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西浜海岸の式典会場を各社の神輿がお発ち(発輿)。7月17日(月) 8:055番目に鳥居を潜るのは、寒川地区6社の「宮山 寒川神社」の神輿。提灯を掲げた寒川神社の神輿。目の前に、鶴嶺八幡社4社のひとつ「西久保 日吉神社」の新しい神輿。緩い砂浜の坂を上る「西久保 日吉神社」、前方には「矢畑 本社宮」の神輿。次に引返してきたのは鶴嶺八幡社4社のひとつ「円蔵 神明大神」の神輿。神輿の横の金具を叩き掛け声。坂を上ると式典会場で担ぎ、本部席から「ご苦労様でした、来年またお会いしましょう」と。砂浜には3基の神輿。神輿の廻りには多くの観光客が囲む。担ぎ手も足元が砂浜のため不安定では。砂浜の神輿をズームアップするが、寒川地区6社の3社の神輿であろうか。引き返してきたのは「宮山 寒川神社」の神輿。神輿の提灯には「相模一之宮」「寒川神社」と。多くの担ぎ手がいるが、寒川神社へは往復共に「車輌」で移動。神輿の金具を叩き掛け声。坂道を登る寒川神社の神輿。次に引返してきたのは6番目の神輿で寒川地区6社のひとつ「岡田 菅谷神社」。鳥居を潜ったのは、リストでは13番目の寒川地区6社のひとつ「芹沢 腰掛神社」の神輿。出番が早いので禊をするのであろうか。目の前に「岡田 菅谷神社」の神輿。寒川町にあるこの神社はまだ訪れていないのでこの秋に参拝予定。次に鳥居を潜るのは、14番目の寒川地区6社のひとつ「堤 八坂神社」の神輿。坂を上るのは6番目の「岡田 菅谷神社」の神輿。多くの人が砂浜に、神輿は寒川地区6社のひとつ「堤 八坂神社」で14番目だが。鳥居を潜るのは鶴嶺地区4社のひとつ「今宿 松尾大神」の神輿で10番目。海岸へ向かう神輿が競演。海岸へ向かう鶴嶺地区4社のひとつ「萩園 三島大神」で9番目の神輿。三島大神の神輿をズームアップ。鳥居を潜るのは鶴嶺地区4社のひとつ11番目の「中島 日枝神社」の神輿。鶴嶺地区4社の2社「松尾大神」、後方に「三島大神」の神輿が続いてくる。鳥居を潜ってからここまで時間が早く禊はしなかったようだ。丘の上には順番を待つ神輿が乱舞。禊に参加されたのか2名の神職さんが戻ってこられた。寒川地区6社のひとつ「倉見 倉見神社」の神輿。倉見神社は7番目の神輿である。寒川町にあるこの神社もまだ訪れていないのでこの秋に参拝予定。鶴嶺地区4社のひとつで10番目の「今宿 松尾神社」の神輿。松尾神社の神輿には女性の担ぎ手も多く参加していた。鶴嶺地区4社のひとつで9番目の「萩園 三島神社」の神輿。先導者に引かれる「三島神社」の神輿。鶴嶺地区4社のひとつ11番目の「中島 日枝神社」の神輿。まだ半数以上の神輿が丘の上に待機。次に来たのは寒川地区6社のひとつ「一之宮 八幡大神」で8番目だが遅れて来る。前方の坂を上るのは鶴嶺地区4社の「中島 日枝神社」の神輿。日枝神社の神輿の金具を叩くのは女性(右下)。丘の上では松林・小出地区9社のひとつ「菱沼 八王子神社」の神輿。出番は21番目である。砂浜から上って来るのは鶴嶺地区4社のひとつ「柳島 八幡宮」の神輿。八幡宮は12番目で子供御輿(手前)、大人御輿が参加している。鳥居の手前には松林・小出地区9社のひとつ「上赤羽根 八雲神社」の神輿で16番目。柳島 八幡宮の大人御輿が上って来る。8:15左側には八幡宮の子供御輿で子供達も担いでいた。 ー 続く ー
2023.08.08
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里山公園の入口からお江戸道を北上、腰掛神社の前を通り西側の谷戸へと下りる。ここまでは愛車のリンちゃんで移動。11月16日(木) 13:50里山公園 谷の村北口自転車はこれより先は下りて下さいと。また、茂みには「マムシがいます」の看板があったがこの時期は安心して・・・。入口には”里山のルール”、”案内図”。里山の自然を守るためのルール ① 生きものの持ち込み、持ち込みはやめましょう。 ② 生きものの生活を脅かす行為はやめましょう。 ③ 動植物の生育・生息環境を守るため、許可を得た保全・調査活動を除いて、植林地や柵の 中などに、立ち入らないようにしましょう。 ④ 三脚使用の自然観察は、通行に支障をきたさないように配慮しましょう。里山保全エリアでは ● 県内でも貴重となった谷戸※の生態系と、そこで育まれた伝統的な農文化を継承していく ことを目指しています。 ※ ここでいう谷戸とは、丘陵地の谷底の湿地等と、その集水域となる斜面林等を含む 範囲で、一体として、農的な利用がされてきた歴史があります。 ● 里山でのいとなみを体験・学習できます。 ● 茅ヶ崎里山公園俱楽部※などの連携によって、伝統的な里山環境を保全・修復する管理を 行っています。 ※ 茅ヶ崎里山公園俱楽部とは、どなたでも会員になって参加することができます。里山保全エリアには田んぼ。立札には「もち米 (満月)」。田植え:6月 稲刈り:10月指定管理者(公財) 神奈川県公園協会 県立茅ヶ崎里山公園 茅ヶ崎里山公園俱楽部まだ多くの荒れ地もあるようだ。小学校ごとに開放し”田植え”の体験教室も良いのでは、収穫した米で”おにぎり”も最高では!と。さといも畑手前は既に収穫済で奥に一作残っていた。今年の”さといも”の出来は悪かったようだ!芹沢の池水田に水を供給するための池で、中ノ谷池と同様に防災調整池として機能している。芹沢の池にはいつも多くのコガモがいる。池には小魚がいるようで口先を水面に入れ小魚をつかんでいた。ズームアップ。休憩しているコガモたち。ススキの穂。芹沢の池には魚は何が。釣りは禁止?になっているのか釣り人はいない。南側の谷戸に広がる竹林。この広場ではイベントが行われる時にはキッチンカーが営業しているのであろうか。県立茅ヶ崎里山公園「谷(やと)の家」入口にポール。駐輪場:オートバイ・自転車乗り入れ禁止。西側入口からここまでは自転車で乗り入れが可能になっている。県立茅ヶ崎里山公園「谷(やと)の家」のご案内【開館時間】9:00~16:00(年末年始を除き無休)お食事・休憩など、どなたでもお気軽にご利用いただけます。 ・利用料金は無料です。 ・館内は禁煙及び禁酒です。 ・多くの方がご利用しますので、譲り合ってご利用ください。広場の先に竹林。整備された竹林に入る。竹林に聳える”ヤマトアオダモ”。落葉高木で本州 〜 九州の山地の渓流沿いなどに生える。高さ15〜25mになる。樹皮は淡褐色でなめらか。若枝には淡褐色の縮れ毛があるが、後に脱落する と。ヤマトアオダモ(モクセイ科トネリコ属)ヤマトアオダモの葉形や毛の様子は変化が多い。小葉の幅がやや広く、裏面の脈上に毛があるものをツクシトネリコというが、細脈にまで毛があるものから無毛に近いものまで変化が多い。遊歩道から竹林を見上げる。この日は風がなく竹藪の中は静かであった。竹林から”谷 (やと) の家”を望む。左側にはシイタケのホダ木が数十本。シイタケのホダ木ホダ木で最も適しているのは主にクヌギ、コナラ、ミズナラで、カシ、シイ類なども利用できる。シイタケを本格的に収穫できるのは植禁してから2夏経過となり、4年から5年継続すると。谷(やと)の家所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢 2535里山に人が住んでいた風情をかもし出す農家風の建物で、農作業や四季折々の歳時記などの体験場である。一般利用者の立ち寄り拠点、茅ケ崎里山公園倶楽部の活動拠点となっている。門を入ると右側にはトイレ施設がある。掲示板には、「茅ヶ崎里山公園俱楽部」の活動内容、会員募集のポスター。「谷の家」の案内。谷の家では「展示・イベント」が行われている。南側の左側の建物は”蔵・車庫棟”。正面の竹林の中には”炭焼窯”。谷戸の家は芹沢村の村役人を務めた旧常盤家住宅である。入口には「谷 (やと) の家」。ここの左奥に管理人室があった。右側には”カラスウリ”の写真、赤い実が飾られていた。正面には”ドングリのいろいろ”。中に入り土間にカマドがあり大きな釜が置かれていた。イベントで使用されているのか薪も置かれていた。鳥類の写真も掲示。左上:ハイタカ、右上:ふくろう左下:オオタカ、右下:カワセミ鳥 類 ・ 76種の鳥類を確認しました。 ・ ハイタカなどの猛禽類のほか、ヨシゴイやアマサギなどのサギ類が水辺で、ヤマ ガラやサンコウチョウなどが樹林で確認されました。公園の鳥類の特徴 ◆ 様々な種類の鳥類が見られる本公園には、樹林性、水辺性、草地性など様々な環 境に生息する鳥類が見られます。これは、斜面林にはコナラなどの広葉樹林、ス ギなどの針葉樹林、モウソウチク林など様々な植生がモザイク状に分布している こと、低湿地にも田んぼ、休耕田、ヨシ原など多様な環境が分布することなど、 里山の特徴が反映していると考えられます。 ◆ 年間を通して様々な鳥類が利用する留鳥のほか、夏鳥、冬鳥などが利用しており 鳥類の貴重な生息環境となっています。また、相模川以西に分布して繁殖すると されるキビタキが確認されており、生息環境としてだけではなく、渡りの中継地 としても重要な場所となっています。土間の壁面にはいろんな鳥の写真が飾られていた。ふた間(各十帖)続きの板床がピカピカに。上がり間には囲炉裏、奥座敷には床の間。かつては畳敷きであったのであろう。昨年群馬で見たお寺の”床もみじ”を思い出した。その時のブログは「群馬県宝徳寺の床もみじ」👈 をクリック願います。床の間には七五三の「子どもの晴着」が飾られていた。奥座敷へ回り込み上がり間を、床もみじの宝徳寺の床は黒(漆 ?)ビカリであったが?。イースタ映えのために庭先の竹林、紅葉をどうにか呼び込みたいが。南側には九尺の縁側がある昔ながらの間取りである。庭先の雰囲気を床に取り入れたいものだ。囲炉裏は防火のため使用禁止に。軒先には沢庵漬けようの大根が干されていた。我が家でも毎年12月中旬には義兄から干し大根を頂き漬けている。庭先の竹林。春先にはタケノコを収穫するのであろうか。庭先の南側には”炭焼窯”。炭焼の体験教室を行っているのであろうか。私も子供の頃、山に入り伯父の炭焼の手伝いをしたものだ。廻りには竹林もあり竹炭の製造も良いのでは。また若竹で”メンマ”の製造も。庭先の花壇でシュウメイギクが咲いていた。ホトトギス (杜鵑草)。またイベントが開催される時に訪れたいものです。14:30谷の家から急な坂を上り西側の入口へ。右側の駐車場は公園関係者用。谷の村(里山保全エリア)里山の文化や循環の仕組みを継承し、生物多様性の保全を図っていく場。里山の自然を守るためのルール ① 生きものの持ち込み、持ち込みはやめましょう。 ② 生きものの生活を脅かす行為はやめましょう。 ③ 動植物の生育・生息環境を守るため、許可を得た保全・調査活動を除いて、植林地や柵の 中などに、立ち入らないようにしましょう。 ④ 三脚使用の自然観察は、通行に支障をきたさないように配慮しましょう。里山保全エリアでは ● 県内でも貴重となった谷戸※の生態系と、そこで育まれた伝統的な農文化を継承していく ことを目指しています。 ※ ここでいう谷戸とは、丘陵地の谷底の湿地等と、その集水域となる斜面林等を含む 範囲で、一体として、農的な利用がされてきた歴史があります。 ● 里山でのいとなみを体験・学習できます。 ● 茅ヶ崎里山公園俱楽部※などの連携によって、伝統的な里山環境を保全・修復する管理を 行っています。 ※ 茅ヶ崎里山公園俱楽部とは、どなたでも会員になって参加することができます。 ー 続く ー
2023.11.27
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ポルトガル:二日目、2/9(土)世界遺産の「バターリャ修道院」の後半10:43教会の内部は非常に簡素だが、内陣奥の聖母マリアとキリストの生涯を描いたステンドグラスが彩りを与えている教会にはゴシック、ルネッサンス、マヌエルなどさまざまな建築様式が見られる上部のステンドグラス教会から「ジョアン1世の回廊」へ1386年に建設が始まり1515年に完成。初代建築家アフォンソ・ドミンゲスによって造られたゴシック様式の簡素な回廊に、約100年後にリスボンのジェロニモス修道院を手がけたボイタックがマヌエル様式の装飾を施し、見事な調和を生み出しているレース細工のような繊細な狭間飾りが見事狭間には天球儀やエンリケ航海王子の紋章である十字架などが彫り込まれている狭間にある天球儀をズームアップジョアン1世の回廊からの中庭マヌエル様式とはポルトガルを代表する16世紀初めの建築様式。ゴシック建築を基調とする様式で、大航海時代の繁栄を思わせる豪華な装飾が特徴。貝殻や鎖、ロープ、天体儀などのデザインが多く用いられている。様式名は、大航海時代を築いたポルトガル王マヌエル1世(1469~1521)に由来する。10:56参事会室教会の北側にあるジョアン1世の回廊の東側に続いている参事会室は、現在、第1次世界大戦とアフリカの植民地争いで命を落とした無名戦士の墓が置かれていて、衛兵によって守られている11時の衛兵交代式前。交差リブヴォールトによって支えられた部屋には柱が一本もなく、建設当時は天井が落ちるのではないかと騒がれた。設計したアフォンソ・ドミンゲスは、安全性を証明するため3日3晩この部屋に座り続けたという参事会室にも、キリストの苦難の場面を表した16世紀のステンドガラスがあり美しいキリスト像11:00交代の衛兵がジョアン1世の回廊から1時間ごとに2名が交代お疲れさまと無言で交代2名が後退して退室ジョアン1世の回廊へ出ていく約3分で交代式を終える衛兵と記念写真ロープが編み込まれた模様も参事会室からジョアン1世の回廊回廊からの尖塔回廊の北西角にある噴水:食堂の入り口の手洗い場ジョアン1世の回廊の反対側には前衛芸術品の置物?アフォンソ5世の回廊15世紀に造られたゴシック様式の回廊。天井のリブヴォールト交差部分に取り付けられている紋章はドゥアルテ1世とアフォンソ5世のものだ中庭に糸杉が植えられたアフォンソ5世の回廊簡素なデザインのアーチが並ぶ、アフォンソ5世の回廊アフォンソ5世の回廊から東側に出る。正面は「未完の礼拝堂」未完の礼拝堂前から北側を望む未完の礼拝堂。連続アーチと精緻な装飾が見事な礼拝堂入口ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世により建設が始まり、没後は後のマヌエル1世に引き継がれて100年程工事が続けられたが、ついに未完に終わった。その理由は、設計上のミスという説と、ジェロニモス修道院の建設のために建築家がリスボンに行ってしまったという説があるが、確かなことはわかっていないかたつむりはゆっくり進む・・・・・観光後、修道院入場チケットをもらう11:19観光後、昼食時間まで自由行動。修道院周りの土産物店を散策ポルトガルの帽子を購入何故か、店主からワインを一本頂く11:40から、修道院近くのレストランで昼食。メニューはポルトガル語で解らないが、約10€(約1200円)レストランのトイレ、なぜかカバーが防臭対策?11:56サラダ料理:朝食で野菜がなかったので!チキンの煮込み:パンを食べたので、ライスは硬くて食べず12:23最後にデザートで、大きなプリンが出る。味は日本と同じで美味しかった!12:36食事を終えて12:37修道院とともに発展してきたバターリャの町他にデジブックにてBGM入りで「ポルトガルの旅ー前編」を公開しておりますので併せて訪問して頂ければ幸いです。 ポルトガルの旅-続く
2019.03.15
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スイスの旅六日目フルカ峠(Furka Pass)は、ヴァレー州のグレッチュとウーリ州のレアルプとを結ぶ、スイス・アルプスの高所にある峠。標識の標高2,436m(スイス国土地理院発表は2429m)で、ジームズ・ボンド映画の『ゴールドフィンガー』の舞台の一つとなった。平成26年7月25日(金) 12:46前方にフルカ峠があり、道路脇をフルカ山岳蒸気鉄道が走るグレッチ(Gletsch)からのフルカ峠。フルカ山岳蒸気鉄道のグレッチ駅があり、標高1762m。ここから坂道になり、九十九折の坂道を上り、フルカ峠へと進む。かつて100年前まではここまでローヌ氷河があったとグレッチ(Gletsch)を見下ろす。ローヌ渓谷を流れるローヌ川で、ローヌ氷河から流れ出る氷河の溶け水は白濁した川となる。スイス人はこれをグレッチャー・ミルヒ(氷河のミルク)と呼んでいるフルカ峠の山並みの左下がローヌ氷河だが、現在は谷に氷河はない地球温暖化で、氷河は一年に約30m ~ 40m程後退しているとバスの車窓からフルカ峠手前にあるホテルを望む急斜面に180度のカーブが連続するが、こちら側(西側)の道幅は広い急斜面に道があるため、Uターン部分(180度)は人工的に広げている山の斜面の黄色〇部分が、ホテル登山道にフルカ山岳蒸気鉄道の踏切フルカ山岳蒸気鉄道は、レアルプとオーバーヴァルトの区間を路線に持つ鉄道会社である。 標高2431mのフルカ峠を越え、ローヌ氷河の近くを通過する。 ツェルマットとサン・モリッツを結ぶグレッシャー・エクスプレスが同じルートを通っていたが、フルカベーストンネルの完成により廃線になった夏期のみの特別体験として人気の登山鉄道(写真はネットから)廃線後、この歴史ある絶景路線をあきらめられない鉄道ファンが多く、翌年にはすぐボランティアによる活動がスタート。その旧路線を修復し、電化することなく、各国に売却されていた蒸気機関車を買い戻し・整備して「フルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke(DFB)」として幻の路線を復活させました。 2000年にまずレアルプとグレッチ間が開通。続けて現在の氷河特急も走るオーバーヴァルトまで延長し、2010年からはレアルプ駅=オーバーヴァルト駅間の旧路線の全線が開通した上ってきた道を振り返る、中央の山への坂道はインターラーケン方面自転車で越える若者左が登ってきたフルカ峠への道、右側の坂道はインターラーケン方面。ローヌ渓谷のグレッチ(Gletsch)を見下ろすフルカ山岳蒸気鉄道のグレッチ(Gletsch)駅、ここから急斜面になる北西方向、ユングフラウヨッホの山々があるが、山の形で山の名が解らず残念だが、アイガー、メンヒ、ユングフラウの三名峰が見えているのでは登って来た道を振り返る。南西方向、天気が良いとドーム、マッターホルン、モンブランが見えるのだろう。白い線の道路の下をフルカ山岳蒸気鉄道の線路が見える山の中腹に、ベルヴェデーレホテルが見え、左側にローヌ氷河がある登って来た道を見下ろす(車窓から)。道路の下に、フルカ山岳蒸気鉄道の線路も見える。フルカ山岳蒸気鉄道は、かつては2160mの高所を全長1.874kmの旧フルカトンネルで抜けていた。その前後は最大勾配110パーミルのアプト式、しかも冬季は豪雪地帯ゆえ雪崩の被害を避けるために鉄橋を取り外すほどで、半年以上にわたり運休を余儀なくされる難所であった13:10フルカ峠手前の展望台へ立ち寄りトイレ休憩。この奥にあるローヌ氷河には、グロット(氷河の洞窟)で、ローヌ氷河内部の見学ができる。トイレ休憩のみで見学の時間がなくスルー19世紀末に創業の「ホテル・ベルヴェデーレ」。ベルヴェデーレとは「美しい眺め」という意味で、かつては氷河が眼前に広がっていたと駐車場からローヌ渓谷を見下ろす駐車場から見下ろすと、マーモットがいたズームアップして追いかける北西方向の、ユングフラウヨッホの山々が見える私の高度計は、標高 2,220m を指していた駐車場の裏山駐車場の上から雪解け水。フルカ峠は分水嶺になっており、この辺り(西側)の水はローヌ川となりスイス最大の湖であるレマン湖に流れフランスを経て地中海へと流れる。東側はロイス川となりライン川と合流する約15分のトイレ休憩で「ホテル・ベルヴェデーレ」を出発。13:21フルカ峠の下を新トンネル(16km)が開通して以来、それまで峠越えに2時間を要していたが約20分で通過できるようになったフルカ峠は、冬季は閉鎖しており、開通は6 ~ 10月初旬13:23フルカ峠を越え東側へ。東側の道は狭くなる、またフルカ峠が分水嶺のため、この辺りの水はロイス川となりライン川と合流してドイツを経て北海へと流れる道が狭く、ガードレールも無いので怖いアンデルマット(Andermatt)側のレストランアンデルマット(Andermatt)への道ツーリングも多いコースこの雪解け水はロイス川となり、ライン川と合流してドイツを経て北海へと流れる山の斜面には高山植物が咲き乱れる13:30渓谷をフルカ山岳蒸気鉄道が走る。かつては、“氷河(グレッシャー)”という名前の由来でもある、ローヌ氷河の眼前を通るフルカ峠越えルートを走行していましたが、1982年から新たに開通したフルカトンネルを通るルートに変更され、その旧路線は廃線となったズームアップ廃線後ボランティアの努力により、2000年にまずレアルプとグレッチ間が開通、2010年からはレアルプ駅=オーバーヴァルト駅間の旧路線の全線が開通し、夏期(6月下旬~10月上旬)のみの特別体験として人気の登山鉄道が走っているネットからSLの写真道路脇の斜面に小さな教会が建ち、ルピナスが咲く放牧されている牛、山には残雪が残る車中からレアルプ(Realp)を見下ろす道路が狭いのでツーリングのバイクは止まり、バスに譲る13:40レアルプ(Realp)の街並み、手前にレアルプ駅1982年に開通した「フルカベーストンネル(15.442km)」の出口標高1546mにある、レアルプ駅ライン川へ流れるロイス川鉄道は、ツェルマットとサン・モリッツを結ぶ、マッターホルン・ゴッタルド鉄道(MGB)でスイス一回目の1999年7月に氷河特急で通過した路線である。この辺りは平地であるので、線路の中にラックレイルが無い13:53マッターホルン・ゴッタルド鉄道(MGB) スイスの旅ー続く
2020.09.12
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甘沼山成就院の花まつりで訪れる。4月8日(金) 11:12本堂裏の北側にある「樹木のお墓」各々の石の下に納骨されているのであろうか。墓碑の間にはツツジが植えられており咲き始めていた。西側の山を見上げるとサクラが綺麗に咲いていた。安らぎの永代供養墓「樹木のお墓」の案内板樹木のお墓を振り返る咲き終わった花柄が天に向かって珍しい黄色のモクレンが咲いていた。名前は「キバナモクレン」。キバナモクレンは、マグノリア・アクミナータとハクモクレンの交配種で、耐寒性落葉小高木です。花の感じは、ハクモクレンやコブシに似ています。花径12cmほど、花色は淡黄色・ ハクモクレンの花の内外を黄淡緑色にしたような感じです・・・開花時期は4月上旬~中旬でわりに短期です。小さい内から花をさかせるのですが、木は大きくなりやすく、樹高は3m ~ 5mとなり 庭木や、公園、街路樹として見られるようになってきているそうです。(ネットより)樹性が強く、大変花付きが良いのが特徴で、優雅な芳香を放ち、美しく印象的なので、庭木としてシンボルツリーとして人気がでてきているようです。本堂西側に聳える枝垂れ桜。サクラの下では焼き芋を焼き参拝者に無料で振る舞っていた。裏の墓地から枝垂桜を見下ろす。11:20成就院の西側にある駐車場にキッチンカーが2台。一番奥で「インド料理」、右側には花まつりで休憩所も設置。この後、近くにある「甘沼八幡大神」を訪れることに。休憩所にあったパンフレット。毎月開催 第2日曜 お寺マルシェ in 甘沼山成就院11:26県道404号線(小出県道)にバス停「八幡神社前」があったのでここを左折して路地へ。前方の高層ビルは「オクトス湘南 茅ヶ崎ヴィスタヒル」バス停を左折し進むと長い階段が目の前に現れた。途中、サクラが咲いていたが境内らしきものがなく。この長い階段を上ることに階段を上り終えると、スリーハンドレッドクラブへの桜並木。間違えて上って来たようで再度、下りることに。11:35甘沼 八幡大神(あまぬま はちまんおおかみ)所在地:神奈川県茅ケ崎市甘沼292曲がる路地を間違え、県道に戻り東へ進み左折して階段下へ到着。県道沿いに案内板がなかった。階段を上った所に「甘沼 八幡大神」の石柱。鳥居の左側に、「甘沼八幡大神と甘沼村の由来」八幡大神社 格 相模国高座郡甘沼村明治六年十二月披列村社候事祭 神 八幡大神は誉田別命(注応神天皇)軍の神様境内に末社あり殿山稲荷と云う祭神に倉魂神 農業の神様創 立 明暦二年丙甲(西暦1656年)今から参百弐拾六年前である。現建物 奥殿は昭和二十六年十月に再建された。本殿は昭和四十八年九月に村有志により再建さ れたものである。甘沼村の由来由 来 昔より高座郡に属す起源詳ならず口碑に今の本村の田地震にて概て一円沼地にして其辺 甘草の生茂せしを漸々開墾したるを以って甘沼村と云い懐島郷(旧大庭の庄)の一つであ ったが冠稱を廃して現今は単に村名のみを用う。沿 革 往古詳ならず永禄年間北条氏の臣近藤孫三郎来地たり天正十八年庚寅徳川氏に代り承応 三年甲午旗下堀順三郎の知行所となり明治元年戊辰八月韮山県に属し同年九月に神奈川 の所轄となる。 昭和五十七年三月吉日建之鳥居の右手に「鐘楼」が建つ東側に廻り甘沼八幡大神の石鳥居鳥居に 「設主 沼上末吉 東京市芝区田村町六ノ五 昭和八年三月吉日」 丁寧に電話番号まで記載されている。社殿への参道社殿への階段下にある「庚申塔」。ちがさき観光ガイドマップに「八幡神社の庚申塔」として記載されている。庚申塔の前には信仰心のある方がおられるようでワンカップが二本供えられていた。八幡神社の庚申塔 平成十八年二月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福 を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応三年(1654)の年号が見える。基部には造立者十人の名が刻まれている。四臂(ヨンビ)(うで)で二猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎 三、平塚 二、寒川 一、藤沢 一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。 茅ヶ崎市教育委員会階段の左側に並ぶ「道祖神、廿三夜塔」左の「廿三夜塔」には、明治三十七年一月吉日右の「道祖神」には、安政二年卯正月吉日 と刻まれている。 狛犬の「阿形像」狛犬の「吽形像」正面に拝殿両側に末社が鎮座。拝殿の扁額「八幡大神」拝殿右側に建つ「神楽殿」後方に、「オクトス湘南 茅ヶ崎ヴィスタヒル」の高層ビル。拝殿左側には「神輿殿」「末社」が建つ。当社の例祭は8月4日とされるが、神輿渡御は9月上旬に行われているようだ。甘沼八幡大神神輿保存会が組織されている。また当社は、毎年7月の海の日に茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭に参加する一社である。神輿殿の扁額「神輿殿」末社 扁額がないため社名は不詳境内の西側から、「末社」「社殿」力石か東側から境内を見渡す。 こちら側が朱色の鳥居があるので「殿山稲荷」か。奥殿(本殿)は昭和二十六年十月に再建された。本殿(拝殿)は昭和四十八年九月に村有志により再建されたものである。扁額がなく社名はわからないが「殿山稲荷」か境内の左側から南東方向を望む、下に「殿山水泳プール」、遠く高架橋は「新湘南バイパス」、左奥には「江の島」。参道沿いの公園社殿前の狛犬一対参道を見下ろす拝殿前から階段を下り振り返る。11:50甘沼八幡大神を後にする。11:55帰路に、北方向の殿山公園を望む。先程訪れた「甘沼 八幡大神」はサクラが咲く下にある。予定通り12時には自宅へ到着、愛車のリンちゃんでの6キロの散歩でした。 END
2022.04.19
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備瀬集落 フクギ並木通りの散策を続ける。9月27日(火) 13:55無料の駐車場に車を止め散策に。住宅の廻りにはフクギが聳え鬱蒼としている。沖縄の原風景を残す備瀬エリアのフクギ並木は、徒歩・自転車・水牛車で探索できる。細く白い砂地の路に青々とまっすぐ伸びる約18,000本のフクギは、古くから沖縄で防火・防風防止の最適な植物として使われてきたとのこと。若者たちはヘルメットをかぶり電動キックボードで移動。レンタル?福木・フクギは並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林となる。ここ沖縄県の本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」(「チュラ」は「美しい」「清らか」の意味)などが有名。奄美方言の地方名では「火事場木」を意味するクヮジバギといい、緑の壁のように植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされるとのこと。前方に「夫婦福木」。2つの巨木がくっついているので夫婦福木という名前がつけられたそうです。フクギの樹高は10~20m。葉は対生で、長楕円形または卵状楕円形で長さ8~14cm。雌雄異株で、花期は5~6月。1.5cmほどのクリーム色の5弁花を葉の付け根に咲かせる。果実は直径3cmほど、3~4個の種子を含む液果で黄色く熟し、クビワオオコウモリ等のオオコウモリ類の餌となる。フラボン系のフクゲチン色素が心材や樹皮中に多く含まれ、古くから紅型、琉球紬、久米島紬などの黄色染めに用いられてきた。福木の色素はアルカリ媒染で赤味の黄色に、すず媒染で黄色に、銅媒染で黄緑色に、また鉄媒染で黒味の青緑色にそれぞれ染色される。(ウィキペディアより)。フクギは生命力があり根元からは新しい芽が。ガイドさんの話を聴いていると「観光客でうるさいので最近は移転する人が多い」と。集落は下水も完備しているようで汚水マンホール蓋が設置されていた。フクギ並木通りには「一時停止!左右確認」と。各国からの観光客も多いようで4か国語で表示している。入口に「備瀬区公民館」、「備瀬構造改善センター」の2枚の表札所在地:沖縄県国頭郡本部町備瀬457備瀬神アサギ備瀬集落の真ん中ほどに、「備瀬神アサギ」があった。ここは集落の神祭りを行う小屋であると。神アサギのある村を「古層の村」と呼び、古琉球の時代(17世紀以前)からあった村と考えられているのだと。かつては茅葺き屋根で軒の低い建物であったが、現在は瓦葺きやコンクリートになっている。明治三十六年以前に創設されたムラは神アサギを設け、神人を置き祭祀を行ってきたと。左の石碑には「備瀬神殿改築紀念碑」と刻まれていた。右の石碑は黒く汚れていて判読できない。ウカミャーは、神殿(神様三体祭)祀アサギヤーは、拝殿備瀬集落は六百五十年に創設されたと云われ、完全な村落が形成されたのは、三百五十年前後と考えられる。このアサギヤー(ウカーミヤの神)は、備瀬区の始祖神として崇拝され、総ての祭事は、この場を中心に行われています。アサギヤーは、神殿も拝殿も去る戦争の戦禍から逃れ、今に昔ながらの偉容を呈している。これも、備瀬の氏神様により神押しで守られ、備瀬区民の信仰が深いことから天地の神様がお護り頂いたものと信じます。この場所は備瀬区一の聖地で、年初めにはアサギヤーで、神人達が初御願(パチーウガン)で始まり、十二月までの数々の祭事、御願を行います。字民の無病息災、農作物の豊作祈願(五穀豊穣)大漁祈願と拝みます。観光のお客様は、パワースポットとして、心の中で、お拝み思いのパワーをもらって下さい。( 二礼・二拍・一礼)備瀬神アサギを正面から。この地区の祭祀場で、周りのフクギ並木や海岸の景色含め雰囲気が素晴らしい。備瀬海岸エメラルドグリーンの海とサンゴ礁が広がるビーチである。案内板には「海・伊江島ミーウガンへの眺望」備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む夕日はとても美しい眺望です。伊江島に沈む夕日の写真。備瀬海岸から備瀬崎の先にある「備瀬埼灯台」方向を見る。備瀬埼灯台をズームアップ灯台へは干潮時に歩いて行ける場所で備瀬埼から約10分ほどで行けると。海のかなたにうっすらと「伊江島の城山(伊江島タッチュー)」の姿が。城山は東寄りにある海抜172mの岩山で村外からは「伊江島タッチュー」の名で親しまれている。城山は、島より7千万年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新しい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられた。この現象は、理論として語られていたが実際に見るのは世界でも伊江島しかないのだと。烏帽子を思わせる独特な形から古くから近海を航海する船が目印にしていた。また、航海の安全と健康あるいは豊作を祈願する城山御嶽がある と。備瀬海岸から備瀬集落フクギ並木へ戻る。福助の玉子焼き/備瀬のフクギ並木店所在地:沖縄県国頭郡本部町備瀬415沖縄で人気のB級グルメの一つでもある「ポーク玉子おにぎり」!福助の玉子焼きのポーク玉子おにぎりは、とにかく玉子が分厚くてインパクトが凄いんです! と。メニューは、 ● 厚焼きポーク玉子おにぎり ● アーサ厚焼きポーク玉子おにぎり ● 厚焼きポーク玉子サンド ● 厚焼き玉子焼き などがある。小腹が空いている方は玉子焼きをおやつ代わりに食べるのもあり、夕食に買いたかったが。フクギ並木通りに民宿案内民宿「備瀬416」 1名:1素泊 2,500無料駐車場入口にはいろんな石碑が建っていた。渡口彦信顕彰碑この顕彰碑は 渡ロ彦信が 政治行政 産業経済 防犯福祉を通し 各般にわたり広く社会やふるさと備瀬区のために貢献されたご功績を讃え 末永く後進への励みに建立する。顕彰碑の前には左右にシーサー。経 歴渡口彦信は1926年(大正15年)本部町備瀬区で出生。幼少期父彦栄が万年筆店を嘉手納で開業を機に移住。沖縄県立農林学校を卒業。家庭用品店を経営、嘉手納町議会議員(6期)、嘉手納町商工会会長、嘉手納地区防犯協会会長、特別養護老人ホーム比謝川の里理事長、比謝川ガス株式会社設立代表取締役、マル井産業株式会社取締役会長、沖縄県LPガス協会会長、嘉手納タウンセンター開発事業協議会会長等を務め備瀬地区に於いては戦没者慰霊塔再建に多額の資金協力と文化事業や老人福祉に貢献した。表 彰藍綬堡章授章 沖縄総合事務局長表彰警察庁長官表彰 全国町村議会議長会自治功労表彰経済産業大臣表彰 沖縄県知事防犯功労表彰右側のシーサー左側のシーサーこちらは歌碑。「情ある人の 福徳の礎 造て後の世の 宝さびら」 高良 武 詠「備瀬むらに生れ 御万人の為に ちむ情かきて 沙汰ゆ残ち」 宇茂佐 初枝 詠 2015年6月7日フクギの里宣言記念碑国土交通省は、2011年1月12日、本部町備瀬区のフクギ並木を「手づくり郷土賞」に認定した。その栄誉き受け、本部町と備瀬区は2015年に2月9日を「フクギの日」と定め、沖縄における集落の原風景である美しいフクギ並木をとどめる備瀬区を「フクギの里」と宣言した。よって、備瀬区は先人達が築いた美しく快適な居住空問を大切に保護保存し誇りある「フクギの里」と広く知らしめると共に本部町と備瀬区の未来永劫の繁栄を祈願し、ここに「フクギの里」宣言記念碑を建立する。 2016年2月9日 本部町備瀬区14:10本部町のマンホール蓋町の魚カツオ、町の花木サクラ、琉球メジロ、羽の裏側が枯葉のように見える 県の天然記念物でもある町の蝶コノハチョウが描かれている。橋は本部半島と瀬底島をつなぐ瀬底大橋、中央は町章、受枠が波頭模様。「もとぶ」「おすい」の文字。14:22備瀬集落フクギ並木から「備瀬崎海岸」へ移動。所在地:沖縄県国頭郡本部町備瀬崎ビーチは知る人ぞ知るシュノーケルスポットで海中にはサンゴや魚がたくさんいる。駐車場脇には「備瀬小唄」の石碑が建つ。また、トイレ、温水シャワー施設がある。備瀬小唄 作詞 仲田栄松 作曲 兼村憲孝一、福木垣かくて 長浜ゆ前なち 我した備瀬村ぬサー向けぬ美らさ ンチヤヤル ハジドー ジントヤルハジドー二、クビル切り千瀬ぬ 波花ぬ美らさ 勝て美らさしやサー備瀬ぬアン小三、月ぬ夜やでかし 水ぱいに下りて 三味に歌ぬしてサー遊ぶうりさ四、村ぬ真中に 氏神ゆ祀て 千代までぬ栄えサー願いあぎら五、高さ豊まりる 備瀬ぬ灯台や 夜走らす船ぬサー守いでむぬ六、名護原に登て 我が村ゆ見りば 五穀満作やサー世果報招ちわした備瀬に想いはせ「備瀬小唄」は、備瀬に生まれ育った仲田栄松氏(琉歌歌人)が作詞した。備瀬の風水・風致・風俗が余すところなく表現され、備瀬人の気韻生動が読み取れる一唱三嘆の作品で、兼村憲孝氏の作曲により、昭和四十九年にレコーディングされた。備瀬集落は、何時の時代に何処から移ってきたか定かでないが、古老の口碑によると砂丘上のアダン山を切り開き、ソテツ山に堆積したわずかな風化土を耕して拓かれた。山もなく川もなく、薪にも水にも事欠き、夏は台風、冬は北風、砂嵐にさいなまれる厳しく、劣悪な環境であった。ほかに適地の当てもなく、この地にロマンを抱き、氏神を祀り、村の主の下に一致団結して流した血と汗と涙の結晶が、盤石にして美しい福木集落、わした備瀬なのである。その素晴らしい環境の中で、現世の備瀬人が伝統を守りつつ和気葛々と暮らす様を観るにつけ、祖先の偉業に改めて畏敬の念を感じ、感謝の念が込み上げ、この小唄が生まれたと作者は語られた。仲田氏は、故郷をこよなく愛し、学び、献身的に尽力された功績を讃え「備瀬小唄」を次世代へ継承し語りつく。 二〇一七年(平成二十九年)十月十五日建立 備瀬小唄歌碑建立期成会歓迎 めんそーれ 備瀬集落フクギ並木通り備瀬集落とフクギ並木備瀬集落は、本部半島の先端部に位置し、南北へ連なる碁盤目型のフクギ並木と、その間を通る白砂の道で形成されている美しい景観を残していることが、大きな特徴です。今から約400年程前に形成され、約350年程前に完全な集落になったとされています。神アサギを中心に集落が形成され、伝統文化を大切にする風習が強く、備瀬集落より行事や祭事の多いところはないと思われるくらいに、一月の初御願に始まり十ニ月まで毎月のように行事が行われています。集落の発祥が古い所以と思われ、主に五穀豊穣・無病息災を祈願する行事です。集落のフクギは琉球王国時代の250年以上前に、国策として風水思想に基づく海岸域から里山にかけての森づくりと、風害に悩まされた海辺に住む人たちの暮らしを守るためにフクギが植えられたと思われます。フクギは直立した大樹になり、防風・防潮・防砂・防火などの最適な樹木として、現在でも、先人から受け継がれたフクギを住民は守り続けています。備瀬集落案内マップ A ~ I を案内。観光ポイントの案内A、ミーウガン 備瀬崎の離れ小島です。B、ミーウガン(離れ小島)への眺望 辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。C、ボウズサンゴの珍しい石垣 ボウズサンゴは消石灰にして漆喰として利用していました。D、区画割の基準石 メージク(前軸) ナカジク(中軸) ニージク(子軸)の三つの軸石を基準にして区 画割が行われたといわれています。E、海・伊江島ミーウガンへの眺望 備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む 夕日はとても美しい眺望です。F、備瀬区の貴重な文化財 屋号:ハネクンヤー(具志堅門中の家)は、10代続く集落内で二番目に古い門中 です。屋敷の一角の壁は、備瀬のイノーの砂岩で100年以上前に作られました。 備瀬区に残る貴重な文化財です。G、夫婦フクギ 2つの巨木がくっついた珍しいフクギです。幸せを呼ぶとして人気のポイント です。H、コバテイシの老木 熱帯・亜熱帯の気候に分布するコバテイシ(モモタマナ)で樹齢350年と伝わっ ています。I、フクギアーチ越しの伊江島の眺望 フクギ並木のトンネルを抜けると、正面にはエメラルドグリーンの海に浮かぶ 伊江島が姿を現し、夕日を望む絶景ポイントです。備瀬崎周辺の海岸は、琉球石灰岩の海食崖で、磯には根元が浸食されて細くなったキノコ岩が見えた。波による浸食によって水面近くを中心に深い切れ込みが生じるもので、地質学ではノッチと呼ぶとのこと。右奥に白塔円形コンクリート造りの備瀬崎灯台。灯台は干潮時には歩いて行ける場所で備瀬埼から約10分ほどで行けると。向かいの小島との間が一番人気のシュノーケリングポイント。水位によって強い流れが発生している場合があるので注意しながら泳ぎましょうと。また、オススメは波が穏やかな干潮時であると。ズームアップ。この案内板は上部がはがれていたが「B」であろうか。辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。先程訪れた観光案内板の「E 海・伊江島ミーウガンへの眺望」方向を見る。船乗り場をズームアップ。正面の建物は「ホテル オリオン モトブリゾート」所在地:沖縄県国頭郡本部町148-1 エメラルドビーチに続く道路に面した、洗練された高級ホテルである。東シナ海を一望できる。沖縄美ら海水族館から徒歩8分、今帰仁城から7kmで右奥に沖縄美ら海水族館。干潮時であろう、沖にはサンゴ礁(横のラインは電線ではありません)。14:32備瀬集落 フクギ並木通り(終点)備瀬集落を後にし次の目的地「古宇利島」を目指す。14:35サトウキビ畑が広がる。 ー 続く ー
