全31件 (31件中 1-31件目)
1
人間は時代を経るから進歩するわけじゃない。むしろ退化しているようにさえ観える。退化しているわけでもないのだが・・・。見た目だけは時代を経ると変わる。この世の仕組みはヒネクレている。グレちゃん(創造主)がオチャメだからだ。余分なモノが無いほど豊かになれる。そういう仕組みで出来ている。心の豊かさ。心に余分なモノが無いほど豊かになる。見た目が豊かになると・・・心や精神は貧しくなる。何も無かった時代は、心を意識しなくても豊かだった。人間は時代を経て、見た目が進歩した。だから心の豊かさを意識して暮らす事が必要になる。心から余計なモノを捨てる意思が必要になった。そうでないと、心は苦しみを増すようだ。裸に戻る風呂の意味は大きいかも。
2007/03/31
コメント(0)
当時は気候ももっと温暖だった。植物繊維の布を一枚まとっているだけだ。それで充分暮らせた。昼の仕事で汗を出す。同じく昼のうちに河川で身体を洗う。心身をさっぱりと清めて昼の部が終わる。夕方からは焚き火を囲んでディナーパーティだ。毎日、部落全員でディナーパーティだ。歌と踊りと語らいの食事だ。皆で楽しく食べれば、何倍も美味しくなる事を知っていた。現代より、ず~と智慧を活かした暮らしだった。現代より、ず~と豊かな暮らしだった。お金や財産を貯めるという概念は無かった。何でも皆で協力し、分け合えばいい。分け合う方が、ず~と豊かに暮らせると知っていた。毎日、水で余計なモノを清めていたのだ。心身の澱は溜まらない。残るのは、大らかな心と明るい心。楽しみと愉しみが生きる意味だと知っていた。
2007/03/30
コメント(0)
古代の風呂。温泉は別として、お湯風呂は無かった。身体を洗うなら川か雨。当時の身体は生命力に溢れていた。だから身体は常に熱かった。お湯でなくてもいいのだ。お湯で無い方が楽だった。雨水も今と違って綺麗な水だ。河川は超綺麗な水だ。水に触る、浸かるだけで充分だった。現代人のような油(脂)まみれの身体じゃない。表面のホコリだけだ。水で簡単に綺麗になれる。環境と人の身体は同じだ。身体が綺麗になるのは環境を汚す事じゃない。当時のホコリは汚れではないからだ。
2007/03/29
コメント(0)
ワシはオトコの裸に興味があるタイプではない。(まどろっこしい書き方だが、生理的に好きじゃない)オトコの同性愛を否定はしないが、生理的に受け付けない。TVなどの、その気を売りモノするオトコもあまり・・・。人それぞれだから否定はしないが、近寄りたくない。だが風呂はオトコだけしかいない。オトコの裸がウジャウジャしている。おまけに毛深いから、本当にウジャウジャしている。ワシはケムシなどのウジャウジャも苦手なのだ。風呂施設はワシのとって楽園ではないのだ。それでも慣れるもんだなぁ。それにつれ、ワシの仕事目が開く。依頼されてないのだから、あまり観察はしない。でも観えてしまう事が度々ある。アブナイ状態の人、準アブナイ状態の人も多いぞ。サウナ室などで、霊障タイプがいると息苦しい。ワシは霊障に強いので、ウットウしい。でも、余計なマネはしないぞ。ワシは目立たぬように、淡々と風呂にいる。
2007/03/28
コメント(2)
御婦人達の風呂場内。「どうどうとしてるわよぉ」前を隠す人は少ないらしい。サウナ室なども・・・どうどう・・・。オトコの方がシャイなのか。一応オトコどもはタオルをかけている。オトコは服(見栄)が無いと意気地無しが多い。裸(素)では威張れないのだろう。威張っても・・・様にならない。風呂に来てまで人物観察する気はない。が・・・目に入ってしまう。もちろんマナーが悪い連中は何処でもいる。どうしようもないオッサンもいる。刺青のオッサン達は意外に大人しい。ガキ共は騒がしい。その親や祖父はマナーに甘すぎる。
