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白馬駆る刹那の夢や冬の空 青穹 瞬劫が数珠と連なる草の露 晩鐘や北窓閉ざし遠音かな うそ寒み生臭坊主も冬安居 【註】「冬安居(ふゆあんご)」とは、10月1日あるいは11月15日から90日間、座禅や仏教書の研究などの修行をすること。「夏安居」もある。
Nov 30, 2009
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尋ねれば友それぞれの冬隣 青穹 今昔の時空に揺れて霧立つや
Nov 30, 2009
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水鳥の片脚あげる冬の朝 青穹 こころ寒身もまた寒し浮寝鳥 シンボルの鳥せわしなく冬仕度 蒲団から目だけ覗ける寒さかな 骨折が老いの転機か去年今年(こぞことし)
Nov 29, 2009
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霜枯れて注射器さがす夢のなか 青穹 冬鴉白昼の月おおいけり 隠水(こもりず)に落葉時雨れて沈みゆく 隠水のほのかに明く月白し 山眠り三輪の音ゆめうつつ 【註】 「隠水(こもりず)」は、草などの下に隠れて流れる水のこと。 「三輪」は、仏教語で、地下にあって大地をささえている金輪、水輪、風輪の総称。
Nov 29, 2009
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ここ2,30年、高校生の学帽姿をとんと見かけなくなった。四谷あたりを歩いていると学習院の小学生の学帽姿に出会うくらいだ。それはそれで時代の流れ。学帽がなくなったからといってたいした問題ではない。 先年、40数年ぶりに会津若松を訪ねたとき、旧知のEさんに同道してもらって自転車で市内を廻った。母校の会津高校にも行った。私の時代は男子高校だったが、現在は男女共学で、訪ねたのが夏の盛りだったので水泳部の女生徒が水着姿で往来していたのには大いに面くらった。Eさんの息子さんも会津高を卒業されたそうだが、学帽を嫌ってかぶらなかったという。会津高校の学帽は、旧制中学時代の名残りのように二本の白線を巻いて縫い付けてある。私の時代には、その白線帽子と白い鼻緒の高下駄が中学生達の一種の憧れで、私も入学と同時にまっさきに高下駄を買ってもらったものだ。 きょうの俳句、初めの句はそんな思い出を詠んだ。 白線帽に会津の城の紅葉かな 青穹 隔つれば尚鮮やかに紅葉散る 末枯れてなお凛とする檜かな 蔦紅葉たぐれば遠き昔なり 二日過ぎ月冷えびえと鎌を研ぐ
Nov 28, 2009
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短日や看護看護の日々なれば 青穹 明日ありと思う看護の秋夜長 日一日かぞえながら寝る母の傍 わが希望灰にして撒く枯木立 ささえあう人のいのちや花八手
Nov 27, 2009
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まだ暮までに1ヶ月と少しあるが、私が今年作った俳句は、きょうで108句になる。煩悩の数だけ作ったことになろうか。ハハハ。 柿落葉鞣(なめし)のごとく美しき 青穹 柿落葉色とりどりの個性かな 朝掃いて夕べにも掃く落葉かな 東京は落葉焚きもならずなり 柿酢濾す細き流れも嬉しさよ
Nov 26, 2009
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御身拭う母仏のごと笑まう秋 青穹 長き夜や本読みさして母を看る 名のみなる野猿街道冬の月
Nov 25, 2009
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秋の空しずこころなく暮れ懸る 青穹 思い出や実のひとつなき枯芙蓉 秋深しあなたこなたの夕餉かな 秋雨や誰ぞ歩むや音もなく 香焚いて五官に問わん病床の秋
Nov 24, 2009
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休日の冬空広し看護明け 青穹 木枯しや命重ければ母を抱く つぐみ群れ背戸の城山賑わいぬ 城山の基岩(たたら)隠せる蔦もみじ 城山の月寒くして独り酌む
Nov 23, 2009
