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埼玉県内のいくつかの道の駅を廻った。今回は、道の駅童謡のふる里おおとね、道の駅めぬま、道の駅かわもと、道の駅はなぞのの4箇所に行った。「道の駅」とは、平成5年より、道路を快適に利用できるようにという発想から「休む」「知る」「ふれあう」ことのできるスポットとして、市町村または市町村に代わり得る公的な団体が運営し、国土交通省道路局が認定した、ドライブインである。現在全国に743箇所がある。施設として、駐車場・トイレ・公衆電話などは24時間利用できるが、そのほかに、道路や地域の情報を提供する施設がある。この、サービス施設が、それぞれ工夫されている事があるので、これが楽しい。しかし、今回廻った、4箇所は、全て「農産物直売所」があり、しかも、その造りがそっくりなのだ。しかも、売っているものも、7-8割同じなのだ。とはいえ、この「農産物直売所」は、人気があるらしく、地元の人と思われる人が、買いに来ていて、レジは、常に人がいる状態である。活気があって、それは、それでいいのだが、道の駅を廻っている者からすれば、同じ系列のスーパーマーケットの各店舗を廻っているようで、少し、面白みが欠ける。とはいえ、それぞれの地域で、いろいろ、趣向を凝らしてはいる。しかし、人の多くは「農産物直売所」に向かい、そのパワーに押されているという感じ。さて、「道の駅」の「農産物直売所=JA販売店」化には、いろんなからくりがありそうだ。まず、「道の駅」を作ろうとすると、国土交通省や県などの、道路管理者が、駐車場を作ります。そして、道の駅を運営する公営の団体に対し、国土交通省は、道路開発資金貸付金とそれに準じるものを貸し出す。つまり、駐車場をタダで作ってもらって、お金を借りて、商業施設が作れるというわけだ。これ以外にも、埼玉県、農林水産省からも、助成金や融資が受けられるので、資金調達が出来てしまう。助成金を受けるという事は、それなりの基準を満たさないといけない。「農産物直売所=JA販売店」化は、その基準を満たした結果なのかもしれない。もしかすると、あくまでも、推測だが、埼玉県のJAの提唱する販売店形態を基準に、助成金の基準を作った可能性もある。そして、JAは、Aコープなどの店舗を独自に作るより安く、駐車場が広く、集客力の店舗を作る事ができたと思われる。この安く施設を作れる事により、他の店に比べ、多少、安い価格の設定をしても、やっていけると思われ、それで、地元の人が、その安さのために、「農産物直売所」に買いに来るのだと思う。賑わっていることは、施設が活きているという事で、とても喜ばしい事なのだが、道の駅の3つのコンセプトである「休憩機能」「情報発信機能」「地域の連携機能」が、少しおろそかになっているようにも見える。国土交通省の作った道の駅のコンセプトが必ずしも現実的だとは思えないが、道の駅の八百屋化は、なんとなくグレーさを感じる。
2004.01.31
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新宿のミスタードーナツでミーティングをしていたら、友人のライターの携帯に、東急東横線の桜木町の実況写真が送られてきた。どこに、これだけいたのかと思われる夥しい数の鉄道ファンが、携帯の小さな液晶画面に映し出されている。さて、この桜木町駅だが、日本の鉄道の最初の路線、明治5(1872).5.7 品川~横浜の仮開業 明治5(1872).9.12の新橋-横浜の横浜駅が、今のJR根岸線の桜木町駅である。そんな、横浜の玄関であった、桜木町駅だが、明治20(1887).7.11に、国府津まで東海道線が延長した際は、今の桜木町駅である横浜駅で進行方向を反転(スイッチバック)していたため、その11年後の明治31年には、東海道の直通する線路が出来たために、直通列車が通らなくなる。そこで、東海道本線の横浜通過を避けるため、大正4年に、今の高島町付近に、新しい横浜駅が出来たことで、いままでの横浜駅を桜木町駅と呼ぶようになった。その後、関東大震災で、横浜駅が焼失したため、今の横浜駅の位置に移築し、そこに、東急、相鉄、京急のそれぞれの前身となる会社が接続したために、横浜の玄関口が、横浜駅になってしまった。国電が運転されるようになるが、その後、昭和26年4月26日に、桜木町駅では、北陸トンネル火災と共に、日本の鉄道の防火基準に影響を与える、桜木町事件が起きたれもするが、昭和39年5月19日に根岸線(桜木町駅~磯子駅間)が開通。国鉄の桜木町駅が、終点でなくなった。磯子駅周辺には、商業地域と、海を見おろす高層住宅地域が出現きたり。昭和45年3月に洋光台駅が誕生駅を中心にした町づくりがなされた。そのため、横浜市磯子区あたりは、東京方面への交通の便が格段に向上し、人口は爆発的に増加したが、その一方、桜木町駅は、単なる通過駅になってしまった。もう、根岸線の桜木町駅は、横浜の玄関口の機能を失ったといえる。今回、東横線の桜木町駅がなくなったことで、桜木町駅が、いよいよ、横浜の玄関口としての機能を終えたと言えよう。
2004.01.30
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関西出身の人間からすると、とても、残念な話だが。関西は、都市型のいわゆるキレた犯罪の先進地域。最近起きた、岸和田の児童虐待事件(関連記事)、附属池田小事件(宅間守)も、神戸児童連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗)、奈良長女薬殺未遂事件、和歌山の毒物カレー事件(林真須実)、西宮の将棋名人の息子による金属バット殺人事件・・・・。電車の車掌をサラリーマンが殴り殺すという事件も、大阪が東京より早かった。関西は、首都圏と共に、都市化が進んだ地域である。東京に住んでみて思うのだが、今は、その勢いは落ちてはいるものの、都市化は、関西の方が、首都圏より早かったのではないかと思う。それは、同時に、都市型の、現代病的な犯罪の先進地域でもある。だが、最近は、首都圏の方が都市化が追い越したにも関わらず、いぜんと、関西の方が悲惨な事件が多い。その原因は、もしかすると、ひとつの食品が影響しているのかもしれないのだ。キレる子供や、鬱の大人の脳には、セロトニン神経が弱まり、セロトニンという脳内物質が不足しているという。セロトニン神経は、昼夜逆転したり、日光を浴びないなど、都市化した生活を続けたり、ストレスを受けたりすると、肉体的に疲れて乳酸が増えたりすると、弱るそうである。その、セロトニン神経の出す、セロトニンの材料となる物質は、体内では生成できず、体外から食物として摂取しないといけない。その物質は、納豆などの大豆製品、バナナ、チーズなどの乳製品に含まれている必須アミノ酸「トリプトファン」である。この「トリプトファン」を含んだ食品の中で、首都圏と関西とで消費量が極端に違うものと言えば「納豆」であろう。生活習慣や、緯度が同じで日照時間や日光の強さが近いとして、違うとしたら、おそらく「納豆」による、差が、悲惨な凶悪犯罪に繋がっているのかもしれない。ちなみに、新潟などでも、女性監禁事件や新潟毒物事件などが起こるのは、日照時間の短さと関係しているかもしれない。今日は、近くのダイエーで、今月の特価ということで「におわなっとう」が、煩悩価格3つ108円で売られていた。この「におわなっとう」は、関西の納豆嫌い対策のために作られた商品だ。今は、この「におわなっとう」が、関東でも売れているという。それは、あの臭いが少ないからである。いろいろ、納豆の臭いを減らした食べ方もあるが、キライなものを無理やり食べさせるのも酷な話し。それに、まずいと思って食べる事も、ストレスの原因になるので、あまりおすすめできない。トリプトファンを摂りたいのなら、乳製品とバナナなどの食品を摂取し、セロトニン神経を活性化する、反復運動を、長期にわたって継続する必要があるだろう。むかし、大阪で、仕事でファッションモデルなどを扱っていた事があるが、バナナと牛乳は良く取っていた。そして、毎日行う、ウォーキングの練習。それは、セロトニン神経を活性化させる行動といえよう。セロトニン神経が活性化すると、背筋が伸びるという特徴がある。当時、モデルが、牛乳とバナナをよく食べるので、まるでサルみたいだと、会社の先輩はバカにしていたが、モデルは、背筋を伸ばすために、経験的に、バナナとか牛乳を摂っていたのかもしれない。関西人は、納豆がダメなら、モデルを目指せ!!それが、もしかすると、悲惨な都市犯罪を減らすかもしれない。ただし、最低3年かかるらしい。なお、食生活については、あくまでも、一般論で、摂取量などの、裏づけをきっちりしていないので、また機会があったら、いろいろ、データで裏づけしてみたいと思う。★参考文献★セロトニン欠乏脳キレる脳・鬱の脳をきたえ直す 著者:有田秀穂|出版社:日本放送出版協会|発行年月:2003年 12月 サイズ:新書|ISBN:4140880937|本体価格:680円
2004.01.29
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「馬車道」という、埼玉県を中心に存在する。明治時代テイストとスパゲティがウリのレストランでランチを食べた。ここの明治時代テイストは、徹底していて、窓はステンドグラス風、客席を囲う濃い色の木で作られた縦の桟の柵、女性店員のユニフォームは「すみれ女史」と言われる袴姿という具合である。そこで、ランチを頼み、料理が届くまでの間、ふと、店内を見て気が付いた事があった。それは、窓や照明は、明かり取りというより、影を楽しむように作られているという事である。現在の建築物の多くは、広い窓と明るい照明で、部屋の隅々まで、明かりが届くように作られている。部屋の隅々まで、明かりが届くと、全てのものが、明瞭に見える。その一方で、立体感が失われ、ベタっとした感じになる。ところが、馬車道の明治時代風の窓や桟、薄暗い照明は、影をつけることで、明るさを調節し、装飾品の立体感を強調する。これは、ステンドグラス風の複雑な紋様の窓の桟から出来る、影が作る紋様と共に、影を大切にしている。影を大切にした窓や部屋の作りは、昭和初期の建築物にも見られる。甲子園には、戦火と震災を耐えた、いわゆる、ハイカラな作りをした、大正から昭和初期の住宅が残っている。そこには、様々な、丸い窓、複雑なグラフィクを描く桟や、柵を見ることができる。これらは、見た目の形状の面白さだけでなく、影を作り、光の量をコントロールする機能をもっているように感じる。さて、このように、窓の考え方が変わったのは、蛍光灯の普及があるのではないかと思う。蛍光灯は、太陽光や電球という点から出る光ではなく、直線や円形など、線で出る光だ。そして、蛍光灯を横に並べる事により、面の光源になる。蛍光灯のない時代は、一点から出る光を拡散させ、影を少なくするために、障子を貼ったり、複雑な桟を取り付けそこで反射させるなど様々な工夫をすることで、明るさを調整していた。そして、蛍光灯という、面での照明が実現した事で、いろんな工夫で光をソフトにする必要がなくなった。これは、いままで、出来なかったことなので画期的なことだったに違いない。そのおかげで、部屋から、影がなくなった。手に入れたものもあれば、失ったものもある。それが、部屋における「影」である。(参考)甲子園近辺に残る大正-昭和初期の建築物
2004.01.28
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株式会社ズィットの水谷社長が主催する、IT経営改革研究会(通称「IT研」)に参加してきた。この研究会は、毎月開かれており、今回で42回目。継続は力で、徐々に参加者が増加し、現在は、毎回150人以上の参加者がいる。その会の最初のミニ講演で、事業再生コンサルタントなどを行っているTSKプランニング の立川氏が、故某大物政治家から聞いた話の中に、興味深い話があった。それは、経営をするとき揃えるものの三要素「ヒト」「モノ」「カネ」には、順番があって、順番を間違って、「ヒト」「モノ」「カネ」を揃えると、その三要素が活きないという。「ヒト」「モノ」「カネ」の順番で、揃えないといけないそうなのだ。たとえば「モノ」「ヒト」「カネ」の順番で揃えると、とても苦労するといい。「カネ」「モノ」「ヒト」の順番で揃えると、倒産するという。つまり、それだけ、経営には「ヒト」が大切なのだという。その「ヒト」にしても、様々なタイプが揃わないといけないという。それは、「自分を輝かせいくれる人」「自分と同じ性格の人」「自分と違う性格の人」「100%聞いてくれる人」の4人なのだそうだ。なるほど、「自分を輝かせてくれる人」「100%聞いてくれる人」は、自分を認めてもらえる事により、常に自信を持って物事に当たる事が可能となるし、「自分と同じ性格の人」「自分と違う性格の人」は、自分を、客観的に見る機会を常に与えてくれる。この4人を見て思うのだが、見方を変えると、経営者は、いかに孤独であるかよくわかる。しかし、孤独だからといって、殻に閉じこもっては、必要な人材に出会わない。要は、ヒト、モノ、カネの順番で揃える第一段階をクリアできない。人と人との出会い。それは、あらゆる経営の基本なのだ。ちなみに、今回のIT研にてプレゼンテーションのあった。XMLデータベース NeoCore http://www.neocore.jp/ 業務システムのジェネレーター Genexus http://www.genexus.jp/ 共に、Web時代のデータベースの構築や、再構築の効率化に役立つツールと感じた。いずれも、従来からの、「完全に設計し作りこむ」という、データベースの構築スタイルより、ラフな感じで、現状にあるデータベース資産を生かしてデータベース構築が出来るのが特徴。値段は、わからないが、将来、安価に使えるようになると、Microsoft Accessの勉強は、今ほど重要でなくなるに違いない。★問合せ先IT経営改革研究会事務局 yukie@zit.co.jp(新住所)〒112-0005東京都文京区水道2-11-5 明日香ビル1FTel 03-5977-8571 Fax 03-5977-8575
