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購読している『DIAMOND』のWEB記事に、(優秀な移民を受け入れなければ)「日本人は滅びる」と語ったユニクロの柳井氏に対して、ZOZO創業者の前澤友作氏が噛みついた論争について、ノンフィクションライターの窪田順生(くぼたまさき)氏が書いている。題して、「日本人は滅びる」論争は柳井氏の敗北、前澤氏の勝利に歓喜する人々が“危険すぎる”ワケこの記事の内容についていたく共感したので、拝借して転載する。衣料品業界の両雄の論争ながら、窪田氏は冷静に非常に大切なところを指摘している。どちらの意見に支持をよせるのかは人それぞれであろうが、大切なのは覚めた判断をする能力であろう。****移民容認派の柳井氏に前澤友作氏が待った!「柳井さんの言うとおり、今のままでは日本人は滅びるよ。というか、実際はもう滅び始めているんじゃないの?」「バカヤロウ!そういう弱気なことを言っているから今の日本は元気がないんだよ。前澤さんのおっしゃるように、今の日本人に必要なのは、世界を見渡してもこんな素晴らしい国は他にないっていう自信だろ!」 我々日本人の行く末をめぐってネットやSNSで、こんな熱い激論が交わされている。きっかけは、ユニクロを運営するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、日本テレビのインタビューで述べたこんな言葉だ。「少数精鋭で仕事するということを覚えないと日本人は滅びるんじゃないですか」(日テレNEWS 8月26日) 労働力不足が深刻な今の日本は「日本人だけでやっていくのが難しい」と述べた柳井氏は、海外から知的労働に従事する移民をもっと迎え入れ、日本人と一緒になって研究開発をするなどして、日本の知的労働のレベルを上げていくべきだと提言。 さらに、労働生産性を上げていくためには、平均的なゼネラリストがたくさん集まってチームプレーで結果を出す、というこれまでの日本企業的な働き方から、「少数精鋭」という考え方にシフトをしていくべきだと苦言を呈したのだ。 これが「炎上」をしてしまう。ヤフコメには「日本を壊した張本人が日本の将来を憂う姿は片腹痛くて聞いてられない」「移民を解禁した方が日本人は滅びる」などの批判や反論が多く寄せられてしまったのである。そこに「参戦」をしたのが、衣料品通販大手「ZOZO」創業者の実業家・前澤友作氏だ。 自身のSNSで柳井氏のニュースを引用して「僕はなんだか逆のように感じます」と投稿をした後、こんな思いを綴ったのである。「日本らしさ日本人らしさが今後の国力の鍵になる気がしていて、それを薄めてしまうような、グローバリズムに迎合して自らその渦に飲み込まれてしまうような考え方には違和感があります」 さらに一夜明けて日本に今最も必要なものは「俺たちの国いいだろ?っていう自信」だとして、映画化もされた人気マンガ「キングダム」と、その登場人物たちを引き合いに出してこんな持論を展開した。「士気とか自信で人の生産性って全然変わる。移民で労働人口を増やそうとする前に、日本人の労働生産性の最大化を諦めたくない。日本人の底力はこんなもんじゃない。もっともっとやれるはず。政治にも経営にも信とか政みたいなリーダーシップが必要。俺もやる」 こちらは柳井氏と対照的に共感・賛同の声が多く寄せられた。あくまでネットやSNSの反応にすぎないが、「日本人への提言」への支持という点では、前澤氏に軍配あがった形である。 この結果について、個人的には「そりゃそうか」という納得感がある。 柳井氏の危機感はごもっともだが、「移民」はいただけない。今、日本の労働生産性を下げて、成長にブレーキをかけている最大の要因は「低賃金」だからだ。 単純労働であれ知的労働であれ移民を増やすことは、国内労働者の賃上げの機会を奪うので、この問題を先送りにさせてしまう。そういう意味では、「移民で労働人口を増やそうとする前に、日本人の労働生産性の最大化を諦めたくない」という前澤氏に強く共感する。「少数精鋭」も言わんとしていることはわかるのだが、これも今の日本で推進したら、多くの犠牲者が生まれてしまうだろう。 日本は教育基本法によって、幼稚園から高校という人間形成にもっとも重要な時期に「規範意識」を徹底的に叩き込まれるという、先進国の中でも珍しい教育方針を採用してきた。わかりやすく言えば、「ルールを守ってみんな同じ行動をするのが正しい日本人」という教育である。 天才児はどんどん「飛び級」をさせたり、成績優秀者だけを集めてクラスを編成したり、ということが教育現場で当たり前の国ならいざ知らず、「みんなと同じ」を過剰に求める日本の教育システムの中で育った人々にいきなり少数精鋭だ、競争社会だと言われたら、ほとんどがパニックになってメンタルがやられてしまうだろう。柳井氏の主張を無視するなら戦前の日本と同じだ ただ、そういう個人的な意見ちょっと脇に置いて、あらためて両者を見比べると、これからの日本を考えたとき、柳井氏の提言にもしっかりと耳を傾けるべきという気もしている。「本当に危機が迫っているときは、大衆が嫌がるような提言の方が的を射ていることが多い」という歴史の教訓があるからだ。 もっと言ってしまうと、「世界との戦い」というシビアな現実を突きつけられた日本人は「日本人らしさ」みたいな精神論にすがって悲惨な結末をたどる、ということも我々は過去から学んでいる。 このわかりやすい例が、太平洋戦争のはるか昔から、「日米非戦」を提言していた軍事評論家・水野廣徳である。 1924年、アメリカで排日移民法が制定され、米海軍が太平洋上で大規模な演習を行ったことで、「反米感情」が盛り上がっていた。国民の関心は「もしアメリカと戦争をしたらどうなるのか」ということだった。 そこで元海軍大佐が水野が唱えたのが「日米非戦」である。水野は「中央公論」(1925年2月号)に、「米国海軍の太平洋大演習を中心として」を寄稿。その中で、「日米戦争の勝敗を決するものは武力よりも経済力である」と断言、アメリカを「現代における世界第一の富国」として、日本の経済的実力とはあまりに大きな差があるとした。つまり、「戦っても負けるのでやめた方がいい」というわけだ。 第一次大戦での自身の体験からも、兵器弾倉、兵站などを供給し続ける経済力こそが国の強さだと確信していたのだ。 現代人の感覚では、冷静かつ論理的な提言のような気もするが、これが今でいうところの「炎上」をしてしまう。対米強硬姿勢を支持する国民から「崇米論者」「恐米病」「平和万能論者」などとボロカスに叩かれてしまうのだ。 日本人をちっともいい気分にさせてくれない、むしろ自信を喪失させるような、水野の提言は時が経つほどに隅っこの方へと追いやられていく。しかし、その提言は傾聴すべきものが多くあった。 水野は満洲国が独立した1932年に「打開か破滅か興亡の此一戰」(東海書院)という本を出す。ここではこの満洲国によって、中国で対日抵抗が激化して、それが日米開戦に発展するというシナリオを示して、中国戦線での泥沼化、さらには東京が空襲されて膨大な数の人が亡くなるという近未来まで予測されている。 では、このような「慧眼」を持つ水野の話にそっぽを向いて、当時の良識のある日本人たちはどのような提言を支持したのか。わかりやすいのは、同じく元海軍少佐の軍事評論家・石丸藤太が著した「日米戦争 日本は負けない」(小西書店)だ。ここでは水野と対照的に戦争で重要なのは「金ではなく人」「国民の精神的動員」だと主張をしたのである。さらに、アメリカ人は愛国心が乏しく、「忠君愛国の精神旺なる日本人には敵し難し」と根拠のない「日本スゴイ論」を披露している。 ただ、これが良かった。皆さんも自信喪失した時に「お前はスゴイ」と褒められると、前向きになれるだろう。気がつくと、このような「日本人最強説」が巷に溢れて、そこに異論を唱える者は「国賊」「非国民」と批判される、という同調圧力の強い社会になっていた。 それを象徴するのが最近、NHKの朝ドラ「虎に翼」にも登場をして話題になった「総力戦研究所」が出した「日本必敗」という結論の黙殺である。 近衛文麿首相直属のこの研究所は1940年秋に創設、軍だけではなく各省庁、さらに民間からもさまざまな分野の若きエリートが集められて、アメリカとの総力戦についてシミュレーションを繰り返した。 そこで41年の8月に出た結論は「国力上、日本必敗」。奇襲作戦を敢行すれば緒戦の勝利は見込まれるが、戦争が長引けば経済力・資源量の圧倒的な差で敗退を余儀なくされる。最終的にはソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから、なんとしとも日米開戦を回避しなくてはいけない、というのだ。 元海軍大佐が十数年前から訴えていた「日米非戦」という提言に、時を経た若きエリートたちも同じく辿り着いたのである。しかし、結局この提言が受け入れられることはなかった。 いろいろな理由が挙げられるが、実は大きいのは「世論」だ。当時、日本では反米感情も盛り上がっていたが、映画館ではたくさんアメリカ映画が公開されていたので、この国の圧倒的な資源量、経済的豊かさについては誰もが知るところだった。 こんな大国と戦えば、日本などひとたまりもない、と不安に感じる人も多かった。しかし、一方で、そんな不安をかき消してくれる「提言」も世の中に溢れていたのだ。 わかりやすいのは、総力戦研究所がシミュレーションをスタートした41年4月に発売された「太平洋波高し : 日本を襲ふ魔手の正体」(中川秀秋 興亜資料研究所)のこの一節だ。「石油がない、鐡がない、これはどうしても解決出来ない様でありますが、これとても私をして言はしめれば、今まで餘りに欧米式産業形態にとらわれ過ぎた為であると考へます。(中略)即ち、この様な狭い領域から飛び出した新科学時代を完成し、日本的な科学をもつて世界を指導しなければならぬのであります(中略)現代日本の資源対策も、目前の事にばかり拘泥せずもつと遠大な計画の下に研究を進めればこの風光明媚な日本の山河、何一つとして資源ならざるなきに至るであらうことを確信致す」(同書3〜5ページ) ここまで言えば、なぜ筆者が、柳井氏の提言にもしっかりと耳を傾けておくべきと考える理由がわかっていただけたのではないか。 もし水野が訴えた「日米非戦」があの当時、もっと社会に受け入れられていたら、十数年後の総力戦研究所の「日本必敗」もあるいはもうちょっと違う受け取り方をなされていたかもしれない。国民をいい気分にさせない提言が、実は長い目で見ると「日本滅亡の危機」から国民を救うこともあるということだ。 前澤氏の提言が悪いとか、間違っていると言っているわけではない。これをもてはやす「空気」が危ないと言っているのだ。 前澤氏の話は、日本人として勇気が湧く。日本人はスゴイのだと誇らしく思えるし、「日本人らしさ」を押し出すことで国力がつく、というストーリーは希望が持てる。そうであってほしい、と心から願う人も多いだろう。筆者もそうだ。 しかし、歴史に学べば、このようにみんないい気分になる提言に、みんながわっと飛びついた時、我々日本人は「異論」を徹底的に排除する悪い癖がある。 つまり、水野が訴えた「日本非戦」や、総力戦研究所の「日本必敗」という提言を葬り去った「偏狭な自国中心主義」というものを社会に蔓延させてしまうのだ。。 このような排他的なムードを回避するには、「異論」も認めることだ。柳井氏の提言のように、多くの日本人として受け入れ難い主張にも、実は問題解決の鍵が隠されていることもあるのだ。 そのような意味では今、日本人が滅びないためには必要なのは、「異なる価値観を認める大らかさ」なのかもしれない。(ノンフィクションライター 窪田順生)
2024.08.30
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Facebook友達のMinako Duffyさん、オーストラリア在住ですが、日本に暮らす人々以上に日本の出来事を記事としてとりあげて暮れています。故・森本順子さんという絵本作家のことは知りませんでしたが、その方の語る13歳のときのヒロシマでの被爆体験は貴重な記録です。* * * *オーストラリアの放送局SBSの日本語放送ラジオ局が広島・長崎の原爆の日のための過去の投稿をシェアしています。このインタビューで、森本さんは広島原爆が落とされた日のことを、つい昨日のことのように語ってくれています。森本順子著『私のヒロシマ』https://www.sbs.com.au/language/japanese/ja/podcast-episode/my-hiroshima-by-junko-morimoto/pqcjr450q
2024.08.12
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桜花今そ盛りと人は言へど我は寂しも 君としあらねば 大伴池主意 桜の花は今まさに盛りと人はいうけれど、私は寂しいのです。あなたと一緒でないので…。桜のたよりが聞かれる頃、突然に忘れていた光景がよみがえることがある。ぼくの通った高校は当時、高遠城跡にあった。その学校も校舎移転にともない現在は高遠公園の一部となっている。公園の裏手から東、月蔵山に向かって、かつての武家屋敷跡があった。どんな用事だったのかも忘れたが、父の使いで訪れた家の記憶がある。江戸の面影をのこす古い家で、佇まいには妖気さえ感じた。玄関先から声をかけると、帯戸の奥から女性が現れた。その人は、二十代後半だろうか、夢二の絵から抜け出てきたかのように、すこし腺病質で切れながの眼が印象的だった。ぼくは、おずおずと用件を伝えた。はじめて会った人なのに、瞬間的に好意を抱いてしまったのだろう。用件を伝えながら、ほのかに顔が赤らんでいたのを忘れられない。ぎこちないぼくの仕草を感じとったのだろうか、その人は微笑みながら言った。「庭から見る花がきれいですよ。ちょっと見ていきませんか。」 言われるままに庭に回ると、珍しい種類の水仙が幾つも花を咲かせていた。 「ここに座ってね」と縁側を指さすと、お茶と饅頭を盆に乗せ持ってきた。言われるままに縁側に腰を下ろすと、目の前に公園の桜がひろがっていた。そのとき、三峰川のある方角から「サァー」っと風が吹きあがった。小さな蝶が、無数に飛び立つように桜吹雪としてわきあがり、その一部がに庭先に舞い散ってきた。 「わぁ、きれいでしょう」その人は同意を求めるように、その光景に眼を向けた。僕は、その横顔を盗み見た。スラリと伸びた白い喉、そして髪の脇から見えるうなじ付近が美しく、天女が舞い降り、隣に座ったかのような錯覚に陥った。饅頭を小さく口に入れると、それは至福の甘みだった。この時間を、一分、一秒でもそこにとどめたかった。どのように話したらいいのかもわからぬまま、ぼくはじっとピンクに霞む空のほうを見つめてから、思い切って言った。「公園の桜がこんなにきれいに見えるところはほかにないです。毎年こんな景色を見られるなんていいですね。」その人は、しばらく黙っていたが、ふっと笑みを浮かべて呟くようにいった。「そう、きれいでしょ。でも、私が見られるのは今年だけかも知れない…。」「えっ、今年だけ?」「…………。」会話はそこで途切れ、それ以上聞いてはいけないような沈黙に身をかたくした。花びらは、つぎつぎに庭先にに舞い降り、あたりは白く敷き詰められていった。数年後、その家の辺りを通りがかってみたが、屋敷跡は無くなり、更地だけとなっていた。
2024.05.05
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阪神大震災の折には友人と、貨物用バンに飲料水入りタンクやカセットコンロ、レトルト食品など支援物資を満載して、無謀にもうねったデコボコ道をパトカーに先導されて三日目に神戸に居た。しかし現地は、我々のようなボランティアを受け入れ整理するだけで混雑しておりそれらの対応だけでも行政は大変だろうと感じた。2回目以後は炊き出しに切り替えた。この震災がボランティア元年と言われ、暴組の前で、ヤーさんたちも慣れない手つきで炊き出しをしていた。東日本大震災は、被災地支援の市民グループに参加して、原発のあった地域の町ぐるみ避難場所となっていた会津若松を起点にして、十回ほど何らかの支援に訪れただろうか。行く度に「今、必要なもの」の要望をまとめ、次の便に乗せるよう工夫するなど、ようやく活動が手慣れてきてと感じた。当時は若かったメンバーもだいぶ高齢化して、今回はまだ具体的な計画を立てていないが、ボランティアはただ駆けつければ良いというものではなく、現地の状況によって刻々と変わってゆくので、現地と連絡をとりながらの支援活動をしてゆく必要がある。
2024.01.07
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2024.01.03
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短歌のつもり
2023.12.15
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あらためて、BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」を観た。ジャニー喜多川によるアイドル志望のローティーン少年たちへの常習的性加害(淫行)問題。当事者が死んでからであるが、イギリスのテレビ局がとりあげ放映したことによりようやく火が付き、外圧に弱い日本社会で大騒動に発展した。そしてジャニーズ帝国の崩壊とドタバタに至る道筋を辿っているわけだが、このBBCの番組から感じたのは、日本社会の外から指摘されるまでは見て見ぬ振りをしてフタさえしかねない閉塞観のともなうダメさ加減である。何十年にわたり、メディア世界では知る人ぞ知る社会的周知のもとで行われてきた性犯罪に対しての寛容さは、番組のインタビューをみる限り、ほとんどの割合の日本人が寛容としか思えぬ反応を示している。これは、昨今の自民党・安倍派の裏金キックバック問題に対する反応とも似ている。問題の鍵を握る人物が亡くなり、箝口令という縛りがゆるくなり、なおかつ支持率が低迷している岸田政権だったから表面化したのであろう。安倍一強体制がつづいていたら、モリカケ同様にもみ消しがされていたのではないだろうか。それにしても、“政治に金やスキャンダルはつきもの”、“旨味があるからこその政治家業”といった、本来は非常識であるべきことに対して、多くの国民が黙認したり無関心できたことが、ここまで増長させてしまったのである。かつて自民党にも骨のある政治家がいた。ダーティーなハト派と呼ばれた田中角栄や野中広務、伊東正義、古賀誠、加藤紘一など、ときにはあっぱれとも言える信念もみられた。いつ頃か、長期政権のなかでどっぷりと甘い汁の味を覚え、蜜に群がる小物議員の集団と化してしまった。“おまかせ政治”による、根強い国民の“無視・無関心、”あるいは“ささやかな利益”あるいは“寄らば大樹”という心地よさが、うるさい野党や国民への無言の重しともなって、歴代政権を支えられてきたのである。旧統一教会(に限らないが)宗教まがいの組織による政治介入やマインドコントロールを利用しての巨額なお布施や家庭崩壊問題も前首相への暗殺という事件がなかったら、まだ安穏とつづいていたのではないだろうか。さらに福島第一原発の(汚染)処理水放出も、名護市辺野古への基地移設計画を巡る問題も、本来なら国の存亡や自立をめぐる重大事であろう。最近でいえば大阪万博をめぐる不可解な計画や発注も、宝塚歌劇団の前近代的ないじめ・パワハラ問題も、国民の無関心や沈黙が解かれて初めて大きな問題として顕在化する。それまで社会にとっての関心外であったり、社会からはじかれているうちには、無視無関心の蔓延する日本社会の汚泥のなかに沈殿していたのであろう。ビッグモーター等による保険金詐欺やルール無視の営業などの犯罪行為が、それらの前では、些細な出来事のようにさえ思えてしまう。ことに、日本全体の命運がかかっている、福島第一原発は危機一髪ともいえる課題を抱えている。解決を早めるためのさまざまな提案が専門家から出されたり、指摘されながら遅々として進んでいないのは、どういうことなのか。それどころか、こともあろうに原発再稼働・新設計画などが浮上していることなど、正気の沙汰と思えないが、また大事が起きるまで見て見ぬフリをつづけるのであろうか。世界ではまださまざまな戦争がつづき、女性や子供など弱者から殺されているというのに、国として、国内事と同様に無視をつづけ眼を向けようとしないのであろうか。憲法前文を読んだことがあるのだろうか。読んで、都合が悪そうだから捨てたいと思っているのであろうか。この国は、政治は、いったい何のために誰のためにあるのであろうか。
2023.12.12
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「知らなかった」では済まされないことが、今、パレスチナのガザ地区で起きている。その凄まじい内容を、岡真理 早稲田大学文学学術院教授が詳しく語っている。パレスチナ問題をひもとく「ガザとは何か!?」これは、IWJ提供のYouTubeです。報道などからの情報では、ハマスのロケット弾攻撃によるイスラエルの報復という形で語られているが、実際にはそんなものではなく、「今起きてることが既に(イスラエルによる)ジェノサイドだ」と思わざるを得ないことが理解できる。ぜひ、皆さんにもパレスチナの真実を知って戴きたい。①「緊急学習会 ガザとはなにか」―登壇 岡真理 早稲田大学大学院文学研究科教授②「緊急学習会 ガザとはなにか」―登壇 岡真理早稲田大学大学院文学研究科教授③「緊急学習会 ガザとはなにか」―登壇 岡真理 早稲田大学大学院文学研究科教授④「緊急学習会 ガザとはなにか」―登壇 岡真理 早稲田大学大学院文学研究科教授
2023.10.28
