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「JEWEL」を開設してから6年もの歳月が経ちました。色々とありましたが、あっという間の6年です。これからも宜しくお願い致します。2013.4.16 千菊丸
2013年04月16日
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王妃との謁見を終えたガブリエルは、蒼褪めた顔をして彼女の部屋から出て来た。「ガブリエル様、どうなさいましたか?」「いいえ・・少し気分が優れないの。」「暫くそちらにお掛け下さい、今水を持って参ります。」ピエールが廊下を駆けていくのを見送ったガブリエルは、椅子に腰を下ろして溜息を吐いた。「お嬢様、大丈夫ですか?」「ええ。それよりも、お母様にお会いできるの?」「ええ。暫く休まれた方がよろしいのでは?お顔の色が悪いですよ?」ルイーゼに言える筈のない秘密を抱えながら、ガブリエルはピエールが戻って来るのを待った。「あら、ガブリエルじゃないの。どうしたの、こんな朝早くに?」「アレクサンドリーネ様、おはようございます。」ガブリエルはそう言うと、アレクサンドリーネを見た。「顔色が悪いわね?」「ガブリエル様、お水です。」「ありがとう、頂くわ。」ガブリエルは震える手でコップをピエールから受け取ると、水を一気に飲み干した。冷たい水が乾いた喉と心を潤してくれたような気がした。「ガブリエル、お母様に何か言われたの?」「いいえ。わたくし、母に会いますのでこれで失礼。」「そう。余り無理をしない方がいいわ。」アレクサンドリーネが心配そうにガブリエルの顔を覗きこんだ時、侍女が彼女に声を掛けた。「アレクサンドリーネ様、もう参りませんと。」「わかったわ。ガブリエル、また後でね。」「ええ、また。」アレクサンドリーネが廊下の角に曲がって消えていくのをガブリエルは静かに見送った。「アレクサンドリーネ様、今後二度とあのような真似はなさいませんように。」「あら、どうして?ガブリエルはわたくしの友人です。友人に声を掛けてはいけないの?」「そ、それは・・」「誰がどう言おうが、わたくしはアンヌ様の味方です。」アレクサンドリーネは、アンヌを陥れようとしている母の策略など知らずに、アンヌを救う事を考えていた。「お母様!」「ガブリエル・・元気そうでよかった。」「お母様も。アリスティド様に酷い目に遭わされていない?」「ええ。それよりも、王妃様とお会いしたの?」「お母様、何故それを知っているの?」「アレクサンドリーネ様が、あなたの様子がおかしいと教えてくれたのよ。それとピエールもわたしに報告してくれたわ。」「お母様、わたし王妃様からとんでもない話を聞いてしまったの。」「とんでもない話・・まさか・・」 ガブリエルは、母の顔が蒼褪めてゆくさまを見て、王妃の話が真実であることを知った。「お母様、わたしが・・お母様とニコル伯父様との間に産まれたという話は本当なの?お願い、本当のことを話して。」「・・いいわ、お前に一生この事を隠そうと思ったけれど、全て話しましょう。ガブリエル、ひとつお願いがあるの。」「なぁに、お母様?」「話し終っても、わたしの事を嫌いにならないでいてくれる?」「わたしは、お母様のことを愛しています。」ガブリエルはそう言うと、母の言葉に対して静かに頷いた。
2013年04月14日
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「嘘ではありませんよ。」王妃は啜り泣くガブリエルの耳元でそう囁くと、彼女に微笑んだ。「わたくしが全て仕組んだのです。」「何故です?何故このようなことを?あなた様は母を気に入っていた筈・・」「わたくしはアンヌのことが好きでした。彼女のように美貌や知性に恵まれた女性はこの世を探してもそうは見つからないでしょう。」王妃はそう言うと、そっと繊細な刺繍が施された扇子を開いた。「けれども、わたくしは彼女を密かに妬ましく思ったのです。わたくしも彼女のように強くなりたいと思いました。けれども、所詮女は政治の道具でしかない。」「王妃様・・?」王妃の様子が何処かおかしいことに気づいたガブリエルは、そっと彼女から一歩後ずさった。「わたくしは、希望と国家の命運を抱いてこの国に嫁いできた。しかし、わたくしを待っていたのは貴族達の嘲りと、男児を産めぬ己の不甲斐なさに襲われる日々。そんな中であなたのお母様にお会いしたのは、わたくしがまだ王太子妃であった頃です。」王妃は滔々(とうとう)と、ガブリエルにアンヌとの出会いを語り始めた。「わたくしは当時、何の権力も持たなかった。宮廷では“お飾りの王太子妃”、“ただ美しいだけの欠陥品”と言われたわ。それに比べて同い年のアンヌは権力を持ち、己の才能を発揮していた。」 ガブリエルはアンヌが宮廷で活躍し始めた頃の話は、幾度となくアンヌから聞いていたが、自分と数歳も年が違わぬ少女であった母が宮廷内で権力を掌握する姿がなかなか想像できなかった。だが王妃の話を聞くうちに、まだ年端もいかぬ少女であった母は己の父親と同年代のつわもの達相手に堂々と渡り合い、臆することなく戦ったのだ。その姿は、他国から嫁いできたばかりで心細い王妃にとっては眩しく見えたに違いない。「はじめはうまくいっていたわ、彼女との関係は。けれど、わたくしも彼女も気づかない内におかしくなっていったのよ。」「おかしくなったとは?一体お二人との間に何があったのです?」「母国スペインで暮らしていた頃、わたくしには恋焦がれる方がいたわ。あなたのように美しいプラチナブロンドの髪と、真紅の瞳をした方だったわ。」王妃はそっと扇子を閉じると、ガブリエルの髪を優しく梳いた。「あなたはまるで彼に瓜二つ・・わたくしの愛し君のニコルに。」「ニコル伯父様?」一度も会ったことがない、母・アンヌの最愛の弟の名が王妃の口から出た瞬間、ガブリエルの胸が大きく高鳴った。「わたくしがアンヌから少しずつ距離を置き始めたのは、あなたが生まれたからです。」「え?」「アンヌが産んだあなたの顔を見た瞬間、わたくしはこの子の父親が誰なのかわかりました。ニコルだと。」王妃の言葉を聞いたガブリエルは、全ての音が消えてしまったかのような錯覚を覚えた。「一体、何をおっしゃっておられるんですか?」「最初は信じられないでしょうね。けれども、否定しようとも、それが揺るぎのない事実なのよ、ガブリエル。」王妃は、そっとガブリエルの肩を叩いた。「王妃様、母の事を・・」「安心なさい、アンヌは殺しはしませんよ。今のところはね。さぁ、もう時間よ。」「王妃様・・」「前から言おうと思っていたのだけれど・・わたくし、あなたのことが嫌いなのよ、心の底からね。」 王妃はそう言うと、初めて自分に会った時と同じ優しい微笑みを浮かべたのだった。
2013年04月14日
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「ねぇ、ガブリエル様は大丈夫かな?」「あの嬢ちゃんなら心配要らねぇよ。ルイーゼがついているし、ヴィクトリアスって騎士も居る。それよりも今は他人に構っている暇はねぇだろ?」雪道を歩きながら、ダリウスはそう言ってダニエルを見た。「そうだね。奥様が身柄を異端審問所に拘束されている以上、遠くに逃げるしかないよね。」「ああ。幸い、奥様からこれを頂いたから、当分の生活費と旅費には困らねぇだろうさ。」そう言ってダリウスが宝石が入った袋をダニエルに見せると、その中にはサファイアやエメラルド、真珠の指輪や耳飾り、首飾りなどが入っていた。「こいつをばらして、役人どもにちらつかせてやりゃぁいい。それに、奥様の息がかかった奴らがパリに居るから、そこまでの辛抱だ。」「うん。奥様のご無事を今は祈るしかないね。」「ああ。さてと、こんなところでグズグズしてられねぇ。行くぞ!」ダニエルは仲間達とともに、一路パリへと向かった。 一方、宮殿に到着したガブリエルは、王妃に謁見を願い出た。「生憎ですが、王妃様は気分が優れません。」「火急の用で参ったのです、どうか王妃様にお目通り願えませんでしょうか?」「それはできません。」ガブリエルがどんなに懇願しても、王妃付の小姓・ピエールはそれを冷たく事務的に撥(は)ね除けた。「ピエール、あなたは今回の事をどう思っているの?お母様が罪人だと、あなたも思っているの?」「いいえ。ですがわたくしはあなたを王妃様と会わせる訳には参りません。どうか心中をお察し下さいませ。」ピエールは苦渋に満ちた表情を浮かべながらガブリエルを見た。「そう・・では、わたくしはこれで・・」「ピエール、ガブリエル様をお通ししなさい。」ガブリエルが肩を落としながらピエールに背を向けて去ろうとした時、扉の向こうから王妃の声が聞こえた。「王妃様、しかし・・」「これは命令ですよ、ピエール。わたくしを煩わせるつもりなのですか?」「御意・・」ピエールは部屋に居る主に向かって頭を下げると、ガブリエルの方へと向き直った。「ガブリエル様、どうぞ。」「ありがとう。」「ひとつ、お伝えしたい事がございます。王妃様にお気をつけなされませ。」「え?」何故ピエールが突然そんな事を言い出すのか、ガブリエルは訳がわからなかった。「失礼致します、王妃様。」「ガブリエル、あなたが今日こちらに来たのは、アンヌの事でわたくしにお願いしたい事があるからなのでしょう?」「はい、王妃様。母は何者かに濡れ衣を着せられたのだと思っております。母は清廉潔白な方です。どうか、お助けを。」「良い事を教えて差し上げましょうか、ガブリエル。アンヌに濡れ衣を着せ、陥れたのはあなたが推測している人物・・ルシリューではありません。」「では誰が一体このような事をなさったとおっしゃるのです?」「まぁ、それは面白い質問ね。」王妃はそう言葉を切ると、突然笑い出した。「王妃様、一体どうなさったのですか?」「わたくしですよ、ガブリエル。あなたのお母様を陥れた張本人は。」 王妃は俯いていた顔をゆっくりと上げると、翡翠の双眸で恐怖と驚愕が綯い交ぜとなったガブリエルの顔を見た。「アンヌに濡れ衣を着せたのはわたくしです。」「そんな・・嘘ですわ!」 ガブリエルは自分の足元が急にガラガラと音を立てて崩れ落ちそうになるような感覚に陥った。
2013年04月14日
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「ガブリエルお嬢様、大変でございます!」「何があったの?」 慌てふためいた様子で自分の部屋に駆け込んできた執事・フィリップにガブリエルがそう問いかけると、彼は呼吸を整えた後、彼女にこう告げた。「軍隊が、この邸を包囲しております!」「何ですって?一体どうして・・」「恐らく、こちらがユグノーを秘匿している嫌疑で、あの狡猾なリューイが陛下に良からぬことを吹き込んだのでしょう。如何なさいますか?」「お父様はどちらに?」「旦那様は、今朝早くジュリアーナ様、マルセラ様とともにローマへと発たれました。」「まぁ、自分だけお逃げになられたなんて・・お母様がご不在の時に!」己の保身に走った父と妹、祖母に対して激しい怒りを抱いたガブリエルは、この状況を打破する方法を必死で考えていた。「裏口には誰も居ない?」「ええ。」「フィリップ、すぐさまガリウス達を集めて裏口へと誘導なさい。わたくしが何とか致します。」「ですがガブリエルお嬢様・・」「わたくしなら平気です。お母様がご不在の今、このドルヴィエ家を守れるのはわたくしだけ。」ガブリエルはそう言うと、ルイーゼに向き直った。「ルイーゼ、さっき言おうとしたことをわたくしに教えて頂戴。アリスティド様は恐ろしい方だというのは、どういうことなの?」「アリスティド様は異端審問官として辣腕を振るっておられる方で、一度狙った獲物は最後まで仕留めることで有名です。相手の罪を暴く為ならば、どのような手でも使う方です。」「そう。ならば、お母様は・・」「アリスティド様は、今のところ奥様には手出しをされていないようです。それどころか、奥様に一目置いていると。」「アリスティド様に会いに行ってきます。支度をお願い。」「かしこまりました。」 ルイーゼが部屋から辞した後、ガブリエルは鏡の前に立った。(お母様を救えるのはわたくしだけ・・待っていてください、お母様。必ずや、助けてみせますから!)「これは一体何の騒ぎです?あなた方は誰を許しを得てこのような事をなさっておられるのですか?」「これは誰かと思ったら、ガブリエル様ではございませんか?どちらへ行かれるのです?」「あなたには関係のない事です。わかったのなら直ちに軍をお退きなさい。」 邸宅を包囲している軍隊の指揮官に向かって、ガブリエルは毅然とした態度を取った。「ですが、こちらでユグノーを秘匿しているとの情報を得ました。」「それはルシリューの陰謀です。我が家にはユグノーなどおりません。そんなに疑うのなら邸を調べて貰っても構いませんよ?」「では、少し調べさせて頂きます。」「わたくしはこれから宮廷に参ります。わたくしが留守の間、ユグノーの姿を見つけられなかったら直ちに軍をお退きなさい、宜しいですね?」「かしこまりました。」指揮官は苦虫を噛み潰すかのような表情を浮かべながら、馬車へと乗り込むガブリエルを見送った。「お嬢様、よろしいのですか?あのような事をおっしゃって・・」「いいのです。彼は恐らくルシリューに命じられてここに来たに違いありません。それに、ユグノー達はもう何処にも居ないでしょう。」ガブリエルはそう言うと、侍女を見た。「ごめんなさいね、ルイーゼ。あなたとあなたのご家族の命を危険にさらしてしまったわ。」「いつかはこんな日が来るかと覚悟しておりました。ダリウスやダニエル達は根性が据わっていますから、これしきのことで動じませんよ。」「そう・・ルイーゼ、わたくしを助けて下さいね。」「ええ、わかりました。」ルイーゼはガブリエルに微笑むと、そっと彼女の手を包みこむように握った。 一方、牢から出されたアンヌは、アリスティドの執務室で尋問を受けていた。「アンヌ様、あなたは不義密通の罪を犯していないと言い張りますか?」「ええ。わたくしは生まれてからこの方、一度も神の教えに背いたことなどありません。今回の事も前回の怪文書につきましても、全てルシリューの策略です。」「そうですか、ではこの文書には見覚えがございますか?」 アリスティドがアンヌの前に書類の束を見せたのは、自分の無罪をアンヌが確信した時だった。「これは・・」「あなたが少年達を闇で取引した証拠書類です。何処から見つけたのだとおっしゃりたいようなお顔ですね?」 形勢が逆転し、優勢の立場に立ったアリスティドは、冷酷な表情を浮かべながら“氷の貴婦人”を見つめた。
2013年04月14日
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絶え間なく暖炉に薪がくべられている自室と比べ、薄暗い地下牢は格子窓の隙間から冬の冷気が容赦なく吹き込んでくる。アンヌは寒さに身を震わせながら、ガブリエルの事を想った。いつかこんな日が来るかと思ったが、今は己の身よりもガブリエルの事が心配だった。 ルイーゼは信用がおける人物だ。ガブリエルが男であることを明かした時も、絶対に口外しないと約束してくれた。今、宮廷は自分が異端尋問所に身柄を拘束されたことで大騒ぎになっていることだろう。それを窺い知ることができないのが残念だが。「アンヌ様、お寒くはないですか?」獄吏がそう言ってアンヌに声を掛けた。「いいえ。お気づかいありがとう。」「そうですか。ではわたしはこれで。」 獄吏はそそくさと、牢から出て行った。「アンヌ様、おやつれになっていらっしゃらないですね。」「やつれ果てた姿であなたに助けを乞う姿を見たかったかしら?」アイスブルーの瞳でアリスティドを見ると、彼は溜息を吐いた。「あなたはあの蛇が恐れていることだけがある。このように手強い敵はあなたが初めてですよ、アンヌ様。」「あら、お世辞でも嬉しいわ。それよりも、手紙を出す許可をくださらないこと?」「わかりました。」「ありがとう。」アリスティドは牢から出ると、執務室へと戻った。「閣下、アンヌ様についての報告書を・・」「そこへ置いておけ。」「はぁ・・」「何だ、まだ何か用があるのか?」「いえ。何故閣下はアンヌ様について調べよと命じられたのか、その理由が知りたくて・・」「被告人を調査する事が、我ら異端審問官の仕事だ。それに、彼女への個人的興味もある。」「と、申しますと?」「今度の事件、何かがおかしい。誰かが自ら鼠を放ち、獲物を狩らせているようにしか見えぬ。」「自作自演だというのですか?」「いや、そうではない。先の怪文書についても、犯人はリューイではなく他に居ると考えた方が良い。アンヌ様に対して個人的な私怨を抱いている者が。」アリスティドは、羽根ペンを指先で弄りながら低く唸った。「ガブリエルお嬢様、奥様から手紙が届きましたよ!」「まぁ、お母様から?」 アンヌが異端審問所の冷たい地下牢にその身柄を拘束されてから三日が経った日の朝、ルイーゼから母の手紙を手渡されるとガブリエルの顔が後光を受けたかのように輝いた。「お母様は無事のようよ。異端審問官の方が、何かと親切にしてくださるそうよ。」「それは良かったですね。その異端審問官の名前は何と?」「アリスティド・・アリスティド様とおっしゃるんですって。」ガブリエルがそう言ってルイーゼに笑みを浮かべると、彼女は恐怖に顔を強張らせていた。「どうしたの、ルイーゼ?」「アリスティドは厄介な人物です、お嬢様。」「まぁ、それはどういう事なの?」「ええ、実は・・」ルイーゼが次の言葉を継ごうと口を開いた時、外が急に騒がしくなった。
