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次の目的地は下落合野鳥の森公園(→→→こちら)です。この細い道に入って行きます。この木製のゲートから先が下落合野鳥の森公園になるようです。立派な石柱に公園の名前が刻まれていました。園内には湧水を利用した池がありました。この公園で見られる野鳥だそうです。野鳥の森公園からさらに坂道を上がり、台地の上にでると、目白通りの下落合四丁目付近に出ました。この「落合」という地域名称は、神田川と妙正寺川との合流点がこの付近にあることに由来するそうです。こちらが目白駅の方です。こちらが南長崎、中落合方面です。こちらの方向へ目白通り沿いを歩いてゆきます。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その4) 下落合野鳥の森公園
2024年06月19日
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久しぶりに「駅間歩き」のスタートです。鉄道沿線沿いに駅から駅の間を歩いて、嫌になったら、駅から列車に乗って家に帰るという気ままな散歩が駅間歩きです。また、多少線路から離れても、面白そうなものがあれば、そちらに立ち寄るという気ままに成り行き任せで歩くのがMoMo太郎的駅間歩きです。今回はJR東海道線川崎駅から始めます。川崎駅の中央改札前の自由通路です。この日は8月11日の「山の日」だったせいか、やっぱり多くの人が行き交っていました。川崎駅からいよいよ出発です。駅前の仲見世通り(→→→こちら)を通りました。戦災復興の促進と合わせて造成される道路に併せてできた商店街で、この通りの先に観行院・大徳寺というお寺があることから、東京浅草にちなんで「仲見世通り」という名前になったのだとか。仲見世通りを歩くとすぐにアーケード街に出ます。このアーケード街は「花とステンドグラスのある街」というキャッチ―フレーズの銀柳街(→→→こちら)です。銀柳街を出ると通りを挟んでチネチッタ通りがつながっています。チネチッタ(CINECITTA')(→→→こちら)とは、映画館、レストラン、ショップなどが集まった施設だそうです。調べてわかりましたが、「チネチッタ」というのは、イタリアの首都・ローマにある同名の映画撮影所から命名だそうで、イタリア語の原義は映画都市だというそうです。そして、この新川通りを第一京浜(国道15号)の方向に向かって歩きます。(川崎から鶴見へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(川崎~鶴見)(その1) 新川通り
2023年08月23日
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隅田川にかかる厩橋。このアーチの形状などをみると、むかしの人は橋の意匠にはこだわったんだなと思いますね。そして、これは厩橋の台東区側にある公衆トイレです。むかしの人は橋の意匠にこだわり、現代の人は公衆トイレの意匠にこだわるということですね。人気ブログランキングへ
2013年05月22日
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1月19日、所用で仙台に行くときに大宮駅で新幹線に乗り換えたのですが、その時、蒸気機関車が停車しているのを偶然見かけました。スマホで慌てて撮ったので、上手くは撮影できませんでしたが、このディーゼル機関車DE10にけん引されていました。小型の蒸気機関車。C12-66とプレートが付いていたので、調べてみると真岡鐵道で「SLもうか」(→→→こちら)に使われている機関車だそうで、多分、大宮総合車両センターに定期検査にきたものなんだと思います。人気ブログランキング大宮駅でみかけた蒸気機関車
2023年01月25日
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アメリカ合衆国初の女性大統領を目指す、ヒラリー・クリントン氏、なかなか苦戦が伝えられているみたいですが、政治の世界に進出するのは男性でも女性でも大変なんでしょうね。豊島区内でみかけた都議会議員のポスターです。米倉っていう名前からみても、「私失敗しませんから」という感じの優秀な女性って雰囲気ですね。人気ブログランキングへ私、失敗しませんから
2016年11月07日
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秋田市内に戻って、千秋公園(せんしゅうこうえん)(→→→こちら)を散策してみました。千秋公園というのは、久保田城跡にある都市公園のことで、こちらは城跡の堀を中心とした眺望が楽しめる千秋公園ポケットパークです。丁度、堀に咲いているハスの花が綺麗でした。こちらの大手門通りに面した黒門跡から千秋公園の中へ入って行きました。ここは二の丸跡です。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっているようで、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などが置かれていた、事務方の場所だったようです。この立派な門は、久保田城本丸の正門になる久保田城表門で「一の門」と呼ばれていたそうです。ちなみにこの門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したものです。一の門を入ると久保田浄本丸跡になります。ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所が置れていたそうです。こちらの神社は八幡秋田神社。八幡神社は、佐竹氏が常陸国太田城にいた頃、佐竹昌義が石清水八幡宮を勧請した馬場八幡宮が始まりのようです(源頼義の創建との伝承もあり)。これを慶長7年佐竹氏秋田転封の際に当地に勧請したものだそうです。ちなみに今の社殿は、平成17年に放火により焼失した社殿を平成20年に再建したものだそうです。こちらの銅像は、第12代秋田藩主佐竹義堯(文政8年(1825)~明治17年(1884))。戊辰戦争では、新政府方に属して戦ったそうです。一番の功績は、喘息の持病があったため、それ治療するため藩医が龍角散(→→→こちら)を開発したことでしょうか。つまり、最後の秋田藩主だった人ですが、秋田県の皆さんには敬慕されていたようですね。市政100周年を記念して復原された御隅櫓です。中に入るのに入場料100円が必要です。千秋公園から下って、広小路に出るところにあった「旧割烹松下」を再活用した「あきた文化産業施設松下内「松下茶寮」という施設です。「あきた舞妓」(→→→こちら)というショーみたいなものをやっているようです。かつて繁栄した川反芸者の「秋田心」を受け継ぎ、あきた舞妓は各種イベントへの参加、お座敷や宴席・宴会へ出向し、皆様におもてなしをしてくれるそうです。こちらの立派な建物は、「あきた芸術劇場ミルハス」(→→→こちら)です。そして、近くの秋田市文化創造館敷地内にはこんな銅像がありました。この人は、戦前から戦後にかけて活躍した秋田市出身の歌手の東海林太郎(→→→こちら)さん。直立不動で歌うのがこの人のスタイルだったようです。このような碑文も建立されていました。ということで東海林太郎さんの歌声を聞いて下さい。【了】人気ブログランキング秋田へ行ってきました(その5) 千秋公園そして最後は東海林太郎