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ガザ地区が悲惨なことになっている。元といえばイギリスの稚拙でずる賢い外交に根源があるのだが、今となってはそんなことをほじくり返しても始まらない。何はともあれ、イスラエル人とパレスチナ人の共存の道を探ることができないものかと願うのだが、こじれにこじれてしまったこの地の問題を解決する妙案はないのだろうか。購読している「週刊文春」の電子版に、池上彰氏による解説と、歴史的経過が詳しく掲載されていたので、忘れないためにメモしておく。***《池上彰 緊急寄稿》イスラエル・ハマス戦争の衝撃「私か歩いた“ガザ”の悪臭と絶望」 ユダヤ教のお祭り後の安息日を狙ったイスラム武装勢力ハマスの無差別攻撃。ハマスはイスラエルを襲撃した際に、外国人を含む100人以上を人質として連れ去り、1400人以上を殺害しました。その非道さには言葉を失いますが、イスラエル軍は報復としてガザ地区に激しい空爆を行い、2600人以上が犠牲になっています。その後、イスラエル軍はガザ地区への大規模な地上侵攻作戦への移行も進めており、さらに多くの市民が犠牲になる恐れがあります(以上、10月16日現在)。この負の連鎖はどうして起きているのか。歴史から紐解いていきましょう。襲撃はイスラエルの隙を突いた 襲撃が起きたのは10月7日の早朝でした。この日は、ユダヤ教の1週間に渡るお祭り「仮庵の祭り」が終わった直後の安息日でした。この祭りは、エジプトで奴隷にされていたユダヤ人の祖先が預言者モーゼに率いられてエジプトを脱出し、神から与えられた約束の地「カナン」に向かう際に荒野で天幕を張って住んだとされている故事にちなんだもので、木の枝で仮設の家(庵)を建てて住む行事です。 ユダヤ教では、仮庵の祭りの最終日は一切働いてはいけないことになっていますし、その翌日の安息日も働けません。このためイスラエル軍兵士の多くが自宅に帰っていました。その隙を突かれたのです。これはいまから50年前の10月6日に起きた第四次中東戦争を想起させます。このときもユダヤ教にとって大事な祭日「ヨム・キプル」(贖罪の日)で、働いてはいけないことになっていたため、その隙を突かれて緒戦は大きな被害を出しました。まさにその二の舞だったのです。 イスラエルといえば、スパイ好きには有名なスパイ組織「モサド」(諜報特務庁)を擁しています。実はモサド以外にも「アマン」(イスラエル参謀本部諜報局)や「シンベト」(イスラエル総保安庁)があり、アラブ諸国、イスラエルに敵対する勢力に対する情報収集活動を展開しています。ガザ地区の中にも情報源を確保していますが、今回は事前の情報を掴むことができませんでした。イスラエル軍によるハマス根絶作戦が終了した後は、この失態の責任が追及されることになるでしょう。ハマスとは ハマスとはアラビア語の「イスラム抵抗運動」の頭文字をつなげた名称で、「情熱」という意味にもなります。1987年、イスラエルの占領に対抗してパレスチナ人が投石をするという「インティファーダ」(蜂起)をきっかけに設立されました。武装闘争によってイスラム国家の設立を目指しています。 パレスチナには、さまざまな組織があります。ヨルダン川西岸地区を統治しているのは穏健派の「ファタハ」ですが、ガザ地区はハマスが支配しています。 穏健派のファタハはイスラエルとの共存を打ち出していますが、幹部の汚職体質が住民から嫌われ、支持は広がりません。一方、ハマスはイスラエルの存在を認めようとせず、アメリカや日本からは「国際テロ組織」に認定されていますが、学校や医療施設を整備してきたことで住民の支持を得ています。 ただし、最近はハマスがイスラエルを攻撃するたびにイスラエル軍の報復攻撃を受けることからガザ地区の住民の不満が高まり、今年7月には反ハマスのデモに数千人が集まるという動きも出ていました。今回のハマスの攻撃は、この動きに焦った執行部が、敢えてイスラエルを挑発して報復させ、ガザ地区の住民のイスラエルに対する怒りをかき立てようとしたのではないかという見方もあります。「天井のない牢獄」ガザ このガザ地区とは、どんな場所なのでしょうか。私は2013年末に現地を取材しました。 ここは「天井のない牢獄」と称されます。イスラエルからガザ地区に入るには、検問所でイスラエル軍による厳重な審査があります。私は外国のメディアとして入ることができましたが、一般のパレスチナ人は自由な通行が認められません。 ガザ地区はイスラエル西部に位置し、地中海東岸に沿った長さ約50キロ、幅が5キロから8キロという細長い地域です。面積は東京23区の6割くらいで、約220万人が住んでいます。周囲は高さ8メートルもの高いコンクリート壁に囲まれ、ガザの住民がイスラエルに入れないようにしています。ガザ地区の西側には地中海が広がっていますが、こちらはイスラエルの警備艇が出入りを監視しています。 厳しい検問を経て中に入ると、まさに牢獄(刑務所)に入ったような気持ちになります。壁の内側は最大約600メートルに渡る緩衝地帯です。住民が壁に近づくのを早期に発見できるようにしているのです。ここを約5分かけて徒歩で通過することで、ようやくパレスチナ側に着くことができました。 このときは急な雨が降り、ガザの街路はあっという間に洪水状態となりました。下水の整備ができていないからです。し尿処理場も壊れたままで、周辺には悪臭が漂っていました。インフラ整備が行われていないことがわかります。 修理しようにもガザ地区の外部から部品や建築資材の搬入がなかなか認められません。こうした部材がテロの武器に転用されることをイスラエルが恐れているからです。 閉鎖的な場所ですから、産業らしい産業もなく、失業率は5割に迫っています。UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が支援し、住民の8割が食料の援助を受けていると言われます。狭い場所に閉じ込められて国連の支援に頼る生活。未来が見えない人々の閉塞感・絶望感はいかほどのものか。 もちろん今回のハマスの蛮行は、到底認められるものではありませんが、背景にはガザの絶望的な現状があるのです。イギリスの三枚舌外交 中東問題を語るとき、必ず取り上げられるのが、第一次世界大戦中にイギリスが行った三枚舌外交です。 当時のイギリスは、中東地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すために、三枚舌を使います。まずアラブ人には「オスマン帝国が崩壊したら、ここをアラブ人の土地にしてあげる」と約束します(「フセイン゠マクマホン書簡」)。約束をエサに、オスマン帝国の中でアラブ人の反乱を引き起こそうと考えたのです。このときイギリスから送り込まれたのが、アラブ情勢に詳しい陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンス。ロレンスの活躍は映画「アラビアのロレンス」になりました。 一方、ユダヤ人たちには「戦争が終わったら、ここにユダヤ人のナショナルホームを作ることを認める」と約束します(「バルフォア宣言」)。戦争をするためにユダヤ人富豪の資金が欲しかったのです。ユダヤ人たちは「ユダヤ人国家の建設が保証された」と解釈しますが、ナショナルホームとは何か。イギリスにしてみれば、「国家とは言っていない」と、後で何とでも言い逃れができる言い方でした。 さらに、フランスとの間でも秘密協定を結びます。オスマン帝国崩壊後、領土を山分けしようという約束です。協定を結んだ当事者の名前から「サイクス・ピコ協定」といいます。これによって第一次大戦後、イラクやクウェートはイギリスの勢力圏に、現在のシリアやレバノンのあたりはフランスの支配下におかれました。 こうしたイギリスの勝手な外交によって、中東にはアラブ人国家の「トランスヨルダン」(現在のヨルダン)が成立する一方、ヨーロッパで差別に苦しんでいたユダヤ人たちが、かつてユダヤの王国があったパレスチナへの帰還を始めます。ホロコーストに世界が同情 ユダヤ人をめぐる国際情勢が大きく動いたのが、第二次世界大戦中にナチスドイツによって起きた「ユダヤ人虐殺」(ホロコースト)でした。第一次世界大戦で敗れたドイツは、フランスなど連合国から莫大な賠償金を要求されます。これに応えるためにドイツは紙幣を増発。これがとてつもないハイパーインフレを引き起こし、ドイツ経済は疲弊します。 そこに現れたアドルフ・ヒットラーが、ユダヤ人に対する差別意識を利用して、全ての責任をユダヤ人になすりつけて政権を掌握。世界で最も優秀な人種であるアーリア人の帝国を築かなければならないとユダヤ人を強制収容所に入れて大量虐殺を始めます。ドイツが占領したポーランドに建設した「アウシュビッツ収容所」が、その例です。 では、なぜユダヤ人は差別されたのでしょうか。まずは「ユダヤ人」の定義です。ユダヤ人とユダヤ教徒は同義として使われます。ユダヤ人という民族は、ユダヤ教を信じる人たちのことを指します。 ユダヤ人が差別されることになった根拠は『新約聖書』にあります。イエスを十字架にかけて殺したのはユダヤ人だという記述があるからです。たとえば「マタイによる福音書」の中には、死刑執行をためらうローマ帝国の総督に対し、集まったユダヤ人の群衆が「十字架にかけろ」と言い、「その血の責任は、我々と子孫にある」と言ったと記述されています。イエス殺しの責任は、自分たちの子孫に及ぶことを認めているというのです。 イエスが処刑された後、3日目に復活したという話が広がると、イエスこそが救世主(キリスト)ではないかと信じる人が増え、彼らはキリスト教徒と呼ばれるようになります。イエスの死後、キリスト教徒はローマ帝国内で布教活動を続け、一時は皇帝に弾圧されることもありましたが、やがてローマ帝国がキリスト教を国教にします。 そして、ローマ帝国はユダヤ人への迫害を強めます。ユダヤ人たちが反乱(ユダヤ戦争)を起こすと、ユダヤ教の神殿を破壊し、ユダヤ人がエルサレムに住むことを禁止し、ユダヤ人たちは各地に離散(ディアスポラ)することになりました。 ヨーロッパに移り住んだユダヤ人たちは、キリスト教社会で差別されて職業選択の自由がなく、キリスト教社会で禁じられていた金融業に就くことは認められ、そこで成功します。これが妬みの的となるのです。国連のパレスチナ分割決議 第二次世界大戦が終わると、ナチスドイツによりユダヤ人600万人もが虐殺されていたことが明らかになります。実はヨーロッパでは、ユダヤ人たちが強制収容所に連行されていたことを、多くの人が知りながら見て見ぬふりをしていました。しかし、これほどの惨状が明らかになると、贖罪意識も高まり、ユダヤ人の祖先の地への帰還を認めようという動きが高まります。 一方、パレスチナでユダヤ人とパレスチナ人との衝突が起きるようになり、この地域を統治していたイギリスは手を焼き、解決策を国連に丸投げします。その結果、1947年11月、国連総会で、パレスチナを「ユダヤ人の国」と「アラブ人の国」に分割し、聖地エルサレムは国際管理とする決議が採択されます。 これにもとづき翌年5月、「ユダヤ人の国」に指定された場所にイスラエルが建国されました。 しかし、この決議に反対していたアラブ諸国は反発。建国宣言の翌日、エジプト、イラク、シリア、レバノン、ヨルダンはイスラエルを攻撃。これが第一次中東戦争です。 イスラエルは事前にこの攻撃を予測し、軍備を整えていたため、アラブ諸国の攻撃を撃退し、国連が定めた「ユダヤ人の国」より広い面積を占領します。 一方、ヨルダン川西岸地区はヨルダンが、ガザ地区はエジプトが占領します。この戦争で住む場所を失ったパレスチナ難民たちは、同じアラブ人が占領した2つの地区に逃げ込み、多くの難民キャンプが作られました。キャンプとはいってもテント張りではなく、時間が経つにつれ、恒久的なコンクリート製の建物が建ち並ぶ街が形成されました。 このとき大勢の難民が逃げ込んだヨルダン川西岸地区とガザ地区が、その後、パレスチナ自治区に指定されることになります。「パレスチナ解放闘争」と日本赤軍 こうして生まれたパレスチナ難民の窮状を救おうと、1964年5月、アラブ諸国の支援を受けてPLO(パレスチナ解放機構)が組織されます。当初は穏健な組織だったのですが、1969年にヤセル・アラファトが議長になると、イスラエルに対する武装闘争を展開することになります。ここに加わったのが、日本赤軍でした。 日本では1968年から大学紛争が活発になり、武力革命を志向する過激派が相次いで誕生します。中でも共産主義者同盟から分裂した「赤軍派」(後の日本赤軍)は、世界同時革命を提唱。革命の拠点としてパレスチナを選びます。PLOの中でも最も過激なテロを展開していたPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と協力し、世界各地で無差別銃撃や大使館襲撃事件を起こしたのです。 中でも衝撃だったのは、1972年5月、日本赤軍のメンバー3人がイスラエルのテルアビブ空港で自動小銃を乱射し、26人を殺害し、80人に重軽傷を負わせるテロを起こしたことです。3人のうち2人はその場でイスラエル治安組織に射殺され、岡本公三が逮捕されます。岡本は、パレスチナ人の間で英雄となります。パレスチナには親日家が多いのですが、岡本の祖国だからという理由の人もいるのです。岡本はイスラエルの刑務所で服役していましたが、パレスチナ側は岡本を奪還するためにイスラエル軍兵士を誘拐。人質交換で岡本は釈放されます。現在はレバノンで生活しています。「オスロ合意」が結ばれたが パレスチナ過激派による国際テロが続くことで、世界の目はパレスチナに注がれます。そこで手を差し伸べたのがノルウェーでした。首都オスロにイスラエルとパレスチナ双方の代表を招いて秘密裏の交渉を続けた結果、和平合意がまとまります。それが「オスロ合意」です。その時点でアメリカが乗り出し、クリントン大統領がホワイトハウスにイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長を招いて合意文書に調印します。それが、いまから30年前の1993年9月だったのです。 合意の内容は、ヨルダン川西岸地区とガザ地区を「パレスチナ自治区」に指定し、パレスチナ人による暫定自治を認めるというものです。 パレスチナ自治区は国家ではないものの、パレスチナ側には将来のパレスチナ国家樹立に道を開くものとして歓迎されました。 暫定自治のための暫定自治政府が設立され、大統領に該当する議長にはアラファトが就任。議会に当たる立法評議会の評議員を選挙で選出することになりました。 ところが「全ての土地は神が我々に与えたものであり、パレスチナ人に自治を認めるのは裏切り者だ」とするユダヤ人過激派によってラビン首相は暗殺されてしまいます。 またパレスチナ自治区の中にもイスラエルの存在を認めない過激派が勢力を伸ばし、その後の和平協議は進みません。カリスマ指導者だったアラファトが2004年に亡くなると、2005年の議長選挙で後任にマフムード・アッバスが選出されますが、パレスチナをまとめる力はなく、ヨルダン川西岸地区は穏健派のファタハ、ガザ地区はハマスが支配するようになります。 パレスチナ内部での混乱から、2005年に議長選挙、2006年に立法評議会選挙が実施された後は、選挙が実施されていません。2018年には立法評議会自体が解散してしまいました。自治政府は機能していないのです。イスラエル、分離壁を建設 暫定自治が始まった後でも、パレスチナ自治区に拠点を置くイスラム武装勢力はイスラエル国内で爆弾テロを起こします。このためイスラエル政府は「自国民をテロから守るため」として、ヨルダン川西岸地区とガザ地区を囲む形で分離壁を建設します。その結果、ガザ地区は「天井のない牢獄」と呼ばれるようになったのです。 さらに最近はイスラエル国内のユダヤ教原理主義者たちが、ヨルダン川西岸地区の中に入植地を建設しています。「自分たちが神から与えられた土地だから」というわけです。入植地ができるとイスラエル政府は「自国民を守るため」に周囲に壁を新たに建設。結果としてパレスチナ自治区の土地が少しずつイスラエル側に削り取られる形になっています。 さらにパレスチナ側を焦らせる動きが続いています。それが「アブラハム合意」です。「アブラハム合意」の“裏切り” 2020年8月、アラブ首長国連邦(UAE)とイスラエルが国交を結びます。翌月、バーレーンも国交を結び、その後、スーダンとモロッコも続きました。アメリカのトランプ大統領の働きかけで実現した合意には、『旧約聖書』に登場するアブラハムの名称がつきました。アブラハムは、ユダヤ民族とアラブ民族の共通の祖先とされているからです。同じ子孫同士、仲良くしようというわけです。 しかし、これらの動きは、パレスチナ人と敵対するイスラエルへの接近であり、パレスチナ人にとっては“裏切り”です。さらに最近になってサウジアラビアもイスラエルと国交を結ぶ動きが表面化しました。トランプ大統領(当時)と「アブラハム合意」 イスラエルはIT国家として目覚ましく発展しています。アラブ諸国にすると、イスラエルと国交を結んで貿易を活発にすることが自国の利益になるという冷徹な判断です。でも、これはパレスチナにとっては衝撃です。今回のハマスの攻撃は、アラブの国々のイスラエル接近の動きにブレーキをかけ、国際社会の目をパレスチナに向けさせようという動機があるように思えます。 これだけの蛮行には国際社会が猛反発していますが、イスラエルの攻撃が続けば、パレスチナの窮状がよりアピールできる。ハマスには、こうした戦略があるのでしょうが、被害を受けるのは、結局は一般の住民なのです。(いけがみあきら 1950年生まれ。ジャーナリスト。2005年にNHKを退局してフリーに。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特命教授などを務める。著書に『池上彰の「世界そこからですか!?」』『池上彰の日本現代史集中講義』ほか。) (週刊文春 2023/10/26)
2023.10.24
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本当に久しぶりに、何の予定も入れない日曜日となり、Netflixで、2011年に起きた福島第⼀原発の事故を、事実に基づき忠実に描いたドラマ「THE DAYS」を観た。入念なリサーチに基づき、3つの異なる視点から事故を克明にとらえた重層的なドラマ。「あの日、あの場所で何があったのか」を、政府、会社組織、そして原発所内で事故に対峙する者たち、それぞれの視点から描いている。吉田所長役を演じるのは役所広司で、死を覚悟しながらも免震重要棟の緊急対策室で混乱し、絶望的な現場を指揮する姿を見事に演じている。役所広司は、「カンヌ国際映画祭」での「最優秀男優賞」受賞に続き、本作でも快挙を成し遂げているという。また、主演の役所ばかりでなく、共演者たちの重厚でリアルな演技に絶賛の声があがり、SNSで大反響を巻き起こしている、という。6月1日からNetflixにて世界独占配信が開始され、【今日のシリーズトップ10】で、日本で1位を獲得したほか、世界77の国・地域でトップ10入りする快挙となっている(6月7日時点)という。映像は、当時の実際の現場の映像などとともに、原発現場に直接カメラを持込み撮影したかのような立体的でリアルな構成になっている。ドラマでありながら、緊迫した事実を追う展開に、妻と一緒に最後まで眼を離すことができなかった。気になったのは、事実を丹念に追っているのにも関わらず、全電源喪失に至った真の原因に触れていなかったことだが、これは視聴者が考えればいいことだ。また、ドラマのなかでも語られているが、事故は完全に終息したわけではなく、まだ相当の年月を要する作業となる。それにもかかわらず、原発再稼働賛成派が国民の50バーセントを超えたという世論調査。古い原発の運転期間を60年超に延ばすための法案を可決するという政府与党。まさに正気の沙汰とは思えない、呆け大国になってしまった日本を滅ぼすのは、原発だけではないのかも知れない。
2023.06.12
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地元伊那市で行われた小平奈緒の講演会に参加してきた。ぼくは、五輪で“功成り名なりを挙げた”アスリートというだけであったなら参加することはなかっただろうが、ときおり耳目にする小平奈緒に注目していた。つい最近も、「札幌五輪」招致委員就任を断っている。利権・金権まみれのIOCやJOCに利用されたくない、という意思が見てとれた。招いた商工会議所青年部に息子が加わっていたり、地元の高校出身という縁も多少はあったが、彼女の言葉が気になっていたこともあり、わが施設のメンバー等を連れて最前列に近い席で拝聴した。驚いたのは、小平奈緒のキュートで柔和な素顔だ。テレビなどで拝見しているように彼女は、アスリート哲学者と称されるキリッとした理知的な表情をイメージしていたが、いや、実に美しく優しく魅力的な人である。トップアスリートという鎧を脱ぎ捨て、一個人としての姿に立ち戻ったせいであろうか。そして、さらに驚かされたのは月並みを離れた、珠玉の言葉の数々である。よくみかける、スポーツの有名選手につきものの「勇気や希望、感動を与えたい」「勇気や感動をありがとう」といった判で押したような言葉の陳腐さにぼくは白ける。多少はそれに近い講演内容になるかも知れないと予想していた。ところが講演のなかで、彼女は「勇気や希望、感動は、一方的に与えたり与えられるものではない」と言う。それらは(真剣に)勇気(覚悟)を求める者に訪れるものである、という主旨のことを述べていた。これは、平壌五輪の後彼女に、某首相が「多くの国民に熱い感動と勇気を与えた」と平板な言葉で述べたことへの回答ともとれた。また、自分自身を磨くなかで悟りに似た心境から発した「成績やメダルは目標であって、目的ではない」など、含蓄のある言葉や生き方に一々頷かれさせられた。そんな含蓄のある言葉や生き方を紹介しながら、伊那での生活や親しみのあるエピソードや、自分が、高校、大学と成績を上げ注目されてゆくごとに、親しい友人が去ってゆく寂しさや孤独感に駆られたことなども素直に語っていたことにも、好感をもった。講演中に語られる言葉のすべてを正確に聴き取ることはできなかったが、その幾つかを紹介すると、おおよそ次のようなことが散りばめられていたように思う。・与えられるモノは有限、求めるモノは無限。・そこに「ない」から、手に入れるための手段や方法、時間をつくる。そういう環境に身を置いていること自体が、創造の一部。・「上には上がいる」「先には先がある」と思えば、何が足りないか、何が強みなのか冷静に判断できる。などなど、ここだけでは紹介しきれないほど奈緒語録が散りばめられている。そのなかで、人生について語ったことが特に印象深かった。「自分の時間は自分の宝物」、当たり前ではないかと思うかも知れない。しかし、自分の時間を自分の宝として過ごしている人がどれほどいるのだろうか。彼女は、常に意識していると感じた。そして以前にインタビューで彼女が述べていたものだが、好きな言葉として 「明日死ぬかのように生きろ。 永遠に生きるがごとく学べ。」 この言葉は、インドの生んだ偉人、マハトマ・ガンディーの言葉です。余談ながら、ぼくの所属する読書会では、2月26日PM4:00に伊那図書館で、ガンディーの『わが非暴力の闘い』をテーマに行います。ご希望の方はどうぞご参加を!
