹茶とバニラアイスがっ、サンドされています。進化です!浅草は、進化しています。面白いですね〜楽しいですね。写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.02.25
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浅草の雷門から中見世通りを真っ直ぐ進んで本堂(宝蔵門)の3つ手前「浅草九重」あげまんじゅう『浅草九重』あさくさここのえ人がいっぱいで「あげまんじゅう」がっ。見えませんこんなに種類があるとは・・・カレー:230円さくら:230円かぼちゃ:200円抹茶・つぶあん:200円あげまんじゅう:160円チョコレート:230円もんじゃ:230円カスタードクリーム:230円さつまいも:200円ごま・つぶあん:170円あげぐりまん:280円種類が多いですね〜11種類!!住所は、東京都台東区浅草2-3-1場所は、雷門をくぐり、仲見世をすすむと本堂の3つ手前の右側のお店です。揚げたてを販売しているので大人気です。種類が多いので、リピーターも多いのでしょうね〜写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.02.24
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令和6年の浅草訪問です〜コロナ中は、ご無沙汰でしたが「インバウンドのメッカ」雷門何しろ、人が多い!大人気のお寺ですから、迷わず行きたいもの。東京に住んでいても、ちょっとややこしい場所。『浅草雷門』風雷神門東京都台東区浅草2-3-1絶対に迷いたくない一番近い駅は・・・地下鉄東京メトロ:銀座線(渋谷から乗ります)→「浅草駅」下車階1番出口から階段を上がり〜1分亀十の行列の先に人力車のお兄さんがいるので・・・イケメンの車夫に道を聞くのも都営:浅草線浅草駅は、少し歩きます。格安ホテルが多いここからは、10分くらい歩きます都営地下鉄浅草線「浅草駅」を利用すると浅草スカイツリータウンに行くのも便利です。浅草線は・・・大田区の「西馬込」→墨田区の「押上」を結ぶ地下鉄。羽田空港へのアクセスにも便利な電車です。ここは、初めてだと迷う可能性あり。実は、浅草駅は、ややこしいです。いろいろな路線が入っていて駅の場所も少し違うのです。スカイツリー方面に歩くと着物を着た外国人がいっぱいです。東武スカイライン「浅草駅」この駅からは、横断歩道を渡って3分くらい歩きます。雷門は、この左側です。群馬県や埼玉県から来る方に便利。ここからバスが色々あります。都営バスも、ここから出ています。一番安いバスは、「ぐるりんバス」に乗りました駅の右から出ていて100円ポッキリ。色々コースがあります〜100円で、小さめのレトロなバス街並みを見ながら、ぐるぐる下町を周るのもオススメです。写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽちm
2024.02.22
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浅草の「浅草寺」は久しぶりの訪問。東京に行ったら訪問すべき寺院BEST1位に必ず挙げられる名所 せんそうじ『浅草寺』・・・とは?浅草『浅草寺』せんそうじ・・・とはそもそも?東京都台東区浅草2丁目にあるお寺。正式には・・・ きんりゅうざん せんそうじ『金龍山浅草寺』ご本尊は・・・聖観世音菩薩 あさくさかんのん『浅草観音』として知られています初詣の全国TOP10に入る人気のお寺。創建は、平安時代。都内最古のお寺。【浅草寺境内の地図】地図で一番下に描かれた かみなりもん『雷門』・・・とは?表参道の入口の門。切妻造の八脚門(8個の足)で、向かって右の間に『風神像』左の間に『雷神像』を安置することから、正式には『風雷神門』というが、『雷門』と通称される世界的に有名な観光スポット。慶応元年(1865年)、消失後は時折建てられていたが、昭和35年(1960年)常設の門が、鉄筋コンクリート造で再建された。松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進した。門内には、松下電器産業寄贈の大提灯である。 (現:パナソニック)『仲見世通り』・・・とは?雷門から、宝蔵門に至る約250mの表参道の両側には、土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世通り」と呼ばれる。現在、ここを歩いているのは八割が外国人と修学旅行の学生たち。着物姿がインスタ映えで、男子も増えてかなり大きな着物もレンタルである。『宝蔵門』・・・とは?雷門をくぐり、仲見世通りを抜けた先、入母屋造りの「二重門」2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている。昭和39年(1964年)の再建。門の左右に金剛力士像(仁王)を安置するので『仁王門』と呼ばれていたが、昭和の再建では『宝蔵門』と称される。小舟町と記された提灯の下には・・・やはり、ここにも「龍」が彫られています浅草寺の正式名称であるきんりゅうざん せんそうじ『金龍山 浅草寺』の「龍」を境内で、あちこちで見つける事ができます今年は、辰年ですから更なるパワースポット。さぁ〜門をくぐると、めっちゃ〜大きな屋根がこれが本堂『本堂』・・・とは?本尊の聖観音像を安置するため「観音堂」とも呼ばれる。旧堂は、慶安2年(1649年)の再建で、近世の大型寺院本堂の代表作として当時は、国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)東京大空襲で消失現在のお堂は・・・昭和33年(1958年)に再建されたもの。建設資金を捻出するために瓢箪池の敷地2400坪が江東楽天地などに売り払われた。本堂の中に入ってみましょう〜おおおっ。お経が、ライブ状態内陣中央には・・・ご本尊の「聖観音像」絶対秘仏を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん)がある宮殿内部は・・・上段の間と、下段の間に分かれ、上段の間には、秘仏本尊を安置する厨子(ずし)を納め、下段には、前立(まえだち)本尊の観音像が安置されている。本堂の左側にあるのは立派な「五重塔」美しいので〜人気の写真スポット!