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枯葉舞い背戸の城山風過ぎぬ 青穹 城山のもみじ流るる石畳 城山や落葉時雨れて武者走 短日や猿渡り池水かげる 古池やこぞの病葉(わくらば)黙(もだ)し水
Nov 23, 2009
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会津のEさんから便り。10月に例年より17日も早く初雪が降った、とあった。そろそろ冬仕度か。しかしまだ11月。昔の堀河百首にこんな句がある。「神無月まだ冬構せぬものを・・・」 刈原に地下足袋の藍冴えざえと 青穹 刈り草を積みたる車つらなりて 初雪のたよりとどきて朝餉炊く 食べねども粥炊く日々の冬構 冬の朝看護士むかへ賑々し
Nov 22, 2009
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東京の刈田の畦やビルの壁 青穹 言い差せば刈田の株の点々と 乾し草の懐かしき香や少年忌 木枯や忘れしひとの葉書見つ 夕月の色冴えきって木枯や
Nov 21, 2009
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忙しいからと何も創作しないでいるのも癪なので、目にしたまま感じたまま即座に五七五とやっている。 ヴェランダに猫のうのうの冬日和 青穹 白壁のいよいよ白し神無月 上衣脱ぎまた着直して秋の暮 落葉掃き蘭の根方をおおいけり
Nov 20, 2009
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きょう11月19日は一茶忌である。 昔々、長野県から転校したばかりの福島県荒海小学校2年生の学芸会で、私は小林一茶に扮して歌舞劇『信濃の一茶』をやらされた。まさか信濃の国から転校してきたからでもあるまいが。・・・茶のもんぺに羽織を着て、宗匠頭巾をかぶり、杖をついて。「♪信州信濃の雪解けてー♪」と歌いながら。 数年前、ラジオの深夜放送で思いがけなくこの歌が流れてきたのでびっくりした。セリフ調の歌詞がはいっていたこともあり、ほとんど忘れてしまっていた。あわてて手近の紙にメモしようとしたが、書取れなかった。しかし冒頭部分のメロディーは記憶にあるとおりだった。52,3年ぶりに聞いたのだ。 そんなことも思い出しながら、句を詠む。 一茶忌や崩れし垣の野菊かな 青穹 散るもみじ目にしむ朱(あけ)に時雨るゝや 行き暮れて誰呼ぶ声か紅葉散る 行き行きて吾が道遠し夕時雨 道連れとはぐれて遠し片時雨
Nov 19, 2009
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きのうの2句を英訳(5語・7語・5語)。Falling autumnal leaves all together!It looks like goldfishes sailing in crowds・・・・in a deep blue sky(散るもみじ宙に群する金魚かな)I took my mother's handsthin like withered branch, her ninety years・・・・It has become quite autumn(母の手の痩せ細りたる秋深し)
Nov 18, 2009
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Jポップスのグループ〈チューブ〉の話ではない。老母の鼻に挿入した経管栄養摂取のためのチューブのことである。このチューブはもちろん二六時中挿入されていて鼻や顔に医療用粘着テープで留めてある。それが・・・ 深夜2時、明りをつけてベッドの母の様子を見た。なんと酸素吸入用チューブと経管栄養用のチューブが引き抜かれているではないか。睡眠中に、その邪魔っヶな物を、無意識にピューンと引き抜いてしまったのだ。鼻腔を通過し、食道を通って、胃まで約50cmの長さのチューブである。入れるときは、痛いし、苦しいし、さんざんな思いをしているはずなのに、その異物を引き抜くとなると、不快を除こうとする意識(たとえ無意識のうちであろうと)が痛みを凌駕するのかもしれない。・・・抜かれたチューブはベッド脇の床下に落ちていた。 母への装着前に、看護士さんが自らの経験から、「患者さんのなかには、ピュ~~ンと抜いてしまう人がいるんですよ」と言っていた。まさに母はそのようにやってしまったのである。 私は、朝の栄養剤や薬液投入のことがあるので、6時になるや看護士さんに電話をして再挿入してもらうことにした。しばらくして看護士さんがやってきて、「やはりやってしまいましたね」。 