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コスモスの影揺れている多摩川原 青穹 コスモスが好きと言いけるひとは亡く 思い出に揺れてコスモス赤トンボ この山河踏みしだかれてコスモスや コスモスの香り悲しく幼き日
Sep 30, 2009
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あれはやっぱり国際宇宙ステーション(ISS)だった。26日の夕方に見た金色に輝く流れ星のことである。 今朝の朝日新聞(14版)に、仙台市在住の天文ファン佐々木さんが、26日午後6時32分ごろ、32口径望遠鏡にデジタルカメラを装着してISSの撮影に成功したと、その写真が掲載されている。日本が打ち上げた無人補給船HTVとドッキングしながら地球を周回している国際宇宙ステーションがはっきり見える。アマチュアカメラマンの撮影したすてきな写真だ。 佐々木さんのことばとして新聞は、HTVはISSの中央にある日本の実験棟「きぼう」に隣接し、外壁を覆うフィルムで金色に輝いていた、と伝えている。まさに私の見たあの大きな金色に輝いて夜空をすべるように飛んでいった「星」のことである。私はその時間を確認しなかったのでおおよそ午後7時前ころとブログにも書いたが、佐々木さんが午後6時32分ごろと確かな時間を言っている。 一日経って昨夜の東京の空は雲におおわれ、都会の街の灯がその雲に汚れた薄紅色に反射していた。星は見えなかったが、わずかにふくらみをもった半月がかかっていた。もう数日で暦のうえでは仲秋の名月。晴れていれば満月のそばを通り過ぎる宇宙ステーションが見えるかもしれない。「見上げてごらん夜の星を」である。
Sep 28, 2009
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先日仕込んだ柿酢は第1次醗酵が順調に進んでいるようだ。それではと、残りの柿も大瓶に仕込もうと午前中に小1時間ばかり柿の穫り入れをした。 脚立にのぼって花鋏で一個一個ていねいに取った。一番てっぺんの枝はそのまま残した。柿の木はやわらかく折れやすいので、枝を握って身体をささえることができない。できないと言うより、やらないほうが良い。これは亡くなった父からの教えでもある。 「柿の木には登るな」と、父は子供のころに祖父から言われていたと言っていた。私もそれを実感している。もう7年くらい前のことだが、夜中に台風が来襲し、翌朝、柿の大枝がバッサリ折れて地上に落下していた。現在収穫中の木である。その枝は玄関アプローチへアーチのように張り出して、その一枝だけで150個ほどの実をつけていたのだった。まだ青かった実は豪勢に庭に散乱していた。大風のなかで自分の実の重さに耐えられなかったのである。 というわけで、てっぺんに残った実は鳥たちが啄むであろう。収穫した柿はまだ未熟なものも多かったので、瓶に漬け込むまえに濡れ縁に出して、1日2日、天日にあてて赤くすることにした。何十年もの間使うことなかった大瓶を戸棚の奥から出し、洗って煮沸消毒して準備した。うまく柿酢ができたら、弟の家に送ってやろうと思いながら。 柿酢は高血圧の予防によいそうだ。昨日、私は母の主治医から、「健康診断を受診なさい。もうそろそろ危ないですよ」と言われたばかり。「先生は私を脅かすのですか」と反問すると、「脅かすのも仕事です」と軽くいなされてしまった。 それで今日も柿酢つくりに精を出したわけではないのだが・・・
Sep 27, 2009
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夜の7時頃のこと、庭先に立って何気無く空を見あげた。ひときわ明るく大きな星がひとつあった。と、その星がスーッと夜空をよこぎって、東北東から西南西の方角へ消えて行った。 「おやっ!」と、私は意表を突かれた。と言うのも、無意識のうちに「金星にしては位置が違うな」と思っていたからで、それからすぐに「宇宙ステーションだ」と気がついた。宇宙飛行士の若田さんが帰国されたと報じられていたが、その若田さんが滞在されていた宇宙ステーションに違いなかった。 私はなんとなく嬉しい気持になった。宇宙ステーションはサッカー場くらいの大きさだと聞いたことがあるので、あの大きな明るさはなるほどと納得できた。昔、初期の頃の人工衛星は何度も見ているが、それとは比べ物にならない。だからこそ、「見ーちゃった! 見ーちゃった!」という感じの嬉しさだったのだ。 秋天や宇宙ステーションのすべり行く 青穹
Sep 26, 2009
