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総社市の「まちなか美術館2021」の企画、まち歩きマップで旧商店街をぶら歩きした。約30数年ぶりにこの辺りを歩いた。いろいろ努力していて、素晴らしい。 「えがきや」という、駄菓子屋を改良した小屋に入った。駄菓子店かと思いきや、アニメの本物の色紙、しかも手塚治虫、ちばてつや、安彦良和等々大物が10数枚飾ってあって、山本一二という有名アニメーターの原画ペラペラまで置いていて、彼らの風景原画(「もののけ姫」もあった!)まで置いていた。 「此処はなんなんですか?」 「アニメスタジオなんです。私の妹が、手塚プロに長いこと行っていて、今は岡山と東京に2箇所拠点を作ってやっているんです(妹さんは「色指定」らしい)」 「あの、映画のエンドロールに最後延々と出てくるアニメスタジオのひとつが此処なんですか?」 「そうです。「天気の子」とか(今度「鹿の王」も手伝ったらしい)」 妹の娘さんが、出てきて少し説明してくれた。 デジタル時代といえども、全て転送できるはずもなく、転送便を駆使しながらも、こんな小さな家でアニメの下請けをしているようだ。こういう小さなスタジオが、日本のアニメを支えていると思うと、もうびっくり感動!(中の風景は流石に撮影不可でした) 井手屋という立派な建物。 その手前に六枚橋という、小さな小川の跡と橋があった。 伏流水があるのか、綺麗な苔が生えている。 30年前にはもうなかったけど、豪商跡というのが至る所にあり、やはり頼山陽ゆかりの家の跡もある。彼は、この山陽道を通って、至る所に寄宿していたのだろうか。 元警察署の「まちかど郷土館」に久しぶりに入る。山陽道を今の道に合わせて詳しい地図を作っていた。両宮山古墳は山陽道かと思いきや違っていた。丸山古墳の辺りだとわかる。総社市を。すぎて、川辺を渡って、福山に繋がる今の道を歩いていたのだ。 総社市唯一の明治洋風建築らしい。木造かつ西洋という括りで、日本の洋風建築は、世界的に見てどうなのだろうか? 2階からの風景。 一般の家も趣がある。 昔住んでいた頃は気がつかなかったけど、古くて良い建物がたくさんある。 最後はこの古家を改造して運営している珈琲屋(焙煎が主みたい)に入った。 テーブルは小さな2人掛けが二脚のみ。隅々まで気の行き届いた店で、3人も働いていた。やっていけるのか?お客は来ていたみたいだけど。ドリップコーヒーは300円だった。 こういう休日も良い。
2021年11月27日
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ずっと来たかった、岡山県瀬戸内市のハンセン病療養施設だった長島愛生園に行った。 旧事務本館(歴史館)。長島のハンセン病(らい病)の歴史と実態と問題点を過不足なく展示していて、素晴らしい博物館だった。 1930年(昭和5年)竣工。この年、この長島に国立療養所第一号として、長島での「らい病」患者隔離政策が始まる。2003年に歴史館として開館。職員施設だったこともあり、美しい造りになっている。 もっとも人がいた頃の長島愛生園の島のジオラマ。それにしても、こんなにも住宅でひしめいていたのだとビックリする。この人たちは、一生、日本と接点を持たずに死んでいった。 「らい病」と長島の歴史を過不足なく説明。特に、万民を分け隔てなく接していた一休宗純が、気に入らなかったとは言え、兄弟子の「らい病」死を「仏罰だ」と切って捨てたというエピソードはショック。それほどまでに、「らい病」は嫌われた病気だったということか。 十坪住宅。劣悪な環境を改善しようと患者の結婚した人たちの住宅を「寄付」で建てる運動が、戦前に始まっている。しかし、条件は結婚カップルは断種手術をすること。この住宅が147棟建てられた。 十坪住宅への寄付を募る文章(昭和10年)。 この島に隔離することが、国の為になるとハッキリ書いている。「祖国を浄化させるため」「(隔離する事で)20年経たずにらい病を根絶できるだろう」そのための住宅問題の解決である。 その他見たもの。 夢の国に行くかのように誘う長島のパンフ(戦前) ビックリ! 90年代まで使われた投票箱。 無数に開いている穴は、投票用紙を蒸気で「除菌」するためである。 これがつい最近まで、最も公的な場所で行われてきた事である。 ハンセン病を学ぶことは、差別とは何かを学ぶこと。無関心が差別を生むのだ。 ‥‥この「教訓」が、非常に大切だ。 全文を書き写す。 「ハンセン病に対する偏見と差別は、国が政策を誤ったことにより助長されてきました。 しかし、それを容認してきたのは国民一人ひとりです。 「無関心」は、誤解と偏見を生み、差別につながります。 現在も様々な差別に苦しんでいる人たちがいます。 その人たちに関心を持ち、正しい理解の輪を広げることこそ、ハンセン病問題から学ぶべき大きな教訓です。」 「様々な差別」としてパネルでは、「障害者への差別」「外国人への差別」「同和問題」「ハンセン病問題」「病気への差別」などを挙げている。確かに全てまだ未解決の問題だと思う。 その他の展示物 そのあと、外へ出て少し回った。コロナ禍のもと、全て歩けない。これは収容桟橋。収容者用の桟橋は、職員用とは別になっていた。 収容所(回春寮)。入所すると、ますこの建物に収容される。現金などの全ての持ち物が没収される。 そして入浴。 監房跡。開園と同時に設置されたらしい。逃走したもの等を収容。懲戒権は所長に与えられていた。昭和28年になって、やっと廃止。 何故か園内では、NHKラジオ放送が延々流れていた。 使われていない公衆電話。 とおもいきや、上に各施設内内線電話表があった。むかしは頻繁に此処が使われていたのか。 「人間回復の橋」長島大橋(1988年開通)。 そこから観た虫明の美しい海。牡蠣筏が無数に浮いている。
2021年11月20日
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昨日、岡山後楽園前の福岡醤油ギャラリーで行われているチーム・ラボの「Tea Time」を観てきた。 詳しい解説は写真参照。 ワクチン2回接種証明書持参で、1000円の入場料が半額になる。まるきり事前知識なく、なんか展示している、とだけで来た。 まさか展示が一点だけとは思わなかった。 写真ではわかりにくいが、光が明滅していて、ブームという音も起滅している。「引き込み現象」というらしい。氷を入れた普通の緑茶が、それにつられて明滅する。色が変わる。 ハッキリ言ってそれだけ。入場時間は決められていて、しかも20分だけ。 デートで来るには、あまり喋れないし、一人で来るのは(私は平気だったけど)耐えられない人もいるだろう。この時は、もうひとカップルの女性組だけだった。醤油蔵の地下を利用した展示ではあるが、東京では受けたかも知れないが、果たして岡山で受けるのだろうか?
2021年07月25日
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千本中立売ぶらぶらをする。そこの停車場でとにかく降りる。 いったい何処なのか。この通りなのか? どう見ても此処は夜の街だ。おゝいかにもという店。 極楽湯という家の佇まい。 地図アプリ見てもピンとこないけど、とりあえずおばあちゃんに千本中立売商店街の場所を聞く。名前は違うけど、コレらしい。 うーむ、古い佇まいだけど、そんなに面白いところはない。 出雲阿国関連の土地はたくさんあるけど、此処にもあった。 それよりも同じところが、宮本武蔵吉岡一門との決闘場だったこと。おゝこの辺りか! この喫茶店がなんとも昭和の佇まいで、ランチを800円というので、入ることにした。 おゝ中も素晴らしい。お客さんがいないのも良い。 ランチが予想に反して素晴らしかった。完全京都のお昼ご飯だった。炊き込みご飯にニュー麺、そしておばんざい小皿二つ。お水を入れたコップも素晴らしい。 この後、なんとなく此処が怪しいと細い路地に入ってゆく。当たった。昔の遊郭の匂いがする。そしたら聞いたような店構えがあった。「江畑」。 コレは「京都深掘りさんぽ」じゃない。その前に読んだ「遊郭に泊まる」に載っていた、元遊郭の焼肉屋さんだ。当たりだ。この辺りが映画「五番町夕霧楼」の舞台だ。 この店の構えには、まだまだ遊郭の名残りがある。 まだ店を開けていない。けれども、暖簾越しに中を少し写させてもらった。あの本には、この奥に座敷牢のや名残りがあるらしい。この店は四番町ではあるが、では周りはどうなっているんだろ。 「さんぽ」にも載っていた千本日活もちゃんとあった。今でも現役だ。それだけで凄い。 しかも安い。 そして五番町を物色すると、明らかに遊郭名残りの「意匠」があった。 遊女或いは弁天様の鏝絵に鍾馗?の鏝絵。どういう願いがかけられて、どういう想いで見られてきたのか? こういうディープな千ブラが出来た一方で、ホテルに帰って「深掘りさんぽ」を見れば、「嗚呼!あそこも面白そうだったのに!」という店が山ほどあった(例えば、千ぶら内の古本屋さん、様々な謎の店、京都伝統産業ミュージアム)。これだけで午後が潰れた筈だ。でも、もう行けない。旅とは、たいていはこういうモノなのだ。 雨も降っているし、トイレも近くなったし、京都のローソンでは「トイレは使わせない」と言われたし、ホテルに帰ることにした。バスで四条烏丸に降りる。急いでマクドに寄ってトイレ休憩を済まして、ホテル前に来ると、「京都芸術センター」という博物館らしきモノが、なんと月曜日なのに開いていた。 中にはいると、若い芸術家たちがなんかワークショップをしていたり、相談会をしていたり、本を読んでいたりした。おゝこんな処があるんだ! どうやら、元小学校らしい。 しかもかなり古い小学校だ。 外に出ると、謂れの碑があった。元明倫小学校だったのね。 更にその小学校前の碑があった。なんと、石田心学の発祥地だったようだ。 40-50人の若い芸術家がいた。流石京都だと思う。 夕食は、goto eatでwebで予約して行ってみた。果たしてポイントは付くのか?地図アプリで検索したら、どうやっても見当違いの場所になる。京都府京都市中京区柳馬場通六角六角下ル井筒屋町400の「刻シラズ」という創作料理屋でした。 ワインを飲みたいのだが、実際にはビールを飲む処らしい。わたしはワインを飲む! デリ三種盛り合わせと白ワインを頼んでみる。 ワインはかなりフルーティ。 盛り合わせは思ったよりもボリュームあった。 サバ南蛮漬け?ラタトゥイユ、そして生ハム、ミニピザまでついていた。白ワインが案外合う。 少し足りないけど、お店飲みはこれで終わり。あとは部屋飲み! 1日の歩数19964歩。
2020年11月10日
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2020年11月2日(月)雨 朝から雨。ローソンで傘を買って、直ぐ近くの烏丸綾小路遺跡であろう所を写真に撮る。これは図書館で探してもらった京都古代巡りのための本「京を発掘!出土品から見た歴史」(京都市埋蔵文化財センター編)に載っていたもの。 この辺りの弥生遺跡(中期)から、唐古・鍵遺跡と同じような楼閣が描かれた土器が出土したらしい。「この辺りは弥生時代でもかなり田舎だろうに何故なんだろ」とは著者の疑問。つまり、この楼閣は現代で言うファッションビルではない、祭祀を行う場所としてシンボルとして知られていたのでは?と推測していました。 もう少し離れた綾小路遺跡も探したのですが、場所を特定できなかった。 これは菊水井戸跡。 与謝蕪村の終焉の地もあった。 説明書は以上の通り。 地下鉄で二条城へ行く。駅出口看板。お堀周りには、城周りを作業する町人の町があったようだ。今も少しだけ趣が残っている。 二条城に入城。東南隅櫓。火事でも焼け残って昔の姿を留めている。 東大手門。寛永年間に、天皇の二条城御幸二階から見下ろさないようにと、一度一階に建て替えられ、また二階建てに戻している。 国宝、二の丸御殿。ともかく豪華な造り。中は撮影禁止のために写真はないが、「京都深ぼりさんぽ」(以下「さんぽ」)に書かれていた豪華な豪華な餝(かざり)金具はしっかり見させてもらった。ひとつひとつの鍵隠しなどの餝金具はその作業だけではなくて、その数に圧倒される。全ての柱に上下三つくらいあるから、もしかしてその数は数千を数えるのではないか?(「さんぽ」には大型は数百枚と書いていた)気の遠くなるような作業だったのではないか?欄干彫刻もすごかった。もちろん、狩野派の障壁図の多さにも腹がいっぱいになる。大広間での慶喜の大政奉還の人形などもまぁ面白かった。よく考えたら一度来ている。おそらく小学校の修学旅行できた。鶯張りのキュッキュッと鳴る廊下のことしか覚えていなかったけど。あの頃はよく鳴ったけど、今日は雨のせいかほとんど鳴らなかった。 小堀遠州作の庭に回る。小堀遠州は、岩や遠景を景色に見立てる庭を作る。 アプリの説明場面を動かしたけど、上手くいかない。 二条城の紅葉は素晴らしい、と何処かに書いていた。まだ最盛期ではないのか、それほどでも、だった。 唐門の彫金、透かし彫りはホント職人技だ。長寿を意味する「松竹梅に鶴」聖域を守る「唐獅子や竜」を極彩色に彫って飾っている。あまりにも色鮮やかだと思ったら2013年に修復したばかりらしい。ともかく、名前の残らない職人たちの独壇場ではある。 (「さんぽ」には「瓦は瓦職人、檜の樹皮を使った屋根は檜皮葺職人、その下の唐破風に塗られた漆は漆職人、彫刻は木彫師、そして餝金具は金具職人が手がけとるんや!」と紹介していた) 京都には未だこれだけの職人が生きている。しかし次の修復の時には、これが可能な保証は何処にもない。 本丸御殿は修復中だった。天守閣跡に登って西橋を撮る。 後でそこを回ると、カクカクと入る(いわゆる防御のための)通路になっていた。 ここの紅葉(もみじ)は素晴らしい。 ひとしきりまわって清流園というお庭に出る。桜の木が美しい。これも、ここ数十年の植木だと思う。毎日職人たちが手入れしている成果なのだと思う。 それでも二条城だけで午前中を使ってしまった。この後、「さんぽ」を使って京都ぶらぶらをするつもりだったが、ウエストカバンの中身を見て愕然とする。今日1番の失敗である。「さんぽ」と思っていたが、同じ書店のカバーをかけた他の文庫本だった。何やっているんだか!そうは言っても、行くべき場所だけは知っている。千本中立売ぶらぶらである。バスを待って、そこの停車場でとにかく降りる。 いったい何処なのか。この通りなのか?どう見ても此処は夜の街だ。 おゝいかにもという店。 極楽湯という家の佇まい。 地図アプリ見てもピンとこないけど、とりあえずおばあちゃんに千本中立売商店街の場所を聞く。名前は違うけど、コレらしい。
2020年11月09日
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1か月以上前にたまたま見つけたサイトで予約したのだけど、高級ホテルに泊まってフランス料理コースを食べた。 フランス料理付き宿泊が約1/3になっただけでなくて、二つのクーポンが4000円分ついて、実質18900円が1000円ほどの負担になった。多分生涯で1番のお得旅だと思う。 突き出しみたいな感じで、セロリの「ブイヨン展ド・レギューム」要は野菜の煮詰め液。普通に美味しい。 赤白ワインセットを頼む。先ずは白ワイン(ブルゴーニュ・シャルドネ・ハイ・ジャド・ド・バッカス2016 グラス2000円相当) 白ワインが美味い。ほんのり甘み。ブルゴーニュのシャルドネ、やはりこうでないと。パンはさつまいもパンとフランスパン。アミューズは、豚足のコロッケと南蛮漬け。 鯛のタルタルと赤大根のサラダ仕立てと海老のムースのキャビア添えという大仰な料理。腹に入った気がしない。これぞフランス料理の真髄か。白ワインの甘みが際立つ。 フォアグラの濃厚なあぶらみ。白ワインでの飲むと辛味が強調されるけど、赤ワイン(ジェイコブ・スクリーク・ダブルバレルシラーズ・オーストリア グラス1600円相当)で飲むとタンニンとうまく調和した。白と合わすときは甘いワインを選んでくださいとのこと。猪豚のラヴィオリ包も美味しかった。 鯛のカダイフ包み。香草マスタードのソース。と帆立貝添え。しっかり食べさせてくれた。このぐるぐる巻きがカダイフ?香草仕立てと言われなければ気がつかないほどの繊細さ。フランス料理は、味がハッキリしない。日本料理みたい。 シラーって、しっかりタンニンがあるんだ。 りんごのシャーベット(お口直し)! なぎ牛の網焼き。発芽マスタードのソース。美味しい牛は、こんなにも脂を中に入れているんだ!しっかりワインが受け止める。もう少し複雑なワインでもよかった。 チーズ盛り合わせ。右から白カビ、青カビ、ゴーダチーズ。白カビは初めてかも。甘い。 砂糖入れはこんなスプーンを使うんだ! デザートはモンブランアマファソン(モンブラン自家製)。栗のアイスクリームとカシスのソース。 カシスって、少し酸味があるんだ。 ミアルディード(お茶菓子)。 良い経験をさせてもらった。
2020年10月20日
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博物館フェチの私が、なかなかタイミングが合わずに見ることできていなかった倉敷市の代表的な博物館、倉敷市歴史民俗資料館をやっと観た。三好市にある広島県立歴史民俗資料館とは、展示内容は質量とも雲泥の差がある。けれども、観るべきところはあった。 (1)ともかく建物が素晴らしい。大正14年竣工の元倉敷幼稚園を解体復元して作ったもの。正面のいかにもモダンな佇まい。圧倒的なのは、美しい八弁花模様の天井を持つ遊戯室(展示室)である。こんなに広いのに、八角形にすることで、内部に支柱を使わずに幼児が伸び伸びと遊ぶことができた。現存するものでは全国唯一、幼児教育史上貴重な建物らしい。 (2)歴史民俗資料館というよりは、教育資料館として改名したらいいほど、それに特化していて、倉敷市の歴史展示や民俗資料はほとんどない。資料の8割くらいは、明治から昭和にかけての教科書を、倉敷市の各地域から集めて展示している。戦前のそれは、数があるからなのか、実物を手に取ってみることができる。 教科書展示の充実度は、今まで観たどの博物館よりも充実していた。
2019年12月13日
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この後、三次もののけミュージアムに行く。予想以上にいい博物館だった。おすすめです。三次は写真のように、中洲の中で発展した町であり、矢谷墳丘墓が山陰と吉備の結節点であったように、江の川に挟まれて、水交通、陸交通共に、交通の要所として発展した。前は三次市歴史民俗資料館という名の辻村寿三郎人形館が大きな観光施設だったのだが、現在は完全にもののけミュージアムにとって変わっている。実際祝日ということもあって凄い人出だった。日本初の妖怪をテーマにした博物館。湯本豪一氏の妖怪コレクション5000点を一括寄贈を受けて作ったらしい。日本最大のコレクションで、ホントに見応えあった。ほとんど写真に撮ってもいいというのが、ブロガーにはたまらない。以下、写真を並べるだけで、下手な私の解説よりも雄弁だと思う。少しだけ、言葉を挟みます。この部屋は「お絵描き妖怪ピープル」。なんと、妖怪の下絵に色を塗って登録すると、壁に自分の絵がふわふわ歩き出す。大人の私が見ても興奮する。子供が描いて動くのを見たら、一生忘れないと思う。これだけのためでも、子供を連れてくるべきだ。寄生獣がいた!以上、特別展「かわいい妖怪展」。館を出た。三次を代表するという、比熊山。見事な円錐形のお盆を被せた形。明らかに神奈備山の形をしていて、弥生時代遺跡があってもおかしくはない。残念ながら、頂上には、中世の領主・三吉氏が天正19年(1591)に本拠を移した山城跡があるのみという。古代遺跡は、その時に破壊されたかもしれない。もののけミュージアムを呼び寄せた「稲生物怪録」で稲生武太夫が肝試しで登ったのが、比熊山であり、それがこの物語の始まりだったことを考えると、大きな意味を持つ山なのである。三次の街中では、まだまだ明治・大正・昭和の建物が色濃く遺っている。湯本コレクションが寄贈されたのは、ひとえにこの妖怪物語が、有名だったからだ。そういう意味では、貴重な碑だろう。人形師が輩出する下地になったか、街の至る所に木場があった。しかし、此処は廃業していた。三次人形は気品ある土人形として有名。北の外れに窯を築いて焼かれた。江戸時代に評判をとったらしい。高速を通って倉敷に帰った。約2時間で帰れた。また、来たい町である。
2019年10月01日
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みよし風土記の丘のジオラマ。浄楽寺・七ツ塚古墳群を中心に整備されている。方墳は計20前方後円墳は計1帆立貝型古墳は計3、そして円墳は計152確認されている。外に出た。民俗資料も、少しある。これは江戸時代の農家の姿を留めている(17C中頃)らしい。旧真野家住宅。古墳時代の竪穴式住居、平床式住居、高床式住居を復元。七塚古墳群。山頂に延々と円墳が並ぶ様は、朝鮮半島伽耶の古墳群と瓜二つだ。あちらは、これより高く土を盛っているが、大袈裟という説もあるので、本当に瓜二つだったかもしれない。二つの国の遺跡の比較研究はどこまで進んでいるのだろう。私が研究者ならば、必ず一冊本をつくるテーマなのだが。戸の丸山製鉄遺跡のたたら跡の復元があった。資料館の中でも、復元実験の細かな解説があった。江の川の砂鉄約20キロを使い、松の灰約60キロも使い、6時間かけて、鉄塊約4キロが出来たらしい。古墳時代から日本の製鉄が始まったとすれば、正にこれが日本の製鉄作業の正確に近い再現になる。詳細な図版と写真と復元現場で、これまでもなく、古代日本の製鉄作業がイメージできた。この後、三次工業団地内にある矢谷古墳(古墳ではなくて、弥生時代の墓なので墳丘墓のはずなのだが、何故か石柱には古墳と書いている)を訪ねた。来て分かったが、一度来ている。あの時は、駅から貸し自転車で来たはずだ。ものすごく苦労したのを覚えている。15年以上前のはずだ。ブログに記録がないので。デジカメの第一世代で、すぐにバッテリーが切れた。一枚か2枚しか撮っていないはずだ。バシバシ写真を撮るぞ!2013年に立てられた説明板。これが最新の研究成果か。特殊器台は10基発見。胎土は吉備のもの、と書かれている。墳丘は、尾根の高まりを利用して作られてはいる。全長18.5m、くびれ部より南側は6m、北側は12.5m、高さ1.2m、周囲は幅2mの周溝が巡っているらしい。ガラス玉が発見されたのは、2012年と最近だった。三次平野を一望出来る、一等地に作られている。どのような「王」だったのか。