2007/03/27
コメント(0)
御婦人と風呂の話になった。風呂施設での話だ。オトコと御婦人では風呂内での態度が違う。もちろんオトコもオナゴも一様ではない。それでも傾向というのがある。よくいわれる事だ。オトコは歩く時、タオルで前を隠す。隠すほどじゃないが、それとなく前に持つ。マナーのようなものだ。それぞれに個性があるモノだ。それほどミットモナイモノではない。(まぁ、奇妙な形ではあるが・・・)ミットモナイと思っているわけでもない。が、人前に堂々と出すようなモノでもない。とオトコは(変なところで)マナーを持っている。
2007/03/26
コメント(0)
風呂は溶かす所。流す所。解放する所。そして元に戻る(裸)所。外国式のシャワーとは違うのだ。石鹸の泡だらけのバスタブではないのだ。日本の風呂は深い叡智がある。見えないモノの扱い方を知っていたのだ。風呂は・・・洗い場ではない。大きな湯船に浸かる。お湯風呂と水風呂を交互に浸かる。本来の風呂(サウナ)から水風呂に浸かる。時間をかけて、ゆっくり過ごす空間なのだ。ワシはカラス(の行水)だった・・・。最近は一時間以上はいるように変わった。
2007/03/25
コメント(0)
風呂は身体を洗う所。そう思っている人が多い。ワシは少し違う。身体を洗う事も出来る所。身体を洗ってもいい所。そう認識している。身体は石鹸で洗う。それは固定概念だ。石鹸は特別な場合のみだと思う。通常は水かお湯が適している。身体の声を聞いてみれば解る。頻繁に石鹸類を使うと身体は弱化する。皮膚を守るモノを壊されてしまうからだ。石鹸やアカスリでゴシゴシ擦る。すると身体(皮膚)は悲しむのだ。自分(身体)を大切に扱ってもらえない。自分(の管理能力)を信用してもらえない。身体はやる気を失くし、年老いてしまう。
2007/03/24
コメント(0)
身体は疲れない。疲れは生命の澱。輝きを曇らせているからだ。身体は(必要なら)休眠してしまう。この世は見えないモノが物質化する場だ。この世にあるモノは全て物質化したものだ。誰かが想像し、創造した。人工的なモノは人間が。それ以外のモノはそれ以外の存在が。大元の存在は創造主。風呂で疲れが取れる(溶ける)。それは澱が取れるからだ。澱は(疲れ)物質化現象する。その一部が身体から出る。汗に混じって身体から出る。風呂は澱を出す機能がある。というか・・・本来の目的は澱を出す事にある。澱の無い人は風呂の必要も無い(らしい・・・)
2007/03/23
コメント(0)
心の病(病)。多くは心を解明して解決しようとする。心の中を覗こうとする。心を弄ろうとする。原因を上手く認識すると闇が消える。精神科医や臨床心理士の仕事だ。だが・・・上手く認識出来ない場合が多い。闇が消えていれば病人はもっと少ないはず。心は自己防衛で嘘をつくのだ。扉を厚くするのだ。原因を正直に見せたくないのだ。心の澱は汗で流れる。澱の正体など、どうでもいい。流れてしまえば、軽くなる。心の中を覗かなくても、闇は晴れるのだ。汗のかき方の一つに風呂がある。
2007/03/22
コメント(0)
ワシはラテン系で裸族系だ。DNAが裸でいるのが楽だとそそのかす。ワシはDNAに逆らわない。とはいえ・・・やたら裸でいるわけにいかない。日本の社会は「大らかさ」が足りない・・・。風呂場は裸族の憩いの場所。裸でいるのが当たり前。ワシの過去世では日常でも裸だったのになぁ。裸は余計なモノが無いのだ。見栄は服にしか付かない。肩書きは名刺にしか付かない。金を持っていても邪魔なだけだ。威張っても裸になると何も無い。生まれてきた時も同じだったなぁ。死ぬ時も同じだ。元々財産や肩書きなど幻の一種だ。ワシは肩書きや権威などいらない。金という幻だけ、もう少し有ればいいとは思う。今の社会は貧乏道を貫くには暮らし難いのだ。
