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最近の話題というと、自由民主党総裁選挙ですね。9名の方が立候補され、自民党の党員の皆さんは誰に投票するのか悩ましいかも知れませんね。党員の人でも、義理や仕事の付き合いで党員になっている人もいるでしょうから、そういう人は「〇〇先生お願いね」とか言われているかもね。といっても最後は、国会議員の方々の投票で決まるから、どうなんでしょうかね。さて、大月桃太郎伝説を辿っているMoMo太郎が、猿橋に向かって歩き続けると、中央高速道路と桂川(相模川)の支流の葛野川が交差する地点にやって来ました。正面に見えるのが中央高速道路の橋脚です。葛野川に架かる橋を渡ります。橋から望む葛野川の上流側です。橋の下に見えるのは、大月市と上野原市へ水道水を供給するための浄水場です。さらに橋の上を進むと、岩殿山が見えてきました。桃太郎と鬼が闘ったのは、このあたりなのでしょうか。下流画には桂川右岸の山並みが見えています。桃太郎はこの山並みに沿った下流側の鶴島という地区で成長したと伝えられています。この橋の名称は百蔵橋(ももくらばし)です。大月桃太郎伝説では、桃太郎の入った桃は、百蔵山の方から流れてきたと伝えられています。百蔵橋は葛野川に架かる橋ですが、さらに続いて、百蔵山から流れてくる小川があり、それを越える橋があります。背戸の沢橋という名称でした。桃太郎の入った桃はこの沢から流れてきたのでしょうか。この交差点を猿橋の方に向かって右折しました。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その9) 百蔵橋(ももくらばし)
2024年09月22日
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ここから岩殿山を外れて名勝「猿橋」に向います。道端に建てられた石碑、どのような謂れのあるものでしょうか。住宅街の中に出てきました。「ハッピードリンクショップ」とありましたが、お店ではなく自動販売機があるだけのようです。激安という文字に惹かれてペットボトルの水を購入しました。その横にある空地です。この場所も大月桃太郎伝説に関連する「鬼の杖」がある場所のようです。伝説では、猿橋にいた桃太郎が岩殿山にいる鬼に向かって「これから退治に行く」と呼びかけたところ、怒った鬼が左手に持っていた石の杖を投げたものの、利き手ではなかったために猿橋まで届かず途中の畑に落ちたと伝わっています。ここには、それにちなんだ、模型が展示されていました。また、鬼が投げた石杖は、地面に刺さると大地震が起きました。そのため、石杖の落ちた場所は「石動(いしどう)」と言われています。さらに奥に進んで、葛野川の近くまでやってくると、畑の一角に「鬼の杖」がありました。鬼の杖の伝説には、いく通りか、伝わっているようですね。石の杖、斜めに刺さったように見えるところが、いかにも投げつけたという感じがしますね。なお、この石は花崗閃緑岩(→→→こちら)になります。【追伸 月の写真】望遠レンズを使わずに月の写真を撮影してみました。撮影の設定は、絞り値f/36 露出時間1/80秒 ISO6400 ホワイトバランス太陽光にしています。月がわかりにくいので、月だけが見えるようにまわりをトリミングしたが下の写真です。ちょっと画像が荒かったですね。でも、望遠レンズなしでもなんとなく撮影できるものですね。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その8) 石動「鬼の杖」
2024年09月21日
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爽やかな秋晴れでした。「山はあって山無し県」という鉄板のスベリ親父ギャグを思い出すくらい山が深いですね。こちらの神社も大月桃太郎伝説に関係するそうです。ネズミを使いとする大己貴命(オオナムチノカミ)が御祭神の子神(ねのかみ)神社です。創建は大同3年(808年)と伝わる岩殿村地域の産土神だそうですが、最近建てられた社殿がありました。子神神社の建設記念碑がありました。平成15年に再建されたみたいですね。鬼が桃太郎との戦いで逃げる時に隣の徳弦山に足をかけたしたが届かず、股が裂け、その時流した血が赤土になったと大月桃太郎伝説では伝わっています。ということは、鬼は退治されたというか、自滅・・・でしょうか?【追伸】兵庫県知事、ついに不信任決議されたそうですね。あの感じだと、辞職なしで議会解散ですかね。でも、また同じ議員が多く当選すれば、また不信任で、失職になるのかな?不信任→解散→不信任→解散のループはないみたいですから。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その7) 子神神社の「鬼の血」
2024年09月20日
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次に訪れたのは、「鬼の岩屋」です。先ほどの「鬼の盃」から国道139号(→→→こちら)を北に進んだ、岩殿山の畑倉登山口から山の中へ入って行きます。登山者は登山届を出すようですね。なかなかの山道です。道標に従って鬼の岩屋に向かいます。ここが「鬼の岩屋」と呼ばれる新宮洞窟があります。ここには円通寺の新宮として懸け造りの堂宇があったそうです。大月桃太郎伝説では、ここに鬼が住んでいたとそうです。ここは滝になっているようですが、この時期は水量が少なくて近くまで行けそうです。鬼が住むのには、ちょっと天井が低いかも。鬼が住んでいた形跡はないようですね。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その6) 円通寺新宮跡の「鬼の岩屋」
2024年09月19日
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9月17日の中秋の名月、一応撮影してみました。さて、大月の桃太郎伝説を探すハイキングを続けます。道に迷わないように地図をチェックしました。岩殿山には大同元年(806年)開創と伝わる天台宗寺院の円通寺(→→→こちら)が存在し、円通寺は岩殿山の南東麓に観音堂や三重塔、新宮などの伽藍が配され、「岩殿権現」「七社権現(明神)」と呼ばれた。そうです。そして、ここはその円通寺の跡になるそうです。ここにある手水鉢には、「鬼の盃」と言われているようです。この説明板によれば、大月桃太郎伝説では岩殿山の赤鬼が夜な夜な酒盛りに使った盃と言い伝えられているそうです。最盛期には三重塔・岩殿七社権現・常楽院に大坊・観音堂・不動堂そのほかの付属する諸施設と大伽藍を持っていた円通寺の痕跡を探してみました。「徒是七社大権現迄八丁」と刻まれた石碑が円通寺を偲ばせるものでしょうか。こちらには円通寺についての説明板が設置されていました。円通寺の歴史が書かれていました。敷地の中にあった岩でできた船に乗っているこのお地蔵様が、ここが仏教寺院があったことを伝えているのでしょうか。左手に持つ宝珠を桃に見立て「桃太郎地蔵」と呼ばれているそうです。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その5) 円通寺跡の「鬼の盃」
2024年09月18日
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岩殿山の麓を通る中央高速道路です。高速道路は山裾をトンネルで抜けています。岩殿山の頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖になっていました。鏡岩の右側が山頂になるのでしょうか、なにかテレビ放送の中継局(→→→こちら)が見えました。登山は素人のMoMo太郎、岩殿山へのアタックは遠慮しました。この丸山公園は関東の冨士見百景に選ばれていました・確かに、ここから見る富士山もいいです。大月から見る富士山は、てっぺんだけです。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その4) 岩殿山から見る富士山
2024年09月17日
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岩殿山には。戦国時代、甲斐国都留郡の国衆で武田家に仕えていた小山田氏(→→→こちら)の居城であった岩殿山城がありました。その城門をイメージする門がありました。傍には「岩殿山」(→→→こちら)についての説明がありました。なお、岩殿山の標高は634mで、東京スカイツリーと同じです。ここは岩殿山丸山公園と呼ばれる公園となっています。公園内にあるこの門の先には、中世の城の館を思わせる建物があります。この建物は、「岩殿山ふれあい館」(→→→こちら)で、1階は、大月市出身の山岳写真家白簱史朗先生が撮影した、秀麗富嶽十二景から眺めた四季折々の富士山の写真を中心に展示しています。2階は、岩殿山に関する資料の展示等を行っています。また、今では見ることが出来ない大月市の昔の写真を展示しています。なお、岩殿山ふれあい館の入場料は無料です。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その3) 岩殿山ふれあいの館
2024年09月16日
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中央本線を越えてしばらく歩くと、橋を渡ります。この橋は桂川にかかる橋です。桂川というのは相模川(→→→こちら)の山梨県内での呼び名です。この川が桂川です。昔々、おばあさんが「桂川」で洗濯をしていると大きな桃が「百蔵山(桃倉山)」(ももくらやま)から流れてきたそうです。おばあさんが洗濯していた場所は、この川の下流になるようです。橋を渡り坂道を少し登って振り返ると、大月の市街地とその向こうには富士山が見えました。日本一の幟を持つ桃太郎には富士山が似合いますね。さらに岩殿山に向かって熊出没注意の山道を登って行きました。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その2) おばあさんはこの川の下流で洗濯しました
2024年09月15日
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今年の夏は暑くてあまりで出歩かなかったので、皆さんにご紹介するような旅の思い出もなかったので、ネタ切れのMoMo太郎です。ということで昨年の11月4日(土)に山梨県大月市へ出かけた記録をご紹介します。さて。新宿駅から普通列車を乗り継いで、山梨県ある大月駅までやって来ました。この町、初めてやって来たMoMo太郎です。大月駅は、山梨県大月市にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・富士山麓電気鉄道の駅になります。そして、ここから先は、富士急行という名前で呼ばれている富士山麓電気鉄道株式会社(→→→こちら)のホームになります。大月駅の駅舎はこんな山小屋風の建物になっています。駅前には桃太郎伝説に因むモニュメントがありました。今回は、この大月桃太郎伝説の地(→→→こちら)をMoMo太郎が歩くという趣向です。皆さんご存じ昔話の桃太郎。古事記にも登場する神話上の人物、吉備津彦命(きびつひこのみこと)がモデルと言われています。そして、日本には桃太郎伝説発祥の地と言われる土地が各地にあります。 岡山県岡山市:旧地名の吉備や名産の桃に因み発祥の地と言われています香川県高松市:“鬼無”という地名があり、桃太郎が鬼を退治した結果と伝わっています愛知県犬山市:桃太郎神社にまつわる様々な伝説があります。奈良県磯城郡田原本町:吉備津彦命(きびつひこのみこと)の出身地と伝わっていますそして、ここ大月市にも桃太郎伝説(→→→こちら)があるそうです。大月市の桃太郎伝とは、昔むかし、おばあさんが「桂川」で洗濯をしていると、どんぶらこどんぶらこと大きな桃が「ももくら山」の麓から流れてきました。その桃から生まれたのが「桃太郎」。「鶴島」にて成長した桃太郎は、「岩殿山」に住む悪い鬼の退治に出かけました。道中、腰に付けたきび団子をあげ、「犬目」でイヌを「鳥沢」でキジを、「猿橋」 でサルを家来にしました。桃太郎軍団との激闘の末、攻撃に耐えかねた鬼は逃げ出し、隣の「徳巌」に足をかけると、哀れなことに股が裂けてしまいました。だそうです。駅の近くにあったこの建物。NHK大月支局だそうです。NHKって各地にお店を出しているんですね。中央本線の踏切を渡って、北側に向かいます。こちらが大月駅側です。そして、こちらが東京側になります。画面の左側に見える山が岩殿山。大月桃太郎伝説では、ここに赤鬼が棲んでいたということになっています。ちなみに、この踏切、大月ではなく高月踏切だそうです。(大月市を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ2023年11月の大月市(その1) 大月桃太郎伝説