2022.11.02
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相州小出七福神めぐりの東側にある、芹沢石仏石像群へ立ち寄った。1月7日(土)芹沢石仏石像群への途中にあった、文字道祖神。ゴミ収集場横であったか移設されていた文字道祖神。「文化・・・・・正月吉日」と刻まれていた。浄財も置かれていた。文字道祖神の横の斜面に石碑を見つける。石碑には、「昭和二年三月建之 南無 三月吹雪 馬頭観世音菩薩 祭主 秋津孫八」と刻まれていた。芹沢石仏石像群所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢ここは小出川彼岸花まつりの会場南側にある石像群である。旅友の情報から昨年夏場に訪れたが、草に覆われ石像群が隠れていたのでこの時期に再度訪れた。石像群の北側には小出川が流れ、秋には「彼岸花まつり」の会場になる。夏場には草が生い茂り中へ入るのが嫌だったが、昨年暮れに氏子さん達により清掃されたのか綺麗に整備されていた。また、石像の前には新しい竹製の生け花挿しも。しかし花はなかったが。いろんな種類の石像が並ぶ。後方に廻り込み。右側の石塔には「天明五己○六月二日 覚○良円信士」左側の石塔には「享和○○、、、、、」と、風化して読みずらいが墓石か?綺麗に整備されていたが、説明板等は無かったがGoogleマップには登場。11:35七福神巡りのルートに戻る。前回は直進して左折したが、今回はここを左折して坂道へと案内される。尋ねると「腰掛神社への道が整備されたので」と。この後お世話になる案内図。坂道を上ると赤い幟が立つ、「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」と。我々夫婦も健康長寿でありたいものだが!上って来た道を振り返る。このルートは100メートル程が整備されておらず一車線であった。坂を上り終えるとT字路に。相州小出七福神巡りの案内と「腰掛神社 → 」 の案内板。赤い幟が多く立っていた。旗の傍には「早朝・夜間の虫取りの声、近隣住民に迷惑です 茅ヶ崎里山公園」夏場のカブトムシ、クワガタ採取に対する苦情か?県立茅ヶ崎里山公園の中を抜ける道路を北側へ向かうと、右側に腰掛神社。正月明けでまだ多くの提灯が飾られていた。腰掛神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169腰掛神社は境内に、日本武尊が御東征の際に腰掛けたと伝わる石がある。一の鳥居、二の鳥居が連続して建つ。当神社は既にブログアップしております「日本武尊ゆかりの腰掛神社」👈 をクリック願います。参道の右側には提灯と鉄製ポールが立っていたが。参道の左側に手水舎。右側の社務所、芹澤公民館にも提灯。右側の狛犬(阿形像)左側の狛犬(吽形像)正面奥に社殿が建つ。境内左側には神楽殿。神楽殿横には御神木のいちょうの木が聳える。いちょうの葉も散り、春の芽吹きを待つ。警 告このいちょうの木は御神木のため絶対に登らないこと。 腰掛神社正面に拝殿、右奥に神輿殿。拝殿前右に歴史を感じさせる古い狛犬(阿形像)左側にも狛犬(吽形像)拝殿の扁額「腰掛神社」。拝殿左側にある「腰掛玉石」。腰掛玉石の大きさは、凡長さ 二尺九寸(約88センチ)、幅二尺五寸(約76センチ) 。社殿の右側奥に神輿殿。社殿の右側から望み、中央奥に本殿。拝殿前から広い境内を望む。石畳の参道。腰掛神社前の「関東の富士見100景」。同場所からうっすらと富士山が見えた。関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり 地点名 茅ヶ崎市からの富士 平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会11:50腰掛神社から北方向に坂を下り、県立茅ヶ崎里山公園の北駐車場。 ー 続く ー
2023.01.29
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NHK放送の反響で賑わう「藤沢えびね・やまゆり園」の満開のエビネを楽しむ。4月27日(木) 10:25引き続き遊歩道脇のエビネを楽しむ。名札には「八幡様 寄贈 エビネラン」と。エビネ昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」で訪れたが本当に見頃であった。どのエビネも満開であった。順路に従って反時計回りに多くの訪問者。販売店では手作り手芸品「タワシ 100円」等々が販売されていた。園の入口には「大売出し」の旗が立っていたが何を大売出ししていたのか?。皆さんNHKの放送を見て来られたのであろうが。受付で待つ高齢者の長い列。今日一日の来園者は何人になるのか後日聞いてみたいものだが、NHKも地域の活性化に貢献!遠藤まほろばの里藤沢えびね・やまゆり園NHKでの放送で観光客が多くなり係り員の方達もビックリ。嬉しい誤算はいつまで続くのか。10:35園内で約1時間強のエビネを楽しみ、藤沢えびね・やまゆり園を後にする。南方向からは「慶応大学バスターミナル」から歩いてこられる人も(下車徒歩約8分)。藤沢えびね・やまゆり園の山林・竹林。前方の駐車場は満車になっていた。係員の方が交通整理。藤沢えびね・やまゆり園の北側を走る県道43号線(藤沢厚木線)。県道43号線(藤沢厚木線)の交差点に案内板。この交差点から請之木線を南下、慶応大学入口交差点へ至るが途中に入口があり右折する。11:00天気が良かったので富士を見に「富士見の丘」へハンドルを切る。遠藤宮原線を西へ向かい坂を上り、宇都母知神社入口交差点からの富士。目的地の「富士見の丘」はこの交差点を左折。富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668田畑の中にベンチが置かれ無料で楽しめる絶景スポットである。この場所は地権者が無料で提供しているようだ。畑仕事をしておられた方と話をすると「ダイヤモンド富士は春分の頃」であると。絵を描いている方もおられた。西側には金時山、矢倉岳、富士山。富士をズームアップ。11:10富士見の丘からの帰路、小出川からの富士。送電線の鉄塔が景観を損なっている。11:30高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼473ゴールデンウイーク前後に成就院の境内にナンジャモンジャが綺麗に咲くので立ち寄る。今年は開花が早く10日前の4月17日には満開であったがその後どうなっているか。その時のブログは「成就院のナンジャモンジャ」👈 をクリック願います。駐車場の壁に貼られていた、4月19日現在の写真。4月19日現在の写真 左:黒ろうばい 今が見ごろです。 中:はんかちの木 今が見ごろです。 右:なんじゃもんじゃ これからが見ごろです。タウンニュースにいつも記載され多くの人が訪れる花の寺として知られる成就院である。本堂裏の墓地に咲くナンジャモンジャ。10日前にはテントは設置されていなかったがゴールデンウイークを迎えるので・・・。満開のナンジャモンジャを見上げる。西の空には富士が見えていたがここでも送電線の鉄塔が景観を損なっている。ハンカチノキも一部咲いていた。ナンジャモンジャは10日前に比べると白味を帯びているようだが。ナンジャモンジャは花もちが長いようだ。遅咲きのナンジャモンジャの雌の木も開花していた。雌のナンジャモンジャを見上げる。ズームアップ。雄のナンジャモンジャは花びらが散り始めていた。雪が積もったようになっているナンジャモンジャ。クロバナロウバイもまだ綺麗に咲いていた。ズームアップ。テレビで放送されると来園者、来客者が多くなるので、今回のNHKの放映効果は相当なものであるようだ。 END
2023.06.21
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夕焼けの、弊舞橋、釧路港の散策。チョット読めない「弊舞橋(ぬさまいばし)」の由来は、明治41年(1908)に、小樽から釧路の新聞社に招かれた石川啄木が渡ったのは、この初代官設の幣舞橋です。 幣舞は、アイヌ語のヌサ・オ・マイ(nusa-o-mai=幣場の・ある・ところ)に由来します。 幣場とは、神を祀るためのイナウ(木幣)を立てて並べ、祭祀などの儀式を行なう神聖な場所であると。2015年7月7日(火) 18:12 釧路市のシンボルとして親しまれている「幣舞橋」は、釧路川に架かる全長124m、幅33.8mの橋です。1900 (明治33)年に架けられた橋はその後何度か改架され、現在の橋は1976 (昭和51)年に完成した5代目。支柱の四方にはそれぞれ、現代日本を代表する4人の彫刻家による裸婦の四季像が立っており、夜になると橋全体がライトアップされ、幻想的な雰囲気を楽しめる。夏の像《さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ》台座には「夏」と。夏の像を別の方向からズームアップ。春の像《若葉が萌えいずる雪解けの季節》台座には「春」と。弊舞橋から釧路川の河口を望む。日の入りにはまだ早かったが西の空には雲があり夕焼けはどうか。18:20釧路川の左岸を下り弊舞橋を振り返る。岸壁に係留された漁船。この日の日の入りは何時であったか。まだ日の入りまでには時間があるようだ。廻り込み岸壁の街灯と漁船、夕日の競演。ズームアップ。港文館所在地:北海道釧路市大町2丁目1-12石川啄木が、釧路に76日間滞在した時の勤務先である第2次釧路新聞社屋の一部を、忠実に復元した歴史的建造物。 1階は港湾休憩所として釧路港の資料の展示スペースと、カフェ(KobunCafe)があります。カフェでは啄木カフェオレや啄木トーストなどここだけのオリジナルメニューも充実。 2階は啄木資料館。ソファーを配置し各種資料の観賞ができる。また、閲覧スペースもありますと。 入場無料。由来記この建物は、明治四一年(1908)に建設された旧釧路新聞社の社屋を復元したものです。詩人「石川啄木」が、七六日間の本市滞在中に記者として敏腕を振るった旧釧路新聞社はこの付近にあり、当時の釧路を代表する近代的な建物でした。この歴史的建造物の復元は、釧路新聞社創刊四五周年記念事業として協力をいただき実現しました。また、今日の釧路市の発展の基礎となった釧路港は、明治四二年の日本帝国議会での「釧路港修築予算」によって着工されました。この時、旧釧路新聞社社長「白石義郎氏」が衆議院議員として尽力し、以来、釧路市は港のまちとして大きく歩み始めることとなりました。 釧路市 〔施設概要〕 ・構 造 鉄筋コンクリート造煉瓦積 二階建 ・規 模 延面積 一階 70.2125㎡ 二階 65.2625㎡ 合計 135.4750㎡ ・事業期間 着工 平成四年十一月二日 完成 平成五年五月二十日 開設 平成五年五月三一日 港文館の前に立つ啄木像石川啄木像釧路港を背に啄木像が立っている。石川啄木のよめる明治四十一年一月二十一日釧路駅で さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき 小奴「さいはての駅に下り立ち・・・」の啄木歌を書き記した釧路時代の啄木ゆかりの人、小奴(近江ジン)さんは、最後に「小奴 書」と書くところを「書」の一字を書かなかった。このため、初めてこの碑文を読む方は、小奴の作品と勘違いするが、この歌は釧路時代を回想した啄木の名歌である。対岸には高層ホテルが2棟、左奥は今夜の宿泊ホテル「釧路プリンスホテル」。手前は「Crowne Plaza - ANA Kushiro, an IHG Hotel」。西の空が茜色に色づく。18:30対岸には、この後夕食で訪れる「岸壁 炉ばた」のテント小屋。海鳥が舞う。漁船のマストに夕日。18:50日の入り寸前か。明日も天気がよさそうだ。ズームアップ。夕日を浴びる今夜の宿泊ホテル釧路プリンスホテル。18:55日の入り寸前に。機器情報:NIKON COOLPIX P520 18.7mm、f/4.2、1/250秒、IS0 80。日の入りは雲の中に。機器情報:NIKON COOLPIX P520 160.5mm、f/7.8、1/500秒、IS0 100。雲が焼ける。機器情報:NIKON COOLPIX P520 71.3mm、f/5.4、1/1250秒、IS0 80。機器情報:NIKON COOLPIX P520 21.4mm、f/4.2、1/320秒、IS0 80。カメラを西方向に、機器情報:Canon EOS 60D 135mm、f/6.3、1/320秒、IS0 100。岸壁に多くの漁船が係留されていた、明朝は早くから出港するのであろう。機器情報:Canon EOS 60D 135mm、f/10、1/250秒、IS0 400。雲が夕日に染まる。機器情報:Canon EOS 60D 85mm、f/13、1/250秒、IS0 400。機器情報:Canon EOS 60D 126mm、f/5.6、1/160秒、IS0 125。17:00夕日撮影を終え夕食をとることに。上流に弊舞橋。弊舞橋に戻り下流側の道路沿いに「夏の像」「春の像」が立つ。直進するとJR釧路駅へ。反対側の上流側には「秋の像」「冬の像」が立つ。下流側の手前に「夏の像」。続いて「春の像」。台座には「春 制作者名」が刻まれている。弊舞橋から釧路駅への通りで街灯も点灯、通りの奥に「釧路駅」のネオンが見える。橋の親柱の手前に「春の像」。弊舞橋の上から「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」を望む。左隅に目的地のテント小屋「岸壁炉ばた」が建っている。交差点は「北大通2」で直進すると釧路駅。釧路湿原歌碑所在地:北海道釧路市北大通1丁目2作詞 木下龍太郎 作曲 弦哲也 歌 水森かおり2004年リリース。釧路市のフィッシャーマンズワーフMOOの横のEGGの釧路川側に設置されている、伊東良孝釧路市長がデザインし、「水森かおり『釧路湿原』を応援する会」が(2005年9月3日お披露目式)制作した。近くには美川憲一が歌った「釧路の夜」の歌碑もある。19:10岸壁 炉ばた所在地:北海道釧路市錦町2丁目 釧路フィッシャーマンズワーフMOO日が沈むと気温も下がり冷寒くなる。岸壁炉ばたは釧路港の岸壁に設けられた大型のテントの中で、新鮮な海産物などを炭火焼きで味わう釧路の名物で、5月から10月にかけて期間限定で営業される。テント内に入るとまず売店で、食べるであろう金額分のチケットを購入。営業案内訪れた2015年(平成27年)は、5月15日~10月31日7月~9月 17:00~22:00 (ラストオーダー 21:45)5・6・10月 17:00~21:00 (ラストオーダー 20:45)7月と8月 日曜日は正午開店オーダーの毎にチケットで支払うシステムで、なくなると追加でチケットを購入する。アスパラ 150円、アスパラベーコン 150円、砂肝串、タン串 150円、つくね 150円。ホッケ、牡蠣 などの海産物もある。オーダーしたものを炭火焼き。ホッケ、空豆、アスパラを焼く。炉ばたは暑いが、テントの外は15度以下に。デッカイ道でホッケを食べると脂が多くジューシーで美味しい。牡蠣も焼いたが値段はどうだったか?酒を飲みながら焼いたものを食べる。テント内には大魚旗、浮きガラスが飾られる。「お持ち込みはご遠慮願います」と注意書きも。多くの方が訪れ飲食していた。私はお酒も飲んだので追加でチケットを購入。20:40明日の朝が早いので約1時間半ほど飲食し新鮮な魚介を堪能した。妻と二人で6,000円ほど飲食したか。閉店まで後1時間ほどだが多くの観光客が訪れていた。外は肌寒かった。岸壁炉ばた 営業 5月15日~10月31日。近くにある宿泊ホテルへ。 ー 続く ー
2023.09.08
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サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ 2023 最終日10月1日(日)は『音漏れライブ』を楽しむため夕刻の16時半過ぎに愛車のリンちゃんで出かけた。10月1日(日) 16:40国道1号の本村交差点を南下。本村交差点から海岸線の国道134号を結ぶ、一中通り。茅ヶ崎市内で国道1号と134号を結ぶ道路では一番整備されている通りである。東海道本線を通り抜ける地下道。茅ヶ崎市民になったころは開かずの踏切であったが完成して便利になった。東側には、歩行者・自転車道がある。西側は歩行者のみの通路。本村地下道ゲリラ豪雨時には周りの水が集中するので浸水に注意を要する地下道である。幸町交差点直進すれば国道134号だが、ここを右折して茅ヶ崎駅方向へ進むことに。16:45茅ヶ崎駅南口。ここを右折すると雄三通りへ。雄三通りの起点に建つ「雄三通り」の表示板。雄三通りの西側に、ライブ会場へ行く「高砂通り」起点。茅ヶ崎駅からサザンビーチちがさきへの道は3ルートあり一番西にある「サザン通り」。今日もサザン通りを南下。多くの人が歩いて、茅ヶ崎公園野球場、サザンビーチちがさきへと。途中にはいろんな店が営業。17:00サザンビーチちがさきの西側へ駐輪。ここから歩いてライブ会場近くの茅ヶ崎中海岸展望デッキへ向かうことに。17:05セブンーイレブン 茅ヶ崎サザンビーチ店所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目15-31駐輪してから飲物が無いことに気づき国道134号沿いのコンビニへ買い出しに。店内に入ると”音漏れライブ”を楽しむ人がビール・飲料水を求め長い列。棚には食べ物も少なく、こんなところにも経済効果が。店を出ると上空には取材ヘリがうるさく飛んでいた。茅ヶ崎公園野球場の南の海上から北方向を撮影・右側の道路が高砂通り。以下5枚の写真は取材ヘリが放送している映像であろう。また、立ち入り禁止エリアに人がいるのでこの映像は前日までの撮影であろう。この写真はライブ三日目 (9月30日 15:10) に撮影した。サイクリングロード脇に「立入禁止」の看板。「このエリアは盛土で崩れる可能性がありますので絶対に立ち入らないでください」とあった。お巡りさんが数名巡回し、スタッフに何か言っていたが。ライブ最終日には警備員がいて黄色の中は立入禁止になっていた。1~3日目まではシートを敷き音漏れライブを楽しんでいた。南東方向から会場の茅ヶ崎公園野球場を見る。砂防林に挟まれて国道134号が東西に走り、茅ヶ崎公園歩道橋はライブ期間中は通行止めに。左側のサイクリングロード脇に茅ヶ崎中海岸展望デッキがある。展望デッキ下には多くの席取りシート。会場の茅ヶ崎公園野球場内には1.7万人のチケット来場者で埋め尽くされている。右側のホームベース上にステージが設置されている。コンビニを出て国道の向かい側に建つ建物は、左に「しゃぶ葉 茅ヶ崎中海岸店」、右に「Chigasaki BEER」のビル。サザンビーチちがさきへの地下道。国道サザンビーチ交差点には横断歩道がないのでここを利用する必要がある。17:15サザンビーチちがさきでは、9月30日(土)と10月1日(日)の両日、「ここが故郷 茅ヶ崎『おもてなし』by 湘南祭」が開催されている。本部席裏に「サザンオールスターズ 45周年おめでとう寄せ書き」の横断幕があったが別のシートで覆われ中止になっていた。会場では飲食屋台&キッチンカー 16店、マルシェ(物販) 20店 が出店している。どのキッチンカーもいい匂いを漂わせていたが。湘南ローストビーフ丼。湘南発の名物チキン ROCKET CHICKENキッチンカーの前には長い列。テントの中にはペットボトル等のゴミが置かれていた。鳥居が描かれたボードの前に5個 (ペットボトル、プラスチック、燃えるごみ 他) のゴミ箱。鳥居の扁額には「資源循環サザンビーチ神社」と書かれていた。資源の循環にご協力お願いします。鳥居の前には「ゴミ回収募金をお願い申し上げます」と書かれた賽銭箱。沖には烏帽子岩。熟成肉工房ジロー知り合いが出店しているキッチンカー。自宅を出る時、妻に夕食の欠食届を出していたのでここで夕食用のホットドックを購入。店頭には、カリー&チーズ (800円)、ホットドックのプレーン (600円) の看板。Simple is Best !! のプレーンを購入。17:40サザンビーチからサイクリングロードを歩き、会場に近い茅ヶ崎中海岸展望デッキへ向かった。開演が17時のため既に会場からは歌声が聞こえていた。サイクリングロードの両側には座り込み音漏れライブを楽しんでおられた。西方向を振り返る。昨日までは左手の柵内には席取りのシートが敷かれていたが最終日は警備員がいて立入禁止に。18:00人混みの中、茅ヶ崎中海岸展望デッキ周辺へ到着、しばし雰囲気を楽しむことに。暗くなり海岸にはチケットを入手できなかった多くのファンが詰めかけペンライトを振り。この光景をスマホで動画撮影する人も。西方向には太陽も沈み夕焼け。東方向の江の島。この辺りだけでも数千人はいたのでは。後方は海岸線で波が押し寄せるので危険だが!以下3枚の写真は翌日(10月2日)のテレビ ”ワイドスクランブル” より。サザン45周年凱旋「茅ヶ崎」と。盆ギリ恋歌のステージ。遠く三浦半島。サイクリングロード脇には座り込みビールを飲む人も。多くのファンで埋まる海岸の先の夜景は江の島。茅ヶ崎中海岸展望デッキ周辺では警備員の方が「立ち止まらないで下さい」と注意を呼び掛け。サイクリングロードから茅ヶ崎公園歩道橋へは「通行止め」となっていた。ここからはチケット持参者以外は立入禁止。左のステージは茅ヶ崎中海岸展望デッキ。サイクリングロードの両側に人が多く立ち止まって聞くことができないので西へ進むことに。18:15込み合ったサイクリングロードを戻り江の島を望むが、廻りは真っ暗に。沿道にはライブに合わせて踊る人も。 ー 続く ー
2023.10.03
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熱海から伊東への途中、網代にある長谷寺(ちょうこくじ) 長谷観音(はせかんのん)へ急遽立ち寄ったが、よみかたがわずらわしい。6月8日(火) 9:40カーナビに従い国道135号から山道を登り、「長谷観音」「朝日山公園」の標識行き止まりの駐車場から登って来た道を振り返る。途中から下っているが案内板の下には、「こちらは長谷観音 近道 約2分です」、左へ行くと「潮騒の坂道 朝日山まで400m 約6分」。案内板に従い坂道を下ることに案 内カーナビの案内で国道135号の新網代トンネル手前を左方向(旧道)へ進み、数百メートル走り右に曲がり坂道を上った(破線)網代朝日山公園案内上って来た坂道は網代長谷観音への裏側であったようだが、国道135号から境内への道もあるようだが、カーナビはこちら側を案内(黄色線)網代長谷観音へ坂道の途中左にあった灯台を模したような石塔江戸時代の俳人「東海呑吐の句碑」。石碑には「呑吐居士」と刻まれ、裏には「天明元 辛丑 仲冬十七日」東海呑吐の句碑熱海俳壇の祖・東海呑吐の供養碑です。熱海市内に江戸時代の俳諧に関係する碑があるのは珍しいことです。碑は自然石でかすかに東海呑吐の絶旬が刻まれています。「散る時は はてしれなくて 秋の月」。呑吐は庵号を無壁庵といい、信州の侍でしたが、浪人のはてこの熱海にきて多くの門弟を育てました更に坂道を下り森の中に朱色の建物が現れる。曹洞宗 長谷寺(網代)(ちょうこくじ)所在地:静岡県熱海市網代542鎌倉・奈良の長谷寺とともに一木三体観音像とされる、行基手彫りの聖観音像を御本尊として安置する古刹で、「伊豆八十八ヶ所霊場」の第26番札所となっている曹洞宗寺院。長谷観音は鎌倉と大和の長谷観音と同じ木から行基が3体作ったと云われており、故に一木三体観音と伝えられていますと。境内には、江戸末期に地元民により彫られ寄贈された「石造三十三所供養観音像」がある右側、石段の上に「石造三十三所供養観音像」石段の上り口にあった石仏。寛保元年辛酉歳 二月吉日 と刻まれていた。ほかの字は風化して読みとれず、また右側の石仏は上部が破損していた石造三十三所供養観音像観音像が三十三体一列に安置されていた。一番奥寄りの自然石には「奉納経西国三十三所供養塔」と刻まれ、また、仏の像を刻した供養塔二基があり、寛政3年(1791)と刻字されていた観音像群をズームアップ熱海市指定文化財 彫刻 石造三十三所供養観音像 指定 昭和五十ニ年四月ニ十五日この石仏群は、三尊仏・三十三所供養観音(聖、千手、十一面、如意輪、馬頭、淮胝観音(じゅんでいかんのん) 等)仏像、供養塔等、一揃いの珍しい野仏である。江戸時代に網代が津(港)として栄えた頃、観音信仰をする地元民によリ造立されたものである。供養塔に「寛政」・「嘉永」の刻銘がある。 熱海市教育委員会石碑には「三十三観世音菩薩」と刻まれている記念碑往時網代の郷は、伊豆の一寒村にて小漁港にすぎず、住民は平和な明け暮れを過ごしていた。江戸は徳川氏の開府により人口が密集し物資の消費は膨大になり、全国からの舟航により集荷され、網代の港はこの寄航地にしてまた避難港としてにぎわい一時は京都、大阪、江戸、網代とまで呼称されるまでに至った。当時網代に寄港した船舶の船主、船頭等相寄って大観世音菩薩像三十三体を建立 海上の安全と豊漁とを祈願した。しかるに、明治以降文明開化によって帆船は蒸気船に替わり、網代の港もその使命を終えていつしか本菩薩像の存在も時代の推移とともに忘却されて荒廃するに任された。ここにおいて、網代漁業株式会社◯○○惜しみ往時を懐古するとともに、海上の安全と大漁とを祈念して本仏像を修復し記念碑をこの地に建つ正面に見えて来たのが「網代長谷観音(長谷寺)」の「観音堂」網代長谷観音(長谷寺)は網代の善修院開山・大祝和尚が大永元年(1521)に開いた観音堂が原型で、海の安全を祈る漁民の観音信仰と行基伝説が結合した、或いは大祝和尚が強引に結びつけた、と考えられる観音堂の扁額は「長谷寺」観音堂の「内陣」、先輩もスマホで観音堂左側のこの祠は内陣には小さな社が二社。中央に鏡が安置されていたそして右隣りにあったのが、太子堂太子堂の内陣太子堂の内陣にあった「感謝状」 平成8年5月27日太子堂建造の由来太子堂建造の由来聖徳太子は、寺大工、瓦工、鑢(やすり)工、画工等の最新技術をもつ帰化人を多く受け入れ仏教美術工芸の発展に生涯を捧げ曲金や墨壺・物差・印刷技法等を広め多くの工匠を輩出したので神として崇められる様になり、法隆寺御用達の職方により工芸技芸の祖として太子信仰が高まりました。当地でも技芸に携わる先人により太子堂が建立され大正十二年網代職工組合にて太子の遺徳を偲び、正、五、九の各月に技量の向上と息災を祈念して太子祭を行い現在に至っています。境内のこの木が御神木?竹林に囲まれた中に石仏群竹林に囲まれた参道を山門に向かって下って行った国道135号沿いにある表参道(ネットから)このあと向こう側から走って来たのでこの石柱は見つからなかった長谷寺(ちょうこくじ)の山門への石段山門の扁額も「長谷寺」山門を潜り境内へ左側には竹林が広がる、ひなびた石段を上り境内へ本尊は奈良時代の僧行基の作と伝わる木造の聖観音像で、33年ごとに開帳(1996年開帳)される境内から坂道を上り裏側の駐車場ヘ向かう山道の右側の山の斜面には巨石が転がっていたこの周辺が「熱海石丁場跡」なのであった。江戸城の普請が大規模に行われた17世紀前葉の大名家の文書では「御丁場」「丁場」「石場」などと書かれていた。石丁場という言葉は、17世紀の後半以降の伊豆の村々の差出帳(領主が村に対して出させた現在の市勢要覧のようなもの)から確認できる。以後、現在まで採石場を石丁場と呼ぶようになったのだと矢穴が残る巨石。大石を割るのには、石に矢穴を掘って堅い木や鉄の楔(V字型)をその穴に打ち込んで割ったと。東伊豆工リアには、あちこちでこうした矢穴が残る築城石が見られるのだと。デカすきて通び出せなかったもの、形が悪かったもの、割れなかったもの、置き去りにされたものなど、その理由は様々であるようだ10:02急遽訪れた、「長谷寺」、「熱海石丁場跡」を後にし坂道を下り伊東市内を目指す — 続く ー
2021.07.17
