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5月の週末、京都駅経由で大津駅に降り立ったのはいつもの東海道、弥次喜多(夫と私)2人だけではなくほかに3人の道連れがいた。娘達と長女の夫。最後を一緒に歩いてくれると言うのだが、どうだか。ちゃっかり泊まりの京都ホテルは「ウエスティン都ホテルのデラックスルーム」が良いとか、ホテルのコンシェルジュで聞いて夕食はおばんざいの食べられる美味しい店がいいとか。品川からの新幹線代、ホテル代5人分は結構出費で有った。おまけに京都間じかになって「荷物は京都駅のロッカーに入れておけばいいわよね」と娘が言う。見れば下げた布袋に宿泊用品一式。その夫はと見ればなんとこれから歩くというのにボストンバックを下げている。「ウェスティン都ホテルは東海道上に有るでしょ。京都駅は出ない」「えー!」ということでリュックサックを背負って来た私と夫が5人分の荷物をリュックに入れて背負うことになってしまった。ポーチ1つで身軽に歩く娘達+その夫。なんかおかしい。「おおさかまで行ったら、リュック背負うの代わってよね。」私が言う。「大坂でいいの?じゃあ、京都より向こうだから背負わなくいいんだ」次女は地図に弱い。しめしめ。旧東海道大津宿。前回から間が空いてしまったので、しょっぱなから道を間違える。東海道にやっと復帰したと思ったら、「私達、琵琶湖を見たことがないよね」というじゃないか。私と夫は前回、ブログ友達のringoさんに連れて行ってもらって見たが、しょうがないからとりあえず大きく道を逸れて琵琶湖へ。ringoさんに教えてもらった東海道上に有るうなぎやさん、「かねよ」に寄りたい人が若干1名。鰻を奢ってもらえるなら是非寄りたい人が3名。かねよには普通に歩いても11時の開店前には着いてしまう。そこで琵琶湖から琵琶湖疏水を見学がてら三井寺見物をし時間を稼ぐ。 人数が多いとどうしてこうもちゃッちゃっと事が進まないのだろうかと嘆きながら東海道に復帰した頃は寄り道し過ぎて12時を過ぎていた。蝉丸神社通過。神社の参道の途中に電車の踏切がある。面白いが神社には寄り道しない。鰻まっしぐら。「逢坂に着いたよ」次女に声を掛ける。「えー!」「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」百人一首は小さい時から家族でやっていたので次女も知っていた。しかし、それがどこにあるかとなると、私も知ったのはつい最近だった。「残念でしたね。ここはおおさかですから、約束ですからね」また、蝉丸神社。国道をそれ旧東海道の脇道に入るとすぐに「かねよ」が有った。うーんどうなのかな、鰻より卵焼きが大きい。どうせ諏訪の「古畑」と鰻の大きさ厚さを比べてしまい、味の結論は決まっているので、私はうな丼を注文しておいた。それに人よりカロリーを密かに抑える。鰻を食べて歩き出すと、また、蝉丸神社。だんだん大きく立派になる神社。そこからは旧東海道は山科に入る。「天智天皇陵が近くにあるけど寄る?」「うん、もちろん」全員一致で返って来た。寄り道しないわけないか。 陵の入り口は東海道上に有った。そこからずっとひっそりした参道を奥へ進むと陵。東海道は暑いのに緑生い茂る参道は涼しく、小鳥の声があちこちから聞こえて来た。天智天皇といえば奈良と思い浮かべるがそうだった、大津近江の宮だった。習った歴史と地理がついて来ない。歴史だってきちんと地理を抑えなければどうして物事がそうなったか、どうして物事が起こったか分からない。陵を過ぎると大きく横道にそれ住宅地の中の細い道を進みやがて山道に入って行く。昔の面影は残っていない。もうすぐだ。もうすぐ京都。この坂を越えるときっと京都の町が見える。私には京都の匂いと町の喧騒が聞こえるもの。そして、フィナーレを迎えるのだ。そのあたりに来ると、リュックサックを背負った人々がたくさん居た。しかし、どの人も東海道の旅人ではない。私達と違う雰囲気を嗅ぎ取る。彼らは京都の歴史探訪の人たちなのだ。東海道の旅人とは違う。私は自然と足が速まるのを感じた。三条大橋はどうやって私達を迎えてくれるだろうか。このカーブを曲がると何度も来たことのある京都、蹴上げが見えるはず。10分後、私達は蹴上げにあるウエスティン都ホテルにチェックインしてホテルのカフェでウェルカムドリンクを飲んで、ホテルオリジナルケーキを食べていた。 いやあ、まだ、東海道は終わってないんですけれどね。ちょっと休憩。チェックインして荷物を置き、再出発。休んだことでちょっと気の抜けたサイダーのようになってしまったモチベーション。持続させねば。 三条大橋はもうすぐそこ。そしてラストは非常にあっけなくやって来た。夕暮れ時の三条大橋にはイベントで集う若者がぎっしり。Vサインして東海道完歩写真を撮るのも気恥ずかしい。人々は私達が東京から500Km歩いて来たのなど何もしらず通り過ぎていく。橋の上で感慨にふける静けさもない。皆、流れていく。「横断幕持ってこなくて良かった。恥ずかしいものね。」長女が嘯いた。道行く人に橋の上で家族写真を撮ってもらい、私達はそそくさと三条大橋を後にした。昔の旅人だってこんなものさね。橋の袂の弥次喜多がそう言っていた。東海道五十三次の旅パート1 完 うん?パート1?思い興せば私が日本橋を出発したのは2年2ヶ月前。その時は1人旅。夫がボディーガードとして参加したのは箱根の関を超えるところから。夫はその区間歩いてないのだ。そういうことです。先週の土曜日、私と夫と次女は東京日本橋に立っていた。弥次喜多すごろく振り出しに戻る。
June 1, 2010
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東海道の続き14日、いよいよ4日連続歩きの最終日。どこまで歩けるか。前夜、ringoさんに会うため明日の約束をする。ringoさんは「自動車だからどこからでも電話してください」とおっしゃってくださったが、もし会えないといけないので、こちらが「時速3.5キロ」なのでお昼頃会いましょうと伝えておいた。追分を8時半頃出発。中仙道と東海道の分かれ道。ここを北にずっと行くとやっぱり日本橋に着く。「どうしよう。東海道ももうすぐ終わりだね。次は何をする?」土山のお蕎麦屋さんでのマスターとの会話を思い出す。「ここを通られた皆さん、次は色々やられていますよ。中仙道とか、東海道逆戻りとか、四国四十八箇所めぐりとか、日光街道とか」「私達は東海道が終わったら中山道の旅でもする?」そして中仙道を背に京に向かって出発したのであった。何はともあれこの旅を完結させなければ。本日も快調。草津の宿はあっとうまに抜けてしまった。うーん、ringoさんには「お昼に会いましょう」と言ったが、このペースで歩けば、昼には瀬田の唐橋まで行ってしまう。まずい!我ら現在時速4キロ。そこでringoさんに電話を入れる。セブンイレブンで会いましょう。そして現れたringoさんとコーヒーショップでお茶を飲む。初めて会うのになんだか懐かしい。互いに互いの色々なことを、それぞれに起こったいろいろなこともブログで知っているからかもしれない。ringoさんは言った。「東海道を歩いていても琵琶湖は見えませんよ。時間が大丈夫なら今から、ちょっと琵琶湖が見えるところまで連れて行ってあげましょう」琵琶湖だ!そして、残しておいたメモリの枠でツーショット。たった1枚の写真だけれど、後で見ると、私は目をつぶっていた。ringoさんにまたセブンイレブンまで送ってもらって、そこから再スタート、東海道五十三次。 瀬田の唐橋。京都に向かうには、琵琶湖を矢橋から船で渡ったほうが早いが、突風に会って引き返すことも多いので、回り道して瀬田の唐橋をわたるほうが賢明という。「急がば回れ」の諺が生まれた地なんだと、ringoさんに教わった。三上山のムカデ退治の俵藤太の前に竜宮の姫が変身した大蛇が現れたのはこの橋。東海道の旅、三上山の近くも通ったし、ムカデ退治の話も水口からこちら、道中にちらほら案内板などが有ったため、いつムカデが現れるか、いつ竜宮の姫が現れるか楽しみにしていたのだった。しかし、その頃は12時前だというのにすでにお腹がすいて来た。夫はいつものようにレストランを探さない。何故か?実はringoさんに会った時、彼女がTV で見た逢坂の関の鰻屋の話をしたのだった。「鰻屋までどのくらいかな。そこまで我慢して、そこでご飯食べようかな」まったく、東海道の地図関係なく付いて来る夫には逢坂の関がどこにあるか分からない。まあ、いいか。そこで私達は鰻まで昼食を我慢すべく、rinngoさんにお土産にもらったクラブ・ハリエのクッキーで空腹を満たす。穴の開いたところに食べたクッキーが入っていた。大津宿近く、曲がって、曲がって、曲がって、ここ城下町?。琵琶湖の形に道は曲がっていく。だけど琵琶湖は見えない。「逢坂の関は後どのくらい?」夫が聞く。「大津宿を抜けてまだ行ったところ」私が答える。「えー!そんなにあるの、鰻は次回だ。もうご飯食べよう」あえなく沈没。東海道上に有った餃子の王将でランチ。2人とも初めての店だ。そして2人とも食べ切れなくてご飯を残す。「一度入ってみたかったんだよね。でも、もういいかな」これやこの 行くも帰るも 名残おし 知るも知らぬも 逢坂の鰻 ウサギ実は蝉丸のこの歌(実際は違う)夫の百人一首、十八番なのである。王将を出て、それからというもの、無口にただひたすら歩く。「義仲寺だよ。拝観しようよ。」「拝観料取るから行かない」鰻よりずっと安いと思うけどな・・。「三井寺すぐだよ。寄り道しよう」「行かない」鰻が食べられないと分かったのががっくり来たのか、急に戦意を無くした夫は大津の駅前から、直角に東海道を戦線離脱して、まだ2時だと言うのに京都から帰宅の新幹線の時間変更して、さっさと京都行きの電車に乗ったのだった。残した距離は京都三条大橋まで11.8キロ。「そんなに残したの?」と言う次女の声が聞こえてくるような。最後の仕上げは家族で一緒にやろうね。
March 2, 2010
