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昨日は久しぶりに、パチンコに行きました。今、流行のスロット台で結局、2万円ほど勝つことが出来ました。別に、お金儲けが目的ではなく、ギャンブルというものを楽しむためにたまにスロットを打ちに行くのですが、いつもこのギャンブルの時間を過ごすことで、人が持つ本来の欲望や満足感と言うものの面白い部分を実感します。人は、ゲットつまり、大当たりやフィーバーを引き勝ってお金を手にする満足感を得るために投資でお金をつぎ込んでいるように思えますが、実際は違います。大当たりが出ればいいのに・・・・次こそ出るんじゃないかな・・・という期待感が楽しくて、お金をつぎ込むのです。お金を増やしたいだけなら、ある程度の計算をし、必要以上に負けることはしないはずです。しかしギャンブラーはトータルで勝てないことを知った上でギャンブルにお金を使います。そういうことからも、ギャンブルは金が欲しいと言う願望だけでするものではないと言うことがわかります。よく自分のパチンコやスロットをしているときの感情を分析すると、一番面白く熱くなっているのは、腹を立て、文句を言いながらでも、出ていないときです。そして大当たり、フィーバーを手に入れた瞬間をピークとして気持ちはどんどん冷めて行きます。当たった瞬間の数秒は、かなり興奮しますが、それはほんの一瞬です。逆に期待に胸を膨らませている当たるまでの時はそれまでの長い時間熱い気持ちを継続することが出来るのです。それが楽しくて、お金をつぎ込んでしまい、また癖になってしまいます。人にとっては、手に入れる「ゲット」より、欲しがる「ウォント」のほうが大切なことなのです。ゲットしたいために起こる感情ウォントは人のエネルギーとなり、パワーをみなぎらせます。しかしゲットが頻繁に起こるとどうでしょう・・・・パワーは落ちていく一方だと思います。格闘技などで、ハングリー精神という言葉をよく使いますがそれも、権力や金銭に対してのウォントによって起こるパワーのことをさすのだと思います。人は常に不満を持ち、愚痴や文句を言うものですが、逆にそれこそがエネルギーの源なのかもしれません。昔、米米クラブの歌に「会いたいと思うことが何よりも大切だよ・・・・」と言うフレーズがありましたが、その気持ちよくわかります。会うという行為より、会いたいと思う気持ち、夢を手に入れることより、夢を追いかけると言う行為、お金持ちになるより、一生懸命お金持ちになるために仕事をすると言うことのほうが間違いなく人を駆り立てるのです。なかなかゲットにたどり着けないもどかしさこそが、楽しむと言うことには大切なことなのです。ゲットする瞬間の快楽の大きさはそれまで費やした時間の長さに比例します。その快楽を知っている人ほど、その時間を費やす楽しみを知っているのです。我慢の後には快楽がある。ある意味人は、その快楽を常に求め続けて生きていくのかもしれません。不景気と言いながら、パチンコ店には人はあふれていました。3万や4万、負ける人もざらにいると聞きました。スーパーでは10円でも安いものを探す主婦が、ギャンブルには平気で万単位のお金をつぎ込むと言うことも聞いたことがあります。それだけ、人はそういった快楽に対しては貪欲なのだと思います。ギャンブルではなく、ほんとの意味で、そのウォントをパワーにし、負けている時を楽しめるようになれば、人生ももう少し明るくなるんではないかと思いました。文句を言ったり、愚痴を言っているときこそ、本当は自分自身が一番パワーを発揮できる時なんだと、久しぶりのギャンブルからそんなことを感じさせられました・・・
Mar 21, 2004
