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電車がやって来た。江景(カンギョン)に着いた。駅前の道は少しさみしい。モーテルがなんと一軒しか無い。こんなに宿が無い町に来たのは初めてである。宿の受付で最初35000wと言われたが、渋ると直ぐに30000wに訂正された。実際部屋は3万w程度のものだった。まだ8時だ。せっかくなので、夜の江景に繰り出す。今日は20日だけど、解放記念日(8月15日)を祝う太極旗はまだ掲げられている。田舎の律儀さだろう。少し歩いて分かったのは、灯りが点いているのはなんと駅前一帯だけなのである。モーテルのあるこの辺り一帯がこの町のメインストリートなのか。少し外れると一気に灯りがなくなった。裏通りには、チャルチョッカル(魚の塩辛)の卸しみたいな店が軒を連ねていた。長屋通りに何軒か灯りが点いていて、人が涼んでいた。市場もあることはあったが、この時間当然閉まっていた。一軒開いていた市場の肉屋。あゝ今日は久しぶりに充実した一日だった(^-^)/。バス4800 お昼4000 SDカード 10000 電車7300 夕食6000 宿30000 Wi-Fi5500計 67600w歩数 20241歩
2013年02月01日
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デジタルセンター前からバスが出ている。電車を使って次の場所に行った方が良いよ、と言われていたので、バスで鳥到院(チョチオン)駅に行った。ところが、江景(カンギョン)行の16時36分発の電車に5分違いで間に合わなかった。バス料金が普通の倍の2400wだったので、おかしいなと思っていたら、何と40分も揺られたのである。清州から直通のバスもあったらしいのだが、本数も少ないし時間が掛かるので止めた方が良いよと言われたのである。しかし、こちらのルートも割と時間が掛かる。電車の時間に余裕持ってバスに乗ったつもりが甘かった。次の電車は18時4分だ。時間があるので、早い夕食にする。まだスンデは食べてなかった。ここにしよう。出てきたパンチャン(オカズ)は私の自説を裏切った。このタマネギ、ニンニク、シシトウのセットは、伽耶の都があった「洛東江沿岸域とその支流に限る」というのが私の自説だった。おかしいな〜。錦江流域もこのオカズが出回っているのかもしれない。それにしても、塩辛いだけで、チョー不味かった。なんとも投げやりな店で、お客の私の前で近所のおばさん(写真)と、延々とお喋りをしている。味もサービスも悪いので、写真にわざと撮りました。悪いでしょうか?それでも、スンデクッパは美味しかった(^_^;)。さて、この旅初めての電車の旅である。チケットはこんな風にぴらぴらの紙に印刷して渡される。電車がやって来た。
2013年01月31日
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井北洞のバス停留所のそばにあったタクシーのロゴ。「現存世界最古の金属印刷本「直指」」。これが現在の清州の最大の「ウリ」みたいだ。至る所にこの文字が踊っている。世界遺産になったみたいだ。直指と書いて「JIKJI」と読む。行くこと叶わなかった古印刷博物館を訪ねたならば、おそらくその全貌を知ることは出来ただろうけど、私にはこちらの土城遺跡の方がよっぽど面白いのでした。 やっとバスが来た。行は途中からタクシーを使ったが、本当は841-1と913バスで此処まで来ることはできた。のだが、一日に八本くらいしか無かったのでバスを乗り継いで井北洞まで来るのは諦めたのである。 楽チンで市外バスターミナルに戻った。コインロッカーの荷物を引き出し、まだ少し時間があると思えたので隣の電気製品量販店に向かう。suzuさんにカメラを借りてなんとかこの旅を続けることが出来ているので、替えのSDカードを買うことと、弱くなっているバッテリーを交換したかったのである。SDカードは4Gのバージョンアップを買うことが出来た。 バッテリーについては? 「ここにはありません。(サムソンのカメラだから)サムソンのデジタルセンターに行けばあるでしょう」と店の人。 量販店なのに、そんな物も無いのか!と、言いたい所をぐっと抑えてそれでも道向こうのデジタルセンターに行く。 写真の様に、こんな大きなサムソンの建物が出来ているわけです。流石、世界のサムソンですね。処が! 「此処にはありません。街中の店に行けばあります」 この品揃えの悪さ!!! この店は建物は大きいのに、人だけはひっきりなし無しにやって来て、相談と品物を引き取りにやって来ている様だ。インターネットショッピングの中継所なのか?こんな基本的なサービスの悪さで本当にサムソンは日本の東芝やシャープを抜いたのか?何故こんなメーカーに日本はやられたのか?製品は価格だけじゃないだろ!サービスだろ⁉ 私は不思議でならない! デジタルセンター前からバスが出ている。ちょうど来た鳥到院(チョチオン)駅行のバスに飛び乗った。
2013年01月30日
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バスの時間まで小一時間ほどあったので、ちょっと井北洞の村を歩く。何も無い、普通の村です。でも、10数軒のこんな村でもタバコ屋という名前のスーパーはあったみたいだ。何年も同じモノを置いているんじゃないか?人がくる様な雰囲気は無い。この地方の屋根形はこれが一般的なのかな。この家は窓の形がひし形になっている。少し中国風。途中、軍用機らしきものが飛んでいた。何処かに基地があるのか。もう一度土城を望む。1700年間原型を保っていた「クニ」の形。この地方の人たちは、どんな思いで眺めていたのだろうか。さて、バスセンターに帰ろう。
2013年01月29日
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バスで郊外まで行き、そこからタクシーを拾いやって来ました。井北洞土城(チョンブクドントソン)。わかりにくいでしょうか。道の向こうの台形の小山に見えるのが土城である(濃い緑色の小山ではなく、うす緑の低い小山)。説明は以上の通り。土城を詳しく解説した博物館は、皆さんは憶えてないかもしれませんが実は3日前の17日に百済歴史博物館を訪ねたばかりの私です。こんな写真の都市が当時展開されていたのですが、その小型町が此処だと思えばいろいろ想像が膨らむ私の気持ちもお判りなるでしょう。ソウルの風納土城の内部は現代もぎっしり家が建っているので中を発掘しようもないが、此処はきちんと発掘したようだ。風納土城と同じ時代の様だから、この時代の土城の典型を見る事が出来る。中は今はただの広場になっている。大きな川が近くを流れ、大きな平野を擁しているという条件は此処でも同じだ。一部城壁が崩れていて、よく見ると、見事な版築工法である事がわかる。違う質の土を交互に踏み固めて、この土城壁を作っているのである。この工法だから、こんな単なる土壁が1700年も残っているのである。5年ほど前に、岡山の鬼の城(7C)の崩れた版築の壁の横に現代の工事で版築の土壁を再現したのであるが、だった一度の台風で崩れたという「実績」がある。その横の元からあった版築の壁はびくともしなかったのに、である。それ程にこの古代工法は「凄い」のである。大きな土城ではあるが、それでも私でも10分も走れば一周出来る様な広さだ。昔は何のためにこの様な城を作り、どんな人がこの城の中の住人となったのだろう。毎週土曜日催しがある様だけど、去年か数年前の看板だろう。到底人がくる様な雰囲気は無い。この後、ちょっと井北洞の村を散歩。
2013年01月28日
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博物館の帰り道、学生が作ったのか、遊びの様に置かれている置き石。石をうず高く積む事に韓国の人たちはどんな意味を見出しているのだろう。遅い朝飯を食べなくちゃ。学生街だから安い店がありそうだ。この店なんか、他の店より1000w-2000w安いぜ。トトリ(ドングリ)定食を頼む。オカズが7つもついて、学生用なのか、ご飯が二つもついてこれで4000w(約280円)だ。しかも、昨日の白飯と似たオカズもあるけど、こちらの方が遥かに美味い!ドングリの身をすり潰したモノを固めた寒天?が清州の名物らしい。女性が1人で店に来たから珍しいと思ったら11時からのアルバイトだった。いかにもガリ勉の女学生という感じ。メモをいっぱい書いた付箋紙を持ち歩いていた。美味しかった。ご馳走様でした。忠北大学前の종로(鐘路?)食膳という名前の飯屋でした。さて、次は生の土城を見に行く。
2013年01月27日
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清州二日目。残念続きだった博物館巡りの最後は忠北大学博物館。ここは期待通りでした。そして1番見たかったのが、このフンスくんの姿です。後期旧石器時代トゥルボン・フンス洞窟で発見された完全な幼児の遺骨である。 顔はこの様に復元された、彼の胸の辺りに石器とキク科の花粉が集中して検出されたらしい。 骨は綺麗に残っていた。まだまだ感情を持っていそうな気がする。少なくとも、両親か村の仲間に丁寧に埋葬されたのである。 年齢は五才くらい。身長110-120センチである。約4万年前の埋葬文化と、フンスくんという個人の二つに此処で出会う事が出来る。 青銅器時代で目についたのは、清原阿徳只(청원아득이)遺跡の天文板。北斗七星を発見しているのは凄い。この前NHKが秦の始皇帝の都市計画が星座とそのまま重なる事を証明していたが、古代の知力は我々が想像するよりは遥かに高いと考えた方が間違いが無いのかもしれない。 原三国時代(2-3C)の丹陽乗楊介2地区の出土遺物も多く展示されていた。 いろんな時代の墓誌も収集していた。そういえば、日本にはこういうのは無いな。 白磁も出来るだけ注視する様にしている。まだ、白く塗った陶器と白磁の見分けがつかないのだけど、うちから発する白さと蒼さを早くわかる様になりたい。 満足して博物館を出る。
2013年01月26日
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韓国レポートを再開します。いつまで続くかわかりませんが、出来るだけ頑張ります。この日から暫く密度の濃い旅が続きました。前日は三回の記事で一日が終わったけど、この日からそうもいかなくなります。8月20日(月)雲 清州→江景快適なモーテルで朝早く起きる。大画面テレビでは、映画「私の彼女の彼氏の友だち」をしていた。最初は、単に二股をかける若者の恋愛事情を描いているのだと思いきや、男女6人全員が二股をかける壮大な悪女悪男物語になっていた。2006年度作品。カップルでいっぱいの映画館が爆笑に包まれるのが見える様だ。9時にGGモーテルを出ると、隣にこんなモーテルがあった。「王と妃」というモーテルだと思う。妃の字がどう見てもまともじゃない。所謂、漢字としてではなく、デザインとしてでしか捉えてない証拠だ。観光案内所で今日の予定のバスルートを聞く。先ずは忠北大学へ。ここには大学博物館があるのである。広いキャンパスには、学生の実験作品なのか、変な美術品がたくさん置いてある。休憩所の屋根の上に、なんかイボイボがついていると思ったらてんとう虫のオブジェだった。少し気持ち悪い。少し迷って博物館に辿りつく。外には문의支石墓が展示してあった。ここはあまり南でも無いのだけど、西に近いからか、脚が短くなっている。野外展示場も大学だけあっていろいろ豊富だ。どんな謂れがあるか知らないが、多分昔の方の傑作だと思う。いい表情をしている。この博物館は、一階が石器時代、二階がそれ以降なので、、力の入れ様は当然石器やそれ以前になる。これは石器時代の白熊らしい。昔から立派だったんだ。他にサイの標本もあった。見事な石器。疑問の挟む余地の無い。人手をかけたモノだとわかる。そして次にこの博物館の目玉遺物に出会う。推定約5歳の少年フンス君である。
2013年01月25日
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明日は衆議院選挙。こんな所で訴えても影響力持たないけど、憲法を変えて戦争が出来る国にして行こうと、かつてなく訴えている自民党や維新の会やみんなの党、改憲を是とする民主や公明、明日の結果次第では戦後日本の「エポック」となるだろう衆議院選挙。私は今度の選挙で、小選挙区、比例区ともに共産党に票を入れます。原発ゼロ、反消費税、反TPP、護憲で最も明確な党だからです。「議席にならない死に票をいれるべきでない」という声があります。特に小選挙区はそうです。しかし、岡山四区は自民、民主、維新の誰にも託せないのは明らかです。ましてや、比例区は最後の一議席を共産党と維新で争っているらしい。私は「批判票」の数が最も「効く」政党は共産党だと思います。決して「死に票」ではない。死に票というのは、一つもない、と私は思います。例えば、自民党が何故戦後50年も一党支配ができたのか。議席数だけではなく、票の動きを常に注意を払って、議席を失う前に、党方針をかなぐり捨て妥協案を出してきたからです。反対政党の伸びは必ず報われる。 さて、今日紹介するのは、関係ある様な無い様なこの本。「99%対1% アメリカ格差ウォーズ」町山智浩 講談社前に読んだ本「USAカニバケツ」は、タブロイド版のアメリカ世相レポートだったけど、これはタブロイド版アかメリカ政治レポートである。アメリカに暮らす著者にとって「政治」は日本の我々の生活と同じ様に、テレビのコメンテーターによって見聞きする「情報」なのだろう。だから、それを再現させることは、我々が時折不思議に思うアメリカの「現実」を理解する上では有効なレポートになるだろう。なぜアメリカはオバマの医療保険化をあそこまで憎むことができたのかは、理屈ではなく、コメンテーターに充分扇動された面があることがわかる。そしてアメリカで起こっていることがいかに日本でも同じ様に起こっているか。例えば、ティーパーティー(保守派のロビイストの運動)はオバマの増税政策を「政府が史上最大の財政赤字を抱えている時に、国民に増税して支出を増やす政権を容認出来ない」と批判するけど、この赤字を作り出したのはブッシュである。しかも、増税の対象は富裕層のみ。批判の仕方が日本の自民党とよく似ているのである。まるで自民党が共産党の大企業や富裕層増税を非現実的だと批判するが如し。ティーパーティーも、メデイアと大企業が作った。日本でも隠れてよく見えない(原発では、たまたまそれがよく見えただけ)けど、メデイアと大企業が世論を作るのである。金持ち減税延長反対のために、8時間半の長い演説を行った二大政党に属さない議員の存在は、日本でも何かできるのではないかという気にさせるのである。(これと同じテーマを扱ったのが映画「スミス都に行く」(1939)だということを初めて知った)この本は1%のティーパーティーを報告することは熱心でも99%のオキュパイ運動を報告することは熱心ではなかった。2012年前半の状況を伝えて欲しかった。2012年11月22日読了
2012年12月15日
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国立博物館にがっかりしたあと、道庁に戻って食堂を探す。この辺りはファッション通りらしく、若いもんがうじゃうじゃいた。ひとつ通りを離れると、閑散とした市場通り。いつもなら、そういう処に美味しい料理屋はあるのだが、サムギョプサル(三枚豚焼肉屋)ばかりで入りにくい。このオゴリ食堂に白飯(ペッパン)がメニューに載っていた。頼むと、オカズが12皿も出て来た。そうか、ここは全州の近くなんだ。こういう和え物が付く。ところが、全体に塩からい。味が単調で美味しくなかった!そりゃ、いつも美味しいとは限らないよな。しかし残念な白飯だった。久しぶりに半分以上残す。モーテルで、ビールを少し飲んで寝る。春川→清州16400 宿40000 バス五回 6000 昼食 3500 博物館お土産5000 夕食5000 夜食3200 Wi-Fi5500計 84500w歩数 19218歩というわけで、期待した清州博物館めぐりは散々だったけど、期待しなかった次の日は非常に充実した一日を送ることになるとは、このときはまだ気がついていない私でした(^_^;)。と、言うところで悪いのですが、明日からちょっと寄り道します。たまりに溜まった書評や映画評を何とかしないといけないし、他にも書くことがあるから。たぶん、続きは来年からになると思います。
