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1889年(明治22年)2月11日、民権派が要求して来た憲法が発布された。 憲法発布により、全国で奉祝行事が繰り広げられた中で、中江兆民は「通読一編ただ苦笑するのみ」と失望した。予想通りとはいえ、「民権これ至理なり」とした国民の権利があまりにも小さかった。植木枝盛はどう言ったか。現代文で紹介する。「この憲法で、果たして代議員による政府運営が出来るものなのか。果たして文明国として威張れるものなのか。私は今日に至ってもまだそのようには思えない」やはり天皇主権で人権保障や議会権限が弱いのが致命的であると思っていた。 もちろん彼らは戦う展望は、持っていただろう。中江兆民は既に二年前の著書(「三酔人経綸問答」)によって「恩賜の民権から回復の民権へ」というスローガンや、明治24年の「自由平等経綸」に「自由は取るべきものなり、貰うべき品にあらず」と言っていた。しかし、中江兆民はいう事は素晴らしいのだが、行動力には難があった。 明治23年7月1日、第一回衆議院議員総選挙があった。土佐の民権派は、ナンと全員当選を勝ちとった(植木枝盛や片岡健吉など)。中江兆民でさえ、大阪から出馬して当選している。選挙は民権派の大勝利だった。はずだった。11月29日、第一回帝国議会が開かれた。この議会で過半数を制していた民党は「政費節減」「民力休養」を唱え、予算委員会において政府の予算案削減を審議して政府と真っ向で対決した。しかし、議決の前に「土佐派」と呼ばれる議員が政府との妥協に回って民党の攻勢は挫折した。憤慨した中江兆民は「無血虫の陳列場」を発表して議員を辞職してしまった。気持ちはわかるけど、中江兆民は結局彼を選んだ選挙民を裏切ったと私は思う。 第ニ回帝国議会は明治24年の11月26日に開会した。分裂していた民党は共闘を回復してこれに臨み、政府予算案の一割を超える削減を議決するなど、再び政府と激しく対決した。ここで政府は本物の「伝家の宝刀」を初めて出す。衆議院を解散したのである。政府は民党候補者の当選を阻止するために、選挙干渉を「決定」、品川弥二郎の指示のもとに地方官吏・警察官を動員して暴力による干渉を加えたために、全国で多数の死傷者が出た(買収じゃないのね)。選挙後、政府は厳しい世論の批判を浴び、品川弥二郎内相は引責辞職(当たり前)、その後松方内閣も瓦解した。 しかし、抵抗はここまで。第ニ回衆議院選挙の後の明治25年、植木枝盛は若くして急死する。明治27年日清戦争勃発。衆議院は膨大な軍事予算を満場一致で可決した。既に民党は「民力休養」「政費節減」の主張を放棄していたのである。 自由民権運動はこの時点で実質的に終わっていた。 遂に民権は国権に克てなかった。それはなぜか?ということは長く研究されておそらく立派な本が何冊もでていると思う。私の今回の発見はそれではない。国権が幅を利かす前の自由民権運動16年間で、もっと民権を伸ばす契機が何度もあったのではないか、ということである。それができていれば、日本の行く末も変わったのではないか、という問題意識である。 実は各論三本並びに、実際の旅の記録含めて、あと6回ぐらいは連載が続きそうだ。また、準備ができ次第再開したい。
2016年11月19日
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民権派は弾圧されると、暫く大人しくして居たが、やがて反撃に出る。その一つが大同団結運動である(←これも現代と同じ)。 1887年(明治20年)10月3日後藤象二郎は丁亥倶楽部を設立して有志の団結訴え、次第に大同団結運動の中心的指導者になった。政府は翌年2月に大隈重信を入閣させてその分裂を謀ったが、後藤らは東北・東海・北陸各地の遊説、機関紙「政論」発行により運動を拡大した。民権派も、板垣退助の分裂策動から学んだわけだ。 当時の日本の民衆には、日本の政治に対していくつもの不満が渦巻いていた。それを三つの要求にまとめたのが自由民権運動だった。 一つは条約改正問題である。不平等関税と治外法権は、支配層も認める外交的汚点である。民衆は、外国に対してきちんと物申せない政府に腹を立てていて、それを理論的に批判する民権志士たちを支持した。この力関係は、現在にもある。言い換えれば、日本の政治にとって、いつもウイークポイントは「外交」なのである。 話はずれるが、私は政府の外交失策をもっと追求すべきだと思う。一つは核兵器禁止条約。一つは世界で日本にだけ不平等基地問題を押し付けている沖縄問題。ここが、国民的な要求になれば、政府を追い詰めることが出来る。 あとのふたつは内政問題。 一つは知識人・民権志士にとって最も切実な問題。「言論集会の自由」である。 一つは、庶民にとって最も切実な問題。「税制の軽減」である。 この三つを誰がまとめたのか。私は植木枝盛だと推察しているが、確証がない。この頃、民権派と政府はものすごい「頭脳戦」をしている。 ともかくも民権派は明治20年10月29日、東京で諸県代表が会合、各地方から建白書を提出し、委員を上京させることを決定した。 「租税徴収ヲ軽減スヘキ事」 「言論集会ヲ自由ニスヘキ事」 「外交失策ヲ挽回スヘキ事」 世に云う三大事件建白運動である。 土佐では、県下全域の各階層が参加した最大規模の自由民権運動に発展した。上京した総代人や壮士たちの運動により、東京は騒然となった。 写真は中江兆民が援助した漫画雑誌「トバエ」に出たビゴーによる「土佐に気をつけろ」。土佐の動向を気にする伊藤内閣の面々である。 三大事件建白運動を受けて、政府は伝家の宝刀を出す。明治20年12月26日、建白運動の始まりからたった56日後、突如、保安条例を発して活動家を東京から追放し、危機を切り抜けたのである。このスピードは敵ながらあっぱれという他はない。 これによって、もともと東京に居た中江兆民は、活動拠点を大坂に移した。保安条例の退去命令を拒否して投獄されたのは、全員土佐の民権家だった。 その時に彼らが新しく作った「保安条例廃止の建白書」には、このように書いている。現代文に直す。「国家が滅亡しようという時に、これを傍観視することは出来ない。むしろ、法律で罪人となろうとも逃げて亡国の民になりたくない」。ほんのちょっと前(30年前)の安政の大獄では、先人たちは命を課して罪人となった。今はそうならない可能性が大きい。切腹の覚悟と比べたら、これぐらいはどうってことはない。というのが、彼らの気持ちだったのではないか。 彼らはほとんど明治22年の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄した。写真はその時の記念写真。二段目真ん中の幼顔の青年が、その後の土佐の民権運動をリードする片岡健吉である。
2016年11月18日
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15年7月には、土佐では言論弾圧に抗して「新聞の葬式」も出している。これは稿を改めて取り上げたい。いわゆる「激化事件」は、この時期から自由党解党にかけて激化した。明治15年12月福島事件。首謀者河野広中が逮捕されたが、その数年後に土佐に来ている。明治17年の加波山事件では、首謀者が土佐に留学していたらしい。17年12月飯田事件、なんと植木枝盛が檄文を起草している。 急進派をコントロール出来ないということもあって、17年10月自由党は解散する。民主党が民進党になるが如く。解散したり、名前を変えたら、簡単にリセット出来ると思っているのか。もちろん、解散理由はこれだけではない。現代と違って、政府は団体へ自由に弾圧出来る。このまま合法的な活動は無理がきていた。資金面も尽きてきた。しかし諦めるのがあまりにも早すぎる。もっといろんな工夫は出せなかったのだろうか。 自由党が解党してから、21年の三大事件建白運動までは、主に「社会改良論」が運動の中心になった。植木枝盛はその趣旨の論説を28も書いている。世の中を根本的に変えるのではなくて、逐次改良して時期をみるという方法である。所謂、中江兆民「三酔人経綸問答」において、南海先生が述べていたことだ(と、ここまで書いてびっくりする。中江兆民と植木枝盛は犬猿の仲だと思っていたが、同じ時期2人は同じことを考えていた。むしろ、南海という言葉から中江兆民は植木枝盛の言論から学んだ部分があったのではないか)。注目すべきは女性運動の進展なのではあるが、それは稿を改めて取り上げる。
2016年11月16日
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(自由党結成時の幹部)自由党は憲法制定・早期国会開設・農民と商工業者の自由な発展を主張、地方支部設置、機関紙「自由新聞」発行、遊説活動を中心に活発な運動を展開し、広い支持を得た。 しかし、政府の弾圧・板垣洋行問題による幹部分裂と立憲改進党との対立、資金問題・路線対立などで困難に陥り、明治17年(1884年)10月、3年間の活動で解党した。立憲改進党も都市の資本家や知識人を基盤に支持を集めたが、1884年事実上の解党状態に陥った。 これは、まるで2013年の民主党凋落のようではないか!弾圧と分裂策動は、つまり日本の政治運動の常套手段であり、現在でも有効ということか。なんと、日本の政党は未熟なんだろう! 明治14年の政変から明治15年(1882年)の終わり、つまり板垣退助の洋行までが、自由民権運動への「弾圧と抵抗」が最も激しかった時期らしい。情報化社会の現代ならばいざ知らず、この時の社会の変転の激しさは、私の想像を超えていた。因みに、「板垣遭難」事件(岐阜演説の後に短刀で襲われた)は、15年の4月6日のことである。有名な「板垣死すとも、自由は死せず」は現場にいた「探偵」が報告したらしいが、かなり歌舞伎かかっている。今も昔も、こういう芝居かかった「流行語」をモノにするか、どうかは、その時々の情勢を左右するに違いない。たとえ、その半年後に板垣退助本人が自由党の半分近くが反対する三井出資の洋行に出掛けるという大馬鹿であることが分かったとしてでもある。