2004.01.27
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幡ヶ谷にある、このコンビニエンスストア、なんとなくパチンコ屋に見える。駅前商店街というロケーション。店頭にぎっしりと放置されている自転車。白く光沢のある壁。銀色に輝くサッシ類。窓の大きさ。窓ガラス上部の日よけ用のタペストリ。天井に並んだ蛍光灯・・・。とにかく、どことなく、パチンコ屋に見える。○○らしさって、どこで、感じるのだろうか。
2004.01.26
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Fusion TYPE-X Panther
2004.01.25
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先日来、けっこう通っている、銀座一丁目の奥野ビルの一階の入り口の左側に、真ん中に四角い窓のついた、大きな丸い窓がある。そこに、空間をプレゼンテーションしている部屋がある。ここは、ディスプレイのデザイナー大西香次郎さんが運営している「Koujiro Onishi」である。関東大震災の復興の後、昭和初期に作られ、銀座という都心部でありながら、第二次世界大戦の戦火を逃れた奥野ビル。その1階を使い、西洋の技法やアイデアを取り込みながらも、日本の伝統を感じさせる拘りの空間を提案している。寒い冬だというのに、常に外の空気を取り込み、和みの空間でありつつも、キリッと引き締まるものを感じさせる。私は、最初は、何の店かわからずに入ったのだが、入ってみると、なかなか落ち着く。女性の店員さん?に、すすめられるまま、部屋の片隅の椅子に座り、お茶を頂く。朽ちて時の流れを感じる壁に空いた、丸い、大きな窓が、額縁となり、銀座の裏通りを歩いている人が絵画に見える。そんなとき、そこで、掛かっていた、静かで、間を大切にした、結晶のようなピアノの音色。それが、今回紹介する門光子の「東方逍遥」だ。昨年11月に発売されたこのCDは、門光子さんとして、2枚目となるアルバムで、前作のコンセプトの「現代日本のピアノ音楽」に対し、今回は「ピアノによるアジアの音楽」だという。複数の作曲家によるオリジナルの曲とカバー曲がほどよく混じっている。カバー曲といっても、どこかで聞いたことのある、旋律は、分解され、結晶となり、そして、広い空間の奏でる残響の中に解けていく。ピアノという、西欧の楽器を使い、日本の文化であり、東洋の思想が持つ「間」を通して表現している。そして、それを、大西さんの提案する、計算されシンプルになった部屋という「間」に、とてもあっている。「天」と「地」との「間(あいだ)」に、人が住んでいる。しかし、人は、その「間(あいだ)」を、ついつい埋めてしまう。「天」と「地」との「間(あいだ)」、言い換えれば「間(ま)」が、きっちりと、空いていないと、物事は、スムーズに流れない。そして、「間(ま)」があると、いろんな流れや動きが見えてくる。その流れや動きは、常に同じものではない。このCDは、「間(ま)」の持つ、魅力を味わえる一枚だ。そして、、この部屋にも、一度足を運んでみてはいかかでしょう。入場無料です。ちなみに、ここ、Koujiro Onishiで提案していた、バレンタイン向けのお菓子とキャンドルのセットは、なかなか、いい感じでした。義理チョコのような値段ではないですが、そんなに高くない。ちょっと、センスのいい、バレンタインのプレゼントに、オススメです。誰か、女性の方、私に買って贈ってください。東方逍遥/門光子 MAJ501販売元 (株)マーキュリー/M・Aレコーディングスhttp://www.mercury-coo.com/ma_cd.htm
2004.01.24
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都内某所で、テレビ会議システムを使った日本とフィリピンとを結んだ遠隔授業が行われた。これは、JICAが行っている技術協力事業を補完するための、遠隔教育の一環で行われている。東京にある遠隔教育システムのスタジオは、一日平均4.5時間は稼動しており、おそらく、国際回線を利用したテレビ会議室では、日本一の稼働率と思われる。今回の授業は、マニラの大学と接続して、データベースについての講義である。手前の方に、3名のメンターがおり、後方には20人ぐらいの学生がいる。マニラの交通渋滞が酷いせいか、遅刻して教室に入ってくる学生もちらほら見える。授業は、日本の講師がパワーポイントのレジメを表示しながら英語にて講義を進め、時折、質疑応答などを行う。フィリピン人の英語は、独特の訛りがあり、聞き取りにくい。しかし、日本人の英語も、日本人にわかりやすい英語、つまり、日本人訛りの英語だ。お互いネイティブイングリッシュではない。英語は、50カ国で公用語、20カ国で通用語として使われたり、国際通用語として使われている。そのような状況の中で、国や地域の事情によって、多様化した独自の英語も発達してきている。フィリピンにおける英語は、公用語と定められており、自国の言葉という意識も高まり、フィリピン英語として成立していると言われている。フィリピンの英語では、前置詞の観点が違う事が多かったり、規則的な造語も多く見られるなど、独自の進化をしていおり、ネイティブイングリッシュとのかなりの差が出ている。そのような状況の中で、国民の9割以上が「フィリピン英語で話すと、他の英語を話す人からは尊敬されない」という意見に同意しないし、「フィリピン人は、自国で英語を使いやすくするために、アメリカ英語を修正する権利がある」という意見に賛成している。日本人が、必死で、ネイティブイングリッシュを勉強したり、試験に、コンピュータの音声認識システムを導入し、ネイティブで話せるかを、評価対象にしようか検討しようとしているのと、かなり事情が違うように思う。言葉は、物事を伝達したり、自分を表現したりするために使う道具である。そして、自分が使いやすいように使ったほうが、表現力豊かになる。大阪出身のジャズボーカリスト、綾戸智絵の歌を聴くと、彼女の英語は、どことなく関西弁である。これは、彼女が、抗ガン剤の副作用で声が出なくなった時、音程を歌うのではなく、歌詞を歌えばいいと気づき。リズムや音程は楽器に任せ、自分は歌詞の情感を伝えことを徹底すれば、人に伝わるという信念から、生まれ育った土地の言葉である関西弁が、英語に乗り移ったのではないかと思う。自分は、英語が出来ないが、フィリピンの学生の英語を聞き、そして、綾戸智絵の歌を聴き、必ずしもきれいでなくてもいいから、自分の伝えたいことを伝えるという、自分の言葉としての英語を話せばいいのだと気が付いた。つーことで、仕事上で、英語が必要になってるので、これから英語の勉強なのだが、少し、気が楽になった気がした。★参考文献★世界の英語を歩く著者:本名信行|出版社:集英社|発行年月:2003年 11月 ISBN:4087202178|本体価格:700円
2004.01.23
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春の新作発表 水木しげる「鬼太郎と大妖怪展」http://www.postcards.jp/2004/01/25rsg.html にて、鬼太郎が、仲間とともに宴会をしている絵があった。これは、鬼太郎は、少年漫画誌に連載されるようになってから、戦いの生活が始まったとのことで、本来、戦いを好まない、戦っていない鬼太郎を表現しようと描かれた絵だった。そういや、少年漫画に連載されるようになってから、いつの間にか戦うようになるケースが多い。キン肉マンや、ドラゴンボールも、連載開始当初は、ギャグタッチの漫画だったのだが、いつしか、常に戦うようになった。戦うマンガは、結論がわかりやすいし、連続活劇となった場合、毎週楽しみになり、週刊誌として、そして、ビジネスとして、毎週放送するテレビアニメ化でも売りやすいのかも知れない。鬼太郎は、多くの妖怪を懲らしめる間に、恨みを買い、日本進出をもくろむ、海外の妖怪をも巻き込み、さらに戦いに巻き込まれて行く。このあたりも、妖怪の大会議の風景として描かれている。漫画家は、アニメ化すると、あくまでも原作者となり、アニメ作品は、自分とは別の作品に見えるという。水木しげるは、第二次世界大戦のさなかに、パプアニューギニアでの戦闘の中、左手を失った。戦いが、何を生み出すか、戦いの結果、戦った者は、どうなるのか、それを、自らの身をもって体験している水木しげるは、テレビの画面の中で戦い続ける鬼太郎をどう思っていたのだろうか。日本の妖怪。その多くは、何か人に悪さをするわけでもなく、いろんな営みをしている。合理主義で考えると非常に不可解な行動ばかりである。その不可解な事に対し、理解できないという理由で、気持ち悪がり、排除していく、言い換えれば、戦い、懲らしめる事は、本当にやって良い事なのだろうか。排除した結果、排除されたものも生きているからには、生き残るために、また、新しい戦いが始まる。鬼太郎は、何のために戦うのだろうか。ちなみに・・・水木しげるの絵には、紹介されている妖怪や絵柄によって「縁起」や「効能」が記されている。妖怪も、言い換えれば、神様の一種かもしれない。このあたりも「妖怪画」の面白いところである。水木しげる「鬼太郎と大妖怪展」ロイヤルサロン銀座で、1/25(日)まで。http://www.postcards.jp/2004/01/25rsg.html
2004.01.22
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人は、大人になる過程で、多くの夢を失っていく。しかし、一度は失いつつも、夢見る気持ちを忘れずに、細々と続けていった結果、ちょっとした切っ掛けで、夢を手にする事がある。そんな話しです。この人に出会ったのは、いろんな偶然の積み重ねでした。先週行われた「21人+α の個展たち」の会場に案内ハガキを持ってやってきた、一人の作家一人の作家の個展を、たまたま、仕事で、近くに行ったので見に行った。個展の行われている部屋に入ろうとすると、隣の部屋の人に「作家さんは、いまいないよ、4時ごろになったら、戻ってくるよ」と声を掛けられた。これが、パソコンを切っ掛けに画家になった外村さんとの出会いだった。しばらく、近所の画廊を廻って、もとの部屋に戻り、先週会った作家さんと、無事に会えたので、知らせてくれたお礼にと、声をかけてくれた外村さんの部屋に行った。動物の絵を中心に展示され、ちょっと雑なつくりの素朴な手作りの額物に、多くの作品が収められている。これは、仮の額縁で、お買い求めになった場合は、別の額縁がつくという。額縁売りじゃないのだから、これで、いいと思うのだが、なかなか既成概念に囚われていない人である。外村さんに、奨められるまま、部屋の中央にある、椅子に座った。「お隣さんのお知り合い?お隣の作家さんは、私より若いけど、キャリアが長いから、売り込み方を良く知っているよ」まずは、そんなところから話は始まった。外村さんは、50前後の方なのだが、画家になったのは、最近らしい。その切っかけは「水彩」と名のつく、NTTデータが作った、ペイントソフトである。低価格なこのソフトは、値段の割りに、奇麗な絵が描けるのが特徴で、フォトショップやペインターなど、定番のドロー系ソフトの何分の一かの値段で、繊細な色調の絵が描けるソフトである。私も、7.8年前、パソコン雑誌の仕事で、このソフトに出会い、その優秀さを感じていたソフトで、国産パソコンソフトの中でも傑作の一本だと思っている。外村さんは、この「水彩」を使い、マウスを使って絵を描き出し、ホームページに掲載したところ評判が良かったために、作品を次々と作ることになる。そのうち、何度もコンテストに入選するようになってから、マウスから、筆に持ち替える。そして、今から3年ほど前に、40代半ばを過ぎてから、地元の宮崎にて初めての個展を開き、そこから、様々な出会いがあり、一昨年あたりから、銀座で、半年に一回のペースで個展を開く事になったという。長男で、一人息子、保守的な気風のある、宮崎で、一度は、あきらめた画家への道。サラリーマン時代も、ぽつり、ぽつりと、作品を描いていたが、一本のパソコンソフトとの出会いから、画家へになりたいという夢が現実のものとなった。しかし、画家という作家として生きていくのは、なかなか厳しい。銀座で、個展を開き、作家としての形となったが、ビジネスとしての、作家活動としては、これからも、やるべき事が山積している。これから、どのような活動をしてゆくか、楽しみである。★情報★1/24日まで、個展をやってます。「空を思う」外村直之(ほかむらなおゆき)銀座 小野画廊IIhttp://www.postcards.jp/2004/01/24ono2b12.html ★参考ページ★ココナッツのホームページhttp://www.dango.ne.jp/hokamura ペットの肖像画も描いてくれるそうです。こちらへ肖像画のいいところは、一瞬を切り取る、写真では捉えられない、そのものの特徴を、同時に再現できることです。一つの絵を描くときに、多くのデッサンをするのは、微妙に違う様々な角度から、様々な時間で見ることで、そのものの特徴なり魅力を描きとめるからです。人間より短い命のペットの記録を一枚に収めるには、肖像画はオススメです。「水彩」http://www.nttdata.co.jp/services/suisai/ 「水彩」はここで売ってます。
