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朝日新聞夕刊が「東京五輪物語」と銘打った写真入りコラムを連載している。今日は「ミロのビーナス特別公開」について書いている。見出しに「細心の輸送 集客170万人」とある。 1964年4月8日、東京・上野の国立西洋美術館の前庭に建てられた円形の特設会場で開幕した。私は、以前にも書いたが、この年に大学に入学したので、4月はまさに入学直後だった。またぞろ当時の日記を資料保存箱(幾つもあるのだが)から引っぱり出して見てみると、4月11日にこの展覧会に出かけている。 朝日新聞は、「そぼ降る春雨のなか」と書いている。私の日記の4月10日(この日の分から新しい日記帳になり、その第1ページだ)の冒頭に、「雨がもう三日も降り続いている。これがどこか山林の雨なら幾重にも深む若緑のすがすがしさも一層のものとなろうが東京の街中ではそうもゆかない。石の道にはねかえってぬるりと足許にからみつく。」とある。 そして、翌11日。「雨が上がった。正午に家を出て上野に行く。ミロのヴィーナス → 松方コレクション → ロシア秘宝展。家についたら六時も半を過ぎていた。少々疲れた。』と書く。欲張って一度に三つの展覧会を観て回ったのだ。日記はつづけてこう書いている。 「La Venus de Milo かすかなる光の愛撫 幻の海底に 昔ギリシャのハープの調べは流れて 女神はいとも静かに立ちませり まろき肌より 温かき感情は流れ あゝ麗しきおみなよ 我をその熱き胸に抱き給え ほのかなる唇と 豊なる乳房に接吻を許し給え 永遠(とわ)なる恋を 幻の海底の深き光の中にささやかしめよ 昔ギリシャの女神 昔ギリシャの栄光ある女神 豊かなるLa Venus de Milo」 「ギリシャのハープの調べ」と書いているのは、特設会場内に、古代ギリシャ音楽を再現したハープによる調べが、程よい音量で流されていたのだ。それにしても、こんな文章を見ると、ハハハ、私も若かったんだなー。18歳だもの。 というわけで、その「ミロのビーナス特別公開」のカタログも保存してあるので、思い出しついでに書影を掲載してご覧いただこう。カタログの奥付にチケットが貼付けてある。
Jan 31, 2015
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なぜ表現の自由が大切かを説き、その理論的基盤を築き、また憲法改悪に警鐘を鳴らしていられた憲法学者、奥平康弘・東大名誉教授が亡くなられたという。享年85。 追悼の意を捧げると同時に、まことに大切なお方を亡くしたことを悔やむ。 御著書;『表現の自由とはなにか』(中公新書、1970年)『知る権利』(岩波書店、1979年)『表現の自由(1)(2)(3)』(有斐閣、1983-84年)『日本人の憲法感覚』(筑摩書房、1985年)『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988年)『「表現の自由」を求めて―アメリカにおける権利獲得の軌跡』(岩波書店、1999年)『憲法の想像力』(日本評論社、2003年)『最近の憲法をめぐる諸問題について』(自由人権協会、2004年)『憲法を生きる』(日本評論社、2007年) 他多数
Jan 30, 2015
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東京は雪だ。過去二日、ちらりほらりの日はあったが、今日は東京としては本格的な降りといってよかろう。もうすでに7cmほど積もっている。 今朝、猫のフクが、いつもの朝の散歩の塀の上歩きがしたくて、窓から出してくれと言う(鳴く)。 「雪が降っているから、無理だと思うよ」と言いながら、少し窓を開けてやった。フクは半身をのりだして、真っ白な光景をうかがう。が、すぐに「こりゃ,ダメだ---」と納得したか、渋々という様子で後ずさりして部屋の中にもどった。 「ほら、やっぱり無理でしょう。寒い寒い、きょうはおウチで遊びなさい」 「ニャー」と言って(鳴いて)、電気カーペットを敷いて囲いをしつらえた座卓の下にもぐりこんだ。 ほかの猫達、マスク、リコは、それぞれお気に入りの場所で暖をとっている。 サチは、私が仕事場に行くのを察知して、さっさと私の前を仕事場への階段を駆け上がり、途中で一旦止まって振り返り、私がやって来るのを確かめると再び駆け上がる。そして二階に上がりきると、階段端で振り返って私を待つ。私が頭を撫でると、また先きにたち、仕事場のドアを自分で開けて入った。---いつものサチの行動だ。私がデスクチェアに腰をおろすのを待って膝にとびのる。---いま、この日記を書いている私の膝の上にサチはいる。自分のことを書かれているとも知らずに---。きょうは、このブログを開設してちょうど3500日目である。 このまま雪の週末となるのかどうか。あまりありがたくない事ではある。
Jan 30, 2015
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今日も午後はほぼ講義用原稿を執筆。講義時間2時間、質疑応答時間30分から1時間が与えられているので、画像を映写しながら400字詰原稿用紙でおよそ40枚を考えている。20枚まで書いたので、ここまで来ればもう少しだ。それが終わったら、パワーポイントで映像原稿作りだ。 この作業、これはこれで楽しんでいる。絵画制作よりずっとラクなのだ。身体的にもね---。
Jan 29, 2015
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錦織選手の準々決勝、対ヴァヴリンカ戦は、0−3で錦織選手が敗れた。 残念。しかし、堂々のベスト8。 大拍手である。 楽しませてもらった。
Jan 28, 2015
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講義用原稿執筆。夕方、絵画制作少し。 それにしてもテニス全豪オープン、錦織圭選手の第4戦、対フェレーレはすばらしかった。3−0のストレート勝ち。明日の第5戦準々決勝の対スタニスラス・ヴァヴリンカ(スイス)が楽しみだ。
Jan 27, 2015
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午前中いっぱい認知症サポーター養成講座に出席。 私にとってはまったく期待はずれ。民生委員として現実に事例を抱えている身には、まずは抱括支援センターや行政に連絡するなどという結論が先きにあるような議論は、まったくとは言わないがあまり意味をなさない。小学生や中学生じゃあるまいし、自らの豊かな人生経験と人間を見つめる鋭い目をもった民生委員に対して、予め用意した結論をめざして敷いたレールを、にこにこと笑いながら走ってオリコウな答えをすることを期待するような、オバカ会合は時間のむだに等しい。 民生委員が、各種問題の相談者や困っている人達と各機関との繋ぎ役であることは、就任時に耳に胼胝(たこ)ができるほど叩き込まれている。しかし、それでは、抱括支援センターに「これこれこういう人がいますよ」と連絡すれば済むかといえば、現実はそんなものではない。 抱括支援センターは介護保険を使ったサービスを勧めたり介護施設や医療施設に入れようとするだろう。そして、それが最も適切である事例は少なくはない。が、生活保護を受けるまでにはいたらず、ぎりぎりのところで生活苦にあえぎ、介護保険を使いたくとも残りの自己負担を考えると保険を使うことさへできない。さあ、そういう人達をどうやって救う。