2013年04月13日
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「おやおや、随分なご挨拶ですね。」 プラチナブロンドの前髪を鬱陶しげに掻き上げると、飄々とした口調でそう言ってユリウスを見た。対してユリウスはまるで汚物を見るかのような目で男―レオナルドを見た。元はスペインの片田舎にある修道院の僧侶だった彼が、何故父と行動を共にしているのかわからなかったし、彼は何処か胡散臭かった。「俺は貴様の事を信用していない。尻尾を振るのは父だけにしておくんだな。」「ユリウス!」息子の暴言に黙っていられなくなったのだろう、リューイが椅子から立ち上がろうとして腰を浮かしかけようとした時、レオナルドがそれを手で制した。「閣下、わたくしは気にしておりませんから、気をお鎮めください。」「ユリウス、お前には我慢ならん!今日こそは身の程というものを教えてやる!」「何をおっしゃるのかと思ったら・・もうわたしは鞭に怯える子どもではありませんよ、父上?」リューイの言葉を鼻で笑ったユリウスは、そう言って彼を睨みつけた。彼の顔は怒りでどす黒くなっており、今にも倒れそうになっている。「旦那様、宮廷から手紙が。」「寄越せ!」執事の手から手紙をひったくるように奪ったリューイは、蜜蝋(みつろう)をペーパーナイフで切った。「ほう、これは・・」「何が書いてあったのですか、閣下?」「アンヌが異端審問所で尋問を受けているそうだ。場合によっては拷問にかけられるらしい。」「それは朗報ですね。」「何が朗報ですか。無実の人間を異端審問にかけるなど・・」「貴様は青いな、ユリウス。生き馬を抜くような宮廷で、正攻法でアンヌに勝てる訳がない。」「だから自ら手を汚すと?確かにアンヌは手強い相手ですが、根拠のない罪をでっちあげるとは・・」「根拠のない罪だと?お前は何も知らないからそう言う事が言えるのだ。これを見れば、アンヌが何故異端審問所で尋問を受けているのかがわかるだろう。」リューイは小馬鹿にしたような笑みを口元に閃かせながら、ユリウスの前に一枚の書類を見せた。「これは・・」「わたしは敵には容赦しない。それがたとえユリウス―血を分けた息子であっても徹底的に叩き潰す。」「では、和睦を望まないと?」「無論だ。一度敵に情けを見せてみろ、お前が愛したミシェルはどうなった?」「・・失礼致します。」「青いですね。若様はまだ世間というものをご存知ないですね。」「あやつはまだ囚われているのだ、トルマリンの瞳を持った天使にな。」リューイはそう言うと、ワインを美味そうに飲んだ。 自室に戻ったユリウスは、机の引き出しからミシェルが生前愛用していたロザリオを取り出し、それに口付けた。(ミシェル・・)彼の脳裏には、自分の剣に貫かれ息絶える恋人の姿が浮かんだ。“憎まないで、自分のお父さんを。”「それは、無理だよミシェル。あいつとは決してわかり合うことができない。」
2013年04月13日
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アンヌが異端審問所へと向かうと、そこにはリューイの姿があった。「おやおや、誰かと思ったら・・」「今回もわたしを陥れようとしているのかしら?だとしたら無駄なことよ。」「それはわたしが決める事ではないよ、アンヌ。異端審問官が決める事だ。」リューイが何処か勝ち誇ったかのような笑みを浮かべるのを見たアンヌは、骨の髄まで凍るような寒さを感じた。「わざわざこちらにご足労いただき、ありがとうございますアンヌ様。」「お願い、何があったかわたしに納得できるように説明してくださらない?」「実はスペインから、このようなものが届いたのです。」異端審問官・ロベスは、そう言うとアンヌの前に一枚の封筒を差し出した。「これは?」「セビリヤの異端審問所から届きました。そこにはあなたが不義密通の罪と、ユグノー達を秘匿(ひとく)した罪で告発すると書かれています。」「不義密通の罪ならば、あれは陛下の誤解だとわかったでしょう?なのになぜまた蒸し返すの?」「それは・・」「あなたが、フランスを裏切る行為をしたかどうかを調べる為です、アンヌ様。」錆かけた鉄の扉が軋んだ音を立てて開き、切れ長の目をした痩せた男が入って来た。「あなたは?」「初めまして、アンヌ様。わたしはアリスティド=ノワールと申します。」「・・どうやらわたしをすぐには家には帰してはいただけないようね?」そう言ったアンヌは、寂しげな笑みを口元に浮かべた。「そんな、お母様が異端審問所に呼び出されるなんて・・」「奥様が、これをあなたに渡すようにと。」ルイーゼから話を聞いたガブリエルが絶句すると、彼女はアンヌが持っていた鍵を彼女に手渡した。「これは、お母様がいつも肌身離さず首から提げていたものだわ。」「もし自分に万が一のことが起きた場合、これを持って逃げろと奥様が。」「そう・・」ガブリエルはルイーゼから鍵を受け取ると、それを首から提げた。「ガブリエルお嬢様、きっと奥様は戻って来られますよ。」「そうね。きっとお母様は帰って来るわ。」ガブリエルはアンヌの無事を神に祈った。(どうか、わたしから母を奪わないでください・・どうか、母を助けてください!)「・・あの女、今度は無傷では済まされまい。」「そうでしょうね。前回は有耶無耶にされましたが、今回の事件ではあの女の罪を裏付ける証拠がありますから。」リューイは自室でワインを呑みながら、一人の男と話をしていた。その男は、セビリヤの酒場でビアンカの侍女と会っていた者だった。「父上、お呼びでしょうか?」「ユリウス、来たか。」リューイがそう言って息子を見ると、彼は父親の前に座っている男をキッと睨みつけた。「お久しぶりでございます、ユリウス様。」「レオナルド・・」ユリウスから己の名を呼ばれた男は、琥珀色の双眸を輝かせながら彼を嬉しそうに見ると、さっと椅子から立ち上がった。「またあなたにお会いできて光栄ですよ。」「俺に気安く触るな。」自分の手の甲に口付けようとする男を、ユリウスは邪険に突き飛ばした。
2013年04月13日
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「随分と遅かったね。」「申し訳ございません、人目につかぬよう回り道をしていたもので。」ビアンカの侍女・マリアはそう言って酒場に入ると、奥のテーブルに座っていた男に主からの手紙を手渡した。「ご苦労、これは君への報酬だ。」男はフードの下から金貨が入った袋をマリアに手渡した。「ありがとうございます。」「さぁ、人目がつかないうちに行くといい。わたしと会った事は奥様に内緒にしろ。」「わかりました。それでは、失礼致します。」 マリアはそそくさと酒場を後にすると、暗い森の中へと入っていった。彼女の背後に、男の影が迫っているとは知らずに。(ふふ、これで一生遊んで暮らせるわ。)マリアは袋にズシリと入った金貨の感触を確かめながら、彼女は笑いが止まらなかった。この金さえあれば、あんな我が儘でヒステリックなビアンカの下で働くて済む。あの手紙―アンヌを陥れる為にビアンカが認めたあの内容が白日の下に晒されることになれば、ビアンカもアンヌも無傷では済まされないだろう。我ながらいいことをしたと、マリアが笑いながら森を抜けようとした時、突然背中に熱が走った。(なに・・?)マリアの身体は急速にバランスを失い、近くの茂みの中へと倒れた。彼女は金貨が入った袋を探そうとしたが、見つからなかった。「誰か、助けて・・」掠れた声で彼女がそう叫ぼうとした時、男が握っていた剣が彼女の首を刎(は)ね飛ばした。「彼女はやったかい?」「はい。」 森の中から出て来た男に、マリアが酒場で会った男が尋ねた。「そうか。ではこれをお前にやろう。」「ありがとうございます、ご主人様。女の遺体はどういたしましょう?」「狼の餌にでもしておけ。どうせ取るに足らない女だ。」黒いマントの裾を翻すと、プラチナブロンドの髪を靡(なび)かせながら、男は森から去っていった。「奥様、宮廷からお手紙が!」「まぁ、騒がしい事。そんなに大声で怒鳴らなくても、わたしはここに居ますよ。」 いつものようにルイーゼに身支度を手伝って貰いながら、アンヌはエレオノールが掲げている手紙を彼女の手から取った。「さてと、陛下がわたしにどんなラブレターを認(したため)めてくださっているのかしら?」「まぁ、奥様ったら。」ルイーゼがクスクスと笑いながらアンヌとともに王からの手紙を読むと、そこに書かれてあったのはラブレターではなく、アンヌを異端審問にかけるという告知書だった。「この事を、お嬢様達に・・」「その必要はないわ、ルイーゼ。今回もすぐに帰ってくるから、心配要らないわよ。」「そうですか・・」 ルイーゼが心配そうにアンヌを見ると、彼女は何かを察したかのように首に提げていた鍵をルイーゼに手渡した。「万が一のことが起きたら・・これをガブリエルに渡しなさい。」「はい、奥様・・」
2013年04月13日
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「何ですって、あの女を陥れることに失敗したですって?」「はい、奥様。」「全く、宮廷に怪文書をばら撒いたら後は上手くいくと思っていたのに・・全然だめじゃないの!」 フランスから遠く離れたスペイン・セビリアにあるカスケーニャ男爵邸の一室で、その女主人・ビアンカがヒステリックに侍女達に向かって怒鳴っていた。「アンヌ様に誰も敵う筈はありませんわ、奥様。あの方はこちらよりも一枚も二枚も上手なのですから。」「お黙りなさい!もういいわ、出ていって!」「では、失礼致します。」侍女はそそくさとビアンカの部屋から出て行くと、溜息を吐いた。「どうしたんだい、溜息など吐いて?」「旦那様・・」侍女が廊下の角を曲がると、そこには当主のニコルが立っていた。肩まで切りそろえた金髪に、ルビーのような真紅の瞳を持った彼は、何かとヒステリックに自分達に怒鳴り散らすビアンカとは対照的に、物静かな性格だった。「もしかして、またビアンカに怒鳴り散らされたの?」「ええ・・」「わたしから言い聞かせておくから、君はもう仕事に戻りなさい。」「はい、では失礼致します、旦那様。」 侍女の姿が見えなくなったところで、ニコルは妻の寝室のドアをノックした。「ビアンカ、入ってもいいかい?」「あなた。」ニコルが寝室に入ると、案の定ビアンカはご機嫌斜めのようだった。「また侍女達にきつく当たっていたのかい?」「だって彼女達、役に立たないんですもの。これであの女を陥れることができたというのに・・」そう言って悔しそうに歯噛みする妻の姿を見て、ニコルは彼女が一体何を企んでいたのか察した。「ビアンカ、何故そうまでして姉上と張り合おうとしているんだい?」「だってあの女、わたくしのことをいつまで経っても認めようとしないじゃないの!わたくしはこんなに努力しているのに!」「姉上は弟のわたしにでさえ隙を見せない方だから・・」「そうやってあなたはお義姉様を庇うのね?もういいわ、出て行って!」「わかったよ。」ひとたびビアンカがヒステリーを起こせば、最早誰にも止めることができないと知っているニコルは、彼女の寝室から出て行った。 ビアンカは髪を櫛で梳きながら、ニコルの姉・アンヌと初めて会った日のことを思い出していた。アイスブルーの瞳で冷たく睨みつけた彼女は、開口一番ビアンカにこう言った。『どうしてニコルがこんな成り上がり者の女を妻にしたのかしら。』裕福な商人を父に持つビアンカは、常に父の事を誇りに思っていた。それだけに、アンヌの嘲りとも取れるべき言葉を、決してビアンカは忘れられずにいた。ニコルと結婚し、幸せな結婚生活を送っていても、ビアンカの心は何処か満たされずにいた。 それは全て、アンヌの所為だとビアンカは思いこむようになり、アンヌへの私怨を日に日に募らせていった。(あの女を徹底的に叩き潰す方法は、ないものかしら?) ビアンカは机の上に移動し、誰かに手紙を書いた彼女はその内容を何度も読み返した後、侍女を呼んだ。「これを例の者に届けなさい、いいわね?」「はい、奥様。」 誰にも姿を見られぬよう、頭からマントを深く被った侍女は、ビアンカの手紙を携(たずさ)えてある場所へと向かった。
2013年04月12日
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フィリフィスは暫くアンヌを見つめ逡巡した後、こう彼女に返した。「アンヌ様、お久しゅうございます。」「まぁ、憶えてくれていたのね、わたくしのことを。」アンヌがにっこりとフィリフィスに微笑むと、彼は愛想笑いを浮かべながらこう言葉を続けた。「アンヌ様の事は、忘れはいたしません。我が神学校に多額の寄付をしてくださった方ですからねぇ。」「まぁ、嬉しい事。それよりもあなた、どうしてルシリューと居るのかしら?」「そ、それは・・」アンヌの言葉を聞いたフィリフィスの目が微かに泳いだのを見逃さなかった彼女は、すかさず彼に追い打ちをかけた。「あなたが恩知らずだとは知らなかったわ、フィリフィス。」「陛下、わたくしは嘘を吐きました!」「おい、何を言い出すんだ!」予想外の事態に、リューイは激しく狼狽し、フィリフィスを睨みつけたが、もう遅かった。「実はわたくしは、フィリフィス様に脅されたのです!アンヌ様を陥れなければ、神学校を潰すと!」「黙れ、黙らぬか!」「陛下、お聞きになりましたでしょう?この怪文書の内容は事実無根のものだと、今この者が証明いたしました!」アンヌはそう声高に叫ぶと、勝ち誇った笑みをリューイに浮かべた。「ルシリューよ、そなたが日頃アンヌを蹴落とそうとしているのを余が知らぬとでも思っているのか?このような小細工に騙される余ではないぞ。」「陛下、わたくしは真実を申したまで・・」「黙れ、そなたの顔など見たくはない!」王の言葉を聞いた二人の屈強な近衛兵がリューイを謁見の間から引き摺りだした。「どうか陛下、わたしの言葉を聞いて下さい、陛下~!」「愚かな男、陛下の怒りも解けぬ内に己の嘘を真実として陛下に進言しようなど・・」「大儀であったな、アンヌ。」「いいえ。ではわたくしはこれで失礼致します。」アンヌは王に向かって腰を折ると、近衛兵とともに謁見の間から辞した。「どうやら、怪文書を宮廷にばら撒いたのはルシリュー殿に間違いないようですな。」「ええ、恐らくわたしを宮廷から追い落とそうとしているのでしょう。男の癖に姑息な手を使うこと。」「まったくです。ではアンヌ様、馬車までお送り致します。」「ありがとう。」宮殿の長い廊下を歩いていると、不意にアンヌは背後に視線を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。「アンヌ様、どうかなさいましたか?」「いいえ。今、誰かに見られたような気がしたのだけれど・・きっと気の所為ね。」「さぁ、こちらです。」アンドレとともに宮殿を出たアンヌは、馬車に乗り帰宅した。「お母様、ご無事だったのですね!」「ガブリエル、心配を掛けたわね。」 玄関ホールへとアンヌが入ると、ガブリエルが今にも泣き出しそうな顔をして彼女に駆け寄った。「近衛兵に宮廷に連れて行かれたと聞いて・・どうなることかと・・」「結局、陛下が誤解しただけだったのよ。さぁ、遅めの朝食を一緒に頂きましょうか?」「はい、お母様。」 母娘(おやこ)は手を繋ぎながら、ダイニングへと向かった。
2013年04月12日
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「それで?あなた方がうちに来た理由をそろそろ教えてくれないかしら?」 宮殿へと向かう馬車の中、アンヌはそう言って近衛隊隊長・アンドレを見た。「実は昨日、このような怪文書が宮廷に出回りました。」「見せて頂戴。」アンドレから一枚の羊皮紙を渡されたアンヌは、そこに書かれている文章を見て愕然となった。“アンヌは実弟との間に子を為している”「これを誰がばら撒いたの?」「そこまではわかりませんが、宮廷に出入りしている男だということはわかっております。それよりも、この怪文書が真実であるかどうか、陛下が直接アンヌ様にお聞きしたいと・・」「こんなもの、嘘に決まっているわ。わたしは神の教えに背く行為などしていない。その事は陛下も御理解して下さる筈。」「アンヌ様に限って、そのような間違いを犯す筈はないと、わたし達も信じております。」「それは嬉しいわね。」アンヌはアンドレから視線を外し、窓から外の景色を眺めた。凍てついた川にはところどころ氷が張っており、厳しい冬の寒さがまだ和らいでいない事をアンヌは知った。自分が抱えている秘密が露見し、白日のもとに晒されれば、自分の命はもとより、ガブリエルの命が危ない。何とか宮殿に着くまでに策を講じなければ―アンヌは、そう思いながら馬車の揺れに身体を委ねた。「アンヌ、忙しい中呼び出して済まなかった。」「いいえ陛下、わたくしの方こそお忙しい御身である陛下の手を煩わせてしまい、申し訳なく思っております。」 謁見の間で王に向かって優雅に腰を折って挨拶をしたアンヌは、懊悩(おうのう)を瞳の奥に宿した王が何を考えているのかを見極めようとしていた。「そなたをこうして朝早くに呼び出したのは他でもない、この怪文書に書かれていることが事実であるか否か、そなたに尋ねたかったのだ。」「恐れながら陛下、怪文書に書かれている内容はわたくしを貶(おとし)めんとする輩の誹謗中傷に過ぎません。わたくしは神に誓ってそのようなことはしておりません。」やや仰々しい仕草で白魚のような手を胸の前に置いたアンヌは、そう王に己の身の潔白を訴えた。「そうか、そなたがそう申すのなら余は何も言うまい。」「陛下、なりませぬ!事を有耶無耶にしては騒ぎを大きくさせるだけです!それに、こちらには証人が居ります!」アンヌを下がらせようとした王に意見したのは、彼女の宿敵であるリューイ=ルシリューであった。「証人だと?そのような者が居ると言うのは、まことか?」「左様でございます、陛下!この者がまさしくそうです!」自信満々の表情を浮かべたリューイは、背後に控えていた僧侶を己の前に突き出した。(あれは・・)「お初にお目にかかります、陛下。わたくしはフィリフィスと申します。」 そこに居たのは、かつて甥が生前通っていた神学校の校長・ピエールの愛人であり、神学校の実権を掌握し彼とともに悪事に手を染めていたフィリフィスであった。 アンヌはフィリフィスの登場とリューイの意図がわからなかったが、平静さを装ってフィリフィスを見てこう言った。「久しいわね、わたくしのことを憶えていて?」