『五重塔』・・・とは?天慶5年(942年)平公雅が塔を健立したと伝わる。この塔はその昔、三重塔であったといわれ『江戸図屏風』にも描かれている。消失を繰り返したのち、慶安元年(1648年)に五重塔として健立。本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で消失現在の塔は・・・本堂の(左)西側、寛永8年(1631年)に消失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建された。基礎の高さは、約5m塔自体の高さは、48m内部には・・・永代供養のための位牌を納められている。塔の最上部には・・・スリランカ・アヌラーダブラのイスムルニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。「浅草寺」は、やはり素晴らしいですね。歴史あるお寺ですが、本堂右には、スカイツリーが聳えていて不思議な空間でもあります。写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.02.21
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葛飾柴又へ行って来ました〜草団子を食べに?いゃ〜帝釈天にお参りにです寅さんの街「帝釈天」へ行きましょう♪私は、新小岩からバスで来ましたよ〜京成「柴又駅」からも3分です。この後ろ姿は・・・妹のさくらさん!またまた寅さんがトランクを下げて旅立ちです帝釈天の参道に入るとすぐに・・・左側に「髙木屋老舗」寅さんのグッズが飾ってありますね〜ここは、映画の撮影隊が何度も休憩した店らしい?ダメですよ!帝釈天にお参りしてからおだんご食べましょうね。帝釈天の二天門が見えて来ました。右側には、「とらや」草だんご 妙法堂ここは、映画の撮影が行われた店らしい?いやいや〜お参りが先ですよ「二天門」「柴又帝釈天」と記してあります〜間違いない!二天門をくぐるとおおおおっ。見事な松の木に目が奪われる。「瑞龍松」ずいりょうのまついやいや〜この1本から、あの見事な松に。まるで龍の頭が空に向かうようなポーズ。正式には・・・きょうえいざん だいきょうじ経栄山 題経寺正面の帝釈堂に上がってお参りして来ました奥には、有料のスペースがあったのですが、ここは、行きたいけれどパスして、下町グルメ探訪へ「とらや」さん 妙法堂へ入りました。映画のポスターが並んでいますが、かなり古くて昭和は、既に遠い存在なんだと感じてしまう。奥から2番目の席に座りました。「撮影に使用した当時のままの階段です。」と・・・寅さんこと渥美清さん寅さんが階段から降りて来そうです。その右のお部屋は「予約席」日蓮宗の重要な掛け塾や仏像が並んでいます。屋号が「妙法堂」とされた理由がわかる気がする。映画の撮影後に「とらや」になったらしい?草だんご ほうじ茶焼鳥下町グルメ満喫ですお隣のおじさまは、タンメン食べてました。どうなのかしら?お味は?お正月は、忙しいお店なので早めに年末に行きました。写真撮影&訪問:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.01.06
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柴又の帝釈天には、今まで行ったことがありませんでしたが、初詣におすすめです京成『柴又駅』には、寅さんと妹のさくらさんの像があります『柴又帝釈天への行き方』とは?柴又帝釈天への行き方・・・1【例:新宿より】 JR新宿 山手線(池袋方面)乗車 JR日暮里 (乗換) 京成本線「千葉中央行」乗車 京成高砂 京成金町線(京成金町行)乗車 柴又 徒歩3分柴又帝釈天への行き方・・・私の場合JR新宿 JR中央・総武線(西船橋・津田沼・千葉方面行) 各駅停車で34分 13番線 6・9号車JR新小岩 北口下車 新小岩の北口広場:モンチッチの先、丸時計を右へバスで「柴又帝釈天」へ向かいます(土日祭日のみ)新小岩 京成バス【新金01】タウンバス「金町駅行」 乗車時間34分(22個目の停留所)柴又帝釈天 下車=バス停留所バス停留所「柴又帝釈天」到着すると帝釈天の参道が既に見えます帝釈天の参道を進むと・・・寅さんの実家として撮影が行われたお団子やさんあり。ここが、帝釈天の参道です。二天門が見えますね。門をくぐると境内です。2023年末に行ったので空いていました写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.01.05
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Natural Monumants Zuiryu no Matsu(Zuiryu Pine Tree)帝釈天「瑞龍の松」英文訳も楽しいKyoeizan Daikyo-jiAddress:7-10-3 Shibamata Katsushika CityDesignaled on 11,2016「柴又帝釈天」Shibamata-Taisyakuten「二天門」Kyoeizan Daikyo-ji is Temple is commonly calledas"Taishakuten(Sakra devanam Inndra)".While walking through the Sando(approach to the temple)and the Niten-mon Gate,you can see a big Pine Tree,so-called "Zuiryu no Matsu",in front the Taishaku-do Hall.Natural MonumantsZuiryu no Matsu(Zuiryu Pine Tree)Its trunk grws staight towardsthe sky and its large and long branchesextend to north,south and west.The west branch extends like a dragon crawlson its belly on stone Pavement,and the soouth north branches spreadif it guards the Taishaku-do Hall.It also looks like a dragon flying up the sky.