2012年12月07日
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古墳型の百済時代の博物館についた。説明板には4-6世紀の墓で、様々な階層の墓があったと書いている。火葬もあった様だ。展示館の横に墓を発掘した様子を保存していた。木槨墓の周りの石積がすでに百済武寧王の石室を連想させる。日本にこんな綺麗な竪穴式の木槨墓はあるだろうか。時代的には、吉備楯築の少しあとなのだが。発掘した土器破片を触れる様になっていた。見ると、土器質の違いが様々だった。しかし、遺物、展示方法ともにあまり見る所はなかった。少しがっかり。郊外に井北洞土城というのがあり、3世紀初めらしい。きちんとした版築方式で城を囲っていたらしい。なんとか行きたい。バスで道庁まで行って、乗り換えて博物館に行く。ついでなので、忠北道庁を見てみた。オリンピックは大げさに祝っていない。静かな佇まいで好印象。そのあとはバスに乗ったら、方向を間違えて反対方向に(つまり博物館から帰ってきたバスに乗った)。そしたら、バスの運転手は「このまま乗っていていいよ」と言ってくれた。時間はかかったけど、いったん降りてまたバスを待つことが無くて良かった。写真は古印刷博物館前でUターンするバス。最初にバスを降りたところまで戻ったというわけだ。それで国立清州博物館には4時30分に着く。幸い夏場は閉館時間が7時だったので、ゆっくり観ることが出来た。しかし、あまり観るべきものがなかった。これは青銅器時代二重口縁短斜線文土器。日本にはない形。堤川黄石里遺跡の彩色土器。博物館紹介はこれで終わり。こんなに苦労して来たのに、こんなにがっかりした国立博物館はなかった。(確かあとひとつ未踏の国立博物館があるのだけど行くかどうかは微妙)さあ、帰ろ帰ろ。
2012年12月06日
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8月19日(日)雲 春川→清州午前に支石墓に行くのは諦める。バスで清州まで行くのに4時間もかかり、ヘタをすると今日中に博物館に行けないと思ったのである。バスで春川バスセンターへ行くと、嫌な予感がしたので歩いて行くのとにした。これは正しい夏休みの姿をしている子供だな、と思いパチリとした。水遊びをしに出かけるのかな?「おじさん誰?」「ごめんなさい」まるで本社かの様な立派なKSBビル。「冬のソナタ」でどれだけ儲けたのか。清州まで16400w。まるで半島を横断するかの様な値段だ。実際江原道道庁から忠北道道庁へ移動するのだから、半島を横へ横断と言ってもいいのだが。今朝のご飯はおにぎり。韓国のおにぎりはよく白飯ではなく、何かを混ぜている。一個9000w(60円)、安い。途中クムガンバスセンターという所に止まって15分も休憩した。こんなんだから4時間もかかるんだよね。あと原州にも寄った。そこはわりと大きな所だった。清州(チョンジュ)に着く。今日は昼はゆっくり出来ない。先ずは鍾路の南国市場で気になっていたチャンジククス。温かいソーメンである。近くのモーテルをさっさと決める。B.Bモーテル4万w。さすがにモーテルって、感じだ。こんなのばっかり泊まっていたら快適かもしれないが、予算オーバーだ。観光案内所でバスの乗り方を聞きに行って地図を見たら、なんと清州百済遺物展示館というのがある。これは見なければなるまい。かなりタイトな半日になりそうだ。百済遺物展示館には直通のバスは無くて、ついてから25分も歩かないといけない。バスの運転手に「着いたら教えてください」と言っていたのに何も教えてくれなかった。スマホの地図は見ていたけど、油断した。次のバス停留所で降りる。こんな形の教会もあったけど、急いでいるので先を急ぐ。古印刷博物館という珍しいものもあったけど、先を急ぐ。公園の入口は岩の中に人が入れる様になっていたけど、先を急ぐ。煉瓦を積んでいた。もっとじっくり見たかったけど、先を急ぐ。糸を引いて、水平を保つ工程を踏んでいる様な気配は無かった。30分速足で歩いてやっと着いた。古墳型の展示館である。
2012年12月05日
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国立春川博物館を出て、市庁辺りまでバスで帰り、そこから春川駅の観光案内所まで歩いて支石墓のある遺跡へのバスの行き方を教えてもらった(←結局遠くて行かなかった)。この駅前一帯が巨大な空き地になっていて、工事中である。いつも思うのだけど、どうしてこんな一等地に大掛かりな更地を作ることが出来るのだろうか。ちょっと歩いて春川七層石塔を見に行く。韓国の石塔は総じて古い。そして木造建築とは違い変な手が入っていない。新羅・高麗にかけて作られたモノとのこと。そのまま町歩きに入る。高層アパートの建築現場である。なんか心なしか鉄筋の数が少なく細い様に感じる。江原(강원)道庁に着いた。春川市は道の首都でもあるのだ。いわば県庁みたいなモノか。顔写真付きで金メダリストを讃える垂れ幕を張っている。こういうのだけは、韓国という国は素早い。ちょっと市場方面に歩いて、地下街から出ると、明洞商店街(^_^)。ソウルと同じ様に春川でも明洞が1番メインの商店街みたい。その一つ隣通りにいわゆるタッカルビ通りがある。空いていたので、有名店じゃない所に入る。タッカルビが一人前一万w。(←私的には高いと思う。)仕方なく、焼酎と一緒に頼む。(でも1人でも頼めるので良しとするか)鶏と餅とポテトとキャベツが材料。全く簡単な料理だ。しばらくしたら、炒めてくれる。味は思いもかけず、絶妙だった(^O^)/焼酎がすすむ。完食~。(←きたなくてごめんなさい) 家族連れもけっこう居た。バイトの兄ちゃんが着ていた。こんなTシャツ、日本人ならば恥ずかしくて着れんわ。「我愛倉敷」っていうTシャツ想像できん。でも、他の国から観たら「I LOVE PEACE」とかは恥ずかしいと思うところもあるのだろうか。「冬のソナタ撮影地」日本と中国がターゲットなのね。中央市場。ペ・ヨンジュさんがよく食べたというラーメン屋。市場自体はみるところなし。夜の春川中学校。校名の文字が電飾だ。モーテル街に着いた。夜は少し雰囲気がある。ソウル→春川6300 昼食5000 バス二回2400 アイス 2000 宿 30000 夕食13000 Wi-Fi5500計 64200w歩数 20072歩
2012年12月04日
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9番バスで春川博物館まで行った。今回の旅のテーマの一つ。今まで訪れていない「国立博物館」を制覇すること。住宅地の中にあった。背後に山を抱えているが、遺跡の表示はない。この博物館は、今年で健立10年目にあたるらしい。石器時代の遺物が比較的ボリュームがあったが、無視して青銅器時代に注目する。2200-2300年前の春川 新梅里(신매리)支石墓の土器である。こういう半月型石刀は日本ではあまり見たことがないような!?もっと直線?上や下の石斧が珍しかった。横城 講林里(강림리)とひ陽(양양)釘岩里(징암리)の韓国式銅剣。この銅剣の形は広く朝鮮半島に分布している。反対にいえば、この形の銅剣が日本で見つかれば、舶来モノという判断はつくけど、何処から来たのかという判断はむつかしいということか。支石墓の展示がされていた。足が長い。北方の特徴である。三国時代になると、急に鉄の生産が活発になる。これは東海 望詳洞(망상동)の鍛治のジオラマ。外の景色を見ながらゆったりするカップル。韓国にも盆栽みたいなものがあるんですね。ここまでが展示の半分。以後は、高麗・朝鮮時代の建物になる。これは寧越(ヨンウォル)蒼嶺寺(チャンニョンサ)跡から出土した羅漢像。鉄製の仏像があったのが新鮮だった。国立博物館にしては、あまり見るものがなかった。この旅で私は確信したのであるが、国立博物館は必ずしも地域1番の博物館ではない。新しい博物館ほど、専門的でなおかつデジタル機器を使い分かりやすく展示している。ただし、国立博物館は展示物は質のいいものを使っているし、職員は(以前金海博物館の女性職員がプライド高そうだったので)エリートなのかもしれない。などと売店のアイスを食べながら思う。すると、突然国立民俗国楽院の招待公演が始まった。5時からが本番でそのリハーサル。よって全てサワリだけをしてくれたが、私には短時間で見れてラッキーだった。仮面劇に似たものもしてくれた。このお姉さんは綺麗だった(^O^)/ パンソリを歌っていたのかな。管弦楽器は日本にないものがほとんど。わりと種類がある。公演はこれからだけど、雰囲気は分ったので退散する。
2012年12月03日
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8月18日(土)雲 ソウル→春川4泊でお世話になった大元旅館を辞す。水曜日集会が12時に始まることを教えてくれ、私と共に大雨の集会に行ったTさん、ずっとドミトリーで一緒だったIさん、テコンドーを学びに来た(?)Iさん、ビースト追っかけでやって来た女性、ヤンモリ結び(チムチルバンでカップルがするタオルの結び方)を教えてくれたOさんなど女性3人組、等々、今回はいろいろ夜の交流もすることが出来た。久しぶりの楽しい大元旅館だった。地下鉄で東ソウルバスセンター(江辺駅)に向かう。地下鉄の中はやっぱりみんなスマホを覗いている。前回来た時より更に普及率は上がって、多くは薄くて広いスマホ(今回のiPhone5より少し幅広)に買い替えている。それと、みんなイヤフォンをしているのが特徴。と、思い帰国後に日本の鉄道で気をつけて見たら日本も似たりよったりだった(−_−;)。東ソウルバスセンターに着いた。春川(チュンチョン춘천)へ2時間半の旅である。ウトウトしていたら、あっという間に着いた。先ずは宿探し。バスセンターの近くにはない。モーテルは高そうだけど、試しで聞いてみた。「5万wです」えー!それは問題外だ。これは難航しそうだ。南春川駅近くまで行ってもモーテルしかない。春川駅の市場方面に歩いてゆく。途中の旅館で聞くとやはり4万w。「今日は土曜日だから、何処へ行っても同じだよ」そうなんだろうな。少し意地になる。旅人宿も一軒だけあるような地域で聞く。やはり4万wだ。そこを辞してこの ノーベルモーテルは「荘」の字がついている。良さそうだ。窓口にはおばあちゃんがいた。「オンドルでもいいか」「いいですよ」「3万wよ」「お願いします」久しぶりのオンドル部屋だ。つまり布団で寝る部屋である。(←さすがに夏なので暖房はない)お湯は確かめなかったけど、お風呂も清潔そうだ。きれいじゃないけど十分である。宿探しの間、約1万歩は歩いたと思う。先ずは近くでお昼。もう昼もだいぶ過ぎて閑散とした食堂ばかりのところ、ここは1人お客が出てきたのでここにする。「百飯백밥 ありますか?」「あるよ」ということで、こういうのが出て来た。オカズと焼き魚の定食である。メインのオカズがない分、多分ありたけのオカズが出てくるので嬉しい。特にこの昆布キムチが美味しかった。全て美味しかった。
2012年12月02日
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百済博物館を出て、今度はバスで最寄り駅まで行った。そこで靴下とバンドエイドを買った。だいぶ足の痛みが軽減した。鍾路3街まで帰って、ロッテシネマで映画を観ようとしたら、夜8時からでないと目当ての映画がなかった。駅で買った柿味の餅を食べながら、暫し沈思黙考。映画は諦めて「マッコルリの旅」に紹介されていた店を求めて、鍾路の町をさまようことにした。道端にダンボールを敷いて酒盛りをしているアジュンマ(おばさんである。おじさんでは、断じてない)がいたり、夜の鍾路は独特の雰囲気がある。目当ての店はパコダ公園の裏辺りなのだが、それらしい店が見つからない。鍾路駅五番出口の処でやっとそれらしきモノを見つけた。捜していたのは、地下商店街にある「南国市場 남국시장」というお店なのである。地下に向かう店が見つからなかったのだ。何回か通り過ぎて、やっとこれが市場の入り口だと気がついた。でも、これが地下商店街の入り口に見える?まるで地下防空壕に入る感じ。しかし、人がちらほら入っている。恐る恐る入ると、確かにこんな処に地元御用達の市場があるじゃないか。もう既に8時近く。店はたたみかけている。私は食堂を探す。あった。飲み屋の店があった。看板はないけど、此処が南国市場にある「南国市場」というお店に違いない。(ホントの店の名前は「母ちゃんの海苔巻き」なのかも知れない)ぼんやりしていると、アジュンマが「何か用かい?」と声をかけてきた。壁に貼られているメニューをみる。「マッコリの旅」ではスンデを紹介していたが、見つけられなかった。「えーと、テジキムチと‥‥」「豚キムチ炒めだね」「それとマッコリを」「1人かい?」「そうです」別に嫌な顔はしなかった。他を見ると、私以外にも1人で飲んでいる人がいる。地元の憩いの場なのだろう。マッコリは長寿マッコリが金盥形のコップと共に出てきた。キムチを食べると、味に期待が持てた。そしてテジキムチポックム。単に豚肉とキムチを一緒に炒めただけのように思えるのに、味に濃くがある。温かい豚肉にキムチがよく染みてとっても美味しい。しかも、量は1人では多かった(完食はした)。とんねるずの番組「きたなシュラン」風に点数をつけると、★★★満点である。美味かったら他のも食べようと思っていたけど、今日は諦める。此処はあと30分で閉めると本には書いていた。あと20分という処で3人組の男が「まだいいか」と入って来た。チャンジククスと焼酎を頼んでいた。飲み会の締めでやって来たのだろう。ソーメンのような麺にスープをかけ、黒海苔を振っている。これで2000wというのだから安い。しかしもう腹に入らない。塩はハッピンス(かき氷)の容器に入っている。会計はマッコリ入れて一万wだった。今度来たらスンデを頼もう。大元旅館に帰るとベッド部屋は4人入って満室になっていた。明日は春川だ。宿代19000 洗濯 3000 靴下1500 バンドエイド1000 昼食7000 餅1000 水1000 夕食10000 Wi-Fi5500合計49000w歩数16954歩
2012年11月30日
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ソウル歴史博物館を出て、景福宮前の大通りに出る。李舜臣像と、世宗像と、新しく出来た光化門、そして景福宮の建物、さらにいえば大統領府の青瓦台が一直線に並んでいることを、整備された大通りを見て改めて感じた。今日の目的、ソウル百済博物館のあるオリンピック公園駅。先ずは公園内の食堂で腹ごしらえ。海鮮豆腐汁にした。豆腐汁はたいしたことなかったが、オカズは美味しかった。ソウルは地方色がないので、オカズが何でどのくらい出るのか予想がつかない。イカキムチも良かったが、昆布を乾燥させたこれは美味しかった。産地はどこなんだろう?公園が広いので、結構歩く。夏なので、韓国の国花である無窮花(ムクゲ)が、毎日代わる代わるに花をつけていた。百済博物館は、漢城(ソウル)→熊津(公州)→泗び(扶余)へと移って行った百済王朝の最初の都があった処に建てられた。百済王朝の全歴史の75%がこのソウルだったらしい。この頃から日本(倭)とも交流していたらしいし、私の関心(2-3世紀の弥生時代)から言うと、公州や扶余よりも漢城の方が大いに関係しているだろう。百済の最初の都城は漢江南にあった慰礼城(ウィレソン)である。それがやがて拡大・発展し、漢城(ハンソン)に改名される。漢城は、宮殿のあった北城と離宮のあった南城、ふたつを指す名だった。北城は現在の風納土城(プンナントソン)であり、南城は現在の夢村土城(モンチョントソン)つまりオリンピック公園の中にある土城である。そして両城の外の都市と御陵区域(石村洞古墳群)などの周辺地域も全て漢城に含まれる。そのジオラマがこれ。そのジオラマをさらに拡大するとこうなる。慨して此処のジオラマはよく出来ていた。以下、幾つかの展示を紹介。韓国の博物館は、市立国立関係なく、新しいものほど見応えのある博物館が多い。よって、新しい博物館が出来たといえば、何はともあれ見にいくのが、私の「鉄則」になりつつある。新石器時代のソウルである。新石器時代の石のすり臼である。青銅器時代の銅鏡の鋳型である。青銅器時代の村の様子である。村の様子である。百済時代の墓の変遷も解説していた。博物館屋上からは夢村土城が一望に見える。良かった。もう一度来たい。