再び苦しい思いをさせてチューブを挿入したが、当面の異物感がおさまり精神面の落着きをまつため、朝の「お食事」は9時までまつことにした。そして、万が一の危険を考えて、可哀想だが両手にミトンをはかせることにし、すぐに品物を注文した。 午後5時、ミトンがとどけられた。玄関でそれを受け取り、母のベッドにもどってくると、なんとなんと今まさに母はチューブを鼻から引き抜いたところだった。右手でひっぱって、全長1メートルほどの物を高々とかかげている。 「あららー、また抜いちゃったのー!」 私のことばに、母は低い声で「ハハハ」と笑った。 「ハハハじゃないんだけどなー」 その行為を予防するためのミトンを受け取っているほんの数分間、まるで笑い話のようなことになってしまった。 またまた看護士さんに御来駕を願う。「今日は一日中おつきあいをしましたね」と笑いながら。 ミトンを装着され両手の自由を奪われた母は、一心にミトンをはずそうと格闘していた。それはいわば火事場のバカ力のような感じで、ロックされた手首を無理矢理引き抜こうとするあまり骨折しかねない勢いである。理屈を聞き分けるような精神状態ではない。どうやら去る8月の高度救命救急医療を受けていたときの拘束状態を思いだしていた。あるいは、そこに戻ってしまったのか? 今いるベッドが自宅ではなく病院だという想念におちいっているようだった。 私は手首の骨折を心配し、ミトンとパジャマの袖を縫い付けた。手をひっぱってもミトンから抜けないようにした。もちろんそのミトンは介護用品として工夫されているので、普通は抜けることはないはずなのだが、痩せ細った母の手はもしかしたら・・・と思ったのだ。 私はベッドを少し起して、母の背と膝とを抱きかかえて、 「いじめてるんじゃないんだよ。こうやってだっこしているからね」 「にいちゃんは優しいね」と母は弱々しく言った。そして、「これを取って。起上がらせて」 「だめだめ。苦しいよね。でも、がまんしてちょうだい」 すると母は怨むように私の目をみつめながら、「にいちゃんは、頼りにならない」と言いきった。 午前0時過ぎまで格闘がつづき、ヘトヘトに疲労して、ようやく母は眠りについた。 散るもみじ宙(そら)に群する金魚かな 青穹 母の手の痩せ細りたる秋深し
Nov 17, 2009
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急性動脈解離で51日間の入院治療していた老母が退院して11日でちょうど1ヶ月が経った。在宅医療のための環境つくりをし、訪問医と訪問看護士との契約をした。看護士は2日以来、毎朝訪れて血圧測定、検温、血中酸素濃度のチェック、その他、私たち家族の手におえぬことをやってもらっている。 しかし、51日間の寝たきりの入院生活でさまざまな機能が衰えており、毎日毎日体調のダウンとアップの繰り返しである。家族をもっとも悩まし、努力が追いつかないのは、食事の嚥下機能の極度の衰えにより食事に対する恐怖心から食物を口にいれたとたんに喉が痙攣のような状態になり、食事を拒否するようになってきたことだ。それにより心身が飢餓状態におちいった。家族は、摂取した食事メニューとそのカロリーを記録し、努力したのだったが・・・ 12日の午前0時過ぎ、譫妄状態になり低い声で絶間なく何事かを喋り、ときに笑い、ときに歌のようなものを口ずさみ始めた。驚いた私は一晩中見守っていたが、その状態は朝7時ころまでつづいた。一睡もしていない。 翌13日の午後、経口栄養摂取から鼻に管を入れての経管栄養摂取に切換えた。この方法は、食事(経管用栄養液剤)のみならず薬も粉薬を白湯に溶かして注入できる。私が毎食のメニューを考えて調理する手間も時間かからず、また一度の食事にほぼ1時間をかけて食べさせていたときの心労から解放されることになった。しかし、また、こればかりは看護士さんのお世話になるわけにはゆかないので、実行を前に技術指導と注意すべき事項をおしえてもらった。まかりまちがえば危険がないわけではないのだ。基本的には点滴と同様なのだが、胃に直接入れるので嘔吐や逆流がおこりうる。半身を25度に傾斜させ1時間ないし45分かけて所定量を入れてゆく。終了後も逆流をふせぐために20分ないし30分は半身を起した状態に保っておく。また、それ以前の準備として、聴診器で胃の音を確認するため注射器を導管に挿入して15ccほどの空気を送りこんでみる。これは鼻から挿入した導管がちゃんと胃に到達しているかを確認するためで、到達していると、空気を送り込むと胃のなかでブクブクという音がする。音がすれば栄養剤なり薬液なりを注入開始する。これを毎食かかさずおこなうのである。 このようにして老母の看護は新しい事態に入った。きょうまでまる二日経過して、状態はやや回復したかに見える。 さきほど午後17時ころ、主治医のお二人が来られ診察をした。 老衰という生命の避けられないデクレッシェンドに母自身がもてる生命力によってどのように対抗してゆけるか、そして医療がどれだけそれをサポートできるか、また家族がどのような考えでそれらの事態に対処しサポートするか・・・そういう問題なのである。