2023.02.18
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近年の日本は、このアニメの伝えるようなことが着々と進んでいます。世界の環境破壊は、CO2だけでなく、戦争そのものも大きな役割を果たしています。為政者たちは、人間という名の羊の群れをどこに連れて行こうとしているのでしょうか。
2023.02.16
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ぼくは、三橋貴明という経済評論家とは基本的には与する立場ではなく、好き嫌いでいえば嫌いなタイプです。しかし、最近彼が発する岸田総理への発言や、政府当局への批判はまことに的を射たものが多いと感じています。彼の事務所関係から幾つもの本を出している堤未果さんのレポートは、昔からさまざまな本を読んでいますが、とくに対米関係のものはよく精査されていて、学ぶところが多いと感じています。その三橋貴明氏が岸田首相に宛てたという投書に感じるところがあったので紹介します。以下引用――――――――――――――――――――――拝啓 岸田文雄さま日本国民の1人である「私」から、あなたに1通の手紙をお送りします。あなたは憶えているでしょうか・・・? 私は今でも、"鮮明"に覚えています。岸田総理、、、あなたが就任した当初、国民の前で大々的に披露していた"パフォーマンス"の数々を、、、あなたは、「岸田ノート」を片手に堂々と発言していましたよね・・・■「私の特技は"人の話をよく聞くこと"です。」■「一人一人の国民の皆さんの声に寄り添い、国民の声を政策に反映させます。」■「コロナパンデミックで苦しむ国民を救うため、十分な支援をします。」■「金持ちから税金を徴収し、庶民へと分配します。」■「小泉政権以来の新自由主義を脱却し、新しい資本主義を打ち立てます。」■「安倍元総理の思いを引き継ぎます。」■「財務省の言いなりではありません。決して増税は考えていません。」日本にようやくヒーローが現れたかと思っていました。嘘じゃありません。その時、私はほんとうに希望に満ち溢れていたんです。「長い間、衰退し続けていた日本がついに変わるんじゃないか」と、、、しかし、1年半経った今の岸田総理、、、あなたは一体「誰」なんですか?まるで、人が変わったように思えてなりません、、、私たち日本国民を苦しめるばかり、、、いや、あなたの行動は、私たちに向かってこう発言をしているようなものです。■「話を聞くのは決して日本国民に対してではありませんよ。」■「中国人やアメリカ、財務省のお話ならお聞きしましょう。」■「コロナで困ってる人?助けるのは、一部の人だけにさせてください。」■「お金持ちがもっと儲ける仕組みを作りましょう。お金持ちの皆さん、投資でより儲けましょう。」■「竹中平蔵先生を呼び戻して、新自由主義路線を強化しましょう。」■「増税反対の安倍派は冷遇しましょう。」■「増税します!気づかれないように・・・」最初の意気揚々とした宣言は、結局は「真っ赤な嘘」だったんでしょうか・・・それだけではありません・・・岸田総理、あなたははまるで狂ったかのように、自ら亡国への道を突っ走っているように思えてなりません。国民に気づかれていないと思っているようですが、私はもう気づいています・・・■あなたの息子が政府秘書官という重役についたのにもかかわらず、呑気にパリ・ロンドン・カナダで豪遊していることも、、、■2022年9月には、ひっそりと日本への入国者制限を緩和したことで、弟さんの会社(外国人斡旋企業):フィールジャパンがボロ儲けできるような環境が整えられたことも、、、■日本人のためではなく外国を助けるべく、ASEANに総額2950億円もの支援を決定したことも、、、いや、ちょっと待ってください。どんどん出てきます・・・■北朝鮮が次々ミサイルを打ってくるのに、「遺憾です」というばかりでなんの対策も講じていないことも、、、■しまいには、戦争や世界的な物価高により困窮している国民に対して、走行距離課税や、酒税、国民皆保険増額など、バレないように増税を企んでいることも、、、あなたは、こんなこと知らないととぼけるのでしょうか?国民のリーダーという責任ある立場でありながら、、、しかも、私たちが直面している危機というのは、国外にもあるのではないですか?あなたは、「まだバレてないから大丈夫!」とでもいうのでしょうか?■ロシア・ウクライナ戦争が起きて、必要以上にロシアを攻撃した結果…逆・経済制裁を受け、食糧やエネルギーが入ってこなくなりつつあることを、、、■岸田派の政治資金パーティーに、不動産屋や投資家など、中国の大金持ちがひっそり紛れ込んでいることを、、、■防衛費43兆円を増額し、日本の武器ではなくアメリカの長距離巡航ミサイル「トマホーク」を大量に買わせられそうになっていることも、、、まるで、外国に対してごますりばかりして、、すでに、彼らから都合の良い「カモ」のように思われているのではないですか・・・私は、あなたを絶対に許しはしないでしょう。なぜなら、岸田総理、、、あなたはまず人として絶対にしてはならない「嘘をつく」ことを平気でしている。それも、一国のリーダーという立場にありながら、、、いつまで、現実を見ない「お花畑思考」のままでいるつもりなのですか・・・?私たち日本国民の生活をどうするつもりなのでしょうか・・・?最近、私は日本の最悪の未来まで想像してしまいます、、、たとえば、、、、もし、国民がますます貧乏になり、国力を失ったまま、ほんとうに「台湾有事」が始まってしまったとしたら、、、私たちの目の前に想像を絶するような光景が広がることになるかもしれない。日本がアメリカの「盾」となり、強引に戦場へと連行され、、、日本人は安い武器を持たされ、中国の最新兵器に立ち向かう・・・日常が壊されるどころか、日本が戦場となり、思い出の場所まで失ってしまう。そんな未来が待ち受けているかもしれないと思うと、本当にゾッとしてしまうのです。私たちは、あなた、岸田総理に振り回されるのは、うんざりなのです。どうか、もう日本を破滅へと導くような愚行はおやめください・・・
2023.01.28
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お隣の市の安楽寺というお寺で、カテリーナ・グジーさんのコンサートがあり行って来ました。彼女から3㍍という間近で聴かせて戴きました。姉さんのナターシャさんをご存じの方も多いと思いますが、妹のカテリーナ・グジーさんもウクライナ出身の歌手でバンドウゥラ奏者でもあります。天使の声とも称される透明感溢れる歌声は、聴く者の心をしっとりと潤わせてくれます。幼児期(生後1ヵ月)にチェルノブイリの原発事故に遭い、古里を捨てざるをえませんでした。姉さんは十九歳のとき公演で訪れた平和の国・日本が大好きになり、活動拠点を日本に移し20余年の月日が流れました。カテリーナ・グジーさんも姉の後を追い、日本で活動するようになっていました。「一人のミュージシャンとしていい音楽を届けたいだけなんです。私の過去で有名になりたいわけじゃない」とカテリーナさんは強調します。「過去」とは、故郷ウクライナと、移住した日本で経験した、2度の原発事故のことです。第二の古里となった日本のためコンサートを通じて福島へのの支援活動をしてきました。そして、忌まわしいウクライナ戦争。カテリーナさんは、ウクライナで家を壊され、生活の成り立たなくなった人々や国外退避を余儀なくされた人々のために、食料や生活必需品の無償配給支援を続けています。さらに、家を壊され、仕事もない人々の生活支援のために、ウクライナの民族衣装を買い取って、コンサート会場で支援グッズとして販売しています。今、ウクライナの戦争被災者の支援のために全国縦断公演を行っています。皆さんの地域を回った折には、ぜひご協力をお願いします。https://www.youtube.com/watch?v=Q9UwiPXlmHc&t=1218s
2022.11.27
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所属している読書会で今月に採り上げられたテキスト本は、池内紀著『ヒトラーの時代』。ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期までを描く。弱小政党の泡沫候補でしかなかったヒトラーが、いかにしてナチスを率い、上り詰め破滅したのか。読んでいて気になったのは、現代では悪の権化のように言われているヒトラーの政策である。ある意味で、戦後高度成長期を経て経済大国として上昇していた時代の日本と似ていなくもない。ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドは、もしヒトラーが政権4年目に死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物のひとりとして後世に残っただろうと述べている。実際ナチズムが支配した15年間、戦時体制に入るまで普通のドイツ市民は「明るい時代」を享受していた。例えば、失業者600万→100万、国民所得1.5倍、フォルクスワーゲン、アウトバーン(全長3000Km)、1936年のベルリン・オリンピックなど。また自然や動物にも優しかった。動物保護法、森林荒廃防止法、帝国自然保護法など。ヒトラーは左手で仔犬の頭を愛撫しながら、右手でユダヤ人や共産主義者を殺戮した。そのことになんのためらいや矛盾もなく。しかし、やがてその極端な大衆受けするポピュリズム路線は、絶頂から大破綻へと突き進むのである。このへんも、日本の自民党翼賛政治の行く末を予感させなくもない。特筆したいのは、ナチズムの妖怪さは、異常な人間集団が引き起こしたものではなく、その母体はごく平凡な人びとの熱狂だった。ヒトラーは普通の小市民によびかけた。いつも「みんなとおなじ」主流派でありたがる人びとに。日和見主義者でコネ好きな小市民に。見て見ぬ振りをする小市民に。自分が“中庸でまともな人間だ”と勘違いしていた普通の人が、ヒトラーに夢中になった。このへんは、ずっと自民党政権に入れあげ、保守中庸右派だと無条件に自認してきた大衆と変わらないのである。この本を読んだ後、島田雅彦氏の著作『パンとサーカス』が、現在の日本を見事に予感していて気になった。少し長文になるが、引用しておく。以下、引用…………………………………………………………………………………それでも政治は変わらないのか? 作家 島田雅彦 国民はもっと怒るべきだ――世の中の全てが愚かな選択の結果だ。――世直しにはもっと愚かな選択が必要だ。 (『パンとサーカス』からの引用) 小説に書かれている通りの犯罪が起きたら、小説家も逮捕しますか? 腐敗した政権の打倒を夢想したら、罪になるんですか?「テロを誘発した」などと偏見の目で見られることに耐えなければならないし、暗殺後の社会の趨勢を考えると、深い憂愁に囚われる。私の予言が外れた方が、世の中はいい方に向かうのだが、このままでは確実に暗黒時代のドアが開く。ただ、『パンとサーカス』ではそれに対する心構えを提唱したつもりである。多少のワクチン的効果はあるはずなので、不安を和らげるのにもご活用を。また我が身の安全を確保するためにはもう少し売れて欲しくもある。安倍晋三元首相を暗殺した容疑者の動機は生々しい怨恨だ。旧統一教会に家庭を破壊され、家族一人一人が悲惨な目に遭った男の復讐は、自民党と旧統一教会の癒着を表沙汰にした。元首相はその広告塔を務め、閣僚等の重要ポストにあった34名を含む自民党議員の半数がこのカルト教団に資金や組織票、実働に依存していたという事実に国民はもっと怒るべきだ。 憲法嫌いの議員たちは平然と「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という憲法20条を踏みにじっていたのである。しかも、その事実は以前から知られていたにもかかわらず、事件後もそこに触れようとしないNHKほかマスメディアは、報道の自由度のランクを下げることに貢献している。 殺された安倍元首相は顕彰すべき功績などほとんどなく、無駄に最長在任記録を作っただけで、その間に民主主義と経済を破壊した。GDPや民間の所得、年金は下落し、倒産、自己破産は増加、数々の疑惑に対し、国会で虚偽答弁を重ね、公文書の改竄、破棄を促し、公金を濫用し、バラマキ外交に終始し、ロシアとの領土交渉に失敗し、ポンコツ戦闘機の爆買い等、米政府のATMとして奉仕し、改憲と軍備増強を訴え、レイプ事件のもみ消しを図るなどの悪行の方が目立つ。 にもかかわらず、戦死した軍人を軍神に奉るかのように、元首相の神格化を政府は率先して図ろうとし、マスメディアが追従している。議論もないまま拙速に国葬を決めたのも、一連の罪状が蒸し返されるのを避けるため、また旧統一教会との癒着関係の追及をかわすためであろう。つまりは臭い物に蓋をするのに国葬を使うという甚だ不謹慎なことをしている。「死ねば、全て免罪」となるのなら、誰も生前に罪を償う気にはなるまい。 国葬による神格化にはもっとせこい利害が絡んでいる。自民党内の派閥の均衡を保つため、安倍派に配慮したということもあるが、神輿を失った安倍友たちの生き残り作戦でもあろう。国葬の場でのテロを未然に防ぐ名目で、治安強化を図る意図も見え隠れする。 大転向の嵐今後は大転換ならぬ、大転向の嵐が吹き荒れるに違いない。政権批判をトーンダウンさせることから、言論自粛は始まる。今回の暗殺事件は安倍批判をしていた者たちが誘発したかの短絡や、自民党と旧統一教会の癒着をなかったことにする論調も一部の論客たちに見られたが、そういう「腰砕け」はより顕著になるだろう。右翼による吊るし上げやSNSでの炎上を恐れて、「民主主義を守る」などと紋切り型に終始するような態度も同様である。 元々右翼サイドについていた者たちは増長し、さらにリベラル攻撃を強め、自発的服従を競い合うが、リベラルサイドの切り崩しも始まっている。すでに国民民主党や日本維新の会などは完全に自民党の補完政党であり、清和会に近い外部派閥になっているが、立憲民主党の足元もおぼつかず、立民と共産党との協力関係を妨害し、自民党に秋波を送る連合と同じ轍を踏み、宏池会となら組んでもいいような雰囲気になってきた。このように中道リベラルの右への転向が一層進むことによって、全体主義国家への道筋が既定路線となってゆく。ここはリベラルの踏ん張りどころである。 権力を持つから権力者なのではない。彼らが威張っていられるのは、人々が真実に目をつむり、自発的に服従するからだ。権力よりも強く、正しいもの、それが真実。真実は誰も欺かず、支配しない。 時間の経過とともに世論は変わる。四十九日が経過した頃、暗殺者に対する同情論は出てくるだろうか? 1921年、朝日平吾が安田財閥の安田善次郎を暗殺した際、最初は犯人への非難一辺倒だった世論も財閥の陰の一面があきらかになると、同情論に変わった。これ以後、原敬暗殺、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件とテロが連鎖したが、果たして歴史は繰り返すのか? 自殺の場合は後追い現象が頻発するが、暗殺やテロも100年前と同様、反復されかねない。 あってはならぬことが起きる時代「世直し」に賛同する者、奇跡を待望する者、正義を実行したい人、社会や国家に復讐したい人、このクソな世界の滅亡を希求する者、それら不平市民の潜在的人口はかなりの数に上るはずだが、実際に糾弾の声をあげ、行動に打って出る人の数はその1パーセントにも満たないだろう。絶望した者の多くは沈黙と服従に向かう。耐え難きを耐えるのが美徳だと思い込んでいるのか、思い込まされているのか、何か行動を起こしたところで報われることはないと諦めている。「不幸なのはおまえだけではない。みな平等に不幸なのだ」という不幸の民主主義に甘んじている。 世直しを希求しながら、現実にはそれがなされないという絶望が一層深まれば、テロに打って出ようとする者が現れてもおかしくない。もちろんテロはあってはならない。しかし、ありえないことやあってはならぬことがしばしば、政治の世界では起きる。安倍が君臨した時代はその具体例に事欠かなかった。政治の劣化が極まれば、社会もそれに合わせて荒廃する。 ――世直しゆうても、政治を変えるゆう意味やない。国会議員になったかて何も変わらん。アホな有権者目覚めさすにはショック療法が必要や。大きなサーカスを立ち上げな。サーカスゆうても、空中ブランコでも象の曲芸でもない。民衆の不安、興奮、恐怖、感動を誘うスペクタクルのことや。戦争、祭典、犯罪、天災、疫病、支配者は権力を強化するためなら、何でも利用する。世直ししたければ、支配者が打ち出すサーカスを超えなあかん。 『パンとサーカス』にはテロや暗殺を焚きつけるフィクサーが登場し、こんなセリフを呟く。その人物は世直しのスポンサーになり、主人公にテロ資金の援助を行う。だが、山上容疑者にスポンサーはいなかった。 復讐や抵抗、暴動や反乱、暗殺やテロは誰にも気づかれないように準備し、静かに、敵の意表を突いて、実行されなければならない。 山上容疑者は20年以上もの長きにわたり、怨恨を募らせ、この原則通りに行動した。地方遊説中、警備の薄い奈良・大和西大寺駅前を選び、支持者を装い、背後約6メートルまで接近し、限りなく火縄銃に近い手製の散弾銃で元首相を銃撃し、周囲の人間を一切傷つけず、即死に近い形で死に至らしめた。 周到な計画と目的なしに暗殺は滅多に成功しない。このハンドメイド・テロは新自由主義者が好む自助努力の結晶といってもいいくらいである。ちなみに『パンとサーカス』にはテロリズムに走る元自衛官が登場するが、その名前は山上と一字違いの池上となっている。取り調べでの山上容疑者の供述は微妙に加工されるだろう。あくまで、これは政治テロではない、安倍元首相に対する直接的な恨みではない、精神鑑定の必要があるなどと発表し、犯行動機を意図的に曖昧にし、政治に遠因があることを目立たなくするだろう。 事件から一週間ほど経過した頃から山上容疑者のものと思われるネットへの書き込みが出回り、すぐに削除された。韓国へのヘイト発言、安倍元首相の功績を称える文言などを読む限り、山上は「冷笑系ネトウヨ」と見做される言動を意図的にとっていたことがわかる。これ自体が暗殺ターゲットに接近しやすくするカモフラージュだったかもしれない。少なくとも、安倍の批判者がテロを誘発したという風説は山上本人によって否定されたようなものだ。 100年前の暗殺の連鎖の時も、戦後の暗殺、暗殺未遂事件のほとんどのケースでも、実行犯は右翼だった。「君側の奸」を撃つというのが戦前の暗殺の動機だが、安倍元首相の祖父岸信介の暗殺未遂は、アメリカに日本を売った売国右翼に対する愛国右翼による逆恨みという側面があった。そしてその62年後、祖父を敬愛する孫が旧統一教会に深い恨みを抱く生活苦のネトウヨに暗殺されたと考えれば、歴史は反復されたというしかない。 このまま政治は放置されるのか?策略の真相は闇に葬られ、真相を暴こうとする者も排除され、テロを実行した者に全ての罪を被せ、一件落着が図られることになるのだ。 テロの連鎖は食い止められなければならないが、テロに強烈な動機を与えるような悪政や不正、搾取を改めるより、国家の無法は放置され、監視治安体制と言論弾圧の強化だけが図られる結果になるだろう。今のところ無法国家を抑止する制度も組織もほとんど機能していない。警察も検察も裁判所もマスメディアも国家に奉仕し、市民は沈黙と服従を強いられる。 『パンとサーカス』では「テロによって悪政を正すことはできない」と主人公は悟る。政府は「自分たちが正義の側に回ることで悪政を帳消しにできる」と考えるからだ。 いくら不正を告発しても、誰も法的処分を受けずに逃げおおせる。検察もマスメディアもたやすく抱き込まれる。国家権力と大企業は癒着し、株式会社日本政府を形成し、公益を無視して私腹を肥やすことに専心する。行政機関と結託すれば、企業の不正や違法は正当かつ合法になるのだから、当事者たちは断固として態度を改めようとはすまい。 この暗黒時代に救いを求める先があるとしたら、それは憲法くらいかも知れない。憲法自体が悪政からの解放宣言だったからだ。 日本政府はホワイトハウスや国際金融、多国籍企業、CIA、宗教団体などのロビイストが相乗りするバスみたいなもので、首相も大臣も官僚もそれに奉仕する番頭に過ぎない。自民党もその補完勢力も率先して憲法を軽視するが、それは憲法が独裁や戦争、人権軽視を許さない法典であり、市民を守る盾になっているからだ。憲法の条文にはアメリカには絶対服従などとは書かれておらず、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から消し去る努力を宣言している。政府に異議を申し立てる私たちの行動は憲法によって保障されているし、特定宗教と政治の癒着も憲法によって牽制されているのだ。 憲法軽視の議員たちは、自分が議員である前に国民の一人であることを忘れているのか? 曲がりなりにも国民の代表であるべき議員がなぜ国民の権利を制限し、安全を奪い、生活を圧迫するのか? それは自分で自分の首を絞めるに等しい。アメリカや特定宗教団体や国際金融の忠実な僕になることで得られる特権を奪われ、路頭に迷った時、何に助けを求められるのか、今一度その欲ボケした頭で考えるべきだ。 有権者がこのままカルト政権を黙認し続ければ、自由や諸権利が制限され、賃金も年金も上がらず、飢え死にに追い込まれる危険さえある。売国奴政権が防衛費を倍増したところで、アメリカの軍産複合体が潤うだけで、私たちの安全は守られるどころか、今よりもっと他国の攻撃を受けやすくなる。同じ理屈で考えれば、悪政を続ける限り、テロリストの襲撃に怯え続けることになる。 何処を見ても敵だらけ。私たちを搾取し、服従を強いるアメリカ。その忠犬として自国民を虐げる世襲議員たち。彼らに取り入り、権勢を振るう官僚たち。税金を逃れ、富を独り占めする資産家たち。彼らの犯罪を見過ごし、私たちに無実の罪を問う警察、検察、裁判所。私たちは今日、立ち上がり、明日、奴らを追い出し、明後日には新しい国を作る。 これに「ただし暴力を用いることなく」とあえて付け加えておこう。
2022.09.06