2012年11月29日
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8月17日(金)雲ときどき雨 ソウル朝トーストをかじって9時に出掛ける。今日は博物館巡りだ。一昨日の靴がまだ乾いてなかったのでサンダルを使ったが、昨日と違ってすぐに痛くなって来た。昨日擦り切れた処が化膿したら大変だ。今日はあまり歩かないようにしよう。ソウル歴史博物館である。天下のソウル市が造ったので、やはりバカでかい。昔の光化門の一部が展示されていた。断面はやはりコンクリートだが、小石を入れていて現在の作り方とは違う。ちょうど「在日百年」の企画展をしていた。在日の人数を表示。明らかに西日本が多い。大阪や下関、福岡がすごい。みんな船で辿りついて、そのままその街に住み始めたのだ。「在日の歴史は日本の植民地支配と共に始まった」とパンフの説明書には書いていた。(←日本語版はなかった)炭鉱で「強制労働」があったことを強調しているようだ。確かに倉敷市水島でもあったし、日本で多かれ少なかれあっただろう。指紋捺印拒否運動ってあったよね。懐かしい。これが在日の運動のひとつのエポックとして位置づけられていることを知った。歴史博物館の常設展示の目玉は、このソウル市全体を一目で見下ろせる1/1500の縮小模型である。一軒一軒を再現していて、なかなかすごい。私が昨日行った忘憂駅はあったが、墓地のある山はちょうど途切れていた。上手く撮れなかったので夜のソウルをお送りします。1901年の鐘路全景。これは戦後すぐの明洞だったけ。現代のソウルをこのように捉えていた。つい最近まで現役だった飲み屋をそのまま移築したみたいだ。よって、落書きは全てガチである。さて、百済博物館へ行くぞ。
2012年11月28日
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その後、古書街を冷やかして広蔵市場に向かう。この銅像はいいと思う。リアルなのに有名人じゃない。韓国では珍しい。野菜の値段は日本とあまり変わらない。広蔵市場(カンジャンシジャン)は何時来ても活気がある。おばさん同士がかなり激しい口喧嘩をしていた。韓国だなあ、と思う。念願の麻薬海苔巻き(マヤクキンパッ)の店に入った。麻薬の様に食べ出すと止まらない、ということで有名になった海苔巻きである。具は人参と少しの青葉くらい。少し塩辛い。でも美味しい。いったいどうやって味付けをしているのか不思議だ。大元旅館にもう1人分お土産にして貰った。旅仲間に喜ばれた。あと少し腹に入れたかったので、日本では遂に食べれなくなったユッケを食べる事にした。一品料理なら12000wだけど、ユッケ丼ならば6000wだ。隣店はテレビ効果で人が並んでいたので、その隣の閑散とした店に入った。美味しかった。ユッケって、甘いんだね。歩数は最終的に四万歩近くになったのでした。(←この旅で最大の歩数になった。しかもサンダル!)宿代19000 洗濯代3000 チャージ 5000 昼食8000 コーヒー2000 靴下 3000 麻薬キンパ 5000 ユッケ丼 6000 Wi-Fi5500計 56500w歩数 39013歩
2012年11月24日
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浅川巧の墓参を果たし、バス道路まで戻って遅い昼食にした。「カワニナのお粥」というのに惹かれてこの店に入ると、しまった「ヘルシー&スロー」と書いている。自然食品の食堂だった。お粥がなんと8000w。でも自分にご褒美、初志貫徹でカワニナ注文。味は上品なドジョウ汁飯みたい。やっぱり私の口には合わない。店の飾りの中に十字架があるので、あの金蘭教会の(お金持ち)奥様が来るのかもしれない。バスと電車で東大門まで帰る。実は東大門を直近に見るのはこれが初めてである。南大門が放火延焼して以降か、簡単に近づけれないようになっている。なんだか来年はここで万博みたいなものをやるみたいだ。バカでかいものを作っていた。クレーン車には日本語で「つり荷の下にはいるな」の文字が。日本語で書いても意味無いとは思うが。地下鉄の通りで、出口が分からずかなり迷う。行き止まりが多い。変な工事をしている。観光案内所で、ソウルの次の情報を貰ってちょっとロッテリアで休憩。
2012年11月23日
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私は浅川巧の墓を求めて忘憂山を登山と言っていいほど高く登り、そして見事に迷っていた。墓はいったい何処にあるのか。ほとんど絶望しかけていた時に、ひとりのブラブラ歩いて来たメガネのおじさんに道を聞く。「浅川巧の墓を知っていますか?」「知ってるよ」「墓地は何処ですか」言葉ではきちんと説明出来ないと、早々に諦めたおじさんは五分ほど来た道を戻って行く。おじさんは私を案内板のあるところに連れて来てくれたのである。そこはなんと!私が最初に見た案内板だった。私は知らずにこの忘憂山を一周していたのである。「この동락천薬水の隣にあるよ」それは最初に見たあの道沿いの湧き水場ではないか。「えー⁉本当?おかしいなあ。全然気がつかなかった」私はそうは言ってもその場所では、浅川巧の標識とか、文学碑とか無いかは確認していたのである。おじさんは「この道を戻ってしまうと一時間半かかってしまうけど、(私が最初に行った道を)行けば30分で着くよ」と詳しく教えてくれた。もしかしたら公園管理人だったかもしれない。人に訊き始めてすぐにこの人に当たったのは、ラッキーとしか言いようが無い。とは言え、私は一度は確かめた道なので、「本当に浅川巧なんですね?」「そうだよ(ひつこいなあ)。隣をちょっと上がればあるよ」と、少し言葉が通じているのか心配になったのだろう、ちゃうどその方面に歩いて行く初老の男性に近くまで連れてやってくれ、と頼んでくれた。私はこの時やっと「もしかしたら、この墓地公園は日本のような整地されたモノでは無く、この山一帯が墓地公園なのかも」と思いだしたのである。私はその時、サンダルで3時間以上山道を歩いていた。2万6千歩を越えていた。限界を感じていたがもちろん行くことにした。初老男性は話かけても「言葉がわからん」と言って拒否した。途中で「この先だ」と言って山道方に右折してしまった。もちろん私は場所に自信あるから困らない。今度は脇目も振らず薬水に向かった。本当に30分くらいで着いてしまった。薬水のすぐ隣の墓を確かめる。違った。もしかしたら、この細い道を上がって見えにくい処かもしれない、と思い上がってみた。違っていた。左側も行ってみた。違っていた。そしてついに右の少し離れた処に行くと見つかった。この墓誌に彼の人生がそのまま現れている。한국의 산과 민예를 사랑하고 한국인의 마음속에 살다간 일본인 여기 한국의 흙이 되다. 韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる。 表には漢字で浅川巧の一生が綴られている。いい墓だ。山の方に消えたおじさんも、山から現れて、墓誌をじっくり読んでいた。私は墓参に来たのに、なんのお供えも花も忘れてしまった。これは山林応林業研究所が建てた墓の基壇。公園墓地という以上、花売り場くらいあるのだろうとかってに思っていたためである。私は日本式にただ手を合わせ冥福を祈るとともに「貴方は時代を変えることはできなかった。けれども、人を変えたのです。」も呟いたのであった。ほかの人もたぶんそれなりに韓国の人から尊敬されている人なのだと思う。幾つかを見学して帰路についた。
2012年11月22日
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浅川巧の墓を求めて忘憂山(マンウサン)に入った。入り口からさらに登る。やっと事務所まで来た。この案内図を見ると、浅川巧の墓は書かれていない。良くわからないけど、たくさん墓が書かれている処の辺りの何処かに墓地公園の入り口があるのに違いない(←この時は、墓地公園は日本の墓地のように墓が一帯延々と並んでいるのだとばっかり思っていた←それが大きな間違いの始まりだった)。左廻りで歩き出す。ところどころ、墓地公園からはみ出した墓なのか、有名人の碑がある。(と、この時は思っていた)薬水(약수)というのは、湧き水がある処である。この山道には、至る所にあるが、ここだけは道沿いにあった。美味しく頂いた。墓の近くには、このようにその人を代表する文章の碑がある。この独立運動家は「朝鮮の独立」について語っているみたい。訳そうとしたら、後に続く言葉がとっても難しくて断念(^_^;)。途中で阿且(アチャ)山一帯堡塁群という遺跡の案内図があった。どうやら高麗時代の戦争遺跡みたいだ。この忘憂山一帯に点在しているらしい。ここから0.8キロのところにあるとかいてある。足が気になるけど、ちょっと寄り道してみよう。ところが、急にゴロゴロ山道になった。しかも道行く人はみんな登山の格好をしていて、遺跡を見に行くという気配は全くない。スズメバチも、ハエを攻撃している。キジも見かけた。急に山奥に入った気がする。遺跡がある雰囲気がない。結局0.5キロぐらい歩いてもとに戻った。山の中腹からずいぶん降りても、こんな高い処からソウルの街と山々が見渡せる。何時の間にか相当高いところに登っていたようだ。この時点まで、私は公園墓地は日本のようにひとつ処へまとまっていて、墓の場所も案内図があると思っていたのである。しかし、私は突然気がついた。案内図なんて無い、墓地公園はこのスマホの位置から言うと、反対の側だろうか。(←その判断も間違っていたのであるが、仕方なかった)この案内図は墓参のためなんかではなく、あくまてもウオーキングのための案内図だったのだ。私は左周りで、下の道をもといたところへ戻り出す。「山火事発生時の道具は使うことが出来ます」と書かれた保管箱があった。スコップ等が入った箱。地下鉄には、毒ガステロ用のマスクのある箱が全ての駅にあるが、事故の時には一般市民が対処するのだ、というのが、韓国の常識のようだ。徴兵訓練の時に習うのだろうか。こんなへんな「遺跡(←ウソ)」もあった。説明の「檄文」をチラ見すると、かなり「憂国の情」を持っていらっしゃるみたいだ。もう一度スマホを見て自分の位置をみる。と、何時の間にか公園墓地(の推定位置)を過ぎている。でもそん入り口や墓は一切なかったぞ。私はブラブラ歩いて来たメガネのおじさんに聞いてみる。「浅川巧の墓を知っていますか?」「知ってるよ」後で考えると、これはかなりラッキーなことだった。
2012年11月21日
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8月16日(木)曇 ソウル雨は止んだ。洗濯物がたまっていて、朝早く洗おうとしたら、宿のアジュンマが請け負ってくれた。たくさんあったのに、3000w(210円)で済んだ。今日は今回の旅の大きな目的である浅川巧の墓参を果たす(彼の生涯を描いた映画「道ー白磁の人」、小説「白磁の人」、彼の著作「朝鮮民芸論集」についてはすでに書いた)。まだ靴はびしょ濡れ。昨日買ったサンダルを履いて行く。この時は、足にピッタリのを買ったので少々歩く分はガマン出来ると踏んでいたのである。まさかあんなことになるとは‥‥‥。地下鉄景福宮駅はいつも企画展をしている。今回は紋章の展示だった。これは1946年に書かれた国旗への寄せ書き。何処かに向かう兵士へ村の若者たちの寄せ書きなのか。日本の皇国の兵士への寄せ書きとは明らかに違う。「必勝」や「国土の防堤」という言葉もあるが、青年の自由な色んな言葉が書かれている。「自主・自立・自愛」や「未成革命(未だ革命成らず)」とか「自由 을 찾자(自由を探そう)」とか書いているのは、驚くほかはない。現代の自衛隊でも、こんな寄せ書きになるだろうか。小説「太白山脈」を読んでいると、当時は知識人の間では所謂学問の百花繚乱があった。社会主義も共産主義も実存主義も、アメリカから、ソ連からあらゆる学問(それだけではないが)が入ってきていた。その反映だとは思うのではあるが。それら文化の可能性を朝鮮戦争と祖国分断、独裁政権が台無しにしたのである。その遠因に日本の植民地支配があり、アメリカとソ連の介入があり、朝鮮支配階級の腐敗と権力志向があったのだろう。もちろんそれらの「恨(ハン)」を解くのは、朝鮮の人々であって我々ではない。だからと言って、時々政治的に感情をあらわにする彼等を冷ややかに見て良いのだろうか、と私は思う。あまりにも私たちは、彼等の事を知らなすぎるのではないか。私たちにも責任といえるようなものはあるのではないか、と思うのである。と、いうようなことをつらつらと思っている間もなく、地下鉄を2回乗り換えて忘憂(망우 )駅に行く。その途中にあった車内広告です。これだけ変わったら、日本の女性もやはり整形してもらいたいと思うのだろうか。それとも、気持ち悪いと思うのだろうか。韓国のテレビ番組で、有名人の整形前後をやっていた。私が知っていたのは、ドラマ「宮」のヒロインだけだったが、鼻が高い女性やニュースキャスターを見る度に「この人、整形か?」と思うようになってしまった。女性の顔を信じられなくなったのがイヤでたまらない。忘憂駅から墓の入り口へバスで行く適当な道は、インターネットでも良くわからなかったので、歩いて行くことにした。いつもならば町歩きは大好きなのだが、今は慣れないサンダルなので、気が重い。途中でこんな馬鹿でかい教会があった。金蘭監理教会というらしい。教会は誰でも入れると、ちえぞーさんから聞いていたので、道を渡って行ってみると侵入禁止の貼り紙が。特に気になったのは「이단 (異端)」の文字。おいおい、見学者は異端者かよ。頼まれても入るものか!この周りの地図である。アパートは少なく、一軒家が多い。この辺りはレンガ造りの家が多く、しかも目地がしっかりしている。それはつまり、丁寧な仕事をしているということだ。なぜなら、目地が全て通るということは、ミリ単位の狂いがないということなのである(←目地鏝の幅は5ミリで決まっているので狂いが生じると鏝が通らないのである)。つまりこの辺りは高級住宅地ということなのだろう。いけすかない教会があるはずだ。忘憂公園入り口まで来た。やっと半分ぐらいか。
2012年11月20日
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従軍慰安婦記念館を出たあと、弘大(ホンデ)入口駅前まで歩いて帰った。駅前でハムチョン冷麺を食べた。美味しかった。久しぶりに感で入った店で当たりを引いた。全く辛味がない冷麺なので、スープの濃さだけが決め手なのだが、この氷も当然スープを凍らせており、非常にうまかった。キムチも美味しかった。オススメである。弘大前でサンダルを買った。これから雨の日が増えるので必要だと踏んだのである。バーガーキングでコーヒーを頼んで日記を書いた。景福宮近くの食堂で、さらに満豆汁を食べた。これで腹がいっぱい。ここのキムチは自分で好きなだけ採って良いようになっていた。数年前、キムチの使い回しやゴミが問題になった時にこのセルフ方式が導入されたが、結局広まらなかった。お店の裁量でキムチを出す方がメリットが大きいのだろう。歴史館図録15000 コーヒー1000 珈琲3500 サンダル24000 冷麺6000 コーヒー1000 宿代19000 夜食4500 Wi-Fi 5500合計79500w歩数17323歩
2012年11月16日