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今日、何気なく立ち寄った本屋でとても考えさせられる、ある書籍の表紙に出会いました。そこには履き古した運動靴のイラストと3行の言葉が描かれていました・・・・・あるいたり走ったりしておつかれ!!ガンバッテくれてありがとうそう・・・この書籍は、神戸連続児童殺害事件の被害者の母、山下京子さんが、亡くなったあやかちゃんについて書かれたものです。小学校4年生のあやかちゃんが生前に書いた詩がその表紙に描かれていたのです。自分の使った運動靴に、感謝の意をこめて書いたものだと思います。たった3行の子供が書いた詩に、僕は今まで見た、さまざま偉人によって書かれた言葉を超えた感銘を受けました。手にとってその表紙を見ながら、一瞬、涙が出そうになるのをこらえるのに苦労したほどでした・・・事件の加害者であり、最近社会復帰を果たそうとしている酒鬼薔薇を名乗った少年Aの事件当時のコメントが頭に浮かびました。「人がキャベツ畑のキャベツに見えた」同じように、人の子として育った子供なのに、一人は、人間を無機質なキャベツと表現し、命を命とも思わない残酷な行動を起こし、もう一人は、運動靴に対していたわりと感謝の気持ちを表現していたのです。前者が今現在、世の中で人権を守られ社会を生きようとしていて、後者がもうこの世に存在しないと言う理不尽さにやりきれない気持ちになりました。僕は、そういう法律や、人権、については専門家ではないのそれがどうこうと言うことは出来ませんが、この山下あやかちゃんが残した3行の言葉は、一人の大人として、子供や若い世代に何らかの形で伝えたい・・・そんな気持ちがこみ上げてきました。幼い頃、おばあちゃんのお葬式で、僕が問いかけた「おばあちゃんはどこに行くの・・」と言う質問に、やさしい口調で答えてくれた、お坊さんの話を思い出しました。「おばあちゃんは仏様になるんだよ・・・仏様は、形はなくて、色々なところに色々な形になって、君や、君のお父さんお母さん、そして将来君の奥さんになる人、そして生まれてくる子供達を見守ってくれるんだよ・・時には服になったり食べ物になったり、それは机かもしれないし、布団かもしれない、風や太陽かもしれない・・・華であったり、それは君の身の回りのすべてのものに成り代わって役に立ってくれるんだ・・・もし、これから君がありがとう、と言う気持ちが起こったら、そこには必ずおばあちゃんのように死んで仏様になった人がいるんだよ」その当時、ぼんやりとしか意味はわかっていませんでしたが、すべてのものに感謝し、生かされている自分を知りなさいという仏教の教えであったんだと、今になると理解することが出来ます。感謝する気持ちは、つい忘れがちです。ましてや、自分の使っている道具に感謝するだなんて、宗教家でもあるまいに、日常からはかけ離れた概念であると思いがちです。しかし、そこからが、思い上がらない自分を創る第一歩かもしれないとも思えてきました。自分の身の回りに感じる感謝の気持ちをもっと大切に生きて行くべきなのです。昔、僕に説教をしてくれたお坊さんの話が正しければ、僕はおばあちゃんやおじいちゃんといったすでに亡くなった人が僕のために与えてくれているすべてのことを当たり前と感じて感謝の気持ちも持つことなく生意気に生きているに他ならないのです。本屋でしばらく立ち止まって深く考え込んだと、やっと今日がお彼岸であることに気づきました。おそらくこの本屋のこの本を手に取らしたのは、おばあちゃんだったのかとも思えてきました。仕事に追われ、いつもは考えることの出来ない、生きると言うことの意味を考えさせてくれた、この書物と、その言葉を書いた、山下あやかちゃん、そして、そこに自分を導いてくれた、僕の周りで僕を見守ってくれている存在に心から感謝したいと思います。
Mar 20, 2004
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昨日、いつもミスをしてディレクター達から常に怒られている、ADを誘って飲み行きました。面白いもので、彼は常に謝ってばかりいるので、どうもそれが癖になっているのか、僕が会話で何を言っても言葉の最初に必ず「すいません」と言ってから返答をするようになっていました。1年前にはそんなことはなかったのに、この数ヶ月の間に身に付いてしまったものだと思います。「何か食べ物注文した?」「すいません!まだです」「この焼酎美味しいからひと口飲んでみろよ}「すいません!いただきます」「彼女とは上手く行ってるの?」「すいません!最近あんまり会ってないんです」別に彼女に会ってないことを僕に謝られてもなんと言っていいのか・・・人は、毎日行なっている事は必ず、身に付き、癖になり、意識しないところでも出てしまうようになってしまうものです。