2016年11月15日
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「明治14年の政変」とのちに呼ばれるそれは、1881年(明治14年)政府内の派閥闘争から起きている。国会の早期開設を主張する大隈重信と漸進論の伊藤博文が居た。そこに、北海道開拓使官有物払い下げ事件が起きて、マスコミが発達し始めたその頃の爆発的な衝撃でもって、「世論の政府批判」が沸き起こる。伊藤博文或いはその時の政府のブレーンは、つくづく天才的な対応をしたと思う。それは下手に対応を誤れば、フランスのパリコミューンに似た「民主革命」に発展する可能性さえもあったかもしれない。しかし、伊藤博文は「機先を制」した。憲法構想が固まる直前の10月12日、「詔勅」を発した。10年後の国会開設・憲法の欽定を宣言したのである。そして返す刀で、早期国会開設を要求して事変を起こし、国安を害する者は処罰すると警告したのである。いわば、民権派が渾身の一撃を降ろうとした直前に目くらましを打ち、胴を薙いだようなものか。さらに、世論に対しては払い下げ中止を宣言して、沸き起こりをいったん止めて、大隈重信とそのグループを政府から追放、ここに薩長藩閥の覇権が確立する。 自由民権運動の高まりとともに、高知県各地では懇親会が度々開催された。特に1880年(明治13年)から1884年(明治17年)がその最盛期だったと言われる。懇親会は民権家、青年、医師、芸人、商人などが発起人となり開催され、演説、旗奪い、牧狩りなどが行われた。(←おそらく娯楽として人を呼び込み、また政府からの目くらましも意図していた)懇親会には、「自由」と大書した旗や結社名を書いた旗を持った人々が多数参加した。 さて、明治14年の政変の時に、国会期成同盟は自由党の結成に踏み切った(写真参照。岡山にも山陽と美作に支部があったことがわかる)。しかし、自由党は、民権派全体を結集したものではなく、翌年政変で政府を追われた大隈重信を中心にして立憲改進党が結成された。また、同年政府支持をうたう立憲帝政党(福地源一郎)も結成された。 ここまでが、自由民権運動の第一期と言えるだろう。
2016年11月14日
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さて、植木枝盛の戦略はどうだったのか。最初の大きな仕事は1877年、西南戦争参加に待ったをかけて、立志社建白書を起草したことである。建白は政府の失政を8項目に渡って指摘した上で、国会開設、租税の軽減、不平等条約改正、地方自治の確保、政商に対する保護政策反対などを要求したが、これは全国的な自由民権運動の基本的要求になった。/[^ 特に地方自治を求めて、立志社は民会を県会、大区会、少区会の三種に系統化した。民会は地方自治の組織であると共に、民権派は少区会から大区会、土佐州会、県会と積み上げ、ついには国会を実現すると言う構想を持っていた。これらは、県令や政府の一篇の命令で挫折する弱点はあったが、発想そのものは非常に先進的だっただろう。 愛国社は1879年の大阪で開かれた第三会で東日本の結社が加盟し、全国的展開になった。これを期に国会開設運動が全国的に広がった。1880年第四会の時に加盟27社代表の他に50余の団体が参加し、愛国社とは別に国会期成同盟を結成、国会開設を求めた。期成同盟はやがて1881年の自由党結成を決定、運動母体は自由党に移行。この間に、国会期成同盟が各組織で憲法見込案を持参研究することを決議したために、全国で50余の憲法案が起草された。 あとで詳しく述べるかもしれないが、この時の民衆憲法の創造は、質量共に日本の民主革命の理論的な土台が最も高まった時なのかもしれない。明治12ー14年の民衆憲法の起草者たちの表を見ると、日本の草の根民主主義の、この時代の民衆の教養の高さが伺いしれる。一つは、野に放たれた武士階級の教養の高さかもしれないし、寺子屋に代表される武士階級以外の民衆の識字率の高さが反映していたのかもしれない。これらの草案は、1880年(明治13年)、国会期成同盟第二回大会で提起され、翌年の大会で検討される予定であったが、明治14年の大きな出来事で「まぼろしの憲法」に終わり、これ以降日本で憲法構想が本格的に論じられることは、1945年の敗戦後までなかったのである。
2016年11月13日
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立志舎復元模型。●自由民権運動とは何だったのか。実際は、「民選議院設立の建言」(1874年)から、第一回帝国議会の開会(1890年)までの、たった16年間だったことが、改めてわかった。現代で言えば、16年前は2000年だ。たったつい昨日のことだ。この情報社会においても、政治的激動は限られている。しかし、この時期の日本は違った。特に、土佐は日々激動だった。と、私は思った。 土佐の自由民権運動とは何だったのか。特徴は三つ。(1)昨年SEALDsが起こると、あっという間にSEALDs北海道東北、東海、関西、沖縄が立った。また、高校生のグループも全国で立ち、ママの会も立った。その他、既にあった様々な在野の「市民運動」グループが立ち、集会をしてデモをした。「60年安保以来だ」「それよりも多い」などとよく言われたが、その大先輩が土佐にあったのだ。政治的グループは、古くから言えば土佐勤皇党などの尊皇攘夷運動からあるのかもしれないが、今はそれを分析する余裕がない。1874年愛国公党の設立と同時に、その拠点として誕生した立志社が最古参であり、最右翼である。びっくりするのは、立志社に導かれるように、土佐には雨後の筍(ウゴノタケノコ)と言っていいほどの「民権結社」が誕生しているのである。(写真参照)立志社などでは、ベンサムやミル、ギゾーなどの西洋書を教科書にした学校も開設していた。 (2)自由民権運動の戦略は、民衆を味方につける、そのために各地で演説会を開き、新聞で報道し、「民権歌謡」や「民権踊り」などを作って民衆にわかりやすいように宣伝をした。その動きは、現代市民運動も見習わなければならない。歌では「世しや武士」(安岡道太郎編)「民権田舎歌」「民権かぞへ歌」(植木枝盛作)などがある。また、民権家たちが考案した「米国独立の曲」などの民権踊りが1881年夏、鏡河原の納涼場で芸妓たちによって披露され盛んになったらしい。 (3)改めて、植木枝盛は凄い、と私は思う。植木枝盛は海外経験がない。しかし、文献のみで当時の「最先端」を「満遍なく」学び、それを咀嚼して、立志社やがては自由党の「戦略」を作っていった。中江兆民は、さらにそれらの世界観を飲み込んだ上で未来論を築く能力があったが、植木枝盛のような行動力はなかった。この二人が組んでいたならば、どうなっただろうかと夢想するが、それは無い物ねだりではある。
2016年11月12日
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高知紀行 二日目 8月25日みなさん、もうお忘れかもしれませんが、この夏私は高知を旅して中江兆民、ならびに自由民権運動の跡を訪ねる旅を決行しました。ここからあとは、いろいろ考えることがあって、おもに自由民権記念館で学び考えたことを、その図録をもとに紹介したいと思い、その準備のために時間をもらった。なかなか準備できなかったのだが、なんとか図録部分のめどはついたので、ここから7-8回ほど連載したい。書いてみてわかったのであるが、自由民権の歴史は、そのまま現代の市民運動の教訓の宝庫である。次第と展開してみたい。(ちなみに過去記事はカテゴリーの中江兆民の中にあります) 自由民権記念館は、1990年に開館した。その当初から絶対行きたいと思っていた。何故ならば、私の大学の卒論は(作文の域を出ない)中江兆民論だったし、大学卒業後に出版され始めた中江兆民全集も植木枝盛全集も「大人買い」したのだが、今現在に至るまで読んでいないし、頭の奥に関心だけはずっと置いていたからである。土佐のスーパースター坂本龍馬にほ、ほとんど関心がなかった。 自由民権運動とは何だったのか。ひいては、(日本にもしかしたらあったかもしれない)「平和と民主主義」の道は、あり得ないのだろうか。 昔の作文(卒論)の中で、微かに思っていたそんな問題意識に、刺激を与えてもらいたい。そんな想いもあったのかもしれないが、結局日々の生活やその他の運動に紛れて、ずっと後回しにして来た。本来ならば、4ー5日はここに居てそんなことばかりを考えながら過ごしたかったし、年初めの出雲行きの当初は真剣に高知行きを検討していた。ところが、年末年始は、ほとんどの博物館が休館になる。遺跡巡りが出来て古代出雲博物館が開館している出雲にせざるを得なかった。そんなこんなで、たった一日で博物館と旧跡を回らなくてはならないが、我慢出来なくて此処に来たのである。結果的に大いに刺激を受け取ることが出来た。フロアは、明治風に洋風階段に「自由」と「民権」を掲げている。テンションが揚がるが、写真撮影は此処まで。展示内容の撮影は禁じられているために、必要な処は図録から、或いは高知市内を歩いた時の写真から使いたい。 入る時に受付の女性から「先ずは二本の特別映像を見て展示室を回られることをお勧めします」と言われていた。