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「秋の日は釣瓶落し」というけれど、日の暮れるのが早くなった。午後5時にはそれと分る薄暮がビルの谷間におりている。 朝はどうだろう。東京西部の午前4時はまだ暗い。・・・今朝、午前4時半に目が醒めてトイレに立った。もどって、もう一眠りと床に入って目をつむると、山の下にひろがる街からの音がかすかに聴こえた。遠い電車の走行する音、救急車のサイレン、車の音。目をあけると、わずか数分の間に、窓が白んでいた。と、御近所のどこかからトントントン、トントントンと朝食の準備をする俎板の音がした。いくら御近所とはいえ、そんな音を耳にするのはめずらしいことだった。早いお出かけなのかもしれない。菜を刻んでいるのだろうか、それとも味噌汁の具のワカメを叩いているのだろうか・・・ このところ外出が多く、時間のことを考えて電車を使っている。私は電車のなかでは人々の様子を眺めたり、景色を見たりするほうがおもしろいので、めったに活字を読むことはしない。それでも一昨日は、バッグにポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 序説』を入れ、小一時間ばかり読んでいたが、ちっともおもしろくない。フランス人特有のもってまわった筆法で、じつのところたいしたことも言ってはいない。すくなくとも電車のなかで読むには適さないと観念した。 で、きのうはもっと気楽な読物と思って、パール・バック『北京からの手紙:LETTER FROM PEKING』にした。ただし英語の原書である。といってもパール・バックの英語はいたって平明で、40分ほどの間に23ページ読んだ。 このなかに興味深いことが書いてあった。 主人公の女性はアメリカ人だが、彼女の夫はアメリカと中国とのハーフ。一家は北京で暮らし、夫は大学の学長なのだが、日中戦争がはじまってコミュニストの活動が激しくなり、アメリカ人が中国内に滞在することが危険を感じるようになる。夫は妻子だけをアメリカに帰すことにし、みずからは学長としての務めをまっとうしようと決意した。物語はアメリカに帰った主人公の女性と息子が一日千秋の思いで北京からの夫の手紙を待つという形式になっているのである。 さて、私が関心をもったのは・・・ 17歳になった息子は、母親に呼びかけるとき、「Mother」と言う。けっして「Mama」とか「Mom」とは言わない。幼いときから父親に「Mother」と言うべく躾られてきたのだ。父親は息子にどのように言ったか。 “Mother is a beautiful word,”he said gravely.“You shall not corrupt it.” (「マザーは美しい言葉だ」と彼(父親)は重々しく言った。「君はそれを崩してはいけない」) 私はここに家庭教育の本質、父親としておこなうべきことの本質があると思った。 なぜそんなことを思ったかというと、私は電車に乗っていてあまりまともな日本語の会話が耳に入ってこないことに(こころのなかで)呆然としていたからだ。おとなも子供もありはしない。舌足らずな赤ん坊のような崩れた言葉がとびかっている。しかも驚いたことに、会話していながら会話が成立していない状況も目にする(耳にする)。ひとりひとりが勝手なことを喋りたいだけしゃべっている。一応、相手の言う事に反応してはいるのだが、心にきっちり受けとめているのではなく、いわばお座なりの返答なのだ。その証拠に次に自分が喋りはじめると相手の話題とはまったく違うことを言っている。まことに奇怪な光景である。 この人たちは家庭ではどのような言葉で話しているのだろう。仕事場では? 学校では? 子供達の乱れた言葉遣いに対して、「おとなになって社会に出ればなおる」という人がいるけれども、本当にそんなことを信じているのだろうか。言葉というものはその人の血肉だから、そこに人格も宿っているのであって、悪うございました改心いたしますというようにはなかなか矯正できないのだ。 私は“Mother is a beautiful word. You shall not corrupt it.”と、思いのなかで繰り返した。それから“Father, you shall not corrupt yourself.”と言ってみた。日本の父親たちにである。
Sep 24, 2009
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芸術院会員で小説家の庄野潤三氏が21日に亡くなられたと今朝の朝日新聞が報じている。1955年(昭和30年)に『プールサイド小景』で芥川賞を受賞。自らの人生を反省しつつ、夫婦の平穏な生活にひそむ危うさを描いて吉行淳之介や安岡章太郎らとともに「第三の新人」と呼ばれた。寡作の作家といってもよいだろうが、その静かな文体の水面下にゆらぎ見える危機感はまさしく小説の醍醐味であり、オトナの文学愛好家からの信頼を得ていた。 私にとっては、大学1年頃にその作品と出会い、氏の最初の創作集『愛撫』に収録されている短篇「噴水」は、もっとも愛する小説のひとつとなった。この創作集『愛撫』は芥川賞を受賞する2年前、すなわち昭和28年12月に新潮社から刊行された。私はそれを所蔵している。 収録作品は9篇。文芸雑誌に掲載された一番最初の作品「愛撫」に始り、以下発表順に「舞踏」「メリイ・ゴオ・ラウンド」「スラヴの子守唄」「會話」「噴水」「戀文」「喪服」「流木」。 「あとがき」に、「愛撫」から「噴水」を書くまでに4年8ヶ月かかったとある。「その間に私の小説に対する考え方は大分違って来たやうに思ふし、また少しも変っていないところもあるやうに思ふ。」 