2019年09月30日
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9月16日晴れここからは、山大新聞会カテゴリーから離れて、旅(日本)になります。最初の数時間だけ山口(湯田温泉)に居て、あとはずっと三次のレポートになります。朝の散歩。山頭火の碑があった。詳しくは写真を見てほしい。説明書で最後切れているのは、「この碑に彫られた句は山頭火の日記からとった自筆である」と書いていました。さらに行くと交差点に普通のお地蔵さんがあるのですが、「辻の地蔵」ということで、とてもあらたかなお地蔵さんらしい。昔は結婚する度に、しっかり家庭が築かれるようにと祈りを込めて、結婚した家庭に運ばれていたらしい。そう思って見ると、表情に深みがある。戻って、山頭火碑の隣には、郷里の詩人中原中也詩碑があった。「童謡」がきざまれいる。この文字は自筆の原稿から採っている。さて、そこから中国自動車道に乗る。行きとはまた違う道である。途中は工事中でめちゃくちゃ細く感じる一車線道路が延々続いたり怖かった。2時間ほど走って、広島の東北三次に着く。そこから、みよし風土記の丘に行く。近くのうどんやで遅い昼食を食べてリベンジに向かう。この博物館は、、昔一度だけ行って十分に写真が撮れなかった(バッテリー切)ことがあり、博物館フェチとしてリベンジだ。広島県最大の考古学博物館で、「県立歴史民俗資料館」という名前になっている。考古学遺物の充実度を、その館の名称で測るのはNGである。国立、県立、市立も、資料館も博物館も、名前はその博物館の充実度を測る目安にはならない。どの博物館もそうだが、行ってみないとホントの価値はわからないのである。ここは行ってみたら、凄い「考古学博物館」だった。今日は常設展しかない。ラッキー。入って直ぐの廊下展示は、新人学芸員(下江裕貴、松原萌)が博物館実習の一環で採取した土器などを見直したら、古墳の造成時期が1世紀近く遡る発見をすることができた、といういわば「研究発表」だった。内容は、かなり専門的ではあるが、それが結果的には新聞ネタにも成るわかりやすい結果になった。展示しやすい内容だ。この新人さん、いいスタートが切れた。ここの展示は、説明書が大きくてわかりやすい文章で、とても好感が持てる。ただ、年代観は炭素年代法を使っておらずに、なかなか大変そうだ。黒川遺跡出土、袈裟襷文銅鐸(本物)が展示。広島県では、銅鐸は三ヶ所からしか見つかっていない。しかもこの銅鐸は、山中で偶然埋納銅鐸を見つけたものである。使い込まれた小さめの銅鐸で、本気で祭りを行い、本気で埋納した感じが出ていた。「埋納」とは何なのか?改めて思う。この頃の広島県は、吉備、出雲、そして綾野綾羅木の影響下で3つに分かれていたらしい。右は三次矢原遺跡の脚付注口鉢形土器。三次は出雲の影響下だろうか。真ん中は福山御領遺跡の器台と壺、吉備の影響ありあり。左は安佐北区の寺田遺跡の壺型土器。四隅突出型墳丘墓の1番古い型は、三次盆地から見つかっている。一部写真を載せる。歳の神第3号墓。歳の神第4号墓。そこから出土する土器は「塩町式土器」と言われ、装飾性の高い土器だ。そして、最後の最後に矢谷墳丘墓が現れる。大きさ、副葬品共に、この地域としては規格外である。四隅突出墓を二つ足したような形をしている。何と「ローマのガラス玉」が出ている。山陰系の土器。そして、特殊器台が数多く並べられていた。明らかに「吉備から運んだもの」である。厚さが5ミリとは初めて知った。どうやって運んだのだろうか。昔から「大きな謎」である。しかも、向木見型らしい。西谷墳墓は立坂型だったので、それよりも20ー30年あとの墳墓ということになる。何故?そのあと古墳時代の展示に移る。ここの博物館は、むしろこちらがメイン。ただし、私の関心は弥生時代までなので、なおざりに紹介します。古墳時代の山間集落のジオラマ。よくできている。現在の三次工業団地(矢谷墳丘墓もある)のある遺跡を参考にしたらしい。
2019年09月29日
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電車を乗り継いで、京都国立博物館に来た。やっと平日に来ることができた。現在は新館が立っているので使われていないが、明治古都館である。明治28年建築。この意匠。ものすごく安直な和洋折衷。国立博物館は『国宝一遍上人絵伝と時宗の名宝』であった。お陰で、考古展示はなくなった。いつもこんな感じだ。もちろん、一遍上人絵伝は全て見ることができる。途中でうとうとしていたのもあったが、思いもかけず、1時間40分もここにいた。六波羅蜜寺の空也上人像を40年ぶりに見たいと思っていたが、諦める。感想は、美術品的に傑作では無い。人はあらゆる階層が出ていない。構図も単調。テレビを見て気になっていた三十三間堂に行く。中身はお見せ出来ないが、仏像の奉納という文化と、それに応える名人を含めた職人集団の存在、それを支える社会素晴らしいと思った。少しお寺の周りを回る。最後の晩餐は、柏井さんお勧めの店を探したのだが、結局時間的に間に合わない。駅前の「夜カフェ」に入る。前菜。メイン。デザート。ワインも飲めて値段的にも満足できる晩餐だった。というわけで京都旅、それなりに満足いく三日間だった。22081歩
2019年06月19日
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なんとか、柏井さんのおススメのランチを食べようとして、思いついて伝説のタマゴサンドを作っている喫茶店に向かう。すると、予約で既にいっぱいという。諦めて、マンガミュージアムに向かった。旧小学校を改築したミュージアムだ。だから広い。二階にメイン展示の「マンガって何?」があった。今まで見た中で、もっとも総合的に説明していた。外国に向けた展示にもなっていて、これだと総合的に日本のマンガを紹介できたと思う。しかし、残念ながらガイドブックが一切無い。これではいけない。写真撮影もできないのに、この内容をどうやって外国に持ち帰るというのだ。絶対おかしい。1960年代の「夕焼け番長」最終巻があったので、見る。怪我をして、スポーツマンになるきっかけもなくし、去って行く。最後は夕焼けをバックにしていない。意外だった。実際に作っているのを見せるコーナーなどがあった。午後一時前になっていた。もう一度、タマゴサンドの喫茶店に行ってみる。なんと、今度は2時半まで満杯という張り紙があった。バカにしている。もう柏井さんの店には行かない。来る途中に見たおばんざい定食の店に寄る。日替わり定食。豚肉とキャベツの煮付けとおばんざい二品。750円。美味しかった。なんと私が入って、五人ほど後で、ソールドアウトになってしまった。おばんざいのうち、これは麩を使ったサラダだ。京都らしく、岡山ではまず出ない。カウンターの前に、「京都めし」という情報マンガがあって、さぞかしここも出ているのかなと思って探してみるけど見つからなかった。ところが、よく見ると鯖定食のコーナーの絵がここのお品書きにそっくり。後書きを見ると、店の名前をナイショにしていた。奥床しくも、「名店」なのである。流石、私。ちゃんとカンでこういう店を見つける。
2019年06月18日
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長くお休みしました。京都の旅の続き書きます。今までの一覧はカテゴリー旅の記録をご覧下さい。4月23日(火)晴れ 3日目朝、どこかの知らない偉いさんから「○日までに書け」と言われてその気になる夢を見た。どうやら旅日記が全然追いついていないことが影響しているらしい。疲れて毎夜直ぐに寝てしまうのだ。朝少し書く。朝食は、結局昨日のに少しボリュームを足した。今日は博物館巡り(昨日は月曜日なので、どこも閉まっていたから)なので、9時過ぎに出発だ。京都駅に行ってコインロッカーに荷物を置いて、烏丸御池まで行って、国際漫画ミュージアムを見ようとしたら、10時開館という。まだ30分もある。仕方ないので、京都文化博物館に行くと、ここも10時開館だった。ちょっと周りを回る。この辺りは、歴史的建造物が多い所らしい。この町屋は明らかに普通の家だけど、とても良くできている。コープ京都の宅配がやってきた。対応している家人を見ると、おばあちゃんだった。一人で家を守っているのだろうか。この家はもう少し格式が下った町屋形式。しかし、隣の路地は行き止まりのある、長屋の連なる路地だった。お地蔵様が約束のようにある。その御顔がとても良かった。老舗の京都お菓子屋。柚味噌の店。商品は1番小さいもので2000円以上。とても手が出ない。文化博物館にやっと入る。旧日本銀行を使った施設。展示替えで、考古遺跡展示は無い。私の博物館巡りの目的は古代の見聞を広めることにあるのだが、滅多に上手くはいかない。いつもこんな感じだ。京都の歴史をざっとなぞる、直ぐ忘れてしまう常設展示。ただし、特別展示で祇園祭が始まるまで、函谷鉾の名宝展をしていた。前掛けは、ペルシャから取り寄せた「イサクに水を供するリベカ」の絨毯らしい。これを1839年に復活した時に掲げたというのだからすごい。しかも現役で活躍している。雨の時はどうするのか?それが1番気になった。こっそり撮ったのでナイショでお願いします。三階は映画名画をしていて、今日は「喜びも悲しみも幾年月」をするらしい。生ポスターがあった。また、羅生門のアカデミー外国語映画賞とベネチア映画賞を取った時の像のレプリカがあった。撮っていたら、これも撮影不可という。これもナイショでお願いします。(こんなモノまで撮影不可の意味がわからない)文化博物館の通りは、古い建物が多く残っているそうです、明らかな明治風。現役のみずほ銀行。立椿ビルディング。大正9年建築。和洋混成らしい。
2019年06月17日
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「鐡輪の井戸」もそうだったが、京都には、戸を開けるとそこは玄関ではなく、多くの長屋?の潜戸である場合が多々ある。何か異次元に向かう戸のように感じる。北野天満宮に至る。天満宮に用があるわけではなくて、もう一つの蜘蛛塚が、此処の伴氏社の奥にあると聞いたからである。ところが、一通り探したがない。北の門を出るとカフェ「オリーブ キタノ」があった。疲れていたので入る。完全町屋(宿屋)を改築したお店を女将が1人で運営していた。お客が来ないようで、私とのおしゃべりを40分ぐらいした。そこでいくつか情報を得る。どの流れからそうなったのかは、忘れたが女将は「大阪はいけすきまへん。神戸は好きどすえ」正に『アドまっち天国』通りの反応で、彼女にそういうと、全然番組観てないようで真から思っているようだ。京都と大阪の仲違いは根深いようだ。また、ここに来るまでに長屋から機織りの音がしたことを告げびっくりした戸を言うとやはりあれは西陣織の作業所らしい。「もうあきまへん。西陣はなくなります。このあたりでもたくさんの作業所があったんですけど、全部なくなりました」「それはみんな着物を着なくなったから」「そうどす。西陣はなくなります」あれだけいろんなところから音が聞こえていたのだからまだまだ技術の継承はできている気がするのだけど、京都の人はネガティブなことで相手に利害関係がない事ならば、かなり「はっきり」とモノを言うことがわかった。いろいろお話したが、省略。但し、これだけは記さなくてはならない。「珍しいもん、教えまひょうか?天満宮の横に御土居というのがありましたやろ?あの堤は秀吉さんが、築いたもんやけど、洛中洛外を隔てるもんやから、それを築いだときに溝をさらう。この店の横にもそのあとがありますのや。その時にお地蔵さんが大量に出ましたのや。お地蔵さんは、流れた(死産)した赤ん坊をお祀りするもんやけど、いろんな事情で祀ることができへんようになると、人は洛外に持ってくるんや。だから、溝にたくさんのお地蔵さんが捨てられている。でも、出てきたもんは存外に扱うことができへん。それで、お地蔵さんを集団で祀っているところが、其処にある」「ということは、その地蔵堂は、秀吉の時代からずっとこの地域の人たちが祀ってきたということですか?」「そうや。地蔵祭りの時には、新たにお化粧をしている」ひとつひとつの地蔵には、流れ、という歴史がある。その話だと、少なくとも室町時代からの地蔵ということになる。とんでもない「民衆がつくった遺物」である。「見させてください」これが喫茶店から10メートルほど西に寄った所にある地蔵堂だ。「延命地蔵大菩薩」と書いてある。地域が今でも大切に祀っている証拠に、可愛く化粧されている。「これだけ出たんやないんや。もっと出てるんや」と言って、少し北側の御土居保存の堤を見せてくれた。これが秀吉御土居である。京都の洛中をこの御土居で囲んだ。いわゆる権力者の権力の表し方だろう。その横に出てきた地蔵を保存している。これは堤保存整備の時に出土した地蔵だろうか。こうしてみると、地蔵の形は何百年もあまり変わらない。但し、2人並んで彫られている地蔵がわりと多い。昔は、それだけ死産だったり、幼児のうちに亡くなる子供が多かったということだろうか。御土居の前に、大阪でも見た長屋形式の借家があった。関西では広くある形なのだろうか?岡山ではあまり見ない。ずいぶんと雰囲気のある家。未だ一般家屋のようだが、江戸時代では娼家だったような雰囲気がある。さて、北野天満宮の事務所で蜘蛛塚を聴くと、あっさり場所を教えてくれた。但し、5時を遠にすぎているので中に入れない。もっと面白いものを見させてもらったので、これで良し。生粋京都のおばあさん、ありがとうございました。バスで河原町に行く。降りて、何故か方向感覚のいい私が何度も間違える。今回の旅はホテルの場所を勘違いしていたところから始まり、方向間違え放しだった。なんか物の怪のせいだろうか?何度か間違えて、やっと鴨川を渡る。向かいに南座が見える。八坂神社辺り迄行って、フランス人のつくる京野菜料理店を目指すが、どうやら閉店しているようだ。新書に書かれていた住所でピンポイント検索したので間違いない。次の候補店は、川沿いの少し高級な店、これもなんと見つからなかった。閉店かどうかは不明。暗闇の中を1時間半歩いた。鴨川沿いの高級割烹は、未だ納涼床は出ていない。妖しく美味しそうに食べている。足が棒のようで、しかも腹が猛烈に減っている。河原町に戻って、ある店に狙いをつける。京極町の京極スタンドである。昼も夜もやっていることは柏井さんが書いていた。今日を居酒屋で終わらすのは残念だったけど、此処も岡山にはない飲み屋だ。えん豆卵とじ、赤ワイン。スジ肉煮込み。おばんざいの定番である。安定的に美味い。鰻ざく。これが、京都ならではの料理。おばんざいとして、こんなに気楽に鰻料理は、なかなか出てこない。柔らかい。癖はない。コクがあまりないのが物足りない。でも数百円で鰻が食べられるのは嬉しい。ポテトサラダ、竹の子わかめ煮、白ワイン。締めて3660円。安い!場所は新京極商店街。明治10年ごろには、芝居小屋、浄瑠璃、寄席などや飲食店が建ち並び、東京浅草、大阪千日前とともに日本三大盛り場として知られるようになったらしい。再び鴨川を渡り市電で帰る。有名な鴨川沿いの等間隔で並ぶカップルの列。少し寒いのに御苦労さま。写真見て気がついたけど、ストリートシンガーもいるのね。これまでの最高歩数。34147歩。
2019年05月07日
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堀川通りを渡り、さらにテクテクと歩く。称念寺、俗称猫寺に至る。浄土宗のお寺。1603年建立。三代目住職が愛猫家だったが、猫が貧窮しているのにもかかわらず呑気に姫に化けて舞を舞ったのに怒り追放する。その猫が報恩して寺が再興したらしい。老松は、その愛猫を偲び、伏した猫の姿になぞらえているらしい。そのことから、いつしか猫寺と呼ばれるようになった。時が経ち過ぎたためか、全く猫に見えない。千本通に至る。北上している時に、「指物師 普賢」と名乗る暖簾を掲げたボロ屋を見る。「指物(さしもの)とは、板と板、板と棒、棒と棒を組み、指し合わせる仕事のことをいい、また一説に、「物指し」を用いて細工することもいわれる。京指物の源泉は、平安時代にさかのぼり、それ以前の奈良朝の宮廷および寺院においては、正倉院にみられるようなわが国独自ともいえる木工芸が、豊かな木材資源(有用50種以上)をもとに発達している。(京都伝統工芸協議会ホームページより)」検索すると、大谷普賢という指物師が此処に住んでいて、茶の道具などをつくり数々の賞を受賞しているらしい。上品蓮台寺にたどり着く。此処に来たのは、蜘蛛塚があると柏井さんが書いていたからだ。寺の説明板には、そのことは書いていなくて、様々な国宝、重文ほかがあるらしい。仕方ないので、境内の墓をひとつひとつ見て歩く。無い。全然わからない。説明板に書いていた、平安朝屈指の仏師・定朝の墓は見つかった。『京都の路地裏』を精読する。そうすると、欅の木の下にある、と書いていた。それを頼りにもう一回りすると、あった!無縁墓がずらりと並んでいる。説明。蜘蛛塚ではなかった。源頼光の塚になっていた。説明をよく見ると、頼光が退治した土蜘蛛の塚が此処にあったとなっているから、蜘蛛塚でいいのかもしれない。土蜘蛛とは、飛鳥でも、大和政権に対峙する勢力ではないか、と言われていた。よって、この蜘蛛も、その残党かもしれない。と、思いながらこの地域を見る。東に京都に少ない小山、船岡山がある。残党が潜むにはいいところかもしれない。現代も、無縁墓は次々と増えているようだ。千本通に戻って、三停留所ほどバスで南に行き、そこから千本釈迦堂を探す。いつしか長屋通りに紛れ込む。至るところから機を織る音が聞こえる。工場ではない。長屋の中である。細い路が何本も通る長屋町。一軒燃えたら、全てが灰塵に化すような町だ。此処は西陣、これは西陣織なのか。こんな手工業で作られているのか。地図アプリに頼りすぎた。ずいぶん捜したが見つからない。この地蔵堂を釈迦堂と間違えた。大きく迂回する。千本釈迦堂 大報恩寺。(大報恩寺ホームページより)「大報恩寺にお参りすると、境内にある「おかめ塚」に因み、“縁結び” “夫婦円満” “子授け” にご利益があると言われています。「おかめ」は本堂建築で棟梁を務めた大工「長井飛騨守高次」の妻。高次が重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎた際、枡組で補えば良いと助言して、窮地を救いながらも「専門家でもない女性の知恵で棟梁が大仕事を成し遂げたと言われては夫の恥」と上棟式を迎える前に自害した愛妻「おかめ」の物語が伝わる、全国のおかめ信仰の発祥となっています。」疲れた。良い喫茶店があれば入ろうと思ったけど、適当なのがない。柏井さんおススメの蕎麦屋に入る。上七軒ふた葉。ここの茶そばは絶品だと柏井さんはいうのである。「すみません、茶そばというものを食べてみたくて」「茶そばというのは、うちではお蕎麦のことをいうんです」どうやらうどんと分ける名称らしい。「あ、だとザルをください」ザル700円。うどんと同じく、コシがない。出汁を楽しむものなんですよね。これが絶品という京都人の気持ちがわからない。
2019年05月06日
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歩いて行くと、昔ながらのお米屋さんがあった。出雲路橋。鴨川を渡る。柏井氏は「ここから見る比叡山から大文字山に至る東山がもっとも美しいプロポーションを見せる(『おひとり京都の愉しみ』)」という。何をもって「美しい」というのか、わからない。天寧寺の額縁門ここから観る比叡山が額縁のようだと言う。これは、つまり「京都の自画自賛」なのではないか。西園寺という寺の寺号の額の方が、私には、思わぬ発見だった。なぜならば、この寺は鎌倉幕府太政大臣藤原公経の建てた寺であり、その時西園寺と名付けたのであるが、それ以来子孫の家名となり、西園寺家の北山山荘になったと言う。そして、この額の筆は、中江兆民の盟友であり、首相ともなった西園寺公望の筆らしい。明治25年というと、兆民が1年で帝国議会を辞め、北門新報で臥薪嘗胆を狙っている時期である。御霊(ごりょう)神社にたどり着く。堀には菖蒲?が満開。ここは、もともと早良親王、菅原道真や吉備真備などの御霊を慰める神社なのだが、それに加えて、日本最大の内戦・応仁の乱発祥の地らしい。揮毫は応仁の乱東陣総大将細川勝元子孫・細川護煕元首相。ここも、令和元年記念として、この豪華な神輿を担いで、54年ぶり復活の神幸祭をするらしい。本殿の中。遅い昼食。近くの淡海食堂にたどり着く。いやあ、ホントに地域の愛される食堂でした。誰か画家の卵が描いたのか、淡海食堂の絵を掲げている。とても味わいのある絵だ。メニューは、何年も値上げしていないのではないか。柏井氏おススメのキツネカレーうどん(480円)を食べる。なるほど、京都のうどんは、お伊勢さんのうどんと同じコシが全くない。お伊勢さんと違うのは、こちらが少し細めというだけ。なぜコシがないのか?うどんは、出汁を味わうためのものだからだそうだ。そういう意味では、うどん出汁で作ったカレーはとても美味しい。けれども讃岐うどんを良く知っている私は、うどんにコシがあってもいいように思う。ともかく満足して出た。やはり柏井さんおススメの店。御霊神社前まで戻り、水田玉雲堂に入る。疫病を鎮めるための御霊会(863年)の時に神前に供えられた菓子を、応仁の乱後の1477年この場所に店を構えてそのお菓子を復元したのが、唐板(からいた)というお菓子らしい。お菓子ひとつにも、ちょっと歴史の規模が違う。1番小さい袋が650円と思ったよりも高かった(後で全部手焼きと知る)。少し迷ったけど買うことにする。「割れやすいから」と言って、ビニール袋を足してくれた。サイドポーチに押し込む。