癖は何かをきっかけにその行為を繰り返している間に、脳や神経がそれはその人にとって必要な事だと認識し、脳を使わなくても行なえるようにシステム化された、いわばオート機能のようなものかも知れません。しかし、そのADの謝り癖のように、癖というものは悲しいかな、不必要なものがほとんどです。この謝り癖は毎日常に怒られるというその人間が持つ特殊な環境が作り出したもので、決してほめられる事ではありません。むしろ、この癖が、逆に失敗を生む環境を作り出しているようにも思えました。常に「すいません」を連発する彼を前にして、この癖というものに出来るやつ、出来ないやつ、もてるやつ、もてないやつ、運のいいやつ、悪いやつを分ける大きな鍵があるように思えてきました。我々は幼い頃から、生活に最低限必要な行為に関しては、習慣付けという教育で身につけ、育っていきます。モノをもらったときに「ありがとうございます」と言ったり。足を踏んだときに「ごめんなさい」と謝ったり。使い終わったら元の場所に戻したり、電気を消したりは、ほとんど無意識に行なえるようになっているはずです。しかし、人間は最低限の教育を受けたもの以外の無意識にとる行動は育ってきた環境によって大きく変ってしまうのだと思います。毎日笑顔で生きてきた人間は、人に対して意識していないときでも笑顔で対応しているでしょうし、逆に、常に喧嘩ごしで生活してきた人は、別に悪意はないのに人に対して敵意を表現している事もあるかもしれません。より多く自分が行なってきていることを脳が、必要なことと認識し、意識しないときはそれを前面に出すようにインプットしてしまっているのだと思います。お金を貯める人と、浪費する人も、性格と言うよりは、今までそうしてきた事が癖になり、意識していてもそれを直せないように神経がシステム化されているのかもしれません。よく性格は大人になってからはかわらないといいますが、これは実は思い込みで、癖だと理解すれば、矯正によって変えていけるに違いないのです。サボる人間は明らかに、これは性格ではなく癖です。おそらく僕自身も、半年以上、働かずに路上生活をすれば、それが癖になり働くと言うことがちょっとやそっとではできなくなってしまうことでしょう。性格はもともとどんな人間も様々な面をもっているはずです。しかしその性格のどの部分を前面に出して、どこを閉じ込めてしまうかは、状況、環境に応じて今まで多く使ってきたものが、これからも必要なものだと認識して身についてしまっているのだと思います、そして、自分の意識では改善できないものとなってしまっているのです。そう考えると、人間は、ある程度は、自分でこうありたいと言う人間になれるような気がしてきました。癖をつけるのです・・・・意識して、自分が言われたらうれしい言葉を人に対して使っていれば、ある一定の期間を過ぎれば、それが癖となり、自分でも気付かないうちに、そういう言葉を使う、感じのいい性格と呼ばれる人間になれるに違いありません。勝ち癖、負け癖、不幸癖などと言う言葉があるように、運も悪かったときの事を引きずると、無意識に不幸のありそうなところへ自分から近寄っっていく癖がついてしまうのかもしれません。幼児がトイレトレーニングするように、自分を矯正するトレーニングを積めば、自分の嫌なところはかなり改善できるように思います。性格を直すと言うと、自分が否定されているようで嫌な感じがしますが、癖を矯正すると考えれば、できない事はないような気がします。意識して、自分が望む習慣を、意識して心がけ、いい癖をつけ、みんなから愛され、尊敬されるそんな、人間らなくては・・・と、ADの謝り癖からそんなことを学びました。
Mar 19, 2004
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今日、新しい仕事のスタッフとの打ち合わせがありました。僕より6年先輩のプロデューサーと話をしていて、その人が持つ一つの経験に非常に興味を持たされました。それは、テレビ業界で世界中のどこに行ったとか誰に会ったなどというありきたりなものではなく、人生について、人の運、不運、について深く考えさせられるめったに出来ることの出来ない経験だったのです。1985年、今から19年前、当時大学を卒業しこの業界に新入社員として入ったばかりでADとして走り回っていたそのプロデュサーは東京でのロケを済ませて、6時12分の大阪行き123便に搭乗のため羽田に向かっていたそうです。