「帝釈堂」「題経寺」According to Engi(the origin and history of hthe temple),Daikyo-ji Temple was founded in 1629 when a Buddhist monk named Nichiei Shonin stoppen inShibamata and decided to build a hermitage here as hefaund a sacred fountain under the big pine tree.「瑞龍松」It was this Zuiryu-no-matsu.Ziuryu-no-matsu and Taishaku-do Hall isconsidered to be a componend of the landscape of Taishakuten and it is valuable as preciouslarge tree that tells us a legend of TaishakutenDaikyo-ji Temple. Tokyo Metropolotan Board of EducationWhile walking through the SandoEating SpotTorayaとらやJapanese Sweets & RestaurantChiken stick「焼鳥」YakitoriGrass dumplings「草だんご」Kusadango Roasted green tea (free)「ほうじ茶」HouzityaTakagiyarowho「高木屋老舗」Japanise sweetsPhoto graph:Kirari Hoshino文化的景観にぽち
2024.01.04
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柴又帝釈天の境内に入って私が驚き感動たのは、この素晴らしい「松の木」ですまるで龍が首を持ち上げてこちらを見ているような佇まいでドキっ。きょうえいざん だいきょうじ経栄山 題経寺葛飾区柴又7丁目10ー3ずいりょうのまつ『瑞龍の松』「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から、二天門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが、瑞龍のマツです。幹は、上方にまっすぐ伸び、大枝は・・・北、南、西の三法に長く伸びています。そのうち、西の枝は、石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして、天に登る「龍」のようです。縁起によると、題経寺は、寛永6年(1629年)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観を成しており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。平成二九年三月 建設 東京教育委員会写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.01.03
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あけましておめでとうございます〜今年も、あちこち旅して楽しい年になりますように2024年(令和六年)1月1日『年賀状』:柴又の帝釈天(ほしのきらり。先月撮影)柴又の帝釈天に行って来ました静かですね〜帝釈天は・・・「男はつらいよ」で知りましたが、もうもう〜昔々、古き良き時代、「昭和時代」の映画です。葛飾柴又のお散歩をしてみましょうつづく写真撮影:ほしのきらり。世界遺産にぽち
2024.01.01
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東京JR両国駅西口を降りるとすぐに国技館の建物が見えてきます。ここにあった立て札には何が書いてあるのでしょうか?きらりの『東京・両国散歩』2023年6月3日忠臣蔵Site of Tawaraboshi Gemba's stable 俵星玄蕃の道場跡 11たわらぼしげんばのどうじょうあととありまあすが・・・いつもお相撲見物に行くときに気づかなかったのですが、そうそう忠臣蔵の吉良邸は、ここから歩いて10分くらいです。たわらぼし げんば「俵星玄蕃」ってどこかで聞いた覚えがありますね〜ああ・・・昭和の大御所「三波春夫」さんが大晦日の大トリで、紅白の歌比べで見たことありますね〜内容は興味が無かったので忠臣蔵のお話なのね・・・長〜〜い歌それにしても、国技館に関係があるのでしょうかね?それでは、説明を読んでみましょう忠臣蔵Site of Tawaraboshi Gemba's stable 俵星玄蕃の道場跡 11宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は、忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の登場は、本所横綱町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が、二百五十石の高録で、吉良家に召し抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃は、これを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて、吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、 お前には用の無いことじゃが、 まさかの時に役に立つかも知れぬぞ 見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされています。 (墨田区)忠臣蔵のお話でしたか・・・(墨田区)さん!私は、墨田区の立て札が大好きです街歩きをしているとかなりの確率で出会う(墨田区)さんの歴史散歩の解説文その中には、時代劇で出てくる架空の人物もあるのですよね〜相撲部屋の前にも、浮世絵の説明もありますよね墨田区の子どもたちは、幸せだと感じます。また街歩きに出かけたくなりました(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2023.06.25