朝日新聞の追悼記事で文芸評論家の饗庭孝男氏が、「日常生活の穏やかな部分を書いていて、いわゆる私小説の枠組みに入る作家だが、材料だけで勝負しているのとは違って、人生に対する透徹した目を持っていた。」と評している。この評言と作家自身の「あとがき」の言葉とをならべてみると、私がなぜ庄野潤三の作品に惹かれるかを納得する。それにくわえて、短篇小説として決定的なひとつの確かなイメージが、読者の目に焼き付いてしまうのだということも言わなければなるまい。 たとえば「噴水」という小説はこうだ。 ある日、〈私の妻〉が子供の手を引いて家の近所を歩いているとき、その幼女が「カアチャン・チーョ」という。指さす方を見上げると、どこかチグハグな感じがする安っぽい人工的な洋館の二階の窓際に黄色い鸚鵡を入れた鳥籠がぶらさがっていた。子供というものはどうしてそのような小動物に早く気付くのだろうと感心し、それ以来妻はその家が気にかかるようになった。 その家には狂気の妻とそれに寄り添う夫がふたりで暮らしているらしかった。その夫婦は戦時中に結婚したのだが、夫はすぐに応召し、残された新妻は空襲の恐怖で発狂した。復員した夫は周囲が離婚をすすめるのを拒否し、狂気の妻のめんどうをみることを決意してその洋館に住んでいるのだというのだ。家の周囲は塀をめぐらしているため、その日常を他人がうかがい知ることはできなかった。ただ一度、板塀をコンクリート塀にする工事をしているときに、〈私の妻〉はわずかな隙間から庭を覗き、ペリカンの格好をした噴水から二筋の水が吹き上がっているのを見たのだった。 〈私〉と〈妻〉が結婚したのは5年前。じつは結婚3年目に私は、ほかの女に対して、浮気とは言えない生まれてはじめての激烈な恋をし、そのため妻は自殺をくわだてて奇跡的に救かっていた。私は妻の自殺に衝撃を受けたけれど、この事件が精神的におおきな痛手となったのは妻のほうで、私はまたもや恋を成就するために女を追いかけていた。妻の孤独は深くなって、絶望的な状態で、しかし表面的にはなにごともない夫婦として暮らしていた。・・・妻が洋館の夫婦のことを知ったのはそんな時期であった。 ・・・やがて私の恋は終わった。再び縒りを戻そうとはまったく思わなかったが、妻の心のなかではそうではないようであった。妻の見る夢がそれを象徴しているようだった。 狂気の妻とその誠実な夫については、その後、近所の人も見かけることがなくなり、奥さんがよほど悪くなって閉じこもっているのではないかと噂された。私は、その誠実な主人もようやく疲れてきたのではないか、と想像した。 そしてその家のことを忘れていたある日。散歩に出た私は遠方から気の狂った奥さんの家が雑草におおわれているのをながめた。家の前まで近づき、「悲運にもめげず愛する妻を守り抜かうとして人生と格闘して来た雄々しい夫は、もうすかり疲れ切ってしまったのだろうか。門の前に繁茂した草の列を見ると、そこから、何もかも投げ出してしまってペタンと腰を下した夫の溜息が聞えて来るやうであった。」 この時、私は門の内側に足音を聞く。その足音は、扉の前で止まった。次の瞬間、私のすぐ眼の前で、扉の真鍮の把手がクルクルと廻った。・・・扉はそのまま動かず、把手は、ちょっと静止してからまたクルクルと廻った。「何か不思議な親和感が襲って来て、私はあどけない動きを見せるその真鍮の把手に今にも手をかけたい誘惑に駆られた。」・・・・・・・・・・・・・ 「カアチャン・チーョ」という幼児のことばで印象付けられた気の狂った奥さんの家は、とざされた扉の把手がクルクルと廻って、そのイメージは決定的に読者の記憶を占領する。把手を廻したのが誰であるかは読者に分らないまま、日常的なありふれた光景は象徴の高みに達する。この短い小説に一語の贅言もない。日常はあたかも工芸品のようにピシリと締まり、輝く。みごとな小説である。 私自身の学生時代を思い出しながら、庄野潤三氏の御冥福を祈る。 庄野潤三の第一短編集。昭和28年12月、新潮社刊。カヴァー画:宮本三郎。
Sep 23, 2009
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忙しい合間を縫って、柿酢を仕込んだ。熟柿がボタボタ落ちはじめたので、その始末に追われるよりはと思ったのだ。 キッチンの戸棚の奥に長年仕舞い込んでいた私の子供時代から在った瀬戸の瓶を使うことにした。大中小のうち、失敗もありうることを想定してとりあえず中瓶に。 煮沸消毒して準備をととのえてから、5kgの柿を割ってヘタもろとも口いっぱいまで入れた。ネットで調べた情報の中にはイースト菌をふりかけるというものもあったが、私は柿に自然に付着している(はず)酵母菌に期待することにした。ただしこれだと腐敗する可能性もあるとか。 新聞紙で蓋をして紐でゆわえて作業完了。 あとは蓋をあけずに1週間ほど待つ。そのころには醗酵が進み、ブクブクと泡立っているはず。そこで呼吸がしやすいように晒布の蓋に換えて、10日目くらいに最初の醗酵がおちつくので、柿をザルに揚げてエキスを出し、原液を漉す。ふたたび瓶にもどして第2次醗酵へ。 さてさて、どうなることやら。 柿の木にはまだまだ大量の実がついている。脚立にのぼらなければ採れはしないが。