2023年09月13日
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歩いて愉しむ江東区。ようやく平久(へいきゅう)橋にやってきました。平久橋の「平久」とは、旧町名平富町と久右衛門町の間にあったのが名の由来だそうです。また、この塗装は深川鼠(ふかがわねずみ)という色だそうです。この橋は、昭和2年に関東大震災からの復興計画のもと架橋された鋼橋のひとつで、震災復興橋梁(→→→こちら)のひとつです。神田川と隅田川の合流する付近にある柳橋も震災復興橋梁でこんな感じですね。なお、平成5年にこの橋は改修されています。ちょっと使われている街灯が洒落ているので撮影してしまいした。橋の下を流れる平久川(平久運河)です。一番奥に見えるのが平久川水門橋の西詰には石柱が建立されていました。「戦災殉難者供養塔」というのは、やはり第二次世界大戦の時に空襲で亡くなられた人々への供養ですね。広瀬すずさんの演じる戦災孤児のそらちゃんのご両親もこのような戦災殉難者なんですね。その隣にあったのが「津波警告の標柱」とやや破損した石柱です。この破損した石柱は、「波除碑」(なみよけのひ)というそうです。隣にあった説明板によると。「寛政3年(1791)9月4日、深川一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流され、多数の死者、行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して東の洲崎神社と西の平久橋を結んだ線(ほぼ現在の東京メトロ東西線)から海側の一帯、東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地とした。」とありました。そして後世へのこの災害を伝えるため、洲崎神社と平久橋の袂に波除碑を建立したそうぶす。建てたものです。このように平久橋の回りには、自然災害と戦争の悲劇を今日に伝えるものがありました。【つづく】人気ブログランキング歩いて愉しむ江東区(その8)平久橋と波除碑
2019年06月06日
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いつもの日高屋でプチ贅沢で、黒酢醤油冷やし麺と半チャーハン餃子セット(980円税込み)をいただきました。併せて、いつもの麺大盛り無料のサービス券も使わせていただきました。餃子は焼けるのに時間がかかるようで、後から運ばれてきました。しかし、冷やし中華ってどうして夏限定なんでしょうね。盛岡冷麺なんか冬でも食べられるし、アイスコーヒーだって一年中売っているのにね。人気ブログランキング孤独のグルメ 日高屋でプチ贅沢
2019年09月11日
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茨城県常総市にある一言主神社(→→→こちら)に参拝してきました。茨城県西地域有数の初詣スポットとして知られているそうです。ご祭神の一言主大神は、別名は事代主神(ことしろぬしのかみ)であり、「オオクニヌシノミコト」として知られる大国主神(おおくにぬしのかみ)の息子になります。ただ一言の願いでもその言葉を疎かにせず聞き届ける神として信仰されています。また、9月13日の例大祭に合わせて操り人形と仕掛け花火を組み合わせた民俗芸能・大塚戸の綱火(葛城流からくり綱火)が奉納されるそうです。令和4年は奉祝祭として 9月17日(土)に奉納されます。ちょつとユニークなのは、この手水舎。夏場にミツバチが手水舎に集まると、このようにミツバチ専用の水飲み場が設置されます。ミツバチが溺れないように足場として苔や小石が竹の器に盛られ、ミニチュアの神社境内が作られています。手水舎に集まったミツバチに「刺されそうで怖い」と参拝客から苦情があったので、このようなミツバチ専用の手水舎が作られたそうです。ミツバチは蜜を集めるだけではなく、水も集めていて、身体に蓄えた水で巣を冷やしたり、蜜を薄めて幼虫に与えているそうです。人気ブログランキング一言主神社(茨城県)
2022年09月12日
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こちらの道を行くと大泉水をクルっと一周できるのですが、なぜかこちらに人が集まっていました。実は小石川後楽園のボランティアガイドさん(→→→こちら)が無料で園内を案内してくれるそうです。無料と聞いて放ってはおけません。MoMo太郎もこのボランティアガイドのオジサンについて園内を歩くことにしました。さて、ガイドさんの説明によると、この橋は京都の嵐山にある渡月橋だと見立てるそうです。中山道を歩いていよいよ京都に来たのですね。渡月橋が架かる、京都の桂川上流で嵐山を流れる大堰川(→→→こちら)に見立てられた川です。嵐山の雰囲気がありますかね。と、京都だとばかり思っていたら、この堰は、なんと西湖の堤(さいこのつつみ)というそうです。西湖って京都にあったのかなと思っていたら、なんと中国の杭州(今の浙江省)にある西湖(→→→こちら)の堤に見立てるそうです。これは二代目藩主の水戸光圀が、父の水戸頼房の時代から水戸藩に仕えた明の遺臣朱舜水(→→→こちら)のアドバイスに従って、こういう中国の風物を取り入れた庭を造ったそうです。さすが、日本で初めてラーメンを食べたという俗説の伝わる水戸光圀、中国が好きだったんですね(→→→こちら)。渡月橋を渡り切った所、大堰川の河原に置かれた屏風岩です。屏風のように板状の石が並べられているから屏風岩。屏風岩の後ろには琉球山と呼ばれる築山が作られています。琉球山に登り始めたところで振り返って撮影した、渡月橋と西湖の堤です。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その4) いよいよ京都です
2023年10月17日
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JR東日本が催行している「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加するため常磐線の金町駅まで行った時に、ハイキング前の腹ごしらえで食べた、富士そば金町店の朝食セット(430円税込み)です。玉子丼に加えて、かけ蕎麦又はもり蕎麦がついてこの値段はお得でした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 富士そば金町店で食べた朝食セット
