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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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ブログを始めてから今日で9カ月になった。この間、いつか書くネタが尽きるんじゃないかという不安を抱えながら、何とか153回の日記(足跡)を残してこれたのは、訪れてくれる皆さんの支えの賜物だと思っている。 「お酒とBAR巡りと音楽」をメインにしているからには、この3つのカテゴリーで7割くらいは書きたいと思っているが、いざ始めてみると、上っ面だけの生半可な知識が露呈したり、肝心のテーマに合う、いい話題や写真がなかったり、と予期せぬ壁にぶち当たったりすることも多かった。 ブログは、世界中の見知らぬ人と出会える素晴らしい場だ。実社会では、一生かけても実現しないような出会いが生まれる。だから、ヒット数を競うのが目標ではないけれど、できるだけ数多くの人に訪れてほしいという気持ちは強い。 次に願うのは、訪れてくれる方の「国内外への広がり」。アクセス記録に残された「……@以下のアドレス」からみると、すでにほぼ日本全国の方がアクセスしてくれている。しかし、メッセージを残してくれる方々の全国(全県)制覇は、一応目標だけれど、まだ実現できていない(写真左=うらんかんろ In S社・山崎蒸留所)。 これまで書き込みしてくれた方々の都道府県は、北からいくと、北海道、山形、新潟、福島、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、徳島、岡山、熊本、沖縄っていうところ(漏れていた方がいたら、ごめんなさい。ご指摘ください!)。海外は、スウェーデンと米国(カリフォルニア州&オレゴン州)の計3人の方。 海外からは、実際はもっといろんな国からアクセスしてくださっている(たぶん在住の日本人の方)のだけれど、皆さんシャイなのか、メッセージまで残してくださる方は意外と少ない。もっと気軽に書き込みしてくださればいいと思うのだけれど…。 今も一番気にかかっているのは、ブログを始めて間もない頃、いち早く書き込みしてくださり、3カ月間ほど頻繁にメッセージをくださった「Ladybirdさん」という方のこと。ことし2月に突然、ブログを休止されて、音信不通になってしまった(ブログ自体はまだ残していらっしゃるのだが…)。 何らかの事情があってのこととは思う。でも、今でも、心の片隅から消えない。Ladybirdさん、この日記をもし読むことがあったら、ただ、「元気でやってます」とだけでもいいから、知らせてほしいと心から願っています。
2005/08/28
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どこの街に旅をしても、その地のBARを訪ねるのが楽しみだ。数年前、長崎へ旅することがあった。連れ合いは随分昔に一度訪れたことがあるが、僕は初めての訪問だった。 だから土地勘もないし、長崎に知り合いもいないし、長崎の素敵なBARも知らない。事前にいろいろネットで長崎のBAR情報を調べてはみたが、ネットの情報というのも当たりはずれがあって、さて、どれくらい信用していいものか、自信が持てない。 そこで、大阪の懇意のバーテンダーの何人かに、「長崎で、どこかいいBAR知らない?」と尋ねてみた。すると、何人目かで、「あぁ、大阪出身のバーテンダーだけど、彼が働いているBARはなかなかいいよ」という情報をもらった。 僕らは福岡空港へ着いた後、レンタカーでまず、焼きものの里の有田、唐津を訪ねた。その日は、ハウステンボスすぐそばのホテルで1泊。そして翌日は、ハウステンボスには寄らず、まっすぐ長崎市内へ(写真左=長崎観光と言えば、まず「グラバー邸」。トーマス・グラバー氏は、キリン・ビールの元になった会社を興したってこと知ってました?)。 長崎では昼間、グラバー邸、出島、中華街など定番の観光地はおさえて、夜はホテル(長崎全日空ホテル)内の和食のお店で、念願だった長崎名物の卓袱(しっぽく)料理のコース(写真右下はご参考。実際に食べたものではありません)を堪能した。 卓袱料理と言えば、中国やオランダなど異文化の影響を色濃く受けた長崎独特のもの。「おひれ」という鯛の胸びれを入れた吸い物で始めるのがしきたりだそうだが、それ以外は有名な豚の角煮や、魚介や野菜の蒸し煮、刺し身、天ぷらなど一品ずつみると、そう珍しいものでもない。まぁいちおう話の種にという感じ。コースで約6500円と良心的なお値段も嬉しい。 さて、腹ごしらえもすんで、教えてもらったBARへいざ行かんと、出かける。長崎は路面電車が走っていて、本数も多いので、町中の移動は便利。ホテルの前から市電に乗って10分弱で、思案橋界隈の盛り場らしきところに着く。そして教えて貰った住所を頼りに歩くこと5分余り。 めざすBARはビルの4階にあった。Bar・Waverly。店内はヨーロッパ調の雰囲気で、とても落ち着いた感じだ。前日の夜にホテルから、紹介されたバーテンダーのIさんには電話しておいたので、Iさんがすぐ出てきて。「**さんですね。お待ちしていましたよ!」と、関西から来た僕らを歓迎してくれた。 Waverlyは盛り場の真ん中にあるBARだが、店内はとても静かで、外の喧噪が嘘の様。ちなみに、オーナー・バーテンダーのOさんも店にいらしたが、Oさんは大学の建築科出身で、店内の設計やインテリアも全部自分でされたとか。凄―い!(写真左=Waverlyのオーナー・Oさん=左=と、バーテンダーのIさん。2人とも、とても気さくで素敵な方です)。 Waverlyで、僕らはまず、ジン・リッキーを頼んだ。とてもきりっとした味わいで、旨さが際立つ。そして僕は、2杯目は「フィンラガン」という謎のアイラ・モルト(中身はカリーラかラガヴーリンらしいが…)を頂いた。連れ合いが2杯目に何を飲んだのか、正確には忘れてしまったが、たぶんショート・カクテル。 バーテンダーのIさんは大阪・高槻の出身。長崎に移ってきてもう5、6年経つといい、言葉も、最近では「長崎弁に馴染んでしまって大阪弁もあまり出てこんようになりました。久しぶりに大阪弁で喋れて嬉しいです」と笑っていた。 「いつか大阪へ戻って、店を出そうという夢はあるんですか?」と聞いたが、Iさんは「いやぁ、長崎が気に入ってしまって…。たぶん、こちらに骨をうずめるつもりです」と返した。そうだ、どこで暮らしても、バーテンダーであることには変わりはない。大阪出身のIさんが、長崎でお客さんを楽しませていることを僕らは喜ぼう。 ちなみに、その日はお休みで会えなかったが、Waverlyにいる女性バーテンダーSさんは、大きなコンクールで上位に入選するほどの腕前。去年の神戸で開かれたNBA(日本バーテンダー協会)の全国大会にも出場し、僕は、応援に来ていたオーナーのOさんや、バーテンダーのIさんとも会場で再会することができた。 どこの街を旅しても、馴染みのBARがあるのが理想だけれど、普通の人間にはそれは無理な話。でも、「共通の知人」を持つバーテンダーがその街にいれば、打ち解けるのに時間はかからないし、きっと、より楽しい時間が過ごせる。皆さまも、もし長崎を訪ねる機会があれば、ぜひBar Waverlyへお越しを。このBlogで知りましたと言ってもらえたら、たぶん話は通じると思うけれど…(笑)。【Bar・Waverly】長崎市船大工町3-18 グレイビル4F 電話095-827-5977 営業時間は午後7時~午前3時 第2&4日曜休
