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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅周辺に残る旧地名「角筈」(→→→こちら)の痕跡を探して歩いています。山手通りにある西新宿4丁目交差点から見えるこのビルは東京オペラシティです。この近くにあるのが、角筈公園(→→→こちら)です。それほど大きな公園ではありませんでしたが、きっと地域の人にとっては憩いの場所なんでしょうね。角筈という地名の由来は諸説あるそうですが、この村の名主をしていた渡辺家の先祖の与兵衛にちなむそうです。与兵衛は、天文・永禄年間の熊野の乱のときに紀州国和歌山からこの地に流れ着いた真言宗の信者で、正式な僧にはならずに自宅で修行する在家信者だったそうです。この在家信者を真言宗および伊勢神宮の忌み言葉では角筈と呼ばれたことからという説があるそうです。別の説では、角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となったという説もあるそうです。旧地名の角筈、まだ色々なところに残っていたんですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その24) 角筈公園
2024年09月12日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅周辺に残る旧地名「角筈」(→→→こちら)の痕跡を探して歩いています。角筈橋からさらに西に行くと十二社通りに出ました、この交差点は、角筈区民センター前交差点です。この建物が角筈区民センター(→→→こちら)です。この建物には、新宿区角筈特別出張所、角筈区民ホール、角筈地域センター、角筈図書館などが同居する複合公共施設だっんですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その23) 角筈区民センター
2024年09月11日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅周辺に残る旧地名「角筈」(→→→こちら)の痕跡を探して歩いています。新宿中央公園南の交差点から見える跨道橋。橋の下には東京都道新宿副都心十二号線(公園通り・南北方向)が通っており、中央部分は首都高速4号新宿線の新宿出入口となっています。新宿副都心エリアの南西にあるこの橋が「角筈橋」です。橋には東京都道新宿副都心二号線(南通り・東西方向)が通っている。この橋の歩道部を渡って行きました。橋名板の上にある灯火がなんとなくオシャレな感じですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その22) 角筈橋
2024年09月10日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿東口にある新宿アルタ(→→→こちら)。7階にあったスタジオアルタは、1982年から2014年まで放送されたフジテレビの番組「笑っていいとも!」の収録スタジオとして使われていたことでも知らている有名なファッションビルですが、2025年2月28日をもって営業終了だそうです。そして、巨大な三毛猫のコンピュータグラフィックスの3次元映像「新宿東口の猫」で知られるクロス新宿ビジョン(→→→こちら)です。この賑やかな新宿東口にあるのが、旧青梅街道。東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る132キロメートル (km)の東西に横断する青梅街道が、かってここを通っていたそうです。近くには旧青梅街道の歴史を紹介したパネルが展示されていました。旧青梅街道は、山手線や中央線などのJR線の下を抜ける歩行者専用の跨道橋になっています。この架道橋の名称が、西新宿とその近辺の旧地名である角筈に因んだ、角筈ガードになっています。ちなみに、ガード とは高架橋、特に鉄道高架橋のうち跨道橋のことを指す日本語の借用語だそうで、桁橋を意味するgirder bridge (ガーダーブリッヂ)に由来しているそうです。この角筈ガードを抜けると、新宿西口思い出横丁(→→→こちら)に出ます。人気ブログランキング新宿彷徨(その21) 角筈ガード
2024年09月09日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅南口から甲州街道を西へ進んだところにあるバス停です。「角筈二丁目」とありますが、本当の住所は西新宿1丁目です。角筈(つのはず)(→→→こちら)は、かつて東京都新宿区にあった地名だそうです。現在は、西新宿の大部分及び歌舞伎町一丁目と新宿三丁目の一部になるそうです。古い地名ながら、今も新宿駅近くには角筈の痕跡が残っているようです。人気ブログランキング新宿彷徨(その20) 角筈二丁目バス停
