全30件 (30件中 1-30件目)
1
五感で素直に生きる。生きている事はそれだけでいい。その為に生きている。社会的な立派な行いは趣味でいい。喜びの為に生きるのが優先だ。社会的を優先する、というのは偽善か無知だ。それを人に推し薦める人達は怪しい。権威ある政治家や名の売れた自称文化人は怪しい。生きるのは難しくない。ブッちゃん(仏陀)もそう言った。山や野のケモノ相手にそう伝えた。それを聞いて目を覚ました里人が増えた。評判が大きくなり、勝手に弟子が増えた。頭デッカチの弟子達は「素直」になりきらない。仏教は伝えられる過程で小難しい経に成り下がった。嬉しい、楽しい、気持ちいい。それを心掛けて生きればいい。生きとし生けるモノ達の道だ。外れれば苦しみがある。それだけだ。五感は誰でも道が判る様に付いている。更に五感の先までオマケが付いている。なんとも親切な仕組みだ。さすが、創造主というのは偉いなぁ・・・。
2007/04/30
コメント(0)
感じる方向がある。苦しむ感じ方と喜ぶ感じ方がある。どちらの方向でも先に進める。ワシは喜ぶ方を薦める。喜びは進むと悦びになる。悦びは進むと幸せになる。(法悦という境地にもなるけど)幸せを進むと自他の平和になる。慈悲という思いやりが併用になるからだ。五感と六感が同時に訪れる。五感に幸せが付くと六感が目を覚ます。極単純な仕組みなんだ。難しい事はグレちゃんはしない。五感で喜びを感じてくれ。
2007/04/29
コメント(0)
感じる事の大切さ。素直に感じる事の素晴らしさ。それは自他の壁を融かす。それは心の塊を融かす。心で感じるのではない。よく間違いやすいところだ。身体で感じる事が大切なんだ。すると心まで届くのだ。更に深く感じる。すると心の底まで届く。底は他と共通の地帯がある。ユングは集合無意識層と名づけた。ただし・・・この層はかなり厚いし深い。層の表面まで行けたらいいとしよう。そこから先は人間では無くなるかも。ブッちゃんやキリちゃんになる役目の人は特殊だぜ。層の表面を観るだけでも地球環境は調和できる。
2007/04/28
コメント(0)
五感は何の為にあるのか?この世にあるものは全て同じ目的だ。グレちゃんはメンドウクサガリ屋だ。いちいちモノの区別などしない。モノの差別もしない。多種多様なモノを用意したのは意味がある。だが目的は全て同じだ。創造主は・・・ワンパターンなのだ。偉大になるほどメンドウはしない。ツボを押えりゃ、他はどうでもいい。目的は「調和」だ。人的には「幸せ」だ。グレちゃんは超優しい存在だ。幸せ以外は何も望んでないのだ。
2007/04/27
コメント(0)
五感を突き抜けた感性。それは個人の感覚の壁が無い。逆の表現をしよう。五感はトンデモナイ能力を秘めていた。五感は入り口だったのだ。何度も何度もいう。グレちゃん(創造主)はヒネクレている。あるいは・・・シャレている。あるいは・・・素直そのものだ。肉体に秘められた能力。肉体は個人に属していると思われていた。だが、能力に触れれば理解できる。肉体は個人のモノではない。肉体はグレちゃんのモノだ。(心は個人だと思う・・・)
2007/04/26
コメント(0)
見えないモノも多種多様にある。見えないモノと繋がればいいってわけじゃない。ロクデモナイ存在と繋がっている人達も多い。自称霊能者や占い師や教祖の多くは・・・まぁ、自覚が無いから本心で信じている。「私は○○神と繋がった・・・」本音で言うから、信者も増える。でもコマッタちゃんには違いないけどなぁ・・・。教祖は狂祖や凶祖になりやすいんだ。マトモな神なら、個人と繋がらない。こんな当たり前が理解できない宗教が多いぜ。こちらから、少しだけ触れる。一瞬だけ触れる事がある。一瞬だけ通路が繋がる事はある。それを(マハ)リシ達がした。リシ達はマトモだから教祖にはならない。だからアーユルヴェーダには教祖がいない。
2007/04/25
コメント(0)