Nov 14, 2009
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しばらくぶりのHAIKU。以前つくった俳句のやや表現を変えての英訳(5語、7語、5語)である。ほんの少し変えて、二つの句をならべることで世界に向けた反戦句とした。Oh! the harvest moon tonightIt is just over my old homeI'm delighted to see itA plane for military usetears the left side of the moonthe night sky of autumn名月は故郷のまうえ愉快なり(元の句:名月は我家のまうえ愉快なり)軍用機月を左に切り裂いて
Nov 11, 2009
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夜9時、老母の一日の看護がほぼ終わり、明朝6時半までしばらく自分の休息と睡眠の時間となった。近頃はテレビを見ることもなかったが、NHK・BS2で「フランク永井の歌の世界」を途中から見た。 私の子供の頃、我が家に歌謡曲が流れていることはほとんどなかった。が、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』は私が小学校6年生のときのヒット曲で、どこかで耳にしたのをいつの間にか憶えてしまっていた。そしていまだに忘れないちょっとした思い出が絡んでいる。 数年前に記憶をたよりに八総鉱山回想私記を執筆し、簡易製本して知人にさしあげた。その中に、こんな一節がある。 「・・・昭和31年だったか32年だったか、火星が大接近したとき、私たちは夜中に高橋先生と一緒にちょっと高台になっていた床屋さんの辺りに天体望遠鏡を持出して、かわるがわる火星を観察した。先生は後に、学校の事務員をしていた級友の正嗣くんのお姉さんと結婚した。ふたりのデートはもっぱら放課後の先生の教室だった。睦まじく楽しそうに会話していた。私は先生たちに〈有楽町〉とニックネームをつけた。フランク永井の『有楽町で逢いましょう』が流行していて、それにちなんだニックネームだった。私たちの担任の孝男先生が、私たちのささやきを怪んで、ある日の休み時間に、明くんだったか悟くんだったかを廊下に呼び出し、〈有楽町〉のことを問いただしていた。彼はその名付け親が私であることを告げたのかどうか。後日、孝男先生も〈有楽町〉と言っていた。私たちと孝男先生とは共通の秘密を持った。」 なぜだか分らないが、フランク永井の歌は私の思い出のあちこちにちりばめられている。たしか中学2年頃のヒット曲だと思うが、リバイバル・ソングの『君恋し』などもそのひとつだ。特別な映像が記憶から蘇って来るわけではないが、そこはかとなく心がうずくのである。当時、何か心が動揺するようなことがあって、それが何であるかはすっかり忘れているのに、歌を聞くとその余韻のようなものが幻のように心の底で揺らめくに違いない。 そしてまた、かつてきちんと傾聴したこともないのに、私はこの人の歌をくちずさんでいる。健康のためにとサイクリングをはじめた当初、多摩川のサイクリング・ロードを登戸近辺から時に昭島まで往復しながら、『霧子のタンゴ』や『羽田発7時50分』や『夜霧の第二国道』や『お前に』などを、誰も人がいないことをいいことに大声で歌って「肺と腹筋を鍛えて」いたのだった。どこで覚えたのだろう。それが不思議であった。 過日、finesさんの音楽サイト「途中下車前途有効」でフランク永井の特集をやっていて、私は思い出をあたらしくしたばかりであった。そして今日のBS放送だった。映像とともにじっくりフランク永井の歌の世界にひたったのは、もしかしたら私は初めてかも知れない。おかげで、『羽田発7時50分』の正しい歌詞を知った。「星も見えない空 さびしく見つめ」を、私は「何も見えない夜、さびしく見つめ」と、また、「待っていたけど 会えないひとよ」を、「待っていたのに 会えないひとよ」と歌っていたのだった。 ・・・さてさてもう寝よう。明日もまた忙しい。