2007/03/21
コメント(0)
人の心は何度でも余計なモノを付ける。綺麗になれるのは一瞬だけだ。その一瞬をどう扱うか。それこそが重要なのになぁ・・・。(外見も同じだ。美人の期間は短い・・・。こだわっても、儚い・・・)(心の)綺麗は(誰でも)続かないのだ。綺麗でいる事に価値を置くから間違う。綺麗な一瞬とは、心が無くなる一瞬だ。その時だけ通れる世界がある。その時だけ何かを観る事ができる。水が意識(心)の塊を溶かす。滝は水の精度(能力)を増す。より塊を溶かし易いのだ。水は疲れ(憑かれ)を溶かす働きがある。
2007/03/20
コメント(0)
滝が何かを変える。変えるのではなく、何かを除く。何かを解放する。それを浄化という。浄化しても、また身に付くから同じだ。人間だもの・・・。浄化は、その時だけの出来事なのだ。その一瞬に、別の世界にアクセスできる。滝行は、その為の入り口の一つだと思うぞ。そのアクセスをしなければ意味が無い。まして滝行で自分が進化したと思ったら害だけ残る。進化を意識したら、魂は進化出来ない。人間社会の物欲と仕組みが違うんだぜ。精神世界はヒネクレているんだ。思えば叶う・・・わけない。思いは(欲)力だし、進化は力の解放からだ。方向が逆。精神世界で「思いは叶う」は無いでしょう。「そういう思い」を解放するのが精神世界の役目。クソとミソを一緒にして論じるのは止めようね。イイカゲンはいいけど、デタラメは迷惑。見えない世界には、この世と精神世界の二つある。この世(物質界)の仕組みと精神世界の仕組みは違うのだ。
2007/03/19
コメント(0)
滝行というのがある。滝に打たれる。真冬など、冷たい・・・。マ、マゾだ・・・。「修行」などに入れ込むタイプがいる。ほとんどが(精神世界的)マゾヒストだ。もちろんマゾが悪いわけじゃない。趣味の問題だ。精神修行は趣味の個人的問題なのだ。決して他人に強要するようなモノじゃないぜ。当然、そんな事で偉くなれるわけじゃない。趣味なのだ。試してみたい点もある。どう変わるか?心の変身願望は誰でも持っている。人間だもの・・・。未熟な心だという事実。意識の底では気づいている。
2007/03/18
コメント(0)
話を風呂に戻そう。「疲れが取れる~」疲れ(憑かれ)は取れる事もある。消える事もある。解(溶)ける事もある。風呂は水(お湯)だ。本来の風呂(サウナ)も水風呂とセットだ。水の力がある。水の能力は特殊なのだ。(最近になって、水の解明が進んでいる)情報を溶かす能力がある。疲れ(憑かれ)は情報でもあるのだ。前項で書いたように、疲れは筋肉の過労働ではない。情報(意識)の抑圧(塊)なのだ。水(お湯)は情報を解放する能力がある。「あぁ~疲れがとれる~・・・」風呂はそういう存在でもある。
2007/03/17
コメント(0)
全ては本人の取捨選択。どんな生き方をしようと自由だ。他に迷惑でなければ、という条件付きだが。輝こうが、色褪せようが勝手にしてくれ。ワシはかなり勝手な生き方をしている。それでもシガラミを捨て切っているわけじゃない。だから、疲れる(憑かれる)事もある。それでも出来るだけ疲れない状態を心懸けている。意識して疲れない状態を維持する。他(人だけじゃない)の疲れ(憑かれ)を引き受ける仕事だ。疲れ(憑かれ)を消す(浄化)するのが仕事だ。浄化しきれない部分を引き受けてしまう。それも仕事のうちだ。嫌だとは思わない、が・・・ワシ自身の疲れ(憑かれ)まであるとヤッカイなのだ。ワシはナマケモノだ。仕事は出来るだけ簡単にしたい。それにはワシ自身の疲れは少ない方が楽だ。