2005/08/26
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「鍵盤の皇帝」との異名を持つピアニストと言えば、オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson=写真左上)。1925年カナダ生まれ。1940年代末にデビューし、80歳の今日でもなお現役であり続ける稀有なピアニスト。 ピーターソンと言えば、超絶のテクニックを持つ早弾きで知られる。あの小曽根真をして、「落雷に打たれたほど感動した」と驚嘆させたという人。ただし、昨今の早弾きピアニストに見られるような、メロディラインそっちのけの粗い早弾きではない。一音、一音の音がクリアに聞こえる(「粒がはっきりしている」という形容も)早弾きであるのが凄いところ。 そして、ピーターソンのもう一つ特徴は、誰も真似できないスイング感。右手は単音よりも、ハーモニー(和音)で弾くことが多いが、そのハーモニーの動きが実になめらかにつながる。自由奔放に見せて、実は緻密な計算に満ちた演奏スタイルでもある。 ビル・エバンスが、僕にとってジャズ・ピアノとの出会いであり、「永遠の先生」であるとしたら、次に出会ったピーターソンは、僕がどんなに努力しても、たどり付けないところにいる「夢の巨匠」。オクターブ奏法で、あんな凄い16分音符や32分音符の連続は、僕はどんなに練習しても、死ぬまで絶対無理だろう。 親日家のピーターソンは70~90年代にはよく来日して、テレビにもよく生出演してくれた。そして、まだジャズにさほど興味のなかった僕も、時々、その超絶テクニックが繰り出される演奏を見て、「何であんなに指が早く動くの?」と目を丸くした記憶がある。 僕が初めて出会ったピーターソンは、たぶん、他のジャズ好きの人もそうであったように、アルバム「プリーズ・リクエスト」(原題は「We Get Requests」。1964年発表=写真右上)。今ではジャズ入門者の定番アルバムにもなっているが、「酒とバラの日々」「マイ・ワン・アンド・オンリーワン」「イパネマの娘」などスタンダード・ナンバーの、聴きやすい名曲ばかり。 次に聴いた「ナイト・トレイン」(写真左中)というアルバムでは、「バグズ・グルーブ」「Cジャム・ブルース」というブルースの名曲も聴かせるが、何と言ってもあの「ジョージア・オン・マイ・マインド」に魅せられた。今でも、「ジョージア…」のピアノ・トリオ演奏では僕は、このピーターソンのをNo1に挙げる。 その後、1968年に発表したアルバム「ガール・トーク」(写真右下)は、2つのトリオによる名演を収めた素晴らしいアルバム。華麗なテクニックと、ノリノリのスイング感は、はや円熟の域に達している(62年に発表した「ウエストサイド・ストーリー」も今なお人気の名盤)。長いキャリアを持つピーターソンだけれど、僕はやはり、60年代が一番生き生きしていたかなぁ…という気がする。 ピーターソンの演奏は冒頭にも書いたけれど、その技術的レベルからしても、ジャズ・ピアノ初級者の僕には手には負えない。エバンスのコピーには挑戦した僕だが、右手も左手も、和音が目白押しのピーターソンの真似は、ちょっと無理だとハナからあきらめている。 ピーターソンは93年に脳溢血で倒れて、3年ほど演奏活動から遠ざかった。復帰後も、車椅子での弱々しい姿を見たので心配していたが、去年9月にはウイーンでのライブDVD(写真左下)を発売。さらに翌10月には、久々の来日公演もしてくれた(しかし、この来日ライブを見た人の話では、全盛期と比べるとパワーや指の動きの衰えは隠せず、見るのも少し辛かったという)。 それでも、ピーターソンがジャズ音楽に残した功績は偉大で、不滅だ。ことし80歳で、体も不自由な彼に、もう過大な期待をするのは酷だと思う。ピーターソンのこれまでの功績を考えれば、もうゆっくり悠々自適の余生を送ってもらっても、僕は何の文句もないのだが…。
2005/08/24
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ブログを始めてもうすぐ9カ月になる。そこでブログのマナーということについて、少し考えてみる。ブログという匿名の、バーチャルな世界においても、「最低限のマナー」は必要だと思う。 基本的には、自分自身が気分を害するようなことは、他の人にもしてはいけないということだと思っている。じゃぁ「自分が人にしてはいけないと思っていること」「他人にしないように普段気を付けていること」は何かということだが、例えば以下のようなこと。 1.初めて他人の方のブログに書き込みする時は、必ず最初に「初めまして」と挨拶すること。「他人の家にお邪魔する」のと同じだから、言葉の表現は「初めまして」でなくともいいけれど、挨拶らしき文言を入れるのは、当然のマナーだと思う(いきなり、挨拶も抜きで馴れ馴れしい書き方をして、本題から書き込みするのは論外だろう)。また、2度目以降の書き込みであっても、最初に「こんばんは(こんにちは)」くらい書いてから本題に入るのは最低限のマナーだと思う。 2.逆に、初めてコメントを書き込んでくれた方には、必ず「ご訪問&書き込み有難うございました」と返信すること。 3.コメントを書き込んでくれた方には、可能な限り、48時間以内に返事のコメントを入れること(旅行や出張のためできないこともある。ならば、あらかじめそのように予告すること)。 4.トラックバックを入れる時は必ず、相手に一応断りを入れること。黙って入れることはしない。また、テーマと関係のないトラックバックなどはしない(日記を「リンク」させてもらう時も同様に、必ず「リンクさせていただきました」と相手に伝えること)→下記の【追記】ご参照。 5.