2024年09月14日
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上野三碑の訪問の旅の最後はこちらの金井沢碑(→→→こちら)です。金井沢碑へは、この緩やかな会談を登ってゆきます。最後は、ちょっと急な階段になっていました。金井沢碑も覆屋で保護されています。特別史跡 金井沢碑の説明板がありました。金井沢碑は、奈良時代初期の726(神亀3)年に、三家氏を名乗る氏族が、当時の最も新しい文化である仏教思想によって先祖の供養、一族の繁栄を祈るために造立した石碑だそうです。ガラス越しに石碑の正面を撮影しました。銘文には風化のため文字が判読しにくい部分があるそうですが、次のような内容だそうです。上野国群馬郡下賛郷高田里三家子(?)為七世父母現在父母現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄刀自合六口又知識所給人三家毛人次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口如是知識結而天地誓願仕奉石文 神亀三年丙寅二月二九日現代語訳にすると、上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子(?)が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀三(七二六)年丙寅二月二十九日ちなみに、刀自とは、家を統括する女性の位。主婦のことです。また、鍛師とは、製鉄や金属加工に携わる職のことです。こちらは石碑の左側面です。ここからは上野三碑めぐりバスではなく、徒歩で上信電鉄根小屋駅に向かいました。この細い山道を抜けて、上信電鉄の踏切を越えて、向うに見えるのは、上毛かるたでは「裾野は長し赤城山」として紹介されてる赤城山ですね。途中で見かけた道祖神(→→→こちら)です。上信電鉄の根小屋駅の写真を撮影と思ったのですが、道祖神の写真などを撮影していたせいか、駅には列車の出発時刻ギリギリに到着してしまい、撮影できませんでした。残念!!でした。(上野三碑めぐり)【了】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その8) 金井沢碑
2024年08月26日
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「史跡山上碑及び古墳」と刻まれた石柱がありました。「特別史跡 山上碑及び古墳」(→→→こちら)の説明板です。要約すると、「山上碑は、輝石安山岩の自然石で、高さ111cmに53文字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられました日本最古級の石碑になります。山上碑は放光寺の僧 長利が、亡き母の黒売刀自(くろめとじ)を供養するとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものです。黒売刀自は、碑の隣にある山上古墳に埋葬されたと考えられています。」ということです。こちらの石碑も覆堂で保護されています。こちらの山上碑は、ガラス越しでしたが、なんとなく見ることができるように撮影できました。銘文はこう刻まれています。辛己歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也 放光寺僧現代語訳は、辛巳年10月3日に記す。佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。ということでした。こちらにも記念碑や歌碑が設置されていました。また、古い墓石もあり、この場所は弔いの場所として使われていたんでしょうか。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その7) 山上碑
2024年08月25日
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再び上野三碑めぐりバスに乗って、山上碑を訪れました。バスを降りる時、運転手さんによると「この道を真っ直ぐ歩いていって左手に入口があります」ということでした。山上碑は、こちらの階段を登っていくようです。階段の登り口にあった石碑です。万葉集の「吾が恋は まさかも悲し草枕 多胡の入野の奥もかなしも」という歌が刻まれているそうです。石碑には手島右卿(てしまゆうけい)(→→→こちら)により万葉仮名で歌が刻まれています。さすが山上碑、山の上にあるんですね。この階段を登って行きます。階段の途中にあった「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」の説明板です。江戸時代の中頃、旅をおぼえた民衆は、名所古跡を訪ね、古来の札所を廻った。西国33カ所の観音札所であり、坂東の札所である。しかし一般の庶民にとって、これら長距離の札所は高嶺の花で、とうてい巡礼することは出来ない。そこで考え出されたのがミニ観音札所や、四国八十八カ所になぞらえた新四国である。指定の山上古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれたのは何時の頃か、明和6年(1769年)には多胡郡、緑野郡、北甘楽郡内の坂東33所遷しの4番札所に選ばれたが、時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられてあたかも史跡への階段であるかのような、錯覚のみが残っている。階段を登ったところにある特別史跡「山上古墳」(→→→こちら)です。山上碑に隣接するこの古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられいるそうです。古墳の前にあった説明板です。この説明板によると、傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として造られ、その後辛巳年(681年)に黒売刀自が追葬された時に山上碑が建てられたと考えられているそうです。この古墳の石室の中には、馬頭観音像が据えられています。かっては古墳の前に観音堂が建てられ、観音霊場「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」のうち第四番山名宝積寺窟堂という札所の一つだったそうです。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その6) 山上古墳
2024年08月24日
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上野三碑ガイダンス施設として整備されているのがこちらの多胡碑記念館(→→→こちら)です。施設内では、古代多胡郡をしのばせる考古資料や、上野三碑の実物大レプリカ、多胡碑の碑文の書風にかかわる中国の刻石の拓本などが展示されています。撮影できそうだったのは、子供時代を群馬県で過ごした人は、みんな知っている上毛かるた(→→→こちら)の一枚「昔を語る多胡の古碑」です。また、拓本の体験コーナーもあり、MoMo太郎も挑戦してみました。また、多胡碑記念館に隣接して吉井いしぶみの里公園がありました。公園の中には、古墳や古代ハスの池がある。また多胡碑の碑文の文字が園内の岩に刻まれています。このあたりにある多胡古墳群は吉井町多胡から吉井町神保にかけて分布する古墳時代後期~終末期にかけての群集墳で、90基以上存在していたと考えられる吉井地域最大の古墳群だそうです。こちらの公園には、2基の古墳が移築復元されています。こちらの古墳は、片山1号墳(上毛古墳総覧吉井町65号)高崎市吉井町片山117番地より粘土槨を移築本古墳は、墳形32.6mを測り、周囲に巡る濠跡を含めると直径約50mを測る円墳となります。主体部は墳頂中心より南に寄った位置から、8.8mを測る長大な粘土槨を確認しました。粘土槨からは小型仿製の内行花文鏡のほか竪櫛(約40点)、鉄剣、鉄鏃、鉄製斧、石製模造品(斧・刀子・臼玉)、管玉などが出土しました。築造年代は、4世紀末から5世紀初頭と推定されます。粘土槨は全長約8.8m、幅約2.0mの墓壙の中に粘土を敷き、大木を建て半分にして中をくりぬいた割竹形木棺を置き、更に粘土で包んだものが残っていました。粘土槨(ねんどかく)古墳というもので、古墳の墳丘の上から掘られた土坑内の粘土床上に安置された木棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設になるそうです。こちらの古墳は石室のある古墳です。こちらの解説プレートによれば、南高原1号古墳(上毛古墳総覧多胡村115号)高崎市吉井町神保259、260、261番地より移築本古墳は直径17mを測る円墳で、低い基壇を有する二段築成を呈しています。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には北側を中心に葺石が残っていました。主体部は南側に入口をもつ横穴式石室です。石室全長は約8mで、石材は地元の牛伏砂岩を用いています。築造年代は7世紀代と推定されます。石室断面図石室は、奥の天井石及び奥壁、左右側壁(袖部を除く)、通路(羨道)の左右側壁下半(入口は除く)が残っていました。またこちらは、昭和26(1951年)、千葉県東京大学厚生農場(現 東京大学検見川総合運動場)の遺跡で発掘された2000年以上前の古代の蓮の実から発芽、開花した貴重な大賀(おおが)ハス(→→→こちら)が移植された池です。7月下旬のこの時期、ハスの花も終わりかなと思っていたら、ありました。大賀ハスの花が咲いていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その5) 多胡碑記念館と吉井いしぶみの里公園
2024年08月23日
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最初にやって来たのが、この多胡碑(→→→こちら)です。石碑保護のためこの覆堂の中に多胡碑はあります。ガラス越しに石碑を撮影してみましたが上手く撮影できませんでした。多胡碑については写真(→→→こちら)をご参照ください。参考に銘文を示すと、弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊現代文に訳すと、朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。という意味になるそうです。樹木の枝の陰でよくみえませんが、多胡碑に関する解説が書かれている説明板です。多胡碑についてざっと紹介しますと、多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。こちらの木は、羊さまの榎といって、地元の人が多胡碑のことを「羊さま」と呼んでいることから名づけられた木のようです。本体の多胡碑は上手く撮影できなかったので、周りにあった石碑を撮影しておきました。覆堂の横にあった石碑です。これは、陸奥出羽按察使前中納言有長と言う人が詠んだ「むかしは書残したるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかがく」という歌の歌碑のようです。ちなみに、按察使(あぜち)とは地方行政を監督・監察する令外官のことです。こちらにも歌碑がありました。吉井町出身の歌人、藤原寛一の詠んだ「万代もいかでつきせじ名にしあう ほまれぞのこる多胡の碑」という歌でした。この碑は「多胡碑記の碑」で、文学博士の男爵、細川潤次郎(元老院参議)の撰によるもので、彼が上野三碑を巡覧した時の、多胡碑の考証や三碑の状態の記録が記されています。石碑の署は当代日本随一の書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく)の筆による隷書体です。こちらは、吉田松陰の妹の文と結婚していた初代群馬県令、楫取素彦(かとりもとひこ)の歌「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるる 時はきにけり」の歌碑です。楫取素彦は、多胡碑の保護に努め、内務省にかけあって木柵等の修理をおこなったそうです。さらに楫取は地元の有志に、寄付を募って多胡碑のある稲荷明神社周辺の土地を買収して整備するよう助言し、自らも寄付をおこなったそうです。上野三碑の幟も飾られていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その4) 多胡碑