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宝城坊日向薬師から降り、車で上流の日向渓谷へ向かう。9月28日(月) 11:15日陰道「かながわの古道50選」のひとつで、北向きの土地で日陰になるところから、この名が付けられたといいます。全長約1.5kmほどののどかな道で、初夏には紫陽花、秋には彼岸花と季節の花々を楽しむことができます。こうした日陰道の整備は、20年以上前から地域の人々の手で行われています。鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』には、源頼朝が1回、北条政子が2回、日向薬師に参詣したことが記されています。また、頼朝は自身が歯痛に苦しんだ時、代理を参詣させています。そのなかで日陰道は、頼朝が参詣した際に家臣たちが通った道とも、北条政子が通った道ともされていますこれからの紅葉時期も楽しめる日向川細道の坂道を登っていくと突然三重の塔が現れた。誰もがビックリするとの書き込み、日向薬師バス停から歩いて約10分11:16おおやまめぐりルート「ここは浄発願寺」上流側に「石雲寺 0.6km」、下流側に「日向薬師 1.6km」石柱には「一の沢 浄発願寺」浄発願寺の文化財無常山浄発願寺は、上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗弾誓派の寺です。創建は慶長13年(1608)、ひたすらに修行に勤しみ、口にするのは木の実や草だけという木喰の僧、弾誓上人によります。江戸に幕府を開いた徳川家康が上人に深く帰依したことから、寺は代々幕府の手厚い庇護を受け、山岳修行者や各地を行脚する修行僧の行場として栄えました。また、殺人や放火を犯した者以外であればどんな犯罪人も許される駆け込み寺としても有名となりました。明治維新におこった廃仏毀釈運動では激しい弾圧を受け、徳川本家をはじめ、尾張徳川家、藤堂氏、佐竹氏などの大名や、公家の広幡家など、後ろ盾となる信徒をも失い、寺領も減少して衰退の一途をたどりました。しかし、民間の信仰は根強く、陰暦10月に行われる御十夜法要は相模の三大十夜と称され、昭和初年まで盛大に続きました。また、寺が日向川の水源地に鎮座していることから、伊勢原をはじめ平塚や大磯など下流域に住む人々からは雨乞い信仰の寺としても崇められました。昭和13年(1938)の秋、浄発願寺は台風による山津波に見舞われて崩壊状態となり、現在の場所に移転しました。かつての寺跡はここより約1km上流の一ノ沢に「奥ノ院」として残り、そそり立つ崖と生い茂る草々に囲まれて、静かに往時の面影を偲ばせています。伊勢原市指定重要文化財『浄発願寺縁起絵巻 3巻』浄発願寺開山の弾誓上人の誕生から遷化までを絵と仮名まじりの文で描いています。作者は未詳ですが、小田原狩野派画家の筆といわれます。尾張徳川家あたりからの寄進でしょうか。市内に残る絵巻類の中でも特にすぐれた江戸時代の作です。伊勢原市指定重要文化財『六字名号雨乞軸』幅2m、長さ13m。麻布に、浄発願寺中興の祖である四世空誉上人の筆で「南無阿弥陀仏」の六字名号が認められています。言い伝えでは、空誉上人が自らの衣の袖で書いたといわれます。江戸時代中頃の作と考えられます。日向川流域の高森村・石田村・小稲葉村など13ヶ村の名も書かれており、当時の人々の水に対する信仰をうかがわせる資料です石碑には元伊勢原警察署長田中勝五郎氏ガ其ノ職ヲ勇退サレ第二ノ故郷伊勢原町ニ居住サレ世界プロレス界ノ王者故力道山ノ供養ニト此ノ橋桁ヲ寄贈サレタモノデアル 昭和40年7月吉日建立この橋を寄贈されたのか。桜の時期は桜並木も良いと浄発願寺 本堂所在地:神奈川県伊勢原市日向1816人気ドラマ「半沢直樹」の最終回、北大路欣也さんがお墓参りするシーンのロケ地であった本堂の扁額「無常山」「浄発願寺」三重塔と右手前に「地蔵菩薩坐像」手前に桜並木がありその時期も最高では地蔵菩薩坐像三重塔三重塔の木組み匠の技浄発願寺に招いたお釈迦様は、仏教国ビルマ(現ミャンマー連邦共和国)アヴァ王朝時代(1364~1555年)の、1376年に造立された石仏です。長い歳月色々な時代を過されて、令和元年(2019)9月8日、三重塔内にお座りになられました。どうぞお参り下さい。 合掌日向川の流れ11:31桜並木もあり三重塔と桜とのコラボ、紅葉時期も再度訪れたいものです11:34浄発願寺から日向渓谷への途中にある「大友皇子の墓」史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松墓まで歩いて3分と史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松日本の第39代天皇で、弘文天皇歩いて登ることにするが11:39途中から草むらになり、山ビルにご注意の看板もあり取りやめる山ビルにご注意を!!草むらや落葉の裏に野生の鹿が運んできた山ビルがいます。吸盤で人の肌について吸血します。特に雨降りの日や地面が湿っているときは活発に活動します。草むらや湿った落葉のそばには近寄らないで下さい。対処法は:山ビルが嫌う、木酢液、食塩水、虫除けスプレーなどを、足元の衣服に 予め塗布しておいてください。専用忌避剤としてヤマビルファイター( イカリ消毒)もあります。吸血されたときは:直ぐに引き離して下さい(ダニのように肌に口が残る心配は有り ません)。かゆくなり血を固まらせないヒルジンを注入されています。 なるべく早く血液と一緒にしぼり出して、バンソウコウなどで止血して ください。危険なウイルスなどは持たないといわれています、後は傷口 を清潔に保てば大丈夫です(伝) 大友皇子之陵石造五重塔でこの墓はレプリカ。実物は近くの石雲寺へ移設されている11:45道路標識← 浄発願寺奥ノ院(約650m)、〈伝〉大友皇子の墓(約550m)・浄発願寺(約530m) →石雲寺718年、諸国行脚の華厳妙瑞法師が紫雲に導かれるままこの地に分け入り、大友皇子の冥福を祈り建立したとされる寺院。1489年、天渓宗恩が曹洞宗の寺として再興し、現在に至る曹洞宗 石雲寺 駐車場所在地:神奈川県伊勢原市日向1767石雲寺縁起寺伝によれば、八世紀初めの養老2年、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が日向へやって来た。法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲三丈(十メートル程)の石の上方に紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御姿が現れたという。里人に尋ねたところ、その昔、壬申の乱で敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、この地で亡くなられ、従者も殉死したという。哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩薩を弔うこととした。これが石雲寺の草創である。皇子の墓所は当初、遺言により松を植えただけであったが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたという。永禄年間、天渓宗恩和尚が曹洞宗として中興開山され、天文12年に北條幻庵から朱印状を拝領した頃、寺院としての基盤が確立したようだ。当初の寺院名は「雨降院」で、後に開創の縁起に因んで「石雲寺」と改められている日本遺産のまち伊勢原 日本遺産の構成文化財 ~ 石雲寺と日向地区の文化財 ~《信仰の地「大山」の生い立ち》大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。※日本遺産は、我が国の文化・伝統を語る ”ストーリー” を文化庁が認定するものです日向地区の文化財位置図①石造五層塔、石雲寺、②〈伝〉大友皇子の墓、③宝城坊、④日陰道、⑤浄発願寺、⑥浄発願寺・奥ノ院、⑦勝五郎地蔵石雲寺山門下紅葉時期も期待できるわたしたちの宗旨は宗 名:曹洞宗(禅宗)です伝 統:曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師がたによって相続されてきた正伝の仏法です日本開宗:曹洞宗は今から八百年ほど前、鎌倉時代に高祖道元禅師さまが我が国に伝えて、 ゆるぎなき基礎をきずかれ、四代目の太祖瑩山禅師さまが一層盛んになさいまし た。このお二方を両祖大師と申し上げます大 本 山 :福井県の永平寺(高祖道元禅師さま御開山) 横浜市の総持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)本 尊:曹洞宗はお釈迦さまをご本尊として仰ぎます本尊唱名:南無釈迦牟尼仏教 義:わたしたちはみな仏の子であり、生まれながらに仏心を具えています。しかし、 それに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのもとをつくっています。 ひとたび仏さまに懴悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調え られて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、又、どんな苦難にも耐えて生き 抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗 の教えでありますお 経:修証義 般若心経 観音経 寿量品等の諸経典を読誦します伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」石雲寺境内に石造りの五層塔があります。かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。この石塔は壬申の乱(672年)で敗れた大友皇子の墓との伝承があり、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていますが、石塔そのものは鎌倉時代末から南北朝時代の初め(14世紀前半)に造られたものと考えられます。・・・・・略・・・・・参道の階段廻りには彼岸花新しく新築された山門山門新築寄進平成30年10月吉日施主 新田堀江家 二十八世 義仙代山門から本堂を見上げる階段を登り本堂へ本堂前から山門を見下ろす石雲寺 本堂本堂の扁額「雨降山」本堂にぶら下がる「梆(ほう)」梆(ほう)ついて「魚鼓(ぎょく)」とも言われ、木魚の原形と言われます。修行道場では、坐禅や寝食の根本道場である「僧堂(そうどう)」の堂内に吊され、食事の時間になると打ち鳴らされ、修行道場全域にいる修行僧は、この音を聞いて僧堂に参集します11:57伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」この石塔は壬申の乱(672年)で破れた大友皇子の墓との伝承があり、かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。文化財指定を受けた後、貴重な層塔の毀損を防ぎ適正に管理するために、令和2年に当地に移設し、旧所在地にはレプリカを設置しました ― 続く ―
2020.10.12
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基坂を車で移動しながら散策。10月18日(日) 16:27函館市電 本線、右が基坂。正面の建物は函館市元町観光駐車場。左に、函館市文学館 150m、北方民族資料館 ここです函館市電 函館どっく前行きはこだて観光案内「基坂」函館山の麓から函館湾・市街地に向かって18の主な坂がある基坂の交差点にある「函館市北方民族資料館」所在地:北海道函館市末広町21-7北方民族の衣装や道具、楽器などを展示し、その生活や文化を紹介した資料館です。旧日本銀行函館支店の建物を利用して作られており、こちらも珍しい擬洋風建築物群函館は、安政6年(1859)6月、横浜、長崎とともに日本で最初の貿易港として開港したことにより、西欧文化の影響を直接受けた。このため、建物や街並みに今もその面影をとどめており、とくに、山の手にある元町周辺は、各国の様式を備えた洋風の建物が多く見られる。その代表的な建物は、旧函館区公会堂(重要 文化財)、旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)や相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)などであり、また、洋風の窓など一部洋式を取り入れた和風建築としては、太刀川家住宅店舗(重要文化財)や旧金森洋物店(北海道指定有形文化財)などがある。最も函館らしく建物は和洋折衷型の擬洋風建築物で、この辺りに多く見られる。これらの擬洋風建築物は1階が和風で2階が洋風、またその逆の場合や左右に分けられているほか、装飾をした縦長の窓や1階と2階の間の胴蛇腹、それにひさしの下にある装飾用コンソールが共通して見られる。当時、函館の大工が領事館や教会など外国の建築様式を見て、独特のスタイルを生んだものと言われている折角の景観だが自動販売機が邪魔では明治天皇上陸記念碑を見上げる。赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑同基坂の交差点にある、相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町および豊川町の各一部で、面積約14.5ヘクタールの範囲です。函館は、安政6年(1859)に長崎・横浜とともに、我が国最初の開港場として開かれ、以来、外国貿易や北洋漁業の基地として、また、北海道の玄関口として繁栄してきたまちです。この保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところであり、現在でも、旧外国公館や各宗教施設、洋風の公共施設や煉瓦造の倉庫群、掘割りなどのほか函館独特の上下和洋折衷様式の町家や洋風・和風の住宅等が混在して、異国情緒豊かな町並みを形成しています。函館市では、こうした町並みを、末長く後世に伝え残すため、昭和63年12月に函館市西部地区歴史的景観条例により「伝統的建造物群保存地区」を定めました。平成元年4月には北海道で初めて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定を受け、貴重な町並みの保護保存に努めています旧イギリス領事館、旧函館区公会堂、元町公園も近い諸術調所跡(しょじゅつしらべしょあと)諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856)に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。元治元年(1864)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創始者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。内外共に多難な幕末期、開明的で進取果敢の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けるだろう基坂の右側歩道には花壇とブロンズ像が並ぶブロンズ像は「ハイカラさん」 岡本銕二(てつじ) 作街角をブロンズ像などで飾る函館市の「パブリックアート」として、2007年3月12日に設置された。西洋風のドレスをまとった明治期の貴婦人がモデルで高さは約1.5メートル。作品のベンチには、貴婦人の横に大人1人が座れるスペースがある「旅を続ける男」 峯田義郎 作函館・基坂にあるパブリックアート3点目 台座にあたる部分に「人間(ヒト)は、何故 旅を続けるのだろうか」と刻まれていると。左膝の上に小鳥が乗っている宇須岸河野館跡(うすけしこうのたてあと)亮徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いた。これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この「河野館」に由来して「箱館」という地名が生まれたと伝えられている(明治2年「函館」と改称された)。永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になって行った。次いで、寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。寛正11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって大きく発展した。この「河野館」跡は、箱館奉行庁舎が開かれた後も、明治に入ってからは開拓使庁舎、その後も北海道庁函館支庁庁舎が置かれるなど、函館の行政の中心地であった基坂を振り返る。坂を下った左側に観光バス用の広い駐車場があるペリー広場に建つ「ペリー提督来航記念碑」日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、安政元年(1854)5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。 函館市函館市黒船来航150周年(2004)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。 2002年(平成14年)5月17日 ペリー提督来航記念碑建立協議会ペリー提督来航記念碑ペリー提督 来航時の足跡絵図ペリー提督像の背後にある「???」は、日本名を「黒船つつじ」といい、アジア東北部が原産で、日本へは1668年に渡来したものです。ここに植えた「黒船つつじ」は、1854年5月17日、箱館港に来航した5隻の黒船(函館山に向って右からマセドニアン号・バンダリア号・ポーハタン号(旗艦)・ミシシッピ号・サウザンプトン号)に因んで植栽したものです。 2002年5月17日 函館市 ペリー提督来航記念碑建立協議会ペリー広場から函館港基坂を横切り左側へ『旧イギリス領事館』所在地:北海道函館市元町33-14歴史ある領事館。展示物、英国式庭園、伝統的なアフタヌーンティーも楽しめる。領事館内の喫茶と売店は入場料無しで入ることができるので、アフタヌーンティーを楽しみながら窓から素敵なお庭を眺められると函館市旧イギリス領事館〈開港記念館〉ご 案 内 :1913(大正2)年建築のイギリス領事館を復元し、函館開港の歴史を紹介。営業時間:午前9:00~午後7:00(4/1~10/31)、午前9:00~午後5:00(11/1~3/31)。休 館 日 :12月31日、1月1日料 金:展示室入場料金 大人 300円ティールームや記念品ショップ、トイレは無料であったが旧イギリス領事館(開港記念館)箱館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年(1863)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913)に竣工したものであり、昭和9年(1934)の閉鎖まで領事館として使用されていた。平成4年(1992)8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰囲気の中でお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開している基坂の左側歩道に建つ、「異国の夢」 佐藤正和 作函館の観光地、元町の基坂に設置された3基のパブリックアートのうちの二つ目 基坂の途中から、相場株式会社社屋(函館市伝統的建造物)を見下ろす16:45元町公園案内道路脇に車を駐車しKさんと交代で公園内へ元町公園所在地:北海道函館市元町12-18江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所にある西洋風の公園。函館の発展に寄与した4人の銅像を設置。高台から函館港を一望できる。後方にシートで囲まれた工事中の「旧函館区公会堂」階段を上ると左手に「箱館奉行所跡」江戸幕府が設置した箱館奉行所跡で、五稜郭ができるまではここが奉行所であった。港に近すぎて敵軍の格好の的とされるため、完成とほぼ同時に場所を五稜郭へと移した同右手に「明治天皇行幸記念碑」元町公園内急いで撮影したので写真がボケました旧開拓使函館支庁書籍庫北海道指定の有形文化財・函館市指定の伝統的建造物です。明治13年(1880)に建てられた開拓使の建物です。煉瓦造りの建物は、当時の面影を伝えています。この煉瓦は北斗市茂辺地で製造されたもの。煉瓦には、製造された年が刻印されている旧北海道庁函館支庁庁舎こんな洒落た歴史的建造物が観光案内所になっている二階のベランダ旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982)に修復整備されたもの。特徴のひとつは柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年北海道有形文化財に指定されている。なお、江戸時代、ここ元町公園には松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれた。安政元年(1854)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行所が再建されたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864)に亀田の地(五稜郭)に移転した外装のペンキも塗られ保存状態が良い公園内の路面のタイル四天王像函館四天王像 市民精神の源流明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門はじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国十位前後であった四天王とは次の四人である、像の向かって左より、今井市右衛門 天保7~明治20年(1836~1887)石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を創立した。医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかった。平田文右衛門 嘉永2~明治34年(1849~1901)函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器械製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く掲げてその徳を顕彰した。渡邉熊四郎 天保11~明治40年(1840~1907)大分県竹田の生まれ、明治2年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、二代三代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。平塚時蔵 天保7~大正11年(1836~1922)青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。この四人は当時の区長常野正義と共に明治14年制定の藍綬褒章第3号から第7号まで受けた。 建設期成会 昭和57年10月9日元町公園「大地と海と僕たちと」 安藤 泉 作 2008.3.10設置ケガのないよう十分に注意しながら、作品に触れ、楽しんでください。樹に登ったり、作品のあいだを走り回るのは危険です。 函館市元町公園から、赤く染まる駒ケ岳を望む上空には、AIR DO機羽田空港へか? 搭乗率がどうなのか気になる、満席であることを願うが16:54青函連絡船記念館摩周丸を望む。後方を横切る高架橋は、ともえ大橋 - 続く -
2020.11.12
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昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」であるとの放送があり訪れた。放送では「園内では5,000株、130種のエビネが咲いており、例年より1週間早い」と。4月27日(木) 9:10駐車場は無料で、いつもは係員はいなかったがこの日は2名の方が誘導していた。駐車場の南方向の林の中にある。私自身は今まで何度も訪れているが9時からの開園にもかかわらず多くの方が訪れていた。9:15遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580竹林中の坂を下ると「慶應義塾大学 看護医療学部」がある。開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円詳細については以前訪れた「藤沢えびね・やまゆり園」👈 をクリック願います。園内では山野草、野菜等の販売をしている。ガンセキランラン科 ガンセキラン属 開花期間:5月中旬園内は「順路」の立札があり、遊歩道には竹チップが敷かれていた。エビネには名札があったのだが。ズームアップするが、エビネの名は?。エビネ:?エビネ:?ズームアップ。ニッコウキスゲも咲いていた。ムサシアブミいろんな種類のエビネが植えられている。エビネ:渡川の幻エビネ:天竜エビネ:?園内には、杉、竹。エビネ:?ズームアップ。順路の案内に従って反時計回りに移動。今まで何度も訪れているがこのように列をなしていたことがない、やはりNHK効果か!10:30受付、係員の方もこの列には「ビックリ!」。この週末からのゴールデンウイークにも多くの方が訪れるのでは!地方の過疎化対策にNHKも「地域の町おこし」で各地を取り上げて放送するのも手では!駐車場までは数分、無料駐車場入口は渋滞 (右側から入って来る)。訪問者が多いので急遽駐車場を準備されたのでは・・・。係員の方に聞くと「他府県ナンバーも多く訪れている」と。藤沢厚木線の交差点。この交差点を右折して慶応義塾大学方面へ南下。交差点に案内板がある。この日は富士が顔を出していた。今回はダイジェスト版ですので、後日再度アップ予定です。 END
2023.04.27
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開陽台の丘・ほしのふる里の後、時間があり裏摩周湖展望台、神の子池経由で宿泊地川湯温泉へ向かった14:45 ほしのふる里を後にする曇り空の中、裏摩周展望台へ15:25 裏摩周展望台展望台からの摩周湖&摩周岳(カムイヌプリ)標高857m摩周湖のあらまし 湖面標高:352.2m 湖の周囲:20.0km 最大深度:212.0m 平均深度:145.9m 霧の摩周湖(布施明が歌った歌)で有名だが、5回ほど来たがいつも湖面が見れた15:45 神の子池 裏摩周展望台から約11km今回は、2度目の訪問 遊歩道は整備されているが、道道150号線からは未舗装6月に中国の九寨溝へ行ったが 水が透き通り 摩周湖(神の湖)からの伏流水からできているという言い伝えから『神の子』池と呼ばれている 周囲220m、水深5mの小さな池で、1日約12,000トンの水が湧き出し 水温は年間を通じて8℃と低く、倒木が青い水の中で腐らずに化石のように沈んでいるトリカブトがたくさん青くてきれいなトリカブト何をしているのか?樹液を採取?16:55 摩周第三展望台へ アトサヌプリ(硫黄山)、屈斜路湖、美幌峠をのぞむ第三展望台から、裏摩周展望台を望む第一展望台方向(右側)枯れ木 展望台から湖面を見下ろす ここにもトリカブトが咲き 早朝のツアーで、川湯温泉から『雲海の摩周湖』がある今夜のホテルは、川湯温泉へ17:30 ホテルへ到着 三日目の走行距離は232km夕食ホテルの廻りの川は温泉水道東の旅四日目、9/2(土) 6:30 朝食前に散歩 早いため人影はなく 川湯温泉 閉鎖中のホテルが多かったのが残念!川湯神社 左側に相撲の土俵が、川湯温泉は第48代横砂大鵬の出身地である川の水は温泉、湯けむりがまた硫黄の匂いが漂い『川湯の森』の手前に川湯温泉足湯が硫黄の匂いが漂う、足湯足湯は無料か?嫁さんは、川湯の森へ鳥撮りに行くが、鳴き声もなく第48代横砂大鵬の『大鵬相撲記念館』朝5:30からの開館であったが、嫁さんが鳥撮りのため入館しなかった8:35 屈斜路湖足湯 砂場に温泉が、足湯もあり 時間が早く観光客はまだいなかったレストランも開店前 店先には、『クッシー』屈斜路湖で1973年から目撃証言のある未確認生物屈斜路湖のあらまし 日本最大のカルデラ湖で、全面結氷する淡水湖としても日本最大の面積を持つ 湖の周囲:57.0km 最大深度:117.5m 屈斜路湖の中島の後方に美幌峠 汚水処理設備の制御盤 トイレの水を処理、仕事柄つい写真撮影機械室の、ブロワー嫁さんは重いカメラを持ち鳥撮りに ここでも鳴き声は無く、鳥はどこへ行ったのか8:50 阿寒湖へ向かう 天気は曇り空 END
2017.09.09
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数日前の9月7日(火)に「深沢・大船地区」を訪れたが、カメラに不慣れで写真の一部にピンボケがあり急遽訪れたシリーズで 3/6です。鎌倉の大船地区から鶴岡八幡宮経由小町大路へ。この日は今まで参拝していなかった寺院、神社、史跡をスマホにセットして巡ることに。9月10日(金) 11:10スマホは小町大路の西側の住宅街を案内、小路の角に建つ、「若宮大路幕府舊蹟」所在地:神奈川県鎌倉市若宮大路幕府は、1236年Z(嘉禎2年)に宇津宮辻子幕府から移されたという。一説には、宇津宮辻子幕府を増改築したのが若宮大路幕府で、実際は同じであったともいわれている。鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えたため、頼家・実朝の源氏三代は大倉で政務を執った(大倉幕府)。1225年(嘉禄元年)、頼朝の妻北条政子が亡くなると、三代執権北条泰時は、幕府を大倉から宇津宮辻子に移転する。1236年(嘉禎2年)には、若宮大路に移転した。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が滅亡するまで、若宮大路幕府が政治の中心となる。若宮大路幕府舊蹟鎌倉の幕府は初め大蔵に在りしが 嘉禄(かろく)元年(1225)政子の薨(こう:死)ずると共に 将軍藤原頼経(よりつね)之を宇都宮辻(うつのみやつじ)に遷(移)し 後(のち)十一年にして 嘉禎(かてい)二年(1236) 再び此の地に遷(移)す 爾来(じらい:以後)九十八年 頼経以後六代の将軍相継ぎて政(政治)を此に聴けり 元弘(げんこう)三年(1333) 新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉に乱入するに及びて廃絶(はいぜつ:滅亡)せり 大正七年三月建之 鎌倉町青年會若宮大路幕府旧蹟碑の横は、作家大佛次郎の茶亭。茶亭は書斎として使用され、鎌倉文士の交流の場としても使用されていた。所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22野尻邸(旧大佛次郎茶亭) 鎌倉市景観重要建築物第30号 平成21年3月2日指定 財団法人鎌倉風致保存会保存建造物第1号 昭和58年4月1日指定野尻邸は、市内では希少な関東大震災前の建物です。建物は茅葺き屋根、数寄屋風のつくりで、広い庭園内の樹木と一体となった空間は、古都鎌倉の原風景とも言える貴重な存在です。また、趣のある門と板塀の続く路地は、かまくら百観百選に選定されています。この建物は、一時期、鎌倉文士であり、古都保存法の成立に寄与した大佛次郎が茶亭として使用していたため、旧大佛次郎茶亭として親しまれています。 建設年 大正8年(1919)頃 設計者 不 詳 施工者 不 詳邸内をネットから野尻邸の間取り門の上からのぞき込む。玄関先であろうか、庭先の木々が生い茂る鎌倉カーニバルや鎌倉ペンクラブで活躍した作家大佛次郎の茶亭。大佛次郎は、1897年(明治30年)に横浜市で生まれ、1921年(大正10年)から鎌倉に住んだ。茶亭は書斎として使用され、鎌倉文士の交流の場としても使用された。1964年(昭和39年)に起こった「御谷騒動」では、大佛次郎をはじめとする著名人らが地元住民の運動に参加し、日本初のナショナルトラスト運動となった。鎌倉風致保存会は、この茶亭を「保存建造物」に指定し、その保存を助成している。現在は、「保存してくださる方に」 鎌倉・旧大佛次郎茶亭、売却へ11:17小町大路を南下、「日蓮上人辻説法跡」所在地:神奈川県鎌倉市小町2丁目22-13-7日蓮宗(法華宗)を開き、1254年(建長6年)に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵をむすび、小町大路を中心に辻説法を行った。日蓮は、この場所で熱心に法華経の布教に努め、他宗を「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として厳しく批判した。辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもの更に南下、本覚寺前の滑川に架かる鎌倉十橋の「夷堂橋」を渡り直ぐにある妙本寺夷堂橋から東方向に入り、妙本寺本堂下にある方丈門方丈門前にあるサルスベリ右側の石畳を上り、二天門脇にある駐車場へ向かう二天門前のモミジ秋にはこの紅葉が見事であると日蓮宗 本山 比企谷(ひきがやつ)まだ、著名な人の墓に参拝していないようだ二天門から祖師堂を望む祖師堂今年は春先から何度も訪れ、祖師堂前のウメ、カイドウ、サクラを楽しませてくれた仁王門を入った所にはノウゼンカズラが左右にあり、最後の花が咲く祖師堂の左側の木陰に石碑には、「萬葉集研究遺蹟」:篆書で書かれた文字。此地ハ比企谷(ひきがやつ)新釈迦堂 即將軍賴家ノ女(むすめ)ニテ將軍頼經ノ室ナル竹御所(たけのごしょ)夫人ノ廟(びょう)ノアリシ處ニテ 當堂ノ供僧ナル權律師(ごんのりっし)仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適(まさ)ニ堂ノ須彌檀(しゅみだん)ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ 僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟(いわや)ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉(詳し)クハ 萬葉集新考 附録 萬葉集雑攷(考)ニ言ヘリ 昭和五年二月 宮中顧問官井上通泰撰 菅 虎雄書 鎌倉町青年團建碑次回は紅葉時期に訪れたいものです二天門左側から祖師堂を望む11:43日蓮宗 慧雲山常栄寺(じょうえいじ)所在地:神奈川県鎌倉市大町1丁目12-11鎌倉時代からあった草庵を、慶長11年(1606)に日祐尼が開基し、日詔上人が開山した。本尊は三宝祖師。ぼたもち寺の名で知られる常栄寺がぼたもち寺と言われる由縁は、鎌倉時代、危機にあった日蓮に、一人の老婆がぼたもちを差し出した逸話にちなんでいると本堂を見上げる境内に咲く花常栄寺から小町大路を挟んで西側にある寺院時宗 教恩寺(きょうおんじ)所在地:神奈川県鎌倉市大町1丁目4-29開山は知阿、開基は小田原北条氏の北条氏綱。始め材木座の光明寺境内にあって宝海山と号したが、1678年(延宝6年)貴誉上人が光明寺の末寺だった善昌寺跡である現在地に遷したという。本尊の木造阿弥陀如来と両脇侍菩薩立像は、鎌倉時代のもので運慶作ともされる。鎌倉三十三観音霊場十二番札所山門を入ると右側に墓石が並ぶ境内に木々が生い茂り本堂の全体が撮れず本堂の扁額、「中座山」本堂からの天水桶には教恩寺鎌倉三十三観音 第十二番札所 御朱印 時宗 教恩寺本堂前から山門山門手前にサクラの木山門から本堂を望むが、山門を入るとサクラの古木が横切る11:56教恩寺から小町大路を南下、大町四ツ角交差点を右折、JR横須賀線の踏切を渡ると直ぐ左に、浄土宗 延命寺所在地:神奈川県鎌倉市材木座1丁目1-3延命寺入口に立つ石標延命寺本堂専蓮社昌誉能公上人(せんれんじゃしょうよ のうこうしょうにん)を開山として、鎌倉時代の執権北条時頼の夫人が建てたと伝えられています。ここにまつられている地蔵像「身代わり地蔵」は、双六(すごろく)の勝負で旗色の悪かった夫人を救ったといわれています内陣を望む右 :弥陀三尊・両大師(浄土宗でおまつりする佛菩薩並びに祖師のひとそろい)中央:阿弥陀如来坐像(浄土宗の御本尊) 聖観世音菩薩立像(鎌倉三十三観音 第十一番) 左 :身代り地蔵尊(鎌倉二十四地蔵 第二十三番)「本堂内のご案内」としてパンフレット延命寺から大町四ツ角交差点へ戻り、交差点を右折して小町大路を南下。道路脇に小さな石碑、逆川に架かる鎌倉十橋の「逆川橋」更に小町大路を南下、JR横須賀線の三浦道踏切の手前に「辻の薬師堂」三浦道踏切を渡り、右折して進むと道路脇に「元鶴岡八幡宮」の石碑12:10元鶴岡八幡宮(由比若宮)所在地:神奈川県鎌倉市材木座1丁目7何故か境内の松が枯れていた元鶴岡八幡宮から50メートルの所にある「石清水井」へ立ち寄る。所在地:神奈川県鎌倉市材木座1丁目9小路を通り抜けると小町大路へ出る由比若宮のすぐ近くにある井戸。由比若宮は京の石清水八幡宮(石清水井が名の由来)を勧請したもので、おそらく京の石清水八幡宮にある石清水井にちなんだ名称だと思われます — 続く ー
2021.10.05
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この日は天気がよく富士山も綺麗であろうと思い、かねてより訪れたいと思っていた、藤沢市西部の『文化財ハイキングコース 御所見南部・遠藤コース』をハイキングではなく、ガソリンも高騰しているため愛車のリンちゃんで訪れたブログです。10月23日(土) 9:24県道404号線(小出県道)を北上し、ここは富士のビューポイントである稲刈りも終え天日干しの昭和の風景であるポールは、カルペソール湘南スポーツクラブの練習場。大岡越前通り沿いにあるクラブである今年も数回彼岸花を楽しんだ、小出川小出川の下流側。ここで電動アシスト自転車に乗った高齢の女性と出会い会話。青森の弘前から息子に呼ばれて藤沢へ来て以来16年だと。嫁さんがいい人でやることがなく、弁当、お菓子をもらい江の島、大和へ出かけていると。マンションも9階でやることもなく、こちらもそうだが。言葉が一部理解できないところもあったが、話し相手になったので、別れ時にチョコを頂く天気が良いので富士山が期待でき、最近発見した富士のビューポイントへ。前方の杜は、宇都母知神社(うつもちじんじゃ)。畑にはキャベツか宇都母知神社の御神木「椎の木」サクラが咲いていた十月桜であろうか宇都母知神社の鳥居御所見南部・遠藤コース文化財ハイキングコースに入っている、「宇都母知神社」。所在地:神奈川県藤沢市打戻2662既に9月20日(月)に参拝しているので今回はスルー、その時のブログは「宇都母知神社」👈を、クリック願います。この時期、入口に七五三の幟が立つ宇都母知神社の道路を挟んで西側に建つ鐘楼富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668地主の方が畑の一部を提供して造られたビューポイントであるとかざる菊も植えられ咲き始めていた雲がなければ、9月、3月にダイヤモンド富士が見れると今日は富士の裾野に雲が漂っている、矢倉岳、金時山も眺望できる圏央道の高架も、夜景も楽しみだざる菊の本数はまだ少ないが丹沢連峰も一望今まで海岸からの富士山を追いかけていたが朝も良いのではないかと遠藤宮原線を走り慶応大学前交差点から、湘南藤沢キャンパス入口市道辻堂駅遠藤線沿いに生えるススキススキの穂も風に揺られて曹洞宗 宝泉寺所在地:神奈川県藤沢市遠藤6094今回は宝泉寺はスルーしましたので、今年6月23日(水)に訪れた「6月の宝泉寺」👈 をリンク願います。新築された山門宝泉寺の前に建つ、『文化財ハイキングコース案内図』。御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森 藤沢市教育委員会遠藤・御所見南部の今と昔昭和30年代から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています。御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連っています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社を祀ったと考えられています。また、自然を生かして遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(おそごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語り合っています。まず、宝泉寺の近くにある「御嶽大神」へ向かう。途中、大庭獺郷線沿いに建つ石柱には、「芭蕉天神宮」と刻まれていた裏面には、平成二十五年十二月吉日芭蕉天神宮へ行くことに、大庭獺郷線から南側に入り、道路脇に、「南無妙法蓮華経 馬頭観世音」スマホの案内で進むが入口が解らず、小高い所から西側に見つける道案内もなく、農家の温室脇を入ると、芭蕉天神宮(ばしょうてんじん)所在地:神奈川県藤沢市遠藤37階段下の石柱には、「平成二十五年十二月吉日」と刻まれていた真新しい階段を登り鳥居の扁額、「芭蕉天神」小さな社の前には、右側に、「芭蕉天神由緒」、左側に、「芭蕉天神宮改修記念碑」芭蕉天神祭神は愛知県岡崎に本社がある芭蕉天神で学問の神様といわれている。岡崎市史によれば岡崎の天満宮も元は伊豆国芭蕉山の天神を勧請したものとされている。ある時期、窪島家の屋敷内に祀っていたといわれる。三月二十五日が祭日で氏子の新入学生に対し、岡崎から取り寄せた御札を配り祝っている。 (遠藤まちづくり推進協議会)より芭蕉天神宮改修記念碑改修の経路芭蕉天神宮社殿並びに参詣階段は、昭和四十一年十一月の改修からすでに四十七年が経過した。近年、社殿や階段、記念碑などの傷みが甚だしく改修はかねてからの懸案であった。氏子一同協議を重ねた結果一致協力のもとに社殿、参詣階段、鳥居、境内周辺などの改修をするに至った。氏子一同の無事長久並びに子弟の学問の向上を願い崇める為のものである。尚、改修工事奉賛者芳名などは下記・裏面に記載。 平成二十五年十二月吉日 建立竹やぶを開墾して整備されたようだ参道の左側は温室道路脇にカラスウリ朱色の果実と、夜間だけ開く花で知られる。地下には塊根を有する朱色だけによく目立つ果実である芭蕉天神から大庭獺郷線に戻り。おすいマンホール蓋。藤沢市のマンホールは、市の花のフジがデザインされたものをよく見かけるが。珍しく、市の木クロマツをデザイン。中央の丸の中に藤沢市の市章とその上に「おすい」文字が入っている。道路脇に道祖神大庭獺郷線を進むと、左前方に「御嶽大神」の鳥居 ー 続く ー