「引用する」場合は、可能な限り、原則として出典を明記すること(あまり長い無断引用は、著作権法違反に問われることもあるから)。 6.ブログ仲間などから聞いた情報(固有名詞=人名、店名やプライバシーに関することなど)を、その仲間の了解なく書かないこと。オフ会の場との「線引き」は、必要だ(店側やご本人がWEB上で積極的に情報公開している場合は別ですが…)。 7.最後に一つ。これは僕自身のポリシーだが、原則として政治と宗教と商売がらみ(「**を買ってください」とかは…、ネット・オークションでやればいい)のことは、僕のブログではNGにしている。僕のページは、あくまで趣味的なことに限ってやりたい。その方が、ブログで仲良くなった人との関係が長続きすると信じているから。 幸い、僕がブログを「リンク」させてもらっている(あるいは「リンク」してくださっている)方々には、これまでそういう失礼な人はいない。みんなマナーのいい、素晴らしい方ばかり。ただ、初めて訪れてくる方には時々、マナーをあまり知らない方に出会うから悲しい(そういう場合、きちんと返事のコメントをすべきなのだろうかと、いつも迷う)。【追記】この一文を書いてからもう3年以上になるけれど、いまだに初めてコメントを書き込みする際、挨拶もなくいきなり本題から書く人がなんと多いことか。6~7割の人がそうだ。なかには馴れ馴れしいタメ口のケースもある。悲しいというか、嘆かわしい。ブログの世界に参加したいのなら、まず最低限のマナーを身に付けるべし。(2009年1月記) 今後もWEB上で、いろんな出会いがしたいから、あまり堅苦しいことは言いたくない。友好的で、素晴らしい関係を長く続けるためにも、僕は、上記の7項目は今後も守るつもり。願わくば、僕のブログをこれから訪れてくれる方にも、そう願いたいのだけれど…。【追記】現在、トラックバックは内容を見たうえで受け付けています。ご了承ください。【追記20100801】2010年8月からコメントならびにトラックバックの受け入れは中止しています。悪しからずご了承ください。【追記20110901】楽天ブログでは現在、トラックバック自体が廃止になっています。
2005/08/22
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木曜の夜、たまたまテレビを見ていたら、渡辺徹と水野真紀が司会をしている「魔法のレストラン」(たぶん関西ローカル=毎日放送=だと思うので、関西以外の方はごめんなさい)という番組で、僕の大好きなお寿司屋さんのご主人が紹介されていた。大阪・北新地のMさん。 Mさんの店「M・I」は、北新地エリアのほぼど真ん中にある。僕は5年前のオープン以来、しばしばお邪魔している。お寿司屋さんもこれまであちこち経験したが、この「M・I」が気に入ったのは、(1)ネタにひと工夫(こだわり)がある(2)アイデアあふれる珍味が凄く旨い(3)Mさんの話も面白いし、店員さんの接客もいい(4)ネタの良さを考えると、お値段がとても良心的で満足度が高い――という4点が主な理由。 連れ合いとはここ数年、年に1~2度はこの「M・I」で、腹一杯美味しい寿司をお好みで握ってもらうのを楽しみにしている。普通のネタももちろん旨いのだが、いつもは「お任せ」にする。お任せにすると、Mさんの創意工夫あふれる、びっくりするような握りが、次から次から出てくる。 マグロの頬肉、血合い肉、タイの皮、生アナゴ、イカのえんぺら、焼き白子、パセリ&新香、炙り大根と柚子、山ゴボウ……と、レパートリーは書ききれないくらい自由自在。Mさんによれば、創作ネタはその数50種以上。「こんな握りがあるの?」なんて、至福のネタのハーモニーが満喫できる(写真左=「M・I」の外観)。 Mさんは、もともと大阪・福島の有名なお寿司屋さんで名物料理人だったが、体を壊してしばらく休職。快復後の2000年1月に独立し、カウンター10席の、この「M・I」を開いた。雑誌などでほとんど宣伝もしなかったが、その味と技の素晴らしさが口コミで評判を呼び、北新地でもMさんの名は徐々に知られるようになった。 握りも旨いが、僕らはMさんとっておきの「箸休め」の一品も、いつも楽しみにしている。普通の店なら捨ててしまうような魚や野菜の部位を、Mさんはひと工夫を加えて、絶妙な珍味にして出してくれる(時には、「まだ試作品やから」とサービスも!)。 イカの肝、煮抜き玉子、キュウリの皮、ワサビの茎なんて部位が佃煮などに変身する。他にも、普通なら食べない種類の魚の皮、ウロコ、卵巣、肝、胃袋なんてゲテものを、焼いたり、揚げたり、煮付けたり…、見事な酒の肴に創りあげてしまう(写真右=「M・I」の店内)。 気になるお値段の方だが、寿司を腹一杯食べて、2人で瓶ビール1本&お酒(お銚子)4本を飲んで、だいたい計2万5千円が目安。新地の高級寿司屋に行くと、1人最低2万~3万円はするというから、満足度を考えると、とても良心的なお値段だと僕は思っている。 Mさんはことし還暦という。そして番組では、Mさんに20代の息子がいて、将来「M・I」を継ぐべしの予定で、現在別の店で修業中であることを紹介していた。Mさんも「(近い将来)息子と一緒に店がやれるのは楽しみ」と話していた。 Mさんの技とセンスとトークが、息子さんに受け継がれていけば、僕にとってもこんな嬉しいことはない。「M・I」は、僕にとっては、ほんとは教えたいくない店の一つだが、テレビに出てしまった以上は仕方がない。あ~あ~、小さな店なのに、当分は混んで席がとれなくなるだろうなぁ…。
2005/08/20
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夏ということで、ビールの話題を。ウイスキーに比べて、さほど銘柄にこだわりのない僕だけれど、やはり好きなビールはある。 まず我が家でいつも一番よく飲んでいる定番ビールは、サントリーのモルツ(写真左上)。そして時々、キリンの「一番搾り」の生。これは一応、あの家庭用の生ビール・サーバーで注ぐ(先日も友人6人を招いた我が家の宴会でも、活躍してくれました)。 別にアサヒやサッポロのビールが不味いなんて全然思わない。むしろ、アサヒの「スーパードライ」やサッポロの「黒生」なんて、日本が世界に誇る素晴らしいビールだと思っている。モルツを第一選択として飲むのは、「長年の慣れ親しんだ味」という以外に理由はない。 さて、では外では何を飲むかということなると。選べる店ではこだわりがある。昔はバドワイザーやハイネケンも好きだったのだけれど、最近は、カールズバーグ(写真右上)かバス・ペールエールが多い。時々、キリンのハートランドや、ニュー・キャッスル・ブラウンエール(英国)も飲むけれど、これは置いている店が少ない。 