全31件 (31件中 1-31件目)
1
30日に映画監督今村昌平氏が亡くなったという。新聞等では、カンヌ映画祭で2度のグランプリを獲得した日本人唯一の映画監督として紹介している。1983年の『楢山節考』と、1997年の『うなぎ』である。そしてまた、こうも述べる。戦後の日本人の「生」と「性」をおおらかに追求した、と。 今村昌平が川島雄三の助監督を経て、日活で最初に撮った作品は『盗まれた欲情』(1958)である。処女小説の内にその文学的生涯がすべて集約されているとは、小説家についてしばしば言われることだ。映画作家今村昌平の場合も、まさに処女作に、その後の全作品に通徹する主張と面影が要約されている。このことは、独立プロダクションの作家ではない、いわば映画会社の一社員だった当時の多くの映画作家のなかでは、むしろ特筆にあたいすることであろう。 日活の50年代・60年代といえば、石原裕次郎や小林旭、二谷英明や宍戸錠といったスターたちの全盛期。北原三枝や南田洋子や浅丘ルリ子という女優を添え物にした男性映画路線を突っ走っていた。そういう映画会社にあって今村昌平の映画に登場する俳優たちの顔ぶれをみると、この監督がどのような画面創りをしようとしていたかが、おのずと見えてくる。長門裕之であり、小沢昭一であり、吉村実子や春川ますみ、西村晃や坂本スミ子や倍賞美津子である。石原裕次郎や小林旭が主演する映画では脇役だった俳優が、前面に躍り出てくるのである。それは「今村プロダクション」設立後の作品にも一貫していることだ。作品のなかの女たちは、石原裕次郎のマッチョ映画の添え物ではない。女たちはみな逞しい。それは成瀬巳喜男が描く暗く憂鬱な日本の女でもないし、小津安二郎が描く男性的教養趣味に染まった中流階級の女とも違う。土俗的な大地母神。あるいは天鈿女命(あめのうずめのみこと)の子孫のような、女としての性を裾をまくって誇示する、農耕の民としての女たちである。 今村映画の生々しいリアリティーは、そうした顔、ほとんど不格好といってもよいような肉体が、場末の日常のなかに見せる存在感によって保証される。しかしそのリアリティーは、たとえばイタリアのネオ・リアリズモのようなドキュメンタリー・タッチとは一線を画しているといわなければならない。むしろ喜劇的虚構なのだ。その喜劇的虚構世界に戦後日本の荒廃も再生も、死んで行く部分、生れてくるもの、惨じめさと裏腹な活力、淫猥とおおらかさ等々、一見矛盾しあるいは対抗するものが活写される。これは見事というほかない。これこそ「創造」というものであろう。今村昌平の映画作品に見られる傑出したオリジナリティーは、それだ。 私が今村昌平作品を最初に見たのは、1959年の『にあんちゃん』だった。中学2年生。この映画は原作があり、北九州の炭坑町に暮す安本末子という少女が書いた同名の生活記録。たしか光文社のカッパブックスではなかったかと記憶するが、当時ベストセラーになった。私もこの原作本を所持していた。今こうして書いていると、目の前にいくつかのシーンがおぼろげに浮かんで来る。 私が観た今村作品は10本。フィルモグラフィーによると全20作品らしいので、そのちょうど半数を観ているわけだ。 『にあんちゃん』(1959) 『豚と軍艦』(1961) 『にっぽん昆虫記』(1963) 『赤い殺意』(1964) 『エロ事師たちより 人類学入門』(1966) 『人間蒸発』(1967) 『神々の深き欲望』(1968) 『復讐するは我にあり』(1979) 『楢山節考』(1983) 『黒い雨』(1989) いずれも忘れがたいが、中でも『豚と軍艦』は好きだ。アメリカ軍の影が色濃い横須賀で売春斡旋業を営んでいたチンピラヤクザ欣太(長門裕之)は、その仕事から足を洗い、養豚業にのりかえる。因縁絡みで、ヤクザの殺人事件の死体の始末をおしつけられた欣太は、死体を豚に喰わせてしまう。ある日のこと、とある家庭の食事時、豚肉料理のなかから人間の金歯がでてきたのだ。---- 長門裕之のチンピラヤクザがじつに良い。長門は『太陽の季節』などの代表作があるけれど、私にとっては『豚と軍艦』の長門裕之である。この映画は、百頭もいるのではないかという豚が、搬送トラックの荷台から逃げ出し、夜の街路をトン走するシーンがある。映画的興趣にあふれたすばらしいシーンである。『神々の深き欲望』のなかで嵐寛寿郎のやたらに長い褌とともに、私が挙げる日本映画の名場面集の5本の指にはいるであろう。 私はこの『豚と軍艦』と『エロ事師たちより 人類学入門』、そして『黒い雨』と、3本のDVDを所持している。いまはちょっと忙しいので観れないが、近いうちに今村昌平監督の冥福を祈りながらゆっくり見直してみよう。過日、古書店で監督の直筆署名入りの『今村昌平の ええじゃないかエッセイ』をみつけて購入した。いまそれを傍に置ながらこの追悼記を書いた。
May 31, 2006
コメント(0)
猫のトイレ用の砂の買い置きがなくなたので、自転車で買いに出た。 我家の猫たちは、砂が汚れると、私のところへやって来て、掃除をするように要求する。1日に一度、砂をすっかり入れ替える。私がその作業をしはじめると、まっさきに走ってくるのがフク。何がおもしろいのか、掃除する様をジッと見ているのだ。キレイになるとまっさきに用を足すのはリコ。キマジメな澄ました顔をしている。サチは、いよいよ我慢ができなくなるまで、まるで人間の幼児のように脚をバタバタさせて、「もうダメだ!」というように駆け出す。 思い出せば、この子たちの先祖のクロもおもしろい猫だった。私の仕事場に来て、書き物をしている机の上で私の様子をながめている。時に私の手を頭でつついたり、足許に降り立って臑に頭をこすりつけて鳴く。何かを要求しているのである。随分以前にも書いたことだが、私はこのクロを言葉で育てていた。目をみながら、赤ん坊に話し掛けるように単語を言うのである。脚をつつかれ、私はクロに聞く。「ゴハン?」2,3秒待つ。「ギューニュー?」「オシッコ?」----クロは、自分が欲するところで、「ニャ!」と強く鳴く。「牛乳がほしい、よし、それじゃあ行こう」と私が立ち上がると、クロは先にたって駆け、のびあがってドアをあけ、キッチンの冷蔵庫の前に坐るのである。これがオシッコだと砂場に駆けてゆく。----じつに、興味深い能力を示す猫だった。 猫は独立心が強く、まるで貴婦人のように、人間の思惑とはかかわりなく生きている動物だとは、しばしば耳にする論評だ。物の本にもそのように書いてある。それが猫の習性だと。 しかし私は25,6年の長きにわたって4代の猫を常時6,7匹飼ってきたが、まず書物に書かれているような例はほとんどなかった。現在のフクは話好きで、なんだか分らないがいろいろなことを話しかけてくる。リコは活発で、内と外とを出たり入ったりして遊んでいるが、ひとり遊びに飽きると、私のところや、弟がいるときは弟のそばに行き、遊んでくれと催促する。「高い高い」や腹を抱えて空中でブランコのように揺らしてもらうのが大好きなのだ。 マスクは私のそばを片時もはなれたくないというように、私のあとをくっついて回る。いま、こうしてブログを書いている膝のうえに寝ているのだ。キャンバスに向っているときでも膝にのろうとする。仕事にならないので、「だめ、だめ。だっこは嫌だよ」と言うと、「なんで?」というような不審な目をしながらすごすごと近くの棚の上にゆく。仕事が一段落して椅子に坐り直そうものなら、おもむろに棚からおりて膝のうえにやって来る。それも、「もういいのかな、怒られないかな?」と値踏みをするようにソロリソロリと前脚をかけてみるのだ。 ロンは毎晩母の床で、母の左側に入って寝ているらしい。母が就寝の準備をするのを、枕元でじっと待っているのである。母が寝付いてしまうと起き出して、ひとしきり夜遊びをする。そして朝方、母が目覚める前に再び床のなかにもぐりこむ。 しかし私がもっとも驚嘆するのは、彼らが「許す」ということを知っていることだ。これは長い年月たくさんの猫を飼ってきて、そのすべての猫に共通していたことである。たとえば、こちらが何か急いでいて、思わず彼らに蹴つまづくことがある。あるいは尻尾を踏んづけたりする。先日など、私は足許にフクがいることに気がつかず手を踏んでしまった。「ギャー!」と物凄い悲鳴をあげたので、びっくりして「ごめん、ごめん」と謝りながら、骨が折れているのではないかと心配した。抱き上げて、「ごめんね、痛かったねー」と調べると、骨は大丈夫。フクはまだ痛そうにしているが、喉を鳴らして私を許している。 人間の悪意には非常に敏感。しかし悪意がないときには、人間を完全に許すのだ。しかも人間より優れているのは、いったん許すとすべてをその時点で清算してしまうようだ。怨みを残さないし、過去を蒸し返さない。----これは25年以上にわたって観察してきた私のひとつの結論である。人をあなどるのは人間の得意技だが、動物をあなどることはできない。仁木悦子さんではないが「猫は知っている」のである、人間の根性を。 さて、外出ついでに例によって古書店に寄り、以下の本を購入。 岡本嗣郎『歌舞伎を救った男----マッカーサーの副官フォービアン・バワーズ』 中村紘子『チャイコフスキー・コンクール----ピアニストが聴く現代』 山本周五郎『武道小説集』 松本清張『信玄戦旗』 杉本苑子『散華----紫式部の生涯』上下巻 新田次郎『芙蓉の人』
May 30, 2006
コメント(4)
庭のグミが色付きはじめた。長径3cmほどの実が鈴生り。日毎に赤くなってゆく。家人たちはそれが楽しみで、採って食べるわけでもないのに、子供のように数をかぞえている。 午前中、二階の自室の窓を開け放して読書していると、庭先にいる母と隣家の夫人との立ち話が聞こえてきた。どうやらお互いの庭の植物を交換しているらしい。母はサボテンをもらい、御返しに薔薇を切ってさしあげた様子。それぞれ鉢に植えながら、根がつくかどうかと笑いながら話していた。 私が読んでいたのはダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』。先日弟が、「読んだ?」と聞くので、まだだと答えると、所持していたそれを私にくれたのだ。開巻劈頭(へきとう)に「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」とある。なかなか上手い導入だ。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』のように、博学を駆使した厚みのあるミステリーというところだろう。まだ読了していないし、邦訳は2年前の刊行なので、ここはミステリーの約束で内容を述べるのはさしひかえる。が、作者ダン・ブラウンが何にヒントを得てこの『ダ・ヴィンチ・コード』を執筆したかについては、私の推測を述べてもよかろう。 ピレネー山脈はスペインとフランスとの国境を形成しているが、そのフランス側にレンヌ・ル・シャトーという小さな村がある。この村に1885年の6月、一人の貧しい新任の教区司祭がやってきた。この時から、後に欧米のキリスト教世界で「レンヌ・ル・シャトーの謎」といわれる不思議な事件が始まる。いや、「事件」といってよいかどうか。すべては厚い秘密のベールに包まれていて、外部からは何ひとつ窺い知ることはできないのだが、要するにこの教区司祭は突然目をみはるような莫大な金を使いはじめたのだ。司祭はパリの銀行に連絡を取り、銀行はこの司祭たったひとりのために村に駐在員をおいた。さらに司祭は村の泥道を、立派な鋪装道に変え、水道を敷設し、庭園や散歩道をめぐらした別荘を建て、ゴシック風の塔を備えた書庫を建てた。珍しい骨董品や高価な織物を買い集めた。文化大臣や著名人を招待し、豪勢な料理や酒でもてなした。客のなかにはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの従兄弟であるヨハン・フォン・ハプスブルグ大公もいた。こういうパーティーがどれほどつづき、どれほどの高級ワインがふるまわれたかは、この教区司祭の死因が肝硬変だったということを述べるだけでよいかもしれない。 司祭は死の床で、つきそっている僧侶にこの「謎」について告白する。僧侶は深い衝撃を受ける。 この司祭の名をベランジェ・ソニエールという。ソニエールがこの村に赴任して6年後のこと、彼は教会の祭壇を修復しようとした。二本の柱に支えられた一枚の石版がセメントで壁に取り付けられていた。二本の柱のうち片方が中空であった。その中から、ソニエールは、木製の筒に納まった4枚の羊皮紙文書を発見した。 2枚は村の信徒の家系図。もう2枚は新約聖書の一部だった。しかしそれらは、語と語との間にあるべきスペースがなく、いわゆるベタ書きだった。ソニエールはすぐに、何かの暗号(コード;code)にちがいないと直感した。 ----ここから彼の暗号解読が始まる。そしてあるとんでもない財宝を発見する(したらしい)。 ソニエールが発見したのは「聖杯」ではないかと推測されている。聖杯とは、キリストの最後の晩餐に使用され、十字架にかけられて槍で突き刺されたその血を受けたとされる杯である。キリスト教会にとっては最も重要な聖遺物のひとつ。 「聖遺物」と言われているものは他にもいくつかある。「聖衣」(キリストが纏っていた衣)、「聖釘」(十字架にかけられ手足に打ち込まれた釘)、「聖槍」(キリストの脇腹を刺したローマ兵の槍)、「聖蓋布」(キリストの遺骸を包んだ布)等々。----これらは熱狂的信仰の対象として、またあるときには偽物という疑惑の対象として、また民衆掌握の道具として、教会や権力者に受け継がれて今に至っている。しかし、ただひとつ「聖杯」だけは存在が確認されていないのである。 「聖遺物」をめぐる話題は、キリスト教世界においてはいつの時代でも新鮮らしい。たとえば映画『インディー・ジョーンズ』3部作の第3作「最後の聖戦」は、まさに聖杯伝説をめぐる冒険活劇だった。ちなみに第1作「レイダース;失われたアーク」は、モーゼの十戒を刻んだ石盤を納めた聖櫃(アーク;Ark)をめぐる攻防。これら2作、敵としてナチスが想定されているが、これも必ずしもすべてが虚構とは言い切れないのだ。こう言えば、唖然とされる方がいるかもしれないが、聖杯はともかく「聖槍」については、一時ヒットラーの掌中にあったと言われている。オカルティズムに心酔していたヒットラーは、あの鈎十字のマークを魔術師グルジェフの助言により採用し、さらに世界征服の力となるあらゆるものを身辺にあつめようとしていた。聖槍はオーストリアのウイーンのさる教会に所蔵されていたものを掠奪したのである。 興味深いことは、これらの聖遺物が話題にのぼると、多かれ少なかれ「シオン修道会」との関わりがとりざたされる。しかも聖遺物の存在は、キリストが十字架にかけられたか否かと言う問題に決着をつけることであるため、キリスト教、なかんずくカトリックにとってはその存在に関わる重大問題なのである。カトリックの根幹をなしている信仰の核心は、キリストが十字架にかけられ殺害され、その後復活したという点にある。そのほかの教義については、早いはなし、バチカンにとってはさほど重要ではないのだ。「シオン修道会」は隠然とした存在ながら、その名前が浮上するときはいつも、バチカンの存在を揺すぶる問題に関わっていた。『ダ・ヴィンチ・コード』においてもまたこの修道会の名が登場してくる。この小説もキリスト教の教義の根幹に関わることを題材にしている。 ところで「レンヌ・ル・シャトーの謎」については、ジェラール・ド・セード著『呪われた財宝』に詳しいらしいが、この書物に関心をもった現代の研究家ヘンリー・リンカーンは、独自にレンヌ・ル・シャトーを調査し、イギリスBBCテレビで『エルサレムの秘法---?』という番組を制作した。しかしとりあえず日本のわれわれがその謎の概略を知るには、コリン・ウィルソンの“The Encyclopedia of Unsolved Mysteries”がよい。『世界不思議百科』というタイトルで邦訳が刊行されている(青土社)。 ここで冒頭の『ダ・ヴィンチ・コード』にもどるが、私がこの小説の執筆の背景に「レンヌ・ル・シャトーの謎」を指摘するについては、すでに読んだ方はお気づきになったと思う。レンヌ・ル・シャトーの主人公である司祭の名前は、ベランジェ・ソニエール。『ダ・ヴィンチ・コード』に登場するルーブル美術館長の名前が、ジャック・ソニエール。館長は殺人者の手にかかって死ぬ直前にダイイング・メッセージとしての暗号を残し、物語はここから始まる。ソニエールという名前、とても偶然の一致とは思えない。また、司祭ソニエールが、前述したゴシック風の塔の図書館に「マグダラの塔」と名付けていた。マグダラとは、マグダラのマリアの出身地の村。となれば、これもまた、『ダ・ヴィンチ・コード』の読者には因縁浅からぬ思いがするのではあるまいか。 どうでもよいような指摘だが、『ダ・ヴィンチ・コード』のお遊びにつきあって、キリスト教文化の裏街道を尋ね歩くのはいかがでしょう。 この小説、映画化されていままさに上映中。私は見ていないが、見ていないで言うのも失礼だが、トム・ハンクスが演じているという主人公役は、私のイメージはジョニー・デップなんだが。みなさんはどうでしょう。
May 29, 2006
コメント(0)
日曜日。今日は午前9時から町内清掃の行事が予定されていたが、雨天順延という電話連絡があって中止。私が住んでいる東京郊外の町では、1年に2度、5月と11月に町内清掃をおこなっている。町内行事ということにはなっているが、市の環境保全課が予算をとり、市内全域でおこなわれている。 私の市では、かなり細分化された分別ゴミ収集を実施している。毎年、「収集予定表:ごみ・資源分別カレンダー」が各家庭に配布される。8とおりの収集パターンを日毎に割り振った、24ページにおよぶカレンダーだ。ちなみに、その8つのパターンは次のようになっている。 1)新聞、2)可燃、3)可燃・缶(食品用)、4)可燃・雑誌・雑紙類、5)ペットボトル・トレー類、6)不燃・びん(食品用)・有害・危険ごみ、7)不燃・古着古布類・牛乳パック・有害危険ごみ、8)段ボール。 以上のうち、可燃ごみと不燃ごみは市指定の緑とオレンジ色のごみ袋に入れなければならず、袋の大きさにより1個当り10円(5リットル相当)・20円(10)・40円(20)・80円(40)と、有料となっている。料金はごみ袋の購入代金(10枚1セット)に含まれている。 カレンダーにはさらに非常に事細に、しかし誰にでもよく分るように、分別についての説明が絵入りで書かれている。たしか外国人居住者用の日本語以外のカレンダーも用意されているはずだ。 そんなわけで、ごみ収集が有料であることから、町内清掃によって排出されたゴミや道路側溝の土砂等については、市内一斉行事とすることによって市の予算で処理することができるというわけである。 東京都23区27市のすべてが上記のシステムなのではない。私の市は、ことゴミ処理行政に関しては先進的であるといってもよい。こうなるには過去にあったひとつの事件に起因している。かつてこの市は東京都のゴミ捨て場にされる案が浮上した。市はこれを断固拒否した。拒否したからには自らの居住まいを正さなければならなくなった。つまり自浄努力である。そうしてつくったシステムが、かなりうまく機能しているのだ。 一度に現在のシステムが完成されたのではない。たとえば、5年ほど前までは、町内の各所に市が設置した金属製の大きな分別ゴミ箱があった。各家庭はゴミ袋をそこに放り込んでいた。収集日になると清掃車が巡回して箱を空にした。これは一見効率的な収集方法のように思えるが、じつは、清掃車にとっては効率的なのだが、ゴミ箱はいつもゴミ袋があふれだし、辺りに散乱していることも少なくなかった。汚い場所というのは、通りがかりの車などからも無遠慮にゴミを放り投げやすいのであろう。汚れはひどくなる一方だった。で、ついに再びシステムの見直しをし、そのゴミ箱を例外なくすべて廃止することにした。上記のカレンダーをつくり、毎朝8時から9時のあいだに各戸の門前に出すようにした。清掃車は大変であるが、配車と巡回のシステムを整備することで解決できることであった。この再改革によって、街頭にいすわっていた不粋な巨大ゴミ箱は消え、交通もすこしはスムーズになったのだった。現在、市役所に行くと、ロビーの片隅に、ペットボトルやトレーとはどういうものを指すか、シャンプー・ボトルは発砲トレーと同じものであることなどを、実物を展示説明してある。 私はもうずいぶん以前、ドイツにおけるゴミ収集システムをテレビで見て、感心したことがある。じつに良く考えられていて、市民もそのルールをきっちり守っている。ドイツは世界大戦後、国際社会に認められるために徹底した自浄努力をしてきた、そして現在もなお継続している。その努力のために国民に呼び掛ける歴代の首相演説は、常に他国の人々さえ感動させてきた。その言葉は誠実であり、「コケ(バカ者)の一念」などとは無縁な、だれもが成熟した社会を感じずにはおれないものだ。それが、日々のゴミの収集にさえ現われている。私はテレビをみながらそう思った。 富士山を世界遺産に指定すべく申請したところ却下された。どうやらゴミだらけであることが、ひとつの理由らしい。事実かどうか。----ゴミ問題が却下の理由かどうか分らないが、しかし、私はそれに心あたりがないわけではない。そしてこんな光景を目にしたことも思い出すのだ。スーパーマーケットから幼い子供連れの母親が出てきた。たったいま買ったばかりの菓子パンを取出すと、その包装紙の口を開けた。そしてその空き袋を誰のとも知らない自転車の籠のなかに放り投げると、子供をせきたてて去って行ったのである。
May 28, 2006
コメント(0)