Sep 21, 2009
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隣家の夫人が我家の柿を見て、「随分たくさん生っていますわね」とおっしゃった。色づいた柿がたわわに生って、ことしは大豊作である。 「この柿、食べられるのですよ」と言うと、 「あら、そうなんですか!」 「渋柿なんですが、焼酎をふりかけてダンボール箱にいれて密封しておくと甘くなるんです」 「まあ、それじゃあ、今年はすごいじゃないですか」 「もう熟して落ちそうなものもありますが・・・」 「カラスが食べてしまいますわ」 「そろそろ押しかけてくるかもしれません」 こんな立ち話をしたのだが、このところ多忙をきわめており、柿の収穫どころではなかった。あしたにでも穫りいれをしなければ、鳥たちが朝夕やってきて食い散らかしてしまうだろう。 焼酎をかけて甘くするのも良いけれど、じつは柿酢を作れないものかと思っている。と言っても、醸造法を知っているわけではない。瓶に詰めておけば酢にはなるであろうが、はたしてその酢が食用になるものかどうか。 自家製ができるかどうか調べてみようと思っているのだが、これもなかなかその時間がとれないでいる。
Sep 19, 2009
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きのう画像を掲載した我家の雑草園の新顔を、『牧野新日本植物圖鑑』で調べてみた。 この図鑑には全部で3,896種が出ている。はじめにザッと見て幾つかの名前をメモし、あらためて1頁ごとに丁寧に見てゆき、「やまのいも科」に絞った。 「やまのいも科」には11種あり、そこから根茎以外のすべての特性を比較して、「かしゅういも」と断定した。ただし、採集したものは、葉が小さくやや細長い。牧野博士が述べている「かしゅういも」の葉は、「大きく円形、または卵楕円形」とあり、その点に関していささか判断を迷う。「かしゅういも」は畑に栽培されるものなので、野生化した我家の庭のものとは栄養状態がちがうと私は考えた。 「かしゅういも」によく似たもので野生種の「にがかしゅう」がある。これと「かしゅういも」の違いは、ムカゴ(肉芽)の色だという。 「かしゅういも」のそれは皮が褐黄色で点々がある。煮て食べることができるが、旨くはない。ちなみに「かしゅういも」の地中の塊根は食用にする。 「にがかしゅう」のムカゴは黒く、少し押しつぶされたような形。ムカゴも塊根もともに苦くて食べられない。 さて、判断を確定するために、私は採集したもののムカゴを食べてみた。渋みはあるが苦くはない。生豆のような味である。牧野博士は旨くないと言うが、一旦茹でてから油で揚げて塩をふれば案外イケルかもしれない。 ともあれ、この新顔クンは、「かしゅういも」と断定してよかろう。
Sep 19, 2009
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夜、家路を歩いていると、暗がりから猫がとびだしてきて、道の真中で飛び跳ねては前足で何かを掻きとるしぐさをした。よく見るとコオロギをかまっているのである。コオロギが跳んで逃げると、猫もピョンと跳んで押え込もうとする。コオロギが竦んで動かなくなると、道に腹這いになって前足でちょっかいを出す。たぶん飼い猫なのであろう、私が見ているのに目もくれず獲物に集中している。いや、むしろ私に見せつけて楽しんでいるのかもしれない。我家の猫たちもよくやることなのだ。「どうだ、偉いでしょう?」と言わんばかりに。 「いいかげん遊んだら逃してやりなさい」と言ったわけではないが、立ち去る私を尻目に、猫はいつまでも街灯の薄明かりの路上で飛び跳ねたり転がったりしていた。 家に帰りつくと、我家のフクがどこかで見ていたらしく鳴きながら私の足元にからみついてきた。 「ハイハイただいま、ただいま」と言いながら、午後出かけるときに庭木の枝から垂れ下がっているのをみつけた蔓草を手でちぎった。我家の雑草園の新顔だった。 これから調べてみるつもりだが、まずは画像を掲載しておく。蔓茎は赤みを帯び強い。心臓型の先端が尖った葉が互生し、長い葉柄の葉腋に直径1cmほどの暗緑色の豆のようなムカゴ(肉芽)がついている。
Sep 18, 2009
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いつも通る道に面して、このあたりでは最も旧くからの農家がある。現在では農業はほんの申訳程度のいとなみのようであるが、いつか書いた小さな林檎の木があるお宅というのはこの家だ。 我家から道を下ってゆくと、この家の敷地の角に電柱が立っている。電柱の陰から無花果(いちじく)の木が三裂した大きな葉を通りにのばしている。初夏のころ葉腋に卵を逆さにしたような小さな青い実が出た。それは日毎に大きくなり、1週間前あたりから濃い赤紫にいろづきはじめていた。 昨日の午後、私はここを通った。すると無花果の甘い独特の香りがあたりにただよっていた。ああ、いよいよ熟したか、と思って電柱の陰に眼をやった。 無花果はなかった。一つもなかった。 きっと収穫された直後だったのだろう。たった4,5個が生っていただけだが、その香りはそこに実があったということを強く主張しているようだった。 まさに残り香である。別れて立ち去った人の残り香のように。他家の果実であるけれど、私は一抹の寂しさを感じたのだった。 無花果や香り残して別れけり 青穹 破れ垣つくろいもせで無花果や
