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もうすぐ2月1日の午前4時になるところ。仕事に区切りをつけられるところに来たので、今日はこれでしまいにする。50号の作品を2点同時に制作しているが、そのうちの1点は『イヴの林檎』というタイトルをつけるつもりの裸婦像。ここ3日ほどそのモデリングをつづけている。すこしづつ肉付けしているのだが、一昨日も書いたとおりグリザイユでやっている。この方法で女性を描くと、男性を描く場合よりグレーの階調がものすごく幅広くなる。それだけにメリハリの利いた力強さを出すのがなかなか難しい。難しいけれども、おもしろい。 こうして苦労してグレーで描いて、その後、この上に色をかけてグレーで描いたものを消し去ってしまうのだから、もし他人がこの仕事を見たら「一体何をやっているんだ」と思うかもしれない。 そうだ、それで思い出した。アングルという画家を知っていると思うが、彼の制作過程を調べてみると、王や大司教などのように正装をしている肖像を描く場合、裸体のデッサンから始めていることがわかる。裸体の上に衣服を着せていくのである。じつはこれには合理的な理由がある。仰々しい衣服を着ると肉体の存在感が希薄になるので、衣服の下の関節の位置を明確にしておくことが大事なのだ。 私のいまの作業とは異なるが、要はすべてが作品という完結した世界を創るための過程なのである。 いきなり話を変えるけれど、私は昨年7月にこのブログを開始したのだが、当初、自分の日記を公開するということにいささか抵抗を感じていた。また他のひとのブログを訪ねてその日記を見るということにも、自分の日記を見られるより一層の抵抗があった。正直に言うと、随分下品なふるまいだなと思ったのだ。しかし協力者でホームページ開設に尽力してくれたシルフ氏が、訪問者には一応挨拶したほうがよいとアドヴァイスしてくれた。なるほどそれも尤もだ。で、特にコメントを残してくれた方々にはこちらからも伺うことにした。当然その方の日記を読むことになるわけである。まあそれでいろいろな書き方をしていることが分ったのだけれど、いわば私小説を発表しているのだろう。 私は書いていないが、このブログ形式には「秘密日記」という設定もある。野球の古田選手がその秘密日記を一冊の単行本にして公刊した。 不思議なメディアができたものだ。何かの箍(たが)がはずれて行くような気がしないでもない。どなたかこういう感覚について御意見をきかせていただきたいものだ。 頭が昂奮していてすぐには寝つけそうもないので、どうせならとインスタントのコーヒーをいれ、トーストしたパン一切れにチーズをのっけて、それを傍におきながらキーボードを叩いている。 他人の日記を読むということのついでに、手近の書棚にある『ゴンクールの日記』から1863年の1月31日を見てみようか。こんなことが書いてある。 「---人間の體って厭な機械だよ! と誰かが言った。 ---そんなことがあるもんか、非常に好く出来てるよ。 ---好く出来てるってか、おっしゃいましたね。しかし、若い時は君は随分ひどい健康だったように僕には思えるが。 ---おお、全くそうなんだ、若い時分はね。第一僕は皆の生活とは違った生活をしていたんだ。食物が悪く、十分じゃなかった。奇妙な元素みたいなものがあって、どんなに腹がへってる時でも食べたくなかった。それに色女を騙したという良心の呵責に悩まされていた。(以下略)」 このやりとりをしているのは、フロオベエルとサン=ヴィクトオルだそうだ。 次はジャン・コクトーの日記から。1942年、つまり第2次世界大戦下の2月2日。この日、コクトーは午後2時半に映画『幽霊男爵』のリハーサルをしている。そして--- 「美を視覚化するのは難しい。人々は美のカリカチュアしか見ない。」 「ドアのベルで呼ばれ、電話のベルで呼ばれ、事件で呼ばれる。いったい何時仕事をしたらいいのか。この文章を書く間にも三度も呼び出される始末。」 もうひとり、今度は弁護士の故正木ひろし氏の『夢日記』から。1968年1月30日。 「(略)私は柄の長い捕虫網をもっていた。少し離れたところに、モンキアゲハか、オビシロアゲハが飛んでいた。私は捕虫網を振った。入ったか、逃げたかわからなかったが、入っていた。私は逃げないように、網の外から胴をつぶした。パラピン三角紙に入れて、子供に持たした。綺麗な原野と蝶。成功した夢。」 まだまだ私の書棚には他人の日記がコレクションされているが、アッハッハ、私も他人の日記をのぞくのが好きというわけか!?
Jan 31, 2006
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つい先日完成した新作『アダムとイヴの婚姻』の発表について考えていたが、打診があったコンテンポラリー・アートの集合画集に掲載することにした。きょう正式に刊行決定の案内をもらった。『現代のアート』という書名で5月末に発刊するということだが、最初に公表する媒体として最も適当だろう。収録作品は絵画(平面)・立体・写真の3分野にまたがる。 いま描きはじめた2点の作品も発表したいところだが、収録作品は2月末までにほしいということなので、ちょっと間に合わない。この作品のうち1点は、技法的にまったく初めてのことを試みるので、自分自身ですこしドキドキしているのだ。しかしとにかく完成させなければどうしようもない。
Jan 30, 2006
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午後、おだやかな日射しなので画材店に出かけた。手掛けはじめた50号の2作の下地に純金の箔を貼るつもりだ。買い置きがなくなっていたのでそれを買うためと、ほかに発注しておきたい画材があった。 早春の日射しというほどではないが、おだやかで温かい。暑がりの私は、一足早いとは思ったが、スプリング・コートを着た。身のこなしが軽くなって、昇り階段も駆け足である。ちょいと百貨店を覗くと、小学生のランドセルがならべてある。7万円もする高級品まである。「エッ!」と思って、ざっと価格をみてみると、なんと平均して3万4,5千円くらいか。 そういえば弟のふたりの子供が、今年揃って大学生と中学生になる。毎年大晦日に一家で我家にやってくるが、過日は上のほうが一人で勉強しているとかでやってこなかった。ウーン、ふたりを祝ってやらなければならないんだな。新小学生の親御さんを心配ばかりもしていられないということか。 さて、金箔を貼るには、じつは今の季節はちょっと辛い。暖房を止めなければならないからだ。純金の箔というのはミクロン級の薄さであるから、室内に少しでも気流があるとたちまち舞い上がってしまい、そうなるともう手のほどこしようがない。もちろん箔を指でさわることはできない。一枚一枚特別な薄葉紙の間に挟まれているものを、竹製のトーングズ(大きなピンセットを想像してください)で、そっと扱わなければならない。 初心者は謄写版印刷用の蝋紙(原紙)に箔を移しとって使用すると失敗が少ない。もっとも余程おおきな老舗の文房具店にでも行かなければ、現在ではその蝋紙を入手できないかもしれない。純金箔は大変高価なので、初心者は銅箔や洋金箔などでコツをつかんだほうがよいだろう。 この箔というのは極薄いにもかかわらず、絵の具の塗りには随分影響するものである。箔と箔の継ぎ目に絵の具の段差ができ、それを解消しようと厚塗りにすると、こんどは箔の効果が失われてしまう。つまり箔を使用するときは、普通ならマイナスと思われることを逆手に取って画肌つくりの効果として発想する必要がある。 また、金属箔のなかでも純金箔というのはとてもインパクトが強い。ヘナチョコな彩色は負けてしまうのだ。初心者などは、せっかく高価な純金を使ったのに、使うのじゃなかったと云うことにもなりかねない。 私がいま手掛けている作品も、人体部分は純金に負けない存在感がある堅牢なものにするため、現在ではめったにやる画家がいないけれども、まずグリザイユでモデリングをしている。グリザイユというのは白から黒にいたる豊富なグレーの階調で対象物を表現する画法だ。この遊卵画廊の展示室に、グレーだけで人体表現をしている作品があるが、それがグリザイユの応用である。古典技法では、その上に透明絵の具で彩色するグラッシー画法とか、ローシエナとかバーントシエナなどでおつゆ彩色するカマイユ画法のためのアンダーペインティングの技法である。 私の場合は、かならずしも古典画法の踏襲ではなく、いわばその変奏的な応用である。要するに強く、密度のある人体モデリングをめざしている。 現代絵画では人体表現が、むしろ抽象表現にちかくなっている。その分野を写真や映像メディアに「おまかせ」したためであろう、と私は考えている。 人間の個性的な有り様を、写真はたしかに見事にとらえることができる。私は、ときに人間の皮膚を動物的な面も掬いとって見せている写真に出会うと、嫉妬をおぼえることがある。絵画が追求してきたリアリズムも、人体の皮膚のあからさまな様相を表現することはできなかった。 そういう微視的な面ばかりでなく、さまざまな状況下にある個性的な喜怒哀楽もまさに写真の領域である。世界の困難な状況下に生き、めまぐるしく変化する世界に翻弄されている人間を表現するに、その「手軽な」器機はこのうえない利便性を発揮する。 現代絵画はそのことに早い時代に気がついていた。そして場所を明け渡したのである。すくなくとも人体に関していえば、写真にできないこととは、個人に向けられた目でその個人から人間的抽象をつかみだすことかもしれない。現代絵画が目につけた人間表現はそういうことだったように私は思う。それはもしかしたら、言葉をかえれば、人体を直視するのではなく人体の表徴をあれやこれや模索しているのかもしれない。 ところで私はというと、どうしても人体の魅力から離れられないのだ。もちろん、普通に「裸体画」と云っているような作品を描こうとは全く思わない。私がおもしろがっている人体というのは、そのような表現にもとめられることではない。どう云ったらよいか、じつは自分でも分らないのだが、----私のかつての作品は幻想画といわれている。あえて否定はしないし、そんな名称は私にとってはどうでもいいことなのだが、世間が幻想とみなしたなかで、じつは自分の思想を確認し、また告白してきた。思想であり、哲学といってもいい。そして、私の興味をひく人体表現とは、その哲学の肉体化なのだ。いや、人体によって世界内存在の哲学を表現しようとしているのだ。喜怒哀楽の感情を表現しようとしているのではない。 一昨年であったか、人づてに聞いたことなのだが、アメリカのある美術関係者が日本の現代絵画を調べていて気がついたのだそうだ。私の近年の作品が、少なくとも日本作家のなかでは類例のないことをやっている、と。 残念ながら私はその人と会う機会をもてなかったが、私の創作意図がつたわったのだとしたらこのうえない喜びだ。もっとも私のやっていることが「絵画」なのかどうか私自身には分らないけれども。 さて、純金箔に負けないような人体表現になるように、また夜明けまで仕事にとりかかることにしよう。この作品はグリザイユをアンダーペインティングとして、乾燥後にふたたび彩色をしようと考えている。この方法は絶対的に時間が必要な仕事なのだ。