2023年11月03日
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桐生の町のメインストーリート、本町通りを桐生天満宮から南に向かって歩いていくと、「坂口安吾 千日往還の碑」がありました。坂口安吾(→→→こちら)というのは、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人だそうです。坂口は1952年(昭和27年)から3年ほど、桐生市本町2丁目の書上文左衛門邸で暮らしたそうです。書上(かきあげ)家というのは桐生の名家だそうで、書上という名前も小説家が住むにはふさわしそうな名前ですね。そして坂口安吾48歳の1955年(昭和30年)2月17日、突如脳内出血のためこの桐生の地で亡くなったそうです。さらに南に向かって歩いて行くと、渋い店構えの酒屋さんがありました。このあたりは、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区(→→→こちら)として織物関係の蔵や町屋、ノコギリ屋根工場など歴史的な建造物が残っているそうです。この酒屋さんの横にあるのが有鄰館(→→→こちら)という施設です。桐生市指定重要文化財旧矢野蔵群(有鄰館)附祠社(→→→こちら)だそうです。この説明看板によれば、旧矢野蔵群(有鄰館)は、享保2年(1717年)に現在の矢野園の創業者である近江の商人初代矢野久左衛門が来住し、二代目久左衛門が寛延2年(1749年)現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく寄与してきた矢野本店の蔵群だそうです。この蔵群は酒・醤油・味噌などの醸造業が営まれていたころの建物で、古いものは天保14年(1843年)、敷地内には合計11棟あり、ビール蔵を除いた建物が桐生市指定重要文化財になっているんだそうです。確かに、歴史を感じる蔵が立ち並んでいますね。こちらは今でも人が住んでそうな建物ですね。煉瓦造りの蔵、煉瓦蔵という大きな建物です。こちらは重要文化財には指定されていませんが、ビール蔵と呼ばれる施設だそうです。「桐生からくり人形芝居館」(→→→こちら)という施設が併設されていて、桐生からくり人形芝居が毎月第一、第三土曜日に定期上演されているようで、入場無料で見物できるようでした。桐生からくり人形芝居は、各町会が昭和36年(1961年)までに6回、天満宮の御開帳時に上演していた「からくり人形芝居」を復活させて、上演しています。(桐生市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、群馬県桐生市(その10) 「坂口安吾 千日往還の碑」と「有鄰館」
2024年02月11日
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ここは天城町役場です。こんなものがありました。「ハブの館」、ハブを生け捕りにして役場に持ってくると一匹3,500円で買い取ってくれるのですが、そのハブが血清を作る保健所に引き取られるまで保管されているところです。シャッターが閉められているのは、ハブは直射日光に弱いためそれを防ぐためです。シャッターを開けるとハブがいました。蛇って今年、2013年の干支でしたね、年初めには話題になりましたが、後はさっぱり。ところで来年はこれですね。馬、でも干支では「午」と書くそうです。人気ブログランキングへ
2013年12月17日
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境川沿いを旧江戸川に向かって歩きます。向こう側に見えるアーチ橋は東京メトロ東西線の第一江戸川橋梁、ちなみに第二江戸川橋梁は東西線の妙典と原木中山の間にある江戸川の本流に架かる橋になります。町の中を流れる境川。なんか気持ちが落ち着く風景でした。この辺りの河岸が、六人網の漁をする舟の船着き場たったそうで、「六人河岸」と呼ばれる河岸だそうです。こちらには川に飛び出した不思議な構築物。扉には排水機場と書かれていました。この道路の下に排水路があってその水を排水するのでしょうか。東西欄の橋梁の手前に大きな水門があります。旧江戸川と境川をつなぐ境川西水門です。近くで撮影してみました。水門の両側には桜の大木が見えました。花見の季節にまた来たいですね。旧江戸川の堤防の上に上がってみました。水門の前に小さな広場があって、その手前に記念碑のようなものがありました。この記念碑には人の顔のレリーフが。これはリンド技師記念碑というそうです。リンド技師はオランダ人で、陸軍の土木技師で、明治5年(1872)、日本政府土木寮のお雇い外国人技師として技師長のファン・ドールンと共に来日し、国内の河川管理・治水管理のために活躍し、3年後に契約期間を終え帰国したそうです。清龍神社にあった堀江水準石もこのリンド技師が設置したものです。詳しくは国土交通省 関東地方整備局 江戸川河川事務所のホームページ(→→→こちら)を参照して下さい。西水門から境川を撮影してみました。浦安村の時代には多くの船がこの川を航行していたのでしょうね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その6) リンド技師記念碑と西水門
2022年03月07日
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上野の不忍池に行ってきました。「不忍池」の名は、諸説あるそうですが、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するそうです。また、ここに池があるのは、縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾の入り江であったものが、その後海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられているそうです。今では池へ流れ込んでいた川は埋め立てられて、今の池の水は京成電鉄上野地下駅構内に漏出する地下水やJR東北新幹線上野駅付近のトンネル内に漏出する地下水が水源となっているそうです。このようにハスの繁殖が多いのです。花が咲く6月頃はきれいだったでしょうね。弁天島とボート乗り場の間の橋の付近で撮影しました。鯉もこのように多いのですが、外来魚のティラピアなどもいるそうです。ティラピアは食べると結構おいしいので、インドネシアにいる時なんかはよく食べていました。不忍池のボート池です。ここは随分昔からあったそうですね。MoMo太郎の祖父もここでボートに乗ったことを生前話していました。【つづく】人気ブログランキングへ上野周辺(その3) 不忍池の水源は?