ところがロケ車の中で、大変なトラブルに気が付いたそうなのです。インタビューの音が入っていない・・・・・あわててそのディレクターの指示で公衆電話から、先方に連絡を取りもう一度同じシーンを撮影するために、都内へとUターンすることになったのです。当然飛行機はキャンセル・・・・・・そうですそれは真夏、8月12日の出来事。尾巣鷹山に墜落した日航機123便こそがそのキャンセルした飛行機だったのです。そのプロデューサーはその後、ディレクターとなりさまざまなバラエティーを手がけ結婚もし、子供も二人出来ました。その人は、まさに九死に一生を得た、運の持ち主なのです。その人はもう何度話をしたかわからないエピソードを、初対面の僕達に熱く語りました。そして、最後にこう締めくくりました。「僕らはもしかしたら死んでたかもってよく言いますが、僕達が生きていると言うほうがもし、なんじゃないかってよく思うんです。」確かにそうかもしれません。その人にとったら、死んでて当たり前、偶然、音声トラブルがあったから生きているに違いないのです。僕達は、よく「もし」を口にしますが、今生きているこの現状も偶然のたまもの以外の何物でもないのです。私達、この世に生きる人間は、よく、死ぬ確率などを口にすることがあります。一年間におよそ9000人の交通事故による死者、およそ30万人のがんによる死亡者、30000人の自殺者・・・・・総人口から考えると低い確率かもしれませんが、これが毎年、一人一人がその危険性にさらされていると考えれば数字の出し方は変わってくるはずです。また、生まれてきた人と今現在生きていない人と言う計算をすれば、今現在生きていると言うことがどれだけ貴重かと言うことがわかります。明石家さんまさんがよく「生きてるだけでもうけもん」と言う言葉をよく口にしていますが、まさにその通りだと思います。私達は偶然死ぬのではなく、偶然生きているのです。そして度重なる幸運が今の自分を創っていることに気づかなければいけないのです。当たり前のように、人と出会い、仕事をし、お金をもらって生きている。この幸せは、度重なる幸運がもたらしたものなのです。毎年冬には、わが町西成区では、200人あまりの凍死者がでます。ホームレスになってしまう人は、決してダメだからそうなったわけではありません。いつ僕達もその立場になるかはわからないのです。僕達は偶然パソコンの前に座れる立場にいれるだけなのです。そのプロデューサーの体験を聞いて改めて、生きること、普通に仕事をして家庭を持ち生活をすると言うことの幸せを実感することが出来ました。そして、生きていると言うチャンスを、人並みな生活を営めている今の自分の立場をどう活かしていくべきかを深く考えさせられることになりました。毎日の一場面一場面がすべて、「イフ」偶然によって作られていきます。明日も、偶然にいくつ出会うことでしょう・・・・明日も生きていればそれも偶然。一日一日をいとおしく大切に生きていかなくてはバチあたる。そんな気持ちにもなりました・・・・・
Mar 13, 2004
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先日、追いかけ取材中のプロ化を目指す地域密着型バスケットボールチームの練習を見に行ってきました。さすがにプロを目指しているだけあってその技のレベルは素人の僕が見てもかなりの高さにあることはわかりました。サッカーやアイスホッケーを取材したときにも同じ事は感じたのですが、常に、レベルの高い選手と言うのはテクニックもさることながらボールやパックをコントロールしているいわゆるドリブルのときの目線が特徴的です。当然、素人ではないので、どの選手も下を向いてボールに集中しながら、ドリブルする事はないのですが、ワンランク上の選手は常に自分がボールを持っているときに全体を見渡わたせる、視点を持っているのです。一流選手はこういいます。人は前を向きながら次の状況を見ながらでも手元や足元は必ず視界には入っているのに、ボールを持つとそこに焦点を合わせてしまって、前を向かないようになってしまうものだと・・・・まず、選手と呼ばれるようになるにはそのクセをなくし、常に自分の次に起こる状況を見れる目を持たなくてはいけないと・・・どんな事でもその感覚は大切だと思います。