カールズバーグは、1847年創業のデンマークの伝統あるビール。「下面発酵」(下記の注ご参考)タイプ・ビールだが、独特の酵母培養技術で爽快な喉越しとコクを併せ持つラガー・ビールを生み出し、世界的な人気を集めるようになった。今日では、なんと世界40カ国に生産拠点を持つ、ワールドワイドな銘柄である(現在では日本のS社も資本参加し、生ビール・タイプも販売している)。 その日の気分にもよるけれども、カールズバーグのあるBARでは、まず迷わず、これを頼む。次によく頼むのが、英国生まれのバス・ペールエール(写真左下)。これも最近はBARによっては、缶ではなく、生タイプを置くところも増えてきたのが嬉しい。そんな店では、もちろんバス・ペールエールを飲む。 エール・タイプのビールだから、赤茶色をしていて濃厚な味わいだけれど、ギネスのような苦みはほとんどない(「ペール・エール」とは「濃い色のエール」という意味)。ひと頃の僕は、ギネスも好きでよく飲んでいたが、最近はあの独特の苦みが少し苦手になって、パブでは、バス・ペールエールか、キルケニーというもう一つのエール・タイプの生を頼むことが多い。 バス・ペールエールのバス社は1777年の創業というから、カールズバーグよりも歴史は古い。醸造所はイギリス中部のスタッフォード州にある。バス・ペールエールは、カールズバーグとは違って「上面発酵」(下記の注ご参考)タイプ。芳醇な酸味とカラメルの風味を併せ持ちながら、キレも良い絶妙の味わいが特徴だ。 さて、そこで現時点で僕が一番好きなビールの話に変わるが、その銘柄とは、残念ながら、日本のBARやPUBではなかなかお目にかかれないので、いつも悔しい思いをさせられる「ブルックリン・ラガー」(写真右下)。 ブッシュが大統領になってからのアメリカは昔ほど好きになれないが、このブルックリン・ラガーに対する愛情は変わらない。初めて飲んだのは、6年ほど前の徳島のBAR「F」(いまはもうないが)。地方都市だから、おそらく「F」のマスターのこだわりだったのだろう。ただし、入荷する時としない時があって、飲めたらラッキーという感じだった。 「ブルックリン・ラガー」の誕生は1988年、その歴史は意外と新しい。禁酒法(1920~1933)が施行される前、ビール醸造の中心地だったニューヨーク・ブルックリンの伝統の味を蘇らせたいという2人の事業家が造り出した。「ブルックリン・ラガー」は、翌年のテイスティング・コンテストで1位になり、その名は一躍全米で知られるようになったという。 ブルックリン・ラガーの特徴は、発酵、醸造の時間を通常の2倍かけた、まろやかな味わい。ラガー・タイプだが、色は赤茶色でエールっぽい。喉越しはクリアで、フルーティーさもあって、爽快だ。 これまでに飲んだビールの「ベスト1は何?」と聞かれたら、(個人的な好き嫌いなので申し訳ないが)僕はやはり、この「ブルックリン・ラガー」と答えてしまう気がする。残念なのは、日本国内ではこの銘柄を置いているBARやPUBも、取り扱っている酒屋さんも少ないことだ(まぁ、その希少価値がまたいいのかもしれないが…)。 しかし、今回ネットで検索してみると、通信販売している酒屋さんもいくつかあることがわかった。もしご興味のある方はぜひ一度、この「ブルックリン・ラガー」をお試しあれ(350ml入り瓶で320円~400円くらいで売ってます)。【注】下面発酵と上面発酵:「下面発酵」は、低温(6~15度)で酵母を発酵させる製法。すっきりした味わいになる。タンクの底に酵母が沈降することから、こう呼ばれる。19世紀以降、ビール造りの主流。これに対して常温(18~25度)で発酵させるのが「上面発酵」(酵母が浮上し、液面に酵母の層ができる)。フルーティな味わいが特徴で、英国では今もこの製法のビールが多い。
2005/08/18
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スコットランドには、モルト・ウイスキーの蒸留所が約100カ所ある。蒸留所が違えば、原料の大麦も仕込み水も、蒸留釜の形も違うし、職人の流儀(造り方)も微妙に違う。だから、蒸留所の数だけモルトには個性があると言っていい。 ボウモアのようなアイラ系でもないし、マッカランのようなシェリー系でもないし、あるいはマッカラン以外のスペイサイドのモルトでもない。そんな不思議な味わいモルト・ウイスキーもある。スキャパ(SCAPA)はそんなウイスキーの一つ。 スキャパ蒸留所は、イギリス本土ではなく、スコットランドの北、北海に浮かぶオークニー島という辺鄙なところにある。その名は、バイキングの言葉(ノース語)の「貝床(オイスター・ヘッド)」に由来するという。最近は、スコットランドの蒸留所を訪ねる日本のバーテンダーも多いが、オークニー島まで行ったという人は数少ないだろう。 アイランド(島)系のモルトだから、当然、潮の香やスパイシーさもある。しかし、麦芽系やバニラ、ラム・レーズンのような香りも残しつつ、味わいはどこかオイリーな雰囲気もある、とても複雑な酒(写真左上=オフィシャルの12年ボトル。濃いゴールドっぽい琥珀色が特徴だ)。 そんなモルトのことを思い出したのは、昨日、徳島から遊びに来た友人と飲んだ際、彼が「家の近所に最近、『SCAPA』という名前のBARが出来た」という話をしていたから。スキャパは、BARで時々頼むけれど、たまに飲むと、なかなか忘れがたい印象を残してくれるモルト。 スキャパの創業は1885年。もちろん、それ以前にこの島に住み着いたノルウェーのバイキングの子孫たちが、密造酒を盛んに造っていたというから、ウイスキーづくりの下地はあったのだろう(写真右=スキャパ蒸留所遠景 =Suntory社のHPから。 大戦中は英海軍の宿舎にも使われたという)。 オークニー島にはもう一つ、「ハイランド・パーク」という有名な蒸留所もある。しかし、同じ島でも二つのモルトの性格は全然違う。シェリー系の風味が特徴の、優しいハイランド・パークに比べて、スキャパはバーボン樽熟成で、華やかなピート香が効いていて、どちらかと言えば荒々しく、男性的。 スキャパ蒸留所のもう一つの特徴は、その蒸留釜の形。ネジクギの天地を逆さにしたような「ローモンド・スチル」という特殊な形状で、これが「オイリー」と評される個性的なモルトを生み出す理由だという。 スキャパは長く、バランタインのブレンド用モルトしか出荷せず、シングルモルトとしてオフィシャル販売はなかった。しかし97年に発売された「12年もの」のオフィシャル・ボトルが愛好家の人気を集め、その後は生産本数は少ないながらも、一応きちんと市販されている(最近では、フルタイム操業を記念して、「14年もの」のオフィシャル・ボトル=写真左下=も発売された) 徳島の友人の話では、そのBAR「SCAPA」ではモルトの品揃えも充実しているという。「SCAPA」と名付けたからには、マスターはおそらく「SCAPA」に何らかのこだわりを持っているのだろう。これは次回、徳島を訪れた際には、ぜひ酔っぱらう前に覗いてみなければならない。