2024年09月08日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅の大ガードから青梅街道を西に向かうと、5分ほどで緩やかに下る坂道になります。神田川に架かる淀橋に向かって下る成子坂(なるこざか)です。この坂の中腹に成子天神社(→→→こちら)があります。社号の「成子」とは、このあたりの地名に因むものです。また、その由来は、この地にあった源左衛門という者が営む酒屋の店先に来客をしらせる鳴子が下がっていたからという説や、このあたりの水田では鳥獣を追い払うため寝小屋(監視のための小屋)を設け、鳴子を鳴らして追い払っていたからという説があり、いずれも鳴子が成子に転じたと伝えられています。青梅街道から長い参道の奥まったところへ社殿が見えています。天満宮の鳥居です。言うまでもなく、祭神は天神さま、菅原道真(→→→こちら)ですね。神社の由緒が説明されていました。延喜3(903)年の創建と伝えられ、道真が太宰府で亡くなった際、東国でそのことを知った家臣の佐伯氏と斎宮氏が、平安京より道真の木像を持ち帰り、柏木(現在の北新宿)のこの地に祀ったといわれています。その後、鎌倉時代に源頼朝により社殿が造営され、そして江戸時代に入ると、将軍徳川家光から土地を下賜された春日局が天満天神社として社殿を造営したそうです。天神さまと言えば、やっぱりこの撫で牛ですね。道真は丑年生まれで、また道真公が亡くなった時、その亡骸を運ぶ牛車が立ち止まったところが今の太宰府天満宮になったといわれたことなどから、天神社では牛は神の使いとして祀られています。身体の具合の悪い所を撫でた後、撫で牛の同じところを撫でると病気が治るというわれていますが、MoMo太郎の場合、頭のてっぺんから足の先まで、調子が良くないので、全身撫でるので、時間がかかります。鉄筋コンクリート造の社殿は新しいですね。平成26年(2014)に大規模な境内整備を行ない、境内に高層の分譲マンション、賃貸マンションと神社施設を新たに建築されたそうです。社号額も新しいですね。本殿の北側にある富士塚です。新宿区指定有形民俗文化財になっています。大正9年(1920年)に作られたこの富士塚には、富士山の溶岩を加えて築かれ、高さは約12メートルで、新宿区内では最大規模の富士塚にだそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その19) 成子天神
2024年08月30日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。浄瑠璃坂の仇討跡の近くにあった公園です。「中根坂東公園」という名称です。中根坂(→→→こちら)とは、この坂道に幕府の旗本中根家の屋敷があったので,人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになったそうです。その中根坂に、この時計台があるレトロな外観の建物がありました。「市谷の杜 本と活字館」(→→→こちら)という施設で、市ヶ谷にあった大日本印刷株式会社の旧営業所棟の建物を修復・復元し、事業の原点である活版印刷の職場を一部再現し、文字のデザイン、活字の鋳造から、印刷・製本までのプロセスを展示、紹介するものだそうです。JR中央線の市ヶ谷駅に戻って来ました。ホームからは市ヶ谷フィッシュセンターの釣り堀が見えます。この釣り堀、随分、古くからありますね。人気ブログランキング新宿彷徨(その18) 市谷の杜 本と活字館
2024年08月29日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区市谷砂土原町1丁目と市谷田町2丁目の間にあるこの坂道。浄瑠璃坂と呼ばれています。この道標の説明によれば、坂名の由来については,あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』),かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』),などの諸説がある。 江戸時代,坂周辺は武家地であった。 この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ,江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。と書かれていました。この坂道を登って行くと、途中から細い住宅街の中を通り抜ける道となり、建築現場の脇に出ました。そこには。新宿指定史跡「浄瑠璃坂の仇討跡(→→→こちら)」の説明標識がありました。標識にはこう書かれています。浄瑠璃坂の仇討跡新宿区指定史跡所在地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂・鼠坂上指定年月日 昭和六十年十一月一日 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(一六七二)二月三日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。 事件の発端は、寛文八年(一六六八)三月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文十二年(一六七二)二月三日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢四十二名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり六年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。 平成三年一月 東京都新宿区教育委員会以前訪れた宇都宮の興禅寺(→→→こちら)がこの仇討物語の始まりの舞台だったんですね。この写真が宇都宮市にある興禅寺の山門です。しかし、「浄瑠璃坂の仇討」は「伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」と「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」と並ぶ、江戸三大仇討ちと称されていますが、仇討ちの原因の分かりにくさや当事者の関係の煩雑さもあって、あまり映画やテレビなどで取り上げられることもないですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その17) 浄瑠璃坂の仇討