2013年04月12日
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「申し訳ありませんけれど、嫁は体調を崩しておりまして。」「そうですか、ならば仕方がないですね。」マルセラが訪問してきた兵士達に応対している姿を窓から眺めながら、アンヌは彼らが王直属の近衛兵(このえへい)達であることに気づいた。(近衛兵達が、何故こんな早朝からわたくしのところに?) 主に王族や貴族の警護を担当する近衛兵が、自分の元にわざわざ訪ねて来るのはおかしい。王の命令ならば、普通は王の使者が手紙を携えて訪問する筈である。そうしないのは、何か非常事態が起きたからではないのか―そう思ったアンヌは、ルイーゼに着替えを手伝うよう命じた。「ルイーゼ、彼らが何者かわかる?」「いいえ。宮廷のことには疎くて・・」「あの者たちは、王直属の近衛兵達よ。」「では、奥様とお会いしたいという方は、国王陛下なのですか?」「ええ。けれど、わたくしはそうではないと思っているの。普通ならば、陛下は小姓か使者に手紙を渡してその者が我が家に訪ねて来る筈よ。それなのに、近衛兵達がわざわざ訪ねて来るのはおかしいとは思わなくて?」「そうですねぇ、確かにそう言われれば変ですね。」「とにかく、あの婆にいつまでも構っていられないわ。彼らが何の目的でここに訪ねて来たのか、その理由を聞かないと。」アンヌは化粧台の前に座り、鏡に映った己の顔を見た後素早くそこから立ち上がり、寝室から出た。「まだアンヌ様はいらっしゃらないのですか?」「ええ、もう暫くお待ちくださいな。」「お待たせしてしまって申し訳ないわね。」 なかなかアンヌが戸口に姿を見せぬので業を煮やし始めた近衛兵達に必死でマルセラが応対していると、当の本人が悠然とした様子で彼らの前に現れた。「アンヌ様、朝早くからそちらの都合も聞かずに伺ってしまい申し訳ありません。」「何かあったのでしょう、あなた方が直々にこちらにやって来ることなんて、滅多にないことですものね。」「ええ。申し訳ないのですが、宮殿へ至急お越しください。一大事が起こりました。」「そう。ではすぐに行くと陛下にお伝えして。」アンヌがそう言って彼らに背を向けようとした時、近衛兵達の中から一人の兵士が彼女の前に歩み出たかと思うと、突然彼女の腕を掴んだ。「一体何のつもりなの?」「アンヌ様はこのままわたしたちと一緒に来て頂きます。」「わたくしはすぐに宮廷へ参ると言った筈ですよ?それなのにあなた方はこのような無礼なことをするつもりなの?それは陛下のご意向なのかしら?」 兵士の腕を振りほどこうとしたアンヌだったが、彼は頑として彼女の腕を離そうとはしなかった。「アンヌ様をお放ししろ。」「しかし、隊長・・」「部下がとんだ失礼をいたしました、アンヌ様。わたくしに免じて彼をお許しください。」「いいでしょう。それよりも、宮殿へと向かうまであなた達の話を聞きましょうか?その方が宮殿よりも安全ですからね。」「では、こちらへ。お足元にお気をつけてくださいませ。」「わかったわ。」「アンヌ、これは一体どういうこと!?わたくしにもわかるように説明を・・」「あなたはその煩い口を閉じておいてくださいな。」 自分に詰め寄る姑をアンヌは睨みつけて黙らせると、近衛兵達とともに彼女は静かに馬車の方へと歩き出した。
2013年04月12日
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「おはようございます、ヴィクトリアス様。昨夜は良く眠られました?」「ええ。やはり久しぶりに高尚な集まりに顔を出したからでしょうな。」「そうでしょう?やっぱり楽しんでいただけたようでよかったわ。」ヴィクトリアスと楽しそうに話すガブリエルの顔は、どこか明るい。「おはよう、ガブリエル。」「おはようございます、お祖母様。どうなったの、お顔の色が少しお悪いですわ。」「ええ、昨夜は鼠(ねずみ)が走り回る音と埃が舞う部屋に居てなかなか眠れませんでしたからね。一体、アンヌはわたしを何だと思っているのか・・」「まぁまぁ母上、もう昨夜の事は忘れて下さい。さぁ、腹がそろそろ減ってきたところでしょう。」マカリオが何とかご機嫌斜めのマルセラを宥めると、朝食を食べた。「それよりも姉様、ヴィクトリアス様と音楽会に行かれたのですって?」「ええ。とても素晴らしい集まりだったわ。」「そうでしょうねぇ。何せ姉様は王妃様のお気に入りになられたんですもの。楽しくて仕方がなかったでしょう?」やっかみにしか聞こえないジュリアーナの言葉を、ガブリエルは平然と聞き流した。「ルイーゼ、お母様に食事を運んで頂戴。」「はい、かしこまりましたガブリエルお嬢様。」ルイーゼはさっとダイニングから出て行くと、厨房の中へと入った。「奥様の朝食はもう準備ができてるかい?」「ああ、持っていっておくれ。」慎重に朝食を載せたトレイを持ったルイーゼは厨房を出て二階へと上がると、廊下の奥から物音が聞こえた。(何だろう、鼠かね?)ルイーゼはその物音に大して気を留めず、アンヌの寝室のドアをノックした。「奥様、朝食をお持ちいたしました。」「ありがとう。」寝台から起き上がったアンヌは、どう見ても元気そうだった。「ガブリエルに頼まれたの?」「ええ。ガブリエルお嬢様は、どうやらヴィクトリアス様と上手くいっていらっしゃるようですね。」「そう思う?あの二人はお似合いだと思うのよ。」「でしょうね。あたしはここに勤め始めてからまだ日が浅いのでお二人の関係は詳しくは存じ上げませんが・・この前よりも少しぎこちなさがなくなったような気が致しますね。」「恋ね、きっと。二人は両想いなのよ。」「それは良かったですねぇ。でも、昨夜の事件は一体誰の仕業なんでしょう?」「そんなこと、気にする必要はないわ。きっと犯人は現れる筈よ。わたしにはわかるの。」アンヌはそう言うとフッと口端を歪めて笑った。その時、外が急に騒がしくなった。「何かしら、こんな朝早くに。」「さぁ・・」「アンヌ、此処から出て来なさい、早く!」ドアの向こうで姑の金切り声を聞いたアンヌは、思わず顔を顰(しか)めてしまった。「わたしは体調が悪いと言っておいてね。」「わかりました。」ルイーゼは寝室のドアを開け、マルセラの前に立った。「申し訳ありませんが、奥様は御気分が優れません。」「あらそう!どうやらわたくしとは話したくないようね!」マルセラは乱暴にドレスの裾を払うと、ルイーゼに背を向けた。「ふぅ、婆の相手は疲れるわ。お前もそう思わない事?」「ええ、本当に・・」アンヌは悪戯っぽくルイーゼを見つめた後、クスリと笑った。
2013年04月11日
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「いいえ、あたし達は何も話してませんよ。」「え、ええ・・」慌てて話を逸らそうとしたルイーゼとダニエルだったが、そんなことで簡単に誤魔化されるジュリアーナではなかった。「もしかしてあなた達、わたしがガブリエル姉様に嫌がらせをしたと思っているの?」「ええ。それで、お嬢様は本当にやっていないんですよねぇ?だとしたらあの笑顔は一体どういう意味なのでしょう?」「馬鹿言わないで!わたしがいくら姉様が嫌いでも、あんな事はしないわ!それにね、昨夜お前に笑って見せたのは、姉様が少し困っているのを見て嬉しくてつい笑ってしまっただけよ。」「そうですか・・」(なぁにが、“穏やかで優しい”だ!やっぱり猫かぶってたんじゃないか!)自分の勘はやはり間違っていなかった。ジュリアーナはエレオノールが褒め称えるほどの令嬢ではなかった。寧ろ、宮廷人に向きそうな人種である。陰険で狡猾で、決して自分の手を汚さない策士―それらの素質がジュリアーナにはある。「そうですか。誤解してしまって申し訳ありませんでした。」「わかればいいのよ。それよりも聞いた?ガブリエル姉様が、王妃様の目に留まられたこと!」「まぁ、そんな事がおありになられたんですか?」ルイーゼが自分の言葉を聞いて顔を輝かせるのを見たジュリアーナは、憮然とした表情を浮かべた。「お母様、わたしが宮廷に上がりたいと言ったら、“まだ早い”と言って一蹴したというのに、姉様だけは特別扱いだわ!これって、不公平じゃないの!」「さぁ、わたくしたちには奥様のお考えはわかりかねます。ダニエル、ぼさっと突っ立ってないで、さっさと仕事に戻りな!」「ちぇ、わかったよ。」ダニエルはわざと舌打ちして厨房から出て行った。「ジュリアーナお嬢様、これで二人きりでお話ができますわ。さぁ、お嬢様がおっしゃりたいことをあたしにおっしゃってくださいな。」「そんな事言って、あなた姉様にわたしが言ったことを漏らすんじゃないでしょうね?」「いいえ、あたしは口が堅いんです。」「そう、ならば今から言う事はお前の胸にしまっておいて。」「はい、わかりました。」「そう・・」ジュリアーナは少し安心しきったような表情を浮かべると、ルイーゼの耳元で何かを囁いた。「では、わたしはこれで。」「お祖母様は待たされることが嫌いな方だから、仕事は早くして頂戴ね、頼んだわよ。」ジュリアーナはツンと胸を反らしながら厨房から出て行った。(・・やっぱり、あの子が犯人だったとはね。しっかし、同じ腹から生まれた姉と妹でも、こうも性格が違うのかね・・) ダイニングで食器を並べながら、ルイーゼは思わず溜息を吐いた。「どうしたの、ルイーゼ?何か心配ごとでも?」「いいえ、何でもありませんよガブリエルお嬢様。それよりも奥様は?」「お母様なら、頭痛がするといって部屋で休まれているわ。本当のところ、お祖母様と朝食を頂くのが嫌なのよ。」ガブリエルはそう言って笑いながら、椅子の上に腰を下ろした。「やはり奥様とマルセラ様は仲が悪いのですか?」「ええ。お母様とお祖母様は仲が悪いというより、互いに憎しみ合っているのよ。」「ガブリエル様、こちらにおられましたか。」ダイニングにヴィクトリアスが現れると、ガブリエルは彼に笑顔を向け椅子から立ち上がった。
2013年04月11日
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「絶対にガブリエルお嬢様の寝台に鳥の死骸を置いたのはジュリアーナ様だよ、間違いない!」「何故そう決めつけられるのよ?ジュリアーナお嬢様は虫を触るのも怖がられるお方なのよ?ましてや鳥の死骸なんて触れる訳がないでしょう!」 翌朝、ルイーゼがガブリエルの寝台に鳥の死骸を置いたのはジュリアーナだと断言すると、エレオノールはすぐさま反論した。「けれど、あの方はガブリエルお嬢様を目の敵にしているじゃないか!」「ジュリアーナお嬢様はお優しいお方です!」「ふん、どうだか。本性をひた隠しているだけなんじゃないかい?」「あらルイーゼ、ジュリアーナお嬢様を疑う前に、あなたのお仲間のことを疑ったらどうかしら?」「どういう意味だい、それは?」ルイーゼがじろりとエレオノールを睨み付けると、彼女は負けじとルイーゼを睨みかえしながらこう言った。「あなたのお仲間―ダニエルって子が、鳥の死骸を置いたんじゃなくて?だってあの子、ガブリエルお嬢様の事を嫌っているもの。それに、山暮らしのユグノーならば鳥の死骸に触ることくらい平気でしょうよ。」「言っておくが、あいつはそんな陰湿な嫌がらせを考えつくような子じゃないよ。」「ふん、どうだか。ジュリアーナお嬢様とは違って、気性の荒い山猿のような子・・」エレオノールの言葉が終わらない内に、ルイーゼは彼女の横っ面を平手で打っていた。「何をするのよ!」「黙れ!あたしの仲間を馬鹿にしたらタダじゃおかないよ、このアマ!」「よくもやってくれたわね、このクソ女!」二人の女達は仕事そっちのけで、互いの髪を掴み合うほどの激しい喧嘩を始めた。「・・随分と酷くやられたね。何もあの女の言う事に腹を立てなくてもよかったじゃんか。」 ダニエルはルイーゼの頬に残る青痣に軟膏(なんこう)を塗りながらそう言うと、彼女はダニエルの頭を軽く小突いた。「いてっ!」「あたしはあんたが悪く言われるのが許せなかったんだよ。まぁ、あたしもジュリアーナお嬢様の事を散々罵ったから、おあいこだけどね。」「ジュリアーナって、ガブリエル様の妹君の?何だってまた・・」「昨夜あたしがガブリエル様の寝台に置かれた鳥の死骸をシーツごと丸めて外へと出ようとしたら、ジュリアーナ様と偶然目が合ったのさ。そしたらあの子、笑っていやがったんだ。」「ふぅん、そんなことがあったんだ。だとしたら、ルイーゼは今回の事件はあの子が犯人だって思ってるんだね?」「まぁね。ダニエル、あんたまさかガブリエル様にあんな陰湿な嫌がらせなんてしてないよね?」「する訳ないじゃん!ルイーゼも俺の事疑ってんの?」ダニエルは少しムッとしたような顔をすると、消毒薬を染み込ませた布をわざと強めにルイーゼの顔に押しつけた。「痛た、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。あんたはあたしの弟だ。弟を疑う訳ないだろう?」「そうだね。それにしても、あいつは何処?そろそろ起きてくる時間なんだけどなぁ・・」「あらぁ、わたくしを呼んだかしら?」 神経を逆撫でするかのような声が聞こえ、二人が振り向いた時、丁度厨房にジュリアーナが入ってくるところだった。「二人でコソコソと、何を話していたのかしら?」
2013年04月11日
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「用意は出来たの?」 ルイーゼとガリウスが悪戦苦闘の末、部屋の掃除を終了させたのは、時計の針が12時を打った頃だった。「はい奥様。」「遅くまでご苦労だったわね。もうお休みなさい。」「では、俺達はこれで失礼致します。」階下の使用人部屋へと向かう彼らと入れ違いに、マルセラが階段を上がって来た。二人は彼女に目礼すると、マルセラは鼻を鳴らして奥の寝室へと向かっていった。「いけすかねぇ婆だな。」「ホント。奥様が嫌う理由がなんとなくわかったような気がするよ。」使用人部屋に入ろうとしたルイーゼがそう言った時、マルセラの怒鳴り声が聞こえた。「一体何ですか、この部屋は?まるで物置部屋じゃないの!」「まぁ、物置部屋とは失礼な。お義母様の為に用意した部屋ですのよ。」アンヌは憤然とした様子の姑を冷たく見下ろしながらそう言うと、踵を返した。「待ちなさい、何処へ行くつもり!?」「わたくし、疲れたからもう休みます。そんなに用意されたお部屋がご不満ならば、廊下で寝て下さいな。」「ちょっと、まだ話は終わっていなくてよ!」姑の怒鳴り声をもう聞くつもりがなかったアンヌは、後ろ手で寝室のドアを閉めると、寝台に横たわった。「奥様、失礼致します。」「誰?」「ルイーゼです。」「入って。」「失礼致します。」 ルイーゼがアンヌの寝室に入ると、まだ彼女は夜着に着替えていなかった。「あのう・・」「ああ、さっきの会話を聞いたのね?あの人はわたしに難癖をつけるのが好きなのだから、気にしなくていいのよ。それと、彼女の身の回りの世話はしなくてもよろしい。」「ですが奥様、それだと余計ヤバいのでは・・」「突然何の連絡もせずにやって来る客人は、迷惑でしょう?まぁ義母には早々にローマにお帰りいただくことになるわ。ルイーゼ、下へ行って水を汲んで来て頂戴。白粉を取りたいの。」「かしこまりました、奥様。」 ルイーゼはアンヌの寝室から出て井戸で水を汲んでいると、ガブリエルの寝室の方から悲鳴が聞こえた。「お嬢様、どうかなさいましたか!」急いで二階に上がったルイーゼがガブリエルの寝室のドアを叩くと、中から恐怖に顔をひきつらせたガブリエルが中から飛び出してきた。「一体何があったのです?そんなに怯えて・・」「さっき眠ろうとしたら・・ベッドに、鳥の死骸が・・」ルイーゼの胸に顔を埋めながら、ガブリエルは震える手で寝台を指した。「あたしが見て来ますから、ここを動かないでくださいね。」ルイーゼはそう言うとガブリエルの寝室の中に入った。 寝台の方に近づくと、確かにその上には内臓を引き裂かれた鳥の死骸があった。しかも死後数週間は経っているようで、死骸からは蛆が湧き始めていた。「ガブリエル、一体どうしたの?」「奥様、お嬢様のベッドに何者かが鳥の死骸を・・」「すぐにシーツを鳥の死骸ごと焼き捨てなさい。」「かしこまりました。」ルイーゼは素早く鳥の死骸をシーツで包み、それを両手に抱えて外へと出ようとした時、騒ぎを聞きつけたジュリアーナがドアの隙間から顔を出した。 ルイーゼと目が合った彼女は、何処か満足気な笑みを浮かべてドアを閉めた。