2015年10月17日
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信州そばのチェーン店「そじ坊」にあった「にしんそば」(815円税抜き)をいただきました。かけそばの上に身欠きニシンの甘露煮を載せた「にしんそば」、鰹節、昆布そして薄口醤油を使った出汁で、本場京都を思わせる一品でした。MoMo太郎が初めて「にしんそば」を食べたのは、小学生の時に父親と一緒に京都に行った時でした。にしんの甘露煮が美味しかったことを覚えています。それから、大学生活を京都で送りましたが、その時に時折、アルバイトなどでちょっと小金が入った時に、贅沢なものとして「にしんそば」を食べていたことを思い出しました。その後、仕事で東京をはじめ全国各地、そして海外を流れ歩くようになって、「にしんそば」とも長くご無沙汰しでいましたが、ようやく東京でも手軽に食べられるようになったのですね。そんなわけで、久しぶりの「にしんそば」、美味しかったです。ありがとう「そじ坊」さんm(__)m。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 鰊(にしん)そば
2016年02月11日
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むかし、よくテレビに出ていた芸人さんで「なぞかけ」を得意にしている人がいたけど、最近は見かけないですね。この「なぞかけ」にはコツがあり、それを習得すると結構「なぞかけ」ができることを発見しました。【例題1】「激安の電化製品とかけて、今日の新聞と解きます」「その心は」「どちらもキノウ(機能・昨日)を無視しています」この例題のように、同音異義語がオチにつくというのが、なぞかけの典型的なものです。【例題2】「日経平均とかけて、サクラと解きます」「その心は」「サイタカネ(最高値・咲いたかね)。それはよかった」この例題のように、同音異義文がオチというのもあります。【例題3】「タンポポとかけて、おやじの頭と解きます」「その心は」「どちらも白くなって抜けていくでしょう」この例題は、オチの意味が共通しているというタイプです。作りやすいのが、【例題1】や【例題2】のように同音異義語を使ったタイプです。つまり、お題を与えられたら、それから連想する言葉を探し、その同音異義語をオチにして、その同音異義語に関連するものから「〇〇と解く」の〇〇を決めればいいわけです。「日本酒」という題では、日本酒 → 銚子 → 調子 → 体調と連想していけば、整いました。「その日本酒とかけて、風邪をこじらせると解きます」「その心は」「どちらもチョウシが傾きます」という具合ですね。ということで、習作を作ってみました。「沖縄とかけて、おみくじと解きます」「その心は」「どちらもキチ(基地・吉)があります」「結婚とかけて、船旅と解きます」「その心は」「どちらもコウカイ(後悔・航海)します」「消防士とかけて、騎手と解きます」「その心は」「どちらもホース(Hose・馬 Horse)を使います」しかし、こちらはかなり太いホースの取り付け口がありますね。人気ブログランキングへなぞかけのコツ
2016年08月27日
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毎日、電車通勤しているのですが、いつもホームの電光掲示版や列車のドアにある電光表示で、「〇〇線、人身事故のため、遅延」とか「〇〇線、〇〇駅で信号故障で、遅延」などという表示を目にします。まあ、首都圏でJRや私鉄各線、たくさんの列車が張っているので、仕方ないといえば、仕方ない点もあるのでしょうが、やっぱり鉄道事故は無くしてもらいですね。そんな鉄道事故の中でも、1962年(昭和37年)5月3日にあった三河島事故というのは、信号無視と列車脱線による多重衝突により、死者160人、負傷者296人を出す大惨事で「国鉄戦後五大事故」に数えられています。その三河島事故の慰霊碑が建立されているお寺が、ここ浄正寺(じょうしょうじ)です。参拝してみるとなかなか立派なお寺でした。これが慰霊のために建立された慰霊聖観音像です。また犠牲者の中に、未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの寺に行旅死亡人として葬られているそうです。この事故をきっかけに、国鉄は、保有するプロ野球球団国鉄スワローズをフジサンケイグループに売却したそうです。また、安全面では、自動列車停止装置(ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、1966年(昭和41年)までに一応の整備を完了したそうです。さらに、この事故の影響で、「三河島」という地名がマイナスイメージを持たれたせいか、1968年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅し、「荒川」という住居表示になったそうです。その結果「三河島」という地名を残すのは上の写真の駅名だけとなり、犠牲になられた方々のご冥福を祈りつつ、三河島駅から常磐線に乗り帰路につきました。三河島事故の詳細は、ここをご参考にして下さい。↓↓↓http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CA0000604.html【了】人気ブログランキングへ
2014年12月17日
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ここは、2021年5月28日のブログ、「青天を衝け(その3) 江東区の渋沢栄一宅跡」(→→→こちら)で紹介した江東区永代二丁目にある澁澤シティプレイス永代のビルです。今では、この澁澤倉庫の本社ビルになっています。ビルの前にあった碑文です。澁澤倉庫発祥の地「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社「(ちぎり・りうご)の記章」とは、この背後のガラスに透かして入っているマークで、糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われているそうです。そして、澁澤シティプレイス永代り裏にまわると、「福住稲荷神社」(→→→こちら)があります。福住稲荷神社は、近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠でしたが、明治9(1876)年に澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られています。さて、狭い参道を入って行くと、石造りの鳥居があります。屋敷の中にあった祠なので小さいです。石造りの神狐像、こちらは米俵を持っているのでしょうか。こちらは子供ですね。子供を鞠で遊ばせようということですか。この石は、渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員ともなれば、荷物を運んだりするので、やはり力持ちも多かったのかも。澁澤倉庫の記章であるちぎり紋、りうご紋が入った力石もありました。鳥居や神狐像。そして力石として並んでいるものが江東区の登録文化財だったんてすね。人気ブログランキング渋沢栄一ゆかりの福住稲荷神社