2005/08/16
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ミステリー・ファンの僕が、最初に出会った作家は松本清張(写真左上 (C )松本清張記念館HPから)だった。今は亡き父も推理小説ファンだった。とくに清張が好きだったらしく、本棚には新書版の清張の作品が何冊かあった。それを時々、小学生の頃から黙って読ませてもらっていた(もちろん、小学生には理解できない難しい部分もあったが、それはそれなりに面白かった)。 最初に読んだ作品は、おそらく清張ファンならベスト5に必ず推すであろう「点と線」(1958年発表=写真右上)である。列車の時刻表(ダイヤ)が小説(事件)の謎解きの鍵となるこの作品は、発表されるやいなや、たちまちベストセラーになり、社会派推理小説ブームが巻き起こった。 清張は明治42年(1909)、北九州・小倉の貧しい家に生まれた。尋常高等小学校を卒業後、15歳で、家計を助けるために就職することになる。そして昭和12年(1937)、28歳で朝日新聞九州支社に広告版下の仕事を得るまでは、小倉の小さな印刷所で働いた。 いつ頃から創作への情熱がわき起こってきたのかは、僕はよく知らない。知る限りでは、41歳のとき、「西郷札」という作品で、週刊誌の懸賞小説に応募し、三等に入選したのが名前が登場した最初。 その後、朝日新聞在社時代の昭和28年(1953)、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞する。この「或る『小倉日記』伝」は、その後の作風を暗示させるかのようにミステリーっぽいタッチの作品で、「直木賞の方がふさわしかった」と言う文芸評論家が多かったという。 3年後、清張は朝日新聞を退社、本格的に作家の道を歩み始めるが、このとき47歳。作家としては遅咲きだった。しかしデビューの遅れを取り戻すかのように、清張は「眼の壁」「黄色い風土」「ゼロの焦点」(写真左下)「砂の器」などのベストセラーを次々と生み出していく。「ゼロの焦点」や「砂の器」など話題作は、何度か映画やテレビドラマにもなった。 清張の推理小説は、トリックに凝る最近流行の作品とは少し違う趣を持つ。トリックよりも、登場人物の生い立ち、性格、心の内に秘められた思いなどをしっかり書き込むことに、真骨頂がある。主人公や犯人は、社会的弱者であることも多かった。おそらくは清張自身の不幸な生い立ちを映しているに違いない。 清張のもう一つの凄さは、好奇心と探求心あふれるその幅広い作家活動である。推理小説以外にも、「日本の黒い霧」では政治に潜む闇を描き、「昭和史発掘」(写真右下)では2.26事件、下山事件など現代史に残る事件の謎に迫った。さらに、「古代史疑」では、独自の視点で邪馬台国など古代史の謎に取り組んだ。 いわゆる「学歴」というものには無縁だった清張。しかしデビュー後は、「学歴なんて、創作活動には関係ない」という反骨心で、有無を言わせぬ緻密な作品を創り上げていく。歴史研究では持ち前の探求心と努力で、専門家からも一目置かれる存在になった。その創作活動は、92年に82歳で亡くなるまで、終生ペースダウンすることはなかった。 休むことなく作品を生みだし続けた多作の作家が、生涯に発表した作品は千篇を超えるという。「国民的作家」と言えば、夏目漱石、井上靖、司馬遼太郎…と、思い浮かべる人はそれぞれだろうが、社会派推理から実録もの、歴史・考古ものまで幅広くこなした松本清張こそ、僕は国民的作家にふさわしいと思っている。 生まれ故郷の小倉には98年、松本清張記念館がオープンした。館内には、清張の東京の自宅書斎が移築され、再現されているという。清張ワールドに浸りたい方はぜひ一度お越しください(そう言う僕は、まだ訪れていません。すみません)。
2005/08/14
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カタカナまたは英語で、ハッピーエンド(Happy End)と言えば、映画やドラマで安心できる、嬉しい終わり方。では、ひらがなで「はっぴいえんど」と書けば、貴方は何を連想する? 僕が想い浮かべるのは、1970年代の伝説の和製ロックバンド「はっぴいえんど」しかない。「日本語はロックにならない」という既成概念を初めて覆した4人のロッカーたち。活動期間はわずか2年余と実に短く、それ故に、今なお伝説のバンドとして根強い人気を保っている。 「はっぴいえんど」が偉大なのは、日本の音楽シーンに残した功績だけではない。解散後の4人の活躍、そして30年以上経った後も、4人が若いミュージシャンに与え続けるさまざまな影響など数え切れない。 メンバーは、細野晴臣(ベース、1947年生まれ)、大瀧詠一(ギター、1948年生まれ)、鈴木茂(ギター、1951年生まれ)、松本隆(ドラムス、1949年生まれ)。4人は作詞、作曲も自分たちでこなした。そして、洋楽のコピーから脱した彼らの斬新な音楽を聴いて、次世代のミュージシャンが育っていった。 はっぴいえんどの影響を受けて、和製ポップ・ロックの道を究めていったミュージシャンは、例えば、山下達郎、矢野顕子、大貫妙子、竹内まりや、松任谷由実、山下久美子…。他にも挙げきれないほど(写真右=はっぴいえんど。左から細野、大瀧、鈴木、松本。長髪が時代を映します)。 1970年8月のデビュー・アルバム「はっぴいえんど」(写真左上)は衝撃的だった。それまで日本のロック・ミュージシャンは、横文字(英語)の歌詞でしか歌わなかった。日本語は歌謡曲、演歌かフォーク・ソングのものというのが一般的な認識だった。そのロックのリズム、メロディーを日本語に載せて、はっぴいえんどは歌った。 一部の専門家からは高い評価を受けた。しかし、彼らの音楽が一般的な支持を得るほど、まだ日本の聴衆は成熟していなかった。翌年の1971年11月に出したセカンド・アルバム「風街ろまん」(写真左下)も、さらに高い評価を受けた。このアルバムからは「風をあつめて」「抱きしめたい」などのヒット曲も生まれた(「風をあつめて」はCMで使われたり、玲葉奈という女性歌手が数年前、カバーしてちょっと話題になった)。 しかし、それでも大衆的な人気というまでには至らず、73年2月、3枚目のやや実験的なアルバム「HAPPY END」(写真右下)を出して、バンドは解散する。