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漫才にはボケとツッコミがある。何故あるか?ボケだけだと終わらないのだ。ツッコミは制止力でもある。SとMがいる。何故いるのか?Sだけだとケンカになる。Mだけだと進展がない。M嬢と話していて、そういう事に気づいた。何故なら、M嬢とMオヤジ(ワシ)では果てが無い。止めてくれるツッコミ(S)がいないのだ。M嬢は美女だがボケ専門だった。ワシは生まれつきのボケ専門だった。何の進展も無く、ボケの、やり取りだけが続く・・・。我々は何処から来たのか?そして何処へ行くのだろう?嬢とオッサンは「存在の哲学」を意識していた。
2006/08/31
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「先生、あまりに若いので別人かと思ったわ」「Mさん、本当は20代だろ?」「先生こそ本当は30代でしょ?」「Mさん、実は10代だったりして?」「先生も20代じゃない?」「Mさん、高校生でも通るよ」「先生、学生さんみたい」「Mさん、中学生でいけるかも」「先生、少年のよう」「Mさん、幼女のあどけなさ」「先生は子供の純粋さね」「Mさん、赤ちゃんの笑顔だ」お、おい!誰か止めろよ!しかし、嬢とオッサンは同じタイプだったのだ。Mの特性・・・。果てしなく、空しい会話は続いた・・・。赤ちゃんより若くさかのぼるには・・・・・・前世かぁ?
2006/08/30
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M嬢・・・30代と偽ったなぁ。20代前半のネ~チャンじゃねぇか。ワシは20代のネ~チャンは苦手なのだ。出来る事なら無縁でありたい・・・。だが治療依頼も兼ねてだから仕方ない。しかも、ほっそりとした超美人。ワシと一緒じゃ違和感がある。ワシは美人にゃ強いが、違和感はある。洗練された美人の若ぇネ~チャンとはなぁ・・・。世の中、嘘つきばかりで油断がならぬ。だがM嬢はあくまで30代だと言い張る。身分証明書は見せてくれなかったが・・・。今更、もう、どうでもいい。騙される方が悪いのさ、どうせ・・・。京都のオナゴと付き合った事はない。というか・・・ほとんどのオナゴと付き合った事がない。だから、京都のオナゴの特性だかM嬢の特性だか判らない。ワシへのオミヤに桜香を用意してくれていた。京のオナゴらしい心使いだ。こうなりゃ仮に20代だったとしても許す。洗練された超美人でも許してあげよう。
2006/08/29
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何処かで初めて会う待ち合わせ。多分、お互いに判るだろう、と思っている。今まで判らなかった事はなかった。ワシは余計な想像をしない。だから想像が外れる事もない。嘗てのメールのやり取り。会える機会があれば・・・との話の中。ワシは30代以上のオナゴでなければ嫌だ。と書いたら、M嬢は何とか合格です、と返事した。文面も30代以上の落ち着きがあった。余計な想像はしないが、おおよその見当はつける。35歳くらいの落ち着いた知的美人・・・。今回も人中でお互いが判りあった。だが、ワシは少々とまどったのだ。予想は外れた・・・。予想はよそう・・・。(毎回同じオヤジ駄洒落・・・芸人としては失格だ・・・)
2006/08/28
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天河には新幹線京都駅で近鉄に乗り換える。そうだ!京都にはM嬢がいる!ワシはクライアントに基本的にこちらから連絡をする事はない。だが、ワシの「基本」など砂で即席に作ったものだ。信念だって生き様だって、簡単に覆す事が出来る。フッ、ワシは雲の生まれ変わりだぜ。お互いに携帯番号とメールアドレスは知っている。もう、ワシの事など忘れているかもしれんが・・・。一応、京都に行く事を伝えた。その時点ではワシの予定が不確定だった。会える時間があるかどうかも不明だった。M嬢から返信が来た。「突然降って湧いた幸運に感謝感激です」そんな言葉で返されたら・・・。こりゃ、ヒョウが降ろうがライオンが降ろうが会わねばならぬ。思えば、これがM嬢の特質だったとは気づかなかった。そしてワシも水上なので、Mのオヤジだと気づくべきだった。MとM・・・。嬢とオッサンの運命は如何に?