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今年は、主に東京の名勝を訪ねる旅をしてみましょう〜近くて格安で楽ちんな旅です『きらりの旅日記・2023春』 きよすみていえん1.『清澄庭園』Kiyosumi Gardens岩崎家三代が築いた名石の広いお庭。東京都江東区清澄3-3-92023年2月11日(土)訪問。入園料:大人150円(シニア70円)小学生以下:無料 都内在住及び都内在学の中学生:無料。 りくぎえん2.『六義園』Rikugien Gardens東京都文京区本駒込6-16-3和歌の心意づく雅な大名庭園。とても広く美しい。春は桜&つつじで有名。藤代峠・・・園内で一番高い標高は、35mいただきは「富士見山」と呼ばれ、そこからは素晴らしい展望が開けています。ぜひ登って見ましょうゆっくりね〜紀州(現在の和歌山)にある同名の峠から名付けられた。滝見茶屋あずまやの横を渓流が走り、岩の間から落ちて水しぶきをあげています。あずまやからは、滝や石組などの景観や水音が楽しめます吹上茶屋吹上の松を眺めながら・・・和菓子にお茶で一休み2023年4月23日(日)訪問。入園料:大人300円(シニア150円)小学生以下:無料 都内在住及び都内在学の中学生:無料 はくさんじんじゃ3.『白山神社』Hakusan-jinja Shrine東京都文京区白山5-31-26都営地下鉄・三田線「白山駅」3分「白山駅」から神社への参道は登り坂。猫が1匹寝そべって迎えてくれる。こじんまりとした歴史ある神社、加賀一宮白山神社を勧請したと伝わる。おみくじあり・・・10時から。歯の神様として親しまれている。紫陽花の名所としても有名で、例年6月中旬までらしいが今年はお早めに。2023年4月23日(日)訪問入場:無料 こいしかわしょくぶつえん4.『小石川植物園』 Koishikawa Botanical Garden東京都文京区白山3-7-1NHK朝ドラ「らんまん」ゆかりの植物園。江戸時代には、小石川養生所があった。なぜか?親子連れが自転車で乗り付ける人気スポット。とても広大な敷地でお弁当なども食べれる。【開園時間】9:00〜16:30【入園料】大人:500円 子供:150円陸の孤島のような場所です〜歩きましょう〜地下鉄・三田線「白山駅」A1出口10分地下鉄・丸の内線「茗荷谷駅」出入口115分地下鉄・丸の内線「後楽園駅」15分2023年4月23日(日)訪問。 とのがやとていえん(ずいぎえん)5.『殿ケ谷戸庭園(隋冝園) Tonogayato Gardens(Zuigien)東京都国分寺市南町2-16藤棚の下で一休み・・・・萩のトンネルが下に見えますがこちらはまだでした。2023年4月27日(木)訪問。【開園時間】9:00〜17:00【入園料】大人:150円(シニア:70円)【入園無料】小学生以下&都内在住・在学の中学生 JR中央線・西武国分寺線・西武多摩線 「国分寺駅」南口から2分とても交通便利で、おすすめ園内は、起伏が激しく車椅子やベビーカーでの訪問は難しい。ペット同伴禁止。他の庭園よりは、狭いので苦にならない。景色を楽しみながら季節の草花を探す。まったりできる日本庭園です。2023年春の庭園訪問は、こんな感じ春・夏・秋・冬と季節を変えて訪問したい〜リーズナブルな旅です。時間ができたらブログ書きます。世界遺産にぽち
2023.05.09
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久しぶりに「おたまじゃくしの大群」を発見しました〜半端ない数です磯渡りを楽しみましょう♪きよすみていえん いそわたり清澄庭園 磯渡りでおたまじゃくし清澄庭園もほぼひと周りして・・・最後のアトラクション・・・「磯渡り」となりました右「磯渡り」→「傘亭」→「出入口」→「正門」いよいよ最後の「磯渡り」は、ここからです転ばないように、足を踏み外さないようにリズミカルにぴょんぴょんと「大磯渡り」よりも石の表面が平らなので・・・飛びやすいですここは、子どもたちが喜びそうですあっちへ、ピョンこっちからも、ピョン大波のような形の大きな石が・・・細長い橋が2つ、ここは少し斜めです〜気をつけてねおやっ・・・何かがいるあれ・・・これは、何黒いものですよ海苔かひじきか近づいて見るとえええええ・・・っ。おたまじゃくしすごいです卵からかえったばかりの「おたまちゃん」何億匹うゎ〜これは、子どもたちが喜びそういや〜これが蛙になったら・・・すごいことに想像したくないけど磯渡りも、ここまでです。大人でも楽しいのですから出口に向かいますよ〜東京の億ションに囲まれた昔の大名屋敷こんな素敵な場所があるなんて・・・きらりも、まだまだですわ「傘亭」千山亭傘亭は・・・創建時は、池に囲まれ360度園内が見渡せる絶景の中心だった。傘亭は、元々は木造であったが、1932年(昭和7年)、コンクリート製擬木に作り変えられた。清澄一帯は・・・「紀伊國屋文左衛門」の伝説のある場所とされ文左衛門の雅号「千山」を用いて『千山亭』とも呼ばれた。2011年3月11日の東日本大震災で東家は破損して撤去され「傘亭」は、土台部分だけになった。静かな道を進みます出口は、もうすぐ・・・サービスセンターから「出入口」へ欧米人のグループさんたちが・・・ ゾロゾロと、とても楽しそうに入って行きます園内は、ほとんどが外国からのお客さまでした。2023年2月11日(土)9時〜10時半頃訪問天気晴天:寒い朝です。清澄庭園『最終回』世界遺産にぽち
2023.05.08
