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この文章は更に進んで行くのですがでは一度やってみようと思ったのが一番最初です。たしか、座って呼吸を観る瞑想(座禅)ではなく、歩く足の裏の感覚を追い続ける瞑想(経行)であったように思います。着地する足のうらの感覚を観ながら、続けているとその状態から外れる,a,b,c,と言う考えが出てきました。(おっと又考えてる)と気がついて、また足の裏の感覚を追い続けていました。(Z-Z)途切れなくその想いは出てきますが、それに気がつくと、気がつくだけで、幻の様に消えて行きます。戻らなくちゃ、とかダメだなという想いも無く、ただ気がついて観ているだけでした。それを続けて行くと、この想い(a,b,c)が減っていくのです。でも絶対に無くならないのですけど面白がって、それを続けて行くと、観ているという状態があると、想いがどうも出てこられないなにか、不思議な場、状態(気がついている場、状態)があるみたいだと気がついたんです。
2024.10.29
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内山興正著「座禅の意味と実際」 生命の覚即からその最後に(前略)「Z Z´に成りきる」ことによって、はじめて合格するのではありません。煩悩妄想を細めていって、それをすっかり断滅しきってしまうことが座禅の目的ではないのです。小乗仏教では、そういう煩悩妄想を断滅しきることを涅槃、悟りとよび、これを求めて座禅するわけですが、もしそう言う悟りを人間生命の真実であるとするならば、無生命(死)こそが生命の真実だということにほからないでしょう。(後略)
2024.10.29
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「恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ」デューン「砂の惑星」からこの言葉は、半世紀以上にわたって私の心に残っている文言でした。しかし、これはまさに今まで書いてきた瞑想そのものであったという事です。この著者は、もう亡くなっていますが なぜこのことを知り、それを書き残したのか不思議です。みずからのこころで、こころを観る これは観の瞑想 ヴィパッサナーそのものです。過ぎ去る恐怖を観る それはそれがそこに永遠に留まることが出来ない無常をあらわしそこにはなにもない その静かな場所の発見 わたしはいないそして、僕だけが残っている これが 観ているものは誰?なのです。何もないものが観ているとしか諸行無常(すべては通り過ぎる)諸法無我(わたしはどこにもいない)涅槃寂静(静かな場所がある)三法印の教えもう観ているものがわたしで無ければ、もう私でないものが観ているとしかみせられているとしか命がみせているとしか
2024.10.12
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聖徳太子(厩戸皇子)生母となる穴穂部間人皇女の夢枕に久世観音が現れ、そのお腹を借りたいと言われ、その口に入ったという伝承が伝えられています。いままで書いてきましたが観音とは、その口に入るとは その様な意味があります。
2024.10.09
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お釈迦様が出家を決意して、初めて師事したのが、アーラーダ・カーラーマとウドラカ・ラーマプトラという二人で前者は「無所有処」(空無辺処)という境地を後者は「非想非非想処」という境地を教えたとあります。アーラーダは、「サーンキャ学派」の哲学者であり、さらにウドラカは「サーンキャ学派」でもあり、ジャイナ教の前身である二ガンダ派の聖者であったと推定されているこの両名は、タントラ哲学とヨーガ(瞑想)を通じてお釈迦様と共通の基盤にたっていると推定しています。このサーンキャ学派はヨーガ学派と表裏一体の関係にあり、タントラ哲学ともつながりがあるわけです。このあとお釈迦様は、6年の苦行をおこなったのですが、これは二ガンタ派の修行行動を実際におこなってみたと取れるのです。初期の仏教がジャイナ教と非常に似ているのは、このためだと考えています。
2024.10.04
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サンスクリット語の JUJ (ユッジュ)という語源から出た言葉であり馬車の頸木(くびき)に馬をくくりつけるという意味を持つこれは人間の感覚器官並びに思考活動を制御して、雑念や妄想などを停止消滅させるという事になっている。(瞑想における方法は「止」(サマタ)の瞑想である)ヨーガの分類としては、制御のヨーガ苦行による方法「ラージャヨーガ」(王のヨーガ)「カルマヨーガ」(実践のヨーガ)「ジャーヤナヨーガ」(知恵のヨーガ)活用のヨーガ「ハタヨーガ」(荒行のヨーガ)「バクティヨーガ」(信仰のヨーガ)「ラヤヨーガ」(併呑のヨーガ)「マントラヨーガ」(真言のヨーガ)「カーマヨーガ」(性のヨーガ)現在日本で行なわれているヨーガとは、ハタヨーガの初歩的なもので、本来の修行に入る前の準備体操のような物である。
2024.10.02
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2023年11月9日の事でした。ある山深い小さな神社を参拝したときでした。ずっと遠い場所でしたがここは行ってみなければならない所とずっとおもっていました。そこは荒れ果てており、道も草が生い茂り、はっきりとしません。その登った場所に小さな祠があり、その掲げられたしめ縄は、朽ちて落ちていた状態でした。一応そこに参拝して、下におり始めたところどこからともなく、無数の蝶が取り囲むかのようににあらわれたのです。白い、黄色いの蝶です。何十という数です。ヒラヒラと次々とにです。この場所は北国であり、もしかすると1週間先には雪がふるかも知れないと言われているところです。でもその日は、快晴でとても暖かく、同行の方によると異常なほどの暖かさですとのことでした。そしてその蝶達はその後も100mくらい一緒についてきてくれたことを覚えています。もうこれ以上ついてくれる帰れないよと思っていましたがとても不思議な出来事です。蝶は神様のお使いと言われおり、頼みましたよ言われたのだと思います。今日、写真が届きました。藪のようだった参道は綺麗に刈られ、登りやすいように簡単な階段がもできました。その時は無かった大山祇神社と書かれた赤い鳥居も立てられることができました。多くの人の協力によって、少しですが整備のお手伝いが出来たように思います。
2024.10.01
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