Jan 29, 2006
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昨夜、といっても明方ちかく、もう就寝しようというころになって、ずっと胸のなかにあったイメージの技法的な解決をヒラリと思いついた。 私の絵画的イメージは、何が描かれているかということばかりではなく、先日も書いたことだが画肌(マチエール)も同時に想像している。大抵はこれまでの経験によって方が付くのだが、時に、経験にない技法が要求されているなと思うことがある。イメージのその部分を頭のなかで経験的技法に置き換えてみるが、どうも違う。そのイメージを創画への欲求に駆り立てている内的モチヴェイションとも反りが合わない。そんな具合で制作にとりかかれずにいるイメージがいくつもある。 その一つについて、不意に「アッ」と解決の緒を思いついたのだ。さっそく小型の下絵を作ってみた。そして今日の午後いっぱいかけて50号原寸の下絵をつくった。ポッと胸の奥に小さな火が燃える。よし、これも掛け持ちでやろう。 昨年の春以来なんとなく狂っていた歯車が、ようやくもとに戻った感じだ。これで3月頃までに50号2点を完成することができれば、このままトップ・ギアに入れられるかもしれない。今年の目標は、30点の油彩画制作である。
Jan 28, 2006
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つい今し方、午後11時に25号の新作が完成した。タイトルは『岩窟の卵』。しばらくぶりの「卵」幻想。卵はもう描くまいと思っていたが、油彩画として定着したいイメージもまだあるので、できるかぎりやっておこうと考えなおした。この作品の岩窟は想像上のものだが、じつは八総鉱山の事務所近くの道路わきに露出していた安山岩の柱状列石の記憶に重なるところがある。この絵を見れば、私は小学生のころのあのほんのわずかな一角を思い出し、そこに立ち返ることができるだろう。 仕上げの筆を執りながらモーツァルトのヴァイオリン協奏曲3番、5番、ヴァイオリンと管弦楽の為のアダージョK261などを聴いていた。今日1月27日は、モーツァルトの250回目の誕生日だという。それでバックグラウンド・ミュージックも彼の作品というわけ。細密画の部類なので、腰をふりふり筆を走らせるわけにもゆかないので、かくなる選曲となった。しかし私の好みからすると、このモーツァルト作品は食いたりなかった。とくにk261は、もう一品追加注文で腹を満たしたい感じだ。 私がもっとも好きな彼の作品は、なんといっても三大交響曲といわれる39,40,41番。なかでも40番。そして未完のレクイエム。レクイエムのラクリモサは涙なくしては聴けない。 もう22年前の映画ということだが、ミロス・フォアマン監督の『アマデウス』は18世紀美術の完璧な再現ということで、私の記憶にいまもあざやかに残っている。ロケーション撮影はチェコ(当時はまだチェコスロヴァキアと称していた)のプラハでおこなわれたそうだ。監督がチェコの出身で、1968年のプラハ事件のときにアメリカへ亡命した人だから、プラハに現存する18世紀的な雰囲気を存分に活用したというわけだ。とくに圧巻は、チェコ国立劇場として今なお運営されていた国宝級のタイル・シアターで撮影されたシーンであろう。シャンデリアに特別にデザインされた蝋燭6000本をともして行われたらしい。この劇場でモーツァルトは管弦楽団を指揮するのだ。この指揮、俳優のトム・ハルスがなかなか良かった。もちろん実際の音楽演奏は、モーツァルトの音楽には最も造詣が深いといわれるネビル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団であるけれども。 指揮者が登場する映画は古今東西、少なくはない。しかし私は、「ああ、これは指揮者になっている」と納得した演技はほとんどない。指揮者って、あの棒振りが、職業的生命なわけだから、ただの棒振りじゃない。あたりまえのことだけれど、いざ俳優が演技としてそれをやると、まあ、見ていられない。こっちが恥ずかしくなるほど、その棒にも肉体にも音楽がない。ホラ、昨年あたり、TVコマーシャルで男性俳優が指揮者にふんしてやっていたでしょう。蠅を追っ払うみたいな棒振り。いや、彼ばかりじゃないんですね、映画のなかの俳優のやる指揮者というのはみなそんな程度。それで、逆にあらためて音楽家としての指揮者の立ち姿や棒振りに見入ってしまうわけだ。 この日記、いつも連想が連想をさそう式に気ままに書いているが、またひとつ映画『アマデウス』のシーンを思い出した。 モーツァルトがザルツブルグにやってきて、そのコンサートがコロレード大司教の宮殿で開催されることになった。それを知ったサリエリが、噂に名高いモーツァルトとはどんな男かを見てみようと、勇んで宮殿に出かける。しかしきらびやかな貴顕淑女のなかにその姿をなかなか見つけられない。するとそのときビュッフェへお菓子が運ばれて行くのに出逢う。サリエリは無類の甘党で、お菓子に目がないのである。 この場面、私はとても面白く見た。というのはこの時代、お菓子は庶民のものではなかった。一方で、宮廷のなかでは、いわばお菓子芸術ともいうべき追求がなされていた。現在のウイーンやパリのお菓子はこの時代の宮廷菓子の伝統を受け継いでいるわけだが、モーツァルトより1歳年長のマリー・アントワネットの逸話にこんな話がある。食糧難にあえぐフランス国民の窮状を臣下がマリー・アントワネットに言上した。「庶民はパンが食べられないで困っております」 すると王妃は言った。「あら、それではお菓子を食べると良いのに」 ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ルートヴィッヒ;神々の黄昏れ』のなで、晩年のルートヴィッヒ2世が、若いころの美貌みるかげもなく、頬がふくれて、なんだか汚らしい歯をしていた。私はこのメーキャップに驚嘆し、うれしくなった覚えがあるが、あれはお菓子の食べ過ぎで虫歯になってしまったのだ。歯が痛くて頬をふくらし、苦虫を噛み潰したような陰気な表情をしているのである。苦虫ではなく甘い甘いお菓子を食べていたわけで、モーツァルトの生きていたころとは時代がちがうが、このメーキャップでだけで、なんにも言わなくとも、あるいは特にシーンを設けなくとも、宮廷の食の一端が表現されているのだった。 ああ、美は芸術の細部にやどるか! まったくそのとおりだ。もうういちど完成したばかりの『岩窟の卵』を点検しよう。音楽はモーツァルトのピアノ・ソナタから何か軽快な曲を選ぼう。
Jan 27, 2006
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50号の下塗りがまだ乾かないので、次の作業ができないでいる。こういう極初期段階はあわててはいけない。物理的な条件と制作意欲とは、かならずしも反りが合うというものではない。 油彩画の組成は、絵の具の層の仕組みが大切。下層(プリーミア・レイアー;premier layer)から次第に積み重ねて上層(トップ・レイアー;top layer)まで行く過程に、それぞれの画家の技法論(メソドロジー;methodology)としてのオリジナリティーがある。油彩画の用語はフランス語が多いが、メチエ(metier)と言っているのがこれだ。そしてマチエール(matiere)と言うのは、画家特有の技法でできあがった絵の具の上層に表現された画肌のことである。 油彩画のおもしろさの一つはこの画肌にある。特に現代美術における油彩画は、画肌を重要視する傾向にある。たとえば古典画は、その保存上、かならずと言ってよいほど保護ニスをかけてあるが、現代油彩画の場合、むしろその処理をしない。私が「油彩画のおもしろさ」と言ったのは、古典画にしろ現代画にしろ、この画肌だけは実物を見る以外に知る手立てはないからである。レンズが高度に発達し、またフィルムも高精度になった写真、---デジタル化されてあらゆるところに焦点をあわせることが可能になったにしろ、油彩画の絵肌を再現することはできない。それらデジタル写真とコンピューター制御の組み合わせによる高性能印刷機も不可能なのだ。高価な美術印刷は、普通オフセット4色刷りを20色30色使用して印刷するが、それでも原画の色彩を再現するのが精一杯である。 私は印刷を目的としたイラストレーションを制作し、また印刷を念頭におかない絵画としての作品も制作している。イラストレーションというのはかならずコラボレーション(他人との協同作業)なので、イメージの表出もそれなりの制限があるにはある。しかし絵画との一番の違いは、私の場合、印刷でより良く再現出来るかどうかである。つまり、画肌の作り方が全然違うのである。 話がどんどん別な方向に発展してしまった。もとに戻そう。 油彩画の組成を考えにいれると、下塗り層(プルミエール・ド・クーシュ;premiere de couche)は非常に大切である。しかも作画初期というのは制作意欲が昂揚しているので、どんどん作業を進めたくなるもの。いまの私の状態がまさにそれだ。 今日の作業ができないので、もてあましたエネルギーを別な作品制作に割り振ることにした。25号の作品を2点。私はあまり掛け持ちはしないのだが、今回はエネルギーの自己制御の目的である。 昨年は父の死によって、普段とはことなる仕事に忙殺され、また、後に気が付いたのだが、そのことで私の歯車が狂ってしまい、なかなか画業に集中できなかった。昨年の年の初めに、一年間分として145cm巾のキャンバス1巻(5m)プラスαを購入した。それがほとんど手付かずに残っている。今年はそれを消化したいのだ。