2004.01.21
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今日、メーリングリストの仲間のライター兼カメラマンが、ニューヨークに発った。彼は、スポーツ関係に強く、スピードスケートの大菅選手の他、去年、日本シリーズで阪神タイガースを苦しめたダイエーの和田投手などの多くの野球選手を追っかけている。(本人は、阪神ファンだったりする)また、アスリートのダイエット本の一部や、阪神タイガースのリーグ優勝記念のムックの一部も執筆している。彼が、ニューヨークに行くのは、今年から大リーグ選手となるため渡米した松井稼頭央選手を追っていくためだ。一見、カッコイイように見える仕事だが、スポーツ新聞の特攻隊のような仕事である。大リーグは、平気で9連戦をし、移動日一日で、また、連戦というのを、半年間続けるという過酷なものである。特に、松井選手は、内野手なので、レギュラーになると、連日、連戦となる。選手も大変だが、追っかける報道陣にもキツイ仕事である。先日、ささやかな、壮行会を行った時、とにかく、報道陣として、間近で、大リーガー選手を見れること、目の前で、日本人選手が活躍してゆく瞬間を見れること、そして、アメリカに住めるなどで、過酷な労働より、それ以上に、楽しみで仕方がないという感じだった。そして、なるべくなら、アメリカでの仕事を続けて、日本で追いかけていた、松坂投手、和田投手の世代の選手が、大リーグを目指して渡米してくるのを待ち構えられたらとも言っていた。そういえば、今年は、このメーリングリスト関係者は、海外に進出という事が多い。まるで、当たり年のようだ。このページからもリンクをしている、こぶたさん の娘さんも、音楽の修行にブラジルに渡る。そして、こちらも、このページにリンクを貼っている、フリーライターのJuneJuneもヨーロッパ方面へ行くために、企画を持ち込んだり、スポンサー探しなどに奔走している。そして、自分も、詳細は決まっていないが、アジアやアフリカ方面に行くことになる。そういうことで、撮影機材の調達に、中野ブロードウェイに行って来た。中野ブロードウェイは、終戦後に出来た闇市を再開発したビルとしては、成功している方である。このビルは、1階2階、3階4階がワンセットになって、1階と3階に、吹き抜けの天井の高いアーケード街が走っているという特殊な構造をしている。さすが、2階、4階は、シャッターの閉まっている店舗が多いが、その、閉まった店舗を侵食するように、マンガやSFの専門店、映像の専門店などが入り込み、人通りの多い、商店街そのものの1階とは違い、秋葉原とは一味違う、不思議な空間になっている。私は、4階に上がり、ビデオカメラを購入。ビッグカメラで買って、ポイント還元してもらっても、まだ、5-8万円安いという、激安での購入に成功。もちろん、新品である。この、中野ブロードウェイって、なんとなく、ブギウギが似合う気がする。それは、言葉に引っ張られただけだったりする。それに、路地というか、通路の並び方も、全ての階の通路やテナントを透かして見えるようにしてみると、なんとなく、モンドリアンのブロードウェイ・ブギウギにも似ている。この、モンドリアンのブロードウェイ・ブギウギという作品は、海を渡り、ニューヨークに住み、抽象画という一つのカテゴリーを作り上げた先駆者の代表作である。彼も、そして、彼が追っかけている、松井稼頭央選手も、ニューヨークで何かを生み出すのであろう。友人が、ニューヨークに発つ日に、中野ブロードウェイで、そんなことを、ふと考えた。中野ブロードウェイというのが、ちっと・・・ちなみに、このライター兼カメラマンさんの写真展が、現在開かれています。関連記事はこちら※本人は、ニューヨークなので会場では会えません。★関連書籍★「食」がすべてを決める!絶対肉体改造アスリート的ダイエット論 著者:―|出版社:エムシープレス|発行年月:2003年 11月 ISBN:4901972049|本体価格:1,800円 これが増刷されれは、彼にも印税が・・・
2004.01.20
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ちょっとどんなものか試してみようと、遊び感覚で、楽天アフィリエイトを始めたんですが、いつの間にか、商品が売れているんですよね。実に、不思議です。12月だけで、10万円以上も売れて、ポイントも2000ポイント以上たまってしまった。特にページで、紹介もしていない、ハム屋さんとかでも、買ってくれた人がいたりして、それが、ポイントになっていて、びっくりです。自分のページを、まるで、どこかのショッピングサイトのようにして、必死に、売ろうとは思わないけど、面白半分でやっていて、ポイントが溜まるというのは、とても楽しい。そんなことで、今月も、4万円は、売り上げている。さて、理想の商売の一つは「いつの間にか売れていた」だと思う。そのためには、自然にお金が流れる構造が必要。お店で、商品を買うとき、お金を払う習慣がある。自動販売機は、お金を入れると、出てくる。当たり前だが、これは、自然にお金が流れる構造である。インターネットでのビジネスの場合、このお金の流れる仕組みが難しい。自然に流れないのである。だが、アフィリエイトは、自らのサイトでは、インターネットでの決済という、お金の流れにくい仕組みを持たないために、体感的に「いつの間にか売れていた」という、商売としては、理想的な状態の感覚を味わえる。しかし、実際は、インターネットでの決済そして現金回収という、不自然な障害の多いお金の流れを感じ取っていないだけなのだ。アフィリエイトで食おうとして、その構造に気が付いたら「いつの間にか売れていた」という、感覚は失われる。やはり、あくまでも、好きなことをやって、いい内容のページを作って、アクセスを増やし、購入するチャンスを増やしたり、ゲーム感覚で、面白い商品、気に入った商品を紹介するなどでないと「いつの間にか売れていた」という感覚を楽しめないだろう。
2004.01.19
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この前から、頭痛が酷いため、薬局に薬を買いに行った。それにしても、頭痛薬はいろいろある。ピリン系、非ピリン系、そして、副作用の少ないと言われるイブプロェン系など、主成分によっても違うし、錠剤やカプセルなど、形態も違う。よくわからないので、年老いた薬剤師さんに聞いてみた。使われている成分によって、どのような効果があるかを、いろいろ教えてくれる。似たような、名前でも、少し違えば、効能も変わってくる。それを、きっちり、理解しているのだ。その、薬剤師さんに、高校の化学で、分子の引っ付き方の言い方とか、原子が一つついているかついていないかで、全然性質が変わるとかを習ったという話をすると。その例として、ブドウ糖と果糖の話になった。いわゆる砂糖の主成分である、ショ糖は、ブドウ糖と果糖から出来ている二糖類である。ブドウ糖は、体を動かすエネルギー源の一つで、点滴などに使われるが、果糖は、甘みが強く、体に吸収されると、脂肪になりやすいという特性を持っている。砂糖を、取りすぎると、太るのは、砂糖を分解すると果糖が出来き、それが脂肪になるからである。いわば、ダイエットの敵である。この、果糖だが、さらに、都合悪いことに、病院で使う点滴用のブドウ糖を作る際に、産業廃棄物的に、果糖が出来てしまうそうである。それを、有効利用する方法として、通常の砂糖の1.7倍にも及ぶ甘さを利用して、安いハチミツの、甘さを強くするために、果糖を加える事があるそうである。甘さが強いために、少ない量で済ますことが出来、同じ甘さでも低カロリーにすることはできるが、もともと、糖分や炭水化物が過剰に摂取している人なら、脂肪を増やす原因になりかねない。ハチミツを買うとき、原料の表示を見てみたいポイントである。しかし、余った果糖を、ショ糖(砂糖)に、さらにひっつけると、あらふしぎ、消化されずに腸に届いて、ビフィブス菌のエサになる、オリゴ糖が出来上がる。結果として、高脂血症や便秘の改善に役立ってしまう。しかも、虫歯になりにくい、甘味料という効果もある。点滴の生産の過程で廃棄物となった、脂肪になりやすいという、悪玉の果糖も、加工すれば、善玉のオリゴ糖になる。これって、廃棄物を無駄にしない、エコロジーな感じがする。そうそう、低脂肪牛乳(ローファットミルク)だけど、あれって、乳脂肪分というか、バターや生クリームを取った余りを、売っているわけである。これも、廃棄物をうまく、製品として生かした例だと思う。せやけど、以前カナダのスーパーで、ローファットミルクを買っている人を見ていたら、ファットな人が多かった。散々、アイスクリームとして、分離抽出した乳脂肪分を吸収しておきながら、ローファットミルクとは・・・・。そう考えると、オリゴ糖の製品化って、かなり効率的だよね。★参考文献★からだに効く栄養成分バイブル最新版著者:主婦と生活社/中村丁次|出版社:主婦と生活社|発行年月:2001年 03月 ISBN:4391124947|本体価格:1,400円 薬剤師がすすめるビタミン・ミネラルの使い方第2版著者:福井透|出版社:丸善|発行年月:2001年 10月 ISBN:4621049240|本体価格:2,600円
2004.01.18
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「水木しげるから、自称アーティストまで」にて紹介した「21人+αの個展たち」の打ち上げに誘われたので、その勢いのまま、参加することにした。この「21人+αの個展たち」は、「21時から倶楽部」という会が主催で、今月は、銀座で個展、来月は、渋谷でライブディナーショーという具合に、毎月、趣向をこらした企画を実施している。さて、会場は、銀座一丁目の駅から地下で繋がったビルの地下二階にあり、大泉学園で行われていた阪神大震災の写真展を、ついつい、懐かしい風景だったために、ゆっくり見てしまい、15分遅刻で到着した。会場は、既に30人以上が集まっている。私が、どこに座ろうと迷っていると、この会の主催者の新間さんが、こちらへということで、新間さんの近くの席に着いた。新間さんの手馴れた司会で、会が進んでゆき、各自の自己紹介タイムとなった。それまで、あまり知らなかったのだが、この会は、楽天日記をやっている人がとても多いのだ。約7割は、ページを開いている。そういや、何人か、リンクされたページを巡っていて、写真や似顔絵を見た人がいる。また、自分のページにリンクを貼ってくれていた人にも、思いがけず会えたり、なかなか楽しい一時であった。百聞は一見にしかずと言うが、ページを見ているより、実際に会った方が面白い。その日会った人で、楽天日記のページがわかった人ティーンズ応援団長さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/shimma/ ふじあにさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/fujianienter/ うろこ@熱血、マグロ姉さん!さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/urourouroco/ マグロ兄さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/ikimaguro/ テラッチ!☆笑顔力さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/terachi/ がう_さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/concentration/ 分室0403さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/bunsitsu/ わくわくあいさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/wakuwakunikki/ 栞工房さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/shiorikoubou/大物★殿さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/oomono/ オクの細道さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/okustreet/ 山@SURVさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/myama/ ★ぶんぶんラリアット★さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/manjigatame/ このうち、7人は、訪問した記憶がありました。当日、お会いした人で、楽天日記をお持ちの方は、ご一報ください。
2004.01.17