2024年08月22日
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上信電鉄に乗って、吉井駅にやって来ました。こちらが上信電鉄吉井駅の駅舎です。駅舎は戦前に建てられ、諸改修を受けつつ現在も用いられているそうです。駅前には、小さな商店があるだけで、コンビニもなくなんか寂しいですが、この上野三碑めぐりバス(→→→こちら)に乗って、上野三碑を回ります。このバス(といっても、9人乗りのジャンボタクシー車両ですが)は、高崎市教育委員会が上野三碑の見学者のために無料で運行しているものです。路線バスではなく、また、バスツアーでもないので、バス停に到着後、すぐに発車します。概ね一時間に一本の頻度で運行されているので、それぞれの石碑をゆっくり見学して次のバスに乗って移動するという利用方法になります。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その3) 上野三碑めぐりバス
2024年08月21日
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上信電鉄高崎駅の入口にある3つの石碑です。これが今回、高崎までやってきた目的の「上野三碑(こうずけさんぴ)」(→→→こちら)です。ここでこれを観たら旅の目的達成かというと、駅にあるこれはレプリカです。この笠のような石がついているのが「多胡碑(たごひ)」です。この細長い形をしたのが「山上碑(やまのうえひ)」そして、丸みを帯びたのが「金井沢碑(かないざわひ)」です。日本国内で完全な形で残るものとしては最古の石碑とされるこれらの3つの石碑は、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」(→→→こちら)に登録されています。「世界の記憶」とは世界的に重要な記録物への認識を高め、保存やアクセスを促進することを目的として、ユネスコが1992年に開始した事業の総称だそうです。日本では、この上野三碑のほか、藤原道長が残した日記「御堂関白記」、炭鉱記録画家・山本作兵衛が描き残した筑豊の炭鉱画「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」、舞鶴引揚記念館が所蔵する「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」などがあるそうです。また日本と朝鮮半島にまたがる地域登録として「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」という日本の被差別民・部落民と朝鮮の被差別民・白丁(ペクチョン)に対する厳しい差別と戦った記憶もあるそうです。ということで、上信電鉄(→→→こちら)に乗車して現地に向かいましょう。改札はご覧の通り、交通系ICカードは使えません。まず、吉井駅までの切符を購入。高崎から吉井までは営業距離は11.7キロですが、570円、ややお高いかも。東武鉄道なら11 ~15キロで270円です。しかし、久しぶりの切符なので落とさないように、財布に入れて保管しましたが、降りる時どこに入れたのか忘れて、あせりました。上信電鉄、元々はに上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、高崎 - 下仁田間が開業したのですが、その後、下仁田から長野県の佐久方面まで延伸する計画で上信電鉄と名前を変えたのですが、鉄道の延伸は実現しなかったようですね。上信電鉄の鉄道むすめ、富岡しるく(→→→こちら)さんの案内では、沿線には、上野三碑以外にも、富岡製糸場、妙義山などの観光スポットが沢山あるそうです。この上信電鉄に乗って吉井駅へ向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その2) 上信電鉄高崎駅にて
2024年08月20日
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7月末、夏の群馬県高崎市にやって来ました。高崎駅は古くから交通の要衝として栄え、9路線が乗り入れる群馬県内最大かつ北関東有数のターミナル駅です。乗り入れている路線は、JR東日本の上越新幹線、北陸新幹線、高崎線、上越線、信越線、八高線、両毛線、吾妻線そして上信電鉄です。こちらはMoMo太郎が乗ってきた上野東京ラインのE233系。こちらは八高線のキハ110系。八高線は高崎と八王子を結ぶ路線ですが、高崎~高麗川間は非電化区間のためこのように気動車が使われています。なお、高麗川~八王子間は平成8年(1996)に電化区間となりました。この八高線、八王子を経由して横浜線で東海道線につながっています。つまり、東京都心部を経由せずに上越地方と横浜港を結ぶ物資の輸送路としても使えるので、関東大震災のような災害があった時には、役に立つ路線です。こちらは上越線を走るE211系です。高崎駅は明治17年(1884)開業なので今年で140周年になります。ということで高崎までやってきたMoMo太郎、次ぎは上信電鉄の高崎駅に向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その1) 高崎駅にて
2024年08月19日
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愛宕神社本殿の裏側には、また石段がありました。こちらは、案内板によると、この石段を登り詰めた処に愛宕神社の奥社、飯綱神社が有り御祭神の手力雄命が鎮座する。其の奥の御奉殿は菊花紋を付けた青銅造の六角堂で夷針神社が祀られている。台座は自然石の美事な亀甲形で芸術的魅力を感じる。西に松尾神社、芭蕉の句碑があり一ツ葉の自生も見られる。東には水の神、龍神社が祀られ巴川の水源が泉地名の起源と思われる。北は愛宕山を守護し神徳の発揚に寄与した十三天狗の祠が有り関東の奇祭として悪態祭は広く知られる。ということで石段を登りつめたところにある飯綱神社です。飯綱神社拝殿の裏に回ると、青銅製の六角堂と十三天狗祠がありました。六角堂は夷針神社を祀っているそうです。夷針神社(いはりじんじゃ)(→→→こちら)とは聞きなれない神社の名前ですね、そして、こちらが十三天狗の祠です。十三天狗とは、仙境異聞(→→→こちら)によれば、元は五天狗であったものが、十二天狗になり、さらに狢内(むじなうち)村(現在の石岡市龍明)の長楽寺の僧侶が加わって十三天狗になったそうです。この辺りは吾国愛宕県立自然公園(→→→こちら)としてハイキングなんかを楽しめるようになっているんですね。こちらは「御泉井神」と書かれた札があり、神聖な泉が湧いているんですね。愛宕神社の東側の景色です。望遠を使ってみると、茨城県中部の鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町にまたがる那珂川水系の汽水湖の涸沼(→→→こちら)まで見えました。(笠間市愛宕山)【了】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その3) 飯綱神社、六角殿、十三天狗祠そして涸沼
2024年08月05日
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愛宕山の山頂にある愛宕神社(→→→こちら)へ向かいます。参道にあった鳥居の近くに「悉帰産土大神 鳥獣慰霊碑」と刻まれた石碑がありました。どういう経緯でこの石碑が建立されたのかはわかりませんが、悉とは「ことごとく」という意味の漢字で、おそらくすべての生き物が産土大神(生まれた土地の守り神)のところに帰るという意味の鳥獣慰霊碑なのでしょうか。参道は自動車でも行けそうですが、MoMo太郎は歩いてお参りすることにします。鬱蒼とした林の中を進みます。途中に餅つき道祖神と刻まれた石碑がありました。いろんな道祖神(→→→こちら)があるんですね。鳥居を過ぎると長い石段が、振り返ってみると結構、急な石段でしたね。本殿建築記念と刻まれた石柱がありました。そして振り返ると、こちらが本殿です。愛宕山の山頂にある愛宕神社は、日本三大火防神社のひとつといわれており、創建が大同元年(806年)と伝えられている歴史ある神社だそうです。。本殿の中まで撮影しました。日本三大火防神社のひとつと言われているだけのことはあり、消防団の奉納した額が掲げられています。そして、伝説では愛宕山、筑波山、加波山は天狗の修業場として栄え愛宕山では13人の天狗が住み着き厳しい修行が行われたと伝わっているので、天狗のお面も奉納されていました。境内にも多くの石碑が奉納されていました。日本三大火防神社のひとつの神社にふさわしい石碑ですね。しかし、日本三大火防神社ってどこなんでしょうかね。ここ以外は、やっぱり、静岡の秋葉神社(→→→こちら)と京都の愛宕神社(→→→こちら)なんでしょうか。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その2) 愛宕神社
2024年08月04日
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茨城県笠間市にある愛宕山(標高306m)を訪れました。愛宕山には昔、天狗たちが住んだという伝説があり、「あたご天狗の森」(→→→こちら)という公園施設があります。大駐車場のほか 宿泊施設やフォレストハウス、公衆トイレ、太平洋まで一望できる展望デッキなどが整備されています。こちらの施設が「あたごフォレストハウス」です。ハイキングや森林浴を楽しむ来訪者の多くが、車から徒歩に移動手段を切り替える中継地点として、カフェやシャワー施設などが整備されています。展望台からは、霞ケ浦や石岡市、水戸市まで見渡せました。天狗伝説にちなんで、天狗のモニュメントもありました。【愛宕山の天狗伝説について】昔、愛宕山が岩間山といわれていた頃、 文政6年(1823年)、平田篤胤が天狗小僧寅吉に取材した「仙境異聞」を出版し、そこに「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗」がいると描き、江戸の文化人に霊界としての「岩間山」の存在が知られるようになったというそうです。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その1) あたご天狗の森
2024年08月03日