2019年05月05日
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三館共通券、買ったからには行かなくてはならない。これが思った以上に面白いところだった。鴨資料館 秀穂舎(しゅうすいしゃ)。元鴨社公文所の学問所画工司浅田家の旧宅。要は神社のための絵を描く人の家。けれども、神社という所は、一般人とは隔絶した生活をするのだということがよくわかる。一子相伝の職能集団だったらしい。約数百人の氏人がこの一帯に住んでいたらしい。この日初めての観覧者ということで、1人だけど説明する人がいて詳しく説明してくれた。華表門。門が鳥居になっている。下鴨神社社家に多い門らしい。よく見ると、鳥居の上に鴨が乗っている。門の裏側に、お客の随行者が待つスペースを設けていた。こんなの見たことない。お客様は全て、随行者を伴う前提で設計されている。タバコの火入れなどもある。座ってみると、玄関が正面に見えて、主人が出た時に決して見逃さないようにできている。井戸(御井)と水を入れる御壺(おつふ)と、その先は枝折戸(しおりど)と言って、この世と清浄界との端、結界になっているらしい。中は写真撮影不可。武具を置いている部屋があった。文化人に相応しくないが、神社は度々動乱に巻き込まれるので必要とのこと。思いっきり古く「応仁の乱の頃ですか?」と聞くと「それよりもっと前です」と言われてしまった。また、側を流れている川で禊をするための場所なども作られていて、画工司にしてこうならば、もっと上の人はどうなるのかと思ってしまった。糺の森は、原生林が残っているという話なのだが、ほぼ全てを管理しているように見えた。糺の森や下鴨神社が世界文化遺産になるに当たって、環境保存調査のために一部発掘調査をして、平安時代後期の祭祀遺構を見つけたらしい。いよいよ原生林ではなくなっている。御手洗場は、舟形磐座石を使っているそうだ。御苦労なことだ。去年の台風21号による被害の復興途中らしい。さざれ石。神霊の宿る石らしんだけど、こんな風に俗化されたらなあ。この連理の賢木はすごいと思う。詳しくは説明版を。下鴨神社本殿前の舞台。本殿前には、干支の社が祀られている。私は子年なので、その前で10円のお賽銭を投げた。本殿前には、一般にある鈴がない。秀穂舎の人が言っていた。「下鴨神社本殿だけは無いのです。なぜならば、神様に来て頂いてお願いするところではないからです。神様に感謝する所なのです。五月の葵祭も、皇室使節がやってきて、一年の感謝するお祭りなんです」とのことです。もう一つの資料館、大炊殿に向かう。浦の廻廊を回る。なかなか興味深い説明が書かれていた。御井の説明板。御井。葵の庭の説明板。フタバアオイ。カリンの花。水ごしらへ場の説明。磐座の上にみんなお賽銭を投げているけど、なんだかなぁ。大炊殿説明板。大炊殿中。大炊殿いろいろ。七五三餅説明。七五三餅。しかし、神社ってホントめんどくさい。唐車説明板。唐車。御手洗川説明板。橋と光琳の梅を見る。ここから、あそこまで抽象する絵画を作ること自体が精神構造がわからない。ここのトイレは、最新のトイレのようなのだが、なぜかトイレットペーパーがなかった。何か嫌なことがあったようだ。しかし、普通知らないで入ってしまうでしょ。たまたま花粉症でペーパー持っていたから良かったけど。下鴨神社を出た所に、加茂みたらし茶屋がある。ここが正真正銘みたらし団子発祥の店らしい。この周りには、みたらし団子の売る店が他に一軒もなかった。下鴨神社の御手洗池が発祥なのに、無いということは、この店に敬意を払っている証拠である。これがみたらし団子420円。小ぶり。三つではなく、五つ。しかも一つは少し離れている。何故かは、以下の説明文。ということらしい。甘すぎくなく、少し焦げ目があって、とても美味しかった。一旦切ります。
2019年05月04日
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二日目、とても三回に収め切れませんでした。五回に分けて掲載します。4月22日(月)晴れ 2日目朝、寝坊した。行きたい所に行けなかった。私の人生っていつもこんな感じだ。朝食は一泊4000円とは思えないバイキング。2泊するので、半分くらいしか乗せなかった。深草駅に行く。龍谷大学正門。ずっと昔、ここに受験に来た。その時と雰囲気がまるきり違う。他にもう一つ京都の私立の受験をした。京都の左京区に、兄貴の下宿があった。今でもイマイチよくわからないのだけど、地下の鰻の寝床だった。玄関扉から地下に降りて、細い廊下の最初の扉を開けると、2人がやっと寝ていられるスペースがある。よって陽は入らない。そこを基地として、受験日と受験日の間の期間を利用して1週間、私は京都観光をした。中学修学旅行は奈良・京都だったが、日本史教科書に載っている京都はそれだけではないだろうと、確信を持っていたから昭文社のポケット地図を持って、行きたい寺は全て踏破するつもりだった。京都をなん分割かして、今日は銀閣寺周辺、今日は六波羅蜜寺周辺、今日は金閣寺周辺、今日は二条城周辺、今日は平等院周辺と歩いていった。行きと帰りだけバスに乗り、地図に載っている有名ラーメンを食べ、時には、同志社映画研究会に入っていた兄貴オススメの名画座「京一会館」などで一日中初めて若松孝二などのピンク映画を延々と観たりした。一本目こそ興奮したけど、三本目からは飽きてしまったのも覚えている。ものすごく、大人になった気がした。今思えば、ピンク映画なのに素晴らしいチョイスだったのだ。その後何回か京都を訪れ、行きそびれた所は補ってきたので、有名所の寺は大抵行ったはずだと思っている(実際はそうではないのではあるが)。この金のかからない旅が、私の生涯の旅スタイルになった。この時、京都の土地勘がついたので、その後歴史小説を読むときや、歴史書物を読む時にどれほど役に立ったかしれない。若い時に、京都を1ー2週間、東京を1ー2週間歩いて回ることは、その後の人生に必ず役に立つ。東京へは私はその後15年経たないと行くことができなかった。私立受験は、ひとつは落ち、龍谷大学は受かった。しかし、そのあと国立の山口大学に受かったので、さすがに兄弟共に私立大学に行くカネはないと、私は自覚していて山口に行った。大学に未練はなかったが、京都の文化には未練はあった。電車で出町柳駅まで来る。糺の森に着く。河合神社。見るつもりはなかったが、説明を見るととっても興味深い。鴨長明の人生挫折の神社だったのだ。三井社。三井物産の社殿ではない。下鴨神社の分霊神社。ともかく、異様に屋根を綺麗に古く保存している。河合神社では鏡絵馬と言って、美人の神社の霊剣新たかにあやかるためか、自分の化粧品で飾り立て奉納するらしい。まあ様々な「化粧」があるものだと、実際の奉納を観て思う。本殿。任部社(とうべのやしろ)。祭神は八咫烏の命らしい。ということで、サッカー選手のサイン入りボールが奉納されていた。鴨長明資料館があった。ほかの2つの資料館と三館共通券。博物館フェチとしては観なくては。中の鴨長明失意のうちに河合神社を去る事情については、冒頭のここを観てもらいたい。彼のいた頃の下鴨神社古図。江戸時代の鴨長明の絵。既に仙人のようになっている。うーむ、違うと思うけどなあ。大福光寺本『方丈記』(複製本)。鴨長明直筆かどうかは不明らしい。ひらがながカタカナになっているところが特徴的。直筆だとしたら、ホントに貴重だ。実際の方丈庵がある場所らしい。行きたいけど、実際は半日仕事になる。諦める。実際の場所の写真。外に方丈庵の復元があった。観たかったので、嬉しかった。こういう生垣はあったと思う(少年の世話する者までいたのだから)。夏は涼しく冬はなんとか凌げそうだ。四畳半。私はそんなに酷い家とは思わないのだけど。瀬木の小川。湧き水から出る水が糺の森を通って行く。今は枯れていた。この川の石橋を渡り、河合神社に向かう、その間の馬場が、なんとラグビーワールドカップの第1蹴の地らしい。八咫烏神社は、蹴鞠の神様なので、ラグビーにとっても神様なのかもしれない。
2019年05月03日
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四時過ぎに京都駅に着く。京都駅を見ると、いつも私は「この屋根がガメラとギャオスの戦いで破壊されたんだな」と思う。5条まで地下鉄で行くこともできたけど、つい旅心が出てきて歩いて向かった。もう十分歩いていたけど、ちょっときつい。歳だろうか(この時点でおそらく15000歩ぐらい)。京都は至る所にお地蔵様が祀られている。しかも、それがすこぶるお地蔵様ではない。何やらの神様なのである。この神さん。曰くありげな石の背後に薄古い仏画を飾る。。お供えは持ち帰ってください、と書いていた。京都には突き当たりのある路地と、通り抜ける路地がある。確かに行くと迷宮に入る気がする。森見登美彦の世界ですね。5条まで歩いてきたのは、「鐡輪の井戸」を見るためである。なかなか見つからず苦労する。普通の家の玄関のようにかすかに案内が書いていた。ホントに普通の玄関の隣にあるのだ。入るのに憚れるが、ちゃんと観光客用の説明を書いているので、入っていいのである。元は世阿弥が作った「鐡輪(かなわ)」という能作品。詳しくは、写真を。ここの水を持ち帰らないように、断りを入れるところが、少しぞくりとする。祭神を守るのは、やはり狐様のようだ。絵馬が何やら不気味である。誰が奉納したんだろ。誰かが忘れていった手袋。そうは言っても、縁を切りたい人は多々いるわけで、ペットボトルの水を持ってきて、お供えして持って帰る人は絶えないらしい。恐ろしや、恐ろしや。さて、そこからさらにテクテク歩いて行く。菅大臣神社。あの権力を笠にきている人のための神社ではない。菅原道真さんの神社だ。北野天満宮が有名ではあるが、こちらは生誕の地らしい。飛梅の梅もちゃんとある。京都は、このように恨みを癒す施設が其処彼処にある。この時期特有か、玄関には例外ない確率で、祇園祭の鉾の名前を挙げる飾りを掲げている。鉾への寄付の印なのだろうか。京都の路地は、突き当たりと突き当たりではないものがある。これは突き当たり。これは突き当たりではない。京都の街は碁盤目状にできているが、時々辻子というZ字路やT字路もある。むしろ人が行き交う場所になっている。ここは膏薬辻子という。この説明にあるように、空也上人が平将門の首塚を供養するための神田神社を建てたことから、空也供養から膏薬辻子になったという説を書いている。空也から膏薬になったのは頷けると思うが、供養から辻子は頷けない。これは柏井壽『京都の路地裏』の「空也供養の厨子」が訛ったという説明がわかりやすい。厨子を建てて供養したわけだ。これが神田明神。平将門さん、なかなか恐れられています。最近新しく建て直ししている。明倫小学校旧正門跡。明治の古い小学校跡ならば珍しくないが、明倫舎は、心学の石田梅岩の弟子・手島堵庵(1718-1786)が開いた心学講舎である。その頃からの門ということで、とっても貴重だ。『おひとり京都の愉しみ』で、カジュアル和食のお一人夕食として勧められていた『まんざら亭NISHIKI』に入ってみる。カウンターに座る。以下の注文をする。盛り合わせ5種 1500(牛スジ味噌煮込み、明太糸こんにゃく、茄子の揚げ煮、ポテトサラダ、菜の花のおひたし)銀ダラ西京焼 1000豚トロと9条ネギガーリック炒め 450白ワイン フランス ソーヴィニョンブラン50% 600(マスドジャニー二、サビアンコムサ・ブラン)赤ワイン シラー50% 600(サビアンコムサ)会計6000円予想。銀ダラは、ものすごく脂が乗っていた。私は生涯銀ダラといえば、この脂が乗っていることを思い出すだろう。9条ネギのガーリック炒めは、普通の味なのだけど、9条ネギのしっかりした存在感だけが際立っていたと言っていいだろう。急遽赤ワインを頼んで良かったと思う。盛り合わせ5種を頼んだ時に、ご希望は?と聞かれたので9条ネギは欲しいと言ったが、入っていなかった。それを指摘すると、どうやら伝達ミスがあったようだ。私は追加オーダーはいいよ、としたのだが、カウンターの向こうから「9条ネギと生麩のおから」をサービスで持ってきてくれた。追加で白ワインを頼む。細やかな気配りは、流石柏井壽さんおススメだけはある。会計は、予想よりも下の5500円くらいだった。名刺の住所は、写真をみてください。宿は朝食バイキングがあるのに、一泊4000円と超格安の「アーバンホテル京都」。ところが、私の勘違いしていたのが悪いのだけど、京都駅北かと思いきや、京都駅南のホテルでした。それでも綺麗な良いホテルです。26630歩
2019年04月30日
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平野区民センター。埋蔵文化財倉庫の名前が。ところが、受付で聴くと、あくまでも倉庫であり、職員は常駐していないらしい。展示も非常に貧弱だった。それでも馬野繁蔵採取考古資料の展示は素晴らしかった。瓜破式と言われた弥生前期の壺は、素晴らしい意匠を施していた。蓋も素晴らしい。青谷上寺地遺跡の蓋と形が変わらないのは、何か意味があるのだろうか?イイダコ漁の土器もあった。スクレイバー。石斧。大型蛤刃石斧。くさび。磨製石剣。磨製石包丁。石キリと石鏃。加美遺跡は、大阪平野の重要な弥生遺跡である。河内潟を挟んで、大阪平野に弥生文化が急速に育っていった様子がよくわかる。ここも、見事な方形周溝墓だ(弥生中期)。y1号墳丘墓。26×16×3m。親族全員が埋葬される(23人)。隔絶された首長という概念は未だない。しかし、銅の腕輪をしていた人は居た。縄文時代、長原式土器の元になった土器の展示がされていた。刻み目のある粘土の紐を(突帯)を1ー2本貼り付けている。形は違う気がするが、韓国最古の土器、隆起文土器とは関係ないのだろうか?出土は2800年前。他の土器から籾痕のあるものもあったという。ほとんど弥生早期と言って良いのではないか?疲れた。ランチを出戸駅近くのイオンのレストラン街(と思って入ると、レストランが2つしかなかった)で、チキングリルとビール大瓶一本を飲む。自分への「ご褒美」。このレストランでは、未だに100円コインの星座御神籤が置いていた。大阪やなあ。こういう昔ながらの長屋式家屋は、実は京都でも見ることになる。出戸駅から駒川中野駅に移る。ここは「長原遺跡・瓜破北遺跡・桑津遺跡出土の弥生、古墳時代土器をはじめ、長原遺跡の地層の剥ぎ取り資料など、旧石器時代から室町時代までの平野の歴史を紹介する約150点を広いスペ-スに展示しています。また、平野区在住の大崎辰三氏が昭和10年に瓜破遺跡で採集した弥生土器や石器の写生をおさめた貴重なアルバムのほか、平野環濠都市の立体模型、民具や農具、地車、河内木綿など、平野を様々な角度から紹介しています。」と書いていて、次こそはと期待したのだが、平野区民センターとあまり変わらなかった。また、弥生遺跡跡を彷彿させる地形もよくわからない。もちろん、昔は河内潟の周りにムラは次々とできたのであり、だからこそ遺跡がこの辺りに集中しているのではある。しかし、びっくりするような発見を見つけることができなかった。悲しい。夕方いっぱいまで大阪巡りをするかと思ったが、案外早く(4時過ぎごろ)京都に着きそうだ。ざっと遺跡を紹介します。ホント疲れた。京都に行こう。なんと新快速に乗り換え20分でも着いた。
2019年04月29日
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4月21日(日)晴れ 旅の1日目花粉症デビューして、今日でちょうど1週間が過ぎた。最初は医者の誤診であって副鼻腔炎を疑っていたけど、微熱が薬飲んで嘘のように下がって、薬を飲み忘れると、ものすごい頭痛と目の奥の痛み、さらにはふらつきまで出て、ずっと他人事だと思っていた花粉症の苦しみとはこうなのだと独りごちたところです。それでも予定の旅はそれなりに楽しい。ゴールデンウィーク前にぽっかり三日間だけ空いて(空けて)旅に出た。遠くに行けないので、京都にしたが、実はその前に去年計画だけを立てて行きそびれた大阪小さな考古学資料館巡りもすることにした。岡山駅に新幹線が入る。私は未だにこの歪な新幹線に慣れない。ここでサンドイッチの朝食を摂る。07:15倉敷駅08:45新大阪OsakaMetro御堂筋線・天王寺行梅田(地下鉄)同駅内徒歩東梅田OsakaMetro谷町線・大日行09:15千林大宮ここには、弥生時代の集落遺跡・森小路遺跡がある。旭区民センターに資料室があるとネットで見つけた。資料室と言いながら博物館だったり、資料室と言いながら通路のお飾りだったり、いろいろなので、ここはどうか。区民センター前の一般地図を見ると、淀川流域であり、川沿いの湿地としてムラができたのだと想像する。流石大阪。区民センターと言ってもなかなか立派だ。遺跡は、谷町線の向かい側だと知れた。少し遠い。行くのを諦める。この千林という街は、完全に碁盤目のように街が区間されている。2000年前に絶えて、その後古墳時代になって再び栄えた街のようだから、古い街にには違いないのだが、戦災のためか、それとも他に理由があるのか、若い街になっている。古い家もほとんど戦後製、新しい家だけど、古いタイプの借家系の家並びがあった。資料室は、大きくもなく小さくもなく、まさに資料室という形で置き場所を借りていた。こちらは2200年前の弥生土器。首長土器が大きな特徴だ。こちらは2000年前の弥生土器。形が吉備とは随分違う。首長は少し短くなったが、その分洗練されている。石包丁はこの形が圧倒的に多い。木のクワは、すぐに壊れただろうな、と思う。ナマズや鰻やフナ、いわゆる川魚とイノシシなどの里山獣を食べていたようだ。祭りに使われた土器。穴を空けるというのは、実用性を無くす(死者が使えない)という意味なのか?それとも他に意味はあるのか?人物を、描いた絵画土器が出土してるようだ。頭が丸いだけで、男だと思っていいのだろうか?銅剣形石剣。銅剣そっくり。この地域は、方形周溝墓が主流だ。しかし、大和政権が選んだのは、吉備の隔絶された首長墓だった。何故地域の伝統を拒否してまで、ほかの地域の祭祀を採用したのか?弥生時代にいったん隔絶した後に、古墳時代にまた人が住むようになる。その間約300年間。10代の人代わりがあったと思える。伝説の地に戻ったわけだ。この後、同じ谷町線で大阪南まで移動して、出戸駅に降りる。後でわかったが、森小路遺跡は、弥生時代に大きな河内湖の北の湿地にあり、平野地区は南の位置にある。のちの難波地区はまだ湖の下だ。平野区民センターに行く。ネットでは、「平野区は全国的にも有名な遺跡が数多くある遺跡の宝庫です。エントランスでは長原遺跡から出土したことから「長原式土器」と命名された縄文時代晩期末の土器、加美(かみ)遺跡の弥生時代の墳丘墓に供えられた土器や高廻り2号墳の埴輪レプリカなど、平野区の代表的な遺跡の出土品を展示しています。区民センタ-の地下は大阪市の埋蔵文化財収蔵倉庫になっており、膨大な量の発掘資料が保管されています。」と解説されているではないか!期待が膨らむ。駅から行く途中に、畑をちょっと見ると、弥生土器らしき破片が落ちていた。埋蔵文化財の職員がいるならば、鑑定してもらおうと持ち込む。思えば、ここまでがテンションがマックスだった。長くなった。一旦切る。やはり一日を2回で語りつくすのは難しいみたい。3回に分けます。
2019年04月28日