午前中はこの記念館に籠る予定だったから、喜んで見させてもらった。一本目は「土佐と自由」二本目は「行動する思想家植木枝盛」だった。私はそれで大事な視点を教わった。それは同時に展示内容の前半部のまとめでもあった。 ●土佐民権派のうち、板垣退助と後藤象二郎は1873年(明治6年)の「征韓論論争」に敗れて下野した政治家だったことである。これは三つの意義がある。 (1)民権派は派閥闘争に敗れた一方の勢力から始まったのである。つまり、政治勢力としては、始めから大きいものだった。 (2)また、征韓論論争に敗れた西郷隆盛と江藤新平(当初は民権運動に参加)は、その後「挙兵」という手段を採った。板垣、後藤、江藤、副島種臣、由利公正、岡本健三郎は、英国帰りの古沢迂郎、小室信夫らと共に1874年愛国公党の結成と「民選議院設立の建言」、つまり国会開設請願を提出する。建言の起草は古沢迂郎、副島種臣が手を入れた。「現政権は専制政府の官僚の手中にあり、その失政で国家は瓦解の危機にある」という問題意識。活路は「人民の参政権にあり」という提案である。これだけを見ると、どれだけ西洋の民主主義を学んだのか、まだ疑問が残る内容ではある。しかし、これにより日本は「賛成」「時期尚早」で、「東京日々新聞」や「明六雑誌」などで意見が闘わされた。この状態こそが、民主主義国家の創生だっただろう。 (3)1873年(明治10年)に西南戦争勃発。土佐士族の中にも、「呼応して武装蜂起を企てるべきだ!」という意見があったが、遂に土佐は立たなかった。これが、その後の日本の民衆運動の在り方を大きく規定したと思う。また、この判断には、当時新進気鋭の理論家植木枝盛の意見が大きく預かった、と記念館の映像は述べていた。詳しく知りたいが、今はその余裕がない。また、戦争終結後、土佐では実際に武装蜂起を計画していた者だけではなく、直接関わりがなかった片岡健吉などが逮捕された。明治政府が日本国民に対して、初めて牙を剥いた瞬間だったのではないか。
2016年11月11日
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いったんホテルに帰り、チェックアウトして高知駅のコインロッカーに荷物を置きに行く。すると、駅前に巨大な三志士の像が見えて来た。NHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて作ったらしい。龍馬と中岡慎太郎と武市半平太である。山内容堂公は、これを見たならば言うだろう。 「維新の回天に労があったのは、龍馬は別として、こいつらよりも、私の方がよっぽど力を貸したはずだ‼」 しかし、容堂公は人気がないのである。 「龍馬伝」幕末志士社中という建物が駅前に出来ていた。博物館フェチとしては、(500円で若干高かったが)入らざるを得ない。 「龍馬伝」に使った龍馬の家のセットがそのまま展示されていた。高知市が買い取ったらしい。写真取り放題なのがいい処。そんなにすごいとは思わないのだが、説明ボランティアのおばちゃんが居たので、いろいろ質問出来たのが良かった。龍馬の家は、わりと金持ちの武士の家だったらしく、中に小川を引き込んで水洗いなどをしていたらしい。この縁側で、観てないけど大河ドラマの中では、竜馬たちが仲良く話していたらしい。 家は間取りが残っていたわけではないので、正確ではない。文献などから想像し、他の武家の家を参考にしながら作ったらしい。これは台所。台所からは、上げ下ろしの出来る階段がしつらえていた可能性がある。その上の部屋に龍馬が居ただろう。これは二階に上がった写真ではなくて、別に竜馬の部屋が作られてていた。 「今さっき、高知市内を歩いて来たのですが、ホントに昔の古い家がないですね」 「大空襲で一面焼け野原になって、家どころか文献もあまり残ってないのよ」 「道路は昔と比べてどうだったんですか」 「電車通りは、都市整備で道路を広げたけど、あとは昔のままだと思うわよ」 「普通城下町というのは、防備のためにかなり入り組んでいると思うのですが、はりまや町などは、なんか碁盤の目みたいだったんですが」 「そうかもしれない。山内の殿様が城下町を作る時に、馬の速駆けをしたいというので、県庁前の通りはなどは真っ直ぐに作ったみたいよ」 そうなんだ。とりあえず、道だけは、江戸時代を偲びながら歩けばいいということがわかった。駅前から路面電車で、この旅で1番行きたかった博物館、自由民権記念館に向かう。ここで8冊ほど本を買った。以降、もう少し本を読み込んで記事を書きたいので、レポートを暫く休みます。
2016年09月05日
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山田町から300mほど南に行った菜園場町に横堀公園がある。その花壇のひとつにこういうのがあった。武市半平太の田舎にある生家を、市民が再現したものらしい。武市半平太は、維新の中で、言うなれば旧守派として罰された派閥の党首に過ぎない。しかし、何故か現代において非常に人気があることが、こんなものからでも伺えるのである。 安政1(1854)年叔父島村寿之助と槍剣道場を開きました。その後一時江戸に出て帰郷後、道場の経営に力を入れ、藩からご褒美をいただきました。 長州などの尊攘運動が激化する中、万延元(1860)年藩から剣術修行の許可を得て北九州の諸藩を巡歴しました。 やがて、修業のため再び江戸に出て、大石弥太郎から尊攘運動の全国情勢を聞き、また木戸孝允、久坂玄瑞らと交流し刺激を受け、大石、島村衛吉、池内蔵太らと土佐勤王党を結成することを決め帰国し、200人余りの同志を集めました。(「土佐の歴史散歩」より)武市瑞山道場跡記念碑ただ、最近「幕末下級武士の絵日記」なる本を読んで知ったのであるが、忍藩(埼玉県上田市)という一つの地方の藩の武士でさえ、様々な若者がおそらく十数人規模で尊皇攘夷運動に影響を受け、政論を書いて蟄居させられるまで「流行」していたのである。驚きを禁じ得ない。その広がりは、例えば朝鮮拉致問題で急進的な政治団体と一部政治家が結びついている状態といえばいいのか。そして、それを支持する広範な国民がいるという状態。そういう時に日本人はどのように動いてゆくのか。拉致問題は少し問題が限定されすぎているかもしれないが、日本人が国論を二分するような運動に直面した時に、どのような態度を取り、どう動くべきなのか。尊皇攘夷運動VS開国運動もそうなのだが、自由民権運動VS明治政府の問題からも、観ることができるような気がするる。それは、私たちがこれからの改憲問題に直面するときに貴重なヒントを、この高知の土地からもらうような気がするのである。 菜園場町商店街を通り過ぎて、文化プラザカルポート前に運河が通っていて、運河公園に沿って、あるモニュメントがあった。高知でずっと行われている「マンガ甲子園」の第一回から24回までの最優秀賞を展示していたのである。私の琴線にひっかかったものだけを紹介する。どうやら、高校生らしく、あまりひねりすぎたり、ブラックすぎると最優秀賞にはならないらしい。 そこから西に歩くと、はりまや橋交差点の東側に到着する。はりまや橋観光バスセンターの隣に河田小龍の碑があった。洋学家で、坂本龍馬にも影響を与えたらしい。
2016年09月04日
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8月25日(木)二日目7時起床。ここのホテルは100円追加すると、朝食がつくと言うので、追加しておいた。こんなすごいボリュームとは知らなんだ。絶対これはお得でしょうう。雨が降っていた。昨晩も駅に着くと、雨が止んだ直後だったし、今日も雨が降っている。天気予報は曇りのち晴れである。このように、天気予報が全然信用出来ないのは、今年始めの出雲の旅でも経験した。海沿いの地方の特色なのかもしれない。常に海から天気が変わってくるとしたら、訪問神は海からやってくるという信仰は、非常に説得力があったかもしれない。セブンイレブンで500円の傘を買った。まさか、雨はこの時だけで、そのあと一日中ずっと邪魔な傘を持ち歩くことになろうとは、その時は知る由も無かった。ともかく、チェックアウトの前の朝の遺跡巡りに出かける。高知市内には古代の遺跡はない。今回は弥生遺跡は完全に諦めている。今回の旅のテーマは、私の人生テーマのひとつである「中江兆民の時代をめぐる」である。左のカテゴリーに「中江兆民」があることからも、私の関心の深さを推察して欲しい。その割にはカテゴリーに記事数がこの数年間増えることは少なかったが、今回の旅は、「旅(日本)」にカテゴリーしない。たった2日の旅ではあるが、まだ全然書き切ってないが、非常に長くなる予定であり、カテゴリーは全て「中江兆民」にする予定である。何故ならば(これが旅の醍醐味なのだが)今回の旅で私の自由民権運動への視点が大きく変化したからである。そのことを文献を駆使しながらかなり長く書くと思う。もちろん、本来の旅の記録も、これから書くので、まるで司馬遼太郎の旅行記みたいな記事になりそうな予感がある。写真は、駅前から南に百mほど歩いた処にある山田町の八幡神社だ。その神社の至る所にの勧請を担ったであろう人々の名前があった。明治5年にこの町に移って来たというから、この名前は中江兆民の幼馴染の可能性がある。或いは幼馴染の親の名前か。名前を眺めるだけで、当時の様子が想像出来る。私は研究者ではないので、そのように自由に想像力を膨らませながら、大胆に記事を書くだろう。八幡神社の絵馬。願い事は、非常に具体的で、かつきちんと名前・住所まで書いているのが多かった。この土地の伝統なのかもしれない。中江兆民(弘化4年(1847)~明治34年(1901))幼名は竹馬。