星とカワセミ好きのブログ

2018.12.08
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2018年12月2日、妻と一緒に江戸城天守閣跡を見ました。

1457年に太田道灌により城が作られましたが、その後徳川家康が入城し、徳川時代に3度天守閣が建て替わりました。1607年に徳川家康が5重の「慶長天守」を造り、2代将軍・秀忠はこれを解体後、1623年に「天和天守」を造りました。さらに3代将軍・家光が1638年に「寛永天守」を再建しています。
1657年の明暦の大火で天守閣は焼失してしまいました。天守台は再建されたものの、天守閣は再建されることが無く、富士見櫓が天守閣の代わりとされました。


↑ 特別史跡 江戸城跡。
江戸城は1457年に太田道灌によって創築されたが、1590年に北条氏が滅亡し、徳川家康が以上をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代に渡って西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後、江戸城は皇居となり、昭和24年(1949年)に西の丸下および現在の皇居を取り巻くお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般公開され、昭和44年(1969年)からは北の丸地域が加えられた。




↑ 皇居東御苑へ進む。







↑ 江戸城 天守台。








↑ 1657年・明暦の大火で「寛永天守」が焼失した。その後、1659年に加賀藩4代藩主の前田綱紀によって天守台が再建された。


↑ 天守台のスロープ。

↑ 天守台の広場。


↑ 北桔橋門が見える。

↑ 江戸城天守台から見た江戸城本丸御殿跡。天守台近くから「大奥」、「中奥」、「表」と続く。
「大奥」は、御台所と呼ばれた将軍の正妻、家族、女性達の生活の場。
「中奥」は、将軍の日常生活、政務を行う場。
「表」は、将軍の謁見など公式な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場。

「表」の右側には赤穂事件で有名な「松の廊下」があった。1701年、播磨赤穂藩主の藩主・浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野助を斬りつけ、浅野内匠頭は即日、第五将軍・徳川綱吉の命で切腹させられた。吉良上野助にはお咎めなく、喧嘩両成敗がなされなかったということで、筆頭家老であった大石内蔵助を含む47人が1703年に吉良邸にて討ち入りを行った。









↑ 天守台で記念撮影。





↑ 桃華楽堂。
香淳皇后の還暦を記念して昭和41年(1966年)に建てられた。


























↑ 大手門。

↑ 大手門。


↑ 巽櫓。










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最終更新日  2018.12.08 10:42:10
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