27日、この山田維史の遊卵画廊にお迎えしたお客様が2万人に達しました。御愛顧まことにありがとうございます。2万人目のお客様はmixiミュージックさんでした。これからもお暇をみつけてお立ち寄りください。心よりお待ち申しあげます。 以下に、これまでお立ち寄り下さった皆様のお名前をあげさせていただきます。順不同ということで御容赦ください。 あんじぇさん、jack☆さん、グ~ドさん、東京渋谷区在住のママさん、ezopoohさん、比絽8904さん、umahakaseさん、papa_asoboさん、資産運用ご案内☆さん、MASATO&TAROHさん、あきのGカップさん、リボン・シトロンさん、IT-MAMAさん、fran686さん、KAT-KUNメンバー公式ブログさん、パクリンク集さん、EM1212さん、Sugasさん、カード侍さん、ミサミサ1986さん、アステカ・ジャックさん、白龍216さん、まりるれろさん、shijimi275さん、アイドル大好き!さん、delicieuxさん、10万円で株さん、荒川静香DVD各種--さん、釈迦楽さん、ニルバーナ00さん、アンティーク~西洋骨董洋品店~さん、grtuyouさん、lime6740さん、etukoさん、ちゃれ3さん、櫻井淳さん、シルフちゃんさん、First Class Cafeさん、がくめぐみさん、にぃさん★さん、よしたか1さん、セツコリンさん、良次さん、notoshunさん、しじまのれいめいさん、セナーロスマンズさん、モモコちゃんねるさん、デジタルパパさん、クイシススイさん、◆-◆-◆-◆-◆さん、PaintARTさん、tarzan777、ばんゆーさん、sirakumo5110さん、藤田ですさん、空良仲音さん、あかんポンさん、がいため小僧さん、マッチョさん、あやなっちさん、ふ~みん♪さん、ピーチさん、会長0804さん、りらっくま0587さん、べんきょうママさん、ゆい丸見え♪さん、ボブ6907さん、こんにちは~♪ハードゲイで~すさん、tablewereさん、ミドリロパンさん、jhiranoさん、eikyumusyokuさん、うっかりまこちゃんさん、たかとよしさん、☆小次郎☆さん、たかみたさん、@としのすけさん、いでけんさん、カオリです☆さん、彷徨(かなた)さん、シタクMANさん、たこ1822円さん、Loop_Functionさん、ひめちゃん7777さん、クマテツ8893さん、おかわり君3453、K_saito0624さん、getchegirlさん、ちょっすんさん、clean666さん、後で変えますさん、ユキ4222さん、松たくさん、美麗*さん、佐々木真奈さん、mai345さん、のりこのりのりんさん、須藤真奈美さん、vvvvvvvvvさん、玉蜀黍のような存在さん、お得意情報満載---さん、ふっくん♪さん、ケンケンケンケンケンケンさん、DrunkenMICさん、宮本久美子さん、おきらくライフさん、gontakun122000さん、まこと7361さん、☆Arisu★さん、猫が一杯いますさん、アニメ!!さん、すずめの涙8206さん、藤巻吉香さん、歌舞伎町ボブさん、母の日のカーネーションが---さん、ほほほ1279さん、ふみタンタン♪さん、まりりん824さん、|||ユコジカナ|||さん、ぷちぃ☆さん、Hiroko*928125さん、如清涼池さん、羅儒さん、Tokyo Design Styleさん、大学いろいろランク情報さん、たこC。ミさん、銀座のZinさん、アキ1988さん、Pokkoriさん、newsnewsnewsさん、ウル行くぞぃ!さん、wallabies164さん、☆送料無料☆さん、deitore.jp/さん、yuuka365さん、横浜の女子大生☆さん、☆マッチョ☆さん、あやなっち!さん、skashimaさん、☆たか☆さん、Redo Marlboroさん、minamina11さん、jokerさん、facmayumiさん、47弦の詩人さん、りこリンリンさん、みゅ~♪さん、musasi0460さん、leaf111さん、みっちー♪♪さん、dragonball0204さん、ahoaho博士、築25年夫さん、"とりあえず楽しそうにやっとるわ"さん、ちば00さん、ssddffooさん、brick2006さん、masa_5goさん、gaMeさん、MINCさん、さっちんこ9228さん、Mickさん、cafepepsi006=ktdktdさん、ポウリックさん、ortacさん、インシアイさん、探偵真夜中の相談室さん、音輪青海さん、蒼龍朱蝶さん、ささりさん、流行りのアイドルはこちらさん、冬木実さん、シノラCLYさん、高木佳代子さん、小銭ババーさん、高宮耀さん、shopmaster渭原さん、まだ夏に間に合いますさん、山ちゃん5963、MRドルチェ・ヴィータさん、まっさん3807さん、Simple&Slowさん、--あっくん--さん、◆げろんちょ◆さん、さきてぃ♪さん、まめ1016さん、oggさん、ともみ☆LOve2006さん、musasi0460さん、ちょっとそこ行く小粋な拝一刀さん、theysunさん、赤の辛味噌さん、ueのホームページさん、私の足跡非表示に反対ですさん、蓮卯月さん、いい男の条件さん、駄洒落王さん、とりあえずビールマニアさん、エレベーター故障中さん、ton413kさん、zeakzeakzeakさん、life-is-at-willさん、眺鴨庵さん、月収70万なんてすぐ--さん、睦月うさぎさん、社長だ!さん、ミポパイさん、ますたけーさん、ユミ^-^さん、TAKA*423306さん、mixiミュージックさん、ヒロコのちらり☆さん、ワッコ☆さん、petitelleganceさん、おチヨ姫さん、チコリン5795さん、ジャンクフードマニアさん、tagpatさん、奈々子さん、誰にでも簡単に----さん、AKINGさん、日の出橋さん、教育基本法さん、たけぞう1959さん、日本映画さん、ちい...さん、クマテツ18893さん そしてお名前の出ない92社の接続サーヴィス経由のお客様、あるいは各種企業のお客様。 さらに、次の大学関係者の方々。 東京大学、静岡大学、埼玉医科大学、日本歯科大学、千里金蘭大学、茨城大学、山口大学、慶応義塾大学、金沢大学、藤田保険衛生大学、東京工業大学、東京都立大学、法政大学、青山学院大学、筑波大学、専修大学、東京電機大学、東北大学、島根県立大学、大阪大学 そして、遠くアメリカ本国の各州およびハワイから、また台湾等々からアクセスしてくださる皆様に心から御礼申しあげます。 山田維史(Tadami YAMADA)
May 28, 2006
コメント(4)
私は家の中いろいろな所にいろいろな本を置いておき、それらをほぼ同時進行で読んでいる。しかも、よせばいいのに、みな分野が異なる本だ。翻訳小説であったり、日本の時代小説であったり、現代世界史であったり、回想録や英語の詩集や、もうじつに様々。もちろん読了すれば交換するわけだから、軽い内容のものから重いものまで、文字どおり多種多様というわけ。 こういう読書方法をとっていると、ときどき脳内スパークをおこすらしく、最近、私の夢はやや狂乱状態なのである。本から得た情報が、事実とフィクションとの区別なく入り乱れ、そこに私自身の現実的な「何か」や「夢想」が加わり、夢特有の言語で混合される。さらに、ときどき眠りが浅くなると、覚醒した脳がいま見ている夢を検証するらしく、再び眠りが深くなると、脳がギュッと鏨(たがね)をはめられたような感じになるのが眠りながらわかる。 本のなかで、私がフィクションではないかと思った記事が、ウェブで海外資料を検索し、それが事実と分かったときなどは、私の感情におおきな振幅ができるらしく、夢は一層錯綜し、狂的になる。 しかし、私自身が興味深く思うのは、そういう夢を見たあとの目覚めは意外にスッキリしているのである。前頭葉や両耳の上あたりに、かすかな痺れを感じながら、でも、なんとなく活動力が心身にうまれている。もちろん、目覚めた後に、本の内容が入り混じって記憶されているわけではない。知的混乱はないのだ。 それからもう一つ。このような夢は、じつは映像的ではないのだ。あの夢の映像、----時にモノクロであったり、時にカラーであったりするimageではない。どう言ったらよいだろう、なんだか言葉を見ているようなのだ。すべてが言葉というわけではなく、チラリチラリと映像がまじるのだけれど、----その夢をみながら同時に私は夢を検証しているらしいのだが----やはり言葉を見ているという感じがする。文字ではない。むしろ音声にちかい。 音を見るというのは、覚醒時には絶対にありえないことだ。専門の音楽家だって、音を視覚で認識しているのではなかろう。知人の作曲家の新実徳英氏が、「夢のなかで音を聴く」と言っていた。しかし、目覚めてから、その夢のなかで聴いた音を楽理に則って再現するのは、高度な音楽教育を受けたひとにも非常に困難なのだ、と。 私は画家だから、まあ、視覚の専門家。視覚的には広範囲に同時に焦点をあわせて認識できるという特異性がある。カメラ目と私自身は思っているのだが、事実は、焦点移動が緻密で素早く、しかも視神経と記憶神経が密接連動しているのであろう。そういうことが一瞬のうちにおこなわれているのだと思う。そういう私だけれど、夢のなかで言語的音声を「視る」というのは、いったいどういうことなのか。 私の知人にはいわば夢の専門家というような方々いる。小説家の花輪莞爾氏や、立教大学の河東仁氏だ。しかし御両人の著作にも、映像をともなわない言語的音声の夢というのは登場しない。 いま私は、自らを実験台にその夢を飼いならしているところである。しばらくは狂乱夢が脳をスパークさせるであろう。
May 26, 2006
コメント(2)
今月末に発刊が予定されていた画集『現代のアート』(朝日アーティスト出版)は、版下作業の遅れで、6月26日の発刊となる旨の連絡があった。画集の印刷は色彩管理がたいへんだけれども、収録作家133名(平面部門77名、立体部門36名、写真部門20名)ともなれば、これは容易な作業ではない。少々の遅れは仕方があるまい。現在、画廊や美術館からの問い合わせが相次いでいるそうだから、ここは是非良い本をつくってほしいものだ。 さて、2日にわたって三島由紀夫絡みの話をしてきたが、拾遺というわけでもないが、もうひとつ私の弟から聞いたことを書こう。 1970年の5月頃のこと。当時、慶応大学の1年生だった弟が、私に手描きでポスターをつくってほしいと言ってきた。大学の演劇部が三島由紀夫の『綾の鼓』と、同じく『愛の不安』を上演する。その学内に張り出すポスターが必要だと。私は引受け、B2判大のパネル張りの手描きのそれをつくってやった。 そのとき弟が聞かせてくれたことが、三島氏の人柄をしのばせる、ちょっといい話だったので、私はいまだに忘れないのである。 弟たちは二つの戯曲の上演許可を願い、使用料を尋ねるために、三島氏の自宅へ電話をした。電話に出たのは三島氏自身だった。『綾の鼓』は、近代能楽集と銘打たれた8篇の一幕物のなかでも最も世評が高く、作者自身も愛着ひとしおの感がうかがえたので、学生たちは内心、許可がおりないかもしれないと思っていたらしい。しかし案に相違して、三島氏は即答で上演を許可した。そればかりか、使用料を尋ねると、こう言ったのだそうだ。 「君たちは学生だ。だから使用料は払わなくとも良いと言いたいところだが、私は職業作家だ。500円支払ってくれたまえ。それで君たちも引け目なく上演できるだろう」 弟たちが感激したのは言うまでもない。 私はこの話を聞いたとき、すでに三島氏にお目にかかっていたのだけれど、あらためて氏の精神の折り目正しさと清潔さを感じた。 この年の11月に三島由紀夫は亡くなった。私がその「事件」を知ったのは或人からの電話によってだった。ああ、やっぱり----と私は思った。なぜそう思ったかについて述べるのは止めにするが、私はその電話のあと、約束があり外出することになっていた。が、突然貧血をおこして身体の具合が悪くなってしまった。約束はキャンセルした。 あれから36年経っている。じつはその年月、私はただの一度も三島作品を再読していない。去るもの日々に疎しと言うけれど、私は薄情なのかしら。その理由を分析したことさえない。もう私はその作品を読む必要がないと思っている。三島由紀夫という作家は稀有な才能の持主で、今後このような作家が出るとも思えないが、生意気な言い方だが私の思想とは正反対の人であった。思想などと言ったって、その人格にすら絡み合わない曖昧な人が多いこの日本で、三島由紀夫は実にすっきりしていた。私はそういう賛辞を呈しながら、しかし今まさに私は頑なに故人の思想を拒否するのである。 ついでながら、私が弟たちのために手描きしたポスターは、学内に掲出後しばらくして、誰かに持ち去られてしまったのだという。学生下宿の部屋にでも飾られたのだろうか。
May 25, 2006
コメント(0)
グラジオラスの球根を買ってきて、午後、1時間ほどその鉢造りをした。長い鉢に10cm間隔で植えた。使っていない鉢がまだ3っつ残っているので、それにも別な種類のグラジオラスを植ようかと思っている。明日にでも、また園芸店に行ってこよう。 水をたっぷり与えて作業を終え、コーヒーとドーナツのおやつを食べていると、突然、雷の音とともに豪雨になった。猫が驚いて母のもとに飛込んでいった。私はいま水を与えたばかりの鉢を屋根の下に取りいれた。それから家のなかに駆けこみ、バタバタと二階へあがり、開け放していた窓を閉めた。以前、デスクトップ型のコンピュータを置いてある机の前の窓を閉め忘れ、モニターが吹き込んだ雨に濡れ、危うくオシャカになるところだった。扇風機で放熱スリットに風を送っていたら、40分ほどして復活したのだった。 それにしても5月だというのに、先週といい、このところ雨が降りつづく。夕方のTVニュースで、電車が不通になったと言っていた。 さて今日は、三島由紀夫の『黒蜥蜴』を観たことを話そう。 といっても、ラジオの劇場中継で聞いた水谷八重子と芥川比呂志の主演ではなく、当時丸山明宏といっていた現在の美輪明宏氏と天知茂が主演した最初の公演である。1968年4月のことだった。 高校生のころは三島文学にはまったく関心がなかった私だが、大学生になり、各種の文芸雑誌に発表される短篇小説や、『群像』に連載が開始された『絹と明察』などを読むうちに、いつしかほとんどの作品を読了していた。そのころ新潮社から刊行された『三島由紀夫短篇全集』や『三島由紀夫戯曲全集』は、学生の私には高価な3700円もしたが(単行本が400円くらいだった)、天金小口という装丁の美しさもあって購入した。長篇小説は神田の古書店を歩き回って既刊本のほとんどを探し出した。 私は大学は法科だったけれど、古典文学の有名なM老教授を廊下でつかまえて三島文学について尋ねたりした。教授は、「まだ人間の捉え方が画一的といえるかもしれませんねー」とおっしゃった。私は、老教授の批評はある面で正しいと思った。しかし一方で、三島由紀夫はそんなことは承知でやっているのだとも思った。2,3年前に、大江健三郎氏が『奇妙な仕事』や『飼育』で文壇にデビューしていた。私は大江氏の小説にもつくりものくささを感じたが、それは日本語がときに非論理的にあいまいになって行くことに対しての苦渋の決断としての翻訳調によるかもしれないと思った。が、私は大江文学を信用してもよさそうだとも思った。三島氏と大江氏は文芸雑誌で対談したりしていて、三島氏は新人の大江氏の才能を憎からず思っているふうに私は読んだものだ。大江氏の主張が論理的に混乱してくると、三島氏は先輩作家らしい忍耐でそれを解きほぐす。すると大江氏もすなおに自分の混乱を認めるのであった。「小説というのは細部があればいいんだよ」という三島氏の言葉を、読者の私自身が大事に受け取った。余談になるが、後年私は絵を描くようになると、ときどきその言葉を思い出した。私の製作理論のなかに応用されている言葉である。 そんなわけで、丸山明宏が三島由紀夫に請われて主演した『黒蜥蜴』を観るころには、私はいっぱしの三島文学通になっていた。また丸山明宏についてもまったく知らないわけでもなかった。なにしろ前年の1967年、寺山修司が劇団天井桟敷の旗揚げのために用意した『青森県のせむし男』は、寺山が丸山明宏のために書き下ろした戯曲で、この成功は一つの文化的センセイションを巻き起こしていた。のみならず同年の天井桟敷第2回公演の『毛皮のマリー』は、丸山明宏の現代の女形としての名声を不動のものにしていた。『黒蜥蜴』は、たしか、俳優丸山明宏の3度目の舞台であった。 前評判は高く、丸山は緑川夫人こと女賊黒蜥蜴の衣装として誂えたオートクチュールのドレスをまとってマスコミに登場した。 この公演は松竹・東急提携15周年記念として1968年(昭和43)4月3日から26日まで東京渋谷の東横劇場でおこなわれた。この劇場は今はないけれど、後部座席の一部は柱が邪魔をして死角ができたはずだ。私は良い席を取りたかったので早めにチケットを購入したのだが、それでも前から13列目、左側通路から6番目、4月9日の席であった。なぜそんなに詳しいかというと、そのときのパンフレットやチケットの半券が現在も私の資料箱に残っているのである。 丸山明宏は、現在の美輪氏もそうだと思うが、すべてを自分に合わせてしまうたちの俳優だといえよう。上手い下手ではなく、とにかく自分を最高度に見せることができる天性の俳優で、つまりスターなのだ。女賊黒蜥蜴もセリフによる存在感は水谷八重子にはかなわない(私は声しか聞いていないからだが)。しかし原作者江戸川乱歩の世界をどちらが体現しているかと言えば、それはもう断然丸山明宏である。相手役の明智小五郎を演じた芥川比呂志と天知茂とを比較すると、片や知性的造形、片や虚構性のエンターテイメントと、資質の違いはあきらか。丸山に芥川ではバランスが悪かろう。 ともかく丸山明宏の黒蜥蜴は少し線が細いけれど(それはそうだろう、若かったのだもの)、妖艶で美しかった。男装して現れる場面は「宝塚」的であったが、それもまた倒錯的でおもしろかった。思えばあのラジオで聞いた劇場中継以来、観たい観たいと思ってきた舞台である。いまでこそ振り返って批評めいたことも言えるが、そのときは面白さに十分堪能し、また感動したのだった。 感動すると、その気持を即座に本人に伝えたくなるという私の「悪い」癖がある。これは丸山氏に面会に行かなければなるまい。終演後、私は他の観客達が出口に向うのを尻目に楽屋へ向った。その日、私には連れがあったのだが、一緒に連れて行った。 いつも後になって少しばかり不思議に思うのだけれど、私は子供の頃から、このような紹介者もない無謀とも言うべき突然の訪問を、阻止されたことがない。そんな例をこのブログでも幾つか書いて来た。途中で関係者に出会うのだが、その人たちが無言で道をあけてくれるのである。このときも、私の行手の扉はいとも簡単に開けられたのだ。 丸山氏の楽屋は三島氏と同室であった。入口に二つの表札が並んでいた。じつは三島氏は今回の舞台に日替りで、黒蜥蜴の隠れ家に飾られた生きた裸体彫刻の一体として出演していた。残念なことにというべきか、私が観た日は、三島氏休演日にあたっていた。楽屋口でお付の若い青年が立ち働いていた。その青年に私は刺を通した。ここでもまた青年は不思議な対応をした。部屋の中に私の訪問を告げもせず、ただそのまま「どうぞ」と言ったのだ。私は一歩踏み出し、まっすぐ部屋のなかを見渡した。さして広い楽屋ではなく、左手に壁に作り付けの鏡台がならび、奥に西洋骨董風の衝立があり、更衣室にしているらしかった。衝立のうえに脱いだ衣装が掛けられていた。しかし部屋には誰もいなかった。 で、私は丸山氏がお留守なのだと納得し、青年に軽く会釈して、帰路についた。廊下の途中で、連れが不審な顔して、どうして丸山氏に挨拶しないのかと言った。「だっていらっしゃらないのだもの。待つているわけにもいかないし---」「丸山さん、いらしたじゃない」「どこに?」「あの部屋に。鏡の前に坐っていたでしょ」「えっ?」「山田さんが、そのまま出てきたから、どうかしたのかと思って----」 私は狐につままれたように、後ろを振り返って見た。お付きの青年がちらりとこちらを見た。私は連れの顔をみやって、それから再び楽屋に向った。青年がどうぞ、と言うように、道をあけた。 ガウンをはおった丸山氏が鏡台の前に坐りこちらを見ていた。私はなんだかヘンな気持になりながら、それでも大変感動したことを申しあげた。「ありがとうございます。いたみいります」 と、丸山氏は言って艶やかに会釈した。 ふたたび帰りの廊下で、連れが言った。「さっきはどうしたの?」「いや、丸山さんが見えなかったんだよ。ほんとうに----。きっと、美しすぎて、光だと勘違いしたんだと思うよ----」
May 24, 2006
コメント(6)