何かをしているとき人は、その状況に失敗がないように、ある一点に集中してしまう傾向があるものです。しかし、そこしか見ていない人間はぎこちないと人から見られ、出来る人間とは思われにくいものです。また、その状況は上手くこなせても次の展開には発展させにくくなるはずなのです。男と女が恋をし、肌を合わせるに至るまでの過程でも、うまくそういう状況に持っていける人は、常に次の展開を見ることの出来る視野を持っています。手を握るときに手を見て、キスをするときに唇を見て、愛撫をするときにその部分を見ている人に対して相手は間違いなく警戒心を抱き不信感を持ってしまうに違いありません。慣れている人間は手を握る瞬間には唇を見ていますし、愛撫をするときは相手の表情を見ています。常に、状況判断に必要な情報を仕入れるべく、視野を広げて事を運びます。仕事においてはまさしくこの観点がもてるかもてないかがポイントになります。今やっている仕事をしながら周りを見渡せて、次の展開が読める人間が出来る人間、手元を見ながら仕事をする人間は、ごく普通の人間なのです。当然今、手元にある仕事がこなせないと言う事では話になりません、そこで、そこに気が行ってしまうものなのですが、手元は前を見ていても必ず視野には入っているはず、そこに集中しなくても結果は同じでないとおかしいと言う事に気付かないといけないのです。こけないように足元を見て歩く人は必ず人とぶつかります。常に人は前を向く事で、現在と未来を生きるために必要な情報を全て仕入れることが出来る能力を既に持っているものなのです。集中力と言う言葉がありますが、それは部分に集中する力ではなく顔を上げ、視野に飛び込んでくる全ての景色を情報として取り込む力なんだと思います。調子の悪いときはつい手元、足元に注目してしまいがちですが、大切な事は、顔をあげて、より広い視野を持つこと・・・・見るべきところは前。前を向いていれば、大丈夫。目と言うのは一番いい位置に付いているものです。下を向かずに前を見る。今日を生きながら明日を見る。思っているより、自分の視野は広いと言う事を、バスケットボールというスポーツから学ぶ事が出来ました。結構、スポーツには学ぶべき事は多いモノなんですね・・・・
Mar 11, 2004
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人はエクスペクト(予期する)という能力によって数多くの危険を回避し、幸運を手に入れています。しかし、その反面その能力に頼りすぎると、予期せぬ出来事に対して無防備になり、当たり前の行動すら取れなくなることもあるものです。今朝、牛丼なきあとの吉野家に初めて入りました。朝から豚丼には少し抵抗があったので、納豆定食をたのんで少し遅い朝食を食べ始めたときの事です。店に70代後半の老女が訪れ、いきなり店員に突拍子もない事を言い始めたのです。「ちくわと、大根と卵もらえるかしら・・からしもつけといてね」元気よく受け答えに出た若い店員は、一瞬固まり、その老女に即座にこう答えました。「すませんもう終わったんですけど・・」うそつけ!おでんなんか最初からメニューにないやんけ!心でツッコミながら、しばらく状況を観察していました。老女は、ちょっと曇った顔になり、「じゃああるやつだけ盛り合わせにしてくれる?」と言ったのですが、そこから話が展開するはずもありません。店員は固まったまま、訳のわからない受け答えを続けました。「すいません。盛り合わせはやってないんです」思わず、飲みかけてた味噌汁を噴出しそうになりました。おそらくその老女は、痴呆症気味なのか、コンビニと勘違いでもしているのか、持ち帰りのおでんが欲しかったのでしょう。店員にしてみれば、全くマニュアルになく予期していなかった注文に一瞬真っ白になったのか、パニックになってしまったのだと思います。しばらく、とんちんかんなやり取りが続いた後、老女は不服げに店を後にしました。人は誰もどんな状況においても、おそらくこのあとこんな事が起こるであろうという予測の中で次の行動や答えを準備して生活をしています。ましてや、メニューは増えたとはいえ、吉野家と言う閉鎖された空間のなかで、客が店員に対しては発する言葉は、言い方は変れど40か50のパターンに限られていると思います。