Sep 18, 2009
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電車に乗り、座席に腰をおろした。バッグから手帳を取出そうとしたその時、とても強い視線を感じて頭をあげた。真向かいの席にたぶん70代と思われる老女が身をのりだすようにして私を見ていた。 もちろん私がまったく知らない人だ。その視線のあまりの強さに私は一瞬目をそむけ、なんだかあまり愉快でないものを感じた。 車内はすぐに乗客でいっぱいになり、立っている人もたくさんいる。その老女の前にも二人の男性が立った。 私が少しほっとしたのもつかのま、老女は二人の男性の間をかきわけるようにして私を見つめたのだ。私ははっきり嫌な感じがした。それでも、あるいは私の背後の窓に流れる景色を見ているのかもしれない、と思ったりもした。そう思いながらあらためて老女の目を見返した。すると老女の目の焦点はまさしく私に絞られている。悪意というのではないが、決して好感のもてる視線ではない。気味が悪いのだ。不快な感じがするのだ。 私はその人になぜそのように強い視線で見つめられるのかまったく見当がつかなかった。次第にいたたまれず、次の駅で降りようと思った。すると老女がすこしよろめくように立ち上がった。 「えっ、この人も降りるのか?」と思っていると、老女はなんと私の真ん前にやってきて、私の目をのぞきこむように立ちふさがった。 そのとき電車は駅にすべりこんで止まった。私は老女のわきを擦り抜けるように素早く立ち上がってドアに向った。老女があとについてきた。私はホームに降りるや、足早に人ごみの中にまぎれた・・・ いったい何だったのだろう?・・・私はしばらくのあいだ老女の不可解な視線について考えていた。 英語に‘Evileye’という言葉がある。「邪眼」とか「悪魔の目」という意味だ。しかし、老女の眼にはそのような邪悪さはなかった。かといって、何度も言うが、決して好感のもてる眼色ではない。ただ薄気味悪いのだった。そして、なぜそのような執拗な視線が、私に向けられたのだろう。それが私にはわからない。
Sep 16, 2009
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しばらくぶりの英語俳句。ただし音によるのではなく語による五七五である。これまで幾つかの英語俳句をつくってきたが、音による五七五は英語においてはあまりにも制限がきびしすぎてお手上げになることしばしばだった。それで語によるつくりかたを試している。ただし正直に申せば、語に拠ると、つくっていて面白味に欠けるのはたしかである。 Listen carefully, autumn is hereThere are chirps of insects like rainin steep slope of nightA star in the skyHundreds of insects chirp in autumn fieldI feel to be aloneOh violet of a gentilanI am puzzled about how to solvethe problem of autumn's love
Sep 16, 2009
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顔見知り手に竜胆の意外なり 青穹 りんどうの濃き紫や恋なずむ 竜胆の花咲きて越ゆ峠かな 夕せまり濃き竜胆の一輪や
Sep 15, 2009
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朝、仕事場の窓をあけ、秋晴れの空にうかぶ白い雲をながめていると玄関のチャイムが鳴った。会津若松のEさんから葡萄が送られてきたのだ。 高校生時代に私が一人暮らしをしていたところからさほど遠くない葡萄園で収穫されたものである。もちろんほぼ半世紀ちかくになる48年前には、そのような葡萄園はなかったけれど。しかし、みごとな葡萄の房を手にとると、目の前に昔の街の様子がうかんでくる・・・。 Eさん、いつも御気づかいくださりありがとうございます。嬉しく頂戴しました。山田維史《葡萄の食後》 蝋画 1976年9月18日Tadami Yamada“After Eating Grapes” Ink and pen on waxed paper, 1976
Sep 14, 2009