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まだまだ続く東海道旅行記2月12日、夜明け前の関宿を出発して夜明けとともに夢の関宿を西の出口から出ると国道沿いに一軒のコンビニが有った。天気予報はこの先、12日、13日、14日と曇りか晴れ。雨は降らないと出た。その日は鈴鹿越え、箱根峠に次ぐ難所である。JR関西線は鈴鹿峠を大きく迂回して、東海道から離れる。峠の関側も峠を越えた土山側も過疎なのかバスが極端に少ない。東海道完歩者のどのホームページを見ても大変なコースであるようだ。もしもの時に助けに来てくれるスーパーマン(ブログ友のringoさん)の電話番号を握り締めて、荷物は最小に身軽になって、ということで、コンビニでいらない荷物を家に送った。昨日の雨具上下、そして夫は傘までも。いいの? 送っちゃって? バスは日曜日は運休。幸い12日は金曜日。しかし午前中は7時の一本だけ。歩けなくなったらどうするの?そしてバスは坂下宿で無くなる。峠のあちら側熊野神社まではなんとしても自分の足で歩かなければ・・。 標高はだんだん高くなる。一気に山に向かって道は続いて登って行く。片山神社入り口で坂は急に険しくなる。斜度がすごい。エッチラオッチラ。 え?あれ? 急な登りになって30分もしないうちに森の中に鈴鹿峠の標識。峠はあっけないほど急に終わった。峠を越えると後は長い長い下りの道が土山宿を通って水口まで続く。あれれ、空から何か白いものが・・・。雪?しーらない、傘送っちゃった人は誰かしら。私は持っている。 こんな風景の中をこんな国道一号線があり、車がびゅうんびゅうん通っている。我らはほとんど旧道を歩く。国道を走っている車のほとんどが地域とは関係ない人々の車だ。この辺のお年寄りたちはどうしているのだろう。車の無い人たちはどうして生活しているのだろう。たくさん歩いてやっと土山宿に辿り着く。私が過疎の村と思っていたのと違って、家もたくさんあるし、お年寄りの姿も子供の姿も見かける。だけど、バスの本数が極端に少ないのだ。 甲賀土山(そう!忍者の里だ!)はお茶が有名なんだそうだ、国道と旧東海道がクロスする地点の道の駅で買ったお茶のお饅頭。食事は珍しく旧道にあるお蕎麦屋さんで食べた。 鴨南蛮。実はそこは東海道の旅人がみんな立ち寄る所らしくたくさんの東海道関係の本や資料が置かれていた。私達もプリントアウトしてきたご主人の10年前の(私達はずっとこの10年前歩いた人の記録を頼りに歩いてきたのだった)写真を見せ、1時間近くも東海道談義をしてしまった。そこはとても居心地がいい場所だったが、先を急ぐ旅人には危険だ。居心地が良すぎて時を過ごす浦島太郎の気分。 土山から水口宿は、峠のようなアップダウンは無い平坦な道ながら、だらだらと長い長いいやになる。足が疲れて棒のようになって来た。信号待ちの間ちょっと石垣に座ろう。「知らないよ、いったん座っちゃて青になって立てなくても」その通り、青になってもすぐには立てなかった。足が歩く形に固まってしまっていて、他の形は取れないのだった。学校帰りの子供達が皆声を掛けて来た。「ただいま」私は「お帰り」と答えた。「それおかしいんじゃない?」夫が言う。「僕達ここの住人じゃないから」「じゃあ、こんにちは?ただいまと子供が言ったんだから、お帰りでいいんじゃない?相手にはよそ者か土地者かわからないんだから、答えないのはもっと悪いし」しばらく挨拶について話しながら歩く。子供達も、自転車の中学生も、座って話していた大人たちも、みんな私達に挨拶をしてくれた。とても気持ちのいい街だった。夕方、水口の宿に無事到着。ホテルから保険を掛けて待機してくれていたringoさんに、無事の到着を電話で知らせた後、お風呂に入って、ホテルで夕食。水口は何も無い町だと思っていたので、疲れて外に食事に出られないいことを考えて、ホテルに予約しておいた夕食はフランス料理フルコースだった。東海道にフランス料理?まあいいか。宿泊セットだったから。 無事に鈴鹿峠を越えられたことを祝って。でも明日のことを考えてワインは無し。コーヒーだけ。
February 20, 2010
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先週の木曜日深夜、母の見守り隊1号と2号が、東京で残業を終えて、私達の東海道五十三次の旅の間留守番をするため我が家に帰って来た。「今度はどこまで行く予定?」と聞かれた。「4日間ぶっ通しで歩いたことが無いからわから無いけれど、行かれたら大津まで。そうしたら、後は逢坂山を越えて山科を抜ければ終着の京都だよ。最後を残しておくから、最後は家族みんなでやろうよ」と言うと、次女は、「出来るだけ歩いて来てよ。最後は少しだけ歩けばいいように。たくさん残さないように」と言う。長女は「じゃあ、ホテルはウェスティン都ホテルがいいかな。私は三条大橋で、完歩おめでとうの横断幕持って待ってるよ」と言うじゃないか。まあ勝手なことを言ってはいるが、協力してくれ、応援してくれるのはありがたい。そして先週金曜日4時起きして家を出て、名古屋までの新幹線に乗った。東海道五十三次最終章の一歩手前、4日間の旅への出発で有った。 まずは新幹線の中で戦いの前の腹ごしらえ。新幹線は名古屋で降りた。近鉄特急で四日市まで行き、内部線に乗り換えて終点内部まで。そこが前回の旅の終点、今回の旅の始点。内部から少し行くとすぐに旧街道は細くなり急な坂道になる。杖衝坂坂は登ってすぐ緩やかな下りになる。そんなにたいした坂ではないけれどこの坂、ずいぶんとオーバーな謂れがいっぱい伝えられている。日本武尊が剣を杖代わりにしたとか、急坂の為松尾芭蕉が落馬したとか。 そしてこの日一番最初の宿場の石薬師寺であるが、ちっとも着かない。おかしい。先人の地図ではすぐに国道1号線から旧道に分れるはずなのだが、いつまでたっても国道を歩いている。分かれ道も見つからなかった。しかし、こういったことはすでに何回も経験しているので、犬の鼻じゃあないけれど嗅覚がものを言う、旅人の第六感が者を言う。途中からながら国道を離れて旧道を見つけ出し、石薬師寺の宿場へ。そして石薬師寺。裏門から入って表門に抜ける。この頃から天気予報通り、早くも雨が少し降り始めて来た。石薬師寺の宿場を出るとそこは田んぼの真ん中。寂しいなあ。きっと昔と変わらないだろう風景。ここを夜通ることになったらこわいだろうなあ。 ボディーガード付きで良かったと、しみじみ思う。現代も山賊が出るんだねえ。国道の下のトンネルを通過。時々こうやって現代に引き戻される。江戸時代から。新幹線の下をくぐったり、高速道路の橋げたの下を通ったり、国道で分断された旧道を信号を求めて大回りしたり。しばらくは国道一号線を歩く。横を車がびゅうんびゅうん通っていく。雨も降っているけれど横を通るトラックの興す風で傘を支えるのがやっとだ。うんざりした頃、国道から離れて、旧道に入るとそこはもう庄野の宿。長女が持って行けと言ってくれたマフィンを雨宿りしながらお寺の軒下を借りて食べた。美味しかった、ありがとう。ここは広重の浮世絵でかの有名な庄野。浮世絵もまた雨の中。 国道を走るトラックからの風と雨を避けるための姿勢はまったくこの中の絵の人物と同じ。違うのはデジカメのバッテリー切れを気にする現代人がいるだけ。おかしいなフル充電して来たのに。庄野宿はほかと同じで過去の世界に取り残された昔が残っている静かな宿場だった。宿場資料館に入り、保存されている大きな高札やら古いものを見せてもらう。古い建物はかび臭い。喉の弱い私は咳がひっきりなしに出るけれど、階段ダンスやそこにさりげなく活けられた椿や白梅が気になった。雨は少しずつ強くなる。旧街道を歩いていて困るのは、ほとんどレストランを見つけることが出来ないことだ。仕方が無いから、近くを平行しているであろう国道一号線が近づいた地点で、一度国道に出て、レストランやトイレのあるコンビニを探して、そしてまた旧道に戻るのである。絶対に後戻りしない夫が一緒だから、その区間は少しだけ旧東海道はパスするのであった、いつも。亀山の宿に入った頃、雨は本降り。スラックスの足元が濡れて重くなって来た。トイレにも行きたい。そうこうしているうちに痛恨のミス。地図を読み違えて、まったく違う方向に進んでしまったのだ。ショッピングモールがあるところで、ビデオやさんのトイレを借り、カメラのバッテリーを買った。地図を示してその辺のおばあさんに道を聞くが要領を得ない。若い人に改めて聞くと、「全然違いますよ」と言われた。20分のロスタイム。役所のロビーを借りて夫に借りて来たゴルフ用の雨ズボンをスラックスの上から履く。夫も持って来たが痩せ我慢して履かない。ついでにレインコートをリュックに掛ける。夫はこれもやせ我慢して掛けない。これが後で運命の分かれ目になるのだった。そしてさっき下ってしまった亀山城下町の丘をまた登る。まあ、いいさ、旧道にはトイレのある店もないし、カメラのバッテリーを売っている店も無いから。この迷い道、ラッキーだと思おう。
February 16, 2010
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東海道五十三次の旅をしていると「はて、昔どこかでこんなことをしたことが?」と思うことがある。それは学生時代に良くやったオリエンテーリング。山の中や公園を指示されたことを遂行しながらいくつかのポイントと決められたコースをどれだけ早く回れるかの競技だ。この旅はどこかそれに似ている。最初に出発地(花のお江戸日本橋)と目的地(京都三条大橋)が決められている。コースは旧東海道上の一本道。ポイントの数は53。江戸からは4キロ間隔で一里塚がある。数えていれば江戸から何キロか分るはずだがはなから覚える気がない。それでも時々国道一号線とコースが重なる時、そこにはきちんと基点からの距離がかいてあるから大体分る。それに何人もの先輩達がWebページに記録や写真や地図を残してくれているのでそれを印刷して、参考にして歩く。分かれ道にはタバコ屋があるよ、と。私の参考にする方の記録はある時気がついたら10年前のものだった。当然、タバコ屋が消えていることもある。そろそろ宿場の入り口かなと思うとちゃんと道しるべが立っている。ここが宿場の入り口、次の宿場まで後何里。そして宿場に入っていく。そこはタイムスリップして江戸時代に戻った所。運がよければ残っていて本陣や脇本陣を見学できる。 運が悪ければここにありましたと、ただ石の印のみ。宿場内には古い町並みが残っていてここが宿場の中だったと教えてくている。高札場、番屋、立場、などが碑から分る。棒鼻跡など町外れにも町を守る工夫がされていて、そして宿場を抜ける。昔は一歩出ればそこはもう安全地帯では無かった。街道沿いには松林。日暮れになる前に次の宿場まで急がなければ。ところが街道には誘惑がいっぱい。こんな所やこんなものそして可愛いからとこんなものに思わず手を出すと家の中からおばあさんが、「どこから来たの」「上がってお茶でも飲んでいきなさい」と声をかける。「いえいえ、先を急ぎますから。ありがとう」と焦る。きっとおばあさん、話し相手がほしかったんだ、ごめんなさい。日暮れ前に宿場の木戸をくぐらねば。街道の何箇所にはチェックポイント(関所)がある。オリエンテーリングと同じ。必ずそこを通らねばならない。今回の新居の関、昔は船で舞阪から直接入った。浜名湖は渡ししかないからいやでも自然に入ってしまう。良く出来ている。今回の一日目の歩数は41,987歩。21km。舞阪宿から二川まで。東海道の旅もまだ半分UPしてないのに、明日からちょっと山の家に行って来ます。良い週末を!