2021.11.07
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松前町郷土資料館の見学を続ける。10月19日(月) 12:17正確になった北海道の地図、本州に移封された松前氏正確になった北海道の地図松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調 査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。中:蝦夷興地全図(写) 天明5年山口鉄五郎 外幕府の調査隊が作成したもの。右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの本州に移封された松前氏寛政11(1799)年、幕府は松前藩から東蝦夷地をとりあげて仮直轄し、さらに享和3(1803)年には、永久直轄しました。その後、文化4(1807)年には松前氏を福島県の梁川(やながわ)に移封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石の領主になり ” 松前藩 ” は消えてしまいます。左:福山館と福山城 安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。 嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったため、この時から正式に福山城となりました。左下:福山城の築城 幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2 (1849)年、松前崇広に築城を命じました。安政元(1854)年に落成したこの城は、日本最 後の旧式の城です。右:3万石の大名 安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代って、東北地方に、 領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。 左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年 右の領地:安政2(1855)年 ~ 明治4(1871)年箱館戦争松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃を受け、館城も落城し、藩主以下津軽へのがれました。翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大半が焼失してしまいました。城下の人々にとって、戦争は物心両面に大きな傷あとを残しました。町内出土の砲弾・弾丸左:洋式銃の弾丸、右:火縄銃の弾丸錦切(きんぎれ)官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの陣羽織松前藩家臣 駒木根家着用のもの12:21《 現在の松前 》国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは小松前川河口付近のみとなりました。丘の上には次に訪れる日本100名城の「松前城(福山城)」。郷土資料館も足早に見学、約20数分の滞在で後にしたが、アイヌの一部を知ることができた。12:33松前城の無料駐車場へ駐車。桜の木の手前には、コスモスがきれいに咲いていた松前町内指定文化財松前城の多門櫓跡松前城所在地:北海道松前郡松前町松城144松前城は、西蝦夷地福山にあった日本の城。江戸時代、公式には福山城と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。松前城(福山城 ― 国指定史跡)今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ松前藩が成立。十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約76,000平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲台を構え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前城は北辺警備の重大な役割を果たしていた。現在の天守閣は、昭和36年に再建されたものである。 松前町松前城資料館展示案内 3階(展望室) 福山城(松前城)古写真パネル 2階 松本家・アイヌ民族関係資料 1階 松前藩・松前神楽関係資料 地下 (北海道命名150年記念) 福山城縄張図・松前奉行所図入館料 大人 360円 小人 240円前回、資料館に入っているので今回はスルーした。松前城は、日本100名城で、平成28年(2016)10月28日(金)に登城捺印している武田氏略系源 頼義 八幡太郎義家、新羅三郎義光=三世孫信義(甲斐武田氏祖)— 信光(安芸武田氏祖)六世孫信繁(若狭武田氏祖)甲斐武田は晴信(信玄)より勝頼に及び、安芸武田は光和より光廣に及び、若狭武田は元明に至りいずれも滅亡せり。松前城天守閣国宝だった天守は昭和24年に焼失したため、昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観を復元したものを再建。緑色凝灰岩で造られた切込接の低い石垣が見事。石垣には戊辰戦争のときの弾痕が今も残っている。重要文化財 福山城(松前城) 本丸御門本丸脇にある櫓門で、安政元年(1854)に建立。築城時から現存する門は国の重要文化財。扉に鉄筋を張ってあり、この石垣も本丸同様に美しい。本丸御門と天守閣重要文化財福山城(松前城) 本丸御門修理概要等福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家五世慶広が、天正17(1589)年徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5(1600)年福山の地で築城に着手し、同11(1606)年完成した。蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張りにより、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみた。その後十数年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8(1875)年には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら三棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。同25年文化財保護法の施工により、本丸御門は重要文化財に指定された。本丸御門は、昭和24年屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が摩耗し雨漏りが生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては松前町の直轄工事として、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。石碑には「長尾山椒」の漢文長尾山椒(秋水) 松前城下作詞海城寒柝月生潮 かいじょうのかんたくつきうしおよりしょうじ波際連檣影動揺 はさいのれんしょうかげどうようす従比五千三百里 これよりごせんさんびゃくり北辰直下建銅標 ほくしんちょっかどうひょうをたてむ漢文の解説松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。今上がってきた月は、まるで潮の中から生まれて来たようだ。(松前の港のにぎやかなようす)波打ち際にたくさんつながれている船のたちならぶ帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。(城内や津軽海峡のようす)ところで、この松前の地から五千三百里の彼方にある北極星の真下(つまり北極点)にここまで我が国だという国境の標を建てたいものだ。北海道指定有形文化財「旧福山城本丸表御殿玄関」旧福山城本丸表御殿玄関慶長11(1606)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城中より出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた。 昭和38年7月26日 指定城内には、松前藩時代に植えられた桜の古木本州から渡って来た人々が、遠く離れた江戸や都をなつかんだりして木を植えたことがきっかけで、多くの桜がある津軽海峡を見下ろす遠く竜飛崎が見え、右側の海上にはうっすらと山がズームアップ、白神岬ではうっすらと岩木山見えていたが、より鮮明にカメラを左に振ると、下北半島方面松前城前にある、青木郭公の顕彰碑と桜前線本道上陸標準木(ソメイヨシノ)の標柱松前公園には約250種1万本を数える桜が植栽されており、早咲きから遅咲きまで約1ヵ月にわたり順に咲き誇り多くの観光客が訪れる青木郭公の顕彰碑北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて、活躍した本道俳句の代表的先生で、「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれております。鎌倉翁の顕彰碑鎌倉翁の顕彰碑松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。鎌倉翁は大正10年頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。昭和43年91歳で亡くなられました。この辺りの史跡さくらまつりが開催されるエリア。松前桜、三大名木の、龍雲院「蝦夷霞桜」、光善寺「血脈桜」、天神坂門「夫婦桜」がある。他に、桜見本園、新桜見本園、第二公園天守の手前に蓮池隅櫓(すみやぐら)跡と、右に、搦手二ノ門隅櫓(すみやぐら)この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にあります。東郭は、内堀を挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手升形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物がこの隅櫓でした。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が桁行四間(7.272m)、梁間三間(5.454m)であったことが判ります。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であったことが、慶応3(1867)年に撮影された古写真から判ります。搦手二ノ門搦手二ノ門下から三ノ丸中央奥に天神坂門外堀と砲座外堀は二ノ丸と三ノ丸の間にあり、三ノ丸には7基の大砲がすえつけられていた。三ノ丸の左奥にある砲台の台座左手の馬坂搦手二ノ門搦手二ノ門を入り二重太鼓櫓(にじゅうだいこやぐら)跡二重太鼓櫓この櫓は、二ノ丸南東隅にあり、城内三ケ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえでも最も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、三ノ丸と、広範囲を見渡すことが出来ました。また、平常時にはその名のとおり、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、櫓の西に接して『太鼓番居小屋』があり、その管理をしていました。櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が四間(7.272m)四面であったことが判ります。また、土台石は発見されませんでしたが、発掘調査で出土した土台下の地業(地下構造)の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが、慶応3(1867)年に撮影された古写真から判ります。二重太鼓櫓跡から、搦手二ノ門下を望む12:57同場所から、天守を望む桜の木がたくさん植えられており、4月下旬から5月中旬まで桜祭りが開催される。北海道新幹線の開通で、木古内から訪れる人も多くなったのでは?日本100名城の松前城(福山城)を約30分の散策で後にする。 - 続く -
2020.11.22
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前鳥神社の参拝を続ける。境内を歩く前鳥神社はケヤキに囲まれた緑豊かな、平塚八景の一つに数えられています。境内に併設されている、さきとり幼稚園の園児が境内で遊んでおり、参道には木洩れ日がふりそそいでいます。また、御社殿の他に石碑や句碑など様々なものをみることができます5月8日(土) 10:53参道左側に手水舎前鳥神社拝殿拝殿前には携帯撮影用の台拝殿の扁額「佐喜登利神社」拝殿前にあった、「参拝の栞」当神社は学問の宮にして、また商工業の繁栄・厄除・交通の守護神として広く崇敬されています。ご祭神 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 日本武尊命(やまとたけるのみこと)大祭日 九月二十八日月参り 一日、十五日、二十八日参拝の作法 正しく神前に向って、二拝(二礼)、二拍手、一拝相模国四之宮 前鳥神社 御由緒御祭神 境内社 菟道稚郎子命 神戸神社 大山咋命 奨学神社 日本武尊 祖霊社 稲荷社御由緒 前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子菟道稚郎子がこの地へ移り込み、 後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、千六百五十年の歴史を有します。 奈良時代から十世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現在の県庁)が置かれ、当神社は 国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。 十世紀初頭に醍醐天皇により勅撰された『延喜式』神名帳では奉幣社の一社に挙げられ、十 世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は国司巡拝社の第四番に列し、爾来相模国四之 宮と称されております。 鎌倉時代には源頼朝公より夫人政子の安産祈願の新馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定めら れたことが『吾妻鏡』に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、 徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸幕 府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問 わず広く信仰されてまいりました。 現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・ 就職・安全守護の前鳥大神として広く尊崇を集めています。拝殿前から境内を振り返る拝殿の左奥にある境内末社神輿殿天祖参神の碑古事記に伝えられている天祖三神を称えた碑境内の隅にこのような看板が掲げられていた。御鎮座千六百五十年式年大祭 奉祝記念事業 ご奉賛のお願い平安の昔より相模国第四之宮と称えられ、広く崇敬を集める前鳥神社は、来たる平成30年に御鎮座千六百五十年を迎えます。この佳節を奉祝し、さらなる御神威の発揚を願うべく、左記の通り記念事業を執り行うこととなりました。つきましては、皆様にこの歴史的事業の趣意にご賛同いただき、赤誠あふれるご浄財のご寄進を仰ぎたく、お願い申し上げます。記念事業概要 一、子ども神輿新造 二、表参道 新鳥居建立 三、御社殿・手水舎・参道 敷石整備 四、芳名板・記念品他作成〇祝行事予定 一、前鳥神社、真土神社、中原日枝神社合同神輿渡御の執行 二、記念講演会の開催 三、仮称「四之宮と前鳥神社展」の開催 四、書道・絵画展の開催浄財募金額 三千万円竣工予定 平成二十九年度中ご奉賛受付期間 平成二十七年十月より平成三十年九月までご奉賛受付場所 社務所もしくは授与所にてお申し込みください 前鳥神社御鎮座千六百五十年式年大祭 奉祝記念事業実行委員会あなたも前鳥神社崇敬会会員になりましょう。前鳥神社は平塚市最古の神社で、御祭神は応神天皇の皇太子である菟道稚郎子命です。命は百済國から来た王子阿直岐と博士王仁を学問の師とされました。博士王仁は初めて日本に論語と千字文をもたらした人です。よってこの由縁をもって、境内社奨学神社にはこの御二方のほか菅原道真公を祭祀してあります。また菟道稚郎子命を御祭神とする神社は東国では当社のみです。このような御祭神の神徳を崇敬奉賛することを目的として、設立されたのが当崇敬会です。会員にはどなたでもなれますし会員の特典として、毎年一回神符神饌を授与せられ、特に会員のお子様のためには、進学と学業成就祈願がなされます。くわしいことは当社務所にお問い合わせください。三社参りのご案内前鳥神社境内の三社は各々ご祭神が異り、ご神徳霊験はあらたかでございます。お参りは三社をご巡拝下さい。 ご祭神前鳥(さきとり)神社 菟道稚郎子命 大山咋命・日本武尊神戸(ごうど)神社 天照皇大神・素盞嗚尊奨学(しょうがく)神社 王仁命・阿直岐命・菅原道真命拝殿の右側に、神戸神社、奨学神社神戸神社ご祭神:天照皇大神・素盞嗚尊ご利益:農業・諸業繁栄・厄除・防災招福昭和53年(1978年)に境内社八坂神社と同神明神社を合祀して造営された。「神戸」は当社鎮座地の小字奨学神社ご祭神:王仁命・阿直岐命・菅原道真命ご利益:学業・文化・芸能昭和44年(1969年)に境内社天神社を合祀して創祀。当社の祭神菟道稚郎子命に漢籍を教授したという百済人、阿直岐・王仁を勉学の神として祀る奨学神社の中には祈願用のダルマ神戸神社の前から、神符授与所、しあわせの松拝殿、しあわせの松、神符授与所拝殿前のしあわせの松幸せの松この松の木は稀に四本の葉をつけた松葉が見つけられます。いつの頃よりか「しあわせの松」と呼ばれ、この四合わせの松を身に付けると運が開け幸運を招くと伝えられています拝殿と神戸神社の間にある「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」の碑日本武尊のお后、弟橘媛命が尊を救うべく入水した際に詠まれた歌の碑ご神木のケヤキ「相模国府祭 六社めぐり限定御朱印」の幟拝殿、神符授与所社務所・研修殿氏子崇敬者の各種研修会、講演会等に使われる研修殿を備えた社務所神楽殿昭和天皇の御即位を記念して造営された神楽殿の扁額「神楽殿」神楽殿の横に立つ石柱「大震災記念碑」裏面には「大正十五年九月一日 建立」参道の南方向の二の鳥居右側に「近藤雪竹先生書碑」が建つ近藤雪竹先生書碑書家近藤雪竹先生を門人の田中真洲先生らがその功績を称えた碑石碑の裏には「近藤雪竹先生略傳」先生名は富壽字は考郷雪竹はその號號である文久3年6月江戸に生る先生人となり恬淡和雅己を誇らず人に阿〇せず毅然として自らを持し座談の間時に諧謔を弄するを得意とされた幼少より學を好み紀州藩儒井上韋齋に漢籍を學び日下部鳴鶴に就いて書道を修め傍ら益を巖谷一六に受け上は三代の鐘・・・・・・略二の鳥居を望む筆墨塚書家の田中真洲先生が神社に論語・千字文を奉献された記念にその筆墨を納めた塚萩原先生句碑と石祠萩原先生句碑萩原夏絵は東京神田の生まれ。平塚に移り、後進の指導にあたった川柳作家手水舎祖霊社の傍にあった、川戸飛鴻の句碑「木の実落ちし 音しんかんと残りけり 飛鴻」川戸飛鴻は伊勢原市に生まれた詩人で俳誌「石楠」にて活躍。平塚に長く住んだ前鳥神社の拝殿西側に立つ鳥居鳥居手前右に立つ石柱には「相模國十三坐之内 前取神社」鳥居の扁額「前鳥神社」車お祓所交通安全祈願。車をお祓いする場所一度に5~6台をまとめてお祓いする前鳥神社の西側にある「車お祓所」11:20駐車場へ戻り前鳥神社を後にする ー 続く ー
2021.06.24
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この日 4月29日は高野山真言宗 宝生寺の阿弥陀三尊が御開帳とのことで、雨が降りそうな中愛車のリンちゃんで訪れた。4月29日(金) 10:47自宅から西方向へ進むが、途中義姉から言われたJR相模線北茅ヶ崎駅近くにある塚へ。所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎503-4住宅街の中にある石塔には「うしのごぜん」と刻まれていた。廻りには説明板がなく、ネットで調べ以下の情報は、茅ケ崎市教育委員会発行の「ちがさきの石仏 第15号」2011年(平成23年) 5月1日による。ある新聞に茅ヶ崎の「うしのごぜん」を書いた。「『うしのごぜん』は何さまなのか、今となっては手掛かりが何も残っていないと」文章の最後をそう締めくくった。その後知人から「牛御前」に関する資料が送られて来たと。その内容は、茅ヶ崎に「うしのごぜん」があるのは、江戸本所「牛御前」の効験が大山に詣でる信徒や旅人達によって伝えられ、祀られる様になったのではないかと・・・。茅ヶ崎の「うしのごぜん」は塚になっていたという記述がある。「うしのごぜん」と呼ばれる人のお墓もしくは供養塔だったのか、はたまた「神様」を祀ったものなのか、明らかにする手掛かりがまったくない。近年この塚の辺りが住宅地になり、いつしか塚も姿を変えていくのだが、その頃から居住者の間に不幸な出来事が続いた。もしや、と思案した自治会や有志の方々によって「うしのごぜん」と刻んだ石塔を建て供養したという。本来なら一軒の建売りになるのであろうが。「うしのごぜん」から西へ進み、JR相模線の新型車両。スマホの案内で住宅街を抜け、宝生寺へと向かう。道路脇(左下)に安全柵に囲まれた「道祖神、庚申塔」、前方角に「北向地蔵」。宝生寺の門前手前に建つ「北向地蔵」。北向地蔵の横に「国重文 阿弥陀三尊像」この日は年一度の御開帳で山門前に幟が立っていた。この辺りには古民家、新興住宅もあり、畑には温室、葡萄畑があった。11:07高野山真言宗 懐嶋山宝生寺(かいどうざんほうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保546山門横の塀に沿って進むと「湘南東部総合病院」。阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国重要文化財指定 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ仏法最初の像と伝える信濃善光寺木尊の模像で、いわゆる善光寺式如来といわれるものである。鎌倉時代に非常に多くつくられたという。木像も鎌倉時代の作とみられている。一説にこのあたりを領していた懐島景義の持仏であったともいわれるが、その来歴については全く不明である。なお、台座および光背は後世のものである。 茅ヶ崎市教育委員会 門前の掲示板に、令和四年四月二十九日 自 午前九時 迄 夕方「阿弥陀三尊御開帳」 御自由に拝観下さい山門を入り正面に本堂境内には、水子地蔵等いろんな石塔が立っていたが今回はスルー。👉を「宝生寺」クリック願います。左側に今日の目的の「阿弥陀堂」阿弥陀堂に安置されている阿弥陀三尊像は、信濃善光寺の本尊の模像で、1195年(建久6年)の造立といわれ、懐島郷を領していた大庭景義の持仏ではないかともいわれている像。国の重用文化財に指定されている。本堂前には、御開帳で訪れた参拝客グループ。本堂の扁額、「宝生寺」本尊は大日如来本堂内ではボランティアの人か「鎌倉殿」に関する説明をしておられた。懐島郷を領していた大庭景義に関する説明等々。本堂の縁側から境内を見下ろす。今にも雨が降りそうだが・・・。阿弥陀堂阿弥陀堂の善光寺式阿弥陀三尊像は、年に一度、4月29日に開帳される。この日を待っていた。ツツジはこれから満開に。入堂自由 撮影禁止残念ながら三尊像は撮影できず、願い事だけを!宝生寺の阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ善光寺(長野市)の本尊を模したといわれる善光寺式の阿弥陀三尊像です。手のかたちや一つの光背に三尊がはいっているところなどが、一般の阿弥陀三尊像と違います。善光寺式の阿弥陀三尊は、鎌倉時代から造られており、この像も銘はありませんが鎌倉時代の作とされています。しかし、来歴については不明です。なお、台座と光背は近世のものです。 茅ヶ崎市教育委員会阿弥陀堂前から本堂、寺務所を望む。11:20雨がパラつき始めたので急いで次の目的地へ。山門前の両側に頭巾を被った地蔵が立つ。係員が二人おられたが、駐車場は本堂裏にあったがここから入るのか。この後、” なんじゃもんじゃ ” の木を愛でに同じ高野山真言宗の「成就院」へ向かう。 ー 続く ー
2022.05.05
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この日は日曜日で朝から囃子太鼓がなっていた。7月の浜降祭前に地元地域を巡る ”神輿の渡御(とぎょ)” が行われると。5月19日(日) 10:30地元神輿の渡御祭礼では、最初に神社の本殿にまつられている御神体を神輿に遷す儀式 (御霊遷し/みたまうつし)を行う。つまり、神輿を担いでまちを練り歩くということは、神様がそのまちを巡幸する (これを ”渡御” ) という意味がある。しばらく新型コロナウィルスの関係で渡御は行われていなかったが、昨年4年ぶりに”浜降祭”も開催されようやく元に戻った。最近は地元住民の担ぎ手が少ないので、他の地域からの応援者が多い。担ぎ手が少ない中、若い女性の担ぎ手が多い。子供達も神輿の後に続いて。知り合いを探したが。12:30昼前に駅前で用事があり愛車のリンちゃんで出かけた。その帰りに駅の南側に安いラーメン屋があるとのことで立ち寄った。ラーメン大龍所在地:神奈川県茅ヶ崎市幸町1-9茅ヶ崎にも多くのラーメン屋がありどこも繁盛している。あるテレビ局で放映されたため今だかっていつも行列の人気店、このため夜の営業を止めた店も。ここはいつもの居酒屋で飲み仲間から「昭和の雰囲気があり安い」と紹介された。茅ヶ崎駅南口のロータリーから東へ数十メートルに位置している。昭和を感じさせるショーウインドー。昭和55年から、変わらぬ味、変わらぬ価格 ラーメン 300円(税込)。みそラーメン 550円、玉子丼 500円、チャーハン 550円 と安価である。店内にはカウンター席とテーブル席があり店主一人で営業。店主と客との話の内容から常連客が多いようだ。みそラーメンを注文。味は少々しょっぱかった、分量も腹7 ~ 8分目であったか。次回は餃子も同時に食したい。昼食後一旦家へ帰り、この日は日曜日で海岸で何かイベントが行われているだろうと、愛車のリンちゃんで再度出かけた。15:00茅ヶ崎 東海岸 ヘッドランド ビーチのウッドデッキ。ビーチでは ”ほのぼのビーチフェスティバル2024” が行われていたようだ。到着したときフラダンスが行われていた。ウッドデッキ廻り。5月5日に開催された「PEACEFUL EASY FEELING on the beach live」では多くの人がウッドデッキに座り込んでいたが。ステージの後方には、「神奈川トヨタは、ほのぼのビーチフェスティバルを応援します」と。ステージでは、パフォーマンス、コンサートが行われ、ちょうどコンサートが始まった。ほのぼのビーチ茅ヶ崎とは、1990年3月に発足された団体。団体設立の経緯私達は1990年のサーフ90を契機に茅ヶ崎市の町おこしとして青年会議所のメンバーを中心に茅ヶ崎の象徴である海に注力し理想的な海岸活用を目指す事を目的にした団体です。発足当初“ほのぼの共和国”として主にイベントの企画を中心とした活動を行って来ました。1993年に現在の浜辺をキーワードとした環境、福祉、教育に関する活動を実施していく委員会体制になり、名称も“ほのぼのビーチ実行委員会”となりました。2000年には体制を一新し、さらに環境を意識した活動となり、一年を通して継続した活動を行ってきました。2005年には地域性をよりアピールする為、団体名を現在の“ほのぼのビーチ茅ヶ崎”とし、現在に至っています。主なミッションは、①海岸美化の意識啓蒙活動②海岸の安全と利用形態の模索③各団体とのネットワーク化④公開勉強会や夏に開催する環境イベントの企画・運営クリーンビーチに取り組んでいる団体。今日は波静かな ”ヘッドランド(Tバー)” 。男性と女性のフラダンスが始まった。男性軍は若い人から前期高齢者?と年齢層が広かった。茅ヶ崎市はハワイのホノルル市・郡と姉妹都市協定を締結してから今年が10周年目。茅ヶ崎市内にはフラダンス教室もあり、団体・グループも多い。男性の方達もハワイアンにのり上手に踊っておられた。女性軍の赤の衣装に圧倒されているようだが。男性軍も笑みを絶やさずに踊っておられた。男性軍をズームアップ。ダンスを終え退場、見事な踊りであった。演奏者は茅ヶ崎在住の ”松井貴志” 。続いて女性のダンサーひとりがステージに。紹介がなかったのでダンサーの名は?ダンサーは陽に焼けロングヘア―。ズームアップ。この後、女性ダンサー4名が登場。曲にのり腰を揺らせて波の如くに。一段高いステージの女性ひとりのみが陽に焼けておられたがサーファーであろうか。頭の花飾りも。ハワイでは花を耳の後ろにつける花飾りをつけている方をよく見かける。 左側につけると既婚者、もしくは恋人がいます。 というサインになります。この方たちは左側だから。15:40見事なダンスであった。庭先では今年3月24日(日)に辻堂の ”湘南クレマチス園” で購入したクレマチスが開花していた。湘南のクレマチス「喜代」フロリダ系/弱せん定で、庭植向き、鉢植向き、切花向き 。駿河のクレマチス「ユスタ」ビチセラ系、トレリス・オベリスク向き、春から秋に咲く、新枝咲き。湘南のクレマチス「プリンスチャールズ」遅咲き大輪系/強せん定で、庭植向き、鉢植向き、切花向き 。後2本購入したが既に咲き終わっていた。アジサイもこれから見頃を迎える。 END
2024.06.03
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コロナ禍の中、埼玉県下の続日本百名城他へ旅友と訪れたブログです。事前に旅友に訪れるところをリストアップ願い、下記順番で訪れることに。 ①、玉淀大橋(荒川) ②、埼玉県立 川の博物館・・・・・日本一水車 ③、四津山城跡 ④、高見城跡 ⑤、永昌寺大松跡 ⑥、鎌倉街道上道(かみつみち)跡 ⑦、八和田神社 ⑧、普賢寺(ふげんじ) ⑨、越畑城跡(おっぱだじょう) ⑩、杉山城跡(嵐山町役場 8:30 ~ ) ⑪、鬼鎮神社 ⑫、稲荷塚古墳 ⑬、菅谷館跡(埼玉県立嵐山史跡の博物館 9:00 ~ ) ⑭、忍城(行田市郷土博物館 9:00 ~ 16:30)4月20日(火) 10:15天台宗 普賢寺(ふげんじ)所在地:埼玉県比企郡小川町奈良梨830普賢寺が位置する小川町奈良梨は、往時には「奈良梨宿」といわれ、川越・児玉往還にあった宿場町でした。当時鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であり、旧来より歴史的に重要な拠点でもありました大師の燈は千二百年、運動の燈は五十年「一隅を照らす」 天台宗 一隅を照らす運動総本部多宝山止観院普賢寺は、慈覚大師により創建、慶長8年(1603)に亮光法印により中興されました。さらにそれ以前に15世にわたり住職が名を連ね、比叡山延暦寺の直末(直轄)寺であり「歴史」と「格式」を併せ持つ寺院です。普賢寺本尊の普賢菩薩は、増益、延命の大きな徳を持つ仏様です本堂の扁額「多宝山普賢教寺」本堂右前に「出世大黒」の石像比叡山開創千二百年記念の石柱と六地蔵珍しくマスク、帽子をつけていない本堂復興記念碑當山は多寶山止観院普賢寺と號し天台宗総本山比叡山延暦寺の直末なり。慈覚大師ご開山との傳あれど縁起年代共に詳しからず、慶長8年亮光法印これを中興し爾来法華一乗の教えに基づき法燈不断普ねく人心の開導教化に努め来たれり。しかるに明治5年3月不慮の火災に遭い本堂その他の堂宇寶財悉く焼失せり。ここに於て、再建を志念すといえども、時に利なく資糧 亦 乏しければ明治16年、篤信者家屋を移築して之をもって佛利となす。ありがたきかな、ご本尊の威稜ご先祖の冥佑、 昭和4年10月寄進する檀徒ありて仮堂を造作、昭和8年12月本堂を再建す。當山苦難の時期にあるも、僧俗共に寺門を護持し、よく佛恩報謝のまことをつくす。世に常なるものなき焉、本堂星霜を経てすでに朽ち、修繕することあたわず。これによって昭和末年壇信徒相い談じて、本堂の復興を発願、真実信心の實を現し堂宇を復興す。茲に諸大施主の名を刻して、後世にその徳業をとどむ。 伽藍安穏 興隆佛法 院内上下 諸人快楽 維時 平成四年四月吉祥日 當山第四十三世 嗣講大僧都 日下部公保撰文みんなのしあわせを願う佛さま普賢菩薩の原名は梵語で、サマンタバハダラ中国では「偏吉」と譯されています「偏吉」とは「みんなのしあわせ」という意味です困ったとき普賢菩薩を念じたらどこでもどのような姿にでもなって救ってくれる佛さまと信仰されています。南無大行普賢菩薩と三回お称えください 合掌石碑は「本堂復興浄財寄進者芳名」 総工費 五千参百五拾万円 建 坪 五十四坪 発 願 昭和63年3月18日 落 慶 平成4年4月26日浄財額は、金弐百万 ~石碑には「一隅を照らそう 境内植樹 歴代住職移廟 記念」本堂左奥に墓地があり入口に地蔵が立つ本堂左奥にある墓地麦の穂が風に揺られ10:24普賢寺と児玉往還を挟んである、時宗 寶林山 萬福寺所在地:埼玉県比企郡小川町奈良梨924山門左側に六地蔵が並ぶここの地蔵もマスク、帽子をつけていない社の中に地蔵身代り地蔵尊十三重の塔子育観音本堂の扁額「満福寺」小高い所に墓碑が並ぶ境内の高台から本堂を見下ろす境内のフジ棚境内の隅に咲くフジが見頃ズームアップツツジも咲いていたが10:32イチョウの樹の棍棒状の「乳根(ちちね)/垂乳根(たらちね)」10:38リストの「⑨ 越畑城跡」を目指す。小川町から嵐山町(らんざんまち)へ入る10:45越畑城(おっぱだじょう)所在地:埼玉県比企郡嵐山町越畑戦国時代、山内上杉氏の武将荘氏の平山城であり、のち後北条氏に属した。関越自動車道の建設で城跡本丸を貫通し本丸の大部分は消滅し、藪化した西に僅かに土塁が残り、東側は削られて消滅していると橋の東側に車を駐車して、関越自動車道に架かる「愛宕橋」を渡る関越自動車道の高崎方面関越自動車道の陸橋(愛宕橋)階段前の北、関越自動車道のフエンス東に「越畑城趾之碑」の石碑があるとのことであったが、案内板、説明板がなく(写真はネットから)。城趾碑裏面の『撰文・越畑城阯の記』には、「本城は荘山城守秀俊の築く所。西鎌倉街道に臨み北高見を経て鉢形深谷に達し南菅谷を過ぎ松山川越に到るべし。城地高峻にして嶮岨空涅塁阯歴々として存し実に北武の要害たり。荘氏は武蔵七党児玉氏に出で、庄権守弘高庄太郎家長等義朝に仕へ功名あり。家長五代の孫四郎泰家、五郎為久、泰家に子太郎弘長等亦建武中興の際の新田義貞に従ひ勲功ありしも、南風競わず即ち新座郡橋戸に退き郷士となる。戦国の世に及びて弘長三代に裔、(荘)秀俊山城守と称し、永享10年(1438)管領上杉憲実に分倍河原の戦いに従ひ軍功に依り、地を比企郡内に賜り当城を築いて居住す。其子左近将監秀政越畑の南杉山に支城を営み城址今尚在り。爾後秀光、秀忠等相継いて居り山内上杉・北条氏に属し戦場に馳す。行秀に至って式部少輔と称し北条家宰たり。大平に及びて子孫橋戸及び足立郡新会に居り専ら地を拓きて祖先の祭祀を絶たず」と陸橋を渡り、階段を登って、北(右側)約70メートルの最高所に本丸跡があると関越自動車道の東京方面橋を渡り右側へ上り、iPhoneを頼りに探すが本丸はわからず、南側へそこには、愛宕神社が建つ二の丸跡愛宕神社の扁額「愛宕神社」愛宕神社の横に小さな社があったが、なんの説明板もなく関越自動車道の西側の丘の上を探し回るが見つからず諦めて愛宕橋へ下る11:09越畑城の本丸がわからず諦め、再度関越自動車道の下を潜り、西側の農道へ。車中から農道脇に石碑群を見つけ駐車北方向を振り返る11:12越畑城へはこの辺りから上るのであろうかと、案内板もなくけもの道になっているので今回は諦めスルーすることにする — 続く —