私がかつて三島由紀夫氏におめにかかり署名を頂戴したことについては、以前、このブログで書いた。その署名も画像で掲載した。お目にかかったわけではないが、氏の姿はそれ以前に2度見かけている。その最初は1964年の5月のことで、きょうはその時のことをお話ししようと思っている。 その前に、2度目に見かけた時のことを。 私の記録によれば、それは1965年6月6日、日曜日、午後6時過ぎであった。場所は東京の日比谷公園野外音楽堂である。当時、東京大学にギリシア悲劇研究会というのがあった。戸張智雄教授等を中心に、古代ギリシア悲劇をじっくり研究し、その成果を1年に一度、実際にプロの俳優を招いて公開上演していた。それはすでに7年にわたって行なわれていた。『オイディプス王』『アンティゴネ』『プロメテウス』『アガムメノーン』などの大作が次々に上演されていたのである。このプロジェクトは国際学会でも高い評価をえていたばかりか、世界的にも希有な仕事として驚かれていた。 1965年6月のその日は、同研究会の第8回目の公演がおこなわれる日だった。演目はアイスキュロスの『ペルサイ』。この戯曲について詳細は述べないが、ペルシャ戦争をテーマにした悲劇ということは言っておこう。神に等しい身であるペルシャの王クセルクセースは、自ら戦争責任をとる必要はないにもかかわらず、その責任をとろうとして重大な選択を迫られ、その挙句に悲劇的没落を迎えるのである。----1965年当時、ヴェトナム戦争は泥沼状態になっていた。『ペルサイ』上演の背景にそのような現実があったことは、演目選択の意図がどうであれ、見のがすことはできないであろう。そしてその観客席に三島由紀夫がいた。 氏はちょうど40歳だったと思う。例のボディービルで鍛えあげた素肌に、黒のポロシャツを胸のボタンをはずして着ていた。半円形の観客席のほぼ中央に坐ったその姿は、ちょうど斜向かいの私の席からはよく見えたのである。この人の礼儀正しさは、氏をよく知る人誰もが語ることであるが、その時も、サッとやって来てサッと坐ったので、野外だったけれども気がつかない人も多かっただろう。東大関係者らしい人たちと言葉をかわしていたが、静かに観劇し、そしてまたサッと帰ってしまったのだった。 さて、それは私が2度目に氏の姿を見かけたときのことだ。私はそのちょうど1年前にも、もっとまぢかで見かけている。1964年の5月といえば、私が大学に入学し、上京して1ヶ月しか経っていなかった。日生劇場で三島由紀夫氏が舞台稽古に立会っているのを、私はガランとした客席で、氏の後ろに坐ってその様子を見ていたのだ。劇団四季が三島氏の戯曲『喜びの琴』を上演するに先立つ舞台稽古だった。 劇団四季に知己があるわけでもなく、まして三島氏を知っていたのでもない一般の大学生の私が、なぜそんなところに居たのか。私は後になって、その日のことは、傍観者にすぎなかったけれど、じつに稀有な経験をしたのだと思った。 どこから得た情報だったか忘れてしまったが、『喜びの琴』の舞台稽古を時間を限って公開するというので、私は半信半疑だった。報道関係者へのサーヴィスかとも思ったが、私のところにある情報には、特にそういう断りもなかった。で、私は日生劇場へでかけたのだ。外からガラス越しに見える劇場ロビーは暗く、客の姿はなかった。しかし意を決して扉を開けてはいると、中に関係者らしい人がいた。私は、たぶん、舞台稽古をみせてくださいとでも言ったのだと思う。その人は2階への階段を示した。 ステージの上には数人の男性俳優がいて、TVでおなじみの顔もあった。客席の最前列から5列目あたりに演出の浅利慶太氏や三島氏が陣取っていた。稽古はまだ始まっていなかったが、客席にはほとんど誰もいない状態で、私のほか数人が勝手な場所にポツリポツリと坐っていた。私はすこし不安になったが、そのうちに稽古が始まった。 私は文学好きではあったが、じつは高校生のころは三島由紀夫の小説を1冊も読んでいなかった。まったく関心がなかったのだと思う。ところがこの人の戯曲で、ただ一つ知っているものがあり、それをナマの舞台で観てみたいと思っていた。1962年の3月のある日、たまたま聞いていたラジオが氏の『黒蜥蜴』の劇場中継を放送しはじめたのである。主演は水谷八重子(初代)と芥川比呂志。もちろん音声だけなのだが、いや、その面白いのなんの。水谷八重子のあのカスレ声が、三島の華麗な長セリフを、歌いあげるのでもなく語るだけでもなく、メリハリきっちりこちらに伝えてくるセリフ術(エロキューション)の見事さ。----私の耳には、44年前のラジオからの水谷八重子のセリフがいまもって蘇ってくる。 そんなわけで、『喜びの琴』の舞台稽古をみられるという情報は、まさに願ってもない朗報だったのである。 ところで、三島のこの戯曲の上演にいたる経緯は、少し説明しておいたほうがよいかもしれない。 1963年の1月。劇団文学座に分裂事件がもちあがった。劇団運営に関する意見の相違から、芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子ら29名が脱退を表明し、あらたに劇団雲を創立したのである。当時、三島由紀夫は一種の座付き作家のような立場で、文学座に深く関わっていた。彼はこの分裂事件に際して、文学座再建のために残留し、理事に就任した。そして半年後の6月、文学座は、安堂信也訳・三島由紀夫修辞・戌井市郎演出という布陣でヴィクトリアン・サルドゥ作『トスカ』を上演。ついで三島の書き下ろし戯曲を上演する予定だった。その書き下ろし戯曲が『喜びの琴』である。 しかし、ここに三島にとって思わぬ出来事がおこった。文学座は劇団の決定として、『喜びの琴』の上演を拒否し、すでに発表してあった公演を中止することにしたのである。ここで『喜びの琴』の内容について述べる余裕はないが、要するに、政治的思想にからむ意見の決定的相違であった。 三島は文学座と訣別した。氏につづいて作家・矢代静一、演出家・松浦竹夫、俳優・賀原夏子、中村伸郎等14名が脱退した。 三島はすぐに朝日新聞紙上に文学座に対する公開質問状を発表した。しかし三島と文学座との関係は回復されることはなかった。 翌1964年2月、三島はその戯曲『喜びの琴』を雑誌『文藝』に発表、つづいて戯曲集『喜びの琴、付・美濃子』を上梓した。そして日生劇場を本拠にする浅利慶太率いる劇団四季が、5月に同劇場で『喜びの琴』を上演すると発表した。 以上が、当時マスコミが「喜びの琴事件」と報じたことの顛末である。私が見た舞台稽古は、まさにその初日を数日後に控えてのものだった。 浅利慶太氏の隣に坐った三島氏は、薄いブルーがかったグレーの仕立ての良いスーツに身を固めていた。それは稽古場に着て来たというより、報道関係者や見物客を見越しての服装のように私には思えた。しかし、氏にとっては案に相違してと思われたのであるまいか、客席には誰もいなかったのだ。学生の私のほかには。 稽古が付けられたのは、警察署内のシーンだった。刑事役の俳優たちが三々五々ステージに立ったり、椅子に腰掛けていた。浅利氏の開始の声がかけられると、俳優達は一斉にタバコを取出して火をつけた。舞台空間が煙で真っ白になった。「何やってんだ!」浅利氏が怒鳴った。「なんで全員が一斉にタバコを吸うんだ! 手持ちぶさたのはずはないんだ、良く考えろ!」 三島氏はほとんど無言で見ていた。が、やがて浅利氏と何かことばを交し、それから立ち上がるとステージに背をむけ、私の坐っている横を通って場内から出て行った。 その後どうなったか、じつは私はすっかり忘れてしまった。 私は、『喜びの琴』の本公演をみたのか? いや、見なかった。この舞台稽古を見ていて、まあ、さほど熱をいれて観に行くほどの戯曲でもない、と判断したからであった。文学座の上演中止の決定は、本当に政治思想の問題に起因することだったのかしら。
May 24, 2006
コメント(0)
きょう22日の新聞にアリダ・ヴァリの追悼が載っていた。4月22日に亡くなったのだという。「イタリアの恋人」と言われた映画女優。84歳だった。 私はイタリア人と思っていたが、新聞によれば父はオーストリアの下級貴族出身、母はイタリア人、現クロアチア領のプーラ生れであるという。 出演作は100本以上にのぼるらしい。私は、アルフレッド・ヒッチコック監督『パラダイン夫人の恋』(1947)、キャロル・リード監督『第三の男』(1949)、ルキーノ・ヴィスコンティ監督『夏の嵐』(1954)に出演した彼女しか知らない。しかし、『第三の男』と『夏の嵐』の2作があれば、私には十分だ。この2作、とりわけ『夏の嵐』のリヴィア・セルピエーリ伯爵夫人を演じたアリダ・ヴァリのために今日は書こう。 『夏の嵐』が日本で初公開されたのは、本国よりちょうど1年遅れて1955年10月。ルキーノ・ヴィスコンティの映画が日本に初めて紹介されたのは、この前年に、『わらの女』というオムニバス作品の第5話「アンナ・マニャーニ」によってである。しかしほとんど記憶されなかったようだ。淀川長治氏さえ、「ヴィスコンティは、『夏の嵐』を初めて観た」と言っている。1955年といえば私は10歳。映画はいろいろ見始めていたが、なにしろ山奥にばかり住んでいたので、『夏の嵐』など掛かるはずもなかった。観たい、観たいと思いながら、ようやくそれが映画館でリヴァイヴァル上映される機会に出会ったのが、たしか1990年だった。この年は他にもヴィスコンティ作品『若者のすべて』(1960)のオリジナル完全版と、『揺れる大地(原題;海の挿話)』(1946)が上映された。『揺れる大地』はこの時が日本初公開。これが上映されたことで、じつは、ヴィスコンティ監督作品がすべて日本で公開されたことになる。輸入会社ヘラルド・エンタープライズの名前をここに記しておこう。 というわけで、私が『夏の嵐』を観たのは随分遅かったのだ。が、それがこの作品の理解のためには却ってよかったかもしれない。もっと若いころだったなら、この映画を伯爵夫人の堕落した狂恋の物語とみて、それで終わってしまったかもしれない。イタリア史のみごとな形象化であることには、感動しなかったことだろう。原作というか脚本の下敷きにされたのは、カミッロ・ボイトの短篇小説『官能』。 『夏の嵐』を要約するのはなかなか難しいのだが--- 1886年、オーストリアに占領されていたヴェネツィア。イタリア政府はつい先頃プロイセンと同盟を結び、ヴェネツィア解放戦争は目前に迫っていた。 ヴェネツィア最大のラ・フェニーチェ劇場(1792年創立)で、いましもヴェルディの歌劇『イル・トロヴァトーレ』の第3幕が終末に近づいていた。特別観客席はオーストリア将校たちで占められている。そして、あの有名な「武器をとれ! 武器をとれ!」の数小節をテナーが声を張り上げて歌いだすと、イタリア人観客は喝采し、その興奮は次第におさまりのつかないものになって行く。「外国人はヴェネツィアから出て行け!」 この騒ぎを夫の友人であるオーストリア軍将軍と眺めていたヴェネツィア貴族リヴィア・セルピエーリ伯爵夫人(アリダ・ヴァリ)は、ふと、若い美貌のオーストリア将校に目をとめる。彼が笑いながら何か言うと、その頬を殴った者がいる。夫人のいとこのロベルトだった。彼の身に危険が迫っていると感じたリヴィアはその命を救おうと、殴られたあの英雄に自分を紹介してほしいと将軍に懇願する。若い将校フランツ(ファーリー・グレンジャー)は、彼女が会ってみると、ただハンサムなだけで愚鈍な感じがした。それでも、決闘を思いとどまらせることに成功する。 ロベルトは結局、1年の流刑の判決を受ける。ロベルトの地下活動に対して、リヴィアの夫は反対していた。彼女はロベルトが流刑地へ出発する前にひとりで別れをつげに来たが、心細く、孤立無援を覚える。そんなリヴィアをたまたまフランツが見かけ、声をかける。そして、ロベルトが流刑に処せられたことに対して自分は何の責任もない、と言う。あのとき、あの男があなたの恋人だと率直に言ってくれたら、対処の仕方もあっただろうに、と。それを聞いてリヴィアは憤然と立ち去る。フランツは後を追う。 ふたりが夜のヴェネツィアの街を前後して歩いていると、運河のなかにオーストリア兵の虐殺死体が浮かんでいるのを目にする。人に見られてはまずいと思ったフランツは、震える夫人を小路に連れ込む。---- こうして、リヴィアはフランツのとりこになって行く。若いフランツによって彼女の性は目覚め、歓びを知ったのである。それは年の離れた老境にある夫からは得られなかった性の激情だった。燃え上がったリヴィアを突き放すように、ある日、不意に、フランツは姿を消してしまう。任地替えになったのだ。 戦争の気配はいよいよ濃くなり、セルピエーリ伯爵は田舎の領地に移ることにした。その別荘で、夫人はバルコニーにひそんでいるフランツを発見する。「君のいない生活は耐えられないことに気づいた」と彼は言う。リヴィアは彼を部屋に引き入れた。そればかりか、フランツの身体が激しい軍務には不向きだという偽の診断書を軍医に書かせるため、その賄賂としてロベルトから預かっていたパルティザンの資金をフランツに与えてしまう。 オーストリア軍とイタリア軍の戦闘が開始された。クストーザの戦いである。ロベルトがその地でヴェネツィア解放の夢を追っているとき、リヴィアはフランツのことばかり想い描いていた。フランツはパルティザンの資金を持って逃亡し、その後、ただ一度、彼女に手紙をくれたきりになっていた。リヴィアは夫の留守をみはからって、オーストリア軍が駐屯するヴェローナに向って旅立つ。 それは過酷な旅だった。しかしついに彼女はフランツの下宿を発見する。 リヴィアが部屋に入って行くと、フランツが出てきた。その背後から、「フランツ!」と呼び掛ける女の声。すでに別な情婦と同棲していたのだ。 「俺は臆病者なんだ。臆病だから、脱走したんだ!」と、フランツはリヴィアを嘲るように言い放つ。 悲嘆にくれたリヴィアは街路へ飛び出す。そして夢遊病者のようにそのままオーストリア軍司令部に行き、将軍に面会をもとめると、フランツを脱走兵として告発した。 処刑場へ引き摺られて行くフランツ。リヴィアはヴェローナの通りを、奇妙な声で「フランツ、フランツ」と呼びながらさまよう。 太鼓が連打され、命令が下される。一斉射撃の乾いた音。くずおれるフランツ。死体をかたずける機械仕掛けのような無感動の兵士達。 最初に述べたように、アリダ・ヴァリ自身に貴族の血が流れている。冒頭の毅然とした伯爵夫人がしだいに卑しい青年の情婦になり、さらに狂った娼婦のように街を徘徊する。ヴァリのすばらしさはこの変化を凄まじくも美しく演じきっていることだ。 具体的なシーンを例にとれば、ふたりがベッドを共にしたのち、ベッドのなかで髪を梳きながらリヴィアが言う。 「ヘアピンを取ってくださらない?」 「俺は召使じゃない、自分で取れ」 夫人はベッドを降り、鏡の前へ行き、ヘアピンを取り、それを口にくわえる。 ヘアピンを口にくわえる、その仕種に、すでに貴婦人としての品位がなしくずしになって行く片鱗がのぞくのだ。彼女の顔には性の充足がある。 ベッドの上にはシャツにズボン姿のフランツがいて、彼女を見ている。そのファーリー・グレンジャーの頬から顎にかけての線の卑しさ。 こういうシーン、残念ながら日本の俳優達はまったく太刀打ちできないだろう。このキャスティング、じつはヴィスコンティが最初に考えたのはイングリッド・バーグマンとマーロン・ブランドだったそうだ。いやー、私としてはその二人でなくてよかった! だって、私は、イングリッド・バーグマンの顔を鼻つまりのようなバカっぽい顔だと思っているのだもの。この女優は年をとってからのほうが良くなった。『オリエント急行殺人事件』は、映画そのものはツマラナイ作品だが、バーグマンの顔は見違えるほどいい。それに、マーロン・ブランドはこの役には個性が強すぎる。意志がありすぎる。愚鈍で臆病者のフランツにはならないだろう。ファーリー・グレンジャーを起用した監督の目にむしろ脱帽する。前述したように、この俳優、美貌だけれど、頬から顎にかけての線が下品だ。それがこの役にぴったりだ。 脱走者として告発し、銃殺刑にしてしまうリヴィア像は、『第三の男』のラストシーンを連想してしまうが、ヴィスコンティ監督、もしかしたら影響されたのかもしれない。 アリダ・ヴァリさんの晩年は経済的に恵まれず、生活補助を受けていたのだという。しかし『第三の男』と『夏の嵐』で、珠玉の女性像を造形したことを、誰も忘れはしないだろう。
May 22, 2006
コメント(2)
この日記を書きはじめる前に、トップの画像を変えた。最初、株式会社新日軽のPR誌の表紙に使用した〈鳩〉の絵をアップした。それからすぐに考えなおして〈百合〉の素描に再度変えた。特に理由はない。私の現在の気分にそぐわなかっただけのこと。 〈鳩〉の写真をスキャニングしながら、不意に、私が昔、鳩を飼っていたことを思い出した。まったく忘れていたことで、高校3年のときだった。 朝、学校に登校し、靴箱を開けると、見慣れないボール箱があった。なんだろうと思いながら、そっと蓋を開けると、なんと鳩が一羽入っていた。驚いて靴箱の扉を閉めた。私は当惑してしまい、事態がのみこめないまま教室に向った。いたずらにしては、度が過ぎる。生き物じゃないか。 私たちの学校は市民から一目置かれるような優秀な男子校だったので、いわゆる不良少年は皆無。たしかに学校に馬で乗り付けるような変わり者はいた。いくら40年以上前だからといって、馬で登校する奴なんて他にいるわけがない。だけど、それを実行する生徒がいるくらいだから、靴箱に鳩をいれておくことぐらいのいたずらをやらかす奴はいてもよい。 するとS君がやってきた。彼は1,2年は同じクラスだったが、3年になって大学の進路が異なり、別々のクラスになった。にやにや笑いながら私のそばに来て、「あれ、やるよ」と言った。 「鳩のことか?」 「飼えよ」 「何言ってンだ。ひとり暮しのアパートで、飼えるわけないじゃないか」 「だいじょうぶだって。木箱に金網を張って巣箱にすればいいんだ。ほら、君の部屋の窓の外に出しておけばいいじゃないか」 「冗談じゃない。第一近所にも迷惑じゃないか」 「まあ、飼ってみろよ、可愛くなるって」 Sは、そう言い残して、にやにやしながら行ってしまった。 結局、私はその鳩を飼わざるをえなくなった。靴箱のなかに放っておくこともできず。 大きな林檎箱を壊し(当時はダンボール箱は使用されていなかった)、金網を張って、Sの言ったように窓の外に出した。巣箱の下側を窓枠に固定し、廂に吊すような具合に取り付けた。 それにしてもSの気持がわからない。自分がそれまで飼っていたのが、飼いきれなくなって私に押しつけたのだろうか。彼はその後、忘れてしまったかのように、顔を合わせても何も言わなかった。 たしかにSが言ったように、餌や水を与えると無心に啄む姿は、孤独の私の慰めになっていたかもしれない。一方で、私はもうすぐに会津を出て行かなければならず、そのとき、この鳩をどうしたらよいのだろう、と思案してしまうのだった。 しかしその心配はしなくてもよくなってしまった。飼いはじめてどのくらい経っていただろう。ある日、小屋を掃除するときだっただろうか、何かの拍子に鳩が逃げ出してしまったのだ。伝書鳩のように帰ってくるかと思ったが、それはなかった。長い間、私は小屋を取り壊さず、その扉を開け放しておいたが、ついに鳩は帰らなかった。 Sには黙っていた。彼は、私に鳩をくれたことを忘れているかのようだった。 ----42年前のことだ。すっかり忘れていた。 昨年の夏、それこそ40年ぶりに会津若松を訪れ、先輩のetukoさんに付いてもらって、自転車で市内を一巡した。恩師の清水先生が、わざわざ新しい自転車を買っておいてくださった。先生のお宅の横の通りをまっすぐ南に向うと、私が住んでいたアパートがあった町に出る。会津若松は昔のおもかげを残していず、etukoさんは出発前に、「山田クンは浦島太郎かもしれないわよ」と言っていたが、まさにそのとおりだった。それでも、私はどうしても3年間暮したあたりを見てみたかった。 おどろいたことに、そのアパートはぽつりと残っていた。ただし無人で、窓や扉は板で釘付けされていた。昔はなかった向いのアパートに住む方に伺うと、たぶん間もなく取り壊されるだろうということだった。私が入居したときは新築成ったばかりで、私は最初の住人のひとりだったのだ。40年以上経って、あたりがすっかり変ってしまった光景にとりかこまれて、それはみすぼらしい老残の姿をさらしていた。 「行きましょう」 「次はどこに行くのかしら?」と、etukoさんは言った。
May 21, 2006
コメント(0)
ここ1週間、雨が降ったり止んだりの天候がつづき、5月も半ばを過ぎたというのに肌寒い日だった。土曜日になって、パッと日射しがもどってきた。すると、薔薇がいっせいに開花した。かぞえてみると30ばかり。ふくらんだ蕾はまだまだ数えきれないほど。 亡くなる3年前、父が、それまで鉢植えだった蘭をなにを思ったのか二つの株に分けて直植えにした。我家の庭は、花壇風ではなく、どこかから種が飛んできて根付いた野草もそのままにしてあるので、ドクダミもあればシダもある。蘭は丈の低い雑草のなかに埋もれてしまった。これでは育つまいと思ったが、誰も何も言わずそのままにしておいた。さすがにその年は花をつけることもなく、冬には雪に埋もれた。ところが、案に相違して、3年目も生きていて、花を開いたのだ。隣家の夫人が回覧板をとどけに来て、「まあ、蘭が直植でよく育ちましたこと」と関心していた。その蘭が、ことしも大きな蕾をつけている。母は、やはり鉢植えにしたほうが良くはないかと言う。たしかに、4,50cmにも伸びる剣のような葉は、雑草のなかで居心地良さそうではない。葉のなかほどが枯れているものもある。私は、さてどうしたものかと考えている。 浮世絵のなかに蘭が描かれている。また、禅画にも描かれているのを、かつて二松学舎教授で書家の寺山旦中氏所蔵の一幅で知った。 それらの画中の蘭は、日本の固有種である。現在、園芸種として愛好されている蘭は、おそらくほぼすべてが熱帯性の野生種を手間ひまかけて改良(?)したものであろう。だから、蘭といえば輸入植物だと思っている方もいるかもしれない。しかし、日本にも野生種は多いのである。113種ある。「えびね」や「さぎそう」、あるいは「きんらん」や「せっこく」などを和蘭として育てている人もいるだろう。私は子供のころ植物採集にあけくれていたけれど、「あつもりそう」の採集地はいまでも憶えている。「あつもりそう」もラン科である。 植物図鑑の和名は、近代植物学以降に命名されたものも多いが、もちろん古くから呼びならわされている名前がそのまま正式な和名とされたものも少なくない。蘭のなかに江戸時代(18世紀)に命名され、その命名者がはっきり分かっているものがある。「せいたかすずむしそう」という。本草家(植物学者)の阿部櫟斎(れきさい)という人が命名した。 上記の「せっこく」は漢名の「石斛(せきこく)」の読みがつまったものを、そのまま正式和名としているのがおもしろい。根を漢方薬に使うらしい。日本では古くは「すくなひこねのくすね」と称していたという。「少彦の薬根」という意味である。あるいは「すくなひこぐすり;少彦薬」とも「いわぐすり;岩薬」とも言ったそうだ。岩薬といったのは、この植物が森林の岩の上に着生しているからだろう。過日、5月5日を「薬の日」と称し、薬草摘みにでかけた時代があったことを書いた。きっとこの「せっこく、岩薬」もそんな折りに摘まれたのであろう。ちなみに少彦は、『古事記』では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と記されている。神産巣日神(たかむすびのかみ)の子供。背丈が小さく(少彦とは小さい男という意味)、すばしっこく、忍耐強かった。大国主神(おおくにぬしのみこと)の協力者で、医薬の法などを定めたということになっている。 余談だが、私が少名毘古那神について何故記憶しているかといえば、『古事記』を読んでいただけると「あっ、なるほど」と思われることだろうが、お手許に『古事記』があるかどうか。じつは、簡単に申せば、古事記には次のように書いてあるのだ。 大国主神が出雲の御大の御前(みほのみさき;現在の美保岬)においでの時、海の白い波頭に、ガガイモの実を半分に割った舟に乗り、蛾の皮を剥いだものを身にまとった神がやってくるのが見えた。「あれは何者か?」と問うが、誰も知らない。供の諸神に尋ねても、「知らない」という答え。するとヒキガエルが、「きっと崩彦(くえびこ)が知っているにちがいありません」と申しあげたので、崩彦をお召しになって問うと、「あれは神産巣日神の御子の少名毘古那神でございます」と言う。そこで大国主神は父である神産巣日神にその事実を確かめると、たしかにその通りだ、「したがって大国主神とは兄弟。今後はふたりでこの国をつくるように」との宣辞があった。 二神は協力して国作りをする。その後、少名毘古那神は常世の国(海のはるか彼方にある不老長寿の国)に渡って行った。 こういう次第で、少名毘古那神の名を顕わした崩彦はいまでは「山田のそほど(山田のかかし)」と言われている。この神は歩けないけれど、世の中の事はなんでも知っている神である。 と、以上のように記されている。「山田のそほど」は、古代農民の案山子(かかし)に対する信仰をあらわしていると解釈されている。 私は小学低学年のころ、2,3の悪童に「山田の案山子」と言われたものだが、長い間、単に山の田圃に立っている案山子のことで、それ以外の深い意味はないと思っていた。ところが、意外や意外、『古事記』のなかにレッキとした謂れがあることを知った。これには正直、ビックリした。案山子に来歴があるとは。しかも子供のころに悪童たちに囃されて、ショゲルことはなかったのだ。まあ、私は何を言われてもほとんど意にかいさない子供だったので、ショゲルと言っても言葉のアヤだけれど。 蘭から始まって古代農民の案山子信仰まで述べたが、ははは、これが私の世界捕捉の一つの方法。世界っておもしろい。世界のネットワークということを、私はこのように考えているのだ。 老子に「天網恢恢疎にして漏らさず」とある。本来は政治倫理的なことばで、「天の網の目は大きく穴だらけのようなのだが、どんな悪事も見のがさず掬い取ってしまう」という意味。しかし私はこの言葉を本来の意味から解放して、絵描きらしく天の網そのものを壮大にイメージし、宇宙論・存在論・文明論として捉え直すならば、人間中心主義から脱却した生態学的倫理観を反映する新しい世界共生の哲学が見えてくる。天の穴だらけのような大きい網の目のように、ゆるゆるとしていながら緊密な関係。万物万象は世界のネットワークの一つのステーションなのだ。みな繋がっている。ゆるゆると繋がっている。----学問というのは、そういう繋がりを顕わして見せることでしょうね。