Jan 24, 2006
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今朝方やっておいたデッサンをもとに、キャンバスに下絵を直接描く。この日記を書きおわったら、すぐに下塗りにとりかかる。仕上げまでの過程で、めんどうな技巧的なことをやるつもりなので、その前段階はなるべく手早く進めて時間稼ぎをしよう。 頭の中がマルチプルな思考回路になっていて、こっちでA技法の絵の具の層を検討し、あっちではB技法の絵の具の層、向こうではC技法の検討と、それらを同時に考えているのでパチパチ火花が飛んでいる。出来上りの画面が前頭葉と目の前の鼻先あたりに輝くように浮かんでいる。要するに、そこに向って仕事を進めて行くわけだ。 さて、また始めよう。
Jan 23, 2006
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作品を完成して、二日間の休暇をとった。ただいま23日の午前4時をまわったところ。さきほど新たな作品にとりかかり、第一段階のデッサンを終了した。50号(117cm×91cm)の予定。 下準備をしおわったキャンバスを立て掛ける。なんにも描いていない真っ白なキャンバスを眺めていると、少しく不安でもあり、一方で体中にムズムズと力がわき上がってくるのを感じる。この感じ、悪くないなと、30年以上つづけているのに、いまだに新鮮に思うのだ。まだ影も形もないけれど、こつこつとやっていれば、やがてガッシリした「物」ができあがる。精神? フン、そんなものは物質と物質との結合の仕組みのなかに昇華してある。 ---元気な爺チャンは息巻くのでありました。
Jan 22, 2006
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ようやっと新作が完成した。長い道のりだった。タイトルは『アダムとイヴの婚姻』。われながら奇妙な絵だ。もちろん私のこれまでの作品のように、描写的であることには変りがないのだが、装飾デザイン的で、平面的でありながら歪曲した遠近法を取り入れている。和洋折衷ながら現代的油彩画にはなっているだろう。装飾性は他面で象徴性をおびている。技法的には凝りに凝っている。画肌は堅牢(solid)だ。これで半年もすれば、絵の具が落着いて、もっとガッシリした物質性を示すだろう。願わくば「物質美」たらんことを。----要するに、私の「新」作だ。 さて、これをどういう媒体で発表しようか。ゆっくり考えることにしよう。 好きなバッハのヴァイオリン・ソナタ2番を聞きながら、しばらく眺めていよう。それから寝室に入って寝ることにしよう。明日、東京は雪だそうだ。
Jan 20, 2006
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文芸評論家で『幽』編集長の東雅夫氏が、幻想文学新刊書を紹介するブログ『幻妖日録』で、先日『悪夢百一夜』をとりあげて下さった。東氏はなんとまあ、こんどはこの『山田維史の遊卵画廊』を紹介してくださっている。 これを知らせてくれたのは若い友人だ。彼は東氏の『幻妖日録』のファンらしいのだが、18日のページにその紹介が書かれているというのであった。さっそく私もさきほど訪問してきたところである。 私が先日の東氏のことばを受けて、オールド幻想文学ファンというその「オールド」は気にかかるがと冗談を書いているので、東氏は「口走ってしまいました」とおっしゃっている。いやいや、どうぞ口走ってください。私はおもしろがっております。 というわけで、東雅夫氏の幻妖ブックブログのURLは下記のとおり。最近の幻想文学の情報をいちはやく知ることができます。 東雅夫 幻妖ブックブログ http://blog.bk1.co.jp/genyo/ なお氏のブログは、インターネットで本を購入できるオンライン書店ビーケーワンとの協同。18日付けでビーケーワン販売スタッフの辻氏のコメントが掲載されている。それによれば、『悪夢百一夜』がビーケーワンで販売することを決定したとのこと。 「今月中には仕入れをし、書誌データをアップする予定です。ウチヤマ出版社様とお会いし、現物も見せてもらいましたが、内容・装丁ともすばらしい出来でした。これで4000円は安い!皆様どうぞよろしくお願い致します。」と辻氏。 辻さん、ありがとうございます。仕入れの専門家の太鼓判は、嬉しいです。 幻想文学ファンの皆様、どうぞ宜しくお願い致します。
Jan 19, 2006
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長らく取り組んできた50号の作品が、ようやく仕上げの段階にはいった。と云ってもまだ数日はかかるだろう。 普段は無音のなかで筆を執っているが、きょうはレイ・チャールズを流しながらだ。筆を走らせては一時ストップし、離れて眺める。音楽に合わせて腰をふる。ちょいと狂躁的。腰のふりも次第におおきくなる。 これだもの仕事をしているところを人には見せられない。家人だって、まさか深夜にひとりで踊り狂っているなんて、思いもしないだろう。 いいんだ、いいんだ。もう少しで、この作品ともおさらばだ。そしたら次ぎの作品にとりかかれる。 「アンチェイン・マイ・ハート。レト・イト・ミー・ビー(解き放してよ、わたしの心を)」 ただいま午前2時40分過ぎ。あと2時間ほどやろう。腰をふりふり、I'm just a lonely boy---だ。
Jan 18, 2006
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文芸評論家で『幽』編集長の東雅夫氏がオンライン書店ビーケーワンとのコラボレーションで発信しているブログ『幻妖日録』において、花輪莞爾著『悪夢百一夜』を早くも紹介してくださっている。「とんでもない本が出た!」というタイトル。 冒頭部を一節引用させていただくと、こんなふうに書き始めておられる。 「ピンポーンというチャイムとともに「郵便局で~す」の掛け声。ポストに入らない郵便物を、階上まで届けてくださったのだが、手渡すときに局員さん、「気をつけてくださいね、重いッすよ」と一言。なるほど書籍小包にしてはズシリと重い。中から出てきたのは----コレだった。」 と、あの分厚い『悪夢百一夜』の写真が掲載されている。 この本、重さが2kgある。『広辞苑』そのものの分厚さと重量。書店にならぶのは今月末だが、われながらよくぞ造本したと今さらながら思う。 少部数の発行なので、小売書店も限定されてくるが、すでに書店側から出版社に取引の申出がきているようだ。どうか最良の読者の手にわたってほしいものだ。 東雅夫氏は私の挿画にも言及されている。「百一話の各編に、オールド幻想文学ファンにはおなじみ山田維史氏のカットが添えられているのも嬉しい」と。 うふふ、「オールド」という限定句が気になるが、まあ私も年をとったのだから仕方がない。「オールド幻想文学ファンよ、心あらば伝えてよ、昔ひとりの幻想画家ありと---。」 佐藤春夫ふうに呟いておる次第。しかし、活躍してますからね。 なお『悪夢百一夜』(税込み4,000円)を確実に入手したい方は、直接、出版社にお問いあわせください。 ウチヤマ出版 〒112-0014 東京都文京区関口1-25-2 電話 03-5206-8701
Jan 16, 2006
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一日中、仕事場にとじこもってキャンバスに向っていた。筆を走らせてはいるが、いささか苦しんでいる。一作品に長い期間取り組んでいるが、こんなに長いのは初めて。 私は、テーマを発展させながら、毎回、全く違うものを作っているので、一作一作が大切なのだ。いまの一作が完成にもってゆけないから、これを捨てて次作にとは、制作欲をつきうごかしている動因がはたらかない。こういう自分の頑固さを、ときどき自分自身でもてあますことがあるけれど、いたしかないことである。 新しい集合画集の企画について連絡があった。まだ決定してはいないが、あらかじめの打診である。おもしろそうなので、方針が固まったら作品を提供させていただこう。 さて、もうひと仕事しよう。
Jan 15, 2006