のちに篤助或いは篤介。兆民は筆名である。八幡神社のある旧山田町に生まれた。山田町の中でも、篤助は部屋町という武家屋敷に住んでいた。すぐ近くに牢があったようだ。土佐勤王党の志士が切腹する処を、少年篤助は塀をよじ登って見たことがあるらしい(15歳)。つまり、彼が父親の跡を就いで大人になる直前に尊皇攘夷運動の嵐は止んでいたのだ。 父元助は足軽でしたが兆民が14歳の時亡くなり、母に育てられながら藩校文武館に入りました。 文武館では萩原三奎、細川潤次郎について洋学を学び、岡本寧浦を師とする奥宮慥斎について陽明学を学びました。 藩から留学を許された長崎ではフランス語を平井義十郎について学ぶとともに坂本龍馬や後藤象二郎、岩崎弥太郎たちと知り合いました。 彼の語学力はすばらしく、岩倉遣欧使節団に参加フランスに行き法律や哲学を学ぶ中でルソーの著書に出会いました。 帰国後しばらく法律の仕事をする合間にルソーの「社会契約論」を「民約論」として翻訳したり、フランス語学校校長などをしましたがすぐにやめ、自由民権運動に取り組むようになりました。 明治23年(1890)第1回衆議院議員選挙に当選するも理想とかけはなれた議会に失望し国会を「無血虫の陳列場」とののしって辞職しました。 以後、筆で政府と渡り合い、東洋自由新聞を創設しましたがわずか40日あまりでつぶされました。 明治33年(1900)のどに痛みを感じ耳鼻咽喉科で喉頭癌で余命1年半あまりと宣告を受け、切開手術を受け「一年有半」「続一年有半」を書き残しました。(「土佐の歴史散歩」より)山田町は武家も住んではいたが、基本的には町民の町ではなかったか。今でも醤油屋や機械工場がたくさんあった。今も運河がすぐそばに通って、商売にはいろいろ便利だったことが伺えます。しかし篤助は基本的には家で本ばかりを読む読書家だった。性格は温和でおとなしい。のちの奇行を好む変人の姿はなかった。過去、高知市内には二回入ったことがある。一回は団体観光。桂浜の龍馬像は観たが、とうていこんな処まで来れる余裕はなかった。もう一回は、労組の会議で。朝早く起きたならば、来れたかもしれないが、事前の準備が悪くて、場所が全くわからなかった。この日もなかなか迷いました。もっとも、中江兆民誕生地の周りの風景は、こんな普通の路地である。よっぽどの物好きでなければ来ない。やっと来ることが出来ました。中江兆民先生!高知城から2キロ東にある町である。あとで述べるが、武市半平太が道場を開いていた菜園町も南に数百mほど行った処にある。江戸の町風に云えば、下町である。石塔は1953年(s28年)、石碑は1981年(s56年)に建てられている。いずれも高知市教育委員会建立である。高知市内は昭和20年7月4日の空襲で、ほとんどが灰燼に帰したらしい。当時を偲ぶ建物は一切ない。
2016年09月03日
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猛暑がまだ終わらない8月24日真夏の夜の倉敷駅。夏の旅に出た。無理やり出た。休みが取れないので、仕事が終わると飛んで帰って、倉敷駅から電車に乗って高知へ。午後7時5分発の特急南風。高知で食べれるかわからないので、先ずは電車の中で旅気分のビールを空ける。何だか忙しくて、美味しいという味がしない。得々切符で、特急往復6480円の切符をゲット。2時間40分の夜の電車で、瀬戸内海と四国山脈を横断する。高知駅では、くず入れさえも、郷里の作家と云うことでアンパンマンが迎えてくれる。宿は寝るだけと思ったので、「ホテルタウン駅前」という、まんまの名前の宿にした。楽天ネット割大格安3700円!という値段と思えば、韓国のモーテル(現在おそらく3500円以上するはず)よりも上等な部屋でした。そのホテルの近くに12時まで営業しているというので、利他食堂という魚料理居酒屋に行って見る。カウンターのご主人にこの店の名物カツオの藁焼きを頼んだら、もう品切れでした。カウンターには、伊賀焼きが並んでいて、豪快なカツオ料理に合わそうとするおしゃれな店。でも、「一口だけならカツオがある」と云うので、それを頼んた。「合うワインは何ですか?」と聞くと、タトール・プリミティーヴォ・サレント(イタリア辛口・プリミティーヴォ種)を勧めてくれた。なるほど、これは合う。カツオも臭みはなくて、甘みのあるような刺しなのだが、それでもワインのしっかりとした香味がカツオにはとっても合うということがわかった。スーパーで買うカツオとは一味も二味も違う。これはお通しの「うるめいわしとモズクの酢物」。ご主人が今日の一押しということで、勧めてくれたのがこのメジカの新子。何でも、メジカは大きいモノは必ず鰹節にする上物らしい。しかも、すぐに鮮度が落ちるので決して刺身に出来ないのだそう。しかし、新子(小さな魚)だけは、鮮度が12時間持つそうだ。よって、メジカの刺身が食べれるのは、新子が出回るこの夏休みだけの貴重なものらしい。「羨ましい。私も食べたい」とご主人。閉店間際で売れ残りそうだったので勧めたのは有りありなのだが、高知でしか食べれないということもあり、乗ってみた。味は、ものすごい蛋白。臭みは一切しない。辛口の日本酒と合わせたら、美味しそう。赤ワインとは絶対合わないf^_^;)。ともかく面白いモノを食べさせてもらった。腹は既に一杯だったので、これぐらいで切り上げる。今回の旅はグルメが目的じゃない。あくまでも明日がメインです。帰って早く寝なくちゃ。実は、この旅を通してこの利他食堂が最も美味しい食事になろうとは、この時には思いもしなかったのではある。高知は、コインパーキングさえ、龍馬を使うのか!
2016年09月02日
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日蘭協会等が主催した「初めてジャーナリストと呼ばれた男 岸田吟香」講演会を聞いてきました。岸田吟香研究者の森泰通(豊田市郷土資料館館長)さんの基調講演は、あまり期待していなかった分、とても興味深いものでした。豊田市(三河)は幕末は挙母藩。その藩の飛び地が岡山県の現在の美咲町にあって、岸田吟香はそこで生まれました(1833年)。秀才の甲斐があって、津山や江戸で学問修行をして、当時の若者らしく、尊皇攘夷思想にかぶれます。1859年安政の大獄で、仲間が次々に獄に繋がれますが、岸田は仲間がシラを切ってくれたお陰で罪を逃れる。ここで、岸田は突然「ノンポリ」になるのです。1861年脱藩(28歳)。なぜそうなったかは詳しいことはわからない。その5年後の手紙の中で、彼は「武士であることがイヤでイヤでたまらなかった」とも書いています。「ままよのぎん」になるのだ、とも書いています。市井に入って、様々な職業を転々とする。深川で銀次と名乗り、仲間に「ぎんこう」と呼ばれたために、名を「吟香」と改める。1970年代の全学連闘士の挫折の姿が重なります。眼病を患い、横浜のヘボンを訪れ、治癒、その点薬をガラスの小瓶にいれることを思いつき、のちに大きく成功します。同時にヘボンから和英辞典を手伝ってくれと頼まれ、和漢文と市井言葉に精通していることが活きる。これが日本初の和英辞書となる。同時に、遭難者で米国の通訳になったジョセフ・ヒコと横浜で日本初の「民間新聞」である「新聞紙」を創刊。しかし、これは世に出るのが早すぎて一年で休刊。その後三つの新聞の創刊に関わるが、自分の名前はあまり出さなかった。脱藩以来、政治の表舞台に出るのを避ける傾向。1873年東京日日新聞主筆。1874年(41歳)明治7年、台湾出兵に無理やりついてゆく。「新聞は国家の耳目なり」という信念。日本で初めての従軍記者になる。吟香従軍記事は、絵もついていて文章も読みやすく評判をとる。「論説の桜痴、雑報の吟香」と言われた。1875年、言論規制法。主筆を退く。政治と真っ向から立ち向かわないのが吟香の処世術だと森さんは云う。安政の大獄でよっぽど嫌なことがあったのだとしか思えない。吟香は議論よりも行動。常に庶民目線のわかりやすいユーモアたたえた文章を書く。会場には、吟香のひ孫、岸田劉生の孫、岸田夏子さんもきていて、楽善堂の使用人は、主人と同じ食事をしていたと証言。吟香の庶民目線はホンモノである。私は彼を「初めてのジャーナリスト」と評価するのは保留したい。ただ「日本大衆ジャーナリズムの父」という言い方は出来ると思う。彼の姿勢は、現代週刊誌の目線と全く同じである。ただし、中江兆民のように、全集が存在しない以上、それ以上に彼を日本思想史上に位置づけることは出来ない。彼が日本の政治をわかった上であの態度をとったのか、単に時流に乗るのがうまかっただけなのか、おそらく判断はむつかしいだろう。なかなか惜しいと思う。彼の好奇心は360度に飛ぶ。その他にも吟香が先鞭をつけたことは多く、巧みな広告戦略、石油の掘削(失敗)、蒸気船定期航路の開拓、天然氷の販売、日本広告株式会社(のちの電通)創設に関わる、盲唖学校の設立、楽善堂(点薬や図書の店)の中国進出と日中交流、など。ちなみに四男は岸田劉生。
2016年08月05日