May 21, 2006
コメント(0)
大学時代、私は日本の名優といわれる俳優のナマの舞台を見ておこうと、乏しいお小遣をやりくりして劇場に通った。いまは亡い方々も少なくない。昨日書いた千田是也氏もその一人である。滝沢修、山本安英、杉村春子、北林谷栄(御健在)、宇野重吉。そして、女優でもあった越路吹雪。 舞台演劇というものは、いまでこそTV中継されたものを録画しておくことができるけれど、しかしそれはやはりナマの舞台をそのまま伝えているわけではないので、その芸術は一瞬一瞬、舞台上で消えて行くものなのだ。あるいは観客の記憶や、心のなかだけで生き続けるもの。映画のように何度も繰り返し見ることができない。たとえ同じ芝居を毎日見に行ったとしても、厳密に言えば、今日見ている芝居は昨日見たものとは違っているはずだ。そのことは観客よりむしろ俳優のほうが実感していることだろう。後に名舞台といわれるような芝居でも、何日間かの公演の間には出来不出来があると言って、あながち間違いではないのだ。 そういうナマモノの舞台演劇を見つづけることによって、いまになってみれば、私の目は鍛えられ、感覚もまた鍛えられたような気がする。すくなくとも上にあげた名優たちの舞台が、私の思い出として芳醇な香を今に残しているのである。 以下に私が見た作品をあげてみよう。 滝沢修(1906-2000) アーサー・ミラー作『るつぼ』 同 『セールスマンの死』 三好十郎作『炎の人----ヴァン・ゴッホの生涯』 滝沢修を初めて見たのは新藤兼人監督の映画『原爆の子』(1952)であった。長野県川上村の小学校の音楽室でのこと。小学校1年だった。出演者は他に乙羽信子、清水将夫、北林谷栄。その後、『るつぼ』に出演している氏に、直接お目にかかった。お目にかかる前に私はその舞台を見ており、感動のあまり全身が痺れてしまい、終演後もしばらく席から立ち上がることができなかった。そのことを氏に申し上げると、「ホーッ!」と言ってびっくりした顔をなさった。そして、「初めてそのようなお話を聞きました」とおっしゃり、そのときの私の状態を尋ねられた。そして、私が持っていたパンフレットの御自分のポートレートのところに署名してくださった。 滝沢修の『夜明け前』における狂気の演技は、それを見た人の間では語り種になっているようだが、残念ながら私はついに見ることができなかった。ただ、氏の狂気の演技を『炎の人』で見ている。この芝居の登場人物は、ほとんどが実在した人たちなので、そのメーキャップたるやまるで写真から抜け出したようだった。滝沢のゴッホはもちろん、清水将夫のゴーガンも、山内明のロートレックも、じつに良く似ていた。滝沢のゴッホは、ゴッホ映画の俳優たち、----ヴィンセント・ミネリ監督『炎の人ゴッホ』(1956)のカーク・ダグラスや、ロバート・アルトマン監督『ゴッホ』(1990)のティム・ロスや、黒澤明監督『夢』(1990)のマーティン・スコセッシにならべて格段にゴッホらしいゴッホだった、と私は思っている。 ところで「狂気」だが、それはいわゆる黄色い家で自分の耳を切り落すシーンに凝縮されている。部屋の中ほどにテーブルが置かれてい、その向こうにゴッホが観客に向って立っている。凄まじい目をして、剃刀で左の耳を切り落とす。そのとき滝沢は激しく鋭く「シュッ!」と声を出し、一瞬にして身をかがめ、テーブルの陰に沈む。と同時に舞台は暗転する。 上手い演出だ。これは映画のカットバック手法を応用したのではあるまいか、と私は思った。舞台劇は実際の時間が流れていて、その流れを断ち切るには場面転換しか方法はない(ないかもしれない)。まして耳を切り落して、そこでもたついては感興をそぐばかりではない、ゴッホの張りつめた神経が一瞬にして切れてしまう表現としては、人間の日常的な動作が持続していることはもはや余計なのだ。「シュッ」という叫びに神経の断弦の響きを、そしてテーブルの陰に素早く身を沈めることで、日常的動作の異化がなされたのだ。----あの一瞬に劇場全体に漲った緊張を、私は忘れない。トリハダ立つとは、そのときの実感だ。 ついでながら、劇中、ゴッホが「ひまわり」の絵をナイフで切裂く場面がある。このため滝沢氏はじめ、劇団の絵心ある俳優たちが、公演回数分の「ひまわり」をせっせと模写したのだそうである。 山本安英(1906-1993) 木下順二作『夕鶴』 これはもう山本安英、一代の名舞台である。私が観たのは1969年の初めだから、通算公演何回目になるのだったか。共演は他に与兵に宇野重吉、惣どに下条正巳、運ずに米倉斉加年。私の耳には山本のセリフ回しの声がありありと蘇ってくる。なんだか真似したくなる。「与兵ォ、あんたー、そんなにー、都へー、行きたいのー↑」 あの独特の間(ま)と抑揚。静かに流れるような動きのなかの、突然の素早さ。鳥の本性が垣間見える瞬間である。まるで日本舞踊のしぐさのように純白の着物の袖口をもって翼をひろげる、その顔にたたえられた深い悲しみ。 「わたしが布を織っているところを、けっして見ないでね」と言い残して機織り部屋に姿を消す「つう」。長い時間を待ち続ける与兵。「見たいのー。見たいのー」 与兵はついに機織り部屋の戸に手をかける。 ある公演では、観客席から悲痛な叫びがあがったという。「のぞかないでー!」 ----この日、私は思いがけない対面をした。どういう経緯だったか今ははっきりしないが、ともかくその劇場の誰もいないロビーにつづく廊下で、たったひとりポツネンとたたずむ作者木下順二氏をお見かけしたのである。氏は眼鏡をかけていらした。それは雑誌等に掲載されている写真の眼鏡のない顔とは少し印象がちがっていた。私は近づき、「木下先生でございますか?」と声をかけた。「はい、木下です」と、氏は眼鏡をお取りになって、学生ッ気の抜け切らないような私に丁寧にお辞儀をされた。私はそれだけで敬服してしまった。 じつは私は会津若松にいたころ、高校1年から3年まで、童劇プーポという、大人が演じる児童劇団に所属していた。そこでの入団してすぐの初舞台が、いま目の前におられる木下順二氏の『おんにょろ盛衰記』だった。もしかしたらそんなことをお話ししたかもしれない。氏は私の携えていた『夕鶴』のパンフレットを開き、「作・演出者として」とあるページの御自分の活字のお名前の横に御署名くださった。私はこの思いがけないできごとに、たぶんアガッテしまったのだろう。話したことをすっかり忘れてしまったのである。 そのときのパンフレットが現在も手元にある。 杉村春子(1906-1997) 森本薫作『女の一生』 テネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の電車』 これらは二作とも杉村の代表作。『女の一生』の幕切れの、「誰が決めたのでもない、私自身が決めた道ですもの」というセリフ、私はひそかに何度口にしてみたことか。また、『欲望---』の地方巡業の最中、たしか杉村氏の御主人が亡くなられた。私はもう大学生で東京にいたのだが、札幌へ向う途中、遠回りして会津若松に立ち寄った。そしてその夜、杉村春子の『欲望という電車』が市民会館で上演されることを知った。誰に連絡したか忘れてしまったが、急遽チケットを用意してもらって、これを見た。じつは杉村氏の御主人が亡くなったのはこの日か、前日のことで、杉村氏は東京と会津若松をとんぼ返りしていたのだということを後に知った。それで思い出したのは、終演後、会館の玄関を出ると、大型トラックが横付けされていてすでに大道具などを積み込んでいたのを目にした。巡業公演というのは概ねそのような慌ただしさであることは知っていたが、「それにしても、何だかただならぬ片づけの早さだな」と私は思ったのだ。役者というのは親の死に目にも合えないとは、しばしば聞く言葉だけれど、後日知ったこととはいえ実際に杉村春子という大女優のそのような場を目撃するとは思ってもみないことだった。おそらくこの時の事情は、杉村氏側の記録で日時を確認できるであろう。 さあ、いささか長くなったきた。あとお二人をお名前と、私が見た作品だけをのべるにとどめよう。 北林谷栄(1911-) 小山祐士作『泰山木の木の下で』 北林演じる老婆神戸ハナは、若いころ、「産めよ、殖やせよ」の国策にのり9人の子供を産み、優良多産者として表彰されたことがある。しかしその子供たちは悉く原爆で死んだ。これでは戦争で子供を殺すために産んだようなものだと思ったハナは、戦後はひそかに堕胎業を営むようになる。そのほうが人助けだと考えたのだ。しかしそのために犯罪人として、刑事が調べに来た。---- この神戸ハナは北林なくしては考えられないような人物で、哀しさと剽逸さをあわせもつ老婆をみごとに造形していた。 私が見た彼女の舞台はこれ1本だが、映画は随分見ている。『キクとイサム』『ビルマの竪琴』『にあんちゃん』『キューポラのある街』、最近作は『阿弥陀堂だより』。現在96歳だが、たしか93歳を過ぎても矍鑠として舞台に出ていた。 宇野重吉(1914-1980) アレクセイ・アルブーゾフ作『イルクーツク物語』 木下順二作『オットーと呼ばれる日本人』 『夕鶴』 『泰山木の木の下で』 映画出演作は沢山見ている。『痴人の愛』『愛妻物語』『しいのみ学園』『第五福竜丸』その他。
May 20, 2006
コメント(0)
さきほどまで、つまり午後9時から11時まで、CATVで1963年の堀川弘通監督の映画『白と黒』を観ていた。43年ぶりに観た。推理映画として実に良くできている。脚本は橋本忍。 この作品はDVD化されていないらしいので、TV放映を見られたことは私には幸いだった。43年前に観て、記憶に焼き付いている二つのシーンがあり、私としてはその記憶が正しいかどうかを確かめたいと想いつづけてきたのだった。そして、今日、それが確かめられたわけだ。記憶は正しかった。 しかし一方で、記憶違いにも気がついた。それはこの映画を観た場所である。私はこれを八総鉱山小学校の講堂兼体育館兼土曜日の夜の映画館で観たと想っていた。しかも、そこで観た私にとっては最後の映画だと。ところがさきほどあらためて堀川監督のフィルモグラフィーを調べたところ、『白と黒』の公開は1963年4月10日となっている。私たち一家が10年間暮した八総鉱山を去ったのは、3月28日だった。公開日の4月10日という記録が正しければ、そこには2週間のずれができる。----これは、どうしたって、私の記憶違いと考えるしかない。 私たち一家が八総鉱山から去るとき、タクシーで鬼怒川まで行き、東京経由で札幌に向った。私は高校2年生を終了したばかりで、大学受験を見込んだ残りの一年間をそのまま会津若松に一人で残って暮すことにしていた。そのため、家族は札幌へ引越してしまったが、私は1週間ばかり札幌で過しただけで、すぐに再び会津へ戻ってきたのだった。『白と黒』を観たのは、おそらく会津若松に戻って間もなくだったのだろう。 記憶にあることと、いま事実と分かったこととの2,3週間のずれは、この頃の多忙の日々と環境の変化のせいかもしれない。いや、会津若松での高校生活はそれまでと何等変りわなかったのだけれど、おそらく内心は不安定だったのだろう。 その当時書いた『一日』という短い散文詩が、その私の不安定さを表わしているかもしれない。 『一日』 茶碗の中に俺の神経がいっぱい詰まっていて、青 い陰影がいっぱい揺れている。俺は日に焼けた畳 を、蟻喰のように、舐めまわしたい衝動を一生懸 命抑えつけながら、茶碗の中を見つめている。こ の滑稽な光景に病室の黴臭さが積って行く。しん しんと積って行く。病室の窓にはレースのカーテ ンを掛け、更にその上に厚いギャバジンのカーテ ンを掛ける。一日中、日のささない湿った臭い。 しかし、畳はこんなに日に焼けているというのだ さて、会津若松で『白と黒』を観たとなると、その映画館は神明通りにあった「栄楽座」だったのだろう。しかし、観た場所を間違えて記憶していたくらいだから、いまそれが訂正されても、蘇って来る周辺映像はない。ただ、映画のなかの二つのシーンは、私の記憶にあざやかな映像として刻まれたのだ。 この映画は、タイトルが出る前に、ひとつの殺人シーンから始まる。 仲代達矢扮する青年弁護士は、師でもあり共同事務所の先輩でもある弁護士の夫人(淡島千景)と、長い年月の不倫関係にあった。青年弁護士はおそらく別れ話を切り出したのであろう、夫人に「男妾」と罵られ、あげくのはてに夫人を絞殺してしまう。彼は逃走するが、途中で顔見知りの若者に姿をみられ言葉をかけられる。 事件の捜査にあたったのは西村晃扮する警部、そして検察庁の担当官は落合検事(小林桂樹)。高名な弁護士の夫人が殺害されたのだから、担当官にはある種の気構えがあった。しかし、事件は意外にもすぐに解決してしまった。挙動不審の男を尋問しようとしたところ、男は逃走したのだ。捕まえてみると宝石泥棒(井川比佐志)で、しかも盗品は弁護士夫人の持物だった。問いつめると、初めはしらを切っていたのだが、ついに夫人殺害を認めたのである。 腑に落ちないのは青年弁護士の方である。このまま口を閉ざしてすめば、足手まといでわずらわしくなっていた夫人の軛から脱出できたことだし、いま婚約中の美貌の彼女(大空真弓)との結婚もうまくまとまるだろう。しかしもともと優秀な弁護士の彼としては、心に次第にのしかかってくるものもある。夫人の葬儀後の火葬場で、彼は猛火の中で崩れる夫人の柩の幻をみる。のみならず彼は、この殺人事件の「犯人」の国選弁護士として裁判を担当することになった。法廷で彼は、「犯人」の死刑が確定して絞首刑になる幻を見る。バタンコが開いて、首に綱をまかれた囚人が落下してくるイメージである。 この後の展開については推理映画のルールにのっとって、述べることを止めよう。2転、3転、4転というドラマがつづく。 ところで私が43年間忘れることがなかったシーンというのが、青年弁護士の幻想。すなわち、火葬場の焼却炉のなかで火焔につつまれて焼け崩れる柩。わずかに夫人の骨が見える、そのシーン。そして死刑囚がバタンコ落ちする衝撃的シーン。それは、法廷の机に坐ってうつむく青年弁護士のシークエンスにいきなりインサートされる。画面右上から、何か蓋が開いたと見た瞬間、首を綱でくくられた男がドサリと落ちて来るのだ。たちまちその映像は次の画面に変ってしまう。まさに一瞬のシーンで、それだけに観ている私の衝撃はおおきかった。そして、そのふたつがそのままの映像で記憶されていたのであった。 私はこの記憶をたしかめるだけでも、堀川弘通監督にお会いしたかった。以前も書いたと思うが、私が世田谷に住んでいたころ、その近所には黒澤監督邸や山田洋次監督邸や深作欣二監督、あるいは三船敏郎邸や石原裕次郎邸があり、堀川監督邸は我が茅屋の斜向いだった。青少年時代の私なら、怖じけることなくずうずうしくその門をたたいたかもしれないが、もう若気の至りと言ってはいられない年齢になっていた。極近くに居て、敬愛の念だけで過してしまった。 『白と黒』が公開された翌年、1964年の3月、私は大学に入学して上京したのだが、きょう映画を観て、そのころの東京の風景が撮影されていて、なんとなく懐かしかった。新宿か新大久保あたりの国鉄(現在のJR)のガード付近や、霞ヶ関の検察庁だった。また、小道具に「hi-lite(ハイライト)」が出てきた。落合検事の愛用するタバコがそれだ。このタバコは国産で初めてのロングサイズ。1960年の6月20日に発売されていた。パッケージのデザインは和田誠氏である。たしか吉田茂もこのタバコを愛用していたと聞いた覚えがある。吉田茂といえば上等なハバナ葉巻を銜える姿が有名だが、どうもしょっちゅう葉巻ではなかったらしい。吉田茂がポケットから、あるいは羽織の袖から、空色のハイライトを出す姿を想像するとちょいと愉快である。 それはともかく、『白と黒』のなかのハイライトは、当時の観客で気が付いた人がいれば、たぶんオシャレな小道具と思ったかもしれない。現在から見ると、それは画面の中にきっちり時代を表現していると見ることができよう。 主演俳優の脇を俳優座のベテラン俳優たちが大挙して固めている。千田是也、小沢栄太郎、三島雅夫、永井智雄、浜田寅彦の各氏。そして菅井きん氏。こういう顔ぶれを見ると、いかにも大人の映画と言いたくなる。厚みのある、確かな演技が、安心して見ていられる映画的日常のリアリティを作り出している。 私は大学時代はこれらの俳優が出演する舞台を見るために、お小遣をひねり出しては劇場へ通ったものだ。千田是也氏は日生劇場での『ファウスト』でメフィストフェレスを演ったのを見ている。ファウストは平幹二郎。マルガレーテは岩崎加根子だった。 というわけで、ひさしぶりに邦画を観たが、おもしろい作品だった。
May 18, 2006
コメント(0)