戦後の教育では特に科学的が唯一のような洗脳をした。だから未だに科学的を金科玉条のように論ずる人が多い。お上の言う教育をマトモに信じて「鬼畜米英」を論じたように・・・。お上より自然の方がマトモだぜ。自然は穏やかな感覚で観えるものだ。科学的だけでは不自然だと気づくのが当たり前。国連をはじめ、欧米の真摯な学者が謙虚に論じる。解らない事を正面から研究する。それが科学の本来の姿だろう。そのヒントとして「スピリチャル」という言葉を入れた。WHOの「健康」の定義にも新たに増やした。ホンモノの科学者も沢山いるのだ(当たり前だけど)見えるモノの研究が専門の科学。この世は見えるモノが主軸だとワシも思う。だから科学は素晴らしいと思っている。だが、この世は見えないモノも重複しているのだ。科学は素晴らしいが、科学だけでは無理なのだ。21世紀は、その点を調和できる時代のようだ。ただし・・・人類が存続できていれば、だ。
2007/04/24
コメント(0)
20世紀は科学の時代だった。科学万能と思っていた時代だった。だが21世紀になり、間違いに気づいた。科学的思考は僅か200年の浅い歴史だ。科学的思考が未熟でも仕方ないだろう。それまでの人類の歴史だって間違いだらけだ。それでも叡智の歴史の違いは歴然だ。科学的だけが正しいとするのは迷信に近い。科学は古(いにしえ)に追いついてなかった。21世紀は科学と古の融合の時代となった。20世紀の科学は目に見える部分だけを扱った。だが、それでは不都合が多く生じたのだ。それは20世紀の科学者達も分かっていた。もちろん科学者といっても科学教信者の学者も多くいる。未だに、実証検証以外は認めないという学者もいる。学者というより、信者だろう。学者という称号がウリモノのタレントもいる。
2007/04/23
コメント(0)
リシと称号されるヨガ行者がいる。尊敬される生き方への称号だ。人々は「マハリシ」と讃える。「マハ」は「偉大な」という枕言葉みたいなものだ。マハリシは何人もいるが、そう多くはない。そのリシが深い冥想で得た情報だ。五感を超えた「直観」だ。それらが集まりアーユルヴェーダとなった。何一つ修正する必要がない情報だった。アーユルヴェーダは修正の必要が無いが、伝えられる過程で曲がる。曲がるのは人の世の常である。更に西洋式思考法が蔓延した。裏付けが無ければ科学的でない、というわけだ。元々科学的な発生じゃないのに・・・。科学的の方が劣っているのに・・・。
2007/04/22
コメント(0)
通常の学問は完成されない。いつでも発展途上なのだ。科学はいつでも発展途上だ。科学を基礎にしている西洋医学も発展途上だ。だから、日進月歩の研究がある。毎日のように(仮)真実が塗り替えられる。アーユルヴェーダは完成したまま生まれた。その発生が伝えられている。通常の学問の発生と違うのだ。個人や組織の努力の賜物の学問ではないのだ。何かと繋がり、そこからのデータだ。仏教的には虚空蔵。精神世界的にはアカシックレコード。そういうモノと繋がったわけだ。だから完成されていた。未熟な人間の思考で作られたモノではないからだ。
2007/04/21
コメント(0)
アーユルヴェーダという実践哲学がある。医学、医療法、健康法を含めた膨大な学問だ。人のアーユルヴェーダ(人以外もある)は「寿命の科学」「幸福の実践哲学」とも訳される。単なる医学じゃないのだ。遥か古のインドで生まれた。生まれた時には完成していた。5千年前とも3千年前ともいわれている。中医学の基といわれる「黄帝内経」が2千5百年前だ。それより遥か古(いにしえ)なのだ。おそらく・・・一部が・・・流れてチベットへ渡りチベット医学の元になった。医学の部分が中国へ流れて、中医学の元となった。更に日本に流れ、東洋医学日本版になった。そのくらい大きく深い学問だ。完成された学問。学問は何の為にあるのか?存在するモノ全てが調和(幸せ)になる為だ。アーユルヴェーダは完成された学問だ。今のほとんどの学問は完成されてないのだ。
2007/04/20
コメント(0)