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朝から、晩まで会議づけでした。この数年、民間やら中小企業の仕事が多かったので、役所系の仕事をしていなかったので、慣れないせいか、少々疲れる。それぞれの持っている枠組みの中で動きつつ、どのように連結をしていくのかという、電子ブロックでラジオを作るために設計をするような会議が多い。とはいいつつも、面白い、プロジェクトにいろいろ巻き込まれつつあるので、これに対してもワクワクしている面もある。その一つに、阪神大震災の復興の技術を海外に紹介するというもののスタッフに入ることが内定した。自分自身も、震災を経験しているが、今回の仕事で、住民ではない角度で、震災復興をみる機会が出来るというのは、願ってもないチャンスだ。しかも震災9年目の前日に決まるというのも・・・阪神大震災で蓄積されたノウハウはどのようなもので、それを、海外にどのように伝えていくか、ちょっとワクワクしていたりもする。そうそう、1月17日というと、ロサンゼルス地震(ノースリッジ地震)から、丁度10年目になる。このロサンゼルス地震は、都市型災害が特徴で、電気、ガス、水道、電話回線、道路などのライフラインが途絶えただけでなく、高速道路が何箇所も崩れて、救急、消火活動、復旧活動のほか、長期にわたって市民生活、経済活動などをマヒさせた。そして、コンピュータの被害も、生活にも影響を与えた。これは、阪神大震災も同じである。たった、一年のタイムラグで、対策を立てられなかったとはいうものの、ロサンゼルス地震でのノウハウは、阪神大震災で、全くといって生かされていなかったような気がする。日本の多くの土木や建築関係の学者は、日本の高速道路は、落ちないと言い張っていたらしい。しかし、関西国際空港に合わせて作られた、最新の阪神高速湾岸線も、西宮市内で、出来て3.4年なのに、高速道路が落ち、数台の車が墜落し、何人も死者を出している。※この橋の映像は、あまり放送されていなかったし、マスコミでは、話題にならなかった。もしかして、報道規制が行われていたのかもしれない。しかも、ロサンゼルスよりかなり前の、メキシコシチーの地震のノウハウさえも生かされていない。メキシコシシチーの地震のとき、仮設住宅や復興住宅について、NGOを介し、住民と大家と行政が調整し、地域のコミュニティをなるべく潰さないように、復興の工事中に、仮設住宅や、復興住宅に引っ越させる方法を取った。しかし、阪神大震災の時は、仮設住宅も、復興住宅も抽選。一見公正なのだが、地域のコミュニティは、崩壊し、最低50名が孤独死や自殺をした。阪神大震災での失敗も、一つのノウハウにもなるのだが、当たり前のように行われたことにも、多くのノウハウが隠されているのようにも考えられる。このあたりが、どうだったのか、学術やら行政サイドとして、どのような感覚で見ていたかも含め、この仕事を通して、改めて、見る事ができたらと思う。
2004.01.16
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昨日紹介した「アジアの民話」に、ラオス民話として「クマの忠告」が紹介されている。この話は、友達同士の2人の子供が森に遊びに行った時、クマと遭遇した。一人は、一目散に木に登って逃げることが出来たが、もう一人は、木登りが不得意で、木に登れず、仕方なしに、死人の振りをした。クマは、死人の不利をした子供に顔を近づけてから、その場を去ったそうな。木に登った子供は、安全を確認してから、死んだ振りをした子供に、クマが何をしたのかを聞いたら、クマが「一つ、忠告をしてやろう。こちらが危ない目に遭っているのに、助けようとしない友達なんて信用しちゃいけないよ」と忠告をしていた。という話である。さて、あまり知られていないが、ラオスは、ベトナム戦争の時、民間人も含め多大な戦死者の出た国である。それは、北ベトナム軍とジャングルで戦えるように、フランス軍とともにベトミンと戦ったことのある、ラオスの山岳民族を、平和部隊という名の下に、私服のアメリカ特殊部隊が、軍隊に仕立て、アメリカの地上部隊の消耗を軽減する"身代わり部隊"として使った。そして、1975年に、首都ビエンチャンが陥落。その時、ラオスのアメリカ軍は、プノンペン、サイゴンと陥落する中、いち早く、前線からタイ領に逃げ込んだ。モン族の兵隊とその家族は、グリーンベレーより、武器を与えられたまま置き去りにされたのである。そして、北ベトナム軍の報復が始まり、戦士、餓死、処刑、政治再教育などのモン族最大の悲劇となる。もともと、山岳民族だった、モン族は、タイ領に行こうと、国境であるメコン川を渡ろうとしたが、泳ぐことができず、連日、モン族の溺死体が見られたそうだ。これらの戦死者は、20万人ともいわれ、運良く逃げることの出来たモン族は、アメリカに17万人も住んでいるという。しかし、アメリカの情報操作のため、1998年に情報公開されるまで、その事実を隠されたため、ワシントンDCのアーリントン墓地のベトナム戦争の戦死者58156人の中に、モン族の戦死者の名前が1名も記されていなかった。今は、アーリントン墓地の片隅に、顕彰碑が建てられるなど、名誉回復を少しはしたが、アメリカに渡ったモン族は、様々な差別を受けていたそうである。クマの忠告という民話のいち早く逃げた友人と、アメリカ軍とが、妙にダブって仕方がない。日本も、友好国気分でいると、痛い目に合うかも。★参考文献★モンの悲劇暴かれた『ケネディの戦争』の罪 著者:竹内正右|出版社:毎日新聞社|発行年月:1999年 01月 ISBN:4620312797|本体価格:2,096円
2004.01.15
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神田神保町で、ラオス向けの遠隔教育教材の製作ミーティングの後、近くの本屋へ行った。それは、少しでもラオスの人の事がわかる本を探すためだ。ラオスは、ベトナムとタイとの間にある、山岳にある社会主義国だ。資本主義社会どっぷりの今の日本とは、大きく文化も生活スタイルも違う。そのため、日本の技術を伝える教材とはいえ、ラオスの国民性を理解しないと、ラオスの人に見てもらえるものにはならない。そのためには、情報収集はかかせない。もちろん、現地に行くことになるし、現地スタッフや、現地で研修を行った人からも情報を得るが、研修する立場の人とは違った視点での観察という意味では、ラオスの国民性を知る書籍も重要な情報源の一つである。大型書店の中を徘徊していると、一冊の本が目に留まった。「アジアの民話」という本である。この本は、キャシー・スパニョーリの著書を翻訳したもので、アジア各地に伝わる民話30余編が収録されている。その中には、いくつかのラオスの民話が載っていた。その一つが「"老い"を憎んだ王様」である。この話は、深沢七郎の小説であり、1983年にはカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「楢山節考」と似た、政策的な問題で、親や老人を山に連れて行ってしまうという「姥捨山」の話しである。「楢山節考」の方は、村の掟に従い、それを受け入れざるを得ない人間の業や運命について描かれている部分が多い。しかし、ラオスの「姥捨山」である「"老い"を憎んだ王様」は、同じ「姥捨山」の話しでも「日本昔話百選」に掲載されている「親捨山」の話しとよく似ている。特に、老人の知恵を実行して、問題を解決する場面で、丸い木の棒のどちらが、根元の方かどうかの問題と解決方法が同じなのには驚いた。また、問題を解決した、息子は、領主なり王から、褒美をもらうという結末も同じなのだ。「アジアの民話」の解説に、訳者が「アジアの民話には、"知恵"と"慈悲"がその基底に貫かれている」と指摘している。そしてさらに、科学と理性に基づいて、利便性を追求する近代的な発展をすることで、人間が陥りやすい自己中心主義に対し、アジアの民話の中で描かれる"知恵"と"慈悲"を通じ、互いに協力しあう中で、物事を捉える能力をつけていく必要があるという。近代的な、利便性追求の発想の中で生まれた遠隔教育の教材。それを、ラオスという国の「発展」という名の下に製作する。それは、もしかすると、老人を山に追いやる事になりはしないだろうか。ふと、そんな事を考えてしまった。できるものなら、遠隔教育の教材も、教育プログラムも、アジアの智慧を伝えるものにもしてゆければと思う。まあ、今回のは無理にしてもね。★参考文献★「楢山節考改版」著者:深沢七郎|出版社:新潮社|発行年月:1993年 01月 ISBN:4101136017|本体価格:362円「アジアの民話」著者:キャシー・スパニョーリ/北島義信|出版社:同時代社|発行年月:2001年 03月 ISBN:4886834388|本体価格:1,600円 「日本昔話百選改訂新版」著者:稲田浩二/稲田和子|出版社:三省堂|発行年月:2003年 07月 ISBN:4385361517|本体価格:1,700円
2004.01.14
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アートイベントの紹介サイト「POSTCARDS」を開設して、2ヶ月少し経った。去年の年末には、Yahoo!Japanにも掲載され、1/8には、My Yahooに載ったために、一日、IPアドレスの重複なしで2000カウント増えるなど、少しずつ知名度も高まってきた。そのおかけででか、朝から「ハガキを印刷したいのですが」という問い合わせ電話が掛かってくるなど、いろんな事が起こる。新しい会場の案内状を頂いた所には、なるべく足を運ぶことにしている。昨日から、銀座で行われている個展があったのだが、昨日は、なんとなく、行く気がせず、自分のページの「おすすめ新着」を見ると「銀座で個展!?」と書かれている。それで、リンクを辿っていくと、どこかで、見覚えのある画廊の名前が。そう、昨日、行こうとしていた個展と同じ画廊のフロア違いの別室で、それぞれの個展が行われていたのだ。びっくり。そういう事で、銀座に向かおうと、部屋を出て、ポストを見ると、郵便物が何通か届いている。大阪からや、いつもDMをくれるトマトが大好きな主人のいる画廊、先日紹介した高円寺の画廊、そして、画廊廻りをした時いろいろアドバイスをくれた画廊からは、なんと「水木しげる展」の案内ハガキが届いた。今晩は、スキャニングが大変だと思いつつ、銀座に向かう。まず、一階の個展を見に行く。いままでは、夏らしい涼しい感じが多かったそうだが、今回は、冬をテーマにしているという。少し、清々しくキリッとしつつも、どこか温かくしようとしている部屋の雰囲気も伝わってくる。大きな作品から、手軽な小さな作品まであり、ハガキに印刷された作品など、数点は真っ先に売れていた。次に、下のフロアへ行く。そこでは、楽天広場でブイブイ言わせている人がけっこういる、21時から倶楽部主宰「21人+αの個展たち」である。ここは、なんとなく、文化祭のような楽しい雰囲気と熱気で満ちていた。なんか、いろいろ、談笑していると、同じ会場で、来週個展を開くという女性が入ってきて、案内ハガキをゲット。そういうことで、今日は、一日で2桁ハガキが増える事になった。これから、どういう事になるやら。参考ページ「21人+α の個展たち」http://plaza.rakuten.co.jp/shimma/006000 http://plaza.rakuten.co.jp/fujianienter/ちなみに、「21人+α の個展たち」の会場での情報によると、今回の「水木しげる」の作品展は、荒俣宏など、妖怪に詳しい人の協力を得て、妖怪についてさらに深化しているそうである。★本日の成果★
2004.01.13
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先日、コーチングのプレ講座というものを受けてきた。コーチは、自分の体験したことでない事も含め、クライアントに結果を出させるのが仕事であるという。その事を受け、コーチングも、ファシリテーションも、結果を出すためのものだから、結果を出せさえすれば、必ずしも、原因を突き止めることによって、解決する必要もないのではという事を考えるようになった。もちろん、場当たり的な問題解決先行という意味ではない。マイナスをプラスに変えるとき、マイナスとなる原因を突き止めないと問題の解決が出来ないという思い込みがある。たとえば、カウンセリングなどでは、対話を通して、原因を見つけようという部分が多いように思う。カウンセリングの例をあげて早速だが、これは、カウンセリングに限ったことではない。多くの人は、原因が見つからないと、安心して、問題解決行動に移せない。だから、アメリカなんかで、新しい疾患名が山のように出来る結果に。原因は自分であるにも関わらず、仮想敵国を作らないと、問題解決行動に移れない。これが、人間の精神の弱い部分かもしれない。また、よく、何かを乗り越えたりした経験を基に、カウンセリングをしたり、指導したりする人がいる。これは、一つの解答を見本とともに提示しているわけで、実にわかりやすい。しかし、指導者が、模範解答であり、そこを目指す限り、それ以上の解答は見込めない。コーチングは、コーチ自体でさえ未知のもの、答えのわからないもの、答えのないものでさえ、結果に結びつけるのが仕事である。果たして、人は、コーチングを通して、原因のわからないもの、はっきりしない未知のものに対して、戦うことが出来るように出来るのだろうか。これは、発想の転換がなければ、なかなか出来るものではないように思う。世界の歴史を見ていると、因果関係がわからなければ、強引に因果関係を作り出し、それを排除するなどをして安心するために、様々な出来事が起きている。魔女狩りなんかは典型的だ。もしかすると、悪の枢軸国と決め付けて、その国と戦争をしているのかもしれない。実際は、頂点に立ってしまい、この先がどうなるのかがわからず。答えがなく、わからない、未知なる物への恐怖に怯えているのかもしれない。コーチとそのクライアントの可能性については、コーチングの思想で広がっていくと思う。しかし「答えのないもの、わからないもの」への不安感や恐怖は、ちょっとやそっとでは、ぬぐいきれないものかもしれない。だが、結果を出すためには、恐れを感じつつも、行動し結果を出すしかないのかもしれない。そうそう、地球の歩き方の04-05「マレーシア」に載っていたのだが。マレー人は、問題は起こるものだと思っていて、それを解決さえすればいいと思っているそうである。問題解決能力こそがリーダーの資質であるという。しかし、問題解決をしても、原因究明をしない場合があるそうだ。おかげで、同じ問題が繰り返されるという事が起こる。しかし、問題は起こることが当たり前だと思っているので、事前に問題が起こらないように予防する提案をしても、意に介さない事があると言う。一見不合理だが、原因がわからない事に怯えることで、行動を起せない事による、生産性の低下より、生産性が高くなる可能性がある。科学的ではないし、社会として不合理で不安定だろうが、力強く生きていく方法なのかもしれない。★関連ページ★http://www.brightwrite.net/blog/000115.html