2006/08/27
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京で深遠なる伝統織物の錦を観る。ワシは天河から続いてマトモな世界にいた。だが・・・ワシのマトモは長くは続かない。ワシの魂はマトモと長く一緒にいる根性が無い。不マジメなら、長く続いてしまうのだがなぁ。その夜はクライアントのM嬢と初めて会う。京のM嬢・・・。もう、そのイニシャルだけで・・・妖しい。ワシは怪しいのや、アヤシイのや、妖しいのは大好きなのだ。特に妖しいのは魅力がある。キッカケは昨年の9月にメールが来たのだ。ワシの拙書「やすら氣・やわら氣・わらいの氣」購入依頼だ。ついでに「氣入れ水晶」も購入していただいた。何度かメールのやり取りをさせていただいた。「氣」については素人ではない立場の人だった。保健氣功中心で、練功を続け、指導もされているようだ。文面からは、知性充分な魅力的なオトナのオナゴを感じた。ワシの知性の基準は、おおらかなユーモアだ。M嬢は優しく、おおらかなユーモアがあふれていた。いつか、機会が訪れたら会いましょう。最後のメールから8ヶ月が過ぎていた。
2006/08/26
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作品を見ればいい。それだけで解る。日本の美だ。そして熟練の技は芸術だと知る。総合工芸は熟練の技の和。そこには単体の熟練の集まりだけじゃない。和が生み出す大きな魅力が加わる。総合芸術は単体芸術とは次元が違う。自然の仕組みに沿っている。錦はキンキラキンの美しさではない。深遠なる美しさなのだ。伝統織物は和で成り立つから深遠になる。和の美が織物世界では「錦」となる。ワシは織物のホンモノに出会えたようだ。ワシはラッキーなオヤジだぜ。
2006/08/25
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光峯氏は「錦」についてお話下さった。織物世界と縁が無かったワシだ。「錦」が日本の絹織物の最高工芸だと知らなかった。錦を飾る・・・。飾るモノなのだ。最高の織物芸術作品なのだ。世界に誇れる日本の美。日本の伝統織物は優れた美を創りあげていた。絹の断面が三角とは知らなかった。その為にプリズムのように色が変化する。その特色を活かした染色技術。その特色を活かした織物技術。金糸、銀糸等の製糸技術。とても多くの工程に熟練の職人がいる。丁寧に多くの時間と「氣」をかけて一つの工程がある。それらが総合されて一本の糸が交わる。一本ずつ「氣」を込めて織られていく。多くの「氣」の塊。それが「錦」となる。
2006/08/24
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清浄なる吉野の奥の天河から下界に戻る。本来が下品の俗物で創られたワシだ。創ったのはグレちゃんだからワシの責任じゃない。だが未だ(不本意ながら)清浄な部分が震えていた。そのままのノリで京都まで来てしまった。龍村師匠の案内で実兄の龍村光峯氏の工房見学させていただいた。伝統織物美術家の光峯氏直接の解説はとても解りやすかった。伝統織物は総合工芸であり、総合美術である。言葉だけでなく作品が教えてくれる。伝統織物は、とても多くの職人達が支えている。しかも、それぞれが名人の域に入って統合された作品だ。今の日本を支える企業の大元の知恵が織物工芸に含まれている。その伝統工芸が絶滅の危機に瀕している。これが、今の日本のまぎれもない現実なのだ。日本の技術社会の未来は日本社会が自ら壊しているのだ。このままでは、日本に明日は無い。無能な政治家と目の前の欲だけを追いかける経営者。未来を創る役目を放棄した専門家達。明日を想像できない人々。感性を培わない教育と社会。伝統には未来を創るヒントが数多く輝いている。輝きを活かすのは、我々一人一人。下品な俗物のワシにも感性はある。多分・・・誰にでもある。それを震わす作品に出会えばいい。ワシは京都でもラッキーだった。
2006/08/23
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天河大弁財天社。滞在時間は僅かだった。だが質の濃さは時間じゃない。深さは一瞬で届くのだ。ここは、そういう場だった。天河は呼ばれて訪れる所。時期(縁)が整うと呼ばれる。その時に訪れれば何かが震える。それぞれの底にある何かが震える。常に震わす何かがある場なのだ。震えた(共鳴した)何かは目覚める。多分・・・目覚める・・・だろう。目覚めない事も往々にしてある・・・だろう。そんな事ぁ、アヤフヤなのだ。目覚めは自動じゃない。それぞれがキッカケ(震え)を活かすかどうかだ。ワシは・・・どうなる?そんな事ぁ・・・わからねぇ。だが、天河に来て、嬉しかった。何かが震えたのは確かだ。ラッキーだ。