ジャンヌ・モローが、諸外国から絶賛された『ゼルリンヌの物語』という芝居の来日公演を承知し、また自身が強くそれを望んだのは、それより5年前の1985年に第一回東京国際映画祭での日本の観客の反応を実感していたかららしい。そのとき彼女は、自身の監督第2作目の『ジャンヌ・モローの思春期』を、「女性映画週間」に出品するために来日した。 しかし『ゼルリンヌの物語』公演が実現するまでにはなかなか大変だったようだ。さすがに国際スターというべきか、彼女の過密なスケジュールを調整することは困難をきわめ、彼女の強い意志でようやく1990年の1月30日から2月19日までの来日スケジュールができたのは、公演4ヶ月前であったという。もちろん、どの劇場にもすでに空きがなく、新宿のシアターアプルは先約者が格別の好意で譲ってくれたらしい。 ちなみにこの来日公演は、2月2日から7日までシアターアプルで、9日に大阪天王寺の近鉄劇場、10と11日も大阪国際交流センター、13日から15日まで京都府立文化芸術会館、というスケジュールだった。 4ヶ月前に来日が決定したというのだから、私がなんの情報ももっていなかったのは納得できる。のみならず私自身が多忙な日々をおくっていた。雑誌連載広告に使用した作品のスポンサー主催の個展が終了したばかりで、さらにその作品の一部を中部電力碧南火力発電所がオープンを準備していた「たんとぴあ」というテーマ館に収蔵したいという申し出があり、そんなことの打ち合わせや準備に追われていたのである。 それはともかく、私は息せき切って初日のシアターアプルに駆けつけた。当日券がのこっているとは思わなかったけれど、確かめないで諦めるわけにはゆかない。そして、昨日話したように、たった一枚残っていたのである。開演15分前だった。 当然ながら良い席ではなかった。最後列である。しかも右隣に、フェイクの革の上下スーツ、コートまで革製のものを着たバカな男が坐っていて、身じろぎするたびに「ギュッ、ギュッ」とその服が鳴った。革服なんて午後5時以降に着るものではないし、まして劇場に着て来る服装ではない。洒落たつもりであろうが、とんだ見当ちがい。腰回りや腿にゆとりがない仕立てだから、坐ると窮屈らしく、やたらに動くのだ。そのたびに「ギュギュッ」「キュルキュル」と、うるさいこと。 私はあるとき能楽堂で、開演中におしゃべりが止まない客を、「おだまりなさい!」とドスをきかせて一喝したことがある。国会図書館のリファレンス・ルームでも年輩者を一喝したり、公徳心のない輩やデリカシーに欠ける無礼者は、よくやっつけるのだ。しかしこの革服の場合、まさか「その服をお脱ぎなさい!」とも言えないので、堪忍した。 『ゼルリンヌの物語』はヘルマン・ブロッホの原作。ドイツ語で書かれていて、『女中ゼルリンヌの物語』というのが正しい。フランス語に脚色したのはアンドレ・R・ピカール。演出はドイツのクラウス=ミカエル・グリューバー。 この演出家については、ヨーロッパ演劇に詳しいかたなら、この前年の1989年のパリのシーズンは、あっちの劇場こっちの劇場で彼が演出した出し物がかかっていたことを御記憶かもしれない。いわば引く手あまたの人気演出家である。フランスきっての大女優ジャンヌ・モローを演出するに何の不足もあろうはずがなかった。 登場人物はふたり。ただし相手役の若い男は昼寝の最中で、彼が投宿している貴族の館に長年仕える女中ゼルリンヌが話しだした物語の聞き役。あいづちを打ちながらの短いセリフが10ばかり。デンマーク出身のペタ・ボンケという俳優が演じている。つまりこの芝居はほとんどジャンヌ・モローの一人芝居といってもよく、彼女のセリフ術や極度の集中力でできあがっている。 ジャンヌ・モローが貴族の館の女中を演(や)るとなれば、私はすぐさまブニュエル監督の『小間使の日記』に出演していたジャンヌ・モローを思い出す。私はこの映画を、昔新宿にあったアートシアター蠍座で、三島由紀夫の切腹映画『憂国』の併映作品として観た。そのことも述べてみたいが、今日はとりあえず止めておく。フランスの新聞『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』の当時の批評のなかに、ジャンヌ・モローの女中ゼルリンヌは「彼女が一生をかけて演じてきた数々の登場人物のなかから、その集大成とも言うべき人物を見い出した」と述べているようだ。 物語はこうだ。 言われるままに男爵家の館の女中になったゼルリンヌは、あるとき男爵に乳房を触られるが、男爵はただそれだけの思い出を彼女に刻んだだけで、男爵の高潔な魂は愛のない男爵夫人へ夫として生涯の貞節を捧げていた。ゼルリンヌは館にやってくる前、将軍の家に仕えており、従卒たちに若い欲望の身をまかせたこともあった。しかしいまや青春は過ぎ去ったのだ。男爵夫人の身のまわりの世話をするようになって直ぐの頃、夫人が妊った。そして女の子を出産したが、この子は男爵の子ではなく、若い美貌の男の胤。赤ん坊が生れて2ヶ月後に、その男は再び館を訪れるが、赤ん坊とは無関係という素振りをするばかりかゼルリンヌに対して欲望の目をむけるのである。 ゼルリンヌはその男を恋するようになり、「狩猟小屋に行こう」と誘われるままについて行き、身をまかせる。その狩猟小屋は男爵夫人がこの男と密会するために、男をそこに住まわせようと考えた場所だった。ゼルリンヌの心のなかには男爵への想いや、妊娠し出産した男爵夫人への嫉妬や女としての競争心があった。私の躰は男を歓ばせるのだ、そういう手管だって心得ている、と。 男に身をまかせながらゼルリンヌは歓喜する。しかし、それは一瞬のことだった。あとには虚しさだけが残った。男は男爵夫人には長い手紙をよこすのに、ゼルリンヌには梨の礫。ゼルリンヌは夫人へ届いた男の手紙を盗み読みする。男はあの狩猟小屋に、ひそかに女を住まわせている。男爵夫人はそれを知りながら、男を引き止めるために知らぬふりをしている。 ある日、男からゼルリンヌに手紙が届く。「狩猟小屋に来い」と、ただそれだけの。 そして起った殺人事件。狩猟小屋で女が殺されていたのだ。犯人はあの男。そしてこの事件の裁判長は男爵。ゼルリンヌが盗んだ手紙は決定的証拠。---- 「40年前、あの方が私の乳房をつかんだ。----そして、私が愛したのは、あの方ただひとり。私の生涯をかけて----、私の魂をかけて---- 「せっかくのお昼寝を、私のお喋りで邪魔をしてしまいました。もう少し、うたた寝をなさいませ」 ゼルリンヌはそう言い残して部屋をでてゆく。 ジャンヌ・モローは、やわらかく低い声で、ゆっくり語る。それは重厚な忍耐である。セリフとセリフの長い間(ま)。その恐ろしいような緊張が張りつめた時間。 寝ている男のために、彼女は林檎を剥く。林檎の皮が垂れ下がってゆく時間。皮を剥きながらその林檎を無言で見つめる彼女の、凝縮されてゆく人生。優しい残酷。一瞬ほとばしる暴力性。 ゼルリンヌが暴き出したのは上流階級の偽善と脆弱さだけではない。彼女自身が埋もれてゆく人生の深い闇である。 ジャンヌ・モローの描き出した女たちというのは、強く確固とした意志の肖像であったと言える。それはまた女優としての彼女自身と重なるものだったのではあるまいか。この『ゼルリンヌの物語』の企画が彼女にもちこまれたとき、彼女はゼルリンヌに確かな共犯関係を見い出したとつたえられている。 このひとの女優としての存在感というか、映画の場合の画面のひきしめかたというのは、ほんとうに驚嘆にあたいする。私はトリュフォー監督の『大人はわかってくれない』のなかに、ほんの1カット、通行人として出演していたジャンヌ・モローを忘れることができない。この女優の舞台を直に観ることができたことは、私の喜びなのだ。
May 17, 2006
コメント(0)
もうすっかり死語になってしまったようだが、ヴァンプ(Vamp)という言葉がある。妖婦のことだ。「ヴァンプ女優」などと言う。1915年から16年にかけて製作されたフランス映画、ルイ・フィヤード監督の『ドラルー』という連続活劇で、その最初のヴァンプ女優は登場したという。であるからして、もちろん私はヴァンプなどという言葉を実際に使用したことはない。ヴァンプは要するにヴァンパイア(Vampire)の略語。つまりこのブログで二度にわたって書いて来た吸血鬼のことである。 『ドラルー』に出演して最初のヴァンプ女優という、アリガタイ名称を受けたのはジュリエット・ミュジドラ(1889-1957)である。彼女の出演作を一度も見ていない私としては、すべて物の本に頼るしかないのだが、ミュジドラは『ドラルー』の第3作目にあたる「血の暗号文」から、女賊イルマ・ヴェップという役名で登場した。映画のスティール写真を見ると、頭から足の爪先まで黒い絹のボディースーツに身をつつんでいる。そのエロティックな姿態が一世を風靡したわけだが、今みるとスピードスケートかスキーのウエアとまるっきり同じなので、詩人のルイ・アラゴンが夢中になって「第十のミューズ」などと彼女に詩をささげていることを思うと、やや拍子抜けする。 しかしこのような大衆娯楽活劇にもフランスのエスプリというか、私などは嬉しくなってしまう趣向はかくされていた。役名を女賊イルマ・ヴェップとカタカナで書いては、それがわからない。Irma Vep と書けばお分かりになるだろうか。そうです、Vampire(ヴァンパイア)の完全なアナグラム(綴り変え)なのだ。 観客たちはこのアナグラムにすぐに気が付いたのでしょうね。吸血鬼と。それでヴァンプという言葉がうまれた。日本語には毒婦という言葉があるが、これにちかいのがヴァンプである。 フランス女優の系譜というか、その映画史を70年代半ばくらいまで瞥見すると、画期的という意味で社会的センセーションを巻き起こした4人の女優をあげることができそうだ。最初はミュジドラである。そして『巴里祭』や『地の果てを行く』のアナベラ。ついで『うたかたの恋』『不良青年』『背信』のダニエル・ダリュー。さらに『真実』や『私生活』や『素直な悪女』のブリジット・バルドー。 ミュジドラがヴァンプなら、アナベラは可憐、ダニエル・ダリューはフランス的な美貌と楚々としたなかからあふれる媚態、そしてブリジット・バルドーは男への従属から脱した自由を謳歌する知的な肉体女優といえるだろう。 私は20代の頃からバルドーが好きだった。そのことを友人の能楽師梅若猶彦氏に話すと、「エッ!」と目をむいて、「山田さんは彼女のような人を探しているわけですか?」「探しているというわけでもないのですが、好きですねー」「どういうところがです?」「まず脚。それもアキレス腱。ハイヒールシューズを履いた脚の美しさ。男の首に回した手の指のすばらしさ。それに、彼女はなかなかの教養人らしいですよ」「なるほどねー。でも、私なんか、まず、適わないと思ってしまいますね」「ウフフ、そりゃ、私だって適わないとは思いますよ。でも、そこが、ウフフ----」 男の首に回した手の指というイメージは、ルイ・マル監督『私生活』(1962)のなかで、マルチェロ・マストロヤンニに対しておこなった仕種。あんな表情の女の指は見たことがない。彼女のアキレス腱の美しさというのは、細く締まっていて、強靱さがある。女性の脚というのは余ほど美容的に鍛えてないと、どうしようもないほどだらしなくなってしまう。最近ではやたらに細ければ良いとでもいうような風潮があるが、鶏のガラのような脚には魅力はない。だいいち、女性の膝の裏(膕;ひかがみ)というのはとても動物的な感じが露呈するところで、特に成熟してない女は、私に言わせるとまるでダメだ。形がととのっていないのだ。もっとも動物的だから官能的だと感じる人もいる。まあ、それはそれでよろしい。 かつて映画評論家の某氏が、ブリジット・バルドーは永遠に成熟しない女として「ロリータ・コンプレックス」を誘うなどと書いていた。とんでもない。この人はどこに目をつけているんだ、と私は思ったものだ。彼女の肉体の美しさというのは、やはりフランス的な教養の成果というべきだろう。マリリン・モンローとひかくしてみるとそれが納得できようというもの。 フランス女優のなかで、私が描いてみたいと思う顔はジャンヌ・モロー。ごく若い頃の、気高ささえ感じる美貌も好きだが、『死刑台のエレベーター』以降の、目頭から頬にかけて、薄く削げたように溝ができてしまった顔もいい。女性には失礼だが、知性を秘め、苦悩をつつみこんだ、存在感のある顔というのはなかなかいないものだ。女性の内面の苦悩が、強く美しいと見えてくる顔。シモーヌ・シニョレもそういう顔をもった女優だが、ここは私の好みでジャンヌ・モローなのである。 私は1990年の2月にジャンヌ・モローが芝居『ゼルリンヌの物語』をもって来日公演をしたのを観ている。世界中でそれまでに277回上演され、絶賛されていた。おそらく彼女の代表作となる舞台だった。 じつは私はこの来日公演について全く情報をもっていなかった。たまたまその日、新宿を歩いていて、たしか電柱にぶらさげられた小さな看板をみつけ、立ち止まった。なんとその日が東京公演の初日であるという。時計を見ると開演時間まで幾らもない。私はすぐさま劇場に駆けつけた。当日券が、開演15分くらい前に残っているとは思わなかったが、考えても分らないことは考えずに突進するという私の生き方をこの時も実行したのだ。新宿のシアターアプル。----なんと、たった一枚当日券が残っていたのだ! その話はあしたにしよう。
May 16, 2006
コメント(2)
先日購入したDVDで、テレンス・フィッシャー監督、ピーター・カッシング、クリストファー・リー主演の『恐怖のドラキュラ』“Horror of Dracula”を見た。原作は言うまでもないが、ブラム(エイブラハム)・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)。この映画は、1958年にイギリスのハマー・フィルム・プロダクションズが制作したもので、そもそもは“Dracula”というタイトルだった。DVDの原題が“Horror of Dracula”となっているのは、じつはアメリカのユニヴァーサルがコピー権を買い取ってアメリカ国内で上映する際に付けたタイトルなのである。このことを指摘している日本の資料を私は見たことがないので、一応述べておく。 吸血鬼伝説の歴史は長く、吸血鬼文学も意外なほど厚く豊かな歴史をもっている。それについては外国の研究は枚挙にいとまがなく、Dieter Strum & Klaus Volker : Von denen Vampiren oder Menschensaugern, 1968(ディター・シュトゥルム、クラウス・フェルカー共著『吸血鬼、あるいは人喰い魔について』) の巻末に付された文献目録だけみても300件以上になる。日本におけるその研究の嚆矢ともみなせるのは、新人物往来社刊『恐怖の探究』(1970)巻末の荒俣宏氏編の「世界怪奇幻想文学関係年表」と、種村季弘氏編のアンソロジー『ドラキュラ・ドラキュラ』(薔薇十字社刊)および同氏著『吸血鬼幻想』(薔薇十字社刊、1970)であろう。 種村氏の「吸血鬼幻想」は1968年に雑誌『血と薔薇』創刊号に、また同書の中の「吸血鬼小説考」の原型となったエッセーは1969年新人物往来社刊『真紅の法悦』に発表されたが、私の書庫にはそれらすべてが所蔵されている。 ところでブラム・ストーカー(1847-1912)の『吸血鬼』が最初に邦訳されたのは1956年のこと。平井呈一氏の訳、『魔人ドラキュラ』というタイトルで東京創元社が刊行した。何故こういうタイトルにしたかを考えてみると、おもしろいことが分る。1931年にユニヴァーサルが制作した映画、トッド・ブロウニング監督、ベラ・ルゴシー主演の『ドラキュラ』“Dracula”が、どうやら日本で公開されているらしいのだが、そのタイトルが『魔人ドラキュラ』なのである。平井呈一氏はそれを踏まえていたわけである。 ユニヴァーサルが映画化する以前、じつは小説が刊行された1897年に早くもイギリスとアメリカで舞台化されていた。特にアメリカにおいては、ベラ・ルゴシーがドラキュラ伯爵を演じて、空前の大ヒットとなった。。そういうわけで原作小説は好評をもって迎えられていたのだけれど、ブラム・ストーカーが成功の甘き香をかいだのはむしろベラ・ルゴシーが舞台にかけてくれたことに対してだったようだ。というのも、ブラム・ストーカーはもとはといえば演劇人。故郷アイルランドのトリニティー・カレッジを卒業後、ロンドンに出て、当時もっとも人気が高かった名優サー・ヘンリー・アーヴィングのマネージャーをしていた。アーヴィングの俳優としての存在感は、歴史的な語り種になっているが、まるで観客や共演者を催眠術にかけるような悪魔的な妖気をただよわせ、本拠地としていたリシアム劇場の黄金時代をつくった。イギリスの俳優で「サー」の称号を授与されたのは彼が初めてであった。アービングはその後、リシアム劇場が火災にあって破産し、ついに再起できずに1905年、野垂れ死にのように世を去った。そのときブラム・ストーカーは58歳で、彼が亡くなるまでまだ7年あった。『ドラキュラ』を刊行したのが50歳のときだから、小説家としては遅咲きだった。しかし刊行と同時に一躍名声を獲得したので、昔付いていたアーヴィングとはその後の人生は真逆を歩んだわけだ。 ヴィクトリア朝最盛期のロンドンの演劇界は大層華やかで、アーヴィングの相手役女優だったエレン・テリーもまた名優として知られている。彼女の周辺に登場する名前は実に壮観だ。グラッド・ストーンやディスレリのような政治家、サッカレーやブラウニングやテニスン、あるいは彼女を熱烈に慕ったバーナード・ショー。もちろんアーヴィングのマネージャーだったストーカーの姿もあっただろうし、彼女の夫のひとりとなる建築家のエドワード・ゴッドウィンはオスカーワイルド邸の設計者である。ワイルドも演劇界の寵児だった。 当時、圧倒的な存在感で舞台の上からヨーロッパ世界をひれ伏せさせた3人の女優がいる。フランスのサラ・ベルナール、イタリアからパリに乗り込んで活躍したエレオノーラ・ドゥーゼ、そしてイギリスのエレン・テリーである。 彼女たちをとりまく芸術家の男たちとの相姦関係はすさまじく、語弊を覚悟で言えば、不倫というならまだしも後には正式な結婚をし、そうしたパターンが何度もつづくのだから、メモでも取っておかないことには何が何やらわからなくなるほどだ。 しかし一方、ロンドンのウォータールー橋は若い女性の自殺の名所になっていて、年間30件にものぼる身投げがあった。これはどういうことかと言えば、ヴィクトリア朝時代の性のモラルは無気味なくらいの禁欲的キリスト教倫理で女性をしばりあげていた。あの拷問のように肉体を締め付けるコルセットに象徴されるように。若い女性はそのように無意識から締め上げられていたので、抑圧された性は彼女たちを「神経症」にしてしまっていた。彼女たちはことごとく不幸だった。そして行き着くさきがウォータールー橋だったのである。 吸血鬼小説の歴史は長いのだが、ストーカーの『ドラキュラ』や、同郷の先輩レ・ファニュが27年前に書いた『カーミラ』の背景には、上に述べたヴィクトリア朝時代の性的抑圧の問題があるということは、知っておかなければならないだろう。 さて私がDVDで見た『恐怖のドラキュラ』だが、主演のクリストファー・リーは先輩格でドラキュラ俳優として名をあげていたベラ・ルゴシーのひそみに倣おうとしたのかもしれない。ルゴシーのと同じ『ドラキュラ』というタイトルに固執し、随分プロモートしてもらったらしい。しかしユニヴァーサルが『恐怖のドラキュラ』と改題することを止めることはできなかったのだった。日本ではさらに改題されて『魔人ドラキュラ』となったとは、クリストファー・リーはおそらく知るまい。
May 16, 2006
コメント(0)
庭のグミが今年は豊作だ。家人が「ずいぶん実がついている」というので見てみると、なるほどそれぞれの枝に30も40も成っていた。まだ青いけれど、これが真っ赤に熟すと、きっとクリスマス・ツリーの豆電球みたいに見えるだろう。 蔓薔薇もたくさん蕾をつけ、二つ三つと咲き始めていることは先日も書いた。が、不思議なことに気づいた。二種のバラは、白に近い薄い黄色と紅のような濃いピンクなのだが、どうしたわけか、ことしは両方とも濃いピンクの花を咲かせているのだ。どうしてこんなことが起ったのだろう。まだ開花前のわずかに笑みをうかべているものも、萼のなかに濃いピンクを覗かせている。 薄い黄色のほうは「羽衣」という種類で、バラ園に苗を注文したときのカタログの写真もそういう色だった。直植えなのでここ4年ほどの間に土の性質が変って来たためだろうか。与える肥料のせいだろうか。 バラというのは手のかかる花で、いや、手をかければそれに応える花といったほうが良いか。丹精すると葉の艶も花の大きさや輝きもちがってくる。逆に言えば、花の様子が好もしくないと、前年の手入れをさぼっていたことになる。 我家の土地の土は本来粘土質なので、園芸には適さない。庭の土を深さ70cmくらいのところから全部入れ替えたいのだけれど、東京というところは残土処理がとても厄介だ。少しづつ気長にというわけにもゆかず、結局そのままになっている。バラを植えたときは、ちょうど書庫用の物置を2棟建てたので、その土台固めに残土を利用したのだった。 目と歩行が不自由な母は、一人で外出ができない。本を読むのに疲れると、花々の様子を見に庭へ出てゆくようだ。きょうは一つ咲いた、明日は幾つ咲くかと毎日かぞえているのである。 閑話休題。 昨日、我家の猫のマリの可哀想なところを目撃した。雨が降っているのに、いつのまにか私の部屋の窓をあけて、葺き替えた小屋根に跳び降りたらしい。私は気がつかず窓を閉めてしまって隣室に行ってしまった。夕方近くなって、窓の外でマリの鳴く声がするので、「オヤッ?」と思いながら開けると、やはり屋根のうえに雨に打たれてマリがいた。「マリ、おいで、おいで」と呼ぶがなかなか跳び上がってこない。私はそのまま顔をひっこめ椅子に凭っていた。「マリ! 早くおいで」と、 声だけかけながら。 2度ほどドタンバタンと音がして、何をやっているのかと、ふたたび顔をだしてみた。私の顔をみて窓下にやってきて、跳び上がった。いや、そうしようとした、そのときだった、後ろ足が雨に滑ったのだ。バタンと大の字に腹這いになったまま、スーッと屋根を滑って落ちていった。「アッ」と私は声をあげ、いまや落下すると見た寸前、足が雨樋にひっかかった。マリは起き上がり、なぜこうなんだ、自分自身が信じられないというような表情で私を見た。よくよく見ると屋根の上に他にも雨を拭ったような跡があった。さきほどのドタンバタンは、この滑り落ちる音だったのだ。屋根を葺き替えたときに、新しく開発されたという屋根材にした。マリにとっては今までの感覚と違うばかりではなく、たしかに硬くツルツルした雨を流しやすい建材なのだった。爪がまったくかからないのである。そういえば晴れているときでも、帰ってくるときの跳び上がる音が何かヘンな具合に聞こえていた。たぶん雨があるなしに関係なく、とても滑りやすくなってしまったのだろう。 窓から腕をのばして抱き上げられる高さではない。「マリ、ちょっと待っていなさいよ」 私は寝室からシーツを持ってきて屋根の上に投げかけた。しかしマリは恐怖を感じているようだった。私の呼びかけに耳をかすことなく、意を決したように下のブロック塀の上に跳び降りると、私の視界から消えてしまった。 まさかミケの家出のようなことにはなるまいと思ったが、家人に伝えて、縁側のガラス戸を20cmほど開けっ放しにしておくことにした。 マリが帰ってきたのは夜8時過ぎだった。1日いっぱい食事をしてなかったので、御飯を催促し、私が自室に引っこむと一緒についてきて何だか文句を言っていたが、「もうネンネしなさい」というと、机のかたわらの棚の上にのって、気がつくとグッスリ寝込んでいた。おそらく不安でいっぱいだったのだろう。家に帰ってきて安心したぶん、コンコンと眠っているに違いない、と私は思った。
May 14, 2006
コメント(2)