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とても大切なことが書かれている。長文なので一度読んでも頭に入りきらないかも知れない。忘れないように貼り付けておく。*********(以下引用)山崎雅弘氏×内田樹氏が対談。なぜこの国はこんなに人を粗末に扱うのだろう ■ここまでおかしな国は他にない!?山崎 日本の組織は、支配層や上層部の利益が全体の利益になると思わせて、都合のいいように人々を従わせていると思います。例えばSNSでも、職場環境や雇用の問題に関心が集まった時、自分は会社に雇われている側の一人なのに、なぜか経営者の目線で思考し語る人が少なくない。支配層の利益に沿うことが自分の利益にもなるんだと思い込まされている感じがするんですね。 原発にしても、エネルギー資源の乏しい日本で脱原発は無理などと言われますが、福島第一原発よりさらにひどい最悪の事故が起きれば、国民の生活そのものが成立しなくなる。また、外国からミサイルが飛んできた時、原子炉そのものは衝撃に耐えたとしても、外部電源が破壊されれば原発は爆発するという事実を、我々は福島の事故で学んだはずです。なのに、この国の支配層は原発が攻撃される可能性から目を背け、外国との戦争に備えて敵基地攻撃能力が必要だなどと言う。彼らの言うことを聞いていたら、我々はまた何回でも犠牲になっていくでしょう。 内田 自分にとって利益よりも損害の多い政策を支持するという、どう考えても不合理なふるまいをしている人が日本人の過半になっています。大阪はコロナで多数の死者を出しました。行政の不適切な感染症対策のせいで、死ななくてもいい人が死んだ。雇用環境も劣化している。教育に至っては日本最低レベルまで下がった。現に深刻な実害を被っているはずの大阪の市民たちが、にもかかわらず自分たちにリアルな損害を与え続けている当の政治勢力に圧倒的な支持を与えている。このタイプの倒錯が全国的な規模でも起きていると思います。 なぜ、このような不条理なことが起きるのか? それは、「自分にとって本当にたいせつなことは何なのか? 自分の心と体が本当に求めているものは何なのか?」を問うてはならないと日本人が子どもの頃からずっと教え込まれているからだと思います。「自分は何をしたいのか?」よりも「自分が何をすればほめてもらえるのか」の方を優先的に考えるように仕込まれている。自分の中から湧き上がる内発的な感情や思念を抑圧して、外部評価で高いスコアをつけられるように感じ、行動することが「正しい生き方だ」と教え込まれている。 学校では先生がまず問題を出して、子どもたちが答えを書いて、それに対して先生が採点をして、その評点に基づいて資源の傾斜配分が行われます。それがすべての教育活動で行われている。ですから、子どもたちは「問いに答えてよい点をもらうことが唯一の自己実現の方法だ」と信じている。 武道ではそういう構えのことを「後手に回る」と言います。「後手に回る」と必ず敗ける。それは禁忌なんです。ですから、武道ではいかにして「後手に回らないか」を教える。僕が道場で教えているのは、学校で骨身にしみこむまで教わった「査定されて高いスコアを取る」ことをめざすマインドを解除することなんです。 相手が問題を出して、自分がそれに答えて、採点されるのを待つというのは、典型的に権力的な関係です。ですから、相手に対していきなり優位に立とうと思う人間は、必ず相手に質問します。どんな質問でも構わない。相手が正解を知らないような問いであれば、何でもいい。「あなた、...を知ってますか?」と切り出して、いきなり「試験官と受験生」の関係に持ち込む。これにうっかり応じた瞬間に、そこには権力的に非対称な関係が出来上がる。だって、何を答えようと、相手が採点者で、自分はその採点を待つだけという非対称的な関係がもう出来上がっているから。どうして「私が出題し、お前が答える。その答を私が採点する」というような圧倒的に不平等な関係を無抵抗に受け入れてしまうのか。そういう関係を子どもの頃から刷り込まれているからですね。「後手に回る」ことに習熟しているから、あっさり「先手を取られて」しまう。 出題されて、答えて、採点されて、評点が高ければほめられ、低ければ罰される。それが社会的なフェアネスだと信じ切っている。「後手に回る」というのは「支配される」ということです。日本の学校教育は「支配される」マインドを子どもたちに刷り込んでいる。でも、生きる上で、最も大事なことは、他人に査定されて、点数をつけられることではなく、自分自身の生きる知恵と力を高めてゆくことなんです。言葉にしてみると簡単なことなんですけれども、これが現代日本では常識になっていない。 ■なぜ日本の組織は「非効率」で「非倫理的」なのか?山崎 本当にその通りだと思います。学校教育がその要因になっているという面もありますが、それはやはり社会の価値観の反映だと思います。外国に行くと、みんな本当にしたたかで、図太く自由に生きているなと感じます。自分の自由や権利が政府や雇用主に侵害されたと感じたら「自分の権利をちゃんと保障しろ」という主張を、誰もがやっている。それは、「わがまま」ではない。人間として、正当な主張なんです。それによって議論が生じることもありますが、それは相手と自分は対等であるという考えに基づくものです。 お店に行っても、客と店員、みんな対等です。でも日本では、なぜか上下の序列が作られる。客は自分が店員より偉いと思い込み、店員に横柄な態度を取る。上下関係があると、お互い尊重し合うという関係が生まれない。上の者は下の者をないがしろにしても許されると思ってしまう。こうした身近なところから少しずつ変えていかないと、人を大事にするという意識改革はできないのかなという気がします。 内田 この前、感染症内科が専門の岩田健太郎先生とお話ししたときに、似たような話を伺いました。日本社会においては、どこでも「どっちが上か」ということがまず配慮される、と。岩田先生はエボラ出血熱のとき、シエラレオネで医療チームのメンバーとして参加されたのですが、そこには「国境なき医師団」とかWHOとか、世界中からさまざまな組織が来ていて、その混成チームが指定された場所に集まって、さあ今から治療を始めるというとき、まず問われるのが「おまえは何できるんだ?」ということだそうです。自分は隔離病室を作れる、自分は発電機を操作できる、自分は自動車を直せる、自分は感染症の手順を知っている...、そういう自己申告に従ってジョブ型の集団を作って、治療が始まる。 ところが、日本で被災地や感染症の発生現場に行くと、最初に聞かれるのが「おまえは何者だ」ということなんだそうです。まず医師か看護師か薬剤師かという職能を聞かれ、次に出身大学を訊かれ、医局を訊かれ、卒後年数を訊かれる。何のためにそんなことを訊くのかというと、誰に対しては敬語を使い、誰に対してはため口をきき、誰に対しては偉そうにしてよいのか、その上下関係をまず確認するために(笑)。 岩田先生が、コロナウイルスによるクラスター感染が発生した「ダイヤモンド・プリンセス号」に入ったときも、誰も「あなたは何ができるのか」を問わなかった。何よりも優先されたのは「ここでは誰が一番偉いのか」ということで、それは橋本岳という当時の厚生労働副大臣だった。でも、この人は政治家ですから、感染症のことは何も知らない。でも、その人が感染爆発の現場で決定権を握っている。 感染症の専門家として岩田先生は「これじゃ駄目。やり方が間違っているから、やり直しなさい」と当然アドバイスするわけです。でも、日本ではこのふるまいは「専門家が非専門家に指示を出す」ふるまいではなく、「下の人間が上の人間に指示を出す」ふるまいと解釈される。これは日本では絶対の禁忌ですから、ただちに「出て行け」と言われる。 感染症の現場なんですから、感染症の専門家の指示が最優先的に聞かれるべきであることは明らかですけれども、日本の場合は「上位者の指示に従えないやつは出て行け」ということになる。これが日本の組織を徹底的に非効率で非倫理的なものにしていると思います。 ■結果よりも「頑張っている」という印象が大事山崎 そうですね。日本の組織では序列の上下のほかに、精神論も重視されます。先の戦時中の日本軍がまさにそうで、戦争初期のうちは、軍事的な合理性もある程度考慮して戦っていましたが、1942年6月にミッドウェー海戦が起き、日本海軍は主力空母4隻を失って、アメリカに勝てる望みを事実上失った。そして、同年の後半以降、どんどん戦況が悪化していきました。 そうした中で日本軍は、どうやってアメリカに勝つかということよりも、「いかに頑張っている姿勢を示すか」という精神論に判断基準がシフトしてった。その考え方が行き着いた究極の姿が「特攻」です。もう戦争でアメリカに勝てないとわかった時から、勝つために頑張って命まで捧げる姿勢をアピールすることが目的化した。 なぜそのような思考法が出てきたかというと、人の命を大事だと思わない精神文化に思考を支配されていたからだと思います。日本の場合、天皇という特別な存在があるので、国民の命の価値も、天皇と比べてどうかという話になってしまう。そのバランスが極端におかしくなったのが昭和の大日本帝国時代です。当時、国民は「臣民」と呼ばれていました。つまり「天皇のために尽くして奉仕するための存在」だと。天皇のために何をするかという基準でしか存在価値が評価されない。そういうエキセントリックな思考になってしまった。 明治時代や大正時代は、まだそこまで極端ではなかったんです。特に大正時代は、軍人であっても自分の権利は認められるはずだという認識はあった。それが昭和に入って全くなくなり、本当に人の命が使い捨てのように扱われた。 恐ろしいのは、悪意があってそんな精神文化になったというよりも、当時の価値観の中で、みんなお国のために役立つ、いいことをしているつもりだった。おかしいと思っていた人もいたはずですが、それを口に出しては言えない。言うと、「おまえは国や社会よりも自分のほうが大事なのか!」と罵られてしまうので、それが怖いから言えなかった。その同調圧力が極端に高かったのが昭和の大日本帝国時代で、敗戦を経て、それが無くなったと思っていました。でも、気がつくとこの10年ぐらいでそれが社会に戻ってきた感じがします。 内田 どうして日本人がこんなふうなゆがんだ人権意識を持つようになったのか、それについてはやはり歴史的経緯を見てゆく必要があると思います。幕末から明治初年にかけて、それまで存在した幕藩体制が解体されて、300の藩がなくなり、建前上は「一人の天皇が全国民を統治する」というかたちになりましたね。この「一君万民」という思想はそれまで300人の殿様がいて、武士や役人たちに人間扱いされてこなかった民衆にとっては衝撃的なものだった。少し前まで「殿様」として雲の上にいた藩主も、威張り散らしていた武士も、百姓と同格の「万民」の一人だとされたわけですから。 「一君万民」の思想というのは、幕末から明治初年にかけての時期においては、それなりにデモクラティックな思想だったわけです。天皇をはるか高みに祭り上げることによって、それ以外のすべての日本人が同格のものになる。そういうやり方で幕末まで無権利状態に置かれた人々が、幻想的なしかたではあれ、人権を回復する道筋が示された。 世界史を見ればわかるように、民衆の政治的なエネルギーが爆発的に高揚するのは、国家意思と民衆の個別意思が中間的で媒介機構抜きで直接に繋がるという「幻想」が活性化したときです。日本の場合は、天皇が国家意思を人格的に表象しています。ですから、「中間的な媒介物である統治機構を抜かして民衆の個別意思と天皇の国家意思が無媒介に繋がる」という「幻想」がリアリティをもつと日本人は政治的にはげしく高揚する。 明治以降、大衆の政治的エネルギーを功利的に利用しようとした人たちが例外なく「天皇と国民個人が統治機構の媒介抜きで直接繋がる政体」という政治的幻想をレバレッジに用いたのはそのせいです。統帥権というのは、帝国の軍隊を統御しているのは政府ではなく、天皇であるという特異なものです。「上御一人」が単身で全軍を支配している。そういう話にまずはしておいて、その上で、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん:君主制国家において軍部が軍事に関する事を君主に対して上奏する権利)を持つ陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監らが「天皇の国家意思」なるものを代弁して、彼らの集団的な欲望を実現する。「軍部の暴走」なる事態が可能になったのは、天皇が軍のすべてを統帥しているという日本国民の可憐な夢想がそれを支えたからです。 「日本軍国主義」と言われますけれど、あれは語の本来の意味での「ミリタリズム」ではありません。「ミリタリズム」というのは「軍事優先」ということですから本来は徹底的に計量的で非情緒的な思考を要求するはずです。でも、日本の「軍国主義」はそういうものではなかった。それは「軍隊にあるものはすべて天皇の所有物であり、兵士たちは全員天皇から直接雇用されている」という妄想のことだった。 ■人の命が軽んじられるきっかけとなった昭和の事件山崎 以前、『「天皇機関説」事件』という本を書いたのですが、これは昭和の大日本帝国時代、日中戦争が始まる2年前の1935年に起きた事件です。「天皇機関説」というのは、天皇は一応、神の子孫ということにはなっているけれども、少なくとも近代国家としての大日本帝国の中では、憲法を超越する存在ではないよ、と。当時の憲法学者は、あくまで天皇は一つの国家の最高の機関、一機関として、憲法の枠内でのみいろいろな権能を行使できるという憲法解釈をしていたんですね。それが主流でした。 ところが、軍人や右翼団体が、「天皇は絶対的に崇高な存在なんだから、国の一つの機関などと言うのは不敬だ」と言って弾圧した。帝国議会まで巻き込む形の大騒動になって、最終的には当時の岡田啓介首相が、「天皇機関説」は認めないという声明(国体明徴声明)を出してしまった。それ以降、本当にたがが外れたかのように、天皇を神格化する政治運動や主張がどんどん高まっていきましたが、それで何が起きたかというと、一般国民の命の価値が下がっていったんです。天皇という存在が天に昇れば昇るほど、一般市民の命の値打ちは下がり、虫とか砂粒とか、そんなものでしかないという形になってしまった。そんな冷酷な認識に至る出発点が、僕はあの事件だったと思うんです。 今の日本で、天皇の名前を居丈高に持ち出す人間とはどんな人間かと見れば、例えば「あいちトリエンナーレ」のとき、展示物に乱暴な言いがかりをつけた名古屋市長の河村たかし氏や整形外科医の高須克弥氏などがいます。彼らは、慰安婦問題や南京虐殺などの大日本帝国時代の負の歴史を否認し、当時の日本軍の行いを肯定的に捉えている。つまり大日本帝国時代の精神を今も継承しているわけです。一方で、戦後の民主主義にはほとんど関心を示さない。 今の社会にある人権軽視の状況を一つ一つ見ていくと、結局、根っこはあの時代の精神に行き着くのではないかと思います。厳密には、もっと昔の封建時代にも遡りますが、少なくとも今の日本社会における人を粗末にする考え方の直接の出発点は、昭和の大日本帝国時代に形成された世界観だと思います。 ■天皇制と立憲デモクラシーをいかに両立させるか内田 そういうことが可能になるだけ天皇制には力があるということだと思います。天皇制という太古的な制度と立憲デモクラシーという近代的な制度が並立しているというような奇妙な国は世界で日本しかありません。だから、他国の民主制の成功事例を日本に適用しようとしてもどうしても無理がある。スウェーデンではこうやっている、デンマークではこうやっている、アメリカではこうだ、だから、日本でも...という議論は無理なんです。それらの国々には天皇制がないんですから。天皇制というアクターが政治的幻想のすみずみにまで入り込んでいて、その機能を熟知していないと政治過程を適切にコントロールできないなんていう国は日本にしかない。そうである以上、日本の政治をどうやって統御するかという仕事は僕たち日本人が自分の頭で考えて、自分の手で実行するしかない。誰も僕たちに代わって考えてくれないんですから。 僕は上皇陛下や天皇陛下に対しては個人的には非常に親しみを持っています。日本の国家としての道徳的なインテグリティー(誠実さ)を守っているのはこの方たちではないかとも思っています。僕のこの「尊皇」感情はかなり自然発生的なものです。僕のように久しく欧米の哲学思想に親しんできた人間になぜこのような不合理な感情が生まれてくるのか。そこからもう一回掘り下げて考える必要がある。 天皇制と立憲デモクラシーを両立させることはもちろん原理的には不可能です。でも、原理的には折り合いのつかないものを、実践的には折り合いをつかせるということはできる。なにしろ僕たちの手持ちの政治資源としてはこれしかないんですから。これをなんとか折り合わせて、権力が適切に制約され、市民の人権が十分に守られる仕組みをどうやって作り上げたらいいのか。誰もあらかじめ正解を知っているわけじゃない。自力で考えるしかない。 山崎 そこで重要なのは、自分たちには一人一人に独立した価値があるという事実をみんなが認識することだと思います。学校教育はもちろん、社会全体でそういう認識を持つ必要があります。国や省庁、企業、チームなどの集団に属して、そこに何かで貢献したから自分には価値があるのだ、ということでなく、自分たちはありのままで政府や集団から大事にされるべき存在なんだ、と。それが本物の「民主主義」です。 大日本帝国時代の精神を肯定する人間がよく主張するのが、「子どもが自己肯定感を持てる歴史教育の必要性」です。こういう大義名分で、南京虐殺や慰安婦問題を学校で教えることを禁じようとする。でも、これは完全に欺瞞です。何が欺瞞かというと、「おまえはこんな立派な日本という国の一人なんだ」という形で自尊心や自己肯定感を持たせようとしているところ。 一見もっともらしいですが、個人としてではなく、日本という国につながる者として自尊心を持たせようとしている。そして、国に奉仕や貢献をしない人間は存在を軽んじて、自尊心や自己肯定感を持てないようにする。この詐術にうっかりだまされてしまうと、行き着く先は昭和の大日本帝国時代のような、国や集団への献身奉仕という美談的な大義名分で人を極限まで粗末にした精神文化です。 こうした「情緒的な美談」にだまされないようにしないといけない。なんとなく「仕方ない」と思って我慢している自分の境遇が、実は「人権侵害の不当な扱い」ではないか、自分は「私たちを粗末に扱うな」と、国の支配層にもっと怒ってもいいのではないか、と気付くことが大事だと思います。 ●山崎雅弘(やまざき・まさひろ)1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。主な著書に、『日本会議 戦前回帰への情念』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦 歴史問題の読み解き方』(以上、集英社新書)、『中国共産党と人民解放軍』『第二次世界大戦秘史 独ソ英仏の知られざる暗闘』(以上、朝日新書)、『[増補版]戦前回帰』(朝日文庫)ほか多数。 ●内田樹(うちだ・たつる)1950年、東京生れ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授、凱風館館長。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で小林秀雄賞、『日本辺境論』(新潮新書)で新書大賞、著作活動全般に対して伊丹十三賞受賞。近著に『レヴィナスの時間論』、『撤退論』、『武道論』など。共著に『新世界秩序と日本の未来 米中の狭間でどう生きるか』(集英社新書)など。
2022.08.23
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ほとんどの物事には功罪が同居する。一国の元首相が、選挙の最中に殺されるという事件はその最たるものだろう。確かに公衆の面前で、SPまで付いた人物がたやすく殺されてしまったという事実は、「平和な国、日本」にあってはならない悲劇だろう。しかし、この元首相というビッグネームの死により、日本社会を牛耳ってきた闇の部分、膿の存在がくっきりとあぶり出されたことは、日本社会にとってとてつもない功績だったともいえる。問題は、この「功」の部分を、国民がどれほどに意識し、これからの日本のために活かすことができるか、だと思う。いつもながら、これについても内田樹氏が明快に解説している。以下「内田樹の研究室」2022-07-21 jeudi「安倍暗殺事件とその背景」2022-07-21 jeudiより…………………… 統一教会は韓国で設立され、活動は全世界にわたるが、その主たる資金源は日本である。日本の「霊感商法」の売り上げと信者からの献金は統一教会の富の70%に達すると『ワシントン・ポスト』は報じている。 統一教会や関連団体のイベントに顔を出し、講演をしたり、祝辞を述べたりした政治家たちが日本には多くいる。彼らは世界的なカルト活動の原資が日本で集金されていた事実を知りながら、教会の活動があたかも「公認」のものであるかのような印象を作り出す工作に加担していたことになる。そして、その見返りに秘書や選挙運動でのボランティアの提供を受けていたのである。 安倍元首相の死後に明らかにされたこれらの事実を前にして、私はここに日本の政治がここまで劣化した原因の一つがあると感じる。 第二次安倍政権では、総理大臣自身をはじめ、統一教会あるいは系列団体の支援を受けている議員が閣僚に多数入閣していた。だが、全国霊感商法対策弁護士連絡会によると、統一教会はこの30年だけでも、霊感商法による被害件数3万4537件、被害総額1237億円という大規模な事件を引き起こしている。そして、弁護士連絡会は政治家たちにこの事実を示して、統一教会の活動に加担しないように繰り返し懇請を続けてきたのである。 これから後、かかわりのあった政治家たちは「そんな危険な集団とは知らなかった。世界平和を希求しているおとなしい宗教団体だと思った」という言い訳をするつもりだろう。だが、その遁辞は許されるものではない。もし、本当に統一教会は人畜無害な団体だと信じて、弁護士たちの訴えを退けたのだとしたら、それほどまでに世の中のできごとに無知な人間たちに国政を議する資格はないし、逆に、危険な集団だと承知した上で、政治的に利用価値があると判断して、その活動を支援していたのだとしたら、そのことについて政治責任をとらなければならない。常識的にはそういうことになる。 しかし、この常識が日本では通用しないだろう。政治家たちはおそらく誰一人無知を恥じて辞職することも、政治責任をとって辞職することもないと私は思う。 自民党は当初、徹底的な緘口令をメディアに命じて、「統一教会」の名が表面に出ることを避けようとした。しかし、もう遅い。政府がコントロールできるのは新聞とテレビだけで、週刊誌やネットを抑えることはできない。 では、この先、元首相の死と統一教会の関連を自民党はどう説明する気だろう。死者は戦後最長の在職期間を誇り、「安倍一強」と謳われた元首相である。その業績を顕彰し、その死を悼むためには、それが「予想もされない偶発的なものだった。恨みを買ういかなる理由も思いつかない」と言い続けるしかない。だが、それは「深い恨みを持つ人が少なからず存在することが周知されている組織と久しく親密な関係を続け、それを誇示してきたこと」について、政治家自身も政府も警察もまったく危機意識を持っていなかったと認めることを意味する。 それでも、解党的危機を回避するためにはそういう説明を採用するしかない。だから、これから先政治家たちは「統一教会が危険な団体だとは知らなかったし、その活動に加担することがどんなリスクを意味するかもまったく知らなかった」と口を揃えて言うだろう。免責を手に入れるために無知を装うのはたしかに有効な手立てである。幼児に政治責任を問う人はいないからである。だから、これから後、私たちは「私は世間のことにはまったく疎い」と公言する人たちが政策決定する国で暮らすことになる。亡国的な風景という以外にこれをどう形容すればよいのか。
2022.08.03
