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2021年07月21日
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カテゴリ: 尊徳先生の世界
「雛形の通りに年々繰り返し、少しの廃地のないよう廃地を起き返り、作り立て、その潤沢を以て、借財返済、窮民撫育、潰れ退転した家を取立てご仁徳を左右に布くならば、ご領中のみに限らず、つまり御国益にも成ります。」

「ここには、単に個別領分の富裕化のみを目的としていたのではなく、日本全体の「興国安民」の実現を企図して各地の復興仕法を指導していた尊徳の視野も示されている。」

空、自然の画像のようです


「近世の村と生活文化ー村落から生れた知恵と報徳仕法」大藤修著174ページ
4 (3)尊徳と谷田部藩との確執 174ページより
 天保14年(1843)、尊徳と谷田部藩との関係は断絶した。
そのため尊徳は、これまでの事業報告書の提出と貸し付けた桜町報徳金の返却を谷田部藩に要求した。
だが藩側は全く応じようとしなかった。
尊徳がこの交渉経緯を記録した書類を見ると、相手側の態度に憤激している。
尊徳が谷田部藩の仕法のために桜町領から投入した金銭と米穀は、総額1951両余に上っている。

この貸付には「趣法通りの取行が功験が之無く、返済相届き難き候節は、其の儀に及ばず」という条件が付けましていたが、尊徳が返済を強く求めたのは、その投入によってせっかく農村がある程度復興し、「分度」外の収入が生ずるようになったにもかかわらず、尊徳の指示通りにそれを繰り返し農村復興仕法に投下することをせず、藩財政に流用していたため、「報徳」の趣旨に背いているとみなしたためだった。
嘉永2年(1849)尊徳は谷田部財政のあり方を痛烈に批判した。
「去る午年以来、荒地起返し、産出候平均御土台外米金、1,560俵余、その外御本方より多分の軽利金御繰り入れ下し置かせられ候余徳を以て、凡そ12万両余の御借財もあらまし形付き、柳原御上屋敷はじめ、谷田部御陣屋御普請もでき、次に中郷御下屋敷代地まで相整え、去る冬は 辰十郎様御乗出しも相済み候に付き、表向きは御高丈相整い候得ども、先年御困窮相成り候其の根元を知らざるものなどは、十分この上も無く、立直り候様相心得申すべく候得ども、前々古荒5分9厘2毛の内、御趣法以来凡そ半分、2分9厘5毛8弗起返り候と見積り、都合7分少し余、2分9厘6毛5弗の御不足、凡そ3ヶ年に1ヶ年皆無同様に罷り成り候悪種、速やかに官禄身命をなげうって、御子孫永久の為を御開発成さるべき御身分に候処、案外結構御取立て下し置かれ候御恩沢に甘へ、又妻子の愛情にひかれ、先年約諾仕り置き候発願を翻し、立身出世、身分の為に包み置き、年々歳々御分内より発行仕り候御困窮は、向後御自分始め、仮令何程人智者並出るといえども、是を防ぐ事叶わず、古歌に、田子の浦に、うち出て見れば、白妙の、富士の高根に、雪はふりつつ、とかや、眼前当方より繰り入れ候御土台米金、御返済之儀は勿論、御本藩より多分之御助成を以て、御世話進ぜられ候その甲斐も御座無く相成り、忽ち素(もと)の如く荒地と罷り成り、家数人別御収納等相減じ、御困窮に罷り成り候段、残念至極に存じ奉り候。」
 仕法によって荒地もかなり起き返り、「分度」外の米・金も産出し、借財整理の進捗したが、しかし、これで十分立ち直ったと判断するのは間違いである。もしこれで安心するとしたら、それは以前に困窮した根元を知らないからである。まだ領内には3割近くの荒地が残っている見込みで、すぐさまその開発に力を注ぐ必要がある。しかるに、先年、「分度」を守り、それを超える米・金収入を農村復興仕法に投入することを約したにもかかわらず、違約してそれを自分のためだけに抱え込み、復興仕法をなおざりにしている。このままでは領地はたちまちもとのごとくに荒廃に帰してしまい、当方より米・金を繰り入れて援助した甲斐もなくなってしまう。
以上のように批判した上で、
「去る午年以来15ヵ年の間起き返り、産出候平均御分台外米金、其の外以前と違い、所々起き返り候趣法米金も、多分之有り候間、一作未4月、御伺い相済み居り候雛形の通り、年々繰り返し、尺寸の廃地之無き様起き返り、作り立てられ、其の潤沢を以て、借財返済、窮民撫育、潰れ退転式取立て、御仁徳を左右に布き候はば、御領中のみに限らず、詰まり御国益にも相成る申すべく候」
と「分度」外の米・金を年々繰り返し農村復興仕法に投入していくように要請し、それは領分中の益のみに限らず、つまるところ「御国益」にもなるのだと、説いている。
ここには、単に個別領分の富裕化のみを目的としていたのではなく、日本全体の「興国安民」の実現を企図して各地の復興仕法を指導していた尊徳の視野も示されている。
 これに対して、谷田部藩側は、尊徳との約束に背き、「分度」を守らなかったことを認め、それを侘びながらも、藩財政が再建できてこそ領民の撫育もできると、藩財政の再建を優先させる論理で尊徳に返答しており、農村復興こそ何より優先すべきで、領主階級の「分度」内での緊縮財政の実践を厳しく要求する尊徳の論理との相違が端的に示されている。
 桜町報徳金返済問題は、嘉永4年(1851)にとりあえず300両を故大久保加賀守菩提所麻布教学院へ回向料として献金し、翌年より5ヵ年間で残りを年賦返済していくことで示談が成立している。





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最終更新日  2021年07月21日 20時04分06秒
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