2021年12月04日
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新宿駅から小田急に乗ったのですが、その時気がつきました。小田急の車両は、ドアの戸袋がガラス窓になっていました。全ての車両がそうなのかはわかりませんが、少なくともこの車両はそうでした。戸袋に窓が付いていると車内も明るく、景色もよく見えていいですね。こちらはJR東海道線を走るE233系車両こちらは戸袋に窓はついていません。窓がないので、景色も余り楽しめません。このようにクロスシートの脇のショートシート(?)に座ったら、後ろは壁で景色も見づらいし、なんか背後も横も壁に囲まれたようで、圧迫感があってなんかくつろげないですね。ということで、戸袋窓があると列車に乗っていても楽しいのですが、これからは減っていくでしょうね。戸袋窓にすると清掃の際、二重になった窓ガラスを車体から外す必要があるため手間がかかるそうです。さらに構造上、戸袋窓のための穴を車体に空けることで、腐食防止など車体そのものの補強が必要となり製造コストが増すほか、補強に伴い重量がかさむなどデメリットが目立つので、戸袋窓のある車両は製造されなくなっているそうです。人気ブログランキング戸袋窓のある電車
2022年02月27日
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白髭神社を過ぎて、少し行くと、ちょっと変わった岩がありました。この説明板によると、「弁慶の腕ぬき岩」というそうです。ごつごつとしたこの大きな岩の下側に、なるほど、大人の腕がちょうど入るほどの穴が巨石を貫いていました。先ほどの白亜の巨岩といい、大地の不思議な力を感じる奥多摩むかし道です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その9)弁慶の腕ぬき岩
2023年05月14日
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御徒町に最近できた「小諸そば」です。富士そばもいいのですが、たまには別のチェーン店で比較もしないといけないかなと思い入ってみました。注文したのは「月夜のばかしそば(大盛)」430円です。ちなみに普通盛は400円。とろろ、うずらの卵、天かす、油揚げ、そしてほうれん草まで入って、贅沢なトッピング。また、テーブルに置いてある調味料も、七味、ゆず七味、わさび、そして小梅の漬物。その上、ネギは取り放題。なんとなく、サービス満点な感じです。肝心のお蕎麦は、ツユの色は、若干薄くて、やや醤油が弱い感じですが、ダシが結構効いてよかったです。それから麺は細いけどコシがあるというか、ブチッとして噛みごたえを感じるソバでした。ということで、なかなかチャンとしているじゃんという感じがしますね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 月夜のばかしそば
2016年01月13日
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そろそろアジサイの季節ですね。近所の花壇のアジサイもつぼみからいくつかの花が咲きだしていました。こちらのアジサイは白いアジサイなんですね。でも「アナベル」という品種は白色から緑色へ変わっていくそうなので、そのうち緑色になるかもしれませんね。こちらは、青いアジサイ。アジサイの花色は、酸性の土では青花になり、中性~弱アルカリ性の土壌ではピンク花になるそうですが、アナベルのように品種によっても決まるそうです。万葉集にも詠まれたアジサイ。日本に古くからある花なのですね。また、公園のランタナの花は咲き誇っていました。開花時期がアジサイと重なり葉の形も似ていますが、アジサイとは全く別の種類だそうです。人気ブログランキングアジサイのつぼみとランタナ
2019年05月27日
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銀座といえば、4丁目にあるこの時計塔ですね。銀座和光という商業施設にこの時計塔はあるのですが。2009(平成21)年には、経済産業省により、「近代化産業遺産」に認定されているそうです。「近代化産業遺産」というのは日本の産業近代化に大きく貢献した建造物や機械などについて、その保存、活用を目的に認定されるそうです。人気ブログランキングへ
2017年04月12日
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都営地下鉄大江戸線汐留駅にある花壇です。地下鉄のコンコースの中ですが、見事に咲いていますね。人気ブログランキング花壇
2017年05月08日
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伊仙町鹿浦地区にある鹿浦小学校旧奉安殿へ行ってきました。奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のことです。これがその奉安殿です。貴重なものらしく、登録有形文化財となっていました。でも扉は、アルミの最近のものですが、それでも文化財の価値があるのでしょうか。あるんです。壁のこの傷跡、太平洋戦争中、アメリカ軍の機銃掃射の痕だそうです。こちらの反対側の壁にもやっぱり銃弾の痕が、この銃弾の痕の残る戦前からの奉安殿。これがこの建物の価値なんでしょうね。ところで、中の天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語はどうなっているのでしょうか。人気ブログランキングへ
2013年06月28日