2004.01.12
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癒しや、リラクゼーション、そして快感のキーワードの一つに「アルファ波」がある。これは、脳波の一種なのだが、これに2種類あるそうなのである。一つは、癒しとかリラクゼーションや眠りにつくときの心地よさのアルファ波、そして、もう一つは、頭がすっきりするとか、爽快感という、部分のアルファ波なのだそうだ。後者のアルファ波は、座禅を組むと出てくるアルファ波がそれにあたる。座禅に関する書籍を読んでいると、座禅を組むとアルファ波が出ると書かれていて、それだったら、眠くなるなるのでは、と思っていたが、もう一つのアルファ波があって、それが、頭をすっきりとさせるのであれば、納得がいく。座禅を組むと出てくるアルファ波は、脳内の物質のひとつである、セロトニンと関係するそうである。このセロトニンは、脳をエンジンとたとえると、アイドリング安定装置のような役目で、エンジンを温めて、いつでも走れるようにする役目があるという。これが不安定だと、エンストしたり、エンジンが故障したりする。それが、鬱だったり、キレるとか、動物を虐待する行為などとして現れるそうである。また、セロトニンは、鎮痛効果もあるらしい。つまり、ある種のストレスへの強さの源でもある。このセロトニンを、分泌させるには、反復運動がいいそうだ。たとえば、歩行、自転車、咀嚼、水泳、エアロビクス、そして、長いサイクルとしては、朝起きて太陽の光を浴びるという生活習慣などがそれにあたる。そして、座禅やヨガ、気孔なども、一見、動きが少ないとはいえ、呼吸法により、反復運動をさせることによって、セロトニンを発生させるという。呼吸法は、奥が深く、本来は、心臓とか自分の意思で止める事の出来ない自律神経系という、自分の意思でコントロールできない部分でもあるに関わらず、それらに関係する筋肉をコントロールできるようになるという。以前、素潜りの世界記録保持者に関するイベントとWebページのの仕事をした事がある。この素潜りとは、映画グラン・ブルー(グレートブルー完全版)で、行われているあの潜水競技である。その競技者は、鍛錬により、恐るべき技能を持っている。当時の世界記録保持者である、ウンベルトペリッツァーリは、ヨガの訓練をし、自由に腹筋や背筋をコントロールし、内臓を肋骨の中に入れてしまうことが出来る。これは、水深100メートル以上になると、大気圧の10倍以上の水圧がかかり、肺が、リンゴの大きさぐらいになってしまい、そのため、肋骨が折れてしまう。だから、内臓を、肋骨の内側に入れてしまうことで、肋骨が折れるのを防ぐのだそうだ。普通の人は、水深30-50メートルまで沈んだ段階で、内臓と肺との間にある横隔膜がびっくりするなどして、気絶したりショック死してしまうそうだ。実際、映画の撮影中に、潜水アスリート役のジャン・レノも、セットのプールで30メートル潜っていないにしろ、何度か気絶しているという。さて、この危険な競技であるが、潜水をする前に、10分くらい、深呼吸をして、競技が出来るコンディションを整えている。映画では、けっこう簡単に潜ってしまっているし、DVDで発売されている、ジャック・マイヨールが、50代にして、世界記録を樹立する映像でも、カットされている部分だが、ここがとても重要な部分だと思う。座禅では、二つのアルファ波のうち、爽快感とか頭がさえる、セロトニンと関係するアルファ波が、目を瞑っただけで出てくるアルファ波との関係が逆転するのが、5分から7分だそうである。そう、10分という時間は、セロトニンの分泌と関係がありそうなのだ。呼吸という、反復運動をすることで、セロトニンを発生させている。それによって、平常心になることで、余分な力を出させない、つまり、余分な酸素を消費しないとともに、高圧というストレスに強い状態にさせている。これが、記録を出せるコンディションなのだ。さらに、その呼吸法は、肋骨の中に内臓をいれる事の予行演習にもなっている。潜水競技という、特殊なことでなくても、セロトニンは、効率的に仕事をするにおいても効果があるように思う。通勤をするときに、15分ほどの徒歩の区間を設けるとかでも、仕事の能率が高まるかもしれない。実際、煮詰まったとき、そとをぶらぶらと歩いたり、自転車に乗ると、頭がすっきりする。会社勤めのとき、定時の間は、社内にいないといけないので、これが出来ずに困った事がある。仕方なしに、馴染みの客や外注に無意味なアポイントを入れて、外に出て、解決するのだが・・・。また、ワークショップなどでも、導入部分に、アイスブレークの目的に、ちょっとした運動をする事があるが、これも、セロトニンと関係あるのだろう。いずれにしても、頭のすっきりとする、アルファ波を出す訓練や習慣づけが、このストレス社会、いや、ストレスレス社会を活き活きと過ごす、一つのスキルなのだと思う。★参考文献★「セロトニン欠乏脳」キレる脳・鬱の脳をきたえ直す 著者:有田秀穂|出版社:日本放送出版協会|発行年月:2003年 12月 ISBN:4140880937|本体価格:680円「アプネア」海に融けるとき 著者:ウンベルト・ペリッツァーリ/早川信久|出版社:にじゅうに|発行年月:1996年 10月 ISBN:4931398022|本体価格:1,748円 「禅の本」無と空の境地に遊ぶ悟りの世界 著者:―|出版社:学習研究社|発行年月:1993年 04月 ISBN:405106025X|本体価格:971円 ★参考DVD★「ジャック マイヨールの海と夢」販売元 ソニーミュージックエンタテイメント SVWB-3031 「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」 (DVD) Le Grand Bleu FXBH-2298
2004.01.11
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POSTCARDSに新しい、ギャラリーの情報が届くと、なるべく足を運ぶことにしている。そういうことで、高円寺の近くにある「ギャルリー・ジュイエ」に行った。この「ギャルリー・ジュイエ」は、まだ新しいギャラリーで、高円寺駅から北に商店街を抜け、早稲田通り沿いに、少し西に行ったところで、コンクリート打ちっぱなしの小さなマンションの一階にあった。キャラリーに入ると、いきなり、女主人に声をかけられた。そういえば、女主人のギャラリーが多いような気がする。大阪の Studio J、銀座の ギャラリー舫や、Gallery Nike、銀座九美洞ギャラリーなど、訪問した所の、半数は女主人のような気がする。まあ、今回のギャラリーは、貸しギャラリー主体なので、少し趣が違うが、やはり、女主人が多い。さて、話は戻って。この「ギャルリー・ジュイエ」は2003年9月中旬オープンした、まだ新しいギャラリーで、しかも、テナントで入っているわけではなく、建物自体も独自に設計し施工されている。また、高円寺駅から、徒歩10分という、位置であり、来たからには、きっちりとしたスペースでありたいとの、オーナーの意向もあり。それだけに、いろいろな、オーナーの拘りが見える。まず、右の奥にある、幅1.5メートル弱の奥まったスペース。この適度な閉塞感は、ちょっと気持ちがいい。しかも、その部分だけ専用の照明の系統があるために、ちょっとした演出に使える。そして、天井が少し高いのもいい。テナントビルに入ってる場合、天井がどうしても低いために、天板をはずして、配管を露出させることで、高さを稼ぐ事をしているが、ここは、通常より少し高い。しかも、一部は、天板に目の粗いブラックアウトされた金網を使っており、見かたによっては、最大3メートルの天井の高さにも見える。その金網の中に、ボーズのスピーカーを発見した。実は、ギャラリーには、音響設備を持たないところが多いのだが、ここは珍しい。ロックカルチャー以降、アートと音楽、ファッションなどは、連動するものとなった。しかし、多くのファインアートは、ファインアートであるがために、スペースとして、音響設備を持たなかった。音を活用したい作家は、ラジカセや、ミニコンポや、テレビモニターとビデオを持ち込むとか、作品自体にスピーカーを組み込んだりしていた。しかし、その多くは、スペースに合った音を奏でるものではなく、会場に相応した音が出せなかった。ここでは、サラウンドシステムではないにしろ、スペースに合った音の出る仕組みになっている。このギャラリーのような、ソリッドな感じのスペースは、音の反射が多く、音の反射を利用して、いい音に聞かせる、ボーズのスピーカーは適している。同じボーズでも、壁への埋め込み式のものがあるが、それでは、このスペースの音の特性に合わない。埋め込み式は、もう少し防音が聞いたところで、人の耳元にささやくように聞かせるのに向いている。そうすると、音の廻るところは、やはり、吊り下げるタイプでないと、このスペースに合う音が出ないのである。しかし、吊り下げると、スピーカーの存在感が問題になる。カラーバリエーションとして、白いスピーカーもあるが、それでも、やはり邪魔である。この問題を、金網の中に設置する事で解決している。生活空間としては、少し冷たい感じにはなってしまうが、こういう店舗スペースとしては、有効な処理方法だと感じた。音をさりげなく活用するギャラリーは、密かに貴重です。貸しギャラリーを探すとき、音についても、判断基準に入れてみてはどうでしょう。
2004.01.10
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年明け早々、愛用しているEIZOのディスプレイが、バチンと言う音を立てて、画面が大きく表示されたり小さく表示されたりし、ついに、CRTの寿命が来た事を知った。つい、一年ほど前も、別のEIZOのディスプレイが同じ症状を起して死んだので、今度は、慣れたものだ。そういうことで、今度は、液晶ディスプレイにしようと、近くの電器屋へ行った。しかし、液晶ディスプレイも安くなったものだ。10年前のノートパソコンで、カラーにしようと思うと、一気に値段が20万円から40万円も高くなったものだ。今は、カラー液晶ディスプレイの新品は、3万円台で買える。しかも、10年前より格段に性能のよいものである。阪神大震災の時、会社の80万円ぐらいする256色カラー液晶付のパソコンと、借金して買った50万円ぐらいのカラー液晶のノート型のMacが家に置いてあり、地震の直後、恐る恐る、液晶の画面が割れていないか見たものである。液晶が無事だったおかげで、夜が明けるまで、ほんの少しだけ、電灯の代わりになってくれました。そうそう、何で、10年前を考えたかと言うと、仕事の都合で必要に迫られ、パスポート発行の申請に行ったからである。そして、手元のパスポートの発効日を見ると、ちょうど、10年前という事もあり。頭に、10年前という言葉がこびりついていたのだ。さて、10年前、1993年11月にIIJが、日本最初のインターネット接続サービスを開始し、1994年2月に、第二種通信業者となり、ダイヤルアップ接続サービスが開始され、個人でもインターネットが接続できるようになる。さらに、1994年の6月、インプレスより、日本初のインターネット専門誌、インターネットマガジンが発売されるなど、1994年は、事実上の日本でのインターネットが始まった年である。1994年以前に、偶然仕事で、インターネットに接続されたものを目にしていたが、それは、ホームページのようなWWWではなく、ニュースグループで、なにやら、学術論文の情報交換として使っていた。遠隔教育用にという事で注目はされていたが、使えるような代物ではなかった。それが、今は、一般家庭に。デジタルタイプのテレビ会議システムが日本に来たのも、10年少し前である。当時、一般家庭では、普及していなかった、ISDN回線を使うもので、安いので、1台250万円はした。ペアにして使おうと思えば、500万円以上の投資が必要だった。今は、パソコンとメッセンジャーと、安いCCDカメラ、接続は、最初はタダが売りのYahoo!BBなんかを使うと、1ペアで20万円もかけずに、テレビ会議が出来てしまう。そうそう、当時、一応、デジカメありましたね。なんか、ビデオカメラのような形と大きさをしながらも、静止画しか取れないという代物でした。値段は、一番安いので十数万円してました。今は、携帯電話に内蔵されちゃってます。携帯電話といえども、オートフォーカス付です。性能の落ちるものなら、新規なら1円で買えます。ソフトですが、今は定番となっている、ワード、エクセル、フォトショップ、イラストレータは、既にありました。但し、ワードは、定番ソフトではありませんでした。ワードが定番ソフトでない理由は、他のワープロソフトが使いやすかったり、機能は絞られているけど、イメージ通りにレイアウトが出来たからでした。ワードは、今では定番ですが、イメージどおりに出来ないという面では、10年前と変わっていないような気がします。パソコンの心臓部はというと、すでにPentiumが発表されていますし、MacのPowerPCも発売されていました。ビデオ編集や音の編集ですが、既にデジタル化は進み、ノンリニア編集が展示会などで発表されていました。但し、ノンリニア編集機の値段は、数億円だったような気がします。死ぬほど遅く性能が悪いものですが、パソコンベースのものも、出てきていたように思います。そう考えると、この10年間は、低価格化して、高性能化して、小型化して、形態性が良くなるなどして、普及した事は言えているが、基本的な、用途や機能は、あまり増えていないような気がする。いわゆる、IT機器の発達は、様々なものを使えるものとして現実のものにし、普及させる事に成功した。しかし、この10年で、新しい用途や機能を生み出したものは、以外に少ないような気がする。いや、もしかすると、この50年いや、70年から80年ぐらい、基本的には、変わっていないような気がする。それは、古いSF小説や映画を見てもわかるだろう。次に、人間の発想が、大きく飛躍するのは、いつの事なのだろうか。まあ、あまり、大きく飛躍してくれないおかげで、古い知識でも、応用すれば、どうにかやっていけるという話も。