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きのう忙しく雑用をかたづけながら多チャンネルテレビのムービー・プラスをつけっぱなしにしていた。午前中はキャロル・リード監督のミュージカル映画『オリバー!』(1968)を放映していたが、午後はロマン・ポランスキー監督の『オリバー・ツイスト』(2005)をやっていた。 両作ともチャールズ・ディッケンズ(1812-1870)原作の『オリヴァー・ツイスト;Oliver Twist』の映画化。イギリス作品。 ディッケンズはあまたの作品において19世紀イギリスの下層階級の悲惨な生活を描き、上流階級読者に同情の徳をうながした。『オリヴァー・ツイスト』も同様である。救貧院で孤児として生まれ育ったオリヴァーは、お粥をもう少し食べさせてと要求したために冷酷非情な葬儀屋に売られた。そこを逃亡して命からがらロンドンにやってきたが、少年スリに出会って彼等の親方フェイギンのもとに連れて行かれ、その仲間になる・・・ 私はそれらの映画をちらりちらり観ながら、美術に感心し、ポランスキー監督作品のほうでスリの親方フェイギンを演じているベン・キングスレーの怪演をおもしろがっていた。ベン・キングスレーといえばかつてガンジーを演じてそのあまりのソックリぶりにおどろいたものだ。 ところでそのスリの親方フェイギンという名前だが、わたしはいままで気にもしていなかったのだが、きょうは「あッ!」と、ひとつの推測がひらめいた。 フェイギンとカタカナで書いていては分らない。Faginである。 この名前はアナグラム(文字の置き換え)ではないかしら? しかも三つの言葉を混合した。 私が連想したのは、fag、fang、fungiである。 fagは、「苦しくていやな仕事」 fangは、「蛇の毒牙、肉食獣の牙」 fungiは、「菌類。カビ」でfungusの複数型。「他の有機物に寄生して増殖する菌類」という意味。 原作者ディッケンズは、孤児たちにスリを仕込み手下にしているフェイギン(Fagin)とい名前から読者がおのずとこれら三つの言葉を連想することを目論んでいるのではないか。これが私の推測である。 fungiは、uとaとを入れ替えなければならないが、入れ替えれば完全なアナグラムである。この言葉を私が連想したのは、ポランスキー作品の最終シークエンス。フェイギン親方が警察に逮捕され、死刑が確定し、牢獄につながれている。オリヴァーは養父ブラウンロウ氏(原作ではオリヴァーの祖父ということになっている:註)に伴われて牢獄に面会に行く。オリヴァーは、養父ブラウンロウ氏とは異なる優しさをフェイギン親方に感じていたからである。フェイギンは独房のなかで狂ったように逃亡を夢見ていた。オリヴァーは言う。「一度でよいから膝まづいて神様にお祈りしてください」と。しかし、そんな言葉はフェイギンの耳にははいらない。おそらく神様など彼の概念にはまったくないのであろう。・・・オリヴァーはむなしく立ち去ってゆく・・・ ここが私が問題とするところ。フェイギンは最後まで改心しないのだ。彼は死刑執行されるであろうが、彼のような人間は「今後もいなくなることはなく、無垢な子供達を親切顔して悪の道にひきずりこみ、彼等に寄生し、増殖しつづけるであろう」ことを暗示している。まさにカビのように。旧約聖書においては悪への誘惑者で人間を堕落させる者としての「蛇」の毒牙を隠して。そして映画のなかでフェイギンは言う。「生活するためにやっていることだ」と。まるで本当は嫌な仕事だけれどと言わんばかりに。fag,fang,fungiという三つの言葉で言い表せることがFaginという名前に凝縮されている。 『オリヴァー・ツイスト』には、他にも意味をふくませている名前がある。オリヴァーが救貧院から売られる葬儀屋の主人はMr. Bumble(バンブル氏)だが、この人物は根は善良なのだが冷酷非情な妻に操られ、つまり女房の尻に敷かれて言いたい事もいえず胸のなかでブツクサ言っている。bumbleというのはそのものずばり、「ぶつぶつ訳のわからないことを言う」という意味である。少年スリのアートフル・ドジャーという名前は、「腕っこきの狡い奴」。悪党ビル・サイクスの情婦のような少女ナンシーは、オリヴァーを悪の仲間から救出しようとしてビルに殺害されるが、NancyはAnn(アン)の愛称でもあるけれど、nanny(乳母)を連想する名前でもある。 フェイギン(Fagin)という名前がアナグラムであるという確証はない。しかし上に述べたような推測は成り立ちそうな気がする。イギリスのひとたちはどのように思っているのであろうか。【註】オリヴァーがブラウンロウ氏の孫であるという原作の設定は、映画『オリバー!』ではそのように脚本化されている。ポランスキー作品ではその点にはまったく言及されていないのだが、私はそこに2005年に制作された映画としての現代的な意義を見い出す。 ディッケンズの時代のイギリスにおいて、救貧院生まれの孤児が階級差を越えて上流階級の養子になることはありえなかったであろう。もしディッケンズがそのような設定をしたなら、読者はこの物語を信じることができなっかたにちがいない。ディッケンズより少し後のアメリカの作家フランセス・バーネット(1849-1924)の『小公子』や『小公女』にしても同様の設定である。 ところが現代のグローバル化社会は経済問題のみならず異人種間結婚による出生はごく当たり前のことで、既存の階級差は解消しつつあり、人間社会が血筋や家筋にこだわる思想の愚劣さをあきらかにしている。