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こういう催しなら、やっぱり車両の撮影イベントが不可欠ですね。というわけで、このEH500形電気機関車と古参のEF65形電気機関車が展示されていました。赤プレートなのがJR貨物の電気機関車ということですね(鉄道に詳しくないのでそのくらいのことしかわかりません、詳ししい人は、これがどこの機関区のものかとかわかるのでしょうね)。こちらは、EH500形です。「ECO-POWER 金太郎」と呼ばれているそうで、金太郎さんのイラスト付きです。交流直流両用電気機関車ということで、首都圏~北海道、そして九州で走っているそうです。ちなみに直流電気機関車のEF210形電気機関車は東海道・山陽本線ということらしいです。電気機関車が2車体永久連結されています。連結機のアップ、普段近くで見られないので撮影してみました。そして車輪まわり。ところで、来年は北海道新幹線開通によって青函トンネルでの新幹線・在来線共用区間が発生することとなるので、この共用区間の架線電圧は交流20のkVから25kVになるので、それに対応したEH800形電気機関車が開発されて使用されるそうです(周りにいた鉄道に詳しいお兄さんから聞きました)。【了】人気ブログランキングへ隅田川駅貨物フェスティバル(その2)
2015年10月27日
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最後に訪れたのが、この「筑紫の誉」です。ここは蔵の中も案内してくれました。このイベント、城島を愛するという女性の方がボランティアのガイド役としてついて回ってくれましたが、いやこの蔵と同じで古いものほど味わいがあるものですね。これは、蔵においてあった4斗樽、でも随分上げ底ですね。こちらではサービスで、この酒蔵で作っている奈良漬も出されていました。この奈良漬、結構、道の駅や町内の温泉施設でも人気商品ですといってましたが、・・・。まあ、呑み助の男性中心のイベントかと思っていましたが、結構女性のグループの参加もありましたよ。普段は飲まない日本酒をいただき、改めて、日本酒もいいものだと感じました。【了】人気ブログランキング 城島郷酒街道をゆく(その3)
2017年11月14日
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そして、英彦山修験道館(→→→こちらです)という建物のあるところに出ました。この建物が修験道館です。また、この修験道館に隣接して、旧政所坊跡庭園という庭園もありました。なかなか見事な庭園です。この庭園の近くからようやく参道に出ることができました。結構、急な階段になっています。この階段を登りきると、ついに英彦山神宮奉幣殿に着きました\(-o-)/。国指定重要文化財の奉幣殿です。天平12(740)年建立といわれていますが、現在の建物は江戸時代初期(元和2(1616)年)に当時の小倉藩主、細川忠興公の寄進によって建立されたそうです。意外と地味な感じで彩色のある装飾などはありませんが、それこそ英彦山修検道の霊場にふさわしいかもしれませんね。英彦山は、中岳・北岳・南岳の3つの山からできており、その中心の中岳山頂に鎮座する「上宮」が英彦山神宮の御本社となりますが、そこへ行くにはこの鳥居を抜けて2時間くらい登山をすれば、上宮にお参りすることができます。また今度、ゆっくりと来た時にということで、今回は上宮までの参拝は、一応、パスいたしました<m(__)m>。【つづく】人気ブログランキング英彦山神宮(その3)
2018年06月24日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。阿蘇山の北に位置し、熊本県阿蘇郡南小国町にある黒川温泉にやってきました。正直に言うと、黒川温泉街、道も狭くとても車で回れるようなところではなく、どこかの駐車場(これも狭くて駐車できないことがあるかもしれません)に置いて、歩くか、或いは高速バスで来くることをお勧めします。ここが中心でお土産物などを売っている「風の舎」というところ。一応駐車場がありますが、すぐ満車になります。この隣にある旅館組合の建物です。ここで「入湯手形」を購入すると、ほとんどの旅館にある露天風呂、3カ所まで選んで入浴することができます。つまり、温泉旅館に泊まらなくても日帰り温泉気分で楽しめるということです。温泉街を歩いてみました。こんな狭い道を車ではちょっと無理ですよね。でも元々は鄙びた温泉地だったことが想像できます。田の原川の渓谷の両側にこぢんまりとした和風旅館が建ち並ぶ温泉街です。また温泉街によくあるパチンコ店とかストリップ小屋とかが見あたりません。それはそれで雰囲気がいい温泉街の佇まいを演出していますね。温泉街を流れる田の原川。この川の水もまた筑後川につながっています。川の上に架かった橋です。この橋で対岸の旅館に行くことかできます。なんか渋いデザインの木橋ですね。こちらは黒川温泉の中心地にある「地蔵堂」。ここには、黒川温泉の発祥となる逸話の「身代わり地蔵」に登場する首なし地蔵(首と胴体が分離している地蔵)が祀られています。「身代わり地蔵」とは、瓜を盗んだことで首を刎ねられそうになった男の身代わりになった地蔵さんの首が刎ねられてしった。男はまこの地蔵を景色のよい場所に運ぼうとして、そしてこの地に着いて、ここに奉祀することにした。すると、その岩の裂け目から湯が噴き出てこの黒川温泉になったそうです。(詳しくは、→→→こちらです)【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ筑後川を行く(その29) 黒川温泉
2018年09月28日
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歩道橋になったこの道を行きます。途中からバスターミナルの方を見下ろすと、こんな文字がかいてありました。「川崎赤煉瓦倉庫」。かって、川崎駅西口に赤レンガ倉庫(旧国鉄の変電所)が1914(大正3)年に建造され、そして、この地区の再開発が始まるまで90年近くこの場所にあったそうです。川崎駅西口にあるミューザ川崎にあるこのモニュメントも、かって赤煉瓦倉庫をイメージして制作されたものだそうです。ミューザ川崎の内部も、赤煉瓦がデザインに取り入れられていました。【つづく】人気ブログランキング川崎に行ってみました(その2) 赤レンガ
2019年10月29日