民生委員の突きつけられている現実とは、そういうことだ。 介護保険制度下で運営されているサーヴィスや施設は数多いけれども、そして、それらは無くては困ることではあるが、キツイ言い方をすれば「商売」だ。彼らは、私たち民生委員のように無給で奉仕しているわけではない。---私は民生委員に就任してこの1年間、認知症に苦しむ当人やご家族、あるいは他の回復の見込みがない病気の長患いに苦しむ人に接するたびに、私はこの方々を介護保険を食い物にする業者に引き渡す「取り持ち婆」でもなければ「女衒(ぜげん)」でもないはずだと、そういう気持ちに苦しんで来た。 これは私だけの気持かもしれない。しかしながら、苦しんでいる人達を遠巻きにして、問題の核心に迫るでもなく、小学生や中学生のお勉強会のような会合には、むらむらと怒りがわいてくる。私自身の時間(人生)を無駄遣いされたと思うからだ。これが個人個人の交際のなかでの無駄遣いならば、交際を止めればよい。私は実際にそのようにしてきた。2度とおつきあいをしない。---だが、民生委員としての立場では、そのような会合への出席はなかば義務となっていて、よほどの事情がない限り避けられない。民生委員は老齢者も若い人もいるが、決して暇人がボランティアをしているわけではない。 ---おわかりかな、今日の会合の企画運営者たちよ。 あなたがたは認知症サポートの専門家かもしれないが、事例の深刻さは、よほど核心をしっかり見据えないと、実は、起っていることのそのあまりの奇想天外さや、場合によっては人間的な醜悪さが、外部からは小説的な一種の人間ロマンに見えてくるものだということを、あえて申上げておこう。 あなたがたが欲する結論、すなわち「抱括支援センターにつなげ、ご近所で見守りしましょう」などと私たち民生委員に言わせるよりも、あなたがたが個々の事例にどのように対処したか、どのように苦難者を救済したか、あなたがたに支援された人達がその後どのように生活しているか、あなたがたは解決困難な何か問題にぶつからなかったか---そういうようなことを、むしろあなたがたが発表してください。そのほうが余程私たちの勉強になり、あなたがたへの信頼も増そうというものです。
Jan 26, 2015
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きょうは絵画の制作を休み、引き受けた民生委員諸兄姉のための教養講座というべき、その第1回目(3月)の美術講義のための原稿を執筆しはじめた。一般向けなので、テーマを狭い範囲に限定せずに、そこから派生する問題や周辺にあるトピックスをまじえながら、大きな視野でテーマのもっている文化的な位置を説いていこうと考えている。 とりかかり始めるや、すぐに、セレンディパティ(思わぬ良いものが転がり込むこと)が次々おこり、私が動かずして関連資料が集まっている。不思議不思議。この調子だと、与えられた2時間30分内に話をおわらせるのに苦労しそうだ。
Jan 25, 2015
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きょうは午前9時から午後2時近くまで、市役所の企画による、町おこし、ないしは郷土の歴史的ともいうべき地や風光を、実際に歩いて目でたしかめ、また現地で古老の話を聴くという会合に出席した。昨年につづき2度目の会合である。市の職員はもちろん、市長も出席。 じつは本当の目的は、高齢者の健康増進のために家にとじこもっていないで街に出て歩いてもらおう。それによって、市の財政を圧迫する医療保険負担や介護保険負担を、軽減できるのではないか、というわけである。そのためには、どんどん変りゆく町だが、郷土の古きもたずねて、残すべきところは残し、あらためて親しみのある町をつくっていこう。さまざまの職種にたずさわる市民が参加して、生活感覚をもっての見聞を述べ合って、行政に反映させてゆこうじゃないか。そういうプランなのである。 現地での古老の話は大変おもしろかった。聞き捨てにするのではなく、言葉として残すことを私は提言したが、さて、どうなることか。 ---我が市ばかりではないと思うが、昔の地名がどんどん消えている。しかしそれを掘り起こしてみると、意外な事実---地勢的な重要な情報が明らかになって現在の防災に役立ったり、土地に降り積もってぬぐい去られてしまった華麗な光景が、幻のように立ち顕われるのである。 歴史には正史のほかに稗史(はいし)があって、それは下級役人があつめた民間のうわさなどを集めたものを指すが、転じて正史にはのぼらない庶民の生活の実体の歴史と言ってもよいだろう。それはいわばキレイゴトではない、生活者のナマの情報である。それが如何に大切であるかは、たとえばこういうことだ。 映画ファンの私が常々邦画に思うことだが、時代物作品に風俗の実体を再現したスタンダード作品が、かつて1本も作られたことがなく、多くの日本人のイメージは誤りにみちているということ。女性の着物の着付けひとつとっても、明治大正時代さへ再現されていない。私がごく子供の頃の映画にはまだあった既婚婦人の「お歯黒」は、いまではまったく再現されていない。あの奇怪な化粧には、日本の歴史的な女性の社会的地位と性の問題が反映されていたのだが、それをとっぱらった映画は社会的背景のある重要部分が抜け落ちてしまっていることになろう。 私は、邦画を論じたくとも、ただあまりのウソ(映画的ウソとは別の)に、当惑するばかりだ。せめて、イギリスBBC制作の「シャーロック・ホームズ」のような時代再現を邦画界に望むのは、私だけだろうか。かつてNHKの大河ドラマに、「衣装が汚い」とケチをつけたどこかのオバカ知事がいたけれど、現実を直視できない輩が政治をやっている、と、私は呆れたことだった。 話が余談めいてきた。 私は、我が市の取り組みに期待し、協力することやぶさかでないが、ひとつ気になったのは、市の職員が働き盛りで若いせいか、本当の高齢者(本当の、と言うのはヘンだが)の立場というか視点が閑却されているのではないか。私が民生委員として多くの高齢者と接して思うこととは、ズレがある。そこに行政は、気がついていながら目をそらしているのか。それとも、若い人と高齢者とでは歩く速度がちがうように、活力にまかせた活動範囲からは高齢者の活動範囲が非常に狭いものだということが理解しにくいのかしら。---高齢者問題は、本当にむずかしい。
Jan 24, 2015
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男子サッカー・アジア杯準々決勝、日本はアラブ首長国連邦(UAE)と対戦。両者すばらしい戦いをし、PK戦にもつれ込んだが、日本チーム、残念ながら敗れて4強に進めなかった。 しかし、1次リーグ戦からこの全試合を通じて、23名の日本代表はすばらしいチームプレーを戦い、私は惜しみない拍手を贈ろうとと思う。【試合経過】 開始前に、この日、23日、90歳で亡くなったUAEのアブドラ国王のために黙祷を捧げる。【先発メムバー】 キャプテン;長谷部、GK川島、酒井(高)、吉田、森重、長友、遠藤、香川、本田、乾、そしてワン・トップ岡崎。【前半戦】 UAEのキックオフで開始01:30 乾、サイドからの積極的シュート。GKはじく。 日本CK。本田キック→岡崎シュート。GKセ ーブ。02:55 UAE、酒井からボールを奪い裏をとって→マブ フート。マブフート、ドリブルで日本陣へ突っ 込む。川島、出る。好セーブするが、ひやりの 一瞬。UAE開始早々からアグレッシブな戦法。 日本、いささかたじたじ。06:00 UAEシュート。日本のデフェンスに当たる。07:00 UAE、森重の裏をとるロングパスを受けてマブ フート、シュート。