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さきほどまでTVで映画『エルヴィス・オン・ステージ』を観ていた。1970年のラスベガス・ショーの記録映画である。もう何度も観ているのだが、今日放映されたフィルムは、過去のものに新たに発見されたフィルムを繋いだものだそうで、そういう点からすると初めて観るものだ。 何度観てもおもしろいのはリハーサル風景。ボーカリストという音楽家がどのように音楽を創造してゆくかが、おぼろげながらも分る。たとえばエルヴィスは練習中にバックバンドをストップして、こんなことを言う。「この歌はいつもダレてしまうんだ。だからこの部分はテンポ・アップしよう」 つまり一つの曲を、ショーの構成のなかでショーマンとして考えているわけで、「楽譜に忠実に」ということは意味がないということである。 この映画の冒頭で、スタジオ入りした彼が一番最初にしたことは、演奏する曲の最もあたらしいレコードを聞くことだった。それでそのレコードの歌い方に忠実に練習するのかというと、どうやらまるで違うらしい。エルヴィス・プレスリーという歌手は、どうもショーピースとしてできあがったものを売っているのではないらしい。毎回、毎日、いわば違う歌を聴衆に提供しようと、そこに全力投球するようだ。 劇場の常連客やエルヴィスのファンが何度も聞きにくるのは、もしかしたら単なる「追っかけ」とは違うのかもしれない。音楽的に耳にちがいを鋭敏に感じているのかもしれない。 私もエルヴィス・プレスリーが好きで、CDも持っている。耳になじみの歌手である。ところが先日、ちょっと用事ができて八王子の商店街を足早に歩いていたときのこと。ある店の前でディスカウントのCDを売っていた。店内スピーカーからエルヴィスの『ラヴ・ミー・テンダー』が流れてきた。そのすばらしい歌声に、私はおもわず足をとめてしまったのだ。なんという声だろう! 深く、柔らかく、甘く、強い。 声を売るひとは、私は日本の歌謡歌手の歌声も真直で聞いたことがあるけれども、その響きたるや背筋にふるえが走るほどである。なるほど売り物の声というのはこういうものかと納得してしまう。近頃ではカラオケで誰でも歌い、日本の輸出文化のひとつにもなっている。たしかにウマイひともいるようだが、まあ、私に言わせるととても売り物になる声ではない。私はみずからを媒体とする芸術におおいに関心があるのだが、歌手もそのひとつなのだ。 急ぎ足の私を立ち止まらせ、聞き惚れさせてしまったエルヴィス・プレスリーの声は、聴衆の体内に共鳴するような声なのである。 ところで私がエルヴィスを知ったのは小学4年生くらいではなかったか。八総鉱山小学校の体育館が土曜日の夜には映画館になるのだったが、ある日のニュース映画がエルヴィスの徴兵を報じるものだった。エルヴィスの乗った列車に熱狂的なファンが押しかけ、その騒動のなかでエルヴィスはにこやかに笑っていた。私は歌よりも先にその映像で彼を知ったのである。よほど強烈な印象だったのか、50年後の現在でもその映像が思い浮かぶ。 今日のTV映画は、エルビスの歌の場面は、歌詞を英語のまま字幕に映していた。この配慮はまさにこうあるべきことだろう。それにつけても、かれの歌の歌詞はきちんと英詩の常道とおりにできているのだと、妙なところで感心した。“LOVE ME TENDER”しかり、“DON'T BE CRUEL”しかり。 歌詞を全部引用したいところだが、著作権があぶないので、各行の最後の言葉だけならべてみよう。英詩の定型とおりの押韻がわかるだろう。“LOVE ME TENNDER”の場合(1番)sweet - go - complete - so(2番)true - fulfill - you - will(3番)long - heart - belong - part(4番)dear - mine - years - time“DON'T BE CRUEL”の場合(1番)found - alone - around - telephone - cruel - true(2番)mad - said - past - ahead - cruel - true 以下略 口にだしてリズムにのせると心地よい押韻の魅力がわかる。 私がその音楽的創造性に魅力を感じている最近の歌手に、ディアンジェロ(D'ANGELO)がいる。彼の歌詞をみてみると、エルヴィスほど定型的ではないのだが、しかしこれも押韻を踏んでいる。あるいはダミ声のロック歌手でジム・ジャームッシュ監督の映画『ダウン・バイ・ロー』等に主演しているトム・ウェイツの歌詞もやはり押韻がある。 英詩の押韻といっても定型には種類があって、シェイクスピアの時代の英詩の規則の厳格なことは、これでよくぞ言葉がでてくるものだと感心してしまう。詩人が尊敬されていたのももっともだと納得してしまう。一方で、現代詩となると必ずしも押韻は問題にされていない。むしろ破調の詩のほうが多いかもしれない。アメリカの詩人だとアレン・ギンズバーグはその反抗精神が好きで原詩を読むのだが、押韻を踏んでいるものもあるけれどもむしろ音列のおもしろさといってもいい破調の詩がおおいようだ。 つまり文芸詩では現代詩はさほど韻を問題にしなくなったが、歌謡詩の分野はかなりまじめに押韻詩の伝統を受け継いでいるということか。 日本の歌謡詩が次第に散文的になっていることを思いあわせておもしろいことだと、『エルヴィス・オン・ステージ』を楽しみながら思ったのだった。
Jan 13, 2006
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1963年12月2日(月曜日)、すなわち会津高校の火災があった前日、私たち全校生は午後の授業を中止し、2人の市消防署員を招いてその指導のもと、2時10分から3時まで、2回の消火訓練をした。ちょうど全国火災予防週間の最後の日にあたっていた。学校では11月29日に暖房用の石炭ストーブ(当時はそれが一般的な学校暖房設備だった)を据え付けていた。校長は、ことのほか防火にはきびしかったようで、日頃から教職員に対して注意を呼びかけていたようだ。もちろん宿直員が夜間の見回りをかかしたことはなかった。 私たちは6日から定期期末試験をひかえていた。そのため2日に消火訓練が終了すると、普段のクラブ活動も中止になっていたので、全校生は4時前にはいっせいに帰宅の途についた。じじつ、4時には生徒の姿は見られなかったといわれている。私も二階の教室から中庭につづく石段を降り、演劇部の部室をのぞき、誰もいないことを確認すると、新築成ったばかりの体育館とクラブの合宿所などに使用されていた学而会館のそばの自転車置場から自転車を引出し、帰路についたのだった。 在学中に私は知らなかったのだが、校長が防火について日頃から厳重注意を指示していたのには、学校史のなかに特別な理由があったからとも思える。 昨日書いたとおり、会津人として悲願の「私立会津中学校」の設立許可がおりてから4年8ヵ月後に校舎が完成した。場所は鶴が城の西北の濠端で、私が在学中は「若松女子高校」があった所である。若松女子高校は男女共学になって改称され現在は県立学鳳高等学校という。その学校のあるところに「私立会津中学校」の校舎は建設されたのである。その後、1901年に県立に移管され、「福島県会津中学校」と改称された。さらに30数年後、校舎は建て直しされることになった。 1935年10月に新校舎は完成した。しかし落成式をひかえた数日前に、全焼してしまったのである。原因は工事関係者の火の不始末だった。そして翌年6月に再建が成り、新校舎に移転した。場所は鶴が城の南方、市中央から約3キロメートル、旧日光街道から400メートル入った現在会津高校のある地である。 この校舎が私の時代まで使われていたのだった。校長が呼び掛ける防火注意は、この校史をふまえてのことだったにちがいない。 2日の夜10時30分頃、宿直の教諭と用務員さんが消火訓練後だっただけに緊張して校内をくまなく巡視した。異常は発見されなかった。 ふたりが火事に気付いたのは寝入りばなだったようだ。しかし時はすでに遅かった。出火場所は校舎のもっとも南側で、宿直室からも用務員室からも150メートル以上も離れていた。 第一発見者は学校の近所に住む電報電話局職員で、すぐに局の交換台に報せ、交換嬢が市消防署に連絡した。市消防署では会津高校の火災は予想外だったようだ。いや、その規模の大きさが予想を超えていたのかもしれない。すぐさま緊急非常体制を発令し、消防車14台と消防士約150人が出動した。しかし火勢ははげしく、本館が轟音を発して焼け落ちた。 私は眠りのなかでこの轟音を遠くに聞いたようにおぼえている。しかしまさか自分の学校が火事であるとは夢にも思わなかった。当時、私は不眠症に悩んでいた。まともに眠れず、足許が雲のうえにいるように危ういことがあった。通学途中で自転車のペダルを踏む足に力がはいらなくなり、金縛りというのはこういう状態かしらんと思う日々だったのだ。それが、たまたまその夜はぐっすり寝込んでしまったのである。私の両親家族はみな札幌に住んでいて、会津若松市には親戚ひとりいなく、ただひとりで自炊しながら会津高校に通学していた。そのころの私の会津若松市の住民票は、「世帯主」となっていたはずだ。 そんなわけで深夜のできごとも知らず、12月3日はいつものように通学鞄を自転車の荷台にくくりつけ、学校に向ってアパートをでた。やがて同じように自転車通学をしている会津高校生の群れに合流した。なにか様子がへんだった。すると後ろから女性が声をかけてきた。振向くまもなくその人が私の横に並んだ。通信教育部の事務員だった。彼女の口からはじめて今日未明の会津高校の火災について聞かされたのである。 私の消息を清水先生に報せてくれた後輩は、夜中に火事に気がつき、すぐさま現場に駆けつけ、バケツ・リレーで消火したのだという。図書館主任の成田充先生が「図書を救けてください!」と、絶叫するように書籍の搬出を指示していたという。 