そのパターンの中で行動を準備している者にとって、それ以外のパターンが登場したときに対応しきれないのは仕方ない事なのかも知れません。確かに、次の展開を予測して生きること、今までの経験からこうなるだろうという計算のもと準備をする事は大切な事ですが、いつもどこかに、意表をついた出来事が起こりうる可能性も意識しておかなければ、大きな失敗をしたり、大切なチャンスを逃してしまう事もあるんだろうそんなことを考えさせられました。吉野家でおでんを注文され、対応できなかったところで、大きな問題にはなりませんが、養鶏所で鶏が死んでいたのを見て、慌てて出荷をし、責任を問われ、自殺を図ってしまった所長さんの最初の対応を考えると、予期せぬ出来事に出くわしたときの、状況判断がどれだけ大切かがわかります。生活においての行動がパターン化すればするほど、人は瞬発力を失っていきます。今までこうだったからこれからもこうなるはず、そう思ってしまいがちなのです。「予期しにくい事に備える」これは危機管理にも言えることですが、逆にチャンスに対しても当てはめれる事だと思います。例えば恋愛のチャンス・・・・・今まで、出会いは、紹介や食事会、職場など起こりうる可能性が高いところで手に入れてきた人にとって、予期しない場所や、シチュエーションでの出会いは、それが運命的なものであり、一生忘れることのできないものになる可能性があったとしても、その場面に対応しきれない場合が多いと思います。準備があまりにも出来ていないからです。常に、ピンチやチャンスに対してかまえて生きることは難しいとは思いますが、心の片隅に、常にパターンを覆す何かがあるんではないかということを思っているだけで、人生は大きく変っていくはずなのです。精神的に肩の力を抜いた一番楽な構えを自分の中で見つけ出し、様々な状況に対応できる、瞬発力と柔軟性を持って生きていくことで、ピンチを最小限にチャンスを最大限にする事が出来るのだと思います。心配せず、かといって安心せず、現代社会の変化に上手く対応できるちょうどいい精神の構えをもういちど考えてみようと・・・・納豆定食を食べながらそんなことを考えていました。
Mar 9, 2004
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気がつくと、いつの間にか会社で、立場的にも、年齢的にも、下から数えるより上から数えるほうが断然早くなってしまいました、若手と呼ばれていた頃がつい昨日のことのように思えますが、今は間違いなくベテランと呼ばれる位置に立たされてしまっているのです。僕がボクシングで国体に出たとき、同じ大阪代表で開会式の入場行進の列に並んでいた、甲子園球児、清原選手が、今や来シーズンは引退かと言われているプロ選手であることを考えれば、自分の今おかれている立場がわかります。この位置から人を見ると、上も下もすべてを否定したくなるものです。上司を見れば、下手な年の取り方をした、「こんな年の取り方だけはしたくない」と思うようなオヤジが多く、下を見れば「俺の若い頃はこんなに甘くはなかった」と言うようなダメな部下がほとんどなのです。上からの説教は聞きたくないし聞いてもプラスにはならないと思うくせに、部下には説教したくなる。自分はいったい何様と言うくらい自分本位で、自意識過剰、の自分が今現在を生きています。部下に、仕事はこうあるべき、こうでなくてはと言うアドバイスをしようと、言葉を集めて、気づきます、それはアドバイスではなく「こうあってほしい」という部下へのリクエストであると言うことに・・・・人は自分より下の立場、あるいは悩んでいる人にアドバイスとして、その人のために、よかれと思って言葉を考え発しますが、本当は、自分が今まで生きてきた価値観を肯定したいがためにその言葉を発していることに気づかなければいけないのです。若い社員に対して、これはお前達のためを思って言っているなんていうことを思った時点でそれは、若い人間にとっては大きなお世話なことなのです。よく上司は「こんなことは言いたくないんだけど」と言いますがそれはおそらく嘘です。自分が自分の持論を語れると言うことは快感であるに違いないのです。これは恋愛でも同じことです、家庭のなかでもそれは言えるかもしれません。この人のため、異性に尽くすこと言うことは、自分にとって快感であるからそうしているに違いないのです。