2006/08/22
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大銀杏から神殿に向かう。丁度、朝礼拝を行う前だった。我々龍村セミナー一同は能舞台上を許された。一般参賀者は胡床から。柿坂宮司が祝詞を上げる。お話をして下さる。龍村先生が呼ばれ、階段中からアサナ。一般参賀者も一緒だ。このような「おおらかさ」は天河神社の特徴だ。「おおらか」でなければ神様は降りない。畏れと敬愛と感謝の上での「おおらかさ」だ。それぞれ、いろいろな部分を学んだろう。ワシは「おおらか」と「楽」に神を観た。深いからこそ精妙な「場」がある。その「場」の依代(よりしろ)に社が建つ。 社に引き寄せられた者達は深い部分を震わせられる。そして、変わる。神と人との合一の「場」ホンモノを守る社は少ないだろうな。
2006/08/21
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天河の大銀杏はワシの「氣」なぞ必要でなかった。当たり前だ。だが何も無いわけじゃない。何も無いわけがない。「氣」には応えてくれる。巨木は優しいのだ。気づくレベル(層)よりも深いモノ。感じないレベルのモノ。強いていえば・・・勘。いつ気づくかわからない。だが、未来に気づくだろう。そういう深い層からの何か。妙なる何か。ワシは受け取った。微にして妙なる部分が震えた。微妙はワシの仕事上の部分だ。不安定な勘じゃないぜ。何が変わるか。何が起こるか。とても愉しみにしている。
2006/08/20
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二年前。ワシは九州の宗像神社にいた。本宮の裏の巨木に呼び止められた。何故か、する事は解っていた。触れて、「氣の交流」だ。ワシに澱んで浄化しきれなかったモノ。それが一瞬でスッと消えた。同時に巨木もワシからの「氣」を喜ぶ。何故だか知らない。時には「いいかげんの氣」も必要なのだろう。ワシはヒーリングの深い意味に気づいた。「分かち合い」がヒーリングの本筋なのだ。お互いが同時に支えあう時がある。お互いが同時に必要だったと気づく時がある。お互いが同時に回復(回帰)する行いがある。天河の大銀杏に2年前を重ねていた。予想は外れた。予想はよそう。
2006/08/19
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天河65代目の柿坂宮司。夜中12時過ぎまで丁寧に講義をして下さった。一人一人の感想や質問は皆と共有となる。シェアリングは一人で多人数分の学びとなる。共有体験後のシェアリングは大きな効果なのだ。翌早朝は和子先生の瞑想法があった。だがワシは参加せず、一人で大銀杏に行った。大銀杏と「氣の交流」がしたかったのだ。誰もいない時、静かに、そっと。巨木とは「氣の交流」が行いやすいのだ。樹は「氣」の塊なのかもしれんなぁ。大銀杏は天然記念物だ。空海の手植といわれている雌雄同体の特殊銀杏だ。根元を囲っている柵がある。裏側から(ちょっと失礼させてもらう)。巨木なので表側からはワシは見えない。そして、両手を広げて抱きついた。
2006/08/18
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例大祭の夜、柿坂宮司が講義をして下さった。忙しいだろうに・・・。7年前の柿坂宮司の言葉を思い出す。「神様が相手ですから・・・」「神様」は特定ではない。我々一人一人の内なる神だ。我々は自覚できないでいる。少なくてもワシは自覚できてない。ワシの中の神様を自覚できない。だが、宮司はその神様に出会う。だから手を抜けないのだと言う。一人一人の感想や質問に丁寧に応える。言葉ではない。その、姿なのだ。その、生き方なのだ。ワシは宮司様としての惟神(随神・かんながら)を観る。ワシとしての惟神は・・・もっと、ナマケモノに近い・・・。
2006/08/17
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ホンモノの神社には濃い「氣」がある。大元に働きかける「氣」がある。日本人としての大元を震わす「氣」がある。天河弁財天社ではその影響が大きいようだ。ここで何かが目覚める人は多い。「日本人でよかった」「日本に生まれて嬉しい」今回もそういう感想が幾人からも出た。ワシのような無能力者でも触発された。日本人としての血を震わされたのだ。ワシはこの歳になって初めて邦楽の深さに触れたと思った。もちろん、深さといっても判らないままだ。だが「とても深い」とは感じたのだ。洋楽器に比べ、単調だと思っていたのが逆転した。和唄の底知れぬ深さを感じたのだ。日本は・・・深いモノを秘めている・・・。