Nov 9, 2009
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首相夫人がオカルティックな事の信奉者だと報じられている。それがどの程度の心象呪縛の信奉かは知らぬが、レーガン元米国大統領の夫人も同様にオカルティックな傾向があり、彼女の場合、重大な曲面に立たされると卜占に頼ったと言われている。 芸能ジャーナリズムなどは、首相夫人のそのような精神的な傾注を、あきれながらも面白がっている。しかし、一国の首相夫人としては、これは危惧すべきことである。彼女のこの反理性的な精神傾向に呪縛された言動が、首相である夫に対してどれほどの影響力をもっているかは分らないが、夫婦としてまるきり水と油であるとも思えない。今の日本の国政が、首相の権力だけで維持される仕組ではないので、夫人のオカルティックな御託宣が国政に反映してくるとは考え難いけれど、夫人のファースト・レディとしての国際的な役目を考えると、その存在から発するものは彼女自身の想像をはるかに越えているはずだ。それは陰ながらの嘲笑ではすまない(すめばよいのだが)、日本国民に対する不信感となって沈潜するだろう。現代世界は、理性的であることがもっとも肝要だからだ。 こんなことを書いたのは、先日購入した名著復刻版の幸田學人(露伴)『幽秘記』を読んでいたら、冒頭部分で次のような一節にであった。 「測り難きの数を畏れて、巫覡卜相(ふげきぼくそう)の徒の前に首(こうべ)を俯せんよりは、知る可きの道に従ひて、古聖前賢の教の下(もと)に心を安くせんには如かじ。」 すなわち、 「いまだ人知のおよばない未知の事柄をおそれて、まじないや占いをする連中の前に頭をさげてひれ伏すより、あくまでも理性的に知の学びの道に従って、昔の知性優れた聖人や賢人の教えのもとに心の平安を得るに越したことはない。」と。 ヒトラーの顧問のような存在だったのはグルージェフという魔術師だった。ナチスの鈎十字はグルジェフのアイデアだといわれている。グルージェフは遠くからヒトラーの狂った頭脳をオカルトによって支配していた。 オカルティズムも人間の知の一部だ、と言えなくもない。占いによって、・・・それがたとい出まかせのあてずっぽうであろうと、迷える心が一瞬なりとも平安を感じることができれば、それはそれで良いではないか。そのように言うこともできる。私はそれを否定しない。たぶん、雑誌やテレビの占い番組の主旨はそんなところだろう。 しかし、それは両刃の剣のようなもので、「知る可きの道に従」う心にヤスリをかけて磨滅させてしまうことも間違いない。そうなった結果が、ナチス・ドイツであり、戦前・戦中のわが日本であった。 首相夫人のオカルティズムを私が危惧するのは、世界が、「この人には理性的な言葉が通じない」と思うことだ。世界は、オカルティズム信奉がどのような狂気の末路を取るか、いやというほど知っているのだ。 前回触れた森鴎外の『青年』のなかで、夏目漱石をモデルにしたと思われる平田拊石という文学者が演説のなかでこんなことを言っている。 「・・・日本人は色々な主義、色々なイスムを輸入して来て、それを弄んで目をしばたたいている。何もかも日本人の手に入っては小さなおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛(こわ)がるには当たらない。」と。 これはもちろん反語である。本来根深く重要な問題・・・恐ろしい事態をまねきかねない問題を、日本人はおもちゃのように弄んでいる。どうも本質を知らなさすぎる、ということである。 露伴にしろ鴎外にしろ漱石にしろ、明治の知性が喝破したことは、100年後の現代の日本人にいまだにそのまま当てはまる。これをなんと言うべきか。ただ嘆息するばかりの自分がなさけない。
Nov 8, 2009
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森鴎外『青年』をあらためて読んで、明治時代の、それも半ばを過ぎたころの東京市中の描写がなかなか面白く、散歩をしているかのような気分になる。その道筋は、作中主人公の散歩の目をとおして見ているのだが、『雁』でも同様で、鴎外の小説はたいへんトポロジカルなのである。 この資質については鴎外自身がはっきり意識していたと想えるふしがある。 『青年』は、田舎(Y県とある。ちなみに鴎外は島根県の出身)から上京した小泉純一(どこかで似たような名前を聞いたなー)青年が、在京の郷里の知人やさまざまな人々の思想や生き方にふれて云々というもの。