星とカワセミ好きのブログ

2023.10.05
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。
豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った文永・弘安の役に関する史料が展示されており、じっくり見る事ができました。書状と唐織りは目を引きましたので、一部を紹介します。


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文禄元年【1592)4月、豊臣秀吉は諸大名に命じて朝鮮への侵略を開始した。しかし、李舜臣将軍の率いる朝鮮水軍や義兵として蜂起した民衆がこれに反撃を加え、来援した明軍とともに日本軍を南海岸まで撃退した。
慶長2年(1597)2月、講和交渉が決裂し秀吉は再度侵略を命じたが、この時も日本軍は敗退を重ね、翌年秋に撤退した。
7年間にわたる戦禍は、朝鮮半島全域に及び大きな被害を与えた。

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↓ 豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年4月22日付 本館蔵
文禄の役開戦直後に発された豊臣秀吉の書状。紙が切断されており宛所は不明。内容は、虎皮2枚の礼とともに、名護屋城での普請が完了したことを聞いて褒めているもの。

なお、この書状を発した時点で秀吉はまだ名島城(福岡市東区)にあり、名護屋到着は3日後の4月25日であった。



↓【意訳】
虎皮2枚が私のもとに届いた。うれしく思う。名護屋の普請も終え、対馬に渡海したとのこと、もっともなことである。なお、詳しくは増田右衛門尉(増田長盛)が伝える。卯月22日(秀吉朱印)



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↓ 黒田家譜(くろだかふ) 江戸時代(成立:17世紀後半~18世紀初頭)本館蔵
古文書や口伝をもとに、福岡藩主・黒田家の基礎を築いた藩祖・孝高(官兵衛)、初代藩主・長政の事績を叙述する。三代藩主・光之の命で藩儒・貝原益軒が編纂し延宝6(1678)年に上呈された(その後3度の校訂が行われた)。
「黒田家普」中では、文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、朝鮮国や中国の歴史書なども利用しながら主君や家臣の奮闘が詳細に描かれる。
名護屋城については、孝高(官兵衛)が縄張り(全体設計)を、長政が「総奉行」を担当、天正19(1591)年10月から初めて翌年2年に終えたと記している。
なお、本史料は江戸時代の写本である。



↓ (意訳)(秀吉が名護屋城の)縄張りを孝高にお命じになり、孝高が地割りを定めた。総奉行は長政にお命じになり、7(天正19年)10月から斧初めが行われた。翌年2月に営作は完了した。





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佐賀県の藩祖・鍋島直茂の事績を編纂したもの。文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、威鏡道侵攻や蔚山城攻防戦などの記述も詳しい。
名護屋城の築城については、蓮池城(佐賀県蓮池町)の天守を献上したことや大手口の櫓(やぐら)を担当したことが記されている。その真偽のほどはさだかではないが、名護屋城の築城にあたっては、大名たちが領国の建物を再利用して短期間に仕上げたことが当時の記録にもみえる(フロイス『日本史』)。






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↓ 加藤清正あて豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年5月16日付 本館蔵
文禄の役開戦(4/13)から次々と朝鮮軍を破った日本軍は、わずか20日後の5月初旬に漢城(現ソウル)を陥落させた。すでに国王(宣祖)は明国の支援を求めて北方の平安道へ脱出していた。

後半部には、秀吉も船が揃い次第渡海する予定であることが見えるが、6月頃から水軍の劣勢が伝えられる状況となり、渡海は延期された。






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平壌(ピョンヤン)城攻防図  朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵
文禄2年(1593)1月の平壌城の戦いの模様を描いたもの。城内の日本軍を、李如松の率いる明・朝鮮軍が盛んに攻撃している。この戦いで敗北した小西行長らは漢城(現:ソウル)に引き揚げたが、その後講和への動きが急速に進むことになった。