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「正邪」と「好悪」と「勝負」の峻別ウクライナ危機に関して議論をしていると、本当に暗澹たる気持ちになる。こんなにも「戦争」や「和平」の基本的なことを理解していなかったのか、「正邪」と「好悪」と「戦争の勝ち負け」の違いもわかっていなかったのか、と天を仰ぎたくなる。まず、ほとんどの人は、「武力で他国の領土を侵略することは許されない。それが事実でそれが最後だ」という議論で終わる。呆れるくらいそのレベルで終わってしまう。そんなことは小学生でもわかる。その程度の単純な議論で終わるのであれば、戦争は起きないだろうし、武器も必要ないだろう。ロシアはウクライナを侵略した。したがって、「邪」であり「悪」である。そのとおりだ。そこに議論の余地はない。その人たちに聞いてみたい。米国は、イラクを侵略した。米国が侵略の大義名分としていた大量殺戮兵器の存在は大噓だったとわかった。ならばなぜ、日本は米国を非難しないのか? なぜ、米国の大統領を戦争犯罪人として裁かないのか?答えは簡単だ。米国は強くて、裁くことができないからだ。そのとおりだ。そこにも議論の余地はない。つまり、「正邪」で他国を裁くことはできない。他国を裁くことができるのは「力」だけである。「力」こそが「正義」であり、「勝者」が「正義」を語り歴史を綴るという厳しく汚らしい現実がある。無論、その「力」の中には、「軍事力」だけでなく、「外交力」や「経済力」のほかに、「善悪の価値観」も含まれるが、世界には「正義」がひとつあるわけではなく、複数個あるというのが現状である以上、その「正義」を決めるのは「軍事力」を含む「力」であるという現実は否定しようがない。その現実を理解した上で、悲惨な戦争被害を最小限にするためには、「戦争」が始まったら、できる限り速やかに「和平」を実現するしかない。そして、「和平」を実現するためには、敵方の「正義」も理解した上で、互いに妥協しながら、「停戦」を合意し、その合意を履行する仕組みを作るという手続が必要だ。ところが、ここの大事な部分が日本人には完全に欠落している。ロシアの立場や考え方を語ること自体が、「お前はロシアの味方か?」「お前はプーチンが正しいというのか?」という極めて次元の低い「好悪」の議論に堕してしまう。それで、議論をシャットダウンしてしまう。ジエンドだ。そういう議論のスタンスは、じつは「和平」を拒否するということを意味する。敵方の「正義」をまったく理解しようとしないのだから、歩み寄る余地がない。いまの米国のように、ロシアとの交渉を断るやり方だ。このスタンスを続けるのであれば、どちらかが全面降伏するまで「戦争」は続く。その間に死傷者は増える。無辜の市民の犠牲も増えていくだろう。しかし、そのスタンスを選んだのであれば、「市民がかわいそうだ」などと述べる資格はない。なぜなら、「和平」を拒否するスタンスを堅持している結果なのだから。そうなれば、どちらかが倒れるまで血みどろの戦いを繰り広げるしかない。何らかの拍子で、米国が参戦することとなり、第三次世界大戦を勃発させ、日本も巻き込まれてしまう核戦争が勃発する可能性すらある。しかし、それも仕方がない。「和平」を拒否するのだから、行くところまで行くしかない。その結果として、ロシアが中国と北朝鮮と組み、日本本土に攻撃を仕掛ける可能性だって否定することはできない。北朝鮮が核ミサイルを沖縄の米軍基地に打ち込み、中国が尖閣と沖縄を、北朝鮮が韓国を、ロシアが北海道に侵攻するという三正面作戦を強いられても仕方がない。「和平」を拒否するのだから、日本も、ロシアと中国と北朝鮮という三ヶ国の侵攻に対して、ウクライナの勇者たちのように全員が死ぬまで戦うしかない。仮に第三次世界大戦に発展しない場合であっても、今回、プーチンが経済制裁に困窮して「ごめんなさい」と謝る可能性は皆無に近いので、「和平」を拒否するのであれば、バイデン政権が狙っているように、プーチンが失脚するまで、日本政府は「米国に囁かれたかつてのウクライナのように、経済制裁でロシアを挑発し続ける」のだろう。プーチンは「今回の経済制裁は宣戦布告だ」と明言した。どこかで、ロシアのレッドラインを超える経済制裁を続けたことによって、ロシアが日本の領土を脅かしたとしても仕方がない。「和平」を拒否するのだから。ロシアが北海道を脅かし、同時に中国が動いて、尖閣や沖縄を侵食しても、米軍が日本を守ってくれるとは限らない。今回のウクライナと同じ立場に置かれる可能性はある。ロシアも中国も核を持っており、米軍が直接戦うことは、第三次世界大戦に発展しかねないからだ。それに、バイデン大統領は「自国が戦わないのに、米兵の血は流せない」と明言しているから、自衛隊や日本の市民が大量の血を流さなければならない。それも仕方がない。「和平」を否定するのだから。そういう帰結が嫌なのであれば、個人的には大反対だが、先手を打ち、この戦争を止めたくないと思っている米国を煽って、ウクライナ戦争への米軍の参加を誘い、自衛隊も後方支援に従軍すべきなのだろう。モスクワを急襲して、プーチン政権を打倒するまで、戦線を拡大して、世界規模で戦争を続けるべきだろう。北海道が戦火で焼かれようが、東京にミサイルが飛んでこようが仕方がない。中国や北朝鮮からミサイルが飛んできても仕方がない。だって、これは「正義の戦い」で「善なる戦い」なのだ。「絶対悪であるプーチンを打倒する聖戦」なのだから、プーチンが平謝りするか、プーチンを降伏させるか、プーチンを殺すまでは終わることができない。プーチンは狂っており、世界を破滅に導こうとしているのだから、その狂人との「和平」などはあり得ない。「世界で唯一の正義の軍隊」である米軍とともに自衛隊と日本人は、ウクライナを救うために、日本のすべてをリスクにさらしたとしても、ウクライナを支持するべきだ、ということになるのだろう。私は、そういう考え方にはとてもついていけない。まっぴらごめんだ。万が一、そうなったら、「ロシアは悪だ」「プーチンは嫌いだ」というレベルで思考停止して「和平」への道を閉ざしてきた人たちは、必ず戦争の最前線で戦ってほしい。まさか、そうなったときに、「ロシアが日本の領土に攻め込むのは悪い」と主張して戦争の最前線から逃げるつもりではないと思うが釘を刺しておきたい。あれだけ、ロシアを罵倒し、プーチンを悪魔のように断罪したのだから、逃げるのは卑怯だろう。米国から吹き込まれたとおりに、ロシアを挑発する発言を続ける自民党の議員たちの勇ましい発言を聴いていると、「どこまで米国の言いなりなのか」と眉を顰めたくなる。本人は「有事のときに米軍に助けてもらうためには、ここで恩を売っておかないとダメだ」ということで愛国心からやっているのだろうが、米国はそういう貸し借りは覚えていない。明日には忘れているだろう。首輪を付けられて主人の言いつけどおりに吠える犬は、主人にとって、所詮一匹のペットにすぎない。そして、犬が主人の行動を決めることはない。要らなくなれば、捨てられて、他のペットの餌にされるだけだ。日本の運命がそうでないことを心から祈る。
2022.05.23
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ぼくは、事業所(信州こころん)の朝礼でしばしば「日本国憲法」の意義について語るようにしている。ゴールデンウィークの明けた6日にも語り、9日にも続けて語るつもりでいる。「日本国憲法」にはそれだけ、人間の生存する意義について明快に語りかけている。巷間には日本国憲法について、「時代に併せて変えるべきだ」、「いや絶対に守るべきだ」と、日本人ではほぼ拮抗しているらしい。北朝鮮やプーチンの行動を見ていると、「本当に憲法の平和主義で大丈夫だろうか」と危惧する人がいるのも不思議では無い。ことにロシアによるウクライナ侵略戦争が起きてから、改憲派の声が勢いを増しているようだ。友人にもどちらもいる。しかしこうしたごく一般の「改憲派」「護憲派」双方と話をしてみても、憲法の中味をしっかり理解した上で、主張しているというより、かなり情緒的に脊髄反射的に自衛隊とか9条を語っているように見える。では、お前はどうなんだと問われれば、「憲法(の精神)を活かす派」と答えるようにしている。ご承知のように「日本国憲法」は戦争の反省を基に、かなり理想的に急いで作られたものという印象が強い。だから其の辺りを突いた相反する意見がでてくるのだろう。ぼくが思考に行き詰まったときにしばしば指針とさせて貰っているが、内田樹氏の論である。少し難しい言い回しもあるが、実に明快に正解に導いてくれる。今日はそれを引用し、紹介したい。内田樹の「憲法空語論」 内田 樹 憲法についての私の個人的な定義は「憲法は空語だ」というものである。「空語であるのが当然」であり、少し喧嘩腰で言えば「空語で何が悪い」ということである。 あらゆるタイプの「宣言」と同じく、憲法も空語である。ただし、それは「満たすべき空隙を可視化するための空語」、「指南力のある空語」、「現実を創出するための空語」である。 憲法と目の前の現実の間には必ず齟齬がある。それが憲法の常態なのである。憲法というのは「そこに書かれていることが実現するように現実を変成してゆく」ための手引きであって、目の前にある現実をそのまま転写したものではない。 だから、「現実に合わせて憲法を変えるべきだ」というのは、いわば「俺は何度試験を受けても60点しかとれないから、これからは60点を満点ということにしよう」という劣等生の言い分と変わらない。たしかにもう学習努力が不要になるのだから、ご本人はたいへん気楽ではあろうが、間違いなく、彼の学力は以後1ミリも向上しない。そのことは日本の改憲論者たちの知的パフォーマンスが彼らが「憲法を現実に合わせろ」ということを言い出してからどれほど向上したかを計測すれば誰にでもわかることである。 改憲派は「憲法九条と現実の軍事的脅威の間には齟齬がある。だから、軍事的脅威がつねにある世界を標準にして憲法を書き換えよう」と主張している。「軍事的脅威のない世界など実現するはずがないので、そんなものを目指すのは無駄だ」というのは、たしかに一つの見識ではある。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する努力なんか誰もしてない世界で、一人だけいい子ぶってどうするんだと鼻で笑う人を見て「ちょっとかっこいい」と勘違いする人だっているかも知れない。 しかし、「人間は邪悪で愚鈍な度し難い生き物であって、これからも改善の見込みはない」というような言明は居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走るのは構わないが、公文書に書くべきことではない。というのは、いったんそのような人間観を公認してしまったら、これからあと、その社会の成員たちは「より善良で、より賢明な人間になる」という自己陶冶の動機を深く傷つけられるからである。 本音ではどれほど人間に絶望していても、建前上は全成員が善良で賢明で正直であるような社会を「目標」として制度設計はなされなければならない。これだけは集団として生きる上で譲るわけにはゆかない基本である。 全成員が邪悪で愚鈍で嘘つきであるような社会でも「生きていける」ように制度設計することはたしかに現実的であるかも知れないけれど、その制度がよくできていればいるほど、その社会の成員たちが「善良で賢明で正直」になる可能性は減じる。 成員全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても機能する社会があるとしたら、それは原理的には一つしかない。「神がすべてを統御する社会」である。神が万象を俯瞰し、成員の行動も内心もすみずみまでをも見通す社会なら、全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても、社会は機能するだろう。でも人間は神ではない。 だとしたら、次善の策としては「神の代行者」を任じる権力者が全成員を「潜在的な罪人」とみなして、その一挙手一投足を監視する社会を創る他ない。自民党の改憲草案を読むと、彼らがまさにそう推論していることが分かる。「人間はすべて邪悪で愚鈍で嘘つきであるから、全権を持つ権力者が全員を監視しなければならない」という彼らの国家観と「憲法と現実に齟齬がある時は現実に合わせて書き換えるべきだ」という憲法観はまったく同型的な思考の産物なのである。 しかし、私は人間の悪さや弱さを「改善不能」とみなすことに立脚する制度設計には反対である。どういう人間を「標準的なもの」と見なすかという観点の選択によって、それ以後に出現する社会のかたちは変わるからである。「宣言」はまさにそのためのものである。「そうなったらいいな」という社会のかたちを可視化するのが宣言の手柄である。「そうなったらいいな」というのは「現実はそうではない」からである。当たり前だ。 フランスの人権宣言もアメリカの独立宣言も、シュールレアリスム宣言もダダ宣言も未来派宣言も、どれにもその時代においてはまったく現実的ではないことが書かれている。でも、そこには起草者の「そうなったらいいな」という強い願いが込められている。その「強い願い」がいくぶんなりとも不定形な未来に輪郭を与えるのである。 例えば、アメリカの独立宣言には「万人は生まれながらにして平等である」と書かれている。だが、そう「宣言」されてからも奴隷制度は86年続き、「公民権法」が施行されるまで188年を要し、BLM運動はこの宣言が「空語」であることを証明した。しかし、だからと言って「万人は生まれながらにして平等ではない」という独立時点での「現実」をそのまま受け入れてそう宣言に書き込んでいたら、アメリカ合衆国は今のような国にはなっていなかっただろう。アメリカ合衆国を少しずつでも差別のない国に作り替えていったのはこの「宣言」の力である。「空語には指南力がある」ということをアメリカ建国の父たちはよくわかっていたということである。 日本国九条二項と自衛隊の存在の齟齬について、わが改憲派はよく「こんな非現実的な条文を持つ憲法は日本国憲法だけだ」と言うけれど、これは端的に嘘である。アメリカ合衆国憲法もまた条文と現実の間に致命的な乖離を抱えているからである。 連邦議会の権限を定めた合衆国憲法8条12項には「陸軍を召集し、維持すること。但し、この目的のための歳出の承認は2 年を超える期間にわたってはならない」とある。世界最大の軍事大国である合衆国憲法は今も「常備軍を持ってはならない」と定めているのである。 この条項は建国時の「連邦派」と「州権派」の間での妥協の産物である。連邦派は常備軍を連邦政府の管轄下に置こうとし、州は連邦政府が軍事力を独占することに抵抗した。軍人は容易に時の政府の私兵となって、市民に銃口を向けるということをアメリカ市民は独立戦争で思い知らされたからである。だから、独立時点で多くの州は「常備軍を持ってはならない」という州憲法を採択した。戦争を遂行するのは職業軍人ではなく、武装した市民(militia)でなければならない。市民は戦う必要があれば応召して銃を執って戦う。戦いが終われば市民生活に戻る。 もちろん、そんなのは建国者の理想であって、21世紀の現実とは隔たること遠い。それでも、「現実と乖離しているから改憲しよう」というアメリカ市民がいることを私は知らない。それは憲法を読む度に、独立時点で建国の父たちがどのような理想的な国を未来に思い描いていたのか、その原点に戻って「めざすべき国のかたち」を知ることができるからである。この憲法を維持することによって、アメリカは今もまだ「常備軍を持たない国」を(それがいつ実現するかはわからないが)目指すことを意思表示しているのである。憲法とはそういうものである。(2022-05-03 08:59)
2022.05.07
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ウクライナで民間人を大量虐殺しているロシアは、どんな理由があろうと断罪されるべきである。しかし、戦争にも紛争にも、そこに導かれる粗筋のようなものが存在する。ぜひ時間をつくってでも、知の巨人、ノーム・チョムスキーの言葉に耳を傾けて欲しい。ウクライナ戦争の深層が、すべて語られている。
2022.04.28
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こういう真っ当な発言が前面にでてこない。世界の現実だとして戦争をけしかけることは、世界の人々の平和を搾取して、武器商人たちを太らせることでしかない。クレア・デイリー議員(アイルランド)こそ国連の事務総長に相応しい。ウクライナ戦争は、ウクライナ国民にとってとんでもない悲劇ではあるが、しばしば“平和ボケ”と揶揄される日本にとっては、学ぶべき様々な教訓を秘めている。勿論、教訓とできればの話しだが…。目の前の現実は、ロシア・プーチンの蛮行というほか言うべき言葉がないが、俯瞰してみるとアメリカやNATOに踊らされ、ハシゴを外されたウクライナのゼレンスキー大統領が、明日の日本の前例とならない保証はない。戦争は当事国の人々に大きな犠牲を強いて、軍需産業をはじめとする一握りのハイエナたちを太らせる。ハイエナたちにとって、戦争は長くつづけば続くほど儲かる仕組みがある。しかし、このウクライナ国民の悲劇は、戦争というものがいかに残酷であり、フェイクまみれのものか、白日の下にさらしている。そのことを上手にまとめた記事があるので紹介したい。● 歴史上、敵の「残虐行為」を知らしめることは戦術のひとつ 敵が身の毛もよだつような残忍なことをしていれば、最前線の兵士たちは「聖戦」を掲げて士気は上がる。また、国際的な批判にさらして孤立させることができるからだ。その典型的なケースが、第一次大戦中にイギリスの情報機関が仕掛けたと言われる、ドイツの「死体工場」である。前出の「とてつもない嘘の世界史」から引用させていただく。<詳細がつねに変わっても、基本の話はつねに同じだった。ドイツ人が死体を束ねて前線から戻り、死体を工場に運び、そこで死体を加工して煮詰め、石鹸、火薬、肥料などさまざまな種類の製品にした。この工場には「偉大なる死体搾取施設」という名称さえあったことが、「タイムズ」紙の記事に書かれた> 昔の人はピュアだから、そういうデマを簡単に信じちゃったんだなと思う人もいるだろうが、実はこの手法は現代でもそのまま通用することがわかっている。それがほんの30年前にあった「ナイラ証言」である。 イラクがクウェートに侵攻した1990年、ナイラという少女がアメリカの議会で、イラク軍兵士が新生児を死に至らしめていると涙ながらに証言した。この衝撃的な告発によって、国際社会は今のロシアに対するそれのように、「イラクに制裁を」の大合唱となり、多国籍軍が派遣され、湾岸戦争へと突入していく。 しかし、程なくして「ナイラ」などという少女が存在しないことが判明する。クウェートから業務として、アメリカ国内の反イラク感情を喚起させるように請け負った世界的PR会社ヒル・アンド・ノウルトンによる「仕込み」だったのである。● 両国が「戦争プロパガンダ」を駆使していることに気づいているか このいわゆる「戦争プロパガンダ」というのは、湾岸戦争以降の戦争や国際紛争でもたびたび確認されている。アメリカの「大量破壊兵器」の捏造もそのひとつだ。 大砲から航空機、そして原爆から無人ドローンという感じで戦争のツールはどんどん進化しているが、戦争というものの悲惨さ、醜さの本質は変わらない。それと同じで、「戦争プロパガンダ」の本質は昔から何も変わっていない。 ベルギーの歴史学者アンヌ・モレリはあらゆる戦争に共通するプロパガンダを解明するとして、「戦争プロパガンダ10の法則」(草思社)で以下のようにまとめている。1.「われわれは戦争をしたくない」2.「しかし敵が一方的に戦争を望んだ」3.「敵の指導者は悪魔のような人間だ」4.「われわれは領土や覇権のためではなく偉大な使命のために戦う」5.「われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」6.「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」7.「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」8.「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」9.「われわれの大義は神聖なものである」10.「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」 いかがだろう。プーチン大統領やゼレンスキー大統領が国際社会や自国民に対して発しているメッセージと怖いほど重なってこないか。 近年起きた戦争や国際紛争の指導者たちの発言を見ても同じことがいえる。もっとさかのぼれば、大日本帝国のリーダーたちも同じようなことを言っていた。 今、ウクライナやロシアがSNSを用いて互いに情報戦を仕掛けているというが、ツールが最新になっているだけで、その内容は「10の法則」に合致するものばかりだ。 どちらが正しくて、どちらが間違っているという話ではない。ましてや、ブチャで起きた惨劇が「戦争プロパガンダ」だなどと主張したいわけでもない。 どんな国でも戦争というものに突入して、そこで勝つためにはこのようなプロパガンダを駆使しており、そこでは時にフェイクニュースも平気で垂れ流しているという醜悪な現実がある。そういう「情報戦」に日本人があまりにも無防備ではないか、ということを指摘したいだけだ。 「情報戦」に無防備ということは、簡単に他国のプロパガンダに踊らされてしまう「お人よし」な部分があるということでもある。 これまで見たように、欧米では戦争中にうそをつくのが当たり前で、今はプーチンをぶっ潰すような威勢のいいことを言っているが、自分たちの国が損をしそうになれば、あっさりと前言を翻してロシアと手打ちにすることだってあり得る。 気がついたら、「アジアのリーダー」なんておだてられて、西側諸国に忠犬のようにくっついていて日本だけがバカを見るなんてこともなくはない。 いい加減そろそろ、「アメリカ様にくっついていれば日本は安全」みたいな「平和ボケ」から脱却すべきではないか。 (ノンフィクションライター 窪田順生)
2022.04.14
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物事にはかならず、表と裏の二面性がある。現在進行中のウクライナ戦争も、プーチンのロシアの侵略と暴走によってもたらされていることは事実であるが、そこに至る背後も知っておく必要がある。ウクライナ、そしてその大統領であるゼレンスキーも、米国に踊らされ、ハシゴをハズされた犠牲者という一面があることを忘れてはならない。どんな戦争も絶対悪である。ウクライナとロシアの戦いも、正義と悪者の戦いなどと割り切れるものではないことは、胸に置かなければならない。どんに戦争も、最も犠牲者は一般市民であり、社会的弱者である。
2022.03.17
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ナターシャが今日16日、チェコ大使館でチャリティーコンサートを開きました。
2022.03.16
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ロシアのウクライナ侵攻に対して、ケニアのキマニ国連大使の演説が話題を呼んでいる (英文付き)
2022.03.07
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書こうとすることにことごとくチェックが入り、記事のアップができない。楽天ブログはいつから検閲制度をとり入れたのか。写真はウクライナ人歌手のナターシャ・グジーさん
2022.02.27
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新年早々、他人の褌で相撲をとるのも気が引けるが、ぼくに多大な影響を与えてくれる思想家の内田樹の言葉に、男の一人として身につまされる思いだ。日常的に大勢の人と接する仕事をしていて、頷けることが多いのである。いや、日常に接しないネット社会の一見マッチョな男たちにも、かなり感じるところであるが、まあそれはどうでもいい。「おとこたちよ!『思考停止社会』に正しく絶望せよ」(思想家・武道家) 鳥取県の智頭という町で天然酵母のパンとビールを作っているタルマーリーという店がある。店を切り盛りする渡邉格・麻里子ご夫妻が、先日神戸のわが家まで遊びに来てくれた。 その時の最初の話題が、「日本の男たちはどうしてこんなにダメになってしまったのだろう」という嘆きだった。「日本の男たちは」というような大雑把な括り方で問題を立ててはいけないのだが、あえて「大雑把に」とらえた方が問題の輪郭がはっきりするということがたまにある。そういう場合は方便として、あえて「雑な論じ方」を採用する。■男はこれまで“下駄”をはかされてきた タルマーリーのお二人からは、採用しても男子は仕事ができず、こらえ性がなく、すぐに「きつい」と言って辞めてしまう、残って一人前に育つのは女子ばかりだ、という嘆きを聴いた。そうだろうなと思った。 私の主宰する武道の道場である凱風館には、「部活」というものがある。スキー部とか登山部とか麻雀同好会とか、そういうものである。 次々と新しい「部活」ができるのだが、この数年を振り返ると、発案するのも、運営するのも、参加するのも女性たちである。乗馬部、滝行部、修学旅行部など、面白そうな部活がいろいろ誕生したのだが、部員はほとんどが女性。先般、羽黒山伏の宿坊に泊まった時も、集まった山伏たちは大半が若い女性であった。『日刊ゲンダイ』の読者はたぶんご存じないだろうが、現代修験道は若い女性たちが支えているのである。なんと。 何年か前に「医学部受験で女子受験生だけ減点していた」という事件があったのをご記憶だろうか。あれはペーパーテストの点で上から順に取ると、女子学生が過半を占めてしまうので、女子の面接点を減らしていたのだという内情を後から医学部の先生から聴いた。「パリテ」とか「クォータ制」とかいう議論を表面だけ聴くと、日本におけるジェンダー問題は「女性に下駄を履かせないと、バランスがとれない」ことのように思えるが、実は話は逆なのである。「男子に下駄を履かせないと、バランスがとれない」というのが、日本におけるジェンダー問題の実相なのである。 制度的に「男に下駄を履かせる」ということは、わが家父長制の伝統である。かつて男は正味の人間的実力とはかかわりなく、「ポスト」が与えられた。それで何とかなった。「ポスト」は定型を要求するからである。 家長には子弟の進学や就職や結婚についての決定権があった。戦前の民法では、家長の判断に従わないメンバーには勘当されるリスクがあった。家長にはそれだけの権限があった。だから、それらしい顔つきで、それらしいことを言っていれば家族は黙って彼に服したのである。 しかし、今、そんな制度の支えはない。男たちは正味の人間的実力だけで家族からの敬意を勝ち得なければならない。でも、そんなことができる男は申し訳ないけれど、きわめて少数に止まる。「自分は思考停止していない」と思っていないことの異常さ 人口減やパンデミックやAIによる雇用消失が目の前に迫っている。彼らは明日にも路頭に迷うかもしれない、というリスクにさらされている。しかし、そのシリアスな現実を直視する勇気がなく、砂の中に頭を突っ込んでいる駝鳥のように思考停止に陥っているというのが記者氏の診立てであった。 どうしたらいいのか問われても、私に妙案があるわけではない。とりあえず中高年サラリーマン諸氏にはとりあえず、「私は思考停止しているのではないか」という病識を持ってもらうしかない。病気になるのは「よくあること」である。病気になったら治療すればいいだけの話である。 けれども、病気なのに「病気じゃない」と思い込んでいると、いずれ危機的な事態になる。問題は、おそらく中高年サラリーマンの多くが「自分は思考停止なんかしてない」と思っていることである。だって、「周りの人間たちと同じことをしている」からである。 ふつうは「みんながしていること」が「正常」で、「みんながしてないこと」が「異常」である。みんなが思考停止している社会では、思考停止していることが「ふつう」なのである。そして、これが現代日本社会のほんとうの病態なのだと私は思う。■とりあえず「しょんぼり」してみる 例えば、全国紙や民放テレビは、遠からずビジネスモデルとしては立ち行かなくなる。いくつもの新聞やテレビ局が消えるだろうが、その場合、これまでそういうメディアが果たしていた社会的機能は、何が代替するのか。重要な問いのはずだが、メディアはそれについては口をつぐんで語ろうとしない。「なぜ私たちは存在理由を失ったのでしょうか?」と自問するのがつらい仕事だということはわかる。 だが、おのれ自身の足元が崩れている時に、それを報道することも分析することもできないほど知的に非力なメディアには、冷たいようだがもう存在理由がない。 思考停止から脱出するのは、それほど難しいことではない。自分の足元をみつめ、未来をみつめる。そして、ただしく絶望することである。思い切って「しょんぼりする」のである。 武道を稽古しているとわかるが、「しょんぼりする」というのは、構えとしてはきわめて安定的で、しなやかなのである。どこにも力みがなく、こわばりもない。何か起きてもすぐに対処できる。「明るさは滅びの姿であろうか、人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」と、太宰治は『右大臣実朝』に記している。 暗いうちはまだ滅亡しない。とりあえず日本の男たちには、適切に「しょんぼりする」ところから始めることをお勧めしたい。