そこに夏目漱石らしき平田拊石(ふせき)という小説家と、鴎外自身を想起させられる毛利鴎村という小説家が登場する。 そして拊石についてこう述べる。「流行に遅れたようではあるが、とにかく小説家の中で一番学問がある」と。 鴎村についてはこう述べる。「干からびた老人のくせに、みづみづしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と。 諧謔をまじえながら、しかし、鋭い自他の分析ではなかろうか。「測地師が土地を測るような小説」という意味は、トポロジカルであるということではないが、森鴎外の感性にはたしかにトポロジカルなものがあったと私は思うのだ。 ちなみに『青年』は明治43年3月から翌年8月まで雑誌『スバル』に連載されたのであるが、上記の漱石らしき人物に対する短評は小説が始って間もなくのところに書かれている。読者はみな、平田拊石が夏目漱石をモデルにしていることはすぐに分ったであろう。たぶんそれが為にと私は推測するのだが、連載が始って間もなく、雑誌『新潮』が鴎外に公開質問状のようなものを発したのであろう、現在森鴎外全集等で『夏目漱石論』とされている10の質問に対する回答が7月に出た『新潮』に掲載された。鴎外は、いささか意地の悪い新潮編集部の手にはおちず(バカじゃあるまいし、そんな手にのるか)、ごくごく短い無難な回答をしている。 アッ、ついついのっけから私が話そうと思っていることから離れてしまった。 先日古本市で買った名著復刻シリーズの籾山書店刊の『青年』は総ルビの本なのだが、そのルビのおかげで、私はひとつ「オヤ?」と思ったことがある。 「美術家」「美術館」という言葉が出てきた。ごく普通の言葉だ。しかし、それには「みじゅつか」「みじゅつかん」とルビがふられてあった。 「美」の音読みは「ビ」と「ミ」であることは承知している。が、「美術」を「みじゅつ」と読んでいる例を、私はほかに思い出せない。 私自身の語彙のなかに、めったに使わないけれど、「美称」を「みしょう」と発音するときがある。もちろん「びしょう」とも発音する。私自身のなかでどちらともきまっていないのだと、あらためて気付く。どういう場合かと問いつめると困惑するが、場合場合で使い分けてきたようだ。 鴎外が「美術」を「みじゅつ」と発音するのはどうだったのだろう。「みじゅつ」一辺倒だったのか、それとも「びじゅつ」と言うこともあったのか。あるいはまた、たんなる誤植かもしれない。 そもそも「美術」という言葉はいつごろから日本語として定着したのだろう? 鴎外が『青年』を発表する23,4年前、すなわち明治19年から20年(1886~87)にかけて、文部省図画取調掛委員として岡倉覚三(天心)とフェノロサがヨーロッパへ美術とその教授法等について調査に赴いている。帰国後、明治20年10月、東京府谷中に日本で最初にして唯一の官立東京美術専門学校が創立された。 あるいはこのときが「美術」という言葉のはじまりかもしれない。英語の‘the fine art’、フランス語の‘beaux-arts’の訳語として。 そのようにして「美術」という日本語がうまれたとして、さてそれではその当時「美術」はどのように発音されていたのだろう。「びじゅつ」なのか、「みじゅつ」なのか。 今やあまりにも普通の言葉で、「びじゅつ」と言い習わしているので、明治時代にどのように発音されていたか(つまり、どのように読まれていたか)を気にもとめていなかった。鴎外の振ったルビは、私にあらたな疑問を投げつけたのだ。
Nov 6, 2009
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思わぬ拾い物をした東京薬科大学の学園祭での古本市。前回画像を掲載した〈名著復刻〉シリーズのなかからさらに10点の画像をお見せする。島崎藤村『落梅集』明治34年、春陽堂刊左が表紙。これを薄紙で包んで右のような状態で書店に並べられた。谷崎潤一郎『刺青』明治44年、籾山書店刊色違いの同じ装丁で刊行された叢書の一冊。背の意匠が凝っている(右)。森鴎外『青年』大正2年、籾山書店刊上掲と同じ装丁本。斎藤茂吉『歌集 赤光』大正2年、東雲堂出版刊アララギ叢書第2編。装丁は何ということもないが、天金をほどこしている。徳田秋声『あらくれ』大正4年、新潮社刊文庫版サイズだが、布装、凸版金箔押しの背文字である。箱は題僉(だいせん)貼り。佐藤春夫『病める薔薇』大正7年、天佑社出版刊箱の著者名および序文寄稿者名を「氏」をもって記しているところが、なんとも・・・。本書は佐藤春夫の最初の著作集である。作品「病める薔薇」は後に「田園の憂鬱」と改題された。