もう一つの六感。直感ではなく「直観」の方だ。これは感覚が伴わない。理屈も理由も無い。一瞬で解ってしまうのだ。判断力を使わない。自分の能力ではないからだ。一瞬、他と繋がってしまう。瞬間に相手と同化する。だから、自と他が無くなる。相手が人でも他の生物でも同じだ。無機質の自然でも同じだ。どうやら底の底では繋がっている。あるいは・・・全体は一つ・・・。その扉に一瞬だけ触れるようだ。これは、誰でもありうる。だだし、自分の意思で扉に行くのが難しい。出来ないわけでもないが、難しい。意思と逆の方向に扉があるからだ。
2007/04/19
コメント(0)
自分の五感からでは不可能な認識。個人的な感覚も伴うのだが、それは説明できない。直感とはいえ、単なる「感じ」ではない。物理的な感覚が伴うのだ。だから確信に近い。その六感には直感と直観がある。直感は感覚の延長上にある。だから伸ばす事もできる。更に鋭く磨く事もできる。だから鈍る事もある。「六感が働くんだぁ~」ほとんどは意識の段階だ。勘違いがほとんどだと思う。思い込みがほとんどだと思うぞ。六感は感覚が伴って、五感の先にあるのだ。
2007/04/18
コメント(0)
五感が鋭くなる。五感が柔らかくなる。正反対の五感の使い方だ。だが両方ともに壁を超える事がある。もちろん壁は超えりゃいいってもんじゃない。ドロボウだって壁は超えるのだ。五感を超えると・・・六感がある。六感を認識できる世界がある。だが、勘違いや解釈の違いが横行する世界だ。ウソではないが・・・信用は出来ない。鋭くなって超える壁。柔らかくなってすり抜ける壁。当然ながら六感の感じ方やか解釈が違う。自分の(能)力で感じている場合と自分が解けて感じている場合がある。
2007/04/17
コメント(0)
感じる能力も幸せも同じ仕組みだ。受けるだけでは進めない。深さや広さや高さや微妙が理解出来ない。自分から歩く事で進める。誰かが言っていた。「幸せは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」ワシは別の言い方をした。「イイカゲンは歩いちゃ来ない、だから歩いて行くんだよ」イイカゲンも積極的な生き方なのだよ・・・与えられた分は感謝でいい。だが、活かすのがその先にある。感謝だけでは進めない。(矛盾する言い方をすれば・・・感謝だけで進める。感謝だけが進む方法でもある。でもこの表現はヒネクレているからなぁ)
2007/04/16
コメント(0)
五感は贈り物。スーパーウルトラ存在からの贈り物。だけどなぁ・・・受け手が価値を判ろうとしない・・・豚に真珠、猫に小判、犬に棒?五感は深さがあるのだ。広さがあり、上下があるのだ。未来があるのだ。新しい世界に続く通路なのだ。五感は受ける感覚ではない。受ける感覚は、まだ入り口なのだ。入り口で止まってどうする?もっと進んでくれ。進まなくちゃ、女神だって愛想を尽かすぜ。
2007/04/15
コメント(0)
五感は何の為にあるのか?幸せの為だろう。身体は幸せの為に創られた。苦しみを感じるのも幸せに気づく為だ。喜び、悦びを感じるのは幸せの深さを進む為だ。五感を基にして感性が芽生える。感性は感覚と精神の柔らかさから発達する。感性は自然の一体化へと近づく。人も自然の一部だと感覚で認識できる。感性は自然の認識の深さだ。自然を意識できない感性は無い。だから政治家、役人、実業家達に必要なのだ。感性の無い代表達が増えれば、地球は滅びる。い、いや、地球は滅びないが、人類は滅びる。人類は滅びても仕方ないが、他の生物が巻き添えをくう。
2007/04/14
コメント(0)
感性を誤解している。感覚が鋭くなる、一方向に敏感になる。それが感性だと勘違いしている。それは、バランスと調和の崩れた現象だ。「自称芸術家」に多い。有名なゲイジュツカにも多い。普通の感覚で、変だと思わないかぁ?まぁ、他人に迷惑でなければ何だっていい。ワシだって自称「イイカゲン道家元」だ。自称「貧乏道宗家某亜流水上一族末裔」だ。自称「天上天下唯我独善家師範代」だ。公称の多くの政治家よりは、遥かにマトモだと思っている。政治家や官僚ほど多くの人々に迷惑もかけない。感性が出来てくる。それは、他と自の共通感性だ。だから感性があれば、迷惑な政治家にはならない。感性があれば、役人は尊敬されるだろう。感性があれば、もっとマトモな日本になっている。感性は、ゲイジュツカより政治家や役人に必要なのだぜ。