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土浦市の中城通りのある旧中城町は、土浦城のお膝元であり、江戸時代より商業の中心地として栄えたエリアです。旧水戸街道の宿場町として発展した背景から現在でも江戸情緒を漂わせた建物が点在し、歴史を感じる街並みが残されています。この道が旧水戸街道になります。その中城町の中城通りに面して建てられている土浦まちかど蔵「大徳」は、まちあるきのアンテナショップの役割も担う土浦観光の拠点として整備されたものです。江戸時代末期に造られた呉服店の見世蔵、袖蔵、元蔵、向蔵の4棟を改修した建物の中には、観光案内所やおみやげ販売コーナーがあり、昔の土浦の暮らしに触れることのできる展示資料館もありました。こちらが、展示資料館の内部です。また、土浦まちかど蔵「大徳」の向かい側にあるこちらの建物は、土浦まちかど蔵「野村」。袖蔵はそば打ち体験などができる多目的工房となっていて、レンガ蔵は喫茶店として活用していました。中城通りから土浦駅に向かって歩いて行く途中にあったホテルです。ベルズインという名前にちなんででしょうか、壁面には鐘が付けてありました。そして、JR土浦駅に到着しました。土浦の町、昔から仕事の関係などで何度も訪れていた町ですが、こうやって探求したのは初めてでした。しかし、色々と興味深いものがありましたので、また、機会を作って探求してみたいと思いました。(土浦市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その14) 土浦まちかど蔵「大徳」
2024年07月20日
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同じ狭い境内の中に同居する不動院と琴平神社ですが、琴平神社の前には白壁の蔵が建っています。この建物の前には「沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡」の説明板がありました。沼尻 墨僊(ぬまじり ぼくせん)(→→→こちら)は、傘式の地球儀を製作したことで知られる江戸時代後期の地理学者、天文学者ですが、この地で寺子屋を営んでいたそうです。また多才な人で、専門である地理学の他、天文学(天文機器:渾天儀を製作し天体観測)や建築土木(堀抜き井戸の開発)、発電機(エレキテル)の開発、漢詩・書道・絵画に精通するなど実績を上げ土浦藩からも2度も褒章され天保15年(1844)には帯刀も許されています。また、この「退筆塚の碑」は、沼尻墨僊の七回忌に門弟たちによって建てられた石碑です。退筆とは穂先がちびて使用できなくなった筆のことですが、沼尻墨僊、筆がちびて使えなくなるまで学問にいそしんだということでしょうか。そして、このあたりは旧町名で「中城町」と呼ばれていたようです。この石碑に刻まれた由来によると、田宿と同時(慶長九年)に生まれた町人町で、土浦の代表的な町としてだけでなく、「中城分」という集落の中心であった。土浦城大手門に近く、参勤の大名を接待する御使者屋敷もあった。駒市で知られている中城天満宮もこの町の象徴と記されていました。ここで紹介したほかにも、この中城町のあたりには、桜橋から移設された遺構の一部が狭い参道の片隅に置かれていたり、土浦ツェッペリン伯号来訪を物語る貴重な史料写真やパネルなどが常設展示されいる蔵ギャラリーなどがあり、土浦の歴史を学ぶにはいい場所ののように思えます。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その13) 退筆塚の碑と寺子屋跡
2024年07月19日
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亀城公園の前川口門を出ると、「旧町名 内西町」の道標がありました。この町名の由来は次のとおりです。土浦のシンボル亀城の所在地で、もと西郭[にしくるわ]・巽郭[たずみくるわ]といわれていた。勝軍木郭[ぬるでくるわ](鷹匠町)とともに藤井松平信吉公のときにいち早く造成された武家町で、城に近いだけに特に重臣達の屋敷や春屋[つきや]・会所などの藩関係の役所があった所である。この細い道を抜けて土浦駅の方へ向かいます。この道を抜けると、この赤いお堂がありました。中条山不動院というお寺で、創建は永享年間(1429~40)に、信太荘土浦郷の豪族で土浦城主だった若泉氏によるといわれています。その隣に並んで立っているのは、琴平神社です。明和2年(1765)、四国金比羅宮より分霊勧請され、安永4(1775)年に土浦城下中城町不動院境内に社殿を建立されたそうです。琴平神社の鳥居と不動院の山門が並んで建っています。ちょっと不思議な光景でした。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その12) 中城山不動院と琴平神社
2024年07月18日
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神龍寺から国道354号に戻り、この御城橋を渡ります。橋とありますが、川は埋め立てられて橋の親柱と欄干だけが残っています。ここは土浦城址(→→→こちら)です。お城であったことは今も残るこの堀でわかります。ここは既に、MoMo太郎日記の2024年3月30日(→→→こちら)と31日(→→→こちら)で紹介しています。土浦は度々水害に遭っていますが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ土浦城です。城址は亀城公園となっています。中には噴水のある庭園も整備されています。池の中には噴水、そして周囲にはハナショウブが咲いていました。黄色いハナショウブでした。天守はありませんが、門や櫓は復元されて残っています。これは、江戸時代から残る二階建ての太鼓櫓門です。「史跡 土浦城址」と刻まれた石碑がありました。こちらは復元された西櫓です。i西櫓は1949年(昭和24年)、キティ台風の被害を受け、1950年(昭和25年)、復元するという条件つきで解体されたそうです。そしてようやく、1992年(平成4年)に保管されていた部材を用いて復元されたそうです。こちらの東櫓は、1884年(明治17年)に本丸御殿が焼失し、このとき損傷した東櫓は撤去されましたが、1998年(平成10年)に土浦市立博物館の付属展示館として復元されています。本丸跡は堀と城壁に囲まれています。二の丸跡は亀城公園となり、大きな石碑がありました。こちらの門は土浦市指定文化財の前川口門です。親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門の形式になっています。元々は、搦手門東側付近にあった前川口門ですが、明治以降移転を繰り返しましたが、現在は二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に移築されたそうです。土浦城の城郭はこのホームページ(→→→こちら)を参照して下さい。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その11) 亀城公園
2024年07月17日
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土浦第一中学校(→→→こちら)の敷地にあった郁文館正面の近くにあるお寺です。土浦第一中学校を卒業した女優の栗山千明さん(→→→こちら)もこの境内を歩いたこともあるんでしょうね。また、大正時代に住職だった秋元梅峰和尚は霞ヶ浦海軍航空隊と関係が深く山本五十六も神龍寺に下宿していたとされ、関東大震災や航空隊で犠牲になった慰霊を慰める為、自費を投じて花火大会を始め現在の土浦全国花火競技大会の基礎となっているそうです。曹洞宗神隆寺(→→→こちら)という寺号碑が建てらています。山号は宝珠山というそうです。戦国時代、土浦城の城主だった菅谷勝貞の開基。その後、土浦藩の藩主となった土屋氏の菩提寺となったお寺です。広い境内には、鳶(とび)職関係者が建てた慰霊碑がありました。そして、こちらが山門です。山門の前には、「不許葷酒入山門」という戒檀石があります。 「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読みます。 葷とは、ニラ・ニンニクなど臭気がある野菜です。 また、酒を飲むことが激しくいましめられているということです。同じお酒でも、般若湯と呼ばれると、少しはお酒も百薬の長として飲んでいいのかもしれませんね。こちらの境内社は、豊川稲荷だそうです。こちらの説明では、外西町の小広場に郁文館の門と並立してあった豊川稲荷の分身で文化9年(1812)に創建され、 国道新設時に神龍寺境内に移されそうです。なかな信仰を集めていたお稲荷さんで、東京からの参詣者もいたそうです。栗山千明さんもお参りしたのかもと思って手を合わせました。こちらは「たまき地蔵尊」。傍らには土浦市立土浦小学校による由来を記した説明板がありました。明治6年(1873)年2月の土浦市立土浦小学校創設以来在学中に亡くなられた児童・職員の霊を慰め、 併せて本校児童一同のご加護をお祈りするため昭和11年(1936)年9月23日、赤塚庄三郎校長時代に創設合祀されたものだそうです。むかしは、公立の学校でも宗教的なことを行っても許されたんですね。「たまき」とは、およそ130余年前の神竜寺の住職で人格高く学識深い名僧あった大寅(だいいん)和尚というが「欠けることなく余すことなく只一輪」筆あとあざやかに書かれた教えで、 土浦小学校の子どもたちは「たまきの子」と呼ばれているそうです。お寺なので鐘楼と梵鐘がありますね。この梵鐘は、江戸時代の俳人内田野帆が選定した土浦八景の1つ神龍寺晩鐘だそうです。「寒き夜のひとちからなり鐘の音」という内田野帆の句が有名だそうです。こちらが中門です。唐破風の唐門になっています。そして、本堂。正面の向かい唐破風がいいですね。本堂に付けられた扁額。神龍寺にある文化財の絹本普賢菩薩像(茨城県指定文化財)と神龍寺旧本堂天井の雲龍図(土浦市指定文化財)が紹介されていました。こちらの石碑は「色川三中翁記念碑」です。色川三中(→→→こちら)とは、江戸時代の国学者、商人で家業であった醤油醸造業で成功した人です。色川武大(阿佐田哲也)氏は色川三中の弟・色川御蔭の長男・誠一の子の色川武夫の子供になるそうです。色川三中の養嗣子(養孫)は、代議士の色川三郎兵衛で、鉄道会社に働きかけて日本鉄道海岸線(現 常磐線)の敷設計画を変更させ、当時水害に悩まされていた土浦市の霞ヶ浦側に、線路の盛土を湖岸堤の代わりとして作らせたほか、逆流防止のため川口川閘門、田町川閘門の建設に出資するなど、土浦の水害対策に尽力した方です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その10) 神龍寺
2024年07月16日