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靴もズボンもびしょ濡れになりながら、安国駅を外に出ると、たまたま従軍慰安婦水曜日集会が8.15光復節と重なったことで、日本大使館前は物凄い数の傘とカッパ、そして機動隊でグチャグチャになっていました。従軍慰安婦集会は今年で100回を越えたという。スピーカーから大きな音で歌が始まり、やがて演説が始まる。今日は8.15の光復節で韓国は祝日である。夏休みでしかも祝日ならば、大雨さえ降らなければ、物凄い人出になっていたのは確実。太極旗を持った人もいた。参加者たちは一様に濡れていた。一つ気がついたのは、約9割が若者なのだ。それも圧倒的に10代が多い。日本だと政治的な集会は約9割が老人なので、これは全く真逆である。従軍慰安婦運動は教会から始まったので、シスターたちも多かった。私はしばらく人混みの中にいたけど、とても集会主催者がいる正面は撮れない状況なので、ホテルの庇に退避した。こんな旗が配られていて、多くの人たちが持っていた。「慰霊塔建立」と書いているようだ。亡くなられているハルモニたちも多い。そういう運動があるのだろう。「名誉と権利を」という黄色い旗もあった。慰安婦問題の本質は結局これなのだろう。30分ぐらいして、やっと少し小降りになった。少し集会の前の方から写してみる。どんな演説が行われていたのかは、さっぱり分からない。独特の甲高い責める口調の演説がずっと続き、時々拍手が起こり、歌が起こる。時々シュプレヒコールが上がる。私は集会の終わりまでいなかった。あまりにも濡れ、あまりにも寒く、直ぐ近くの珈琲店に退散した。温かいエスプレッソを頂いた。水曜日集会のあと、大元旅館に戻って服を着替え、体制を立て直して、弘大前に最近出来た従軍慰安婦記念館(正式名称は戦争と女性の人権記念館)に向かった。ソウルに来た時は、正確な場所がわからず半日探し回るのを覚悟していたのだが、水曜日集会の時間を教えてくれた青年が既に行っていて、パンフの地図を教えてくれていて、迷わず行くことが出来た。靴は使えなくなっていたので、旅館でつっかけを借りて行った。つっかけなので、駅前から歩きたくなかった。タクシーを捕まえると「住所が分からないよ」と言われ断られた。仕方ないので、歩いて行く。20分ほど歩いて着いた。閑静な住宅地の中にあった。中は写真を撮ることが出来ない。建物内には、慰安婦の証言の部屋、資料部屋、現在の運動の部屋などがある。こっそりバルコニーから外の景色を撮る。壁の写真は、亡くなった慰安婦たちである。壁一面花と共にある。資料部屋の中に、村山首相の時に示された慰安婦解決策に反対した意見広告の切り抜きがあった。これが、端的に彼女たちの意見を代表しているのだろう。一つ、政府は謝っていない。募金を集めて慰謝料を渡そうというのは、私たちをバカにしている。お見舞金という名目では受け取らない。結局は「名誉と権利を」なのだ。さて、帰りはバスに乗ろうと心にきめていたのに、バスが捕まらずに結局歩いて弘大(ホンデ)前に行ったのでした。
2012年11月15日
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西大門刑務所歴史館の外の展示物も見学する。これはハンセン病患者のための収監所だった。至れり尽くせりの刑務所だった。これは1923年に死刑場建立当時植えられた「慟哭のポプラ」。みんな死刑の前では、この木に「恨(ハン)」を撃ちつけて死刑場に向かったらしい。この死刑場だけが写真撮影禁止になっている。多くの人が「無念の死」を遂げたので、怖いのだと思われる。しかし、私はあえて撮った。何か見えるという方がおられたら、教えて欲しい。奥のところに首をつる紐がぶら下がっているのだが、ちょっと見えないか。これは死体を秘密裡に運んだトンネル。最近発掘されたらしい。ここまで見た処で雨が降り出した。早く歴史館を出よう。出た処で大雨。慶州の時に買った折り畳み傘を持って来て良かった。歴史館前のコンビニに一時避難する。バケツをひっくり返したような雨だ。コンビニでコーヒーを買って備えつけのポットで熱々のお湯を入れる(コンビニには必ずこういうモノがある)。他のお客はカップラーメンを買って食べていた。みんな、この雨宿りにくるまでだけでびしょ濡れに近くなったのだ。雨が止みそうにない。歴史館に誘ってくれた青年が「今日の昼から従軍慰安婦の日本大使館前での集会があるよ」と教えてくれたので、私も行くつもりにしていた。けれども、彼はいったい何者?(結局わからんかった)水たまりがたくさん出来ていて、運動靴を濡らしながら、安国駅に行った。この駅でも、8.15記念なのか独立運動家を展示していた。降り出して一時間も経つのに一向に止む気配がない。遂に運動靴のびしょ濡れは諦め、ズボンも大いに濡れ出した。その大雨の中、日本大使館前は物凄い数の傘とカッパ、そして機動隊でグチャグチャになっていた。従軍慰安婦の今年で100回を越えたという水曜日集会があるのだ。
2012年11月14日
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8月15日(水)大雨 ソウル朝飯は大元旅館名物のトーストと卵である。今日は一日中雨だという。あまり出歩かない様にしよう。(←結局、わりと出歩いた)「これから西大門刑務所歴史館に行くんですけど、行きますか?タクシー使うので一緒です」「そうですか。それなら一緒しようかな」昨日晩お喋りした宿仲間と行くことにした。二度目だけど、少し確かめることもあったからだ。独立門である。1897年に完成。時の高宗が「我が国が自主独立国であることを、日中並びに西欧列強に示す」ことを目的に建てたという。皮肉にもその13年後に韓国は日本の植民地になる。3.1独立記念塔。もとはパコダ公園にあったらしい。これが西大門刑務所歴史館の外の壁。いい佇まいである。西大門刑務所は、日帝が独立運動をした韓国人を弾圧するために設立、1908年から1987年まで使い続けられた。1945年までは日帝が、それ以降は独裁政権による民主活動家が収監されていた。歴史館では、この部屋が最もショッキングだった。この壁は模様ではない。独立運動受刑記録表が一面全部貼られているのである。みんな政治犯。その数約5000人。監獄収監時の写真と年、住所、身長などが記録されている。この様な明らかに少女と言っていい子どもも散見される。独立運動は、学生がそのきっかけを作ったことが多く、拷問蝋人形は上手く撮れなかったので、省略。これは独房です。電話ボックスより狭い。この中にずっと立つ。これも拷問の一つである。どうやら展示は一新されていたらしく、二回目だけど、新鮮に見れた。ついこの間まで刑務所だった処なので、生々しい。監獄の部屋は資料室になっていた。通路の上には、監督官が居る。韓国人が日本の天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓」もあった。今度は鮮明に撮れたかな?映像資料もあった。全てレンガ造で、レンガ積み自体は全て目地がきちんと揃っていて、この職人さんは良い仕事している。一緒に来た宿仲間は、1人はじっくり見学する私にしびれを切らして先に行って仕舞った。もう1人は私よりもさらにじっくり見学している。博物館巡りはよっぽど気の合う人とでないと出来ない、とつくづく思う。しかし、ここに来た目的の「感想ノート」がなかった。蓮池薫さんの「半島へ、再び」の中で「日本に対する非難の言葉よりも、昔の人たちに対する感謝が圧倒的だったことに意外の感想を得た」と書いていて、確かめたかったのですが、無いのなら仕方ない。でも、確かに全体的に拷問場面はあっさりと終わり、独立や民主化のために闘い、獄死していった人物を浮かび上がらせる展示だったと思う。さて、野外展示も見てみよう。
2012年11月13日
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最寄りの駅は江辺(カンビョン)である。さて、宿探しだ。その前にキヨスクで「シネ21」を買う。私が最も信頼する映画雑誌である。日本でいうとキネマ旬報の位置付けか。宿探しは困難を極めた。地下鉄で景福宮へ行って前回泊まった多福モーテルを探したが、あるはずの処にないのである。ノレバン(カラオケ屋)になっていた。夏休みのソウルで、三万wで泊まれるモーテルはなくなった。万が一と思い幾つか当たったがやはり五万wという答え。仕方ないので、勝手知ったる大元(テオゥン)旅館を訪ねる。少し狭く、旅人の交流も無くなっていたので、行きたくなかったのだ。しかし、これが結果オーライだった。「ドミトリーならあるよ」とのこと。さすがに予約無しでは、29000wの部屋は空いてなかったが、まあ我慢しよう。(←結局四泊することになる)ソウルに来たら先ずは映画だ。鐘野(チョンノ)3街に繰り出す。ナビがあるので直ぐに見つかるかと思っていたが、直ぐに見つかった。ロッテシネマである。「シネ21」で最も評価の高かった「トドゥクドル(泥棒たち)」のチケットを買った。やはり良かった。最終的に韓国で6本の韓国映画をみる事になるのだけど、これが1番良かった。一番推しです。(←すみません、最近AKB48の動画を集中的に見て、すっかり彼らの用語に染まっています。『推し』とはファンになる、支援する、支持する、推薦するという言葉が混ざり合った言葉です)お互いの思惑が交差する良質な犯罪ルノワール。個性豊かな10人の泥棒たちが、騙しあいながら、仕事をして行く。思わない処で本心を確かめ合いながら、香港、マカオ、釜山を舞台に大泥棒をするというストーリーである。ぜんぜん台詞は分からないけど、緊密な脚本であるという事は見ていてわかる。しかし、オチの微妙な処は良くわからなかった。多分日本に来るだろう。見てみよう。夕食は10時を過ぎた。景福宮の周りで食べようと思ったのが悪かった。この土俗村参鶏湯含めて全ての処で食事を断られた。気軽に一人で食事出来る処は閉店時間。飲み屋は1人客は断わるのである。けれどもソウルって、こんなに早く食堂が閉まる処だったけ。仕方ないので、コンビニ(←この店が次の日に閉店していたのにはビックリ)でラーメンと焼酎を買って、宿に帰ると、消灯時間だけれども旅人としっかり交流が出来た。朝飯2000 饅頭1000 コーヒー2500 金堤→ソウル12900 昼飯5300 おやつ2100 チャージ5000 宿代19000 映画 8000 夕食4000 Wi-Fi5500合計67300w歩数26540歩
2012年11月07日
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午後はひたすらバスの旅だ。一時間ほどで公州(コンジュ)の近くまでやって来た。チョンアンで休憩。いつも休憩時間がどの位か聞き取れないで、ドキドキするのだが、今日は15分くらいだった。焼酎を飲もうとすると、運転手に怒られた。汚すからだろうか。結局、こっそりと飲んだ(←おいおい)。昼食代わりです。バスで1番いい席は何処か。私は1番前の運転席の後ろではなく、右側の席だと思う。視界が1番良くて行先の看板も見えて今がどの辺りか、分かるから。この都市の名前などは、看板を見ているとイヤというほど出てくる。観光では全く有名ではないけれども、韓国の人々の生活の中では「中核都市」なのだろうか、などとつらつらと考える。後で調べたら「天安(チョナン)」でした(^_^;)。あの日帝拷問蝋人形で有名な独立記念館のある処なので全く無名の場所ではなかったですね。けれども、それで標識があるのではなく、ソウルのベットタウンとして標識があるのでしょう。その近くにこんな大きな工場群もある。写真ではわかりにくいが、看板自体がかなりでかいのだ。山の高さぐらいあるのか、と思うくらいだった。こういう大きな企業にたまたま就職出来た人は、狭く汚く、不便な朝鮮式家屋を離れて、前金何千万というお金を出して高層住宅に住もうとする。そして高層住宅だらけの無味乾燥な町が出来る。若い夫婦にとっては、機能的な町なのかもしれない。しかし、と私は思う。やがてこの高層住宅街に、日本の様に、高齢化の波が襲ってくるだろう。子供が引き続きその部屋を借り受け新しく孫を作り循環していけばいいが、やがて古くなっていく住宅に彼らは住みたがるだろうか。「今度のトレンドは一軒家ですよ」そう言って若者は更に働いて一軒家を建ててゆく、日本の様に。その時、この高層住宅街は、どの様な「死の町」になっていくのだろうか。などとつらつら考える。韓国の高速は片側四車線だけど、左の一車線は高速バスの専用道路なんだということを、今回初めて気がついた。水原(スオン)辺りで事故があった。運転手はなんと!他会社かまわず全てのバスに「右に寄れ」と手で合図していた。これがバス業界の「仁義」なのかもしれない。漢江(ハンガン)に着いた。金堤を出て2時間半、いったいどれくらい飛ばしたんだか。4時半に東ソウルに着く。
2012年11月07日
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市場の入り口近く、この周りは粉挽き屋が多い。さすが、米どころ金堤である。市場のメイン通りから一つ外れた道に入ると、突然旅人宿通りになった。昔の買春街である事は明らか。こういう通りがある事を知っていたら、宿代の節約のためにホントは此処に泊まっていたのにな〜。この通りも旅人宿通り。どうして旗があるのか、と思ったら、明日が光復節である事を思い出した。日本敗戦の日、朝鮮独立回復の日である。ちょっと雰囲気のある旅人宿だ。中で、おばさんが寝ていた。昔はこの空間に10数人のけばけばしいアガシがいたんだろうな。写真屋には大家族の集合写真が飾られている。華やかな写真だけども、すっかり色褪せている。十数年前のものか。暫く歩いて、ヨチョン聖堂に寄って見た。綺麗な曲線と長いお姿。丁寧な煉瓦積み。この町を見下ろす様に建っていて、真ん中の小さな山、遠く歩いて来た城山のタワーが見える。北に目を移すと、ちえぞーさんが泊まって「当たり」だった夢のモーテルも見える。棗(ナツメ)が生っていた。熟すのは、まだ先だ。ぐるっと回ってバスセンターに帰ろう。朝から1万3000歩歩いていた。ちょっと喫茶店で、休憩する。今日はこれから群山(グンサン)に行こうかと思っていたのであるが、昨晩のニュースでは、大雨で街まで水に浸かっていたので、行くのは止めたのである(慶州といい、この後続く台風被害といい、今年の韓国はかなり水害があったことになる)。そういうわけで、これから一挙にソウルに飛ぶ。韓国という国は、先ずほとんどのバスセンターはソウルへの直行便を持っているのである。ソウル中央集権国家と言ってもいい。東ソウルの切符を買った。米どころ金堤の平野を後にする。思えばあまり有名でもなく、遺跡だけを見に来たのでもない、今回の地方を巡る旅の、金堤が出発点であった。
2012年11月05日
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城山に登る前にこんな施設が目に付いた。近民軒。朝鮮時代の官営の建物らしい。東軒という人が建てたらしい。「近民」とは、民の近くに寄るという意味らしい。城山の麓にあるのが、金堤郷校である。大成殿は朝鮮末期に修理されたらしい。この建物は現代的なけばけばしい復元が無くて良かった。昔の匂いがする。一般に書院や郷校は、入門と出門が違う。いつも忘れるのだけど、此処はきちんと書いてくれていたので間違え無くて済んだ。右出口より出ました。城山に登る。途中にイ・サンウン学生殉死義碑があった。1943年、日帝の米の「収奪」の通路を塞ぐために駐在所と橋脚を爆破しようとして捕らえられ、獄死したらしい。それで「収奪」が止まるわけでなし。ホントに考えた上での行動だったのか。それをきちんと整理した上での碑なのか。日本の植民地的収奪は批判されるべきであるが、私はこういう評価の仕方が、まだ分からない。忠魂碑は日帝のために戦争に行った人ばかりではなく、朝鮮戦争の犠牲者も含まれているらしい。昔は此処に日帝の神社があった。反共のために犠牲になった碑もあった。私はこの十数日後に筏橋に行った時に初めて戦後暫くして大掛かりな「アカ狩り」事件があった事を知るのであるが、この時はまだ「ふーん」という感想しか持っていなかった。サルスベリの花が終わりかけ、花の小径が出来ていた。頂上の展望タワーに登る。タワーの中には昔の農業民俗資料館があったけど、開館は午後からで少し残念だった。タワーの上からの見晴らしは最高だった。アロエジュースを飲みながら堪能する。金堤の町が一望である。パラノマ調に南の碧骨堤や、遠く群山の辺りまで約180度をぐるっと写して見る。二番目の大きな道路が駅に向かう大道路。下に行くほどに右へ右へと向かい、南の大穀倉地帯、そして群山方面を展望する。上から見ると、この辺りの建物がなかなか良いな。暫く休んだあと、城山を降りてその建物の方向に行った。下におりた。その家を門の外から撮ってみる。この家の柿は、今年は豊作のようだ。
2012年11月04日