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ちよっと大きな橋がありました。 石切橋という名前です。 橋の両側に門柱のように石柱があって、ちょっと風格を漂わせていました。 石切橋の名前は、かつてこのあたりに石切り(石工)が住んでいたことからつけられたと伝わっているようです。 石ではなく、今ではコンクリートでできた橋を渡ります。 そして、小日向台地の方へ上がって行くと、なかなか上品な住宅街になっています。 その中を進んでいくと、 ちょっと変わった感じの建物を発見。 石切神社、これはかってこのあたりに住んでいた石工に因んだ神社ではなく、 大阪にある石切劔箭神社(→→→こちら)の東京分祀のようです 大阪では昔から、石切劔箭神社は「でんぼ(腫れ物)の神様」として信仰されています。腫物、腫瘍ということで、今や日本人の二人に一人が癌になる時代、 癌にならないように、また仮に癌になっても大門美知子先生のような手術の上手いドクターに手術してもらえるようとお参りしてみたかったのですが、 しかし、シャッターが閉じられていて、今日は神社の営業日ではないようでした。 ということで、二階にありそうな本殿を、 ちょっと、のぞかせてもらいました。 本当に癌になったら、大阪にある石切さんにお百度させてもらいます。 【つづく】 人気ブログランキング 文京区散策(その4) 石切橋と石切神社
2020年02月26日
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「Stay in Tokyo(ステイイン東京)」という百合子さんのお願いで、東京都下から出ないように、江戸川区葛西にある妙見島を目指してお散歩中です。 堤防沿いのこの遊歩道を歩いて行くことにしました。 川沿いに船が係留できますね。 川沿いには屋形船や釣り船を営業している船宿があります。 これが妙見島です。妙見島は旧江戸川にある三角州で、このように島の周囲はすべてコンクリート護岸で囲まれています。 カワウが佇んでいました。 旧江戸川に架かる東京メトロ東西線の鉄橋です。 堤内地(堤防により洪水から守られている土地)側は平仮名で、 堤外地(堤防の川側の部分)側は漢字で表記されています。「旧江戸川」というのは、この川がかつての江戸川本流であったからです。 1919年に江戸川放水路が開削され放水路側が本流とされた。さらに、1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害の対策として、1943年、放水路との分派点に江戸川水門を建設した。その結果、1965年以降は「旧江戸川」なったそうです。 上流側を見ています。対岸は千葉県浦安市。 下流側です。浦安といえば、ネズミマークの遊園地がありますね。行列して乗り物に乗るのが嫌なので、まだ、ネズミマークの遊園地は行ったことがありません。 ところで、写真だとわかりにくいのですが、遥かかなたの海の方に。 こんな山がありました。 浦安にこんな山があったとは知りませんでした。 テレビ東京のドラマ「浦安鉄筋家族(→→→こちら)」にそのうち出てくるかな? 【つづく】 人気ブログランキング 妙見島へ(その2) 旧江戸川
2020年05月06日
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大川町氷川神社の社殿です。例のごとく、初穂料がもったいないのでご朱印はいただきませんが、というか地元の小さな神社なので毎日ご朱印をいただけるかどうかわかりません。でもお参りだけは欠かしませんよ。荒川放水路開削工事に伴い、大正4年(1915)11月10日現在地に遷座されたそうです。さらに、旧社殿が老朽化したため、昭和42年(1967)9月に現社殿が造営された戦後生まれの社殿です。社殿の手前にあった二つの石碑。黒い大きな石碑は明治百年にあたる昭和43年(1968)に新しい社殿が完成したことを記念する石碑のようですね。自然石のようなこの石碑は、「紙すき碑」で。この一帯は江戸時代から紙すき業が盛んで天保14年(1843)、幕府に紙を献上したときの記念碑だそうです。かってこのあたりは紙すき業が盛んだったことを示す史料ですね。足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことが述べられている。この歌碑は、天保14年(1843)6月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋石が記されている。荒川放水路開削のため、この碑は、大正6年に移転し、再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。(足立区教育委員会掲示より)社殿南側には、千住川田浅間神社富士塚です。千住川田浅間神社富士塚富士塚は文政7年(1824)築造。最近木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。 明治44年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年5月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和43年6月現在地に移築復元され、今日に至っている。塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ3mである。山頂に、天保2年(1831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政7年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住13夜同行と呼ぶ。講中は、千住5丁目と、千住大川町全域に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年7月1日祭礼が行われる。(足立区教育委員会掲示より)こちらが最古の碑で「富士山三三度大願成就」と刻まれています。江戸時代に本物の富士山に33回登るって、大したものですね。こちらの方々は、富士塚の33回登頂を目指しておられるのでしょうか。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その15) 大川町氷川神社の紙すき碑と富士塚
2021年04月19日
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日本橋小網町と兜町の間の首都高速の下を流れる日本橋川です。この日本橋川に架かる橋。鎧(よろい)橋という名前です。橋のたもとの緑地にお地蔵様が佇んでいました。お地蔵様の台座には梵字が刻まれていました。なにか由緒のあるお地蔵様なんでしょうね。その横には裸婦のブロンズ像が。こういう芸術家の人って女性の裸が好きなんですね。鎧橋は明治5年に架けられ、江戸時代は渡し船が運行されていたそうです。そして橋のたもとにあるこの建物は、東京証券取引所です。人気ブログランキング鎧橋
2021年12月03日