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土浦橋を渡り、国道354号を進んでいくと、立派な門があります。門には「土浦市立第一中学校」とありました。第一というだけあって、歴史のある中学校の門と思いきや、門の前にあった説明板には、「郁文館の正門」と記されていました。郁文館とは、土浦藩7代藩主土屋英直が1799年に土浦城内に創建した藩校、郁文館。10代藩主土屋寅直が移転(のちの茨城師範学校土浦校)。1935年に取り壊され、正門のみ残され、跡地は土浦市立土浦第一中学校の敷地となった。であり、東京都文京区にある郁文館中学校・高等学校(→→→こちら)とは関係ないようです。この門は、1971年(昭和46年)7月13日に土浦市指定文化財となった。また、1987年(昭和62年)、隣接する道路拡張工事に伴って解体修理がほどこされ、ベンガラの成分が検出されたことから、色も復元されたそうです。【縄文時代に関する認識】一昨日の上高津貝塚(→→→こちら)のブログに関するコメントで、●全体にこの遺跡の復元担当者のイメージが色濃く反映しているような気がします。つまりある意味の「理想郷」・・・「貧富の差もなく戦争もなくみんなが仲良く助け合って生きていたんだろうなぁきっと」みたいな。そんな呑気な時代は一度もなかったような気がしますけど・・・というコメントがありましたが、このコメントされた方のイメージが色濃く反映したコメントですね。岡山大学と山口大学の共同研究によると、「縄文時代における暴力での死亡率はわずか1.8%である」との研究結果があります(→→→こちら)。戦争を「武力(武器)を伴った集団間の争い」と定義付けるなら、縄文時代には戦争は起こりにくかったと思われます。実際、全国各地に縄文時代の大規模な遺跡が見つかっていますが、そのほとんどに争いの形跡は見つかっていないようです。もちろん、食料を巡っての個人や集落同士のちょっとした小競り合い程度の争いはあったと思います。しかし、今よりも人口が遥かに少ない(当時の日本の人口は20万人程度)縄文時代には、食料がとれなくなれば、集落ごと各地を転々としながら場所を移動しても、他の集落との縄張りは重なることもなく、争うこともなかったでしょう。本格的に戦争が始まったのは、稲作をはじめるようになった弥生時代からのようです。それは稲作をするために土地を所有するという概念が生まれたため、今でも続く、領土をめぐる「戦争」というものが始まったと思われます。【霞ケ浦は海でした】一昨日の上高津貝塚(→→→こちら)のブログに関するコメントで、土浦って内陸のイメージでした。製塩をしてた痕跡があるというので大きな地図で見たら、まあ、確かに海はあるけど、近くはないですよね。ここまで海水取りに行ったのですね。びっくりです。というコメントがありましたが、確かに今の地図では土浦は海から遠い内陸部ですが、上高津貝塚ができた縄文時代には「縄文海進」(→→→こちら)といわれる温暖化にともなう海水準(陸地に対する海面の相対的な高さ)上昇があって、具体的には約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。その結果、霞ケ浦は筑波山の下まで広がっていたようです(→→→こちら)。ちなみに、霞ケ浦は元々は「浦」という名前が示すように海(太平洋)の入り江に由来し、砂州や河川堆積物によって出口を閉ざされたラグーンでした、そのため、時期や場所によって塩分濃度に違いはあるものの、かつての湖水は塩分が混じる汽水でした。しかし、昭和38年に完成した常陸川水門(→→→こちら)によって、霞ケ浦に海水が侵入しなくなり、淡水湖に変わってゆき、その結果、茨城県、千葉県、そして東京都の水がめとして利用されるようになりました。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その9) 郁文館正面
2024年07月15日
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上高津貝塚からまた土浦の市街地へ戻って行きます。土浦市を流れる桜川を渡るこの橋。親柱には落書きが、ちよっとこれは町の美観の減点ですね。桜川の上流部をみると広々とした平野が広がるイメージです。そして、北の方には山並みが。ズームしてみると、この山並みは筑波山ですね。富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称される標高877mと千mに足らないにもかかわらず、日本百名山にに数えられている山です。写真左側の峰が、男体山(標高871 m)と右側が女体山(標高877 m)です。この橋の名称は土浦橋。群馬県高崎市から茨城県鉾田市に至る国道354号の橋梁です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その8) 土浦橋から見えた筑波山
2024年07月14日
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考古資料館から外に出て、発掘された上高津貝塚を見ることにします。この丘全体、面積4.4ヘクタールが遺跡となっています。この説明板によれば、上高津貝塚(→→→こちら)は約4000~3000年前の縄文時代の貝塚を伴う集落の遺跡で、昭和52年(1977)に国の史跡に指定されています。当時は海の入り江だった霞ヶ浦から得られた豊富な魚や貝・塩、周辺の動植物などを採取して生活していたムラの跡で、遺跡は、標高20~22mの東西に起る丘陵の縁辺に位置し、径約150mの平坦面を囲むようにして5地点に貝塚が分布していたようです。丘陵の頂上部の平坦面に復原された竪穴式住居があります。第1号竪穴式住居跡という表示がありました。竪穴住居とは、地面を四角形に掘り込み、柱を建てて屋根を組み、葦などを屋根にした建物です。中を覗いている人がいました。入口は低くて中に入るのは苦労しそうですね。竪穴式住居の中はこんな感じの土間になっていました。これは廃棄土坑というもので、縄文時代の人が食べかすなどのゴミを捨てていたところだそうです。ここは1号墳墓と呼ばれるもので、ここに葬られていた人は身体を折り曲げられて葬られたと考えられています。遺跡の回りには、このような森が広がっていました。縄文時代の人たちは、魚貝類だけでなく、これらの森から木の実などを採取したり、森で狩りをして食料を得ていたと考えられます。またこの先には桜川があり、おそらくここからは、当時は入江だった霞ケ浦見えたものと思われます。ここかせ見下ろしたところが貝塚だったようで、貝塚で発掘された魚や貝を紹介しているパネルがありました。もちろん貝や魚だけではなく食べていた動物の骨も捨てられていました。この大きな穴は、大型炉という遺跡で、火を燃やして物を加熱したりする施設です。大型炉の中から焼けた土器の欠片や塩を焼くときにできる不純物などが発見されており、海水を土器で煮詰めて塩をつくっていたと考えられます。この大型炉は、炉の底を半分切り取った状態を復元しています。こちらは、集会所や作業場として使用されていたと考えられる掘立柱建物だそうです。こちらの施設は、貝層断面展示施設です。中には、貝層と呼ばれる、貝殻が地中に堆積して、地層のように貝殻の層ができたものが展示されています。この貝層断面は、発掘調査時の貝層を同じ位置に再現したものです。貝層の断面に特殊な薬剤をつけて断面をはぎ取り、立体的に展示しているそうです。しかし、これだけの貝や動物が日々の食用のみでなく、乾貝など大量の保存加工を行うのにもつかわれていたのかもしれません。いわば海産物加工場的な集落で、内陸部にある縄文人の集落への食糧の供給もやっいたのではないかとも想像できますね。いずれにせよ、これだけの遺跡、もっと時間をかけてじっくりと見学した方がよかったと反省している次第です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その7) 上高津貝塚を見る
2024年07月13日
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この交差点の名称、「養護学校前」ですが、今は養護学校ではなく「特別支援学校」と呼ぶのではないでしょうか(→→→こちら)そして、上高津貝塚ふるさと歴史の広場(→→→こちら)にやって来ました。そして、こちらの建物が、上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館(→→→こちら)です上高津貝塚ふるさと歴史の広場とは、縄文時代後・晩期に作られた霞ヶ浦沿岸の最大規模の貝塚で保存状態も良く昭和52年に国の史跡指定を受けた上高津貝塚(→→→こちら)の発掘調査等の成果を活かし、縄文時代の生活や文化が理解できるような資料が展示されてい.る施設になります。そして、考古資料館に入場しました。通常150円の入館料が必要でしたが、ラッキーなことに駅からハイキングの特典で無料でした。また、館内の写真撮影は可能でしたので、展示品を紹介します。こちらが上高津貝塚で発掘された土器のようです。日本の貝塚の分布を紹介した日本地図です。貝塚から見つかった貝です。貝塚とは、「貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻と他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう」そうなので、いわゆるゴミ捨て場から当時の人々の生活を見るわけですね。このような土器が見つかったんですね。多分、土器のかけらを寄せ集めて復元したのでしょう。何千年後の人類、あるいは人類は滅びていて、人類が進化した別の生物、それともバルタン星人のような宇宙人が地球を支配しているかもしれませんが、そういう生命体が、現在のゴミ捨て場から、今の生活道具を発掘して、例えばコカ・コーラの瓶なんか発見して、どんな風に思うんでしょうか。こちらは、弥生時代の紡錘車ということで、糸を紡いぐ道具も土器で作っていたんですね。これは古墳時代の土器だそうです。これは埴輪、人の形を模したものですね。こちらは動物の骨だそうです。イノシシ、シカ、タヌキなどの骨とありました。タヌキ汁なんかも食べていたんでしょうか。ナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された黒曜石です。打ち割られた動物の骨です。中の骨髄を取り出して食べていたのかも。縄文人が来ていた衣類の復元です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その6) 上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館
2024年07月12日
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国道6号線、現在の水戸街道です。高架道の下をくぐると、土浦市外十五ヶ町村土地改良区(→→→こちら)の事務所がありました。土地改良区とは、農業生産を行う上で欠くことのできない用排水路や揚水機場等の整備や維持管理を目的として設立された団体になるそうです。また、土地改良区は土地改良法により県知事の認可を受けた組織です。その組織は農家の人たちで構成されており、農家の負担によって運営されているのだとか。この土地改良区は昭和28年に1市1町14ヶ村(土浦市の一部・九重村・栄村・栗原村・大穂村・旭村・谷田部町・小野川村・葛城村・真瀬村・板橋村・久賀村・牛久村・朝日村・茎崎村・谷和原村)に渡り、田2,719ha、畑1,590haを受益地として設立されたことから、土浦市外十五ヶ町村土地改良区というのだそうです。しかし、現在では町村合併を重ねた結果、土浦市・つくば市・牛久市・つくばみらい市・阿見町の4市1町が受益地になっているそうです。敷地内には、大掛かりな受電設備がありました。おそらく桜川からポンプで水を汲み上げて、このあたりの田畑に水を送っているんでしょうね。胸像と石碑が建立されています。石碑には水神宮と刻まれていて、農業に不可欠な水の窯様を祀っているのですね。胸像は「藤澤勘兵衛翁像」あったので、この方がこの土地改良区の創始者なのではないかと思います。土浦市外十五ヶ町村の農家をまとめてこの団体を作ったリーダーだったのですね。こちらは協和豊穣と刻まれています。おそらく工事の完成の記念碑なのでしょう。こちらにある建物は、桜川第一揚水機場とありました。近くのバス停の名称は「揚水機場」でした。この揚水機場のおかげで、この水田もお米を育てることができているのでしょう。大したものだなと感心しました。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その5) 土浦市外十五ヶ町村土地改良区
2024年07月11日
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旧水戸街道を南に歩いて、桜川に架かる橋にやってきました。市指定史跡「銭亀橋の跡」という石碑がありました。銭亀橋は、霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川・桜川に架かる橋。慶長18年(1613)の開通だそうで、昔は、木製の太鼓橋だったそうです。こちらが現在の銭亀橋。橋の7親柱にも「ぜにかめはし」と記されていますが、どうして「ぜにかめ」と呼ばれるのかはわかりません。クサガメまたはニホンイシガメの幼体のことをゼニカメというので、昔は桜川にはカメが沢山棲んでいたんでしょうかね。、桜川です。時期的に5月中旬といことで、田植えが終わったばかりで、代掻きで田んぼの土を泥にしていたので、田んぼから泥水が流れてきていたんでしょうか。桜川を渡り、土浦からつくば市に向かう県道沿いを歩きます。このあたりは市街地からはかなり離れた住宅街です。その住宅街の中にあった、何をやっているお店なのかわからない看板を発見。「高津」というのはこのあたりの地名ですが、インターネットで「TAKATSU KADOEBI」(→→→こちら)を調べてみると、大人向けのお店でした。郊外の住宅街にこういうお店があるとは、土浦市、なかなかの町です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その4) 銭亀橋