不思議なことに私の記憶は、通信教育部の彼女と校門まで並んで自転車を走らせたところまでは鮮明なのだが、それ以後、授業が競輪場の建物で再開するまでの数日間についてほとんど覚えていないのだ。その日のうちであったか、翌日であったか、私は自分のカメラを持って来て焼跡の片付けをしながら数枚の記録写真を撮影したことは覚えている。担任の早川俊一先生が教員室の焼跡を「なんに出もないなァ」と呟きながら歩き回っているのも覚えている。その声もよみがえってくる。私は先生のその姿をカメラにおさめた。しかしほかに思い出すことが何もない。本当に何も記憶にないのだ。 市内の他の高校の生徒たちがすぐに支援に立ちあがり、募金活動をしてくれた。全国各地の高校からも支援がよせられた。 私も個人的に、数人の女子高校生から、匿名で見舞いと激励の手紙をもらった。(いまごろ気がついても遅いが、そのころ私はモテテいたのかしら。どこで私の住所を調べたのだろう。) 私が在学していた時代には、会津高校生は市民から敬意を払われていたものである。「会校生」という呼び方に一種独特な響きがまじっていた。おそらく昭和初期にはそれはもっとめざましかったにちがいない。そういう会津人の感情が、焼失した校舎の建築的な様相にもこめられていたような気がする。後に創立した他校とは明らかにちがっていたからである。石造の本館二階はそのすべてが講堂であったが、窓のデザインも、演壇の上の白壁にほどこされた彫刻も、扉のデザインも、いま失ってみれば昭和初期の建築のよいところをすべて備えていたように思う。 この点についてはまたいつの日にか、あらためて考えることがあるかもしれない。 以下に、私が撮影した火災時の写真を掲げて、ご覧いただくことにする。焼失前の校舎、本館正面 石組みだけが残った本館 グラウンド側から見た本館と第4体育館の残骸 中庭へ通じる石段。昇ったところに私の教室があった。 教員室の残骸のなかで茫然とたたずむ小野尚先生 グランド側から本館南西側を見る 事務室 正面玄関内。右手前にころがっているのは競技者の像 本館教員室。「何も出ないなァ」と呟く早川俊一先生 応接室付近 全焼の南側校舎へ通じる焼け残った廊下。出火9時間前、私はここにいた。左側に工作室と演劇部室、右に美術室 焼け残った校舎。宿直室と通信教育室。水浸しである なすすべもなく茫然とする会校生 第4体育館(体育館は5棟あった) 会津高校の火災を報じる新聞 --------------------------------------------------------------------
Jan 12, 2006
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私は昭和39年(1964)3月に福島県会津若松市の会津高等学校を卒業した。その3ヵ月前の12月3日未明、原因不明の出火により校舎の3分の2、一部石造をふくむ木造2階建校舎9棟、約11,000平方メートルを焼失した。創立73年目のことである。 私は最上級の3年で、県内有数の受験校であったから、3年生の授業は焼け残ったわずかな教室で翌4日に再開されると発表された。が、出火原因の調査のためと教員20数名の事情聴取があり、人員不足のため結局3日間の休校が決定した。3日後に2部制で授業は再開された。教室は鶴が城の東南にあった競輪場の建物が使用された。 私が、自分達の時代に失わせしめた校舎について、何か書いておこうかと思ったのは、一昨年、三中時代の恩師清水和彦先生から『戦闘帽の中学生たち』という本を寄贈されたことがきっかけである。清水先生についてはすでにこのブログで紹介してあるので、あらためて詳しく述べることはしない。じつは清水先生は、会津高等学校同窓の先輩でもあった。先生は音信不通になった私をさがしていたとかで、高校の同窓会名簿に載っている私の住所に手紙をだしても返送されてくるので、「中学のころはヒョロヒョロと痩せていたから、もしかしたらもう死んでっかもしんね」と思っていたのだそうだ。 ひょんなことから高校の後輩が先生に、私が「生存」している旨の連絡をして、ある日、先生がこれまでお書きになったものや活動記録がとどき、それに負けないほどの私の活動記録をお返しに送った。 『戦闘帽の中学生たち』は、先生たち会津高校(当時は旧制の会津中学)の第53期卒業生の戦時日記をもとに編んだ文集である。文集といっても四六判254ページ、布装紙函入りのレッキとした本。戦時下の中学生の生活が見事に活写され、現代史を補足する貴重な資料になっている。驚くのは昭和17年4月4日の会津中学入学式に始まり昭和22年3月5日の第53回卒業式まで、28ページにわたって学校行事の日録が収録されていることである。日付け曜日入りである。浅学とはいえ私はかつてこのような戦時下の中学校の詳細な学校行事記録を見たことがない。 この『戦闘帽の中学生たち』は、後日、先生にもう1册送っていただき、それを東京都立中央図書館に先生名義で寄贈した。もちろん国会図書館にも寄贈してある。 さて話をもとに戻そう。この本に先生たちが教室で撮影した学級写真が載っている。その教室の建築的な様相が、私の時代のあの焼失してしまった教室と同じであることに私は気がついた。なんと黒板の右上の壁にとりつけられている校内放送用のスピーカーも同じではないか。すると私たちは戦前からの器機を使っていたわけだったか。それに気付いて掲載写真をすみずみまで見てみると、講堂も正面玄関も、その扉さえ、私の時代まで残っていたことがわかった。----私はなんとも知れない感慨に胸をうたれた。 一方、前に述べた後輩だという出版編集者と話しているうちに、彼の時代からおそらく20年ほど前に起った学校火災について、なにも知らないようであった。あの堂々として風格あった校舎とその無惨な姿が目にうかんできた。その建築的風格が愛されて石坂洋次郎原作・須川栄三監督の映画『山のかなたに』が会津高校の校舎で撮影されたこともあった。 私は校舎を焼失したことに対して、慙愧とともに何か責任のようなものを感じるのである。私は火災当日の現場写真を自分のカメラで撮影している。おそらくそのような写真はほかにないであろう。ブログをご覧くださる方々にはどうということもない写真だが、あとでここに掲載しよう。 その日の状況を書く前に、会津高等学校についてすこしのべてみたい。 会津高校の設立については、はるか戊辰戦争(ぼしんせんそう:明治元年・1868)にまで遡らなければならない。御存知の方も多いと思うが、会津藩はこの戦争の敗北によって、旧領地域は壊滅状態になった。さらに会津人たちは賊軍の残党として悲惨な状況をしいられることとなった。そんななかで郷土の復興を急務のこととした旧会津藩士たちが、とぼしい資金をかきあつめて、会津藩校「日新館」の伝統をうけつぐ「私立日新館」を設立した。1882年のことであった。 じつはそれ以前の1879年、福島県令・山吉盛典が県内4箇所、すなわち福島・若松・三春・平に中学校を開設するのだが何故か県議会の反対にあい、わずか11ヵ月で廃校になっていた。そして1884年にふたたび福島・若松・平に県立中学校が開校する。しかしこれもこんどは政府が、福島中学校(現・福島県立安積高等学校)1校を残して廃校にしてしまった。 このときの政府の政策を「中学校令」といい、1県1中学をその内容とする。まことに奇怪な政策である。国民が広く勉学する機会を制限するのであるから、その意図がなんであったかは研究してみる必要があろう。いまここでそれを述べることはできないが、そんなわけで「私立日新館」を設立していた旧会津藩士たちは、あらたに私立というかたちで会津中学の設立をめざすこととなった。 当時、福島県知事から警視総監になっていた折田平内は、後に初代会津若松市長となった秋山清八の要請をうけて『会津中学校設立趣意書』を書き、精力的な活動をはじめた。その結果、文部大臣・榎本武揚を動かし、榎本の建白により明治天皇は300円の御下賜金を会津に与えた。会津においては旧会津藩士で東京師範学校(元東京教育大学、現筑波大学)の校長であった山川浩、その弟で東京帝国大学総長と後に九州帝国大学総長も兼任する山川健次郎、福島県裁判所検事の高木盛之輔らが郡部の山里をめぐり会津中学設立の趣意を訴えてまわった。 しかし折しも1888年、磐梯山の大噴火が起った。この被災者救済にかさなったため、学校設立資金の寄付集めは難渋をきわめた。戊辰戦争以後、悲惨な境遇にあった旧会津藩士に国は就産金、つまり就職準備金を出したので、かれらはその金を学校設立資金として寄付した。かれらには、郷土を復興してこの悲惨な状況を抜け出すためには人民が勉学するしかないという意識があったにちがいない。 こうして47,850円の創立資金ができた。この金額は現在の貨幣価値に換算して約2億円程度だという。 1890年2月17日、設立許可がおりた。そして同年4月3日、会津人悲願の開校式が挙行された。「私立会津中学校」、私の母校、会津高等学校の前身である。(つづく)
Jan 11, 2006