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11月3日川鉄まつり(JFE西日本フェスタinくらしき)に行った。近代・現代産業の基盤産業のひとつは、何と言っても「製鉄」である。歴史好きの私は、古代(最初期)の製鉄遺跡を見たことはあるが、現代のそれを見たことはない。よく考えれば、近所に水島川鉄製鉄所があったのである。見ないわけにはいかない。が、なかなか機会がなかった。つい数日前に年一度の川鉄まつりで工場見学をしていることを聞いた。行かないわけにはいかない。水島工業地帯の二大看板は、一昨年工場休業に追い込まれた時に自治体が最大支援を行った三菱自動車製作所と此処であろう。後でも述べるが、かなり贅沢なまつりである。私は仕事の関係で自転車で行った。消防車やパトカーの乗車体験展示は、子供たちに大人気。けれども、同じようなスペースをとって自衛隊の展示までしていた。除染車の展示は、まだいい。しかし、この155ミリ榴弾砲の展示は、私は大問題だと思う。日本では「武器」は、免許保持者以外は「触ってはいけない」のである。これは「武器」か?それとも「武器」の輸送車か?そして、それ以前に、人を殺す「武器」を、平和な祭で展示するのは、教育上良くないことだろう。バスで工場見学に向かう。その途中で若干の説明を受けた。川鉄労働者は約12000人(正社員1/3)は、水島は後楽園の80倍の大きさ。ガスホルダーだけで、一般家庭の280年分入っている。第一製鋼工場、此処で鉄は個体になる。此処で鉄の品質が決まる。第三高炉で僅かに溶銑(ようせん)確認。厚板工場年間200万トン生産。高梁川。熱延工場。鉄の板を一日中コイル(20トン2200m)を60個(?)ほどを作る。工場内の写真撮影はダメなのだ。残念。工場前で若干の説明。別工場からやって来た鉄の板は、まるきりミカン色に輝いている。見学の二階手すりからは20ー30mは離れていると思われるが、それでもベルトコンベアに登場すると、顔が火照るぐらいに熱い。それを海水をかけながら、三段階に分けて延ばしてゆく。工場内の従業員がいなかったので、これだけなんとか質問できた。だいたい12人がいるそうだ。全てが自動になっているので、そうだとはいえ、「鉄の仕上げ生産」に、こんな大きな工場で関わる人間が12人というのは、あまりにも少ない。これが、現代なのか。ペーパー資料も、疑問だらけの工場見学終わりの質問受け付けも一切なし。海水の洗浄、又は汚染水はどうするのか。24時間操業なのか。一日幾つ作るのか?60個じゃないよね。コイルはひとつ幾ら?おっ、こんなところに鉄の博物館(学習館)があった。とりあえず嬉しい。でも、基本資料置いていない。これが現代の鉄鉱石。そして、それと同じ量の石炭が必要。そして1/5ぐらいの石灰石。写真の説明に、鉄のことまだまだ知らないこともたくさんあった。そうか、地球は鉄があるから磁場が生まれて、それで生物が守られているのか。では、そういう地球型の星は、温暖な惑星でもどのくらいの割合なんだろ。地球人は、ずっと異星人を恐れそして恋い焦がれて来た。そんな生物は、宇宙の中では、孤児なのか?それともまだ辿り着いていないだけなのか?鉄の歴史。ヒッタイト族って優秀だったんだな。日本の「製鉄」の始まりは1-3世紀としている。全然考古学の定説とは違う。確かに、弥生時代に備後や熊本で作られた可能性は指摘されているが、それが「製鉄」だった証拠は何処にもない。昼食。倉敷国際ホテル特製カツカレーがあったので、つい購入。ホテルカレーとは言えない味でした。ステージは小さいのと、大きいのと、ふたつあった。小さいのを間違って座ると、佐藤さんという知らないご当地アイドル。可哀想だけど、売れる水準ではない(もちろんこれは個人的見解です)。そのあと大きなステージにいく。一時間待って嘉門達夫のステージが始まる。流石だな。と思う。どちらにせよ、私でも知っている名前のアーチストが、少なくとも三グループはあった。この豊潤な予算。流石、川鉄と言わざるを得ない。そして、3時からSTU48のミニライブが始まる。実は、映画館でも無く、AKBグループの生のライブを見たのは、これが初めて。いやあ、佐藤某とは全く違う。出始めからオーラが違う。もちろん、衣装や曲や踊りは一流が揃っているから、彼女たちの才能とは違うかもしれない。けれども、それでも一人ひとりの立ち姿や踊りは、やはり学芸会ではない。写真NGなので、写真はありません。私は、岡山出身の菅原早紀ちゃんを応援している。まだ推しメンとは言えない。それでも6人の中では、やはり長身丸顔サラサラ髪で目立っていた。他の、STU48出演メンバー。石田 千穂・市岡 愛弓・薮下 楓・沖 侑果・溝口 亜以子(岡山出身)総じて6人とも、もっとMCをするかと思ったら歌だけで終わった。私は仕事のために最終曲途中で帰ったので、確かなことは言えないが、なんでもないところでは笑顔はあまり無くて硬かった気がする。もうまるで谷町の親父さんの心境です。彼女たちには、早く一人前になって欲しい。
2018年11月04日
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ピースエッグの合間に、せっかく来たので日本遺産であり国宝の閑谷学校を30分ほどで急いで観た。写真に撮れなかったところは、閑谷学校顕彰保存会が発行している「閑谷学校資料館図録」を元に説明する(この図録、博物館フェチとしては、私の専門外(江戸期)ですがとても力の入ったいい図録です。1540円)。江戸時代初期の三大藩主に数えられる池田光政は、庶民の子供にも読み書き、算用及び孝悌の道を学ばさせるために、岡山城下及び領下に123もの手習い所を設置していたが、藩財政窮乏のために次第に統合され、光政の遺言で閑谷学校に統合される。家老津田永忠(ながただ)は18世紀初めに、閑谷学校を完成させる。それにより「日本最古の庶民のための公立学校」になる。写真は校門から見た楷の木及び聖廟。学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、創建当時のまま。国宝である講堂遠景。創建当時は茅葺きだったが、津田永忠が堅牢な「備前焼き瓦」に葺き替えた。閑谷学校の見所は、何と言ってもこの講堂の「中」である。私は、おそらく中学校の時に、学校行事でここに来た。この講堂の板敷きに正座して座り、論語の講義を受けた(はずだ)。途中から痺れが切れて何を聴いたのか、まるで覚えていない。でもそのあと、数百人の生徒が一斉にこの板を乾拭きしたのは覚えている。300年前から、ずっと鏡のように見えるこの講堂に少しだけ貢献出来たようで、嬉しかった。もう40年以上前の話である。まるきり変わらず、時が止まったように、今も鏡のような講堂がとても嬉しい。聞けば、今も月数回、研修生迎えて論語の講義があって、そのあと乾拭きしているらしい。飲室。教師と生徒が湯茶を喫した休憩室。炉の火の始末は、とても厳しいものだった。習芸斎。毎月3と8の日に五経と小学の講釈が行われていた。いったいどのくらい庶民がいたのか。資料館に慶応4年(1868)の入学内訳がある。それを見ると、入学者54名のうち、15名は家中武士、医者の弟子や子供8名、庄屋大庄屋の子供14名、一般農民の子供と見られる者が14名、その他2名だった。ホントに庶民に開かれた学校だったのだ。池田光政は、教育を重視した。それは正しく、儒教に基づく仁政を理想としたのであって、現代福祉教育思想とは中身を異にしてはいる。この書は光政1678年元旦の試筆。「願わくは、実義を明らかにし、広く群英を育て、上は主徳を尊び、下は斯民を庇はんと、こいねがはくは、夙夜、はじの生ずる所無からんと。儒教興隆。天下泰平。延宝六年。正月元旦、光政」しかし、その理想主義が庶民教育を実現した。明治時代、福田英子等の英傑が城下から出たのは偶然ではない。また、この閑谷学校の経営を安定させるために、光政、津田永忠は近隣田畑を無税にして、その利を学校経営に当てた。津田永忠は、建設と経営安定時期には、離れに家を建てて住み着いていたらしい。その跡が残っている。資料館は、明治38年に建てられた閑谷中学校を使っている。この建物がそのまま重要文化財だ。きちんと見るには、2時間ぐらい必要な、いい施設だったと思う。
2018年09月22日
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大阪府立弥生文化博物館の第二展示は、何時ものように池上曽根遺跡の展示である。これも、説明書と写真を主に載せる。此処は土器の変遷を分かりやすく展示している。この再現地図を見ると、現代の池上曽根遺跡公園は、池上曽根ムラの川上側のホンの1部しか発掘していないことがわかる。中心部はまだてがつけられていない。有名な大井戸。驚くのは、これは一本の大木をくり抜いて作っているということだ。井戸の周りから見つかったひすい製の勾玉。水の祭のために埋めたのか、それともほかの意図か。企画展については、今回はやめる。近つ飛鳥博物館の展示と合わせて近日記事にしたい。信太山に戻って、天王寺まで青春18切符で行き、そこで夕食を食べた。居酒屋に入る。ビールがうまい。そして白ワインとこれ。美味しかった。今回の旅の締めくくりで、今から考えるとここで油断した。これを食べて飲んで、記事を書いていると、ついうとうとしてしまったのである。気がつくと、予定時間を過ぎている。急いで勘定を済まして、天王寺に戻り、青春18切符を取り出そうとすると「ない!」やってしまった。戻っても時間的に18切符はもう使えない。何処で落としたのかも不明、見つかる保障はない。今日の使用とあと一回の使用は諦めて、新幹線で帰ろう。逡巡してそう決めた。天王寺からの鈍行が異様に遅かったり、大阪での乗り換えが手間取ったり、新幹線切符を買うのに15分くらいかかったり、自分の迂闊を呪いながら、店を出てやっと新幹線に乗ったのは、天王寺の本来の出発時間から1時間半後だった。それでも、倉敷での今日の最終バスよりも2本早く帰れる。つまり私はものすごく贅沢な2時間を買った。(これが本来帰ろうとした時間)18:42発 天王寺 14番線発 大阪環状線西九条方面 乗車:20分19:02着 大阪 2番線着 ▼乗換5分19:07発 大阪 3番線発 JR神戸線新快速(姫路行) 乗車:1時間 6分20:13着 姫路 8番線着 ▼乗換23分20:36発 姫路 7番線発 山陽本線(福山行) 乗車:1時間47分22:23着 倉敷(これだと、本来は11時過ぎの最終バスにしか乗れない)初めて「みずほ」に乗った。倉敷に着くと、9時55分発のバスに乗った。今回、大阪歴史博物館、近つ飛鳥博物館、弥生文化博物館と、図録を合わせて12000円ほど買った。通販では買えないから、旅の目的は図録購入も大きい。それ以外にお土産は一切買わなかった。13冊ほど。安いといえば、安い。道楽といえば道楽。死んだらゴミとして処分されるんだろうな。知り合いの古本屋に聞くと、おそらくほんの数冊以外は二束三文だろうと言われた。だったら、きちんと読んで、記事をブログにアップするのが供養だと思うのだけど、買うと安心してなかなか出来ない。あゝ道楽である。これからは意識して図録もアップして行こうと心に決める(帰って2日後に確かに買った弥生文化博物館の最新の企画展図録を途中の電車か居酒屋で置いて来たことを知った。痛恨のミスである。ホントは青春18切符の旅はもう一回企画していたのだけど、諦めることにした。歳をとった。こんなミスをするなんて!)。青春18切符の旅、気がつけば1日目こそは使い切ったが、2日目は、天王寺と信太山の往復だけで終わった。しかも3枚目はもう使えない。今年の夏は終わった。帰ると部屋にもわっとした空気が澱んでいた。台風が近づいていた。
2018年08月31日
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これは近つ飛鳥博物館バス停近くの「作業所」の催し。地域色が出ている。帰りのバスは乗客は多くいた。喜志駅の前に、観光案内と思える大げさな古い立石があった。12:19発 喜志 近鉄長野線準急(大阪阿部野橋行) 乗車:6分 運賃:400円13:22着 古市 ▼乗換2分13:24発 古市 近鉄南大阪線急行(大阪阿部野橋行) 乗車:18分12:42着 大阪阿部野橋 ▼乗換7分乗り換えで、ご飯が食べれて充電できる所を探す。ご飯は少し高いが仕方ない。13:49発 天王寺 4番線発 阪和線区間快速(日根野行) 乗車:22分14:11着 信太山 1番線着信太山駅に来たのは10年ぶりくらいではないか。前回は車で来た。駅前に見たことのない派手な店が出来ていてびっくりする。弥生博物館にいく道。マンホールの模様は当然、池上曽根遺跡である。この歩いて10分ほどの道。とても古家、というよりも御屋敷が立ち並ぶ他にはない道である。立派な門構えの家が、歩いただけでも4軒ほどあった。そして、府立弥生文化博物館にたどり着く。弥生時代専門の博物館として、私にとっては聖地だ。もう10回ぐらいは来ていると思う。ここでは近つ飛鳥博物館と連動して「弥生のマツリを探る 祈りのイメージと祭場」を企画している。その前に通常展示をじっくり見る。前回もじっくり見たが、じっくり見ることで新たな発見は必ずあるだろう。例えば、何回も見た弥生人の家族のジオラマ。敷物に初めて気がついた。シカの毛皮を敷いているのである。料理はおじやと貝の蒸し煮だろう。当然であるが、銘々皿を持つ。この習慣は弥生時代から始まった。手づかみで食べる。ネヅミがいたのに初めて気がつく。ネヅミ除けの吊るす壺などもあった。男の子の指が全て開いているのは、今回新しく説明書に加えている。男の子の田んぼの足跡が見つかったことを受けてでもある。外反母趾に悩む子供などいなかったのである。今までもあったのだろうけど、今年の正月、弥生町に行った時に知り、是非見たいと思っていた弥生式土器第一号のレプリカがあるのを初めて知った。当然と言えるかどうか、これが実は弥生時代の土器ではなかったことは説明書からも伏せられている。想像していたよりも薄く仕上げていた。ジオラマも、今回じっくり見た。これは春の田んぼの風景。(1)水田に水を引き込むために、水路に杭を打ち込み、土や木の枝を集めて小さなダム(堰)を造る。(2)水田に水を引き、鍬や鋤や足を使って土を細かく砕き(踏耕)、えぶりという横長の農具で表面を平らにする(3)田をならす(4)大きな畦や小さな畦の補修を行う(5)苗代で稲の苗を育てる(6)苗をとって田植えを行う。よく生育した苗を植えるのは、雑草の成長に対抗するためである。子供は家の前で遊んでいる。年寄りは若者労働を見守っている。これが春の風景。見たらわかるように、現代の機械化以前の農作業風景とほとんど変わらない。この最も進んだ技術を日本人はあっという間に西日本全体に行き渡らした。それが弥生時代だ。みんな同じ色形の貫頭衣を着ているが、それが正しいとは思わない。データがないのでこのようになっているだけだ。サトイモも植えられていただろう。さて、このジオラマは秋の風景もある。(1)秋の収穫までの主な仕事は、夏の稲の間に生えた雑草を取ることである。(2)出来た穂を摘む。穂摘みである。ここだけが現代と違う。(3)穂束を日にかわかし、高床の倉庫に納める。(4)脱穀青銅についてだけ、博物館スタッフに質問した。「青銅器の材料である銅とスズは、国産のものはありますか?」「全て輸入しています」やはりね。あの大量の青銅器を自前で作ったからと言って、材料は外国に頼っているのである。弥生時代は、つまり外国との関係なしでは成立しない文化だった。この入れ墨のある顔は、茨城県の女方遺跡出土。レプリカである。この珍しくも写実的な人面土器は、千葉県三島台遺跡出土。レプリカである。数年前のリニューアルの目玉。卑弥呼の擁立の頃の姿らしい。服はあまりにも鮮やかであるが、一応きちんと考証しているらしい。これは卑弥呼の館。私は違うと思う。以上が常設展示。写真が多くなったので、ここでいったん切る。
2018年08月29日
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8月21日(火)晴れホテルの朝食。食べる途中で写真を撮っていないのに気がついた。ごめんなさい。ロハスのホテルと言っているだけあってやはりヘルシーでした。意識的に食物繊維とお腹の菌を増やす方向で食べています。( 8:08)発 天王寺 徒歩 6分( 8:14)着 大阪阿部野橋8:20発 大阪阿部野橋 4番線発 近鉄南大阪線準急(河内長野行) 乗車:21分予定より20分早く乗ることができたのだけど、なんと乗り換え駅の古市の電車はホントのぎゅうぎゅう詰めだった。(都会に慣れていない私は)ビビって乗り過ごしたら、約20分待って予定通りのコレになりました。古市 ▼直通停車1分8:56発 古市 近鉄長野線(河内長野行) 乗車:3分8:59着 喜志ここからバスで飛鳥博物館に行きます。つまり行くだけで最寄の基幹駅天王寺から1時間半近くかかる。とってもハードルの高い博物館なのです。博物館に行く人はみんな車で来るわけじゃない。二上山を左に見て、太子町、大宝町を通って近つ飛鳥博物館に到着。まさかとは思ったけど、始発から最後まで1人だけの乗客だった。降りると、近くの大阪芸術大学の映画サークルだろうか、本格的な映画撮影をしていた。きちんと美男美女を揃えて、博物館バス停から女性がバスに乗る所を撮影。9時過ぎではお客はいないから許可を得ているのか、時間とってバスは留まっていた。入り口から20分ぐらい歩かなくてはいけない。ここは近つ飛鳥の森公園なのである。一須賀古墳群を少しだけ見て歩く。歩き出して思い出した。此処は一回来ている。しかしおそらく閉館30分前だったと思う。今日はしっかり見て行こう。以下、説明書と遺跡の写真を幾つか載せる。山の中の小径である。10時開館までまだ30分もある。ちょっと変わった形の博物館。既視感があったのだけど、思い出せない。これは水の祭りを意識しているのかな。周りをぶらぶらしていると、休憩所があった。とっても変わった形をしている。中で休んでいる女性に聞いてみる。「この煙突は何を意味しているんですか?」「さあ。博物館の階段は行きました?」「いいえ」「あれは安藤忠雄設計で、歴史を登る階段らしいですよ」「ああ、これは安藤忠雄設計ですか!どうりで、コンクリート打ちっぱなし。(私はこれまでも成羽美術館や兵庫県立美術館、直島の展示など彼の設計建築は何度か行った)彼の建築には遊びが多いんです。きっと意味なんてないですよ」その階段へ、長い道があった。登る。登り切ると、休憩所の煙突が緑の森の中、白く異様に浮かんでいた。その後博物館の事務員から、「安藤忠雄さんは、現代の古墳をイメージしていると言っていた」というのを聞いた。博物館の煙突は、黄泉の入り口らしい。だとすると、古墳から少しだけ離れた所にあるこの白い煙突は、黄泉の入り口のもう一つの姿なのだろうか。展示品はじっくりと見た。以下ずっと写真を載せます。企画展は写真NOだったので、また別に記したい。この聖徳太子墓については、陵墓参考墓なので発掘はしていないが、過去の入った人の記録に加えて、昭和の代表的考古学者梅原末治氏の墓の位置の記録もあり、それを元に再現しているらしい。天平年間の税金の収支決算報告書。737年作成。この頃は既にお役人仕事が始まっていたようだ。古墳の大きさよりも、墓誌によってその人物の大きさを記録するようになった。金の入れ物は現代のタイムカプセルそっくりだ。安藤忠雄設計のぐるっと歩けば博物館。手前の「修羅」の展示場は今は見ることは出来ない。2ヶ月前の大阪北部大地震のもと、この上の「黄泉のトンネル(空気の入れ替え穴)」を補強する工事をしているためだ。スタッフの女性に聞くと、「震度4でした。展示物に破損はなかったのですが、関東と違って、そんな大きな地震経験したことがなかったので、ものすごく怖かった」そうです。此処の展示の圧巻は、この豊富な形象埴輪である。円筒埴輪の展示も充実。残念ながら、説明不足。圧巻の仁徳天皇陵(大山古墳)のジオラマ。だが、明らかに人物の大きさやその他の寸尺がおかしい気がする。展示の外に出ると、世界遺産登録の運動の記録があった。
2018年08月28日
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昨日の大阪歴史博物館の展示物の写真等々、気が付けば90数枚の掲載になっていたことを後で数えて気が付いた。掲載数が事実上無制限になったからといって、あまりにも多すぎた。以後気を付けたい。今日の、もしかしたら、最大の目的地だったかもしれない島ノ内フジマル醸造所たどり着く。松屋町駅を出て直ぐ。隣には、西日本最大を誇った住友吹銅所があった。江戸時代、全国から集めた銅を精製し、純銅や銀に作り変える処である。この東横堀川から材料を運び商品を運んでいたのだろう。ワイナリーらしい雰囲気のある建物。「ワイン本」に書いたように、街中にあるワイナリーがあれば、いろいろと日本のワインを試すことができる。それが魅力だと思ったのであるが、行って見ると3種のお試しワインセットを頼んだのだが、このうちの2種はなんとタンクからの空気圧縮機引き込みがウリだそうで、売っていないらしい。なんのために試したのか、わからない。それで味なのだが、確かに美味しいのだけど、フレッシュ過ぎる。二つの赤がどちらもフレッシュで、濃い味が好きな私の好みではない。ワインと前菜のセットだけでは気が引けるので、ポテトサラダも頼んだのだけど、マリアージュは感じなかった。残念。天王寺の近くのホテルに向かう途中、茶臼山という地名があったので、古墳ではないかと思い行って見た。すると、観光名所になっていた。古墳としてではない。この丸い高まりが、大坂夏の陣において、真田幸村の陣地になっていたのである。今は見えないが、ここから大阪城まで少しということで、ここで迎え撃ったのである。フジマル醸造所で悔しかったので、ホテルに着いてからフロントに聞いて近くの「ワインの美味しいお店」を教えてもらった。「青いナポリ」という。イタリア料理店である。ワインはカベルネソーヴィニョン、生ハムをたのんで、メインはガッツリ1人でマルゲリータを頼んだ。隣のカップルは、ずっと仕事の話で女が男を言い負かしていた。いつの世も、男は女の口には勝てない。他人事なので、ホントの正当性はわからない。それで、料理はやはりマリアージュは感じられなかった。750円もするのに、いいワインじゃない。やはり、マリアージュとは「奇跡の出会い」なのだろうか?ホテルはこじんまりとしていて、清潔かつロハスを意識していてよかった。
2018年08月27日