2022.01.04
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一茶を気どってみてもせんないことですが、2021年はぼくにとってはほどほど、日本にとってはあまり良い年とはいえませんでした。ともかくも、今年はコロナ禍も無事におさまり、良い年なるといいですね。昨年は、二束三文で購入した田舎の山つきの古屋をほぼ手作りでリノベーションし、作業場兼隠れ家が完成しました。ゲストや友人たちがいつ来ても、泊まっていただける最低限のものは揃えたはずです。今年は、その家を使ってあることを企んでいます。(といっても、国賊安倍一族のような大それたことではないから、ご心配なく)ということで、2022年はたぶんぼくにとって、楽しみの多い年になるはずですが、詳細はまだ内緒です。ところで、川瀬巴水(かわせ はすい)を知っていますか。知る人にとっては超有名人ですが、恥ずかしながらぼくは、この版画と出会い、不思議な懐かしさに惹かれ、作者のことを最近知ったばかりです。川瀬巴水は、日本の浮世絵版画を確立した人物で、近代風景版画の第一人者ということです。日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれるとのこと。国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気。あのアップルコンピューターのスティーブ・ジョブズが少年時代に惹かれ、彼の美意識に多大な影響を与えたことでも知られています。日本の評価は、稚拙な政治によって墜ちゆくばかりですが、学術・芸術分野のすぐれた人々によって、何とか補われているようです。
2022.01.01
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【彼らの政治いうのは悪者をつくる。「公務員は給料もらい過ぎ」と。あおる政治で公務員の給料下げる。何でも民営化がええって、何がええんや。……ハッキリしたのは生活保護やとか、役所の職員を悪者にして、必ず選挙に行く3分の1の有権者を固めると、66%が投票すれば約過半数になる。これはもうトランプと同じやり方や。政治するには、ものすごく楽やんか。あとの3分の2は切り捨てていいんやもん。】 (日本城タクシー社長・坂本篤紀氏の「大阪維新の会」に対する論評 2021-6-7「日刊ゲンダイDIGITAL」)国民の中には「お笑い百万票」と揶揄される軽佻浮薄な大阪府民のように、「大阪維新の会」と「日本維新の会」が、何か国民のために目新しい良いことを実行してくれるのではないかと考えている人達がいるようです。10月31日に投開票があった衆議院議員選挙では、大阪で、何と「日本維新の会」が候補者を擁立した選挙区で全勝を収めました。ほんまに、大阪府民、なに考えてるねん!大阪府民、いや、日本国民は、極右政党「日本維新の会」の実態を知るべきです。2月23日に放映されたBS-TBSの「報道1930」に、大阪市住之江区の「日本城タクシー」の坂本篤紀社長が生出演され、「コロナ対策」について、堂々と正論を述べられました。ゲストコメンテーターの橋下徹氏(元大阪府知事・元大阪市長)が例によって「屁理屈」を声高にまくし立てましたが、坂本社長に完全に論破され、顔色を無くしていました。◆以下、「日刊ゲンダイDIGITAL」の記事の転載(コピペ)です。注目の人 直撃インタビューナニワの名物社長が斬る「維新のやり方はトランプと同じ」 公開日:2021/06/07 06:00 更新日:2021/06/07 06:00◇坂本篤紀(日本城タクシー社長)新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、中国人団体客向けのバスツアーなど売り上げの約4割を占めていたバス事業が、ほぼゼロに。コロナ禍に苦しむ中、民放のテレビ番組で橋下徹元大阪市長をコテンパンにいわし、ネット上で「橋下を論破」と話題になった。大阪府は効果的な対策を打ち出せず、死者数は累計2000人を超えて全国最多。ナニワの名物社長が吉村洋文府知事、松井一郎大阪市長、維新の会をぶった斬った。■「吉村クン、政治は説得力やで」――観光業にとって厳しい状況が続いています。昨年1月27日ごろからキャンセルが相次いだ。これは給料払われへんようになるわと思い、バス10台のうち3台売った。あとから気付いとったら、金に換えられへんとこやった。さっさと現金を持っとかなアカンかったから、それで何とか回った。――現在はどんな対策を。対策もクソもあらへん。今は借金を食い荒らしとる。信用保証協会の助けで運良く借りられたけど、そんなん持つわけない。持っているもんをみな、売っていかなしゃあない。借金して給料払っている状態や。――大阪府の新規感染者は一時期、全国最多となった。吉村クンは2025年大阪・関西万博のジャンパーをずっと着てることを批判されても、やめようとせえへん。予算をしっかり取ってる4年も先の万博をちゃっかりPRしながら、おばあちゃんに「急げへん手術は待ってください」言うとるわけや。説得力がなさ過ぎる。政治は説得力やで。本来なら万博の予算を医療に回すべきや。――吉村知事と松井市長が防護服代わりに集めた雨ガッパが大量に余った。雨ガッパもイソジンも「間違えました」でええやん。いくら言うても間違いを間違いと認めへんから、間違いが改まれへん。2万人近い患者が入院できずに自宅かホテルにおったわけやろ。薬ももらわれへん、医者にも診てもらわれへん。飲食店の「見回り隊」より、そっちが先ちゃうん。これって政治じゃないよな。――吉村知事はテレビを通じて府民に呼び掛ける。いつ仕事してるんか分からんぐらい、出てはるな。彼の場合、テレビに出て、はしごするというやり方やろ。感染対策とテレビ出演はまったく関係ない。ほんで平気で私権の制限とか言うわけや。でも検査は積極的にやらない。すべてが自分たちの意見を通すためにやから、考える能力がなくなっている。自分がその考えに凝り固まってもうて、人の意見を認めることがでけへん。――吉村知事をヨイショする在阪テレビ局にも問題がある。テレビは酷い。本当に酷い。吉村クンは番組で吉本興業のお笑い芸人から持ち上げられとるけど、公共の電波使ってやることか。お友達資本主義の象徴や。吉本は府から広報の仕事いくらもらっとんねん、ちゅう話や。吉本にとってお得意先が大阪府や。府と吉本とテレビ局が、自分らの利益に向かい過ぎとる。――なぜ、維新の議員が支持を集めるのか。ポピュリズムやろうな。メディアの影響が大き過ぎるよね。そろそろ、吉村クンと松井クンがやってることはおかしいと気付いてもらわんと。8月ぐらいになったら接種したい人が減って「ワクチン打ってください」ってお願いせなアカンのに、その体制できてんの? 1万人や2万人を毎日入れるわけやろ。大規模接種会場を、いくつつくんの? それに対して何の対策も練れへん。何も言えへん。先を見る目もないねん。◇有権者の3分の2は切り捨て――維新のやり方をどう捉えていますか?彼らの政治いうのは悪者をつくる。「公務員は給料もらい過ぎ」と。あおる政治で公務員の給料下げる。何でも民営化がええって、何がええんや。郵便局なんて親方日の丸の時は一生懸命、「おばあちゃんのために」言うてたわけや。それが民間企業になった途端、「売り上げのためや」言うて、おばあちゃんをダマしに行く。アフラックの下請けになり、「かんぽは売ったらアカン」って、そんなバカなことあるか。なんでアフラックを売らなアカンねん。――維新が一丁目一番地に掲げる「大阪都構想」は市民に住民投票で2回も否決されました。ハッキリしたのは生活保護やとか、役所の職員を悪者にして、必ず選挙に行く3分の1の有権者を固めると、66%が投票すれば約過半数になる。これはもうトランプと同じやり方や。政治するには、ものすごく楽やんか。あとの3分の2は切り捨てていいんやもん。――吉村知事は「コロナで収入が減らない生活保護受給者や年金生活者には、お金を配るべきじゃない」と発言しました。ボクかて今、病気で商売できんようになったら、間違いなく生活保護やで。借金いっぱいしてんねんから財産もみな、取られる。でも今まで、どんだけ税金はろうてきたと思てんねん。10万円ぐらいいいんちゃうか。それがセーフティーネットの考え方やろ。「配るべきじゃない」って、誰の金や。人の金やないか。――「身を切る改革」とか言って保健所や保健師を減らした結果、現場が大混乱に陥った。減ってもうたもんはしゃあない。「次、どうするの」がないからイラ立つ。保健所閉めました、すんません。その代わり、大規模接種はこうします。見回り隊を自宅待機の人の面倒に回します。悪いけどオリンピックに協力できません。東京に集まる医療従事者を300人回してくださいって。吉村クンも国に要望することぐらいはできるやろ。■市民にお金つこうて何がアカンの?――橋下元市長との議論が話題になりました。彼らが目指している大阪のあるべき姿っていうのは上空をオスプレイが飛び、大阪湾にトリチウムをブチまけ、飛田新地に米兵を呼んできて「ここで頑張りなさい」って言うわけやろ。こんなアホなことを平気で言う。マトモじゃないわ。議論する余地がない。彼は「中国のように一斉に人権を剥奪して検査することが……」とか「この国にそんな法律ないんですよ」と言うわけや。論点のスリ替えというか、不都合な真実を隠すわけや。それでいて聞かれたくないことはベラベラしゃべってゴマカす。――吉村知事や松井市長も同じ?一番酷かったんは会食を勧めた張本人が市役所や府庁やったいうこと。「マスク会食しろ」「経済を回せ」と言うておきながら、4人のところに1人合流したから不正扱い。「自分ら役所なのに飲み食いしてまんねん。こいつらが悪いんや」って、感染を抑えられない自分らの失態を職員のせいにする。今までやったら論点のスリ替えやったけど、今回は完全にワナにハメとる。「夜9時まで」言うて10分でも過ぎたら、「市では全部カウントして1164件ありました」とやってまうわけや。「こいつら、けしからん。謝ります」って。いやいや自分のこと謝れ、いうねん。――1年前、吉村知事が次の総理ともてはやされました。オレは言うてないけどな。アホちゃうか(笑い)。メディアが持ち上げるからやんか。「大阪モデル」やって、モデルがコロコロ変わんねん。もう通天閣がレインボーになってんのか、何色になってんのか分からへんで。いつやったか、黄信号から赤信号に変わるまで4日いうことがあった。黄色、危な過ぎんで。おばちゃんが「1個目点滅したら、すぐ赤になるようなもんやな」と言うとった。それを見ても何一つしてへん。彼らはすぐ「権限がない」て言うんやが、府立病院は何立病院やねん。誰が責任者やねん。知事やんけ。「給料上げたれ」って言やぁいいのに、それもせえへん。赤字の象徴や言うて、施設を閉めまくんねんな。病院が赤字って、ええんちゃうの? 市民にお金つこうて何がアカンの?――政治家は結果を真摯に受け止めるべきだと。万博を取りやめ、インテックス大阪(国際展示場)を病院にして、「老朽化したインテックスは万博予定地に移します」でよかったんや。それが分かれへんねんな。何もせんと「やってる感」だけでは、こうなりますよ、いうこと。誰にも頼まれていない政治をやってんのが、今の大阪であり、安倍政権であり、菅政権。頼んでないことを頼まれたかのようにしてんねん。オリンピックやって世界中から変異ウイルスを集めてきて、日本経由で世界中にバラまくつもりか。(聞き手=滝口豊/日刊ゲンダイ)▽坂本篤紀(さかもと・あつのり)1965年大阪府生まれ。府立阿倍野高中退後、大検合格。理学療法士の資格を取得し、義手や義足を製造する会社に入社する。89年、父親が勤務する日本城タクシーに転職。2013年、社長に就任した。従業員221人、バス事業、タクシー事業、観光事業、酒造業を展開。(以上、「日刊ゲンダイDIGITAL」の記事の転載おわり)
2021.12.05
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以前にも書いたが、近くの町に三浦久というシンガーソングライターがいる。大学等の講師をする側ら、シンガーとして歌い音楽の評論家としての活動をしている。その彼の歌う曲は、自他の人生や社会の出来事に彼の想いにのせているのだが、わが胸にすっとしみ込むばかりでなく、ときにズンっと響き、思わず涙腺がゆるむなど、聴く者に深い郷愁や感動を与えてくれる。ぼくの短歌歴は、川柳や詩、エッセーなどくらべると短いが、“短詩の世界”は、どれも書くべき方向や目的に大きな違いはないと考えている。文芸は、身内だけで慰撫し合うものではなく、ジャンルを超えて伝え、感じあうことが大切ではないかと、ぼくは考えている。異論のあることを承知でいえば、言の葉文芸は、具象であれ抽象であれ、何らかのメッセージ性が抱合される。明確な意味のあるなしにかかわらず、作者は読む側の心に届く一行を書くことで使命が果たせた、と考える。“読み手の心に届ける心を打つこと”を目指したら、単なる挨拶文であったり、ありきたりの景色、繰り返し詠みつくされた内容は避けるべき努力が必要ではなかろうか。自己満足・自己陶酔の作品を押しつけるのは、読む側には迷惑な話だ。自分のノート(だけ)に書いておいて欲しい。あえていえば、人には百人百様の過ぎ来し人生があり、受けとめ方の違いもある。だからすべての読者に等しく届けることなど不可能だ。たった一人の読み手であっても、目的の人に深く届けばよい。かの時代、相聞歌などは、たとえつたない内容であっても、一人の愛する人の心に届けば、十全に役割を果たしたと思えたのではないだろうか。と、つらつらいいわけを述べたあと、自分の書いたものを連ねるのは気恥ずかしいのだが…。 崩しゆくそのためだけに一心に幼児かさぬる積木の搭よ 夏の午後繭のごとくに眠りいし孫の寝顔に吾もつらるる 昼茣蓙の凹凸顔に残すまま西瓜を囓る寝起きの児らよ 向き合へば西陽を受けし石仏は向こうの世から見つめておりぬ 石仏を語らう瞳ひかり帯ぶかういふ老いもあらむ あるべし たまゆらに出逢ひしことも向日葵の咲きたることも夏のきまぐれ 月光のきららを添へて愛告げるおのれの夢にひと日たゆたふ 夕暮れのキッチン淡くひかり帯び深海魚かと見紛う女の 人はみな二本の腕をもちてより抱きあふことで意思の伝へぬ ぬるきものふいに目尻に溜まりたる虹と出逢ひしそれだけなのに
2021.10.09
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どんな文芸も、作者個人の志向違いがあって、誰もが自分の考えが一番だと思う傾向がある。かく言うぼくも、そうした呪縛から逃れえられずいる。川柳を30年ほどやってきたが、川柳は座の文芸ということもあり、選者から抜かれる(選ばれる)句が最良であり、選から外れたものは没句として抹殺される。では、選者の眼が絶対かといえば競選(複数の選者)をすればほぼバラバラの句が選ばれる。(同じ句に選が集まるのも、また問題ではあるが…)絶対的基準など無きに等しいのだ。といってもそれは当然だ。文芸だけでなく、芸術は鑑賞する人それぞれの生き方やそのときの感情、指向が何よりの価値観となる。それでも、何々賞を獲ったといえばそこに視線が集まるのが人間の性、弱さでもあろう。そうした屁理屈をブツブツ述べながら、最近は短歌を書くことが多くなったが、やはり川柳時代とかわらないジレンマに振り回されながら、ボツボツ書いている。 喃語こそ王さまことば我らみな言葉のしたにかしづくばかり 箱あれば箱の形に身をなして猫は自在にこの世を生くる 母に手をひかれ幼子あいた手を振りつ振り向く子犬のやうに 夜更けまで歌をつくりて潜り込む吾の布団に加齢の匂ひ 老いの手が老いの手を曳く街角に明日なるわが身うつすら見やる たはむれに菜花の蕊を吸うてみよ蜜のありかは仄かに昏し 食卓の卵をとりて掌のなかのゆるき丸みは生命のかたち 名刹の廊下いつしか減りへこみ吾また減らすひとりならむ もう少し港の船を見ていようチャペルの鐘の鳴り終へるまで テントには死にゆく生と眠る生ビルの谷間にいのち枯れゆき 寂れたる郷にも月の現れしみな寝静まるときを輝よふ 集落を語ることばのやわらかく纏わりつきし棘もときどき テレビには笑へぬ芸の流れたる退屈なうた連ぬるわれも
2021.10.02
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その昔、ぼくが45歳のときに書いた2行をモチーフに東映から「日本一短い母への手紙」という映画になった。その監督が澤井信一郎だった。母親が十朱幸代、娘が裕木奈江、息子が原田龍二、他に鈴木砂羽、別所哲也、原日出子、勝野洋、淡路恵子、村井國夫、加藤治子、江守徹、小林稔侍など、主題歌は山口百恵の「秋桜」というような豪華キャストだったが、内容はぼくにはもうひとつしっくりしなかったから、どうでもいい。ということで伊那や駒ヶ根を中心にロケが行われ、澤井監督や十朱幸代、裕木奈江さん等と何度かご一緒した。実のところ、澤井監督からは故郷シネマのような話をされ、「この地方でも映画作りを支援してくれると嬉しいのだけれど…」などと持ちかけられたが、もちろんぼくにそんな力はないから断った。と、それだけの話だが、その映画がきっかけになって、別の監督と懇意になって今でも交流はつづいている。小柳ルミ子、樹木希林や松方弘樹など大勢の映画スターとも出会うことができた。そういうことでは、間接的にではあるが感謝している、合掌。
2021.09.08
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「Cafeたね」は加藤さん夫妻が経営する小さな飲食店。その昔、うどん屋をしていた店をリフォームして開店したのが五年ほど前、伊那市で最も盛衰の激しい地域の裏通り。かつては芸者置屋などもあり賑わった場所だが、今は通行人の誰とも会わずに通り抜けることができることがあるほど寂れた場所だ。電気工(だったような気がする)ご主人と二人で汗水流して内装した、手作り感がいっぱいだが、前を通ってもうっかりすると通り過ぎてしまうほど目立たない店だった。しかし、縁は異なものと言おうか、若い女性客…、いな、幅広い女性客たちのスポット的な店となり、ぼくの知るかぎり客の途絶えたのを見たことがない。いや、実はぼくはあまり顔を出さなかったから、実際のところは知らない。いつ行っても女性やカップル、小さな子連れ家族などで埋まっていて、ぼくのようにシャイな男が一人で出入りするにはやや勇気がいるからだ。それはともかく、その繁盛の秘密は夫婦の人柄、殊に奥方のTさんの物怖じしない、しかし可愛げな話しぶりや嫌みの無い、立ち振る舞いにあるのだろうと、ぼくは見ている。いうなれば“人たらし”とでもいおうか。実年齢はお聞きしてないが、ご主人のHさんは還暦を迎え、娘さんもふたり嫁がせたというから、それなりの年齢だろう。しかし小柄で童顔のこともあり、誰が見ても、話しをすればなおのこと40歳台そこそこである。それらにプラスして、「Cafeたね」という店のコンセプトや、味、食器、接客アイテムなどの工夫が優れていたと思う。真似ならできそうでも、トータルにまとめるには至難の業だ。飲食店を出す人は誰もが自分の夢に、さまざまな知識・工夫を駆使して始める。しかし、出店した8割、9割は数年を経ずに撤退を迫られるのが実情だ。10年以上つづけている店は、資本がしっかりしているか経営者が特別に優れているからだろう。その加藤さん一家が塩尻市洗馬に一軒家を購入し、あらたにあちらで開店するため、今日で閉店すると聞き訪れた。前ぶりが長くなったが、これからが本題だ。会計をしながら、問うてみた。「せっかく伊那にひとつの文化が根付いたと思ったのに、無くしてしまうのは罪ではない…」と。夫婦は謙遜して、笑って否定したが、ぼくはいたって真面目に問うたつもりだ。伊那には昔から、ひそかに名店と言われた店が幾つかあった。いや、今もあるのだろうが、歳とともに行動半径の狭まったぼくは、あまり多くを知らない。近年も、飯島食堂、肉の越後屋、料亭だるま…等々歴史を誇った名店が消えてしまった。小さないい店も数限りなく淘汰してゆく。そういえば、20年ほど前、文芸仲間だったKさんがやっていた「Barモスコー」も伊那の文化人のたまり場のような場所であった。医者、大学教授、新聞記者、弁護士のほか、芸術家や、一家言士、きどった女性客も出入りし、ぼくらのようなボンクラ客はむしろ少な目であった。ちなみにKさんのひとり娘は舞台女優をしているが、帰省時には店に顔を出し、演技論やその世界の裏話なども語ってくれた。ぼくは、この店で親しくなった友人知人たちのお陰で、身の丈以上のものを身につけることができた。文化とは、神社仏閣などや伝統的に培われたものばかりでなく、人との繋がりで生まれ、時代とともに育ってゆくということを身をもって知らされた。今だから話せるが、「モスコー」の会計は客の懐具合で決まるらしかった。隣席の客が五千円払ったあと、ぼくは千円かせいぜい二千円。だから隣席の客が帰った後でないと店を出にくかった。話が逸れてしまったが、文化とは人との交わりのなかで生まれ消えてゆく。そういった意味で「Cafeたね」も、伊那のひとつの文化として定着しつつあると思っていたのに残念である。“人間到る処に青山在り”といわれるように、加藤さん夫妻ならどこに行っても歓迎され、上手にやって行くことだろう。しかし、飲食店生存率にあるようにけしてラクな道のりではないだろう。伊那の経験を活かして成功して欲しいと願う一方で、「やっぱり伊那のほうが良かったみたい」と戻ってくれることを…、いやいや、塩尻でも頑張って文化をつくりだして欲しいものであります。photoは、「Delicious×Komachi」ほか
2021.08.29
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敬愛するシンガーソングライター三浦久さんの経営するオーリーアッド。三浦さんは諏訪星陵高校時代に交換留学生として渡ったアメリカ・カルフォルニアの高校でボブ・ディランなどのフォークソングを聴き、歌に目覚めたという。京学の大学院も出てから、信州大学や地元短大の講師等をしながら歌っていたから、かなり昔からそのお名前は知っていたが、当時はぼくも生きるに精一杯だったこともあり、あたらず障らずで過ごしてしまった。数年前、ひょんなきっかけから彼の(といっては失礼ながら幾つか先輩である)コンサートをお聴きする機会があり、親しくさせてもらってからずっとこころに棲みついてしまった。三浦さんは1945年生まれだから、もう76、7になろうか。辰野という小さな町で奥さんと「オーリーアッド」という小さな喫茶店を経営し、毎週土曜日には地元シンガーたちと唄っている。ぼくも何度か訪れているのだが、コロナ禍ということもあり最近はすっかりご無沙汰になってしまった。しかし、歌声だけ何かあるたびに耳底から響いてくるのである。そのなかの一曲、陸前高田市に住んでいた一度も会ったことのない友人を唄った曲、「菅野有恒/三浦久 作詞・作曲」を聴いてみて欲しい。聴き終えるころ、ぼくはいつも眼が潤んでしまうのである。ちなみに、「オーリーアッド」を訪れたときにの気持ちをつたない短歌にしてみた。 辰野とは寂れ佳き地よ乳白の靄ゆつくりと街をうるほす うつつ身は魚のやうに泳ぎだしライブハウスの揺蕩ふ湖に ジャズ流るライブハウスに立ち寄れば雪暖かく屋根にふりつむ ライブには行かざりしままチケットを詩集に挟み過ぎゆく日々よ