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現在、日本の各地で小中学校の統廃合がおこなわれ校舎が消えようとしているようだ。私が住んでいる町内の小学校もすでに別の町内の学校との統合が決定し、近いうちに校舎が消える。市はその跡地利用について何も示してはいない。 中央行政も地方行政も、日本ではなぜか住民に目隠し、耳隠しをしてひそかに謀(はかりごと)をし、ある日、一気に否応のないところで事を実現するところがある。住民に選ばれたはずの政治家は、その住民をないがしろにして、謀略的な根回しにくわわっていたりする。このように国民を食い物にするような政治を、「政治」といっているような野蛮がいわゆる先進国と称される他国にあるだろうか。 「日本の政治家は暴力団とならべても区別がつかない」という笑い話を聞いたことがある。日本の俳優が演じるとまさにそのとおりになるから、俳優の質が悪いのか、それとも俳優の観察力が優れているのか。いずれにしろ案外、われわれ観客も納得してしまうから、考えてみるとゾッとする。 話が横道にそれそうだ。しかし、必ずしも横道とはいえない日本文化のなかに潜在している何事かを、われわれは目にしているかもしれない。 文化財保護の件数が、伝統文化の日本というわりには、アメリカやイギリスに比較すると驚くほど少ないことを、昨日紹介した松原隆一郎東京大学教授は具体的な数字をあげて明らかにしていた。いま統廃合によって消えてゆく学校校舎を、文化財としてすべて残せというわけでは決してない。過去のある時期から、学校建築というのはほぼ一律化して、単なるコンクリートの箱同然になってしまった。建築文化を語り継ぐために必要な創意工夫、人智の結晶としての輝きがみられる建物は多くはないであろう。それじたいが文化的堕落なのだが、今それを言うまい。つまり、繰り返すが、すべてを残す必要はないが残さなければならない財物に対して、われわれはもっと鋭敏にならなければならないだろう。それと同時に、記憶や思い出を共有するということが如何なる意味をもっているか、ということを考えてみる必要がある。 会津若松市は、昨日述べたように、市街の大改造によって歴史的街並を完全に破壊し、あまたの旧町名を排して意味のない新町名に変えた。そして小中学校はもとの場所から順繰りに押し出すように移転した。その結果、故老たちは自分の居場所以外は新町名を聞いただけでは何処が何処やらわからなくなっているようだ。年齢が覚えることをあきらめさせるのだ。私はわずか2日間の滞在だったにもかかわらず、実際にそういう声を聞いたのである。 市民の多数が、人心を養うもっとも大切で多感な時代の記憶のよすがとなる小中学校、あるいは高校をうしなった。家族全員がそういう憂き目にあっている。ひとりひとりは、実のところさほどの問題とは思っていないかもしれない。だが、コミュニティーにおける共有記憶の分断・断絶がいかなる事態をひきおこすかは、それを狙って支配体制を築こうとした軍政日本の植民化政策を思い起こせばよい。コミュニティーの文化破壊が、恣意的な政治政策にとっていかに都合のよい隷属的人間をつくるかということだ。 私はいま、なかなか形になっては見えにくい「意識」の問題をめぐって、「される側」と「する側」の両面を行ったり来たりしながら、明らかになることはないかと思って述べている。おおげさな見方だと思うかもしれない。それは承知のうえだ。見えにくいことだけに、見えるところから考えるヒントにしてゆこう。 会津若松市の場合は、もちろんかつての軍政のように事を運んだのではない。民主的に市議会によって決定し、実行に移されたのである。民主主義のむずかしいところは、ここである。つまり、市民がよほど意識を鮮明にし、あらゆる角度あらゆる視点からシミュレーションをおこなってから実行に移さないと、自分の手で自分の首を絞める結果になる。自分ひとりの首なら勝手に絞めるがよかろう。だが、民主的(非民主的でも)議会政治による決定の効力はおおにして一世一代限りにはおわらないのである。しかもコミュニティーの共有記憶は分断・断絶しているので、子々孫々が孤立的に苦悩するだけで、もしこの破壊されたものを修復しようとしても、ほとんどの場合 残されたツケはあまりにも大きいのである。 文化財保護の問題は、たんに「物」を残すかどうかではなく、その結果によってはとてつもなく大きく深い精神的な問題をはらんでいるといわなければなるまい。 今日は私の母校である会津高校の校舎焼失について書くつもりだったが、明日にすることにしよう。
Jan 10, 2006
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きのうの日記に、私の母校は小学校も中学校も高校も、校舎は失われてしまったと書いた。私は小学校は父の転勤により3校出ている。卒業した八総鉱山小学校については既に回想記を書いた。八総鉱山が国際貿易自由化のあおりをくって閉山せざるをえなくなったために、小学校もおのずと閉校したのである。この小学校はちょっと特殊な学校で、児童はすべて八総鉱山の会社員の子弟であった。会社が創建し、まもなく町に寄付して町立八総鉱山小学校となった。町立である以上、近在の子供達は誰でも入学できたはずだが、たぶん私の卒業後もずっと社員の子弟だけだったにちがいない。閉校後、山奥にただそれのみぽつりと残された校舎は、町が神奈川県の厚生施設として売却したと聞いた。さらに転売がくりかえされたかして、現在はオートキャンプ場となっているらしいが、風の便りでは修理もされないままただ崩壊をまつのみだとか。---- 中学は会津若松市立第三中学校である。市民は「三中」といっている。校舎は会津若松城(鶴が城)の西の濠から3,400mのところにあった。濠端から西の一帯はその昔、会津藩士の子弟の通った藩校「日新館」の広大な敷地で、三中もその敷地にふくまれていた。私が中学の3年間住んでいたのも同じ敷地、日新館の水練場跡(スイミングプール)だった。三中の講堂兼体育館は「大成館」と称していたが、ここに日新館の孔子廟である大成殿があったことに因んでいる。学校の正門前には、日新館の天文台跡である石垣が残っていた。 この校舎が消えてしまったのである。 私は5,6年前までそのことを知らなかった。私は会津から東京の大学に入り、そのまま東京に居着いてしまった。昨年の8月、三中の恩師の喜寿の祝賀会に出席するため会津若松を訪れたが、42年振りのことだった。5,6年前に知ったというのは、じつはある出版社の若い編集者で私の担当になった方が、高校の後輩だというのだ。話を聞くうちに、かつての女子高校が男女共学制が施行された結果、校名を変更したことを知った。これには驚いてしまった。私が会津にいた当時、市内には6校の高校があった。昔、会津には『童子訓』という儒教からきた教育典範があって、「男女七歳にして席を同じうせず」と、ことのほか男女交際にきびしい環境だった。もしかしたらそういう伝統が現代まで脈々といきつづけていたのであろうか、六つの高校のうち男女共学だったのは若松商業高校だけであった。それはともかく、私は後輩からぽつりぽつりと会津の話をきくうち、なんだか違和感をおぼえ、会津若松市の最近の地図を購入したのである。 街並は大きく変り、町名も変っていた。そして三中があるべきところに、かつて市中央部にあった小学校の名前が記されていた。三中はかつて四中があったところに記されている。私はてっきり誤植だと思った。で、もう一枚別の地図を買った。するとそこにも「誤植」があったのである。 後輩の編集者は高校は同窓であったが、じつは隣の市の出身で、会津若松市の中学校の事情は知らなかった。しかしいくら迂闊な私でも、ことここに至れば、学校が市街地の大改造によって送りだしのように順繰りに別な地に移転させられたことをさとった。 この推測は不幸にも適中していたことを、昨年の訪問によって、まのあたりにした。 だが、私の疑問はここからはじまった。 市内をひとりで見て回っているうちに、三中があった場所に移転した小学校のかつての敷地にやってきた。当然何か新しい施設ができているものと思ったら、あにはからんや、ただの空き地ではないか。数台の車が駐車しているばかりだ。聞いてみると、小学校移転後、ずっと放りっぱなしで、市の職員が駐車場代りに使用しているのだという。 まさにあいた口がふさがらないとはこのことだ。いまや私は市民ではない。ただの通りすがりの旅行者である。そんな人間が物を言う資格はないけれど、なんだか日本の現状を縮図として見てしまったような気持になった。 このブログをたずねてくださるetukoさんは、じつは会津若松の方で、学校はちがうけれどもいわば先輩なのだ。会津に行った当日の午後、私におつきあいしてもらい二人で自転車で市内見物をした。彼女の卒業した高校は例の名称を変更した女子高校である。そしてお子さんたちは、順繰りにおくりだされた小学校と三中を出ている。御主人も同じだそうだ。ということは、etukoさん一家は全員が母校喪失者というわけだ。いや、会津若松市民の相当数が同じ運命をたどったことになる。 「たかが母校の校舎を失っただけではないか」と誰か言うだろうか。そうかもしれない。日々の生活にあくせくしていれば、過ぎ去った思い出などは何ほどのものでもなかろう。 しかし私はいま自らの在ることを考えるとき、つくずく自分の心身に会津がはぐくんだものを感じるのだ。さらでだに私の記憶力のせいなのだが、中学の日々も高校の日々も、その色も声音も顔も服装も、まるでタイムスリップしたように今ここに浮かんでくる。それがどういう意味をもつか知らないが、私はそれらの記憶とともに馥郁とした文化の香りをかいでいるのである。なんと豊かだろう、と思うのだ。 もし、親と子がそのように記憶を共有することができたなら、それこそ何にもかえがたい文化の伝達ではあるまいか。 今日はここまでにして、明日は私の会津高校のことを書こう。創立73年目の12月、すなわち私が最上級の3年生のときに、この校舎は原因不明の火災によって大音響を発して焼失してしまったのである。
Jan 9, 2006