2013年04月11日
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「アンヌはまだ帰って来ないの?」「ですから母上、アンヌは今日は王妃様主催の音楽会に出席していると申した筈でしょう。一体何の用でこちらにいらしたのですか?」「それはお前に話しても無駄です、早くアンヌをここへ呼びなさい!」「まぁ、わたくしが何ですって?」 マルセラがなかなか自分の前に姿を現さない嫁に対して苛立ちを募らせていた時、廊下からアンヌの声が聞こえて来た。「奥様、奥に旦那様のお母様がいらっしゃって・・」「まぁ、お義母様が?珍しいこと、こちらにはてっきり来ないのかと思っていたわ。」 着替えもそこそこにアンヌがダイニングへと姿を現すと、そこには憤怒の表情を浮かべたマルセラが自分を睨みつけていた。「お義母様、どうなさったのです?そんなに恐ろしい顔をなさって・・何かあったのですか?」「アンヌ、あなた一体どういうつもりなの!ドルヴィエ家の跡継ぎを産まぬとは!」「まぁ、お言葉です事、お義母様。わたくしにはガブリエルという跡継ぎがおりますわ。いずれあの子はヴィクトリアス様と結婚させ、この家を継がせますわ。」「ビアンカに聞いたのですよ、お前は人の道に外れたことをしたのですって!?」「まぁ、あの成り上がり娘がそのような世迷言を。どうやらわたくしは弟の結婚相手を選ぶことに失敗したようですわね。」アンヌは飄々とした口調でそう言ったが、アイスブルーの瞳は怒りで滾(たぎ)っていた。「それで?どのようなことをあの女がお義母様に吹き込んだのです?」「それは、余りにも恐ろしくてこの場では言えやしないわ!」「それならばお帰り下さいな。生憎、あなたの為に部屋を用意する時間はありませんから。」「まぁ、冷たい女だこと!」「・・なぁ、止めなくてもいいのか?」「いいんじゃない、あたしらが入ったら余計ややこしくなるよ。」「けどよぉ・・」 ダリウスとルイーゼがダイニングの会話に聞き耳を立てていると、突然ダイニングの扉が開き、こめかみに青筋を立てたアンヌが二人の前に現れた。「お前達、すぐに二階に行って奥の寝室を掃除なさい。ルイーゼ、うちの義母(はは)は神経質だから、念入りに埃を払うのですよ。いいわね?」「はい、かしこまりました奥様・・」「ダリウス、お前は暖炉の掃除をお願いね。まぁ老い先短いあの人が寒さに凍えてもわたくしは気にはしないけれど、一応力仕事に自信があるお前に頼んでおくわ。」「へい、それじゃぁ俺達はこれで。」「頼みましたよ。」アンヌはくるりと二人に背を向けると、ダイニングの中へと戻っていった。「どうやらあの様子じゃ、泊まるみたいだな。」「結構奥様とあの婆の仲は悪いと見たね。まぁ、嫁と姑ってのは仲が悪いもんだけどね。」 マルセラが使う寝室の床を拭きながらルイーゼがそうこぼすと、ダリウスは彼女の言葉に相槌を打った。「まぁ、これからひと悶着起こりそうだよなぁ。あの婆は結構我が強そうだし、奥様もかなり気が強いしな。さてと、あの婆が来る前にさっさと片付けておこうか!」ダリウスは口元を布で覆いながら、暖炉の中に腕を突っ込んだ。すると、そこから大量の石炭の燃えカスがもうもうと黒煙を巻き上げながら出てきた。「ちょっと、何すんだい!」「おお、済まねぇな。」このままだと暖炉の掃除は夜明けまでかかりそうだ―ルイーゼはそそくさと塵取りと箒を持って来て石炭の燃えカスを掃き集め始めた。
2013年04月10日
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「ヴィクトリアス様、待ってください!」「おや、わたしの顔は見たくないと思っていたのに。」ヴィクトリアスはクスクスと笑いながら、ガブリエルの方へと振り返ると、そこには息を切らしたガブリエルが立っていた。「わたくし、あなたにお話しなければいけないことがありますの。」「ほう、それはどんなことかな?」「わたくし、あなたが好きです!」ヴィクトリアスの目が驚愕で見開かれるのを見たガブリエルは、言葉を続けた。「はじめはあなたのこと、誤解してました。悪魔のように恐ろしい方だと。でも今は違う。あなたに段々惹かれていく自分に気づいてしまったのです。こんなわたくしを、愛してくれますか?」「・・馬鹿なことを。」ガブリエルの告白を聞いたヴィクトリアスは、そう言ってフッと笑った。「わたしも、あなたの事を誤解していた。気位が高くて世間知らずの令嬢と。しかし、わたしもあなたに惹かれてゆく自分に気づきました。ガブリエル様、こんなわたしでも愛してくれますか?」「ええ。」月明かりの下、二人は口付けを交わした。互いに想いが通じた瞬間だった。「もう、わたくしは必要ないわね、ガブリエル。」二人の様子を木陰から見ていたアンヌはそう呟くと、中庭を後にした。「アンヌ様、お久しぶりですわ。お元気そうで何より。」「まぁアレクサンドリーネ様、お久しぶりですわね。あなたの隣にいらっしゃる方はどちら?」「アレキサンダーとおっしゃるの。さっき知り合ったばかりだったのですよ。」「そうですの。」「お母様はどちらにいらっしゃるの?」「さぁ、陛下に呼ばれたとか・・」アンヌがそう言った時、広間に武装した兵士達が入って来た。「きゃぁ!」「何ですの?」「一体これは・・」貴婦人達が怪訝そうに兵士達を見ながら囁きを交わしていると、彼らはアンヌの方へと近づいて来た。「アンヌ様、申し訳ありませんがわたし達と来ていただけないでしょうか?」「何の用かしら?ここを王妃様主催の音楽会だと知っての狼藉なのかしら?」アンヌは不快そうに兵士達を見つめると、彼らは一瞬たじろいだ。「あなた達、理由も言わずにアンヌ様をどこへ連れて行くつもりです?無礼にも程があるでしょう!」「申し訳ありません、では日を改めて。」兵士達はアンヌに頭を下げると、大広間から出て行った。「一体何なのでしょう?」「さぁ・・それよりも音楽会に水差してしまって申し訳ないですわ。」「いいえ、そんなこと誰も気にしませんわ。ねぇ、皆さん?」アレクサンドリーネはちらりと貴婦人達を見ると、彼女達は慌てて彼女の言葉に頷いた。「さぁ、これから仕切り直しですわ。楽師たち、賑やかな音楽をお願い!」 アレクサンドリーネの機転により、兵士達の乱入で少し気まずい空気となっていた大広間の空気は、再び音楽と人々のざわめきで賑やかになった。「お母様。」「ガブリエル、そろそろお暇いたしましょう。今夜は何だかはしゃぎすぎてしまったわ。」「そうですわね。それよりも先程、騒ぎがあったようだけど・・」「気にしないでいいわ。さぁ、帰りましょう。」「はい、お母様。」 アンヌ達を乗せた馬車が宮廷を出て帰路に着こうとしている頃、ドルヴィエ邸では気まずい空気の中マカリオとマルセラが遅い夕食を取っていた。
2013年04月10日
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「まぁ、王女様・・」「アレクサンドリーネ様、こんばんは。」令嬢達はさっとアレクサンドリーネに道を開けると、そそくさとまた噂話を始めた。「ふん、飽きない人達だこと。」「ええ、本当に。」今日のドレスは赤毛の美しさが目立つよう、シンプルな緑のドレスを纏っていた。「これはアレクサンドリーネ様、お美しい。」一人の青年貴族がそう言って自分に声を掛けて来たので、アレクサンドリーネは自然と胸を張って誇らしげな表情を浮かべた。「あら、そうかしら?」「ええ。あなた様の美しい御髪が目立って、まるで上質のルビーのようですよ。」「ありがとう、そんな事を言ってくださるのはあなただけだわ。一緒に踊らない事?」「ええ、喜んで。」今まで自分の赤毛に対して激しい劣等感を抱いていたアレクサンドリーネだったが、この青年貴族との出会いで、彼女の中で何かが変わり始めていた。「あら、あれは・・」「アレクサンドリーネ王女?」アレクサンドリーネ王女の姿に気づいたガブリエルとヴィクトリアスは、さっと踊りの輪から外れ、アレクサンドリーネ王女に頭を下げた。「あらガブリエル、御機嫌よう。」「王女様、今夜はとてもお美しいですわ。」「ありがとう。そちらの方は?」「これはわたくしの許婚の、ヴィクトリアス=カルディナーレ様ですわ。」「お久しぶりでございます、アレクサンドリーネ王女。」「まぁ、久しぶりだこと。」「ヴィクトリアス様、王女様とはお知り合いで?」「ああ。カディスに行った時、王女様とお会いしてな。」「あなたの勇猛果敢な戦いぶりはフランスの貴婦人達が熱を上げておられますよ、ご存知かしら?」「そうなのですか・・お恥ずかしながら、わたしは世間からどのような目で見られているのか知らなくてね・・」「まぁ、ご謙遜を。」 アレクサンドリーネとヴィクトリアスが親しげに話している様子を見ていたガブリエルは、何だかアレクサンドリーネに嫉妬してしまった。 ヴィクトリアスのことを、ガブリエルは詳しく知らない。何処で生まれ、どんな家庭に育ち、戦場でどのように戦ったのか。“許婚”といっても、母・アンヌが決めたことで、知り合った頃よりも若干彼とは打ち解けたものの、未だに彼との心の距離が縮まらないのは確かだ。「それでは、これで。」「ヴィクトリアス様、アレクサンドリーネ様とのお話は済みましたの?」「ええ。どうしましたか、ガブリエルさん?まさか、嫉妬していたのですか?」「そんなことは、ありませんわ。」「そうですか。」ヴィクトリアスはそう言うと、ガブリエルを見た。ガブリエルの顔は、羞恥で赤くなっていた。「もう少し、素直になられてはいかがです?」「どういう意味でしょう?」「それは、あなたご自身がわかる筈です。」まるで謎かけのような言葉をガブリエルに投げつけると、ヴィクトリアスはガブリエルの前から去っていった。「変な方ね、ヴィクトリアス様って。」ガブリエルはそう呟くと、ドレスの裾を摘み慌ててヴィクトリアスの後を追った。
2013年04月10日
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「母上、一体どうなさったんです?アンヌは今留守ですよ?」「まぁ、ローマからはるばる姑が来たというのに、何と無礼なこと!」女はそう言って足で大理石の床を踏み鳴らすと、マカリオを睨みつけた。「母上、落ち着いてください。」突然ローマからやって来た母・マルセラに面食らいがらも、マカリオは女中達に食事の支度をするよう命じた。「何なんだい、あの婆さん?」「さぁ。何でも奥様を訪ねていらしたとか・・」「あの婆さん、旦那様の母様だってよ。だから顔が似ている訳だ。」ルイーゼとガリウスは厨房の扉から食堂を覗きながらそう言っていると、エレオノールが彼らに声を掛けた。「あなた達、ここで油を売っている暇があったら、仕事して頂戴!」「へぇへぇ、わかったよ。」「ったく、人使いが荒いったらありゃしない。」彼らはぶつくさ言いながら、それぞれの持ち場へと戻っていった。「ねぇ、あの男が握ってたメモには何て書いてあったんだい?」「あいつの正体は、奥様を殺そうとした暗殺者だった。恐らく奥様に渡すようお前に手渡したこれは、誰かの指示書だろうな。」「そうかい。だったら、暫くこの事は秘密にしておいた方がいいね。今、うちには厄介な客がいるし。」「そうだな。」「また時間があったら話すことにしよう、ダリウス。今は仕事しないとね。」ルイーゼはそう言うと、そそくさと二階へと上がった。 一方、宮廷で開かれている音楽祭は、盛況だった。「アンヌ、今日はいらしてくれてありがとう。」「礼を言うのはわたくしの方ですわ、王妃様。わたくしのような者をこのような場に招いて頂き、光栄に思っております。」アンヌは王妃に向かって優雅に腰を折ると彼女に微笑んだ。「そういえば、あなたの娘さんはどちらに?今夜は一緒にいらしたのではなくて?」「ああ、ガブリエルならあそこに。」アンヌが指した先には、楽しくダンスを踊るヴィクトリアスとガブリエルの姿があった。「まぁ、あの方が天使の心を射止めた殿方ね。」「いいえ、ヴィクトリアス様の方がガブリエルに惚れておりますの。はじめはぎこちなかったようですけれど・・恋愛というものは、わかりませんわね。」アンヌはそう言うと、口元を扇子で覆い隠して上品に笑った。「そうね。」「王妃様、そろそろお時間です。」「そう。ごめんなさいね、アンヌ。今夜は陛下に呼ばれているの。」「そうですか。ならば仕方ありませんわね。」 王妃の姿が大広間から見えなくなるまで彼女を見送ったアンヌは、ゆっくりとガブリエル達の方へと歩いていった。「ヴィクトリアス様は、ダンスがお上手なのですね。」「そうでもない。長い間船上生活を送っていた所為か、宮廷のことには疎くてね。」「わたくしも同じですわ。ほらご覧になって。あちらの雀たちが何やらわたくしたちのことを話しているようですわ。」ガブリエルはそう言うと、隅の方に集まって噂話に興じている令嬢達を見た。「まぁ、ご覧になって。」「ヴィクトリアス様は素敵ね。」「本当に。ガブリエル様と踊っているお姿は、まるで絵画を見ているようだわ。」 令嬢達が二人の美しさを褒め称えていると、そこへアレクサンドリーネ王女が侍女を引き連れてやって来た。
2013年04月10日
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気がつけば一日中、パソコンの前に座っています。余り根詰めないようにしなければね。
2013年04月09日
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「あんた、あたしかられあを取り上げる気ね!?」「あなた方が彼女にしていることはネグレクト、立派な虐待です。彼女の健康を損ね、養育を放棄したことについてはもう児童相談所に連絡してあります。もし離婚となったら、親権は兄に渡ります。」 今にも自分をタクシーから引き摺り下ろし暴行を加えようとせんばかりの亮子を前に、千尋は毅然とした態度で彼女に事実を話した。「出して下さい。」「ちょっと、待ちなさいよ!」亮子は千尋が乗っているタクシーを追い掛けようとしたが、肥満体なので少し走っただけでも息切れがした。「亮子、どうしたとね?」「お母さん・・あいつが、うちかられあを奪おうとする~!」玄関先で騒ぎを聞きつけた美津子が家から飛び出すと、亮子が泣きながら自分に抱きついて来た。「聡史さんも千尋ちゃんも困ったもんやねぇ。家庭内の揉め事なのに大袈裟にして・・」「お母さんどうしよう~、れあが・・」「心配せんでよか。お父さんとお母さんが何とかしちゃるけんね。」娘の頭を撫でながら、美津子は彼女を安心させるように優しくそう言うと、そのまま彼女と共に家の中へと入っていった。 熊本駅でタクシーを降りた千尋は、そのまま東京行きの新幹線に乗った。「済まないな、千尋。こんなにおおごとになるとは思いもしなかったんだ。」「仕方がないよ。お義母さんとお義姉さんの意識が変わらない限り、麗空ちゃんは一生あのままになってたかもしれないよ。少し酷だけど、こうするしかないんだよ。」新大阪に着いた頃、千尋の隣に座っていた聡史は済まなそうに弟に向かって頭を下げた。「でもな千尋、もし亮子達が麗空を取り戻しにお前のマンションに乗り込んできたらどうする?」「その時はまた考えるよ。」千尋はそう言うと、背もたれに身体を預けた。「ご迷惑をお掛けしました。」「千尋ちゃん、大変だったね。」 一週間ぶりに千尋が出勤すると、総司が彼の方へと駆け寄ってきた。「お兄さん夫婦は、今どうなってるの?」「まだ進展がありませんが・・近い内に離婚するかもしれないと、電話がかかってきました。あの、麗空ちゃんの様子は?」「ああ、あの子なら・・」総司が麗空の様子を千尋に報告しようとした時、小児科の看護師が二人の元に駆け寄ってきた。「大変です、あの子また暴れて手がつけられません!」「え、またなの!?これで何回目?」総司は半ば呆れたような顔をしながら、小児科病棟へと向かった。「いや~、おうち帰る!」 麗空の病室に入った千尋は、そこで暴れて手当たり次第に物を掴んで看護師に投げつける姪の姿を見た。「麗空ちゃん、落ち着いて。」「いや~!」暴れる麗空を宥めようとした千尋だったが、彼女は憎々しげに千尋を睨み付けると、彼の腕を噛んだ。「おじちゃんきらい~、ママに会いたい!」「麗空ちゃん、悪い子にしてたらママに会えないよ!」「いやぁ~、ママに会いたい、ママ~!」何とか三人かがりで麗空をベッドに寝かせると、彼女は次第に落ち着きを取り戻し、寝息を立てて眠ってしまった。「大丈夫、千尋ちゃん?」「ええ。」 くっきりと腕に残る麗空の歯形を見て、彼女を傷つけたのは自分なのだと千尋は罪の意識を抱いた。にほんブログ村
2013年04月09日