September 18, 2009
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東海道五十三次の旅無事終えし候、皆様にては彼の旅いかがなりやとご訪問頂き、まづまづ忝けなく存じ候。参上を以って御礼申し述ぶべく候ところ不本意に御座候へども、何かと用事多く、訪問出来かね候。右御報ながら御礼方々比の如く御座候。大石内蔵助の「断りの手紙」をまねて。ブログの更新無いので東海道中行き倒れて、あるいは野垂れ死にしてはいないかと、ご心配頂くといけないので一筆したためます。無事旅は終えましたが、交流協会のミーティングに自分の担当イベント準備、他人のイベントさくら参加、日本語子供クラス及び大人クラスの準備、韓国人生徒3人のプラーベートレッスンと重なって、まったく時間が有りません。皆様のところに訪問する時間も多分有りません。すみません。旅の報告とブログ訪問は暫しご猶予を。
September 15, 2009
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歩く目的はと問われても答えは出ない。歩けばカロリーを消費するけれどダイエットはその目的ではない。歩くそのものも目的ではない。歴史に興味がある? それも違う。なんだろう。1年たってもまだ全行程のやっと半分。目標は遥か遠い。やりとげたからと言って何の褒賞があるわけでも無い。自己満足だけ。しかし、点と点を繋ぐことが楽しい。その次の目標が残っていることもまた楽しい。おいそれとは到達できない目標があるのがうれしい。歩くと見えてくるものがある。6月14日朝見附宿(磐田)から歩き始めた。磐田はサッカージュビロ磐田の本拠地。街から出発するときはいつも迷う。東海道が街中の道に隠れてどこがその道か分らないのだ。やっと見つけたその道は時々はどこか懐かしい昭和の家並みを見せ、時々はまったく新しい街並みを見せる。この辺りから今まで見慣れた秋葉灯篭は小さなお堂の中にすえられるようになって来た。風雨をしのげるようになっている。歩いていると持っている地図の中の分岐点が微妙に違う曲がり方をしている。どうやら新しいバイパスが出来て行くべき道を分断しているようだ。先駆者のホームページから出した地図を見る。驚いた。彼がこのあたりを歩いた日付は10年前の日付なっているではないか。10年も前の地図を頼りにこの遠い道のりを歩いてきたのだ。ところどころ新しい道が出来て道に迷うこともあっても、そのホームページに載っている写真と同じ道しるべが、同じ建物が、同じ景色が、人々の同じ営みが今も続いていることに感動を覚える。この間にいったい何人の東海道の旅人がこの同じ道を歩いたのだろう。1人で。家族で。夫婦で。友人と。天竜川に出た。その風景は大井川を越えた時の風景と良く似ている。渡り終わった対岸に昔の川交通の様子が展示されていた。 これは天竜川の治水に力をつくした金原明善翁の生家。さっきから浜松駅近くの高い建物が見えているのになかなか近づかない。そして浜松宿に入った頃から東海道を一時離れて駅の方角に。そう、うなぎ屋を探す。インターネットで探し出したうなぎ屋(あつみ)は満員で30分ほど待ってやっと座れた。念願のうなぎ。うなぎを食べるためにスキップしてしまった夫に東海道の元の位置に戻って歩きなおそうなんて気はさらさら無くなっていた。仕方が無いので少し先の地点から東海道に合流することにしたがこれが大変。近代的な大きなビルの中ではどの道が東海道であるか分らないのだ。お祭りを横目で見ながら多分これが東海道だろうという道を進む。まったく違う方向に歩いていないことを願いながら。新幹線を越えて二つ御堂を発見して初めて此処が東海道に間違いないことを確認する。不安の中かなりの時間がたっていたが良かったとほっと胸をなでおろす。そこからは舞阪に向かって間違いようの無いまっすぐな道を進む。民家の塀の中の一里塚の跡、表示。古い蔵。 舞阪の駅への曲がり角で向こうの方に松林が見えていた。「待っていてね。また次の点繋ぎに来るからね」とつぶやいて舞阪の駅から電車に乗り、浜松で新幹線に乗り換え帰路に着いた。今回は此処まで。その日の歩数は39,849歩。母へのお土産はこれ、浜松バーガーと名のついたドラ焼き。え?うなぎの他に何も食べなかったのかと?
June 17, 2009
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新幹線こだまが掛川の駅に速度を緩めて停車した。2ヶ月ぶりに東海道の旅に戻って来た。さあがんばって歩こうと自然に意気が向上して来たその時、夫が叫んだ。「うなぎアイスクリームのトラックがいるよ」うーん、やっぱり夫の旅の目的はこれか?東海道五十三次、昨年の桜の咲く頃日本橋から始めたのは私1人。目的地は京都三条大橋。夫は箱根越えから参加。その時から「浜名湖に着いたらうなぎを食べよう」と騒いでいた。もっとも、三島の宿でも由比の宿でも誘惑に負けてうなぎを食べていたけれど・・。そしていよいよ今回の予定は浜名湖まで。うなぎまで。しかしなあ、此処までストレートだと距離と時間から浜松到着時間を昼食時間帯にきちんとスケジュール組むのも責任重大になってくる。実は今回前述の準備品の他に「浜松うなぎ加盟店マップ」とやらをwebページからしっかり出して持参したのであった。供の者のために。駅舎を背にして街道に復帰すべくいざ出発。掛川城、東海道であることを示す見慣れた次の宿場までの距離が書いてある道しるべ。 車がびゅうんびゅうん通る道、昔の風景などつゆも見えず、東海道を旅していることをつい忘れそうになった時、此処だよと現れる松並木。宿場と宿場の間に設けられた宿泊場所を提供しない間(あい)の宿。現代の旅人向けの案内板などが歩きつかれてなえた気分を一気に昔に引き戻してくれる。 掛川袋井間はほとんどアップダウンが無い。箱根越え、さった峠越え、先日歩いた日坂峠などに比べ面白みの無い道をひたすら歩く。それでも旅人を慰めてくれるものは昔も今も多分自然の風景と路傍に咲く花々達。 時にはこんなものたちも疲れた心を勇気付けてくれる。 この辺りは平地だけあって用水路や川が多い。護岸がコンクリートで整備してない自然の川が残っていて橋の欄干から川を覗くたびに心を休ませてくれる。鯉がいて、鮎がいて、かもの親子がいて、体長50センチはあろうかと思われる亀が突然水面に浮かび上がって泳ぎ去る。やがて東海道一短い宿場といわれる袋井に到着。町のあちこちに「東海道どまんなか」の表示。此処は東海道の中間点。1年かかってやっと中間点、まだ中間点。東海道ど真ん中小学校、ど真ん中公園、東海道ど真ん中袋井宿。 疲れたので東海道のど真ん中の町にあるレストランで昼食にした。私は駿河湾特産桜海老掻き揚げそばとそば茶プリン。 夫が「まだ桜海老なの?由比に戻っちゃったね」という。そういえば由比の町は桜海老一色で桜海老ご膳を食べたんだった。一歩でも先に進みたい私はその言葉にがっくり。途中に大きな和凧を作って売る店があった。夫が買いたいと言い出し、そんなものを背負って旅を続けることを心配したが、運よくその店はしまっていた。そういえばさっき歩いていた途中にお祭り用の凧を仕舞っておく倉庫のようなものを見た。この地方には大凧を揚げる風習があるらしい。江戸時代の浮世絵にもそれは見られる。 何度目かの川を通り過ぎたとき下の流れを見ながら夫が言った。「さっきの亀、こんなに大きかったよね。」そのジェスチャーを見ると手と手の間が1メートルもある。なるほど、話の中の物事はこうやって大きくなっていくのか。時々道に迷いながらしかし確実に東海道に復帰しながら歩いていると別れ道に来た。最初の道しるべは「明治の道」と「大正の道」 東海道の旅人の鉄則、それは古いほうの道を行くこと。それが東海道。時々現れる鎌倉古道は無視しても良いが・・・。迷わず明治の道をとるが、次に現れたのが左に逸れる急坂「江戸の道」さっさと行過ぎる夫に向かって「おーい、こっちだよ。東海道は」聞こえないふりをする夫。もう一度、「通り過ぎちゃったよ」またもや無視する夫。仕方が無いから追いかけて、「どうして行かないの」「だって、明らかに急坂じゃない。疲れるじゃない。どうせ先で一緒になるよ」そう、先で一緒になるのは地図で確かめてある私だが、納得いかないなあ、東海道の旅人としては。足は疲れてきたけれどまだ3時。その日泊まるために予約したホテルは見えてきたものの、明日の距離を稼ぐために今日のうちに先を急ぐことにした。何しろ明日は昼のオーダーストップの前に浜松のうなぎやに到着しなければならないから。これには夫も異存なし。磐田の市内に入り見附宿に入る。宿場を示す高札場。そしてせっかくだから明治5年に出来たという旧見附学校を見学。4階建てのその建物、急な階段が付いていた。ところが、歩きつかれた旅人は階段を登るのがやっと。またもやパスしようとする夫を引っ張って最上階へ。2人でベンチに座って磐田の町を眺める。さわやかな風が吹き抜けていった。 明日の出発を先の地点にしようと3キロほど明日の分も歩いて磐田駅前にてその日は終了。33,056歩。夕食をとろうと磐田駅前をうろついたが食べられるようなところは見つからず、ホテルまでバスで戻って温泉に入ってから食事をすることにした。明日はうなぎ。
June 16, 2009
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今週忙しくてなかなかブログ更新できなかった。先週末、東海道五十三次の旅二日目の話。4月12日(日)思えば遠くに来たもんだ。しかし江戸から209.1km、まだ半分も行かない。思い起こせば去年の3月29日、一念発起して(というより成り行きで)東海道の旅に出た。日本橋には一本の枝垂れ桜が旅立ちを見守ってくれていた。銀座の桜、増上寺の桜、プリンスホテルの桜、品川宿の桜、桜見物をしながら、いつしか時は移り新緑。たまには寄り道をしながら、最初は1人旅、時々はカメラを持った友人が参加し、途中からは夫がガードマンとして参加した東海道の旅。もうすぐ東海道全行程の半分。金谷宿。昨夜の宿の主人。着いたときに「大井川は蓮台に乗って渡りましたか?」そして今朝は、「京都には今年中に着くんでしょうかね」思わず絶句。無理無理。路銀も尽きてきたし・・・。日曜日、朝、たっぷりおいしいご飯を食べ金谷の駅前から出発。今日は東海道三大難所の一つ小夜の中山越え。そういえば、この旅、2回しか参加してない次女であるが、箱根越え、大井川越え、そして此処と難所に参加していてえらい!・・・・本人はたまたまであるから知らないだろうから、東海道はどこもこんなだと思っているだろう。昔の難所であるということは現在は開発から取り残され風光明媚なところということ。「箱根は付き合うからおいしい料理と旅館」「その次は名古屋のときに呼んでくれ」というちゃっかりな歴史と地理を知り尽くした長女に比べれば次女はえらい!駅の裏手の坂を登りはじめると、金谷坂石畳。入り口の茶店を眺める二人の連れ。「おおい!そこの2人、まだ茶店に入るには早いよ」旅のお供は地元限定のお茶 「この道どこかで見たと思ったら、箱根と同じだ」そうでした。どこか似ている石畳の坂道。箱根は蛇がでったっけ。歩きづらい。しかし、所詮登って登ってまだ登っての箱根の山の高さとは比べ物にはならない。森の中を登ってもすぐ下りが来てまた登りが来る。牧野ヶ原大地なのである。 あちらの山を登って谷に降り、また登ってきたこの道。ご苦労さん 周りは茶畑。あちらの山の上には茶の木で書いた「茶」の文字が・・・。どこもかしこも茶。のんびり歩いていると「夜泣き石の跡」夜泣き石は今通ってきた山の上の久延寺に有ったが、昔はここにあったそうだ、行きかう旅人の道をふさぐように、広重の絵には描かれている。転がり落ちたのではない。何せ九延寺ははるか山頂。転がり登った?そんなことは・・・・。 小夜の中山を越えると転げ落ちるような坂を下りて新坂宿へ到着。難所を越えて来たにしては小さな宿場では有ったが、何軒かの古い旅籠が残っていて見学できた。宿場を抜けたところに、事任(ことのまま)八幡宮があったのでスタンプラリーの(これ!と神様にしかられる)御朱印をもらう。落ち着いた庭で遅い昼食。金谷駅で買って、娘と夫が交互に背負ってきた大井川鉄道特製弁当。すごくおいしかった。雑誌に出ていて絶対買おうと思っていたお弁当だ。 そこからはのどかでは有るが国道一号線に合流したり離れたりの里の道。掛川の宿の入り口でわざわざ街を外敵から守るための七曲を通過。塩の道の標識。 http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/sionomiti/sts.files/sts.htmこの写真のところを曲がる。此処でクイズ。写真の建物は何?木の枝で見にくいが目を凝らせば・・。掛川駅にはいつもより早めの3時到着。我が家から遥か遠くに来たので新幹線で帰宅。さて次はいつ東海道に五十三次の旅に戻ってこられることやら。