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東京にもこんなに広々とした日本庭園があったのですね〜野鳥が飛んでくる『清澄庭園』きよすみていえんき りょうてい清澄庭園記・涼亭2023年2月11日(土)朝の訪問【清澄庭園内の地図】涼亭あたりを歩いています大泉水という大きな池をぐるっと周って歩く日本庭園ですどんな野鳥が来るのでしょうか?冬の野鳥は・・・キンクロハジロホシハジロ、オナガガモ、ヒドリガモ、など。夏の野鳥は・・・ツバメ、など。通念見られる野鳥は・・・キジバト、ヒヨドリ、オナガ、ムクドリ、シジュウカラ、アオサギ、ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、など。地図と標識を確認しながらの・・・まったりお散歩。この庭園は、起伏が少ないので楽ちんです。標識を確認しながら・・・「涼亭」Riyoutei方向へ樹木に囲まれた場所まで入って来ました大きな一枚岩に記された文字には・・・何が清澄庭園についてとても古く昭和4年に記された文字です。どこまで読めるかしら?清澄園記本園はもと岩崎男爵の別墅になりしを大正一三年六月東京市に公園として寄附せられたるものなり江戸地圓を案するに寛延二年前におりては松平大炊の名見ゆるも以後は久世大和守の下屋敷となり明治維新後は久しく荒廃に帰せしを明治十一年に岩崎彌太郎君始めて附近一帯と併購して別邸を構へ庭園を拓き殊に奇巌珍石を全國より移し來りて其景観を添へ名付けて深川親睦園と伝ひ故舊内外紳士を会してその清娯を倶にし又社員平日の勤労を慰むるの處とせられたり十八年君榼逝の後彌之助君は、今兄の志を紹?更?園池を???????文字が消えてもう読めない・・・・残念昭和四年九月 東京市95年前の石碑なので仕方ないです。岩崎久彌・・・とは?いわさきひさや(1865年10月14日〜1955年12月2日)明治から昭和にかけての実業家。三菱の創業者:岩崎彌太郎の長男。三菱財閥3代目、男爵。清澄庭園を東京市に寄付したことを称えた石碑。ざっくり、現代用語で説明すると・・・明治11年(1878年)に岩崎彌太郎が、この邸地を含む一帯3万坪を取得し、社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、明治13年(1880年)に『深川親睦園』を開園しました。その後も、造園工事は進められ、隅田川の水を引いた「大泉水」をはじめ築山、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として完成しました。関東大震災後、大正13年(1924年)、震災被害の比較的少ない東半分が、岩崎家から、東京市に寄付され、『清澄庭園』として復旧、整備して昭和7年(1932年)7月に、東京市の公園として開園しました。また、昭和52年(1977年)には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園「清澄公園」として開園しました。昭和54年(1979年)3月31日に『清澄庭園』は、東京都の名勝に指定されています。なお、大正12年(1923年)9月の関東大震災や、昭和20年(1945年)3月の大空襲の時には、避難場所として多くの命を救いました。重要な役割を今でも継承しているのですね りようてい「涼亭」Ryoutei House池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。(中は、自由に見学できないようです〜残念)これが・・・この庭園を日本情緒豊かなものにしています。「涼亭」は、明治42年(1909年)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものです。震災と戦火の被害からまぬがれ、今日に至りましたが、昭和60年(1985年)に全面改修工事を行いました。集会場として利用できます。平成17年(2005年)には、「東京都選定歴史的建造物」に指定されました。「涼亭」を色々な角度から撮影したので・・・もう一度磯渡りからの「涼亭」園内の富士山前からの「涼亭」中の島から眺めた「涼亭」大正記念館前から見下ろした「涼亭」船着石の辺りから眺めた「涼亭」大磯渡りをしながら見る「涼亭」どこから見ても「清澄庭園」のシンボルです(写真撮影:ほしのきらり。)三菱財閥・・・あちこちにお庭あり。世界遺産にぽち
2023.05.07
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清澄庭園の一番奥まで行ってみましょう〜私は「芭蕉の句碑」を探しています渋いかしら・・・きよすみていえん はなしょうぶ ばしょう清澄庭園・花菖蒲と芭蕉清澄庭園を時計回りで周って一番奥まで来ましたが・・・ここには、立て札があります【園内地図】の一番上です・・・トイレマーク方向春は桜そして花菖蒲が見事らしいスポット芭蕉碑・花菖蒲田 Bashou Monument 花菖蒲田 Iris garden涼亭Ryoutei 涼亭は、後まわしにして・・・まず「芭蕉碑」の方向から行きましょうこの先、行き止まりえええ・・・っ。「芭蕉の句碑」は、こちら方向のはず。。おかしいわ〜でも、とりあえず、行ける所まで右は「花菖蒲田」です。訪問時は、3月11日でしたから・・・まだ全然ですゴールデンウィークまで、咲いているかしら?右側は、ずっと「花菖蒲田」です。 花菖蒲・・・とは?ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var.ensataアヤメ科アヤメ属の多年草。別名:アヤメ。アヤメの仲間に含まれる厳密なハナショウブも「アヤメ」の名称で呼ばれる。なるほど・・・花菖蒲は英語でアイリスだったのですね花菖蒲田の向こうに見えるのは・・・桜が咲く「自由広場」です。お花見をしながら・・・お弁当を食べているおじさま約2名あらら〜やはり、ここで行き止まり!!「芭蕉の句碑」には、もう一度、戻って行かねばなりません!グル〜っと周って庭園の奥の奥にありました松尾芭蕉の「古池の句碑」古池やかはづ飛び込む水の音 「古池の句」碑由来・・・とは?当庭園より、北北西400m程の所に、深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目三番、都指定旧跡)があります。松尾芭蕉は、延宝8年(1680年)から、元禄7年(1694年)まで、門人の杉山杉風の生簀(いけす)の番屋を改築して、「芭蕉庵」として住んでいました。かの、有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で・・・貞亮3年(1685年)の春、詠まれています。この碑は、昭和9年に其角堂(きかくどう)九代目の晋永湖(しんえいこ)という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉と直接ゆかりがあると言うことではありません。なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採茶庵(さいとあん)跡がありますが、芭蕉は、元禄2年(1689年)に「奥の細道」の旅を、ここから出発しました。2023年2月11日(土)カンヒザクラが満開でした。ソメイヨシノは、まだカタイ・・・清澄庭園「自由広場」にて説明では・・・地球温暖化で、桜の見どころも変わっています。2023年3月14日にソメイヨシノが開花発表。その後雨が続き、お花見日和は1日で4月1日には、葉桜でした。各地の桜祭り実行委員会は困ったようです。花菖蒲も早めにお出かけください。世界遺産にぽち