2024年08月28日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿駅近くにある大ガード西交差点より青梅街道沿いを歩き、右手に見える河合塾を通り過ぎ右側にあるお寺が福聚山常圓寺(→→→こちら)です。常圓寺(じょうえんじ)は日蓮宗の寺院で、山号は福聚山。山号の「福」は福徳、「聚」は集まるを意味するそうで、法華経第25章(観音経)の「福聚海無量」(福徳の集まりが海のように広大なり)に由来しています。また寺号の常圓寺は、お釈迦様の教えで最も大切な「圓経」に由来するもので。「常に」「圓な(まどかな)教え」を解き放ち、人々を救うという想いを意味しているのだそうです。山門をくぐって参詣しました。境内には、便々館湖鯉鮒狂歌碑 というのがありました。説明板には、次のように記載されていました。新宿区指定史跡 便々館湖鯉鮒狂歌碑 所在地 新宿区西新宿七丁目十二番五号 指定年月日 昭和六十一年十月三日 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(一七四九~一八一八)は、本名を大久保正武といい、牛込山伏町に住んだ。始めは福隣堂巨立と号したが、のちに便々館湖鯉鮒と改めた。 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作である、 三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中が刻まれている。 碑は湖鯉鮒の死の翌年、文政二年(一八一九)に、狂歌仲間であった大田南畝(蜀山人)によって揮毫された。なお、湖鯉鮒の墓地は袋町の光照寺にあり、新宿区登録史跡となっている。 平成三十年三月 新宿区教育委員会こちらが本堂です。本堂から振り返ってみると見えたのは大きな枝垂桜です。小石川の伝通院、広尾の光林寺の桜と共に江戸三大桜といわれていたものだそうです。訪れたのは2月の末で桜は咲いていませんでしたので、桜の季節はここで花見をと思っていましたが、その頃にはすっかり忘れて、お花見には来なかったです。しかし、新宿の高層ビル群のすぐそばにこんな大きなお寺があったとは、全く知りませんでした。人気ブログランキング新宿彷徨(その16) 福聚山常圓寺
2024年08月27日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。漱石山房記念館に隣接している漱石公園です。ここには元々夏留目漱石が暮らしていた「漱石山房」という建物があったのですが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となっていたそうです。しかし、2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現そうです。公園内には、夏目漱石が散歩していた場所を示す案内板があり、漱石になった気分で街を歩くのもいいかもしれませんね。また、漱石山房の構造を紹介した看板もありました。漱石公園は漱石山房記念館の裏庭のようにもなっていました。この石塔は、猫塚というもので、漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたものだそうです。また、指定史跡ということで、夏目邸の建物の遺構を発掘したことも説明されていました。人気ブログランキング新宿彷徨(その15) 新宿区指定史跡 漱石公園
2024年08月08日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区立漱石山房記念館(→→→こちら)を訪れました。夏目漱石は新宿区で生まれ育ち、また1916年(大正5年)の死没までの9年間を現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で過ごしたそうです。そういうことで、「夏目漱石終焉の地」という説明板もありました。この記念館は、漱石生誕150周年にあたる平成29年(2017年)9月24日、新宿区立漱石山房記念館として開館したそうです。観覧料は300円でした。館内には夏目漱石に関する資料が展示されていましたが、撮影できないものもあったのですが、この夏目漱石の人形は撮影できました。また屋外には、夏目漱石の胸像もありました。人気ブログランキング新宿彷徨(その14) 漱石山房記念館
2024年08月07日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。東京メトロ早稲田駅近くにあるこの狭い道は、新宿区立漱石山房記念館(→→→こちら)に続く、漱石山房通りという名称です。この道を歩いて行くと、この建物が見えてきます。新宿区立早稲田幼稚園(→→→こちら)と新宿区立早稲田小学校(→→→こちら)の校舎です。この早稲田小学校、明治33年(1900年)に早稲田尋常小学校として開校した歴史ある小学校です。そして、早稲田と言えば、こちらの明治15年(1882年)に大隈重信が創立した東京専門学校を前身とする早稲田大学(→→→こちら)ですね。ここを訪れた2月下旬は丁度、入学試験が行われていました。早稲田幼稚園→早稲田小学校→早稲田中学→早稲田高校→早稲田大学なんていう、早稲田一筋の学生生活を送る方もおられるでしょうね。言ってみたいですね、「幼稚園から早稲田です」。人気ブログランキング新宿彷徨(その13) 幼稚園から早稲田です