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実は、現在12年目に突入しているこのブログ、ちょっと前に4000日経過、そして記事件数も3264本になりました。よく続けたものだと思うのですが、ここまで来ると昔書いた記事はすっかり忘れています。ところが、最近ブログ機能に「最近よく読まれている記事」ランキングを示すコーナーが出来て、何の拍子にか時々とんでもない記事が目の前に現れることがあるのです。そういうわけで、その中で頻繁に現れる記事は省略して、私自身がびっくりしたような「傑作記事」の紹介をしてみようと思いつきました。一回目はナント私の掌小説です。40万アクセス記念で、三題話を貰って書いてみた話です。思ったより良くで来ているな〜と思いました。さらにいえば、ここで中江兆民が話題に載せている「パリコミューン」は、ちょうど(たった)145年前の今日が、1871年5月28日に、パリの労働者たちが築き上げたバリケードを奪われ、刀折れ弾丸尽きて、歴史的な最後を遂げた日であったことを、一言付け加えておきたい。この頃、NHK大河ドラマに「篤介」を持って行きたいというのは、願望ではありましたが、可能性は技術的なものだと思っていました。しかしあれから8年、NHKがそんな題材を選ぶのは夢のまた夢になろうという時代が来るとは。苦笑いしかありません。1873年モンマルトルの丘 2008年06月19日カテゴリ中江兆民 (10)1873年の秋、青年中江篤介はフランスのモンマルトルの丘に登っていた。篤介はこの丘が好きだった。狭い階段を登りきってうしろを振り向けば、突然ヨーロッパ文明が現れる。計画的に作られた道路、ほとんど二階三階建ての煉瓦造りの家々、ところどころに天に聳える教会が頭を出している。見えるのはそれだけではない。中心通りにある一画の建物が崩れているのは、2年前の民衆の反乱事件―のちにパリ・コミューンと呼ばれる―の名残だ。篤介は一年前にフランスに来たので、その事件は見てはいない。だから当初は江戸末期の「ええじゃないか」と同じように民衆の不満が爆発した「狼藉」だと思っていた。けれどもこの一年間、酒場でいろんな人物と飲み歩いていると、単なる暴動ではないと思えるようになって来た。篤介は留学前は江戸でフランス語の通訳をしていた。日常会話程度なら会話に困ることはなかったのである。昨日も酒場で面白い人物にあった。 その人物は職業は絵描きだという。けれどもこのモンマルトルの丘で画家の卵がよくしているような風景画家ではないと言う。「即興画家といえばいいのかな。ポンチを描いているんだ。その絵を俺は新聞社に売るのさ。印刷にかけるから、複雑な線は描けない。単純な一本の線で本質を描く。例えば、二年前の共和政府弾圧の顛末とかさ。」「あれは暴動ではなかったのか」「まさか。あれは我々労働者が主人になった国家だったのさ。たった72日間だけだったけどさ。俺たちはちゃんと政府も作った。女たちも初めてそれに参加した。子供たちも、教育を受けるのは無料にした。」「そんな無茶なことを。自由にやりたいほうだいじゃないか。」「やりたいほうだいじゃあ、ない。君は自由の概念がわかっていない。」篤介はうっと詰まった。実は自由と言う言葉は深い意味があるということを、フランスに来る前アメリカでも感じていたのである。ここでは便宜的に英語を使って篤介の疑問を解説したい。日本では古くから自由という言葉はあった。「日萄辞書」(1603)においても「liberty」が「自由」と訳されている。しかし、その後の日本の町人文学の中での使われ方は「自由気ままに」という使われ方であった。篤介はしかし、それは町人たちの限られた範囲の中での「自由気まま」であることは知っていたし、町人は侍に逆らうことは許されず、自由とはわがままと同じような意味にも捉えられていたのではある。しかし、アメリカではlibertyとはrightとして扱われていたのである。のちに福沢諭吉が「西洋事情」の中で、「人生の自由はその通義なりとは、人は生まれながら独立不羈にして、束縛をこうむるのゆえんなく、自由自在べきはずの道理を持つということなり」と喝破したように自由と独立はセットであり、権利として捉えられていたのである。どこからそのような考え方になるか。篤介自身は知らなかったが、アメリカの独立宣言は、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げていた。そしてこの宣言の基礎となったのが、1789年のフランス革命で謳われた人権宣言のなかの「自由・平等・友愛」の精神なのである。「"人間は自由なものとして生まれた。しかも至る所で鎖につながれている。"」とポンチ画家は突然暗誦するように語った。「"人民自ら承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。"」彼は紅潮して言う。「だから大多数を占める我々が話し合って法律を作ったのだ。どこがやりたいほうだい、なんだ?」「悪かった。」篤介は素直に謝った。「君の意見は私の人生を変えるかもしれない。もっと教えてくれ。」「いや‥‥‥」と青年は急に頭をかき、「これは実は俺の兄貴の受け売りなんだ。なんでもルソーと言うえらい学者の書いた「社会契約論」にあるそうだ。」「ルソー‥‥‥」篤介はやっと自分の進むべき道を見つけたような気がした。先ずはルソーを読もう。それだけじゃなく、フランスやヨーロッパの歴史を学ぼう。自由とは考え方ではない。長い歴史の中で血と汗で勝ち取ってきたものなのだ。俺は福沢諭吉みたいな学者然とした啓蒙活動かにはならんぞ。理論を学べば、あとは実践していく。それなしに、自由の獲得はありえない。篤介のちの東洋のルソーといわれた中江兆民の出発点がこのフランスの居酒屋だった。篤介は遠くまで煙るように続く巴里の都を見据えながら一人呟く。「それにしても、あの青年は面白かった。確かジョルジュ・ビゴー といったけ。日本に行きたいといってたな。来たら歓迎しなくちゃ」のちにビゴーは本当に日本にやってきて、ちゃっかり中江兆民の仏学塾の教授に納まりながら、漫画雑誌を創刊したりするのであるが、兆民が日本に帰り、自由民権運動の中心になっていくさまはまたの機会に書きたい。abi.abiさんからの「40万アクセス記念リクエスト」遅くなってすみません。調べておこうと思った本がどこかにいっていたもので‥‥‥。彼女からの三題話「アメリカ、フランス、自由」はこんな感じでいかがでしょうか。モンマルトルの丘から眺めた雪景色の巴里
2016年05月28日
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岩波文庫中江兆民評論集/中江兆民/松永昌三中江兆民の「論外交」(明15「自由新聞」)を紹介したい。「三酔人経綸問答」の様に問答形式ではなく、社説なので、そのまま兆民の主張になっている。外交問題について、現代に対しても、一つの問題提起になっていると思う。これは、発表の二週間前にソウルで起こった壬午の変に触発されての発言である。(福沢がこれに触発されて「脱亜論」を書いたのは有名)兆民は、「富国強兵策や文明優越意識を批判、道義外交論を展開する。」この論を一言で言うとそうなる。しかし、全体も大事だが、細部にこそ重要な部分があると私は思う。原文は漢文調子なので、完全に力不足だけど少し詳しい「意訳」をしてみたい。「外交を論じる」今も昔も為政者は富国強兵をいう。富国はいいけど、強兵は必要性がわからない。兵は「不仁の器」である。不仁の器を提げて不仁のことを行うこと。これが強兵の目的ではないか。不仁の器を蓄え、不仁の謀を巡らし、人を殺して野にみち流血千里の災いを行い、それを愛惜する所がない、これが果たして天の道だろうか。しかし、人は君子ではなく、殺人も起こす。追い剥ぎもする。あるいは、陰謀を企てて謀反を起こし欲をだす人もいる。およそこういう人は不仁の人です。よって、政治家は必ず軍備を蓄えるのですな。かつ、国々はみんな各々の利益を求めて、その国民の福祉を伸ばそうとします。けれど、いったん利益が衝突すれば軍隊を動かして雌雄を決めざるを得ない。よって、国を与(あずか)る者は平時において必ず軍事訓練をして軍備を蓄え侵略者に備えるのは、もちろん必要です。ところで、兵士を養うことは、経済の道にはなはだ反しますな。したがって、軍備を大きくすれば、税金は重くならざるを得ない。これは、為政者最も苦労する所です。しかしながら、前説の種々の原因により、国を与る者は軍備は必要である。ここで気がつきます。富国強兵この二つは、お互い相い認める事の出来ない事を。このふたつをそれでも、しばらくお互い認めさせて一時の政策を行うこと、これが富国強兵の二つの言葉が出る所以である。しかし、道理でもって考えれば、富国はまことに為政者の目的とするべきものですが、強兵は、結局万やむ得ないときの一策に過ぎません。人はあるいは、言います。国家財政が富むから軍備が大きくなるのだ、と。だから富国強兵は決してあい認める事の出来ないものでは無い、と。ああ、これは「純専の見方」と「比較の見方」を区別していない論理です。単純に比較すれば確かに富める国は多く兵を持ち、貧しい国は少ない。しかし比較をやめて道理で考えて見よう。もともと、国では軍備の為に犠牲になっているものがある。例えばフランスと日本、今の国力が日本の10倍とする。もしお互い軍備費用を他の事に使ったらどうなるだろう。国がさらに富むこと、今日の100倍になるだろう。だから強兵は窮余の一策なのです。(‥‥‥ここまで)(114p)すみません!まだ全体13ページの3ページを訳した処で挫折しました。「三酔人経綸問答」を現代語訳した桑原武夫さんたち京大チームは本当に凄かった。兆民の古典に対する素養の甚大なこと、それらを無視しながら訳して、なんかもう臆するばかりです。兆民が漢文調で書いたので、おそらく福沢諭吉ほどにはその主張が広まらなかったのかと思うのですが、しかし、古代政治に理想を見出し、「道義外交論」を論じる場合、必然の文体ではあったのでしょう。下線を引いたのは、私です。現代にもう一回吟味すべきことだと思ったからです。防衛費は、毎年5兆円の額が使われています。明治の頃に比べれば、確かに「万やむ得ないときの一策」である、と国民は認識している、と仮にして置いてもいいが、それにしても、本当に「万やむ得ない」のだろうか。