2004.01.09
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プランナーという、仕事柄、提案書を書くことが多いが、想いが強い企画ほど、通らない気がするのだ。まあ、本人が結果を期待しすぎるから、少しでも、結果が悪いと、かなり、悪い結果だと感じてしまうこともある。しかし、自分ならまだしも、他人の企画なり、提案書、嘆願書、案内文、ポスター、チラシ、冊子などを見ても、想いが強いほど、熱さは感じるが、読んでいる人の心に響かなかったり、妙な違和感を感じたりする。これは、文章だけでなく、街頭宣伝、募金活動、デモ行進、イベント、スピーチなどでも同様のことが起こる。実に不思議な現象だ。まあ、肩の力を抜いて・・・という事なのだろうが、想いが強いと、辺りが見えなくなるのが、原因の一つだろう。想いが強いことは、頭の中で、そればっかりを繰り返して考えしまいがちになる。これは、ある種の快感がある。だから、それ以外の事を感じにくくなるのだろう。そうなると、同時に、自分の感覚や価値観や認識や立場と同じものを、他人も持っていると思い込んでしまう。実際は、他人なので、自分と違った感覚、価値観、認識、立場などを持っていて当たり前なのだが、それを忘れてしまって、自分の感じているものが、いわば「常識」として、他人も同等の「常識」を持っているものだと感じてしまいやすい。だから、想いが強い主張を持っている場合、相手が同意しないとなると「なんで、あなたは、そんなことも、わからないの」という事になる。これでは、場合によって、相手の人格を否定してしまい、相手が同意出来ない原因を聞き出すチャンスを失い、問題の解決が出来ずじまいになりかねない。また、想いが強いと、感情を主張の中心に置いてしまう事が多い。たとえば、かなり前の話しだが、諫早湾の干拓の反対運動で「ムツゴロウが、可哀想」というような事を、キャッチフレーズに、なっていたが、それは、あくまでも、感情の押し売りなのである。干拓を推進する方とすれば、この事業を進めないと、自分のお飯が食い上げになるので、そうなったら、ムツゴロウより、自分たちの方が可哀想になると、言われればそれまでである。また、想いの強い人の主張が強いと、周りの人の、想いの強い人に対しての認識が固定してくる。これが、想いの強い人の主張を通さない原因にもなってくる。想いの強い人の一部に、自分の論理で、突拍子もない事をする人がいる。たとえば「イルカが、かわいそう」といって、漁船に体当たりしてくるという外人がいるが、捕鯨をしている土地の人からすれば、白人系の外人は、変な事をするかもしれないというように思われてしまっている。そういう状況で、いくら、漁民に何かを主張しようとしても、たとえ、お互いにメリットのある、いい案であっても、平行線に終わる事が多いだろう。さて、このような現象を防ぐ方法は、東洋の思想の中に、いくつか見られる。たとえば、禅宗などでは「念を継がない」という事を、訓練するのだそうだ。これは、一つ思ったことを、繰り返して、同じ事を考えたり、思い続けないというような事らしい。つまり、想いが強くなり、冷静さに欠けるようになる前に、ブレーキをかける。また、これも仏教系なのだが、内観では、事実と、考えや想いを分ける訓練という要素もある。過去のある時期の特定の人物に対して、何をしてもらって、何をしたのかなどを、思い出す作業を続けるのだが、その時、自分が何を感じたかという事を思い起こすのではなく、そのとき起こった事象について思い起こす。この内観、とくに、集中内観では、一週間、視線を合わすという、非言語コミュニケーションを含めて、コミュニケーションを絶つ事により、他人からくる情報によって見えにくくなっている、事実を見つめやすくする事で、事実を見る感覚を磨く要素もある。これは、同時に、想いの強い人の主張に対し、受け手として、冷静に判断する能力を高める効果も期待できる。さらに、中国の荘子の言葉に「感情を抑えすぎないこと、感情を出しすぎないこと、中庸を守ること、この三つが飛躍の要素である」というものがある。日本の思想のベースの一つである道教でも、このことは指摘されている。このように、日本には、古くから、強い想いによって逆に目的を達成できない事に対する知恵があるわけだが、今は、それが忘れられてしまっているような気がする。富国強兵やら、高度成長など、同じ事をして、同じように熱くなる事で、国力を上げて来たために、冷静に、客観的に物事を見て、一つの考えに囚われない自由な発想を思い浮かべる効果のある、ちょっとした方法を軽んじてしまい、伝承しそこなったのではないだろうか。また、団塊の世代が経験した、学生運動なども、強い主張をする事によって、受け手からすれば、説得力が欠けている事に気が付かなったために、多く活動は失敗に終わったのかもしれない。そして、その失敗の経験が、シラケ世代など、主張しない方向に向かってしまい。主張しないから説得できない、主張した事がないから説得の方法がわからない、という事になっているように思う。そのおかげで、想いの無い、主張の無い、企画書って山のように世の中に存在している。ビジネスモデルやテクニックと予定表と計算書はあっても、想いや主張がないのである。これも困った問題である。その一方で、想いが強すぎて、説得力に欠ける主張も多く、二極分化してしまっているようである。想いが強い人は、想いを適度に押さえるテクニックを、主張がない人は、自分の主張がどこにあるのか、受け手はどうなのかを探すテクニックを身に着ける事が、今の日本人に必要だと思う。先日、コーチングのプレ講座で、日本人は、他人のパラダイムを見分ける技術が足りないと言っていたが、もしかすると、その部分ともリンケージする事なのかもしれない。★参考文献★「タオの言葉」著者:マルク・ドゥ・スメト/荒俣宏出版社:紀伊国屋書店ISBN:4314007346 本体価格:1,165円
2004.01.08
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東京都の人口は約1,200万人、23区で約800万人、三多摩地区で約400万人、東京圏は人口約3,300万人、昼間就業者数約900万人いるという。参考文献「東京構想2000」 ところが、その割には、しばしば、ばったりと街中で、知人に出会うことがある。しかも、けっこう多いような気がする。実は、今日、あるセミナーが終わって、打ち上げで、東中野の駅に程近い「遊山楽」というところで、飲んでいて、帰ろうとすると、店員に声をかけられた。「関西の方ですか?もしかして、まいけるさん??」どっひゃー。彼は、10年以上前に神戸や西宮中心にバンドをやっていた時に、よく見に来てくれた人だったのです。そして、彼は、東京に行って、5.6年前に、友人が彼の働いている店だということで、原宿の店に行った時に、一度会っただけだった。本当にびっくりだ。偶然、ばったりと出会う確率を計算してみると。一日にすれ違う人の人数を、1分あたり1人すれ違うとして、1,440人/日とすると、東京圏は人口約3,300万人のうち、知人に出会うには、約63年に一回しか出会わなく、昼間就業者数約900万人で計算したとしても、17年ぐらいに一度という計算になる。その割には、出会う人は、出会うのである。ある人は、新宿西口広場、東京駅で新幹線を降りたホームとで、半年間のうち2回会ってるし、ある人は、展示会場と地下鉄永田町駅で半年の間に2回、また、ある人は、大田区内環状七号線と世田谷区内の環状八号線、府中市内の吉野家、などで、1年間で4.5回、バイクですれ違っている。すごい、割合で出会ってる。さて、なぜ、このようによく出会うのだろう。考えられる理由は、・アクティブに動いている人自体が少ない。・人とすれ違いやすい、トラフィックの多い所を動いている。・似たような、目的や価値観を持って行動している。・生活の習慣やパターンが似ている。などがある。しかし、出会わない人は、全く出会わないし、すれ違ったとしても、記憶には残らない人もいる。そう考えると、東京をはじめとする都市は、いろんなひとかたまりのものが、たくさん、重なったり、平行したりしながら、寄り集まって出来ているのだと、思わずにいられない。ネットの世界では、もっとこの傾向が顕著に現れているような気がする。インターネット人口が何千万人と言われているが、実質的にアクティブに活動している人は、そのひとにぎりで、その中でも、それぞれの指向に基づいて、似たようなものに飛びつき、そこで、出会い、再会する。楽天広場でページを開いて70日程度だが、しばらくあったり、連絡が取れなかった人と連絡がとれたケースが、3件ぐらいあった。これも、インターネットの人口からすれば、非常に稀な現象だと考えられる。しかし、シンクロする人は、シンクロし、また出会う。この、理屈で言うと、おそらく、ニューヨークに行ったとしても、偶然、知人に会うかもしれないし、ベトナムに行っても、知人に出会う確率は高いであろう。けっこう、狭い世界でしか、人は、生きられないのかもしれない。
2004.01.07
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帰省したついでに、近々仕事を手伝ってもらうことになりそうな、田中君と会った。この田中君は、大学3年生で翻訳とWeb製作の会社を起業した、まだ、20代前半の社長である。彼の家と実家が近いこともあり、正月早々呼び出してしまうかたちとなった。年末、超多忙スケジュールをこなした彼は、正月三が日は寝正月だったそうだ。とはいえ、DREAM GATE「ニッポンの起業家図鑑~100人の勇気と独立への第一歩~」に、ソフトバンクの孫正義さんと見開きで載っている人物とは思えない、普通の気さくな好青年である。そして、打ち合わせは、爆笑の間に終わってしまった。そういや、私のあった事のある有名な起業家の人って、気さくな人が多いような気がする。ソフトバンクの孫さんで思い出したが、神戸の夢工房というソフトハウスの女性社長の、これまた田中さんも気さくな人だった。夢工房は、給食の献立ソフトや、家庭用データベースを作っているソフトハウスである。スタッフは、ほとんどが女性で、女性の働きやすく、才能を生かしやすい、勤務体系、給与体系を取り入れている。男性社員もいるが、お客さんによっては、男性でないと話をくれない人がいるために、配置しているという具合である。田中さんに、阪神大震災の直後、しばらくして、会った時は、高速道路が横倒しになった、横に住んでいたそうで、アメリカにいる子供から、国際映像で流れてきた、高速脇の看板を見て、実家が高速道路の下敷きになっていない事を確認した話しや、神戸の交通網が麻痺していたために、寒い中を自転車で会社に通った話を、笑顔まじりで、さらっと話してしまう。田中さんは、ソフトバンクの孫さんに、ひいきにしてもらっているらしく、気さくな関係だと聞いた事がある。さて、この夢工房の作ったソフトを売っている、メガソフトの前坂さんも、気さくな人である。この会社は、プログラマに必須と言われるエディタの定番のMIFESや、FAXソフトのSTARFAXなど、有名なソフトを開発した会社である。忙しい人なのでなかなか会えなかったのだが、会うといつも気さくに話してくれた。これまた、気さくな人である。そういや、こんな話を聞いたことがある。雑誌の広告の仕事をしていた時、唯一の部下が、アメリカに留学していたとき、シアトルの友達に会いに行ったついでに、彼のオフィスに連れて行ってもらったそうだ。オフィスで談笑していると、メガネをかけた青年がやってきて、彼女が日本人と見ると、日本の話しやら、会社で働いている日本人の多くは、日本の企業からの派遣で、タダで働いてくれるとか、冗談交じりで話して部屋を立ち去ったそうである。彼が退室した直後に、彼女の友人は、彼女に対し「彼が、うちのボスだ」と説明したが、あまりの気さくに話したため、社長だと感じなかったそうである。まあ、Windows95が発売される前の話しという事もあって、多少は、身を固めなくて良かった時代だった事もあるが、彼女は、いつの間にか、気さくにビルゲイツと話していたのだ。まあ、彼女は、当時は、コンピュータに興味がなく、相手が、マイクロソフトのビルゲイツと知らずに、身構えずに話した事が、気さくに話せた原因でもあると思うが。ビルゲイツ自身も、相手が大企業の社長という態度で付き合ってくるからこそ、身構えてしまう面もあり、一般での堅物のイメージと違うキャラクターを見せたのであろう。いずれにしろ、身構えずに付き合うと、有名な起業家といえども、気さくに付き合えるようである。まあ、全ての人は、気さくな面を、少なくても、必ず持っているので、当たり前の話しかもしれない。これらの話しは、たまたま、自分が出会った人や、身近な人が体験しただけかもしれないし、誰でもそうなのかもしれない。だが、事業計画書オタクやビジネスモデルオタクや、やたらポジティブシンキングをしている起業家が、大きな話や「べき」論などをする事が多い。しかし、肩肘張らない人の方が、いろんな人に受け入れられやすく、起業が成功しやすいのだと思う。それが、結果として、有名な起業家という形になるのかもしれない。