2021.05.26
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名胡桃城址の散策を終え次の目的地は「四万川ダム」。その前に、今回の旅にあたって妻から「りんごを買ってきて」と言われていたので、名胡桃城址案内所で近場のりんご販売所を聴いて出発。11月16日(水) 9:45国道17号の名胡桃城址前交差点を横切り南方向へ。Googleマップでは、名胡桃城址から四万川ダムまでは、41.7km、所要時間54分と。黄色の丸は、今日訪れる主目的の沼田城、名胡桃城、岩櫃城。名胡桃城址前交差点から坂を上り、この先の下津交差点を右折。9:5011代内海彌平治りんご園所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津2387先祖の彌平治の名前は園主だけが名乗ることができ、次期園主は「名前に違わない力をつけないといけません」と語る。すべてが消費者と直結している販売なので、彌平治の名を汚さぬよう、プライドをもって栽培・販売していると。県道253号線(渋川下新田線)沿いにあるりんご園である(写真はネットから)。店頭ではこの時期の品種は新世界を販売していた。店内で試食品を食べ美味しかったので、1,080円の袋を3袋購入した。店の横にはりんご園。りんご狩りもできるようであったが要予約。若い園長に聴くとりんごの品種「ふじ」はまだ早いと!絵になるりんごである。今年は台風被害はどうであったのか。道路脇に立つ「彌平治りんご園」の呼び込み看板。「新世界蜜入り くるみ」、くるみの意味は?土産用のりんごを購入、四万川ダムへ向かうことに。10:00県道253号線を戻り、ここ下津交差点を右折して県道36号線(渋川下新田線)へ。県道36号線沿いにはりんご園が広がる。県道36号線(渋川下新田線)の赤根トンネルトンネルの中でみなかみ町から吾妻郡高山村へ入る。のどかな県道36号線(渋川下新田線)を進む。ここ中山交差点を右折して国道145号の中之条方面へ。10:07県道36号線と国道145号が交差する中山交差点交差点の西側に「中山城跡」がある。徳川と北条の領土争いが盛んだった頃、真田昌幸は当初北条方に帰属していたものの、一転して謀反を起こし、徳川方に付き従います。これを知った北条氏直が北条氏邦に命じ、真田の拠点「岩櫃城」と「名胡桃城」の中間にある中山の地を占拠させました。この際、北条氏の真田攻めの拠点として設置されたのが中山城です。当時は、かつての沼田城主であった沼田顕泰の子「赤見山城守」が城を守っていました。その後の細かな歴史動向は明らかにされていませんが、北条氏が滅亡した天正十八年(1590年)に、中山城は廃城となりました。10:15国道145号(ロマンチック街道)を進み中之条町へ入る。左側に観音霊場の看板を見つけ急遽車を停める。大塚観世音堂 (西向観音)/吾妻三十三観音33番札所所在地:群馬県吾妻郡中之条町髙山村と中之条町との境界地にあり、道路脇に車を停め振り返る。境内には古木のさくら。国道拡幅工事で直線道路になっているがかつての旧街道沿いには多くの寺社があった。道路脇には、「真田忍者の里 中之条町」「国道145号 長野原まで33km、中之条町大塚」の案内が立つ。中之条町は、群馬県北西部吾妻郡にある町で吾妻郡の観光の中心地である。郡内で最大の人口を有しており、15,570人 (2020年8月)。中之条町の汚水マンホール蓋町の花ヤマユリと、町の木であるケヤキの小枝に止まっている 町の鳥ウグイスのデザインですが、蓋を4分割しそれぞれ2ヶ所ずつ描かれています。「中之条町」「農村下水」の文字入り。古木のさくらの木の根元に「上野國吾妻郡」と刻まれた石塔。道路拡張工事で移設されたのであろうか多くの石塔が立っていた。大塚観世音由来記大塚観世音堂は、榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地にわかれたものと伝えられる。寺伝に拠るとその草創は九世紀弘仁年中(810-824)といわれ始め無量山菩提寺と称した。その後応仁の大乱で中絶したが、十六世紀大永年中(1521-1528)に再興して現在に至るという。古来吾妻三十三番観世音札所のうち最古の霊場とされている。昭和三十九年(1964年)本堂敷地を国より払い下げることとなり、大塚村各戸より浄財を集め金参万七百円也をもってこれを受け入れた。昭和五十一年国道拡幅工事に際し、西方二十五メートルの地より現在の地に移転した。たまたま時代の変遷に伴い宗教法人宗学寺の名義を借りて境内地の登記をしたが、実態は大塚村の共有財産として保有し村民一体となり宗教上の儀式はもとより総ての維持管理に当り佛果の鑚仰に努めている。以上子孫のため、大塚観世音堂の由来を綴り石に刻みてこれを後世に伝える。境内には多くの常夜灯や石塔・石仏などが置かれていた。左側の常夜灯には「寛政四年(1792) 奉納」と刻まれていた。町重 吾妻三十三番札所再興記念碑 中之条町教育委員会石塔には「吾妻三十三番札所観世音?」と。国道145号(ロマンチック街道)を振り返る。この先は吾妻郡高山村。観音堂の建立年は不明だが、昭和51年(1976年)の道路拡幅工事に伴い若干移動していると。観音堂は閉められていた。大塚基盤整備事業完成記念碑大塚地区は経済発展と共に近代化農業が発展する中に田畑に散在し耕地も不整形で、狭く農道は狭小で曲折甚しく田においては湿田多く特に大塚温泉近辺は整備事業も不可能ではないかとの噂さえあるほどの超湿田であった。用水は素堀多くその為漏水し多大の人力を必要とした。この条件が願望の機械化農業に対応出来ず常日頃住民の悩みであったが昭和五十七年十二月より町の強力な指導により村興し事業の一環として団体営土地基盤整備事業を取り入れて七年間の歳月を費し組合員九十七名一致団結総面積二十二町一反0畝十二歩総事業費二億四千七百万円で中之条町初の団体営土地基盤整備事業が完成をみたので、石に刻み後世の伝えるものとなり事業の内訳左の通り 田の面積 十八町二反0畝二十七歩 田反当り経費 百十万円 畑の面積 三町八反九畝 十五歩 畑反当り経費 六十万円 補助率 国 四十五% 県 二十七% 町 十三% 個人 十五%石碑の裏には組合員名が刻まれていた。耕地の中に牧歌的な民家が建つ。観音堂横から東方向を望む。右側の低地を名久田川が流れる。国道沿いに建っていた「大塚用水改修記念碑」の石碑大塚用水は昭和十三年先人の偉大なる努力により手掘りによる素掘り隊道であり洪水等の都度土砂が堆積し役員組合員等により手掘りによるバケツリレーで搬出し約六十年余の維持管理をしてきた。各施設の老朽化が進み陥没漏水等が発生現況施設が民地内及び国道を横断しており交通量の増加等に伴い危険にある。温故知新勇躍意を決し全面改修を決断したのである。補助事業を模索して県営ため池等整備事業(用排水施設整備小規模)を取入れ尻高用水組合との連帯と強調で百年の計を立てたのである。この用水は灌漑だけでなく防火用水として大きく役立っている。国県町関係機関の強力な指導のもと、平成四年度採択平成六年度に完成したのである。・・・中略・・・茲に完成を記念して石に刻み永遠の大塚村尻高村の発展を願い後世に伝えるものである左側の柵の中には多くの石塔・石仏が建っていた。10:25観音堂で約10分滞在した後国道145号を進み、カーナビはこの先を右折。ここ伊勢町下交差点を右折。伊勢町下交差点にある、ファミリーマート中之条伊勢町下店。国道145号のJR吾妻線 中之条駅前交差この先を斜め右方向へ案内板には右方向に「中之条税務署 300m」「吾妻中央高等学校 400m」と。国道145号から国道353号への分岐点、伊勢町上交差点を右国道353号を、四万(しま)、暮坂峠方面へ進む。右方向は「大道(だいどう)峠」。10:30中之条町の旧街道を抜け、上之町交差点を右方向へ進み国道353号を更に進む。国道353号沿いにも多くのりんご直売店があった。左側には「金井農園」。続いて右側に「白樺りんご園」と。10:35国道353号を進み隊道、左側を四万川が流れる。この辺りには、桑田城跡、内山城跡、仙蔵城(内山城)跡と山城がある。 ー 続く ー
2023.01.19
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長浜城跡の登城を終え折角であるので近郊の寺社史蹟を訪れることに。2月15日(木) 10:50まず近くにある”光明寺”へは、ここから約百メートル。県道17号線(沼津土肥線)を山側へ入る。削られた場所に墓石が立っていた。墓石は削られた斜面を養生し簡易な階段状の上にある。何故このような場所に設置されているのか。石碑には「西國 四國 奉納○○○」と。サカキが供えられておりまだ近隣の方がお参りをしておられるようだ。時宗 光明寺 (こうみょうじ)所在地:静岡県沼津市内浦重須 22鎌倉時代、時宗の開祖一遍上人は、日本各地をめぐり念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅をしていました。上人の遊行の旅に従っていた弟子の通岩和尚は、この地(重須郷おもすのごう:現在の沼津市内浦重須)にとどまり、今から約700年前の正応3年(1290年)、草庵を結び念仏を勧められました。これが当寺のはじまりであると。安政の大津波安政元年 (1854) 11月4日午前10時頃、伊豆地方をおそった大地震により大津波が打ち寄せ、重須村55戸のうち42戸が流失し、一面河原となりました。光明寺の本堂は床上3尺 (約0.9m)、庫裏は床上4尺 (約1.2m) まで浸水し、各所が壊れ、仏具など大切なものが流されましたが、幸いなことに倒壊をまぬがれた。本堂の右側に寺務所。石碑には「念ずれば花ひらく 坂村真民」と。本堂の扁額「東髙山」。御本尊は舟形光背阿弥陀如来立像である。本堂右側の一段高いところに六地蔵、墓石が立っていた。お揃いの衣装を着た六地蔵。歴史を感じさせる苔むした墓石、地蔵が立っていた。歴代の住職の墓石の先に本堂。忠魂碑であろうか二十名の氏名が刻まれていたが。判読できず。光明寺の高台からこのような光景が見えると。光明寺の西側を流れる陰野川から光明寺を望む。陰野川の下流側。光明寺の裏山を整備しているようだが。県道17号線(沼津土肥線)に戻りここを右折して、”三の浦総合案内所” へ行くことに。11:10セブン-イレブン 伊豆三津シーパラダイス前店前にあった ”石像群” 。ここから再度引き返し西方向へ進む。説明板等が無く詳細は不詳。11:15三の浦総合案内所所在地:静岡県沼津市内浦長浜 83-124観光客へ沼津市内の三の浦地区を中心とした観光スポットやバスの乗り方、お土産物など観光に関するすべての事をご案内をいたします。アニメの聖地となっていることから、大勢のファンが訪れている。三の浦総合案内所の前の ”富士見広場” にキッチンカー。中高年の男性、若い女性が訪れ購入していたが。車体に、「浦女」「浦の星女学院」と。ブログ作成時に調べると ”アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場するアニメ聖地” と。内容は、静岡県沼津市の海辺の町、内浦にある私立浦の星女学院。駿河湾のかたすみにある小さな高校で2年生の高海千歌を中心とした9人の少女たちが、大きな夢を抱いて立ち上がる。それは、キラキラと輝く“スクールアイドル”になること!諦めなければきっと夢は叶う――。いまはただ輝きを目指して、がむしゃらに駆け抜けていこう!ここから彼女たちの「みんなで叶える物語」スクールアイドルプロジェクトが始まった! 。三の浦周辺観光マップ1⃣ 発端丈山 内浦、三津にそびえたつ発端丈山は、標高410メートルの山で、伊豆の国市の葛城山と隣 接しています。展望台があり、駿河湾に浮かぶ淡島と富士山という特徴的な景色が楽しめ ます。益山峠から南へ分岐すると、天然記念物の大カエデと大いちょうがある益山寺に、 東に分岐すると葛城山に着きます。 初心者でも登ることができ、展望台からは駿河湾に浮かぶ淡島と、はるか彼方に南アルプ スを控えた富士山を望む絶好の写真撮影ポイントとして有名です。2⃣ 長浜城跡 この日既に訪問したので説明文はカット3⃣ らららサンビーチ らららサンビーチは、海水浴と磯遊びが一緒にできる、他には類を見ない新しい人工の海 浜施設です。白い砂浜は、遠浅で水質もよく、正面に広がる海越しの富士山の眺望は絶景 です。シャワー、トイレ、更衣室なども完備され、お子様連れのご家族でも安心して楽し めます。4⃣ 富士山ビュースポット・西浦江梨 駿河湾越しの富士山を望む絶景スポットです。手前に駿河湾へ大きく突き出た日本最北端 のビャクシン群生地として知られる大瀬崎が見え、独特の景観をつくりあげています。 夕焼けから夕闇にかけての時間帯の風景もおすすめです。5⃣ 大瀬崎 この日この後訪問するので説明文はカットこの後走る ”大瀬崎から戸田” へのルート。三の浦総合案内所の入口には、アニメ!ここは ”アニメ 「ラブライブ!サンシャイン!! 」” に登場するアニメ聖地であると。私はアニメを見ることがないので???。入口には貸出し用の自転車が多く置かれていた。中に入るといろんなアニメが飾られていたが・・・・・。アニメファンにはたまらないのであろうが。他にもいろんなものが飾られていたが・・・・・。お人形を一つ買えばよかった!車を富士見広場に置き、この後、近くにある寺社巡りに。大川家長屋門所在地:静岡県沼津市内浦長浜 142三の浦総合案内所の南側に古い建物があった。ここも ”アニメ 「ラブライブ!サンシャイン!! 」” に登場するアニメ聖地である。住まわれているようで「立入禁止・撮影禁止」になっていた。沼津市指定有形文化財 (建造物) 大川家長屋門 指定 平成二十年一月十七日この長屋門は内浦長浜の津元大川家の表門で、江戸時代後期に建てられたとされています。木造平屋建てで、屋根は寄棟造、瓦葺きです。建築面積は54.39平方メートル(増築部分を除く)床面積は37.95平方メートル(増築部分を除く)軒高3.63メートル、高さ5.43メートルです。門扉は観音扉内開きで、一枚の大きさは高さ2.195メートル、幅1.22メートルです。また、門扉の右脇には内開きの小さな扉があります。・・・中略・・・天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの際、長浜城に籠城を命ぜられた大川兵庫助の後裔と伝えられる津元大川家の威容を示すにふさわしい長屋門です。・・・中略・・・この重要かつ膨大な古文書からは、日本の漁民史・漁業史の詳細な内容が明らかになり、江戸時代から近代まで続いた津元の存在意義を示す建造物ととらえることができます。 平成二十一年四月 沼津市教育委員会撮影禁止のため外から門前を撮影。日蓮宗 住本寺 (じゅうほんじ)所在地:静岡県沼津市内浦長浜 94富士山が臨める風光明媚なお寺。元享元年 (1321) の開山で、680年の歴史を持つ日蓮宗でも古いお寺である。参道の階段の左に立つ石碑、 「長峯山 ・・・・・・ 住本寺」。同右側にも石碑があったが苔むして判読できなかったが「〇難〇供養・・・」と。住本寺縁起当山は、長峰山住本寺と称し、元享元年 (1321) の創設なり。もとは、真言宗根源の道場であったが、時の別当長律師は鎌倉往復の砌、浜の法華寺に立ち寄り六老僧の一人日昭聖人と法談の末、本化の教門に服し、名を昭住院日喜と改む。日昭聖人より、中老僧日法聖人作の宗祖尊像を賜った日喜上人は、この地に戻るや自坊を日蓮宗に改宗し、当山の開祖となる。文禄四年 (1595) 玉沢第十四世日苞上人自ら当山に下向し、第七世日受上人との間に、本山末寺関係を結ぶ。・・・中略・・・明治の世となり第二十五世日忠上人は、本山玉沢妙法華寺より、六老僧日朗聖人ご自作の宗祖尊像を拝領し、寺宝となす。現在も、当山は法華信徒渇仰の道場として信仰を集めている。木の幹に”サルノコシカケ”。掲示板に今月の聖語「利根と通力とにはよるべからず」。現在の本堂は、宝暦八年に建立されたもので、ご本尊は、久遠実成のお釈迦様。このお寺は、漁業町として栄えたこの地の法華道場として、海上安全・家内安泰・大漁満足を願う地域の人たちからの厚い信仰を集めてきた。境内からの眺めは素晴らしく、眼下には駿河湾、其のむこうには霊峰富士の山を仰ぐ風光明媚な処にある。本堂の扁額「長峯山」。本堂の前にも舎。11:30本堂の廻り廊下から駿河湾に浮かぶ淡島を望む。天気が良ければ富士山が見えるのであろう。 ー 続く ー
2024.02.22
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この日は天気が良く海岸へ行くことに昼食後出かけた。また、一週間後の24日(金)に、茅ヶ崎市博物館主催の「東海道まち歩き:小和田・菱沼コース」があり参加するので、そのスタートである「上正寺」方面へ行くことに。5/17(金) 13:30義兄の玄関先のブラシノキが綺麗に咲いていた。ブラシノキは、フトモモ科ブラシノキ属の常緑小高木。別名、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ。 属名のCallistemonはギリシャ語で「美しい雄しべ」という意味 (ウィキペディア)。 13:45”東海道まち歩き” の時は近くまで茅ヶ崎駅からバスで来るがこの日は愛車のリンちゃんで。国道1号の上正寺前交差点。交差点を渡り茅ヶ崎方向を振り返る。路地の角に「浜道」と。案内板には、「浜道 (上正寺通り) ←→ 本宿自治会」と。以前から ”浜道” が気になっていたのでここから南下して海岸へ行くことに。国道1号(旧東海道)の北側に建つ ”上正寺 (じょうしょうじ)” を振り返る。茅ヶ崎の浜道 (はまみち)漁師たちが浜との往復に使った道を浜道という。砂浜の続く湘南海岸では、昔から沿岸漁業が行われ、市内では小和田、茅ヶ崎、柳島で漁業が営まれていた。漁では大謀網なども使われたが、江戸時代から記録に現れるのは地引網で、イワシ、アジ、シコ(カタクチイワシ)、シラスなどを捕っていた。大謀網(だいぼうあみ)とは、定置網のひとつ。岸近くから沖にかけて張る垣綱と、魚の入る網口をあけた楕円形の身綱とからなり、沿岸を回遊するブリ・マグロ・イワシなどを捕る。小和田の浜道は、上正寺前の信号から南に入る道、学園通り、小桜町の小和田池袋の信号から入る道、ラチエン通りの4本が伝えられ、海の近くで先が2本に分かれる道もある。この日は上図の右側(矢印)を南下した。正一位金森稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本宿町4本宿町と代官町の境界付近に佇む小さくて可愛い、お稲荷さんである。2年前に参拝しているが社殿が綺麗になっていた。その時のブログは「寺社史蹟巡り(東地区)」👈 をクリック願います。金森稲荷神社から茅ヶ崎特有の曲がりくねった道を南下JR東海道本線へ。小和田の漁師は国道1号沿いに住む人が多かったので、海へ出るために約2キロメートル歩き、茅ヶ崎ゴルフ場、小和田浜公園先の浜で漁を行った。踏切脇には「浜竹踏切 55K659M 茅ヶ崎市本宿町 8」と。上り電車が高速で通過。桜道の ”松浪一丁目交差点” 。浜竹踏切を越えてからも道が複雑で本来の浜道を間違えたようだ。出来るなら浜道の案内板が欲しいものだが。桜道の ”松浪一丁目交差点” から南西方向へ進んだので ”学園通り” に合流し南下。小和田からの浜道である ”学園通り” を南下、国道134号の ”小和田浜公園東側交差点” 。同交差点の東側には浜須賀交差点に架かる浜須賀歩道橋。交差点を渡りサイクリングロードへ。江の島を望むがこの波はサーファーにとっていい波なのか?この辺りにはサーファーの姿は少なかった。東方向をズームアップすると「浜須賀」の表示板。小和田浜公園東側交差点からサイクリングロードを西へ走ることに。サイクリングロードの所々に砂が積もっていた。江の島方向を振り返る。防砂ネットには「S-29 茅ヶ崎市浜須賀 柳島 4.7Km ←→ 鵠沼海岸 3.0Km」と。サイクリングロード脇の地引網用のボート。八大龍王防砂ネットの中に朱色の鳥居が見えていた。サイクリングロード脇には浜須賀海岸公衆トイレ。防砂ネットを入ると新しく塗られた鉄製の鳥居。鳥居には「八大龍王」と。綺麗に整備された松並木の中に立つ八大龍王。砂防林の中には、海と漁を守護する八大龍王が祀られている。石碑には「八大龍王」と。大漁のときには感謝のために捕れた魚をお供えし、正月と9月の11日には今でも例祭が行われている。裏面には、「元治元年(1864)再建 相模国小和田村発願主 地引六張、網持中」と。寄進者名も刻まれている。サイクリングロードを西へ走り、茅ヶ崎ヘッドランド。多くのサーファーが海の中に。ヘッドランド(Tバー)をズームアップ。激しい波が打ち寄せていた。サーファーにとって波が良さそうでしばし立ち止まりサーファーを追う。波にのり沖合へと。右側の人は波をとらえる。ボードの上に立ち上がる。上級者であろうか上手く波にのる。ズームアップ見事に波にのるサーファーをとらえられた。ズームアップサザンビーチから更に西へ走り。防砂ネットには「S-47 茅ヶ崎市南湖 柳島 1.2Km ←→ 鵠沼海岸 6.5Km」と。ハマヒルガオが咲いていた。サイクリングロード脇には、砂の芸術 ”風紋” が。サイクリングの柳島に到着。更に相模川河口の左岸へ向けて走る。流れ着いた流木を集める人も。いつもはこの防波堤には多くの釣り人がいるのだが。テトラポットの上では甲羅干しの女性も。烏帽子岩をズームアップ。15:00茅ヶ崎漁港の平島、江の島。ここしばらく江の島へ行っていないので近いうちに訪れたい。 END
2024.06.02
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9月8日(金)から、12日(火)まで旅友とベトナム旅行をしてきました私は、ホーチミンへは二度目でした今回のツアーは、クラブツーリズムでしたが4人でのツアー(一組は現役のご夫婦)昨日早朝の 6:00にベトナムのホーチミン国際空港を出発、成田空港 14:00到着ベトナム航空はA321を使用、個人用TVもなくひたすら寝ての帰国空港からは愛車ジュークで、旅友を玄関先までお送りし自宅へは、無事16:50に到着でしたベトナムと言えば、バイク社会 一台のバイクに、家族が乗り移動若い女性も、乗用車の中をバイクで通勤このあとスコールが、直ちに雨合羽を着てハロン湾で食べたシャコも大きかった 一匹5$ 二匹ずつ食べたが新鮮でおいしかったハノイ郊外の、刺繍工場 身体障碍者の女性が作業私が購入したお土産を、早速わが部屋に飾り シルク製で、\14,000 旅友と二枚買うことでネゴ交渉旅友が購入した、『ハロン湾の夕焼』ベトナムコーヒーの生産量は、ブラジルに次いで世界で2番目 立ち寄った、それぞれのお土産店で、3セット購入専用のフィルターはサービス詳細は、後日紹介しますのでよろしくお願いします END
2017.09.13
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5/26(土) 午後のウズベキスタンの旅は、ティムール帝国を築いたティムールの生誕地を訪れた昼食を終え、世界遺産のシャフリサーブス歴史地区へ 13:05 シャフリサーブス歴史地区で小学生達か ウズベキスタンの子供たちは人懐こい シャフリサーブス歴史地区、この地は標高700m 暑い中移動 バラが咲き誇り ドルサオダット建築群 プラタナスの木の古木 モスクでの祈り時間を掲示 モスクの塔 鳥の名は? タイルが剥がれ落ちているモスク ドルティロヴァウト建築群を望む 手前の敷布はお土産品 ジャハンギール廟 22歳で天折した長男のためにティムールが建てた建築群 ティムールは故郷に埋葬されたくて自分の墓室を作った が、願いは叶わなかった ティムール用だった石棺で不在 ドルティロヴァウト建築群 近年に整備された、この先にアク・サライ宮殿跡がある クワの木の実 ドルティロヴァウト建築群 緑豊かな中庭に、「瞑想の家」と呼ばれる建築群がたたずむ グンバズィ・サイーダン廟 ウルグベクが建てたコク・グンバス・モスクに向き合い並ぶのは2つの廟 シャムスッディン・クラル廟 残雪のパミール高原 今回の旅で、初めて雲が発生した シャムスッディン・クラル廟 この廟には、ティムールの父とその指導者が葬られている 天井ドームの装飾 壁面のタイルがきれい 墓石 天井の装飾 壁面の装飾 グンバズィ・サイーダン廟 グンバズィ・サイーダン廟の4つの墓石 天井の装飾 ドルサオダット建築群 アク・サライ宮殿跡 ティムールにより築かれた夏の宮殿跡 ティムール像 建設に20年の歳月を要した 現在残るのは高さ約38mにも及ぶ2つのアーチのみ 4000mクラスのパミール高原に残雪 タイルに文字が お土産用の帽子を被り 崩れ落ちた屋上には、美しい女性たちが泳ぐハーレムのプールがあったそう 2、3人の子供を撮影しようとしたら、全ての子たちが集まりポーズ 5/24から夏休みになり子供たちの遠足か アク・サライ宮殿跡 アク・サライ宮殿跡 ティムール像とアク・サライ宮殿跡 1336年シャフリサーブスに生まれたティムールは帝国を築くとサマルカンド に次ぐ第二の都市として多くのモスクやメドレセを建造した 14:45 サマルカンドへ向かう このブログに合わせてデジブックにて「ウズベキスタンー中編」を公開して おりますので訪問願います ウズベキスタンの旅-続く
2018.06.17
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天気が良いので電動アシスト自転車で相模川に架かる湘南銀河大橋へ夕陽を撮影に向かう。スマホで調べると自宅から湘南銀河大橋までは自転車で5.6km、所要時間は約25分。自宅を出た時は気温が高いので富士山が見えていなかったが。2月20日(土) 16:40湘南銀河大橋の下流側のグランドは「寒川町 田端スポーツ公園」所在地:神奈川県高座郡寒川町田端2483-1田端スポーツ公園には野球場と陸上トラック(300m)等がある田端スポーツ公園の上空写真16:45橋の途中に踊り場がありここへ自転車を止め夕陽を待つ。雲はないが気温が高いので富士山はもやって見えないが、夕日に染まる富士山を期待相模川の下流側を臨む。左下は、田端スポーツ公園 親水広場平塚側の河川敷にある野球用グランド下流側に2面、上流側に1面ある平塚側から東方面(寒川町)を臨む橋の途中に市町の境界がある太陽の撮影にクロスフィルターを付けて撮影(この撮影のみ)大山はくっきりと見える茅ヶ崎の殿山公園近くにある「オクトス湘南茅ヶ崎ヴィスタヒル」手前の高架は、新湘南バイパス17:00下流側の国道1号の馬入橋。太陽が下がり空が赤みを帯びて来る湘南銀河大橋の照明灯川面には多くの鳥の集団夕日に染まる川面富士山がうっすらと見えてくる今日の太陽はどのあたりに沈むのか、最近は電動アシスト自転車で夕陽を追いかけているが、 ① 鎌倉の稲村ヶ崎公園、② 片瀬西浜海水浴場、③ 茅ヶ崎ヘッドランド、④ 湘南大橋左岸、 ⑤ 赤羽農地、⑥ 湘南銀河大橋光量が多いので太陽の周りがボケる富士山を望む富士山の輪郭が現れてくる太陽はまだ箱根の山の上に17:15以降はカメラに、ND8フィルターを取り付けて撮影。最近は、クロスフィルター、ND8フィルターを取り付けての撮影に挑戦。今日の日の入りは金時山の南側に沈むようだND8フィルターで光量を下げているので太陽の輪郭が明確になる以降太陽の沈み具合を撮影17:16太陽が山に沈み始める本来は三脚が良いのだが手持ち撮影太陽が半分欠ける空が赤く染まる17:19沈み始めてから3分程で山の向こうに17:21太陽が沈んでからは、ND8フィルターを取り外す富士山も赤く染まる気温が高いので富士山はもやっているのか川見には多くの鳥の集団17:22夕焼けの残影を期待するが17:28周りも陽が沈み暗くなり、カメラにクロスフィルターを取り付ける17:31クロスフィルターが最も使用されるのは夜景やイルミネーションの撮影です夜景は思ったより暗くさびしい感じに写ってしまいがちです。そこでクロスフィルターを使用すると、イルミネーション等の点光源から美しいクロス効果を生み、光のきらめきをより印象強く表現します17:34今夕の富士山を見納め帰ることに17:38田端スポーツ公園フィルターの使用もなかなかうまくいきませんが、夕日の撮影は、ND8フィルターを使用。 ー END —
2021.03.12
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かねてから来たかった藤沢市御所見南部・遠藤の文化財を巡る。10月23日(土)御嶽大神(みたけおおかみ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤2539御嶽大神の西側の参道入口にある鳥居鳥居の前に「遠藤 御嶽大神」の石柱が建つ御嶽神社(みたけじんじゃ)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)など九神とされている。遠藤村の鎮守社。神仏習合をうけて「御嶽大権現」と言われた時もある。御神体は新編相模国風土記稿によれば、「運慶作長一尺二寸木像」とある。神社の創建年代は明らかでないが、慶長五年(1600)以前に存在したと言われる。 (遠藤まちづくり推進協議会)Bコースの、① 御嶽大神参道を東方向へ進む参道脇に建つ、郷学琢成学舎跡(きょうがくたくせいがくしゃあと)」江戸末期、寺と神社の別当であった遠藤智英氏により、大験寺(廃寺)に寺小屋「琢成学舎」が開かれたといわれる。明治五年に学制頒布。一時、南原桜井勝衛門邸内に移った後、大験寺跡の新校舎に開校。明治八年遠藤学校と改称した。当時男六十八人、女八人、教員四人であった。秋葉台小学校の前身である。 (遠藤まちづくり推進協議会)境内への石段石段下にある、庚申供養塔、道祖神石段を登り振り返る石段上に、本御嶽大神は、富士山に向けて建てられております。この場所から参道を通して、富士山を見ることが出来ます石段から拝殿を望む狛犬が一対拝 殿拝殿前から西側(参道)を見下ろす枝の間に富士山が見える拝殿左側に、「力石」力石の由来 「うみうみて とおつみおやの 古ゆ力競そいし ほぞ拝む石」此の石は古老の言い伝えによれば、陰形の道祖神として祀り五穀豊穣子孫繁栄旅の安全等々祈願したものなりと云ふ。而し乍ら此の石には銘がない為、昔から若衆達が此の石をもって力だめしをしたので誰れ云うとなく力石と呼ぶようになり今日に到ってゐる。ここに碑を立てて由来を後世に伝えたいと思う。 昭和五十二年九月十五日 奉納 氏子中 当地 青木義春翁 撰文 発起人 世話人一同 総代 櫻井浅之 施工者 片山賢治 神輿百年記念事業境内の南側(大庭獺郷線側)にも鳥居本堂は富士山に面して建てられており、今でも天気のいい日は参道から富士山の雄姿を望むことができる。明治初期に存在した小学校の前身「琢成学舎」跡も遺されている。鳥居の前には、「遠藤 御嶽大神」鳥居の廻りに庚申塔庚申塔、庚申供養塔群県指定重要文化財(有形民俗文化財) 平成十八年(2006)二月十四日指定 御嶽大神の庚申塔市指定重要文化財(有形民俗文化財) 昭和五十二年(1977)四月十三日指定 万治二年庚申供養塔二列の石造物の後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られています。青面金剛像はふつうは六臂ですが、左の上手に三股叉・下手に棒、右の上手に輪宝・下手に羂策(縄)を持つ四臂の珍しいもので、明暦二年(1656)や高座郡大庭庄遠藤村などの銘があります。同時期の同系統の石工による四臂の庚申塔が茅ヶ崎市八幡大神・金山神社・神明宮、寒川町下大曲神社、平塚市長楽寺・正福寺にあり、いずれも神奈川県指定重要文化財とされています。後列の左の塔は、万治二年(1659)銘のもので、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれています。山王は、近江の日吉神社(滋賀県大津市日吉神社)が祀る比叡山に鎮まる神を指し、江戸時代初期の庚申供養塔に多く見られる形態です。 平成二十七年(2015)三月 藤沢市教育委員会後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られている後列の左の塔は、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれている拝殿、本殿、神輿殿境内の周りに、社務所、神楽殿境内の南側を、大庭獺郷線手水舎、鐘楼、社務所手水舎、鐘楼石碑が二基、「記念碑」、「関東大震災記念碑」遠藤地区上水道敷設「記念碑」〇震○○○天災地変は人力を以て豫防し難しとは實なる。大正十二年九月一日午前十一時五十八分の激震は○○○な起り其の震動極めて峻烈にして家屋の潰れ〇男女の惨死幾一〇なるを知らす・・・・・・・後略梵鐘には、「奉納 御嶽大神」鐘楼の奥に、白山神社白山神社の扁額、「白山神社」白山神社の内陣白山神社前から鐘楼、拝殿鐘楼を見上げる石碑には、昭和七年十一月十四日終夜朔風の烈風吹き荒び社木の大松を倒す。後昭和八年農林省地方国救土木事業○より村道改修工事〇際し社地の一隅の欅を撤去す此の賣上金○○りて境外隣地庁山力蔵氏有の山林を購入し之を社地となす。仍而記念の為め碑を建て後〇傳ふ社殿を南側から神楽殿屋根葺替寄附者御芳名 最高額は、金五拾万円 也 ~ 金壱千円 也 寄附年度が記入されていないので葺替時期が解らない拝殿前から南側の鳥居大庭獺郷線側の鳥居かつては遠藤村の鎮守の社として、人々の暮らしに根付いていた神社であると御嶽大神から大庭獺郷線を東へ進み、県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)との遠藤松原交差点。この交差点を右折して県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)へ県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)沿いにある、「養蚕神社(ようさんじんじゃ)」養蚕神社と窪島義翁頌徳碑境内は草が生い茂っていたので社の前には行けず養蚕神社と窪島義翁頌徳碑明治・大正の頃は養蚕が盛んであった。養蚕業の発展を願って神社が建てられた。戦時中食糧増産のために養蚕業はできなくなった。窪島氏は、養蚕組合長、郡畜産組合長として産業振興に尽くされ村長を始め数々の公職に就かれた。その功績を讃えた碑である。碑文には先祖の孫兵衛は北条氏の家臣で後に徳川氏の軍監として関ヶ原の役に出陣、その後帰農とある。 (遠藤まちづくり推進協議会) 窪島義翁碑残念ながら判読できず草に囲まれて、養蚕神社 ー 続く ー
2021.11.08