ゴール! UAE、先制の1点 日本チームは今大会初めて先制を許しての失点。08:50 長友→本田シュート。バーの上。09:30 マブフート攻め上げる。森重対応し、川島キャ ッチ。10:00 森重クロスボールを入れる。GKキャッチ。15:00 酒井、右サイドからロングで左サイド乾へ。乾 シュート。GKキャッチ。16:20 香川からロングで→遠藤走り込むが合わず。17:00 酒井すばやくかわして左サイド乾へ。乾ヘディ ングシュート。GKキャッチ。25:30 森重とのミドルでの攻防でハマーディー、ハン ドをとられてイエローカード。27:00 酒井のクロスボール、UAEブロック。27:30 日本CK。本田蹴ってニアサイド。GK跳び上 がってキャッチ。30:00 酒井クロス→遠藤トラップ。UAEに当たって 日本CK。岡崎蹴って→森重ヘディングシュー ト。GKキャッチ。34:30 UAE、ミドルからロングでゴール狙い。大き くはずれる。38:30 本田→長友→本田クロス→香川入るがGKセ ーブ。40:00 UAE、セットプレー。アブドゥルラフマーン、 ファーサイドからゴール狙い。川島キャッ チ。41:20 長友→遠藤、ミドルシュート。それる。43:00 本田、ドリブルでかわしながら直接シュート。 ネット左へ。43:30 岡崎シュート。GKキャッチ。45:00 はげしい攻防から岡崎果敢にシュート。GK キャッチ。46:00 日本CK。遠藤キック。47:00 イスマイール、遠藤に対する危険プレーでイ エローカード。【後半戦】 乾 out、武藤 in。03:30 UAE、シュート。川島キャッチ。05:30 右サイドから本田→左サイド武藤、折り返 して本田狙いは通らず。06:30 武藤ドリブルからシュート。はずれる。07:58 武藤シュート、はずれる。 遠藤 out、柴崎 in。 アブドゥルラフマーン out、ハサン in。10:00 長友シュート。バーの上。11:45 日本CK。 ファルダン out、ハリル in。14:00 武藤仕掛けて→本田→香川シュート。G Kキャッチ。15:00 香川シュートするが勢いなし。17:00 長友、攻防からCKを獲る。 岡崎 out、豊田 in。21:23 長友シュート。UAE、ワンタッチ。日本 CK。柴崎キック、ニアサイド。UAEク リア。22:00 日本CK。本田蹴ってファーサイド武藤 へ。しかしボールはラインアウト。25:20 日本CK→長友→本田の森重狙い球は浮 く。26:30 武藤、左サイドからのクロス。ネット左 に当たる。29:00 柴崎→豊田ヘディングシュート。はずれ る。 ハイカル out、アハマッド in。31:00 本田CK。ゴール前でGKと豊田競り合 って、こぼれたボールを香川シュート。 バーの上。32:00 日本陣での攻防、長友の好デフェンス。33:00 日本ショートコーナー。本田シュート。 はずれ。36:00 柴田→本田→柴田シュート。ゴール! 1−1のタイ。38:30 本田→武藤シュート。ゴール前ではね返 ってラインアウト。40:00 長友→香川シュート。GKはじいたセカ ンドボールを武藤シュート。デフェンス、 セーブ。42:00 日本FK。本田キック。GKパンチング。42:30 日本ショートコーナー、UAEセーブ。43:00 本田→豊田、押し込むがファールをとら れる。48:00 香川シュート。はずれ。【延長戦;前半】08:30 柴崎クロス、GKキャッチ。 タッチライン際の攻防で長友倒れて左腿 裏にダメージ。【延長戦;後半】 柴崎右サイドバックに入り、長友ミドル 中央に入る。02:30 本田FK。GKパンチングでクリア。03:40 日本CK。香川クロス。10:30 本田FK。12:30 アハマッドにイエローカード。日本FK。 柴崎蹴るが、惜しくもネット左。13:50 アブドゥルラフマーンにイエローカード。【PK戦】日 本 ×○○○○× 4UAE ○○×○○○ 5試合終了 日本5−6UAE
Jan 23, 2015
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夕方、雨の中を電車に乗って合唱団の練習に出かけた。きょうを含めた3回の練習で、3月7日に大ホールのステージに出演する。 練習場に着くと、先生に新しい譜面を渡された。いままで練習してきた曲の最終部20小節を新しい構成にするとのこと。曲想が一層華麗になることは想像がつくが、わずか3回の練習で本番に臨めるだろうかと、一瞬、不安がよぎった。 「(指揮をする)先生の胸に譜面を貼付けさせてください」と言うと、 「そんな提案されたのは初めてです! 絶対お断り! 暗譜してください!」だってさ。ははは、みんなで大笑い。いい案だと思うがなァー。 出かける前に、5点目の新作の制作をしたが、1月も残り1週間。うかうかしていられない、時間が飛び去ってゆく。美術講話も頼まれているので、その準備もしなければならない。24日と26日も外出仕事がある。
Jan 22, 2015
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午前10時、外出のため玄関ドアを開けると、ちらりほらりと雪まじりの小雨。バッグに折りたたみ傘を入れてはあったが、それを出して、24本骨の傘に持ち替えた。帰りが4時過ぎになるので、本格的な雪になれば折りたたみ傘では頼りなかろう、と。 きょうは私が属す地区の民生・児童委員会の今年最初の会議。その後、新年会に出席する。 新年会はシャンパンで乾杯して開始。 私は、若い頃はウィスキー党で、可愛がってくださった満州在留邦人の引揚に身を挺して尽力された新甫八朗大人(たいじん)に、「山田クンは酔っているのかいないのか、さっぱり分からんね」と言われたものだが、あるときからガラリと体質が変わったのか、身体はどこも悪くないのに、アルコールをまったく受け付けなくなった。で、きょうも、形ばかり口付けたシャンパンが即効し、目の周囲にアルコールの靄がかかり、 I 夫人があきれて、「山田さん可愛いわね」と言われる始末。私も両手の指で♡をつくってみせた。 そんなわけで、私はもっぱらオチャケ(ゲッ! おやじギャグもいいとこ!)。 シャンパンで始まったけれど、料理は懐石。 あっ、そうだ、ポケットに献立の書付が入っているはず----。 あった、あった。ついでにここに載せておこう。 先付 胡麻和え 海月 人参 千社唐 どんこ椎茸 天盛 酢取防風 百合根 せり 御椀 若筍椀仕立て 白魚 菜の花 小梅人参 うど 木の芽 お造り 鮪重造り 鯛昆布じめ 帆立貝焼霜造り 芽物一式 煮物 棒鱈旨煮 鰊昆布巻 筍八方煮 里芋白煮 衣さや 木の芽 焼物 鰆西京焼 雪輪蓮根 焼栗 酢取茗荷 食事 雑魚御飯 赤出汁 香の物 甘味 柚子砂糖煮 水菓子 オレンジゼリー 飲み物 焙じ茶 コーヒー 雪は、散会時にはややはげしかったものの、家に帰り着くころには止んでいた。北窓の下にうっすらと雪溜りができていた。予報では21時以降に霙になるということだったが、ただいま22時、雨も降り止んでいる。O氏が降りしきる雪を見ながら、「山田さんのところは、スキーの直滑降ができるよねー」と言っていたが、まさにそのとおり。だから、降ってもらっちゃ困るのだ。去年の大雪で、私は2軒の高齢者宅の雪掻きをしてあげたっけ---。
Jan 21, 2015