2006/08/16
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五十鈴は二つで一つとなるようだ。三つの鈴が三角の形をしている鈴だ。それを二つ合わせると六亡星に似る。宇宙の形とかいう人もいるが、宇宙の形を見た人はいない。だが、一つの完成された形ではあるようだ。原氏はイザナギとイザナミとした。二つ合わさり、何かが生まれる。合わさった波動は何かの扉を開く。遥か宇宙の共通した波動と共鳴する。そして・・・何かが起こる。二つ合わさったモノ。それを神とした。それを「キミ」と表現した。君が代(神の世界)の意味はここにある。完成された二つが合わさったモノ。君が代は千代に八千代に・・・。(神の世界は時と空間が無限であり、過去と未来が・・・)当たり前で深い意味があったのだ。
2006/08/15
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講義で幾つか染みた事がある。天河神社の象徴として五十鈴(いすず)がある。神話の神代鈴と同じモノといわれている。その神器を振ることに魅せられた人がいた。あまりに見事な鈴振りに講義をお願いしたのだ。髭顔の原氏は臨時講師を快く引き受けて下さった。「あれは振っているのではなく、振らされているのです」振る、より、震るに近いのかもしれない。震えてしまうようだ。そして、その波動は全身に波及するようだ。「つい、腰も振ってしまいます」「顔はにやけてしまいます」この神器は、嬉しい、楽(愉)しい、気持ちいいモノなのだ。身体が自然に振れる。それは舞の元でもある。楽器の元でもある。神は楽しい場所に降りて来る。こんな、当たり前が今まで判らなかったのだ。神は嬉しい場所に降りて来る。神は気持ちいい場所に降りて来る。
2006/08/14
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午後からは能(慶祝能)。「通小町」という。ワシは能の面白さがわからない。眠くなる・・・。人間国宝さんに申し訳ない・・・。(観世流 片山九郎右衛門)ところが右隣の和子先生が言った。「今日の能は素晴らしい迫力だわ」ワシには迫力がわからない。和子先生は龍村家で子供の頃から能を習わされたという。そして、駐米して日本の伝統芸能を紹介する仕事をしていた。能、歌舞伎、文楽等をアメリカに紹介したのは和子先生なのだ。後でわかったことがある。人間国宝さんが体調不良で舞台に立てなくなった。息子さん(だと思う)が急遽代役をした。人間国宝の代役だ。その為、とても「氣」を込めて演じていたらしい。誰も知らない事だった。和子先生の感想は凄いとしかいいようがない。
2006/08/13
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10時からは例大祭だ。天河神社の多くの年間行事祭りでも一番大きな祭りとなる。上下白服に着替え神殿へ。祝詞、玉串奉納などの神事。そして、昨夜とは違う神楽。11時からは護摩壇が作られた境内で護摩法要。採燈大護摩厳修という。山伏姿の修験者達が大勢で行う。本山修験宗 聖護院門跡の方々だ。これが、また見事な護摩だった。結界を張った護摩壇から、東南西北に破魔矢?を打ち込む。そして護摩壇にも打ち込む。更に大鉈で東南西北に結界を張る。真言や般若心経などを唱え、火入れをする。破邪の剣で護摩壇を浄化する。最初、護摩壇の下から煙が這う。それが特殊撮影のように広がるのだ。何かに操られているような煙だった。そして火。後から、近年最高の護摩だったと聞かされた。
2006/08/12
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呼吸法で体と意識を整え、朝の境内清掃行。おそらく、いつでも綺麗に清掃してあるのだろう。ほとんどゴミも枯れ草や落ち葉もない。清掃は祓いの一つなのだ。ワシは役の行者(役小角)が祀られている祠付近を清掃した。ここでは役の行者は「南無神変大菩薩」とされている。天河はこの超特殊能力者によって開かれたのだ。そうでなくても、ワシは役の行者に魅かれている。だが、山伏の修行はまっぴらだ・・・。特に組織の山伏は・・・何だかなぁ・・・。本来は、たった一人でするものじゃないのかなぁ?山の自然に自分を投げ入れ、そして溶け込む過程で学ぶ。自然(理)を学ぶ(気づく)。自然は生命。自然は神。そして、慈しみ。祖の役の行者は、その行いで示した。たぶん・・・組織なんざぁ作りたくもなかった。自然に融ければ、自由になってしまう。社会に参加したのも、個人的にしたかったからだ。自由(自立)になれば、共生に目覚める。組織は自立を邪魔しちまうぜ。