April 14, 2009
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先週の月曜日に母が入院した。四回目の治療入院である。最初の入院のときは生きるか死ぬか、直るか直らないかわからない状態だったので母も私達も必死だったが、回を重ねるごとに治療の様子も分かって来た。治療のある入院二日目を過ぎれば後は病院で一週間養生するだけだと。昨年末の父の病気と看護と一月もせずに逝ってしまった後の始末と、直後の母の病気と闘病。ボランティアもお稽古も放り出して必死に生活してきてほっと一息。余裕が少し出てきた母の「私が病院にいる間は大丈夫だから行っておいで」と言う言葉に後押しされて、半年振りに東海道五十三次の旅をした。再開になるのか束の間になるのか今は分からない。母の病状しだいである。母の容態を確かめてから、とにかく行ってこようと、急遽参加を申し出た次女と夫の分も前日に宿を予約し、二日間の東海道五十三次。戻ったところは前回ギブアップした藤枝の宿。行きはJR鈍行を乗り継いで3時間あまり。藤枝駅に降り立った。駅から約一キロ歩いて東海道上に立った。東海道の面影を残すものはわずかな松林しかない。しかし、道の脇に縁台が置いてあり、「東海道を旅する方へ」の立て札がここが東海道であることを物語っていた。いざ、出発。たった半年遠ざかっただけなのになぜか懐かしい。時々見つける立て札や石の道しるべのほかは東海道を思わせるものがあまり無い車の行きかう道筋をただひたすら歩いた。暑い。まだ四月なのに太陽がじりじりと肌を焼く。暑い暑いと言いながら歩いていると御誂え向きにちょっと洒落れた日本茶のカフェがあった。さすがお茶の産地静岡。三人それぞれに飲みたいお茶をセレクトしてお菓子も注文。ここで失敗を犯してしまった。あまりのお茶のおいしさに荷物になるから旅の途中では買ってはいけないお土産のお茶を買ってしまったので有った。飲んだり食べたりはいいけど買ってはいけない旅びの鉄則。もうすぐ大井川、島田の宿を前にして、ほとんどの東海道を旅する平成の旅人が寄り道をするであろう蓬莱橋に。どの旅人もこの誘惑には勝てないらしい。斯く言う我らもしっかり寄り道をした。東海道から逸れた分、三キロメートルのロス。 百円払って橋を渡った。正確には橋を歩いた。長いのである。渡り切ってもまた戻ってこなければならない。これから東海道を歩く旅人にとっては先の足への負担も考えなくては、ということで橋の半ばでUターン。Webページで参考にさせてもらっている先達の地図をふと見ると橋の中ほどでマーカーが引き返していた。やっぱり!「端を歩けばいいさ」と一休さん並に次女がさっさと引き返した。ちなみにこの端(いや、橋)は大井川に架かっているが、東海道の大井川の渡しに橋は無い。そして渡しはもっと先。橋の袂で昼食。余力を残して再出発。島田の宿に到着するときれいなピンクの花が出迎えてくれた。距離は短いが昔ながらの家並みを残している宿場だった。「どうぞ見て行ってください」と、何軒かの家が開放され、土間に入れば雛人形などが飾ってあった。「もうすぐ端午の節句だがね」と言わずもがなをそっと呟く。そしていよいよ「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」を渡る。改めて蓬莱橋で余力を残しておいて良かったと思った一瞬。このながーい橋を渡るのかい? 夕暮れ近く川からいっせいに飛び立つ鵜の写真をのんびり撮っていると、「この橋を15分で渡りきれるか」という賭けに命を掛けた次女が遥か向こうに。大井川渡りきって少し歩くと金谷の宿。東海道、二十四番目の宿場。宿場の入り口から駅まではかなり長い緩やかな上り坂。温存していた体力も日暮れとともに尽きてきた。この日の宿は金谷から大井川鉄道で一時間ちょっとのところにある千頭温泉。対向する線路に入ってくるSLに興味を示す元気も無く、絶景の車中を眠りこける旅の道連れ二名であった。本日の歩数約三万歩。良く歩いた。
April 14, 2009
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先週の土曜、日曜に朝5時起きしてまた東海道にチャレンジした。天気予報は40%の雨だったが宿も予約したし、まあいいかと出発。前回は静岡県の由比駅ギブアップだったのでそこまでJR普通電車を乗り継いで行った。朝食におにぎり2個買ったが、電車は横掛けの座席なので人目を気にしながらこそこそ食べた。「腹が減っては戦が出来ぬ」 というではないか。油比の駅で降りサッタ(漢字はブログ用に変換しない)峠に向かう。由比の次の宿場は興津だが、その間、今宿、寺尾の街を通る。昔の面影が残っていたり、幕末の歴史的な場所も残っていたりで面白い。 こんなところに時計が?お休みどころになっている小池邸裏庭には水禽窟。水禽窟は蹲と同じくらい好きだ。向かい側にはこれも古民家を改造したあかり博物館。こちらは朝早いので開館していなかった。 歩き始めてからの周りの街並みが東海道らしさを残しているのでこの先の街道も期待した。左手には海が見える。そして寺尾の街へ。 幕末官軍に追われた山岡鉄舟がここの奥座敷から逃がしてもらったと言う望獄邸を過ぎると道は峠に向かって急に坂になり、みかん畑の間を通る。われわれがこれから向かうサッタ峠から朝なのにもう下りてきた人に会った。「これからですか?上は霧でしたよ」東海道の旅人同士は様子ですぐ分かるらしい。皆、地図持ってるしね。弥次喜多の顔になってるらしい。そして知らない人なのに仲間意識が芽生えるらしい。ほらほらよそ見しないで、落石注意! 国道一号線、JR東海道線、新幹線はこの下、海岸線を通っている。サッタ峠は昔3ルートに分かれていたそうだ。下道は海岸の波打ち際を通っていて親子でも子の面倒など見ていられないので、この場所は親知らず子知らずと呼ばれたそうだ。サッタ峠からは振り返ると富士山が見える、はず。広重の浮世絵のように。 ところがあいにくの曇り空で見えなかった。残念。そして峠を過ぎると今度はくだり。分かりやすい峠だ。 洞穴ではない。歴とした東海道中道である。ちなみに一番きつかっただろう上道は今は使われていないそうだ。この道を降りると急に視界が開けて墓地の中の道に出る。そこには赤く塗った杖がたくさん用意されていた。「杖が要るほど大変だったかな」と夫が言った。由比から来るのより興津側から登るほうが大変だろう。ここは景色のいい観光コースなので東海道の旅人だけでなくワンディハイキングの人たちもたくさん歩いていた。そしてのどかな興津の里に到着。こんな実が出迎えてくれた。東海道の旅はだんだん健脚になり、そして泊りがけになったので、一回の旅で撮った写真、訪れたところが多くなり一度にブログに載せ切らない。今回の旅も何回かに分けて書くつもりだ。そして、二日間曇り空だったにもかかわらず、日焼け止め塗ったにもかかわらず、腕の日焼けが痛い。細かい水ぶくれみたいのが出来てしまった。
July 9, 2008
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前回蒲原宿入り口まで書いたが、実は同じ日に蒲原宿を通り越して由比(油井)まで行った。蒲原宿も由比の宿も昔を思い起こさせる古い町並みや家がたくさん残っていて東海道を歩いている実感が沸いた。特に蒲原宿は入り口から出口まで町おこしでもしたのか、古い町を残しながら東海道を歩く旅人だけでなく観光客も楽しめる街に工夫してあって楽しかった。新しい店も何かしら郷愁を誘う嗜好がしてあったり、建物の説明の案内板も昔の高札風に作ってあって町全体が中仙道の妻籠や馬込とまでは行かないが、江戸時代にタイムスリップしたような感じがした。そうだ、中仙道の奈良井宿に良く似ている。それでも、江戸時代のままの旅籠がそのまま残っていた。富士市を出てから山際を歩いてきたので昼食を取るような適当なところが無くかなりおなかが空いて来ていたので、江戸時代の旅籠の前で、どこかに食堂がないか探していたら、ちょうど通りかかったおじいさんが、「おいしい料理屋があるよ」 と教えてくれた。なかなか綺麗な料理屋だったが、意外と値段も安く、そして何よりおいしかった。ここから由比に向かっては桜海老の産地だそうだ、年に2回桜海老の季節があって、春の分はちょうど6月で終わりだと言うことだった。間に合ったわけである。私はせっかくだから季節の料理と言うことで、桜海老尽くし。2,100円。夫はうなぎ。浜名湖に着く前にまたうなぎ。桜海老の生、ゆでたもの、佃煮と桜海老のお吸い物、桜海老の掻き揚げ。おなかがいっぱいになったところでまた歩き始める。そこからは蒲原宿の西木戸を出たので、また車道と合流した道を由比に向かって歩く。車道ではあるが、道の両側の建物の多くは江戸時代までは行かなくても昭和のはじめぐらいのものがだろうか、古い家が両側に残っていてなかなか趣がある。家の軒にはツバメの巣。親の帰りを待っている顔がかわいらしい。歩いていると分かれ道に来た。ここからも交通量の多い道から分かれて旧東海道へ。歩くとすぐに由比宿の本陣公園。公園の中には広重美術館があった。ちょうど1ヵ月前にアメリカ人の友人がここを訪れていて、東海道ウォーキングでここまで来たら寄って見るように薦められていたので、お抹茶付きの拝観券を買う。歌川広重の浮世絵は横浜の歴史博物館でも見たことがあるが、ここのは東海道シリーズ。江戸日本橋からのが有って、今まで旅の途中で看板やコンクリートの壁や消防団の倉庫や店のシャッターに書かれた彼の浮世絵に親しんできた私にはどこか懐かしい。今はすっかり車が行きかう道になってしまったが、彼の絵を時々眺めながら歩くと昔の風景が想像出来て旅が楽しくなる。これから行く先の険しい山越えの絵がちと気になるが・・。東海道五十三次浮世絵ポストカードセットを自分のために、そのほかに何枚かをバラで買った。「どこまで行った」と聞く友人のために、そして海外で日本の旅を想像してくれている友人に、目的地に着くたびにそこの浮世絵を送ろうと思う。美術館の横の茶室でお抹茶を頂く。美術館の前は歴史上かの有名な由井小雪の生家だった。今はお土産屋になっているが藍の染物甕が店内に当時のまま残っていた。旅を終えて我が家に帰って来た後の話だが、隣家のおばさんが、「あの家の暖簾は紺屋だから紺色だったわよね」という。うーん、どうだったかな、紺色だったと思うが・・・と写真を見ると白だった。紺屋の白袴と言う諺があるが、まったくその通り!お抹茶を頂いてまだまだ元気な角さん(格さんかな)は、紺屋の横の東海道おもしろ歴史館で写真を撮った。このときは喜多八さんに戻って。由比の宿場の古い家並みの中を由比駅まで歩いてまた東海道線に乗って帰って来た。由比の宿場の家々の軒先には桜えびありますのピンクの幟がはためいていた。今回見られなかったが、海辺の桜海老を干している風景は富士によく似合うんだろうな。
July 3, 2008