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本日1月8日の朝日新聞書評欄に、『消された校舎----旭丘高校校舎建て替えてんまつ記』(旭丘高校校舎の再生を考える会編)について、社会経済学の松原隆一郎東京大学教授がコメントを書いていた。次のような書き出しである。引用してみよう。 「アメリカは歴史の浅い国、日本は伝統の生きる国」と言われる。本当だろうか? 驚くべき数字がある。国が保護している文化財建造物の数は、アメリカが5万2千件弱、日本はなんと4997件(05年)。イギリスは、イングランドだけで44万件強(93年)だから、我々がいかに歴史を殺してきたかが分かる。「震災が多いから仕方ない」、というのが一般的な反論だ。けれども震災対策は口実で、経済効果が本音ではないのか。 日本の「スクラップ・アンド・ビルド」体質を象徴するのが、全国で頻繁に対立が伝えられる校舎建て替えだ。---- ここで松原氏が明らかにしているのは、言葉を替えれば、幻想的愛国論がいかに国の歴史を破壊し、国土を破壊するかということだ。私は、この幻想的愛国論もしくは曲学的愛国論をつむぎだす精神を、ひそかに亡国的ナルシシズムと呼んでいる。 明治27年に刊行され、以後、名著として親しまれてきた志賀重昂(しげたか)著『日本風景論』という本がある。現在、岩波文庫で読むことができる。この本で志賀が情熱的に強調しているのは、日本の風土が欧米諸外国にくらべていかに優れているかということだ。折しも日清戦争に勝利し三国干渉という時期に刊行されたため、排外的愛国路線にうまく合致し、日本人の愛国的景観意識をそだてるのに大いに寄与したといわれる。 私はたしか以前にこのブログで書いたと思うが、「日本が他のどの国よりも美しい」というような論説はまったく無意味で、景観論として成立しないのだ。砂漠の民は砂漠を、氷原の民は氷原を、「わが麗しの故郷」と胸にいだいている。風景美を云々すると、じじつ、美はいかなる所にもある。日本が美しい風土だと思ったら、次にはそれを如何にしたら美しいままに伝え残していけるかを考え、実行しなければなるまい。そうでなければ、美しい日本は幻想にすぎない。 『日本風景論』は、時局的に、自己肥大化した愛国心の昂進にはたらきかけるものになりはした。が、よく読んでみると、じつは言葉とは裏腹な日本の現状が書かれていて愕然とさせられる。第7章「日本風景の保護」の冒頭部を読んでみよう。原文をそのまま引用しては反って理解がはかどらないので、意訳して示すことにする。 日本の山海の美しさ、樹木の多種多様なことは、日本人の審美心を過去、現在、未来と育てる原動力だ。この原動力を害することは、日本の未来の人心や文化を害することと同じである。近年、人情は薄くなり、目の前の小さな利益を追う小賢しい計画に汲々として、遥か遠くをみつめて大事なヴィジョンをもつことを忘れてしまっている。森林を乱伐し、「名木」や「神木」を切倒し、花も竹も薪にするありさまだ。古城の壊れた石垣はすっかり破壊し、また「道祖神」さえ石材として橋作りに使い、湖は埋めたててしまう。鶴も捕獲して絶滅に瀕している。(維新後、宮城県の松島の松を切って木材としたり、東京忍が岡の桜を切って印材としたり、「物を喰らう」からと奈良の春日神社の鹿を殺戮しようとしたり、「文明開化の世のなかには無用の長物だ」といって東京芝増上寺に放火した者らは、さすがに近年、すこしは改悛したけれども)、このように日本の風景を破壊することが少なくないのである。くわえて名所旧跡の破壊は歴史観念の連合を破壊するものだ。したがって国をあげてこのような事態をつつみかくさず暴くひつようがある、と(私は)主張する。日本の社会は、日本の未来の人心と文化を啓発するために、ますます日本の風景を保護することに努力しなければならない。 ながながと意訳したが、私が愕然とするのは、昔も現在も日本人の心性はすこしも変っていないということである。私が幻想的愛国論といってはばからないのは、こういう事実によっている。 日本人が誰でも気軽に外国旅行にでかけるようになって、20年くらいになるだろう。しかもその訪問先は、地球上のあらゆる所といっても決して過言ではない。私たちは自分の目で見た外国の情報をたくさんもっている。かつてのように幻想的愛国論につちかわれた風景論は捨て去り、つまり他者との優劣ではなく、自分の住んでいる風土としての「美しい日本」を考えてもいいはずなのだ。しかし、事実はまったく明治時代と変りがないのだ。 この日本人の心性に深く頑に根付く悪しきものについては、さまざまな領域で検証する必要がありそうだ。 ところで冒頭に述べた旭丘高校は愛知県の学校である。私が『日本風景論』をもちだしたのは、著者の志賀重昂が同じ愛知県(当時は三河国といっていた)の岡崎康生町の出身だからでもあった。松原隆一郎氏が朝日新聞の書評を書いたとき、志賀重昂とその『日本風景論』について思いを致したかどうかは知るよしもないが、氏の冒頭を読むと、遥か明治時代の志賀の慨嘆が洩れきこえてくる。 さらに付け加えるが、このブログの日記にしばしばコメントを寄せてくださる櫻井淳さんはご自身のブログで、愛知県の設楽近在の廃校の写真を独特のアングルで撮影して発表しておられる。私は櫻井さんの詩情豊かな写真が好きでアクセスするのだが、一方で私自身が小学校も中学校も高校さえも、校舎を失っているので、センチメンタルな感情ではない特別な思いを胸にいだきながら櫻井さんの廃校写真を見ているのである。 ことは学校の校舎の存廃ばかりでなく、私が青春時代をすごした会津若松市も、以前書いたとおり、その歴史的街並を完全に破壊してしまった。他方で角館市のように、昔ながらの景観を保存しつつ現代的再生に意をそそぎ、どうやらそれが成功している例もある。こうなると住民の智恵の問題とも言えそうだ。が、その住民の智恵を蹂躙してまで国の行政機関が権柄づくで破壊行為をしている有明湾の例もある。行政機関に「めんつ」なんてまったく必要ない。そんなことは問題にするほうがおかしい。住民を無視して、行政もへったくれもないのだ。ここにも幻想的愛国思想がある。それは「狂気」なのだ。どうやらことは政治病理学ともいうべき問題かもしれない。
Jan 8, 2006
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激励の手紙や葉書を頂戴することは少なくない。ありがたいことだ。 きょうもそれに類したコメントを頂いたが、最後に意外なことが書かれていた。匿名だった。とはいえ、今その内容に少し触れることに、気を悪くされないでいただきたい。 私の絵をご覧くださる方々の年齢というのは、たぶん様々ではないかと思う。じつのところ作者である私も、そこのところはよく分らない。10代はいないのではないか。30代から40代がもっとも多いだろう。個人的におつきあい下さっている方のなかには70代、あるいはそれ以上の方もいるのだが、私の作品はどうやら好悪をはっきりさせるようだ。絵というものに御自分の概念を固持して接すると、私の作品は何がなんだか分らないようなたぐいのものになってしまうだろう。しかしそれはそれでよい。だれにも好き嫌いはあって、出逢いというものがある。 ところで今日頂戴したコメントの主は、どうやら私より一回り以上年輩のようだ。男性である。 どれと指摘はしていないが、文面から判断すると『新アダムとイヴ』シリーズのことらしい。「創生の絵」と、その方は言っている。私のそれらの作品をご覧になって、「つくずく生きていることの歓びを感じる」と。「人間、生きていてこそだ」と。 この方がどのような人生を歩んでこられたかはまったく分らない。たとえどのような人生であろうと、人間70年もやっていれば苦楽は山となり、涙も笑いもいっぱいであろう。 「生きてこその春」とそのコメントはつづく。 ここまでは、当の作者としては過分の誉れを頂戴したようなものだ。いささか面映い。ところがこの後につづく言葉はまったく予想もしていなかったことだ。さらりと書いておられるのだが、要するに、拙作を見ているうちに、自らのすっかり衰えてしまった男性機能がふたたび回復しないものかと、不可能な夢をみるようになった----このように結んでいるのだった。 このブログをご覧くださっている男性諸氏は、先にのべたように60歳の私よりおそらく平均的に御若いにちがいない。だからこの匿名氏のような悩みはないであろう。だが考えてみれば、老年になるということは、当然、件(くだん)のような事態に直面するということだ。 私はここ数日のトップ掲載のコラージュ作品で、『色即是空』『空即是色』などとタイトルをつけてきた。仏教学的には「色」というのは「形あるもの」というほどの意味合いで、かならずしも「色欲」だけをさしているのではない。が、「空」と言い放つことができないことが、人間の生きる面白さでもあるのだ。 私の作品から回春の夢が兆したというのは、はじめて受取った言葉である。それは作者の意図をはるかに超えているのだが、寝た子を起してしまったのだろうか。そうだとしたらまことに御気の毒なことだった。一方、文面からはかすかに若やいだ気分も感じとれ、そんな気分が拙作によって生まれたのだとしたら、作者としてはその感受性に敬意を表しつつ、なんとなく同慶にひたる思いなのである。
Jan 7, 2006