2004.01.06
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正月休みに帰省したついでに、戸籍謄本を取りに役所に向かった。私の実家のある甲子園付近は、阪神タイガースの18年ぶりのペナントレース優勝の一方で、阪神パークや競輪場が取り壊され、この一年でがらっと風景が変わってしまった気がする。競輪場の跡地の横を通る。ここは、大きな高層住宅の計画があるらしい。地域の住民の建設反対の看板が目立つ。しかし、この地域、転勤族は多いとはいえ、国道43号線訴訟、甲子園浜埋め立ての環境アセスメント訴訟など、粘り強い住民運動をした地域だという事を、役所なり、企業は忘れているように思う。所詮、地に足の着いていないリーマンの浅知恵の都市計画は、甲子園という土地のプライドを持った住民の気持ちや行動パターンなど読めていないのではないだろうか。さて、この競輪場跡地だが、戦前は、100面もある広大なテニスコートだったという話を聞いたことがある。今も、甲子園テニス倶楽部という形で、最近取り壊したセンターコートと、数面のコートが、甲子園球場の脇に残っている。実は、このテニス倶楽部は、すごく伝統があり、関西テニス協会という、日本テニス協会より強力な競技団体のベースになったテニスクラブである。関西のテニスの強さは、沢松奈生子、伊達公子など、世界で活躍する日本人テニスプレーヤーに、関西のクラブ出身者がいることでもわかるだろう。また、競馬でも「鳴尾記念」というG3レースが残っているが、これも、現在の浜甲子園団地と呼ばれる公団住宅の建っているあたりにあった、鳴尾競馬場の名残である。甲子園という街は、野球だけでなく、多くのスポーツを楽しめる、スポーツとリゾートと住宅をミックスしたコンセプトの街づくりをしているのだ。阪神大震災の前に、神戸市で、アーバンリゾートフェアというものが行われ、街で、癒しや、スポーツやリゾートというコンセプトのイベントなどが行われたが、その60年以上前に、甲子園という街で実現されていたのだ。おそらく、この都市のコンセプトは、今でも新しいものだと思う。しかも、当時は、やる事が大胆である。甲子園球場でスキーのジャンプ大会をやったり、鯨を飼うとか、曲芸飛行大会があったり、現代人が思いつかない企画が催されていたらしい。しかし、第二次世界大戦などがあり、それらの多くは、閉鎖された。戦後、それらを復活させるべく出来たものの一つが、甲子園阪神パークであり、甲子園ボウルというボーリング場である。前置きが長くなったが「かちこしうどん」は、甲子園球場と、甲子園阪神パークとの間の交差点の角にあるうどん屋である。私は、敷地が甲子園阪神パークに囲まれている中学校に通っていて、この「かちこしうどん」は、通学路にあたる。中学生の身からすれば、ここのうどんは、駅のそば屋に比べ高価なものという印象もあり、隣が友達の家のタバコ屋だというのにもかかわらず、あまり親しみがなかった。おかげで、あまり食べに行っていない。そして、何年ぶりかに、この店の暖簾をくぐった。店内は、テーブル席で、真ん中にコンロがついている。うどん屋といっても、客単価の高い、鍋焼きうどん系に対応する事で収益を上げようという事なのだろう。メニューに目をやると、真っ先に「おまかせ定食780円」が目に入った。即決である。今日、1/5の「おまかせ定食」は、「とんかつ」だそうだ。「かちこしうどん」で「とんかつ」とは縁起がいい。お味噌汁のかわりに、小さな麺類がつく。うどんか、そばか、どちらか聞かれたが、うどんと即答する。定食が出てくるまでに、メニューに目をとおす。やはり、ここは、うどん屋というより、飲み屋である。なるほど、中学生にはあまり縁がない世界だ。そうこうしていると、定食が出てきた。うどんは、昔のように、コシのないものではなく、手打ち風の麺になっていて、出汁のきいた、つゆを使った、典型的な関西風うどんの味である。とんかつも、肉は、柔らかく、適度に脂身のあるロースで、上等ではない、おいしいB級トンカツであった。個人的には、このような、B級トンカツは、肩が凝らず好きである。あっという間にたいらげて、店を出た。しかし、阪神パークの建物は既になく。ガードマンが見守る、白く高いバリケードの中で、鉄くずとなっている。店の方を振り返ると、阪神甲子園駅から、阪神パークまで、歩道上に何体もある、動物の像が立っていた。阪神パークが、なくなった後、これらの動物の像の役目も無くなるであろう。駅から阪神パークに向かう子供に、動物に会えるという期待を高めたり、阪神パークから帰る子供たちに、また、動物に会いに来てくれるように、語りかけていた動物の像は、その役割を失ってしまったようで、台座には、看板が剥がされた後がある。時代の流れと、震災の被害により、甲子園も、出来た当時の街づくりのコンセプトを、ついに守る事ができなくなって来ているようだ。甲子園阪神パークや甲子園競輪場の跡地が住宅になり、多くの人が住めるようになる事は、それは、それで、いいことだが、本来の甲子園のスポーツと保養と住宅がミックスした街づくりのコンセプトを失うことにより、甲子園は普通の街になってしまうだろう。甲子園球場が、野球をやっている人にとって、特別な意味を持ち続けている限り、少しはマシだろうが、いずれ、甲子園球場も寿命がくるだろう。その時に、甲子園という街のコンセプトを引き継いで行けるかは疑問である。 かちこしうどん 駅から阪神パークに続く動物の像そういえば、甲子園球場と、甲子園テニス倶楽部との間に、橋が作られようとしている。おそらく、駐車場と、甲子園球場を直結させる事により、選手とファンとを隔離してしまおうという事なのだろうか。以前は、プロ野球選手も、高校野球の選手も、住民にとって身近な存在であった。友達の家の向かいの旅館には、広島東洋カープや大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)が宿泊していて。球場まで、徒歩で移動する前に、友達の家の生垣に腰を下ろしていた。選手の名前は忘れたが、広島カープにいた、外人選手のお尻の跡がとても大きく、小学生だった自分からすれば、衝撃的だった。(当時は、田淵、江夏、江本、ブリーデン、ラインバックとかの時代でした)侍ジャイアンツなど、1970年代あたりのテレビアニメを見ればわかるが、巨人の選手でさえも、地方への遠征は、旅館に泊まり、布団を弾いて寝泊りしていたのだ。田淵が西武ライオンズに移籍した頃から、旅館にプロ野球選手が泊まらなくなった。私が、高校に入った頃、高校のグランドを、高校野球に出場している高校に練習場として貸していたのだが、そこへの移動も、旅館から徒歩だった。当時は、徳島の池田高校が全盛期で、チームを率いた名物監督の蔦監督も、巨人に行った水野投手なども、網引旅館から、何百メートルではあるが、バッグなどを持って歩いてきていた。甲子園の近くには、こうした旅館が何軒かあったが、何軒かは廃業してしまった。 甲子園テニス倶楽部から、甲子園球場のライト側室内練習場あたりにかけて建設中の橋 網引旅館
2004.01.05
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『天下一品の下品で美味しい食べ方』と題し、何回かにわたり、地方のローカル店鋪で楽しめる天下一品の邪道な食べ方を紹介してきた。そこで、今回は、その下品な食べ方を、京都北白川の天下一品総本店で試してみる事にした。京阪電車の京都の終点「出町柳」で、叡山電車に乗り換えるために、下車をする。京阪電車は、かつては、三条までしか走っていなかったが、鴨川電気軌道という鉄道計画で、比叡山や鞍馬寺方面行きの当時の京福電鉄と相互乗り入れをする為に建設され、完成と同時に、京阪電鉄に併合された。しかし、計画当初とは違い、京阪沿線の人口増のため、京阪電車は、長大編成となったために、相互乗り入れは断念され「出町柳」で乗り換えとなる。ただ、いくら、京阪電鉄に併合されたとはいえ、鴨川沿いの軟弱な地盤を地下鉄にしたため、かなりの工費が費やされ、割高な料金設定がなされている。北白川までは、三条なりで、市バスや、京都バスに乗り換えた方が安いとわかっていながらも、どこかのどかな叡山電車に乗ってみたいのが、旅心というものだ。叡山電車の駅で切符を買うと、ちょうど電車が来たので乗り込む。たった1両のワンマンカーの席は満席で、立っている人もいる。車両は近代化され、こぎれいになっているが、小型車両独特のゆれで走る。 叡山電車出町柳駅そして、2駅目の「茶山」で下車する。もう、夜だったので、運転席から、緑の遮光カーテンをあけて、運転手が顔を出す。そして、運転手に確認できるように、切符を見せてから料金箱に入れた。この「茶山」駅の付近から白川通りまでは、近くに芸術系の大学(短大)があるためか、オシャレなお店が多い。ライトアップされたカフェや、数件の洋菓子屋も正月だというのに店を開けている。洋菓子屋では、ガラス越しで、何人もの職人がお菓子を作っているのが見える。 ライトアップされたカフェそして、5.6分歩くと、白川通沿いに、ライトアップされた、大学が聳え立つ。昔は、もっと地味だったにと思いつつ、白川通を北に上がる。そして、北大路通りとの交差点の100メートル程手前に、天下一品の総本店がある。今までは、車でしか行った事がなく、しかも、向いのオシャレな店に行く事が多かった事もあり、少し手間取っての到着である。白川通は、交通量はそこそこあるが、人通りがあまりなかったのにもかかわらず、店の中は満杯であった。1人で来た事を店員に告げると、少し待つように言われたが、まもなく席が空き、カウンターに通された。メニューは、ラーメン、チャーシューメン、それぞれ大盛り、ギョウザ、唐揚げ、ライス、キムチというシンプルなメニューである。特にこの日は、三が日という事もあり、ラーメン+ギョウザ+ライスのお得な定食の設定はない。私は、ラーメンとライスを頼んだ。スープはと聞かれたが、もちろん「こってり」を頼む。そして、ニンニクはと聞かれると、これまたお約束で「入れて下さい」と言う。店は、いつの間にか、さらに込み合い、席が空くのを待つ人が、店の外に続きだした。そういや、京都は、人口当たりのラーメン屋の件数が日本一というラーメン激選区である。東京はラーメン屋の件数は多いが、それ以上に人口が多いためか、それとも、手際がわるいせいか、回転がわるいせいか知らないが、列を作る所が多いが、京都で行列を作るお店は珍しい。そう、この店が京都のラーメンを代表する店の一つであることを再認識した。込み合っていたせいか、少し時間がかかって、ラーメンが出てきた。これは、気のせいかもしれないが、チェーン店とは、スープか少し違うような気がする。他の店は、スープに溶け込んでいるものが、均等に細かく溶け込んでいるという感じなのだが、ここは、スープに溶け込んでいるものが、細かいものと粗いものが入り交じっている。ニンニクを入れたせいもあるだろうが、関東ではみられないスープである。まず、スープを一口。そして、軽く、麺を馴染ませて、一口。それから、白胡椒とラーメンダレを入れる。そして、しばらく食べたあたりで、辛子味噌をレンゲに入れて、スープに溶かす。このあたりから、鼻の頭に汗をかき出す。これが、辛くうまいラーメンの醍醐味である。ここまでは、正統な、天下一品の食べ方だが、ここから邪道にチャレンジである。レンゲに、スープを入れると、ライスにぶっかける。軽くまぜて、さらに、辛子味噌がいっぱい入った部分を、ライスにぶっかけ。それをレンゲにすくって。口にする。うーん、実にうまい。隣の席に座っているカップルが、目を丸くしてみている。高円寺の店で知ったこの食べ方を、総本店で披露する瞬間である。しかし、さすが、本店、美味しい。スープも多めに入ってるにもかかわらず、ラーメンもすぐに、胃の中におさまってしまい、少し物足りないぐらいであった。サソリを飼っている串揚げ屋の親爺の本に書かれていたように、腹七分目が丁度よいということにして、総本店を後にした。 天下一品総本店 チャーシュー麺+ライスおまけ、コーヒーが飲みたくなったので、天下一品総本店より200メートル北のマクドナルドへ。ここは、京都名物、茶色いマクドナルドである。最近、都内では、緑のマクドナルドも登場しているが、赤くない看板のマクドナルドは、こちらの方が歴史が古い。確か、ローマのコロシアムの近くのマクドナルドは、赤い看板が環境にマッチしないという事で揉めたが、結果として、赤い看板を押し切られたという事件があった。ローマと同じ、古都、京都の方が、ローマでの事件より先に、環境にあわせて、看板の色を変え出店したのは興味深い。 茶色のマクド
2004.01.04