2023.05.06
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5月5日(本日)は、清澄庭園が入園無料の日ですゴールデンウィークのオススメスポットですきよすみていえん かれたき清澄庭園・枯滝清澄庭園は・・・江戸時代の紀伊國屋文左衛門のお屋敷跡だったとか?江戸時代のお金持ちのお庭を拝見に行くのも地図上部の「富士山」の右に「枯滝」かれたき「枯滝」・・・とは?日本庭園には「枯山水」というものがありますが、清澄庭園は「枯滝」を石だけで表現しています。かれたきいしぐみ「枯滝石組」です水の流れを丸い石で表現してるユニークな枯滝です。滝は、右から流れて来ます白くて丸い石が水を表現しています。左の富士山方向から流れてくるイメージです。近くから見ると滝とは気づかないかもですが・・・もしかすると大雨が降ると本物の滝になるかしら?なんて考えてしまいました石の滝は、落ちて・・・池まで続いています。この辺りには、名石が並んでいますね〜おやっ〜水鉢です。伊予の青石です。こちらは、紀州の青石清澄庭園は、名石があることで有名ですほとんどの名石には、立て札があります。伊豆石、伊予青石、紀州青石これ生駒石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石、などが代表的なもの。伊豆の磯石には穴がぽこぽことここから海に見立てた池へと小石は続いています。その先に進むといきなり森です。ここにも変わった石がありました波かしら?清澄庭園の森には何があるのでしょうか?立て札が・・・さて、どちらへ進みますか?世界遺産にぽち
2023.05.05
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江戸・東京の庭園に行こう!東京都の日本庭園ですから入園料は150円子供は無料ですシニアは70円きよすみていえん清澄庭園・富士山麓からの眺め東京都江東区清澄3-3-9地下鉄「清澄白河」から3分バス「清澄庭園前」下車3分大きく「清澄庭園」表示されているので安心東京に暮らしていても知らなかった名所です。【園内地図】お散歩には、ちょうど良い広さです私は、正門から(門は1箇所のみ)入り時計周りにぐるっと左上の富士山の真下まで歩いてきました。これが富士山です〜ちょっと小さい?それでも、清澄庭園の中では最も大きな「築山」大泉水(池)の『中の島』から見ると海岸に松原があり石灯籠の上に富士山が見えます。小高い富士山です富士山麓の石灯籠は、大きいですね〜この位置から清澄庭園を眺めると・・・3つの島が見えます正面の赤煉瓦のビルは「中村学園」その右には「大正記念館」池の中に見えるのは「鶴島」です。富士山の下まで「かも」がお散歩にやってきましたベジタリアンですか?食べ放題ですねそしてカモさんは・・・パートナーが待っている池にぽちゃ。池の左には「涼亭」が見えます。この「涼亭」は、明治42年(1909年)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものです。清澄庭園の景色は・・・お庭を歩いているとそれぞれの景観があります。そして何と静かな日本庭園なのでしょうね〜東京都のお宝です世界遺産にぽち
2023.05.04
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清澄庭園をゆっくりお散歩して見ませんか?子どもたちからシニアまで楽しめる日本庭園ですきよすみていえん・せきぶつぐん清澄庭園・石仏群KIyosumi Gardens Sekibutsugun親子で大磯渡りを楽しんでみるのがオススメですが、ちょっと横道へ入って冒険するのも・・・場所は富士山の裏になります。園内地図左上ですその道に入る前には・・・「九重塔」が目標その下には、大きな赤い石「石仏群」Sekibutugun江東区文化財登録されているもの遠くはないです〜1分もあれば到着石仏を集合させたものここには、親切な説明もありましたせきぶつぐん石仏群(江東区文化財)1. 庚申塔(右) 高さ:89.5cm 石質:安山岩(小松石) 時代:寛文10年在銘(1670年)2. 法印慶光供養塔(阿弥陀仏)中央 高さ:141cm 石質:安山岩(小松石)時代:3. 庚申塔(左の後ろ) 高さ:67.5cm 石質:安山岩(小松石) 時代:文化12年在銘(1815年)4. 馬頭観音供養塔(左下) 高さ:44cm 石質:安山岩(小松石) 時代:安永3年在銘(1774年)庚申さまは、お猿さんをお祀りするもの「見ざる・言わざる・聞かざる」ですね台座には、蓮の花が描かれています。庚申さまは・・・青面金剛明王(しょめんこんごうみょうおう)です。もともとは・・・疫病などを撃退する仏さまでしたので、よ〜くお参りしておきましょう世界遺産にぽち
2023.05.03
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清澄庭園の美しさは、水面に歴史を映す水鏡にありますきよすみていえん・なかのしま清澄庭園・中の島より清澄庭園を時計周りに歩いていますとても気持ちが良い朝です「回遊式林泉庭園」なので池をぐるっと時計回りに回りましょう〜園内地図は、「大正記念館」から地図上では、左上に向かっています。今から「中の島」へ渡ろうとそうそう、この橋を渡って大きな太鼓橋ですね〜「中の島」には、今朝は誰も上陸していません!今のうちです「中の島」から眺めた「大正記念館」水面には「磯渡り」の石が整列しています。どうして「中の島」へ行きたかったか?それは・・・富士山を撮影したかったからです。これが、清澄公園の富士山です清澄公園の一番高く大きな「築山」関東大震災以前は・・・この築山の山頂近くには、樹木を植えず、サツキやその他のツツジ類の灌木類を数列横に配して、富士山のたなびく雲を表現したものだと言われています。対岸にカメラマン1名発見!石橋の右には「集団石組」が見えます。水際に打ち寄せる波「荒磯」を表現しています。「大磯渡り」の大きな石が並んでいます。左側に「鶴島」が少し見えます。その先には、池に張り出すような「涼亭」日本情緒を感じます水面には、鴨がいっぱい日向ぼっこ。「鶴島」ですこの島には、渡れないです(残念)。赤いボートは、メンテナンスのために、たまには、池に落ちた人も救助するかもです。2023年3月11日(土)朝の撮影世界遺産にぽち