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国道1号線の大野交差点を渡り、北側へ進むが、『浄土宗 若王寺(にゃこうじ)』へ立ち寄る。2/22(土) 10:41交差点を渡ると『浄土宗 布引山 医王院 若王寺』の石柱。先程の、三好赤甫が葬られている寺院である、路地正面に山門・鐘楼・本堂が見える。所在地:滋賀県甲賀市土山町大野1856鐘楼・山門寺の門は、甲賀古士大野家の門を移築した。門の前の石橋は、寛政年間、四国の阿波国の斎藤某が、伊勢神宮の帰途にこの寺で子供を授かることを祈願したところ、子宝に恵まれたため、それに感謝し、享和元年(1801)3月に、この橋を寄贈した。昔の人は信仰心があったのだと、それに比べ最近の我々は寄贈という言葉が・・・・・・・浄土宗 若王寺 本堂安土の浄厳院の末寺で、本尊は薬師如来である。起源は古く、最澄(伝教大師)がこの付近に草寺を建立し、その後諸堂を増築し、一大寺院になったと伝えられている。往古は天台宗の寺であったが天正年間(1573~1591)の兵火に遭い全焼した。その後、仮の堂が建てられ承応2年(1653)に改宗して浄土宗の寺となり、信長の命により安土の浄厳院の末寺となる。万治元年(1658)に本堂ができ、宝永8年(1711)に再建、寛政年間(1789~1800)に瓦葺の本堂になった本堂前から、山門・鐘楼10:45旧東海道に戻り「若王寺」を振り返るS 字カーブの旧東海道、スピード制限は30km「通学路のため車はスピードをひかえめに」。このようなカーブはスピードを出しすぎてハンドル操作が・・・・・・街道脇の花壇に咲くクロッカス曇り空に紅梅10:50土山宿から出ているがこの辺りにも『旅籠 東屋 跡』があったのだ下は国道1号線の徳原交差点、旧東海道は県道183号線を越える学童がいるのか飛び出し坊や単純な街道を進む屋号、東海道大野村『瓦屋』街道脇には「土山茶」の茶畑単純な街道を進み、前方に国道1号線の大野西交差点が見えてくる。ここまでの歩数は、15,500歩11:08大野西交差点の手前角に『東海道 土山宿今宿 石碑』があり、常夜燈が建つ交差点から旧東海道を振り返る。名神名阪連絡道路の早期実現を!国道1号線を振り返る。常夜燈には『東海道 土山宿今宿』の刻み国道1号線を渡り振り返る旧東海道は大野西交差点から斜め左方向の県道549号線へ進む。左は「甲賀市水口」の標示、西の空は雲がより厚くなるがどうにか雨は降らず11:10街道脇に大きな『水口宿』。旧東海道はこの先を右方向へ進む昨年の8月にもここでこの案内板を見た甲賀市をズームアップこの先の三叉路を右方向へ11:14県道549号線から右に入り緩い坂を登るとすぐ右手にあった案内板。今郷歴史街道マップ『東海道と里山の須恵器の里』9カ所の史跡・名所の紹介所在地の地図だがすぐ横にあったのが『9.稲川碑』稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。江戸時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。碑文によれば、天保4年(1647)水口城代の山口重成(即翁了心ともいう)が土山宿と水口宿の間には飲み水がなく旅人が困っていたため、稲川沿いに井戸を掘って、水を湧き出させたと言われています。この碑文は延宝4年(1676)、先人の功績を讃えるために建てられたものです。また、村の言い伝えでは、源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。いつしか村民はこの水を景清の目洗い水と呼ぶようになりました緩い坂を登ると直ぐ街道の左手に『8.経 塚(KYOZUKA)』8.経 塚お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。経塚は一般に、平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経をかいた一字一石経などを埋めることが流行し、個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。この経塚は、延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこれを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚とした言い伝わります小雨が降り出し、街道の左側には『古民家 カフェ 一里塚』の看板二階が低い『古民家 カフェ 一里塚』 、OPEN と軒下には多くの薪が積まれていたが暖炉でも?所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷59211:20前方に背の高い木が現れる。ここも昨年8月に訪れているのでかって知った場所である。ここまでの今日の歩数は、16,300歩この辺りには一里塚は、泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいましたお江戸日本橋から112里目の一里塚7.今在家一里塚江戸日本橋から112里目にあたり『今在家村地券取調総絵図』によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、かつては桜が植えられていたと伝わります一里塚から振り返る塚の手前に『地蔵院 権現山 浄土寺』の石柱 土山宿~水口宿ー続く
2020.04.24
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北海道最南端の白神岬から国道228号を北上し松前町へ。10月19日(月) 11:39白神岬展望広場9月から12月は渡り鳥の探鳥ポイントである。北海道から津軽海峡を越えて本州へ向かう渡り鳥が300種以上も数えられ、日本屈指の渡り鳥の休息地になっている。トイレも完備していて、ちょっとした観光スポットです。松前矢越道立自然公園追分ソーランラインの看板はネットでは上についているのだが、下に取り付けられていた。国道228号の前方に陣屋覆道伊藤整 生誕の地「伊藤整 生誕の地」碑伊藤 整(いとう せい、1905 ~ 1969 64才没)本名は伊藤 整(いとう ひとし)1905年(明治38年)、北海道松前郡炭焼沢村に生まれ、その後、塩谷村(現小樽市)に移住し、北海道庁立小樽中学校(現潮陵高校)を経て、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を卒業し、小樽市中学校(長橋中学校)の英語教師に就任。2年後に教師を退職して上京。詩人として出発するが、小説家・評論家に転じる。ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」、D.H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳紹介。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」「若い詩人の肖像」「氾濫」「変容」など、評論「小説の方法」「日本文壇史」など。1967年、日本芸術院賞を受賞、翌年、日本芸術院会員に選定される。生誕地の炭焼沢村とは、現在の松前町字白神であり、生まれた場所からは離れていますが、白神地区としてこの地に生誕の碑を設置しました白神岬展望広場からの松前市街地方面。美しい海岸景勝と野生鳥獣の生息地である白神岬は、新たなサンクチュアリ(聖域)として注目されています。また、南に津軽海峡、東に太平洋、西に日本海と三方を海に囲まれていることからヒヨドリ、ハヤブサ、ムクドリなど、多くの野鳥を目にすることができる。1,000羽ちかいヒヨドリの群れも右側にひょっこり立っているのが「キノコ岩」栄養たっぷりなカラス11:51国道228号沿いの旧松前線の橋桁荒谷と大沢の間を流れている「ヒジノ下川」にある松前線の橋桁松前線は、木古内駅で江差線から分岐し、松前郡松前町の松前駅までを結んでいたが、昭和63年(1988)2月1日に全線廃止となった12:01日本百名城の松前城へ行く前に、旅友のKさんが事前に調べていた郷土資料館へ立ち寄る。松前町 郷土資料館所在地:北海道松前郡松前町神明30図書館などと併設した公共施設内にあり、無料で見学することができる。松前の歴史が解説されている。特に近世以降、力点を置いて解説しているが、松前氏のみならず、北前船、アイヌの先史時代、そして松前神楽や松前の自然についても展示を交えながら解説している。資料館の壁面には「祝 平成30年3月8日 国の重要無形民俗文化財指定 松前神楽」松前町町民憲章私たちは天守閣のそびえる北海道の古都松前町の町民です。新生松前町発足二十周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあわせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの憲章を定めます。 一、力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましょう。 一、自然を愛し、美しい町にしましょう。 一、若い力を育て、明るい町にしましょう。 一、先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましょう。 一、互に仲よく助け合い、平和な町にしましょう。昭和49年9月19日制定 金子 鷗亭 書金子 鷗亭(かねこおうてい)松前町出身の金子鷗亭(1906~2001年)は、近代詩文書の父と呼ばれた書の大家。玄関のドアーに本日、公民館・図書館の休館日です。なお、郷土資料館のみ開館しております。郷土資料館を見学するので館内へ入る。 開館時間:9時 ~ 17時(16時30分までに入館) 開館期間:4月10日 ~ 12月10日・期間中無休/入館料 無料施設利用の皆様へ「新しい生活様式」の実施をお願いします。一階での、新型コロナウイルス対策入口で機器の前に立ち検温検温で異状なしで靴を脱ぎ、足でペダルを踏みアルコール消毒。郷土資料館は二階にアルコール噴霧スタンド使用方法2階の松前町郷土資料館入口2階のロビーには「北前船渡航〇」松前屛風〈 道指定有形文化財 〉江戸中期ごろに活躍した松前の画家、小玉貞良の手による宝暦年間の松前城下の半双屏風の全景です。蝦夷地の交易に活躍した近江商人のひとり、恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものといわれています。高さ約1.6m、横約3.7mの屏風に、当時の風俗や盛んな交易の様子などが克明に描かれています。郷土資料館内に入る先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も紹介している。大津のむら(想像図)大津のむら(想像図)大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡です。豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活していました。発見された土器などから、青森県や秋田県と深いつながりのあったことがわかります。竪穴住居住居内にはシャケを干し縄文から続縄文縄文から続縄文数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化を生み出していきました。やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつくれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。このころの文化を続縄文文化と呼びます。正面のブース「擦文(さつもん)文化とアイヌ民族」手前左のブースは「アイヌ民族・社会」 アイヌ民族は、依然として狩猟・漁労による生活を続けていましたが、もう土器は使わず 生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。 しかし和人の勢力はまだ及ばず、民族独自の世界をつくっていました。擦文文化とアイヌ民族続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影響を強く受けた文化です。この人々は、アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。甲 冑駕 籠この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶か身分の高い侍の使用したもので4人で担ぎました。近江商人の出身地江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には、八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かった のですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。近江商人の交易ルート図松前交易で活躍した近江商人は、主に、福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引をしていたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂などの市場へ送られました。沖の口役所の絵沖の口役所松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしくとりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを受けているところです。北海道指定有形民俗文化財『 求福山山車 胴幕 』北海道指定有形民俗文化財「求福山山車の人形その他付属品」求福山山車 胴 幕松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀系をふんだんに用いた刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。 唐津町内会所蔵城下のにぎわい江戸時代の松前は、北海道唯一の城下町として、また本州交易の中心地として、発展し、繁栄しました。数多くの武士とともに、蝦夷地の富を求めてやってきた商人や船のりたちのむれ・・・・・・・。そこには、松前特有の文化が花ひらきました。北前船とは北前船とは通称 ” 弁財船 ” と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前交易にたずさわった一枚帆の和船のことです。また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ運賃船とちがい、船頭が即商人であり、船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。北前船と、沖口役所の標柱(右側)《 沖口役所の標柱 》沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におかれた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。 銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立)正月船北前船の船主や船頭たちは正月には一年の航海安全、商売繁盛を祈って持ち船の模型を飾った。この船もそうしたものの一つである。 今 美奈子氏所蔵奉納船 荒谷稲荷神社蔵北前船の航路北前船の船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、沿岸諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。道指定民俗文化財 求福山の人形とその附属品扁額は「求福山」アイヌ民族のたたかい封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、命をかけて戦いました。そのうち最も大きな戦いは、康正2年(1456) ~ 長禄元年(1457)の道南地方を舞台にしたコシャマインの戦い、寛文9年(1669)日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシャクシャインの戦い、さらに寛政元年(1789)、クナシリ、根室地方を舞台にした戦いです。 ・コシャマインのたたかい ・シャクシャインのたたかい ・クナシリ・メナシのたたかい 高利をもたらしたアイヌ交易漁場年間賃金:アイヌ(1 ~ 2両)、和人漁夫(7 ~ 8両)交易価格:買価格、売価格アイヌ人口の減少蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少していきました。中でも、道南地方はじめニシンやシャケ漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が、最もはなはだしく、ニシン漁場で有名な小樽、歌棄(うたすつ)、磯谷、寿都(すっつ)などは、明治初年頃には、全滅ないしは、わずか数人という状態になっていました。アイヌ人口の推移(北海道:千島・樺太) 文政5(1822)年 24,339人 安政元(1854)年 18,805人 明治6(1873)年 18,644人 12:16北方に目をむける幕府江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を、直轄してしまいました。 - 続く -
2020.11.21
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瀬長島ウミカジテラスを後にし、レンタカー返却までまだ3時間半ほどあったので旅友のナビでハンドルを握る。午前中は青空が広がっていたがいつのまにか曇り空に。9月29日(木) 13:15瀬長島海中道路を進み国道331号へ。北方向の空は曇り空になっていた。この先を右折すると「平和創造の森公園 13km」「ひめゆりの塔 11km」へと。この道路も高架になるのであろうか、錆が発生途中で工事が止まっているのか?名嘉地交差点。この交差点を右折したか?13:30豊見瀬御嶽 (とみせうたき)所在地:沖縄県豊見城市豊見城旅友のナビで進み、沖縄空手会館横を通り抜け到着、豊見瀬御嶽は豊見城城址公園内にある。拝殿前に立っていた「豊見瀬ウタキ」側面には「文化財はかけがえのない共有財産、大切にしましょう」。豊見城グスク内にある御嶽で『琉球国由来記』(1713年)に「城内豊見瀬御嶽 コハナリノ御イベ」と記されています。豊見城集落では5月ウマチー、6月ウマチーに祭祀を行う聖地です。このほかにも旧暦5月4日に行われる那覇・泊・久米の爬竜船競漕(ハーリー)前に拝まれ、大干ばつの際は那覇市久米村の竜王殿(上天妃宮)から竜王像を爬竜船に乗せて運び雨乞い行儀を執り行った御嶽です。拝殿内に向かって左側から火神大トングヮ、按司殿内火神、御調添、ノロウコール、按司ウコール、龍宮鎮護、嶽根神と刻された香炉が置かれており、拝殿の奥壁には「豊見瀬御嶽」と刻され、香炉が1つ置かれています。5月、6月のウマチーには拝殿正面の香炉を拝んだ後、扉を開けて中にある7つの香炉を拝み、次に拝殿内の扉を開けて奥の香炉を拝みます。拝殿前右側に香炉が並んでいた。沖縄空手会館横から坂道を上り拝殿前に駐車。道路脇に「ハーリー発祥の地」の石碑が立っていた。石碑の裏には「ハーリー由来まつり実行委員会」会員、賛助会員の名が書かれていた。豊見瀬嶽及び周辺御願所御嶽は日本本土の神社に相当するもので、古い沖縄の村落(部落)には、必ず一つ以上あって村落共同体は神を祀る御嶽を設けてこの御嶽への信仰を中心として一切の社会的活動がなされ宗教的支配者である神が住み給うと考えられ、部落住民の守護神である神を祀る神聖な場所であります。豊見城城址内豊見瀬嶽は城址北西側にあった西原村の御嶽であると同時に字豊見城部落の御嶽であり、豊見城城址の守り御嶽であったことから豊見城按司(城主)をはじめ、按司の生活に関係のあった人々の霊も祀られているところであります。この御嶽周辺には城址内にあった井戸郡を集めると共に雨乞いの神及び農耕の神でウガン山にあったホバナ嶽又、知念森にあるヒララス嶽へのお通しも行い字豊見城集落7腹子 (新地小、前ン村渠門中、呑殿内、西原門中、赤平門中、並里門中、瀬長) の各按司神も祀ってあります。毎年、旧暦五月四日に、那覇、久米、泊のハーリー三隻は豊見瀬嶽へ向かって参拝したと伝わっています。 平成18年4月 字豊見城自治会ロープが張られていたが立入禁止?ここでもこの花が咲いていた。遊歩道脇には遊園地用のレールが敷設されていたが現在は閉鎖。踏切設備も錆び付いて。ジャングルを走るように敷設されたレール。草むらの中に石碑が立っていた。石碑には「山部隊野戦病院 患者合祀碑」。この碑は、豊見城グスク内にあった第24師団第2野戦病院壕内に負傷兵として収容され、治療の甲斐なく壕内で息を引き取った人々の御霊を慰めるため、1982年野戦病院関係者及び私立積徳高等女学校の生存者らによって豊見城城址公園内に建立された。第24師団第2野戦病院壕では軍医、看護婦、学徒隊(積徳高女)らが配属され、前線から送られてくる負傷兵らの治療看護にあたっていました。多いときは約600人の負傷兵が患者として収容されていた。更に進むが工事中であったので引き返す。この先では北側の光景が見えたのであろうが。汪応祖 (豊見城グスクを築き、後に南山国の王位に就いた) がハーリー競漕を催したという漫湖が眼下に望めたのだ。発掘調査をしているのかビニールシートが広げられていた。城跡は沖縄戦で破壊され、米軍の採石で原型を失い、さらに戦後の整備に伴いほとんどの遺構を失ってしまった。もし現存していれば、琉球のグスクでは三番目の大きさだったと推測されている。現在は年に一度だけ、ハーリー由来祭りが開催されている。なお、公園の東側は饒波(のは)川に隣接し、北側にはラムサール条約に登録された漫湖(まんこ)公園が広がっている。13:38ここへは立入禁止になっていたようだが。工事看板もなく内容は不明。10分程の滞在で後にする。14:00豊見瀬御嶽を後にし次に向かったのは「白梅之塔」。途中から空が怪しくなる。狭いサトウキビ畑の坂を下るとこの案内板「潮平権現壕」を見つけ道路脇に車を停める。雨が降り出し急いで潮平権現壕へ。道路脇のサトウキビ畑。潮平権現壕(しおひらごんげんごう)所在地:沖縄県糸満市潮平案内板に従って進み、草むらの先に鳥居を見つける。潮平権現壕の入口前に設置されている鳥居の扁額には「潮平権現」と。入口に立っていた「糸満市戦争遺構 潮平権現壕」。この壕は安全性の観点から、入号できません。潮平権現壕 (しおひらごんげんごう)潮平権現壕は、沖縄戦において、住民の命を救ったガマです。潮平の住民が避難していたこのガマでも、一度は日本軍の追い出しに遭い、危うく多くの住民が犠牲になるところでした。1945(昭和20)年6月14日(旧暦の5月5日)、「デテコイ、デテコイ」との外からの米兵の呼びかけに、一人の区民の「住民は殺さないはずだ」との言葉で、住民はガマを出ていくことを決め、年長者を先頭に女性と子供たちが続き、大勢の住民が米軍に保護されました。戦後潮平住民は、このガマのお陰で多くの命が救われたことに感謝し、ガマの入り口に「潮平権現之碑」と「鳥居」を建立し、ガマを潮平権現壕と呼ぶようになりました。そして米軍に保護されたこの日を記念し、毎年旧暦の5月5日に字の年中行事として、人々がこの場所に集まり、ガマへの感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和の祈願を行い、この体験を語り継いでいます。ガジュマルの下に潮平権現の壕がある。入口に立つ「潮平権現之壕」。潮平権現の壕入口は鎖で囲われていた。壕を覗き込むが狭い空間である。このような所にハブが生息しているのではと思いながら。潮平権現壕内の説明 ① 鳥 居:潮平権現壕の入口前に設置されている鳥居。 ② 壕入口 (1):天井が低く、高さ1~1.2m程度が15mほど続く。 ③ 壕入口 (2):入口のみ天井が低くなっている。 ④ 壕入口 (2)より入った場所:奥に見えるのが壕入口 (1)である。 ⑤ 30m付近:目立った落石などは無い。 ⑥ 50m付近:天井からの水の浸透で水が溜まってしまう。 多い時には、10m程の水溜まりが出来る。 ⑦ 60m付近:ここで高さが4.5m程になり、落石らしき大きな石が見られる。 ⑧ 90m付近から100m付近:少し広めの空間があり、左上と右下に通路が見える。 右下は、すぐに行き止まりとなっている。 ⑨ 壕出口:内部は入ってすぐに崩壊している。 ⑩ 壕遺景:長谷寺から道添を80m程度下がった右手側にサトウキビ畑があり、その 後ろの雑木林を5~10m程入ると出口がある。 洞窟平面図については、日本大学探検部・麻生大学探検部編 1997「沖縄本島洞窟探検隊調査報告書」に一部修正・加筆した。14:03この壕のおかげで多くの地元住民が助かったことより、鳥居を建立したと。雨が降っていたので急いで車へ戻る。潮平権現壕から戻り進むと途中に「← 100m 沖縄戦史跡 潮平権現壕」の案内。次の目的地の「白梅之塔」は南下して約5キロ先に位置している。 14:15雨の中県道54号線を南下右折して「白梅の塔」へ。白梅之塔は、沖縄県糸満市真栄里に所在する、沖縄戦末期に白梅学徒隊の生存者が野戦病院解散後、退避して来た壕の跡に立つ慰霊碑である。雨が激しいのでしばし白梅の塔の前の駐車場で待機。この辺りの沖縄戦史跡県道54号線から真栄里に入ってすぐのところにあるモクマオウの林。林の中に、白梅之塔、壕跡、萬魂之塔、陸軍大尉中村巌之碑、南禅広寺がある。一番奥に、雨上がりの白梅之塔。沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊 白梅学徒隊 (沖縄県立第二高等女学校) 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年 (明治38年) 那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年 (昭和3年) に沖縄県立第二高等女学校になりました。1945年 (昭和20年) 3月24日、生徒たちは東風平村 (現八重瀬町) 富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。その後、5名の生徒が具志頭村 (現八重瀬町) 新城の自然洞窟 (ヌヌマチガマ) の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。6月9日、一部の生徒は国吉 (現糸満市) に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け多数の死傷者を出しました。国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課白梅之塔(しらうめのとう)所在地 糸満市真栄里設 置 1947 (昭和22) 年1月改 修 1992 (平成 4) 年合祀者数 149柱設置者 白梅同窓会清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団萬魂之塔 納骨堂白梅之塔の左手前にある萬魂之塔。国吉住民が建立した無名の戦没者の遺骨が納められている。萬魂之塔(ばんこんのとう)所在地 糸満市真栄里設 置 1955 (昭和30) 年5月合祀者数 4,000柱設置者 国吉自治会清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団陸軍大尉 中村巌之碑萬魂之塔の左隣にある中村巌陸軍大尉の碑。林の奥にある白梅之塔。沖縄戦で戦没した、県立第二高等女学校の校長、職員、生徒、同窓会員が合祀されている。白梅之塔沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配属され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二日の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十二年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。 平成十年六月二十三日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会白梅之塔を見上げる。白梅之塔の左奥にある「納骨堂」。写真はネットから。納骨堂の横に置かれた、小さな自然石を使用した建立時の碑。沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名教職員 12名学徒看護隊 22名同窓生 115名 白梅之塔の右側に吊るされていた千羽鶴塔婆には「祈 沖縄戦の慰霊とは基地をなくすこと 東亜細亜平和行進 2022年」と。今年の慰霊祭での行進時に掲げられたのか。白梅学徒看護隊 自決之壕の碑台座には「沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 昭和56年6月23日建立」白梅之塔の右側、参道から少し離れた林の中にある自決之壕の石碑。碑の右横に壕の入り口があった。2021年?に風化による落石が発生し立入禁止になっているようだ。壕の中を覗き込むが見えず。新型コロナウイルス禍の前には平和学習で年間約2万人が利用しており、修復を望む声が関係者から上がっていると。マチドーヌティラ字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方この壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人の内10人が死亡しました。戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。自決之壕の碑の右に建つ「南禅廣寺」もともとは琉球王朝時代に建てられたものだと。南禅廣寺(みなみぜんこうじ)所在地:沖縄県糸満市字真栄里1839お寺はこの辺りの低い所にあり、左側に壕への入口がある。現在はこのお寺の前の広場で国吉集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事が秋に行われています。同集落の婦人会や子どもたちが踊りを奉納し、最後は会場に訪れた観客も一緒になりカチャーシーで幕を閉じるのだと。駐車場から下ったところにある南禅廣寺。南禅廣寺へと続く参道沿いにある石碑と弥勒親子地蔵尊。14:25雨の合間を見てどうにか参拝できた。 ー 続く ー
2022.12.16
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伊豆山神社の参拝を続ける。3月8日(水) 12:20伊豆山神社拝殿拝殿の扁額「伊豆山神社」。拝殿前の境内に植えられている「梛 (なぎ)」。梛はマキ科マキ属に含まれる常緑高木。雌雄異株。日本の本州南岸、四国九州、沖縄、台湾、中国の海南島などの温暖な地方に分布する。梛 (なぎ)当神社「御神木」のひとつ樹木保護のため柵の中には入らないでください。梛の木の葉。針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つユニークな木なので、独立してマキ科ナギ属とされることもあります。拝殿前右側に「昭和天皇 お手植の松」が柵の中に。昭和天皇 お手植の松大正三年一月、当時皇太子であられた昭和天皇が御参拝の折、お手植えになられた松は見事な大木に成長しましたが、松くい虫の被害により残念ながら伐採されました。しかし、後にその松の種子が奇跡的に芽を吹き今に至ります。昭和天皇お手植の松の手前にも梛の木。幹の肌が特有である。拝殿前から境内を見下ろす。社殿の右側に「伊豆山郷土資料館」があり廻り込む。イタジイの木の手前に「征清軍凱旋記念碑」の碑が立っていた。イタジイの根が地面を覆う。イタジイに付けられた名札には、 「保存樹木 イタジイ (ブナ科) この樹木は緑を守るために保存するものです。 熱海市」と。伊豆山郷土資料館伊豆山郷土資料館開館時間:9:00 ~ 16:00休 館 日 :毎週水曜日 (祝日の場合はその翌日)入 館 料 :大人 180円/中高生 120円 (小学生以下無料)こちらの資料館も休館日、小田原の江之浦測候所も休館日で水曜日は要注意であるようだ。伊豆山子恋の森公園概 要 ◉ 所在地:静岡県熱海市伊豆山字水立地内 市内中心部より北約3km。 ◉ 面 積:9.1ha・標高:210 ~ 342m・入園無料。 ◉ 登山ルート ・下側は本宮経由で、伊豆山神社から伊豆山子恋の森まで40分。 ・上側の白山神社経由は子恋の森公園まで30分。白山神社 遥拝所本殿右奥にあり鳥居の手前には「天下泰平 疫病退散」の旗が立っていた。遥拝所とは、遠く離れた所から神仏を拝むために設けられた場所のことをいう。白山神社への登山口にある遥拝所。遙拝所と木の間が登山道。本宮までの参拝路遥拝所から白山神社まで約20分、白山神社から結 明神社まで約20分、結 明神社から本宮社まで約15分。遙拝所の横に立つ石碑には、「奉納 白山大神 ○○本社マデ二丁余」と。後方には大木のクスノキが聳える。末 社 白山神社御祭神 伊豆大神奇魂 (くしみたま)・菊理媛命 (くくりひめのみこと)例祭日 八月七日御由緒 伊豆山記、走湯山記によれば、聖武天皇天平元年夏、東国北条の祭主、伊豆権現 に祈願したところ「悪行のなす所、救いに術なし、これ白山の神威を頼むべし」 との神託があった、時に猛暑のころであったが、一夜のうちに石蔵谷 (白山神社 鎮座地) 雪が降り積もり、幾日たっても消えず、病にある者これをとってなめた ところ、病苦たちどころに平癒、よって社を創立せり。 古来、病気平癒・厄難消除の神としての庶民の信仰が厚い。 なお、社殿はこれより奥、山道を登って五百メートル余り、(徒歩約二十分) 石蔵 谷の岩上に社殿が鎮座する。登山道入口に立っている案内板。(白山社コース出発地点) 白山社・子恋の森公園・本宮社白山神社までは約五百メートル、約二十分とのことで頑張って登ることに。登山道入口に聳えているクスノキに付けられた名札には、 「保存樹木 クスノキ (クスノキ科) この樹木は緑を守るために保存するものです。 熱海市」と。登山をしている方がいないので体に相談しながら坂を上る。順調に進み途中振り返る、廻りは杉林、杉花粉の人は大変であろうが。坂道の途中に立っていた案内板には「スタート地点から8分、ここからしばらく平らです」と。願わくば「白山神社まで何メートル」と標示して欲しいが。平らな道が続くが右側は急斜面になっている。案内板に「白山社、すぐ! スタート地点から13から17」、英語表示があったが中国語はなかった。ハイキングコース 白山神社 ⇔ 伊豆山神社こちらの案内板には「白山社 白山社もう一息、行場跡」と。行場跡へ行くが所在がわからず途中で引き返す。引き返し登ると朱色の鳥居が目に入る。社殿下から見上げる。ハイキングコース 白山神社 ⇒ 伊豆山神社鳥居から岩場を登ると新しく塗られた社殿が建っていた。社殿は石蔵谷の岩上に鎮座している。予定通り20分で登ってきた。社殿は注連縄、紙垂で飾られ、榊が供えられていた。社殿に携帯を置き標高を調べると「標高 307メートル」の表示。社殿の横に立っていた案内板には「⇐ 子恋の森公園・本宮社」とあったが、下にあった案内板では所要時間は約35分とあった。白山神社から本宮社へ登り始め振り返る。崖下にあった鳥居を見下ろす。12:50白山神社から次の結明神社までは約20分、結明神社から本宮社までは約15分。結明神社方向を見上げるが人影もなく心配になり、ここで引返すことに。引返し点で下を見ると白山神社。13:06クスノキが聳える社殿裏の登山道入口。白山神社から、一気に約11分で坂道を下った。伊豆山神社の右側。本殿前に降り立つ。伊豆開山の三仙人日金山地蔵堂のさらに奥、木立が切れて笹原となる境い目に、伊豆山を開いた三仙人の廟所と伝えられる三基の石造宝篋印塔が並んでいる。伊豆山走湯権現の由来を記した『走湯山縁起』によれば、応神天皇二年(271)四月、相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現したという。そのとき三十歳あまりの異国風の身なりをし、松葉を常食とし、松華仙人と呼ばれた人物が高麗山に神鏡を祭ったのが伊豆権現の発祥である。仁徳天皇の御代、松葉仙人によって神鏡は伊豆山に移され、勅命によって社殿を造立した。これによって勧請仙人とも呼ばれた。仁徳天皇七十一年(383)、巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現した。仙人は富士山の噴火や疫病を鎮めて霊験を表し、伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開いた。権現の神像はこの時初めて作られたという。敏達天皇四年(575)、大地震とともに金地仙人が現れた。そのころ、高麗より鳥の羽に書かれた読むことのできない図書が届けられ、権現は人の姿て現れてこれを読み解き、朝廷より所領が献じられた。孝徳天皇九年(653)、金地仙人も入定し、三仙人の廟窟が並立して設けられたという。現存する三仙人の石塔は、文化十年(1813)ごろ、般若院別当・周道によって、古い石塔を組み合わせて造成されたものである。仙人開山の伝承は、記される年代こそ空想的ではあるが、仏教公伝以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であったことを主張しているのであろう。なお称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、往古の富士登頂者として走湯山開山の仙人と似た金時・覧薩・日代の名が記録されている。『走湯権現当峰辺略本縁起集』では伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験霊場と考えられていたようである。末代上人と走湯山平安時代、初めて富士登頂に成功し、富士修験の開祖とされる末代上人(1103~?)は走湯山出身の僧であった。室町時代の成立と見られる『地蔵菩薩霊験記』の日金山地蔵の記述によると、富士山を開いた末代は、伊豆・箱根二所権現をも草創し、焔熱を発して地獄の様相を示していた熱海の亡者を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したという。近年発見された金沢称名寺本『浅間大菩薩縁起』によると、末代上人は駿河国の出身で、本名は有鑑。幼いころから出家して走湯山に入ったものの、出世を求める僧ばかりであったことに失望し、五穀を断ち、粗衣を常用して諸国の霊峰を踏破し、衆生を救う苦行の道を選んだ。ついには人跡未踏と考えられていた富士登頂(富士禅定)を発願し、同志の頼然とともに準備を重ね、大宮浅間(富士宮市浅間大社)の神官や山麓の住民に助けられて、長承元年(1132)閏四月十九日に初登頂に成功した。「末代聖人」の名は浅間大菩薩の護法童子から与えられたという。その名声は京都にまで達し、久安五年(1149)には鳥羽法皇に招かれて上洛、貴賤上下の人々が書写した如法大般若経を賜り、それを富士山頂に納めた(『本朝世紀』)。末代が開いた登山道は村山ロと呼ばれ、山麓に村山浅間社(興法寺)、中腹に往生寺(中宮・室大日)、頂上に大日寺が創建された。富士開山の末代は、没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祭られた。こうしたゆかりによって、中世を通じて富士山麓村山の地は走湯山領として存続した。近年、日金山に通じる「仏の道」三六~三七丁付近の山腹から、文化十一年(1814)に般若院主周道によって建てられた末代上人の供養塔(石造宝篋印塔)が発見され、江戸時代後期まで、走湯山においても末代上人が重要な先徳文として顕彰されていたことが明らかになった。 文 西岡芳文本殿廻りの左側の玉垣に掲示されていた案内板。伊豆山神社保存樹木位置図神域には11本あるようでその内6本が「ナギ」で、ほかに「コウヤマスギ」「クスノキ」が2本、「イシダイ」「アラガシ」と。案内板では13番まであるが、7、10番が無いので枯れたのか?「これらの樹木は、熱海市がみどり豊かな自然環境を守るため指定したものです大切に保存しま しょう。」と。 熱海市長左側(西)から拝殿前の境内を見る。左側から社殿を望む。社殿の西側に広がる駐車場。銅板葺きの建物は?、その左側に「勢興會神輿庫」が建っていた。本殿の左側に裏参道の鳥居が建っていた。鳥居の横に小さな社が建っていた。裏参道の鳥居に近づくと???。鳥居の柱に「奉納 小泉今日子」と。他の方が神社関係の方に「あのキョンキョンですか」と尋ねたら「そうです」と。しかし、奉納理由は教えてもらえなかったと。芸能関係者もいろいろと奉納しているようだが。続日本100名城で訪れた栃木県の唐沢山神社では「舟木一夫」が旗を奉納していた。正面の階段がきつい方は車でここまで来れる。この鳥居の扁額も「伊豆山神社」キョンキョンからのお恵みがあるのか!本殿前の左側に池があった。いろんな色のコイが泳ぎまわっていた。岐阜県関市板取にある名もなき池 (通称:モネの池) とは言えないが綺麗な池であった。インスタ映えであろうか簡易的な鳥居に大きなハートマーク「こころむすび」。鳥居の前には記念写真用でカメラ用の台が置かれていたが一人で撮るのも。社務所前から西側を見下ろすと東海道本線に特急踊り子号。左手前は悲惨な土石流が発生した場所であるが。西の山の中腹には「MOA美術館」。MOA美術館 は、静岡県熱海市にある私立美術館。1982年1月11日に開館。岡田茂吉の収集品を収蔵展示、運営は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団。 前身である熱海美術館は、1957年1月1日に開館。13:30二の鳥居、一の鳥居と潜り駐車場へ下りる。右側が下駐車場(約8台収容)、左側を上ると上駐車場(約30台収容)。◆ 上駐車場もご利用ください(大型バスは入れません)。一の鳥居横の駐車場にも「梛」が植えられていた。熱海観光案内マップ ー 続く ー