↓ 平壌(ピョンヤン)城攻防図  朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵











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↓ 北政所あて豊臣秀吉自筆書状(複製)
文禄2(1593)年5月22日付 本館蔵・原資料は佐賀県重要文化財
文禄の役の開戦から1年後、名護屋に在陣中の豊臣秀吉が大阪にいる正室「おね」(北政所)に宛てて送った自筆の書状。
明国との講和交渉の過程で使節団と対面すること、明国が条件を受け入れれば戦さを収める予定であることなど、戦況の報告を行っている。また、追而書(おってがき:追伸)には、「二の丸殿」(淀殿)が懐妊した知らせに対して「めでたい」と述べている。

本史料を含め、名護屋から秀吉が「おね」にあてた書状は、現在までに12通確認されている。いずれも仮名を多用した丁寧な筆づかいで、”筆まめ”な秀吉の性格がうかがえる。








↓ 【意訳】
①本文
大明国より詫び事のために勅使(明国皇帝の使者)が名護屋までやってきています。条数書(和平条件)を示したので、それに従うならば許し、開陣(もしくは凱陣)して引きあげるつもりです。
朝鮮国で普請(日本軍の城の建設)などを命令しており、もう少し時間がかかりそうですが、7、8月には必ず会えますので、安心してください。

②追而書(おってがき:追伸)
この間より少し体調がよくなったので、最初にあなたに手紙を書きます。
また、二の丸殿(後の淀殿)が懐妊したという知らせは、たいへんめでたいことです。
私たちは子どもがほしいとは思っていなかったはずですので、そのつもりでいて欲しい。
太閤(秀吉)の子は鶴松(2年前に死去した実子)だけであり、今度の子は二の丸だけの子として考えてもよいのではないか。
5月22日 太閤(秀吉) おねへ



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↓ 慶長の役(丁酉再乱)
あくまでも明の服従を要求する秀吉と、秀吉を日本国王に封じるという明側の主張の相違により和平交渉は決裂した。
慶長2年(1597)2月、秀吉は再侵略を命じ、慶長の役(丁酉再乱)が始まった。その目的は文禄の役に参陣した武将への恩賞地として朝鮮半島南4道を獲得することにあったといわれる。



↓ 戦争の経過
約14万の日本軍は朝鮮半島南部で戦争を再開したが朝鮮・明軍の攻撃や兵糧不足などにより敗退した。慶長3年(1598)8月、秀吉の死を契機として日本軍の将兵は撤退し、前後7年間にわたる戦争は終結する。






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↓ 加藤清正条書案 16世紀末 本館蔵
朝鮮半島に在陣している加藤清正が、日本国内の家臣に宛てた指令書。
「きんさう薬」(傷薬)、名護屋にある馬具、「よき酒」「かつお」「よろず肴」などを送るように求めているほか、鉄砲については”出来次第に50丁でも30丁でも送るように”と厳命している。
簡単なメモ書きではあるが、領国から頻繁に物資を運んでいたことをはじめ、名護屋がその中継地として機能していたことなどが分かる貴重な史料である。
なお、清正は他の書状でもしきりに鉄砲を求めており、その重要性が高かったことがうかがわれる。







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↓ 鍋島直茂(なべしまなおしげ)あて豊臣秀吉朱印状  文禄3(1593)年12月20日付 本館蔵
金海(キメ:慶尚南道)に在陣を続ける鍋島直茂(佐賀城主)にあて、豊臣秀吉が発した書状。前年の8月から明国との講和交渉が開始されたことを受けて、すでに大規模な戦闘は行われていなかったが、西日本の大名はこの時点でも釜山周辺での在陣を続けていた。
内容は、日本軍が在陣する城(倭城)に備蓄されている兵糧米入替えを速やかに実施したことを褒め、長期に及んでいる在陣へのねぎらいの言葉が続く。そして、将兵のうち半分ないし3分の1を交替で帰国させることを認め、再来年には関白・豊臣秀次も名護屋城まで赴く予定であると述べている(ただし、秀次は文禄4年7月に自刀)。
その後、3年余におよぶ在陣を経たのち、慶長2年(1597)年夏頃から2度目の侵攻が本格的に開始される。