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交通公園・若潮公園の片隅にあるこの記念碑。よく見ると、上に舟があって、その下に魚や貝があしらってありました。銘板には、「浦安町漁業記念碑」と記されていました。浦安の漁業の最盛期には1800軒の漁師の家があり、境川と船圦川にはべか舟であふれていたそうです。しかし、昭和33年には製紙会社の汚水で漁業が壊滅し(→→→こちら)、衰退していく中で、東京湾の埋立も進み、昭和46年には漁業権を全面放棄し、浦安の漁業は幕を閉じました。そして、埋め立てでできた若潮公園に、昭和51年に当時の浦安町がこの記念碑を設置しました。公園に遊びに来る子供たちに浦安の町の歴史が伝わるといいですね。若潮公園の中で見つけたセクシーな裸婦像です。一見ベンチのようですが、ここで背中を反らしてストレッチする器具です。謎の石の彫刻。何を意味しているのか。京葉線沿いの道にやって来ました。この建物はホテルです。結構大きなホテルがあるのはやっぱり東京ディズニーリゾートに近いからでしょうかね。団地の入り口にあったモニュメント。何を意味しているのでしょうか。新浦安駅に戻ってきました。ここから帰ります。しかし、浦安の町、初めて訪れましたが、東京ディズニーリゾート以外にも色々と歴史があって、魅力のある町だということを知ることができました。(浦安散歩のコースです)【了】人気ブログランキング浦安物語(その17) 浦安町漁業記念碑
2022年03月19日
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宇都宮の町を西に向かって歩いて、市内を流れる田川を渡ります。田川にかかる橋の上から、東北の方角を見ると、「あれ! 東京タワー??」田川から1kmも歩かないうちに、朱塗りの大きな赤門が見えてきます。戦国大名でもあった宇都宮氏が治めた城下町であっただけに、宇都宮の町には寺院や神社が多いですね。考えてみれば、「宇都宮」氏という名前も「宮」が入っているので、元々は奥州を見据える要衝の地・宇都宮にある下野一ノ宮二荒山神社の社務職だったようです。といことで、浄土宗慈光寺(じこうじ)(→→→こちら)という寺号碑が建立されています。この立派な赤門、元あった赤門は、第二次世界大戦の時に空襲で焼失して、平成20年(2008年)に復興されたものだそうで、そのことを示す石柱も建てられていました。本堂はこの階段の上にあるので、登ってみました。石段に覆いかぶさるように伸びた大木の枝を材木で支えているんですね。こちらが慈光寺の本堂です。この慈光寺は、永正13年 (1516年)に、下野国の戦国大名であり下野宇都宮氏第17代当主である宇都宮成綱(→→→こちら)が開基したそうです。ちなみに、慈光寺は宇都宮氏の本拠である宇都宮城から北東(鬼門)の方角に位置しており、鬼門除けの役割を担っていたのだとか。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その8) 慈光寺(じこうじ)
2024年02月27日
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諏訪神社への参拝を終えて通りに出ると、この大きな建物が見えてきました。消防署です。そして、こちらは東京メトロの駅。西早稲田駅です。そしてこちらの大きな道を今度は北に向かって歩きました。この通りは明治通りです。「305」という数字は、東京都道305号芝新宿王子線という意味ですが、一口に「明治通り」と呼んでいますが、いくつかの道路がつながってできています。古川橋-( 東京都道416号古川橋二子玉川線)-渋谷橋-(東京都道305号芝新宿王子線)-西巣鴨-( 国道122号)-王子駅前-( 東京都道・千葉県道501号王子金町市川線)-溝田橋-(東京都道306号王子千住夢の島線)-夢の島が組み合わさって「明治通り」になっています。そして橋の下に流れるのは神田川です。神田川沿いに西に歩いて、東京都道8号千代田練馬田無線こと、新目白通りに出ると、JRの跨道橋の下を抜けて、住宅街の中に入ると、ようやく次の目的地である「おとめ山公園」(→→→こちら)に到着しました。(駅からハイキング、高田馬場駅から沼袋駅を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング新緑の公園を歩いてトカイナカの町を目指す(その2) おとめ山公園に向かって
2024年06月17日
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日向神ダムの貯水がピンチということで、灌漑(かんがい)用水が心配されるところです。台風19号で被害が出ない程度に雨が降って欲しいところかも。そんな心配もありますが、矢部川流域には自前の灌漑用水用のダム「花宗溜池」(→→→こちら)を持っている花宗用水組合(→→→こちら)という組織があります。こちらが花宗溜池です。取水塔がお洒落な雰囲気ですね。こちらが、堤体となります。コンクリートではなくアースダムと呼ばれる土で造った堤体ですが、黒木町犬山にあるためか、「花宗溜池」ではなく「犬山ダム」と呼称されているそうです。堤高は29メートル。堤頂長は320メートルだそうです。池の端にこんなものがありました。水車で水をかき混ぜているような。水中に酸素を送っているのでしょうか。魚の養殖池などでもこういう装置よく見かけます。これは取水塔でしょうね。西洋の建物を思わせるデザインがいいですね。取水塔の横では水面に異変が。水の中から、泡が沸き上がってきています。これは???ところで、この池、かんがい用水を貯めておく以外にも、魚を養殖しているみたいですね。ブラックバスが釣れるのでしょう(→→→こちらです)でも、ボートを使っての釣りは禁止だそうです。花宗溜池の横にあった、なにやら意味ありげな祠と石碑です。文字がはっきりしませんでしたが、祠の中にあるのはお地蔵様で、ため池を造るときにここに移設したというようなことだと思いました。ため池周辺のこちらは、ため池の水位が上がった時に洪水を逃がす、洪水吐という施設でした。こちらはため池の水を取り出す樋管という施設でしょうか。石造りの随分立派なものですね(ため池の構造については→→→こちらを参考に)。「民生潤灌」とありました。多分、右から読んでいくのでしょうかね「灌(水をそそぎ)、潤して、民は生きる」という意味でしょうか。こうして水路につながって、水田に水を送っているのでしょう。人気ブログランキング花宗溜池です
2018年08月20日
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