2024年07月10日
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再び、土浦ニューウェイの下を抜けて南の方へ、旧水戸街道を辿って行きます。この土浦ニューウェイのあたりが土浦城南門の跡になるようです。古くからありそうな酒屋さんがありました。幕に書いてある「来復」(→→→こちら)とは、茨城県筑西市にある地酒の名前です。茨城の日本酒、色々とあるみたいですね。つくば国際労務管理事務所(いわゆる社会保険労務士事務所ですね)とつくば国際行政書士事務所とありますが、わざわざ国際とつけるのは、この土浦の町にタイ料理店など、外国人が働く場所が多いせいですかね。土浦、意外と外国の方が住んでいる国際都市だったのかも。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その3) 国際都市だったのかも
2024年07月09日
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土浦市等覚寺(→→→こちら)にやって来ました。目立った寺号碑などはありませんが、等覚寺は創建は建仁年間(1201~1204年)、長く当地を支配した小田氏(小田城の城主)の祖である八田知家の子とされる了信房によって開かれたのが始まりとされます。当初は極楽寺と称し藤沢城(小田氏の重要な支城の1つで土浦市の郊外で筑波山よりにあった)にありましたが、戦国大名だった小田氏の衰退したことで寂れていったそうです。しかし、江戸時代に入り、土浦藩主松平信吉から庇護され慶長5年(1605)には境内を土浦城内に移し再興、寺号も蓮光山正定聚院等覚寺に改称しています。元和8年(1622)には2代将軍徳川秀忠も当寺に訪れるなど由緒あるお寺として隆盛を取り戻していったそうです。こちらのお寺で有名なのは、この銅鐘(→→→こちら)です。潮来市の長勝寺の銅鐘、土浦市の般若寺の銅鐘、そしてこの等覚寺の銅鐘は、常陸三古鐘と呼ばれています。建永の年号、筑後入道尊念(小田氏の祖である八田知家)鋳顕極楽寺鐘の文字が刻まれており、こちらの立て札にあるように、国指定重要文化財となっています。また、境内には見事なクロマツがありました。こちらは土浦市指定名木・古木となっています。こちらが、等覚寺の本堂です。その等覚寺の近くにある東光寺(→→→こちら)です。東光寺の創建は慶長12年(1607)、心庵春伝によって開山されたのが始まりと伝えられています。山号の醫王山とあることから、薬師如来が本尊のお寺のようです。曹洞宗のお寺です。赤い建物が薬師堂(瑠璃光殿)、画面の左端で見切れているのが弁天堂、その隣が、乃木壽子刀自霊堂(のぎひさことじれいどう)という乃木希典陸軍大将の母親の乃木壽子刀自を祀る霊堂です。刀自とは年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ時に付ける言葉で、MoMo太郎もこれから配偶者のことを〇〇刀自と呼ぶことにします。東光寺にある文化財の紹介です。・ 瑠璃光殿-元文4年-入母屋,桟瓦葺,方三間-土浦市指定文化財・ 南門の土塁-土浦城南門の左右に築かれた土塁-土浦市指定史跡・ 辻元順の墓-土浦藩の御殿医の墓-土浦市指定史跡の3つがあるそうです。こちらが薬師堂の瑠璃光殿です。瑠璃光殿の前にあったこの石碑は、松尾芭蕉の句碑だそうです。「八九間空伝雨降柳可那(八九間空で雨降る柳かな)」と刻まれているそうです。こちらの石碑は、内田野帆句碑です。内田野帆とはどんな俳人だったんですかね。土浦では有名な方だったんでしょうか?瑠璃光殿の扁額です。欄間部の彫刻は結構、凝ったものです。江戸時代中期の御堂建築の様式美が残っているところが土浦市指定文化財たる所以でしょうか。乃木壽子刀自霊堂の傍らにあったこちらの板碑は、乃木将軍外祖父の長谷川金太夫翁之墓と刻まれていました。お孫さんのおかげて大きな板碑が建立されたのですかね。こちらが本堂です。本堂横にあった石仏群です。南門の土塁がこの場所で、江戸時代に築かれた土浦城の南の両側に盛られた土塁の跡になるそうで、これも土浦市指定史跡となっているそうです。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その2) 古寺巡礼
2024年07月08日
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関東では、テレビ東京の旅番組やバラエティー番組で、最近よく北関東3県の群馬、栃木、茨城を取り上げているみたいです。ひょっとして、北関東ブームなんでしょうか。ということで5月17日、駅からハイキングで茨城県土浦市を訪れました。土浦駅のホームには、かって常磐線の急行列車として走っていた国鉄457系電車(→→→こちら)の塗装に変えている、JR東日本E531系電車(→→→こちら)が停車していました。駅のコンコースにあった横断幕。残念ながら今回はサイクリングではなくウォーキングで土浦の町を探検します。こちらが土浦駅西口です。駅ビルには「プレイアトレ土浦」という商業施設と3階、4階、5階にサイクリングホテル「星野リゾート BEB5 土浦」が入っているそうです。この高架道路は土浦ニューウェイ(→→→こちら)、或いは土浦高架道と呼ばれいる道路で、土浦駅東口から桜川を渡る学園大橋までを結ぶ、全長約3 kmの無料の高架道路です。別名は「土浦の首都高」。1985年(昭和60年)に開催された国際科学技術博覧会(科学万博)の開催に際して土浦駅東口から筑波研究学園都市まで結ぶシャトルバスなどが通行する高架街路としてに開通したそうです。この石柱は平成2年に市制50年記念事業で建てられた土浦市旧町名由来柱といわれるもので、昭和47年に町名変更があった前の旧町名とその由来を記したものだそうです。この石柱によると、旧町名は「田宿町(たじゅくまち)」で、由来は、慶長九年(1604)水戸街道の開通と共に生まれた町人町で、簀子橋際に南門と番所があった城下町特有の「鍵の手」道路がよく残っており、市内で一番寺が多いのも城下入り口の要塞であったことを物語っている。とありました。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その1) サイクリングのまち土浦で歩きます
2024年07月06日
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ゴールデンウィークの陽気に誘われて、栃木県栃木市にある太平山神社(おおひらさんじんじゃ)(→→→こちら)に参拝してきました。大平山神社の駐車場から見えた関東平野です。関東平野の北縁にある太平山は、標高341メートルの低山でありながら、多分、山頂まで登れば、関東平野が一望できる山です。太平山神社は、平安時代、天長4年(827)、慈覚大師(円仁)により創建されたといわれ、武門をはじめ多くの人から信仰を集め、特に徳川将軍家の信仰が極めてあつかった神社です。瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神を祀っているそうですが、聖徳太子も祀られているんですね。社殿、拝殿も多く立ち並んでいて、沢山の神様が祀られているんでしょうね。こちらが、本殿です。本殿の前にある石を撫でてから皆さん参拝されるようです。この撫で石を撫でることにより災厄を祓い、霊験を得るという信仰があるそうです。霞んでいてわかりにくいですが、本殿の前から正面に、筑波山が望めました。人気ブログランキング北関東の旅、栃木県栃木市太平山神社
2024年05月05日
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久木大池から逗子駅に向かって歩きます。こちらの建物は、久木中学校です。久木神社というこのあたりの鎮守神社になるのでしょう。なかなか大きな神社でした。このトンネルを抜けて逗子駅に向かいます。右から「久木隧道」と記された銘板がありました。隧道(ずいどう)というのはトンネルの古い呼び方だそうです。この久木トンネルは昭和16年(1941年)に開削されたそうです。当時の逗子町久木地区に横須賀海軍工廠のための工員寄宿舎群が大規模に建設されたため、工員の通勤の便を図るため、横須賀線逗子駅への近道として開削されたそうです。古いトンネルなので、幅員は狭く、歩行者用に路側帯がありますが、そこにはみ出して行き違える車も多いかもしれません。トンネルの入口に埋め込まれた銘板には、「皇紀二千六百年 工事請負人 山口清造」と記されています。トンネルを抜けてしばらく歩くと、横須賀線の逗子駅が見えてきました。踏切を渡って、駅の東口にでて、帰りは、総武横須賀線に乗って帰りました。(逗子市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング逗子を歩く(その13) 久木トンネル
2024年04月19日
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久木大池公園に着きました。公園の中の鬱蒼とした木々の中を下って行くと、久木大池が見えてきました。この池は農業用のため池として造られたそうです。以前はこの池から逗子駅にかけての低地には多くの農地が広がっていたんでしょうね。池の周りの森で、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と、四季折々の風景を楽しめる公園になっているんでしょうね。久木大池から流れる久木川沿いにも遊歩道が整備されていました。さらに久木川の下流になりますが、池の大きさから考えるとこの河幅は狭いので、おそらく洪水対策として暗渠がこの下に埋められているのでしょうか。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その12) 久木大池公園
2024年04月18日
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関東の冨士見百景は「鎌倉逗子ハイランド(→→→こちら)」という住宅街の西端にあります。この住宅街の中を通って次の目的地、檜佐木大池公園に向かいます。「鎌倉逗子ハイランド」は昭和30年代、逗子市久木と鎌倉市浄明寺とが接する山上を大規模に宅地開発したところで、見事な桜並木の続く住宅街として有名なようです(→→→こちら)。訪れた3月10日は、まだまだ桜の開花には早い所ですが、中には早咲きの桜がありました。もう花盛りといった感じですね。こちらは赤みが強い桜ですね。寒緋桜かなと思いました。昭和30年代から開発が始まったというこの住宅地、なかなかの豪邸が立ち並んでいました。少子高齢化の現在、この公園で遊ぶ子供の姿はありませんでしたが、でもこの住宅地が開発されて分譲された頃は、この公園で遊ぶ子供たちも多かったんでしょうね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その11) 鎌倉逗子ハイランド
2024年04月17日
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名越切通の道はやはり古くからの道なのでしょうね。道端にこのような小さなお稲荷様が祀られていました。また、可愛いお地蔵様もありました。このようなものに道中の安全を願ったのでしょうね。MoMo太郎も道中の無事を願って手を合わせました。ようやくアスファルト舗装された道に出ました。舗装されていない山道もいいですが、やはりこういう舗装された道に来ると安心しますね。ここから再び富士山が美しく見える絶景スポットに出てきました。平成17年(2005年)に国土交通省関東地方整備局が主催して選定された「関東の冨士見百景」(→→→こちら)だそうです。百景といいながら128ヶ所の映えスポットが選定されているそうです。ここからの富士山も見事ですね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その10) 関東の冨士見百景