2023.05.02
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ゴールデンウィークが始まりましたが近くて安くて楽しめる「清澄庭園」はどうでしょうか清澄庭園で一番高い築山は、やはり富士山です(富士山を模したもの)きよすみていえん清澄庭園の富士山ちょっと後ろに樹木があるので分かりにくいでしょうか?日本といえば・・・やはり富士山清澄庭園を歩いていいると、ほとんどが外国からの観光客です。もしかして、この富士山を見に来るのかしら?富士山は地図の左上眺めているのは「大正記念館」の前庭から良いお天気です・・・たいしょうきねんかん「大正記念館」・・・とは?大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を、移築したものです。しかし、最初の建物は残念ながら、戦災で消失しました。そのため、昭和28年(1953年)に、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建され、平成元年(1989年)4月に全面改築されました。清澄公園の正門の左側に入口があります。 集会場としてお借りすることもできるようです。ですから、ここからの眺めは最高です大泉水(だいせんすい)池です。大正記念館の周辺には、珍しい石や灯籠なども多くあります。ちょっとお散歩して見ましょう。大正記念館のお庭の石灯籠その前にある丸い石は・・・何でしょう?おおっ。「つくばい」でしょうか?天水桶では無いですよね・・・Bigです!!訪問日:2023年3月11日、まだ梅がちらほら・・・残って梅の木も何本かあります。可愛いお花です梅の花に誘われるように進むと・・・今度こそお茶室の「つくばい」かしら?「水鉢」です。その先には・・・井戸らしきものも・・・全て名石で作られています。その上には、大きな塔が、「多重塔」十一重の塔です。高さは・・・2,7m(九尺)石質は・・・奈良御影この多重塔は、園内の多重塔の中では、かなりの年代もので、出来も良く、もっとも貴重なものである一番下の初重軸部分に、四方仏が刻まれている。世界遺産にぽち
2023.05.01
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大磯渡りをしながら大泉水(池)の先を眺めて見ると・・・こんな素敵な日本情緒きよすみていえん りょうてい清澄庭園と涼亭と鴨の群れ りようてい「涼亭」です。池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物です。対岸から見ると「涼亭」は、日本庭園ならではの情緒を感じます。そろそろ、外国人のお客様が・・・グループでいらっしゃいました台湾の方かしらとても珍しい石を眺めていらっしゃいます。確かにこの石は、不思議な形状清澄庭園には・・・多くの名石が全国各地から集められました。伊豆石、伊予青石、生駒石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石、これらは、代表的なものです。このほか、敷石や橋、磯渡り、枯滝の石を含め、園内には無数の石が配置され、これはもう〜『石庭』と呼んでもこれらの石は・・・岩崎家(三菱財閥)が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものです。大泉水にある3つの中島のうち「松島」ここにも美しく手入れされた松の木や名石。多層塔が見えます池を周りながらの景色の趣は、それぞれ違って見えます。世界遺産にぽち
2023.04.30
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清澄庭園の一番の楽しみは、子どものようにぴょんぴょんと石を渡る「大磯渡り」ですきよすみていえん おおいそわたり清澄庭園の大磯渡りさぁ〜目の前に石が並んでいますふふふっ。今朝は、まだ誰も渡っていませんねだいせんすい大泉水の池の淵に並ぶ・・・大磯渡り石を渡りながら・・・日本庭園のほとんどを眺めることのできるビュースポットでもありますしかし、景色に見惚れすぎてはいけませんね〜カメラに夢中になりすぎても、危ないですが・・・今朝は、一番乗りなので、ゆっくりとぴょんぴょんできます振り向いても・・・誰もいませんね後ろの白い石橋が見えます。そして歴史を感じる・・・大樹。大磯渡りは、子どもたちも喜びそうですこんなん、アミューズメントパークにもありませんね〜左手に「集団石組」を鑑賞しながら、名石が並んでいますね〜伊予青石です。岸壁に打ちつける荒波を表現している「荒磯」あらそここで、見逃せないのが・・・とても細長く青い「立石」池中立石です。日本庭園を注意深く観察すると、時々、池に立っている石を見つけることがあります。清澄庭園の「立石」は・・・小さめですが珍しい形です。周囲にも、伊予青石で波を表現していますねこんな変わった波のような石を見つけた人は、凄いですよね〜それを運ぼうと考えた人は、もっと凄い!大磯渡りを上から(岸壁の)眺めるとうわ〜大磯渡の石は、上から見ても大きいですね幼児の磯渡りには・・・注意保護者の付き添いが必要ですが、きっと楽しめます世界遺産にぽち
2023.04.29
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清澄庭園は、東京にある日本庭園の中でも特に石の美しさを楽しむという庭園でありますきよすみていえん 清澄庭園の集団石組清澄庭園の面積は、12,000坪東京の都心にある大名庭園で、特に石の美しさを感じる日本庭園です。大正記念館の下の池には、集団石組があります。紀州青石で組まれた「集団石組」です。 あらそ「荒磯」この集団石組は、池の水際にあるため「荒磯」荒々しく岸壁に打ち付ける波を紀州青石で表現しています。(石組の上から眺めた様子)美しく手入れされた松の木が、いっそう海辺の景色を思わせますね〜小舟に乗って見たり(昔は)岸壁の上から眺めたり、磯渡りをしながらもなんと〜風流ですよね世界遺産にぽち