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8月14日(火)晴れ 金堤→ソウル午前中は金堤の町を散策したいので、モーテルの受付に荷物を置かせてもらおうとしたら「ダメだ。貴重品が無くなると困るから」「貴重品はないですよ~」と言っても、ダメで「部屋に12時まで置かせて欲しい」と言ったら、追加料金を取ると云う。もういい、二度と来るもんか!来れないけど(^_^;)。重たいリュックを背負って、半日金堤散策である。その前に朝めし。バスセンター前の「キンパブ大宗」は、昨晩豆腐定食を食べた処。2000wなのに、味はしっかりしていた。オススメである。大通りに出た処でふと見ると、見たことのある様な金髪が道の反対側をすたすたと通っていった。あれはもしかして、たそがれちえぞーさんの日記に出ていた「なぞの花おじさん」ではないかしら?少し追いかけて、後ろから写真を撮るのがやっとだった。道沿いのおばさんも呆れ顏をしていたから、この町の変わり者なのかもしれません。顏は見ることは出来ませんでした。けれども、後ろから見てもしっかり男でした。回りの装飾品はちえぞーさんの時とは違うかな。後ろにつけている写真はなんだろ。尋ね人にしてはアラブ人みたいなターバンを被っている。宗教の宣伝かな。それにしても、彼は遠く離れた日本で話題になっているとは、露知らないだろうな~。朝初めから一挙にテンションが上がりました。さて、気を取り直して散策を続けます。この町はわりとしっかりした煉瓦積みの家が多い。後で見るとドアに『祝福の道』と書いている。キリスト教の集会所みたいなところなのかな。裕福な家が多いのかもしれない。今日はあの城山のタワーが散策折り返しの目標である。市場の入り口に王饅頭店があった。美味しそうだ。一つもらう。教会の見える公園でちょっと食べよ。こんな形のモダンな家もある。和洋折衷みたいな感じ。肉まんなんだけど、具がたくさんあって、皮も弾力があって、非常にGOOD!これで1000wは安い。伝統市場が続いている。市庁も近くにあり、昔のメイン通りだったようだ。普通の土蔵にどうして絵を描くのだろうか。市場前の「家族」という塑像。これは珍しく抽象でもなく、偉い人の像でもなく、気持ちの入った良い彫り物だった。この金堤出身の作家らしいさて、城山が目の前に来た。
2012年11月03日
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碧骨堤遺跡公園の探索は続く。裏に回るとこんなオブジェが。うーむ、意味がワカラン。龍は水を司る神だからなのか。右端に人がいます。大きさが分かってもらえるでしょうか?やっと遺構の復元みたいな物があった。古代に水を田んぼに引く道具らしい。これがやがて水車になっていくわけだ。韓国の遺物説明の特徴(弱点)なのだが、遺構の時代説明がほとんどないのである。いったい何時の時代にこれが使われたのか、さっぱりわからない。(←こういうことを曖昧にしているから、日本文化は全て朝鮮半島からやって来たという俗論がまかり通るのだろう)南原(ナモン)の「春香伝」で有名な大きなブランコもあった。これが唯一の本物の遺構だ。何時の時代のものか分からないが、古い水門だったようだ。水門を後ろから見る。堤はこの様に続いている。昔は、イメージとしてはこの様なものであったらしい。多分朝鮮時代の堤のイメージなんだろうな。百済時代にどの様に堤をつくっていたのかは、とうとうわからなかった。あの真っ暗な資料館の何処かにあったのだろうか。ただ、現在もずっと広がる大穀倉地帯である。この広い平野と、この川は百済時代から変わらずあったに違いない。少しずつ水を治めていき、大米蔵を作ったのを想像する。日帝時代は、かなりの米が日本に略奪されていったという。今は、普通の川堤になっているが、この平野は歴史を感じさせる。バスで帰った。暗くなるまで、少し周りを散歩。こんな家は、日本家屋じゃないかしら?ガラス戸のお店。釜山やソウルは、狭い処に人々が無計画に家を建てていったので、道はほとんどグニャグニャ迷路が多いのだけど、この金堤は真っ直ぐ広めの道路が多い。これも日本人が町計画を作った「名残り」ではないだろうか。これはゴマ畑か。本格的な散策は明日だ。今日は暗くなったのでこれで終わり。夕食は軽めに豆腐定食。そのあと、喫茶店で日記を書いた。若者が多く、夜の9時ごろになっても延々と喋っていた。バス1100 全州→金堤2800 宿25000 バス2400 夕食4000 コーヒー2500 Wi-Fi 5500 合計43300w歩数14226歩
2012年11月02日
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今年8月7日〜9月1日に決行した韓国への旅のレポートを再開します。今度は10日分、30-40回ぐらい続くかな~(^_^;)。まだ2日分しか書いていないけど。ただ、私のPCが物凄く遅くなっていて、写真をつけるのは、しんどいことがあります。時々は他の記事になると思う。8月13日(月)雨時々曇り 全州→金堤 旅の7日目(前回までのレポートは左カテゴリー或いは記事題名の下にある「韓国旅行2012」にあります)朝10時に起床。先ずは南部市場へコンナムルクッパを食べに行く。suzuさんは自分の庭のように歩いて行く。どうも有名店らしい。疲れた胃にこれが美味しい!(何しろ前夜は朝3時ごろまて呑んでいたのだから)もやしが食べたことがないほど、イキイキしていた。温かい卵が一緒に出てくる。「スープを少し入れて、ノリをのせて食べるのよ」と教えてもらう。そのあと、梧木台に行って全州(チョンジュ)の韓屋をパチリ。そのあと、御真影を祀るだけのためにつくった慶基殿に入って、本当は撮影してはいけない御真影をパチリ(ボケボケなので赦して)。資料館みたいな処で、何々実録とかを見る。釜山に住んでいるハヨンさんが「日本人はこういう漢文ならば意味がわかるんですよね」と聞いてきたので「マアね」と日本的な返事をしておきました(^_^;)。此処で私はsuzuさんご一行とお別れ。金堤(キムジェ)に向かう。市外バスターミナルまでバスでいき、そこから金堤まで1時間のバスの旅で、ターミナルに着く。モーテル探しだ。直ぐ近くのキビン荘モーテルにした。外観は可愛い。作りはかなり古い。でも25000wなので許す。目の前にバス乗り場があって、事前に調べた39番バスで「碧骨堤(ピョッコルチェ)に行きたいんですが、着いたら教えて下さい」と運転手さんに言っておく。此処のバスはかなり古いタイプで、バス停の放送もない。みんなかって知ったる感じで、乗り降りするのである。バスの前につける行き先の表示も、デジタルはおろか、巻きロール式でさえなくて、座椅子の横に行き先を告げるいろんな看板を載せていたのである。着いた。何か大きな施設の門の前に放り出された。碧骨堤は、百済時代の330年に築造された堤らしい。まさか百済時代の遺構が残ってはいまいとは思っていたが、その周りの地形はそんなに変わってもいまい。いったいどんな遺跡なんだろ、と思いきたのである。詳しい説明はこの看板をお読み下さい。読めるかな~。しかし、遺跡としてはなんか「テーマパーク」みたいになっていた。しかも予想はしていたとは言え、月曜日なので休みで閑散としているのである。私は遺構と景色さえ見ることが出来ればいいのです。もしかして中にさえ入れないのかな?と少々焦りながら回りを歩き出す。公園前の閑散とした食堂には、こんなに若いお嬢さんが昔ながらの自転車を漕ぎ、こんな美人が石臼を挽いていた。お約束の郷校(貴族の勉強のための学校)も建てられている。お約束の伝統家屋も作られているけど、素通り。資料館があった!けれども、やっぱり月曜日なのでお休みだ。おや、戸が開いている。ちょっと中に入ってみる(←おいおい)。入れたけれど、中は当然真っ暗。しかも、展示資料も考古資料はなくて、子ども様の説明展示ばかりなのでがっかりして出た(←よい子は真似しないでね)。あ~あ、遺跡はどこにあるのだろ。
2012年11月01日
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ちょっとまごついたけれど、全州バスターミナルで無事suzuさんたち、マッコリ飲みツアー御一行と合流。「クマちゃん元気にしてた?」「‥‥‥いろいろありました」「どうしたっちゃ?」「カメラを失くしてしまいました」そのあと、事情を縷々説明していた時、ふとsuzuさんが呟いたのです。「なんなら、カメラ貸しちゃろか?」「‥‥‥それはいいです。ご迷惑をおかけしますし‥‥」「イイちゃ!予備があと二台あるっちゃ。どうせ最後は釜山に帰るんだから、その時返してくれればいいし」「それは物凄く嬉しい話ですけど‥‥」そんなこんなで、カメラ無しの旅も視野に入れ始めた時に、思いもかけない光が差し込んだわけです。ほとんど初対面と言って良い私に‥‥。ホント有難い申し入れでした_(_ _)_。これ以降は、写真付きです。釜山で借りたレンタカーで、モーテルにチェックインしたあとは、全州のマッコリ通りに繰り出しました。行ったのは西新町のサランジェというお店。韓国の居酒屋には、こんな絵がよく描かれている。そして落書きも。マッコリ通りの酒は一ヤカン(マッコリ)毎に次から次へと頼まなくても料理が出て来る、というシステムである。マッコリの味と料理の量と質が他とは違う!ということで有名になった。先ずは乾杯!にんにんさん、まことさん、リーダーさん、やすさん、ハヨンさん、イさん、suzuさん、ズネチンさん、コバさん、ナカノさん、あっくんさんという大世帯でした。記念の落書きです。まだまだ出るけど、料理をとりあえず撮影。前菜と言っていい。この貝は吸い付いて中身を取る。魚が出た。写真に取り損なったけど、初めて鮑なるモノを食べた。そしてこれが、かの有名で食べる人はほとんどいないという「エイ」である。強いアンモニア臭がして、かなりクセがある。肉にこれを取り、キムチを載せて食べるのだと教えてもらう。私は美味しいとは言えないけれども、舌がピリピリする、刺激のある珍味としてほぼ一皿近く食べ終えました。料理はいったいどれくらい出たのか、気がつくと4時間は飲み食いしていたと思う。次々に出る。最後の絞めの料理一旦ホテルに帰って、確定した部屋に荷物を置いて二次会に突入フルーツパーラーみたいな処だった。そこでたまたま出会った韓国MBCのディレクターみたいな人が合流。三次会を目指したのだが、既に2時近く。仕方ないので、コンビニ前で酒やツマミを買って三次会。立ち上がっている背の高い人がMBCの人です。人数は減って6人になっていた。何故か私と話が盛り上がり、お互い片言でよくわからないんだけど、彼は全州に岩崎弥太郎と細川護煕のお祖父さんの農場があったことに興味があり、追いかけているらしい。「あとで訪ねて下さい」と名刺を貰ったが、興味の対象が違ったので、行かなかった。雨のコンビニ、3時過ぎにお開きにしたのでした。バス2400 光州→全州9300 朝食3000 電話カード3000 ロッテリア3800 宿30000 飲み代50000 コンビニ8500 Wi-Fi5500合計 115500w歩数 12285歩ここでしばらく韓旅レポートはお休みします。完結するのは相当後になると思います。左カテゴリーの「韓国2012」にまとまりますので、気長にお待ちください。
2012年09月21日
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8月12日(日)雲時々雨 光州→全州ところで、朝のニュース。見逃しているのかもしれないが、一度も(日本が勝って三位になった)女子バレー日韓戦を流していない。まるで無かったかのような扱いだ。この徹底ぶりが韓国の悪いところである。9時に出て、韓国の前方後円墳である月桂洞長鼓墳に向かった。昨夜のうちにWi-Fiでバスルートを調べていたので、ストレス無しに行く事が出来た。(←やっとNAVER地図の使い方が解ってきた。←遅いで)場所は市街地である。バスで約20分の郊外。周りは高層アパートが並んでいる。しかし、そばには川は流れ、小高い丘は各地に散在していて、古代には大きな村と田園風景が広がっていた事を想像させる。写真はスマホで撮ったものです。思ったより大きな古墳だ。完全に平野に作られている。長さ44m、回りを0.8-1.2mの溝が回っている。ガマを生やす演出をしていた。形は確かに前方後円墳である。1号墳と2号墳とあって、1号墳の方が若干大きい。気がついたのは、前方部を少し山の様に盛り上げている。これは復元作業の時にこうなったのではないならば、前方部が祭祀場であるという本来の古墳の役割を忘れていると見なければならない。そもそも横穴式石室の前方後円墳なので、後円部に登り祭はしなかっただろう。どうやらハムピョンや海南で見つかった前方後円墳の3/4の大きさらしい。「日本のそれより小さい」と立て看はしきりに大きさにこだわっていたが、そんなことはないですよ、これより小さい前方後円墳は日本にいくらでもあります。むしろ、大きい方だと思う。はっきりと5世紀築造と書いてあり、当初心配した様な「前方後円墳半島元祖説」は採っていない。この古墳の保存が決定されたのが1994年なので、伽耶地域考古学の研究がだんだんと成熟した頃だったからだろう。後で管理人に「パンフがあるか」と聞くと、カラー印刷のハングル版のペーパーをくれた。そこには発掘の様子と出土土器の写真があった。明らかな器台型埴輪が出土していたのでビックリ。器台型埴輪は中国の殉葬の思想とは関係無く、日本吉備から始まり独自に発達した日本型埴輪なのである(←くま説)。半島独自の発達ではなく、明らかに日本の影響の元に作られた古墳なのだ。この古墳は、正確に日本の祭祀は輸入していないが、半分くらいそれを採用している様に感じた。非常に興味深い古墳だった。すぐ近くの南部大学に寄って見た。期待していた大学博物館は無かった。帰りのバスは一区間どこでも1200w(約95円)で、満員だった。若者がたくさん乗っていて、私と同じバスターミナルで半分くらい降りた。バスは日本よりはるかに住民の足になっている。新しくカメラを購入しようと思って、量販店らしき店に入ったが、日本の品数の1/10くらいしか無い。しかも、品質もよくない。とりあえず一万円くらいのカメラだけでも買っておこうとすると、なんと充電はPCからするようになっていた。それでは到底旅では使えない。これはショックだった。昨日カメラを無くした時よりショックだった。これから、この旅をカメラ無しで過ごせるだろうか。例えば、写真はスマホで撮り、すぐに自宅PCにメール送信すればスマホの容量が一杯になる事は無いという方法がある。しかし、画質は悪いし、電池が途中で切れる心配、枚数も一日80枚も撮るわけにはいかないという制限もある。明日もう一回量販店を回ってみようと決心する。50万wも出して使いづらい韓国製の高級カメラを買う決断もしなくてはいけないかもしれない。それにしても、この水準で、どうして三星(SAMSUNG)は日本の電気業界に勝利出来たのか。私はホント、アタマに来ていた。バスで全州に向かった。遅い朝飯でサンドイッチとホッケ茶「男」というモノを買う。しきりにテレビCMをしていた。
2012年09月20日