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8月20日(月)晴れ日にちを入れるのを忘れていました。20日、21日の旅でした。昨日、1日を二回に分けて、しかも写真や文章を簡潔にしたいと書いたけれども、やはり無理なようです。3回に分けて写真もたっぷり載せます。歴史博物館に来た。ここだけが、火曜定休日であり、開いているからである。前身は旧市立博物館であることに今日気がついた。ということは、この立派な博物館は市立ということか。その一方で府立の弥生博物館を存続の危機に立たせた橋下府政、市政は酷い。ここの10階から大阪城がよく見える。大手門がまるで模型のように見える。人も模型のようだ。これは確か戦時中は参謀本部になった旧市立博物館。ここから大阪の景色が一望できる。特に、難波宮から見えるこの景色。二上山。生駒山。この二つの道を通って、平城京のある奈良と頻繁に交通していた。遠いけど、近い。これを見ると、難波宮からまっすぐ東に行けば、生駒山を通って現在奈良市の平城京あたりに行くことがわかるし、二上山を越えれば現在桜井市の飛鳥地域の藤原京あたりに行くことがわかる。前期難波宮が火事のために終わって、藤原京遷都、そして平城京遷都、その後また難波宮遷都と、ホントに10数年単位で遷都している。以下、展示品を説明書と一緒に紹介する。写真が多くなります。時代ごとに変わっていったこの大阪の地形を観ると、上町台地の洪水の心配のいらない一等地の一番北の端の海上交通の要所に、この歴史博物館すなわち難波宮、大阪本願寺、大阪城をつくっていたということがわかる。歴史博物館は古代はさらっと流される。代表的な弥生式土器としてこの形が提示される。森ノ宮遺跡の櫛。古墳時代の遺物。飛鳥博物館でも提示されるが人面墨画土器の顔の表情がとてもユニークだ。中世都市の街並み復元模型。永禄11年(1568)の堺の街並みを想定復元。織田信長に軍用金を課せられたときの街の動揺を再現しているらしい。この角度から撮るとまるで進撃の巨人だ。近世に移る。これは日本の米相場を左右した堂島米市の様子。安政年間(1854-1860)の船場の街並み。淀屋橋にほど近い梶木町と尼崎一丁目の春の風景。大店両替商千草屋、町人の学問所懐徳堂、裏長屋など。特別展示「天保の光と影」が今日までだった。ラッキー。この大塩平八郎の代表作の写しを西郷隆盛はずっと手元に持っていたらしい。そしてこの檄文。内容がわからないように、版木を別にわけるほどの用心をしたのに、仲間の密告で事前にわかり、たった一日で鎮められた。しかし、江戸時代、島原の「乱」につづく200年ぶりの「武装蜂起」だった。背景には天保の飢饉がある。世の中を正すためには、手段を問わないという陽明学に理論武装された主張は、その後ずっと沈殿し引き継がれていくだろう。以下天保七年飢饉図。次第と人々の命のる灯が乏しくなっていくさまがわかる。最後は打ちこわしの図に続いて、なぜか朝日でおわる。歴史博物館の下もやはり難波宮だった。この博物館3回目だったとおもうが、こんなにきちんと見たのは初めてだった。
2018年08月26日
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約4年ぶりの青春切符の旅を始める。とは言ってもチケットセンターで買った3回分しか持っていないのだが。今日明日と、大阪に向かう。青春切符で行くことのできる場所は山陽線沿いで限られてしまうが、今年は西行きは災害で不通の場所があって使えない。奈良飛鳥は既に行った。ならば大阪しかないが、月曜日の大阪で行けるところは限られている。(私の大抵の行き先は博物館なので開いているところが少ないのだ)まあ、私の旅はいつも何カ所も行って忙しいので、今回は出来るだけ簡単な記述を目指したい。1日につき2回の掲載を目指す。あまり文章や写真を多くしない様に気をつけたい。7:19発 倉敷 山陽本線(相生行) 乗車:1時間35分8:54着 相生 ▼乗換3分と、言いながら、座っている間は暇なのでいろんなものが見えてしまう。旅は旅人を発見者に変える。前は少しづつ変わる車窓の景色を見て「屋根が地域で統一している」とか「太陽光発電の屋根が2割以上になった」とか見ていたのだが、今回は時間的に学生の通学と重なった。大学生か都会の高校生かは知らないが、(1)寝ている(2)参考書を開いている(3)友達とおしゃべりしている。と分かれている。昔のようにゲームをしている学生は案外少ない。その代わり、目の前に携帯でマンガを見ている学生をジロジロ観察することができた。学生にとっては、常識なのかもしれないが、マンガの楽しみ方が十数年前と劇的に変わっていた。おそらく、無料の1話分の無数のマンガ目次から男の子は適当に選んで20分の乗車時間の間に4話分ぐらいを見ていた。それでおそらく面白いのを見つけたらはまってゆくのだろう。反対に言えば、現代の漫画家は、作り方を大きく変えないと買ってもらえないということだ。週刊誌の大きさではなく、携帯の大きさが多いし、しかも見開きではなく1ページづつ「スクロール」するので、縦に読んですぐわかる大きなコマを使わなくてはいけない。しかも1話目で顧客を掴まなくてはいけない。薄っぺらくて、刺激的な冒頭が増えるわけだ。それを外していいのは、巨匠だけなのだろう。しかし一方で作れば直ぐに反応が現れる。多くの作品が現れて直ぐに淘汰される。マンガは、息を吹き返したのか、滅亡していくのか?8:57発 相生 山陽本線(姫路行) 乗車:21分9:18着 姫路 6番線着 ▼乗換8分9:26発 姫路 5番線発 JR神戸線新快速(米原経由近江塩津行) 乗車:1時間 2分10:28着 大阪 8番線着 ▼乗換4分10:32発 大阪 7番線発 JR京都線(高槻行) 乗車:16分10:48着 茨木茨木駅に着いた。立命館のいばらぎキャンパスがあり、立命館専用の歩道もあり、とても綺麗なキャンパスである。最近見るキャンパスはみんなこんな立て看一つもない小綺麗なキャンパスばかりだ。さみしい。ここでは、弥生から古墳にかけての土坑が発掘されているらしい。しかし、これほどに遺跡候補地があるとは。それほどまでに、大阪平野は、大穀倉地帯だったということか。ならば、この地域が大和政権のバックになったのは、それだけ濃密な「人」が居たということではないか。ここに来た本来の目的はこれである。地域に開かれているようで、ホールもある施設の図書館で「君たちはどう生きるか 丸山真男と加藤周一から学ぶ」という学習展示をしていたのだ。のだが、なんと今日はお休みらしい。ちょうどお休みの日に来たようだ。非常に悔しい。図書館の人は「ホームページに休みの日は書いているので、それを確認して来てくださいね」と言ったけど、そもそもこの展示会のソースニュースには図書館展示とさえも書いていなかったので、確認のしようもなかった。それでも、それでも、うろちょろしていると、是非とも貰いたかった「作品読本」(無料)をゲットできた。粘り勝ちである。ちらっと見たが、文章は加藤周一文庫スタッフが書いていて、簡潔的確だった。嬉しかった。ただ、東京女子大学丸山真男記念比較思想研究センターの文章の方が、文章が長くページも多く、熱がこもっている。ともかく、見落としていた研究書や著作なども一つづつあることを知った。有意義だった。生協食堂で昼食を食べる。組合員以外は5%増しだけど、それでもローストチキントマトソース、ほうれん草ナムルとご飯と味噌汁で537円である。ヘルシーかつ安い。お勧めである。領収書をよく見ると、なんと、カロリー計算、栄養バランスまで記入してくれていた。素晴らしい!携帯の電池が怪しくなったので、喫茶店で充電をする。最近あっという間に電池が切れるので困る。
2018年08月25日
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志谷奥遺跡のA氏宅を辞して、鹿島の三つ目の弥生遺跡である古浦砂丘遺跡に向かう。ここも本来もっと注目されていい遺跡だと思う。日本海の海岸砂丘にある遺跡で、弥生時代前期から中期の集団埋葬が確認されている。写真のように、入江の中の典型的な漁村であり、家の数だけは多くなったかもしれないが、2000年以上、風景があまり変わっていないのではないか?と思わせる処だった。この写真は、この後行く「ある高台」から撮った。序でに、入江の遠景。そして、これは古浦の近景。家の密集する典型的な漁師町である。時間がなかったので、町の中は歩き回らなかった。もっとゆっくりしてもいいような、玄人好みの町だった。商工会館の横にその遺跡があった。ちょっと迷ったが、この町唯一の交番にに聞くと直ぐにわかった。ここに遺跡(墓)があるということは、弥生時代は現代よりも数十メートルぐらい海岸線が迫っていたのかもしれない。人骨は60体以上確認されている。貝輪を装着した子供の人骨もある。朝鮮半島南部の特徴を持つ土器も出土(昨日の松菊里(ソングリ)式土器)している。そんなこんなで、数年前に訪ねた土井ヶ浜ミュージアムのある土井ヶ浜遺跡にそっくりだ。出雲国風土記にも名前が登場するらしい。当然である。風土記が作られた1000年ぐらい前から延々使われた良好な港なのである。この砂地で、骨が残ったのだ。何か土器が落ちていないか、探したけど流石になかった。遺跡を出て帰ろうとすると、目の前に「放射能モニタリングポスト」があった。現在は29.2なんチャラ。まあ、正常値なのでしょう。思い出した。2年前に来た時に、直ぐ近くの島根原発に行ったのだ。大晦日だったので、ガイドセンターは開いていなかった。この古浦は、24近くあるモニタリングポストの一つらしい。ここにあるのは当然だ。地図を見ると、原発から直線で2キロも離れてはいない。ついでにいうと、島根県県庁所在地の松江市は10キロ以内である。ホントはこの後、弥生の出雲大王と規模的に同等の墓を作った安来市に行くつもりだった。けれども、志谷奥遺跡で一時間以上A氏とお話したので、諦めなくてはならない。次の課題である。でも全ての施設が閉じる5時まで、あと1時間と少しある。「そうだ、島根原発に行こう!」ということで来ました。ガイドセンター。古浦から車を走らせて10分くらいで来れる。韓国のガイドセンターと同じような「しくみ」の解説が多い。一応ざっと紹介する。子供向けのパネルもあったが、全て子供向けではないところが、日本のガイドセンターの特徴なのかもしれない。震災を受けて、流石に地震の評価と対策、津波の評価と対策、安全対策実施状況、放射性個体廃棄物等の処理、新聞報道について、パネルはあった。しかし、見ても「ホントに安全なのか?」はわからない。前回来た時は、隣の小山に上って、木々の間から微かに原発を撮影したのだが、ここからは実に綺麗に見える。反対に言えば、ここからしか原発を見ることは出来ないようにしているのかもしれない。私は普通の人とは違う視点で景色を見る。これは何の景色か、わかるだろうか?引の遠景。これは県庁所在地の松江市街の遠景である。ここから「直線で」見ることができるのだ。これは松江市となりの宍道湖湖畔。島根県屈指の人口密集地まで10キロ以内ということは、こういうことなのである。事故が起きれば、風向き次第では、間違いなく1時間以内で死の放射能は松江市に直撃するのである。いや、台風が来ていれば10数分で直撃する。情報は直ぐに流さないだろうから、全員被曝だ。原発は人類がまだ持つことを許されていない「火」なのだ。持ってはいけない。松江市に30分ほどで戻り、そこから高速に乗って、鳥取から伯耆大山(ほうきだいせん)を左手に見て中国山地を越えたところで、蒜山サービスステーションで夕食。蒜山(ひるぜん)そばである。これで出雲旅を終わる。(この時にしか買えない)図録を1万5千円近く買ったので、5万円近くまで2泊にしては費用がかかったけど、充実した旅だった。今日の出費ジュース150# 歴史博物館490# 宝物館300# 天霧(牛丼)1166# 鹿島歴史民俗資料館300#図録3050# 佐田神社おみくじ300# 高速510#高速2660 お土産1955 うどん550# #は現金払い
2018年06月23日
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古代出雲歴史博物館で発見した「謎」は、この旅の最大の収穫であった。そして、この後の志谷奥遺跡での「出会い」は、この旅の最大の「思い出」になったのです。博物館を出て、出雲大社参道を歩く。いつもはこの道を歩かないので、こんなオブジェがあるのを初めて知った。もちろん、因幡の白兎を表現しているのだろう。半端ない数がいるけれども。縁結びの碑だそうです。そして、大国主との出会いの場面の像も作っている。念願の宝物殿にたどり着く。けれども、中の遺物は全て撮影NG!昨日の歴史博物館の複製品を見てもらって、私の見たかったものを確認してもらいたい。ただし、翡翠の勾玉、瑪瑙の勾玉いずれも、本物の複雑な透明さは、複製ではとうてい作れないものだったことは確認した。確かにお宝でした。出雲大社を出て、駐車場に向かう。このようななんでもない溝にも長い間歴史に耐えてきた時間があると思う。昨日の山持遺跡のパンフを基に、遺跡のある辺りの景色を撮ることにした。要は国道9号線バイパスのための発掘だったわけだ。そこからの山側への景色。昔斐伊川が流れていただろう側の景色。よって、ここからホントに西谷墳墓群を見ることができるのか、確かめなければならなかった。よって、土手に上がる。私の目では明確に西谷墳墓の四隅突出墓の白い施設は、わからなかった。しかし、1日目の土手の景色よりも明らかに真近に見ることができた。角度的に正しいのならば、確かに日常的に西谷墳墓を見ることはできるだろう。その土手から、山持遺跡と青木遺跡(とびす村)を眺める。まだまだ発掘されていない場所は多くある。いつの日か、いろんな謎は解かれる可能性はあるだろう。このバイパスを更に行くと、無い無いと思っていた青木遺跡ありました!結局、バイパス工事で見つかったのね。私は初期の四隅突出墓は一つだけ見つかったと思っていたけど、なんと4つもあったらしい。青木1号墓の説明。歴史博物館で見た銅鐸の破片の説明があったが、もう少し突っ込んだ解説があった。銅鐸は本来は「ムラの所有物で、特定の人物とともに埋められることはなく、極めて珍しい」という。つまりは、青銅器祭祀の終わりのあとの四隅突出墓だったことが、ここからもわかる。このときの「新しい信仰」とは何だったのか。とても興味深い。青木4号墓の詳しい説明。少しだけ残っていた「四隅」の復元。青木遺跡から山を見る。神奈備山はありそうに無い。昼食。牛丼セット。島根和牛のセットということで頼んだのだけど、高いだけで、あまり吉野家とは変わらなかった。鹿島町の佐田神社に再訪。この神社はお社が三つ並んでいる珍しい造りなのである。2年前に来たときは修理中でその姿を拝めなかったので、見ることが出来て満足。仁王門には、珍しい変わった人たちが守っていた。お人形付きのおみくじを引く。吉でした。この神社の隣に、鹿島歴史民俗資料館がある。此処で、その後に行く三つの遺跡の場所を教えてもらった。たいへん助かった。簡単な地図ももらいました。この資料館には、古浦砂丘遺跡(弥生時代前期から中期)の遺物が多く展示されている。当時の朝鮮半島の代表的な土器、松菊里式土器までこんなに綺麗に出ているとは知らなかった。弥生時代前期からずっとこの地方は、朝鮮半島と交流があったのだ。何処の遺跡かわからなかったが、吉備系土器も出ていた!(弥生時代後期)祭祀用の土器だ。堀部第一遺跡を見に行く。古墳群の隣にあり、福祉施設の整備のときに発掘。弥生時代前期に稲作と弥生文化を伝えた集団の墓地と考えられている。円丘の裾を取り囲むように配置された57基の墓が見つかった。どうやら、支石墓の系譜を持つらしい。墓の位置表示がされて、1部保存されている。しかし、現在はかなり芝が覆ってわかりにくくなっている。お墓は、木棺を埋めた墓穴の上に石を敷き並べた特殊な構造らしい。北九州の影響を強く受けているとのこと。次に行ったのは、志谷奥遺跡。荒神谷遺跡において、銅鐸と銅剣が同時に見つかって大いに注目されたのではあるが、それよりも10数年前は、この遺跡がその唯一の遺跡だった、とは今回訪ねて初めて知った。鹿島歴史民俗資料館の職員が「説明看板があるけど、実際の発見場所はそれよりも奥まったところにある。そこにわずかに発見場所と書いているから行けたら行って見て」とアドバイスをもらっていた。その言葉がなければ、この後の素敵な「出会い」もなかった。この説明板だけで満足して帰ったかもしれない。志谷という谷の奥なのだろうか、車がついに行くことができなくなった一軒家の入り口を邪魔しないようにマイカーを停めたときに、遺跡がありそうな道から作業服を着た私より少し年上らしき男性が山路から降りてきた。「此処へ車停めてもよかったでしょうか?」一軒家の人かと思い(実際そうだったのではあるが)あとで文句言われないように一応尋ねてみた。それ自体は良かったのであるが、「志谷奥遺跡を見に来たんです。ご存知ですか?」と期待せずに聴いた。なぜ期待しないかというと、世の人は近所に遺跡があっても、ほとんど何も知らないからである。ところが、この男性は180度違ったのである。「何処から来たんです?倉敷?それは遠い何処からどうも。今、ちょうど銅鐸がもうひとつ見つかったということで、テレビが来るから道の木を切り倒していたところです。いや、調査員じゃないです。ここの銅鐸を発見した家のもんです。」「えー!!!!」二つびっくり仰天した。まだ未発表なのだが、新たに銅鐸が見つかったこと。その発見者に出会ったこと。予定を大きく変えて、この方の話を、家にお邪魔させてもらって、1時間以上伺った。家に入る前に、発見場所を見させてもらった。「銅鐸発見場所と標柱があるけど、ホントはそこじゃなくて、もう少し北側なんですよね」どうやら、当時の調査員が勘違いしたのが、ずっとそのまま通っているらしい。発見者なので、しかも40数年間ここで暮らしているので間違いない。手で示してくれた。これは発見者だけに手渡された当時の資料の1部である。差し障りが無いと思われるこの図だけを見せる。A氏はこう言った。「45年前の中学生のときに、出てきた銅剣を学校に持って行き、大事になったんです。父親が当時やっていた養豚場で豚が死んだために、そこにあった柿の木の辺りに埋めようとして掘ると、銅鐸二つと銅剣6本を見つけた。しばらく置いていたけど、私が先生に銅剣を見せたんだ。そうしたらいろんな人が来て、その場だけを調査して、他の欠片などを持って帰って行った」「荒神谷遺跡のように金属探知機は使わなかったんですか?」「当時は牛を飼っていたんで、父親がそういうのを嫌ったんだ。私有地なんで、調査員もそれ以上は何も言えない」「もっと探せばあったかもしれない」「わからない。当時は銅鐸と銅剣は同時に発見されることはなかった。教科書を変える大きな出来事だと言われた。そのままだったら、国宝になるとも言われていたけど(後で資料を見ると、国指定遺物と書いていた)、そのあと荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡が見つかった。そりゃあれだけの数、あっちが注目されるでしょ。でも、荒神谷遺跡の剣はボロボロになっていて、保存するのに苦労したと聞いた。ここの剣や銅鐸はしっかりしていた。私なんかは、ホンモノでカネをついた。いい音がしたよ。考古学関係の人はここはすごい遺跡と言われるんだけど、今は忘れ去られている。」「すごいことですよ。確かにあの二つの遺跡は他を隔絶しているけど、そもそも2つとか6本とか、多量の埋納施設は他にはあまり出ていない」「二つ同時に出たのはあの二つ合わせて4例目と後で聞いたことがある」(←後で資料を見ると、二つ以上は20遺跡ほどはあった。島根県で4例あるという意味だろう。しかし、ほとんどの例は単体で出土だ。複数出土は極めてまれである。パイオニアという位置は揺るがない。島根であとひとつは真名井遺跡だろう)「そうなんですよ。そして荒神谷遺跡や加茂岩倉は数すごすぎて、私は他からかき集めたと思っているけど、ここのは、この地域の分だけを埋納したのでしょう。それだと、島根県だけではなく、他のあらゆる弥生地域でも同じようなことが起きたのだと証明している。すごいことなんですよ」「そうかい。もらっている資料があるけど、見ます」「えっ?いいんですか!見させてください」「これが40数年前の資料。そしてこれが、今度の6月2日のテレビ発表のための資料」「ちょっと写真に撮らせてください」「でもテレビ発表資料だから」「その前に拡散するのは良くないと。当然ですよね」話を聞きながらジュースやお菓子をご馳走になった。ありがとございます。どうやら、新しく調査に来たのではなく、40年前の資料で、不明の破片を再調査した所、銅剣は既存の銅剣に当てはまったが、銅鐸破片は当てはまらず、新しい銅鐸と判明したようだ(写真参照)。「このテレビ用資料に、こう書いていますよ。今までは、弥生時に埋納したまま昭和48年に出土したと考えていたが、見つかる前に「何かの改変」があったと思える、と」「昔は道路を作る時はブルドーザーでやったから、公共事業とは違って民間の場合は何かあっても公にはしない。加茂岩倉とは違う。」「銅鐸銅剣は道のすぐ下から見つかったんですか?」「そうだね」「ならば、その時に、銅鐸が持って行かれて、その破片が収納されたと見る可能性が高いですね」「私は聞かれたことをしゃべるだけだ」「私なんかは、それならばワクワクします。それならば、もっと探せば、もっと見つかるかもしれない。今はAさんの代になっているけど、それはどうなんですか?」「例えば発掘すると、駐車場もない。こういうのは、予算がない所だから、教育委員会の人たちは無理そうな感じだったね」私は駐車場は遠くに作るのでいいと思う。他の遺跡ではいくらでもそういう例はある。しかしA氏があまり乗り気ではなかったので、黙って置いた。でもやはりやって欲しい。昔とはよっぽど性能のいい機械も出来ている。他の破片、しかも他の土地の大掛かりな発掘はしていないからもっとやれば、荒神谷遺跡とはいかないまでも、あと幾つかは出てくるかもしれない。「残念です」何度か、無責任にも言って見た。何故、この谷だったのか?「神奈備山とか、聖なる何かはないのですか?」ないようだ。青い石がよく出てくるが、翡翠ではなさそうた。しかし、遠景でこの谷を撮ると、いかにも形のいい山があった。ただし、この谷に人が住むのは無理だ。埋納は何故、谷の中腹なのか?これも大きな謎だ。そしてそんな谷ならば、全国いくらでもある。ことごとく掘ってみたら、ザクザクいくらでも出るのではないか。荒神谷にしても、加茂岩倉にしても、そしてこの志谷奥にしても、全て見晴らしの悪い谷の中腹に埋納している。これは島根、いや出雲だけの傾向らしい。この遺跡をもっと比べればまだまだわかることはあるかもしれない。キチンと現地説明会をするべきなのではないか。「たいへん面白い話をありがとうございました」「いや、ちょうど休憩しようとしていたところだったから、よかったよ」「ご馳走様でした。‥そうか、谷から出るのか」「しかも、中腹から」何と無く、別れ惜しく、名前も名乗らず別れました。Aさん、もしこのブログを見ることがあればコメントください。