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オーストラリアではスポーツの大きな試合が重なって開かれている。ひとつはテニス全豪オープン2015。ひとつは男子サッカー、アジア・カップ2015だ。 テニスは日本時間の今日、錦織選手の第一戦、スペインのアルマグロ選手と対戦し、大変タフな試合ながら錦織選手がストレート勝ちした。(私は忙しいにもかかわらず、第2、第3セットをTV観戦。勝利を見届けてあわてて仕事に復帰) さて、サッカーは、今日はメルボルンのレクタンギュラー・スタジアム日本チームのDグループ、対ヨルダン戦である。すでにイラク、パレスチナを降してグループ1位に立っているので、ヨルダン戦を勝つか引き分けで決勝トーナメントに進出できる。もちろん、チームの誰一人として「引き分け」など念頭にないだろう。 というわけで日本時間18時キック・オフ。結果を先きに書いてしまおう。2−0でまったく危なげない(と言ってしまうが)勝利。決勝Tへ1位進出を決めた。 それでは以下に私のメモから試合経過を記録しておく。【先発メムバー】 キャプテン;長谷部、GK川島、酒井(高)、吉田、森重、長友、遠藤、香川、本田、乾、そしてワン・トップ岡崎。 なお、遠藤選手は日本代表としてこれが151試合目の出場。また長谷部選手は、キャプテンとして、元日本代表の宮本選手の持つキャプテン回数をこえた。【前半戦】00:30 ヨルダンのキックオフ、中継ぎのロングパスから ドリブルで仕掛ける。右サイドライン際で吉田・ 酒井対応。01:30 乾、左サイドからシュート。GKキャッチ。05:30 ヨルダン、長谷部に対してファール。10:00 酒井から香川へ。香川走り込んでゴールライン際 で折り返しのクロスパスを乾へ。乾、シュート。 ゴール! 先制、いや、クロス前にボールがラインを割って いたと判定。惜しい。11:30 長谷部に対するムスタファのファールにイエロー カード。13:20 ヨルダンのファール。日本FK。遠藤キックはト リックプレー。しかし成功せず。15:00 長谷部に対してサイフィーのファール。日本ファ ーサイドからFK。本田、直接シュートキック。G Kキャッチ。20:00 長友、左サイドからロングクロスで本田へ。ボー ルは大きくはね返る。22:00 ヨルダン、乾に対してファール。24:00 日本こまかくパスをつなぎ乾へ。乾裏の岡崎へ。 岡崎、シュート。GK、ボールをはね返し、こぼ れ球を本田ゴールに押し込む。先制の1点!27:00 ヨルダンのダラドレ、シュート。日本対応し、ボ ールこぼれる。ヨルダンのデフェンスに当たって ラインアウト。27:30 日本CK。遠藤のキックはニアサイド。岡崎ヘデ ィング。ヨルダン、クリア。28:00 再び日本右サイドCK。本田キック。GK、しっか り対応。33:00 日本ボール、抜けて岡崎、左サイドからロングシ ュート。ゴールは成らず。35:30 日本右CK。GKフィッシャー、好セーブ。37:00 香川 → 岡崎シュート。ネット左にそれる。38:00 ヨルダンのラフプレー。森重の顔面を肩が直撃。 森重、担架でピッチアウト。 日本は10人でプレー続行。40:00 森重、ピッチに復帰。【後半戦】00:10 日本のキックオフ。ロングボールを敵陣へ送り込 み、岡崎、飛び出してシュート狙い。GKキャッ チするも、追い撃ちを掛ける岡崎の足がかかっ て、岡崎にイエローカード。02:50 ザフラーに乾の足が入り、乾にイエローカード。 (日本ベンチ、控えの清武に準備指示)05:23 乾 out、清武 in。07:50 吉田ファール。ヨルダンFK。川島パンチングで はね返す。09:50 長友、ヨルダン勢を突破して狙いすましたロング クロス → 遠藤シュート。ネット上。惜しい。11:00 長友ファール。ヨルダンFK。日本クリア。11:58 ヨルダン、シュート。川島、キャッチ。13:50 ヨルダン、シュート。日本、危ういところをクリ ア。14:40 岡崎に対してヨルダン後ろからタックルし、日本 FK。 右から遠藤キック。吉田入ってヘディングシュー ト。わずかに左へそれる。30:00 日本FK。本田のキックはネット上。32:00 遠藤、左ニアサイド。本田、シュート。ゴール成 らず。37:30 岡崎 out、武藤 in。35:00 ヨルダンCK。味方の足に当たりピッチアウト。 日本のゴールキック。37:00 武藤の左からのアシストを香川がシュート、ゴー ル! 2点目。39:30 ヨルダン、シュート。川島タッチしてボールはピ ッチアウト。 ヨルダンCK。川島、パンチング。41:00 遠藤 out、柴崎 in。 (柴崎はアギーレ体制初出場)43:00 ヨルダン、クロスでゴール前へ。森重クリア。45:00 本田右足で果敢なシュート。左ポストに当たる。 (本田の利き足は左)46:00 ヨルダン、低いクロスを入れて来る。森重、ヘ ディングでクリア。47:00 ヨルダン、シュート。はずれる。 (最も若い酒井、チームを叱咤。集中力を切らす なと? ヨルダン、この試合負けると1次リーグ 敗退。必死だ)48:30 本田、シュート。ヨルダンに当たる。試合終了 2−0で日本チーム、1次リーグ勝ち抜け。 香川は、イングランドで苦しみ、移籍後のドイツ・ドルトムントでも苦しみ、アギーレ体制の日本代表戦でも今まで無得点で来た。それが、ようやくの得点。彼の顔に久しぶりの笑いがひろがった。観ていた私も思わずじんわり。大きな期待を背負った者が、意に反してその期待に応えられない辛さ。「涙には 幾つもの 想い出がある、心にも幾つかの 傷もある、----なァ 酒よ」である。
Jan 20, 2015
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きょうも一日中制作。 私の技法は、ここ5、6年来、油彩を主体とした混合技法である。それぞれの技法は、長年にわたって、研究を兼ねて別個に作品づくりに用いてきたが、ようやく一つの作品のなかに集約できるようになった。部分的に構造自体が複雑なのであるが、昨年のパリ出品作品からは更にまったく新しい技法が加わり、パリで初公開したのだった。この技法に関する制作過程等の詳細については、画廊との約束で公表はできない。はたしてこれが私の「晩年様式(レイト・スタイル)」になるのかどうか--- それはともかく、きょうは複雑な構造のもっとも基礎となる塗りをした。次の段階はきょうの塗りの乾燥を待たなければならない。今週から連日外出のスケジュールが入っているので、その間に乾燥させようというわけである。
Jan 18, 2015
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ほぼ終日、仕事場に籠って新しいキャンヴァスに向かって下絵を写す。その前に、私の手をモデルに、少しずつ表情と視点を変えて、家人に撮影してもらった。すぐにプリントして、それをもとに準備稿を修正。デジタル・カメラの便利さである。昔、私は、大型のポラロイド・カメラを使っていた。 もしかすると今の若い人は、「ポラロイド・カメラって、何?」と言うかもしれない。 正確にはポラロイド・ランド・カメラ(Poraloid Land Camera)と言う。アメリカのポラロイド社のE.H.ランドが考案した。カメラ内部に特殊な現像液と印画紙を装備し、撮影と同時にプリントされて排出される仕組みになっている。 「ポラロイド・カメラ」という名称は登録商標なので、後続の日本製品はインスタント・カメラと称していた。私は、スピードを要求されるイラストレーション制作のための取材に使っていたのである。 話は変わる。 きょうは阪神大震災からちょうど20年目にあたる。6千人を越す死者を追悼する行事が各地で開催されたようだ。神戸市中が火の海になる映像や、崩落した高速道路の端に転落をまぬがれてひっかかったバスの映像などが、目に焼き付いている。 