アドバイスと思うからリアクションをどうしても期待してしまいますがそれをリクエストだと考えれば、リアクションが少なくても仕方のないことと割り切れるのだと思います。人間は不思議なもので、命令には従いたくないものですが、お願いには応えたくなるものです。付き合っている相手、配偶者はセックスをしても当たり前、それに応えないほうがおかしいと言う状況より、それ以外の人にお願いされる方が燃えると言うのはそういう心理がはらいているのだと思います。中間管理職という立場の中で、今、大切なことは人に対してしているすべてのことにリアクションを期待せず、すべてを自分のためであると認識することなのかも知れないと、最近考えるようになりました。恋愛でもそう、自分がそうしたいからそうしていると言うことをどれだけ自分自身で認識できるか・・・・・これが、人から、うっとおしいと思われないコツなのかもしれません。
Mar 6, 2004
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今朝、地下鉄の中で、自分の体ほどの大きなリュックサックを背負って立っている、60代の女性を見ました、一体何を運んでいるのかはわかりませんでしたが、見るらに苦痛をこらえているのが伺えるだけに、見ているほうまで、辛い気持ちになりました。席に座っていた僕は、席を変わろうと声をかけたのですが、一度荷物を降ろすとまた担ぐときが大変なので、このままがいいとの事、ずっとそれを見ながら、なぜか落ち付かない僕がそこにいました。力ならそのへんの男性よりは自信のある自分が、力のない年配女性が持っている荷物をどうする事も出来ないと言うことがもどかしかったのです。「持ってあげましょうか」なんて言葉は、差し出がましいでしょうし、もし、その荷物を持ってあげることが出来たとしても自分の仕事を遅刻してまで手助けすることは自分にも無理な事なのです。そんなことを考えていると、とても無責任で、自分の「人のためになった」と言う満足感を持ちたいがための親切心がつくづく嫌になりました。人はみな、長い人生という旅路を、それぞれが重たいリュックサックを担いで歩いています。ある人は軽々と、そしてある人は苦痛に顔を歪めながら・・・・リュックサックの中身は人からは見えないから、重さは想像もつかない。重そうに荷物を担いで歩く人を何とか助けてあげたいと思うのが人情。しかし自分だって荷物を担いで生きている。たとえ少しだけ手伝う事が出来たとしても、ずっとその人の旅路について回るわけにもいかない、自分には歩かなければいけない道もあるのです。手伝うなんて言って、途中で投げ出したらそれこそ無責任。ただ一緒に歩いた道中だけ、声をかけて気を紛らわすか、転ばないように見守る事しか出来ないのです。所詮、人と人との関わり合いはその域を越えることはできないのかなと・・・少し寂しい気持ちにもなりました。楽しく、歩きましょうねなどと励ましても、自分以外の人のリュックサックの重さは計り知れません。それどころじゃない人もいるはずです。人の荷物を持って歩く事なんてとうていできない事なのです。自分の荷物が軽ければ、出会ったごく一部の人に対しては同じ道中の間だけ荷物を持ってあげることも出来るかも知れませんが、それも自分に余裕があればこそ、自分が疲れてくれば、その人に対して腹立たしささえ感じてしまうかもしれません。人生の荷物は、自分で担いで行くしかなく、人を助けると言う事は疲れた気持ちを紛らわす事が一番なのかとも思えてきました。大きな荷物をもってその年配の女性は地下鉄を降り、人ごみに消えていきました。その中身はどんなものかはわかりませんし、どこまで行くかは知りませんが、きっと大変だと思います。身の回りにいる人たちはどんなリュックを背負っているかわからないけれども、必ずそれぞれが何かを背負っていると考えると、余計なおせっかいではなく本当の意味での応援が出来る、そんな「人のため」を考えなくてはいけないと思いました。自分にできることは、自分のリュックを軽々と持ちあげ、笑顔で人の気持ちを紛らわすことなんだと、会社に向かう道で、そんなことを考えていました。
Mar 2, 2004
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