2023.04.29
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40haの公園内に植えられている10万本ものつつじの散策を続ける。4月24日(月) 13:55小室山公園の石碑。石碑の裏に廻り込み、小室山観光リフト、小室山レストハウスを望む。石碑にはめ込まれた小室山公園の写真。小室山公園には、からあげ、フライドポテト等の露天商も出ていた。平和への道標 (みちしるべ)良い子の皆さんここに祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や川を守り日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、いくたびかの戦争の中でなくなられました。今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い心を受け継ぎ感謝の心をもって一日一日を大切にしてください 合掌広場の丘の上に白い塔。参道への左手にあった苔むした石碑には、「みたまよ麗しくふる里にねむりたまえ」と。参道の右手前には「海軍の錨の墓標」が奉納されていた。ここには「航空隊のプロペラの墓標」が。参道両側にはピークを過ぎた赤いつつじが咲いていた。参道を登ると右側に狛犬の阿形像。左側には狛犬の吽形像。戦歿殉難者慰霊塔この慰霊塔の中には、「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」があり、東郷平八郎元帥の直筆が添えられているとのこと。塔の壁面には「慰霊の塔」この塔は過去数次の大戦において祖国の繁栄を念じつつ尊い一命をささげた英霊壱千五百柱の偉勲をたたえその霊を慰めるため市民の浄財によって建立されたものである。 昭和四十二年四月 伊東市戦歿殉難者慰霊塔から下り右側に「忠魂碑」。こちらにも一段高いところに「忠魂碑」。忠魂碑には「元帥陸軍大将○○○○○○書」とあった。小室山公園案内図小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの敷地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め4月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭」からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日 ~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました。地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。小室山レストハウス前のロータリー。伊東駅へのバス発着場である。工事中の小室山レストハウス前から見下ろす。小室山案内図小室山レストハウスから山頂へ二つの登山コースがある。 ・森林浴と癒し満喫コース 徒歩約20分 ・ジュラシックコース 徒歩約18分 途中、恐竜広場があり全部で16体の恐竜のモニュメントが設置されている。山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。山頂にある「Cafe 321」。山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビューポイントです!小室山観光リフト乗り場。営業時間:9:30~16:00 (荒天・点検時運休)料 金 表 :大人 往復料金 800円、片道料金 500円レトロなシングルリフトで片道約5分の空中散歩をお楽しみください!この日は天気が悪く頂上からの眺望が期待できないのでスルーすることに。ツアー客が長い列をなしていた。伊東市 広域図伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬から4月中旬にかけて咲きほこる4,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。小室山リフトバス停横の広場にあった作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形としたのだと。四阿から北西方向下には市営グランド。かすかに富士が見えていたので露出を変更するが・・・。西方向にこれから訪れる「つつじのトンネル」を見下ろす。手前は一斉に咲き終わったつつじ。つつじのトンネル入口をズームアップ。つつじのトンネル入口から下りてきた階段を振り返る。つつじのトンネル入口。ピークを過ぎていたが見事なトンネルであった。つつじの樹高は5 ~ 10メートルになるのでこのようなトンネルを形成するのだ。記念撮影されるご夫婦。背丈以上のつつじが両側に並ぶつつじのトンネルは写真映えするスポットとして人気!満開のつつじを見上げる。ちなみに、つつじの花言葉は、赤色の花は「恋の喜び」、白色の花は「初恋」だと。右奥に小室山観光リフト。つつじの小路を抜ける。このような種類のつつじも。老木になったつつじ。つつじの後方に小室山観光リフト。小室山観光リフトをズームアップ。14:30ピーク時にはこの光景は真っ赤な絨毯になるのだ、またいつか、奥には枝垂れ桜も。約45分間小室山つつじ園のつつじを堪能し後にすることに。次の目的地は近くにある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」へ。 ー 続く ー
2023.06.15
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8/11(金) 早朝6:30より自宅を出発、霧雨の中前日NHKニュースで放映された『座間ひまわりまつり』を、いつもの旅友Kさんと、座間会場へブログネタの取材に出かけた 栗原会場:7/21(金)~26(水) 10万本のひまわり 座間会場:8/10(木)~15(火) 45万本のひまわり 相模川に架かる、座架依橋の上流側 座架依橋から圏央道『圏央厚木インタ』を望む 座架依橋の下流側 座架依橋の下に臨時駐車場 百日紅とひまわり 最寄り駅は、JR相模線『相武台下駅』『入谷駅』から徒歩で15~20分 臨時駐車場から会場まではシャトルバスが運行 霧雨の中のひまわり メドーセージ 1969年(昭和44)に座間市の市花に設定されたヒマワリ 平成5年から地元の農協青壮年部が中心になって、荒廃地、遊休農地対策の一環として ひまわりの景観植栽を行い『ひまわり広場』として公開したことが始まり 1994年(平成6)には『かながわの花の名所100選』にも選ばれた 年々規模は大きくなり、今では総面積5.5haを越える規模に ひまわり畑は市内各地にあり、時期を変えて種まきを行っている 模擬店、農作物の販売、イベントなども行っている モデルさんか? 霧雨の中撮影 白のドレスの裾は土で汚れ ひまわりの見返り美人 整列よく植えられて、これから満開に なぜか一方向を向いている 先日の台風5号で一部倒れ ひまわりに雫が マクロレンズで撮影すると、雫に周りの景色が映る 集団の鳥が 高さ約2メートルの展望台 展望台の上から 座間会場のイベント会場 花後はどうするのか、種子を採取か? 天気が良ければ空を入れるが、残念ながら曇り空で 足元も悪かった 鳥対策のマネキン 橋下の有効利用:テニス練習場か? バラも咲き 座架依橋から座間会場を望む 廻りの畑では、野菜を栽培 手前に展望台 まだ撮影会? 相模川の土手 座架依橋下の臨時駐車場 駐車料金300円であったが、7時過ぎの入場であったため無料 8:30には会場を後に帰路につく 『このお盆休み中に是非お越しください』と、現地の人たちから 渋滞が予想されますので、早朝がいいかも END
2017.08.11
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大野小学校前から街道を進む。2/22(土) 10:17小学校から数百メートル先の左側(南)に『浄土宗 明鏡山 長圓寺』の石柱長圓寺山門所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原77山門を入り本堂へ長圓寺本堂庫裡「竣工記念碑」長圓寺の由来はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃、兵火に罹り堂宇消失す。其の頃伊勢参宮の僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正7年(1579)禅宗を改め浄土宗となり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。安政5年(1858)11月14日の夜火災のため堂宇消失す(甲賀郡史による)。その後再建され現在に至るまで約150年風雨風雪に耐えてきたが頓に危機感を憶える程に老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒の願いをかなえるべく・・・・本堂の扁額「長圓寺」10:22右側の民家の庭先に石柱旅篭 吉野家跡街道左側には屋号『指物屋』東海道大野村 指物屋10:27旧東海道を進むと左側に『三軒家集会所』同じ敷地内に新しい社が建つ旧東海道をはさんで『三軒家集会所』の北側にある『大野公民館』中央に『鴨長明の歌碑』 「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらさきへ渡る 布引の山」布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。・・・・・・・・公民館の前に建つ「あいの土山観光案内図」はお疲れ気味街道沿いに建つ碑は『眞風軒(しんぷうけん)の漢詩』漢詩は『過土山即興』土山を過ぎて即興する。採茶の時節、事匁忙す。緑髄の青芽壮なり 僻郷に清風あり。一瀹、君知るや否や、遠きに到る。紅洋黒漠として香し。眞風軒(しんぷうけん)という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります赤茶色の旧東海道を進む旅籠 井筒屋左側に石柱旅籠 中屋 跡左側の民家の格子は新しい最近の格子は木製、アルミ製があった旅籠 日野屋 跡江戸時代の街道筋は旅籠が立ち並んでいたようだが、土山宿では飯盛女はいなかったと明治天皇聖蹟10:36安井酒造場所在地:滋賀県甲賀市土山町徳原225お土産に購入したかったが、持ち歩くのであきらめる小さな酒蔵で直売している、酒は「蔵元 地酒 初桜」街道の向かい側(北側)にも『安井酒造場』、敷地内に『旅籠 金屋 跡』旅籠 田畑屋 跡10:38国道1号線に突き当たる右側に石碑がある石碑は『三好赤甫先生をしのびて』 師の訓を 座右の 銘とし 汗に生く三好赤甫旧跡三好赤甫(みよしせきほ)(1798~1873)は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。生家は代々魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嶬峨上田村の宍戸霞洲に就いて教えを請うた。その後、家業を子に譲って京都へ上がり、東福寺法主虚白禅師に就いて十年余り研鑽を深めた。その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。俳著に『窓あかり』がある。明治5年10月19日、75歳で没し、ここから北側の「若王寺」に葬られている。 碑銘「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく」三好赤甫の子孫が経営しているのか、『会席料理 みよし 赤甫亭』の看板。かなりの老舗であると、またいつの日か田舎への帰途に立ち寄るか!所在地:滋賀県甲賀市土山町大野2175交差点の角に地蔵像があり、石碑が石碑には「布引山・・・・・・」と刻まれていたが。素朴な大日如来の石仏?交差点に『若王寺』の案内板交差点から旧東海道を振り返る10:40国道1号線の大野交差点道路標識は、大津:43km、甲賀市街:7km、今日は後約7km程歩くのだ。旧東海道はこの交差点を渡り北側へ進む 土山宿~水口宿-続く
2020.04.23
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スイスの旅五日目。自由行動でお花畑のトレッキングを続ける。青の部分を下る平成26年7月24日(木) 13:16ブラウヘルト(Blauherd)を出発してから、既に3時間岩場が広がるゲンチアネラ・ゲルマニカ(リンドウ科)Gentianella germanica とは、「ドイツのリンドウ」という意味リンドウ科に属し、総丈 5~40cm、平野から標高2800mに6~10月に咲く。5枚もしくは4枚の花弁の花は、紫、薄紫、ピンクが基本で稀に白もある少し変わった色の湖「Mosjesee」が眼下にミルクを溶かしたような乳白色は、氷河が動く際に削りだすロックフラワーと呼ばれる岩石の粉が、湖の水に溶け込むことによって生み出されている。斜面にいろんな花が咲く右上にゴンドラが動くリンドウ系の花が咲き乱れる谷底にリフト乗り場13:42休憩をし、暑くなったので上着を脱ぐ13:51スネガ展望台を見上げる、リフトの下に「ライゼー(ライ湖)」があるマツムシソウナデシコ系13:59下り方向の標識には、「Findeln Eggen」、GGB登山鉄道の「 Findelbach 駅」マンテマ:ナデシコ科14:06いろんな方面への標識。ここは、Findeln Eggen 標高 2177m上ると、ブラウヘルト(Blauherd)まで、1時間15分。下ると、GGB登山鉄道の「 Findelbach 」まで、45分。ツェルマットまで2時間。後方は、スネガ展望台へ上る坂道14:16民家の前につながれた牛民家の庭先には大きなトランポリン。子供が飛び跳ねていた上空にヘリコプター前方に、Findeln Ze Gassen 村14:20集落へ入る登山道下に、ネズミ返しの穀物倉庫遠く下にツェルマットの町が見えて来るフィンデル村でカフェが営業。入り口右側に、エーデルワイスが植えられていた スイスの旅-続く
2020.09.08
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この日18日(月) は「海の日」で本来なら浜降祭だが、タウンニュースで日吉神社で神輿の宮立ちをするとのことで、昨日に続いて愛車のリンちゃんで訪れた。7月18日(月) 11:00茅ヶ崎中央通りを北上、道路脇に派手な色のコンテナハウス。コンテナハウスには「から揚げの天才」。所 在 地 :神奈川県茅ケ崎市西久保778-8営業時間:11:00 ~ 21:00 月 ~ 日曜日揚げたてから揚げと、テリー伊藤こだわりの玉子焼き。「揚げたて弁当」「から揚げ」「玉子焼き」。駐車場脇にはテリー伊藤の人形もお迎え。六本木クラス × から揚げの天才「しょうが味噌味 販売中ですよー」と。いつか購入したいものだが。揚げたてから揚げとテリー伊藤こだわりの玉子焼き「から揚げの天才」は、2021年12月に初のコンテナタイプの店舗を相模台にオープンし好調に推移しています。そして今回、好調なコンテナタイプに続きキッチンカーの2号店出店が決まり、2022年6月2日(水)に台東区西浅草にオープンし、オープン初日は100名を超えるお客様にご来店頂きましたと。11:04茅ヶ崎中央通りの西久保交差点を左折して東へ向かうとT字路に道祖神。今日は多くの自転車が駐輪していた。どれだけの人がこの道祖神に興味を持ったか?。日吉神社の石鳥居、境内の奉納板には昨日は何も貼られていなかったが今日は多くの奉納者。日吉神社(西久保日吉神社)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保466創建年代や由緒は不詳。御祭神には、山王様といわれる大山咋命が祀られている。境内の右側に、西久保自治会館が建ち開放されて子供たちが太鼓で祭囃子。タウンニュース 茅ヶ崎版 (2022年7月15日号) に記載された「日吉神社」。西久保の日吉神社では鶴嶺八幡宮でみそぎの神事を行ったことを神前に伝える祭典・奉告祭が18日に開催される。当日は午前9時30分から神社で式典、10時30分から宮立ちを実施。神輿を台車に乗せて神社の周囲を巡行し披露して回る。一部で担ぐ予定もあると。社殿の前には提灯も飾られ、国旗も掲揚。社殿左側の神輿殿は開放。社殿前へ進む。拝殿前で撮影をしていたら、氏子さんから上がって撮影して下さいと。本殿への通路も解放され祭壇を設置。拝殿に上がったら氏子の方から榊を戴きお参り。本殿を覗き込む。拝殿の壁面には奉納品、奉納者の名前が掲示されていた。日吉神社に対する感謝状。平成二十九年十一月二十九日 神奈川県神社庁長、神奈川県神社総代会連合会長昭和五十一年七月 撮影 円蔵 藁品 実西久保 日吉神社神輿30周年記念 平成18年5月27日拝殿の左側を見下ろす。慰霊之碑の前には花が供えられ、お神酒も。拝殿から、西久保自治会館を見下ろす。西久保自治会館では子どもたちが横一列に並び祭太鼓。何処の神社でも子供たちは日頃からこの日のために練習している。境内に建つ、西久保自治会館。日吉神社を後にし地域内を巡行している神輿を追うことに。奉納金は、壱万円 ~ 壱千円也で、壱万、伍千円が主流になっている。11:18街中から太鼓の音がし追いかけると神輿の後方に追いつく。住宅街を進みこの奥で休憩。担いでいるように見えたが台車に乗せて移動していた。担ぎ手はこの日は担いでいないが、地域の旧家に立ち寄り休憩。旧家では冷たい飲み物、ビールが出され談笑。台車に乗せられた神輿。この帯の結び方にも決まりがあるようだが。神輿の上部をズームアップ。漆塗りの担ぎ棒。神輿の重量は 500キロから1トンあるようだが。日吉神社の神輿は、浜降祭に参加する神輿の中でも最重量級とされるようだが。湘南では珍しいタイプの真新しい台車であると。台車にも「西久保」と。ネットで調べると台車は「茅ヶ崎神輿康(ちがさきみこしやす)」製。茅ヶ崎神輿康のHPに、「日吉神社様へ令和4年7月17日(日)に神輿台車を納品」したと。舵取り機構付きで車輪はだんじりで使用される物と同等(大阪より取り寄せ)。跳ね高欄仕様で、高欄は取り外し式になっており、神輿を台車に乗せたら高欄開口に長柄を通して固定ロープ牽引の為の環付き。湘南近隣でも殆ど見られないタイプの台車となりますと。納品時の写真。神輿の「鳳凰」をアップ。大きな鈴、提灯。神輿の鳥居は四面に。鳥居には「日吉神社」の扁額。銅製のものもあるようだが。神輿の屋根の四方にも小さめの鳳凰?。11:28地区の消防団員も交通整理で参加しているのか。白い法被の背中には「日吉」と。昼前になり帰路につく。路地の奥には休憩中の担ぎ手。旧家の廻りには新しい住宅が建ち、旧家の庭先には温室が2棟。11:40帰路の途中、県道404号線に架かる赤羽根川(千ノ川の支流)の高田鶴田橋。バス停は神奈中「ニュータウン入口」。北方向に、高田ニュータウン入口交差点。この県道404号線は国道1号の本村交差点から北へ向かう新しい道路である。このシリーズでは「地域でつなぐ浜降祭の伝統」をアップしたが、今宿松尾大神近くに神輿に関連する茅ヶ崎神輿康(ちがさきみこしやす)があることを知る。また代表の中里康則氏は神輿職人でまだ50歳、茅ヶ崎にもこのような人がいることを知ったのだ。 END
2022.07.26
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国桂林・厦門の旅、二日目は、桂林のホテルから漓江下りをするために竹江(ちくこう)埠頭へバス移動。2003年10月11日(土) 9:30竹江埠頭を出港して漓江下りへ、天気が曇り空で残念だが漓江下りの遊覧船は4つ星と3つ星があるが我々はどちらに乗船したのか?ツアー料金からして3つ星か、冷房の効いた客室へ我々より先に出港した遊覧船。個人で乗船すると、昼食付で1人約7,000円とか(多分外国人料金であろう)多くの観光客がデッキに毎日何隻下っているのか。目の前に水墨画の世界が広がる漓江下りは約5~6時間を要する漓江下りの観光は、遊覧船、竹筏、徒歩の3種類がある楊堤から興坪までの徒歩ルートもあり、自然と地元の生活に近づく良いチャンスであるが我々の船の後方にも多くの遊覧船が連なって下る前方にも多くの遊覧船天気が良いと漓江の川面に山々が映えるのだがデッキからの眺め、船の多さにびっくり河岸には現地の人の漁獲用船川を渡るのに使用される筏10月は乾期で水の量が少なく船底がガラガラと擦っていた今にも雨が降りそうだが山の頂に『仙人の石』同僚もあれから17年、今では水墨画の世界ズームアップ新版人民幣の20元札の裏に、漓江の名所である黄布倒影の図柄が描かれている放牧されているのか水牛?遊覧船の竹筏ビデオ撮影に夢中の先輩Hさん遊覧船内では乗員が紹興酒等の土産物を販売10:30途中、冠岩の鍾乳洞見学へ立ち寄る下船して1時間半の鍾乳洞見学へ全ての遊覧船が立ち寄るので混雑ゲートを入り鍾乳洞内は小型列車に乗り移動ライトアップされ暗い中ビデオ撮影の先輩鍾乳洞内は船にも乗り移動鍾乳洞から出て記念写真冠岩の公園ゲートを出る時は入って来る観光客は少なくなり急な下り坂を運んでくれる中国版駕籠果物を売るおばさん、みかん、柿であったか12:00遊覧船に戻り鍾乳洞見学後、船内で昼食。桂林麦酒をオーダーして。昼食は船の後方のキッチンで調理されたもので、テーブルごとに白飯と7~8種類のおかずが並ぶ、食後にはフルーツも同じツアーの女性4人グループ船内は冷暖房完備昼食後デッキへ出て水墨画を楽しむカルスト地形特有の山々が連なる水墨画のような風景のんびりと漓江下りをしながら楽しむ川面に山並みが写るのだが14:15漓江下りの終点、陽朔(ようさく)へ到着鵜飼のツアーがあったが何故かキャンセル。陽朔は桂林の南約70kmのところにある周囲を奇峰に囲まれた小さな町で、このあと市内を散策後バスで桂林のホテルへ戻りホテル内で夕食。 中国の旅ー続く
2020.06.18
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今日の目的地の一つである海老名市の西側にある「戸田の渡し跡(門沢橋の大山不動)」へ。3月18日(月) 14:30門沢橋南の地蔵所在地:神奈川県海老名市門沢橋5丁目辺りスマホの案内で道に迷ったがどうにか到着した。かつては門沢橋への主要道路が渋滞する朝夕は交通量が多かったが。海老名市のマンホール蓋市の木ツゲ、市の花サツキ、相模国分寺の七重の塔、中央に海老名市の市章をデザイン。「おすい」の文字。市章はカタカナの「エビナ」を図案化し平和と飛躍を表していると。敷地の一角に設けられている ”門沢橋南の地蔵” 。赤い頭巾等を被せてもらい、綺麗な花も供えられていた。説明板はなかったが信仰心の篤い方がおられるのであろう。寒川町から海老名市に入り、今日の海老名市の散策の起点は右側の「戸田の渡し跡(門沢橋の大山不動)」である。これから訪れるルートをGoogleマップで検索。住宅街を進むと住宅街の前後に橋。手前の橋の欄干には「はらかわ」「門澤橋」のネームプレート。プレートの「門澤橋」はあったが「はらかわ」は座のみで漢字表示はなかった。二つ目の橋を渡り振り返る。橋には「世継橋」と。世継橋が架かる「永池川」の下流側。この先の左から ”はらかわ” が合流している。この辺りも開発され新興住宅地に。上流側の欄干には「世継橋」と。永池川の上流の橋はこの後渡る大山道(柏尾道)の「大橋」。世継橋の前方に赤い鳥居。下原橋天満宮所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目3ご祭神は菅原道真。他には説明板もなく詳細は不詳。社号標石には「下原橋天満宮」と。下原橋天満宮は道路に面した一角に鎮座している。石塔群の先(西側)には次に訪れる「正覚寺」の墓地、本堂。世継橋方向を振り返る。石塔の中には「文字道祖神」。石碑には「記念碑」と。大正十二癸亥年九月一日午・・・・・(風化して判読できず)。関東大震災における被害等が刻まれているのであろう。正覚寺の墓地の一角に無縁仏の墓石であろうか。正覚寺の駐車場脇にひっそりと、「明和六寅〇 〇月○○○」と彫られた単身道祖神。墓地の中に墓石があり、「忠魂○○ 陸軍歩兵一等卒 勲八等功七級 冨塚米吉碑」と。 その手前にも ”単身道祖神” があり花が供えられていた。墓地横の駐車場から進み、道路の角に壊れた石塔が並んでいた。ただの石か?。左折すると直ぐに「真言宗高野山 正覚寺」の看板が目に入る。真言宗高野山 正覚寺 (しょうかくじ)所在地:神奈川県海老名市門沢橋4丁目13-13高野山真言宗寺院の正覚寺は、橋澤山延命院と号します。正覚寺の創建年代等は不詳ながら、江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていました。本尊の十一面観音菩薩坐像は江戸時代前期の作とされ、海老名市重要文化財に指定されていますと。寺号標石には「真言宗橋澤山 正覺寺」。門柱には「真言宗 正覺寺」と。右側の門柱には「橋澤山 延命院」と。門柱の手前に石仏。木柱には海老名郷土かるた「(ひ) 左手に 蓮の花もつ 観世音」と。門柱を入ると正面に本堂。銅板葺きの本堂前には、石燈籠、常香炉。本堂の扁額「正覺寺」。本堂に掛けられた「橋澤山延命院 正覚寺」の表札。本堂前の左手東方向には宝篋印塔、石碑、弘法大師像が建っていた。高さ2メートル以上の宝篋印塔。築造年代を見るが?。石碑には、「弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念 生かせいのち 昭和五十四年本堂 同五十八年庫裡新築」と。一番本堂側に建つ「弘法大師像」。台座には「南無大師遍照金剛」と。境内の隅に石柱があり「門澤橋」と刻まれていたが。本堂前から見下ろす。反対側から見下ろす。十一面観世音菩薩像 正覚寺 海老名市指定重要文化財 昭和四十九年四月二十三日指定正覚寺本尊の木造十一面観世音菩薩坐像は像高四十八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが、昭和五十四年の修理の際に補われたものです。江戸時代の終わりに編纂された『新編相模国風土記稿』の正覚寺の項には、本尊を運慶作と記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。本尊は江戸時代に造られたものでしょう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その溶け物になった本体を鞘仏(さやぼとけ)といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を示しています。 海老名市教育委員会 令和3年3月設置写真左:胎内仏、中央:胎内仏納入状況。十一面観世音菩薩像本堂前左には「南無大師遍照金剛」と刻まれた石碑。東側の墓地入口に六地蔵。墓地側から振り返る。それぞれに花が供えられていた。多くの石仏が並んでいたが移設されたのか。14:50境内にサクラの木があったがまだ蕾は硬かった。 ー 続く ー
2024.03.22
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9/16(日) いつものショッピングセンターで今年の暑い夏の日は昼食後暑さをしのぐ為に買い物に行き、日曜日に開催されているショートタイム(約30分)の時間を楽しんでいたが、この日は時々テレビで見かける芸能人が壇上に 14:19 ニッチェ ライブの案内が ニッチェは、日本の女性お笑いコンビ。所属事務所はマセキ芸能社 メンバーは、江上敬子と近藤くみこ 壇上前には、いつもと違って人だかりが二重三重に 壇上では江上敬子がトーク 私の体重は?、年齢は?と問題を出し 体重は66kg・・・・・・ 14:22 江上敬子と近藤くみこ 途中から撮影禁止と言われたが、「撮影禁止」の張り紙はなく 9/17(月) 冬野菜を植え付けるために畑へ アスパラの苗も順調に育ち来年の春先が楽しみ 花芽も付き 大根の芽:9/11に種を蒔き 冬野菜のマルチング、右から二作目に「聖護院を種蒔き」 旅友から冬野菜の苗を頂く 9/18(火) 午後、明日19日は彼岸花の撮影に行くので急遽買い物に行く パンダと熊のぬいぐるみ 高校生が冷房の効いた食堂で大学受験勉強、高齢者もノートパソコンを持参 皆さん何を聴いているのか耳にはイヤホーンが 陳列棚の向こうには 明日19日(水)は6時に自宅を出発して伊勢原の「日向薬師」廻りへ彼岸花撮影に END
2018.09.20
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北海道の旅二日目:10/08(月)朝食後、今回の旅の主目的(後から嫁に言われたが)であるナキウサギの撮影に十勝岳望岳台の岩場へ8:38 標高930mの十勝岳望岳台からの富良野方面 雄大な十勝岳連峰が見えるのだがこの日は悪天候で見えず早朝ドライブでは小雨であったが止み美瑛方面も雲海の下噴火開始の石碑:1962年(S37)6月29日 PM10:40十勝岳は以降もたびたび噴火している活火山通行禁止の橋だが地元の人は慣れているので、この渡ってナキウサギのポイントへ。近くの人から「危ないですよ」と言われても・・・・・・木の枝の先に鳥が留まる「ゴジュウカラ」十勝岳山麓の紅葉白金模範牧場の牧草地十勝岳山麓の紅葉十勝岳の頂上は見えず望岳台探勝路入口この下にある橋も朽ち落ちて渡れず、脇道から紅葉した木ナナカマドも色づき実も赤くなり岩場の高山植物も紅葉シラタマノキツツジ科の常緑小低木。同属のアカモノの果実は赤く、本種は白い果実をつけることから別名シロモノと呼ばれることもある9:00 林の中を歩いて、ナキウサギのポイントを探すがわからず引き返すことに9:11 ナキウサギのポイント入口に帰り夕食時に話をしたら、この人たちも同じクラブツーリズムで来た人たちであった。立派なカメラを持ちご夫妻で写真撮影、奥様はS11年生れで運転担当、旦那はS7年我が嫁さんの主目的でもあるので、ポイントへ再度行く事に9:28 雨露が9:36 ようやく岩場に到着したが私は廻りの風景を撮影して時間をつぶす岩場の紅葉イワブクロの花後 イワブクロゴマノハグサ科の多年草。別名、タルマイソウ9:45 先客が一名待機していたが9:45 天気が悪く今にも雨が降りそう9:50 雨が降りだし引き返すことにする10:18 十勝岳望岳台の防災シェルターの屋上から、白金模範牧場富良野方面も晴れてきた10:19 十勝岳望岳台からの十勝岳を望むが連休のため観光客の車が多い10:30 十勝岳スカイライン10:34 途中立ち止まり紅葉を撮影10:45 上富良野町への道、道道291号線登ると、十勝岳温泉方面、左折すると白金温泉へ白樺の木の紅葉十勝岳は見えず白金温泉への十勝岳スカイライン(道道966号線)は冬季は閉鎖するこのあと道道291号線を下り上富良野町へこのブログ以外でもデジブックにて「秘境 天人峡の紅葉」を公開しておりますので「・・・・・」をクリック願います 北海道の旅ー3へ 続く
2018.10.16