天災であるから、私たちは二度と過ちは繰り返さないとは誓えないのだけれど、その後の東北大震災とそれに起因する原子力発電所の恐るべき大災害からの復興の遅れや、絶望した被災者の自殺や故郷を捨てざるをえなかった避難者の、なかんずく高齢者の力尽きて斃死するニュースを見聞きするたびに、私たちというより、政府は、阪神大震災からいったい何を学んだのだろうと問いたくなる。 そして阪神大震災から2ヶ月後、日本犯罪史上未曾有の無差別大量殺傷事件が起った。麻原彰晃(本名:松本智津夫)が率いる犯罪組織オウム真理教による地下鉄サリン事件(1994年3月20日)である。 当時、ある宗教学者がオウム真理教をあげつらい、あまつさえ擁護する言論を見聞きするにつけ、私自身は宗教表徴としての荘厳(しょうごん)の研究によって、オウム真理教を宗教教団とみなしてはいなかった。そして、予言とは言わないが、新人物往来社刊行の季刊『AZ』1994年夏期号「シャーマニズムの心理学」に発表した「狐信仰とそのイコノグラフィー」の中で次の一言を書いた。すなわち、 「狐憑きの現象から現代の私たちが学ぶことは、臆説や陰謀が渦巻き、人心が不安と恐怖と憎悪で惑乱し、社会全体がヒステリー状態におちいると、それを利用する者たちが必ず出現するということである。「憑霊・憑依」は制度として機能しはじめる。知性は無化され、社会全体がいわば催眠状態になる。重大なことは、そのような社会に生きる人々は、みずからの社会の有様をカタストロフィを迎えるまで認識できないことである。」 私の意中にあったのはオウム真理教だった。はたせるかな、この雑誌が出て数ヶ月後に「地下鉄サリン事件」が起ったのだった。 オウム真理教について、現在でも多くの論者が、「宗教教団」か「テロ集団」か、と2項を立てて論じているが、それは議論の堂々巡りに陥るだけだ。第一、その二つを切り離すことさへすでにして過ちだ。なぜなら、事実として殺傷被害者にとって、その加害行為が宗教教義の命ずることだと解説して何の意味があろうか。殺人は行われたのであり、殺人者は殺人者以外の何者でもない。いわんや無差別殺人となれば、その殺人者に冠を載せる必要がどこにあろう。 私は信教の自由は認める。人が何を信仰しようと私の知ったことではない。幻想にすがらなければ生きられない人もいよう。人間という生き物は狂気を生きているのだから。鰯の頭も信心からである。だが、私は宗教教団の「甘え」は絶対に許さない。あらゆる宗教は血まみれの歴史を有する。あらゆる宗教が、神の名を騙って、無辜(むこ;人間として何の罪の無い)の人を残虐に殺害して来た。あらゆる宗教が汚れた犯罪者の手とその遺伝子をもっている。私は、その歴史を忘れはしない。私は信教の自由を認めるが、その自由をどのように行使するかを注意深く見つめている。
Jan 17, 2015
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ニューヨーク展用の新作、5点目の構想がほぼまとまり、下絵の下絵とでもいう準備稿もできた。明日、一部分のモデルを写真撮影してみて、準備稿と突き合わせ修正することにする。 当初、長年意中にあった構想を、今やるときだと思い準備を始めたけれども、実のところ「今だ!」ということに確信がもてないでいた。このあたりの機微を説明するのは難しいが、つまり、「今だ」と思うのは何故なんだということ。よしんば「今」だとして、その「今」をどのように形象化して、何の予備知識も無い他人に伝えるのだ? ということだ。そんなモヤッとした思いで、兎に角、手をつけ始めたのだ。 すると、手が考えるというか、「あっ!」と答がひらめいた。象(イメージ)が、---その外形を越えた---いわば象形に降り積もった「時間」がはっきり見えたのだ。そしてそれは、「今だ!」と主張していた。 明日からキャンヴァスに向かっての制作に入る。
Jan 16, 2015
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雨が降りつづいている。しばらくぶりの本格的な降りだが、一段と冷え込んで来た。予報では関東の山沿いは大雪になるかもしれないと言っている。この「山沿い」というのは、関東内陸部の群馬あたりを指すらしいが、山といえば我家は低いながらも山の上なので気にかかる。 きょう1月15日は「小豆粥」の日である。あるいは「十五日粥」とも言う。小豆を入れた粥を炊き、餅をまぜこんで食す。 我家ではさきほど、昼に、小豆善哉を食べた。餅は正月のものがまだ残っていた。 もう長年、自分で餅を搗かず、スーパーマーケットから一つずつ真空パックされたものを買っているので、正月中に食べきれなかったものが残っているのである。昔は、カビがはえるので水餅や、カチンコチンに天日で乾燥させ、油で揚げて霰(あられ)にしたものだ。 両親の時代、師走半ばが過ぎると近所の方々が我家の餅を搗きにやってきて、何升もの餅を搗いた。その日は、私ら子供にとっては賑やかなお祭りみたいで、搗きたての餡ころ餅をもらって、まるで「ゴンベが種播きゃカラスがほじくる」じゃないけれど、立ち働く大人達に追い払われた。 伸し餅やら海鼠形の豆餅やら小豆餡入りの丸餅など、たくさんの餅を七日正月のころまでには結構食べきってしまったが、現在の我家では1kg入りが食べきれずにまだ残っている。つまり、歳をとった、70歳だもの、ということだ。 高浜虚子の句に、 明日死ぬる命めでたし小豆粥
Jan 15, 2015
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昨日の新聞に、往年のスウェーデン出身のイタリア映画女優アニタ・エクバーグさんの死去が報じられていた。享年83。 アニタ・エクバーグといえばフェデリコ・フェリーニ監督に見いだされて「甘い生活」(1960年)のヒロインに起用され、一躍その名が世界を馳せた。この作品でフェリーニ監督はカンヌ国際映画祭最高賞パルムドールを受賞している。 私がこの映画を観たのは初公開からずっと後のことだが、なかなか難解な作品という印象だった。というのも、その頃の私の映画の見方はまだ未熟で、ストーリー本意の見方をしていたからにちがいない。1950年代後半に時代設定してのイタリア上流階級の享楽的退廃を、映画的映像美とともにそのままじっと見つめればよかったものを。たとえばこの映画を有名にしたシーン---トレヴィの泉に入ってアニタ・エクバーグとマルチェロ・マストロヤンニが戯れる、そのエクバーグの若さ溢れる美貌に酔いしれたように。 ところでフェリーニ監督後年の作品、「インテルヴィスタ」(1987年)は、フェリーニの自伝的な香りのする私の好きな映画で、例によって虚実ないまぜの映画文法は、映画芸術を語るうえで一つの格好のモデルと私は思っている。フェリーニ監督はじめ、マストロヤンニやアニタ・エクバーグが本人役で出演しているのもマジックの一つであるが、ストーリーの枠組みは、こうだ。 ----ローマのチネチッタ撮影所でカフカの「アメリカ」を下敷きにした映画を撮っているフェリーニ監督のもとへ、日本のテレヴィ局のクルーがインタビューにやってくる。監督は快くそれに応えて自分の若き日を語り始め、それが再現される。こうして現在と過去とが映画撮影所を舞台にないまぜになってゆく。 映画ファンにとってたまらなく嬉しいのは、ほとんどロケーション撮影せずに高速道路や海さへもセットで作るというフェリーニ映画に共通する手法が、まのあたりにできることだ。しかし「インテルヴィスタ」においてはそれもフェリーニのマジックである。 映画のなかで、フェリーニ監督はテレヴィ・クルーと、同じ撮影所でマジシャンの扮装をしてCM撮影をしていたマストロヤンニとを引き連れて、ローマ郊外のアニタ・エクバーグのヴィラを訪問するのだ。