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姪・麗空(れあ)が緊急入院したことにより、千尋は彼女の看病で当分仕事を休まなければならなくなったので、職場に連絡した。『そう。早く姪っ子さん、よくなるといいわね。』「すいません・・」『こっちは心配しないでね。』「それでは、失礼致します。」病院の廊下に置いてある公衆電話の受話器を置くと、千尋は兄夫婦と亮子の両親が集まっている多目的室へと入った。「千尋ちゃん、話って何ね?」 千尋が部屋に入ると、泣き腫らした目で自分を睨む亮子の背中を擦りながら、美津子はそう言って彼を見た。「麗空ちゃんの容態ですが、余り思わしくないようです。腎機能が低下して、最悪の場合人工透析になるかもしれないと・・」「なんね、麗空をあんなふうにしたのはうちらが悪いと言いたいんね!?」「お義母さん、お義姉さん、落ち着いて聞いて下さい。麗空ちゃんは2歳児の標準体重よりも遥かに上回っている体重でしたし、コレステロール値も成人並みの高さです。このままだと、彼女は死ぬかもしれません。」千尋の言葉を聞いた美津子と亮子が息を呑み、驚愕の表情を浮かべた。「暫く麗空ちゃんをわたしに預からせていただけないでしょうか?食生活の改善をしなければ彼女の命はありません。」「あんた、もっともらしいこと言うようやけど、うちかられあを取り上げるつもりやろ?」亮子はそう言うと、持っていたペットボトルを千尋に投げつけた。「やっぱりあんたは信用できん!れあはうちが育てる!」「落ち着けよ、亮子!千尋は・・」「あんた、どっちの味方なん?うちと弟と、どっちが大事なんよ!」「今そういう話をすべきじゃないだろう!俺達の娘の事を話してるんだ!」興奮した聡史はそう言うと椅子から立ち上がった。「お前達親子を見ていると、どうして麗空が病気になったのかがわかるよ!いつも出前やファストフードの料理ばかり食べて、コンビニやスーパーで山ほど菓子を買って来ては間食して・・それで健康を損なわない方が異常だよ!」「聡史さん、うちの方針に口を出さんで!あんたは太ってる方が幸せやと言うのがわからんの?」「お義母さん、それは間違った考えです!その考えで麗空が将来結婚して子供を産んだらどうなります?間違った考えを正さないと!」「うちの何が間違っとると!?」「そうよ、あんたはうちらのやり方を否定すると?」すっかり興奮状態にある亮子はそう叫ぶと、聡史の頬を平手で打った。打たれた勢いで、彼の身体は壁際まで吹っ飛んだ。「もう離婚よ、あんたとは!れあは絶対に渡さんからね!」「亮子、この人らの言う事聞いたらいかん!」「待って下さい、二人とも!」ちゃんと美津子達と話をしたかったのだが、話をするどころか彼女達は聞く耳を持たずに部屋から出て行ってしまった。「千尋、どうすればいいんだ?もうあの人達は手に負えないよ・・」「仕方ないですね。こうなったら強硬手段を取るしかありません。」千尋は話し合いが決裂した時に考えていた計画を聡史に話した。「それでは、お願い致します。」「わかりました。」麗空の転院手続きを済ませると、病院を出た千尋はその足で亮子の実家へと向かった。「あんた、今更何の用ね?」「荷物を取りに来ただけですから、お気づかなく。」千尋は自分に食ってかかろうとする亮子を無視して、麗空の部屋へと向かった。スーツケースに彼女のお気に入りの絵本やおもちゃ、着替えなどを詰め込み終えた彼は、家の前に待たせてあったタクシーに乗り込んだ。「熊本駅まで。」タクシーが発車しようとした時、亮子が鬼のような形相を浮かべて窓を叩いてきた。「あんた、麗空を何処へやったと!?」「麗空ちゃんなら、東京の病院に転院させました。」にほんブログ村
2013年04月09日
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「こげなことになるまで、放っておくとは何事ね!」 病院に連れられた麗空の様子を見た医師は、亮子と聡史に向かって怒鳴った。「先生ぇ、うちの子そんなに悪いんですか?」「悪いもなにも、死にかけとる寸前よ!どげんしてあんな風に太らせたとね?」「特別な事は何もしとりません。あの子フライドチキン好きやから、毎日おやつにそれ与えてあげとることしか・・」「お宅の子は、腎機能が低下しとる!病院に連れて来るのが遅かったら、死んどったよ!」「そんな・・」初めて我が子の重篤な状態を知った亮子は、その場で泣き崩れた。「うち、あの子が食べている姿好きで、お菓子とかあげてたのに。それなのに、こげなことになるなんて・・」「亮子、だから言ったんだよ。麗空にお菓子やフライドキチンばかり与え過ぎて太るの、あの子が気にするからやめろって・・」「子どもが太っとるのが何が悪いと?痩せとる子は貧乏くさく見えるんよ!太とっとる方が可愛く見えるの!」「お母さん、あんた勘違いしとるよ!もう時代は違うとよ!こげな状態になる前に、病院に連れてくればよかったと!」「うちは何も悪くないもん、あの子の為にしとったんやから~!」亮子の雄たけびのような泣き声が、廊下に居る千尋達にまで聞こえた。「お義母さん、どうして麗空ちゃんを一度も病院に連れて行ってあげなかったんですか?」「あの子は太っとる方が可愛いんよ。それにうちはおかしな物をあの子に食べさせとらんし・・」「けど、あの子は現に死にかけてるじゃないですか。兄から聞きましたが、高カロリーなおやつばかり与えて、野菜を食べさせてないそうじゃないですか?」「料理するのが面倒くさいし、今の時代少しお金を出せば美味しい物が食べられるんよ?別に手間を掛けんでも・・」美津子との噛みあわない会話に、千尋は次第に苛立ってきた。 兄が結婚してから一度も熊本に行ったことがなかったが、東京に来た兄が一度も亮子の手料理を味わったことがないと愚痴を吐いていたのを思い出した。「お願いですから、もうピザやファストフード中心の生活はやめて、もっと野菜中心の生活を・・」「千尋ちゃん、看護師やからって偉そうにうちらに指示せんといてよ。」診察室から出て来た亮子がそう言って千尋に詰め寄り、ジロリと彼を睨みつけた。「あん子はうちの子なんよ。あんたにあれやこれや指図される覚えはなか。」「千尋は麗空の為を思って来たんだぞ!それなのにそんな言い方ないだろ!」「千尋ちゃん、うちのこと見下して馬鹿にしとるやろ!?頭が悪くて図体がデカイだけで、家事も碌に出来ん女って!看護師になったからって、うちに勝ったと思わんでよ!」亮子は足音を床に鳴り響かせながら、病院を後にした。「ごめんなぁ、千尋。折角来てくれたのに亮子が酷い事を言って・・」「兄ちゃん、俺義姉さんの事一度も見下したり馬鹿になんかしたりしてないよ?それなのに、どうして義姉さんはあんなこと・・」「あいつ、看護師になるのが子どもの頃の夢だったんだよ。でも勉強ができなくて挫折して・・学歴コンプレックスがあるんじゃないかな?」「それであんな事を?でも、その事と麗空ちゃんの事は関係ないんじゃない?お義母さんとも話をしたんだけど、何か会話が噛み合わないっていうか・・」「お義母さん、痩せていることで亡くなったお姑さんからいびられてて、“太った子の方が可愛い”って思いこむようになってしまって、その考え方が亮子にも受け継がれて・・」「まさに負の連鎖だね。これ、兄ちゃん達三人の問題じゃないよ。俺達家族の問題だ。」「ああ、そうだな・・とことん話し合わないと。」聡史はそう言うと、飲み終えたコーヒーの紙コップを握り潰した。にほんブログ村
2013年04月08日
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「あらぁ千尋ちゃん、いらっしゃ~い!」 田圃(たんぼ)の真ん中にある聡史の妻・亮子の実家前で、彼女は満面の笑みを浮かべながら千尋を迎えた。てっきり彼女から罵倒されるものだと思っていた千尋は少し拍子抜けた様子で彼女を見た。「お久しぶりです、義姉さん・・」「今日はねぇ、千尋ちゃんが来るからピザ取ったのよ!さ、上がって!」半ば強引に亮子に家の中へと連れて行かれた千尋は、広間に集まった彼女の親戚達がビールを片手にピザを食べているのを見て絶句した。「義姉さん、わたしは麗空ちゃんのことが心配で来たんですけど・・」「ああ、あの子なら母さんが抱いてきてくれるわ。さ、千尋ちゃん。ここどうぞ!」「はい・・」千尋は少し気まずそうに親戚達の中へと座ると、両隣の女性達がいきなり彼に話しかけて来た。「千尋ちゃん、相変わらず美人やねぇ。」「まだ結婚しとらんとね?」「いい相手おらんかったらうちらが見つけちゃるよ?」「いえ、結構ですから・・」「そげなこと言わんと。」「千尋ちゃん、まだ22やろ?女は若く結婚した方がよかよ。健康なうちに跡取りば産まんと。」「そうたい、あの子は結婚が遅かったけんねぇ・・」彼女達のマシンガントークから逃げ出した千尋は、そそくさと広間から出て行ってトイレへと向かった。「あら千尋ちゃん、久しぶりやねぇ。」「お久しぶりです。あの、麗空(れあ)ちゃんは?」「ああ、あの子は今奥の部屋で寝とるから、今起こして来るね。」亮子の母・美津子とともに千尋は、麗空の部屋に入った。可愛らしいキャラクター物の毛布に包まった彼女は、苦しそうに呼吸していた。「れあ、千尋おばちゃんが来てくれたよ。れあ?」美津子が麗空の身体を揺さ振っても、彼女はなかなか起きようとはしない。「れあ?」美津子が毛布を剥がすと、シーツの下から悪臭が漂ってきた。麗空は、失禁していた。「れあ、どうしたと?」「麗空ちゃん、聞こえる?」千尋が麗空の方へと駆け寄ると、彼女は突然激しく白目を剥いて痙攣し始めた。「誰か、救急車!」「千尋ちゃん、れあが死ぬ!助けて~!」「どうした千尋、何があったんだ?」娘の様子を見に来た聡史は、娘が痙攣を起こしている姿を見て血相を変えて彼女を抱き上げた。「いつからこんな状態なんだ!」「わからんよ、さっき部屋に来たら寝とるから起こさんようにしようと思うて・・でも急に痙攣して・・」美津子がパニックに陥ってる中、亮子がクッキーの箱片手に部屋に入って来た。「どうしたの、お母さん?」「亮子、あんた娘がこないなっとるのに、呑気に菓子食うとる場合ね!」美津子に怒鳴られ、亮子は夫に抱かれている娘の姿を見るなり悲鳴を上げた。「ねぇ、うちの子どうしたの?ねぇ!」亮子のゴリアテのような逞しい両手で首を掴まれた千尋は危うく窒息しそうになったが、聡史が彼女を突き飛ばした。「やめろ、まずは麗空を病院に連れて行くのが先やろうが!」泣き叫ぶ亮子と美津子とともに車の後部座席へと乗り込むと、四人は麗空を病院へと連れて行った。にほんブログ村
2013年04月08日
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帰宅した後、歳三は参考書や問題集を広げて勉強を始めたが、20年もブランクがあると、さっぱり訳が判らなかった。勉強嫌いということもあってか、理数系科目は絶望的だった。「あ~、わからねぇなぁ・・」「どうしたの、お父さん?」「陸・・この問題、どうだ?」「ああ、これならこの公式を当てはめたらいいんだよ。やってみて。」「わかった・・」陸に教えられた通りに問題を解くと、先程解けないと思っていた問題が嘘のようにすらすらと解けた。「あ~あ、情けねぇなぁ。中学の問題がわからねぇ親父なんて・・」「卑屈にならないでよ、お父さん。僕は中学受験を目指して塾に行ってたから、わかるんだよ。誰だって苦手なものがあるんだから。」「お前ぇは俺に頭の出来が似なくて良かったなぁ。」「勉強だけが出来ていいなんて、もう古いよ。それよりもお父さん、千尋さんとは喧嘩でもしたの?」「別に。どうしてそんなことを聞くんだ?」「だって、お似合いだから、二人とも。」「馬鹿野郎、早く寝ろ!」歳三が照れ臭そうな表情を浮かべながらそう怒鳴ると、陸はそそくさと寝室へと向かった。 翌朝、千尋が朝食を食べていると、携帯が鳴った。「もしもし、兄ちゃん?」『千尋・・済まないが一度こっちに来てくれないか?』「いつ?」『昨夜、お前に言われた事を嫁さんに伝えたら、あいつ怒りだしてさぁ。千尋さんに言いたい事があるから連れて来いって聞かないんだよ。』「そう、わかった。」丁度、千尋は有給休暇を取っていたので、三泊程度の荷物をスーツケースに纏めた。東京駅で土産を買い、千尋は鹿児島中央行きの新幹線に乗った。閑散期なので、自由席はガラガラだった。千尋は空いている窓側の席に腰を下ろすと、網棚にスーツケースを上げた。バッグから文庫本を取り出して読み始めた時、コンパートメントのドアが開いて一人の男性が入って来た。スーツ姿で、いかにもビジネスマン風の男性は、他に空席があるというのに千尋の隣にわざわざ座ってきた。「ここ、いいですか?」「ええ、構いませんが・・」少し戸惑いながらも、千尋はそう頷いて読書へと戻った。 新大阪駅でその男性は降りていったが、降り際にチラリと千尋の方を見て微笑んだ。(何だ、あの人?)男性の態度に小首を傾げながらも、千尋は熊本駅まで読書を楽しんだ。「千尋、来てくれてありがとう!」「兄ちゃん、義姉さんは?」「あいつなら家でお前を待ってるよ。」熊本駅で千尋を出迎えてくれた聡史は、車のトランクにスーツケースを詰め込んで運転席に座ってエンジンを掛けて車を発進させると、そう言って溜息を吐いた。「義姉さんの気に障るようなこと、言ったのかな?」「あいつは被害妄想が強くてなぁ。最近麗空(れあ)のことで、お義父さん達から色々と言われているんだ。」「そうなの。」 市街地を抜け、聡史が運転する車は、次第に長閑(のどか)な田園地帯へと入っていった。にほんブログ村
2013年04月08日
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「おはようございます。」「おはようさん。身体の調子はどうだ?」「はい。」「歳、少し話さねぇか?」「ええ。」 週明け、歳三が事務所に出勤すると、篠塚が彼を手招きして更衣室へと彼を連れて行った。「何ですか?」「お前ぇ、中卒だって言ってたろ?実はなぁ、お前ぇにこれ渡そうと思ってな。」篠塚が歳三に渡したのは、使い古された参考書と問題集だった。「これは?」「俺のだ。もう資格取っちまったから、要らねぇんだ。」「資格って?」「大検・・もう呼び名は変わったか。今は高等学校卒業程度認定試験ていうんだったな。一度、受けてみても損はねぇぞ?」「・・考えてみます。」篠塚に手渡された問題集が入った紙袋をロッカーにしまいながら、歳三は彼とともに更衣室から出て事務所へと戻った。「今日は余り仕事はねぇだろうなぁ。」「どうしてです?」「実はなぁ、この会社さぁ、近々本社が合併するって話があんだよ。」「合併、ですか・・」「今、何処も大変だろ?うちらみたいな中小企業は大変なんだよ。俺達はここで毎日頑張って働いているけど、いつ仕事がなくなるかわからねぇんだよ。」「そうそう。ここをクビになったら、生きていられないよ。」篠塚の話に、隣に座っていた女性が相槌を打った。「だから俺らは今まで以上に働かなきゃなんねぇ。会社がなくまっちまう前に。」「そうですね。」「さ、暗い話はもうやめだ!」篠塚はにっこりと笑うと、大声で演歌を歌い始めた。はじめは暗く沈んでいた車内だったが、篠塚の歌声を聴いた従業員達は次々と彼の後に続いて歌い始めた。それを傍目に見ながら、彼は会社のムードメーカーなのだなと歳三は思った。篠塚は何かと周りに気を配り、新人の歳三に対して親切にしてくれる。彼が居てこそ、歳三は会社から追い出されずに済んだのだ。「あの・・土方さんですか?」「はい、そうですが。」いつものように歳三がロビーの掃除をしていると、彼の前に一人の女子社員がやって来た。「あの、これ受け取ってください!」女子社員がそう叫んで歳三に手渡したのは、ラブレターだった。「は・・」「じゃぁ、これで!」羞恥から赤面した彼女は、そそくさとその場から走り去っていった。「なんだぁ、隅に置けねぇなぁ。」「篠塚さん・・」「まぁ、お前ぇみてぇな色男、女が放っておく筈ねぇもんなぁ。」篠塚は羨ましそうな顔をしながら、歳三の腹を肘で突いた。「お疲れ様です。」「ああ、気をつけてな!」まだ体調が万全ではない歳三は、早退する事になった。帰りのバスに揺られながら、彼は篠塚から渡された数学の参考書に目を通して見た。ページのところどころに、手垢がついており、篠塚が使いこんでいることが一目で判った。(まぁ、やってみるしかねぇか。)にほんブログ村
2013年04月08日