このことは現代の遺伝子学によって補足されてもいる。すなわちアフリカに起源をもつ人間がどのように世界にひろがっていったかを、ミトコンドリアの追跡調査が確認しているのである。人類に純粋な血筋などありえないことの立証だ。 アメリカ合衆国を例にとれば、ジョンソン大統領によって立法化したAffirmative action(女性や少数民族の雇用促進や学習の機会向上をめざす公民権推進運動)を経て、現在、その法が逆差別を現出させているのではないかという議論がでてきている。この議論のなかには、多くの人種交配によって生まれた人はいったいどっちに区別されるのだ、という冗談のような、しかし根本的な人間の存在問題がふくまれている。人種によって階級格差をつくってきた社会体制が変わらなければならない時が来ているのだろう。 19世紀イギリス社会ではごく当然だったことが、現代は一国一社会から世界的におよぶ人類的な含みある問題となっているのである。この事実をポランスキー監督がどのようにとらえているにしろ、少なくとも現代映画作家として、オリヴァー少年とブラウンロウ氏の階級格差を越えるための関係を、たんに原作のままに「孫と、実は祖父」とはできなかったのではあるまいか。 人類はいま、人間存在の根本に立って人種や民族による文化の概念を変えなければならないところに来ているかもしれない。 ・・・これは私の深読みだが、映画を観て注目した点である。
Sep 13, 2009
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8年目の9.11に捧げる。山田維史 《様々な地平に生まれるアダム》 油彩 2002年Tadami Yamada《Adam Coming into Many Different Horizons》Oil on canvas, 2002
Sep 11, 2009
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邯鄲の鳴声やまぬ家路行く 青穹 蟲の音の降る雨のごと夜の坂 星ひとつ百の蟲の音われ独り
Sep 10, 2009
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昨夜(9日)、TVで映画『ロッキー 2』を、退屈な前半を我慢して観て、いよいよロッキー対アポロの因縁試合がはじまったというのに、そこで私は眠ってしまい、気が付いたらエンド・ロールが流れていた。 そのまま寝室にはいって本格的に寝てしまったのだが、ただいま夜が明ける直前の午前4時半、目が醒めた。今日の予定の準備をしていなかったことを思い出して起き出す。ベランダへ出て空を見上げると、まだ月が西空にあり、金星やそのほかの星々が輝いていた。夜中に雨が降ったのか、ベランダは少し濡れていた。空気は澄み、雲もない。夜、外出先からの帰り道、やはり空を見上げながら歩いていたのだが、その時は雲におおわれた中天に金星がただひとつ、月は低く東にあった。その月は、英語でThe gibbous moonという満月と半月との間の凸状の月で、私はその英語のことを思い出していたのだ。 ・・・ああ、夜が明けた。明け鴉が鳴きはじめた。私はもう少し寝よう。
Sep 9, 2009
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わたしの料理歴は長い。180品くらいはレシピ無しでつくることができる。といってもお惣菜料理が主たるものだ。フライド・チキンはしょっちゅう作るのだけど、今夜の夕食もそれだった。某有名ファースト・フード店のものは、塩ッ辛くて私の口にはあわないし、健康のことを考えると自分でつくったほうがいい。 何種類かのスパイスを調合し、レモン汁かあるいはヨーグルトにつけこんでおく。たいして面倒なことでもない。きょうはこれにフライド・ポテト(拍子切りしたポテトに少々の塩を降って少し水分を抜き、小麦粉にまぶして揚げる。できたものに塩はふらない)とブロッコリー(私は酢と胡椒をかけて食べる)を添えて、コンソメスープとサラダ(大根と林檎を千切り、三つ葉を加え、ハッサクのジュースとオリーブ油と塩少々と胡椒のソースであえた)。30分で出来上がりだ。 ところで、フライド・チキンだが、みなさんは骨をどうしますか? 私は先端の部分をバリバリと食べてしまうのです。2度揚げした場合は、全部食べてしまうこともある。 最近、「肉食系」という言葉がマスコミで言われているが、私の場合は、まさに肉食系そのものである。この野蛮人のような骨食いが私だけかと思っていたら、アメリカ人のなかにはフライド・チキンは骨まで食べると言う人が意外に多いことを知った。例の某有名店のものはたぶん圧力釜を使っているにちがいなく、骨を食べるぶんには我家のものより断然都合良くできている。 歯を折ったり口のなかを怪我してもいけないので、特に勧めはしないが、軟骨のところはコリコリとオツなうまさなのである。そうそう、日本の焼き鳥にだって軟骨があるではないか。 どうです、フライド・チキンは骨まで食うという私のお仲間はおいでかな?