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京都府の南部、奈良と京都の間に山城と言われる地域がある。友人が、そこの田舎神社の一つを、神職として守っていることもあり、去年に引き続き、山城多賀に向かった。大阪から大和路快速に乗りJR奈良駅に着き、JR奈良線に乗り換える。JR奈良線は、京都から奈良を結ぶ、奈良街道に沿って走る、ローカル線だ。同じ、京都と奈良を結ぶ、近鉄京都線は、木津川を挟んで、対岸を走っている。近鉄側は、関東の筑波に対抗して作られた、京阪奈学研都市があったり、JR学研都市線や国道24号線が走っている事もあり、多少開けている。しかし、大きな川を隔てたJR奈良線沿線は、田園風景と、ひっそりとした古い町並みが残っている。10年以上前に、電化されたとはいえ、25メートルレールで作られた線路のせいで、古い国電車両を大きく揺らしながら走る。そうやって、奈良駅から20分程で、山城多賀駅についた。この山城多賀駅は、無人駅なのだか、Jスルーカードという、プリペイドカードが使用できる。自動改札機の横に、通路があり、そこに、小さな機械があり、その機械に、Jスルーカードを入れると、精算できるしくみだ。操作は、少し、要領が必要で、どうにか精算して、駅を出ると、友人が迎えに来てくれていた。私は、改札で戸惑ったという話をすると、彼は、地元の人間は、その機械の操作が面倒なので、そのまま、通過してしまう人が多いという。なるほど、横断歩道のない所や赤信号でも、自己責任で、道路を渡る「ジェイウォーク」と同じように、改札をスルー(抜けて)してしまう、ジェイスルーをやっているのだ。じゃあ、Jスルーカードは何なの・・・。そんな話をしているうちに、彼の家についた。ここで、自転車に乗り換えである。彼の守っている高神社は、彼の家から約1キロ離れた山にある。正確に言うと、山全体が神社である。この神社の本殿は、室町時代に作られたもので、京都府の指定文化財となっている。この神社を、父子二人で守っているわけだが、三が日は、24時間体制なので、昼間は父が、夜は彼が当番ということもあり、彼の当番まで時間が空いているとの事なので、彼の案内で、付近をサイクリングをする事となった。彼は、自転車好きなので、貸してくれたマウンテンバイクも、かなりしっかりとしたものだった。普段は、3段変速機つきのママチャリなので、最初は違和感を感じたが、軽快に走り出した、田園風景の中を、しばらく走り、少し、山に近付くと、小さな神社があった。市辺天満神社である。辺は大きな木で囲まれている。中には、15メートルの高さになるモチノキもある。この神社は、瓦職人の氏子が、毎年の干支にあわせて、絵の描かれた瓦が奉納されているのが、見どころである。十二支の中でも、亥の上には、なぜか金太郎が乗っているのが、面白い。また、正月飾りも独特のものがある。最近は、一般的な、門松を使う所が多いのだが、ここは、竹で、鳥居のような門を作り、梁の部分から藁を簾のように吊り下げ、まん中に、しめ飾りがしてある。鳥が啄んだのか、干し柿が、いくつかなくなっている。また、門の柱の根元のあたりには、松と竹の葉で装飾されており。門松が、まさに、門の形になっている。そして、足下は、拝む所まで、藁の絨毯が敷かれている。敷き詰められた、藁を踏み締め、お参りをする。彼は、さすが神職なだけあって、ビシッと拝む。私も、自己流で拝み、次の神社に向かった。 奉納された瓦 市辺天神の正月飾り田園の中に、小さなカソリック系の教会があった。彼の通った保育園だそうだ。当時は、保育園の数がなく、近い保育園は、その保育園だったという。聞きながら、ちらほらとある、梅林を眺めつつ走っていると、間もなく、次の目的地の天満神社についた。ここも、立派な森がある。この神社は、中天満神社と呼ばれ、その周りには、黒土古墳群があるそうだ。境内には、神社の清掃当番表が貼り出されていた。この神社も、はるか昔から今も、人々とともに生きてきている事がわかる。さて、この天満神社の周りには、天神さんだけあり、梅林が広がっている、この梅林の梅を使って、地元の城陽酒造が、地酒に3年梅を漬込んだ梅酒を販売している。甘口と辛口と古酒タイプの3種類があるらしい。また、この梅林の面白さは、京都に近い土地らしく、酸性土なので、竹林がすぐ隣接しているのだ。あと、松林があれば、松竹梅そろってしまうことになる。梅の季節に、竹林をバックに、面白い風景が撮影できるだろう。中天馬神社清掃当番表地元の城陽酒造の濁り酒と梅酒(辛口)梅林と竹林を抜け、ザ・ラスト・サムライで、ハリウッド俳優に、乗馬を指導したという人のいる乗馬クラブの話をしていると、間もなく、こんもりとした、森があらわれた。ここが、次の目的地、旦椋神社だ。まず、紅葉樹と檜の2種類の天然木の間に、今まで見た事のない形の注連飾りがしてある。何キロも離れていない地域なのに、さきほどから、それぞれの神社によって、独自の注連飾りが、なされている。世の中、均一化されていると言われる中にありながらも、それぞれの伝統文化が残っているのである。明治時代、天皇制に復活し、神道や神社の地位が高まったが、同時に、ある種のマニュアル化が進み、それぞれの神社の持っている伝統の祀りや文化を失った所が多い。多くの祭りや、地域伝承は、その時失われたと言う。そのような歴史を経ている神社の歴史の中で、独自の伝統を守っているという事は珍しい。その日は、正月三が日という事で、本殿を拝む事が出来た。通常は、防犯の関係で、カギをかけて入れないのだが、年に数回、一般に解放しているという。今日は、たまたま、開いていたのだ。なお、ここの本殿も文化財の指定を受けている。旦椋神社 奥に拝殿が見える変わった注連飾り自転車は、さらに北に向かう。交通量が増え、街が開けてきた。古い木造家屋の間に、流行りの南欧風の建物も建設中なのが見える。スーパー平和堂の隣に、またもや、小さな森があり、そこが、荒見神社である。このあたりの神社と同様、能舞台があるが、ここは、境内のど真ん中にあって、立派に見える。奉納された酒樽がずらりと並び、今までの田舎神社にくらべ、華やかな雰囲気がある。酒樽の中に「春鹿」の樽があった。この酒蔵は、もともとは、奈良の春日大社が作っていたそうだが、明治時代に酒蔵が独立して出来たという。酒は、神事に欠かせないものなのだ。荒見神社春鹿の酒樽案内をしてくれている、友人が、なんやら、絵馬の所に居着いている。彼は、絵馬を見るのが好きだと言っていたが、ここの絵馬はまた一風変わっている。それは、一部の絵馬が逆さに吊るしてあるのだ。逆さに吊るされた絵馬には「厄」と大きく書かれていて、厄よけの絵馬なのである。これは実に珍しい。逆さに吊るされた「厄」と書かれた絵馬その絵馬の近くに小さな茅葺きの祠があった。屋根にはコケが生え、近いうちに、補修か葺き替えが必要だろうと、彼は言っていた。この小さな祠でも、2000-3000万円はかかるそうだ。彼の高神社が葺き替えをした時は、5000万円以上もしたそうだ。田舎神社らすけば大変な値段である。彼も、神職では食えないために、別に仕事をしながら、神社を守っている状態で、5000万円はとてもきつい。文化財ということで、補助金をもらって、どうにか出来たそうだ。しかも、京都、奈良に挟まれて、競合する有名な神社仏閣が多く、地元の神社でなく、電車や車で、有名な神社に行かれてしまう。その中で無名な田舎神社を維持するのは大変だ。彼は、自分の自転車好きを生かして、自転車神社にすることで、特徴づける事で、生き残りをかけようとしている。平和堂の中で一服し、テナントの酒屋で、城陽酒造の酒を買って、山城多賀方面に向かい帰途についた。彼の家に近付くと、ちょうど、電車の時間だったので、そのまま、電車に乗り込んだ。なかなか、赴き深い、田舎神社の参拝サイクリングだった。そ、そういや、肝心の高神社に行ってないやんけ。
2004.01.03
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2004年1月1日午前7時、この数年私の住んでいるアパートから、30メートル程離れた所にある、崖の上にある駐車場に行った。まだ、夜も明けていないのに、もう、十数人の人が集まっている。そう、そこは、初日の出を見る絶好のポイントなのだ。この崖は、武蔵野台地に、今は暗渠になっている前谷津川が、何千年をかけて、侵食し、大きな谷を作ったものである。この駐車場は、その谷の西側の崖の上に位置しており、谷の向こうの西台の台地の方から、日が昇る所を見る事ができるのだ。夜明け前の寒さに震えながら、何人もが、携帯電話についたデジカメのレンズを、太陽の方に向け、手を伸ばして待っている。午前7時5分ごろ。西台の天辺にある、武蔵野の名残の大きな木々の間から、太陽が現れた。天気にも恵まれ、見事な初日の出である。あたりでは、カメラつき携帯電話のシャッターを切る事を知らせる、警告音が鳴り響く。NDフィルタなんてつけてないので、CCDもエラーを起しそうだなと思いつつ、軽く、初日の出を拝んで、その場を去った。これが、私の2004年の初日の出であった。実は、今年は、この土地から引っ越そうと考えている。都内で働く身として、少し不便を感じているからである。最寄り駅の東武東上線の東武練馬駅、都営三田線の高島平駅、西台駅から全て遠い。しかも、台地の上とはいえ、駅から家に向かうとき、かならず、きつい坂を登らないといけない。疲れ果てて帰って来た時は、タクシーを使いたくなる。幸い、ここは、東京23区内としては土地が安くしかも、駐車スペースがあるため、タクシー会社がたくさんある。おかげで、常にタクシーに乗れる。そういや、私がここに住む事を決めたのは、愛車のプジョーがいたので、駐車場が安価で確保できるからであった。アパートとは言え、東京23区内で、2Kで30平米の広さがあり、アパートの階段を下りた駐車場を借りることが出来て、家賃が月7万円は安い。だが、先月、プジョーを手放したので、駐車場というメリットは、消滅した。それが、引っ越す理由である。そういうことで、今年は、この場所での最後の年越しだと思い、こちらでの年越しを楽しむことにした。私の住んでいる所は、「徳丸」と言われる地域である。駅もないので、あまり知られていないが、実は、この辺りは、かなり古くから人が住んでいたようである。隣の西台や赤塚には、古墳や住居後が残っている。そして、徳丸の氏神さんである、北野神社は、千年を越える歴史を持っている。この神社は、北野神社であり、菅原道真を祀ってはいるが、もともとは、梅の木を祀った神社である。なぜ、梅を祭っているかと言うと、ここにあった梅の木の下で、病人が癒されたという言い伝えがあり。そして、梅ノ木を祀るようになったという。そして、梅のマークは、菅原道真の天神さま=京都の北野神社という事で、ここも北野神社を名乗っている。ちなみに、京都の北野神社は、白梅町に近いなど、白梅なのだが、徳丸の北の神社は、紅梅である。そういう事で、この北野神社に、初詣に行くことにした。神社の近くに行くと、車が道路に何台も止まっている。近くの、無形重要文化財に指定されている、田踊りの伝統芸能の保存施設の駐車場も車で満杯になっている。そして、階段を登り、最初の鳥居をくぐったら、いきなり、何十メートルの長蛇の列にぶち当たった。この地区の人の信心深さには驚いてしまった。20-30分並んで、やっと、お参りを済まして、帰途に着いた。しかし、これだけの文化をもっているのに「徳丸」という地名は、マイナーである。どこか、徳丸という地名を消したがっているようにも、思える。まず、この神社と隣接しているお寺の境内に、明治4年に小学校が作られている。この小学校は、地域の人々がお金を出し合って作った、日本初の私学の小学校で「紅梅小学校」と名づけられている。もちろん、現存している。由緒ある名前なのでこれでいいのだが、徳丸という名を冠してはしない。また、徳丸の南側の練馬北町との境目にある、東武東上線には「東武練馬駅」がある。確かに、この近くに、練馬大根の発祥の地があるので、それでもいいと思うのだが、東上線の計画中は「徳丸駅」も、駅名の候補であったにも関わらず、採用されなかったそうだ。そして、徳丸の北に位置する「高島平」は、200年前の江戸時代には、長崎にてオランダ人より砲術を学んだ高島秋帆により日本最初の西洋式砲術調練が行われた「徳丸ヶ原」という事で有名だった。しかし、1966年から1972年にかけて日本住宅公団により土地整理事業が行われ、そこは、高島秋帆の高島をとって「高島平」と呼ばれるようになった。高島平の団地の中には、徳丸橋、徳丸ヶ原公園という地名は残っているが、知名度としては、マイナーである。やはり、高度成長期のピークを象徴する「高島平団地」の方が明らかに、知名度が高い。さらに、徳丸の台地と、高島平との間に、未だに、わずかながらも、武蔵野の原生林を残している崖が東西に長く存在している。そこは、赤塚公園の一部になっている。ここでも、徳丸の名前が出てこない。この赤塚公園のおかげでか、徳丸と西台の境目近くに、最近出来たマンションも「赤塚公園」を名乗っている。昭和7年に板橋区になる前は、北豊島郡赤塚村だったにしろ、いわゆる、赤塚と呼ばれる地域までは、1キロ以上離れているにも関わらず、赤塚を名乗っている。このように、なぜか、歴史のある徳丸の地名は、あまり付けられていないのである。高島平の開発により、板橋区最後の田園地帯がなくなり、田畑や、茶畑を宅地などに転用し、新しい住人を迎え入れた。しかし、徳丸という、ネーミングが、都市生活とあまりマッチしなかったためだと思うが、歴史を持っている土地の名前が、時代の感覚にあわずに使われなくなった。家賃が安いなど、東京での生活のエントリーするには、いい場所なのだが、逆に、それが、この土地のイメージを低くしているのかもしれない。そういう、移り住んでいく人たちとは関係なく、自らの土地に誇りを持ち、地元の氏神の神社に、集まる人々がいる。確かに、私は、よそ者ではあるが、この参拝者の列に混じりながら、この土地での人の営みと、その歴史と文化について、深く考えざるを得なかったのである。 北野神社何十メートルにも及ぶ、参拝者の長蛇の列 元旦から咲く、北野神社の「紅梅」
2004.01.01
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