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東海道五十三次 三島から由比へその2富士駅前のホテルから朝富士が綺麗に見えたのに、富士駅で8時半の電車に乗る頃には富士はすっかり雲に隠れてしまった。今日は富士の麓を歩くのに富士無しの旅ですこし寂しい。富士駅からJRで一駅戻り昨日電車に乗った吉原の駅から出発。ここから製紙工場の煙突を目印に富士に向かって東海道の旅。位置関係がすこし難しいが、吉原の宿はもともと海の近くにあったのだが津波によって被害を受け2回宿場替えをしてだんだんに内陸のほうに移動している。だから今日のコースはぐるっと大回りをして内陸寄りにある朝出発した富士駅の近くを2時間後に通過することになる。「パスして富士から出発したら」という夫の声も聞こえてくるがそこは無視。今日の道は親切な道しるべが少ない町なので道を間違いやすいとガイドブックも書いているが、案の定吉原の駅を10分も歩かないうちに鉄道の線路の下の分かれ道で早、迷った。それでも左富士神社に無事到着。京都に向かって歩いているから富士山は常に自分の右手に有るはずだが、ここから新吉原に向かって道が曲がっているので富士山が左手に見える箇所があるのだ。神奈川の南湖にも同じようなところが有った。神社の前にある酒屋で面白いものを見つけたので重たかったが購入。ちょうど元吉原、新吉原、吉原町ではかなり大きなお祭り(けんか神輿もあるそうだ)が有って、何台もの各町内会のお囃子に追い越された。屋台もたくさん出ていて町はお祭りムード。そしてこんなところにも。それにしても東海道の道しるべが少ない。今日は自分の感だけが頼りだ。それでも無事吉原宿を通過し、潤井川を渡る。すこし歩くと急に夫が「歴史の道はこっちだって」と道しるべを指差す。おかしい、地図には東海道はまっすぐになっている。しかし「すこし先で歩道は車道でさえぎられ大きく迂回しなければならない」とガイドブックに書いてある。あるいは親切にすこし先の迂回路を示しているのかもと50%は疑いつつも夫の顔を立ててしたがうことにした。50%の疑いは、夫は非常な方向音痴であること。そして、やはり道に迷った。あいにくの曇り空、私の得意な太陽の方角で地図との位置を修正することも出来ない。40分ほど彷徨って、ふと渡った川を見ると40分も前に渡ったはずの潤井川の名が・・・。再び同じ川を渡っているではないか・・・。ちょうど歩いて来た親子連れに道を聞いて軌道修正する。供のものをまた角さんから喜多八に格下げしようかとも思ったが、途中のコンビニで大福を買ってくれたので身分は据え置き、バス停のベンチで食べる。乗客かと思われてバスが止まったが、2人であわてて乗らないと打ち消す。再び朝出た富士駅のすぐ脇を通過する。なあんか迷ったこともあって、まだこんなところかとちょっとがっかり。迷っていたので下の道祖神、どこにあったか記憶にない。まあ、いいじゃないかと道祖神に言われているようだが・・。駿河の大地主旧松永邸跡の道しるべ。江戸からは着実に離れている。京都三条大橋には近づいているはず。江戸から34里半8町(144,4キロ)京都三条まで90里30町(357キロ)富士川を渡る。鷺と思われる鳥が川の中にいた。振り帰っても富士山は見えない。川を渡り、河岸段丘を登ると東海道は一変する。歴史を感じさせる道と親切な道しるべ、ところどころにある秋葉灯篭が旅人を導いてくれる。窓が逆ハート型 岩淵本陣跡では、「どうぞ御自由に見学ください」と書いてあるので中に入ってみさせてもらった。本陣を過ぎると道が大きく曲がるところ、両側に江戸から時代そのままの大きく育った一里塚があった。道は蒲原宿に向かって山際に近づき、周りの風景は緑が多く寂しい田舎の風景になっていく。そして、新幹線をくぐるが、音が怖くて通過時はくぐれないので電車が通り過ぎてからくぐる。次は一気に坂道を登り、しばらく並走してから東名高速道路の上を渡る。どちらも現代の旅人達が夢のような速さで旅を続けているのだろう。昔の人がこの光景を見たらビックリすることだろうな。東名を渡るとすぐまた昔の世界に一気に引き戻される。東名を渡るために登った坂を反対側に下りると。そこは蒲原の宿。大きな広重浮世絵の看板が出迎えてくれた。広重は蒲原の大雪の様子を描いた。、このあたりではこんな大雪は降らないとか、こんな風景は蒲原では見られないとか言われているが、広重を代表する絵には違いない。旅人のために小さなスペースにベンチが用意されていた。地元の子供達が川遊びするのを見ながら蒲原の宿に入る前にちょっと休憩。
June 29, 2008
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東海道五十三次いよいよ箱根を越えて駿河の国に向けて旅立つ。朝横須賀を出てJRで大船乗換え、熱海乗換え、熱海を過ぎてトンネルを抜けると富士山がその姿を現した。今日一日富士の勇士を見ながら歩くかと思うとわくわくする。そして三島駅に降り立つ。多分今日は海が近いからどこか野外でお弁当を食べられるだろうと、三島駅で名物「港あじ鮨」を買う。そしておもむろに三島の町に向かって歩き出す。今日のお供は夫。三島の町の真ん中に市立公園になっている楽寿園がある、今回は寄らなかったが、以前寄ったときはなかなか広い公園ですごく疲れたのを覚えている。富士の噴火で流れ出た溶岩の庭や、富士の湧き水の池などがあった。公園入り口のひとつ前回歩いた東海道に戻る。早速本陣跡。創業安政3年のうなぎでゆうめいな「桜屋」昼時は開店前から皆並ぶが本日は朝早いので開店して無くてよかった。うなぎに目がない「供の者」は、昼だったら絶対入る。前回はこの三島宿うなぎで閉めたのだった。町外れに一里塚。両側にきちんとある。白隠禅師の遺墨江戸中期、「駿河の国には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」と言われた、臨済宗中興の祖だ。東海道中、富士が付いてくる。沼津に入る。平作地蔵を通り過ぎる。日本三大仇討ちのひとつ「荒木又右門の助太刀」にかかわリがあるようだ。そういえば、国府津あたりからの曽我兄弟由来の所も何箇所かあった。江戸時代といえば武士の世。東海道も仇を追っての辛い旅もたくさん有ったのだろう。川沿いを歩く。市民の憩いの場になっているようで、綺麗に整えられた道のベンチで一休み。沼津城などの説明の看板が有った。すこし東海道から離れて、千本松原へ。実はこれが見たかった。大好きな作家である井上靖の碑。「千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は 毎日 それを一つずつ 食べて育った」海辺でお昼にする。海と伊豆半島を見ながら食べる。浜辺にはボール拾いをして遊ぶ犬と子供達、太公望。返り見すれば、薄れていく富士!消えないで!今日一日その姿を見せてという思いもむなしく雲間に消えていった。残念。でもいいか。浜辺には地元の人が残してくれた石で描いた赤富士が・・・。粋な計らいに旅の疲れも飛んでいく。どこまでも続く千本松原を東海道と平行にずっと歩いていきたい気がするが、「こっちの道のほうが風景がいいよ。こっち行こうよ」との東海道の旅、ハイキングと思っている喜多八さんの意見を無視して、そこは律儀に東海道に戻る。何の面白みもない車道を暑いといいながら歩く。頼みの富士ももう見えない。はるか左手を平行に走っているはずの千本松原と海べの道を思い浮かべるがそこはやせ我慢。沼津の次は原の宿。この辺は浮島が原と言って、水辺の街道だったようだ。ところどころ東海道や地元に伝えられた史跡などの立て札など有るが、ただただ続く一本道。喜多八さんが何も言わずに付いてきてくれるのがうれしい。小休止した総菜屋のベンチではアイスクリームまで買ってくれた。すこしお供の格上げしなければ。水戸黄門の角さん辺りに・・。「すぐそこに田子の裏の駅があるけど電車に乗る?」という誘いも「いい」といって断る。うん、頼もしい。さすが角さん。さっきから遠くに吉原宿や富士市にある製紙工場の煙突が見えているがなかなか近づかない。妙法寺の横を通る。拝観遠慮は角さんと意見が一致する。階段を登る元気がもうない。やっとたどり着いた吉原駅から電車に乗って富士駅の予約したホテルに到着。本日道中の癒してくれたもの達。
June 25, 2008
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箱根ウォーキングをしていると私の周りの人たちがそれに対して非常に興味を持って来た。もうすでに歩いたところの本を貸してほしいとか、やってみるとか・・。この頃は挨拶が人の顔を見るなり「どこまで行った?」となる。応援団が多いということか。今日は箱根八里の後半を記録するが実はもうすでに実際は静岡県の由比まで行ってしまっているのである。記録が追いつかない。箱根後半。前日芦ノ湖を渡って宿に泊まったのでまた芦ノ湖を渡って箱根町からスタートとなる。箱根マラソン往路のゴール、復路のスタート地点から我ら東海道五十三次組みも出発。そうは言っても仕事で東京に戻らなければならない娘が1人抜けたので3人での挑戦。「弥次、喜多さんたちがんばってね」の声を尻目に船に遅れないように朝からバス停まで走ったので早、足が痛い。芦ノ湖畔を少し行くと車道から入る道が 坂道を登る。芦ノ湖は箱根の山にあるので三島に下りるのには一度箱根峠まで上らなければならない。小田原からの道と違ってこちら側を歩いている観光客は本当に少ない。道は車の道をまたいだりくぐったりしながら進むので、何箇所かで車道と交差することになる。ここは車道の下を低いトンネルでくぐる。自動車との距離が無いのですこし怖い。写真の左手に光っているのは走り去る車。そして昨日と同じような石畳の道を登る。いきなり蛇を見た。うーんなんだか先が思いやられる。箱根峠の手前で急な階段を登る。見上げるような階段な上に、周りが笹のトンネルでかぶさるように生えているのでちょっと怖い。蛇も見たしなあ~。箱根峠には石で作ったかわいらしいものが有った。下がその説明。これらは新しいもの。広いところはほんの少しでまた笹薮の歩く道になる。車道と古道の関係はこうなっている。緑が国道一号。赤が石畳旧街道。ここからは変化に富んだ道になる。相変わらず足元は歩きにくい昔の石畳の道をところどころ補修してあるのだが、両脇の景色が変化して行くので面白い。笹のトンネル。背をかがめるようにして歩く。奈良のささやきの小道とまでは行かないが、馬酔木のトンネル。新緑の木々のトンネル。そして満開のつつじのトンネル。後から鶯の声が追いかけてくるのでそれも楽しい。実際は新しい鶯が、そのところどころで鳴いているのだが、歩く私達を追いかけて一緒についてくるように感じた。だんだんに下がってくると高い針葉樹の薄暗い森も抜けるようになってくる。そして広い道を横切ると山中城跡に出た。この城の特徴は薬研堀が石垣を使わないで土だけで出来ている。ちょうど祭りをやっていてたくさんの人が集まって太鼓の音などが聞こえていた。お祭りの出し物で駕籠かきの籠に乗って写真を写そうというのがあってやってみたかったけれど、これで運んでくれるわけでは無し、「重いですね」なんて言われそうでやめた。そして富士は見えなかったが時々眺めのいい場所に出たりしながら、ただひたすら三島に向かって下る。三島はまだかいな。笹原の一里塚あたりから畑や民家が増えてきた。ここで仕事中の東京の長女からメールが入った。「どこまで行った?」参加できなくても気になるらしい。そして平地を歩き、三島の宿に到着。三島大社を参拝。三島といえばうなぎだけれど、何度か行ったことがある「桜屋」は駅とは反対に歩かなければならないので、駅に向かう途中の「よしの屋」でうなぎを食べて帰ることに。時刻は4時半。山中城で箱根で買ったおにぎりを食べたのだが、うなぎの誘惑には勝てなかった。
June 17, 2008
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東海道五十三次 ちょっと休憩 秘密の箱解説箱根関所のすぐ近くのお土産屋で秘密の箱を買った。箱根に来た時はいつもこの店で買う。理由は二つ。リュウちゃんというコリーが看板犬になっていて触らせてもらえる。秘密の箱を買うとここでは英文の説明書がもらえる。私は海外への土産や海外からのゲストへの土産にこの箱を良くプレゼントする。外国人の好きな富士山の近くの名所箱根を代表するものであること。日本の伝統工芸であること。海外に持っていくには軽いこと。飾っておくだけでなく使って楽しめること。贈る時に(ここが大事)自分がやってみることで会話が弾み相手をリラックスさせることが出来ること。以上がその理由だ。本当は秘密の箱と言って売っているから、Secret Box なんだろうが、どうもしっくり来ないので、私はMagic Box と通訳している。いろいろな形がある。 大きさもいろいろ 開ける回数も色々。3回、4回、7回、10回、12回、21回、32回、52回。21回にもなると最初は説明書の助けを借りないと難しい。かって説明書を見ないで21回をあけてしまったフランス人がいたけれど・・。1回やって見せると説明書を見せないでくれというリクエストがある時もある。自分でやってみたいんだろう。夢中でやっている。緊張をほぐしてもらえる時間だ。開くための最初の取っ掛かりを見つけるのが難しい。21回を見事あけるとかなりの達成感これは娘が彼女の祖母から送られた最初の箱だ。子供だったので3回で開く簡単なもの。年月が経ってすっかりいい色になった。聞くところによるとその作り方はロシアのマトリョーシカにも影響を与えたそうだ。我が家に2回目に訪れた人たちが居間に置いてある私の箱をそっと持って来て挑戦しているのを見ると、「ああ、最初にあげた箱を国に帰ってからも楽しんでくれたんだな」と思ってうれしくなる。