芥川龍之介『傀儡師』大正8年、新潮社刊芥川自身の装丁である。箱と表紙に2種の文字を使って、格調高いデザインとなっている。なかなか難しいことなのだ。ただし、ちょっとしたミス(ミスと言わなくてもよいが)をおかしている。掲載画像では本が正しく箱におさまっているように見えるかもしれないが、私が本体の背文字側を箱にさしこんでいる。本来、箱は画像として左に置かれなければならない。つまり、題字の位置は、箱と本体とでは表裏逆になるように設計しなければならないのだ。そうしなければ、箱に本体を入れたときに題字がうらおもてにひっくりかえってしまう。この著者自装は、まさにひっくりかえっているのである。「餅は餅屋」の譬えを忘れるべからず、かもしれぬ。萩原朔太郎『青猫』大正12年、新潮社箱、本体、ともに題簽貼り。装丁は、いろいろ手をつくしていじくりまわしたくなるところをじっと抑えて、この題僉のおきどころひとつで瀟洒にきめた。捨てがたい手腕である。本紙はアンカット。読者はペーパーナイフで頁を切りながら、萩原朔太郎のそこはかとないフランス趣味を感じるはず。本を読む喜びはそんなところにもあるのだ。そしてブックデザインのおもしろさでもある。北原白秋『繪入童謡集 トンボの眼玉』大正8年、アルス刊挿画:矢部季、清水良雄、初山滋。秋田雨雀『太陽と花園』大正10年、精華書院刊装丁:工藤信太郎、挿画:早川桂太郎。
Nov 4, 2009
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11月だというのに東京薬科大学のキャンパスでは桜が咲いていた。幾本もの桜の木のなかで一番小振りな木が、色は薄いがことごとくの枝に花を咲かせていた。どういう加減かと、私は驚いてしばらく眺めていたのだった。 我家の小庭では柿の葉が急にいろづき始め、早朝、その落葉掃きに忙しい時間をさらに忙しくさせられている。昨日は一日中冷たい雨が降って、濡れ落葉が石畳に張り付いてた。夜になって雨があがったので、玄関の扉をあけて夜空をみあげると、雲のきれめに真ん丸な月があった。まだ空気は濡れていたから、その月には意表を突かれた。折しも、またいつかのように、月の左側を旅客機が灯を点滅させながら通過して行った。そして、たちまち月も飛行機も暗い雲におおわれてしまった。 一夜明けて、今日はカラリとまさに秋晴れの一日だったが、天気予報どうりの寒さで、木枯らし一号(そんな言葉があるかどうかは知らぬが)が吹いたとか。水道の水の冷たさにびっくりしたのだった。 そして今夜も丸い月が出ている。またもや飛行機が通過して行った。昨夜見た時間より遅いはずだが、なんと間がよいことだ。昨夜より低空で、点滅する光も大きく見えた。 一句ひねろうとしたが出てこない。自分でおかしくなって、笑いながら家に入った。 笑いが私の顔にいつまでも漂っていたのだろう、ベッドから老母が私の顔を見て、「にいちゃんの笑った顔が懐かしい」と言った。 私はとっさには母が何を言っているのか分らなかったので、母の顔のそばに耳を近付け、「何?」と聞き返した。 「にいちゃんの笑った顔がなつかしい」と母は言い直した。 「そうなの? 僕の笑いが懐かしいの?」 母は、ゆっくりうなづいた。 過日、入院中のベッドでも、同じことを母は言ったのだった。私が中学・高校生時代、会津若松の学校からしばらくぶりで八総鉱山や、後には札幌の両親の家に帰ると、その晴々とした笑い顔が好きだった、と。 「ははは、今では爺さんの笑い顔だねー」と、私は母の頭を撫でながら笑った。
Nov 3, 2009
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毎年、東京薬科大学の学園祭(東薬祭)と同時に開催される東薬セミナーに参加するのが、私のこの時期恒例になった楽しみである。このところ多忙つづきで、ついそのことを失念していたのだが、案内ハガキがとどいて「アッ!」と思い出した。昨日がその日。母の午後の看護を家人にまかせて、すっ飛んで出かけた。 セミナーについて書くのは日をあらためることにして、今日の日記は、東薬祭のもうひとつの名物〈ガラクタ市〉の古本コーナーを覗いたことを書こう。これも私の楽しみ。そして、今回、私は嬉しい買い物をしてしまったのだ。 昭和40年代に、日本近代文学館(東京・駒場、当時の館長は小田切進氏)が企画し、ほるぷ出版が刊行した〈名著復刻全集〉というのがあった。日本文学史に残る名著を、その出版当初のブックデザインを寸分違わず再現したのである。古書市場において極めて入手困難かつ高価な美しい本が、完全復刻されたのだから、まさしく愛書家のためのコレクション・アイテムといってよい企画だった。