この最後のオリジナル・アルバムは、米国の有名なプロデューサー、ヴァン・ダイク・パークスを迎えて製作され、ロック・ミュージシャンの間では評価が高い内容だったが、セールス的には成功とは言えなかった。 僕は、生はっぴいえんどを一度だけ聴く機会があった。1972年4月7日、今はなき大阪・高島屋ホール。「風街ろまん」を出して間もない頃で、コンサートでも「風街…」からの曲が中心だったが、大好きな「12月の雨の日」も演奏してくれた。バンドとして最も充実していた時期のはっぴいえんどが聴けたのは、幸運だったと言うしかない。 バンド解散後、細野はしばらくソロ活動をしていたが、78年、坂本龍一、高橋幸宏と組んでYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成、テクノとロックとポップスを融合させたような斬新な音楽で、世界的にも成功をおさめた。そして現在でも、プロデューサーとして、日本のポップ音楽のご意見番として活躍している。 大瀧はソロ活動と平行して、CMソング(三ツ矢サイダーなど)も数多く手がけ、他のミュージシャンにもさまざまな曲を提供した(松田聖子の「風立ちぬ」、ラッツ&スターの「夢で逢えたら」等々。森進一に「冬のリビエラ」を歌わせた時はびっくりしたけれど…)。 松本は、解散後は作詞家として独り立ちし、松田聖子、太田裕美、アグネスチャンらに詞を提供。数々の賞も獲り、今なお売れっ子作詞家の1人である。唯一、鈴木だけは主にソロ活動を貫き、その後大きく脚光を浴びることはなかったが、75年に出したソロ・アルバム「バンド・ワゴン」は、専門家だけでなく一般のロックファンからも高い評価を受けた。 はっぴいえんどは1985年に、国立競技場で一夜限りの再結成コンサートを開いた(ついこの間のことのような気もするが、もう20年も前か…。一応、ライブ・アルバムにもなってます)。ゲストにはユーミンら彼らを慕うミュージシャンが数多く集まった。 解散の原因はけんか別れでもなく、元々違っていた4人の音楽性が、3枚のアルバムづくりで煮詰まってしまっただけ。4人とも今も仲がいい。60代にさしかかろうとする彼らが今集まれば、どんな音を紡いでくれるかとても興味深い。だれか仕掛けてほしいなぁ。はっぴいえんどの32年ぶり、4枚目の「スタジオ録音アルバム」を…。
2005/08/12
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社会人になって最初に赴任した土地は、北陸の金沢だった。かつての加賀百万石の城下町にして、加賀友禅、金沢金箔、九谷焼など伝統工芸に彩られた文化の香り漂う都市。初めて暮らす雪国に、僕はロマンチックな期待に胸を膨らませて、大阪から特急「雷鳥」に乗った。 金沢は北陸地方の拠点都市。空襲を受けなかったおかげで、藩政時代の古い街割りが今もかなり残る。大きなデパートも2軒あり、心配していた映画館も少ないながらも何軒かある。食通を唸らせる海・山の幸にも不自由はない。人口は約40万人(当時)。街の規模としては、人間的な暮らしができる適正な大きさだった。 それから5度の冬を、金沢で過ごした。自然は時に厳しい顔を見せる。2年目の冬は、ひどい豪雪の年となった。国道(北陸自動車道はまだなかった)は閉鎖され、北陸線は1週間も運休する前代未聞の事態になった。新聞も届かない中、僕は毎朝、雪に埋もれた車を掘り出して、出社した(写真左=倫敦屋の最近の外観。昔とはだいぶん変わったような気もする)。 冬の北陸は、暮らしたことのある方ならお分かりだろうが、11月から2月までの4カ月間は、暗い鉛色の雲が低くたれ込めて、晴れ間が覗くことがほとんどない。雪国が好きになって、最初の頃は雪が、冬が嬉しくて仕方がなかった僕でさえも、時折、気が滅入るほどの陰鬱な季節…。 そんな僕が、お酒を覚えたのもこの金沢だった。仕事がうまくいかなかったり、上司に怒られたりして、落ち込んだとき。1人暮らしの僕は、心の癒しを求めて、酒場で時間を過ごすことが多くなった。飲むときは、同僚や、付き合いのあった同業他社の友人と一緒ということが多かった。 今の僕を知る人は信じられないだろうが、社会人になりたての頃の僕は、ビール、コップ1~2杯が限界だった。それが夜の付き合いで鍛えられていくうち、もう少し飲めるようにはなってきた。 ウイスキーというものを、本格的に飲み始めたのもこの金沢だ(ただし金沢にいた間は、水割りばかりだったが…)。なかでも、会社から歩いてそう遠くない、「倫敦屋」というBARにはよく通った(写真右=倫敦屋の店内カウンター席。ここで同僚や他社の友人らと議論をたたかわせた)。 北陸の拠点都市と言っても、70年代後半の頃、金沢にオーセンティックBARなど数えるほどしかなかった。倫敦屋は1969年の創業。数少ない金沢の本格BARのなかでも、最も落ち着いた雰囲気の、こだわりのある上質の空間だった。1人で行っても、グループで行っても心地よく飲める酒場だった。 倫敦屋の「こだわり」は、酒の品揃えにも現れていた。いま振り返れば、バック・バーにはシングル・モルトもたくさんあった。樽詰めのウイスキーも飲めたように記憶している。当時としては、地方ではきわめて珍しいBARだったろう(しかし、残念ながら僕はその頃、モルトにまったく興味はなかった)。 また、僕はお会いしたことはなかったが、作家の山口瞳氏(故人)もお気に入りで、金沢を訪れると、必ず立ち寄ったという。その縁なのだろう。倫敦屋のコースター(写真左)は、山口氏の友人のイラストレーター・柳原良平氏が描く、あの「アンクル・トリス」が描かれている。 聞けば、現在の倫敦屋は当時のマスターの息子さん・Tさんが継いでいて、店も従来の倫敦屋のほか、「アイリッシュパブ倫敦屋」、イタリアン居酒屋の「ペッシュ倫敦屋」という2軒を併設するなど発展しているという。 Tさんは、金沢ではちょっと知られた名物バーテンダーとか。「心の名医」と自称して、ローカル月刊誌上で、人生や男と女の珍問・奇問に軽妙洒脱に答える連載を持ち、連載は「世紀の二枚舌」というタイトルで本にまでなっているという。 金沢を離れて、もう随分時間が経つ。近いうちに、久しぶりに「倫敦屋」を再訪し、昔、同僚や友人らと議論をたたかわせた、あのカウンターにたたずんでみたい。【倫敦屋】金沢市片町1-12-8 電話076-232-2671 JR金沢駅からタクシーで約7分、片町交差点下車すぐ。不定休(日曜、祝日でも営業していることが多いので一度電話を)。
2005/08/10