2007/04/13
コメント(2)
五感は自分の内部から出発する。深く、広く、静かに、微妙に進歩する。進歩とは、自由になる事だ。そして、進歩するほど他の内部へと到達する。幸せも同じ。浅い幸せは、自分から出発する。個人的な幸せを「幸せ感」という。深く、広く、静かに、微妙に受け止める。すると、他の幸せと共鳴協調する事になる。幸せは深くなるほど、自他の区別が無くなる。五感を磨く事。それは、鋭くなるのではない。柔らかくなるのだ。他へと近づく感覚を「感性」という。個人的な感覚は「感性」ではない。他の感覚を受け止めて、感性となる。
2007/04/12
コメント(0)
感じる事はありがたい。感じる能力は幸せの能力。感じる深さや広さがある。それは幸せの深さや広さに直結している。感じるのは個人的感覚から出発している。だが、深くなるほど広くなるほど微妙が判るほど他との共通感覚に近づく。他の幸せと自の幸せが近くなるのだ。社会的に生活する能力。仕事が出来ると社会では評価される(と思う・・・)仕事が出来ると報酬も増える。(まぁ、必ずしもじゃないけどねぇ・・・)だが五感が広く深くても社会的評価はそれほどじゃない。つまり幸せと社会的評価は別な次元にあるのだ。
2007/04/11
コメント(0)
五感は何の為に備わっているのか?グレちゃん(創造主)は何を考えたのか?そんなの決っている。グレちゃんは、いつでも同じ事しか考えてない。(というか・・・何も考えてない・・・)グレちゃんは超優しい存在だ。優しいとは、幸せにしてくれる事だ。幸せを呼ぶ行為だ。自然界では調和という作用。グレちゃんは調和しか考えてないのだ。人は、調和が起こると幸せに感じるのだ。ならば、五感も同じだ。幸せになる為に備わっている。当たり前だ。苦しむ為に備わっているのじゃない。精神苦行スキスキ人間はマゾだ。人は苦しみから成長するわけじゃない。幸せから成長するに決っている。まぁ、成長する事にこだわるこたぁないけど・・・。
2007/04/10
コメント(0)
感覚は大きく二つに分ける事ができる。浅い感覚と深い感覚。表面の感覚と奥の感覚。刺激の感覚と生命の感覚。感覚は自己の感じ方だ。だから感じ方は自己の深さを知る事になる。例えば・・・味。素人とプロの料理人とでは感覚が違う。同じ魚を食べても感覚が違う。プロは深く味わえるのだ。深い分だけ愉しみを味わえる。嬉しさが増える。そこから世界が広がる。世界は自分の内部にあるのだ。
2007/04/09
コメント(0)
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。目、耳、鼻、口(舌)、身。肉体の感覚器官だ。器官といっても、身は身体全体の皮膚だ。皮膚は器官の大元でもある。皮膚が一方向に発達して、各器官が出来た。皮膚の一部が光に対して特に敏感に反応する。どんどん専門に発達する。そして目ができた。同じように音に敏感に発達して耳となった。鼻となった。口(舌)となった。ということは・・・全身(皮膚)は全ての感覚を内蔵している。心を静め、感覚を研ぎ澄ます。見る、聞く、嗅ぐ、味わう感覚は身体全体でも判る。目を瞑っても、何となく見える。耳を塞いでも、何となく聞こえる。身体って、凄く優秀に出来ているのだ。
2007/04/08
コメント(0)
入学式だった。ワシが最年長かもしれない。定員よりかなり少ない。全体で66名。特に鍼灸の夜間は10名しかいなかった。これはラッキーだ。こういう世界の学びは少ない人数ほどいいのだ。その分、丁寧に深く充分教えていただける。同じ時間なら生徒は少ない方が深い学びになる。ワシはラッキーだけで人生を歩いているのだ。これからの3年間。学校に通えるというラッキー。新たな分野を教えていただけるラッキー。ワシの年齢からは、そうはないぜ。ワシは才能も努力も根性もないが、(幸)運だけは恵まれていると思う。
2007/04/07
コメント(0)