2023.04.28
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清澄庭園の大磯渡りには、松の木の下に紀州の青石が組まれていますが何を表現しているのでしょうか「清澄庭園」大磯渡りの池中立石池中立石・・・とは?池に建てられた特に高い石のこと。清澄庭園の池中立石は、青石による美しい立石です。池中立石の周りを囲むのは、紀州青石で組まれた贅沢な「集団石組」手前に「伊予青石」と立て札があります。荒磯(あらそ)荒々しい磯場を表したもの水際に集団で紀州青石を並べ、雄大な荒々しさを表現したものと思われるこちらも「紀州青石」と立て札が・・・水際に波が打ち付ける様子を表現しているそんなことを知って訪れるのと、知らずにただの大きな石が並んでいると、うっかり通り過ぎてしまうのでは、日本庭園の楽しみ方が違ってきますね世界遺産にぽち
2023.04.27
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清澄庭園に一番乗りしたかったのは、この「大磯渡り」を一番に渡りたかったからさぁ〜ぴょんぴょんと行きましょうかきよすみていえん おおいそわたり清澄庭園 大磯渡り大磯渡り・・・池の端に石を点々と置いて、そこを歩けるようにしたもの広々として池の眺めが楽しめるだけでなく、歩を進める度に景観が変化するように配慮されています池の向こうに見えるのは「富士山」このお庭園で最も高い大きな築山。日本人は、なんと素敵なことを考えたのでしょうか?世界を旅しても、こんな素敵なお庭はありません。日本人であることを誇りに思える小さな旅世界遺産にぽち
2023.04.26
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清澄庭園をお散歩していると私は今どこに?何時代を歩いているのか?その先を見ればここが東京のオアシスであることが実感できるきよすみていえん清澄庭園Kiyosumi Gardens園内地図石橋を渡って島から対岸を見ると・・・多くの鳥たちが、水面で日向ぼっこをしています。早朝の清澄庭園は、気持ちが良いですね手入れがされた松の木がある「松島」大泉水(だいせんすい)と呼ばれる池には、中の島、鶴島、松島の3つの島があります。その先に見えるのが涼亭(りょうてい)一部は、池の上に突き出る形で建てられた数寄屋造りの建物は、日本らしさが溢れる景色を演出しています。いやいや〜これは、大きな石灯籠絶妙なバランス感覚で立っています。デザイン的にも、うううう素敵 さぁ〜この大きな石橋を渡ると・・・いよいよ大磯渡(おおいそわたり)ですここには、名石がわんさか並んでいるらしい?ふふふ、一番乗りです〜まだ誰も渡っていません世界遺産にぽち
2023.04.25
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新緑が美しい季節となりました〜都会にある代表的な日本庭園「清澄庭園」を楽しみましょうきよすみていえん清澄庭園清澄庭園は・・・江戸時代に豪商であった紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。享保年間(1716年〜1735年)に下総国、関宿藩主くぜやまとのかみ久世大和守の下屋敷となり、庭園のもとが形造られました。だいせんすい大泉水と呼ばれる大きな池には島が配されその島は眺めるだけでなく実際に渡って行ける島もあります石橋を渡ると・・・小さな島が見えてきましたさぁ〜あの島まで行ってみましょう。おおお・・・島に行くには、石をぴょんぴょん飛んで行くようですそれにしても、石が多いです立派な松も・・・清澄庭園には全国から取り寄せたご自慢の名石が、これでもかと配されています。名石には・・・立て札がしてあります。「伊豆石」というのが一番多くありますね〜伊豆から船で運びやすかったのでしょうか?そこそこ大きな亀が甲羅干しをしています。飛石を渡りながら、亀や野鳥、お玉杓子を見つけたり大名屋敷のお庭は、小さな庭に住む庶民としては、一瞬ですが大富豪になった気分になります。鴨でしょうか?笑いながら?泳いでおりますね〜気のせいか明治11年(1878年)岩崎彌太郎が、この邸地を取得し、社員の慰安や、賓客を招待する場所として造園を計画し、明治13年(1880年)に「深川親睦園」を開園しました。これらの石は・・・岩崎家が自社の汽船を用いて、全国の産地から集めたものです。世界遺産にぽち
2023.04.24
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清澄庭園は、回遊式庭園であります。そもそも回遊式とは?いつ頃から始まったのでしょうかきよすみていえん清澄庭園清澄庭園は・・・明治時代の代表的な「回遊式庭園」ですかいゆうしきていえん『回遊式庭園』・・・とは?日本庭園の形式のひとつ。園内を回遊して鑑賞する形式の庭は、日本以外にも存在するが・・・回遊式庭園という語は、主に日本庭園のみを指して用いられる。回遊式庭園は・・・室町時代における禅宗寺院や、江戸時代においては、大名により多く造営された形式で、日本庭園の集大成とも位置づけられている。(清澄庭園園内図)最も一般的な形式は・・・ちせんかいゆうしきていえん「池泉回遊式庭園」と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで、各地の景勝などを再現した。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋なども設けられた。東京都内にある「池泉回遊式庭園」は・・・江東区「清澄庭園」文京区「六義園」文京区「小石川後楽園」中央区「浜離宮恩賜庭園」板橋区「徳水亭・水車公園」大田区「池上本門寺・松涛園」ぜひ、行ってみたい・・・世界遺産にぽち
2023.04.23
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