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梅雨の合間の天気の良い日 6/17(月)の午前中、今が盛りの花菖蒲を撮影に藤沢市と、綾瀬市の境にある『蟹ヶ谷公園(カニガヤコウエン)』を訪れた。ここは冬場に、野鳥のルリビタキを撮影に訪れる場所でもある。6/17(月) 10:35蟹ヶ谷公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡905-10公園案内図。上側に『??上水道』が隣接する駐車場の横に管理棟小高い丘に芝生の広場。天気がよいと富士山が見える丘である広場から湿生地に降り、木道の遊歩道。湿生地の東側から西を望む。花菖蒲が植えられているが少々遅かった花札があったが花と一致しておりません今回のアップ写真のレンズは、100-400mmレンズを使用湿生地の中場から東側湿生地の中場から西側。ハスの花の開花にはまだ早かったが、カワセミも飛んでくる東側の木道をズームアップ先日行った熱海のジャカランダの木の葉に似ていたが『ネムノキ』であった葉の間に花が咲きネムノキの花が天に向かって、これから咲き始める西側から東を望むハナショウブは、江戸後期に約400品種を作出、江戸、伊勢、肥後で独特に改良紫陽花の道紫陽花も咲き11:15 小一時間の撮影で帰宅。 END
2019.07.02
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今回は、タウンニュースで得た情報を基に愛車のリンちゃんで出かけたブログです。6月4日(金)記載のタウンニュース元漆芸家の技術生かす ”不動明王を手作り”サザンビーチ花火大会3年連続中止に6月19日(金) 記載のタウンニュースパンの聖地茅ヶ崎「寄り道したい街のパン屋 ” jiji(円蔵)”」6月26日(土) 13:25パンの聖地茅ヶ崎「寄り道したい街のパン屋 ” jiji(円蔵)”」の店を確認に向かう。千の川の川底清掃作業河川敷を埋めつくしていた葦を切り倒し廃棄作業これからのゲリラ豪雨に対する対策の一環であろうJR相模線北茅ヶ崎駅近くの北茅ヶ崎橋先程の作業の下流側の河川敷JR相模線の跨線橋北茅ヶ崎橋から北上、右側は市立円蔵小学校円蔵小学校の北西部にある「自家製酵母パン JiJi」大きな看板は出ていないが道路脇に看板自家製酵母パン JiJi所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目3-6営業時間:10:00 ~ 売り切れまで定 休 日 :日・水・木住宅を改造し両親と女性オーナーが営業している、自家製酵母パン「 JiJi 」コロナ過で消毒をして店内へ店先に三密を避け「店内へは一家族」との貼り紙店内に入り仕込の数は少ないようだが食パン、フランスパン一番人気の「クランベリークリームチーズ」、お勧めの「塩アンパン」を購入しました土日祝?には店先でフリーマーケットJR相模線の手前に道祖神、庚申塔JR相模線 鶴田第2踏切を渡り西へ進む13:38真言宗 輪光寺所在地:神奈川県茅ケ崎市円蔵2238湘南銀河大橋で夕陽を撮影する時いつもこの門前を走っていた。門前右側に、「高野山真言宗天慶山輪光寺」の石柱境内に入り左側に駐車場があり駐輪、石仏群、右奥に弘法大師御修行像が並ぶ弘法大師御修行像方向を変えて右側をズームアップ裏側に廻り側面に「元文四○○年(1739)」建立者の名前が刻まれている輪光寺の庚申塔 昭和44年8月15日 茅ヶ崎市指定重要文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は寛永17年(1640)の年号が刻まれ市内に所在する90基余りの庚申塔の中で最も古いものである。舟形光背で、頭上に烏帽子をのせ、しゃがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)が二段に浮き彫りにされている。このような形は同時期のものに他に類例を見ず塔の移り変わりからはやや異質であるが、年号からは全国的にも古い三猿塔である。 茅ヶ崎市教育委員会舟形光背で、頭上に烏帽子をのせ、しゃがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)が二段に浮き彫りにされている境内に隅に建つ「二宮金次郎の石像」堀に植え付けられたハス輪光寺 本堂本堂前には石燈籠、常香炉本堂の扁額「輪光寺」本堂前の常香炉横に「梵音海潮音」本堂右前に天水桶、大きな瓶にユニークなものが瓶の中に河童いい湯だな―本堂前に「不動明王参観ご自由に」の貼り紙があり本堂へ上がる本堂に入り本堂内右側の護摩壇に「不動明王」不動明王住職の関光典さんが、約5年の歳月をかけて一人で手作りした漆塗りの不動明王座像が完成。5月21日には開眼供養が執り行われ、護摩壇に祀られている完成した像は、台座から炎の光背を含め約180cm不動明王をズームアップ不動明王製作工程写真 写真提供 岩崎孝夫 殿不動明王製作のきっかけは10年前。護摩壇を新設することになり、手作りすることを決意した。関住職は「自分の寺の仏様を手作りしたら魅力的だと思いましたし、漆芸に未練もあったのでしょうね」と。原寸大のイメージ図を描き、技法などの検討を重ね、制作に取り掛かった技法は、興福寺(奈良県)の国宝・阿修羅像と同じで、「挑戦したかった」という『脱活乾漆(だっかつかんしつ)』を採用。土で作った原型に麻布を漆で貼り重ね、中の土を取り除く技法で、時間も手間もかかることで知られる高野山真言宗天慶山地蔵院輪光寺 護摩堂本尊 不動明王 第二十四世 住職 関 光典 作 製作期間:2017年10月 ~ 2021年4月 撮影:岩崎 孝夫 本堂左側に立つ観音像左奥の墓地へ進み案内板「山王塚」山王権現社當寺三世法印隆善大和尚之墓源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔 輪光寺山王塚へ行くために奥に入り、キウイ畑先程の案内板以外に案内がなく山王塚を確認できなかった。山王塚のある場所はかつて竹やぶで覆われ、子どもたちを始めとする近隣住民たちは「祟りを受けるから入ってはいけない」と伝承されてきた地だった。しかし、昭和30年代に墓地拡張のためやぶを取り払おうと伐採したところ、周囲を礎石で固めた蔵骨器が見つかり、作業は中止。この蔵骨器は平安時代末期のものと思われ、土器底から土砂交じりの骨粉も残っていたことから、かなり高貴な人のものではないかと推測されている。骨が埋納されている山王塚には懐嶋景能の供養塔や五輪塔、神使一猿像なども祀られている石碑があったが「???」輪光寺を後にし、小出川のアジサイを愛でに向かう14:03小出川への途中にあった小さな社「了覚院」了覚院の扁額「了覚院」太田氏一族及歴代僧侶之墓、了覚院高野山真言宗 輪光寺末寺 了覚院 御本尊 阿弥陀如来 江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石(総知行高は二千二百六十石)太田善太夫吉次 が菩提の為に元和5年(1619)に創建。吉次は法名を了覚院と云。延宝8年(1680)没。太田氏一族及歴代僧侶之墓了覚院 — 続く ー
2021.08.13
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この日も嫁さんのアッシーで大船へ行きその合間に近くにある寺社を訪れた。鎌倉市の大船は横浜市との界にあり訪れた寺社は横浜市であった。松竹前交差点から砂押川を渡り北方向 (鎌倉街道(中の道)) へ進み横浜市栄区へ。5月30日(水) 9:55浄土宗 笠間山法安寺 (ほうあんじ)所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-16法安寺は、持阿智光了専が文安二年(1445)に創建。光明寺十四世法誉智聡が永正五年(1508)に中興したといわれているお寺である。大船の松竹前交差点から北方向へ進み右側にあった法安寺。参道にあった創建以来の石碑には「奉巡拝西国四国秩父坂東百八十八ヶ所供養塔」と刻まれているようだ。木柱には「創建以来法安寺入口石塔」と。木柱の裏面には「四国巡礼成満記念塔」と。境内入り口に「法安寺創建1353年」「やすらぎのお寺 法安寺」と。境内に入り正面に山門が建っている。法安寺関係者以外の進入は、固くお断り致しますとあったが、山門前に駐車させていただく。山門の後方に本堂が見えたが、山門だけが独立して建っている。山門の右側にはサクラの木が聳えていたがサクラの開花時期も素晴らしいのではと。山門の扁額「笠間山」。山門を入ると右側に六地蔵が並んでいた。六地蔵の廻りは柵で囲まれ保護されていたが。石畳の参道の先に朱色の本堂。参道脇にほうきを持った微笑ましい掃除小僧の像。本堂前左側の、石碑には「鎌倉十五番札所 弘法大師一夜爪彫之作 刻石観音」と。朱色に塗られたコンクリート造りの本堂。本尊は阿弥陀如来像。本堂の扁額「法安寺」。本堂前に立っている観音像?本堂前から山門を振り返る。本堂の左奥には寺務所であろうか。本堂の右側には山林が広がっている。本堂前には笠付きの立派な墓石が並んでいた。法安寺前に駐車して近くにあった石塔を見に。法安寺前の道路 (鎌倉街道(中の道)。左折すると大船駅方面へ。この道は大船方面への鎌倉街道 (中の道) であろう。同場所から県道23号線 (環状4号線) の栄区笠間町交差点方向を望む。右脇に今泉村不動の社。栄区笠間町交差点をズームアップ。交差点は国道1号の原宿交差点からの環状4号線でいつも渋滞している。今泉村不動所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-20大船方面を望み、住宅地の片隅に建っている。この先の右側に笠間中央公園があり、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されている。紙垂で飾られた今泉村不動。宝永七年 (1710) に建立されたもので、ちょっと分かりずらいが道標の「今泉村不動江之道」があると。写真から道標らしきものはなく確認できなかった。不動明王をズームアップ。今泉村不動から法安寺へ戻り車へ。右側の新築の家は住職の住宅であろうか。左手前には幼稚園らしき建物もあったが。門前を横切る鎌倉街道 (中の道)。笠間庚申塔所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目2-43鎌倉街道 (中の道) 沿いに4基の庚申塔が並んでいる。後方の森は笠間中央公園。狭い道路であったが街道脇に車を停める。左から古い順に並んでおり、左は地蔵坐像(年代不詳)。左から2番目から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年(1823)、万延元年(1860)の建立。10:10後方の森は笠間中央公園で、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されているので後日訪れたいものです。10:40青木神社所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目4-1大船駅前で妻をピックアップ、カーナビで次の目的地「青木神社」へ向かい鎌倉街道 (中の道)を進むと、青木神社入口の交差点があったがカーナビに従って直進。途中右折して新興住宅街を抜け境内裏の駐車場へ到着。木の幹に「ケヤキ」のネームプレート。ニレ科 ケヤキ属日本で最も大きくなる落葉樹の一つ。材は堅く、建築装飾や器具に利用します。宗教法人 青木神社 由緒沿革鎮座地 神奈川県横浜市栄区笠間五丁目四番一号御祭神 天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 天照大神 (あまてらすおおみかみ)由 緒 新編相模風土記及び口碑の伝える所によると 第九十六代・後醍醐天皇の御代 建武二年(1335)足利直義配下の武将出羽次郎清秀 が小坂郷領主と成り郷内笠間村に現今の社地を宮地と定め社殿を造営、平素尊崇せ る天手力男命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉祭し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。 これ即ち当社の設立なり、現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。 沿 革 明治以降は新祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。 明治四十一年 村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀 大正十一年 神饌幣帛供進神社に指定される 昭和二十五年 宗教法人鹿島神社を分祀 昭和二十八年 宗教法人青木神社として認証 昭和五十二年 本殿・拝殿改修整備 昭和六十二年 参道石段・鳥居・狛犬等境内整備 平成六年 境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備 平成九年 青木神社社務所新築 平成十一年 青木神社宮神輿及び神輿倉新築 平成二十二年 境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備青木神社社殿昭和52年(1977)に本殿・拝殿は改修整備された。拝殿の扁額「青木大明神」。拝殿前の狛犬 (右側) は大きなマスクを装着していた。左側の狛犬もマスク。左側に社殿、右側に社務所があり奥にトイレがあった。境内に聳えるスダジイ。青木神社の神様天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 腕力に勝れ大力無双で気はやさしく力持ち 日本神話天の岩戸開きで活躍した神様。伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 日本神話で最初に夫婦神として登場した神様で数々の国土と人々を生成。 天照大神の親神様。天照大神 (あまてらすおおみかみ) 皇室の祖先神としてひとしく尊敬されている。高天原を支配した女性の神様。スダジイブナ科 シイ属秋に実る細長いドングリは、ほんのり甘く食べられます。タイワンリスであろうか樹々の枝を動き回っていた。10:45社殿前から石段を見下ろす。 ー 続く ー
2023.06.23
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8/20 宇都宮市内のブログ取材後、旅友が今回の旅の計画をしている時NHKで放映された「シモツケコウホネ」を見に行くことに 7:55 自生地へ到着 シモツケコウホネは栃木県下で3か所群生している 最寄り駅の東武日光線「下小代駅」 日光市小代にある 上り電車が到着 南栗橋行きの表示 駅前のおじさんが「昨日は多くの観光客が訪れていた」と 駅前の民家の横に、大谷石で作られた庇(ヒサシ)付きの立派な蔵 その右奥には、歴史を感じさせる建物が 話しかけてきたおじさんの話では 下小代駅の旧駅舎を移設したものだと その後修繕され、2009年3月に国の登録有形文化財に登録された 小代自然環境保全地域 駅から歩いて5分程度で到着する 日光市南部の行川の左岸に広がる水田地帯に位置する水路で、国内希少野生 動植物種に指定された本県固有種「シモツケコウホネ」が生育している また本県における保護上重要な種である二枚貝の「マツカサガイ」も生息 8:00 今日はまだカメラマンは少なく先客は女性一人、車を道路脇に止め この狭い水路の中に黄色いシモツケコウホネが咲いていた 初めて見た、シモツケコウホネ 先客の女性、旦那は車の中でTVを シモツケコウホネ(下野河骨):スイレン科コウホネ族 世界で初めて発見された、沈水性のコウホネ族の植物 2003年に発見、2006年に新種として発表された。世界中で栃木県内の4カ所だけに 生育している シモツケコウホネの開花後の実 開花後再び水中に沈み、子孫を残してくれる ハグロトンボが飛び回り 葉は水中に没した沈水葉だけで、抽水葉(水上の葉)を作らないことが最大の特徴 シモツケコウホネの葉は、ワカメのような紫色の葉 花茎だけが水面からまっすぐ10~15cmほど突き出し、先端に花を一つ咲かせる 水面からまっすぐ10~15cmほど突き出て咲いている 開花後は再び水中に入るので、開花したら数日後には倒れるのか❔ 可憐な花である 一つの花の寿命は1週間程とあるが、開花期間は? 花弁径は20mm程度と小さい 花弁に見える外側の黄色い部分は「萼片」、中央部の*型の部分は「柱頭盤」で朱色 をしているのが特徴 花のみが出て咲く 葉はすべて水の中(沈水葉) カメラ視線を下げて撮影 絶滅の恐れがある品種である ハグロトンボの動きを待つ 羽根を広げる 茎一本に一つの花を咲かせる シモツケコウホネは盗掘禁止 水はきれいで急な流れで生育 蜜があるのか 旅友も膝を地面につけて撮影 旅友も本日より詳細な説明でブログアップしております ハグロトンボもたくさん飛来 カメラマンはマナーを守って撮影してほしい 一歩下がって、畑には入らず、車の駐車も所定地 PLフィルターを使用 いつまでも咲いてほしいものですネ 8:25 大谷石資料館の開館時間も近くなったので移動する 宇都宮の旅-続く
2018.08.26
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今年も、長野県千曲市で開催される「第44回寿野球全国大会」へ参加するため、一泊二日の男旅へ参加。千曲市の定宿「千曲館」へ行く前に、中山道の奈良井宿へ。倉見の工場駐車場に集合してマイクロバスに乗り9:00に出発。今回は13名の参加だが一名は仕事の関係で、明朝の出発で試合に参加。早速近くのスーパーでつまみ・ビール・焼酎を購入。9:30 寒川北インタから圏央道に入ると同時に乾杯!!!5/11(土) 9:53中央自動車道の小仏トンネル、長さ 1642m。圏央道ができて以来、八王子まで30分程度で来れるようになり便利になった!10:08中央自動車道「談合坂サービスエリア」でトイレ休憩10:29大月JCT手前500m10:32中央自動車の大月インタ手前10:39笹子トンネル:長さ 4717m、速度制限 70km/h10:49前方に南アルプスが見える11:03双葉JCT、左折すると中部横断道へ、将来は東名高速道路へつながるがいつになるか?11:05南アルプスの「甲斐駒ヶ岳」甲斐駒ヶ岳は、南アルプス国立公園内の赤石山脈北端の山梨県北斗市と長野県伊那市にまたがる標高2,967mの山。峻険な山容をもち、半ば独立峰のような姿勢で孤立する日本アルプス屈指の名峰で、日本百名山、新日本百名山等に選ばれている11:07前方に深田久弥が選定した日本百名山の一つ八ヶ岳が八ヶ岳は、山梨県と長野県に跨る山塊。南北30km余りの山体で、大火山群である。最高峰は赤岳で標高2,899mマイクロバスの運転は野球仲間、今回はラウンジがない車内。今回の大会参加者は13名で、この日は12名。参加者平均年齢66.3歳(79 ~ 48歳)と高齢化、昨年は平均63.5歳であったが11:10須玉出口辺りで道路工事中11:16八ヶ岳、右奥は最高峰の赤岳11:20トイレ休憩で「八ヶ岳パーキングエリア」へ八ヶ岳パーキングからの甲斐駒ヶ岳11:38小淵沢 富士見インタ出口11:40予定では伊那インタで出て奈良井宿へ11:42富士見パノラマリゾートのゲレンデ所在地:長野県諏訪郡富士見町富士見6666-703冬はスキー場、春・夏・秋は花、紅葉が楽しめるリゾート地で知られる11:44中央道最高標高点:1,015m、ここから長い下り坂に11:57中央道、長野道の分岐点、岡谷JCTまで3km12:00伊那インタまで、21km。昼食をどこでとるか、駒ケ根に名物の「ソースかつ丼」があるので予約を入れる12:10中央アルプスにはまだ積雪がズームアップ12:13中央自動車道「小黒川PA 2km」「駒ケ根SA 18km」は、ETC出口専用12:22駒ヶ根インタ出口ここを左折して予約した昼食会場へ、右折すると中央アルプス駒ヶ岳へ12:24中央アルプス花の道沿いに、予約した「きらく」が前方に。とんかつ、ソースかつ丼の「きらく」所在地:長野県駒ケ根市赤穂北割一区3145運転がないので地酒も飲む全員、名物の「ソースかつ丼」をライス少なめにして食べるライス少なめのソースかつ丼、ライスの上にキャベツ&かつ13:15食事を終え、目的地の中山道奈良井宿へ向かう。13:19中央アルプス花の道を伊那方面へ北上、左手に中央アルプス13:30中央アルプス花の道(伊那西部広域農道)を北上して「かんてんぱぱガーデン」所在地:長野県伊那市西春近広域農道沿い tel:0265-78-2002営業時間:9:00 ~ 18:00 定休日:年末年始を除き無休寒天のトップメーカーが運営する花と緑いっぱいの公園工場。3万坪の敷地内には工場直営ショップや日本初の寒天レストラン、美術館など様々な施設があり、一日中のんびりとくつろぐことができる。途中行くつもりであったが時間が無くなり、ここで昼食をとればよかった写真はネットから13:40中央アルプス花の道「中の原交差点」ここを左折して国道361号線を走る13:41菜の花が咲き(車窓から)道路沿いに咲く芝桜13:46国道361号線の「権兵衛トンネル」所在地:長野県上伊那郡権兵衛峠道路。伊那路と木曽路を結ぶ国道にあるトンネルで長さ:4,470m 標高:1,062m。伊那側は道も良く道路が空いているのでスピード違反には注意を!!!13:51トンネル通過に約5分、冬場は豪雪地帯で凍結に注意と13:53ここを右折して県道493号線を、6.8kmで「奈良井宿」へ13:58奈良井ダム(車窓から)14:01国道19号線に合流、奈良井宿まで1km14:02道の駅「奈良井・木曽の大橋」まで1km。私は二度目の訪問14:06奈良井宿権兵衛駐車場へ車を止める。奈良井宿所在地:長野県江尻市奈良井。中山道六十九次の34番目の宿場。駐車料金はマイクロバスは1,540円であったが、出発時間を15:00にして自由散策へ。中山道奈良井宿ご案内図奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道67宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいるレトロなバスが街道を走る。建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある街並みを構成している街道にある、おすいマンホール?荒沢不動尊前の道祖神、八重桜が満開荒沢不動尊を振り返る上問屋資史料館。石碑は「明治天皇御駐輦所」。明治天皇が13年の行幸の際に立ち寄ったところです。建物の中は会所としての機能もあり、奥は賓客をもてなす場所のようです。二階から格子越しに宿場町を行きかう人を見下ろすのもいいと、中庭もありおしゃれな作りであると14:23外国人も含め多くの観光客が訪れている 長野の旅ー続く
2019.05.18
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今回のシリーズは、6年前の平成26年7月に妻と行った3度目のスイス旅行です。花中心の長いシリーズになりますがよろしくお願いします。外出自粛と長梅雨でブログネタもなくなり、この旅行はブログアップをしていないので、写真を取り出し整理して二度目の旅を楽しみました。今までスイスへの旅は妻と二度行っており、1回目:1999年7月、2回目:2001年6月で、この頃の写真はまだフイルムカメラで、帰国後の写真代が約5万円と高価であったことを思い出した。今回は、カメラ(デジカメ)を三台持参して妻との撮影。ツェルマットからの「マッターホルンの朝焼け」この写真が撮りたくて!ツアー会社は、阪急交通社『trapics』trapicsから届いた「最終旅行日程表」旅行期間:2014年7月20日(日) ~ 29日(火) 10日間出発のご案内集合時間は成田空港、8:25と早いスイス全図と動線。成田空港とチューリッヒの往復直行便を利用。スイス国内は、チューリッヒから左回りにバス移動(ピンク色)、途中2つの絶景列車に乗車平成26年7月20日(日) 1日目のスケジュール集合時間が成田空港 8:25と早いため、5:40に自宅を愛車で出発して成田の駐車場へ。時間が早いため渋滞もなく順調に走り成田空港の「J2パーキング」へ 7:10 到着、駐車場から送迎してもらい第一ターミナルへ 7:20 着、集合時間の1時間前に到着した。左のページには、高山病の注意書きが書かれていた!7月20日(日) 8:40旅行会社のカウンターで受付を終え待合室で出発を待つ9:03今回のツアーはホテルへ8泊、機中泊1泊の10日間。参加者は、女性19名、男性11名、内夫婦10組の総勢30名と大所帯であったが、やはり女性が多く、男性1名が一人参加であった。ツアー代は、296,830円(サーチャージ込み)。成田空港待合室9:34搭乗機は、スイスインターナショナルエアラインズ、10:25発、LX-0161 便。スイスへは直行便を利用、所要時間約12時間25分でチューリッヒ空港へ成田国際空港を10時25分に出発し、機内食を2度食べる。15:30チューリッヒ国際空港へ到着。スイスと日本との時差はマイナス7時間(この時期はサマータイム)。入国審査後、手荷物を受け取る17:00(日本時間 24:00)ホテルは、チューリッヒ空港に隣接する『ラディソンBLUエアポート』。日本時間は深夜であるため早々にベッドへ。今日の歩行数は移動日で、約6,000歩であった。このホテルへは、帰国時の八日目(7月28日)の夜にも宿泊するスイスのホテルは枕銭が必要で、各人1 SFr.(約117円)スイスは雄大なアルプスの山々に抱かれた、おとぎの世界のような国。美しい山々の景色だけでなく、古い歴史を色濃く残す各都市の魅力に惹きつけられ、世界中から多くのツーリストが訪れている。正式名称:スイス連邦、首都:ベルン、面積:4万1,285k㎡(日本の約1/9)、人口:約804万人、通貨:SFr.(約117円)、言語:公用語はドイツ語(65%)、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語、日本との時差:-8時間(3月最終日曜~10月最終日曜のサマータイム期間中はー7時間)。スイスの旅二日目7月21日(月) 7:41朝食を食べ、宿泊の『ラディソンBLUエアポート』前にて。今日の天気は曇り空、今まで二度のスイス旅行は天気は最高であったが、今回は曇り&雨の予報ホテル前の庭先に咲いていた花今回の旅は自由時間が多いので、アイガーの麓他をトレッキングしながらの花撮影空港は、ホテルのフロントから屋内でつながっている2階からホテルのフロントを望むフロント前のロビーに立つモニュメント空港前のタクシーロビーのカウンター夜はアルコールが飲めるのか、いろんなウイスキーが並んでいた照明の中をズームアップすると「ワイン」か?このあと、9時にホテルを出発してチューリッヒ市内観光へ。 スイスの旅-続く
2020.08.25
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スイスの旅二日目は、チューリッヒ市内観光後、ルツェルン観光へ。ルツェルンの観光と言えば、「カペル橋」「旧市街」が定番で二度目の訪問である。ルツェルンは中世の面影を残す旧市街、湖から流れ出るロイス川に架かる屋根付きの橋、かなたに望む山々。ルツェルンはスイスでも指折りの風光明媚な町。ドイツ語ではルツェルンだが、フランス語ではルセルンと呼ぶ。平成26年7月21日(月) 11:30ルツェルンへ到着バスから降り、観光案内板右側にバスから降り立ち、「カペル橋」を渡り時計方向に散策四森州湖(フィーアヴァルトシュテッテ湖)がロイス川に流れ出るところに架かる「カペル橋」。 左側が四森州湖で、ロイス川には白鳥カペル橋はいつも花で飾られている四森州湖がロイス川に流れ出るところに架かる屋根付きの木橋。ゼー橋という大きな近代的な橋が駅前広場からのびているが、カペル橋はそのすぐ隣に位置する。14世紀初頭に建造され全長は約200m。ヨーロッパでは、最長、最古の木橋である。その優雅な姿は、ルツェルンのシンボル橋の途中に八角形の屋根をのせた水の塔があるが、これは灯台もかねた防衛の塔。カペル橋自体も、湖側からの敵の進入を阻むために建造された屋根の梁の部分にはルツェルンの守護聖人の生涯を描いた100枚余りの板絵がある。1993年に火災に遭い、旧市街側の一部を残してかなりの部分が焼失したが、翌年に再建された回廊を想わせるカペル橋。火災のあと再建された部分はまだ新しいが、板絵も忠実に復元されている。玉葱の尖塔は『イエズス会教会』カペル橋の上から旧市街地方向旗がなびく『旧市庁舎』カペル橋の下流側にある『シュプロイヤー橋』ロイス川に架かるもうひとつの屋根付き橋。近くに粉ひき場があったことから、粉ひき橋とも呼ばれる。建造されたのは1408年だが、嵐で崩壊し、1568年に再建されている1568年に再建されたとき、橋の中央に小さな礼拝堂が建てられたカペル橋と同じように、屋根の梁に板絵が飾られているので、渡るときに頭上に目を!17世紀に描かれたカスペーク・メークリンガーによる「死の舞踊」と呼ばれる連作で、疫病の流行に題材をとっている。ドクロの姿をした死神などが当時の死生観を彷彿とさせる1993年の火災の後で再建された新しいカペル橋よりも、中世の雰囲気がより伝わってくる年期の入った木組みシュプロイヤー橋からの上流側。四森州湖からの水量が多い、川にはいろんな施設が造られていた玉葱型の尖塔が特徴的な『イエズス会教会』。スイスで最も古い歴史を持つバロック様式教会で、1666年に完成施設の一つがパネルで紹介水力で水車を回して動力を得て・・・・・・・・・別の施設も水盤を回して歯車を回す水盤を回して動力を作りゲートを上下させるのか?散水車12:00旧市街地へ入るルツェルン市内の中心を流れるロイス川の北岸一帯が旧市街である。石畳の街並みは、中世の面影を色濃く残しているフリッチの泉が目印のカペル広場、旧市庁舎がある穀物市場広場、壁画が描かれた家々が美しいワイン市場広場など、いくつかの広場をつなぐのがカペル通りというメインストリート商店も多いのでショッピングがてらのそぞろ歩きが楽しい界隈ヒルシェン広場にも壁画の家々が建ち並ぶヒルシェン広場の噴水家の入り口には装飾品ヒルシェン広場の壁画中世の面影を色濃く残しているカペル広場カペル広場のフリッチの噴水噴水の下には花が飾られいりくんだ小径に迷ったら、とりあえず川に出るといいフレスコ画を見ているだけでも見飽きたらないワイン市場広場の壁画と噴水中世の面影を色濃く残している商店の壁画とベランダ別の商店の壁画とベランダ。今回の夜の晩酌用にワインを一本購入 11.5 SFr.穀物市場広場の旧市庁舎穀物市場広場のフレスコ画夏には川沿いのレストランやカフェが外にテーブルを並べており賑やか旧市庁舎のマークであったか?ロイス川に出、向かい側の『イエズス会教会』先程この前を歩いてきたカペル橋を見納める左側にゼー橋があり渡るとルツェルン駅がある。塔の向こう側に『カぺル橋』約一時間の市内観光で、バス乗車前にトイレへ12:35ゼー橋の上から「カぺル橋」、バスの車窓から。約112km先のベルンへ向かう12:45車窓から13:02途中、レストランで昼食バタージャガイモビール(500㎖) 6 SFr. を飲むメインはラクレット13:40デザートのアイス スイスの旅ー続く
2020.08.27
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首都圏4都県に対しての緊急事態宣言は、期限前の3月5日(金)に3月7日から3月21日(日)まで2週間延長になる。昨年の今頃は旧東海道の完歩を目指して最後の計画をしていたが、新型コロナウイルスも今だおさまらず、日々この関係の報道ばかり。2月28日(日) 7:50日曜日の朝、野球の練習でグランドへ行く。相模川の野球グランドからの富士山圏央道の海老名方面陸橋は圏央道の寒川南IC方面の東海道新幹線。練習に際しては、体温、消毒を徹底。5月の連休明けには寿野球長野大会が開催される予定のため既に申し込み済みだが今年は無事開催されるか?、昨年は中止になったが午後天気が良いので先日行った小出川の河津桜が満開であろうとのことで、いつものようにコロナ対策をして電動アシスト自転車で出かけた。なお、満開前(2月19日)の小出川の河津桜を3月11日(木)にもアップしておりますので連続でのアップになっておりますがご容赦願います。13:40小出川への途中にあるお寺へ立ち寄る法性山 妙運寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保1564日蓮宗の寺院で、本堂の裏手には新湘南バイパスの茅ヶ崎JCTがある。お寺の前には広い駐車場があリ、境内にはイチョウの木がそびえ秋には銀杏日蓮宗の「法性山 妙運寺(みょううんじ)」妙運寺 本堂本堂の扁額「法性山 妙運寺」本堂前に建つ、日蓮聖人の像本堂前から山門本堂手前には、お稲荷さんの鳥居と社、左には十三重塔本堂左手に、慈母観音、十三重塔駐車場脇のさくらは満開の河津桜か?さくらの枝の中でメジロが動き回っていた。メジロ(目白・繍眼児 )は、鳥綱スズメ目メジロ科メジロ属に分類される鳥類いろんなスタイルで蜜を吸うが直ぐに動く同じところに1秒も留まっておらずこれで蜜が吸えるのかと勝手に思うが尾が短いメジロウグイスと間違えないで、目の周りが白いからメジロなの!!メジロは全長 11.5cm。日本では全国の平地から山地の林にすんでいます。西南日本の常緑広葉樹林に多く、北海道では少ない鳥。市街地の庭や公園にもいます。特徴は、目のまわりの白いフチドリ(これも短い羽毛です)と13:47茅ヶ崎小出川桜祭り会場所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番付近茅ヶ崎市北西部の小出川沿いに、約70本ほどの河津桜が咲いているが、今年の小出川桜祭りもコロナの関係で昨年に続いて中止。県道44号線(伊勢原藤沢線)から会場を見下ろすこの辺りから下流側に約70本の河津桜が植えられている。箱根の山、富士山が絶景菜の花と河津桜とのコラボ小出川に映える河津桜朝早いと気温が低いので富士山もくっきり?右側には富士山が見えるのだが露出の関係で薄く満開になり小出川の堤防には多くの人が寒緋桜、河津桜、菜の花の競演寒緋桜を見上げる小出川桜会場広場には簡易テーブル。知らない者同士が日頃のうっ憤を晴らすように会話。毎日連れ愛?と会話のため空を見上げると満開の河津桜会場広場から上流側に約70本植えられている河津桜 = オオシマザクラ × 寒緋桜 の自然交配小出川桜祭りが開催されると、地元野菜等が販売されているが。ここから西側は農耕地になっており、みなさん農道脇に車を止めて河津桜を愛でに!かつては小出川には葦が生い茂っていたが14:11小出川の河津桜を堪能した後は堤防を下る。川には水がきれいになったので泳ぎ回るカモ岩の上には、小さな亀も14:22小出川を下り国道1号も横切り、千の川との合流点「中島橋」へ。南側にはJR東海道本線が走る小出川の上流を臨む。左は湘南バイパスで上流の橋は国道1号(旧東海道)の下町屋橋。前回の2月19日は下町屋橋から帰宅した小出川と千の川の合流点左から小出川、正面(東側)から千の川が合流する千の川の上流、旧東海道に架かる鳥井戸橋を臨むJR東海道本線鉄橋合流してからは小出川となり相模川へと流れる 14:27JR東海道本線の松尾踏切この辺りの電車のスピードは100km/h と高速でそばにいると怖い松尾踏切は4路線。スマホで見るとJR東海道本線も、上野東京ライン、湘南新宿ラインと東京から、60K675M14:29線路脇に撮り鉄がいたが目的の列車は?踊り子号の上り列車新型車両14:36松尾踏切から住宅地を南下して柳島通りにある「網元料理 あさまる」所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18-31毎朝自家船で仕入れた有名な湘南シラスを始めとした新鮮な魚介類を使った和食を提供。古典的な店内は落ち着いており快適で宴会にも最適だが14:37国道134号の柳島海岸交差点の歩道橋歩道橋上から西方向を臨む、中央左方向に富士山が薄く見える富士山をズームアップ国道134号の江の島方向14:42柳島海岸の浸食された部分に土嚢が積まれていたが未完成なのか、上部のサイクリングロードはまだ通行止めになっていた電動アシスト自転車が杭にチェーンで施錠されていた手前が昨年の10月から乗り回している茅ヶ崎市からの貸出し電動アシスト自転車。若者がBBQでもやるのか準備をしていた14:50茅ヶ崎漁港の西側の駐車場には多くの他県ナンバーの車が駐車していた15:00茅ヶ崎市東海岸テラスからの、江の島。海岸にはコロナ禍の中、多くの家族ずれが訪れていたサイクリングロードには飛散砂が堆積して自転車は走れず。仕方がなく国道134号沿いの歩道を走る国道134号沿いの歩道を走り、再度海岸へサザンビーチを振り返り、富士山を望む15:45一中前ステージこのステージでは、朝6時半から近くの人達が集まりラジオ体操をしている同場所から茅ヶ崎ヘッドランドを臨む砂浜に座り物思いにふける女性このあと、狭いラチエン通りを北上して16時に帰宅した。 ー END -
2021.03.13
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