2018年06月22日
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昨日行けなかった出雲大社宝物館に行く前に、何回も来ている古代出雲歴史博物館に一応寄った。よく考えたら、前回はカメラの電池が切れてほとんど撮っていなかった。日本書紀の写本である。720年成立の本だが、写されたのは江戸時代17世紀。レ点や読みがカタカナでキチンとつけられている。また、赤字で注釈も加えられている。900年間にそれだけの「研究」がされているということなのだろう。出雲風土記も事情は同じだろう。この後に行く宝物館での最大の目的はこれを見るためである。真名井遺跡から出土した弥生時代(青銅器の埋納武器と同じ記述でBC2-AD1と書いていた)の勾玉である。翡翠の青が綺麗だ。複製ではあるが。宝物館では写真撮影NOだったので、ここに記す。同じく銅戈である。非常に綺麗だ。劣化されない工夫を凝らしたのだろうか。石の下に納められていたらしい。他の青銅器埋納と少し違う。他にはこのような瑪瑙の玉類もあった。同じく複製だが、実物はこの後見る。古墳時代前期。これも複製。実物はこの後に見たが、これは複製と実物の違いは全く気がつかなかった。巨大柱周辺から出土した大型の釘、かすがい、ちょうな(手斧)などの鉄製品。鎌倉時代。ちょうなは、宇豆柱の真下に置かれており、実用品というよりも何らかの儀礼に用いれられたと考えられているらしい。複製。宝物館に実物あり。数分の一と思われる、平安時代出雲大社の模型を見上げる。天にそびえる威容は、海から見えたかもしれないが、何処かの拠点集落からも見えなかったか?青木遺跡は?無理かな。出雲風土記の時代を再現するジオラマの各種。朝酌促戸(あさくみのせと)で魚と野菜をうる市場の再現。朝酌の促戸でのひびの漁。水中に竹木を刺し、魚が入りこんだのをあげて振り落として漁をする。入海での歌垣。男女の出会いの場。加茂岩倉遺跡出土の23号銅鐸。鹿や四足獣、四頭渦文などの文様が描かれている。これは出雲独特。国宝。荒神谷遺跡の358本の国宝銅剣すべてを展示。加茂岩倉の国宝銅鐸をすべて展示。この銅鐸は長いこと祭祀に使っていたのだろう。「鐘を鳴らした痕跡」がある。銅鐸の内部に棒とあたってすり減った部分がある。29号銅鐸の吊り手(鈕)には、顔面が描かれている。目鼻口が描かれ、頬には入れ墨。銅鐸の鋳掛け。8号銅鐸には、製作時に出来た「欠け」を補うために、溶かした原料を流し込んだ補修の跡。加茂岩倉銅鐸には、17個にこの鋳掛けが見られるらしい。珍しく墓から出た銅鐸。しかも、出雲青木遺跡。銅鐸の上部の飾り部分(飾り耳)のみが出た。ここまでの、この島根県で1番大きな博物館の表示に違和感を持った。「全ての」青銅器遺物の説明に「紀元前2-1世紀」と表示しているのである。まさかこの「1世紀」が紀元前ということはあり得ない。しかしAD1世紀だとしても、西暦99年だとしても、四隅突出墓が出雲に出てきたのは、青木遺跡を除いて西谷墳墓群の「180年代」からなのである。その間、100年(以上)。昨日の荒神谷遺跡の図録には、埋納時期は「40年ごろ」になっていた。だとしたら空白期間が140年以上もある!「これは埋納時期を確かめなくてはいけない」そう思って、ボランティアで近くに佇んでいる女性に質問した。「この1世紀とは、だいたいどのくらいの年代を想定しているのですか?」私は博物館の醍醐味は、展示物ではない。と思っている。疑問点を質問出来ることである。だから、昨日の弥生の森博物館に行く前に、西谷墳墓群の最新の本を読んでたくさんの質問を用意して臨んだ。今日の午前のメインは宝物館のつもりだったから、何回も来ている歴史博物館は20分くらいで済ますつもりだったのですが、結果的に1時間半は居た。とても充実した博物館体験になった。ただし、大きな博物館なので、専門的な質問には簡単には答えてくれない。案の定、彼女は電話で問い合わせをした。すると、なかなか私の質問の意図もわからない事もあって、ちぐはぐな答が帰ってきた。「紀元前50年ぐらい」というあり得ない答さえ、最初出てくる。それには、「あり得ないでしょ」と強く言うと、長い間待って学芸員の方がやって来た。「いつ頃埋納されたかははっきりはわからないのですが、後期に入らない弥生時代中期後葉、つまりAD25-75年ぐらいと考えています(荒神谷遺跡の考えとは私達は年代観が違うということを言外に匂わせていた)荒神谷遺跡の40年埋納は、不確かです。この頃全ての青銅器が同時に埋納されています。少なくとも2世紀になることはありません。山陰以外では2世紀になることもあるようです」私達は西谷墳墓のジオラマのある部屋で話していた。私はさらに聞く。「だとするとですよ、この表にあるように、広島や小さな青木遺跡は別として、出雲地域では、青銅器祭祀を止めて100年から150年ぐらい、西谷墳墓の祭もない空白の期間があることになりませんか?」「実際にその間に出雲でほとんど四隅突出墓が作られていない。100年以上どのような祭りをしていたかは、謎になっています」認めた。これを明らかにすることが、謎がいっぱいの弥生時代後期を解明するカギになるかもしれない。序でに、弥生の森博物館や埋蔵文化財センターで疑問に思ったことをぶつけてみた。「矢野遺跡や山持遺跡で出てきた特殊器台の土器をしっかり見たのですが、吉備にあるそれと比べると、雑に作っているように思えるし、不確かだけど模様も違うように思える。あの特殊器台の型はいつの時代のモノなんですか?胎土は吉備ということで、作って運んで来たという見解なのですが、私はあの遺跡の特殊器台は地元で作ったのではないか、と思っている」「型は全て立坂型です。向木見は一切出ていません。9号では同盟なくしている。2号でも立坂が出ています(4号は聞きそびれた)。雑に作ったのは、やはりよその墓だったからではないか」特殊器台の次の型が一切出ていないのは、意外だった。だとすると、吉備との同盟関係は、鯉喰神社遺跡まで、ということになるのか?とっても短い間ということになる。後半の答には納得していない。他の遺物紹介。県立博物館ということもあり、ここには一番いい遺物が展示されている。中部瀬戸内系土器。in中野美保遺跡。図録によると、1世紀の出土らしい。明らかに、供献儀式の土器である。空白時代の新しい祭は、やがて特殊器台につながる(例えば)王の継承につながり、それを龍の信仰が保証する、吉備の国式の「信仰」だったのではないか。それが100年経って結実したのが、西谷墳墓だったというのは、充分ありうる仮説だと私は思うのである。
2018年06月20日
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5月29日(火)曇 出雲の旅3日目朝食の写真撮るのを忘れた。ホテルを辞して先ず、すぐ近くの大念寺古墳に向かう。小山みたいなのが古墳である。出雲最大の前方後円墳。全長92m。6世紀後半。西谷墳墓群が、大和政権のだまし討ち(ヤマトタケルの出雲討ち)か、国譲り(大国主の判断)に終わったのかは、まだまだ不明ではあるが、少なくとも古墳時代前期には、出雲西部には大王と呼べる権力者は出現しなかった。この大念寺王が西谷墳墓群と関係があったかどうかはここでは言わない、しかし300年ぶりに生まれた王権はここから本格的に始まると見ていいだろう。お寺の裏の墓地の上にある。「日本最古の版築工法」というのは、どうもパンフには書いてはいない。最古ではないと思う。墓地を抜けて古墳にたどり着く。横穴石室の横に説明書があった。これが計測図。ひとつは、黒と茶の土で版築工法で積み上げる高度な土木工法をしていること。現在は草が生えてようわからない。写真を見ると、非常によくわかる。ひとつは県内最大の石室を持っていること。家型石棺も全国最大級。この時代の出雲を代表する王だと見ていい。西谷墳墓群が退場して、約300年後。やっと出雲に王が登場した。なんとか撮影出来た。次に行ったのは、大念寺の次のこの地域の王。上塩冶築山古墳である。どちらも国指定だ。円墳である。被葬者は大念寺の次の首長だと見られている。古墳時代後期、直径46m。どちらも入口近くにカラー4ページの無料パンフを置いていた。この親切。岡山にはない。人物は「馬上の最高首長(復元模型)」。この煌(きら)びやかな副葬品も大きな特徴だ。金銅冠、金銀装円頭太刀、矢筒金具・鉄鏃、玉類・銀環、馬具などだ。もう一つの大きな特徴は、石室だ。石棺の長さが県内最大級。暗くて石棺がどうしても映らなかった。でも羨道だけでも大きさはわかる。実は築山遺跡として、この前の道路には古墳の周りには小さい円墳が7つも見つかった。一つづつは7mから27m。なんと7つとも壊されていたらしい。畠とかにしていたのか。この説明板の向かい側の道路の下に二つもあった。1-4号墳からはアクセサリー、武器、馬具、工具、土器などが取り出されている。もうほとんど高まりはないようだ。道路にかすっただけの円墳も見たが、普通の土地と変わりない。
2018年06月19日
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何もないことは知っていたけど、矢野遺跡の場所に行って見た。出雲ドームの隣らしい。どうやら、現在のサッカー場がそのまま矢野遺跡のようだ。今回車で、ずっと出雲市内を走っているのだが、確かに王の都の「とびすムラ」から車で10分くらいかかるので遠いことは遠い(歩いて1時間?)。でも、一つの国としては充分目が届く範囲だと思う。矢野遺跡からは、多くの特殊器台が、しかも吉備の胎土のそれが出ていることになっている。図録を見ると、それらの土器は2ー3世紀と書いていた。3号墳180年から210年(3号墳の次々王ぐらいまで)ぐらいまでは続けていたという意味か?このあと、出雲歴史博物館の駐車場に停めて出雲大社に赴いた。宝物館を観るためだ。ところが、ギリギリ閉まっていた。残念だ。博物館含めて、明日行くことにする。ついでに、出雲大社に参ってみる。御神籤は、吉凶は付いてない。まあまあ良い結果でした。旅も「よい」らしい。ここを象徴する銅像。大国主尊。近くの原山遺跡に行ってみる。荒神社の中に良好に残っていると聞いた。この辺りは、弥生時代は内海の海岸部だった。よって、見事な砂地だ。ここに前期の配石墓や後期の石棺墓があったらしい。弥生の人たちが出雲に住み着いた遺跡として重要らしい。この裏山に、こんなオブジェがあった。よく見ると、藁で作った「龍」だ。どういう謂れがあるのか。昔の海岸線を幻視する。現在の海岸部より、10数メートル奥まった所に、屏風岩という遺跡がある。国譲り神話の舞台らしい。この記述は少し違和感がある。岩を裏側から見る。木が茂っている。確かに今にも崩れそうだ。大事にして欲しい。奉納山に車で登る。頂上には神社があって、お社の後ろには、本社かもしれない木が祀られていた。岩といい、木といい、出雲は、他の地域よりも多くそういう聖なる場所がある。何故来たか。国引き神話の写真を撮るためである。それはこういう神話である。私のカメラと技術では、こういう写真が限界らしい。薗の長浜が綺麗に見えて、遠く微かに三瓶山が見える。確かに三瓶山は、ひときわ大きい。大山と同等の扱いもわかる気がする。ざっと出雲市を外観。遠く西谷墳墓群も見える気がする。大社町の前の家は例外なく切妻造だ。この統一感はすごいと思う。ここからの夕日は、日本遺産に選ばれているらしい。夕焼けにはまだだったけど、とりあえず撮ってみる。ホテルに戻り、夕食に先ず出雲そば。石臼で挽いているらしい。やはり割子そば。三段の丸い器にそばを盛り、薬味と出汁をかけて食べる。そば実を殻ごと挽いているので、色は濃く、味も濃い。そのあと、何故か名古屋飯の居酒屋で、手羽先とビール。帰って、昨日のワインを飲みほした。今日の出費。荒神谷遺跡図録と観覧料 約2480# 歴史博物館図録4474 昼食1003 出雲そば780# 居酒屋「稲ちゃん」1188 夜食760# 珈琲・ジュース300# #は現金払い
2018年06月18日
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松江の市街地を抜けて国道431号線を西進する。宍道湖が広がる。この写真を撮っていると、埋蔵文化財センターの看板を見つけた。普通のセンターは見学OKのはずだ。行ってみよう!やっぱりOKだった。ここは製鉄遺跡であるタタラ山第一遺跡製鉄炉の説明が充実しているのが一つ。地下構造を見事に解明していた。おそらくこれは江戸時代のタタラ製法。しかし、弥生や奈良時代ではこれは無理だと思うのだけど。古墳時代から平安時代にかけては、吉備とかが中心だったタタラ遺跡が、室町時代にかけて一挙に吉田地区等の斐伊川沿いに出来る図があった。私は西谷墳墓群の力の源は、製鉄の力かと思っていたが、違うと思い出した。やはり交易の力だったのだ。センターのもう一つの目玉は、見つけたかった、そして西谷墳墓群の王の都だろうと言われるムラの1部、山持(ざんもち)遺跡である。しばらく、写真が続く。さて、交流の証として各地域の土器が紹介されていて、吉備の土器もあった。しかし、特徴的なのは、特殊器台こそないけれども、全て祭祀用の大型器台なのである。しかも、おかしいのは、ちゃんとした吉備の模様もあったけど、これらは、私は吉備では見たことがない。また、これも随分雑な気がする。何故、吉備の祭祀が、青木遺跡ではなく、ここでも行われたのか?非常に疑問だ。その他の展示をざっと紹介。明日行く予定の堀部第一遺跡。古浦砂丘遺跡。西川津遺跡の石器。どうやらそこで、分銅型土製品も出ていたらしい。この民間祭祀用具の伝播力は、ホントにすごいと思う。山陰弥生土器の移り変わりを見せる。これは前期。中期。次の中期?後期古屋敷遺跡(太田市)の縄文時代晩期の木棺墓。中国地方で二例しかない珍しいものらしい。縄文時代の配石墓(飯南町貝谷遺跡)。いろいろ質問したかったが、する勇気がなかった。お礼を言って、センターを後にする。またひたすら宍道湖沿いを西進。
2018年06月17日
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荒神谷博物館から9号線に戻る途中で牛を見つけた。波志神社という小さな祠があった。こんなの小さな祠でも玉垣で囲んで、謂れを持つのが出雲という地なのかもしれない。そこから道を隔てた反対側に、明らかに円墳らしき小山があったので行ってみる。ところが、説明板らしき所に至る道がない。なんとかたどり着くと、真っ白だった。頂上に何かあると思ってなんとか登ると、単なる石標があっただけ。そこから、荒神谷のある小山を眺める。帰りに、農家のおっちゃんに円墳の名前を聞いた。小丸小山古墳というらしい。そのあと、9号線をひたすら東進し、432号に右折して、この前行き損ねた出雲国府跡と意宇の杜を探す。風土記の丘入口近くのこの道は、昔の条里制の跡だと聞いた。そこをさらに行くと、真名井神社(風土記に載っているらしい)がある。さらに行くと、国分寺跡があった。この門跡の前に昔の古道が残っている。天平古道だ。それがまっすぐ建物と結ばれている。これが昔の想定図。近くに意宇(おう)の杜がある。やっと見つけた。説明板を読んで欲しい。そうか、タブの木というのか。すごい。すごい。1300年間守ってきたのか!そこから見る神奈備山である茶臼山。大和政権は、遂には出雲大社の辺りに国府を作ることはできなかった。まだまだ反対勢力がいたのだろう。だからこそ、あれだけ反抗心に富んだ出雲風土記が書かれたのだ。それだけの力が西谷墳墓群の勢力にあったのだ、と私は思う。この辺りに作ったのは、やはりいち早くヤマトに付くことを決めた安来の場所から近いからだろうか?9号線に戻り、松江だんだん道路で松江市街に入り、朝酌川沿いの西川津遺跡等の弥生遺跡跡を目指す。だいたいこの川沿いがずっと発掘されたのはわかるのだが、記念碑みたいなのは一時間ほどうろちょろしても見つけられなかった。後で見つけた、西川津ムラ発掘の写真。なんか疲れた。昼食にしよう。岡山にはない、ビッグボーイというファーストレストランにする。定食は、1000円ほどで、サラダバーとカレーとメインとスープがつく。メインの写真も撮ったけど汚いので割愛。ガッツリ食べた。ホントはこのあと、鹿島の弥生遺跡に行くつもりだったけど、月曜日休みなので明日にした。島根県は、何故か定休日が月曜日と火曜日に分かれている。
2018年06月16日
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出雲の旅2日目 5月28日(月)晴れ雨の予報だったのに、どうやら避けていってくれたみたいだ。ホテルの朝食バイキング。郷土の名物が出るので、嬉しい。お粥にこの塩をかけたら、それだけでも何杯でも食べれそうだった。シジミも、昨日の酒飲み胃に良く効く。結果、ガッツリ食べた。先ずは、荒神谷博物館に来た。あまり展示物はなかった。縄文の展示から始まっている。平田遺跡の説明。吉備から始まったと言われる弥生時代の土偶、分銅型土製品出た!民間祭祀だと思うのだけど、ものすごい伝播力。暫く展示品をみてください。蛇行剣というものを初めて知りました。こんなのだったらしい。レプリカ。これはホンモノ。荒神谷遺跡が遺跡になったのは、一片の土器を拾ったから。らしいこんなのもあった。実際の発掘現場に赴く。その近くからハス畑と博物館を臨む。加茂岩倉遺跡は、隔絶した山の中だったが、ここは、狭いけど人が住める。特別な人が住む、隠れ宿だったのか。発掘現場は2度目。やはり、レプリカとはいえ、こんなにいっぺんに出ると頭が真っ白になるだろう。荒神谷遺跡の謎は今だにそのままだ。青銅器祭祀をやめたのか?それとも一時保管していて忘れ去られたのか(まさかね)。それとも、事件が起きたのか?来てみて思うのは、この地域のみの青銅器ではない、ということだ。出雲だけではなく、吉備や近畿、北九州を含めて、様々な地域の青銅器を埋めたということはないのか?それだと数が少なすぎるか?しかし未だに他の地域から荒神谷遺跡と同じ遺物が出て来ていないのがおかしい。いろんな角度から撮ってみる。図録によれば、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の大量の青銅器埋納時期は、西暦40年ごろということになっている(1日後に少し修正)。それから180年の西谷3号墳までの140年間に、出雲で何があったのか?あまりにも長い時間だという気がする。この元田んぼのあぜ道で古墳時代の土師器を拾わなければ、荒神谷の名前はつかなかった。遺跡調査もしなかった。ということで記念碑が建てられている。しかしそれを見つけた「1調査員」の名前は最後まで何処にも明らかにされていなかった。その潔さには、良い印象を持った。ハスは大賀博士が発見した古代の二千年ハスであるとまだ花は咲かない。鷺が休んでいた。もう一つの公園は、よくある住居が復元されている。「戦いの砦」というものがあったので来たのだが、それは人気がなかったのか、廃絶していた。つまらない。国指定になって、お金がもらえるので作っただけなのが見え見え。やはり妻木晩田や弥生の森みたいなマンパワーが必要だ。
2018年06月15日
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さて、一番見たかった出雲の森博物館を鑑賞した後、回れるだけ出雲を回ってみる。いろいろ迷って西谷9号墳にだとりつく。9号墳は神社の下にある。上の写真のこのわずかな高まりが、どうやら四隅らしい。神社の名前は、三谷神社。西谷9号墳とだけ書いていて、一切の説明がないところに、この特異な遺跡のジレンマがある気がした。そのあと、正月で見ること叶わなかった出雲文化伝承館を見る。たいしたことはなかった。これは、出雲屋敷(旧江角邸)。明治29年に建てられた豪農の家。造りは三間造りというものらしい。そのあと、島根ワイナリーでワインとつまみを買って、青木遺跡を探索。職員は、案内板があるといったのになかった。仕方ないので、土に上がって、西谷墳墓群がこのムラから見ることができるかだけ確かめた。かなり、小さいが、遠くの川裾の小山は確かに見ることができる。あの小山に、弥生時代では異様な白く輝く巨大な墓があれば、確かに精神の拠り所となったかもしれない。普段の生活から見えない所が、王の居住地のはずがない。という渡辺氏の主張は、その通りだと思う。しかし、少し遠い。あそこ以外に候補はなかったのか?遠いからこそ、突然巨大な墓になったのか?(2日後、青木遺跡の場所がわかって、この土手はかなり北にずれていたことが判明)今は川があるが、斐伊川は他の地域に流れていた。だとすると、この河川敷の下には、王の都があるのではないか?出雲駅隣のホテルに戻る。すみません、普通の旅ブログだと宿と食事の写真は慎重に写すものなのですが、私の関心は違うのでかなりおざなりです。夕食に出かける。居酒屋「いずも」突き出し。イチオシメニューの鰆のバジルソース焼き。鰆がこんなにジューシーとは知らなかった。葡萄神話のグラスワイン(島根ワインのデイリーワイン)を頼んで、島根和牛のサイコロステーキを食べた。二つのソースがとってもうまかった。特に塩をつけると、旨味がその下から浮き出て、よかった。ワインともあった。ホテルに戻り、買ってきた、もう一回り高級な島根ワインである「えんむすび」(確か1400円だったと思う)と「のどぐろ入りポテトチップ」を食べる。味の濃いチップという感じ。買ってきたスモークタンもかぶりつきながら、食した。明日の夜に飲み尽くしたい。「葡萄神話」よりも確かに美味しかったのではあるが、できるだけ郷土のワインも試したいとという願いは叶ったたが、やはりディリーワインではなくて少なくとも3000円台の本格ワインを試すべきだったと後で思う。勇気がなかった。今日の出費。高速代1260 博物館図録3754# 島根ワイナリー2350 珈琲・ジュース680# 居酒屋2138 #は現金払い他にはホテル代13620 ガソリン代4000