2006/08/11
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神楽の次は長唄「鶴亀」そして奉納音楽。今回はバイオリニストの吉田美里嬢。どこか異国の香りがする美女だった。その後は参集殿にてシェアリング。各自の感想などを分かち合う。第1日目なのに、もう充分受け取っている。この半日だけで、ここまで来た価値が余りある。それは参加者のほとんどが感じた事のようだ。翌朝は天然記念物の雌雄同体の大銀杏に集合。ヨガアサナと気功法を兼ねた呼吸法をする。この大銀杏は空海(弘法大師)の手植といわれている。1200年を超える雌雄同体の巨木は人に応える術を持っている。素直な人の意識に、葉や実や音で感応してくれる。(役の行者と空海の差は100年くらいかも・・・)雌雄同体は聖地のシンボルの一つだ。世界各地の聖地には必ずあるといわれている。ダラムサラのノルブリンカでのチベット仏教曼荼羅図を思い出す。御神体は男女神交合図だ。これが宇宙の姿であり、神の姿であり、仏の境地でもある。それに感応する場所が「聖地」となる。
2006/08/10
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ワシには解る。神楽を舞う少女の動作の意味が。宝剣を半分抜いて、目の前にかざす意味が。その宝剣が何故あれほど磨かれているのか。奉げる相手が神だと知れば、動作の意味は解ける。宝剣は守護であり、破邪である。だから守護の舞があり、破邪の舞があった。そして神に奉げる感謝と畏れの舞であった。神楽は多くの事を表現し、教えてくれた。ワシはここで神楽を観る事に感謝したぜ。舞の全て理解できるわけではない。だが、一つ解ければ幾つか解ける。芯が解ければ、方向は解る。解れば舞は面白い。神楽は、とても面白い。
2006/08/09
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神楽を舞う少女。手に持つ飾り刀は宝剣だ。神楽は神様に楽しんでいただく行い。それが「芸能」の元となる。楽しんでいただくが、そこには畏れがある。尊びがあり、感謝があり、嬉しさがある。そして、人間技ではどうしようもない願いもある。それらを表現したものが、舞であり唄であり音楽である。それらは、全て神楽だった。宝剣は神に奉げ、そして通路をいただくモノだった。宝剣は神の(一部の)「氣」と通じて、初めて役に立つ。当たり前なのだが・・・知らなかった。守護も破邪も人間の「氣」だけでは役にたたない。ワシは神社の在り方を観たように思った。神社の役目(の一つ)を教えていただいた。鍛冶職の御先祖様達が、何故神職と同じ姿なのかも。今までは神楽を見ても気づかなかった。一人の少女の舞が、大きな意味を教えてくれた。
2006/08/08
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ワシはアホだし、オマケに忘れるのが得意だ。だから、深刻な病い人と向き合っていける。アホを自覚しているから、「わからん」から出発できる。難病・奇病・重病などの深い病は固定概念が邪魔なのだ。だが「わからん」だけでは前に進めない。そこで便利なグッズがある。「冥想」というヤツだ。解らない事は冥想へアクセス。すると、それほど時間はかからず教えてもらえる。ただし・・・読み取る「氣づき」が必要だ。冥想なんて難しくない。(注:眼を瞑る瞑想と混同しないでね)素直に「何?」と問えばいい。問うモノに扉は開かれるように出来ている。この世の仕組みを創ったグレちゃんは優しいのだ。そこで、ワシは宝剣の使い方を問うた。その答えが・・・・天河での神楽だったのだ。金曜日の夜は三条のホテルに泊まった。そこで、宝剣の使い方を問うた。土曜日の朝に群馬に戻った。そして日曜日の夜に天河で答えを示された。ワシはラッキーだぜ。
2006/08/07
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三条のワシの祖先については「水晶」の雑記を読んでくれ。ワシは御先祖様達の御蔭で今日がある。嬉しいし、感謝している。その地にやっと来れた。この先も、何度も来れると思う。通路が繋がったのだ。御先祖様達は「宝剣」を創る鍛冶職だった。守護の剣・破邪の剣。結界を張り、浄化の「場」をつくる。一打一打に真剣な「氣」を込める。ワシの「氣入れ」は御先祖様からの得意技だ。守護も破邪も「浄化の氣」だ。病(闇)からの解放も同じ方法だ。ワシは三条の御先祖様から呼ばれたと思った。宝剣創りの方法は解った。だが、その後の宝剣の使い方がイマイチだった。家宝として、大事に飾っておくのか?