2024年08月06日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿西口から東口にあるルミネエストが見えました。小田急デパートの建て替えで、遮られていた東口側が見えるようになっていたんですね。これから新宿西口どのように変わっていくんでしょうか。この景色が見えるのは今だけなのかな。人気ブログランキング新宿彷徨(その12) 新宿西口から見えるルミネエスト
2024年07月21日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿通りと外苑西通りの交わる四谷四丁目交差点のちかくにある新宿区四谷区民ホールの近くにあった「玉川上水水番所跡」、「水道碑記」そして「四谷大木戸跡碑」の案内板です。この大きな石碑が「水道碑記」です。明治28年(1895年)に建立された玉川上水開削の由来を記した記念碑です。多摩川の羽村で取水された水は、この四谷大木戸のあたりまでの43kmの距離を流れてきたんですね。こちらが東京都羽村市にある羽村取水堰で、現在も多摩川から東京都民のための水道用水を取水しています。また、玉川上水の水路はいまでも使われています。こちらが、昭和34年(1959年)に地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた「四谷大木戸跡碑」です。このあたりには、江戸時代、四谷大木戸があり、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所があったそうです。四谷四丁目交差点の角には四谷大木戸碑もありました。人気ブログランキング新宿彷徨(その11) 玉川上水・四谷大木戸跡
2024年07月04日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿御苑の外苑西通りに面した門。ずっと閉鎖されていますが、この門の近くに、草むらに覆われてわかりにくいですが、ここに、こちらに「伝沖田総司逝去の地」という案内板がありました。この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。平成二十六年三月 〔新宿区〕ところで、植木屋平五郎(柴田平五郎)というのは、大名家の庭にも出入りして腕を振るう、大名家御用達の植木職人だったようです。そして、女優の江波杏子さんの高祖父にあたるそうです(→→→こちら)人気ブログランキング新宿彷徨(その10) 伝 沖田総司逝去の地
2024年07月03日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿御苑の東側、外苑西通りとの間に広がる住宅地内にある神社を訪れました。社号碑には「多武峯神社(とおのみねじんじゃ)」とありますが、多武峯内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)(→→→こちら)というのがこの神社の正式名称です。「多武峰」(→→→こちら)というと奈良県にお住いの方は御存知だと思いますが、桜井市南部にある山で、そこには談山神社があり藤原鎌足を主祭神とされているそうです。この神社、元は江戸幕府初期の重臣で関東総奉行・江戸町奉行・老中などを歴任した内藤清成の邸内社であったそうです。内藤家は藤原氏の出自であるので、先祖の藤原鎌足を祀る談山神社から分霊を勧請して創建したものです。鳥居に掲げられた扁額の「鎮守 爾祠壇」というのは、意味がわかりませんでしたが、神式の葬儀で使われる霊璽(白木台付きの札に故人の名前、亡くなった年月日などを書いたもの)と関連するような意味合いなんでしょうか?明治維新後、内藤家屋敷地は明治政府に上納され、新宿御苑になったので、1886(明治19)年に現在の地に遷されました。当初は武州多武峯神社と称されていそうですが、1967(昭和42)年5月に多武峯内藤神社に改称されました。社殿の横にあった石塔です。駿馬塚の碑という説明板がありました。駿馬塚は徳川家康が内藤清成に領地を与える際の「駿馬伝説」にまつわる碑になるそうです。家康は現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と清成に語り、そして、清成の乗った駿馬は、千駄ヶ谷から代々木・大久保・四谷に至る広大な範囲を走ったが、疲れ果て死んでしまったため、大樫の下に埋葬されました。その結果、今の新宿御苑とその周辺が内藤家の屋敷になったわけですね。そんな歴史から、駿馬舎という馬小屋もありました。さすがに本物の馬はいませんでしたが、白い木馬が中に鎮座しているようでした。人気ブログランキング新宿彷徨(その9) 多武峯内藤神社