2018年06月13日
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さて、今回の旅の1番のメインといっていい、弥生の森博物館に入る。エントランスに、岡山の歴史愛好家復元の特殊器台が置いていた(2017年9月贈呈)。なんと、西谷3号墳から出土した土器を元に復元製作したらしい。岡山に展示している復元展示品よりも丁寧に作られている印象があった。しかし、それでも色ムラはあり、模様も雑。立坂型というのはわかったので、参考になったが、現代の技術でもやはりこの出来というのが、やはり昔の技術はすごかったということの証拠にもなっている。館の学芸員職員の考えは、当時も胎土だけ持って来て現地作製ではない。と云う。しかし、なんと運ぶ途中で次々と特殊器台は壊れていっただろう。というのが見解だった。ところが、現代の複製品もやはり車で運ぶ途中、少し割れたらしい(!!!)。昔のこれが割れなかったはずがない。どうやったのか?西谷3号墳だけにしかない、ガラス勾玉である。女王のために作られた。形が独特。ものすごく綺麗だった。ホンモノ。展示室に入ると、巨大な3号墳のレプリカが迎える。兵士が欠伸をしたり、かなり笑いをとろうとしている。当時は走るとき、手と足を同時に出す「ナンバ走り」というのをしていたらしい。果たして実用的だったのか?西谷3号墳は「18×年に作られた」と書いていた。2世紀後半としか「出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」(渡辺貞幸 新泉社)にはなかったので、この情報は「決定ですか?」と職員に聞いたら「そう考えています」とのことだった。ちなみに、2号墳は190年ごろでもおかしくはなく、9号墳は240年ごろという見解だった。3号墳の上にあった土器群。山陰の土器。200個以上あった。模様がいかにも山陰。吉備の土器は、全て権力移譲のための祭祀のために必要な特殊器台含む祭祀土器だった。越(北陸地方)の土器は、全て山陰で作られている。越の人たちが亡命していたというのが最も分かり易い説明だろう。本にはなかった、男王ともう1人の主体の位置関係が展示されていた。小さい主体は「子供?」と書かれていた。子供の上に黒い大きな玉を置いたことになっている。それならば、あの玉は子供のために後で置かれたものだということになるだろう。レプリカでは刺青を施している。山陰、吉備、越と、服装の色や形も変えているようだ。しかし、もちろん確定事実ではない。色は便宜上みたいだ。この書き方だと、男王と子供は同時に葬られたことになる。その辺りは、本にも書いてなかった。聞けばよかった。男王の宝。女王の宝。3号墳や2号墳に使われた特殊器台をじっくりと見る。立坂型である。ここの土器は、確かに吉備の職人が作ったものだと私も思う。しかし、びっくりしたのは、矢野遺跡からもこの地方では唯一特殊器台が出ているのであるが、明らかに立坂型とは模様も違い、なんとなく雑なのである。これは矢野遺跡で作られたものである、と見た方が良いのではないか?しかし、胎土はなんと吉備の土だという。職員は、「特殊器台は全て運んで来たでしょう。出雲で作成は、手間がかかりすぎる。もちろん割れたとは思う。それを見越しての数を持ってきた」という見解だった。出雲で作られた模倣品の展示まであった。この後、初めて見ることになった9号墳の土器。最後の出雲王の築造の模様。どうして発掘しないのか?職員に聞いて見た。土地所有者が上に神社を建てているのが一つ。発掘は破壊なので、9号墳の重要性(弥生時代の終わり、出雲の国譲りの秘密が解明されるかもしれない)はわかるが、今後の科学の発達に期待したいとのことだった。例えば、スキャンだけで中身が見えるとか、等々を言っていた。まあ、それもそうだとは思った。出雲王のいたムラは何処か?この展示では、「よつがね」ムラ(矢野遺跡)や「なかの」ムラと書いている。となると、渡辺氏の「とびす」ムラ(青木・山持遺跡)だという見解は、つい最近ということみたいだ。他の展示物は以上の通り。収蔵室にも展示物があった。これは矢野遺跡の大型壺。弥生時代中期、天神遺跡の壺。甑形土器。(古墳時代前期、下古志遺跡)くりぬき井戸枠の説明明治の汽車土瓶。弥生の森博物館から見る、青木遺跡辺り。
2018年06月12日
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出雲の旅1日目 5月27日(日)晴れ1年半前の正月に出雲を旅した。4泊5日の豪勢な旅だったが、正月だったこともあって、多くの考古学博物館を諦めなくてはならなかった。いつかはリベンジしなくてはならない。その想いを抱き続けて今回、やっと本懐を遂げる。朝、山陽高速から尾道JCTで山陰に向かう。木次インターで降りる。知らなかったが、福山西からここまでの高速が無料区間だった。確かに日曜日なのに、車の数は少ない。生活道路ではあるのだが、得をした気分。先ずは近くの八岐大蛇公園に行ってみる。説明板がなかったので、謂れがよくわからなかったのだが、いかにも八岐大蛇が棲みそうな川だと思った。斐伊(ひい)川の恵みを一身に受けて、おそらくこれから見ていく四隅突出墓を発展させた弥生後期の出雲王政権は登場する。私の旅は、吉備と同盟していたこの出雲王の正体を突き止める旅になるはずだ。消防車が来て、放水の確認か、訓練かをしていた。そのあと、国道314号線を登る。「印瀬の壺神(つぼがん)まで2キロ」という標識を見て左折、行けども行けどもそれらしき標識がないので疑っていると、やっと「印瀬の壺神まで800m」という標識が。久しぶりにヘビイチゴを見かけた。食べてみた。甘い。甘いものに飢えていた昔の人は喜んだと思う。急な坂が参道である。壺があると思っていたら、石の蓋やその他の石。騙されたかな、と思ったが、説明書をよく読むと、祟りを恐れて厳重に石をかぶせ、さらに玉垣で周りを巡らせて封印したらしい。この石の下に、いったいいつの時代の壺があるのか、ないのか。まあ、知らぬが仏というところなのだろう。神社そのものは小さい。ここの神社のしめ縄はこんな形。近くを流れる小川の土の色が鉄色に錆びている。確かにこの地域が鉄の産地だったことの明かしなのだろう。ホントに山の奥にある神社なのである。アザミが咲いていた。八岐大蛇が棲んでいたと言われる、天が淵は314号沿いにある。山の奥にある。早々に退散する。昼食は、木次でインド料理ランチ。790円。東京の安いインド料理ランチと比べても100円安がった。ナンが美味しかった。微妙に東京とは味が違う。
2018年06月11日
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さて、昼前になった。急いで今日の大目的。東京三大考古博物館巡りである。両国から蔵前へ。蔵前から西馬込まで浅草線で。そこに着くまで40分はかかるかとおもいきや、30分以内だった。駅前にあったお地蔵様。何処で食べれるかわからないから、ここで昼食。昨日と同じカレーセット。同じ内容。でも、昨日は1000円。こちらは850円。深川と西馬込では物価が違うようだ。前回月曜日を避けて来た時は、展示替でお休みだった。まさか年始から展示替はないだろうと思いきや、甘かった。思わず「あり得ない!」と大声で叫んだ。前回は気がつかなかったが、事務所に人はいるのだ。図録だけでも買わせて欲しい。と折衝して、買わせて貰った。3冊も。一挙に荷物が重くなる。バスで大森駅まで行く。その近くに、日本考古学発祥地大森貝塚があり、品川歴史館があるからである。ちょっと大げさなレプリカをつくって、遺跡公園になっていた。ここは私は20年ほど前に来たことがある。こんなに大げさな公園だったかな、と思う。ともかくデジタルカメラで初めて記録するという意義があるだろう。大森貝塚の説明書があった。これはこれから行く博物館の方が詳しいだろうと思い、真剣に撮らなかったが、そうではなかった。少し歩いて品川歴史館に着く。おお、新しくなっていた。期待が膨らむ。品川の歴史全体を扱っているので、大森貝塚の扱いは小さい。それは二階に特別コーナーがあるはずなので理解する。他の縄文時代貝塚の展示。驚いたことに、ここの縄文人はカマドを持っていたのである。聞いたことないけど、事実なのだろう。縄文土器。大森貝塚。5つの大きな遺跡が近くにあったようだ。弥生土器も少し出ているようだ。二階の図書室に隣接したモースコーナーを見てがっかりする。以前よりも展示が減っている。土器は全てレプリカだ。発掘当時の模型があるのが面白かったが、とてもがっかりした。なんのための新館なのか。事務所の若い職員に「前はモースの発掘した土器がもっと展示されていたと思う」というと、「少なくともこの五年間は展示替えはしていないです」「この前来たのは10数年前です」「それは仕方ないですね」「あの土器群は何処に行ったのでしょうか?」「収蔵庫の中でしょ」とさらっという。「それはあまりにも勿体無くはないですか」と嫌味を言ったが「このおっちゃん何を熱くなってんだ」という顔だった。「私はこのために岡山から来たんだ」と言いたかったが、ぐっと飲み込んだ。とてもがっかりした。図録を一冊買った。そこから、大森北側の、まさしく迷路のような道を分けて行き、尾崎士郎記念館に行く。大震災に焼け出された当時の文士が西馬込から品川に住んで文士村と言われた。その代表者の1人。ここは、何度か文士村を行ったり来たりした後、晩年の10年持ち家として住んだ処。この辺りは震災でも戦災でも大丈夫だったのだろう。大森駅から田町駅にいき、そこで港区立港資料館を探す。ここからは東京タワーが見える。見つかった。ところが、である。またもや閉館中。そんなにも人に見せたくはないなか。「がっかりしました」と嫌味をいいながら、本を一冊だけ買う。事務所の若いお兄ちゃんには、この悔しさは通じていなかっただろう。5時まで新幹線に乗れるかなと思っていたぐらいなのだが、現在3時。本来は時間的に行けないと思っていた通販でよく買う六本木ワインショップで食事をすることにした。田町の三田駅から大井町へ、そこから六本木へ。ペペロンチーノスパゲティと、チリワインの白でシャルドネ。ワイン専門店だけあって380円(時間サービス)だけど、いいワインを提供。料理も満足美味しかった。東京駅。17時10分発の新幹線に乗る。自由席だけど最初から座れた。ビールで最後の晩餐。鴎外荘で貰ったビンゴ景品お菓子の詰め合わせが、最後まで活きた。腹に入れて少し荷物容量も減らせた。6日間の東京ぶらぶら旅はよく歩いたと思う。万歩計がないのでわからないが、毎日平均すると20キロはいっていたのではないか。これであと、東京舞台の小説を読む楽しみができた。キチンと計算していないが、旅費総額は、一万円ぶん以上買った図録代も合わせて15万円前後だと思う。結果的に外国旅行(台湾、韓国)よりも高くついた。しかし時間は有効に使えた。道を聞くのもスムースだった。それなりに満足する。日本を再発見する旅だった。
2018年02月05日
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1月4日(木)晴れ 最終日昨日は何故か興奮して4時ごろまで眠れなかった。起きたのは7時半。急いで朝食。もう雑煮はない。ここは、各地の郷土食が売り。江戸前天ぷらは食べれなかったので、ここで食べたことにする。まあまあ。佃煮は、やはりいろいろある。おちせは四品あった。ゴボウも、おせちに入れるのか?やはり伊達巻は欠かせないらしい。岡山にもあるが、必須アイテムとは私は思わない。結局豪華になった。法華ホテルの朝食は、なかなか良いと思う。本当は今日から開いている考古学博物館のために三つ厳選してそこだけ回る予定だったが、昨日回りきれなかった両国周辺を朝早く回ることにする。果たしてどうなるか。蔵前から両国へ電車。北斎通りを歩いて、北斎誕生地へ。そこは、2016年開館したばかりのすみだ北斎美術館があった。北斎は生涯で何十回も引越しを繰り返したが、その出発点は両国だった。職人が多く、文化人も多い賑やかな町だった。美術館は後で行くことにして、昨日の吉良邸のそばにあるはずの小林一茶旧居跡を目指す。北斎誕生地の前に詳しい地図があったので行く気になった。ところが、なかなか見つからない。こんな看板。五鉄に集った平蔵や元盗人たちの顔を思い浮かべる。そして知りたかったこんな看板は見つけれた。型川。ここから、遠く富士山が見えたのか?信じられない。しかし、絵は見事としか言いようがない。中田茶屋も由緒あるらしい。ついでにここでお土産茶をふたつ買う。そこで教えて貰った。堅川の北斎画やお茶屋の真向かいに小林一茶旧居跡の説明書があった。周りにいろんな文化人が住み着く。江戸時代からここは文化の揺籃地だった。野見宿禰神社に行く。この正月、横綱や親方はこの神社に参っただろうか。参っていないからあんなごたごたが起きているのではないか。ちょっと迷いながら、河竹黙阿弥終焉の地の看板を見る。本の地図は当てにならない。迷って明治最初期の「怪談牡丹灯籠」などの噺、名人円朝旧居跡を見る。公園になっていて、そこからスカイツリーが見える。すみだ北斎美術館にやっと着く。なかなか斬新な建物。常設展だけを観た。凄い絵が置いていると思いきや、見張り?の女性に聞くと常設展は全部レプリカらしい。全く残念。すみません。これだけは写真に撮らせてもらいました。晩年の北斎と、それを見守る娘のお栄である。そのあと江戸博物館北の東京都慰霊堂に行く。大正11年(1922)の関東大震災の折に大きな犠牲を出した焼死者の霊を供養し、東京復興を記念するために建てたらしい。その後、東京大空襲の遺骨も安置することになった。破風の屋根にコンクリート造り。関東大震災遭難死者58000人の遺骨を納め、東京大空襲の受難者の遺骨も合わせて、現在163000体の遺骨が安置されているという。東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑。この花壇の模様は、都内の学生から毎年募集してその都度春夏秋冬デザインが変わるという。このあと、私は結果的にこの日1番の見応えのある博物館に出会うことになる。東京都復興記念館。言うなれば防災センター第一号。昭和6年建設。館内には、震災および戦災の記念遺品や当時の状況を伝える絵画などが堂々と展示されていて、初めて観る絵も多く、圧倒された。これは1929年(昭和4年)の(大震災からの)大東京復興模型。埋立地や下町のほとんどがまだ復興半ばであることがわかる。関東大震災時の写真も多くあり、圧倒された。これは皇居前広場の避難群衆。広場には約30万人が避難したと言われている。写真を三枚重ねて貴重な資料になっているが、ネガは戦災で失われたので、これが唯一の写真となった。今にも火が押し寄せる写真。これから燃えてくる日比谷交差点。大震災で下町は全滅している。この6日間で歩いた地域に関して言うと、根津谷中千駄木上野以外は全て赤く塗られて全焼したということがわかる。わずかに残っていた古い家は、奇跡的に残ったか、戦後すぐに建てた復興途中の東京都。竹久夢二の絵があまりにも悲しい。思わず買ってしまった。のちに詳しく読書レビューを書きます。ここからは東京大空襲。詳細に焼けた処が調べられている。とても興味深い「博物館」だった。
2018年02月04日
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次に間宮林蔵の墓を探す。来た道を随分戻る。見落としていたというわけだ。見ると随分立派な墓である。どうやら、業績が評価されて海軍とかの偉いさんによって墓が新しく作られたみたいだ。「史蹟指定 間宮林蔵の墓」東京府大正14年とある。亀久橋を渡り、冬木、深川に入る。清澄通りの写真の辺りが小津安二郎誕生地とはわかっているが、尿意がたまらなくその場を離れる。結局、深川七福神巡りのひとつ心行寺で貸してもらう。門前仲町に入り、深川東京モダン館に着く。開いていた。これも実は遺蹟。旧東京市深川食堂である。昭和7年竣工。大震災後なので鉄筋コンクリート二階建て。大空襲に耐えた。現在は観光案内所。ベイキャメルという昭和初期のコーヒーを100円で提供されていた。もちろん飲んだ。香りが強い。こんな玩具も置いてあった。傘を回すと人形が動く仕組み。この建物は窓枠に特徴がある。近くに伊能忠敬住居跡がある。その近くに「渋沢栄一宅跡」がある。現在は巨大なビルが建っている。そこから川を隔てた向こう側の公園に維新重要人物の学習塾跡があった。佐久間象山砲術塾跡である。ここから歩いて1時間ほどの勝海舟も学んだらしい。門下に吉田松陰、坂本龍馬、加藤弘之などがいる。そこからまっすぐ永代通りを20分ほど歩く。歩道に屋台が出て凄い人出でなかなか歩けない。深川不動堂を通り過ぎると少し空く。でも思ったよりは多い。富岡八幡宮でした。とりあえず、怖いもの見たさで来た。その後仕方なく、ワープして両国前の回向院で。つまり、タクシーを使った。1610円。相撲関係の石碑があったり、犬猫供養をしていて、この倍する供養板?が供えられてあったりした。1番はここにもあった鼠小僧次郎吉の墓である。少しでもお金にあやかりたくてこの墓を削って行く人が絶えないので、代わりの石を前に用意しているほどである。学生3人が一生懸命削っていた両国前は、芥川龍之介が産まれたところだ。両国小学校前には、文学碑がある。そこから少し行った両国公園には、勝海舟誕生地の石碑がある。最近になって、あかあかと電気をつけて、勝海舟の一生をも展示している。吉良邸は、更に観光地化していた。公園が丸ごと邸跡になっていた。説明書。ここで真っ暗。今日の遺蹟巡りは終わった。まだ行足りない処はある。明日朝に行けるかどうか。とりあえず夕食。ワイン屋に入る。日本ワイン葡萄貴族の白と美湯豚の白ワイングリルを頼む。まずくはないが、立飲みワイン酒場と書いてあったのだ、安いと思い入ったが、これで1912円だった。両国の喫茶店で日記を書いた後に、大江戸線で蔵前まで戻り、ホテル近くの中国料理店「楽宴」に入る。ビールと棒棒鶏、ピータン豆腐、キュウリとサザエの和物。これで980円は安い!量も多かったが、サザエなどは明らかに安物だけど、味付けは本格、すごく美味しくは無いが、正しく現地の味だった。すると、シェフ2人とウエイトレスの3人がバリバリ中国語で私語していた。今回東京を旅をして思ったのは、歌舞伎町だけでは無い、東京至る所が無国籍になりつつある。今日昼のカレー屋さんも従業員は全員インド人かネパール人だった。これは愛国者が嘆いて不当な圧力をかけても仕方ない。むしろその力をキチンと活かす方向で政策を持つべきだろう。具体的には難民申請や就労ビザをもっと簡単にとれるものにする。とかである。いつも日記を仕上げる途中で寝て仕舞って、この数日は寝不足なのだけど、今日は今日のうちになんとか仕上げることができた。ホテルの日記書きは、鴎外荘のビンゴで貰ったお菓子詰め合わせがとても役に立った。明日は朝早くから頑張れそうだ。
2018年02月03日