2021.08.13
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こんな記事をみると希望を感じます。若者にも年寄りにも、ダメなところもあれば良いところもある。人の一面をみてすべてを決めつけるような偏狭な考えこそ、その人の最大の欠点であろう。ヘイトにしてもナショナリズムにしても、さまざまな人がいて考え方があってもいい。ダメなのは、自分の考え以外すべて悪いと決めつける思考だ。反対意見を罵倒するだけの人は、結局は狭い範囲のなかでしか生きてゆくことができない。だが、残念なことにその狭さがどれほどのことなのか、いちばん気づかないのが当の本人でもある。HBCテレビ「SDGs北海道から未来へ×若手記者が伝える戦後76年」は、優れた番組であった。
2021.08.12
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コロナウィルスのワクチン接種による被害データの厚労省資料が内部告発されたという。この内容が事実だとしたら、ゆゆしき事態だが、いずれ真偽がはっきりすることだろう。尚、この画像は延々と166ページにわたるなかの、1ページ。資料によれば、おびただしい人がワクチンによって亡くなっていることになる。この表の出典は、朝霞市議会議員の外山まきさんのツイッター他です。https://drive.google.com/file/d/15I-cNyla70bsbv-ctrpabBgXxuqgfyL1/view?fbclid=IwAR1JJPoZVz4mj1VUUGcLabnps3SSBWSSu6qC3omy5jBGvHlxnD_XN7KjROQhttps://twitter.com/ToyamaMaki/status/1405402952878096385
2021.08.10
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コロナ禍でのオリンピック開催に複雑な思いが拭えないのではあるが、卓球についてはつい関心をもって観てしまう。実をいうと1964年の東京オリンピック開催時にはぼくは高校生であり、卓球部のキャップテンとして、聖火ランナーの伴走者として走るなど多少とも、当時のオリンピックには思い入れがあった。当時、伊那北高校の卓球部で活躍していたのが鷲見晧平君で、ライバル心をもったのだが、十年後に彼は人権派弁護士としてぼくの前に現れ、その後彼が亡くなるまで親しい友人として何度呑み明かしたことだろう。互いに卓球という競技で知り合ったこともあり、酒場での話題にしばしば卓球も話題になったのだが、当時から中国が大きく目の前に立ち塞がっており、ついグチ話になってしまうのだった。その彼も酒で死に、ぼくも黄昏の年代となった今年の夏、母校の野球部が県大会で3位という好成績を収め、日本卓球が1種目とはいえ中国に勝った(金メダルはどうでもよく、打倒中国である)のは、盆と正月が一緒に来た以上の快挙なのである。ということで、高校時代の聖火ランナー姿の写真があったはずと探したが、見つからない。誰か剥いでしまったのか、自分で捨てたのか、青春は遠くなりにけり…。
2021.07.27
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敬愛するそが逸郎さんから次のようなメールが届いております。ぼくもこの考え方に同意し、賛同するものです。たぶん、思慮の浅い人の中には国旗に敬意を払わない行為として不快に感じる人もいるでしょう。本当の愛国心とは、政府に無条件に従われることではなく、政府の方針が正しくないと思うときには勇気を持って異議を唱えることだと思います。もちろん、正しいと思うことには賛同する。そういう自立した生き方を持つ人々が増えることが、良い国家をつくってゆくことだと思っております。以下引用*********2021年 憲法記念日の前日にわたしが国旗に一礼しないわけ 中川村村長の時、「国旗に一礼しない村長」として話題になりました。村議会の一般質問で、こんな質問を受けたのです。 「入学式や卒業式などの式典で壇上に上がる際、国旗に一礼しないようだが、それはなぜか?」 理由は、日本を、誇りにできる国、外国の人たちからも尊敬され愛される国にしたいからです。 国旗や国歌へ敬意を頭ごなしに強制することは、国をよくしていこうとする意欲を押さえつけることになります。 当時、大阪で維新の橋下府政による国旗・国歌の強要が議論を呼んでいました。その背景があったので、もともと感じていた、国旗・国歌を強制する空気は嫌だという思いが一層強くありました。 なんであれよくしていこうと思うなら、現状を客観的に分析して、あるべき理想と引き比べ、現状を理想に近づけていく方策を考えなければなりません。では、日本が国として目指すべき理想とはなんでしょうか。国民一人一人、いろいろな考えがあるかもしれません。しかし、それは、既に明解に文章化され定められています。 日本国憲法前文です。 憲法前文の末尾は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と高らかに謳っています。 「崇高な理想と目的」の内容については、是非原文にあたってください。短い文章です。わたしなりに要約すれば、自分の国のことだけではなく、すべての人々が苦しみを免れて平和に暮らせる世界にするために、世界中のみんなとともに努力する、という誓いです。 虚心に日本の現状をみて、この理想を実現しているでしょうか。 たとえば、核兵器廃絶や気候変動対策への姿勢は、理想とは正反対だと言わざるを得ません。貧困や差別もほったらかしです。格差はますます広がっています。 理想に向けて日本が克服すべき問題を課題として捉えることを、国旗国歌に黙って敬意を示せ、という空気は押さえつけることになります。 「そんな理想など夢物語だ。厳しい客観情勢を見よ。もっと現実的になれ!」 そういう声が聞こえます。しかし、現実に妥協的な「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。 理想の実現は簡単ではありません。しかし、理想を目指して努力することはできます。理想を実現していなくとも、日本が理想の世界のために真摯に努力することを明確に宣言し、言葉どおりに行動するなら、国民は国を誇りに思えるし、世界中の人々も日本を敬愛してくれるでしょう。 目先の損得や都合に妥協せず、歯を食いしばって理想ににじり寄る方策を模索すべきです。 国家は力をもっています。それを良い方向にも、悪い方向にも使うことができます。人々を救うことも、苦しめることもできます。人々の苦しみを増す国は悪い国であり、減らす国は良い国だと言えるでしょう。 日本を誇りにできる良い国、世界から苦を減らす国にするために、現状を理想に近づけていきたいと思います。 ところが、国旗や国歌を強要する空気は、国の現状を客観的、批判的に見ることを抑制します。 小さな村の学校の式典にまで、残念ながらそういう空気は拡散しています。 わたしが「国旗に一礼しない村長」として話題になった時、日本中からたくさんの葉書やメールが届きました。いくつかは、こんな主張でした。 「村長たるもの、心の中で舌を出していてもいい。外見上では、国家への敬意を示せ。」 心の中で舌を出しながら、外見だけの敬意を示すとは、何と失礼なふるまいでしょうか。 わたしは、心から誇りにできる国にしたうえで、その誇りを示したいと思います。そもそも空気の圧力に服従させられるのは、気持ちのいいことではありません。 外見だけの服従を要求する人たちは、国を良くしようとは考えておらず、ただ、人にいうことを聞かせたいだけなのです。 空気の圧力に屈することは、憲法12条が国民に要求する「国民の不断の努力」を放棄することでもあります。 従わせようという空気のあるうちは、国旗に一礼しないでいようと思います。「国旗に一礼しない総支部長」と呼んで頂ければと存じます。縄文のヴィーナス
2021.05.03
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今日、東日本大震災から十年の日、最近作品『日本独立』が公開されたばかりの映画監督・伊藤俊也さんから近著『方丈平家物語』が送られてきた。京都日野の某寺の開かずの扉といわれた土蔵から、鴨長明の書いた自伝らしき古文書が発見された。それによるとかの『平家物語』はまだ確定はできないが鴨長明の作である可能性が伺える、という大発見?を基に書き起こした大作だ。鴨長明といえば、『方丈記』や短歌の世界ではあまりにも有名だが、『平家物語』を著していたのが事実となれば、歴史的な大発見と言うことになる。実は、伊藤俊也さんは20数年ほど前にぼくの作品をモチーフに映画化したいと訪ねてくれた。その作品は別の監督で東映から映画になった。にも拘わらず俊也さんとは何故かウマがあって、伊那にもご夫婦で訪ねてくれるなどずっと懇意にしている。本を出すたびに謹呈してくれ、ぼくもつたない著作を送って、読んでもらっている。2003年、紫綬褒章受章のときには、記念パーティーにぼくら夫婦を招待してくれた。会場では、松方弘樹、奥田瑛二、樹木希林、小柳ルミ子、岸本加世子等々、当時のキラ星のような大勢のスターたちと、田舎夫婦が一緒に飲み食いするというアンバランスぶりに、料理も喉を通らない体であった。妻といえば、奥田瑛二氏等に肩を抱かれツーショット写真を撮るなど、まんざらではない様子だった。ところで、最近公開された「日本独立」は、日本国憲法ができるまでの裏表をリアルに描いた映画だそうだが、残念ながらぼくはまだ観てない。タイトルは「日本独立」となっているが、伊藤監督の本心は「日本は本当に独立しているのか?」だという。「ある種のアイロニー(皮肉)を含んだ題として受け止めてほしい」と話す。粗筋としては、第二次大戦終戦直後、GHQに占領された日本において、そのGHQと渡り合った二人の男、吉田茂と白洲次郎。米国主導で早急に憲法改正を推し進めようとするGHQに抵抗し、一刻も早い日本の独立回復にこだわって熾烈な“戦い”に挑む二人。彼らの心にあったものは、一刻も早い日本の独立への思いだった。本音で激論を交わすことをいとわない二人の絆、そして日本の未来を見据えた熱い思いと覚悟を描く、人間ドラマである。◆伊藤俊也(いとう・しゅんや)1937年2月17日、福井市生まれ。83歳。東大文学部美学科卒。72年「女囚701号さそり」で監督デビューし、“さそり”シリーズ3作を担当。主な作品に82年「誘拐報道」はモントリオール世界映画祭審査員賞、85年「花いちもんめ」は日本アカデミー賞最優秀作品賞、98年「プライド 運命の瞬間(とき)」など。近作に「ロストクライム―閃光―」(2010年)、「始まりも終わりもない」(13年)がある。
2021.03.11
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自戒を込めてまとめてみました。ぼくは森発言を読んで、(今までの失言癖から)彼なら(あの発言は)さもありなんと思いました。オリンピックの開催か否かという時期にして、思慮に欠ける浅はかな発言だということを感じたことは確かですが、発言内容の全文を活字で読んで、彼にはことさらに女性蔑視発言のつもりはなかったのではないか、あの時代の人間には多かれ少なかれ潜在する固定観念を吐露してしまった、ようにぼくには感じたのです。ところが、マスコミ→海外報道→個々のその他、と大騒ぎが膨らみ、寄ってたかって袋だたきするかの現象には、なにか喉に刺さったような、素直に喜べないものをもったことは確かです。「けしからん」と大騒ぎした人たちは、すべて(男女間にかかわらず)平等にと考え、行動できているのだろうか。日本という社会のなかに蔓延している男女間格差に普段は異議をとなえない人たちまで、ここぞとばかりに「けしからん」と大騒ぎする姿は、イジメと同類ではないかとさえ感じたものです。たしかに森発言は、思慮に欠けた浅はかな言葉でした。しかし、各自が胸に手を当て、自分のなかに潜む差別意識への固定観念はないのか考えたことがあるだろうか、と思うのです。ちなみにぼくにも染みついた固定観念はあるかも知れません。現在のぼくは妻と二人暮らしです。食事は8割方妻まかせですから(昔問題になった)「ぼく食べる人」です。風呂掃除や犬の世話、地区の人足仕事、その他はぼくです。テレビのチャンネル権は妻で、新聞先に読むのはぼくです。その他、福祉の仕事も対外的なことや、力仕事や汗をかく仕事は主にぼくがやり、利用者さん個々の世話や相談ごとは主に妻がやっています。家計はぼくの個人口座以外は妻が仕切っています。もちろんほかにも日々様々なことが起こりますが、自然に区分けして対応しています。こういうことは、わが家に限らずどこの家庭でも多かれ少なかれ分担しあってやっていることではないでしょうか。なかには「わが家は炊事洗濯、すべて分け合っています」という人も身近にいますが、それぞれの家庭の考え方で良いのではないでしょうか。但し、夫婦が互いへのリスペクトしあう気持ちがなかったら、どんなに理想といえる役割分担をしてもどこかに負荷がかかり、壊れやすいものだと感じています。ところで、国会から集落の会議まで圧倒的に男が多い。これは是正しなければなりません。規則で半々にするくらいのことをしてもいい。ところが地区の会議などへは妻は出たがらない。奥ゆかしいからではありません、退屈だからです。退屈な会議などへも女性はどんどん出て貰いたい。そうでなかったら、日本は永遠に世界水準の女性参加を果たせません。ええ、「お前に言われたくない」とあなたが仰りたいことは重々理解しているつもりです。
2021.02.19
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森喜朗氏の「女性蔑視」発言が世界にまで飛び火して波紋を呼んでいるが、ぼくは森氏の発言内容を正確に読んでみたのだが、正直、なぜこんな大問題に発展したのか理解できない。などと言うと、「お前も、女性蔑視論者か!」とお叱りを受けそうだが、自分はフェミニストだと自認している。森氏が辞任に至ったとしたら、自動的に東京オリンピックも中止に向かう可能性が高い。ぼくは利権まみれ、金まみれのオリンピックには批判的立場であり、オリンピックが出来なくなることになんら異議はない。しかし、この大会のために大袈裟ではなく、人生を賭けて血の滲むような努力してきたアスリートたちの落胆を思えば、この失言騒動というつまらないことで、その思いや希有な才能を勝ち得たアスリートたちの人生を踏みにじるようなことになるのではないか、という別の感慨に囚われてしかたがない。それと批判者は“森発言”を正確に聞き取ったうえで批判しているのだろうか?たしか彼は以前にも男の風上にもおけない数々の重大な失言をしている。例えば「子供を一人もつくらない女性の面倒を税金でみなさいというのはおかしい」だの、フィギアスケートのA選手には「見事にひっくり返った。あの子、大事なときには必ず転ぶ」だの、何様だというくらい馬鹿な“ホンネ”を吐いてきている。こんなバカな老人にへりくだって重用(悪用?)してきた人々にも反吐がでる。しかし、今回の発言を筆記した文章を冷静に読んでみると、なぜこれほどまで大騒ぎするのか理解できない。皆さんは以下の文章を読んで、失言癖の彼の言葉としての“女性蔑視”として大騒ぎすべき部分がどれほどあるのだろうかと思う。(引用)女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますがラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(一同笑い)。5人います。女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、「女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困る」と言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこと(を言った人)もあります。私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を射た、そういうのが集約されて非常に我々役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。(を言った人)は、文脈から筆者が追加あるいは、ぼくに日本語の読解力が足りないのだろうか。何となく、世界中が誤読の尻馬にのってしまったように、ぼくには感じてしまうのだが…。*※以下は「なぜ、このような経過を辿ったのか」へのぼくの考察です。当然ながら、森喜朗氏は「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」の会長であり、7年間も組織委員会のトップに君臨して東京オリンピックの準備を進めてきた人です。「女性蔑視とされる発言」が飛び出したのはJOCの評議会でのことです。山下泰裕JOC会長も同席していたとのこと。その内部では「発言を止めたり、咎めたりする声がでなかった。」ということは、発言趣旨の妥当性はともかく、JOCの同席したすべての役員も発言内容を否定しなかった、ということになります。だとすると、森喜朗氏本人のみならず、同席していたメンバーが責任をとるべき話となるのではないでしょうか。すべて入れ替えてオリンピックを開催することなど、どう考えても無理だと考えます。もっと穿った見方をすれば、国民の8割もが「東京オリンピック開催は断念すべき」としているものを強行することに無理があり、「森会長の女性蔑視発言」は、中止のきっかけを伺っていたときに出た、格好の材料として炎上しており、これはもはや沈静化することはない、とぼくは考えたのです。もちろん、日本プラス数カ国での「形だけのオリ・パラリンピック」という変則技が出ないとも言い切れませんが…。
2021.02.11
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高遠と会津藩のつながりを追って、猪苗代町を訪ねたとき、案内してくれているガイドが、ふと遠くの山を指さし「あれが、安達太良山です。智恵子抄の…」と、つぶやいた。 あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川。 (高村光太郎「樹下の二人」より)悲しいほどの美しさの中に、光太郎と智恵子がいた。この光景をあまりに美し過ぎると思い出したのは、いつの頃だったろうか。青春時代に初めて手にした「智恵子抄」は、ぼくに、男と女の、夫婦の、永遠化された愛を告げ、豊かな感動で包みこんでくれた。智恵子について思う時、二つの絵が浮かぶ。平塚らいてうを中心に創刊された女性のための雑誌『青鞜』の表紙絵。衣紋に掛かった着物を構図した中央に顔だけ横を向いた女の立ち姿。エジプト風の女の顔は、美しいというより意志的で、長い髪は三つ編みにして腰まで垂れている。手に薄物を持ったこの女性は裸体であろうか。画家は青鞜社員の長沼智恵子。もう一枚の絵は、智恵子の切り絵である。狂った智恵子が、ただ光太郎に見せるためにだけ切り続けたと切り絵の繊細で優美な数々。「智恵子抄」と『青鞜』の表紙絵、切り絵の三つの交点がぼくの内で智恵子の像を結ぶ。智恵子は、福島県に生まれ、生家は酒造業を営んでいた。明治三十六年、日本女子大に入学、家政科に進む。卒業後は油絵を学び、二十六歳の時に、アメリカ・ヨーロッパの留学を終えて帰国した光太郎を知る。智恵子の側から、むしろ積極的に近付いたという。大正二年、二十八歳の彼女は光太郎を迫った上高地で結ばれる。翌年に結婚、次々と制作を続ける光太郎の妻として、また光太郎のモデルとしての生活の中で、智恵子自身の絵は断念される。よき妻でありたい思いだろうか、自分より優れた芸術家との生活は、智恵子に、絵筆をとらせる情熱と自信を失わせていったのだろうか。昭和四年に生家の長沼家が破産する。ショックが続き、七年に自殺未遂を図るが、このころから狂っていく。昭和十三年十月五日、切絵干数百点を遺して五十三歳の生涯を閉じる。「智恵子抄」は、二十八篇の詩を中心に昭和十六年に出版される。そこには、さまざまな智恵子がいる。花鉢を抱えて光太郎を訪れた智恵子、恋愛の高まりのただなかにいる智恵子、性愛の歓びに命を燃やす智恵子、芸術家の妻としての日々を生きる智恵子、東京には空がないという智恵子、九十九里の浜辺でちどりと無心に遊ぶ智恵子、人間世界の切符をもはや持たない智恵子は、光太郎から手渡されたレモンを噛り、一瞬正常に戻り「生涯の愛を一瞬にかたむけ」て息絶える。智恵子を看取る光太郎の苦悩や涙や愛情にいささかの疑問があっても、書かれた詩に素直な感動が広がる。が、やはり、この「智恵子抄」の光景は、夫妻愛というには余りに美し過ぎる。智恵子の狂気に、ひたむきに愛してしまったがために、相手のエネルギーに巻き込まれ、食い尽くされ、崩壊していくしかなかった芸術家の悲鳴を聞く。実生活では封じられてしまった才能を、豊かな感性の表現を、狂った智恵子は切り絵に托する。智恵子が智恵子であるためには狂うしかなかったとしたら、センチメンタルに過ぎようか。狂うことで、あのおびただしい切り絵が残った。そして、智恵子の狂気すら養分として開花していった光太郎を思う時、この美し過ぎる愛の風景に、ひとりの女の無残で荒涼たる姿が現わしれてこよう。
2021.01.22
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ぼくは、10年ほど前から川柳より短歌をつくっています。理由といえば、14文字多いぶんだけ集中力がいらずラクだからです。脳が硬化してきて、ギュッと集中したまま思考を凝らすことが苦痛になってきました。このたび、自作川柳のなかからひとつ出しなさいとさるお方から命じられたので、久しぶりにノートを開いたのですが、よくもまあ妄想したものだという句ばかり…。しかし、自分の句は絞れないものです。あてずっぽうに下記の句を選んでみました。皆さん、眼鏡にかなったものがあったら、3句ほど選んでみてくれませんか。*僕たちのあたまに乗せてある葉っぱ色即是空色即是空はなまつり父さんが歓び組じゃいけないか待ちなさいいま愛情を泡立てるお風呂から出なさい恋は冷めている一期一会の蝶もつれあう観覧車水の輪の寂しいあたり 身を入れるアラジンのランプ擦ってやくたたずひかりたどれば新宿地下のダンボールスルメ焦がして思想なんかにむせている自己弁護語彙をとりだす小銭入れまぼろしをみせあいながら酔っているサーカスの大きな影に蹤いて行く居合い抜きボーイソプラノ放つなり
2021.01.14
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手放しで喜べない年の初めですが、今年も宜しくお願いします。どうやら「新型コロナ」は今年中に収束せず、ワクチンも一般市民に行き渡るのは今年中には無理のようですから、長期戦を覚悟しなければなりません。基礎疾患を抱えた人や高齢者、循環器系に問題のある人、虚弱的体質の人はひきつづき用心に用心を重ねる必要がありそうです。しかし、インフルエンザなどと比較しての死亡率をみると、特別危険な病気ということでもなさそうなので、普通の人はソーシャルデスタンスをしっかりとっていれば、それほど怯えて暮らすこともないでしょう。という一般論はさておいて、あの「GoToキャンペーン」とはいったい何だったのでしょう。GoToによって、全国各地にウィルスをばら撒く結果になったことは明らかですが、もしかしたら政府の深謀遠慮の政策だったという疑いをぼくはもっています。今後、PCR検査体制が拡大強化されたとしても、もはやコロナウィルスの拡散阻止はできないレベルに達していると感じています。とすると、「集団免疫獲得」という選択肢も考慮されていたのではないかと感じるのです。国民の7割程度が集団免疫を獲得すれば、コロナは終息するといわれています。しかし、そこに達するまでに膨大な犠牲者がでることが予想されます。その犠牲者とは、上記にあげたような社会的身体的弱者です。冷めた見方をすれば、税金を多く消費する層になります。若く健康な人が生き残って、金食い虫の高齢者や病弱者が減ることになれば、政府財政にとって一石二鳥の効果をもつことになります。その中にぼくも入ります。果たして、そこまで考えるのはげすの勘ぐりかも知れ間せんが、世間では結構本気でささやかれているのです。
2021.01.02