DVD店に立ち寄って棚を見渡すと、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズ製作、テレンス・フィッシャー監督の『吸血鬼ドラキュラ』があったので購入した。主演はクリストファー・リーとピーター・カッシング。私は、ピーター・カッシングという俳優の容貌や映画のなかの立ち居ふるまいが、なんとなく好もしく思っていた。ところが考えてみると、ピーター・カッシングの出演作のみならず、吸血鬼映画というものを映画館で見たことがないことに気がついた。記憶にある何本かのそれらは、みなテレヴイで放映されたものだったのだ。あのロマン・ポランスキー監督の飄逸な『吸血鬼』もテレヴィでみたのだったとは、我ながら意外だった。ポランスキーの『水の中のナイフ』や『反撥』は忘れがたく、好きな映画。それらは、今はない新宿東映の二階の映画館で見ている。『吸血鬼』もてっきりそこで見たと思っていたのだが----。 私がイラストレーターとして仕事をするようになったきっかけは、複数の事情がからみあってはいるけれど、プロフェッショナルとして「鍛え」られたのは、講談社児童出版局が刊行したドラゴン・ブックス・シリーズに携わったことだった。ほぼ全巻の挿画を担当し、1年間に約300点余を描いた。毎日1点仕上げていた計算になる。 このシリーズの一番最初が、たしか故佐藤有文氏が執筆した『吸血鬼百科』だった。いま当時の執筆記録を見ると、1974年のことで、6月21日から開始して7月半ばころまでに31点仕上げている。終わるとすぐに次の巻にとりかかり、9月9日までに28点、それが終わる3日前には3巻目にもとりかかり10月22日までに29点を描いている。 そんなわけでイラストレーターとしての出発当初に吸血鬼との「縁」があった。もちろん吸血鬼映画の原作であるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』も、レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』も、東京創元社版の平井呈一氏の名訳で読んでいる。 映画史には吸血鬼俳優の系譜というべきものがあって、最初の吸血鬼スターはセダ・バラ(Theda Bara)。そしてフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ミュルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau)、ベラ・ルゴーシ(Bela Lugosi)、ジョン・ビール(John Beal)、クリストファー・リー(Chrisutopher Lee)、バーバラ・シェリ(Barbara Shelley)、ナンシー・バレット(Nancy Barrett)、エイドリアンヌ・コリー(Adrienne Corri)、イングリッド・ピット(Ingrid Pitt)。 吸血鬼映画はB級映画と、高級な評論家はそっぽを向いてしまうかもしれないが、一般的に言ってホラー映画というのは非常に映画的な題材なのだ。映画のそもそもの始まりにれっきとして存在していた。たとえば1910年代の『ジゴマ』(ヴィクトラル・ジャッセ監督)や、『ファントマ』(ルイ・フィヤード監督)は映画史から排除するわけにはゆくまい。 そこでものはついでと、日本で吸血鬼映画が上映された記録を調べてみた。しかし驚いたことに、1962年にロジェ・ヴァデム監督の『血とバラ』(1960)が上映される以前には、記録がないのである。これは単にB級ということで記録が残っていないのか、それとも吸血鬼映画が輸入されなかったのか。もし後者だとすると、1931年のユニヴァーサル映画『ドラキュラ』のベラ・ルゴシーも、遅れてきた私同様に先輩諸氏も見ていないということになる。淀川長治氏が亡くなり、上映記録が残っていないとすれが、どなたに尋ねればよいのか。双葉十三郎氏は90歳をすぎてなお御活躍で、氏の近年の著書『外国映画ぼくの500本』と『日本映画ぼくの300本』は代理人を介してプレゼントして戴いたが、大作『ぼくの採点表』全六巻にもこの『吸血鬼』は記載されていなかったような気がする。 日本における吸血鬼映画の上映史を記せば次のようになろうか(年号は初公開年)。 1962;『血とバラ』、監督・脚本ロジェ・ヴァデム、撮影クロード・ルノワール、主演アネット・ヴァデム、エルザ・マルティネリ。 1964;『吸血鬼ドラキュラ』、英・ハマー・フィルム、監督ドン・シャープ、脚本ジョン・エルダー、撮影アラン・ヒューム、主演ノエル・ウィルマン、クリフォード・エヴァンス。 1967;『吸血鬼』、監督ロマン・ポランスキー、主演シャロン・テート。 1971;『ドラキュラ・血の味』、英・ハマー・フィルム、監督ピーター・サスディ、脚本ジョン・エルダー、撮影アーサー・グラント、主演クリストファー・リー、リンダ・ヘイドン。 1972;『ドラキュラ'72』、英・ハマー・フィルム、監督アラン・ギブソン、脚本ダン・ホートン、撮影ディック・ブッシュ、主演クリストファー・リー、ピーター・カッシング。 1973;『吸血鬼ブラキュラ』、アメリカ・インターナショナル・プロダクション、監督ウィリアム・クレイン、脚本ジョアン・トーレス、レイモンド・コーニング、撮影ジョンス・チーブンス、主演ウイリアム・マーシャル、ボネッタ・マギー。 1974;『新ドラキュラ・悪魔の儀式』、英・ハマー・フィルム、監督アラン・ギブソン、脚本ダン・ホートン、撮映ブライアン・ブロビン、主演クリストファー・リー、ピーター・カッシング。 以後は『オメガマン』やコッポラ監督の『ヴァンパイア』から『インタビュー・ウイズ・ヴァンパイア』まで数多い。吸血鬼テーマはいわゆるスプラッタ・ムーヴィーへと視点が移動しているかもしれない。私はしかし、どちらかと言えば、ベラ・ルゴーシやクリストファー・リーやピーター・カッシングが出演している時代の作品が好きだ。 私がホラー映画を研究するときにまず開いてみる本がある。デニス・ギッフォード著『ホラー映画史』(Denis Gifford; A Pictorial Hisutory of Horror Movies, Hamlyn Publishing Group Limited,1973)。 これにちょっとおもしろいことが書いてある。つまりドラキュラのイメージを俳優がどのように創造したかということだ。クリストファー・リーのドラキュラ伯爵像はベラ・ルゴーシのつくりだしたイメージを引き継いでいると言われているが、たしかに左薬指にはめている指輪はルゴーシのアイデアだが、クリストファー・リーはそのケープ(袖無しマント)を創案した、と。 私はこういう記述を発見すると、無性に嬉しくなってしまうのだ。 という次第で、購入したDVDをゆっくり見れる時間がくるのを楽しみにしている。
May 14, 2006
コメント(2)
ミステリー小説家の折原一氏が、新刊の文庫本を贈ってくださった。ありがとうございます。 『模倣密室』(光文社文庫、5月20日刊)。これは先に単行本が刊行されたときに、私が装丁のアイデアと装画を担当させていただいた。密室を描くということに工夫をこらした。読者諸兄が理解されたかどうか、私のひねったエスプリに気がつかれたかどうか、いささか心もとないのではあったが。 というのも、私は、密室を描くということを、折原氏の絵描きに対する挑戦状と受け取ったわけだ。 密室の定義というのも大袈裟だが、密室は、部屋の内部から閉ざされている状態で、外部から鍵がかけられた状態はどんなに厳重にしても密室とは言えない。そうでしょう? では一体絵描きの視点は何処に置いたらいい? 内部? そう、結局は内部に視点を置くしかないのだが、しかし内部に置いて、鍵のかかったところを描いたとしても、それで密室になるわけでもない。外部から描いたのと同じですから。 2次平面に描く絵には限界があるのだ。そのことを普段はあまり意識をしないかもしれない。言葉を操る文学と絵画との絶対的な違いということが、折原氏の「挑戦状」の意味なのだった。 じつはこの問題はルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』の挿画家テニエルにつきつけたことと同じだった。キャロルは、笑いながら空中に次第に姿を消してゆくチェシャー猫を描くよう、テニエルに依頼した。映画ならこれは比較的容易につくれる映像だ。しかし2次平面では不可能なこと。テニエルは仕方がない(たぶん、そう思っただろう)ので、漫画のコマ割りのように何枚かに分けて描いた。 『不思議の国のアリス』の初版本に付けられたこのテニエルの挿画は有名なので、きっと御存知の方は多いに違いない。現在でも日本の邦訳本は、その絵をそのまま復写して載せている。 私の描いた『模倣密室』はこの遊卵画廊に展示し、解説もつけてある。ご覧くだされば幸いです。 さて今日頂戴した文庫本の装画はそこをどのように処理してあるか? 担当された杉本氏のお考えはその点に及ばなかったようだ。密室でない密室をお描きになっている。 まあ、私のようなことを考える人はいないだろうから、肩透かしをくったと思うのは私だけであろう。 小説はおもしろい。折原ファンにはお馴染みの黒星光警部が、「ウヒョッ!」と歓喜の叫びをあげる密室殺人事件が7件。 私の母は折原ファンなのだが、同時に黒星警部のファンでもある。折原氏から著書が贈られると、まず彼女に読ませる。喜びながら「ウヒョッ!」と叫びをあげはしないかと、内心ハラハラしているのである。 話題を変える。 昨日、江戸時代の貨幣価値について追記として述べた。その後、いろいろ計算してみた。米1石の価格変動を平均し、それを9万円としてみる。すると、たとえば米沢藩15万石というのは135億円である。地方財政の年間予算が135億円ということだ。童門冬二氏によれば、米沢藩はその88%を家臣の給料にあてていたという、驚くべきというか呆れ果てた数字をあげている。118億8千万円ですよ! 吉良上野介良央が上杉家の養子になった息子に言った、「家臣を手なずけるには高禄をふるまえ」ということを家訓にしていたかららしい。 それでは吉良家の収入はというと、旗本2千石というから、年間1億8千万円である。これで数百人の家の子郎党を抱えていたのだから内所は、それほど豊かではなかっただろう。幕府の政策は、名をとるか実をとるかの二項方式だったので、吉良家の場合は高家筆頭と名を与えられたばかりに、禄高は低く抑えられていたのである。 加賀百萬石の前田家は900億円。これはさすがに凄い。 幕末になると米の相場は文化文政時代からみると非常に高くなっていて、慶応3年(1867)は米1石が銀960匁。文化文政の19.2倍である。会津藩はこのとき28万石だったので、4838億4千万円。米沢藩は2592億円。加賀藩は1兆7千280億円だ。現代の、たとえば昭和30年代半ば頃の国家予算が、たしか3兆円規模だった。これらの数字が即座に現在の物価水準で比較できるものではないのは無論だが、しかし一年おきの参勤交代や、江戸城の修復や、その他大掛かりな事業を命じられた諸藩の悲鳴はつたわってくる。このような施政方針あるいは法制度は、現代もなお、見かけの形はちがっているけれど、立法司法行政のおおきな括りとしての深い底流に存続しているような気がする。私有財産の相続税の現行の法制度のもとでは、不動産などの相続遺産は3代でゼロになると言われている。イギリスなどとは大きなちがいがありそうだ。何で読んだか忘れてしまったが、イギリス刊行の原書だったと思う、それによると、3代が無職で暮してゆけるだけの物を財産と言うにふさわしいと述べていた。そしてそれを永続させようという意志が、税法の理念のなかには存在すると。 私はかつてイギリスの殺人事件を歴史的に調べたことがある。そのとき気がついたことは、ビクトリア時代にはこの財産相続を背景にした老嬢殺人が頻繁にとまでは言わないが、ひとつの典型としてあるということだった。 どういうことかと言うと、その時代、女性は性に対して厳格に教育されていたので、婚期をのがしてしまう人たちがかなりいた。そこに会ったこともないような親戚から遺産がころがりこみ、彼女はたった独りでホテル暮しをしている。そこへ殺人者が紳士の仮面をかぶってあらわれるのだ。彼女たちは男に免疫がないから、これはもう飛んで灯に入る虫の状態。自ら殺人者の腕のなかに吸い寄せられていく。 ビクトリア時代の女性がどれほど性を抑圧していたかは、あのフロイトの精神分析は彼女たちのヒステリーの研究がそもそもの発端であったと述べれば十分であろう。 話がどんどん拡がってしまったが、要するにそんなところにもイギリスの財産制度がどんなものであるかということが露呈しているわけだ。日本ではミステリー小説のなかのお伽話くらいにあることで、現実の凶悪殺人事件には存在しない事例だ。究極的な凶悪事件というのは、その社会の法制度とは裏表の関係にあるものなのだ。 江戸時代の貨幣価値を現代のそれに換算していたら、妙なところに話がおよんでしまった。 おしまいに折原氏の新刊の書影を掲げます。
May 12, 2006
コメント(0)
東京の天候は今週いっぱい、雨が降ったり止んだりですっきりしない。猫たちはベランダに出たかとみれば、ひとしきり雨に濡れて帰ってきて背や手足を拭かせている。よほどの降りでないかぎり、家のなかで遊ぶより戸外を眺めているほうが面白いらしい。濡れた毛を拭いてやるのも、6匹ともなれば、その忙しいこと。 この猫たちのひ祖母にあたる3代前のグレは、雨の好きな猫だった。降りはじめると縁側に出て、1時間余もじっと雨の動きを見ていた。落下する雨滴は、猫の目にはどのように映っているのだろうと思ったものだ。 雨のあいまをみて、薔薇のための薬剤を買いに外出した。蕾をたくさん付けているのだが、その一つを手にとって見ると、なんと、細かい油虫が発生していた。この油虫の食欲はきわめて旺盛で、新芽や若葉をすっかり食い荒らしてしまう。新芽は特に旨いらしい。枝が丸裸になってしまうのだ。 ついでに母のための本の買い出しをする。今日の午前中までに、いままでの買い置き分はすべて読み終わったのだそうだ。あいかわらずのスピードである。テレビは午後4時から6時まで大相撲を観戦するだけ。就寝前に枕元に読みかけの本を置き、目覚めるとすぐに1,2ページ読むらしい。読了するたびに、「ああ、おもしろかった!」と報告する。 購入した本。 宮尾登美子『松風の家』上下巻 同 『きのね』上下巻 同 『鬼龍院花子の生涯』 同 『菊亭八百膳の人びと』 童門冬二『小説上杉鷹山』上下巻 宮尾氏の作品はほぼ全作を購入したかもしれない。上記の作品は、これまで上下巻が揃うことがなく片割れではしょうがないのでそのままにしてあった。ところが私が宮尾作品(それに杉本苑子氏の作品も)を、あれば一時にすべて買い、棚を空にしてしまうからであろうか、古書店が両氏の本を充実させてくれるようになった。いままで片割れだったものもすべて上下巻を揃えてくれていた。きょうもまた、宮尾氏の棚を空にしてしまった。 購入したものの中で『菊亭八百膳の人々』と『小説上杉鷹山』は、私自身も読んでみたい小説。後日、母から借りようと思う。 菊亭八百膳は東京に実在の江戸時代からの老舗料亭。文化・文政の頃(1804-1828)、江戸には三つの名高い高級料理屋があった。洲崎の「升屋」、深川の「平清」、そして山谷の「八百膳」である。八百膳の料理は懐石料理を基礎として本膳料理の豪華さを加えたもので、大名や豪商や名のある文人を客とした。茶漬一杯を所望しても、その水は遠く玉川から運んだもので、一両二分の勘定だったという。これが今の金額にしてどの程度か私はわからないが、いつの時代かは知らぬが庶民は三両で一年間暮せたと、何かで読んだ記憶がある。テレビ時代劇では、町人たちがヤレ十両だ、五十両だと言っているが、はたしてどんなものか。豪商といわれる町人はともかくも、長屋の八っつあん熊さんがその生涯に小判など手にしたことがあるかどうか----。 宮尾氏の小説は現代の八百膳の物語。 上杉鷹山(1746-1822)は米沢藩主。数代にわたって窮乏にあえぐ藩政を、節倹と行政刷新、産業奨励、荒蕪地開拓などを行なって立て直したことで知られる。が、私の関心は少し別なところにある。 この米沢の上杉家は、4代将軍家綱の時代に第3代藩主綱勝が急逝し、子がなかったことから断絶の危機に直面した。上杉家は上杉謙信以来の名族である。この危機を救ったのが会津藩主保科正之であった。保科正之は2代将軍秀忠の妾腹の子。家光とは異母兄弟になる。非常な聡明で、家光の信頼も篤く、重用されていた。玉川上水の開鑿や明暦の大火後の江戸城再建の建議をしたのはこの人である。正之の長女は急逝した上杉綱勝に嫁いでいたが、子を生さぬまま先に死亡していた。二度目の妻にも子ができなかったのだった。将軍家綱から上杉家の処断を委ねられた保科正之は、上杉家を潰すにしのびなく、後に赤穂浪士打入りの張本人である吉良義央(よしなか)の長男で綱勝の甥にあたる吉良三郎を養子にするという遺言があったことにして(実際はそんなものはなかったのだが)、上杉家を救ったのだった。ただし養子縁組を幕府に届けることを遅滞したことをふとどきとして、米沢藩30万石を15万石に削封した。 保科正之のこの危急時の機転と情状ある法維持は見事というほかはない。が、米沢藩の窮乏はじつはこの時にはじまったのである。藩主が急逝したのは1664年のことであるから、窮乏はおよそ150年余もつづいていたことになる。童門冬二氏はそれがなぜかということも小説として書いているが、それについては私はここに述べない。 米沢藩は保科正之に深く感謝し、その意は200年後に起った戌申戦争のときに会津藩への御返しとなって表れる。つまり藩祖正之の遺命を堅守し幕府から離れなかった会津藩は孤立してしまうのだが、それを陰で支えたのは米沢藩だったのだ。 会津に縁のある私は、おくればせながら米沢藩について少し知っておきたいと思っているのである。 近年私はいわゆる現代小説をほとんど読まなくなってしまった。純文学と称されているものも、大衆小説と称されているものも、どちらも関心がなくなった。一方、昔はまったく見向きもしなかった時代小説を読むようになった。史料・資料を駆使して書くのであろう小説だが、執筆には現代小説よりずっと想像力がいるのではあるまいか。しかも想像力が現代小説とは少し違うように思える。リアリティーの問題といってもよい。たくさん読んでみると、失礼な話だがやはりうまい作家とそうでもない作家がいて、リアリティーを出そうと考えるあまりだらだらと日常的な光景を、同人雑誌の書き手のようなキレの悪い、ヘタな日本語でやられるのは叶わない。つきあっている時間がもったいない。しかしイメージの喚起力がある、批評精神がある、鋭い観察眼で人間の一挙手一投足を描写する力のある作家にであうと、じつに楽しい時間がもてる。小説を読んで、「勉強」なんて言いたくないが、よくよく学ぶこともあるのだ。小説は結局のところホラ話なのだが、読んでいるこちらもそれなりの人生を積んで来ているので、それに見合うホラを吹いてもらわなければツマラナイのである。それが私のいうリアリティーだ。【追記】 江戸時代の貨幣価値がわかる資料が手元にないか調べたところ見つかった。 文化・文政時代の京阪地区の米1石(10斗;約180リットル)の銀による価格 文化2 (1805) 56.6匁 文化7 (1810) 59.2 文化12(1815) 61.5 文政3 (1820) 62.5 文政8 (1825) 76.0 1両=銀50匁=銭4,000文 上の平均価格が63.16匁だから約1.26両。これが米180リットルの値ということは、現在5リットルで2,000円から3,000円として、180リットルだと72,000円から108,000円。 八百膳の茶漬一杯が1.2両ということは、米1石(180リットル)に匹敵する72,000~108,000円だったということになる。
May 11, 2006
コメント(0)