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そこに映っていた麗空(れあ)は、全身に脂肪が付き、着ている服が今にもはきちれんばかりになっていた。愛らしい顔にも脂肪が覆われ、顔と首の境目がつかなかった。そして、彼女の肌は異常なほど浅黒かった。「兄ちゃん、これ駄目だよ。ちゃんと病院に連れて行かないと!」「俺だってそうしたいよ。けど嫁が聞く耳を持たないんだ。」「麗空ちゃんをこんな状態まで放っておくなんて、どういうつもりなの!?普通に太ってるってレベルじゃないよ!」姪っ子の異常な太り方にショックを受けた千尋は、兄を思わず詰ってしまった。「そうだよなぁ。そういえばあいつ、お絵描き教室の友達から“臭い”って言われて泣きながら帰ってきたことがあったんだ。」「今、麗空ちゃんはどうしてるの?」「幼稚園を休ませてるよ。最近部屋に引き籠って顔を見せてくれないんだ。」「兄ちゃん、近いうちに熊本に行くからね。それまでに、義姉さんに麗空ちゃんを病院に連れて行くように説得して。麗空ちゃんの命を守れるのは兄ちゃん達しかいないんだからね!」「ああ、わかったよ・・」聡史は溜息を吐くと、コーヒーを飲んだ。「今日は朝早くに来て済まなかったな。」「いいんだよ。じゃぁ、またね。」「ああ。」 玄関先で聡史を見送った千尋は、歳三の様子を見に寝室へと入った。「くそ、痒くて堪らねぇ!」ベッドの上で歳三は背中を掻きむしり、そこからは血が出ていた。「駄目ですよ、掻いちゃ!」「じゃぁどうすりゃいいんだよ!」「すぐに着替えて、わたしと病院に行きましょう。」 数分後、千尋は歳三を連れて病院へと行くと、その日に限って皮膚科は混んでいた。「畜生、いつまで待たせやがんだ!」「お静かに。」歳三は苛立ったかのように、左腕や背中を掻きむしった。「土方さん。」歳三が診察室に入れたのは、10分後のことだった。「これは自家感作性皮膚炎(じかかんさせいひふえん)ですね。」「先生、治りますか?」「ええ。根気良く治療していけば、大丈夫ですよ。塗り薬を途中で止めたといいますが・・」「塗っても余り利かなかったんで。」「途中で薬を止めたら駄目ですよ。余りストレスを溜めない生活をしてくださいね。」「わかりました・・」診察室から出た歳三は、不機嫌そうな表情を浮かべて待合室の長椅子に腰を下ろした。「ったく、いつまで塗ってりゃ治るんだ?」「根気良く薬を塗れば治るって、先生がおっしゃってたでしょう?」「わかったよ・・」歳三はネクタイをゆるめながら首元を掻こうとしたが、千尋に止められた。「今日お仕事は?」「休みだよ。迷惑掛けて済まなかったな。」歳三は千尋に頭を下げると、病院から出て行った。「ただいま。」「お父さん、お帰り。朝ご飯は?」「向こうで食べて来たよ。陸、お父さん部屋で休んでいるから、セールスの人が来たら居留守使えよ。」「うん、わかった。」「じゃぁお休み。」 歳三は和室で布団の上に倒れ込むと、それを頭から被って目を閉じた。にほんブログ村
2013年04月06日
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「兄ちゃん、落ち着いて!」「落ち着いていられるか!よくも俺の可愛い弟に手を出しやがって!」「おい、誤解してんじゃねぇよ!俺はこいつに指一本も触れてねぇって!」リビングで聡史にクッションで殴られながら、歳三はそう言って彼を見た。「じゃぁ、どうしてそんな格好をしてるんだ!?」「それは・・」二人が言い争っているのを黙って見ていた千尋は、つかつかと彼らの間に割って入ると、こう言った。「コーヒー、いかがです?」「千尋、どういうことだ?何でお前が知らない男を部屋に連れ込んでるんだ?」「昨夜、土方さんがバーで酔い潰れて、部屋で介抱してたんです。だから・・」「そうか。土方さん、いきなり怒鳴って悪かったな。」「いいよ。」コーヒーを飲みながら、歳三は左腕を掻いた。「土方さん、また左腕痒いんですか?」「ああ。ここんところ最近、痒くて仕方がねぇんだ。」「駄目ですよ、掻いちゃ。」「左腕だけじゃなくって、背中も痒くて堪らねぇんだよ。」「ちょっとTシャツを脱いでください。」歳三がTシャツを脱ぐと、彼の上半身には赤い発疹が広がっていた。「一体どうしたんですか?この前はこんなのはなかったのに。」「ああ。最近忙しくて病院に行く暇がなかったんだ。薬を塗るのを止めたらまた酷くなって・・」「それを早く言って下さい!ちゃんと薬を塗るようにと言っておいたでしょう!」「面倒くせぇんだよ!」千尋と歳三が言い争っていると、聡史は軽く咳払いして彼らを見た。「とにかく一度、病院に行ってください。」「こんなの、寝ときゃ何とかなる。コーヒー、ご馳走さん。」歳三は乱暴にコーヒーカップをテーブルに置くと、寝室へと戻っていってしまった。「彼は頑固だね。千尋、土方さんとは知り合いなのか?」「うん。前働いていた病院で会ったんだ。奥さんと離婚して息子さんと二人暮らしだよ。」「じゃぁ、息子さんに連絡した方がいいだろう。今頃心配しているだろうから。」「わかった。」千尋が陸の携帯に掛けると、数回のコール音の後に彼が出た。「陸君、お父さん今わたしのマンションに居るから。」『すいません。お父さん、身体が辛いのに仕事が忙しくて病院に行く暇がないんです。』「大丈夫、病院にちゃんと連れて行くから。うん、わかった。じゃぁね。」陸との通話を終え、子機を置くと、聡史が溜息を吐いて千尋を見た。「どうしたの?」「いやぁ・・千尋は子ども相手でもちゃんと話を聞くんだなぁと思って。俺も見習いたいよ。」「何か、あったの?」「ああ。娘がな・・麗空(れあ)がお絵描き教室に行きたくないって言いだしたんだよ。」兄夫婦には2歳になる娘・麗空が居るが、千尋は彼女が生まれた時の写メールしか見た事がない。「麗空ちゃん、何か嫌な事でもあったんじゃないの?」「そうかもしれないな。あいつ、太ってることを気にしてるんだ。俺もあの子の太り方は異常だと思って、一度嫁と話し合ったんだが、“このくらいの年頃の子は、コロコロ太ってる方が可愛いのよ”って聞く耳を持たないんだ。」聡史はそう言うと、千尋に最近の娘の写真を見せた。 携帯に映っている麗空は、“コロコロと太っている”というレベルではなかった。「兄ちゃん、これ本当に、麗空ちゃんなの?」「ああ。」にほんブログ村
2013年04月06日
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「う~、痛てぇ・・」 カーテンの隙間から射し込んで来る朝日に照らされて、歳三は二日酔いで痛む頭を左手で押さえながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。(ここはぁ、何処だ?)周りを見る限り、ここは自分が住むアパートではない事は確かだ。では、ここは一体・・「やっと起きたんですね。」 不意にドアが開き、千尋が寝室に入って来た。「おい、何で俺が・・」「昨夜、あなたがバーで酔い潰れているのを見兼ねて、タクシーでわたしの部屋に連れて来ました。一体何があったんですか、あんなに飲むなんて?」「確か、職場で飲み会があったのは覚えてるんだが・・それからは、全く思い出せねぇんだ。」「そうですか。はい、どうぞ。」千尋は歳三に水を差し出すと、寝室から出て行った。 リビングに戻った千尋は、昨夜歳三が玄関先で吐いた吐瀉物の後始末をしていた。余り広範囲に吐いていなかったので、消臭剤を拭きつけた上で新聞紙で簡単に拭きとることができたが、問題は寝室に居る歳三が泥酔した時の記憶を何も覚えていないということである。一体彼は何故あんなに前後不覚になるまで酔っ払ってしまったのか。それに彼は私服ではなく、スーツを着ていた。職場の飲み会であるならば、もっとラフな格好をする筈だ。もしかして彼は、誰かに会う為にあのバーに居たのではないか―千尋がそう思いながらキッチンで朝食を作っていると、リビングの電話がけたたましく鳴った。「もしもし、岡崎です。」『もしもし、千尋か?』電話を掛けてきたのは、兄の聡史だった。「どうしたの、兄ちゃん。」『実はなぁ、今日トマトの品評会で東京に居るんだ。今からお前のところに行ってもいいか?』「えっ!」千尋は驚きの余り、子機をフライパンの中に落とすところだった。『もしもし、千尋、聞いてるのか?』「うん、聞いてるけど・・突然どうしてうちに?」今聡史が来られると、歳三と鉢合わせしてしまう。千尋は何とかして彼との会話を引き延ばし、適当な言い訳を作って断ろうと決めた。『いやぁ、少し話したい事があってな。』「それ、ホテルでしちゃ駄目?」『構わないんだが・・実はもう、お前のマンションの前に来てるんだよ。』「ええ~!」千尋がそう叫んだのと同時に、マンションのインターフォン画面に聡史の顔が映った。「おい、どうしたんだ?」寝室のドアが開き、下着姿の歳三が頭を掻きながらリビングに現れたのを見た千尋は、慌てて彼を寝室へと戻らせようとした。「すいません、ちょっと向こうに居てもらえませんか?」「何でだよ、俺ぁ腹減ってるんだ。」「実は、兄が・・」歳三を寝室へと押し返そうとした時、不意に玄関のドアが開いた。「おお~い千尋、居るのか?」そう言ってリビングのドアを開けた聡史の目に入って来たのは、Tシャツに浅葱色のトランクス姿の見知らぬ男がソファで寝ている姿だった。「千尋、そいつは誰だ?」「兄ちゃん、これには深いわけがあって・・」千尋はもうこれ以上、兄にごまかせないと思い、深呼吸した後兄にこう言った。「実はこの人と今、付き合ってるんだ。」弟から衝撃的な言葉を告げられた聡史は、一瞬目を丸くしたと思うと、歳三に掴みかかった。にほんブログ村
2013年04月05日
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「あの子の容態は?」「意識はまだ戻りません。それよりも、もっと守君に注意を払ってあげればよかった・・」 数日前、守が手首を切って自殺を図り、ICU(集中治療室)に移された。一命は取り留めたものの、彼の意識はまだ戻っていない。「自分を責めたら駄目だ、岡崎君。起きてしまったことを悔いるよりも、彼の快復を祈ろう。」「はい、わかりました。」石崎教授に励まされ、千尋がICUから出て行くと、廊下には何故か東弁護士の姿があった。「やぁ、久しぶりだね。」「東さん、一体ここに何の用ですか?」「石岡守君と話がしたいんだが・・」「彼の意識はまだ戻っておりません。それに一体、彼に何の話があるというのですか?」「話というのは、石岡琴が掛けた生命保険金のことでね。彼女は2億もの保険金を守君に残して死んだ。」「そんなに・・」東弁護士から琴の保険金の額を聞いて千尋が驚愕の表情を浮かべると、彼は何処か嬉しそうな顔をして千尋の顔を覗きこんだ。「岡崎さん、その2億という大金を、手に入れてはみたくないかい?」「どういう意味でしょうか?」「知っての通り、石岡守君には亡くなった母親以外、肉親が居ない。彼はまだ未成年で、後見人が必要な年だ。そこでだ、君が守君の後見人になったらどうだろう?」「意味が判りません。一体わたしが守君の後見人となったところで、あなたが何を企んでいるのかは知りませんけど、お断りいたします。」「そうですか。それは残念です。」東弁護士はそう言って千尋に背を向けると、エレベーターへと乗り込んでいった。「あの弁護士、そんなこと君に言ったわけ?」「ええ。あの人は何を考えているのかが判らないから、不気味で仕方ありません。」 仕事終わり、総司と入った駅前の居酒屋で、そう言いながら千尋はビールを飲んだ。「東って奴は、土方さんの元奥さん側の人なんでしょう?千尋ちゃんに接触してくるってことは、何かよからぬことを企んでいるんじゃない?」総司はそう言って千尋を見ると、フライドポテトを頼んだ。「それじゃぁ、また。」「うん、またねぇ。」 駅前で総司と別れた千尋が改札の中へと入ろうとした時、バッグの中に入れてあった携帯が鳴った。「もしもし?」『すいません、岡崎千尋さんですか?』通話口の向こうで、騒がしい音楽が聞こえていた。「あの、どちらさまでしょうか?」『実はですね・・』 数分後、千尋が最寄駅から三駅も離れた場所にあるバーに入ると、そこのカウンターには酔い潰れた歳三がグラスを握り締めながら突っ伏したまま動かなかった。「もうすぐ閉店なんですが、なかなか起きてくれなくて・・」「土方さん、起きて下さい。」千尋が歳三の肩を揺すると、彼は低い呻き声とともに千尋を見て抱きついた。「すいません、タクシーをお願い致します。」タクシーまで店に残っていた従業員に歳三の身体を支えて貰いながら、千尋は彼を乗せた後、タクシーに乗り込んだ。自宅の場所を告げると、運転手はちらりと酔い潰れた歳三を見ながら、タクシーを発車させた。「そっちのお客さん、今にも吐きそうな顔してるから、これ使ってね。」「すいません・・」運転手からエチケット袋を受け取った千尋は、今にも吐きそうな顔をしている歳三の口にそれを押し当てた。にほんブログ村
2013年04月05日
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「なんかさぁ~、あの沖田って奴、ウザくない?」「そうそう、いちいち文句言ってさぁ。」「それに岡崎って奴もさぁ、ネチネチ注意してばかりで、まるで意地悪な姑みたい!」「うちらは腰掛けでするんだから、別に覚えなくてもいいじゃんねぇ?」「そうそう、イケメンドクターゲットする為に婚活してんだからぁ~」 カフェテリアで愚痴を吐いている実習生達の姿を見つけた総司と千尋は、鬼のような形相を浮かべながら彼女達の元に現れた。「君達がそういうつもりで実習に来てるとは知らなかったよ。」「お、沖田先輩・・」「あの、これは・・」「今の会話、全部録音したから。もう君達、来なくていいよ。」総司は氷のような冷たい視線を彼女達に送ると、ICレコーダーを取り出した。「あの、どういう意味ですか?」「言葉通りだよ。君たちみたいに遊び半分で職場に来て貰ったら迷惑なんだよね。いい、この病院の看護師として働いている限り、患者さんからはこの病院のマイナスイメージが君達の所為で植えつけられるんだよ?」「でも、わたしたちは実習生で・・」「そんなもん、関係ないんだよ。大体君達、研修医の先生に色々とおかしなことを吹き込んでたようだけど?」「仕事を教えてくれないって・・それはあなた達がいつまでたっても指示に従わず、独断でしてミスをするからでしょう?実習に出るのなら、ある程度の知識と技術がある筈ですが?」「だってえ、難しくて・・」「難しいだと?あのな、お前らが今いる場所は本物の病院なの。幼稚園のお医者さんごっことはわけが違うんだよ!」彼女達の身勝手すぎる言い分にいい加減腹が立った千尋は、そう大声で怒鳴りつけると、一人が泣いた。「まぁまぁ、そんなにいじめなくても・・」「はぁ、何言ってんの?俺達はこいつらに注意しただけ。あんたもさぁ、いつまで経っても点滴上手く打てないだろ!しかも巡回中あくびばっかりしてんなよ!」二人と実習生達との間に割って入った岡村に対して、千尋がそう彼に怒鳴ると彼は顔を真っ赤にしてモゴモゴと何かを言った。「なに、言いたい事あるならはっきり言え!」「・・それ、看護師の仕事だから・・」「そんな意識で実習に来たんなら、てめぇも辞めちまえ!」いつの間にか騒がしかったカフェテリアは水を打ったかのように静まり返り、実習生の啜り泣く声だけが聞こえた。「あの、ちょっといいですか?」「何?」千尋がそう言って実習生の一人を見ると、“松村”というネームプレートを付けた彼女はさっと椅子から立ち上がった。「先輩達のおっしゃることは、間違っていないと思います。わたし達、今まで不真面目な態度を取ってしまって、それが先輩達に不快な思いをさせたのなら、謝ります。」「形だけの謝罪なら、何度でも出来るよ。それよりも、同じミスをしないこと。わかった?」「はい。」「じゃぁ僕達はこれで失礼するよ。行こうか、千尋ちゃん?」「はい。」総司と千尋がカフェテリアを後にしようとした時、啜り泣いていた実習生がいきなり椅子から立ち上がってこう叫んだ。「こんなの不公平よ、何であたし達が怒られなきゃいけないの!」「ちょっと、やめなよ。」「そうよ、先輩達の話、聞いてなかったの?」「だって一方的に怒られただけじゃん。」「君、名前は?」総司はくるりと実習生の方を振り向くと、彼女の前に立った。「野々下といいます。あの、幼稚園から高校まで学芸会の主役を務めて・・」「あのさぁ、君さっき“不公平”だって言ったよね?僕達は理路整然とどうして僕達が君達を怒るのか、説明して怒ったでしょう?その話を聞いてたの?」「聞いてましたけど、納得できません!」「如何して納得できないの?ミスをしたら謝る、それが社会人としての基本だよ。」「でも、ちゃんとやってるのに・・」「ちゃんとやってるって言われてもね、君達の仕事ぶりを毎日チェックしてると、カルテの誤字脱字や点滴を打つ際のケアレスミスが多いよ。君、それをちゃんと自覚してるの?それとも、自分達が理不尽な目に遭って嫌だって思ってる?」総司の言葉に、野々下は俯いて何も言わない。「この事は看護師長と、あなた方が在籍する看護専門学校に報告いたします。ただ謝ってはい終わりという訳にはいきませんので。」千尋がそう彼女達に言い放って総司と共にカフェテリアから出て行くと、背後で彼女達の悲鳴が聞こえた。「そうと決めたら即行動だね。」「ええ。」 ナースステーションへと戻った二人は、看護師長にカフェテリアでの一件の事、その上実習生達の目に余る態度を報告した。「わかりました。この病院に毎年来ているあの学校の実習生達はいい仕事ぶりをしていると評判だったけれど、今年度の実習生達がそんなに酷いとは思いもしませんでした。彼女達にこれ以上居て貰っては、病院のイメージダウンに繋がります。学校側からはわたしが説明します。」二人の話を聞いた看護師長はそう言うと、学校へと連絡を入れた。 翌週、千尋と総司が出勤すると、同僚の看護師である三村が彼らの方へと駆け寄ってきた。「実習生達、実習打ち切られたって本当なの?」「ええ。余りにも態度が酷いので、看護師長に抗議しました。」「まぁ、打ち切られて当然だけどね、あの子達。でももし親御さんたちが怒鳴りこんできたらどうするの?」「あの子達は幼稚園児ではなく、善悪の判断がつける大人です。親に泣きごとを言わないでしょう。」三村の言葉を千尋は一蹴した。「石岡さん、入りますよ~?」千尋が守の様子を見に病室に入ると、彼は剃刀で手首を切って力なくベッドに横たわっていた。にほんブログ村
2013年04月05日