↓ 
Q)どうして文章が上下でさかさまなの?
A)半分に折った紙を裏返して書いたから。

① 紙を半分に折り、書き始める。
② 紙を横に返して続きを書く。文末に宛名を書き、朱印を押す。








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↓ 早川長政等連署状(鼻請取状) 慶長2(1597)年 本館蔵
慶長2(1597)年8月、毛利秀元・加藤清正・鍋島勝茂らの軍勢が慶尚道の黄石山城を攻略した。
本史料は、その際に鍋島勝茂軍が得た鼻の数を目付衆(秀吉の代役としての監視役)が確認した事を証する文書である。
これは膨大な首級に代わり鼻を戦功の証としたことによるもので、この「成果」が日本国内に留まる秀吉へと報告されていたと考えられる。
現在、同様の史料が鍋島家や吉川家、黒田家などにも残存しており鼻の合計は3万に上る。なお、近年の研究によって、これらの発給時期が同年8月~9月に集中することが指摘されており、その背景についても検討が進められている。





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↓ 朝鮮国礼曹俘虜刷還諭告文(複製)  1617年 本館蔵(原史料も同)
江戸時代初期に来日した回答兼刷還使(朝鮮通信使)が、持参した文書。
文禄・慶長の役において捕らえられ、日本国内に居住している者に対して帰国を呼びかける内容で、朝鮮国の礼曹(外交・祭祀。科挙等を担当した機関)が発している。
前回(丁未年・1607年)の使節に従って帰国した者には、罪を許し、夫役を免除するなどの特典を与えたことを示し、早々に使節のもとに出頭するよう勧めている。
文禄・慶長の役において捕らえられた人々の数は数万人ともいわれる。江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮国との国交回復を進めたが、その過程で数度にわたってその帰国もはかられた。しかし、使節の来日自体が10年程度間隔が空いたこともあり、次第に帰国する者の数は減少し、約6~7千人にとどまったとみられている。






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↓ 肥前名護屋城の内部は、狩野派などの画家による障壁画で装飾され、絢爛豪華なものであった。
朝鮮半島では悲惨な戦いが行われていたが、名護屋城や各大名の陣屋では能・茶の湯・連歌が盛んに催された。城下町は軍事都市・国際都市として賑わい、「肥前名護屋城図屏風」には、多くの品々を商う店、往来する人々、ポルトガル人や明の使節も見ることができる。





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↓ 能装束「唐織」 現代/本館蔵
名護屋城在陣中、豊臣秀吉は能に没頭した。畿内から能役者を呼び寄せたほか、自らも大阪から道具を取り寄せて練習に励み、正室である「おね」に宛てた手紙では、早くも「能をい十番覚えた」と述べている。この衣装は、秀吉も名護屋で舞った「杜若(かきつばた)」という演目で使用される現代の衣装である。
また、秀吉が熱中したことによって、在陣した大名衆も能や狂言を頻繁に開催したことが記録に残っており、堀秀治陣からは、実際に能舞台の遺構も確認されている。








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↓ 菊桐文蒔絵風呂道具(複製) 桃山時代/佐賀県立博物館原蔵(原資料は佐賀県重要文化財)
小城藩・鍋島家に伝来した風呂道具。菊文と桐文の蒔絵が施されており、豊臣秀吉が鍋島直茂の屋敷を訪問した際に調えられたと伝わる。
当時、屋敷に浴室を持てる者は少なく、来客に風呂を準備することも、茶事や酒宴等とともに重要なもてなしの一つであったことだろう。
なお、本資料は、制作当時の様子を考慮しながら復元した複製資料である。









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最終更新日  2023.10.22 08:16:36
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