2024年07月02日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷三丁目交差点にそびえる四谷消防署。その消防署に併設されているのが、この消防博物館(→→→こちら)。正式には東京消防庁消防防災資料センターというそうです。東京の安全と安心を進める消防がまるごとわかる広報・教育施設として1992(平成4)年12月3日に開館しています。江戸時代からの現代に至るまでの、消防の歴史が学べるほか、貴重な資料の展示や、参加型の展示コーナー、消防ヘリや、消防車の乗車体験も行われており、子供連れでも楽しめるみたいです。しかもうれしいことに、なんと入場は無料!ということで中に入ってみました。こちらは地下1階に展示されているクラッシック・カーのコレクション。ではなく、消防自動車の変遷を紹介しています。これは、大正13年に輸入された「アーレンスフォックス消防ポンプ自動車」。エンジン前方にポンプ装備していました。写真左の消防車も大正13年に輸入された「スタッツ消防ポンプ自動車」。赤く塗ってなければ、クラッシック・カーとして乗ってみたいですね。左は「マキシム消防ポンプ自動車」こちらのメルセデスベンツのシャシにカールメッツ社の梯子を載せた「ベンツ・メッツ梯子自動車」です。昔は消防士さんはベンツに乗って出動していたんだ。後ろ向きなっているのは、「いすゞ・メッツ梯子自動車」です。また、建物の5階には、1988年まで東京消防庁航空隊で現役として使用されていた消防ヘリコプター「かもめ」が展示されています。操縦席に座る体験ができますよ。人気ブログランキング新宿彷徨(その8) 消防博物館
2024年06月14日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区四谷三栄町にあるちょっと個性的な建物。新宿歴史博物館(→→→こちら)です。その名のとおり、新宿区の旧石器時代から昭和時代初期までにおける展示が行われています。撮影可能な展示物も多く、館内で撮影したものを紹介します。こちらは、江戸時代の甲州道中で、江戸から最初の宿場、江戸への最後の宿場だった頃の内藤新宿の様子を再現した模型です。蔵造り建築と呼ばれる商家の建物です。2 階の窓は観音開扉、また壁面の半球型の盛り上がった物は飾りなんでしょうかね。こちらは商家の室内です。よく時代劇でも見かける光景ですね。こちらは昭和初期の路面電車です。塗装の色は違ったけど、このタイプはMoMo太郎が子供の頃(1960年代)まで走っていたような気がします。これもなんか懐かしい感じの住宅ですね。「文化住宅」(→→→こちら)と呼ばれる様式の家屋だそうです。このような小さな和風住宅に洋風の応接間をつけた形式が文化住宅ですが、MoMo太郎が少年時代に住んでいた大阪では、文化住宅といえば、瓦葺きの木造モルタル2階建ての集合住宅のことを文化住宅と呼んでいたことを思い出しました。人気ブログランキング新宿彷徨(その7) 新宿歴史博物館
2024年06月13日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。靖国通りの合羽坂下交差点から新宿通りの津の守坂入口交差点に向かう坂道です。この道は「津の守坂通り」という名称ですが、この坂の名称の由来は。江戸時代、隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに由来するそうです。摂津守の「津守」からの名称ですかね。この坂道を登って、三栄通りに歩いていくと、四谷税務署の隣に小さな公園がありました。三栄公園という公園です。銘板によると、この三栄公園の地は、明治8年東京市四谷区の公立として最初に建てられた四谷小学校のあったところで、その後、東京市が公園造成のうえ、昭和18年6月1日に開園した。とありました。太平洋戦争を戦っていた昭和18年に開園したというは、まだその時点では公園を楽しむ気持ちがあったのでしょうか。ちなみに開園した昭和18年6月1日には東京都制が公布されています。人気ブログランキング新宿彷徨(その6) 三栄公園
2024年06月12日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅近くにある外濠公園へ続く坂道を下っていくと、土木学会(→→→こちら)の建物があります。建設会社で橋梁の設計を担当していた木村拓哉さんもこの学会の会員だったんでしょうね。国家の独立、平和と安全を守る防衛省の建物です。住所は東京都新宿区市谷本村町5-1ということだそうで、新宿区に国防の要があったんですね。帝国データバンク(→→→こちら)の東京支社です。企業を専門対象とする日本国内最大手の信用調査会社の支社もあったんですね。ちなみに本社は港区南青山だそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その5) 新宿区に本拠地があります
2024年06月11日
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新宿西口にあるビル群です。モード学園コクーンタワー(→→→こちら)って目立ちますね。そして、今新宿駅西口は小田急百貨店本店や新宿ミロードなどを解体して大規模な再開発工事が進められています。かって小田急百貨店の入口があったあたりですが、目隠しの防護壁があり、どこから小田急や京王電鉄の駅に入っていいのかわかりませんでした。少し離れて全景を撮影してみると大型のタワークレーンが設置されていて、聞くところによると高さ260メートルの高層ビルを建築するそうです(→→→こちら)。西口から少し離れて青梅街道に架かる新都心歩道橋に上がってみました。西側には西口の高層ビル群が広がり、東画を見てみると、新宿大ガードとその奥には歌舞伎町のビル群が見えます。昭和の頃から見えるこつらの景色もまた変わっていくんでしょうか。新宿彷徨のシリーズここでいったん休みますが、まだまだ新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録がありますので、これからも折に触れて書いていく予定にしています。人気ブログランキング新宿彷徨(その4) 変わりゆく新宿西口