これはロケーション撮影である。この当時、アニタ・エクバーグはすでに引退していた。55歳くらいだったはずだ。その彼女が、一行を迎えて門に姿をあらわす。壮年の、豊満なといえば聞こえはいいが、でっぷり肥ったイタリア女(スェーデン人だが)。どこかに往年の大女優の華やかさと堂々とした佇まいは残すものの、あの「甘い生活」の若く輝く美しさは見る影も無い。 アニタ・エクバーグは一行を自邸へと招き入れ、小さなホームパーティが始まる。マジシャンの扮装をしたマストロヤンニが杖を振ると映画のスクリーンが現れ、「甘い生活」のトレヴィの泉のシーンが映し出される。驚き見入るアニタ・エクバーグ。若い自分の姿。彼女の頬にやわらかい微笑とともに、目に涙があふれる--- 映画「インテルヴィスタ」を長々と述べたのは、このアニタ・エクバーグさんの涙をこのブログの読者にお見せしたかったからだ。それはとうに引退した女優がスクリーンで見せた、最高に美しい涙だったと私は思うからだ。そして、やはり彼女は大女優だった。よくぞこのシーンに出演なさった。ドキュメンタリー・タッチの(しかし、役としてのテレヴィ・クルーがそこにいることで、やはりフィクションでもある)このシーンに。 あなたは永遠に美しい! アニタ・エクバーグさんのご冥福を祈ります。【注】 「インテルヴィスタ」は、非常に緻密な作品で、たとえばフェリーニ監督がカフカの「アメリカ」を下敷きにした映画を撮っている最中という設定も、また日本のテレヴィ・クルーがインタビューに来ているという設定も、この映画が監督の自伝風であることも、すべてが時代批評のためのこの映画作品の仕掛けであって、論理的整合性を指摘できるのである。重層的且つ並立的でもある網の目のような世界実存を、その網の目を一つ一つ掬い揚げて繕うように象徴によって精緻に仕上げた手腕---なにもかもを団子のようにまるめて、それでいて論理的であるところに、私は目くらむような愉悦をおぼえるのだ。まるで水晶体の結晶を見るようで。---だが、それについては、ここに述べる暇はない。
Jan 13, 2015
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きょうは仕事を一切休んで、墓参に行ってきた。小正月(15日)前にということと、新しい作品の制作にとりかかる前にということもある。また、来週半ばからほぼ連日、民生委員としてのスケジュールが入っている。 伯父の寺に預けてあった先祖の遺骨を、東京に新しく墓を建設して改葬したのが28年前。それで車を1時間ばかり走らせれば墓参も容易になった。 きょうは弟もいっしょに行ったのだが、その弟が「墓を建ててからもう28年にもなる。ついこのあいだのように感じるけれど---」と、なにやら感慨深げに言い、つづけて「次の28年目には、われわれはもう生きていないかもしれないね」と言った。 「そうだね」と私は笑った。すると弟は「でも、僕はあと40年くらい生きそうな気がするんだ」と言う。 「ずいぶん自信ありげだね」と、私はまた笑った。そして、「吉行淳之介さんのお母さんで美容家の吉行あぐりさんが、先日5日に107歳で亡くなったよ。あの方は90歳を過ぎても現役で仕事をなさっていた」「仕事をつづけていると、やはり若々しくいられるようだね」「そのようだね。民生委員の仕事でお会いする高齢者も、なにか仕事をしていたり社会的な活動をしている方は非常にお元気なんだ。引きこもっている方とは目立ってちがうんだよ」「ふーん、そうなのかい」 空は快晴である。きょう成人式を迎えた若者たちは、未来の果てしない地平に向かってずんずん歩いて行ってほしい。空へ、空へ! 「海ゆかば水づく屍---」なんて、まちがっても歌いなさるな。
Jan 12, 2015
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来る5月から国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士・油井亀美也(ゆい きみや)さんに関する報道のなかで、信濃毎日新聞に目がとまった。「えっ!」と、びっくりしたのだ。由井さんが私の小学校の母校の後輩だという。長野県南佐久郡川上村、川上第二小学校!【関連記事】信濃毎日新聞 宇宙へ飛び立つ油井さん、故郷の川上村で壮行会 01月11日(日) 私には母校というのが小学校だけで3校ある。1年生に入学したのが川上第二小学校だ。ほかに福島県南会津郡田島町立荒海小学校、同じく八総鉱山小学校である。 川上第二小学校の思い出は、入学当日の影像さへしっかり記憶に残っている。私の席がどこで、新しい教科書をもらったときのこと、そして、まさに今在る私を発見して導いてくださった担任の樋口カエ子先生のこと。 私は川上第二小学校の初日に私の人生最大の先生に出逢ったのだ。1年生から2年生の2学期まで、わずか1年4ヶ月の間に、先生は私を6年生の課外授業の中に入れ、自然観察、ことに蘚苔類の研究と蝶類の研究を指導してくださった。 おそらく私はちょっと変った子供だったのかもしれない。宿題でもないのに平仮名の書取り練習帳を毎日1冊書上げ、そのノートと絵日記を毎日、朝、登校すると樋口先生に提出していた。提出といっても私が勝手にやっていたのだ。先生は下校時間までにそれをすっかり読み、そればかりか、私の記事の後に赤インキのペン字(当時はまだボールペンなどなかった)で、丁寧な、いわばコメントを書いて返してくださっていた。今考えると、1年生の担任として忙しかっただろうに、迷惑な子供とも思わずに、私の記事が一層深まるような確かな方向性のあるコメントを毎日書いてくださっていたわけだ。 いまでも憶えている。虹のことを書いたときは、虹ができる原理について説明し、加えて、霧吹きを使っての虹をつくる実験の勧め。私の十五夜兎の絵には、物の後ろがどうなっているか、物の影はどうなっているか観察してごらんなさい、とか。もちろん日記なので家族行事についても書くわけで、それに対しても、「目にみえるようです」などと書いてくださった。これは、文章表現の指導だったと、今に気づくのである。 私はそれらの膨大な数のノートや絵日記や絵を大きな茶箱に保存して両親のもとにあったのだが、後年、両親が札幌から東京の私と同居するために転居したとき、すべてを焼き捨ててしまった。これを聞かされたときの私のショックたるや!--- 取り返しがつかないので、「あっ、そう---」と私は言って、あとは黙したけれども、私のアイデンテティが失われたように落胆したのだった。 それでも樋口先生の思い出のわずかな品、両親に預けずに私の住居の変遷とともに持ち歩いた当時の年賀はがき1通と、転校するときにプレゼントしてくださった---戦後まだ浅い当時としては貴重な---ルーペが残っている。ルーペは、先生が黄色いリボンに結んでいつも首からぶらさげていらしたものだ。表に「樋口」と、裏に「K.Higuchi」と刻んである。私はこのルーペを40歳にさしかかる頃まで、イラストレーションの印刷校正刷の点検に使ってきた。刻まれたお名前が消えそうなまでに磨り減ったので、消えないうちにと、使用をやめた。 そうだ、樋口先生の品ではないが、先生の指導で制作した蝶の鱗粉転写標本が現在も残っている。 宇宙飛行士油井亀美也さんが川上第二小学校の卒業と知って、ついつい私自身の思い出を語ってしまった。 あれはいつだっただろう、川上村を訪ね、川上第二小学校にも行ってみたことがあった。 いま、記録を調べてみると1989年の8月初めのようだ。仕事の必要から滝をみたくなった。そこで山梨県の笛吹川上流に分け入った。