このシリーズは何期かに分かれていて、そのつど「特選」とか「精選」、あるいは「新選」というネームが付いた。「日本児童文学館」という名称で児童文学の名著も復刻された。 復刻といってもピンとこないかもしれない。本の形態、すなわち用紙から装丁まで、活字体はもちろん、正誤表が入っていた場合はそれさへも、広告頁すら、要するに何から何まで一冊一冊を出版当初と同じに復元したのだ。ただ一つのちがいは、近代文学館が刊行したという奥付一葉が新しく追加されただけである。もちろん出版当初の奥付も、それはそれで付いているので、奥付が二葉あることになる。金のかかった豪華な企画だった。 さてさて、ガラクタ市の古本コーナーで、私はその復刻シリーズを27册もみつけたのである。もちろん購入した。価格はいくらだったと思います? 27册を「よっこいしょ」と抱えて、近くにいた売場担当の学生に、「この本、値段なんとかならないですか?」と言ってみたのです。学生はダンボール箱を持ってきて、一冊づつ数えながら詰め、それから目を宙にむけて頭の中で計算してから、こう返答した。 「600円でいいです」 「それは嬉しいなー、サンキュー、サンキュー」 「ここに書いておきますから、レジで600円お支払いください。ありがとうございます」 そう言って、箱にガムテープをちぎって貼り、その上にサインペンで600円と書き、私の顔をみて笑った。 その27册。幸田露伴『小説 尾花集』、幸田露伴『幽秘記』、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル 下編』、森鴎外『歌日記』、森鴎外『青年』、谷崎潤一郎『刺青』、佐藤春夫『病める薔薇』、徳田秋声『あらくれ』、北原白秋『東京景物詩 及其他』、斎藤茂吉『赤光』、川端康成『浅草紅団』、永井荷風『珊瑚集』、島崎藤村『落梅集』、河東碧梧桐『河東碧梧桐句集』、室生犀星『性に目覚める頃』、萩原朔太郎『月に吠える』、萩原朔太郎『青猫』、芥川龍之介『傀儡師』、芥川龍之介『侏儒の言葉』、堀辰雄『聖家族』、伊藤整『雪明りの路』、押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』、小川未明『赤い蝋燭と人魚』、秋田雨雀『太陽と花園』、北原白秋『トンボの眼玉』、野口雨情『十五夜お月さん』 これらの作品のほとんど全部をすでに私は読んでいる。したがって、作品を読みたいがために購入したのではない。過日このブログで書いたように、「愛書」には書籍を一個の美的オブジェとして愛でる側面がある。いわんや本造りに職業として関わってきた私としては、名著を名著たらしめていた本としてのまるごとの美を手元に置いて、ためつすがめつしたかったのである。たとえば『吾輩ハ猫デアル』が、アンカット版(本文用紙を裁断していない状態で表紙掛けしている)で、しかも天金(上部小口に金箔を貼ってあること)だなんて、実際に本を手に取るまで知らなかったことだ。 次にその幾つかを画像でお見せしよう。幸田露伴『小説 尾花集』明治25年、青木嵩山堂刊 (「五重塔」収載)夏目漱石『吾輩ハ猫デアル 下編』明治45年、大倉書店・服部書店刊(カバーと表紙。本文紙はアンカットで、その分だけ表紙よりはみ出ている。天金である。残念ながら下編のみ入手)森鴎外『歌日記』明治40年、春陽堂刊川端康成『浅草紅団』昭和5年、先進社刊装丁:吉田兼吉、挿画:太田三郎永井荷風『珊瑚集』大正2年、籾山書店刊(フランス語が達者だった荷風が、ボオドレエル等のフランス詩を翻訳して集めたもの。装丁は天金である。)室生犀星『性に目覚める頃』大正9年、新潮社刊萩原朔太郎『詩集 月に吠える』大正6年、感情詩社・白日社出版部刊挿画:田中恭吉、恩地孝四郎芥川龍之介『侏儒の言葉』昭和2年、文藝春秋社出版部刊題字:芥川龍之介、挿画:小穴隆一小川未明『赤い蝋燭と人魚』大正10年、天佑社刊(天金。)野口雨情『十五夜お月さん』大正10年、尚文堂刊曲:本居長世(楽譜が付いている)、画:岡本歸一河東碧梧桐著、大須賀乙字選『河東碧梧桐句集』大正5年、俳書堂刊(装丁は著者の名前にちなむ桐をデザイン化して金箔押している)
Nov 2, 2009
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12月発売予定、東京創元文庫、カーター・ディクスン『一角獣の殺人』のための表紙絵
Nov 1, 2009
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