2007/03/16
コメント(0)
輝く生き方が出来ればモンク無い。出来なくても、モンクは無い。政治家と役人以外にモンクは言わない。本人でも他人でも生き方にモンクは言わない。輝く生き方をしたくてもなぁ・・・。社会に生きているとシガラミがある。シガラミには仕方なく付き合う事がある。まぁ、本人が捨てる事も出来るんだけどねぇ。捨てるとメンドウ事が多少付く。幼児はシガラミがほとんど無い。幼児を見習うのが大人の修行。だから大人の修行が出来る大人は少ない。誤魔化す生き方は・・・得意になる。ワシも幼児を目指している・・・。人は歳を重ねる毎に幼児を目指す。幼児の輝く生き方を目指すように創られている。誰でも一度は幼児だったのだ。決して難しくはないはず。それなのに・・・色褪せる方を選ぶ。
2007/03/15
コメント(0)
幼児から少年少女。青年、中年、熟年、老年。人は歳を経る毎に輝くように創られていた。輝くように生きるか否かは本人の選択だが。歳を経るのはわるくない仕組みだ。とはいえ・・・ワシのような不マジメのナマケモノもいる。自動的に光は少なくなるのだ。努力やマジメが人を輝かせるわけではない。だが、何もしなければ、間違いなく色褪せる。色とは、本人の魂の個性だ。色褪せる生き方をする。すると・・・憑かれやすくなる。憑かれは、疲れという状態で確認できる。生き方の正誤の話ではない。どっちの生き方をしようと自由だ。この世は、何よりも自由選択が優先している。疲れると・・・不快で苦しくなるだけだ。
2007/03/14
コメント(0)
赤ちゃんや幼児は疲れない。光に包まれている度合いが強い。疲れは、憑かれ。輝くモノに憑くことは出来ない。人が成長するという意味。光に包まれていた幼児の時期。光は成長するにつれて薄れる。その分を本人が輝くように創られている。成長するというのは光を創り出すという意味だ。この世は、とても優しい仕組みになっている。成長するという事を社会に溶け込む事と勘違いする。すると・・・薄汚れた大人になる。子供は・・・大人を見て、ため息をつく。あるいは・・・絶望するか、自棄になる。大人は、更に薄汚れた政治家を見てため息をつく。未来を想像し、絶望するか、自棄になる。全ては成長の意味の勘違いから始まっている。
2007/03/13
コメント(0)
何故疲れるのか?肉体の恒常状態を超えるからではない。恒常状態を超えただけでは疲れない。幼児を観てくれ。そこにヒントがある。限度を超えると・・・眠るのだ。幼児は疲れない。疲れに関し、大人は勘違いしているのだ。単純に、動き過ぎ、働き過ぎという事ではない。疲れは憑かれなのだ。幼児は嫌な動きをしない。好きな動きをする。生命力の方向は輝く側にある。肉体の限界を超えても疲れない。ただ、回復作用(眠る)が始まるだけだ。自然体なのだ。
2007/03/12
コメント(0)
風呂に入る。誰でも「疲れがとれる~」と言うし感じる。時には「だるくなる」と言うし感じる。時には「眠くなる」と言うし感じる。そうなのだ。それが事実なのだ。故御師匠様は言った。「疲れるのは憑かれるからだ」単純な霊障などの話じゃない。意味は深く広い。身体を過剰に使うということ。それだけでも気づく事はある。だが、その時の生命の方向。積極的なのか消極的なのか。それにより、同じ過剰でも大きく違う。疲れる度合いが違うのだ。あるいは、過剰でも疲れない。過剰でなくても、疲れる。
2007/03/11
コメント(0)