写真を数枚撮ったところですれちがった登山者に下山を勧められた。豪雨の予報が出たというのである。はたせるかな帰路、大変な雨にみまわれた。じつは弟に同行をたのみ、車の運転をしてもらっていたのだが、予定を早々と切り上げたので残った時間で川上村へ行こうと、弟が言い出したのだった。 私たちが行ったとき、川上第二小学校はわずか数年前に新築されて、私の入学した当時の校舎はなくなっていた。それでも、そばを流れる梓川も土手道も校庭の様子も(それを取り囲む周囲は別として)、昔の面影を偲べたのである。私の教室があったすぐ外に、今、希種・川上犬の飼育小屋があった。私は自分が飼っていた犬「カピ」を思い出した。 私が転校した後に、樋口先生の計らいであったろう、先生とクラスメイトが校庭で撮影した写真を送ってくださった。そこに写っているのが昔の校舎である。左の最も手前が私の教室。その真上、二階が音楽室だった。この音楽室で映画「原爆の子」(新藤兼人監督、1952年)と「ひめゆりの塔」(今井正監督、1953年)を観たのを思い出す。---この写真、このブログに掲載して迷惑なクラスメイトはいるかしら。【写真説明】 樋口先生から贈られたルーペ(昭和28年9月) 小学校入学のときの私(昭和27年) 川上第二小学校 樋口先生と級友(昭和28年11月13日)
Jan 11, 2015
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画廊の社長から提案されたニューヨークのアートフェアのための新作は、小品4点と大きめの作品2点。小品を連作とし、その4点目が完成した。昨年末の完成をめざして筆を進めていたが、年を越し、予定より10日ずれこんだ。しかし、まあまあの想定内。今後、しばらく寝かせておくとまた手を入れたくなるかもしれないが、一応、きょう擱筆。次の作品に向かうことにする。 次の作品は、早くから構想はあったのだけれど、まだ迷っている。イメージと世界的時代精神についての私の読み取りとが、はたして正鵠を射て合致し、象形化されているかどうか。しばらくの時日、熊のようにうろうろさまよいながら、考えを固めてゆくことにする。 さて、きょうのBGMは「演歌」。YouTubeで探して、連続で掛け流す。うじうじした過剰なまでの情緒と芝居っけを吐き出すためである。あるいは逆に溜込むためか----
Jan 10, 2015
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Jan 9, 2015
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Jan 8, 2015
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小説家の宮尾登美子さんが12月30日に老衰のため死去されたという。享年88。 宮尾さんは「運命に翻弄されながらも高い志を持って生きる女性の一生を描いて、多くのベストセラー作品を生み出した」(朝日新聞)。 私の亡母が宮尾作品の愛読者だった。 母は、重病で命はとりとめたものの、その後、92歳9ヶ月で亡くなるまでのほぼ4年近くさまざまな管に縛された寝たきり状態の在宅医療となったが、そうなるまで、すなわち89歳の頃は読書三昧の日をおくっていた。年間100冊以上を読んでいた。本を読みたいというので、私が買ってきては与えていた。その中に宮尾作品があった。そして宮尾作品がおもしろいというので古書店で見つけてはつぎつぎと買って来た。古書店の棚にある宮尾作品をごっそりすべて買うので、古書店が宮尾作品を集めてくれるようになった。半端本はきちんと上下巻揃えてくれていた。亡母が遺したそれらを、今ざっと見てみると、次のタイトルが目に留まる。『一絃の琴』講談社 1978 『鬼龍院花子の生涯』文藝春秋 1980 『伽羅の香』中央公論社 1981 『序の舞』朝日新聞社 1982 『天璋院篤姫』講談社 1984 『朱夏』集英社 1985 『春燈』新潮社 1988 『松風の家』文藝春秋 1989-90 『きのね-柝の音』朝日新聞社 1990 『菊亭八百善の人びと』新潮社 1991 『藏』毎日新聞社 1993 『東福門院和子の涙』講談社 1993 『菊籬』文藝春秋 1995 『天涯の花』集英社 1998 『仁淀川』新潮社 2000 『天涯の花』など、前に買ってあるのに、せっかく古書店が集めてくれたのだからと、2冊目を買ったこともあった。いまは、母が膝の上に本を置き背を屈めて読みふける姿とともに、微苦笑する思い出だ。 宮尾登美子さんのご冥福を心からお祈りせずにはいない。亡母に代わって、ありがとうございました。最晩年の日々を、母はほんとうに充実しておくれたに違いありません。
Jan 7, 2015
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午前9時半から午後6時まで執筆。一日中制作にかかりきりの日は、ブログに書く事がない。 昔、某画伯の逸話に、奥さんが画伯をアトリエに閉じ込めて鍵を掛けたのだそうだ。働け働け、というわけだ。世間はこの一事をして悪妻と評したらしいが、某画伯にとっては案外幸せなことだったかもしれない。一家の主人としての雑用もせずに、職業とはいえ好きな絵を描いていればよかったのだから。 だいたい絵描きというのは、家庭のなかで某氏のような立場---家の中で家人たちが文句も言わずに放ったらかしにしておいてくれる立場---を築けるかどうかが、絵描きになるための大事な「才能」なのである。 たぶんその立場を築くための家庭内闘争は、子供のころから始まっているはずだ。 音楽演奏家やスポーツ選手は今でこそ親達のほうが夢中になって手をかけるが、そしてたぶんその方が成功率は高いように思うが、画家の場合、子供のときに才能あるかのようにちゃやほや親に手をかけられた子は、おそらく画家にはなれないのじゃないかしら。 つまり、音楽演奏もスポーツもやるべきこと---修業は---年齢的成長過程で目指すことが変ることはないと思えるけれど、絵画芸術の場合は、子供の思考による絵はまったく通用しなくなるからだ。「子供のように自由な発想」の絵というのは、まったくの「誤解」---私は、「ウソ」だと断言する。 絵画芸術は、数万年の人類の智慧の蓄積があって、その上に新しい思想と感覚を確固とした論理と技術によってただ一人の創造物として生み出すものだ。そういう人間は、家庭のなかではおよそ理解されるものではなかろう。未来の画家は、まず初めに自分の家族と闘わねばならず、その闘いを通してそれまでは漠然としていた自我のなんたるかを覚り、いよいよ独自の思想を形成してゆくことになる。未来の画家は、実はすでにして自分が何を描かなければならないかを知っている。そして底なしの孤独のなかで、描かなければ生きてゆくことが恐ろしく困難になることも。---やがて彼は、彼女は、自分の胸の内壁にはりついている「絵」を、掻きだして、象(かたち)にして表に出すための技術が必要なことに気づくだろう。 ---画家というのは満身創痍となって生まれてくるものなのだ。
Jan 6, 2015
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2015年仕事始め。私はすでに2日からちょこちょこと執筆をしていたが、世間並に今日から本格始動。仕事場に閉じこもって午後4時30分まで制作。今週中には新作小品の連作4作目が完成しそうだ。 拝受したたくさんの御年賀状に励まされている。まことにありがとう存じます。
Jan 5, 2015