2024年04月16日
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ここにも名越切通の説明板がありました。この説明板には、名越切通について、日本語、中国語、英語、そして韓国語で説明されていました。国際的な観光地の鎌倉・逗子のことだけはありますね。また山道をしばらく歩いていくと、名越切通の第三切通に差し掛かりました。この切通を過ぎると道が二つに分かれていましたが、道標の示す大切岸の方へ向かいます。この道を過ぎて歩いていると、きれいな和服姿で草履で歩いている女性に出会い、挨拶されましたが、ちょっと不思議な方でした。平成31年2月1日に建立された新しい名越切通と刻まれた石碑がありました。そして、逗子市側の山の斜面に出ると、ここからは、逗子の町並みが見えました。逗子市教育委員会が設置した「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)(→→→こちら)」の説明板がありました。この切り立ったた断崖が「お猿畠の大切岸」です。長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし、平成14年度(2002年)に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されたそうです。鎌倉では、ここに見られるような「鎌倉石」と呼ばれる凝灰質砂岩の大規模な切出しが行われて丘陵部における平坦地が造成され、同時に切出したこれらの岩を破砕して道路の舗装材に使用したり、切石にして建築物の基礎や側溝の護岸・井戸枠などの建材に使用したりしていたそうです。、しかしながら、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断はしていないようで、「吾妻鏡」の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていることから、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れませんね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その9) お猿畠の大切岸
2024年04月15日
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名越切通にあった道標です。次は、道標に書いてあった「まんだら堂やぐら群」(→→→こちら)に向かいます。また切通しがありました。これが第二切通になります。まんだら堂やぐら群と書いた標識がありました。「やぐら」とは、鎌倉のそこここに見られる、切り立った岩肌にぽっかり空いた洞穴のことで、中世の墳墓だそうです。三方を山に囲まれ平地の少ない鎌倉で、やぐらは平地面積を削らずにできた唯一の墓ということになります。まんだら堂やぐら群は、例年、初夏と秋・冬それぞれ1ヶ月程度の期間の、土・日・月曜日と祝日のみ公開されているようで、訪れた2024年3月10日は公開の碑ではなく、門扉が閉ざされていて中へ入ることはできませんでした。門扉の鉄格子の隙間から中を撮影してみました。奥には150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、おそらく手前の平場には「やぐら堂」と呼ばれる建物が建っていたのでしょう。これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重な遺跡だそうです。やぐらの中に並ぶ五輪塔は火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものなのでしょうね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その8) まんだら堂やぐら群
2024年04月14日
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名越切通に向かって再び山道を歩きました。「名越切通」(→→→こちら)についての説明板がありました。名越切通は鎌倉時代に整備された「鎌倉七口(鎌倉に入るために開削された切通し)」のひとつで、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路として、明治時代まで使われていたもので最も狭い部分の幅は約0.9mになっているそうです。しかし、発掘調査によると、かつては3m近くあったが、地震で崖が崩れて狭まったことがわかっているそうです。現在の名越切通には三ヶ所の切通が残っていて、MoMo太郎が入ってきた逗子市の亀ケ岡団地側に近い方からそれぞれ第一切通、第二切通、第三切通と呼ばれています。こちらはその第一切通になります。「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われているそうです。この第一切通がもっとも大きく深く切り立っています。切通が造られたのは、鎌倉を囲む山の岩盤は柔らかく掘りやすいためだと言われています。切通し露出した岩は、おそらく凝灰質の岩だとおもわれます。鎌倉に分布する地層は、約700万~200万年前に、この海溝よりも陸側の海底斜面に、陸から流れ込んだ土砂や火山噴出物が堆積してできたものです。この地層が、海洋プレートの強い圧力で陸側に押し付けられ、隆起したと考えられています。鎌倉の地層には、砂や泥に、火山灰や火山礫が混じった「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」や「凝灰質泥岩(でいがん)」が広く分布しているそうです。この岩も凝灰質砂岩なのでしょうか。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その7) 名越切通
2024年04月13日
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披露山公園の次は名越切通に向かいます。今度はまた山を下りますが、その道の途中からも江の島と富士山の姿が望めます。逗子市と鎌倉市の丘陵に広がる住宅団地です。こういう山を切り開いた所に住むには、坂道の上り下りで足腰が鍛えられていいかもしれませんね。披露山公園から下ってきた道です。本当はこちらが披露山公園の一般向けの入口なんですね。いったん下ってきましたが、また登り坂が始まりました。なかなかのきれいな住宅街の中を歩きました。住宅街の道、碁盤の目のようになっていのですが、ちょっと道が合っているかどうかよくわからなかったので、住宅案内図で行き先を確認しました。そして、住宅街が終わるところで、国指定史跡名越切通(→→→こちら)の入口になります。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その6) 住宅街の中を歩く
2024年04月12日
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逗子にある披露山の山頂(標高92m)に向かって山道を歩いて行きました。今回はこのような山道を歩くと想定してトレッキングシューズを履いてきて正解でした。山道の途中で振り返ると逗子海岸が眼下に広がり、山道を登ってきた甲斐がありました。「披露山」には、古墳時代末期ごろからは古東海道が通り、古くから交通の要衝で、鎌倉時代には有力御家人が別邸を構えたと言われています。また、その名前の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの説があるそうです(→→→こちら)。しかし、手下の武士たちに山道を登らせて、山の上に呼んで、貢ぎ物をみんなに見せるとは、源頼朝もとんだパワハラ野郎ですよね。そして、山頂近くまで登ると、駐車場があり、次回来る時はクルマで来ようと思いました。山頂は披露山公園(→→→こちら)として整備され、逗子市全景、江の島、相模湾の海岸線、富士山などを一望できる公園となっています。これが披露山公園の案内図です。ここでは、ニホンザルを飼育している猿舎、ミニ動物園、展望台そしてレストハウスなどの施設が揃っていますよ。披露山公園は、戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた鉄筋コンクリート製の円形砲座3基と、同じく鉄筋コンクリート製の半地下式の指揮所があったそうです。そして、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用されて、指揮所跡にはレストハウスが設けられているそうです。手前の円形の花壇と奥に見える展望台がその砲台の跡に設けられたものでしよう。こちらは砲台跡に設けられた猿舎です。ニホンザルが飼育されていました。仮に将来、この猿舎を廃止することになったら、ここで飼われていたサルは山に戻しても生きていけないでしょうし、別の動物園の猿舎へ譲渡したとしても、譲渡先のニホンザルのグループの仲間に入れてもらえるかどうか難しいでしょうね。展望台からは相模湾の眺望を満喫できます。江の島と富士山です。折角の眺め、もっと上手く撮影できるようになりたいです。こちらがミニ動物園。カメ達がのんびりと日向ぼっこしていました。こちらはモルモット。クジャクも飼われていました。どの動物の写真も雑な撮影ですみません。こちらが指揮所跡にできたレストハウスです。さて、披露山公園の駐車場にあったこの石碑は、「尾崎行雄記念碑」です。碑文は「 人生の本舞台は常に将来にあり」と記されています。この碑文、10代、20代の若い人なら心に響くかもしれませんね。こちらには尾崎行雄(→→→こちら)記念碑についての説明が書かれていました。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄は、昭和2年(1927年)70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えます。そして、終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れたのだとか。昭和29年10月に、この地で95歳の天寿を全うしたそうです。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その5) 披露山公園
2024年04月11日