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南千住から上野。乗り継いで秋葉原、乗り換えて亀戸駅に着く。迷ったが、そこから亀戸、大島と歩いてその辺りで小林一茶旧居跡を探すが見つからず。こんな戦後すぐ建てたみたいな古い家はあった。住吉、猿江と歩き、小名木川クローバーを渡り、川沿いに歩くと、スポーツ会館横に刀工左行秀作刀旧跡というのがあった。江戸の名刀工らしい。その説明文でやっとジョン万次郎旧跡がわかった。北砂小学校の玄関脇に説明書がある。この辺りは武家屋敷があったらしい。船で登城したのだろうか。そこから清須橋通りの方に行くと、東京大空襲戦災資料センターがある。予想通り、今日は休日だった。しかし、玄関脇のオブジェが大空襲の様子をよく見せている。この辺りは東京でも特に空襲がひどかったらしい。道路もよく区画されマンションも多い。焼け野原の影響かもしれない。川南公園の由来と滑り台を載せる。説明文を読むと、大正政府の震災復興計画は真面目なものだったと思う。しかも、この滑り台。とても素晴らしい意匠が施されている。昭和の職人たちは優秀だったのだ。北砂、南砂、千石と歩いて、とても腹が空いているので気がつくと、もう一時を過ぎていた。昨日立てた予定がまだ始まってさえいない。でも背に腹は替えられず、そこにあったカレー屋さんで昼食。ちょうどテレビでは青学大が駅伝総合優勝を決めた所だった。ナンをお代わりする。木場公園を通って平野へ。清澄公園内に何かあるはず、と行きかけると、江戸深川資料館が開いているのに気がつく。それならば入らないといけない。玄関前では、貸してくれるのか羽根つきをしていた。結果、ここで得た資料のおかげでその後の遺蹟巡りが格段とスピードアップした。ここは、住民設定の情景展示をしている。長屋には猫まで居る。実助(まめすけ)という名らしい。1859年に実際その猫が万徳院に葬られている。干鰯魚〆粕・魚油問屋「多田屋」である。大店なので、正月の門松は、8mの笹(竹)と松、杉を利用している。ともかく、「依り代」なのである。繰り返すが、西日本ではこれはほとんどない。八百屋の「八百新」。大根、人参が置かれて、端に漬物樽が置かれている。船宿「相模屋」の中に入ってみる。タンス、縁起棚、長火鉢がある。酒と一膳が付いて、これからしっぽりいい女と船遊びをするのだろうか。船宿の前には猪木船が浮いている。これは船頭は1人、江戸の足として使われた。天ぷらの屋台。「昔のファーストフードだね」とボランティアが説明している。長屋のひとつ。コタツが使われている。長屋には共同ゴミ箱がある。中を見ると、瓦や器の欠けたものが入っていた。隣は共同便所。以上の説明は、深川資料館の展示解説書に多くを依った。500円と安い。その他面白い記事がたくさんある。買いである。もうひとつ、買いだったのが、「ゆこうあるこうこうとう文化財マップ」(500円)。これに依って、行きたい場所のほぼ正確な場所がわかった。今まで探していた遺蹟は全て亀戸駅前の観光マップを手元の地図に落としたいい加減なものだった。これからのも持ってきた本を参考にしようとしていたが、かなりいい加減。たいへん助かった。先ずは、滝沢馬琴誕生地を探す。いきなり無い。お店に聞くと、現在工事中で消えているとのこと。やはり正確だったのだ。よって場所は写真の甘味どころ伊勢屋の北隣である。
2018年02月02日
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1月3日(水)晴れビジネスホテルだけど、豪華なバイキング。郷土の料理を揃えている。佃煮3種。こんぶはわかる。モツや魚まで佃煮とは知らなかった。お雑煮。やはり角餅(焼いていない)、大根、三つ葉、人参有り。すまし汁。それにお芋等。おせちを一通り揃えてくれていた。栗きんとんもあった。紅白蒲鉾以外には、伊達巻も関東の定番のようである。結局なんやかんやで、朝からガッツリ。朝、予定を変えて南千住に行くことにした。日比谷線降りてすぐの小塚原回向院に、この記念碑がある。此処が、解体新書が出来るキッカケになった小塚原刑場である。また、知らなかったがいろんな人の墓があった。開明派でなおかつ幕府が、生き残る道を模索し、処刑されなければ日本の違った道も有り得たかもしれない橋本左内の墓(遺骸は移されている)がこんな処にあった。同じく、維新の傑物、吉田松陰もいた。彼の死は、反対に維新を回天させた。頼三樹三郎もその隣にいた。面白いのは、刑場に消えたという共通点があるのか、鼠小僧の墓があった。それと並んで、高橋お伝とこの何か腕に覚えが有りそうな墓が並んでいた。これだけで小説ひとつ出来そうだ。そうから歩いて浄閑寺に向かう。路地が細く、少し不規則。こういう場所は、庶民が一挙に家を建てたのではないか?浄閑寺の前は碁盤目になっている。ここは昔は田んぼだったのではないか?投げ込み寺浄閑寺の説明書。首洗い井戸。ちょっと悲しい話。庶民はこのような悲しい話が大好き。それでこんな像まで寄せている。此処にきたのは、永井荷風文学碑があり、なおかつ彼の散歩コースだったから。この文学碑並びにゆかりの品の由来は、以上にある通り。以上ゆかりの品。遊女たちの無縁仏はこれである。JR南千住駅に戻る。すると、芭蕉の矢立はじめの像があった。これを写した直後、カメラが固まる。なんとか、治したがもう限界か。
2018年01月31日
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お昼は女将推薦の御徒町の井泉(とんかつを作った店らしい)を目指したら、なんとお休み。仕方ないので、他を探す。美味しそうな店は全部行列だ。なんとか、牛タン定食にありつく。ホテルに戻って預かってもらっていた荷物を持って、隣の上野の山に。国立博物館は今日から開いている。岩崎邸の設計士コンドルの設計。ここは、原則写真OK。しばらくご覧ください。すっかり暗くなった。春は桜で綺麗な上野をそれなりに飾っている。浅草に着く。夕食はめんどくさいので、何回か来た神谷バーにした。電気ブラン、赤ワイン、煮込み、串カツ、タコスモークサラダを頼む。全部て2350円。カードが使えない。ここで、「神谷バーは相席になるので、人とお話しするのが楽しみなの」という御婦人と少し話す。彼女は神奈川。毎年浅草にお参りに来ているらしい。多い人出を避けてこの時間帯に来ているのは、やはりベテランなのか。昨日見たように、正月お昼の浅草寺は、DJポリスも出動するくらいの人出で、長く長く並ばなくてはお参り出来ないのである。迷って、最後のお宿へ。綺麗な宿だった。
2018年01月30日
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水月ホテルの女将の案内で、谷中七福神巡りに出た。東京最古の七福神らしい。時は天涯和尚の指定というから、江戸時代初期であろう。250年前という説もある。1番最初だけ車で送ってくれる。谷中といいながら、此処は田端である。そのあとは徒歩。8000歩という。この歩きだけでも面白い。1.東覚寺神様:福禄寿(ふくろくじゅ)住所:〒114-0014 東京都北区田端2-7−3此処には赤紙仁王様もいる。220円で、赤紙二つと線香を買ってお供えする。自分の悪い所に貼るとそこが治るらしい。便秘気味なのでお腹に貼る。2.青雲寺神様:恵比寿(えびす)住所:〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3-6異常に人が多かった。3.修性院神様:布袋尊(ほていそん)住所:〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3-7-1巨大な布袋様に驚き!谷中駅前通りを歩いて行く。4.長安寺神様:寿老人(じゅろうじん)住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5-2-22此処には、狩野芳崖の墓があった。狩野芳崖展を観たとき、その雄大な絵にびっくりした。当時を代表する画家のはずなのに、墓はなんとも小さい。そして夫婦墓だ。次に行く途中、幸田露伴「五重塔」のモデルとなった塔跡が見える。急いでいたので素通りした。5.天王寺神様:毘沙門天(びしゃもんてん)住所:〒110-0001 東京都台東区谷中7-14-8戦いの神様らしい。平安時代の作と書いてあった。6.護国院神様:大黒天(だいこくてん)住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園10-18此処に来る途中、「どうして谷中や根津に古い家が多く残っているのか?戦災にあわなかったのか」と女将さんに聞いた。「それは東大があったからよ」上野動物園があったから、というような説は今は一蹴されているらしい。「米軍は勝てると思っていたから、終わる前から、東大をそのまま接収することを希望していたのよ。研究内容をごっそり頂こうという話。だから、その周辺は空襲対象にならなかったの」びっくりであり、納得する話だった。「なんとも、自分勝手な国ですね」「ホントに!」7.寛永寺神様:弁才天(べんざいてん)住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園2-1弁天堂である。10時半から始まって、廻り終えるのに、4時間近くかかった。朝偶然隣り合わせになった豊田市から来た御婦人(毎年来て七福神巡りをしているらしい)と客は2人きり。贅沢な企画だった。
2018年01月29日
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年末年始東京旅の後半を開始します。 1月2日(火)晴れ朝食もいろいろと豪華でした。お雑煮は、すまし汁で焼いたまるもち、蒲鉾、トリ、大根、人参、三つ葉。丸餅はシェフが京都だかららしい。隣の人は愛知県豊田市から来て、やはりすまし汁、角餅、白菜、蒲鉾らしい。このご婦人は、偶然朝のホテル企画「谷中七福神めぐり」に行く予定らしい。「参加者が私1人だと聞いていたので嬉しいわ」「そんなことないでしょ。直前になれば、人が増えますよ」と私は返したけど、結局参加者2人だった。ホテル企画の七福神巡りまで、まだ2時間ほどあったので、ホテルで手に入れた「文学旅行 舞姫・雁」から、雁の主人公の友人「岡田」の散歩道をなぞることにした。小説の男は東大近くから散歩に出かけるが、私は水月ホテルを出て、不忍池沿いを歩く。不忍池沿いは、駅伝発祥地らしい。多くのランナーが走っていた。弁天堂を蓮池から臨む。カモメ目線で、弁天堂を臨む。なぜカモメがいるのか。江戸上野はつまりは、臨海都市なのである。「岡田」はそのあと仲町通りを通る。古本屋を冷やかすのが日課だったからだ。この辺りは、古い家を改築して店に流用している所が多い。その方が古民家をきちんと保存できる。何故、こんなに古民家が多いのか。戦災に合わなかったのか?その理由を後で聞くことになる。湯島天神の前を通る「新派」碑由来。このすき焼き「江知勝」は、明治四年創業、漱石も贔屓していた「牛鍋」があるらしい。そのあと瑞祥院の中がコースになっているので入ってみる。抜けられなかった。でも春日局の墓があった。ちゃんと葵の紋が付いている。穴四方と台石に穴が空く、とっても珍しい墓。「死してのちも天下の政道を見守りたい。黄泉から見通せる墓を作って欲しい」とあう遺言からこうなったらしい。春日局、今の政道を見るとどう思うのか。瑞祥院の通り抜けは出来なかった。そのそばの道も行き止まりだった。結局東大の横の道を抜けることになった。 竜岡門を右にまがる。「岡田」は上条辺りに下宿していることになっている。この白雲荘の辺りか。東大鉄門を右に曲がる。そこは無縁坂である。右が旧岩崎邸。左のマンション辺りが、「雁」のヒロインお玉さんが住んでいた所である。どうやら彼女にはモデルがいたらしく、左のマンションが出来る時には、反対運動が起きたらしい。私は「坂」という以上は、「上って」不忍池にたどり着くのだとずっと思っていた。このコースは下り坂だった。大きくイメージが変わった。「雁」には次のようなくだりがある。「(岩崎邸の)石垣の上の所に、雑木が生えたいほど生えていて、育ちたいほど育っているのか、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに刈られることがなかった」塀があるのに、どうして根まで見えるのか、かなり不思議だけど、行って見てなるほどと思った。ちゃんと塀まで盛り土がされていて、本当に根が見えるのである。序でに岩崎邸に行ってみる。明治29年、岩崎弥太郎長男、三菱三代目社長の久弥の本邸として建てられた。ジョサイア・コンドルの設計。彼は明治10年日本に西欧式建築様式を教えるために来日。弟子に東京駅の辰野金吾などがいる。鹿鳴館や上野博物館なども設計。その彼による洋館はジャコビアン様式。邸内細部にジャコビアン様式の意匠を見ることが出来る。一階婦人室。洋館は主に客室用で、いろんな人物が此処にやってきたわけだ。その隣に、撞球室(ビリヤード場)が建てられている。なんと洋館と地下で結ばれている。どうしてビリヤードなのか?生活の場は洋館と続きの和室だったらしい。無縁坂を降り切って不忍池にたどり着く。ここから、スカイツリーが思いがけず近くに見える。水月ホテルに戻る。暗くて見えなかったホテル内に保存されている森鴎外邸を見る。ドイツ帰国後結婚して、登志子の実家の持ち家に1年半住んでそこで「舞姫」を書いた。中は、大広間や客室ばかり。庭を眺める渡り廊下は、明治の建築だと思う。舞姫事件が勃発したからなのか、森鴎外は登志子と離婚して、昨日の今は鴎外記念館になっている観潮楼に引っ越す。言うなれば、此処は「舞姫の家」なのである。ホテルで囲むように遺されているので、上から眺めることが出来る。一階建てである。しかし後で女将に聞くと、2階が生活の場であったらしい。どうして消えたのかは不明である。
2018年01月28日
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谷中を歩き疲れたので、浅草までワープ。JR鶯谷駅から秋葉原、乗り換えて浅草橋、乗り換えて浅草。そこを出ると、元旦雷門前がすごいことになって居た。車を封鎖して、DJポリスが出動、長い列が出来て居た。日本人は諦めて長いこと並ぶだろうけど、外国人は気の毒だ。昼食はいろんな所が行列だったので、閑散としている洋食屋「ワイン館」に入ってみる。980円、ドリンク付きのランチ。正解だった。サラダとオリーブ付きのフランスパン。量も味もグッド。牛ステーキも、柔らかくは無かったが、旨味たっぷり、ソースも美味しかった。それでもうひとつランチを頼んだ。チキンのなんちゃら。とても柔らかかった。2時前に浅草演劇ホールに着く。正月の落語は全て顔見せ興行である。20年前の冬休み、私は二回ほど通った。正にその時以来だ。あの頃も小朝が2部のトリをとっていた覚えがある。四部構成。このホールは入れ替えをしない。だから、朝から夜までずっと見ることができる。もっともそんなことをしている人は、あまりいない。あの当時は2500円だった。今は3000円である。「すみません。今は立ち見になるんです」「いいよ、どうせ小朝が終われば席が空くんでしょ」「なんとも言えませんが」いいよ、いいよ。勝手知ったる寄席だ。では、見た順番に評価を◯△でつける。・柳家小満。年寄り。泥棒もの。オチはヤカン。△・林家あずみ。たい平の1番弟子。女の子。◯・三遊亭金馬。登場から拍手がわく。顔が売れている噺家が出るとそうなるのである。噺家始めて77年目らしい。オオと会場がどよめいた。すこぶる元気。◯・林家木久蔵。元木久蔵の息子。それが持ちネタらしい。後はミサイルネタをする。20年前は、元木久蔵つまり木久扇の噺を聞いた。芸風はしっかりそのまま。父親は第一部のトリだった。昔は中頃だったと思う。△・ストレート松浦。手品師。「今年はね、私はちゃんとやりますよ」の一言で大いに受ける。実際、全然ちゃんとやらなかった。◯・春風亭小朝。第ニ部トリ。倦怠期の夫婦の話。キレが無い。△・桂扇生。オチは「かわいやかわいや」本格を短くまとめたけど面白くない△・三遊亭歌橘(かきつ)。「美肌王子です」で大いに受ける。初めて見たけど、忘れられない顔。◯・三遊亭金時。オチは「お前はお父さんの子じゃないんだよ」。わかっているオチだけど、面白い。◯・林家二楽。紙切り。今日作ったのは、羽根つき、ツルとカメ、パンダ。おひねりとビールを貰った。◯・橘屋圓太郎。寄席とは何かと外国人に聞かれ「今にも壊れそうな小屋で」を6-7回繰り返す。なぜか大受け。◯・蜃気楼龍玉。「縁起担ぎでなんでも当たりをつけるといいよ、と御隠居に知恵つけられて、スルメをあたりめというのはいいとして、スリッパを当たりっぱといったり、ちょっと面白い。◯・柳亭市馬。相撲甚句で終わり。△・のだゆき。ぞうさんの芸ひとつで時間の関係か、直ぐに降りた△・林家志ん橋。「初日の出」と言って頭を見せる。「名前はしんばしじゃない、しんきょうです」と掴みは良かったが、与太郎モノの話はイマイチ。△・林家種平。本来は林家三平の出番だったが、(おそらく遅れたのだろう)急遽順番を変えて出た。ネタは、短い小話だけ「母ちゃん、パンツ破けたよ」「またかい」。林家一門がすると、どうしてこんなにおもろいんだろ。◯・林家たけ平。種平と同じく小話。でも、全然面白くない。△・青空一風千風。女2人組漫才。あっという間に終わる△・鈴々舎馬風。△・昭和こいる。漫才の相棒が今入院中らしい。△・古今亭菊丸。「初七日」◯・橘屋半蔵。円蔵(元円鏡)の弟子。小話。切れが無い。△・林家ペー。最初1人で出てきたからどうしたのかな、と思ったら途中でパー子が出て来てひたすら高い声で客席を写していた。むちゃくちゃなんだけど、どうしてこんなに面白いのか。◯・春風亭一之輔。本格噺。◯・林家三平。正蔵の弟。笑点の話題で終始した。兄よりテンポが早い。でも洗練されてはない。◯・立花屋橘之助。◯・林家正蔵。第3部トリ。やはり面白い。最近はストーリーがある。それに20年前三平として見たのと違い落ち着きがある。でも最高!◯・入船亭扇蔵。△・柳家三語楼。内輪話。△・すず風にゃん子、金魚。女漫才。振り切った芸風。ゴリラとしてバナナを食べる。◯・入船亭扇好。△ここで、休憩。2時前から5時半まで、約4時間愉しませて貰った。さて、帰ろう。銀座線で上野で降りて、不忍池の弁天堂に寄る。芸能の神様でもあるのか、今さっき観た正蔵も提灯を寄進していた。7時前に、ホテルに着いた。部屋は思ったよりは狭かった。水月ホテルの料理は、京懐石だった。シェフは大河原実氏で、東京のなんかの賞をとっているらしい。贅沢な料理が出るとは思っていたが、まさか京懐石とは。鴎外ワイン(ドイツの辛口の白)を注文。前菜は、上から柚子豆腐、汲み上げ湯葉、数の子松前漬け。それをお重みたいな箱を分解すると、このように出てくる。ハッタリをかます。それが京懐石の特徴なのだと思う。お腕は芸術のようだった。霙仕立て道明寺織野菜 柚子口。凝っていてなおかつ上品。お造りは、旬の魚5種。芽もの彩彩、土佐醤油で。大根薄切りで鶴をあしらっている。煮物は海老芋含め煮と帆立旨煮、竹の子、生麩、蕗、木の芽。薄味だけど、甘みと旨味がある。和牛すき煮。白菜、水菜、長葱、エノキ、焼き豆腐、白滝、生麩も一緒に。これは平凡。和肉と言っても赤身だから。サーモンのホイル焼き。伊勢海老根津焼き、温野菜。何処が根津焼きなんだろ鯛めしと香の物と赤出汁。デザートは、なんと西瓜。何故今?「びっくりでしょ。どちらにせよ、初物ですから」そりゃそうだ。そのあと、場所を変えて新春コンサート&ビンゴ大会をしていたので参加。和洋折中のコンサート。「異邦人」やジブリの曲があんなにも「合う」なんて、新鮮な発見。ビンゴ大会では、みごとに商品をゲッツ!福袋を取ったら、なんとお菓子盛り合わせだった。それだけではなく、ジャンケンで鴎外荘のクオカードもゲッツしてしまった。今年の運を使い尽くした?
2018年01月10日
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元旦(月)晴れ明けましておめでとうございます!6時50分。見事な晴れ。ホテルの朝食。流石に正月バージョンになっている。紅白の蒲鉾、卵蒲鉾?、そして昨日の味噌汁は簡単な雑煮に。大根と人参と三つ葉のすまし汁、そして小さな角餅。これが東京下町の雑煮なのかもしれない。こういうタイプは食べたことがなかったので、とても新鮮。部屋にもどると、初日の出はすんでいたが、高層ビルで太陽は見えず。でも本当に日本晴だ。これが2日泊まったホテル。次のホテルに午前中に荷物を預けに、根津で降りる。そこから根津を少し歩くと、ここでもやはり松の門松変形があった。もはや、柳田の言うように、正月は家の主人が若水を汲んで若木を神様に供える、それを忠実に実践しているのは。もはや西日本ではなくて、少なくとも東京なのかもしれない。ホテルは水月ホテル鴎外荘である。この旅で唯一私贅沢な所に泊まる。決めては、幾つか正月企画をしているのと、此処が森鴎外旧居をそのまま遺していること。荷物を預けた後に、根津千駄木谷中をぐるりと回って浅草を目指す。この辺りは戦災に遭ってないので古い建物が多く、しかも東向島のようではなくて生活に余裕があるのか見て取れる。弥生町に入る。東大工学部隣。「弥生式土器発掘ゆかりの地」。ここは、弥生時代を研究する者にとって聖地である。何故、縄文時代の後が弥生時代だったのか。それは、優しい時代だったからではない。弥生町から発掘されたからである。正式には此処は向ヶ岡弥生町と言ったらしい。何故弥生町と言ったのかは、この説明書を読んで初めてわかった。遺跡を探すとやはりあった。弥生時代後期後半の方形周溝墓が見つかっていたらしい。残された土地があるので、見に行く。弥生二丁目遺跡。此処が弥生時代発祥地と思うとドキドキする。弥生二丁目16には、サトウハチロー(1903ー1973)旧居跡もあった。彼は1937年からなくなるまで此処に住んでいたらしい。この形の屋根は珍しい。お化け階段を降りて根津神社に辿り着く。此処は正月境内で蚤の市をしていた。こういう境内は極めて珍しいと思う。本殿前のこの行列。根津神社は重要文化財である。宝永3年(1706)建立。神社を出て左に曲がり、日本医大前を間違って左に曲がると、森鴎外「青年」の散歩道が続いていた。東大農学部前の道が本郷へ続いている。途中で間違いに気づき、まっすぐずっと帰ると、日本医大同窓会館前に夏目漱石旧居跡があった。漱石がイギリスから帰ってすぐ、西片町に移るまでの約4年間(明治36-39)、此処に住んで「我輩は猫である」「坊ちゃん」などをものにした。森鴎外も1年余り住んでいたらしい。ここは、今でこそ開けているが、やはり町の中だったと思う。しかし、明らかに高台であり、向島に住んでいた堀辰雄や幸田露伴とは、また違っていた。旧居は自らを「猫の家」と呼んでいたらしい。猫の像が居た。そのせいか、此処で2匹も道路を闊歩する野良猫を見た。初メジロを見つける。駒込千駄木町の名前由来を初めて知る。歩き通して言問通りに出る。玉林寺千代の富士の銅像があった。亡くなった去年の作ではなくて、数年前の建立らしい。言問通りを更に歩くと、旧吉田屋酒屋。下町風俗資料館。しかし今日はお休み。
2018年01月09日
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