2024年05月02日
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折角来たので、花園神社に参拝します。まず、こちらの手水舎で、手と口を浄めましょう。手を蛇口に近づけると自動で水が出てきますよ。昭和40年に鉄筋コンクリート造りで再建された拝殿。花園神社の他に雷電神社と大鳥神社の扁額もあります。倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神を祀っているのですね。大鳥神社でもあるため、11月の酉の日には酉の市も開催されているそうです。合祀された雷電稲荷神社の石碑が残されていました。こちらは、奉納された赤い鳥居が並ぶ、境内社です。昭和3年(1928年)に創祀された威徳稲荷神社で、女性の参拝者に人気の高い神社です。人気ブログランキング新宿彷徨(その3) 花園神社に参拝
2024年05月01日
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新宿区新宿5丁目にある花園神社(→→→こちら)です。新宿の総鎮守として、江戸時代に内藤新宿が開かれて以来、新宿の守り神として奉られている神社です。この場所は尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので「花園稲荷神社」と呼ばれたのが社名の由来とされているそうです。この神社の中にある境内社のひとつが「芸能浅間神社」(→→→こちら)です。神社の名前からしてでしょうか、芸能人の奉納者の名前が多く並んでいるそうです。といってもコメディアンの「なべおさみさん」とその息子の「なべやかん」さんくらいしかわからなかったですけど。こちらは、MoMo太郎でも多少知っている芸能人の名前もありました。アングラ演劇の「唐十郎」さんや女性のシンガーソングライター「西島三重子」さん、そして漫才トリオのかしまし娘の末っ子である「正司花江」さんの名前も見えました。安永9年(1780年)と文化8年(1811年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行したそうです。そのようなことから花園神社と芸能の縁は深まっていったそうです。そのことから、ここに芸能浅間神社があるんでしょうか。芸能だけではなく、MoMo太郎が敬愛してやまない二宮金次郎像もありました。新宿区立四谷第五小学校が廃校になるに伴い現在地に移設されたものだそうです。浅間神社なので、御祭神は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が祀られています。そしてここにも、宇多田ヒカルの母親としても知られる藤圭子の歌碑が建立されています。この歌碑も、西向天神社の歌碑と同様に、平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。裏面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載されています。思えば、2013年に藤圭子さんが亡くなったのも西新宿というそうですから、藤圭子さんは、何かと新宿に縁があるのか、新宿という街に似合う方だったのか、そんな気がしますね。この歌を売った頃は19歳の可憐な風貌でありながら、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしは宇多田ヒカルよりもすごいですよね。人気ブログランキング新宿彷徨(その2) 圭子の夢は花園神社で咲く
2024年04月30日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いていくことにします。ここは新宿区新宿6丁目にある西向天神社(→→→こちら)です。東都七天神(→→→こちら)のひとつという天神社になります。1228年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、大宰府に向かって、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。かつては大久保天満宮とも呼ばれていて、古くから東大久保村の鎮守でした。棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものだそうです。この境内の一角に藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の歌碑がありました。藤圭子(→→→こちら)といえば、宇多田ヒカルの母親としても知られていますが、「演歌の星を背負った宿命の少女!!」というキャッチフレーズの人気演歌歌手だったんですよね。そして、この歌碑は平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。なぜここに歌碑が建立されたかというと、この西向天神社は、デビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式を行った場所であったそうです。歌碑の裏面には「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と刻まれています。【つづく】人気ブログランキング
2024年04月29日
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