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逗子海岸を西の端まで歩くと、山の斜面に建てられたお寺があります。その下にある小さな公園にあった「蘆花之故地」という木製の記念碑がありました。揮毫は、字が薄くなり見えにくくなっていましたが。文学博士藤原楚水という方のようでした。記念碑の裏面には、徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてりました。明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて蘆花は逗子に居住し、「不如帰」、「青山白雲」、「自然と人生」、「思ひ出の記」等の作品を書いたそうです。不如帰(帰るに如しかず)つまり「かえりたい」と書いて「ホトトギス」と読むのは、古代中国の蜀の望帝・杜宇が、家来の妻と不貞を働いたために退位させられます。望帝は不徳を恥じ国を逃れたものの、その後復位を望みますが叶わずに亡くなり、ホトトギスに姿を変えて「不如帰(かえりたい)」と泣いたという故事に由来するそうです。それから、「ホトトギス」が望郷の念を募らせる鳥となったようで、蘆花の小説「不如帰」も海軍少尉の武男とその妻で結核で亡くなった浪子の物語ですから、不如帰というタイトルは、上手くつけられたものですね。石段を登っていくと、斜面にあったお寺は「浪子不動高養寺」(→→→こちら)というそうです。高養寺は、元々は「白滝不動」「小滝不動」「浪切不動」と呼ばれていた漁師の守護仏であっそうですが、明治時代、逗子が徳冨蘆花の小説「不如帰」(→→→こちら)の舞台となり、ヒロインの「浪子」から「浪子不動」と呼ばれるようになったそうです。「高養寺」という名称も、昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めたそうです。境内の隅に二つの説明板がありました。MoMo太郎と同じ駅からハイキングの参加者のお姉さんが熱心に読まれていました。「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」の説明がありました。浪子不動の下にある海岸は、7000年前の縄文時代から少しずつ波によって岩盤が削られ、こうしてできた海底の岩礁が地震で隆起したものらしいです。そして、MoMo太郎は見落としていたのですが、この「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」によれば、徳富蘆花の兄蘇峰の筆で不如帰と刻まれた石柱が葛ヶ浜の隆起海食台の上に立っているそうです。その「不如帰の碑」の写真はこのリンク先(→→→こちら)を見て下さい。この石碑は海中に建てられていますが、干潮時には碑の傍まで歩いていくことができるそうです。そして、つぎの目的地の披露山公園に向かって、この山道を登って行きます。註)下に添付しているGoogleの地図では、この山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。また名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その4) 「蘆花之故地の碑」と浪子不動
2024年04月10日
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逗子海岸にやって来ました。富士山が見えるなかなかの映えスポットです。訪れた時期は3月10日で、富士山はまだ雪に覆われていましたが、逗子からこんなに近くに富士山が見えるとは思ってもみなかったです。逗子海岸には「太陽の季節」文学記念碑がありました。作家であり政治家でもあった石原慎太郎(1932-2022)が昭和30年(1955年)に発表したデビュー作「太陽の季節」の芥川賞受賞50周年を記念して立てられたもので、岡本太郎制作の「若い太陽」のオブジェが付けられた碑には「太陽の季節ここに始まる」と刻まれています。「太陽の季節」(→→→こちら)は、昭和31年(1956年)には日活から映画化され、この逗子市や三浦市で撮影されていました。また作者の石原慎太郎も逗子に居住していたそうですね。逗子海岸(→→→こちら)は遠浅の海岸で逗子海水浴場としても知られていますが、まだここで泳ぐには早すぎるようでした。でも、多くの人がウインド・サーフィンを楽しんでいました。また、沖合にはヨットも出ていて、マリンスポーツのメッカなんですね。波も穏やかですね。細砂で、貝殻や砂利や泥が少ない砂浜の波打ち際は散歩にも最適ですね。ちなみに足腰を鍛えたい方は、乾いた砂浜を歩かれた方が、いいかも。足が砂にめり込んで、結構、脚にきますよ。大型犬を連れて散歩されている姿も、なんとなく優雅な感じがしますね。しかし、このワンちゃん達が砂浜でオシッコやウンチするとしたら、砂浜で海水浴して砂遊びというのもなんとなく衛生的には問題があるのかな?【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その3) 「太陽の季節」記念文学碑と逗子海岸
2024年04月08日
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さて、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のスタートです。まずは逗子と言えば海。逗子海岸に向かって歩きます。逗子駅から「逗子銀座通り」という通りを歩いていきました。銀座という名前の付く商店街って全国にあるんですね。この川を渡ります。田越川という川でした。この河口が逗子海岸になります。赤く塗られたこの橋は冨士見橋というそうです。京都の五条大橋を模して架けられたのだとか(→→→こちら)かってここには養神亭(→→→こちら)という旅館があり、養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味だったそうです。なかなか有名な旅館だったらしく、ここで、徳冨蘆花が「不如帰」という作品を執筆したり、大正天皇の病状の悪化が伝えられると、発足したばかりの若槻内閣の閣僚が養神亭に宿泊し、その結果養神亭に内閣を引越しさせることを閣議決定したそうです。また、冨士見橋からは文字通り富士山が見えたそうです。その養神亭は、現在は廃業しており、その跡地には渚マリーナというヨット、モーターボートなどのプレジャーボート類を係留・保管する施設になっています。このマリーナは、2006年神奈川県が行う不法係留船対策の一環として整備されたそうです。このクレーンを使って船が田越川に降ろされて、いまから出港しようというところでしょうか。マリーナの向こうには富士山の姿が見えています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その2) 逗子海岸へ向かって
2024年04月07日
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2024年3月10日、やって来ました高輪ゲートウエイ駅。令和2年(2020年)3月14日に開業した新しい駅です。この駅で降りて、そして、京浜急行の泉岳寺駅へ行きました。泉岳寺駅は、昭和43年(1968年)開業の駅で、都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、京急本線の東京都側の終点になります。ここから京浜急行の三崎口行特急に乗りました。ここで昭和5年(1930年)開業の金沢文庫駅で、逗子・葉山行の逗子線の急行に乗り換えました。そして京浜急行逗子線の終着駅、逗子・葉山駅にやって来ました。令和2年(2020年)3月14日に駅名を「新逗子」から「逗子・葉山」に改称されたためため、旧駅名の「新逗子」が副駅名として添えられています。ちなみにこの駅も開業は昭和5年(1930年)になっています。ところで、逗子の「逗」のしんにょうの点の数が一点ではなく二点になっていますね。「しんにょう」にはこのように「一点しんにょう」と「二点しんにょう」というものが二つあるそうです。それは、戦前の印刷文字では,点二つの「しんにゅう」が一般的でした。戦後,昭和21年に「当用漢字表」が内閣告示として実施され,一般社会で用いる漢字の範囲として1850字が定められます。さらに,昭和24年に「当用漢字字体表」が定められ,当用漢字表の1850字の字体が決定されました。その際,「しんにゅう」の漢字は,点一つに統一されたのです。一方,当用漢字表に入っていない漢字の印刷文字は,原則として点二つのまま用いられてきたからだそうです。(→→→こちらさて、その後日本語のワードプロセッサー(ワープロ)が開発され普及しはじめると。ワープロなどの情報機器にはJISコードの漢字が搭載されました。このJISでは当用漢字以外は印刷物に使われている印刷文字を優先して採用しているため、例えば「二点しんにょう」の「辻」がパソコンでは入力出来るのですが。「一点しんにょう」のは異字体としてしか入力できません。全国の「一点しんにょう」の辻さんお困りかもしれませんね。こちら逗子・葉山駅の南出口です。円形の屋根がちょっと凝っていますね。逗子までやってきたのは、JR東日本が催行している、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」に参加するためなので、京浜急行の逗子・葉山駅からJRの逗子駅に行って、参加の登録をしました。ちなみにJRの逗子駅の開業は、明治22年(1889年)です。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その1) 高輪ゲートウェイ駅から逗子葉山駅へ
2024年04月06日
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土浦城の本丸と二の丸の一部が亀城公園(きじょうこうえん)として整備されています。このように園内には堀も残されています。芝生の広場もあり、ゲートボールを楽しむ人たちのもいました。江戸時代の頃の庭園の跡なのでしょうか、池もあり、噴水や四阿も整備されていました。また、この銅像は、明治から昭和期の実業家、政治家であった原脩次郎拓(→→→こちら)という方の銅像でした。この方は京都府の出身でしたが、妻の実家のある茨城県から衆議院議員に立候補し拓務大臣、鉄道大臣を務めた方だそうです。こちらの石碑らしいものは、土浦出身の劇作家、随筆家である高田保(→→→こちら)の句碑だそうです。作品は青空文庫にも収録されています(→→→こちら)写真では上手く撮影できませんでしたが、「あの花も この花もみな 春の風」という句が刻まれているそうです。こちらの石塔は、「忠魂」と刻まれているところを見ると戦没者の慰霊塔でしょう。こちらの建物は隣接して建てられている土浦市立博物館(→→→こちら)です。ちなみに、亀城公園へ自動車で行った場合は、この博物館の駐車場に止めると便利でした。人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その2)
2024年03月31日
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2023年の「魅力度ランキング」最下位の茨城県にある土浦市にやって来ました。ちなみに茨城県は、民間調査会社「ブランド総合研究所」が、2009年にランキングの発表を始めてから、最下位となるのは12度目となるそうです。さて、土浦市ですが、江戸時代は土浦藩の城下町として栄え、近代になっては、南に隣接する稲敷郡阿見町に海軍の飛行場があったことから、海軍の町として栄え、戦後は、土浦駅西口(市中心部)に京成百貨店、丸井、西友、イトーヨーカドーなどの百貨店や大型店舗が立地するなど商都として発展を遂げていましたが、筑波研究学園都市の開発などでそれらの商業施設は、土浦駅前から相次いで撤退しています。それでも、茨城県南地域の行政の中心的な役割を担っている町ではあります。ということで土浦城址にやってきました。土浦城跡及び櫓門が茨城県指定史跡となっています。お堀も残っていて、本格的な城址の雰囲気ですね。土浦城は、霞ヶ浦近くの低地に位置し、水を何重にもめぐらせた平城であったため水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)とも呼ばれており、本丸と二の丸の一部を整備した公園は亀城公園として整備されています。そして、土浦城址の亀城公園は入場無料です。こちらが亀城公園内にあった土浦城の説明板です。本丸跡になります。こちらは東櫓といって、土浦城に残る遺構の一つとして復元整備されたものです。亀城公園に隣接する土浦市立博物館(→→→こちら)の別館ということで、中を見学するには入館料が必要となります。こちらも復元整備された西櫓です。東櫓も西櫓も、土塁の上に建っているのが特徴です。昭和24年(1949年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、昭和25年(1950年)に復元するという条件つきで解体されたました。そして、ようやく平成4年(1992年)に保管されていた部材を用いて復元されたそうです。こちらは太鼓櫓門、関東で唯一の現存する櫓門といわれています。二階には太鼓を置き、時を知らせたことから太鼓櫓門と呼ばれています。太鼓櫓門の前にあった「土浦城址」の石碑です。【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市の土浦城址(亀城公園)(その1)
2024年03月30日
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