ヨガの基本。自分の内部の声を聞くこと。肉体の声。そして心の声(多種多様・・・)やがて魂(精神)の声。ワシは不良欠陥品のヨガ実践者だ。ヨガはヨガ教室でするのがヨガじゃない。ヨガ教室はキッカケだ。日常生活で応用実践して、初めてヨガといえる。ヨガは○○と○○の結びなのだ。不良欠陥品のワシだが一応実践者だ。肉体(生命)の声を聞くのは仕事でもある。見えないモノの動向を観るのも仕事だ。風呂で動く(消える)モノがある。風呂でヒマしてると気づく事がある。そうかぁ・・・なるほど・・・。
2007/03/10
コメント(0)
忙しいは、心を亡ぼす、と書く・・・。なんてノウテンキは言わない。心は亡びない。心は荒れるか静まるか、だけだ。どちらも好きにしてくれ。忙しければ・・・ヒマにならない。ヒマならば・・・忙しくならない。当たり前なんだなぁ・・・。そして、ヒマならば・・・心は荒れない。当たり前なんだなぁ・・・。ただし・・・ヒマは稼がない・・・。生活がノンビリとする・・・とはいかない。今の社会は経済が主流だからだ。(古代なら、ヒマならノンビリできたのに)今の社会は心が荒れる方が経済が活躍できる仕組みなのだ。
2007/03/09
コメント(2)
通常の湯風呂は早風呂だと思う。カラスの行水よりも長いが・・・。元々の身体が熱いのだ。ワシは氣功が出来る氣功師ではない。氣功師の身体になってしまったオッサンだ。意識しなくても氣功をしまくっているオッサンだ。意識しなくても常人より熱いのだ。こうなったのはワシのせいじゃない・・・。だが、普段は汗はかかない方の体質だ。だから本来の風呂(サウナ)で汗をかく。恥なら常温でもかけるのになぁ・・・。まぁ、恥を知っているだけマシというものだ。政治家センセイは汗をかいても恥を知らない・・・。お役人様達も恥は知らないらしい。優秀な学校では学ばなかったらしい・・・。風呂施設(健康ランド)に通うようになって一年半。それだけサウナ室で座っていれば何かに気づく。ワシにとって、気づきは趣味だ。ヒマな人が特技の一つにするモノだ。忙しい人は・・・気づく暇がない。忙しければ・・・気づけない。
2007/03/08
コメント(0)
ワシは風呂好きなようだ。あまり自覚は無いが・・・。クライアントに氣功した後は特に入りたくなる。最近になって、その意味に気づいた事がある。そうかぁ・・・(と勝手に納得・・・)。風呂は本来は風の呂。今のようなお湯風呂じゃないのだ。似ているのはサウナだ。原型はサウナのようなものだった。ワシは風呂好きなようだ。原型の方の風呂が好きなようだ。風の呂で汗を出す。そして真水の飛び込む。身体の中が喜んでいるのが解る。
2007/03/07
コメント(0)
夢の現実化などという夢の無い話・・・。某アメリカの国民統率術に乗るのも自由。紹介販売の勉強会とやらでも教えてもらえる。でも本心から踊らされるのもなぁ・・・。あれ、心理作戦として上手く出来ているけど・・・。まぁいいやぁ。ワシは夢の無い話ではなく、夢の話だ。誤解してもらっては困る(別に困らないけど・・・)夢を追いかけるのは素敵だぜ。ワシだって、未だに追いかけ続けているのだ。追いかけ続けるところに素敵があるからだ。夢も希望も無いようなツマラン人とは係わりたくない。いつでも夢を~♪。と、サユリさんも歌っていた・・・。ワシは隠れサユリストなのだ・・・。(別に隠れる必要は無いなぁ・・・)夢は個人的な話だから、これで御終いにする。
2007/03/06
コメント(0)