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事件が起きた。私は博物館の人に聞いたり、村のお店の人に聞いたりして、バスターミナル行きのバスを待っていた。駄菓子屋の前が停留所であると、判断した。コーンアイスを買って待つことにした。これはミルクにコーンの粒がアクセントになって意外と美味しかった。バスが来た。運転手に行き先を告げると「それはこのバスでは行かない」と云う。「それはおかしい。あの店の人もこのバスだと言っていた」と抗議するが何かの手違いがあったのだろう。私は去って行ったバスを呆然と眺めていた。たまたま止まっていたパトカーから警察の人が「どうしたのか」と声をかけてくれた。「バスがない」「何処へ行きたいのか」「陜川バスターミナルです」「英語は出来るか」「少し」「ターミナルまで乗せて行ってあげよう」おそらくこんな会話があったのだと思う。意思疎通が出来ない外国人を可哀想に思ったのだろう、そう言ってくれた。途中でパトカーの管轄が違うのか、川沿いの道でパトカーを乗り換えたりした。そうして私をバスターミナルまで送ってくれたのである。私は千載一遇のチャンスだと思い、パトカーの中を一枚二枚盗み撮りをしていた(←これがミスの原因だったかもしれない。いつもはカメラの紐は首にかけているのだが、この時外したのだ)。この時気がついたことがふたつ。単に車を走らせていても、パトカーは始終無線が入っている。後ろの座席はなんと内から外に開けることが出来ない仕組みになっている(←後で聞くと、日本もそうらしい)。送って貰って、丁寧に礼を言って、私はターミナルで普州行きのチケットを買い、待合室の椅子に座って少しウトウトしていた。テレビはえんえんとサッカー男子の映像を流していた。3時40分、バス時間まで後5分、私はガバッと起きてバス乗り場に行く。そこでふとカメラを確かめると、「無い?」待合室に置き忘れた?戻って確かめるが無い。その間僅か3分程。幸いバスが遅れている。私は頭を回す。可能性はふたつ。ウトウトしていた時に、椅子にカメラを置き忘れてその一瞬に盗まれたか。あるいは、パトカーに置き忘れたか。後者の方が可能性が高い。しかし、電話しても絶対話は通じないだろう。旅の間になんとか連絡が着いたとしても、陜川までわざわざ取りに来るのは不可能だ。「諦めよう」その時バス時間が迫っていたので、そう判断した。陜川に泊まることは考えなかった。明日の全州オフ会があるので早い内に全州に行きたかったのだ。泊まってゆっくり探していればもしかしたら警察にあったかもしれない。しかし、そんなことは今では意味が無い。カメラは惜しく無い。どうもピントが上手く合わないので、買い換えようかと迷っていたくらいだ。この5日間の間に、400枚程を撮っていた。これは惜しい。近藤文庫、亀浦倭城、甘川文化村の小径、ふと見つけた日本人家屋、suzuさんとの出会い、四天王寺跡で見つけた土器、慶州駅裏の日本人村。或いは博物館の数々の遺物と説明板。途轍もない落し物をした様な気もする。いや、カメラの記録に頼る旅を反省する機会なのではないか、私は写真を撮ってブログにアップする、そのためだけに旅をしていたのではないか、果たして写真が無ければ私の旅は意味の無いモノになると云うのか、もしかして無い方が意味のあるものになるのではないか。そんなことをバスに揺られながら、つらつら思ったりした。普州に着いた。こんな大きなターミナルなのに全州行きのバスが無い。光州に行くことにする。光州から全州行きは確実にある。しかし1時間半待ちで、光州に着くのは夜の9時だ。今5時だけど早い夕食にすることにした。暫く歩き近くの食堂でビビンバを頼んだ。ここは伽耶地域ではあるが、洛東江流域では無い。よってオカズは違う。煮豆とキムチと魚由来のキムチ、ふきのとう、豆スープ、ワカメスープが出た。ビビンバも全州のそれとは違う。良い意味で田舎くさい味で全部美味しかった。光州で宿を探した。モーテル街に行くと、1番安いので35000w、あとは50000wだった。重たいリュックを背負い6000歩以上歩く。今日タクシーを使ったことで大きく予算をオーバーしていたし、カメラを買い換えるとしたら何10万Wいるかわからない。節約意識が働いていて一時間ほど歩いた。意地になっていた。10年程前に泊まった覚えのあるシンカラクモーテルに入る。30000wだった。5000W上がっていた。土曜日の夜なので高くなっていたのだろう。泥のように眠った。ジュース600 慶州→大邱5200 地下鉄 1200 大邱→陜川 5600 昼食6000 タクシー19000 博物館700 アイス500 陜川→普州6400 夕食6000 普州→光州9800 宿30000 Wi-Fi5500合計 96500w歩数 18904歩
2012年09月19日
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8月11日(土)雨のち雲 慶州→大邱→陜川→普州→光州朝4時に起きた。サッカーが始まっている。まだ0-0だ。ところが、パスが全然通っていない。そして向こうのFWの神懸かった様な個人技で一点獲られてしまった。その後もいいところなし。0-2で終る。韓国のチャンネルは4局でやっていて、全部実況の声が違っていた(日本は一つ)。慶州の田舎では、流石に終わった後も外は騒がしくはならなかった。朝五時、誰かの話し声は聞こえた。‥‥‥しかし、日韓戦における韓国選手のあの集中力はいったいなんだというのか?慶州でいいことなんて一つも無い!ということで、6時50分発のバスで引き上げることにした。大邱に行って陜川のバスがあればそれに乗ろう。バスの中の朝のニュースは、八割がサッカー、一割は大統領独島訪問、他はオリンピックニュースだった。東大邱に着いた。やはり此処から陜川にはいけない。地下鉄で西大邱バスターミナルに行く。すると陜川行きは五分前にバスが出発したばかりだった。此処から明日約束している全州行きのバスは無い。(←明日全州のマッコリ通りでオフ会に参加することにしていたのだ)今日、明日、どの様にスケジュールを組むか、1時間沈思黙考する。スマホを使っても、高速バスの時間割の調べ方がわからない。日本語観光案内サービスが繋がらない(←1330を133と間違えていた)結局、結論出ない。まあ、ともかく陜川(ハプチョン)の古墳群見て何とかなるだろ、と11時のバスに乗った(←結果的に此処が運命の最初の別れどころだった)。途中高霊を通り、陜川バスターミナルに着く。博物館は更に遠くにある。ザッと見渡して博物館以外にこの土地で見るべきものは無い様だ。此処から全州行きのバスはなかったので、とりあえず普州に行くことにして、博物館をちゃっちゃと見て帰ろう。とりあえず、メシだ。適当な店でソルロンタンを頼む。此処は洛東江流域なのか、鉄壁のオカズセット(キムチ、カクテキ、シシトウ、タマネギ、ニンニク)が出る。特別に美味しいモノではなかった。早く行こうとして珍しくタクシーを使った。途中で博物館まで17キロの表示があった。しまった。想定よりも倍以上の金がかかる。帰りはバスにしよう。陜川博物館は玉田(オクチョン)古墳群の中にあり、その遺物を中心に展示している。遺物自体は一昨年行った普州慶尚大学に多く展示されているが、こちらはわかりやすく展示しているし、何よりも遺跡が此処にはある。西暦4C前後に高句麗広開土王の南征の影響で釜山金海の住民が移って来たのだとのこと。その意味では、純粋な新興国家であり遺物は後期伽耶時代のモノしか無い。国の名前は多羅国で間違いなかろう。「日本書紀」の中の任那復興会議に登場する国である。どうやら洛東江の支流にある国らしく、比較的楽に日本から来れた様だ。鉄製品がたくさん出ている。高句麗、百済、新羅、中国、倭との交流。見事な装飾品。バランスの取れた(綱渡り的な?)外交戦術で、強力な専制政治を敷いていたのではないか。その後、裏山の玉田古墳群を見て回る。高霊池山洞古墳群と比べ大きくはない。墓は短期間の間に、竪穴式木棺墓から、竪穴式石槨墓、横穴式石室墳まで急速に変遷していた。バス停留所の場所は良くわからなかったが、博物館の人に聞いたバス時間には30分以上余裕をもって遺跡を後にした。私の旅史上最大のミスはその後に起きた。
2012年09月18日
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8月10日(金)曇りのち雨 慶州朝9時に起きた。早起きの私にしては、寝坊である。まだ昨夜の酒が残っている。スマホやカメラを充電していなかった事に気が付く。お風呂に入ったり、なんやかんやしていたら10時出発になった。老浦洞(ノポドン)11時出発の慶州行きのバスに乗る。バスは意外にも非常に豪華だった。流石ドル箱慶州行き。直通1時間のバスだが、ほぼ満席である。慶州に着いた。先ずは宿探しだ。ウワサには聞いていたけど、以前泊まったキリン荘が取り壊されて鉄筋ビルを作っている。その前の古そうなモーテルで値段を聞いてみる。「安いよ。5万w」他の処を探す。「部屋は無いよ」平日で断られたのは初めてだ。流石、夏休みだけはある。太陽荘モーテルで聞いてみる。「あるよ。3万w」部屋を見せてもらうと意外と綺麗だ。此処にする。バスターミナルから少し離れているから安いのか。昼メシは前回行ったマッタケ料理のお店。ビビム冷麺を頼んだのだが、オカズが三品ほどしか出なかった。もっと多くて美味しかったという印象だったのだかおかしいなあ。(←実際見てみると、そのときは同じ値段の料理でおかずが9品ついたと書いている。日によって違うのか、この一年半の間にサービスを落としたのか)ここで食べている時雷が鳴って雨が振り出した。モーテルに戻り雨宿りする事にした。(この雨がこれ以降ずっと苦労させられる雨の始まりであった)なかなか止まない。2時間経つ。小降りになったので、マートで折り畳み傘を買い、善徳女王の墓までバスで行く事にした。当初の予定は、昨年青銅器時代の大きな住居跡が発掘されていたので、そこへ自転車で行く積もりだった。しかし観光案内所で聞くと、到底自転車では行ける処ではなく、詳しい場所もわからないとの事。大きなリスクがあるので止めた。しかも、3時から自転車を借りようとすると、もう今日は終わったと言われてしまった。そういうわけで着いたのは郊外の四天王寺跡の原っぱの前。この奥の小山に善徳女王の墓が最近発見されたらしい。四天王寺跡は現在発掘中である。これも観光の目玉にするつもりなのだろう。ところが、発掘現場をぐるりと回って、線路の高架の下を潜ろうとしたところで行き止まりになってしまったのでした。小川から溢れた水が唯一の道を塞いでいるのだ。ひざ下まで水に浸かる程度。高架を越えて行こうとしたら、列車が来て轢かれそうになった(←大袈裟)。越えるのは草が茂って無理、びしょ濡れになりながら墓を見る気力は無い。諦める。四天王寺跡の発掘現場以外の場所をうろつくと、瓦質土器や白磁の破片らしきものが沢山転がっていた。バスで慶州駅前の市場に戻る。ドジョウがたくさんいた。この地方の特産なのか。鯉もわざわざ「国産」と書いて売られている。FTP韓国では、国産表示は即ち「安全安心高級」と同義語なのだろう。駅の高架鉄橋を渡る。線路沿いの古宅はまだ昔ながらの造りをしていた。庭の中に井戸があるんだ、と発見。高架を渡ると、駅は広い操作場を持っている事に気が付く。駅の反対側の慶州中学校がある辺りは、昔日本人がたくさん住んでいた地域なので一度歩きたかった。家に瓦屋根が多いのはその反映だろう。建て替えているとしても、道の構造は70年前と変わらないはずだ。道は、直線で広い。だから町の雰囲気はとても日本と似ている。バスで帰る。バスターミナル前の気になっていた喫茶店でパンとコーヒーを頼みながら、きょの日記を書いた。パンは古墳の様な形をしている。中に空洞があるので、見た目は大きいけどボリュームは無い。香ばしくて美味しかった。夕食はsuzuさんお勧めのミド荘旅館一階のプカン食堂にした。カルビタン。ここは7品目のオカズが出た。貝や小魚の煮付け、海産物のオカズが目立った。美味しかった。男子サッカーの為に、この日は早々に寝た。チャージ3000 ジュース700 釜山→慶州4500 宿30000 昼メシ6000 傘4500 バス4500 夕飯7000 Wi-Fi5500合計 65200w歩数 14561歩
2012年09月17日
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臨時首都記念館を探して東大新駅辺りをウロウロする。すると明らかに築70年ぐらいの大きな日本家屋があった。なんの説明書も無い。そうやって気をつけると、この辺りはまだ瓦屋根も残っていた。東亜大学博物館に到着、二度目の訪館。金海池内洞遺跡出土の三韓時代(1世紀)の大きな甕棺墓、勒島遺跡出土の弥生式土器、中国漢王朝の半両銭、そして勒島遺跡出土の丁寧に埋葬した犬の骨があった。たしか同じ様なモノが千葉県の加曽利貝塚にもあった。加曽利の方が古いけど。ペットを埋葬するのは、全世界共通の感情なのだろう。野天の小さな工事現場にウオーター機械を備えつけてあった。熱帯地域の様な日本こそ欲しい設備だ。日本の小さな工事現場には無い。韓国のこの機械の普及率はすごいと思う。博物館から一キロもいかない処に臨時首都記念館があった。この建物は1926年慶南道知事官舎として建てられ、朝鮮戦争当時釜山が臨時首都だった時期(1950-1953)、大統領の官邸として使われたらしい。昭和初期の日本の木造建築の最高の部分がある。丁寧に作った窓枠、階段、真っ直ぐに揃った屋根瓦。広く明るい浴室、おしゃれな便器、明るい食堂、ふんぞりかえる李承晩の人形。そこから南浦洞に帰り、映画のチケットを買った。見たのは「ヨンカシ(カマキリ)」である。カマキリが主人公ではなく、カマキリに付く寄生虫が何故か人間に寄生する突然変異の怪物になる話。ソウル市民が次々水を求めて川の中で溺死する。国中がパニックに陥る、という映画である。パニック映画としては、イマイチ。家族を救うために頑張るお父さんと裏で暗躍する汚職国会議員を交互に描くが、少しエンタメし過ぎていて批判精神に乏しい気がした。「グムエル漢江の怪物」の系統だが、三番煎じという感じ。ただ、見ている間中、甘川文化村で食べたスイカアイスのことが気になって仕方なかった(少し腹の調子がおかしくなった。気のせいだったけど)。マイ・夕食タイムの8時には少し時間があったので喫茶店でお茶をした。おしゃれな喫茶店なのだが、味は変わらず、マックとこちらで1000wから3600wに値段が跳ね上がるのは、不可解ではある。今日の夕食は愉しみにしていた真珠食堂。今日も人がいっぱい入っていてなんとか座らせてもらった。豆腐汁定食とマッコリを頼んだ。オカズが六品も出てきた。特にキューリキムチとズッキーニのキムチが美味しい。豆腐汁も単に豆腐が入っているだけでなく、たくさんの具が入っていて絶品だった。というような事を味わっていると、隣の女性がどうも気になる。珍しく女性一人で飲んでいる。いまさっき日本語で「食事するなら豆腐汁定食を」と進めてくれたのは彼女なのだが、その後主人と親しくお喋りしていて、日本語が上手な韓国人かな、と思いなかなか声をかけれずにいた。この時期、真珠食堂を基地にしているsuzuさん(たそがれちえぞーさんのブログのコメントで知っていた)が釜山入りしている情報は得ていたのだが、決め手を欠いていたのだ。「もしかして日本の方ですか?」「そうです」「もしかして、たそがれちえぞーさんはご存知ですか?」「ちえちゃんは友達だけど」「私、ちえぞーさんの処で時々おじゃましているくまというモノですが」「あゝあなただったの!」という事で、初対面にも関わらず一瞬にして旧知の仲になってしまったのでした。どうもお互いに相手を韓国人だと思っていたらしい。suzuさんは、不思議な女性で、その日のうちでも、韓国の人とプレゼントの交換があったり、見知らぬお客から差し入れがあったり、本人はほとんど韓国語は出来ないと言っているし、事実ペラペラでは無いのだが、そのコミュニケーション力の高さはすごいモノがあるのでした。気がつけば、釜山友達のハヨンさんも合流し、二次会のトースト屋という屋台に行ったのでした。そこでsuzuさんから「たそがれちえぞーさんにコメントを書け」と言われて書いたのが以下のコメントです(コメント時間にご注目ください)。今、スズさんと真珠食堂で出会って、飲んでいます。無理やり、トースト屋に連れていかれて飲んでいます。僕はいつ帰らせてくれるのでしょうか。助けて~。2012/08/10 01:20| くま| URL|文面はあくまでsuzuさんに言われて書いたので、私の意思では無いことをお断りしておきます。そしたら、暫くしてちえぞーさんから国際電話がsuzuさんに掛かって来ました。思いもかけずちえぞーさんともお話する事が出来たのでした。今まで一度も会った事の無い人と一瞬で親しくなれるブログの不思議さをつくづく感じた夜でした。(私、オフ会ってやった事無い人)で、お開きにして、タクシーで世宗荘に帰ったのは午前4時前になっていた。こんなに飲んだのは、私の旅人生で初めてでした。チャージ5000 朝食1900 アイス 500 バス900 ジュース1000 マック2800 映画 7500 コーヒー3600 真珠食堂7000 二次会10000 タクシー3800 Wi-Fi5500合計49500w歩数21884歩
2012年09月14日