2006/08/06
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奈良の天河に来る2日前だ。新潟の知人から電話があった。(当然、魅力的なオナゴである)「体調悪い。今日来て下さい」「夕方からなら行ける」というわけで、新幹線で燕三条に降りる。知人といっても会うのは3度目だ。だが昔から知っている・・・ようだ。約2000年前くらいから・・・と思う。忘れん坊のワシだが、説明できない勘は働く。(もっと現実的に働けばいいのに・・・)実は、三条はワシの母方のルーツだ。ワシが今の仕事(能力)なのも、ここからなのだ。だから、いつか機会があったら行こうと思っていた。それが、向こうから依頼として呼んでくれた。ラッキーだぜ。ワシはここ一年前から、ラッキーが続いているのだ。
2006/08/05
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異例の正式参拝が終り、夕食後は宵宮祭神事だ。龍村セミナー一行用に二列目に席が用意されている。胡床(折りたたみ椅子)に「ガイアシンフォニーネット」と名前がある。大勢の来賓が招かれている中でも、かなり優遇されているのだ。何故か、って?これも柿坂宮司様の意向(直観)だ。神様は非常識だから、中臣も非常識なのだ・・・。天河大弁才天神宮に縁のある神職者。講や修験道関係者。その他の(多分)エライ人達。それぞれ玉串の奉納儀式をした。我々からは当然、龍村先生と和子先生が呼ばれた。龍村先生が御神体の前に進み出た時、我々も起立。そして、階段下から一緒に二拝二拍一礼。宵闇の中、祭壇の反対側にある能舞台に向きを変える。神楽が始まった。最初、少女が飾り短刀を持って舞う。そこで、ワシは一つの意味を知る事になる。
2006/08/04
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岩戸を少し開いて、外を覗く。その瞬間、バカ力のアメノタジカラオノカミが岩戸を開く。アマテラスの光明は・・・オナゴの裸に負けた・・・。とてもエライ神様だって裸にゃ負けるのだ。人間の理性など、オナゴの裸に負けるのは当然だ。久米仙人が雲から落ちるのは当たり前だ。神話は真理を語っている・・・。だが、神様事は常識外れだ。常識は人間だけのモノ。神様は常識外れの存在だ。だから意味を紐解く者は、いいかげんでないと無理かも・・・。その場に居合わした我々は、神話の光景を感じた。ならば・・・何かが開く「場」に出会った事になる。とても大きく深い何かと出会うかもしれない。今後、また、変われる。ラッキーだぜ。とても、ラッキーだぜ。翌日の例大祭の夜に柿坂宮司様の講義があった。過去に能舞台でベリーダンスはあったらしい。(それもかなり異例なんだろうなぁ・・・)だが、祭壇上の御神体の前は初めてだ。我々は特殊な天河でも、異例だらけの出来事の中にいた。
2006/08/03
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超古代の舞。アマテラスが機嫌を悪くして隠れた時。天の岩戸事件だ。アマテラスが隠れると、この世は闇だ。神々(人々)は出るように策謀をめぐらす・・・。岩戸の前に岩舞台を作る。カガリで照明。踊り子さんは、アメノウズメノミコト。半裸(ほぼ全裸)で腰を振りながら、嬉しそうに踊る。ストリップの原型ともいわれている。当然、ヤンヤの喝采。皆、好きなのだ。生命の謳歌事が嫌いなら、生きている価値がない。皆、愉しんでいた。当時は、今より、ずっと素直だ。アマテラスはその喝采が不思議だった。「私がいなくても、皆は嬉しいのか?」
2006/08/02
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ワシの認識だ。神様は性と聖の区別をしない。だから、性(聖)の事柄は大好きだ。神様の前で腰を振るのは喜ぶと思う。奉納の舞は、だいたいそんなものだ。ワシの認識はそれほど間違っていなかった。だが、皆がワシのようにいいかげんではない。キチンと常識がある。とまどった人達もいるだろう。まして、階段下には一般参賀者がいるのだ。腰振り舞は、結構イロッぽい。ラッキーだぜ。もう一度「ひふみ祝詞」を唱えながら、手拍子をする。宮司様は太鼓を叩く。それに合わせて、女性は舞い始めた。それは、次第に、超古代の舞に観えた。その場にいた、誰もが、同じように感じたらしい。
2006/08/01
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