あれはいつのことであったか、記録をとっていないので確かな年月を忘れてしまった。15,6年くらい前になるか。東京の国立能楽堂でアイルランドの詩人にして劇作家、ウイリアム・バトラ・イエーツの戯曲『影の女』が、能仕立で上演された。イエーツは日本の能に惹かれるところがあったらしく、短い一幕物の戯曲はたいそう能に近いつくりかたをしている。たとえば『鷹の井戸』などは、詩人の高橋睦夫氏がそのまま能楽にのせられるような優れた翻訳(氏は反訳という造語を使う)をかつて雑誌に発表している。といっても能楽というのは、普通の戯曲とは違って、台本があれば舞台に乗せられるというものではない。音楽劇であり、舞踏劇である。したがってイエーツの『影の女』を能楽に仕立てたということは、新しく作曲し、作舞したということになる。ただ、能楽の作曲は、一般の音楽の作曲とは異なり、あるていど決まった調子がいくつもあって、それを組み合わせてゆく。実際は複雑な構成なのだが、ここではそういう説明にしておく。 ところで私はこの上演を何の予備知識もなく見た。それまで原作を読んだことがなかったのだ。どんな内容の劇かを知らず、死んだ女が蝶に化身したのでいささか意表を突かれて「おやッ!」と身をのりだした。蝶を霊魂と同一視、ないしは霊魂の象徴とみなしていたからだ。 私はすぐにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『虫の研究』の中の一篇「蝶」を思い出していた。ハーンは日本の蝶にまつわる習俗や言い伝え、あるいは物語が中国に由来するかもしれないと述べつつも、平将門をめぐる蝶の伝説をあげて、日本人の蝶への関心の深さを語っている。そしてこういうふうに書いている。 「日本人の信仰のなかには、蝶は生きている人間の魂だと考えるのといっしょに、これを死んだ人間の亡霊だと考える信仰もある。その証拠には、人間の魂が、人間のからだから抜けて出たことを知らせるために、魂が蝶の姿になると信じられている。」(平井呈一訳、岩波文庫) イエーツのイメージには何か典拠があるのだろうか。もしかすると彼はラフカディオ・ハーンのこの「蝶」を読んでいるかもしれない。 尤も、蝶と霊魂を同一視するのは日本や中国ばかりではない。古代ギリシアでも蝶をプシュケ(霊魂)とみなしていた。その考えはヨーロッパ全土にひろがり、英語で‘Messengers of the Gods’(神々の使者)といえば蝶のことを指している。たしかギリシアの切手の意匠になっていたと記憶するが、アポロチョウというのは日本のウスバキチョウに似たアゲハチョウ科の一種で、その名のとおり、神話でいわれているのはこの蝶らしい。(ついでに申せば、誰でも良く知っているキアゲハの亜種名はギリシアの医者ヒポクラテスに因んで命名されている。‘Papilio machaon hippocrates FELDER et FELDER 1864’というのが学問上の正式な名前。三番目にヒポクラテスとありましょう?) ラフカディオ・ハーンも言及しているけれど、舞楽に『胡蝶』というのがある。大阪の四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)で舞われる。聖徳太子(574-622)を供養する大法要の舞い。4人(正式には6人)の少年が背中に蝶の羽をつけて、ゆっくりゆっくり、ふわりふわりと宙に舞いあがるかのように舞う。右手に菜の花のような造花を持って、両腕をいっぱいにひろげて舞う姿は、見る者を夢幻の境地にいざなう。 この胡蝶が霊魂であるかどうか。 聖徳太子に遅れて300年後に、藤原道長は平安京に栄華を謳歌する一方で病気と怨霊に苦しみ、怨霊退散を願って法成寺を建立した。その建立供養に『胡蝶』が舞われた。道長はその美しい蝶の姿に涙を流したという。おそらく彼の目には『佛説阿弥陀経』に描写されている極楽浄土の光景と映じたにちがいない。 平安時代の人々の魂というのは、我々現代人にはちょっとはかりしれないところがある。怨霊におびえたということを、「幻想」と捉えるのは誤りである。彼らの社会はそれを実在としていたからだ。一方で極楽浄土も同じだった。なるほどそれは、そのころ隆盛をきわめた浄土信仰のゆえではあったが、彼らのかかえていた深い恐怖感はこの世を地獄にかえてしまっていた。熱烈に極楽浄土への生まれ変わりを希求したのだった。道長が『胡蝶』の舞いを見て、滂沱の涙を流したというのは、ひとり道長だけの感情の爆発ではなく当時の社会そのものの激しい感情というべきであろう。 昨年、私の父が亡くなった。その納骨式の最中に一匹の白い蝶がやってきて、読経がつづいているあいだじゅう、墓石の周囲を飛びまわっていた。私と末弟は顔を見合わせるように互いに身じろぎし、それを目で追っていたのだったが、私はそのゆくりない出来事にプシュケを想ったのである。 まあ、この話はこれ以上すすめてもバカ噺になりそうなのでこれで止めにして、---蝶の意匠について言及してもいいのだが、それも止めて、例によって蝶が登場するミステリー小説を思い出すままに並べてみよう。 森村誠一『死媒蝶』 香山滋 『妖蝶記』 日下圭介『蝶たちは今----』 鮎川哲也『蝶を盗んだ女』 新羽精之『幻の蝶』 多岐川恭『蝶』 大下宇陀児『昆虫男爵』 横溝正史『仮面舞踏会』 ミステリー以外で次のものもあげておく。 日影丈吉『蝶のやどり』 寺山修司『毛皮のマリー』(戯曲) ジョン・ファウルズ『コレクター』【追記】 思い出したことがある。エリッヒ・マリア・レマルク原作、ルイス・マイルストン監督の映画『西部戦線異状なし』(米・1930)のラスト・シーンである。このシーンによって映画史に残る名作になったといっても過言ではあるまい。第一次世界大戦下のドイツ軍。戦場の最前線に送られた若者たちが経験する過酷な戦争の現実。つぎつぎに戦友を失い、束の間の休暇後に再び最前線に戻った青年が、敵対する塹壕のなかで、ふと一匹の蝶に目をとめてそろそろと手をのばす。その途端だった、銃弾が彼を撃ち抜く。青年の掌が画面に映し出される。蝶に託した命がその掌から飛び立ってゆくかのように。
May 11, 2006
コメント(2)
昨夜(9日),BSテレビで『彼女を見るとわかること』という映画を見た。映画そのものは私の好みではなかったので、今そのことについて述べるつもりはない。ただ、タロット占いをするシーンがあり、それで思いだしたことがある。思い出したと言うより、いつかノートしておこうと思いながらそのまま打過ぎ、頭の頭陀袋のなかに眠らせていたことだ。それはほかでもないヴィスコンティ家のタロットについてである。 私の過去の仕事のなかで大きな比重をしめているものに、ディクスン・カー(別名カーター・ディクスン)の表紙絵のシリーズがある。この遊卵画廊にも展示してあるので、ご覧くださった方もおありかもしれない。東京創元社版と早川書房版とを共に担当してきた。そのうちの早川書房版が、タロットをモチーフにしている。タロットとは長いつきあいをしてきたことになる。もちろん何種類か所持しているのだが、それらはいずれも現代のものである。これからお話しようというタロットは14世紀末ないし15世紀にミラノ公爵ヴィスコンティ家のために作られたカードである。 私はかつてこのブログで中世の彩飾写本について少しばかり書いたことがある。別館『山田維史の画像倉庫』の「映画の中の絵画」でも、『薔薇の名前』の項で言及した。コンデ美術館所蔵の『ベリー公爵の豪華時祷書』は、彩飾写本の至宝として知らぬ者はいまい。私もこの完全な複製本を所持している。 『ベリー公爵の豪華時祷書』はその名のとおり、フランス中央部の広大な領土を支配し、莫大な富を有していたベリー公ジャンが、最も才能にあふれた美術家・3人のリンブルク兄弟に自分のために製作させた毎日の礼拝用の祈祷書である。 印刷機が発明される以前は、東洋においても西洋においても、1冊の原本をもとにそれを筆写していたわけだが、富裕な支配的貴族階級はすぐれた美術家や写字生を雇い、そのような写本を美麗に仕立てたのだった。じつは、そのような彩飾画は宗教書にかぎらなかったようで、現在ヴィスコンティ家のタロットとして知られるカードも、一枚一枚手彩色された美術的にすばらしいものなのである。このタロットは全部で239枚が確認されており、現在、イタリア、アメリカ、イギリス、スペイン、カナダの11ケ所に分散されて所蔵されている。そのうち最も有名なのは〈ピアーポント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉と〈イェール大学カリー・コレクション〉である。前者はイタリア2ケ所とニューヨークのピアーモント・ベルガモ図書館との3ケ所に分けて所蔵されているが、合わせて74枚1組が完全に揃っている。後者は67枚のコレクションである。 ところでヴィスコンティ家といえば、先刻お気づきのように、映画監督ルキノ・ヴィスコンティはその末裔である。監督がミラノの由緒ある大貴族の出自であることは周知であろう。しかし中世からの家系の歴史については一般的な興味の範囲でごく簡単に述べておいても良いかも知れない。というのは、その家系の誇りが、タロットの意匠のなかに描出されているからだ。 ベルナルボ・ヴィスコンティ(Bernalbo Visconnti)は、14世紀後半のイタリアにおいて最も無慈悲な専制君主だった。たくさんの子供がいたが、その多くは数多くの愛人との関係によって生れた私生児だった。その娘たちは傭兵隊のきちんと地位を確立した隊長たちに嫁がせた。当時、一般的な兵隊というのは、戦争のためや市街警護のために雇われていたのである。ベルナルボはベローナの名家スカラ一族の美しい娘ベアトリスと結婚した。この結婚によって生れた彼の嫡出の娘は、すでにヴィスコンティ家の広く息のかかった貴族社会の王や公爵や伯爵のなかから慎重に選んで結婚させた。これによって彼はさらに領土と権力を拡大することができた。 しかしベルナルボ・ヴィスコンティは領土支配に関して弟のガレアッツォ(Galeazzo)と権力を分け合っていた。ガレアッツォはベルナルボとはまったく対照的な性格で、物静かで何事につけ控えめであった。1351年、ガレッツォに息子ジャンガレアッツォ(Giangaleazzo)が生れた。このジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは父の持っていたバックグランドで満足する男ではなかった。1385年、クーデタによって伯父ベルナルボを退位に追い込み、これによってミラノは彼ひとりのものになった。 ジャンガレアッツォはフランス国王ジョンの娘イサベルと結婚。つづく17年間に、彼はピエドモントからアドリア海におよぶ北イタリア一帯に勢力を伸す。ロンバルディとエミリア全土を掌握し、「ミラノの暴君」と言われた。1395年にはドイツ皇帝ヴェンセスラスからミラノ公爵の世襲称号を購入した。そして楯形紋章の一部に皇帝のしるしである鷲を付け加えた。 ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティは1402年にペストで死亡するまで初代ミラノ公爵として君臨した。彼の業績でタロットの意匠に関連すると考えられていることに、パヴィアのちょうど外側にあるカルタゴ人の大修道院セルトサの設立がある。建設の最終部分となった修道院正面は後に姻戚関係となったスフォルツァ家がひきついで完成させた。画家アンブロジオ・ボルドグノンの手になるセルトサ修道僧とともに十字架を運ぶキリストが描かれている絵は、1494年に完成している。 この修道院は切り立ったギザギザにとがった岩の上に建っているが、その同じ岩棚が〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの「死」「節制」「星」「月」「太陽」の各カードに描かれている。 ジャンガレアッツォの最初の結婚で生れた3人の息子たちは、いずれも幼くして死亡した。しかし、いとこのカテリーナ・ヴィスコンティと再婚し、2人の息子ジョヴァンニ・マリア(Giovanni Maria)とフィリッポ・マリア(Filippo Maria)が生れている。 この長男ジョヴァンニ・マリア・ヴィスコンティが第2代ミラノ公爵となるが、彼は横暴な君主であったためか、1412年に暗殺される。弟のフィリッポ・マリア・ヴィスコンティはこの時まで左遷されていたのだが、ジョヴァンニ・マリアが殺害されたことで権力を回復し、第3代ミラノ公爵となった。 翌1413年、フィリッポはテンダ伯爵ベアトリス・ディググリエルモ・ヴェンティミグリア・ラスカリスと結婚した。彼女はピサのファチノ・カネの未亡人で、その年齢はフィリッポの2倍もあった。フィリッポは彼女の財産と死んだ夫の軍隊を手にいれるのが目的であったと言われる。というのもフィリッポは彼女の殺害を企て、不義密通をでっちあげて彼女の首を刎(は)ねてしまう。 フィリッポの長い支配の間に、連合と権威は着実に増した。1428年、彼はサヴォイ公爵の娘マリアと2度目の結婚をする。しかしこの結婚はいわゆる「お床入り」がまったくなかったらしい。1423年に愛人のアグネス・デル・マイノが彼の子を産んでいる。この非嫡出の娘ビアンカがフランセスコ・スフォルツァと婚約させられる。このときビアンカ、9歳だった。 フランセスコとビアンカとの結婚の挙式は、9年後の1441年にクレモナの聖シギスムンド教会でおこなわれた。花嫁は18歳。花婿は40歳だった。しかし、この結婚は結局のところ幸福なものであった。 ヴィスコンティ家はその楯形紋章にふたたび新しいエンブレムを付け加えた。人間を半分呑み込んでいる蛇(もしくは龍)の図像である。呑み込まれているのは、ヴィスコンティ家が十字軍に加わったときの敵、サラセン人であるという。蛇は知恵のシンボルである。このヴィスコンティ家の楯形紋章は現在でもミラノ市の紋章として存続している。 ヴィスコンティ家はこの紋章の上に神聖な光線をかかげることを好んだ。この意匠もまた〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの「王」と「王妃」のカードの中で、教会の尖塔の光輪と炎のなかに舞い降りるビスコンティの鳥として描かれている。 おそらく15世紀半ばに製作されたにちがいないヴィスコンティ家のタロットの意匠は、以上簡単に見たように、ヴィスコンティ家の「栄光」と切っても切り離せない関係にある。それはヴィスコンティ家の厳重な監修のもとに彩飾画家が一枚一枚描いたものである。ちなみに〈ピアーモント・モーガン=ベルガモ・コレクション〉のタロットの一枚の大きさは175mm×87mm。また〈イェール大学カリー・コレクション〉のほうは190mm×90mmである。 私の『骸骨図輯成』のなかにイェール大学所蔵の「死」のカードの写真があるので、それをご参考までに掲載しておこう。旧ヴィスコンティ・ディ・モンドロネ家所蔵『ヴィスコンティ=スフォルツァのタロット・カード』15世紀中頃現イェール大学ベイネック稀覯本・写本図書館所蔵----------------------------------------------参考文献Stuart Kaplan“TAROT”モニカ・スターリング『ルキーノ・ヴィスコンティ』
May 10, 2006
コメント(0)
我家の玄関にはいま大輪の百合が活けてあり、香りがあたりを満たしている。剪り花として売っているものを買って来た。庭先にも百合を植えているが、これは7月にならないと咲かない。百合というのは園芸種でも強い植物なのか、我家のそれは何も手をかけていないし、冬もそのまま放ってあるのだが、毎年素晴らしい花をつけている。しかもだんだん増えて、今年は五つの株になった。 先日登った裏山にいたる道沿いの小高い小薮のなかに、毎年、山百合が咲く。昨年のこと、私はふとその百合をみやると、丈が伸びていまにも倒れそうな茎に、誰かしらぬが篠竹の添え木がしてあった。雑草のなかの山百合を、そうやって皆が楽しんでいるらしかった。 我家の百合の開花は7月頃と言ったが、百合は俳句では7月の季語らしい。高浜虚子が編纂した『季寄せ』を見ると、9種の百合があげられている。山百合、姫百合、鬼百合、白百合、鹿子百合、車百合、早百合、黒百合、鉄砲百合。また、牧野富太郎博士の『新日本植物図鑑』にはユリ科の植物として132種が収録されている。意外に種類が多い。 私は装丁装画として2度、百合を描いている。泡坂妻夫『毒薬の輪舞』と篠田真由美『祝福の園の殺人』である。 これらを描くために少し百合について調べてみた。 ルネサンス期の聖母像には白い百合が描かれていることが少なくない。とくに受胎告知図では大天使ガブリエルが白百合を手にし、マリアに差し出している。聖母マリアのアトリビュートなのだ。 園芸用に品種改良されたものは論外だが、日本の百合と欧米の百合とでは当然異なるであろう。私の手元にはニューヨークで出版されたマーク・スミス解説・ジュアン・ルイス・G・ヴェラ画による百合の小図鑑があるのだが、これには56種の百合が載っている。そのなかの「マドンナ・リリー」というのが、その名のとおり聖母図に描かれているもののようだ。そういえば、ニューヨークのクロイスターズ中世美術館の僧院風な中庭にも、このマドンナ・リリーが咲いていた。以前にも述べたことがあるけれど、この美術館の庭はすべて中世スタイルであるばかりか、その当時の植物をそだてているのである。聖書にはたくさんの植物が出てくるけれど、しかし、百合は登場しないはずだ。映画の題名にもなっている「野のユリ」という言葉の出典は何であろう。御存知の方があれば、おおしえ下さい。 ところでマーク・スミスによればこのマドンナ・リリーは古代エジプトのミイラの石棺にも刻まれており、また『タルムード』のエンブレムでもあるという。『タルムード』というのはユダヤの口伝律法集。別の書物によると、紀元前2世紀にユダヤの宗教的・政治的独立の覇者マカベア家の貨幣にも刻まれているとある。 古代ギリシアではアフロディテ(ヴィーナス)やヘラのエンブレムであった。あるいはフランス王家の紋章は三つの百合だが、これを「勇気の旗印」と言う。おもしろいのはこの紋章、そのルーツをたどれば、じつは三匹の蛙だった。中世代の王クロヴィスの旗印がそれで、王はあるとき隠者のおしえに従って、三匹の蛙を三本の百合に変えたところ、勝機がおとずれたのだった。以来、フランスではこの百合の紋章をもって王家の正統としている。 近所にさまざまな植物を丹精込めてそだてている家がある。通りに面した塀沿いにも鉢をならべていて、いまは鈴蘭が花盛りである。鈴蘭もユリ科だ。ただし六月の季語。もしかしたら季節のめぐりが虚子の時代より早くなっているのかもしれない。 山百合の見ゆるほどなる山遠さ 立子 水をやる鈴蘭の花をはりかな もと女 墓の群れのなかに うつむきし山百合 これは私が18歳のときの短詩。花冠を下向きにして咲く百合の特性を、祈りの姿に重ね見た。詩を説明していてはつまらない。
May 8, 2006
コメント(0)
このブログの管理ページの記録によると「山田維史の遊卵画廊」を開設して310日になる。日記はただいま書いているもので280件目になる。ということは30日分の休筆があるわけだ。 小学生時代の絵日記にはじまり、高校・大学時代と日記を書いていた。大学時代のものは思索ノート、あるいは言葉によるスケッチブックみたいなものである。それらは現在も大きな茶箱を利用した保存箱に残っている。しかし、絵を描くことを職業にするようになってから、日記を書くのをやめにした。絵画創造の源泉となる日常の雑多な想いが、日記のなかで言葉で整理されてしまい、頭のなかに画像がなくなってしまうことに気がついたからだ。 こんなことはもちろん人によるわけで、誰もがイメージが言葉の代替をしているわけでもなかろうし、逆に言葉がイメージの代りをしているのでもなかろう。私は、自分自身を実験台にして観察するような質(たち)がある。たとえば原稿用紙にむかい100枚程度の文章を一心不乱にかきつづけてみる。するとそれまで妄想的にあふれていたイメージが消えてしまうのである。左脳と右脳の問題がとりざたされるけれども、言語操作をする脳とイメージ操作をする脳は、私の場合、ひどくはっきりわかれていることが自己確認できるのだ。ただ対象によって言語が活発になることもあるしイメージが活発になることもあり、日常的には脳の活動はバランスがとれていると思える。 このことは私の絵の性格にも関係することのようだ。あまり口に出して言いたくはないのだが、画家として私が他の画家の作品を見て、「ああ、このひとは純粋に絵描きだ」と感じることがあるが、そのとき私は、私自身の本質との非常な違いを感じる。私が好むのはそういう画家で、それ以外は、じつのところ何も感じない。それでは感じない他の画家の本質と私の本質が同じようなのかというと、私はそれも全く違うことを納得している。 ----しかし、これ以上自分のやっていることの本質について語ろうとは思わない。絵描きには、ごく素朴な好き嫌いをふくめて、見る人との出会いしかないのだ。ほんとうに、ただそれだけしかない。 ところで、ご自身でブログを書いている皆さんは、書いたものをどうされているのだろう。サーバーのアーカイヴにそのまま保存しておられるのだろうか。 私はあるとき思いたって、編集ソフトを使って一冊の本のようにフォーマットを作成し、過去のブログから順にコピーしてそのフォーマットに流し込むことにした。つまりいつでもプリントして、それを製本すれば自分の本ができるというわけだ。ブログで画像を使用している場合は、フォーマットに合うようにレイアウトしてファイルを変換する。ブログのJpeg形式をEps形式に変換し、解像度を350pixels/inchにする。画像説明が必要なら、文字枠を別に作り、画像扱いにするときれいなレイアウトができる。 そんなふうにして、私は、だいたい250ページから300ページを一冊の分量としている。『青空日記』というタイトルをつけた。それが、この5月の日記で3册目に入った。 こうしておくと後に記述の誤りをみつけたり、考えをあらためたりした場合に訂正しやすいし、自分の書いたことに責任がもてる。なにしろ毎日ご覧くださる方がおいでなので、デタラメを書くわけにも行かない。 精神分析のフロイド理論で、肛門期というのがあるけれど、絵描きとか芸術家というのは大体のところその肛門期に固着しているらしい。排泄物を出し惜しみしたり、排泄物に無意識の執着があったりする。私がたとえ遊びのように始めたブログをプリントして製本できるようにしたことも、案外この執着心のなせるわざかもしれない。
May 7, 2006
コメント(6)
庭の蔓薔薇が咲きはじめた。今日はまだ二つだけ。濃い緑の葉叢のなかに妖しいほど輝いている。品種はふたつ。紅色と白黄色の花をこれから秋口まで何百とつけることだろう。 薔薇剪って短き詩をぞ作りける 高浜虚子 昨日、ギックリ腰になったと書いたところ、見舞いのメールを頂戴した。どうもありがとうございました。恐縮いたしました。もう大丈夫です。自力で直してしまいました。 この年まで病気らしい病気をしたことがなく、医者にかかったことがない。ただ唯一の欠点が腰にある。すでにこのブログでも書いているが、中学時代の運動会の棒倒しの棒が腰を直撃し、それが大学時代に歩行困難なほどに悪化して伯父の手翳し療法(気功)で回復した。しかしやはり骨盤の上部、背骨の左側の筋肉が疲労しやすい。長い仕事がつづくとその筋肉が凝って硬くなるのがわかる。それを放置しておくとギックリ腰になりやすいのである。昨日もそんな具合だった。持病とまでは言わないにしても、数年に一度、そんなことを繰りかえしてきたので、どうすれば自力で直せるかも分かっている。硬くなった背骨の左側の筋肉をもみほぐせば当面はいいのだ。当面というのは、結局、身体の筋力のバランスが狂っているから弱いところにしわ寄せがゆく。筋力アップをしなければ、いつかまた同じことが起ることになる。 硬くなった筋肉を負荷をかけてもみほぐせばいいと気がついたのは、これも以前書いたけれど、友人に誘われて生れてはじめて祭神輿を担いだ経験による。 30歳を過ぎてのことだったが、私が神輿を担ぐなどとは夢にも思ったことがなかった。神輿そのものの重量は数トンもある。あえて重くしてあるのではないかと私は勘ぐっているが、それはともかく、何にも予備知識もない私の肩に、いきなりドカンとものすごい重量がかかった。目の玉がとびだしそうだった。 神輿を担ぐにはコツがあって、重いには重いが身体を硬直させていてはだめなのだ。腰のバネをきかせ、ダンスのステップを踏むように、しかも担ぎ手全員のリズムに同調するようにすると、意外に楽なのである。これは物理学の理論だ。ガラスの破片の上を裸足で歩いてみせる見世物があるが、あれは破片がたくさんあることがミソ。たくさんの点で支えることによって重量を分散しているのである。修行の成果というより、体重をバランスよく分散するための慎重さがあれば十分できること。神輿を担ぐのもそれと似たようなもので、自分だけしゃにむに頑張ると、かえって駄目なのである。 まあ、それはともかく、その神輿を担ぎおわったとき、私の身体・腰はまるで別人のように軽快になっていた。それまでまったく経験したことがない、いわば全身のあらゆる筋肉を使った運動。これが身体のバランスを正常にもどしてしまったのだと思う。骨盤上部の背骨の左側に常になんとなくあった重苦しさが、ウソのように消えていた。 以来、私は、危ないと思うとある程度きつい運動をして筋肉をほぐしてしのいで来た。昨日は、油断をしてしまった。そういえばここのところ背中に疲労を感じていたのだった。 さて、午後、私は身繕いして裏山登りに出た。その山は、鎌倉時代には、鎌倉街道に通じる要所として見張り用の砦があったといわれている。遺構は発見されていないので伝説の域を出ないのだが、かなり信用度のたかい伝説らしく、山頂は東京都の公園になっている。残念ながら今日はいずれもまったく見えなかったが、天候次第で富士山が見え、立山連峰や赤城山も望める。公園以外の山域は二つの大学が所有している。先日述べた東京薬科大学の自然林薬草園が山陵にひろがり、谷を境にして農工大学の観察林がつづく。どちらも山中をぐるっとフェンスがめぐらされ立ち入り禁止区域となっている。 私の家の近所の住宅街のはずれから、急な山道をのぼってゆくとこの公園に出ることができる。私はそこから二つの大学林の間、めぐらされたフェンスとフェンスとの間の細い道を山なりにぐるぐると歩くのである。人に出会うことはない。マムシに注意の立て札を両大学がところどころに出している。公園内も、この大学林も一木一草なりとも採ることを厳重に禁止されている。薬科大学のほうは薬草があるし、農工大のほうは植生の定期観察をしているのだ。私はさまざまな植物を目で楽しみながら、山を歩き、薬科大学の正門前の公道へと歩いた。 山中でホトトギスの鳴き声がした。「テッペンカケタカ、ホッチョンカケタカ」 この鳴き声、『広辞苑』にもこのように出ている。たしかめてご覧あれ。 山々は萌黄浅黄やほととぎす 子規(*) ほととぎす啼き啼きとぶぞ忙はし 芭蕉 今回のギックリ腰はこの程度の運動でなおってしまった。急斜面をのぼったり降りたりすることで、普段使わない筋肉が目覚めるのだと一人で納得している。 (*)ちなみに子規とは「ほととぎす」のことである。