もう一度突き詰める必要があるのではないか、と思うのである。「純専の見方」は、現代では沖縄で証明されつつある。沖縄経済は基地に依存している、と本気で思っている沖縄人は今ではほとんどいないのではないか。読谷基地の土地を返還後に上手く活用した自信が沖縄に広まっている。「戦争が無いほうが人類は栄える」この思想は、まだ世界全体のものになっていない。しかし、ものすごく大事な視点だと思う。これだけ訳しただけでも、現代にとって新鮮な視点が幾つもある。「三酔人経綸問答」は既に古典であるが、これもそれに数えて良いのではないか。特に、兆民が国のグランドデザインを「小国主義」に置いて居る事に注目したい。日本はその立地や資源から言っても本来「小国」なのでないか。そのことを日本国民は全員忘れてはいないか。小国のとる立場とは何か。没落しつつある某大国に金魚の糞の様に追随し、自らを「勝ち組」として振舞う事ではない。「信義を堅守して動かず、道義のある所は大国といえどもこれを畏れず、小国といえどもこれを侮らず。彼れもし不義の師を以て我に加ふるあるか挙国焦土となるも戦ふべくして降るべからず。隣国内訌あるも妄に兵を挙げてこれを伐たず。いわんやその小弱の国の如きは宜しく容れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道ただこれあるのみ。」(124p)大国との関係は、非同盟中立を旨とすべきことを別に明治21年に述べている。(「東雲新聞」での「外交論」)
2012年07月02日
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津山の洋学資料館には、ずらりと薬草になる花々が植えられていました。ベニバナはちょうど今の時期に咲いているようです。乾燥した花を薬草に使うということ。効用は血行促進作用。他に染料や食用油に使われることも有名。「三酔人経綸問答」中江兆民 岩波文庫時の政策を批判する時に、批判ばかりしていたのでは良くない。対案は持つべきではある。しかし専門家ではない市民の身、原発政策や経済面の複雑な論議に入っていくと埋没してしまって抜け出せなくなる。よって、一番根幹の論議とは何かを考える。根幹を押さえて置くと、結論は直ぐに出るだろう。すると、結局はアメリカとの関係をどうするのか、というところに行き着くのである。それは即ち日本の外交政策をどうするのか、というところに行くだろう。だから憲法9条をどうするのかということは、世の中ことを論ずる時には必要不可欠だし、中国脅威論云々というのは、基本的には決して無駄な論議ではない。しかし繰り返すが、専門家ではない市民の身、脅威論等の細かな軍事比較などしては居られない。良いのは、物事の最初に立ち返ること。グランドデザインを決めた明治の論議をみることだろう。格好のテキストがある。それが本書である。原文と現代語訳の両方があり、訳文は現在に至っても多分最高峰である。三者三様の立場から意見を闘わして方向を探るのは、空海の「三教指帰」から始まり良い方法である。私はかつて真似の戯れ言をしたことがある。紳士君は「民主政治」の立場をとる。(←共和主義に近い)そうなって「自由平等」になれば、軍備や戦争は必要ではなくなる。学芸も栄え、道徳も高尚になる。万一他国が攻めて来たら、主張すべきことは断乎として主張し、「弾を受けて死せんのみ」と答え豪傑君の失笑を買う。豪傑君はどうか。争いは動物にとっても人間にとっても避けられないものであるだけでなく、政治家や軍人にとっては楽しみである。恋旧家と好新家が対立するが、恋旧家は社会の「癌腫」だから、それらをアジアかアフリカの大陸に送り、小国を大国にする方法を構ずればよい。そのことにいま着手しなければ、欧州諸国はかならずアジア侵略を開始するだろう。という。詳しくは読んで頂くとして、現代の我々に最も傾聴に値する論は南海先生の論だと私は思う。専制から一挙に民主制にはならない。立憲制をとおるのが順序である。恩賜の民権を大切に扱い、回復の民権に変えていくのが進化の理法であるという。ここは、兆民自身が「いささか自慢の文章です」と書いているように、当時最も現実的なグランドデザインだったと思う。さて、外交である。「もし彼らの軍備拡張が小規模であるならば、あるいは爆発するかもしれないが、大規模に軍備拡張しているから、爆発することはあり得ないのです。」これは中国脅威論、昔ならソ連脅威論にあたるだろう。それでも、もし攻めてきたとしたら専守防衛に尽くすしかない。「わがアジア諸国の兵隊は、それで侵略しようとする時には不十分だけれども、それで防衛するには十二分なのです。」「二つの国が戦争を始めるのは、どちらも戦争が好きだからではなくて、じつは戦争を恐れているために、そうなるのです。」「要するに、外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係を深め、万やむ得ない場合になっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の重荷を軽くしてやるよう尽力してやること、これです。」この結論に対して紳士君、豪傑君共に「少しも奇抜なことはない。今日では、子供でも下男でもそれくらいのことは知っています」と笑ったが、果たして現代日本の若者はそういう水準だろうか。自衛隊は果たしてこうなっているか、知っているだろうか。(←じゃあ、お前は自衛隊を認めるのか、と聞かれたならば、私は「安保条約を廃棄し、自衛隊を一旦解体し本当の自衛隊になれば認める」と言おうと思う)専制から立憲君主制に移り、やっと民主制に移りつつある現代(移ったとは決して言えない)、最も現実的なグランドデザインはこうだ、と私も思う。現実的だけれども、未だ現実化されていないのが、日本の不幸なのである。
2012年07月01日
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前野良沢、杉田玄白、渡辺崋山、高野長英、と続く洋学の思想は、明治に至りて、二人の巨人を生む。福沢諭吉と中江兆民である。福沢諭吉と中江兆民が、近代国家建設の出発点にあたり、どのような文明論、国家論を構想したか、それを見据えることで、内政、外交ともに息詰まっている現代日本の課題が浮き彫りになる、そういう本だと思う。「福沢諭吉と中江兆民」松永昌三 中公新書諭吉は日本の独立発展のためには、西洋文明の受け入れは必要不可欠と見ていた。文明を善、正義、力、進歩と見ていて、野蛮→半開→文明の発展段階説をとっていた。衝突があった時に、善や正義は常に文明の側にある。文明化が他の地域の植民地獲得をまねくことも、一定の批判は持っていたが不可避と見ていた。西欧列強の植民地支配を避けるためには、西洋文明を受け入れ一刻も早い国家的独立を達成し、さらには他の地域の植民地獲得に進む以外にないのである。その意味では、富国強兵は必然的選択であった。さて、中江兆民はどうか。兆民は進歩史観は持っていなかった。思えば、進歩史観は世界史的に見ても19世紀の産物である。それまでも現状批判とか現状改革ということはあった。しかしそれは、古い時代を理想とみて、旧に復す、復古という観点から、現状批判するのが普通だった(ルネサンス、王制復古、聖人治世)。ルソーの社会契約論も、過去に神と民の約束ということで、自由平等友愛が保証されたのである。兆民は中国古代三代の治世を理想状態にとらえていた。そこから見えるのは、「文明開花」は理想社会ではない。兆民はヨーロッパ人のアジア・アフリカ人への態度を厳しく批判しているが、同様に日本政府のアイヌ政策も厳しく批判している。兆民は「開花をむしろ悪とさえみているのである」。一方、福沢もヨーロッパ人のアジア、インド人への蔑視の場面を見て記しはいる。しかし、彼はだから早くヨーロッパ波に文明開化し、「勝ち組に入るべきだ」という主張になるのである。福沢は、国家間の交際(外交)は基本的には力関係で決まるのであって、一個人の道徳と一国の道徳を混同すべきではないことを強調する。その帰結が「脱亜論」であった。兆民も文明と侵略は一体だと考えていた。しかし、国家の道徳と個人の道徳を分離してはいけないと考えていた。兆民が目指していたのは、富国強兵ではなく、道義立国であった。それはつまり、福沢の功利主義、実用主義への批判にもなるだろう。福沢の実用主義は、「西洋近代化が国際社会で生き残れるか、否かを決める鍵」だと信じられている時代にあって、確固とした現実的方策を示したもので、時代の要請に応えたものだっただろう。問題は、福沢の言う実学の精神が真に近代日本人の血肉になったか、ということだろう。山県有朋は富国と強兵は相互い矛盾する事を承知して強兵を選択していた。福沢は結局その言い分に乗っている。「東洋の政略果たして如何せん」(明15)で、情勢の逼迫のために、増税も朝鮮強硬策も、「国民が選択しなくてはならない」と説く。つまり賛成している。兆民はその時どう論じたか。ひとつ「論外交」がある。富国強兵策を批判、富国と強兵は矛盾する、「富国は為政者の目的だが、強兵は結局万止むを得ない時の一策に過ぎない」と説く。日本のような小国が進む道は、スイス、ベルギー、オランダよような小国・中立主義を取るべきだと説く。福沢の言う富国強兵の道。兆民の言う小国主義。明治の始めに2人の思想家が二つの日本の進む道を示していた。これは、現代日本にも未だ突きつけられている「課題」なのではないか。
2012年06月22日