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いま話題のドイツ映画「ヒトラー~最期の12日間~」を観に行ってきた。映画はタイトル通り、ドイツ帝国(ナチス)の総統であったアドルフ・ヒトラー最期の日々を、個人秘書だった女性トラウドゥル・ユンゲの目を通して描いたものだ。 大阪では7月30日から公開された。ただし、ややマニアックな性格の映画ということもあって、市内でもわずか1館だけの上映。それも、梅田から徒歩で20分以上もかかる場所にある、「梅田ガーデンシネマ」という客席約200ほどの小さな映画館。 僕は、夏期休暇をとった平日、午後1時からの2回目の上映を観ようと出かけたのだが、15分前に行くと、何ともう「満席」の表示が(こんなに入りがいいのなら、もっと上映館を増やせよー)(写真左=ヒトラー役のブルーノ・ガンツが凄い! 仕草も喋り方もまるで生き写しです)。 券売所に聞くと「立ち見券」ならあるとのこと。映画は2時間半もの長編。4時からの次の回にしようかと迷ったが、3時間も時間をつぶすあてもなく、覚悟を決めて立ち見券を買った。 ヒトラーはドイツ国民にとっては、忘れてしまいたい存在。ナチスの時代は負の歴史であり、誰も触れたらがらない。だから、映画で人間ヒトラーを描くなんてタブーで、これまでは誰も考えなかったという。それが今回、オリバー・ヒルシュピーゲル(監督)と、ベルント・アイヒンガー(プロデューサー&脚本)という勇気ある2人によって、映画化された。 映画は、ヒトラーが亡くなるまでの2年半、秘書だったユンゲの回想録など残された歴史的資料に基づいているうえ、全編ドイツ語でやってるが故、リアリティにも溢れる(ハリウッド映画なら、「アマデウス」のように、英語のセリフにしてリアリティを台無しにしただろう)。 秘書や愛人にはとても優しい半面、側近や部下には病的に怒鳴りまくるヒトラー、晩年パーキンソン病をわずらい(僕は、初めて知った事実)、左手が震えるヒトラー…、ヒルシュピーゲル監督は、そんな独裁者を美化することなく、出来る限り史実や証言に忠実に、一個の人間として描いている。 映画に登場する場所は、ほぼ二つだけ。ベルリンの首相官邸地下の地下要塞(司令部)と、ソビエト軍の侵攻で陥落寸前のベルリン市内。地下要塞にはヒトラーを始め、側近の閣僚、愛人のエヴァ・ブラウン(写真右の左端。エバはヒトラーと運命を共にした)、そして女性秘書のユンゲらがいる。 暗い地下で、ドイツ帝国崩壊のドラマは淡々と進んでいく。敗北を確信して逃げる者、裏切る者、ヒトラーが死んでもなおナチスに殉じる者…、側近たちの人間心理劇はとても興味深い(ちなみに、1945年の首都ベルリンのシーンは、ロシアのサンクトペテルブルグで撮影され、ドイツ兵士役のエキストラはロシア人がつとめたという。これも歴史の皮肉)。 現代では、ヒトラーは「変人」「狂人」「怪物」というイメージで語られることが多い。ユダヤ人を600万人も強制収容所へ送り、虐殺したのだから、当然と言えば当然かもしれない。しかし、そんなヒトラーを熱狂的に支持し、合法的な選挙で首相に選んだのは普通のドイツ国民だった。 彼が本当に「狂人」であったのなら、1933年から終戦まで、12年間も国のトップであり得たはずはないだろう。彼を支持した国民。そして、彼を「怪物」に仕立て上げていった側近たちの存在があってこそ、ヨーロッパを恐怖に陥れることができたのであろう(写真左=秘書を演じたのはアレクサンドラ・マリア・ララという女優さん。清楚な美しさに溢れていた)。 そういう意味では、我々もいつ同じような過ちを犯すかもしれない。「ヒトラーは過去の存在だ」「極めて例外的な人物だったのだ」と単純に考えるのは極めて危険なことだろう。ヒトラーの登場を熱烈に歓迎したのは、きっと善良な父や母であった人間だったのだから。 ユダヤ人の大量虐殺について秘書のユンゲは、「戦後のニュルンベルグ裁判まで知らなかった」と語る。イスラエルのメディアは、この映画が強制収容所のことにほとんど触れていない点を批判する。ただ、そうした部分が少なかったとしても、なぜヒトラーという怪物が存在し得たのかは、我々の理解を十分助けてくれる。 映画は、冒頭とエンディングに、晩年に録音されたユンゲの独白を入れて、終わる。「怪物の正体を知らなかった自分を今でも許せない」「若さは無知の言い訳にはならない」と。そうした構成にした点はおそらくは、監督やプロデューサーの良心であり、未来への誓いでもあろう。 ドイツ映画なんて観るのは本当に久しぶりのこと。だが、ハリウッド映画にも負けない(いや、ハリウッドを凌ぐ)完成度の高い映画である。ヒトラーを見事に演じきったブルーノ・ガンツには、ただただ称賛の言葉を贈るしかない。機会があれば、ぜひ一見をお勧めしたい。
2005/08/06
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スティービー・ワンダー(Stevie Wonder)と言えば、現代最高のシンガー・ソングライター、アーティストと言っていいだろう。盲目というハンディを感じさせないような素晴らしい歌と曲づくりの才能。40年以上のキャリアの中で生み出された数々のヒット曲のなかには、今やスタンダードになったものも多い。 スティービーのもう一つの魅力は「We Are The World」や「LIVE AID」に見られるような、難民支援などのチャリティへの貢献。大きな救援イベントには、いつも彼の姿がある。目は見えなくとも、彼の視線は常に弱者に注がれている。それは、盲目というハンディに加え、黒人であるがゆえに偏見、差別と闘ってきた彼が、弱者の苦しみをよく理解していることの表れでもあろう。 1950年5月13日、米ミシガン州生まれ。生後まもなく保育器内の過酸素事故が原因で視力を失うが、天性の音楽的才能は、11歳の時、モータウン・レコードの社長ベリー・ゴーディに見出される。そして、2年後の63年、わずか13歳の時、「リトル・スティービー・ワンダー」という芸名で、アルバム「フィンガーティップス」(写真左上)でデビューする。 「フィンガーティップス」からシングルカットされたタイトル曲は、いきなり、全米チャートで1位になるという快挙を成し遂げた。その後も10代の間、「太陽のあたる場所」「アップタイト」「マイ・シェリー・アモール」などのヒット曲を放ち、スティービーは天才少年として注目を浴び始める。 しかしスティービー・ワンダーの名前はこの頃、まだ日本ではほとんど知られていなかった。スティービーの曲がブレークし、その存在が知られるようになったのはおそらく、73年、全米1位となったシングル、「スーパースティション(迷信)」が日本でもヒットしたのがきかっけだろう。 この「スーパースティション」を収めたアルバム「トーキングブック」(写真右上)と、続くアルバム「インナーヴィジョンズ」がともにグラミー賞を獲得。