May 6, 2006
コメント(0)
元気がよすぎるのか、動きが粗暴だからなのか、特に何をしたというのでもないのに、突然ギックリ腰になってしまった。たぶん背筋が衰えているのだろう。これは鍛え直さなければならないゾ、といささかガックリ、ギックリ、シャックリだ~い! 過日、弟が私の下肢に目をとめて、「脚が腫れているのじゃないの?」と言った。「いや、そうじゃないんだ。長いことサイクリングで遠出をしているから、筋肉が発達して若い時より下肢が太くなった」「ふーン、すごいね、みんな大抵は年をとって筋肉が減っていくというのに----」 実際、靴下の穿き口がすこしきつめになってしまい、一日のおわりには脚にクビレができてしまう。 しかし私の運動はサイクリングだけなので、どうしても背筋はなおざりになっている。絵を描いていると、私の場合、背中に疲労がたまりやすい。股関節も影響すると聞いたことがある。 そんなわけで、一日何もせずに過し、夕方になって菖蒲湯にはいってマッサージをしたら、歩くに困難はなくなった。これ以上ひどくならないうちに、ちょっと身体に負荷をかけて直してしまおう。明日は裏山にのぼってみようか。
May 5, 2006
コメント(4)
きょうは母の友人が来訪。家族でおもてなし。 お客さんをお送りしたあとは、私は久しぶりにDVDを見てすごした。そのうちの一本は『ミステリアス・ピカソ、天才の秘密』(1956年、フランス)。すっかり忘れていたが、この映画、私は中学生のときに会津若松の第三中学校で見ている。たしか大成館(この中学の講堂兼体育館は、昔の藩校日新館の孔子廟大成殿にちなんだ名称だった)につづく校舎2階の礼法室で上映された。普通教室と同じ広さだから1クラス程度の人数しか入れない。だからこの映画上映にどんな経緯があったのかは知らないが、何か特別なことではあった。同時にペンシル・ロケットの発射実験の科学短篇映画も上映されたことを思い出した。 『ミステリアス ピカソ、天才の秘密』は、ピカソがカメラの前で何枚も何枚も作品を描いてみせるドキュメンタリー。裏写りする紙にフェルト・マーカーのようなもので描いてゆく。画面は、ピカソの姿は見えず、純白の紙だけが映し出されている。やにはに黒い線や丸が浮き出る。ピカソが向こう側から描きはじめたのだ。つまり、われわれ観客は裏写りした絵を見ていることになる。モノクロ作品である。 初めのうちは何を描こうとしているのか分らない。まもなく「画家とヌードモデル」の姿になってゆく。その製作過程は、前もって決定的なイメージがあるのではなく、一本の線を描くことによって連想的にイメージが紡ぎだされるらしい。構図のつくりかたは、したがって非常に直感的だ。が、幾何学精神とバランス感覚とが発達している人らしく、ためらいがなく決定的な線を描いてゆく。 私がおもしろく思ったのは、どうやら連想作用の自由度を確保するためであろう、ある部分を平面的に塗りつぶし、その物理的バランスをとろうとして他の面にも手をつけるのだが、そこは最初から塗りこめるのではなく、点のようにポンポンと置いておくだけにする。あるいは蛇行する線にしておく。そしてさらに他の部分を描きすすめながら、点や蛇行線のその後の処理にはいってゆく。そういう処理がさらにイメージを変化させ、出発時のイメージは最終的にはまるで別なイメージになってしまう。 頭で考えるというより、手で考えている。もうれつなスピードで手が考えているのだ。思想的なメッセージ性などほとんど問題ではなく、「絵」であること、そして「絵」になればそこにはおのずとメッセージが出現することを、この人は承知しているのだ。まさに絵描きなのだ。しかし、これは出来そうで出来ることではない。 この裏写りでの映画撮影が一応終了したところで、ピカソが新たな提案をする。色彩を重ねてゆく過程を見せよう、と。監督は、もう十分だという。いままで撮影したもので、十分驚嘆にあたいすると。しかしピカソは引き下がらない。なかなか狡猾な目をして、自己主張する。映画撮影がおもしろくなってしまったようだ。監督は、「そこまで言うなら」と撮影を続行する。 私たち観客にとっては続行してもらってよかった。なぜなら、ピカソが果てしなく混乱して作品が失敗する過程を目撃することになるからだ。 『裸婦像』や『闘牛士と牛』をつぎつぎに完成させた後で、ニースかどこかの海浜の水遊びの様子を描きはじめた。大胆な主要線を素早く描くことから始めて、ヨットや、水着の女や、ヴィラなどをひょいひょいと出現させ、黄色と赤のだんだら縞の日除なども描かれていった。しかしやがて、遠景の空をブルーから黒に変え、そこに黄色で積乱雲のように見えるものを蛇行線で描く。片腕をあげて柱にもたれていた水着の女のその腕を下におろしてみたり、顔かたちを変える。かとおもうと、そのうしろに男の姿を描き、また女の顔を変える。なんども消したり描いたりする。日除の縦縞を斜縞になおす。ヴィラの外観を変える。消す。----描く。また消す。塗り潰したかとおもうと復活させる。ついには、紙を貼付けてもう一度やりなおす。 「失敗だ。初めから描き直す」とピカソはいう。「考えがまとまった」 おおきな純白のキャンバスに再び取り組むピカソ! 私は、連続のスティル写真にして検討したいような気持になった。 それにしても、この映画を中学時代に見ていることを、何故私は忘れていたのだろう。とてもおもしろい映画なのに。 【追記】 『ミステリアス ピカソ;天才の秘密』(カラー75分、1956年、フランス) 監督;アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 撮影;クロード・ルノワール この映画が撮影された1956年、ピカソは75歳だった(1881-1973)。 監督のクルーゾー(1907-77)はこのドキュメンタリー撮影以前に、すでに映画史に残る名作をたてつづけに創っている。すなはち『犯罪河岸』(1947)、『情婦マノン』(1948)、『恐怖の報酬』(1952)、『悪魔のような女』(1955)。まさに映画作家としてのりにのっていた。ピカソはこの映画作家の才能をおおいに認めていたうえでの協力だったと思える。というのも映画の中では10分たらずで絵が完成するのだが、実際は5,6時間かかっているらしい。全部で20点ほどの絵をつくっているので、ピカソの忍耐も相当なものである。フィルム1巻の時間は15分。映画のなかでも、クルーゾーと制作中のピカソが残りフィルムの時間をめぐってやりとりする場面がある。分きざみ秒きざみで、フィルムの間尺のなかで絵を完成させようとしている。 撮影を担当したクロード・ルノワールは、画家ピエール・オーギュスト・ルノワールの三男、そして映画監督ジャン・ルノワールの弟である。彼が撮影をした映画に、兄ジャン・ルノワール監督『大いなる幻影』(1949)、同『河』(1952)、同『恋多き女』(1957)、アレクサンドル・アストリュック監督『女の一生』(1958)、レイモン・ルーロー監督、アーサー・ミラー原作、J・P・サルトル脚本『サレムの魔女』(1958)、ロジェ・ヴァディム監督『獲物の分け前』(1967)など。
May 4, 2006
コメント(3)
おやつに柏餅を食べた。この季節になると和菓子屋にでかけて、香り高い柏餅を買って来る。洋菓子にはない雅致を感じる。 柏の葉はよくよく眺めるととてもデザイン的だ。そういうことは古人はとうに察していて、紋章の図案に取り入れていた。じつは私の家紋が抱き柏なのだ。大きな柏の葉が二枚、円を描くように重なりあっている。 私が小学生の頃にはまだ使用していた饗宴用の漆器類には、みなこの抱き柏の家紋がついていた。脚付き膳に1客5種の器、20人分ほどあったので、かなりの大荷物。ところが引越しの際に、これがそっくり盗難にあってしまった。どうやって運び去ったのか分らないが、父母はいたって鷹揚で、「あらあら」などと言って平気な顔をしていた。あまりの大荷物で内心辟易していたのかもしれない。今では私の代になって、家紋をつける家風も排してしまった。唯一、母の紋服についているくらいなものだ。私は和服を着ないので、もちろん紋服も持っていない。母が作れというのを、長年かたくなに拒否してきた。 以前、長い歴史のある家系の友人からパーティの招待状がとどいた。カードには金箔押しの家紋がついていたのでちょっと驚いた。少人数のパーティだったが、主客に配慮してのことだろうと思った。そうなるとこちらもそれなりの服装をととのえる必要があるが、こういう正式なカードを頂戴すると、言わず語らずに準備ができる効用はあるのである。 神前にそなえる供物を柏の葉に盛るということをする。昔の樵夫(きこり)や山を歩く仕事人は、飯を柏に包んで所持したりした。柏餅の原点はもしかしたらそのあたりにあるのかもしれない。 ところで、古来からの伝説に柏木には葉守(はもり)の神が鎮座しているといわれている。私はこの遊卵画廊に展示している詩画集「遊卵飛行」の最後の詩句はその葉守の神に捧げている。 野に立つ 柏の葉守 重なりて さやさや 源氏物語に柏木の巻があるけれども、柏木というのは皇居守護の兵衛(ひょうえ)もしくは衛門の異称である。我家の家紋が柏だったからでもあるまいが、父は若いころ近衛兵だった。赤坂近衛師団である。つまり皇居の禁衛などをつとめる天皇の親兵。まさに柏木だ。 柏餅を食べながら、ふと、裏山の柏の葉叢に風過ぎてさやさやと鳴り渡るのを耳にしたような気がした。山田維史 素描「柏餅」 鉛筆
May 3, 2006
コメント(2)
昨日は暑いくらいの天候だったが、一転して今日は朝から雨が降っていた。気温も低い。そんな中を、母が定期検診のため弟に連れられて車で出て行った。 私は終日読書である。先日購入した水上勉氏の『精進百撰』がおもしろい。 氏はかつて世田谷に在住していた折は、その邸宅は我家とは比較的近くであった。心臓の三分の二が壊死してしまうという大病をされたのち、思うところあって世田谷と軽井沢の別荘をひきはらい、新たな土地で農耕や竹紙漉きなどをする暮しにはいられたという。 私は大学に入ったばかりのころ、水上氏のお書きになるものを比較的好んで読んでいた。『雁の寺』や『飢餓海峡』は映画化されていて、その映画も記憶に深くきざまれる優れたもので、特に『飢餓海峡』における伴淳三郎は出色だと私はおもっている。それはともかく、当時私は仏教経典に関心をもち、伯父に経典を送ってもらい、漢文のいわば原典を一字一字たどって読んでいた。また、さして真剣ではなかっただろうが、祖母がふわりと私に僧侶にならないかと言ったりした。水上氏は9歳から10代のおわりまで京の禅寺に小僧として勤められたということで、『雁の寺』をはじめとする諸作にその経験が反映している。そういう氏の経歴もあって、私は氏が新しい作品を雑誌に発表されるたびに読んでいたのだった。 『精進百撰』はエッセーでもあり料理書でもある。前半は禅寺での小僧時代の思い出が、寺の食事をめぐって述べられている。後半は、御自分が農耕をして収穫した作物でおつくりになった精進料理が写真つきで載っている。料理はもちろん水上氏が御自分でおつくりになっている。小僧時代の料理修行があってのことだが、これを見るとつくずく「食う」ことの本質を考えさせられる。 私も45年も前から自分の食べるものは自分でつくってきた。20年ほど前からは、母の高血圧症と心臓病が原因となって一家の食事内容を意識的にかえた。また父が死病をかかえてしまったので、そのための食事も考えなければならなくなった。死の2週間前からは、固形物を摂取できなくなったので、酒粕汁と野菜スープと果汁ゼリーを与えていた。スープは私が一日分を早朝つくった。そのレシピを記録していたのだが、父の死後、すべて捨ててしまった。その2週間分のスープの味は私の舌がおぼえている。 ここ2ヵ月ほど前から、母の味覚がまったく変ってしまった。現在、我家は夕食に限っては2種の献立である。これは容易ではないことだ。しかし、食う楽しみがなくて何の日々であろうとも思う。 そんな我家の事情もあって、『精進百撰』を雨の音を聞きながら熟読玩味しているのである。 閑話休題。 本日の郵便物のなかに旧友W君からの葉書があった。w君は鎌倉の人だが、お父上から受け継いだこれまでの自宅とは別に新しい邸宅を建て、それが完成したという知らせである。 もう30年も会っていない。いつだったか、「近頃は血圧がたかくなって」と年賀状に書いて来ていた。そんなことが口から出る年になったのだ。 w君も昔は絵を描いていた。正倉院の木組(校倉井籠組;あぜくらせいろうくみ)を細密に、しかし部分を画面いっぱいに描いて、まるで抽象画のような作品を今でも憶えている。また藤沢で飲んだくれて、そのまま彼の家に泊めてもらったことがあったが、2階の画室にはブルージーンズを描いた100号の作品があったのも思い出す。 その頃、私はしばしば彼の鎌倉グループと遊んでいた。餅搗きをやったり、茅ヶ崎あたりまで海岸通りをサイクリングしたり、連凧をあげたり、----妙に清潔な遊びをするグループだった。私は、今ではとても想像がつかないほどだが、20代の頃までは人見知りで、なかなか人に打ち解けることができないでいた。そしてときどきエキセントリックなことを口走るのだったが、W君は私より年下なのに若いときから大人の風格があり、私のエキセントリックな発言をおもしろがって笑うのだ。そして鎌倉へ誘いだすのである。私も彼のグループには気兼ねをせず、喜んで遊びに行った。東京の共通の知人が、W君の見せた写真に私が写っているので、「エッ?」と驚いたことがあった。私は「幽霊が写っているんじゃないか?」と言って、はぐらかしておいた。 w君はその後、家業を継いで絵描きになることは止めてしまった。逆に私の方は、そのころからプロフェッショナルのイラストレーターとしてやってゆけるようになった。w君と顔を合わせた最後は、私の最初の個展「卵神庭園」のオープニング・パーティに、鎌倉勢をひきつれてやって来てくれた時ではなかったか。その時、彼は私がどのようにしてマチエールをつくっているのかを問うた。「それは秘密だ」と私は応えた。 このブログを書く前に、住所録を開き、w君の住所を改めた。
May 2, 2006
コメント(0)
立夏(5月6日ころ)には1週間早いけれど、今日の東京はもうそんな気分だ。ちょっと近所を散歩しただけで、うっすらと汗ばむ。ここ数日で、家々の花の様子がかなり変ってしまった。小手鞠の小さな白い花は散り、大輪の牡丹が咲き始めた。チューリップもそろそろ花弁を落としている。ツツジが撩乱と咲き、赤い乱れ帯のように山際を彩っている。その山裾の下草のなかに薄紫のスミレがたくさん咲いていたのだが、きょうはもう一つも見つけることができなかった。 ところで立夏の前の日、つまり5月5日は端午の節句。端というのは初めのこと。午は五。五月の初めの五の日という意味である。また五がふたつ重なるので「重五」という言葉もある。 この日が昔は「薬の日」といわれていたことを御存知だろうか。山野に薬草を摘みにでかけたのだそうだ。いまで言うならピクニックを兼ねていたのかもしれない。 植物図鑑の古典というべき書物に『本草綱目』というのがあるけれど、薬草については『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』という書物が最古のものといわれている。いまから約2000年前の後漢末期に編纂された。一日に一種、一年間で365種の薬物がとりあげられているが、現在の薬学研究において、同書の各論で説かれている薬効が医療効果があることが確認されている。 私の家の近所に東京薬科大学がある。この大学には附属の薬草園があり、その規模は東洋随一ともいわれている。学園祭の折りに一般公開するので、私は毎年訪問するのを楽しみにしている。薬草園の全体は一山におよぶものなのだが、そこは入山禁止区域になっている。その山裾にある見本園は小規模ながら116種ほどが整然と管理されていて、私は訪れるたびに、植物の名と薬効を並記した立て札を読みながらぐるりと一巡する。残念なのは学園祭は11月なので、多くの植物は花期をすぎているのだ。もちろん薬草園でなくとも、普通の山野で見られるものも多い。が、なかなか目にしがたいものもあるのである。そんな花を実際に見てみたい。 ついでだから見本園の116種を列記してみよう。 1)ホップ、2)トウキ、3)シラン、4)センキュウ、5)マルバダイオウ、6)ホルトソウ、7)ムラサキ、8)オトコエシ、9)アサガオ、10)オミナエシ、11)ヘリオトロープ、12)コンニャク、13)キダチルリソウ、14)オオバコ、15)クララ、16)シロネ、17)シオン、18)シラン、19)チョウジソウ、20)フキ、21)ナンテン、22)コウモリカズラ、23)ハッカ、24)オオツヅラフジ、25)チャノキ、26)ショウドジマレンギョウ、27)サラサウツギ、28)クコ、29)ハナズオウ、30)トモエソウ、31)マオウ、32)ドクダミ、33)トチバニンジン、34)ヤマノイモ、35)ヒロハノクワラサイコ、36)セイヨウワサビ、37)ツルニンジン、38)オニゲシ、39)カッコウチョロギ、40)メハジキ、41)ベニバナインゲン、42)ムラサキセンダイハギ、43)カワミドリ、44)スペインカンゾウ、45)ナツヨウナツユキソウ、46)サボンソウ、47)オオボウシバナ、48)ノダケ、49)フリソデヤナギ、50)サギシバ、51)ハトムギ、52)ヒコナ、53)アオチリメンジソ、54)シソ、55)ニホンカボチャ、56)クサキョウチクトウ、57)ハイネス、58)ボタン、59)ビャクブ、60)チョウセンゴミシ、61)ウツボグサ、62)シロバナムシヨケギク、63)アカバナムシヨケギク、64)ウラルカンゾウ、65)ニガヨモギ、66)バシクルモン、67)ヒキオコシ、68)セイヨウノコギリソウ、69)オケラ、70)アカザ、71)ニチニチソウ、72)ケブカワタ、73)ジギタリス、74)カラスビシャク、75)アカネ、76)ウマノスズクサ、77)トロロアオイ、78)キキョウ、79)ホソバオケラ、80)ベラドンナ、81)ゲンノショウコ、82)マオウ、83)セイヨウベニバナ、84)エビスグサ、85)ハブソウ、86)シカクマメ、87)ハマスゲ、88)ムラサキバレンギク、89)ハナスゲ、90)アマチャ、91)ウメ豊後、92)スイバ、93)ソバ、94)ケイガイ、95)ゴマ、96)ナタマメ、97)ビロードモウズイカ、98)ペラペラコメナ、99)スグリモドキ、100)ニワコジ、101)ヨモギ、102)コガネバナ、103)アマ、104)オオバナオケラ、105)ニラ、106)コンフリー、107)クサノオウ、108)ハトムギ、109)ヒヨス、110)ウケザキオオヤマレンゲ、111)ヤマブキ、112)アカバナサンザシ、113)ヤエクチナシ、114)ジンジョウゲ、115)トウガラシ、116)アシタバ この季節に花を咲かせるものとその効能を次にあげてみる。【ボタン】 消炎、解熱、鎮痛、婦人病【ホオノキ】 便秘、せき、たん、小便不利、胃炎【ナンテン】 滋養強壮、せき、たん【ドクダミ】 便秘、腫物、水虫【セイヨウワサビ】 香辛料、利尿剤【コウモリカズラ】 利尿剤 往時、5月5日は「薬の日」と称し、薬草摘みをしたことにちなんで薬草について調べてみた。 与謝蕪村(1716-1783)につぎのような俳句があるけれども、これでその意味するところも判明した。私たちはすでに薬草摘みの習慣がなくなっているので、5月5日イコール端午の節句と考えるけれど、それではこの句の風情がつたわってこない。----例年だと、この日、薬草を摘む人の姿でにぎわしいのに、今年はあいにく雨が降っている。しんと静まりかえる薬草園の濃き緑----。それとも雨の中、菅笠に蓑(みの)をつけて、粛々と薬草を摘んでいる姿なのだろうか。 薬園に雨降る五月五日かな 蕪村
May 1, 2006
コメント(2)
全31件 (31件中 1-31件目)
1