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琴が交差点で事故を起こしたことは、瞬く間にその日の夕方のニュース番組で流れた。 マスコミはいつの間に調べたのか、琴が自分に多額の生命保険を掛けていたこと、そしてその受取人は息子の守にしていたことなどを取り上げ、彼女の死は自殺ではないかという、“自殺説”が浮上した。「自分の命を犠牲にしてまで我が子を守ろうとする母親・・その姿に感動する以外他にはありません。」とある有名評論家の一人が、今回の事故についてそういうコメントをした途端、“金の亡者”というマイナスイメージが一転し、“慈母”というイメージ像が琴に定着しつつあった。だがマスコミがどんなに綺麗事を並べていても、それはあくまで憶測でしかなかった。 その事を、ネットユーザー達は敏感に感じ取り、琴の“裏の顔”をネット上に暴露し始めた。“石岡琴は、中学時代に気に入らない上級生・下級生を毎日呼び出しては暴行を加えていた。”“取り巻き達に窃盗を指示し、彼らに濡れ衣を着せた。”“気に入らない同級生の女を暴行するよう手下に命じ、写真をばら撒くと脅迫した上で、毎月30万円ほど脅し取った。”掲示板上には琴のレディース時代の写真がアップされ、彼女の過去の悪行が暴露された。“死んで当然。”“自業自得。”“巻き込まれたトラックの運転手カワイソス。”ネット上では、琴に対するありとあらゆる罵倒の言葉が並んでいた。それを見ながら、守は勢いよくノートパソコンの蓋を閉めた。「ったく、他人の悪口が広まるのがネットの悪いところだよね。」総司は携帯であるサイトの掲示板を見ると、そう言って溜息を吐いた。「まぁ、こちらが直接被害を被っていなければ、いいんじゃないでしょうか?」「そりゃそうだけどねぇ、風評被害ってやつがそろそろ出始めてるんじゃない?」総司はそう言うと、チラリとナースステーションの隅で談笑している看護実習生達を見た。 彼女らはここが職場であるということも忘れて、まるで喫茶店で女子会でも開いているかのようにぎゃぁぎゃぁとかしましい。「君達、カルテの整理と、巡回は終わったの?」「すいませぇん~、もう終わりましたぁ。」「終わったら終わったで、報告してください。勝手に休憩に入られては困ります!」千尋が厳しい口調で実習生達にそう言い放つと、彼らは亀のように首を竦めてナースステーションから出て行った。「全く、なんなのあの子達?ここは保育所じゃないんだよ。」カルテを叩きつけるかのようにカウンターの上に置くと、総司は溜息を吐いた。「この季節になると、緊張感というものを忘れているんじゃないんですか、彼女達?こっちが注意しても聞かないし。」千尋は看護実習生達の何処か仕事を舐めているような態度に、腹が立っていた。「あ~あ、ストレス溜まるったらありゃしないよ。」「暫くの辛抱ですよ、先輩。」総司と千尋がそう話している時、ナースステーションに一人の研修医がやって来た。彼は岡村といって、K医大から来た学生だった。「あの、実習生達を先輩達がいじめてるって本当ですか?」「はぁ!?君さぁ、彼女達に何を吹き込まれたわけ?」総司の眦がつり上がり、彼はキッと岡村を睨んだ。「仕事を碌に教えてくれないって、彼女達愚痴をこぼしてましたよ?」「・・ちょっと君、彼女達の所に案内してくれる?」総司はグイッと岡村の肩を掴むと、千尋について来るよう目配せした。にほんブログ村
2013年04月05日
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「君、会長に何て失礼な口の利き方を!」老人の傍らに控えていたスーツ姿の男が声を荒げて歳三を見たが、老人は彼を手で制した。「すまないな、仕事の邪魔をして。昼休みに、この店に来なさい。」老人は一枚のメモを歳三に手渡すと、颯爽とエレベーターに乗り込んでいった。(何だぁ、変な爺だな・・)「おお~い、歳!トイレ掃除頼むわ!」「ああ、今行くよ!」老人の正体が何者なのかを知るのは、今ではない。仕事に集中しなくては。 昼休み、老人に指定された店に行くと、そこは高級フレンチの店だった。当然店内にはジャケットやワンピースで着飾っている紳士淑女が多く、作業服姿の歳三は浮いて見えた。(ったく、嫌がらせかよ・・)「すまん、待たせたな。」老人が歳三の座るテーブルの前に座ったのは、数分後の事だった。「なぁ爺さんよぉ、どうしてこんな店を待ち合わせに指定したんだ?前もって連絡してくれれば、俺だって恥をかかずに済んだ筈だぜ?」「そんな事ができなかったから、君を呼び留めたんだよ。ああ、自己紹介が遅れたな。俺はこういう者だ。」老人はそう言うと、上等な牛革の財布から、一枚の名刺を取り出した。そこには、『AZUMAグループ代表取締役 東京一郎』と達筆な字で書かれていた。(東・・もしかして・・)「済まないが、君の事は少し調べさせて貰ったよ。」東京一郎はそう言うと、グラスの水を一口飲んだ。「爺さん、お宅の倅と俺の嫁だった女はもうすぐ再婚する。それに嫁の腹にはてめぇの孫が居る。この期に及んで何だって俺を調べようとすんだ?どっかの低俗なゴシップ記事を信じてやがるのか?」「いや、あんなものは信じておらん。だがな、あの記事の所為で会社の株は下がり、息子の業務にも支障をきたしていてな。それに理紗子さんは心労で入院しておる。」「俺の所為だとでも言いたいのか?俺が、あんな軽薄で股も頭のねじも緩い女に引っ掛かったからとでも?」「酷い言い草だ。かつての交際相手をそれほどまでに貶(けな)すとは。しかし君と会って、あの女のことを君が微塵も愛していないことは良く解ったよ。」「それは有り難ぇな。もういいだろう?」歳三が腰を椅子から浮かそうとした時、京一郎が彼の手を掴んだ。「まぁ座ってくれ。俺が何とかしてやる。だから君は何も気にすることなく、陸君と暮らしたまえ。さてと、ここはステーキが絶品だそうだ。沢山食え。」「じゃぁ、お言葉に甘えさせていただくぜ。」京一郎とは気が合うなと思いながら、歳三は彼に微笑んだ。「千尋ちゃん、どうしたの?」「これ、本当なんでしょうか?」「嘘に決まってるじゃない。それよりもマスコミが病院の前に車をバンバン停めるもんだから、迷惑千万だよ。」「そうですよね。患者さんにとってもストレスになりますし。そういえば、守君はどうですか?」「ああ、あの子ね・・週刊誌の記事を読んでショックを受けたみたいで、塞ぎこんじゃったんだ。食事にも全く手をつけないで。」総司はそう言って溜息を吐くと、少しのびてしまったラーメンを勢いよく啜った。「千尋ちゃん、402号室の患者さんの様子見てきてくれるかなぁ?僕小児科に用事あるんだよね。」「わかりました。」 昼休みの後、千尋はナースステーションから出ると、402号室へと向かった。そこには、石岡守が入院していた。「石岡さん、入りますよ~?」千尋がドアをノックしたが、中から返事が返ってこなかった。「失礼します。」千尋が病室のドアを開けると、そこにはシーツに包まって寝ている守の姿があった。ベッドの傍らには、手づかずの昼食が置かれていた。「また、食べていなかったんですね。一口だけでも食べないと・・」「どうせ、死んでもいいんだよ、僕は。僕がいる所為で、みんな迷惑してるんだから。」どこか投げやりな口調で守はそう言いながら、まだあどけなさが残る顔を千尋に向けた。「守君、そんなことはないよ。」「じゃぁどうして、母さんはあんな事をしたの?あの人は自己顕示欲が高くて周りの迷惑を顧みない最低な女だけど、僕にとっては良い母親だった。でも今回の事で、もうあの人の事を母親だと思わない。」そう言った守の顔は、何かを決意したかのような表情を浮かべていた。「僕は未成年で、後見人が必要だということはわかっているけれど、僕は母親とは縁を切る。」「守君、冷静になって考えよう。今君は感情的になってるだけで・・」「あなたに何が判るんですか!?親から愛されて育ったあなたに、僕の気持ちがわかって堪るか!」憎しみに満ちた目で守は千尋を睨み付けると、昼食のトレイを薙ぎ払った。「守、あんた母さんのこと、そんなふうに思ってたの?」「母さん・・」守が息を呑んで入口に立ち尽くしている琴を見ると、彼女は持っていたハンドバッグで息子を殴った。「あんたの為にあたしはどれだけ必死になって働いたと思ってんのよぉ!この親不孝者~!」「石岡さん、落ち着いてください!」「あんたなんか息子じゃない、こっちから捨ててやるわよ!」頭に血が上った琴は、そう金切り声で叫ぶと病室から出て行った。今まで息子の為を思って頑張ってきたというのに、全て無駄になってしまった。どれもこれも、全て歳三の所為だ―激しい怒りは、琴から冷静な判断力を失ってしまった。そして彼女はいつしか運転している車が反対車線を逆走していることに気づいた時は、もう遅かった。 一台の10トントラックは、一瞬の内に琴が乗っていた軽自動車を鉄屑と化し、勢い余って電柱に衝突した。にほんブログ村
2013年04月04日
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「ありがとうございましたぁ~!」 千尋と喧嘩別れしてから数日が経ち、歳三は弁当屋で今日最後となる客を店から送り出していた。「土方さん、もうあがっていいよ。息子さん、待ってるんでしょう?」「すいません。それじゃぁ、後片付け宜しくお願いしますね。帰る時にゴミ出しておきます。」「ええ、お疲れ様!」パートの山本さんに挨拶をすると、汚れた制服をきちんと畳んでエコバッグの中に入れて店を出て、ゴミ袋を抱えながらゴミ置き場へと向かった。「土方さん、ここで働いてるんすね。」「またてめぇか。」歳三がジロリと金田を睨み付けると、彼は悪びれもせずにニヤニヤと笑いながら歳三を見た。「一体俺にまとわりついて何が楽しいんだ?それよりも女優Kの熱愛疑惑を追っかけた方が金になるんじゃねぇのか?」「うちの社の企画で、“昔の有名人は今”っていうのがありまして・・」「ふん、いつまでもそういうことをしていて飽きねぇな。もう俺は何も話すことはねぇよ。」こいつと話すだけ時間の無駄だと思った歳三は、彼に背を向けて立ち去ろうとした。「あなたの元カノの琴さん、あなたと復縁したいそうですね?」「あいつとはもう昔に別れた。それだけのことだ。」歳三は一度も金田の事を振り返らずに、自転車に跨って店の駐車場から出て行った。「ったく、つれないなぁ・・」金田はそう呟くと、歳三に貼りつくのを辞めて、彼の元カノ・琴に貼りつくことにした。「あらぁ、あたしに何の用?」「すいませんね、突然お店に来てしまって。以前お付き合いしていた歳三さんのことについて、あなたにインタビューしたいんですが・・」「いいところに来たわねぇ、あんた。あたしあいつに色々と言いたい事があるのよ。もしあんたで良ければ、聞かせてあげるわよ。」琴は金田のグラスにウィスキーを注ぐと、嫣然とした笑みを彼に向けた。 翌朝、歳三が清掃会社の事務所に入ると、何やら従業員達が集まっていた。「おはようございます。」「歳、これ本当なのか?」篠塚がそう言って歳三に見せたのは、今日発売の週刊宝石だった。そこには、“元有名騎手・Hに捨てられたホステス独占インタビュー”という見出しが躍っていた。歳三が週刊宝石を開くと、見開き2ページに琴のインタビュー記事が載っていた。彼女の写真にはモザイクが掛けられておらず、堂々と実名も書かれていた。「こんなのは嘘ですよ。」「そりゃぁ、そうだよな。でもよぉ、一度こんな記事載ると、それが本当だって信じる奴が居るんだよな。」篠塚は感慨深げにそう言うと、週刊誌をゴミ箱に捨てた。 いつもは取引先へと向かうバスは従業員達が雑談して騒がしいのに、今日に限って通夜のように静まり返り、誰一人として口を開かなかった。気まずい空気のまま歳三がいつものようにビルの清掃を開始していると、以前自分に言いがかりをつけてきた蔵内がエレベーターから降りて来た。「おはようございます。」「まだ居たのか、君。迷惑を掛けない内に辞めたらどうだ?」「それは俺が決めることで、あんたが決める事じゃありませんよ。」「何だと、清掃員の分際でわたしに口答えするつもりか!」「へっ、リストラ候補の癖に何を言っていやがる。人事のオッサンらはお前ぇを煙たがってるようだぜ?嘘吐いてんならあいつらに聞いてみな。」蔵内は怒りで顔を赤くさせ、歳三を殴ろうとしたが、彼の背後に立っている人物に気づいたのか、慌てて廊下の角へと消えていった。「君が、土方歳三君かね?」「何だい、あんた。」歳三は着流し姿の老人をジロリと睨んだ。にほんブログ村
2013年04月04日
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「今日岡崎君に頼んであなたに来て頂いたのは他でもない、石岡守君・・あなたの息子さんのことです。」「先生、お言葉だが、その守ってガキは俺の子じゃねぇかもしれねぇぜ?琴が他の男と出来た子どもを俺に押し付ける為に、嘘を吐いてるんじゃ・・」「それは、ある検査をすればわかるでしょう。今はDNAを鑑定する技術は日々進化しております。あなたがそんなに疑われるのなら、一度検査してみてはいかがですか?」「先生、俺はまどろっこしいのは大嫌いでね。言いたい事があるならはっきり言ってくれませんか?」歳三は少し苛々しながら、スーツの胸ポケットに入れてあった煙草を取り出そうとした。「実は、石岡守君は再生不良性貧血という病気に罹(かか)っています。その病気を治すのは骨髄移植だけです。これだけ言えば、わたしが何故あなたをここへ呼んだのかが理解できる筈です。」「つまり、守に骨髄を移植させたいが為に、琴は俺にしつこく付纏ったとでも?関係を強要するような行為も、全て死に掛けたあいつの息子の為だと?」紫紺の瞳を微かに怒りでぎらつかせながら、歳三は石崎教授を見た。「言っとくが、もしあいつが俺の息子だとしても、俺はあいつを助ける気はねぇ。」「土方さん、それは・・」「琴とはもう終わったんだ。俺は陸と壊れかけた絆を取り戻す為に必死なんだよ!それなのにあいつとあいつのガキの面倒を見るなんざお断りだ!」歳三はそう叫ぶと、荒々しくドアを閉めて研究室から出て行ってしまった。「土方さん、待って下さい!」「うるせぇ、ついてくんな!」千尋が慌てて歳三を追いかけると、彼は邪険に千尋の手を払いのけた。「どうして守君を邪険にするんです?あの子だって、あなたの血を分けた・・」「あいつは琴が勝手に産んだガキだ!俺は産んでくれと一言も頼んじゃいねぇぞ!あいつはきっと金欲しさにガキを産んだんだ、そうに決まってる!」「そんな筈は・・」「お願いだから、事情を知らない奴は黙っててくれねぇか?こっちの苦労もわかりもせずにお節介を焼く奴は嫌いなんだよ!」歳三の言葉に千尋は無言で彼に背を向けて立ち去っていった。「あ~あ、千尋ちゃん今頃泣いてるかもしれませんねぇ?」ガラガラというカートの騒がしい音がしたかと思うと、歳三の前に仕事中の総司が現れた。「うるせぇな、お前ぇには関係ねぇだろ。」「おおありなんですよね、それが。あなたの元カノの所為で、僕今住んでるアパートを追い出されそうなんですよ?彼女があることないこと大家さんに吹き込んだから。」「何で俺にそんなこと言うんだよ?」「一度くらい会ってあげてもいいんじゃないですか?確かに受け入れられないのはわかりますけどね、あの子も土方さんの子でもあるんですよ。」「わかったような口を利くんじゃねぇよ!」「あんたね、一度素直になったらどうなのさ!?何でそんなに無理に強がって人を傷つけるようなことばっかり言うの!?」「人に弱味を見せて何の得があるっていうんだ?舐められるだけだろうが!」歳三はそう言って苛立ち紛れに壁を拳で殴った。「そういうのって、格好悪いんですよ。自分を強く見せる為に他人を平気で傷つけるようなやり方、もう古いんです。いい加減大人なんだから、気づいてくれないと困るんですよね、わかります?」総司は少し呆れたような顔をして歳三を見ると、カートを押して彼の前から去っていった。「何だってんだよ、畜生・・」 一人廊下に取り残された歳三は、そう呟くと煙草を吸いに屋上へと向かっていった。千尋に騙し討ちされた、と歳三ははじめそう思ったが、彼はひとえに守と自分を会わせたかっただけかもしれない。それなのに自分は一方的に彼に怒りをぶつけて傷つけてしまった。謝るなら早い方がいいと思った歳三は千尋の携帯に掛けたが、電源を切っているのか繋がらなかった。「クソ・・」歳三が煙草をもう一本吸おうとしたが、切れてしまっていることに気づいて空箱を握り潰してゴミ箱へと放った。「土方さん、お久しぶりですね。」もう病院を出ようと思った歳三がエレベーターを待っていると、突然一人の男に声を掛けられた。ジーンズとシャツというラフな格好に首からカメラを提げている彼の名を、歳三はすっかり忘れてしまった。「あんた、誰だ?」「よしてくださいよぉ、週刊宝石の金田ですよ。」人の良さそうな笑みを浮かべた男は、そう言って歳三に名刺を渡した。「記者さんが俺に何の用だ?言っとくが、あんたらを喜ばせるようなネタはないぜ。」「まぁそう言わずに。連絡をお待ちしておりますよ、それじゃ。」金田は馴れ馴れしく歳三の肩を叩くと、エレベーターへと乗り込んだ。「ただいま。」「お帰りなさい。今日はおめかしして千尋さんとデートでもしてたの?」「何でそうなるんだよ?」「だってお似合いじゃない、お父さんと千尋さん。」夕食後、陸の言葉を聞いた歳三はコーヒーを噴き出しそうになった。「デートどころか、下らねぇことで喧嘩しちまったんだよ。俺が悪いんだが。」「謝ればいいじゃん。」「簡単に言うけどなぁ、大人になるとそれができねぇんだよ。」「ふ~ん。」陸は歳三の言葉に納得がいかない様子で、漫画雑誌を持って和室へと入っていってしまった。(ったく、何言い訳してんだか・・)にほんブログ村