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8月9日(木)晴れ 釜山今日は朝から身軽に世宗荘を飛び出した。韓国では電力不足で停電危機感が広がっていると聞いていたので、どれだけ暑いんだろ、と戦々恐々としていたのだが、下関の汗だくの環境と比べたら此処はまるで「秋」である。少し暑いけど、湿度が低いので、汗をかかない分涼しく感じる。雨さえ振らなければ、八月の韓国、快適に回れそうだ。(←ホント雨さえ振らなければね)釜山南浦の向こうの土城駅から甘川(カムチョン)文化村辺りを歩こうか、というのが私の計画である。朝飯はパン屋さんで売れ残り30%ひきの玉子焼きパンを買う。良いアイデア。2番バスで甘川小学校に行こうと思ったが、そのバス番号が無い。(あとで考えると停留所が違っていた)時間はある。歩いて行こう。カラーに塗っている階段、ぐねぐねした道、電柱にかけてある警官マークの入った袋、外付けのトイレ、アップダウン、釜山に来たなあという気がする。今回の旅では、レンガ、ブロック、屋根瓦等々の左官技に目が行った。写真が無くて申し訳ないが、少し言及する。レンガはとりあえず職人教育は出来ていると思う。表面をフラットに作るのと、角を垂直に立てるのは意識している様に感じた。しかし、レンガも目地が汚いので全体が綺麗ではない。綺麗に作っているのは大抵貼り付け型のレンガもどきである。そのレンガもどきも下手な職人が多いので、時々剥げている。甘川小学校玄関近くの壁に歴代外語先生なのか、色んな言語で別れの言葉が書かれていた。いわば公式の落書きである。日本の人も「この間がとっても楽しい時間だった」と書いていた。甘川小学校もカラフルに色がついている。全体のムラのカラーに合わせているのか、それともこれがこの釜山の精神性なのか。小学校から山の頂上に公園があると案内板に書いていた。ちよっと見晴らしの良い処ぐらいの気持ちで登りだす。しかしこれは登山であると、途中で気がついた。スマホで地図を見ると、立派な山なのである。頂上まで行ったら時間と体力が足りない。頂上近くで引き返すことにした。行きと違う道を選ぶのは、旅人の性質(さが)、下りの山路を選ぶ。近道かと思ったのだ。早く帰れるか。 途中、変な道になって不安に陥りながらも、なんとかチョネ路という処に出た。良かった。甘川小学校より少し南に下がったところみたいだ。眼下に甘川文化村がすり鉢の様に広がっている。レゴブロックの様にさまさまな色が不規則に並んでいる。とりあえず降りて見る。天馬村というらしい。おやおや、小径をモルタルで舗装しているのはいいけど、子犬が柔らかい時に通った跡があった。それはいい。しかしどうして人間の靴跡まであるんだ⁉完全に業者のミスだろ?日本ならばやり直しだぜ。ところが、そんな問題では無いという事に気がつく。なんと玄関の前に「2012.2.××、云々」という落書きを自らしていた。十数年歩く小径にそういう落書き(?)をしても苦にしない人々なのだ、この人たちは!駄菓子屋でスイカを小さく切った形のスイカアイスを買った。500w(35円)。一度食べてみたかった。甘さ控えめ、スイカの味はあまりしない。小豆が少し入っている。すり鉢の底に降りる。天極道村という。天極道という宗教みたいな事を始めた人の墓があった。正面に行って写真を撮ろうとしたら怒られた。家の中だったようだ。後て陰から撮ったけど、今はもう写真は無い(^_^;)。天極道村も迷路の様な小径である。「私たちの学び遊ぶ部屋」という小さな家もあった。日本にもある放課後の子どもを預かる施設だろうか。すり鉢の反対側に登った。へんな家があった。崖に向かってコーヒーカップの取手みたいなモノがついてる。よくあるへんな芸術家の家だろうか。ではなくて、この文化村のプロジェクトの一貫で作った徳川駅にもあった様なブックカフェらしい。中には100冊ほどの本と、椅子とソファとインターネットが出来るデスクと、冷水やお湯が使えるウオーター機械も着いていた。管理人のおばさんもいる。記帳ノートを見たら、今日は大邱からたくさん来ていたようだ。一軒家を改造して屋上が展望台になっている処があって、登ってみた。その近くに、文化村の散策マップがあった。どうやら私は散策ルートの反対側から歩いて来たようだ。バスでいったんもとに戻る。バスの運ちゃんに「土城駅に着いたら教えて」と言ったけど教えてくれずにチャガルチまで行く。あまり運ちゃんに頼り過ぎてはダメだなあと思う。
2012年09月13日
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この後地下鉄で寿安(スアン)駅に行って駅構内にある壬辰倭乱歴史博物館を見に行った。最近出来た博物館らしい。(写真はこの釜山を離れる最終日に撮り直しました)改札口の処にあるから絶対迷わない。この博物館は、今朝観光案内書で偶然見つけたのだけど、想像以上に良い博物館だった。駅を作る時に発掘した成果をそのまま無料で駅内に展示しているのである。東菜城の戦い(1592年4月13日)には小西行長がやって来たらしい。釜山鎮城を圧倒的な軍事力で占領した後、此処にやって来て降伏を進言したが、陸軍司令官は逃げたのに部下の宋某氏は住民と一緒に戦い「千人百人のうち一人二人しか生き残らない」壮絶な戦いになったという。それを裏付ける様に城の周りの堀から白骨がゴロゴロ出土していた。朝鮮側の武器は、矢や刀しか無かった。思うに負けるのも当然だろう。16世紀の矢じりを初めて見た。弥生時代のそれと少ししか変化していなくて、一度発達した武器はなかなか変わらないということが分かった。寿安駅から地下鉄を乗り継いで、徳川(トクチョン)駅に至る。此処で亀浦倭城に行くことが出来る。金海や簗山攻略の為に作られたらしい。洛東江を臨む小山頂上に建てられている。思った以上にしっかり作られていて、残りも良かった。占領したばかりの住民を使って数ヶ月でこれを作ったのだろうか。徳川駅に戻る途中、急勾配の屋根瓦、ガタガタのブロック積みが目についた。(結局この旅の間ずっと目についた)ブロックなどは目地が無い。糸を引いて「水平を取る」「線に合わせる」という意識が全く感じられない。だから最後は適当に誤魔化すから可笑しな形になる。これも地震が無いから出来ることなのだろう。ブロック職人は存在しないか、素人同然の者がしているのであろう。徳川駅から洛東江を渡り大猪駅に至り、そこで金海軽鉄道に乗り換えて、金海空港に向かう。釜山に来てショックだったのは、今回の旅で準備して来たオフラインでも使えるエバーノートのデータ読み取りが何故か出来なかったこと。仕方ないので、毎日5500w出して、Wi-Fiを持ち歩く手続きを空港で取ることにしたのだ。(←結果、これにはずいぶん助けられた)西面(ソミョン)に戻ってロッテデパートで映画を観ることにした。チケットを買って食事に出る。開店一周年でスユク定食が2000w安くなっていたのでそれを注文、でもスユクって煮た牛肉のことかと思いききや豚肉でした。オカズはキムチ、シシトウと玉ねぎ、ニンニクが付いた。洛東江流域にはこれが必らずつく、というのが私の「説」である(なお、釜山は都会過ぎてこの例外とする)。キムチは美味しかった。映画は前情報は全く持っていなかったが「私が王のイロソだ」(ジュ・チフン主演)。瓜二つの皇太子イロソと、奴僕の男の立場がヒョンなことから入れ替わる話。よくある話ではある。笑は後ろの女性がしきりに笑っていたが、人の入りはイマイチ。日本には来ないと思う。世宗荘でもう一泊することにした。明日の朝、荷物を動かすのがイヤだったからである。宿代(二泊)60000w 朝食3500w チャージ3000w Wi-Fi 5500w 映画8000w 夕食 6000w 夜食2200w合計88200w歩数 26652歩
2012年09月12日
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8月8日(水)雲 釜山朝三時半に起きた。フェリーの休憩広場のテレビの前では、やはり人だかり。しかし、日本VSメキシコ戦ではない。韓国VSブラジル戦である。韓国も善戦した様だが負けた。もう一つのテレビで、一生懸命NHKを探したのだが、既に韓国領土に入っているためなのか繋がらない。ニュースの情報だけで日本が1-3で負けた事を知る。次は日本VS韓国の三位決定戦だ。これなら見る事が出来る。フェリー船上から朝焼けの釜山港を見る事が出来た。夏の旅の特権だ。少し得した気分。昨晩は台風11号の影響か、そうとう揺れていた。いつもはターミナルから中央駅まで行き、南浦方面にいくのだが、今回は反対方向の釜山駅方面に歩いた。こちらで宿と朝食を探す事にしたのである。駅の操作場の壁にポンポン菓子を作っている処や日本にはない子供たちの遊びの風景画が書かれていた。韓国はいたるところにこういう絵が描かれている。フェリーで同室になった人が「いまは特に夏休みだから、モーテルの値段は高くなっていますよ」と言ったのが気になっている。25000wで泊まりたいと思ったけど、ムリか。試しに釜山駅前のモーテルで聞いてみる。「五万ウォンだよ」少ししかめ面をしたら、4.5万ウォンに落としたけど、問題外である。めったに来ることのない釜山駅を通り過ぎてさらに歩くと、なんとブロガーのたそがれちえぞーさん御用達の世宗荘があった。やはりモーテルと書いているけど、3.5万ウォン以上ならば諦めようと決めて入る。「三万ウォンよ」即決。隣の食堂でもやしラーメンを朝飯として食べた。3500wなので節約したのである。初めてのキムチ、まあ合格である。きちんと作っている。いわゆるラーメン鍋(小ぶりの黄色のアルミ鍋)で出てきた。いい感じである。先ずは釜山大学に行く。岡山大学考古学名誉教授の近藤義郎氏が退官の時に朝鮮考古学への贖罪と発展を願って、自分の蔵書を寄贈したという事をこの前知って、どんな本をどれだけ寄贈したのか、確かめたかったからである。今回の旅の最初のエポックである。しかし大学構内で迷いに迷った。案内板に図書館が無いのだ。男子学生に「図書館は何処だ」と聞いて行けば、そこは勉強ルームだったりした(←図書館とは勉強する処という意味なのか?)。いろいろ聞いてやっと探し当てた時は正午近くになっていた。処が、図書館はなんと学生カードが無ければ入れないシステムになっていたのである。仕方ないので、また釜山博物館に行く。前回は各地の遺跡の位置を知るために此処に来たのであるが、今回実際遺跡を回った目で遺物を見ると、また感慨が違った。泗川の勒島遺跡を発掘した大学なので、その遺物がたくさんある。また、釜山福泉古墳群の遺物も多かった。蔚山下垈遺跡は、4-5世紀の古墳群だと紹介していた。豊富な鉄の遺物が出土していたらしい。検丹里遺跡の近くなので、青銅器時代のイメージだったのであるが、大きく印象が変わった。このまま帰ろうかと逡巡したが、意を決して近藤文庫の事を助手らしき男性に尋ねてみた。「ああ、近藤先生の寄贈本!」直ぐに分かって呉れて、別館の考古学の事務室に連れて行って呉れた。そこで若い女学生(?)に案内を引き継いで別館の書庫に連れて行って呉れた。(←要は最初からこっちへ来れば良かったんです)もっと学者が書いた著名入りの専門書が並んでいるかと思いきや、想像と違った。書庫の約1/4を占めて、本棚10箱が近藤文庫であったのであるが、なんとその9.5割は各地域の発掘報告書だったのである。公共図書館では無く、個人がそこまで報告書を集めるものなのか。日本を代表する考古学者とはこういうものなのか。改めて尊敬の念が湧く。昭和8年(題名失念)発行の報告書には、流石に教授の書いた線がたくさん入っていた。お互い言葉が良く分からなくて、私が何者か、何故この文庫を見に来たか、説明出来ないまま、岡山から来たというだけで案内してくれた釜山大学の方たちに感謝します。この膨大な報告書を活かして下さる様に切に願います。近藤義郎の名前を言った時に即座に反応して呉れた(寄贈は20年近く前)ので、安心はしています。
2012年09月11日
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今年8月の26日間に渡った私の生涯最長の旅の記録レポートを始めます。但し、最初は、いつものレポートとは違います。写真がほとんどつきません。実は、旅の4日目に史上最大の失敗をしてしまったのです。カメラを失くしてしまいました。幸い、今回の旅で出会ったブロガーのsuzuさんの御好意でカメラを12日に貸して貰いそれ以降は映像があるのですが、以前はちょっとわかりにくいモノになっています。しかし、日記だけはつけていた為に、記憶は鮮明です。写真を前提にした記述も見受けられるかもしれませんが、ご了承ください。8月7日(火)晴れ朝、結局一時間ほどウトウトしただけだった。旅の準備が整わないまま、なでしこ観戦(準決勝死闘の末、フランスに勝つ)、その後アメリカVSカナダ戦に突入してしまって眠れなかったのである。6時半出発、倉敷駅から鈍行で下関へ向かう。夏らしくバックパッカーらしき人が寝ていた。車窓から外の景色を見ていて、今回気がついたのは、太陽光発電が少しづつ始まっているということ。20ー30軒に2-3軒ぐらいの割合で、屋根にあの四角い黒いガラスが取り付けられているのである。岩国駅でビールを買い、昨日作った野菜炒めをツマミにして昼ごはん。今回の旅は、テーマとしてではなく、必要に駆られて貧乏旅になる。計算では、一ヶ月の全ての生活費プラス5万円でこの旅が出来る予定である。それならば、例え成果か無くても旅に出た方がいいだろう。しかし、やってみなくてはわからない。今朝、早めに出たのは、去年の旅のとき風邪気味で断念した下関古墳巡りをやってみようかな、と思ったためだ。新下関駅で降りる。歩いて五分くらいの所に秋根古墳が移築されている。六世紀後半の古墳で、玄室のみこのされていたらしい。此処を起点に6キロ程度の古墳巡り地図がある。川を渡って仁馬古墳の所へ行く所で道を間違えたことに気がつく。歩いてみて気がついたのは、このままだと5時過ぎのフェリーチケット購入までギリギリか間に合わない可能性があるということ。そう思った途端、腹の調子が悪くなった。「撤収!」私は決めた。帰りの時にリベンジしよう。ペットショップでトイレを借りて、スッキリすると新下関駅に戻り、下関駅に降りた。下関の観光資源は金子みすずなのである。(この写真は帰りの時に写しました。)一時間半の時間が出来たので下関シーモールに初めて入って少しお買い物。ダイソーがあったので入る。少し歩いただけで身体が汗ビッショリになった。身体をフェリー内でシャワーするためにタオルを買った。石鹸は持ってきたけど、入れ物がなかったのでそれも買った。あと、一つしかなかった韓国の電源アダプターも手にいれた。ホント日本のダイソーは優秀、何でもある。ロッテリアでジンジャエールをのみながら、スマホの充電並びに日記をつける。スマホの電池が直ぐに切れるのが悩みのタネだ。便利だけど、あまり使わない様に努力しよう。フェリーチケットは、実は9000円ではない。これにターミナル使用料600円と燃油付加運賃1200円がつくのである。片道しか買わない。釜山で買う方がよっぽど安くつくからである。(釜山では110200wだった。約3000円安い事になる)19時出港、夏は港がまだ明るいので、関門橋がきちんと見えた。フェリーはまゆうのレストランの食事は酷いことはわかっていたが、やはり酷かった。なんか生焼けのチジミって初めて食べた気がする。バス340円 電車2300円 ビール220円 ダイソー420円 ロッテ100円 フェリー10800円 夕食500円 ビール220円合計14900円歩数 12103歩
2012年09月10日
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今、下関まで電車に揺られ移動中です。約7時間半の電車の旅なので、暇なので、ちょっと書いています。今回の韓国の旅は、前半釜山、慶州、その他いろいろ回って、しばらくソウル滞在、西まわりで南へ帰っていくという旅にするつもりで、その日の気分任せです。おそらく、八月末まで居ると思います。今日の夜は既に韓国洋上ということで、オリンピックの最後まで多分見ることが出来ない。仕方ない。此処までで、オリンピックの「総括」をしたい。先ず、柔道。北京以来、柔道がつまらなくなった。元柔道少年として、残念でたまらない。相手がいくら逃げようとも、以前の山下、田村、井上、古賀、鈴木らは、技の切で勝っていた。一回戦二回線は問題にもしなかった。ポイントを取る柔道になって、つまらなくなった。サッカー。男子はサプライズである。スペイン戦が今のところ全てだった。決勝進出は十二分に勝機がある。女子は、ブラジル戦が素晴らしかった。次第と、調子が出て来ていた。フランス戦を生でみた。歴史に残る死闘でした。サッカーの神様が日本についている。アメリカ戦を見ることが出来ないのが残念でならない。ところで、アメリカVSカナダ戦は睡眠時間一時間になりながら見ました。アメリカも死闘の末にかちましたが、サッカーの神様は明らかにカナダについていたのです。よって、実力ではやはりアメリカが上ですが、なでしこが勝つと私は確信して渡韓します。このオリンピックで、初めて卓球をしっかりと見た。正直に言うと、石川佳純選手のファンになりました。卓球というものは、単に体力や技術の問題ではない、あそこまで戦術で変わるということを初めて知った。19歳の佳純ちゃんがそれが出来ていることに驚いている。佳純ちゃんは、恥ずかしながらタイプなのだ。凛々しく、純粋で、強く、儚い。デビューのナタリーポートマン、シャーリーズ・セロン、初期の宮崎あおいも、やはりそうだった。何度も言っているが、私は少女が健気に頑張る姿に弱いんです。佳純ちゃんが、ずっと厳しかった表情が、勝った瞬間ぴょんと飛んで天然に喜ぶ姿が大好きです。中国戦を見ることが出来ないのが残念でならない(^_^;)。