夢から「夢の実現」に進む歩き方がある。歩き方を方法論だと勘違いする。多くの「夢の実現論」が勘違いだ。夢を現実にしては幸せになれない。夢は常に手の届かない次元なのだ。だから生命力を活性化する。生命力は異次元からワープして来るのだ。生命は人智外(神)の範囲なのだぜ。夢の現実化は生命力を消耗するのだ。夢は夢である時に生命力を活性する。夢の現実化の歩き方。それは更に「夢」を創る場合のみ効果があるのだ。現実化になるのは夢じゃないのだ。いつでも、更に別な夢が必要になる。それまでの夢は夢でなくなるのだ。新たな夢を創ってこそ、それまでの夢が現実化される。
2007/03/05
コメント(0)
夢は個人的な愉しみ。だが社会的な安心が減少すると見づらくなる。不安が増えると意識は夢を求めなくなるのだ。不安や不満の社会では夢より現実の対応でアップアップしている。夢が見られる社会が正常なのだ。正常とは清浄な仕組みのことだ。個人と社会の関係。社会にいる以上は好まなくても係わってしまう。ワシのように独善勝手気ままでも係わる。係わりの割合が若干少ないかもしれないが。だから社会をリードする政治家や官僚に口を出す。政治と行政は誰であろうとも係わる問題なのだ。自分自身の問題として自覚しようぜ。特に選挙の投票は自分の考えを反映する機会だ。どの候補者も美しくないが・・・それでも社会の方向を左右できるのは選挙だ。選挙は、少しだけマジメに取り組もうぜ。
2007/03/04
コメント(0)
ワシはこのブログの題名をかぶらないようにしている。題名はかぶらなくても、内容はかぶる。当然だろう。ワシが書く内容だもの、範囲は狭く底は浅い・・・。自慢するが、忘れるのは得意だ。もしや・・・と思い、過去のを調べた。・・・あった!しかも、先月書いた「氣更来」もかぶっていた。04年の二月と三月だ。ま、まぁ、済んだ事はアレコレ言わないでおこう。夢を見る。受身の夢ではなく、空想や想像の積極的な夢の話だ。夢は愉しい未来か別な次元の自分を想う。すると・・・今の自分の生命力が上がるのだ。若返る要素の一つだ。何度だって言うし書く。グレちゃん(創造主)は優しい。この世の仕組みは優しさで満ち溢れている。夢を見る事は、誰にでも出来る。猫や犬にも出来る。宇宙人や幽霊にも出来る。グレちゃんはどんな存在にも救いを用意したのだ。
2007/03/03
コメント(0)
夢を見るのが好き。夢は極めて個人的な趣味だ。誰にも迷惑はかけない。その個人的な夢を現実にしようとすると・・・自分以外の人やモノに迷惑だ。人類はそうやって人類以外に迷惑をかけてきた。夢見好きは平和主義者だ。平和主義とは、自分の思いを他人に押し付けない事だ。だが、無抵抗主義のMとは違うぞ。自分を他人に押し付けないからこそ、他人からの理不尽は払う。噛み付かれれば、反射的でも張り倒す。それが自分の国であっても・・・。ワシにとっては、国よりワシが大切だ。国の夢などの話は、胡散臭いだけだ。エラソウな人達の唱える夢は、夢じゃない。欲望の現実化だ。美しい日本を押し付けるのは迷惑なんだなぁ。唱える人達が美しい生き方をしてないのに・・・。そして権力の傘の下から同調する人達もなぁ。
2007/03/02
コメント(0)
三月は一般的には弥生。別名は花見月や桜月がある。そして夢見月というのもある。ワシなら・・・夢見好き。いつも鼻水を垂らしていた御幼少の頃・・・。夢も想像も空想も好きだった。今も夢や妄想や迷想や乱想が好きだ。荒唐無稽な書き物も大好きだ。荒唐無稽なモノも好きだ。見方によっては荒唐無稽な人間。だが金欲まみれの脂ぎった政治家達は嫌いだ。威張るオッサンや恥知らずなオバサン。サルと変わらぬガキ共も嫌いだ。ワシは博愛主義者じゃない。イイカゲンだから腹を立てるほどじゃないがこれでも嫌いな人達はいるのだ。
2007/03/01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