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NHK大河ドラマ「篤姫」が好調なのだそうだ。視聴率20%超えがもう10回も続いているらしい。やっぱり宮崎あおいちゃんの魅力によるところが大きいのでしょうね。(←ミーハー的なファンです)ところで、昨日久しぶりに中江篤介こと中江兆民関係の記事(私は左に「中江兆民」とカテゴリーまで設けている)を書いて思い出したのであるが、私はかねがね大河ドラマの企画としてぜひとも主人公として扱って欲しい、人物と時代がある。それは江戸末期から始まり、日清戦争で列強の仲間に入り自由民権運動が衰退し、社会主義運動が起こるまでの時代を生きた中江兆民の生涯を大河ドラマとして扱って欲しいということである。「篤姫」が幕末を従来と違った視点で取り上げて成功したのと同じように、この大河も非常にユニークな視点を持つものとなるのは明らか。そしてあまり知られていないが、兆民は本当に波乱万丈、いろんな人物と接点があり、しかも、時代時代の節目にいつも顔を出している点で非常にビジュアル向きなのである。少年時代は土佐勤皇党の顛末を身近に見、長崎留学時代は坂本竜馬の小間使いをし、江戸に出たら明治維新の真っ只中。大久保に掛け合って留学を実現。そして昨日の記事にあるように、「自由民権運動」の生きたエッセンスを誰よりも吸収する。この留学時代に馬場辰井、西園寺公望などと交友を結ぶ。この西園寺は非常に面白い人物で、兆民と謀って自由民権運動の最右翼の雑誌を創刊したかと思うと、桂園時代といわれる首相も経験する。日本に帰れば、一般には知られていないが、勝海舟と相談しながらクーデター計画まで考えていた。西南戦争に折には、仏学塾の学生が戦争に行ったので、戦地の九州まで旅をしている。そして自由民権運動の中心にいつも座る。憲法が発布したときにその価値と利用のと方を一番知っていたのは彼のはずだった。彼は議員としてトップ当選したのに、大同団結運動に失敗すると、すぐに議員を放り出す。その後右翼団体にも顔を出したりする。一方で、弟子に社会主義者の幸徳秋水を持つ。喉頭がんで余命一年半といわれたときには、最期の輝きを示して、見事な生き方をする。憲法問題が活発になる再来年、ぜひとも大河ドラマ「篤介」を企画してもらいたい。
2008年06月20日
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1873年の秋、青年中江篤介はフランスのモンマルトルの丘に登っていた。篤介はこの丘が好きだった。狭い階段を登りきってうしろを振り向けば、突然ヨーロッパ文明が現れる。計画的に作られた道路、ほとんど二階三階建ての煉瓦造りの家々、ところどころに天に聳える教会が頭を出している。見えるのはそれだけではない。中心通りにある一画の建物が崩れているのは、2年前の民衆の反乱事件―のちにパリ・コミューンと呼ばれる―の名残だ。篤介は一年前にフランスに来たので、その事件は見てはいない。だから当初は江戸末期の「ええじゃないか」と同じように民衆の不満が爆発した「狼藉」だと思っていた。けれどもこの一年間、酒場でいろんな人物と飲み歩いていると、単なる暴動ではないと思えるようになって来た。篤介は留学前は江戸でフランス語の通訳をしていた。日常会話程度なら会話に困ることはなかったのである。昨日も酒場で面白い人物にあった。 その人物は職業は絵描きだという。けれどもこのモンマルトルの丘で画家の卵がよくしているような風景画家ではないと言う。「即興画家といえばいいのかな。ポンチを描いているんだ。その絵を俺は新聞社に売るのさ。印刷にかけるから、複雑な線は描けない。単純な一本の線で本質を描く。例えば、二年前の共和政府弾圧の顛末とかさ。」「あれは暴動ではなかったのか」「まさか。あれは我々労働者が主人になった国家だったのさ。たった72日間だけだったけどさ。俺たちはちゃんと政府も作った。女たちも初めてそれに参加した。子供たちも、教育を受けるのは無料にした。」「そんな無茶なことを。自由にやりたいほうだいじゃないか。」「やりたいほうだいじゃあ、ない。君は自由の概念がわかっていない。」篤介はうっと詰まった。実は自由と言う言葉は深い意味があるということを、フランスに来る前アメリカでも感じていたのである。ここでは便宜的に英語を使って篤介の疑問を解説したい。日本では古くから自由という言葉はあった。「日萄辞書」(1603)においても「liberty」が「自由」と訳されている。しかし、その後の日本の町人文学の中での使われ方は「自由気ままに」という使われ方であった。篤介はしかし、それは町人たちの限られた範囲の中での「自由気まま」であることは知っていたし、町人は侍に逆らうことは許されず、自由とはわがままと同じような意味にも捉えられていたのではある。しかし、アメリカではlibertyとはrightとして扱われていたのである。のちに福沢諭吉が「西洋事情」の中で、「人生の自由はその通義なりとは、人は生まれながら独立不羈にして、束縛をこうむるのゆえんなく、自由自在べきはずの道理を持つということなり」と喝破したように自由と独立はセットであり、権利として捉えられていたのである。どこからそのような考え方になるか。篤介自身は知らなかったが、アメリカの独立宣言は、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げていた。そしてこの宣言の基礎となったのが、1789年のフランス革命で謳われた人権宣言のなかの「自由・平等・友愛」の精神なのである。「"人間は自由なものとして生まれた。しかも至る所で鎖につながれている。"」とポンチ画家は突然暗誦するように語った。「"人民自ら承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。"」彼は紅潮して言う。「だから大多数を占める我々が話し合って法律を作ったのだ。どこがやりたいほうだい、なんだ?」「悪かった。」篤介は素直に謝った。「君の意見は私の人生を変えるかもしれない。もっと教えてくれ。」「いや‥‥‥」と青年は急に頭をかき、「これは実は俺の兄貴の受け売りなんだ。なんでもルソーと言うえらい学者の書いた「社会契約論」にあるそうだ。」「ルソー‥‥‥」篤介はやっと自分の進むべき道を見つけたような気がした。先ずはルソーを読もう。それだけじゃなく、フランスやヨーロッパの歴史を学ぼう。自由とは考え方ではない。長い歴史の中で血と汗で勝ち取ってきたものなのだ。俺は福沢諭吉みたいな学者然とした啓蒙活動かにはならんぞ。理論を学べば、あとは実践していく。それなしに、自由の獲得はありえない。篤介のちの東洋のルソーといわれた中江兆民の出発点がこのフランスの居酒屋だった。篤介は遠くまで煙るように続く巴里の都を見据えながら一人呟く。「それにしても、あの青年は面白かった。確かジョルジュ・ビゴー といったけ。日本に行きたいといってたな。来たら歓迎しなくちゃ」のちにビゴーは本当に日本にやってきて、ちゃっかり中江兆民の仏学塾の教授に納まりながら、漫画雑誌を創刊したりするのであるが、兆民が日本に帰り、自由民権運動の中心になっていくさまはまたの機会に書きたい。abi.abiさんからの「40万アクセス記念リクエスト」遅くなってすみません。調べておこうと思った本がどこかにいっていたもので‥‥‥。彼女からの三題話「アメリカ、フランス、自由」はこんな感じでいかがでしょうか。モンマルトルの丘から眺めた雪景色の巴里
2008年06月19日
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癌で闘病中の辺見庸氏の講演会が6月24日に大阪中央公会堂である。誰か行く事があったなら、ぜひとも、話の内容はともかく、『どんな風に話をしたのか』教えて欲しい。10日付朝日新聞に『「無知の無恥」怒りの奔流』という記事が載った。『体調をおして、遠出を決めた思いを聞きたいと取材をお願いした』らしい。『長時間の面談は遠慮するつもりだった。が、結果は4時間も痛罵させ続けてしまった。札びらで顔をはたくような「資本の論理」が席巻する風潮など抵抗したい対象はあまりに多い。その中でなぜまず憲法なのかと、つい私が口にしたのがきっかけだった。「生き死にをかけた他者のテーマに対する畏れを知れ」と、軽蔑と怒りの奔流が襲ってきた。したり顔でひとごとのように語るその態度こそ冷笑主義だ、生身の実感で問題を扱わず、結局は矛盾に加担すると「無知の無恥」をなじられた。』『あとどれだけの言葉をつむぎ出せるのか、真剣にならざるをえない。行動や方針を提起する気はない。感応した言葉を一人ひとりが持ち帰ってくれればいい。』とも言ったらしい。私は辺見庸氏の著作は読んだことはない。けれどもこのような生き様を私は知っている。中江兆民は医者に食道がんであると告げられ、後どのくらい生きられるのか聞いて『一年半、善く養生すれば二年を保すべし』と聞く。兆民、一年半とは思ったより長かった、寿命の豊年なりと、『一年有半』を記すのである。『一年半、諸君は短促なりといはん、余は極めて悠久なりといふ』こうなると話す言葉は大事ではない。生き様が大事なのだ。ぜひ誰か聞きに言って、どんなんだったのか教えてほしい。講演会は24日午後6時半開演。参加費は当日1200円。前売り(1000円)は、16日までに郵便口座(00970・4・243904、辺見庸講演会実行委員会)に振り込み、振込金受領証を当日持参。問い合わせは同委員会(075-561-8792)へ。
2006年06月10日