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暮れの30日にネットショップで、私の挿画を掲載する30年くらい昔の雑誌をみつけた。さっそく在庫を確認してもらうと、すぐに「在る」と返事が来た。全部で4册と関連誌2册。今日それが届いた。 以前にも書いたが、執筆・入稿記録と照らし合わせてみると、数多い仕事のなかには現在手許に残っていない雑誌や単行本がかなりある。数年前からネットでみつけると買いあつめてきた。今日は長崎市から届いたのだが、沖縄や埼玉の古書店からも購入している。いまさらながらインターネットの効力を痛感する。 さいわい私がアクセスした古書店はみな良心的だった。 ネットショップは現物をみられない。それは私の買い物セオリーにはまったく反していることだ。じつは書籍以外の品物をネットで買ったことはない。必要がないから買わないだけなのだが、心のどこかには現物を見られないという気持があるかもしれない。 これが本だと当然内容は知れているし、何万冊もの本を読んできているので、著者や発行所、あるいはタイトルのつけかたなどを見ればおおよその判断はできる。主題について過去の刊行書の自分なりのデータの蓄積もあるので、いま目の前にある本がどれだけの新しさと深さを私にもたらしてくれるかも、だいたいの予測はつくのである。 私は自分が本の刊行にいささかなりとも関わっているが、身銭を払ってたくさんの本を購入するとなると、この本はそれだけの価値があるかないかをシビアに判断するようになる。そういう「勘」もはたらくようになる。 もう随分以前のこと、ある外資系の大出版社が電話をかけてきた。写真資料を駆使したシリーズものの企画が完成したから買ってほしいという。私はおことわりした。「そのシリーズはすでに見ており、たしかに素晴らしい写真資料も含まれています。しかし編集方針があまりにもはばひろい大衆を意識しすぎて、内容が薄い。そこに書かれていることを改めて読むまでもないのです。かなりの蔵書をかかえている身には、こんどの大型シリーズは単なる場所塞ぎなんです。にくまれ口で申しわけないですが、資料を活かすためには専門書としての編集方針もあったのではないでしょうか。私としてはとても残念です」 なにも発行した当の会社にそんなことを言わなくてもいいのだが、身銭を切る、しかもこの場合数十万円という価格なのだから、買ってくれと直談判されても「はい、はい」と承知はできない。ことのついでに、読者の知識をみくびったような執筆態度にイチャモンをつけたというわけだ。 それにしても30年前の雑誌がそれほど傷みも汚れもせず、こうして巡り巡ってやってきたことを思うとき、つくづく読者というものはありがたい。いま私は釈迦楽さんからプレゼントされた『紙表紙の誘惑』を読んでいる。このなかに参考図版とし19世紀の刊行本が掲載されている。それらは豪華な革装幀というのではない、いわば新聞のような体裁の本なのだから、やはりよくぞ生き延びてきたという感慨がもよおす。 私がネットで買い集めた雑誌や単行本も、1册づつきれいにパラフィン紙で包装してあった。パラフィン紙は湿気をふせぎ、また陽焼けをふせぐので、書籍の保存にはもっとも適している。 現物を見ずには買い物をしない主義の私も、ネットショップの古書店の本に対する気遣いをみるかぎり、安心してこれからも探索することだろう。
Jan 6, 2006
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昨日も書いたが、手直ししようと思っている50号正方形の作品に、とうとう手をつけた。「とうとう」と言うのは、私としてはいろいろなアイデアを盛り込んだ作品だけに、削り取るのにやはりためらいがある。しかもまだ男女の顔がみつからない。観念だけが先行しているのだ。いま画面にあるのはどうしても納得が行かない。このまま放置しておくことはできない。じつは現在のイメージも2度目のものなのである。起筆したのは2001年だから、もうまる4年以上もグズ付いている。 きょうはまずスピリッツで表面を掃除して、部分的にヤスリをかけて削り、ふたたびスピリッツで拭ってから全体にルツーセを塗った。刷毛を動かし、キャンバスの軽くはずむ音を耳にしながら、ふと、こころが躍っているのに気が付いた。気がはいってゆくのが自覚できる。いま始めたばかりの作業なのに、時間の観念を喪失してずっとやっていたような気がする。キャンバスが行為に淫するように誘惑しているのだ。 ピンと張られたキャンバスは指で軽くたたくと太鼓のような音がするものである。私はいつも新しいキャンバスを木枠に張るたびに、ポンポンとたたいてみる。良い音が響くと満足して、なんだか笑みがこぼれるようなのだ。 キャンバスの誘惑に身もこころもまかせて他愛なく喜んでいる。これじゃァ、やっぱり絵描きになるしかなかったのだな。いまごろそんなことを思っても仕方がないけれど。
Jan 5, 2006
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午後、運動をかねて自転車で遠出をし、ついでに画材店によってフィクサチーフやチャコール・ペンシルを数種類買った。フィクサチーフは鉛筆や木炭の定着液。描いた後に霧状にして吹き付けるのだが、いまはスプレー缶に入っている。昔は専用の霧吹きを使い口で吹いたものだ。中学生のころ初めて本格的な画材店に行き霧吹きを購入したときは、その特別な道具がひどく嬉しかったことを思い出す。 ところで油絵の初心者にご注意しておこう。キャンバスに鉛筆や木炭のようなもので下絵を描きフィクサチーフで定着することは厳禁です。この液の皮膜がキャンバスに油絵の具のくっつきを悪くするのです。みかけは何の問題もないように描けるのですが、絵の具が乾燥してから数年も経つと、キャンバスから絵の具が剥離してきます。つまり絵の具がキャンバスの布目にしっかりと固着していなかったわけです。フィクサチーフの皮膜が布目をおおったことによってそのような事態が生じるのです。 フィクサチーフを使わなくても、鉛筆そのものも絵の具の固着を阻害します。顕微鏡的なことなのですが鉛筆の黒鉛が絵の具とキャンバスとの間にあって、つまりは絵の具はこの黒鉛のうえにくっついているのであって、一方、黒鉛はキャンバスのうえを滑るのです。 私はこれを避けるために、下絵はカーボン紙を使っています。A4版のカーボン紙をセロテープでつなぎ合わせてキャンバス・サイズにしたものでキャンバスをおおってしまいます。その上に、トレーシング・ペーパーに写し取った下絵を置いてなぞっています。場合によってはキャンバスに下塗りして乾燥させ、その後ルツーセを塗って1日2日おいてからカーボン紙を置きます。 さて自転車で街を走りながら道行く人の顔を見ていた。「あれでもない、これでもない」と、人の顔を観察しながら随分失礼なことだが、まあそれは心のつぶやきだからお許しいただく。手直しするつもりの作品のモデル探しである。男女の古典的な顔がほしいのだ。現代画のなかにとけこむ古典的な顔。私のリアルな描写にマッチする「抽象的」な顔。 「リル、リル。どこにいるのかリル。誰かリルを知らないか」と、昔昔の歌謡曲をくちずさみながら私は街のなかを走りまわった。きょう4日から仕事初めの人も多いであろうが、街はまだ正月の気分の買い物客でにぎわっていた。
Jan 4, 2006
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どうしたことか、元気いっぱいのはずなのに、今日は眠った眠った。 午後1時ごろ戸外を見ると雨が降り始めている。高幡不動にゆくつもりだったが、雨では仕方がない。ちょっと昼寝のつもりで寝室にひっこんだ。買ったまま読んでない本が数冊あり、白水社がシリーズで刊行しているドイツ現代史や、釈迦楽さんから送られた『紙表紙の誘惑』や、そのほかいろいろ。釈迦楽さんの著書はこのブログで書影入りで御紹介するつもりなので、もっか精読中。それらの本は私が腰をおちつける2,3カ所に配分して置いてある。 で、寝室の枕許に置いてある本をひろげて1,2ページ読んだのは覚えている。読みながら「ああ、背中に疲労がたまっているな」と思いながら、いつのまにか目蓋がくっついてしまう。猫が2匹やってきて私の胸のうえと足許にのっかった。まるで深い井戸にひきこまれるように、グングン眠りの底におちてゆく。それがなんとなく分るのだ。----やがて井戸の底に到着してしまった。目覚めたときは4時を過ぎていた。 だいぶ以前に描きあげた50号の正方形(117cm×117cm)の作品を手直ししたくなっている。人物表現を変えたいのだが、ずっと踏ん切りがつかないでいた。それをやろうと引っぱり出した。
Jan 2, 2006
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大晦日、午後7時、我家の玄関内に郵便局が大量の年賀状が詰められた大籠を運び込む。配達員がいちいち局にもどっていては配達がまにあわないので、信書の秘密が厳守できるところというわけで、私の家の玄関内をお貸しして、元日の配達中継基地となるのである。 今日1月1日の午前8時、配達員がやってきた。私の家で年賀状を鞄に詰められるだけつめて出発する。それを配達しおわると、再びもどってきて新たな賀状を詰めて出かけてゆく。遠慮なく出入りするように言ってあるので、家族は居間にはいったままだ。彼等は礼儀良く静かに手早く作業し、昼前にはすべての配達は完了した。 郵便配達のシステムは、一般に知られることが少ない。非常によく考えられているシステムなのだ。各担当区域は後もどりすることなく一筆書きのように全戸がまわれるように工夫されている。郵便物は一通一通その順序に鞄につめられている。これを「組み立て」と言う。郵便局の集配業務は機械化されているけれども、最終的には人の手によって仕分けし「組み立て」をするしかない。 私は仕事の効率的システムを考えるとき、この郵便配達業務をたいへん参考にしている。 どこの御家庭にもないそんな元日の午前中が過ぎると、あとは家族だけののんびりした正月だった。 私は暮れに買っておいたブランク・ブックを開き、新しい自画像日記の一頁を描いた。10日に1度くらいのわりあいで、『山田維史の画像倉庫』のほうで掲載してゆくつもりだ。なかなかシンドイ仕事なのだが、楽しみながらつづけてみよう。別に特別な目的はない。年をとってゆく自分を見つめるだけである。健康であれば持続できるであろうし、また持続していれば絵描きの生理でおのずと健康でいられるだろう。2006年の出発である。
Jan 1, 2006
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