June 12, 2008
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東海道ウォーキング。須雲川でのお昼を済ませて、リュックが身軽になったところで軽快に出発と行きたいところだったが、今度は自分の身のほうが重くなってしまって坂道が登れない。それに石畳の道は上手に歩かないとうっかり足をくじいてしまうから、森林浴の出来る緑豊かなところなのに、下ばかり見て歩くことになる。こんな道や こんな道 割石坂、大沢坂などと石の道しるべが立っている。名前の下にはそれぞれ登り2町とか登り3町とか書いてある。登りとしか書いてないのは仕方ないか。民家の脇の急階段を上りきると車道と合流した。そこが畑宿。小田原と箱根の宿の間に茶屋などがあった間宿だ。箱根細工の店や実演を見せてくれるところもある。本陣茗荷屋後の碑小さな土産物屋で東海道五十三次の手ぬぐいを買い皆にあきれられる。「いーっつ 使うのよ」東海道五十三次を最初から歩いていないものには東海道と書いてあるだけでありがたいのが分からないのよと独り言を言う。畑宿は非常に小さい。あっという間に通り抜け、守源寺の脇を再び森の中の石畳の古道に入る。入ってすぐ日本橋から23里の立派な一里塚が両側にある。畑宿の区間は以前歩いたことがあるからどんな急な道か分かっていたつもりだがやはりきつい。車の通るヘアピンカーブの続く旧国道を何度も横切るということは歩く道はほとんど一直線に山を登ることになる。車道に出る直前はすごい傾斜の階段を登る。リズムを取りながらでもないととても登れない。そして一気に登ってしまわないと途中で動けなくなってしまうのだ。途中で見た標識。これは車道のもの。だから勾配は10%。歩道はこれの真ん中に一本横に直線を入れると分かり安いかな。勾配は「すごーくきつい」そして歩く道にはこの立て札。「相模の国風土記」から引用された言葉が書かれている。「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼゆる」先に坂を登りきった私が「おにぎりほどの涙こぼゆる」と詠うと、家族皆「えー!」と合唱した。車道と交わるところで車の音や姿は見かけるが一歩歩道に入るとすがすがしい林の中で、坂さえなければとても歩きやすい。追込坂を越えると少し平らな場所に出た。笈ノ平だ。箱根旧街道資料館があったので中に入り、これまで歩いてきた道を振り返りながら展示を見た。自分が歩いてきた道なので説明も真剣に読んだ。すぐ脇には「甘酒茶屋」単純家族なので当然甘酒を注文する。江戸時代には4軒の茶屋があったそうだ。繁盛していたそうだが、分かるような気がする。芦ノ湖側から上がってきた観光客がたくさんいた。甘酒を飲んで元気が出たので、その後もアップダウンの続く石畳の道を歩くのも軽快になってきた。先も見えてきたし、どうやら芦ノ湖の最終船には乗れそうだと分かってほっとしたのもある。芦ノ湖が見えて、ホテルなども見えて来た。道もそろそろ箱根杉並木を思わせる。元箱根到着観光客やら土産物屋やら見ながら進むと。娘の足がぴたっと止まった。名物雲助だんごの表示。いやー、おいしかった。何度も来たことがある杉並木入り口。だけど今日は特別。杉並木を抜け恩賜公園を右手に見て箱根関所資料館の入り口へ。ここも何回もホームスティの人を案内して来ていて何が展示されているか分かっているのでパス。復元された関所の江戸方門をくぐるとそこは関所の中。「あ、品川で買った道中手形忘れてきた」道中手形が無ければ通してもらえない。ちなみに手形が無いからと関所抜けをすると門の横にあるこの磔付け台にさらされてしまう。そこでクイズ「道中手形が無くても通ることが出来た人たちがいた。誰でしょう」「旅芸人かな?」と娘。さすがさっきお団子を食べただけあって頭が冴えている。能、狂言師、芝居者、僧侶、虚無僧などはその特技を見せることで証明された。そして旗本、御家人、御三家家臣、大身の武士も名乗るだけで証明されたという。ちなみに江戸方面に向かう場合は手形は不要。上方門から関所を出ていつも立ち寄る店で箱根細工、21回のマジックボックスを買う。これは海外からのお客にお土産として最適なので買っておく。「船が出るぞ」と聞こえたわけではないが、走って船着場へ。最終便のひとつ前の船に乗って湖尻へ、そしてバスで仙石原へ。本日の宿「はたご一の湯」宿というより長屋かな。これはこれで東海道の旅人には良いか。温泉に浸かって旅の疲れを癒そう。
June 9, 2008
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東海道五十三次いよいよ最大難関、箱根越え。この区間実際は3週間も前に挑戦したのだが、本日UPする。東海道ウォーキングを1人で始めたと家族に告げた時娘達が「じゃあ、箱根の手前まで行ったら知らせて、その区間は一緒に歩いてあげるから」と言われた。確かに箱根は山の中を歩くから1人では危ない。でも、彼女達の魂胆は知れている。温泉つき、食事つき、宿つき、それに今までのコースの中で一番風景が良く昔の東海道の雰囲気を残しているだろう所だ。虫のいい申し出だが、1人より2人、2人より4人のほうが楽しいのは分かっているので、家族全員で参加。宿は東海道をやる以上は出来るだけそれらしい雰囲気のあるところという事で、仙石原で少し遠いが「はたご一の湯」という名前につられて予約した。一日目は芦ノ湖湖尻まで行く舟に乗るために、最終便の5時までに箱根町の船着場に到着すればいい。では、出発。箱根湯元駅でお弁当を買い。川沿いにこの区間の出発点である三枚橋まで戻る。「ちょっと待って、温泉饅頭買ってくるから」娘がお土産屋に飛んで行った。「おいおい、早くも横道ですか?」真剣味のない家族を引き連れて旧街道に入ると温泉宿が並び、今まで東海道で味わったことのない観光地らしい雰囲気が漂う。でも昔の箱根は難所でありこんなに温泉があったわけではなく、小田原の宿を越えたこの辺は湯元茶屋ではあったが宿場でもなかったのだから昔と今とは全然雰囲気が違ったのだろう。それに昔の人は4時間かかる6時の関所の開門に間に合うように小田原を出たというから、ここを通過した頃はまだ夜明け前だったと思われる。車が通る道から少し下に脇道がある。「ここを入るのかな」と言うと。「えー、その道下がっていくよ。箱根の山は登りだから、下がったらそれ以上に登らなきゃならないよ。違う道だよ」娘達+1名が合唱する。案の定、下りのわき道に入ると「旧東海道石畳」の案内板。東海道の旅で培った感は間違いなかった。それにしてもこのぶうたか家族を連れて無事に時間までに芦ノ湖まで行かれるのだろうか心配になって来た。一度下ってまたそれ以上に登って車の通る道に合流して少し行くと東海道自然歩道「女転し坂」の碑が有った。ここから車の道と離れ森の中の道を歩く。少し薄暗いくらいのうっそうとした森の道だ。遠くに車の音は聞こえるが、昔と変わらない道だ。しばらく歩くと須雲川に着いた。橋は無い。岩と何枚かの渡してある板を渡って向こう岸に行くようになっている。この先うっそうとした森や細い道しかなかったらまずいので、この河原でお弁当を食べることにする。箱根湯元を10時に出発し、まだ12時になっていないが昼食タイム。本当はお茶もお弁当も後ろにしょっているよりはおなかに入れたほうが楽だと思ったから。ハイキング気分で皆楽しくお弁当を食べる。この先とんでもない急坂が続くなんて夢にも思わず。
June 7, 2008
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東海道五十三次箱根越えに挑戦。無事帰還した。明日からPCを修理に出すので、東海道の記事はその後になる予定。
May 18, 2008
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東海道平塚から高府津まで平塚の駅を降りて商店街に入ると程なく江戸方見附。見附を復元保存してある。それほど遠くなく上方見附復元に到着。これは上方見附明治時代まで残っていた見附の写真。見附から見附までが宿場だから平塚の宿はそれほど大きくは無い。現代の平塚もそれほど行かないうちに商店街を抜ける。これまでは町を抜けても家並みがたくさん有って、木の香り、土の香りがあまり感じられなかったが、ここに来て一気に東京圏を抜けた感じがしてきた。それは一番上の写真の見附の後方に見える高麗山が見えたからかもしれない。東京を出て初めての山らしい山だ。昔は品川を出ると一気に寂しくなったようだが、今はここまで来ないと都を出た気がしない。両側の家もどこか東海道を容易に想像させる。平塚宿から大磯宿場まではたったの3キロ弱。あっという間に大磯の宿場に入っていた。ところが平塚と大磯では周りの風景がかなり違う。大磯は島崎藤村はじめ文豪達の家があり、吉田首相はじめ8人もの首相が住んだ地。家々もかなり大きな邸宅が見受けられる。街道沿いの店も古い店としゃれた店と混じっていてどこか楽しい。そんな町を歩いていると道の向こう側に面白い建物を見つけた。小さな土蔵つきの建物の看板が旅館となっている。東海道の旅は常にイメージしながら歩いているから、土蔵やかやぶきの家、道しるべは見逃さない。江戸時代の旅人の目になっているのだ。その証拠はこの後分かったが・・。「土蔵でコーヒー飲めます」と書いてあるので迷わず入る。小さな小さなカフェに女主人がいた。カウンターに座ってアイスコーヒーを注文。カウンターだから案の定声をかけられる。「お車ですか」と聞かれる。「日本橋から歩いてきたんですよ」と聞かれたときの決まり文句を告げる。今日は家から来たとは絶対に言わないことにしている。それでは話が進まないからだ。私がどこでもこう言うと、相手は必ず驚いてその先を聞いてくる。話はそうやって進めるものだとこの旅で気がついた。そしてカフェの女主人は「昨日この旅館に泊まった男性の2人ずれはやっぱり日本橋から来たと言ってましたよ。暑かったので足が汗で塩吹いていましたよ」なんと昨日の先客は一気に京都まで行くらしい。宿場宿場で泊まりながら。明日は箱根に宿を取ってあると言っていたらしい。今まで東海道を歩いていて同行になった友はいないが、こうやって時々町の人と話すと、どうやら先達はかなりいるらしい。みんな現代の街並みを歩きながらも江戸時代をも歩いている。どこかに仲間がいて、京都までのこの一本道を歩いているかと思うと何故か心強くなる。女主人と話していると一人の男性が入ってきてコーヒーを注文した。彼は大磯に住む漫画家(絵師)さん。大磯観光協会のポスターも書いている。もちろん写真掲載は彼の許可を得た。河口邦山さん。彼が手に持っているのは彼が描いた大磯に住んだ8人の首相の絵と滋賀県に伝わる「大津絵」をコミカルに描いた絵葉書。3人で話す時間は楽しくつい長く休憩してしまった。松並木と松並木と松松の根元においてあるのは私のA5のガイドブックここの松は太い。そして鴫立庵京都の落柿舎と並び多くの歌人や俳人達のサロンだ。「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」江戸から十七里今回は高府津から小田原、箱根湯元までの距離を残して次回箱根超え。宿を予約してしまった後天候の都合で小田原まで行かれず、小田原の宿区間は箱根越えの後戻ってやり直し。まあいいか。先を急ぐ旅では無し。海が見えたよ。
May 13, 2008