スティービー・ワンダーの音楽への評価揺るぎないものとなり、その名と音楽は、世界のすみずみまで知れ渡るようになる。 その後のスティービーの活躍は数え切れないほど。ポール・マッカートニーと共演した「エボニー&アイボリー」も全米で7週間1位となった。冒頭に記した「We Are The World」(USA for Africa)のほかにも、エイズ・チャリティ曲「愛のハーモニー」ではデイオンヌ・ワーイック、エルトン・ジョンらと共演。ことし8月の「LIVE8」では、フィラデルフィア会場のオープニングアクトをつとめた。 スティービーは日本にも70年代から何度も来日して、コンサートを開いているが、それほどビッグなアーティストでありながら、なぜか僕は、ごく最近まで「生スティービー」を観る(聴く)機会がなかった。そして念願叶って、昨年1月、大阪城ホールでのライブを観た(写真右下=85年発表のアルバム「イン スクエア サークル」。これも世界的に大ヒットしました)。 コンサートは過去のヒット曲中心の予定調和的なものだったが、何度も来日しているスティービーは、「ミンナ、アイシテマース」「オオサカ、アリガトウ」などと日本語も流ちょうに操りながら、優しい人柄もあって、楽しませてくれた(ただ、ピアノはほんとに弾いていたみたいだが、エレピは指を離して、自分で手拍子を打ちながら歌っていたときも音が鳴っていたので、たぶん事前の打ち込みかなぁ…)。 スティービーの曲では、僕は「レイトリー(Lately)」(80年発表=写真左中=「レイトリー」を収めるアルバム「Hotter Than July」)というバラードが一番好き。曲もいいが、歌詞もとてもいい。妻(あるいは恋人?)の心が最近、僕から離れていっているんじゃないかと疑い、苦悩する男の胸の内をうたい、しみじみとしていて、とても味わいある内容。 ピアノの弾き語りでは、僕はこの「レイトリー」のほかに、「サンシャイン(You are the sunshine of my life)」「心の愛(I just called to say I love you)」などを、よく歌うが、スティービーの曲は結構音域が広いので、メロディーはシンプルでも、素人には手強い曲が多い。 ちなみに、行きつけのBAR「M」でいつも僕のパートナーとして歌ってくれるSさんは、難曲の「オーバージョイド(Overjoyed)」がとても上手い。伴奏している僕が聴き惚れてまうほど(写真左下=スティービーを知るための1枚と言えば、このベスト盤がオススメ)。 歌や曲だけでなく、献身的で、誠実な人柄がゆえに、スティービー・ワンダーに僕は惚れ込む。今年4月には、10年ぶりのスタジオ録音の新作アルバム「A TIME 2 LOVE」を発表した。「原点回帰」というのがキャッチフレーズだが、常に進化し続けるスティービーだから、そこはひと味違う原点回帰になっている。ことし55歳という若さ、まだまだ活躍してくれそうなスティービーに乾杯!
2005/08/04
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法善寺横丁と言えば、大阪屈指の観光名所。織田作之助の小説「夫婦善哉」や故・藤島恒夫のヒット曲「月の法善寺横丁」の舞台としても有名だ。 名物の水掛け不動さん(写真左)の前には、きょうも、明日の幸せや商売繁盛を祈る人たちが絶えない。幅約3mの石畳の細い路地の両側に、料理屋がひしめき合い、大阪ミナミの、昔の風情を残す数少ない場所と言ってもいいだろう。 そんな法善寺横丁のほぼ真ん中にあるスコッチ・バー「タロー」は、カウンター10席ほどのこじんまりとしたオーセンティックBARだ。「タロー」なんて親しみやすそうな名前だが、横丁きっての老舗(確か60年代からの…)。店名にもなっているマスターの松田太郎さんと、息子の満夫さんが営むミナミらしい、居心地のいいバーである。 ところがご記憶かもしれないが、02年9月、法善寺横丁のすぐ北側にある道頓堀・旧「中座」で起きた火災のとばっちりで、「タロー」も含めて横丁の多くの店は類焼し、営業休止に追い込まれてしまった。さらに追い打ちをかけるように、03年4月にも原因不明の失火による火災もあった。 最初の火災の原因は、大阪ガスの下請け工事会社の工事ミスだった。だから補償でトラブることは少なかったが、燃えてしまった店舗を元のように建て直すには、建築基準法や消防法などの様々な制約が立ちはだかった。横丁の風情(路地)を残しつつ、火災に強い街にするにはどうすればいいのか。 大阪市は当初、消防車が入れるように横丁の道幅を広げ、両側はすべて耐火建築にするプランを示した。しかし、「道幅を広げたら、横丁の風情は失われてしまう」という批判が、市民や横丁を愛する有識者から相次いだ。(写真右=コースターにも茶目っ気あふれるタロー。マスターの似顔絵が…)。 法善寺横丁の昔ながらの風情が失われては、どこから観光客が来てくれるというのか。被災者(店主ら)と行政側の間で、長い間せめぎ合いが続いた。そして、住民と行政がお互い智恵を出し合った結果、道幅を広げるという最悪の事態は避けられた。建て直された建物は木造ではなく、鉄骨の耐火建築の集合ビルとなった。 集合ビルの外観は、昔の雰囲気を生かしたデザインにし、まるで一軒、一軒別々のお店が並んでいるように、設計も工夫がされた。これで、かつての風情はかなりよみがえった。法善寺横丁を初めて訪れた観光客ががっかりするようなことは(昔の横丁とは比べられないにしても)、まずないだろうと思う。 タローが再開したのは、ようやく昨年6月。僕は再開して間もなく店を訪れたが、火災直後はすっかり落ち込んでいたマスターと息子さんの笑顔を見て、ほんとに救われた思いがした(写真左=火災から立ち直った法善寺横丁)。 お邪魔したのは開店直後の比較的早い時間だったが、すでに常連客が何人もカウンターに並び、「よかったなぁ…」と再開を一緒に喜んでいた。大阪のBARは「店と客との距離が近い」とよく言われるが、なかでもこの「タロー」は、とくに「距離の近い」店のような気がする。 法善寺横丁がある限り、あの石畳の路地は残ってほしい。そして、スコッチ・バー「タロー」も、ずっと続いていってほしいと願うのは、僕だけではないだろう。皆さんも大阪においで際は、ぜひ「タロー」へお越しやす。【スコッチバー・タロー】大阪市中央区道頓堀1-7-10 電話06-6213-7488 日休 地下鉄御堂筋線なんば駅から徒歩5分(心斎橋駅からでも7、8分です) 午後4時開店&ノーチャージというのも嬉しい!
2005/08/02
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