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わが一族、生来酒を好む。年一回、正月の朝、家族集いて御神酒を飲みて時を知らず。父(豪傑君)年少の折に呉海軍少年兵となれり。娘が正月なのにチュニジアに外国旅行に行っているのが気に食わないのか、突然日本は改憲して軍隊を持つべし、と唱えり。豪傑君「軍隊を持つべし。軍隊を持つべし。チュニジアの古の都はカルタゴである。日本のように貿易立国であったが、軍隊を持たなかったためにローマ帝国に攻められ、国を滅ぼされた。日本はその轍を踏むのはよろしくない。人間には闘争本能がある。守る手段を持っていなかったら殺されるだけだ。」豪傑君に二人の息子あり。弟(紳士君)のほうは最近護憲運動に関わえり。豪傑君に反論していわく。紳士君「何を無茶なことを。あなたは軍隊を持つことでさらに戦争への危険が増すことに気がついていない。さらにいえば、人間には闘争本能はあるかもしれないが、それが戦争には結びつかない。縄文時代に戦争はなかった。またカルタゴの場合は、戦争状態になる前にするべき外交手段はなかったのか、その当時無いにしても、現代はある。改憲は論外である。自民党草案を読んだことがあるのか。あれは軍隊を認めるということではない。集団的自衛権を認める、ということである。それは今まで歯止めになっていた「派遣」という言葉が「派兵」という言葉になるということだ。アメリカといっしょに戦争をするということである。」二人の息子のうち兄(南海先生)は、二人の娘を持つ父親である。二人の言を評していわく。南海先生「改憲をして戦争への歯止めがなくなるのだとしたら、それはよくないだろう。しかし、現代そのようなことが可能な世の中だとは到底思えない。実際の条文が出来上がってから考えても遅くはないだろう。」豪傑君「元寇を知らないのか。外国はいつ攻めてくるか分からない。神風もあったが、武力があったからこそ、侵略されずにすんだのだ。」紳士君「今の憲法でも自衛権はある。自衛のための武力を持つな、ということではない。改憲をしたら、よその国に攻めていくことが可能になるのだ。第二次世界大戦がいい例だ。満州という同盟国を守るという名目で侵略して行っただろう。」豪傑君「あの戦争はよくなかった。あれは陸軍が暴走したのだ。山本大将はあの戦争には反対しておられた。東条が悪いのである。靖国にせよ、いつ東条が祀られたのか知らんがあの男を祀るからいかんのだ。」南海先生「どちらにせよ、戦争になるような改憲ならば、それは反対していけばいい。現代に必要な部分があるなら変えていけばいいだろう。」(ただ先生、墓参りのために結論を急げり。条文は読んだことはなし。)以上、中江兆民「三酔人経綸問答」に擬して書いたが、会話の内容は今朝話されたことをそのまま書いたので、古典の内容と相当ずれていることを一応お断りしておきます。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
2006年01月01日
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さて、TN君はアメリカ経由でフランス行きの船に乗る。ほかの留学生たちはアメリカでいろんなところを視察して 、目を大きく開いてこの大国に追いつくことだけを考えていたとき、TN君は目をつぶる。「おい、TN、お前どうして目をつぶるんだ。」「目まいがしないようにさ」「変わっているな。ここに来てわざわざ目をつぶるなんて」「いや、目をつぶったほうがよく見えるものもあるんだ。わしは工場よりもこの国の歴史のほうを見たいんだ。」このとき西欧留学に行った若者や、大久保利通みたいな政治家たちは、そのあと外国を追い越すために「富国」と「強兵」を進めていく。当時のエリートにTN君のような考えをするものはほとんどいなかった。そしてTN君はやがて西欧の近代資本主義が進んで行ったその源をルソーの「社会契約論」に見つける。一方伊藤博文や山県有朋たちは科学文明を取り入れることには熱心でも、その精神は封建主義のままだったのである。フランスに着いたTN君、なんとまずは小学校(実質は中学校という説もある)に入学する。言っておくがまるきり会話が出来ないわけではない。彼はこれでも渡欧前は仏語の通訳者だったのである。その国のことを一から学ぼうとする発想は見習わなくてはならない。ただし、子供たちの間で勉強するには、とても一年持たなかった。当時のフランスはナポレオン三世の第二帝政の時期から第三共和制に移り、パリ・コミューンが弾圧された直後であった。政体は共和制でも、急進的な運動は弾圧されたのではある。TN君フランスの歴史は非常によく把握しており、後の「三酔人経綸問答」では、基本的に政体の進化を王政→立憲君主制→共和制という風には捉えているが、彼がその際強調したのは、進化が直線ではなく、「迂曲羊腸」(紆余曲折)だということである。TN君、歴史を見る目は非常に冷静である。日本に帰って政党政治が跋扈する中、TN君時々アクロバット的な方針を打ち出すのであるが、それも歴史を見据え、未来を展望し、現実にあった行動をしようとしただけなのであろう。TN君このとき27歳。「恩賜の民権から恢復の民権へ」という当時としては現実的なスローガンをもつ本を出すのは14年後であった。さて、歴史はきちんと見据えなければならぬ。たとえば、「近代憲法は国民を縛るものではなく、政府を縛るものである」という原則は今もっとも多くの人たちが憲法学習で学ばなければならない事項のひとつであるだろう。
2005年12月29日
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日本を飛び出そうと決意したTN君は長崎に留学し、さらに江戸に遊学し、さらに単身大久保利通に自分を売り込んでフランス留学を勝ち取ります。長崎・江戸では得るものは少なかったけれども、しかし長崎ではTN君は坂本龍馬に出会う。龍馬はそのとき倒幕のために薩長連合に奔走していた。しかしTN君のちに知るのであるが、龍馬の本心は薩長に勝たせたくなかった。次は大政奉還を進めていく。西郷の武力倒幕という方針とぼぼ同時に、「船中八策」の方針で土佐藩が動き出す。すなわち『一、大政奉還、二、上下議政局、三、人材登用、四、外国交際、五、無窮の大典(憲法)の制定、六、七、陸海軍、八、財政問題』である。基本的に勝海舟の師匠である横井小楠「国是七条」「国是十二条」と内容は基本的に重なっている。このままの構想で動き出せば、明治という時代は相当変わっていただろう。しかしこの直後龍馬は暗殺される。八策は単なる大政奉還策に矮小化されていく。そして武力倒幕は実施される。この「伝記」では龍馬の日本未来論を聞き、大いに刺激を受けたと書かれてある。「現実的な人間より夢を見る人間のほうが鋭いとはおかしなものだ」幸徳秋水の「兆民先生」はTN君の龍馬への気持ちを次のように書いてある。「彼を見てなんとなくエラキ人なりと信ぜるがゆえに、平生人に屈せざる予も」タバコの使いも喜んで行った、と。秋水はいう。「奇なるかな。坂本龍馬君を崇拝したる当時の一少年は他日第二の坂本君たらんとしたりき。」自由党改進党の大同団結運動に乗り出し、藩閥政治を滅ぼそうとしたのは「先生が畢生の事業」であった。「而して坂本君は成功せり。先生は失敗せり。成功のかかるところ、天か、はた人か」。今日のNHKの憲法の議論を見る限りでは、共産、社民、民主の「大同団結」は可能のようには思うのではあるが、「現実は難しい」という声も聞こえてきそうだ。もちろん、「大同団結」の内容は政党の団結に求める必要はない。憲法論議に関していえば、「政党団結」以上に「国民団結」のほうがはるかに大切ではある。100年以上前、どこで「成功」して、どこで「失敗」したのか。その原因は「天」か「人」か。もし現実の行き着く先が、みんなが望んでいる世の中ではないのなら、TN君同様「夢」を描くことは大切だろう。
2005年11月27日
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しばらくTN君のことを取り上げてみたい。とりあえず「TN君の伝記」(福音館書店なだいなだ著)この本にそって、彼の生き方から現代(の私)に何が汲み取れるか考えてみたい。TN君とは誰か。1847年、高知足軽の子に生まれる。TN君16歳のとき、土佐勤皇党は急激に「改革」運動を行い、自滅する。TN君はその運動に加わらなかった。自覚的な若者としてはかえって珍しい。TN君は考える。「彼らは日本の未来を考え、今の世の中を憂えている。しかし、日本の未来の側から自分を見ていないじゃないか。」TN君は土佐を抜け出して土佐を見よう。日本を抜け出して日本を見よう。そして自分を見つめよう、と決心する。この視点はいつの時代でも大切だろう。とりわけ、自分の回りの世界が大きく動くような時代では特に大切だ。網野善彦によると、日本は現在、中世に次いで歴史上二回目の転換点を迎えているらしい。政治形態の違いではなく、生活様式や情報の変化を考えるとき、肯ける指摘ではある。わたしたちは「未来から自分を見る」ために何をしたらいいのだろう。この本にやがて出てくる植木枝盛はTN君にこういう。「私は先生より10年遅れて生まれてよかったと思っています。外国に行かなくても、外国語が出来なくても先生たちが訳した本を読むことができる。」実際植木枝盛の読書力はピカ一でした。だからこそもっとも先進的な『憲法草案』も作ることができたのでしょう。けれども私はTN君のほうが好きだ。TN君の理論はおいおいと紹介したいが、「ぶれ」がほとんど無い。現地に出向いて原文を読んで、自ら行動したものが持つ説得力と幅広い視野がある。果たして最後まで行くかどうかは心許無いけど(いや、自信はほとんど無いが)、このカテゴリーではなだいなだの著で若干TN君の生き方を紹介したあと、『原文』に即して彼の理論を検証してみたい。
2005年11月26日
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