2012年08月07日
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12月30日(土)晴れ 最終日朝、フェリーは下関港に着いたようだ。風邪気味の体調は万全とはいえないが、だいぶ取り戻した。本当は今日は下関の古墳めぐりを計画していて地図まで持ってきたのであるが、あきらめる。フェリーのコンビにはウォン立てなので朝食とお土産の残りを買った。スナックが美味しかったので箱ごと(15個いり)を買ってお土産にすることにした。このほうが海苔よりよっぽどいいと思う。税関で初めての事件は起きた。コンビニで肉を買ったのであるが(どうしても肉らしい肉を食べたかったのである)、なんと税関入り口で可愛いお姉さんが「生肉や肉製品があったら申告してください」と立っていた。私は「つい」正直にも申告してしまった。「ああ、これはダメですね」と可愛い声で仰る。「せめてお別れに写真だけでも撮らせてください」と言って撮ったのがこれである。ぶれていて、しかも(品物を撮るという名目だったので)お姉さんの顔が写っていない。それなのに撮り直しを申告できないところに、私の「小心」なところが現れていると思ってください。事件はそれだけでは終らなかった。帰りは下関から鈍行で倉敷まで戻ったのであるが、広島を通り過ぎた時に二回目の乗換えを終えてふと帰る直前両替をした「130万W」の札束の入った封筒を確かめると「無い!!」のである。いくら捜しても無い。乗り換えのばたばたの時に、椅子のところにこぼしたまま来たに違いない。私は倉敷駅に戻ったときに直ぐに駅に申告した。万全を期すために駅前の交番にも申告した(拾った人が警察に持っていったら駅では把握できないからである)。三割は諦め、七割は日本人の良心とオモチャみたいなウォン札の形状に期待していた。そしたら無事に駅の車掌さんが拾っていてくれたみたいで後日連絡が来たのであった。改めて日本人でよかった、と思ったのであった(←以前にもあったで)。今回の旅はあまり新鮮なものはなかったかもしれない。代表的な遺跡はあらかた訪ねて、次の課題は考古学者との真剣な討論、あるいは市民と対等な対話を私は求めているのかもしれない。もちろん、そのための語学力は決定的に足りない。その足りないまま、また旅に出るのはまあ無謀としか言いようが無いけど、せっかくできた時間を有効に使わないといけないし……(^^;)。とりあえず、これで2011年12月に行った八日間の韓国旅行は終り、明日たぶん史上最長の韓国旅行にて出かけたいと思います。お土産4,300w 弁当550円 電車代2500円 バス340円
2012年08月06日
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買い物に行く前に食事だ。ホントは最後に真珠食堂に行きたかったけど手荷物もって遠回りは大変なのと、時間的に厳しいので大淵駅に帰る途中で食べることにした。もうひとつはこの旅であまり食べなかった「肉」を食べたかったのである。ちょっと高いけど肉屋さんみたいだ。ここにしよう。ところが入って見て気がついたのは、焼肉定食のように見えたのは鴨の肉でした。鴨肉も一度も食べていないのでまあよしとしよう。日本では鴨鍋はあるが、このようにステーキみたいにするのは無いのではないか。柔らかくておいしかった。駅に帰る途中で気がついたのは、この行列。何かと思えば、テジクッパを食べるために並んでいるのである。韓国に来て、行列のできる食堂を見たのは初めてである。大淵駅から市立博物館に行く大通りの左手にあります。腹はいっぱいだし、時間的に到底並ぶのは無理だけど少し心残りでした。後は買い物の時間。去年あったお茶屋さんが見つからなくて高いお茶を買ったり、欲しい物がどうしても見つからなくて最後の一時間ほどは二キロぐらいあるポリ袋(コチュジャンやお酒やお菓子類を買ったので重たい)を下げて歩いたことなど、色々あるのだけど一切写真はなし。しかも、博物館あたりから風邪のひきばなみたいになっていて、身体がふらふらする。あ、そうそう。大淵駅前の銀行で次回の旅用にお金を九万円両替しました。14.55だったかな。約130万wになりました。重たい荷物を持って、行き倒れになりそうな感覚でやっとのこと港に着く。フェリーに乗ってから同室の人に葛根湯をもらい、夕食もとらずにずーと寝ていました。チャージ5,000 パン1,600 お昼9,000 お土産107,000 フェリー代102,000 飲み物2,000合計 226,600歩数 20,995歩
2012年08月05日
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12月29日(木)晴れ 7日目宿のトイレは少し詰まっていた。道理でトイレットペーパーが来た時に濡れていると思った。やはりそれなりの宿である。沙上駅から華明駅に行き、漁村民俗博物館を先ず見ることにする。場所は駅前というくらいしか分からないので、駅周りの地図を捜したのだが博物館は載っていない。駅のインフォメーションセンターに行って聞いてみることにした。「博物館は何処か教えてください」そうすると、其処に地図が貼ってある。見せてもらった。スマホで地図を撮る。こうやって携帯で撮っておけば拡大縮小で見ることができるので便利だ。これからはそうしよう。(民俗館は地図に載っていないと思ったら手書きで書いていた)歩いて10分。その手前で朝めしのパンを買う。袋つめ途中だったみたいで、手で触ると注意された。クリームがまだ温かい。本当の焼き立てだ。本当はこの「漁村」の回りも歩いてみようと思っていたが、勘違いしていた。周りはビルだらけだった。この博物館には漁労具は少しあるだけ。あとは全部、ビデオや写真、ジオラマだった。いわば、昔の伝統や景観を潰してきた謝罪のために、この立派な博物館を作ったというわけだ。見るべきものはほとんど無かった。ジオラマが豊富で力作だらけなのだが、あくまでもきれいごとだからなのだろう。予定を変えて市立博物館に行くことにした。華明駅から乗り換えなしで大淵駅までいけばいい。思えば93年に行ったきりだ。日本語のガイドブックができていたならばラッキーなのだが。前と違って日本語ガイド(機械)は付いていた。それで初めて知ったのは、この隆起紋土器(旧石器時代)は、やはり粘土を土器に押し付けて焼いたそうである。丹塗磨研土器は鉄分を含んだ泥を表面に塗ってから焼くのだということ。東莱貝塚から製鉄屑が出たというので、そこを調べにきたのであるが、この博物館では三韓時代に分類しており、なあんだという感じ。それなら製鉄の材料が出てきても少しも不思議ではない。ノンポ遺跡(三韓時代)で小さめの甕棺を展示してあった。日本との関連が気になったが、この遺物自体に何の説明も無かった。面白いのはこの三韓時代に偏頭人骨、つまり整形手術をした人骨が見つかっている。整形の伝統はこの時代から始まっているのか。筋金入りじゃないか。頭の良さは頭の形で決まると信じられていたようだ、と日本語ガイドは説明していた(今思うのだが、何を根拠にその時代の価値観を調べたのだろう。眉唾眉唾)。もうひとつ抜歯の習慣も紹介していた。これは日本にも輸入された。抜歯の痛みに耐えた人間が成人の証として村に迎え入れられたのである。一つを選択してもう一つを選択しなかった。これは大変興味深い。金海伽耶(3-4C)の筒型土器。中に玉を入れて振れば音のする楽器だったようだ。どんな音楽だったのだろうか。近現代の部屋は実はこの博物館は一番力を入れているみたいなのだが、なぜか日本ガイドは沈黙してしまった。なんだかなあ。これは昔の南浦洞のジオラマ。この日本語ガイドも今日の収穫だったのであるが、一番の収穫は博物館図書室だったかもしれない。遺跡地図を発見したのである。昨日行った大邱の沙月支石墓群もこんな地図としてみることができる。もっともこれは高層住宅を開発する前の地図なので、これを見ていたとしてもそれはそれで迷ったかもしれない。これを見ると、支石墓は川を隔てた向かい側にももう1ヵ所あった事が分かる。tyそして灯台下暗し、1930年代の釜山や大邱の地図が実はここにあったのである。古書店を捜すのではなく最初からここに来ればよかったのだ。次回はこれを見ながら散策できるかな。売店には、日本語のガイドブックはおろか、ハングルの本さえ売ってなかった。展示品も昔とあまり変わっていない。ところが気がつくと12時半になっていた。あれこれの思惑は放り出して、これからは南浦洞でお土産買いに集中することにした。
2012年08月04日
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街中に古墳?横穴式石室か?と思ったら違ってどうやら18cの氷倉庫だ。この公園からずっと市場が続いている。野菜もある。値段は1円=10W時代のことを考えれば日本ともう変わらない。(私は今のw安はいずれ10Wに落ち着くものだと思っている)まあ、日本のより少しやすいものもあるが。この魚は明らかに安い。日本で言うと秋刀魚の位置づけだろうか。人が寄っている。爆発がしている。何かと見ればポップコーンを作っている。米を持ち寄って作る、昔のやり方である。(私のところではポンポン菓子と言った)日本では民俗館に入る代物だ。写真を一枚撮ると、ひどく怒られた。「闇」なのかもしれない。豚の頭を飾っている店はよく見るが、牛の頭は初めて見た。牛の頭はもの悲しい。市場の外れにこんな「タバン(喫茶店)」があった。昼間に見ると普通のちょっと変わった喫茶店に見える。けれども、一般には売春センターらしい。入る勇気は無かった。バスセンターにもどると釜山行きのバスがあり、直ぐに乗る。かつて知ったる西部バスセンターにもどる。直ぐにしたのは、明日のフェリーの予約を取ること。沙上駅まで降りて公衆電話を探したが、なかなか見つからなかった。電話をするとつながったと思ったら別のところにつながる、ということが二回ほど続いた。諦めず国際ターミナル前の観光案内所にかけてみる。今度はつながった。もちろんここでは予約はできない。下関フェリーの直通番号を教えてもらう。やはり番号違いだった。かけてへんなところにつながった。もう一度かけてつながる。今度は予約が取れた。……結局、公衆電話のボタンはきちんと押さないと番号を押したことにならないみたいだ。日本と違いボタンの感度が良くないのだ。でもこれで予約は取れた。明日は安心して釜山を回れる。便利な沙上周辺で宿を取ることにする。前と違う宿を取ることにした。ポクソンジャン(福城場?)旅館。208番。面白いことにこの旅でとった宿の沙上の二日は208、大邱は308、そしてこの宿も208。25000wで取れたのはみんな8が着いている。最初の最悪の宿だけが203番だった。旅の神様が何か細工したらしい。部屋はまあ綺麗だ。シャワーだけどお湯は確認した。この沙上周辺の旅館は25000wで統一しているのではないか。食事をしに外に出る。ずっと魚系の食事ばかりしていたので肉が食べたい。できたら牛肉が食べたい。それで、ずいぶんとウロウロとした。ここぞ、と思ってはいると「一人ではダメだ」と二回も断られた。この店もそうだ。定食だからと言って一人でOKにはならないらしい。最後にたどり着いたのが駅からバスセンターに出たところにある「イ・ビョンウさんのソルノンタン」店である。不本意ながらしっかりとした肉ではないソルノンタンを頼む。右には過去どれだけテレビや雑誌で取材されたかを書いている。1980年「文芸春秋」が取材してべた褒めしたらしい。確かに不味くはなかった。キムチはとても美味しかった。しかし、あの記者が書いたように「アジアで有名な美味しい店」では決して無い。思うに、まだ韓国に不慣れだった記者は、韓国南部を取材するに便利なこの沙上に宿をとっていたのだろう。そして、この私のように、独りで食事をするにこまっていたのだろう。そういうときにこの店はありがたかったに違いない(キッパリ!)。まだ口が寂しかったので、ファミリーマートでチョウンディとツマミ用のラーメンと海苔を買う。しめて2,900w。お店で飲むのと同じ値段である。ゆっくりと飲めるのでこれでOK。この写真の意味は、実はお気に入りのチョウンディを見せたいわけではなく、その向こうの椅子のデザインと壁紙のデザインが面白いと思ったのだ。この唐草模様はこの宿の趣味かもしれないが、広く韓国で採用されている「意匠」である。さかのぼれば加耶時代までさかのぼる意匠である。日本もかつては孤紋帯があった。今はあまり見ない。この連続性と不連続性の違いはなんだろう。と、つらつらと酔いながら夜は更けていったのでありました。コインロッカー2,000 地下鉄3,600 博物館本とお土産20,400 バス3,000 昼飯5,000 お菓子1,500 タクシー3,600 チャンニョン博物館500 大邱→昌寧3,300 昌寧→釜山6,400 宿代25,000 夕食6,500 酒ツマミ2,900 雑誌3,000 ソックス5,000合計89,700歩数21,162歩
2012年08月03日
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バスセンターのある聖堂池駅に帰ろうとして博物館前からそっちの方向へ適当なバスに乗ったら、反対方向にいってしまった。適当な地下鉄の駅に行き着くだろうと期待したのがよくなかった。とんでもないところに行きそうになったので途中で降りてバスに乗り換えた。これで1時間ロスをした。これは聖堂池駅の地下通路入り口にあった自転車を押して中に入るための通路。日本にもそろそろ増えているのかもしれないが、駅の中に自転車置き場がある。腹が減った。しかしバスに乗るのが大変遅れたために時間はあまり無い。バスセンターとなりの粉式食堂で「20分で食べたい」というと「のり巻きとうどん」というのでつい勢いでOKというと、二つとも出てきてしまった。まあ安くて値段の割には不味くなかったからいいか(二つで5000w)午後からチャンニョン(昌寧)の古墳群を見るためにバスにのる。2:20分に着いた。時間の節約のために仕方なくタクシーを使う。10分もせずに着いた。昌寧博物館。周りは古墳群が囲んでいる。ここからは最後に学芸員の方に質問したことに関連する写真を載せるので見た順番は変わります。チャンニョン古墳群はこの地域に約150基の古墳を擁している。5-6世紀の古墳群である。後期加耶時代であり、建国は金塊よりもずっとあとということになる。墓の製造方法はジオラマでこのようになる。版築方式をとっている。つまり、性質の違う土を交互に入れて踏み固め盛り土の強度を飛躍的に高めるのである。面白いのは、縦のみではなく、回りもこのように土を変えている。このほうが強度が強くなるらしい。墓の周りの下側は石で囲んでいた。これも墓が崩れないようにするためだが、「初めて見た」というと、「慶州でもしていますよ」という。「(同じ大伽耶の)高霊池山洞では見なかった」というと、「しているはずだ」という。私の勘違いなのか。博物館の裏手では発掘調査をしていた。聞くと石槨墓の調査だという。私が質問している間にも次から次ぎにお客さんがやってくる。どうやらとても忙しい時に質問したみたいだ。お礼を言って辞し、歩いてバスセンターに向かう。この家の建て方は下垈(ハデ)地域と似ている。家の周りの壁と家とがくっ付いているのである。練塀を採用している家はほとんど無い。しかし、きちんと作っているところでは下垈のそれとほぼ同じだ。家の形は少し違う。広い道に出ると古墳みたいなものがあるので近づいてみた。
2012年08月02日
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