学生とはいえ、昔風に表現すれば「苦学生」だ。しかも充分すぎるほど年もいってる。夜間部で6時から9時半までだ。授業自体に不安などはない。(不安を感じるような若さは無い・・・)鍼灸はメディカルな世界だ。ワシの仕事の(世界の)一部だ。ワシは健康の一部に医学があると思っている。健康の為の医学であり、病気の為の医学ではない。(健康は幸せの為に存在していると思っている)健康はワシのプロとしての仕事世界だ。授業はいいのだが・・・学校(学院)の場所が家から60キロ離れている。当然、通学時間がかかる。その分、仕事を早く切り上げる。マンガを読んだり、昼風呂に入る時間が制限される。それは・・・少し不満かもしれない・・・。
2007/04/06
コメント(0)
ワシはフッと思う。時々、正気に戻る。ワシは通常の社会人より20年~は遅れている。社会的な思いと行動が遅れている。同級生などと比べるとだ。自分の職業が見つかったのが40歳過ぎ。家族を意識し出したのが50歳頃。でも家長とか世帯主とか大黒柱なんて思ってない。ワシはワシの勝手な人生を優先する。今でも家庭人としては落第候補だ。故親父がそうだった。きっとDNAのせいだ。そうだ、そうだ、そうに違いない・・・。今回の入学も通常なら20年以上前にする事だ。これって・・・ラッキー!20数年前からやり直せる。ワシは通常ではない御蔭で、ラッキーが起こる。多分・・・御先祖様達が陰徳を積んだせいだ。そうだ、そうだ、そうに違いない。
2007/04/05
コメント(0)
心機一転。ワシだって新期したい。イイカゲンだからワンパターンは飽きるのだ。キチンとした大人はワンパターンを我慢する。生活や世間体やアレコレの為に我慢する。だが、ワシはキチンとしてないオッサンだ。というわけで、新期する事になった。豚児や豚子は学生だから階段を上がるのだ。ならばワシだって学生になる。フッ・・・これで自動的に階段を上がれる。モノグサでも落第しないかぎり進級できる。進級するなら鍼灸だ。人生はダジャレだぁ!(ま、また名言を創ってしまった・・・自分の才能が恐ろしい・・・)ワシは鍼灸の学生になった。この4月から新入生だ。ワシも新期を味わえる。
2007/04/04
コメント(0)
豚児は4月から高校生だ。我家から20キロ離れた市に通学する。オトコだけの、オトコだらけの学校だ。質実剛健、文武両道をうたっている学校だ。ワシも30数年前にいた学校だ。したがって、ワシはスケベだが硬派だ。意外かもしれないが、今も硬派だと思っている。精神は軟弱だが・・・・。(なら、何が硬派なんだかなぁ・・・)豚子は中学二年生になる。子供達にとっては4月は新期なのだ。一年一年が進歩している。確実に階段を上っている。それに比べ・・・親やオトナは・・・。
2007/04/03
コメント(0)
4月から新年度になる。入園式、入学式、入社式等がある。転勤、転校、昇格、異動等がある。現社会の国や会社や学校等の区切りだ。変化があるのは組織の仕組み内だ。個人や家族は新年度ではない。新しい女房は異動して来ない。ハンサムで優しく、稼ぐ亭主も転家して来ない。「今度、この家にお世話になります」そんな亭主が来たら、本妻は踊って喜ぶだろう・・・。ワシのように社会の組織から外れている者。通常は4月になっても新期ではない。組織に関係するようになると、自分事になる。何かの役を引き受けるとか・・・。つ、つい、就職してしまうとか・・・。ワシもこの4月から新期に関わってしまった。
2007/04/02
コメント(0)
1月1日は新年の始まり。4月1日はエイプリルフール。じゃなくて、新年度の始まり。ワシは子供の頃、疑問だった。何故4月からが新学期なのか?一つ下の1月から3月生まれの同級生。でも、誰も説明してくれなかった。実は・・・今もよく解らないのだけど。多分・・・元旦から新年度は嫌なのだろう。新学期や仕事気分にならない。やっぱ、正月は酒でも飲んで笑っていたい。正月気分も抜けてから、仕事を少し整理する。そうすると、新年度は4月あたりだな。ウン、そうしよう。
2007/04/01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()