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14年余を一緒に過ごした愛犬ハナが死にました。この14年はぼくにとっても人生の転換期にあたる時季だったこともあり、この犬と過ごした日々は、とりわけ思いで深い歳月でした。家族でもっとも親しく本音で語り合えたのが犬のハナだったと言っても大げさでないかも知れません。誰もがペットとは、人間同士とはまた違った感情で繋がるものではないでしょうか。イヌフグリ可愛い花と呼びたれば愛犬「ハナ」が尻尾振りけり花道を「お疲れですか」と言いたげに足を止めつつ犬は振り向く犬を連れ言葉探しに出てゆけばモグラの穴を見つけてばかり同じ道決まったコース散歩するそれでもハナは嬉嬉とはしやげり穫れたての野菜もらへる農道を犬と散歩の順路としたり丹精の花壇のなかに愛犬の暑さしのぎに掘りたる寝穴もうひとり入れる傘を独りさし犬と歩ける秋のなが雨落葉松の径は木枯らし色なりて霧出づ森にハナを放てば孫よりもわれに懐きし犬をつれ紅葉の径を下りてゆきぬ秋の真夜酔ひてかへりしわが影をいつより知るや尾を振る犬は命尽くときに小さく尾を振れり蝋燭の炎も吾家の犬も現世を絶つるがごとく吐息して愛犬ハナは晩夏に死する
2020.10.20
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最近は、詩のほか短歌を書くことが多くなりました。川柳ほど産みの苦しさがなく、思いつくままに書きつづければ一晩に10首か20首くらいは湧き出てきます。自分のも人のも読んであまり面白いと感じないのですが、書いて面白い文芸だと感じています。相聞歌など書くこともなくなったのが残念ですが…。 *なにごとか暑き夜半に気配して座敷童のごと妻の在り真夏日を救急音の過ぎゆけりこの世あの世を分かたむ音か溢れでて清く零るる瞳もつ君よこのまま大人になるな昭和なるオモシロキ世を生きたこと点滴のやうに君に語りぬ生きし道ほの明るきは若き日の恋得しときと捨てしときなど睡蓮の花に触れたる冷たさは母逝きし日の掌の冷たさよ誰彼を憎みしこともうすれゆきやまゆり園に起きし惨事もにんげんも電信柱も直立しハチガツムイカ黙祷をせり新霊の門を出ずれば小雨きて傘をさすときに人うつむきて昏れ時の職場の窓を開け放ち夏病みの風招き入れたり歌詠むに倦みたる吾と一日に倦みたる妻とテレビながむる
2020.10.04
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安倍政権の7年余りとは、何であったか。それは日本史上の汚点である。『論座』に発表された、「安倍政権の7年余りとは、何であったか。それは日本史上の汚点である。」から始まる白井聡氏の文章について、“我が意を得たり”の思いで読んだ。全文は、リンク先から読んで戴きたいのであるが、戦後75年を振り返っても、これほど酷い政権は前例がなかった。自民党の長期政権の間には、田中角栄の「ロッキード事件」など、日本を震撼させた大事件は幾つかあったが、それとて“清濁あわせのむ”の部類で、私欲の一方で「天下国家のためなり」という言葉を納得させるものを持ち合わせていた。しかし、安倍政権によって行われてきたものといえば、天下国家をも私物化、食い尽くすかの政権運営であり、歴史の改竄をふくむ国民の分断でもあろう。それでもこの政権に高い支持率を与える仕組みをつくってしまった罪は、主要マスコミにも国民にもあろう。
2020.09.01
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よその自治体のことなので「ご愁傷さま」としかいえないのだが、日本の首都といい二番目の都市といい、そこに暮らす方々は、新型コロナ以上に汚染された毒素に集団感染してしまったのではないだろうか。最近『女帝 小池百合子』を読み終わったから言うわけではない。以前から、小池百合子のいかがわしさに気付かず、化け猫か妖怪タヌキの媚態にコロっと参ってしまう人々の無邪気さに呆れてしまっているのである。 テレビカメラの前ではアスベスト(石綿)被害者に「崖から飛び降りますよ」と決意を口にし、笑みを浮かべて対応した小池環境相(当時)だったが、後日国会で「その言葉は使っておりません」と平気で言う。被害者は傍聴席から「嘘つき!」と叫んだ。 地元・芦屋の女性たちが阪神淡路大震災の陳情に行くと小池氏は指にマニキュアを塗りながら一度も顔を上げずに応じ、「もうマニキュア、塗り終わったから帰ってくれます? 私、選挙区変わったし」。 築地中央卸売市場の豊洲移転に反対した、仲卸業の女性は小池氏の演説に感動し「ジャンヌ・ダルクになってくださいね」と訴えた。しかし小池氏はテレビカメラも報道陣もいない場所になると「ジャンヌ・ダルクはね、火あぶりになるからイヤ」と笑顔で言った。女性たちは何を言われたのかわからなかった。
2020.07.06
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これは、首都圏の病院に勤務する、ある看護師さんの書いたものです。以下引用文…………………………………新型コロナウイルスに関係する内容の記事です。新型コロナウイルス感染症については、必ず1次情報として 厚生労働省 や 首相官邸 のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。医療の現場から四谷三丁目2020/04/09 16:26頭がおかしくなりそうなのでしたためておく。私は医療職に従事している人間である。看護師だ。専門職ではあるものの、この歴史に刻まれるであろう混乱の中で私の有する専門性や経験値など紙切れ以下の価値もない。現状、私は「たまたま医療職に従事している一般人」であり、これは専門性を有する人間からの警告などではなく、ただならぬ混乱に巻き込まれた一般人の雄叫びである。そのように受け止めてほしい。私が勤めているのは首都圏の「けっこう大きな病院」である。今回の新型コロナウイルス感染症騒動の初期も初期から感染症対応病床で患者を受け入れていた。まあ来るよね、としか思わなかった。2カ月半前、もう遠い昔のように思える。その後も、どこかで集団感染が発覚する度にそこから患者が運び込まれてきた。そのことに関して誰も動じたりはしない。みんなそれなりに、「けっこう大きな病院」に努めている自負みたいなもんも持っていて、周囲に心配されたりすると「まあまあ、うちには来るでしょ」とか、なんかちょっと格好つけた返事をしていた。当たり前ながら感染症対応をしている病棟は大変なようで、要請があればうちの部署からもヘルプを出していた。資材管理科からは「マスクの減りが早すぎるんだけど、盗んでる人いるでしょ?!?!」とお怒りのメールが届いた。「メルカリで転売してんのかな?」と笑いながら、みんなマスクは午前と午後で付け替えていた。そんな状態が1カ月半ほどは続いただろうか。3月半ば過ぎごろから、明らかに様子がおかしくなってきた。手術前の精密検査のためにレントゲンを撮ったら肺炎像が写ったという患者がいた。「新型コロナウイルス感染症の特徴には該当していない」そうで、PCR検査は対象外だと。40代のスーパーの店員さんだ。今!この時に!?レントゲンを撮ったらたまたま肺炎が見つかった人がなぜPCR検査対象外なのか、もう“一般人”の私には何が何だか分からないが「新型コロナウイルス感染症ではない」らしい。ちょっと一般人にはもうわけが分からないが、もうそういうことなので普通に対応するしかなかった。さすがに感染症専門医師の診断なので、本当に「明らかにただの肺炎」なのかもしれない。私にその判断がつかないことは明記しておく。ただ、今この国で「肺炎像が出てるので念のためにPCR検査」はできないのだな、ということだけはよくよく分かった。PCR検査対象ではないらしいが、「念のために2週間程度仕事は休んでほしい」と説明したと医師のカルテ記載があった。何が何なんだ??この人はただでさえ大病を患い手術を控えている身で肺炎を発症し、詳しい検査もしてもらえず、「念のため」で仕事を半月休まざるを得ないのである。医者だってできるものならPCR検査をして「ほら、大丈夫だった。症状がないなら働いていいよ」と太鼓判を押したいだろう。それができないのである。おかしくないか??その患者さんに個室で面談を行った。いつもは締め切るドアは、申し訳ないが開け放っておいた。面談が終わったあとは念入りに手を洗い、部屋中を消毒し、マスクは即交換した。「3月中には安定する見込み」とのお触れだったマスクの供給はまだ不安定なようだ。相変わらず減りが早すぎるということで、そこら中にあったマスクの箱は管理職のデスク横でまとめて管理されるようになっていた。「くれぐれも大事に使ってね」と、資材管理科からお達しがきた。混乱が始まっていた。3月末、某日。突然「非常事態!マスクの使用制限!」と巨大フォントを使った院内メールとポスターが届いた。突然。あまりにも突然だった。「使用制限3日間で1枚、対象は全職員」と記載してある。昨日まで午前と午後でマスクを取り換えていた御身分である。何が何だか分からない。何が何だか分からないので憶測でしかないが、「1日1枚」の制限等も吹っ飛ばしての「3日に1枚」。これはアテにしていた供給がぶった切られでもしたんじゃないかと憶測している。何がどうしてそうなったのかも含めて、100%の憶測であることは明記しておくが。何が何だか分からないが、その日から現在に至るまで、全職員マスクは3日に1枚である。マスクを3日間ロッカーで取っておくなんて所業ができそうにもないガサツな外科医たちのマスクが日に日に毛羽立っていくので、「ちゃんと制限守ってるんだな…」と夢でも見るような気持で見つめている。気づいたときには、混乱のただなかにいた。交通事故で救急搬送されてきた患者のCTを取ったら「新型コロナウイルス肺炎像」が写っていた。即PCR検査を行ったが陰性だったので、感染管理部いわく通常通りの対応で、とのことだ。麻酔科医師が何も言わずに陰圧換気手術室(感染症対応手術ができる部屋)をオーダーした。N95マスクに防御シールドを身に着け完全防御態勢の麻酔科医師。通常通りでいいと言われたので、通常通り入室する外科医。どうしていいか分からず、とりあえずシールドだけ身に着けてみる看護師(N95は貴重)これはまあ、「うちの職場の統率」の問題かもしれない。でもそもそもが、その辺で事故った人のCTに新型コロナウイルス感染症らしき肺炎像が写る、というレベルのなのだ。もうそういう状況だ。そういう状況の中で報道された「全世帯に布マスク2枚配布」である。四谷三丁目は激怒した。怒りで全身溶けそうだった。いや、過去形ではない。怒りで全身燃えて消し炭になりそうだ。まだ撤回されていない。何が何でも撤回されるまで怒り続けねばならない。この状況で!この状況で!何百億円もかけて!!!布マスク2枚配布!!!!何に激怒するって、この状況下で200億?400億?かけて「一世帯に配られる布マスク2枚」が明らかに「気休めにしかならない」という点である。いや、個人的には気休めにもならないが。国から布マスクが配布されて心の安寧を得られる人もいるんだろうとは思う。ただ、この状況で、「その辺で事故った人のCTに新型コロナウイルス肺炎像が写る」という状況下で、政府が肝入りでやることではない。絶対にない。私は今この状況に対する専門知識など持たない一般人だが、「1世帯に2枚配られる布マスク2枚」に何の医学的エビデンスもないのは分かる。この状況下で何百億円も投じて、おそらくなんの医学的根拠もない「気休め」を行おうとしているのだ政府は。ちなみにWHOが「この際、布マスクでもしないよりマシかも」と言い出したのはマスク2枚配るよ発表よりも後だからな!!!!死ぬほど結果論だ!!!!!!あまりにもあまりにもお花畑な思考に激昂している。何であろうとやらないよりもマシ???何を言っているのか私にはもう分からないが、「無駄金を投じる」ならやらない方がマシだ。私はそう思う。200億だか、400億だか、まあ医療現場に十分なマスクを届けるには足りない額なんだろう。……え?本当に??400億だぞ??……もしどうしても余っていて使い道がないというなら製薬会社にでも突っ込んでくれないだろうか。そんなことないと思うんだが。軽症患者の隔離施設を建てるのでもいい。布マスク2枚、届いてしまったらどうしようと色んな意味で震えながらこれを書いている。本当に!!!!頼むから!!!!1ミリでも医学的に有用なことに使ってくれ!!!!!!今現在わが身が危険に晒され、失なわれていく命を見つめるしかない立場からの叫びだ。怒りで溶けそうになりながら色んな意見を拝見した。「一般市民には布マスクを使ってもらうことで医療用サージカルマスクを確保する」「政府は1500万枚の医療用サージカルマスクを確保している」という記事全文も勿論読んだ。配ってから言ってくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!今!!!現在!!!!!!現場には1枚も届いておりません!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!「近日中には」はもう!!!!!!!!!!!!聞き飽ききた!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!正直めちゃめちゃ腹が立つので政府への批判に対して「医療の現場」を人質に取らないでほしい。同業者ならまだしも、門外漢なら尚更だ。政府批判していたら「医療現場のため」と反論されて委縮してしまった方々、安心してほしい何も届いていない。ねえねえ、うちのマスクが突然供給ぶった切られたのどういうことなんだろうか?(100%の憶測です)4月初め。当院で最大80名の新型コロナウイルス感染症患者の受け入れが決定した。看護部長から、「戦中か?」みたいな激励メールが届いた。空きベット確保のために患者の大移動を行った。無理やり色んな病棟に詰め込まれていく患者さんたち。手術の制限も始まっている。何カ月も待機して、やっと順番が来た患者さんたちの手術が次々延期されていく。引き続き、全職員マスクは3日に1枚である。仕方がない。ないのだ。本当にないのだ。何十人患者を受け入れる病院であろうと、それが行政の指示であろうと、ないものはないのだ。「自分の命が軽視されている」ことにようやく気付いた。なんだこれは、なんだこれは、と混乱し続けていたがそういうことなのだ。今、この国から、医療職は「死んでもしょうがない」と思われている。そういう扱いを受けている。もちろん、医療職だけではないだろう。分かっている。何より、「新型コロナウイルス肺炎疑い」であるにも関わらずPCR検査も入院もさせてもらえない患者さんたち、彼らの危機と苦しみには比較しようもない。本当に心が痛む。ただ私は、「自分の命が軽視される」という初めての体験の渦中で新鮮な動揺と怒りの中にいる。自分の“医療従事者”としての核が、揺らぐのを感じる。HIVだろうと、結核だろうと、どんな感染症も気を引き締めこそすれ怖くはなかった。私はそれを生意気にも「医療従事者としての自負」みたいなもんだと思っていたがどうやら違ったのだ。あれは、医学的根拠に基づいた万全の対策がとれ、万が一のことがあれば迅速に処置を受けれられるという“安心”があってのものだった。わが身が危険に晒され続ける状況で、初めてそれを悟った。こんな悟り一生いらんかった。「片っ端からPCR検査をしたら医療現場が崩壊する」と言っていた皆さま、突然「1日2万件に増やそうかな」と言い始めた政府には「医療現場が崩壊するよ!」と反論するんでしょうか。本当に、めちゃめちゃムカつくので勝手に「医療現場」を人質に取らないでくれ。現場の声を聞く気もないくせに。めちゃめちゃな怒りを込めて初めて丁寧に首相官邸にご意見メールを送った。推しアニメのイベント運営がぐだぐだ過ぎて公式にご意見メールを送った経験がこんなところで生きるとは思わなかった。こんなん一生いかしたくなかった(メールフォームはこちら!https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html先日、重鎮たちの会議後のホワイトボードに「●●メディカルから2300枚のマスクを確保」と書いてあった。当院、看護師だけで1000名である。笑えてくる。いまだに布マスク配る気満々らしい政府が、この次の波であろうN95やプラスチックガウンや手袋の不足に対応できる気は到底しない。すぐ隣の病院は、すでに「手袋の使用制限」が始まったそうだ。気が遠くなってくる。怒りでほとんど消し炭になる中とび込んできた、「客室乗務員が防護服縫製」についてはあまりにも斜め上すぎて判断がつかない。現場の人間としては「適正な医療用製品」が一刻も早く届くなら、それで首を切られる人が減るということならもう何だっていいが。縫製…?縫製…?あのですね…ウイルスに対して医学的根拠のある製品じゃないと意味ないんですが、私だって身に着けたくないですが、そこは流石に分かってますよね…?マジで「千人針」とかのレベルで話をしていないよね…??正直わけが分からな過ぎて何も言えない。政府と航空会社さんでどういうお話をしたのかは私なんぞには憶測のしようもないですが、それを着て現場に立つのは私らなのである。できたらプロユースでお願いしたい。ア゛ア゛―――――――――――――――――――もうア゛ア゛―――――――――――なんなんだこれはぁ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーふざけんじゃねぇぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!怒れ怒れ怒れ怒れ!!!!!!!!!!!!!!みんな怒れ!!!!!!!!!!!!!!!!!マジで!!!!!!!!!!!!!!!!!気合を入れて怒ってくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!医療職だけじゃない!!!!!!!!!!!!!医療職だけじゃないだろう!!!!!!!!!!!!私には医療現場のことしか分からないが、今この国で愚弄され徒に危険に晒されている職が、集団が、人々が、至るとこにいるのは分かる。怒ることができる人、怒ろう。頼むから。怒ってくれ。あなたの怒りを言葉にして教えてくれ。届けてくれ。おかしい。今この国で起こっているありとあらゆることが本当におかしいのだと、自分の命が軽視されてようやく気づいた人間からのお願いだ。福祉国家に税金を納めているとそれでも信じていたのに。本当に「黙っていたら殺される」と真に恐怖を感じ始めている。このままだと50年後、「新型コロナウイルス感染症の尊い犠牲者」として碑に祀られ首相が参拝しかねない。冗談じゃない。マジでマジで冗談じゃない。布マスク代400億円が、この国に住む人々が生き残るために適正に使われるまで、私は怒り続ける。最後に。とても当たり前のことを書き記しておく。「患者を救えない」のは、医療従事者にとってこれ以上ないほどのストレスです。苦しみです。高尚なことを言うつもりは全くないですが、私たちは少なからず「人を助けよう」という気持ちをもってこの職についています。「手の施しようのない人」が増えるたびに、苦しみは募っていくのです。状況に全くついていけず、「肺を移植したら助かりますか?」と泣きながらすがる家族を目の前にして、対応するのも、医療従事者である。そういう意味でも、私たちはそろそろ本当に限界だ。どうかどうか、声をあげてください!命を守るために。 医療従事者
2020.04.17
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―日本の古典芸能を海外に―プロジェクトより新型コロナウイルスの感染拡大で、飲食や接客業だけでなく演奏や指導などの営業活動で生活している芸能者や、アーティスト、小さなコンサートホールや美術館や博物館なども苦境に立たされている。感染リスクを考えて、演奏や指導の場が中止となって収入がまったく0の状態になっているアーティストや芸能団体が多く、とくに集団で活動する日銭暮らしのような弱小団体は悲鳴もあげられないのが現状のようだ。“文化はムダのようで実は命の根源である。ただ生きるためなら、最低限衣食住さえあればコト足りる、というのが合理的な考えであろう。極論すれば、古代にさかのぼって体に布きれか毛皮を巻き付ければ衣は足りる。木の実を拾い食草と蛙か虫でも食料になる。穴を掘れば住むところはできる。濁った水で生きている人々もいる。たとえば歌はなくても…、料理は盛り付けしなくても…、なにも着るものにオシャレしなくても…etc。生きるだけなら可能かも知れない。しかし人類は、さまざまな工夫を重ねながら日々の暮らしを充実させてきた。そのことにより、人々はどんなに励まされ、勇気や生きる希望を与えられてきたのだろう。冷たく澄んだ水のように喉をうるおす一滴が、どれほど人々の命をながらえさせてきたのだろう。そのあらゆる文化や潤いが、瀕死の危機に直面している。政府の補正予算案では、文化芸術関係者への支援も打ち出されているようだが、コロナ関係予算案はそのどれもが使えるためのハードルが高く、現実性に欠ける。たとえば芸術大国のフランスでは、リステール文化相が、「我が国が直面する未曾有の危機は、文化へ従事する人々に大きな打撃を与えた。私たちは彼らの生活を保障するために、あらゆる手段を尽くさなければならない。かかっているのは、私たちの文化モデルの将来である」と声明し、音楽分野だけでも、第1段階として1000万ユーロ(約12億円)の予算を提示している。ドイツはもちろん、イギリスなど経済的な苦境にある国もつぎつぎに自国文化救済に大きな予算を計上している。再度強調するが“芸術・文化はいのちの根源”である。気づかずも清らかな水の一滴に生かされてきたのである。落語家の立川談四楼が「安倍さん、世界中が大変なときなんだから武器を買う話はなかったことにしてくれとトランプ大統領に…」と言っていた。それにならうと、在日米軍関係の経費負担(思いやり予算)などだけでも莫大な負担をしているうえ、F35については147機6兆2000億円という爆買いを約束している。防衛関連予算が、“国民の命と財産”を守るためにあるとしたら、今こそコロナから“国民の命と財産”を守るために、不要不急な国の支出を、今生き延びるのに困難な国民のために回すのが、国民の忖度に応えることではないだろうか。ことに、見過ごされがちな文化や芸術への支援を忘れたら、それこそ禍根を残すことになることに思いを致して欲しい。今度こそ、有言実行を!
2020.04.13
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「日本」に限らず、国というアイデンティティの基本は言語でもある、と思う。人間同士、互いを理解し尊重し合う基本は言語であって、これが不十分であるとコミュニケーションに齟齬が生じたり、ときに誤解などから諍いに発展するなどということもある。さて、「自殺官僚の手記」の感想を述べた安倍首相の言葉は、正しい日本語として述べているようだが、間違った使い方をしている。「財務省で麻生(太郎)大臣の下で事実を徹底的に明らかにしたが、改ざんは二度とあってはならず、今後もしっかりと適正に対応していく」まず、この事件を語るべき核心部分には自分たち夫婦がいる。自分たちが関わったかどうかが問わた事件で「事実を徹底的に明らかにした」と言う言葉に、納得できた「日本人」がどれほどいたのだろうか。「しっかりと適正に対応」したという言葉に、納得できた「日本人」がどれほどいたのだろうか。なぜ「改ざん」が必要となり、したのか。不本意な「改ざん」を指示された人間がなぜ死に追いやられるほど“嫌な仕事をせざるをえなかったか”。当事者だから、「解明して明らかに」することはできたはずだが、まるで他人事のようだ。つまり、「日本語」を使えていない。あるいは、わざと間違えている。ここでも事件当時の“改ざん”と同じことをしている。これが「日本語」をつかったと言えるのか。これに近いことは、国会でも蔓延している。直近では、森法務大臣の答弁がいい例だ。こうした考え方に異論のある人もいるだろう。それでも首相の言葉に沿って援護する人もいることは仕方がないとは思う。たとえば、どんなに陰湿で冷酷な事件を起こした犯人だとしても、その肉親にとっては「そんな筈はない。あんな事件を起こすような子ではない。私は信じている」とかばいだてをするだろう。しかし、心のなかでは葛藤に苦しみ、「どうか、何かの間違いか悪夢であって欲しい」と願うことだろう。それが、近い者の心情ではなかろうか。安倍政権が、4割近い支持率を維持しているのも、こんな肉親に近い心優しい人々に支えられているからだろう。しかし先の例でいえば、“肉親の情のような行き過ぎた”優しさゆえに“普通だった人”を凶悪犯にまで育ててしまった一端となっていることを、しっかり自覚して欲しいものだ。伊那市ますみヶ丘(2019.4)
2020.03.19
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