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東海道の旅、みんなに宣伝してしまったので、会うたびに聞かれる。「どこまで行った?」そしてまたアメリカ人の友人2人に宣伝してしまった。進んだらアメリカにメールを打てと言われた。彼女達東海道浮世絵トランプを持っているので「宿場の漢字が読めないから、スペードの3まで行った」のように報告しろと言われた。日本人の友達は旅の途中からメールしろと言う。応援団がすごいね。これでは簡単にギブアップ出来ない。今回は藤沢駅から出発。前回降り立つ駅はどこか懐かしい駅と書いたが、ひょっとしたら、もう2度と降りることの無い駅かもしれない。駅から東海道まで歩いて10分。出発点は遊行寺一遍上人の時宗総本山だ。庭には八重桜が咲いていた。もちろん御朱印も頂く。玄関に花の種がたくさん入った箱が置いてあった。御自由にお持ちくださいと書いてある。インパチェンスの種を頂いた。時々昔に思いを馳せることが出来そうな古い家も残っている。途中に道の右側に大きくそれる道がありその入り口には鳥居が建っている。「大山道」だ。大山阿夫利神社に通じる道。江戸時に特に浅草界隈の庶民に大山に詣でることが流行ったそうだ。みんな講を作って出かけて来て、この地の人たちも村を上げて旅人をもてなしたそうだ。ところで、このあたりを歩くと道路のところどころに旧東海道の松並木がかなり見られるようになる。ずっと続いているわけではないが、時々10本20本と保存されている。今の道路は急東海道を掘り下げて平らに作ったらしく。旧東海道の松が植えられている歩道は少し上がっている。そしてかなり上下にでこぼこしたり、右左に曲がり、松の保存に合わせて歩道を作ってある。歩道のど真ん中にあったりするからよそ見をしているとぶつかってしまう。町の人々が東海道の松を保存する執念はすごいものがあってビックリする。例えばこれ!建物を建てる時曲がった松がじゃまだった事だろう。だって、根元は歩道の中にあるが、その先は大きく曲がって一般人の所有する敷地に入り込んでいる。この写真の松の先はどうなっているか。この建物の所有者は松の位置を避けて設計したんだろう。松のところを空間にしてテラスを持ってきた。ここの他にも松を避けて建物を奥に下げたり、屋根を工夫したりしているところを見かけた。自然や歴史はみんなで守る財産。松の一本一本に保護のナンバーと保存のための薬剤などの注入月日や薬の名前などが書かれているプレートが貼られている。この日街道沿いを歩いているとおいしそうなレストランを見つけた。うーん節約しなきゃ、だけど、おいしそうだし、朝はジュースだけだったからいいか、なんて、結局一度通り過ぎたレストランに戻って昼食。食べたのは本日のランチ850円。カウンターで食事しながら常連客とマスターのデミグラスのソースの作り方談義に参加させてもらう。アスパラにかけるバターを使ったソースの作り方も教えてもらった。今度試してみよう。東海道を歩いて8日目いつしか花は桜から八重桜、藤、ボタンに移ってきた。 相模川(昔の呼び名は馬入り川)を渡って平塚に入る。川を渡ってすぐにおいしそうな和菓子屋が有ったのでついふらふらと入る。「ちょんまげ最中」と「馬入の渡し」という名のついたお菓子買う。いかにも東海道らしい名前だ。お店の人に聞くと、その昔国府祭から帰還途中の寒川神社の神輿と平塚八幡宮の神輿を担ぐ若者がけんかをして、馬入りの若者達が寒川のみこしを馬入り川に投じるという事件が起こり、下手人16人が打ち首に決まった。処刑の日代官はそのちょん髷だけ切り落とし、打ち首に代えたという。いい話だなあ。毎日殺人事件のニュースがある現代。世の中にこんなゆとりが有ったらな。平塚の宿はまだ先だが今回はここまで。
April 25, 2008
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東海道五十三次の旅歩き始めた時は今の東海道、ほとんどが車のびゅんびゅん通っている横ばかり歩くので、さぞかしつまらないと思っていたが、なかなかそうじゃないことが分かって来た。東海道沿線、その地域地域でそれぞれのやり方で東海道を保存していて、現代の旅人のために楽しみを用意してくれている。それを見つけるのはとても楽しい。うっかりやり過ごしてしまって、後で地図を見て見逃したことに気がつくとがっかりする。さて、前回東戸塚の駅から電車に乗った。実は駅と東海道は15分ほど離れている。前回東海道から外れて駅に出てしまった。そこで、少し東京方面に戻ることになるが、境木地蔵からやり直すことにする。たかが300メートルぐらい進行方向にパスすればいいじゃないかと思うかもしれないが、その300メートルの間に何か楽しい事が有ったら残念に思うだろうから、自分の気持ちとしてパスは出来ない。やはり、この日も最初から面白いものを見つけた。スキップしなくてよかった。境木地蔵の前にある相模の国と武蔵野国の国境の杭。そう、ここの地蔵尊の名前の由来だ。もちろん案内板は現代のもの焼餅坂を通って品濃一里塚へここは両側に一里塚がちゃんと丘になって残っている。歩いている道は細い静かな道で車もほとんど通らないが、少し右手は車がびゅうんびゅうん通って、町は東京通勤圏のため写真のようなニュータウンになっている。弥次さん喜多さんもビックリ。途中にあった道しるべの裏に書かれた言葉。「歴史は古く、永く そして悠久に継承される」本当だね。今こうして400年以上も前の道をみんなが保存しようとしている。川には鯉も鴨もいた。過ちに気付いた人からその過ちを正して行こう!誰かが始めている!戸塚宿江戸方見附 の前のレストランでお昼にする。粗食は難しいなあ!!ハンバーグを食べてしまった。昼食を摂ってから宿場入りをする。車やビルばかりでは昔の宿場を想像することは難しい。そこで東海道ではないが、以前行った中山道の妻籠宿の写真を思い浮かべよう!妻籠は昔のままの町並みを保存してある場所だ。中仙道妻籠宿。ちょっと現代の人間が多いが・・・。きっと昔の東海道の各宿場もこんな風だったんだろうな。東海道歩いていると街道沿いには道祖神や馬頭観音、庚申塔が数多く残っている。男女が寄り添っている旅の安全を願う道祖神。「さえのかみ」などとも言う。悪霊が進入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境や峠、辻などに祭られる神様。馬頭観音は道中馬が急死したりしたところに建てる事もある。庚申塔は道祖神信仰と結びついて路傍に建てられることも多い。申の字から3猿とも結びついて行き、塚の下のほうに「見ざる言わざる聞かさる」が彫られていることもある。こういうことも分かってくると道祖神を発見するのも思いを遠く馳せることが出来て面白い。この日は人との出会いも有った。街道沿いに小屋があり、「陶器展示しています。」と有ったので見せてもらった。ちょうど陶芸教室をしていて、それも見学させてもらった。ちょっと前にNHKで「街道てくてくの旅」を放送してこの陶芸教室に立ち寄ったと言うことでそのときのアルバムも見せてもらった。東海道を歩く人たちが時々ふらりと立ち寄るそうだ。そういえばこの辺はあまり面白いものも無くちょっとだらけて来て、人恋しくなるあたりだ。お礼を言って去り際、お土産をもらった。竹を削った2枚の拍子木のようなものでたたくといい音がする。「元気が無くなったらこれをたたきながら歌を歌って歩きなさい」と言われた。うーんちょっとそれは恥ずかしい!だけど鼻歌ぐらいなら・・・。藤沢宿に近づくと道は上り坂。歩道は大きく波打っていてちょっと歩きにくい。けれど近所の人が花を植えたり、きれいに手入れしたりして、何故かイングリッシュガーデンの中を歩いているような感じになる。これなら横を車が走っていても気にならない。松並木保存の看板も。そして藤沢、遊行寺に到着。本日はこれまで、JR藤沢駅より帰路へ。
April 22, 2008
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東海道五十三次 六日目今日の予定は神奈川の宿から保土ヶ谷の宿まで京浜急行で横浜の次の駅、神奈川まで向かう電車の中で五十三次旅の心得を考えてみた。1、食べ物の贅沢をしない。旅賃を考えて粗食に甘んじる事。2、先を急がない、道のりは長い。3、疲れたら休もう、路傍の石の上でも良し。4、歩けなくなったら潔くギブアップしよう。電車はいつも隣を走っている。5、衝動買いはやめよう!道中荷物が多くなる。ほしいものを買ったら、京都に着く頃には トラックいっぱいになってしまうかも。6、無駄遣いをしない。旅の費用が無くなったら行き倒れ!7、友を見つけよう。かもめでも、犬でも、ネコでも。旅は道連れ。 などと、色々かっこよく考えてみたけれど、多分無理! ほとんど無理!特に1、5、6、は絶対無理だろうな。意思の弱い私だから。 4番は間違いなく守れそうだけれど・・。そんなことを考えていたら出発の駅、神奈川に着いた。では、しゅっぱーつ。線路を渡り東海道に入ると道はずっと上り坂になっている。横浜駅は左下のほうになる。旧東海道は道のすぐ左から海岸になっていたそうだから、今の横浜のにぎわっているところはすべてかっては海だったことになる。ちょっと信じられないような・・。昔の人は高台から海を眺め、現代の人は横浜の街と港を見る。坂の途中に老舗料亭田中屋が有る。創業1863年で広重の東海道浮世絵には前身の「さくらや」が描かれている。夫がかって行ったことがあるというので「高かったでしょう?」と聞いたら、御馳走されたから分からない。」と言う。逆に「そのとき店でもらった東海道の浮世絵のついたファイル上げただろう」と言われた。あれ?あれがそうか。自分が東海道歩いていて今興味があるから気になるが、何の興味も無い時は感心も沸かないのね。物事ってそんなものなのだ。そうやって人生、素敵なことも、大事なことも見落として過ごしてきているかもしれないなあ。神奈川台街道沿いには関門の跡、一里塚の跡、茶屋の跡、歴史の道案内板などが、現代の旅人を江戸時代に案内してくれる。横浜の繁華街の外側を歩いている。程なく大山道との分かれ道、昔は道が分かれるところは追分と道しるべが立っていた。私は昔から追分と言う言葉が好きだ。咲いているのは みやこぐさ と指に摘んで 光にすかして教えてくれた右は越後へ行く北の道左は木曾へ行く中山道立原道造 夏の歌 から「村はずれの歌」である。ここで歌われているのは、軽井沢にある信濃追分。北国街道と中仙道の追分だ。東海道は明るい。海に近いせいだろうか、向かうのが京の都だからか、北国のような寂しさは昔もそんなに感じなかったのでは無いだろうか。おっと、こちらも横道にそれた。にぎやかな活気にあふれた商店街、松原商店街。いつしか保土ヶ谷の宿に入る。おや?江戸方見附はあったかな?歴史の道案内板に導かれながら先に進む。あっちょっと休憩。犬連れで入れるカフェで人の犬を見ながらコーヒーを飲む。あれ?お昼は食べたかな?ああ、そうだ今日は朝食抜きで病院で検査のため採血してから旅に出たから、病院の後ブランチにしたんだった。危ない、危ない、食べたことを忘れるようじゃ。ついでに、そのカフェで毎日曜日訪問してくれるゴールデンのチェルシーにお土産の犬用クッキーを買う。問屋場跡、高札場跡などもうすっかりおなじみになった名前を確認しつつ進む。金沢横町道標金沢八景方面に分かれる辻。本陣跡で大きく曲がりなおも進むと脇本陣大金子屋跡、脇本陣藤屋跡、水屋跡、旅籠屋本金子屋跡が有る。江戸時代とまでは行かないがなかなか趣のある家だ。旅籠本金子屋跡。茶屋本陣跡もあり、昔の保土ヶ谷の宿はかなり大きかったことをうかがわせる。上方見附で宿を出るとそこには復元一里塚がある。日本橋から8里。そして今日の一番のクライマックス権太坂へ。箱根駅伝のファンなら知っている 花の2区にある心臓破りの坂だ。選手が通るのは車が通る新道。私が通るのは旧東海道の細い道。権太坂の途中には高校や小学校がある。生徒は毎朝坂登り大変だ。そして私も足ががくがく、息はハアハア。やっとの思いで上りきると見晴らしの良い丘に出た。晴れた日は富士山も見えるだろう。旅人が坂を登りきり、富士を眺めてほっとする気持ちが良くわかる。境木地蔵尊で本日はギブアップ。今日からはJRでの帰還になる。JR東戸塚まで歩いて15分。
April 16, 2008