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午後から執筆。 BGMにモーツァルトの交響曲集を流していた。 BGMといえば、昨日のCNN.co.jpがおもしろい研究を伝えていた。「パワフルな音楽で仕事もパワーアップ、音楽が与える影響とは」というタイトルで、「米ノースウエスト大学ケロッグ経営大学院のデニス・スウ氏によれば、パワフルな音楽を聴くことで、仕事の着手の頻度が高まったり、状況をコントロールできているという気持ちが強まったりするという」と。デニス・スウ氏の調査で得た以下のような「最もパワフルだった曲」3曲と、「最もパワフルでなかった曲」3曲を紹介している。 最もパワフルだった曲:1. "We Will Rock You" by Queen2. "Get Ready for This" by 2 Unlimited3. "In Da Club" by 50 Cent最もパワフルでなかった曲:1. "Because We Can" by Fatboy Slim2. "Who Let the Dogs Out" by Baha Men3. "Big Poppa" by Notorious B.I.G. 私はさっそく「最もパワフルだった曲」を実際に次々に聴いてみた。 デニス・スウ氏の調査は、これらの曲を仕事中にBGMとして聴くのではなく、仕事にとりかかる前に聴くのだろう。仕事中に流すには私にはウルサスギた。パワフルになるより、「やかましいわい、静かにせんかい!」ってなもんだった。私の仕事にはロックは不向きとわかった次第。---もっとも、いま聴いているモーツァルトだって邪魔になることがある。私が絵を描きながらどんな作業をしているかで、全然ちがうのだ。まったく音楽を拒否することもあるのは勿論である。 上の曲でみなさんも試してみてはいかがでしょう。
Jan 4, 2015
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あっと言う間に正月三ヶ日も過ぎようとしている。静かに過ぎ行くのが私には幸いだ。 箱根駅伝は青山学院が他校をまったく寄せ付けない圧倒的な早さで初優勝した。青学の選手諸君にはまことに失礼ながら一躍出て来たという感想をもつ。かつて箱根駅伝の優勝候補として、下馬評にあがったことがあっただろうか。私の14、5年間の記憶には上位を競り合ったという記憶さへない。しかし今日の記録は、往復全行程これまでの10時間51分代を塗り替える10時間49分27秒。2位駒沢大学との差、10分50秒。こんな大差の試合も私の記憶にはない。 2位駒沢大学、3位東洋大学、4位明治大学、5位早稲田大学、6位東海大学、7位城西大学、8位中央学院大学、9位山梨学院大学、10位大東文化大学。---以上が、来年のシード校である。 創部以来40年余とかでようやく今回初出場にこぎつけた創価大学は、健闘虚しく最下位に沈んだ。それだけこの箱根駅伝が、過酷で、大変な試合だということだろう。 子供のころから箱根駅伝に出場する夢をいだいて大学を選択した選手は各校に少なくはないらしい。入部したからと言って、各校10名の走者に選ばれるというわけではない。箱根路を走る以前に彼らは苛烈な競争をしているのだ。 ある有名スポーツ・ライター(男性)が、「私は箱根駅伝が嫌いだ。箱根駅伝はスポーツではない。なぜなら誰でも出られるわけではないし、女性差別をしているからだ」と、馬鹿なことを言っている。 あらゆるスポーツのトップアスリートによる競技会は、誰でも出られるわけではないだろう。 オリンピックはどうだ? テニスのウインブルドンはどうだ? 大相撲はどうだ? 大相撲の部屋所属制度は、箱根駅伝の各大学単位の出場資格ルールとどこがちがう? そしてトップアスリートを頂点としてピラミッド型に裾野があり、その裾野には誰でも参加できる開けた無門の門があるのじゃないか? 最近は、「女性差別」と言えば論評が成立すると思っている奴がいる。箱根駅伝に女性参加を望むなら、スポーツ・ライターとして陸上競技界に提言したがよかろう。 事のついでだ、今回の箱根駅伝で、山梨学院大学の復路7区の走者・市谷龍太郎選手は、生来の左目失明という障害をもっていられる。だが、彼は、途中で一瞬コースを間違えるというアクシデントはあったものの、見事に完走したのみならず、自校を9位に押上げてシード権獲得の立役者であったと付け加えておく。オリンピックでは障害者部門が別に設けられているが、今回の箱根駅伝では市谷さんの出場を関係者は問題視せず、市谷選手はその能力だけでこの大舞台に出て来たのである。 自分の好き嫌いで評論など成り立たないぐらいのことは覚えておくがよろしい。世の中は自分の好き嫌いで成り立ってはいないのだから。
Jan 3, 2015
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2015年の仕事始め。年末に着手した作品を、ほんの少しだけ執筆。この作品完成後に大きな作品にとりかかるので、どうも頭がそっちのことばかり考えている。 ところで昨日元日、昼近く、ちらりちらりと雪が舞った。地方によっては大雪注意報が出ていたので、東京もあるいはこのまま降りつづくかと思ったが、たちまち止んでしまった。この年齢になると、降雪はありがたくはない。昨年は、高齢者が雪掻きに難渋しているのを通りすがりに見かけて、スコップをとって代わりに掻いてあげたこと2件。---雪見の風流は、ちらりほらりの時だけで十分である。 さて。再び、ところでだ。 第91回箱根駅伝。毎年、トピックスに事欠かないが、今年も、いやー面白かった。 1区での先頭組の激闘。東洋大、明大、青学大、中央学院大、そこに駒澤が追いつき権太坂の下りで一気に抜き、華の2区エース村山謙太選手につなぐ。 この2区は各大学のエースが揃うところ。村山謙太選手の双子の弟、城西大村山紘太選手もその一人。16位で襷を受取り、トップを行く兄に追いつけとばかりに猛烈な走りで8位まで上がった。快走しつづけた兄謙太選手〈駒澤〉は、しかし3区中継地点前方で東洋大エース服部勇馬選手にトップをうばわれた。 4区では青学の走者ただ一人の1年生田村和希選手がめざましいスピードで区間賞を獲得。今年の青学は目を見張らせるものがある。第5区、箱根の山上りで、神野大地選手が駒澤大の馬場翔太選手を抜いてトップにおどりでる。そのままぐいぐい引き離し、なんとレジェンド〈山の神〉東洋大の柏原 竜二選手の記録を塗り替える1時間16分15秒の区間新記録で青学を初めて往路優勝に導いた。ちなみに柏原 竜二さんはこの往路5区山上りで3回区間新記録を更新した【後註】。神野大地選手は現在3年生。はたしてあと1回の機会に、今年の自己記録を更新できるであろうか。来年が楽しみである。 2位は明治、3位東洋大、4位、駒澤。駒澤の馬場翔太選手、残り1キロのところで失速、意識朦朧状態で路上に倒れては立上がり、また倒れては立ち上がりで、しかし棄権することなくゴールに。 明日の復路の勝敗の行方は如何?【註】 今年第91回からコースが若干変った。前回まで往路5区復路6区の通過点であった函嶺洞門が通行禁止となり、第91回大会から函嶺洞門バイパスへとコースが変更となった。これによって、第90回以前の往路5区復路6区の区間記録はすべて、今後、参考記録として扱われる。したがって神野大地選手の出した1時間16分15秒の記録を柏原 竜二さんや、それ以前の今井正人さんの記録と単純に並べて比較はできない。しかしながら神野大地選手の1時間16分15秒が驚異的であることは間違いない。、
Jan 2, 2015
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