2013年04月03日
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「行って来ます。」「おう、気をつけて行けよ。」 塾へと向かう陸に声を掛けた歳三は、彼が乗った自転車が角を曲がって見えなくなるまで見送ると、溜息を吐きながらアパートの中へと戻っていった。 今日は弁当屋も清掃員の仕事も休みなので、久しぶりにテレビを観ながら家でゆっくりしよう―歳三は流しで食器を洗いながらそう思っていると、ちゃぶ台の前に置いてある携帯が鳴った。「もしもし?」『土方さん、お久しぶりです。岡崎です。』千尋の声を休日に聞いて、歳三は少しドキッとしてしまった。一体休日の朝に、千尋が自分にこうして電話を掛けて来るのはどういう意味があるのだろうか。『土方さん、もしかしてまた体調が悪いんですか?』すぐに返事をしない歳三の体調が思わしくないと疑ったのだろう、千尋の声のトーンが少し高くなった。「体調の方は大丈夫だ。それよりも、日曜の朝に電話をくれるなんてどうしたんだ?」『実はあなたに、会っていただきたい方が居るんです。』「琴のことなら、もう俺は・・」『いいえ、彼女と会うつもりはありません。大変申し訳ないのですが、お電話ではできない話なので、新宿公園で10時に待ってます。』「わかった。」歳三はちらりとデジタルの置時計を見ると、まだ約束の時間には充分間に合う。 千尋との通話を終えると、歳三は洗面所で伸び始めた髭を剃り、クローゼットから一張羅のスーツとシャツを取り出すと、素早く部屋着からそれに着替えた。「ごめん、待ったか?」「いいえ。」 待ち合わせ場所にやってきた千尋は、春らしいピンクのニットにブルージーンズという出で立ちだった。「良くお似合いですね、そのスーツ。」「だろ?陸がわざわざ選んでくれたんだぜ。全く、あいつはぁいいセンスしてる。」そう言いながら嬉しそうに息子の自慢をする歳三の横顔を見て、千尋は今守の事を告げるのは今しかないと思った。「土方さん、これからわたしと一緒に病院に来て下さいませんか?」「病院に?お前、今日は休みじゃ・・」「ええ、ですがあなたに会わせなけれならない人は、そこに居るんです。」はじめ千尋の言葉を理解するのに時間が掛かった歳三だったが、彼が何を言おうとしているのかがわかった。「・・わかった、行こう。」「ありがとうございます。」 新宿からバスで隅田川沿いの病院へと向かった二人は、がん患者専門病棟へと向かった。「俺に会わせたいやつってのは、本当にここに居るんだろうな?」「ええ。もうすぐこちらに到着するそうです。教授!」千尋がそう言って廊下の向こうへとやって来る男に手を振ったのを見て、歳三は背後を振り向いた。そこにはいつぞやのイタリアンブランドスーツ男と同じスーツを纏った男が、笑顔で千尋に手を振りかえしながら、こちらへと近づいて来た。「教授、紹介いたします。こちらが土方歳三さんです。土方さん、こちらはがん研究のエキスパートである石崎教授です。」「初めまして、石崎です。土方さん、立ち話もなんですから、わたしの研究室へどうぞ。」「え、ええ・・」歳三は若干戸惑い気味に千尋を見ながらも、彼と共に石崎教授の研究室へと向かった。「ほう、なるほどね・・」三人が廊下の向こうへと消えていくのを、ある人物が見ていた。にほんブログ村
2013年04月03日
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「名家のお嬢様が、こんな低学歴でしがないあたしに何のご用かしら?」「少し、あなたとお話がしたいのよ。」「ふん、あんたまであたしを馬鹿にしてるのね。」普通に挨拶しただけなのに、琴は理紗子に対して激しい敵意をぶつけてきた。「それで、話って何よ?」 駅前のコーヒーショップに入った二人は窓際の席に落ち着くと、琴はそう口火を切った後、店員にコーヒーを注文して理紗子を睨んだ。「土方のことよ。あなた、もう彼とは別れたのにしつこく付き纏っているんですって?」「ええ、誰から聞いたの、その話?ああ、言わなくてもわかるわ。あの岡崎って看護師からでしょう?」琴はそう言うと、気分を落ち着かせる為に冷たい水を一気に飲んだ。「もう土方に付き纏うのは止めて。彼は新しい人生を歩み始めているのよ。だからあなたには・・」「身をひいて欲しいって言ってる訳?残念だけど、あたしはあんたに何を言われようが歳を諦めないわ。あんたは新しい旦那と一緒になるんだから、あんたこそ歳のこととやかく言うの止めたら?それともなに、あんたまだあいつに未練があんの?」「いいえ、そんな事は思ってはいないわ。」「ふん、じゃぁこうしてあたしと話すなんて時間の無駄じゃないの。あたしはあんたと違って忙しいのよ、おわかり?」琴が椅子から腰を浮かそうとした時、店員がコーヒーを運んできた。彼女は椅子に座り直すと、コーヒーを一口飲んでこう言った。「歳とセックスして子どもを孕んだからって、良い気になるんじゃないよ!あんただって新しい旦那の前で股開いたからガキが出来たんだろうが!」「まぁ・・」余りにもあけすけで、下劣極まりない琴の言葉に、理紗子は絶句するしかなかった。 彼女が何かを言い返そうとする前に、琴は勢いよく自分のコーヒー代を叩きつけると、店から出て行ってしまった。「どうだった、彼女とちゃんと話は出来たか?」「いいえ。あの様子じゃ無理よ。話どころか、彼女わたしに敵意を持ってるわ。」 東弁護士が所有する赤坂のマンションの一室で、帰宅した理紗子はそう言うと溜息を吐いてソファに腰を下ろした。「それはそうだろうさ。全く、身重の君にどうしてこんなことを任せるんだろうか・・父は一体何を考えてるんだ?」「渡英するまでの辛抱よ。子どもの戸籍はもうクリアできたでしょうし、後はあの女を始末するだけだって、お義父様が」「君に精神的な負担をかけさせてしまって、申し訳ないと思ってるよ。」「いいのよ、あなたの為・・生まれて来る子どもの為ですもの。」理紗子はそう言うと、少し膨らみ始めた下腹をそっと擦った。「お疲れ様です。」「お疲れ~」 定時に仕事が終わり、歳三は事務所が入ったビルから出てアパートへと向かっていると、その途中にある公園から背広姿の男が出て来て彼の前に立ち塞がった。「土方歳三さん、ですね?」「ああ、そうだが・・あんたは?」「すいませんが、少しお話がしたいので、向こうに来て貰えませんか?」男はそう言うと、近くに停めてあるハイヤーを指した。「済まねぇが、家にガキ待たせてんだ。話は今度にしてくれねぇか?」「わかりました。」男は少し残念そうな顔をすると、そのまま公園から出て行った。(一体何だったんだ、あいつは・・)「お父さん、焦げてるよ!」「お、済まねぇな。」公園で会った男のことが気になり、歳三は危うくハンバーグを焦がしてしまうところだった。にほんブログ村
2013年04月02日
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「石岡守君は、先天性の再生不良性貧血で、5歳の時からこの病院で入院している。」石崎教授は、そう言うとコーヒーを一口飲んだ。「あの子の病状は、どの位悪いのですか?」「詳しくは言えないが・・かなり悪い事は確かだ。このままだと今年の冬は越せないかもしれない。」「そんなに悪いのですか・・」教授の口から、琴の息子・守の容態を聞いた千尋は絶句した。そして、彼女が何故歳三に認知を迫っていたのかがわかった。再生不良性貧血の治療法として、骨髄移植と臍帯血移植(さいたいけついしょく)があるが、骨髄移植のドナーは親兄弟でも白血球の型(HLA)が一致するのが難しいという。赤の他人ならば、尚更だ。「守君は、骨髄移植を・・」「受けようと言っているが、“赤の他人の骨髄液でうちの息子が死んだらどう責任を取ってくれるんだ”と、お母さんが反対してね。現在は抗癌剤治療で症状を抑えているが、いつまでもつかどうか・・」「やはり、骨髄移植しか守君が助かる方法はないと?」「そういうことになるね。岡崎君、守君の父親を一度わたしに会わせてくれないか?無理を言うようで申し訳ないが・・」「いいえ、構いません。」歳三に早い内に守の事を話さなければと思いながら、千尋は教授の部屋から辞して仕事へと戻った。 一方、琴は歳三が帰って来るのを彼のアパートの前で待ちながら煙草を吸っていた。あれから彼は、一度も自分と会ってくれない。もう愛想を尽かされてしまったのだろうか。琴は溜息を吐くと、昔の幸せだった日々を思い出した。歳三とはベストカップルとして、高校時代では有名になった。あの頃の自分は今みたいに肌のくすみや皺などを気にしない、透き通った綺麗な肌を持っていて、イケメンの彼氏とは毎週末デートしてセックスしていた。そんな甘い日々の終わりが訪れたのは、高校卒業間近に歳三が競馬学校へと行くと琴に告げた時だった。彼がプロの騎手になると決めた以上、今まで自分と毎日会えなくなると知った琴は、“行かないで”と彼に縋った。“歳はあたしと夢、どっちを取るつもりなの?騎手になっても、有名になれる訳ないじゃない!”一方的に別れを告げられ、泣き叫ぶ琴に対して、歳三は無言で彼女の前から立ち去っていった。歳三の子を妊娠したと判ったのは、それから数ヵ月後の事だった。家族から中絶を勧められたが、琴は出産すると決めていた。しかし経済力が皆無の学生の身で、子を産み育てることは容易ではなかった。その上、病弱な守の病院代がかさみ、それを払う為に琴は一時期消費者金融から借金を繰り返すようになった。夜の世界で働き始めて借金を完済した後も、守の治療費の為にキャバクラ嬢を辞めることはなかった。全ては息子の、守の為だったのだ。 突然雲が曇り始めたかと思うと、雷鳴が轟くとともに土砂降りの雨が降って来た。「あなた、そんなところで濡れてしまうわよ?」そう言って琴の頭上にブランド物の傘を差しだしたのは、歳三の元妻・理紗子だった。にほんブログ村
2013年04月02日
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「あんた、ちょっと顔貸してくんない?」 危機が去ったかと思ったら、翌朝千尋が出勤しようとマンションから出て行くところを待ち伏せしていた琴が、そう言って彼の腕を掴んだ。「あなたとは、お話しすることはありません。」「何よ、あんたあたしのこと馬鹿にしてんの?ねぇ、そうなんでしょ?」「そんなつもりは・・」「ほら、馬鹿にしてんじゃない!あたしが子持ちのキャバ嬢だからって馬鹿にしてんだろ!?顔を見ればわかんだよ!」琴は突然声を荒げて千尋の髪を掴むと、エントランスのガラスに彼の顔面を打ちつけた。突然のことで、千尋は彼女から逃げられなかった。激痛に呻き、ぎゅっと目を閉じた千尋を見て琴は満足そうな笑みを口元に浮かべた。「あんた、あたしをコケにしたら許さないからね、わかった?」琴は千尋の頭上でけたたましい笑い声を上げると、マンションから去っていった。「大丈夫ですか!?」マンションのロビーから一部始終を見ていた管理人が飛んできて、千尋の顔を見た。力任せに強化ガラスに顔を打ち付けられ、その顔の左半分には痛々しい痣が出来つつあった。「すぐに冷やさないと。警察に通報しますか?」「いえ、いいです。」こんな顔を歳三に見られたくはなかったし、また通報したら琴に何をされるかわかったものではない。結局千尋は顔をアイスノンで冷やしながら、いつもより早めに出勤した。「千尋ちゃん、どうしたのその顔!?」 更衣室で着替えていると、総司が目ざとく千尋の痣に気づいた。「ちょっと、色々とあって・・」「もしかして、あの人にやられたの?」「あの、先輩は琴さんのことを知ってるんですか?」「知ってるも何も・・昨夜あの女から電話が来たんだよ。土方さんを隠していたらお前も容赦しないって。あの女、異常だよ。」「そんな事が・・」昨夜琴が自分達だけでなく総司にも一方的に恫喝したことを知り、今朝のこともあって千尋は警察に通報すればよかったと臍(ほぞ)を噛んだ。「岡崎さん、今すぐ402号室に来て頂戴!」「師長、どうしたんですか?」二人がナースステーションに向かうと、看護師長が顔を蒼褪めながら千尋の方へと駆け寄ってきた。「あなたが患者さんに投薬ミスしたんじゃないかって、ご家族の方が言ってるのよ!あなた、そんなことは・・」「してません、投薬ミスだなんて!ちゃんと薬剤の確認もしましたし、点滴だってミスのないように打ちました!」まさに、青天の霹靂とはこの事だった。「とにかく、沖田さん、あなたも来て頂戴。」「わかりました。千尋ちゃん、行こう。」「はい・・」一体何がどうなっているのかわからず、千尋は402号室の患者のところへと向かった。「このヤブ医者、あたしの子をどうしてくれるのよ~!」「落ち着いてください、お母さん!」「うるさい、これが落ち着いていられるか~!早くミスしたクソ野郎を呼んで来い!」病室に近づくにつれて聞こえてくる金切り声に、千尋はそれが誰のものなのかわかった。「失礼します。岡崎さんを連れてきました。」「入りなさい。」「失礼いたします。」千尋が病室に入ると、そこには半狂乱となって担当医師に掴みかかり、ありとあらゆる汚い言葉で彼を罵倒する琴の姿があった。彼女の傍らでは、点滴を打たれ、力なくベッドに横たわる少年の姿があった。「てめぇ、うちの子を殺す気か!」琴の視線が医師から千尋へと移り、彼女は電光石火の動きで千尋に掴みかかってきた。「このクソったれ、殺してやる~!」「落ち着いてください!」「うるせぇ、離せ~離せよ~!」数分も経たない内に数人の警備員達が琴を取り押さえ、半ば強引に彼女を病室へと連れ出した。「大丈夫、千尋ちゃん?」「ええ、何とか・・」「岡崎君、少しわたしの研究室で話をしようか?」「わかりました。」総司と師長の視線を感じながら千尋が病室から出ると、廊下には琴の姿はなかった。「取り敢えず、これを飲んで落ち着きなさい。」「ありがとうございます。」教授からカモミールティーを受け取った千尋がそれを一口飲んだのを見た彼は、彼の前に置いてある椅子に腰を下ろすと、一枚のカルテを千尋の前に置いた。「これは?」「さっきの患者さん・・石岡守(まもる)君のカルテだ。」千尋がそのカルテを見ると、琴の息子・守が患っている病名が大きく書かれていた。“再生不良性貧血”にほんブログ村
2013年04月01日
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『ちょっとぉ、あんたあたしから逃げられるとでも思ってるわけぇ!?』千尋の通報を受けた警察官が琴を連行するまで、彼女はマンションのエントランスで暴れていた。彼女が警察に連行されるまで、陸は歳三の胸に顔を押しつけ、声を殺しながら泣いていた。「陸、もうあいつはどっかへ行っちまった。」「本当?もう来ない?」「ああ。だから安心しろ。」安堵の表情を浮かべた陸が漸く歳三から離れると、彼の涙と鼻水で濡れたシャツを歳三は素早くキッチンマットで拭いた。「今夜はこちらに泊まられては如何です?あの人がアパートに来るかもしれませんし。」「そうだな。陸、そうするか?」「うん・・」「じゃぁ、向こうでお布団の用意をしてきますね。」千尋はそう言ってリビングから出ると、全く使われていない客用の寝室へと向かった。 上京した際、兄の聡史から“いい物件を見つけた”との連絡を受け、契約したのがこのマンションの部屋だった。一人暮らしだというのに客用の寝室があるのは無駄だと抗議する彼に対して、兄はこう答えた。『万が一のことを考えないと駄目だろ?』その“万が一のこと”が起きて、この寝室の出番が来るとは当時自分も兄も思わなかっただろう。「先に風呂、入っていいか?」「どうぞ、お構いなく。」歳三が陸とともに浴室へと消えていくのを見た千尋は、リビングのソファに腰を下ろして深い溜息を吐いた。 歳三の元妻・理紗子と会うのも嫌だったが、あの琴とかいう女が自分の所に押しかけて来たのはもっと嫌だった。理紗子は歳三と一時期は揉めたものの、陸の親権を彼に渡して新しいパートナーである東弁護士と再婚しようとしているし、向こうにも未練がない筈だった。 だが琴は違う。この前、自分の元にわざわざやって来て宣戦布告してきたのを見ると、彼女はまだ歳三に対して未練があると思ってもよさそうだった。今回は琴を退けたが、次はいつ来るのかが判らないし、向こうが何を考えているのかもわからない。一体彼女は何がしたいのだろうか―そう千尋は思いながらも、ついうとうとしてしまい、ソファに横になって目を閉じた。「風呂、上がったぞ。」歳三がバスタオルで濡れた髪を拭きながら浴室から出て来ると、やけに静かだったのでリビングに彼が入ると、千尋はソファでいつの間にか寝てしまっていた。一瞬彼を起こそうかと思った歳三だったが、余りにも千尋が気持ちよさそうに眠っているのを見て、やめた。彼を起こす代わりに、そっと近くにあった毛布を彼に被せると、歳三は浴室へと戻った。「あれ、千尋さんは?」「ああ、あいつは疲れて寝てるようだから、寝かせてやろう。」 一方、歳と陸が住むアパートの前では、案の定琴が二人の事を待ち伏せていたが、彼らが一向に現れないことに苛立って、アパートを後にした。(歳、あたしから逃げられると思ったら大間違いなんだからね!)にほんブログ村
2013年04月01日
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