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東海道五十三次 神奈川の宿まで毎日のようにブログに東海道道中記を書いているが、実は時間のあるとき歩いているし、ブログも遅れがちでUPしている。だから今日は日曜日の分。前回は鶴見でギブアップ。箱根駅伝の花の一区を走る選手は一人で鶴見中継所まで走って来てしまう。すごいな。わたしは三日を要した。日曜日降り立った駅は京浜急行花月園。ここからなら東京に住んでいる下の娘のアパートからそう遠くないので、一緒に歩かないかと誘ったのだが、前日ライブに行って遅かったから眠いと断られた。駅を降りるとなんだか懐かしい。前回ギブアップして電車に乗ったのがどこかよそよそしかったこの駅。今日でたった2回目なのに駅前のお菓子屋さんも、商店街も懐かしくて帰ってきたなと感じるから不思議だ。駅から東海道に戻る。そして今日の旅出発。このあたりは魚河岸横丁、たくさんの魚屋さんが並んでいつもならきっと活気に満ちているだろうな。でも今日は日曜日。すべてのお店のシャターが降りていた。ちょっと残念。そしてこのあたりは歴史上有名な生麦事件のあったところ。江戸に上る薩摩の島津久光の大名行列を何人かのイギリス人が馬に乗ったまま横切り、警護の侍に切りつけられてその後の薩英戦争の発端になった場所だ。イギリス人の中に女性がいたことは説明を読むまで知らなかった。黒船が来てからもうその頃にはかなりの外国人がこのあたりにいたことになる。歩いていても多摩川あたりから関門と呼ばれる外国人の情報や外国人との揉め事をいち早く知るためのチェック場所跡がいくつか越し方に記されていた。そんな歴史の騒動と関係なく日曜日ののどかな昔の面影などまったく無い東海道を歩く。こんにちはこの小さな通りが大きな国道15号に出るところに大きなキリンビールの工場がある。なんだか誘われるように工場に入ってしまった。決してビールに誘われたわけではない。アルコールは駄目なのだ。一歩なかに入ると工場とは思えない。緑の多い公園の中のようで、たくさんの見学客や近所の人が遊んでいる。しゃれたレストランも二つあり、その中の一軒で昼食をとることにした。みんな様々なビールを飲んでいるが、飲めない私はジンジャエールとサラダ・ハマーナを注文する。前回牛丼屋に入って決心した「旅は粗食でつつましく」は早くもどこかへ行ってしまった。食事の後またテクテク歩く。国道15号線はまったくつまらない。昔に思いをはせる余地も無い。心の余裕も無くなって殺伐として来るのでそんな道が続くとつい横道にそれてしまう。人々の生活の証しを求めて。幸い旧東海道の一本奥の道を歴史の道として再現、保存してくれている。そちらに入ることに。何軒かのお寺と神社、公園、小さな松並木(きっと再現したんだろう)歴史地図、案内板、高札場(再現)が有って、ほっとする。高札場は昔の掲示板、幕府の通達や御触書を掲げておく場所。そしていつしか神奈川の宿場に入る。歴史の道を歩き人々がお花見をしている公園の脇を歩き京急神奈川の駅に出る。もう横浜だ。ベイシェラトンホテルと高島屋が見えた。ここから道は京急JRをまたぎ横浜から保土ヶ谷に向かって横浜の港から離れていく。そう、旧東海道は横浜を通ってはいない。横浜はペリーが来て開国をしてから発展した町なのだ。
April 8, 2008
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東海道五十三次三日目蒲田駅に降り立つさあ、今日は多摩川を越えるぞ!と。蒲田駅から六郷土手までは東海道を思わせるようなものの無い広くて車がたくさん行きかう道路だ。排気ガスを吸って歩くのはいやだな。多摩川に着いたら土手でコーヒーでも飲もうと缶コーヒーを買う。温かくなってしまわないうちに着くのを願って。多摩川の土手まで来て初めて土の上を踏みしめた。これまではコンクリートかアスファルト。ぞうりをはいて着物を着てやわらかい土を歩くのがいいか、靴を履いて、動きやすい洋服を着て硬いアスファルトを歩くほうが早いか、それは分からない。しかし、草の上で一杯のコーヒーを飲むのは本当においしい。電車も渡る現代の多摩川その向こうは川崎一度橋はかけられたことがあったが、その後は橋が流されてからは再建されず船で渡していたそうだ。多摩川を渡るとすぐそこは川崎の宿場に入る。街中にもかかわらず茶飯屋「万年屋」、田中本陣跡、佐藤本陣跡など案内板がところどころにあって歴史の道を思い起こさせる、多摩川以前の殺伐とした道路とは違って歩いていても楽しい。川崎駅周辺まで来て、ちょっと本屋に寄り道、そこでよく出来た東海道の地図を買う。思わぬ掘り出し物?江戸からの距離(キロメーター)と歩数が書いてある。宿場から宿場まで大体どのくらいかかるか予想がつく。何よりいいのは各宿場の下に自分の歩いた日にちが書けるようになっていることだ。歩くのが励みになる地図だ。川崎の宿場で昼食休憩。サラリーマン達があちこちのレストランや食堂に入っていく。うーん、何を食べようかな。昔の旅人はきっとお金を節約したんだろうから、安いものを食べたんだろうな。昔の旅人のつもりになろう。サラリーマンに混じって恐る恐る牛丼屋に入る。実は前前から一度食べたいと思っていたのだが入る勇気が無かった。初体験。味はまあまあだね。今日歩いて一番目に付いた人たち。サラリーマンを抜かせば、それは路上生活者。多摩川の橋げたの下、多摩川の河原、そして自転車に空き缶を付けたり、生活道具を積んで引っ張っている人たち。多摩川のあたりにはそんな人たちがいっぱいいた。河原にはたくさんのブルーシートで作った小さな小屋が建っていた。拾ってきたごみのなかに建っているものが多かったが、河原には大きな柳が何本かと桜、桃のようなピンクの花の木が数本、野菜畑のようなものがある一角があり、その中に数軒のブルーシートの家があった。テレビアンテナまである家もある。電気はどこから?映るんだろうか。そこにも紛れも無く春が訪れていた。夏になリ台風が来ると多摩川は増水してすべて水の中になってしまう。そんな様子をニュースでよく見る。だけれど、柳の木は一年や二年で育った大きさではなく見事に立っている。そしてそこに生活する人も過酷な自然に負けないで生活している様子が見て取れる。その生活が違法であるのは明らかだけれど、この世の中、逆境にもめげずしたたかに生きる人たちにそっと小さい声で「がんばれ」と声をかけたくなった。鶴見では横道にそれて総持寺拝観。御朱印ゲット。それた分だけ余分に今日の歩いた総歩数一万九千歩。もう少し桜も楽しめるかな。総持寺の山桜次回は花月園駅から
April 6, 2008
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東海道中二日目昨日ギブアップした品川駅に降りる。東京を背にして十分ほど歩くと京急線の踏み切りをわたるところ、品川宿の入り口になる。してみると、昨日は品川宿に到達していなかったことになるか。ここからは同じ東京でもがらりと様子が変わ。高いビルは無くどこの町にもあるようなちょっとさびれかけた商店街。道幅は当時のままだそうだ。いたるところに商店街の人が東海道を保存しようとする心意気が感じられる。おせんべい屋や駄菓子屋にお休み処と看板が掛かっていて、外に風情がある椅子が旅人のために用意されている。その一軒で通行手形を買った。さあ、これで箱根の関所は越せる。増上寺の交通安全お守りと通行手形街道の両側には当時の松並木の名残の松がところどころに、そして歴史上の人物のゆかりの碑がある。両側の商店街は現代だけれど歩いているとだんだんに江戸の時代を歩いている気がしてくる。何故か寺も多い。まさか行き倒れた人のため?いやいや旅の安全祈願のためにと思おう。昔は宿場の入り口に見附といわれる入り口の門が有ったという。江戸寄りに有るのが江戸方見附、京都側にあるのが上方見附。それにしても品川の宿に入ってから歩くこと一時間まだ商店街のところどころの表示には品川宿とある。なかなか宿場を出られない。まだ江戸を出発したばかりなのにどうしてこんな大きな宿場が必要なんだろうと考える。そうか、私は江戸を出発したけれど、上方から来た旅人は江戸に入る前に必ずここで宿泊したに違いない。江戸を目前にして、はやる心を落ち着かせ江戸に入る準備をしたのだろう。親戚に手紙を書いて江戸に来たことを知らせたかも知れない。まだ見ぬ江戸の情報をこの宿場で集めたかもしれない。江戸に入るかどうか躊躇していた旅人もいただろう。品川の宿場で待てと江戸藩邸から言われた地方の藩士もいただろう。品川は最初の宿場で有って、最後の宿場だったのだ。青物横丁を越えたあたりが品川の宿の終わりだと言われている。そして立会川にかかる涙橋。その先にある鈴が森刑場に曳かれていく罪人がここで家族と涙の別れをした所。あの有名な八百屋お七や天一坊が処刑された場所だ。東海道は旅人だけでなく人生の週末の旅をした道でも有った。行きかう旅人とそこで生活する人と悲喜交交のドラマを含んだ道だった。江戸を発つこと17キロ。本日は梅屋敷、蒲田駅にてギブアップ。
April 4, 2008
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3月29日土曜日、旅の初め、日本橋を背にして立つ。京都まで約500キロ。京都はあっちだ!今は昔。まったく趣の無いビルの谷間だけれど、京の都に向かって歩き始める。旅に出る高揚感と歩きとうせるかどうかの不安感とをもって。この日の銀座は歩行者天国東海道のど真ん中を歩く。道の上にはテーブルを出してお茶を飲む人、大きな買い物袋を抱えた人がいる。両脇にはコーチ、エルメス、スワルフスキーと言った誰でも知っている世界の有名ブランドの店が三越、高島屋などと共に軒を連ねる。昔も今も変わらずここは日本人の買い物の中心。幸か不幸かお金もないし、ブランドにも興味が無いから買い物の誘惑と時間のロスも無く歩き続ける。新橋を過ぎると新しい街づくりが続いている汐留の高層ビル群が見える。そろそろ足が痛くなって来た。ここらでちょっとTULLYSのコーヒーでも飲んで一休み。まだ日本橋から2キロちょっと、4,000歩ぐらいしか歩いてない。昔の人はえらいなあ、着物姿でわらじで歩いたんだ。大門の交差点まで歩いてふと右手を見るとお寺の山門の向こうに赤い東京タワーが見えた。誘われるようにわき道に折れ、増上寺参拝。昔の人もきっとそうしただろうから、いいや寄り道しよう。増上寺は満開の桜に埋まっていた。旅の安全を祈願して、お守りを買う。350円。京都までの長旅にしてはケチり過ぎたかな。もっと大きいのを買うべきだったか?御朱印をもらう。大きな声じゃ言えないけど御朱印集めは我が趣味だから。「スタンプラリーじゃ有りませんよ」と言うお坊さんの声が聞こえては来ますが・・・。もう一度東海道に戻って田町、三田、かって高札場がおかれていた札の辻、泉岳寺も通り越す。足が棒のようになってきた。またまた寄り道してグランドプリンスホテル高輪、サクラタワーラウンジでお茶にする。ケーキに目がくらんで、ウィンナーコーヒーとサクラケーキを注文してしまった。この旅はダイエット効果も期待しているのに・・。ついでに昔の人もただならきっとそうしただろうと(多分していない。旅を急ぐだろうな)庭園の桜を鑑賞して今日はここでギブアップ。旅の一日目の日が暮れる。この分じゃいつになったら東京を出られるのだろうか。もう、江戸は出たはず、江戸の玄関口高輪の大木戸跡は通過したから。
April 3, 2008
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子供も巣立って、ふと気がついたら毎日のだらけた生活があるだけ、何かが足りない。生活に張りが無い。今の自分に目標とかいうものがあるんだろうかと考えた。この年で目標と言ってもなあ。お金もないしなあ。そこへ夫の何げ無い一言。「定年になったら旅に出る人がいるんだって」そうだ、旅に出よう!主婦だから定年は無いから今から旅に出よう!決断したのは先週の金曜日。そして、土曜日、旅に出た。自分の居場所から遠いところで色々感じてみよう。他の人の生活を。時々は知らない人に声もかけてみよう。思いがけない発見があるかもしれないから。疲れたら休もう。休む場所も用意されている。歩んできた道を振り返ろう。そして、立ち止まって見渡そう。これから歩く道を。目標は出来た。旅の基点は日本橋。そして目指すは京都三条大橋。そう、我が選んだ旅は旧東海道53次。ゴールにはいつ着くか皆目わから無いけれど、着けるかどうかもまったく分からないけれど。宿は基本的にしばらくは我が家。前回ギブアップしたところの最寄の駅まで電車で行って、そこからまた歩く。歩く。週に何回歩けるか分からないけれど、目標はある。
April 1, 2008
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