Sep 8, 2009
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りんごは植樹して何年目くらいに実がなるのだろう。 作品〈アダムとイヴ〉シリーズの参考にするため、木に生っているりんごをスケッチしたかった。長野県か青森県にでも取材に出かけなければならないか、と思っていた(註)。ところが昨年のこと、思いがけない近所の家の納屋の裏に、小さな林檎の木が一本あるのを見つけた。以前からあったにちがいないが、二つの実が生っているので気が付いたのだ。それまで見かけなかったのである。 それは小さな青林檎だったが、私は毎日のように観察に出かけた。やがてしだいに色付き、真っ赤なとは言えないが、青ざめた頬に赤く精気がもどった病人のように育ったころ、持主が収穫したのだろう、葉が落ちた裸木だけになっていた。 その林檎がことしも生っている。ただしたった1個だけ。枝の最先端にぶらさがっているのである。奇妙で侘びしげな光景なのだ。それでもここ2,3日のうちに赤味が差してきている。さきほど帰宅途中に見ると、満月を二日過ぎた月明りのなかで、あいかわらず暗い地にむかって垂下していた。おかしな光景である。 月あかく林檎ひとつの悲しけれ 青穹【註】その後、我家から車で数十分で行ける比較的近いところに林檎園があることが分った。
Sep 7, 2009
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夜の10時ちかくに帰宅し、ひとりで遅い夕食をとりながら、テレビをつけた。 多チャンネルTVの某局が、外国映画を放映していた。ストーリーは分らぬが、精神科の医者らしき男がこんなことを言った。「記憶というのは感情が核になっているので、感情を取り去ると記憶は薄れてゆく」と。 なるほど、と思った。しかし、この説は私自身の記憶にはかならずしも当てはまらないとも思った。そのセリフを聞いただけですぐにチャンネルを変えてしまったが、食事をしながらしばらく私自身の記憶の特質について思いめぐらしていた。 もちろん私の記憶にも感情が纏綿しているものがあり、おそらくその感情が消えればそれがまとわりついている記憶も消えるか薄れてゆくのであろう。だが、私の記憶はむしろ何の感情もないまま、ただ視覚的な印象としていつまでも脳の襞にもぐりこんでいるのだと思える。というのも、記憶している視覚領域が非常に広く、それは光景であるとともに微視的な細部もそなえていることが多く、はたしてそのようなとりとめもない広域が感情を核として記憶されているとは思えないのである。 私は過去の記憶を共有するはずの人と語りあって、「共有」を実感したことがない。「ああ、この人はなにもかにも忘れているのだ。すくなくとも私のように映像がよみがえっているのではない。アノコトの概念だけが記憶として在るのだ」と、話しているうちに分ってくる。私は旧知の人と思い出を語ろうとは思わない。嫌いなのだ。寒々とした風が吹く荒野に立っているような感じがしはじめるからだ。 じつは私は現在、記憶に関する不思議な実体をまのあたりに観察している。そのことをいつか書くことがあるかもしれないと思いながら。・・・しかし今はその時ではない。
Sep 4, 2009
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秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行(古今集) 今日のおやつは茹で栗だった。初物である。「栗の実煮てます囲炉裏端」と唱歌にあるが、キッチンで栗を茹でている匂いが、湯気にのって二階の私の部屋までただよっていた。 今朝、寝床の中でまだ少し寝足りなさを感じながら、今日の予定をこなす段取りを考え、今年の夏はなんだか忙しくて夏休みらしき休暇もなかったなぁと思った。目覚める前の夢のなかでもそんなことを思っていた気がする。まあ、それはそれでよいけれど、きのう掲げた子規の句のように、台風が去って蝉噪(ぜんそう)もほとんどなくなり、かわってコオロギやヒメギスなどが夜っぴいて鳴くようになった。夜の10時前に外出から帰宅したが、他家の庭でも道端の草むらでも蟲のこえがかまびすしい。 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 野沢凡兆 野沢凡兆(?-1741)は金沢の医者。一時、芭蕉に師事した。灰汁(あく)は、昔、染め物や洗濯につかった。桶に水を張り、灰を入れ、灰汁が桶の底からしたたりおちるように装置した。その雫の音がいつも耳に聴こえていたのだが、ふと気が付くと音は止み、かわってキリギリスの声がする。ああ、秋なのだなぁ、・・・というわけである。
Sep 3, 2009
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庭の柿が色づきはじめた。一昨日の台風は、東京でも暴風雨が予想されていたので、せっかく色づきはじめた柿が落ちてしまうのではないかと思っていた。さいわい我家のあたりは、雨は降ったが暴風にはならず、どうやら柿はこのままゆけば今年も豊作である。7月に境を越して隣家へまでのびていた枝を切った。ピンポン玉ほどの青柿を付けていたので可哀想だったが仕方がない。 秋はしずしずと歩みをすすめている。台風一過の昨日はすかり晴れて暑かったが、夜中に再び雨となり、きょうは幾分涼しい。それを敏感に感じているのが猫たちだ。マスクやマリが私の膝にのっかってくる。「腰が痛いんだがなー」と言いながら、かわりばんこに膝に抱き取る。 私のギックリ腰は、昨日よりは痛みがうすらいだけれど、まだ回復してはいない。今朝方、1時間半ばかり俯せに寝て、エビ反りとはゆかないが背を反らせるようにしていた。それが少し効果があった。立って歩いても、昨日のように斜行しない。しかしまだ、ふとした加減で、ギクリと上半身がめりこむような感じがする。 1年に一度、ないしは2年に一度このようなギックリ腰になるのは、私の唯一の持病のようなもの。制作が長くつづくと、制作中の姿勢もさることながらほとんど運動らしきこともしないので、背骨の両側の筋肉がさわってわかるほどガチガチに固くなる。そしてある日、突然、ギクリ、「アッタタタ!」とやってしまうのだ。 かつては10日間も整骨院にかよって電気マッサージを受けなければならなかったこともあった。そんな長年の経験から、今回はさほど重症ではないと分る。注意深く筋肉をほぐしながら、患部の背骨を前に押し出すように、つまり骨盤にいたる部分に弓形の反りをとりもどせば回復するであろう。 野分して蝉の少なきあしたかな 子規
Sep 2, 2009
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やってしまいました、ギックリ腰。今朝、なにげなく前屈みになって、午後に予定している外出のためのバッグに必要な物をいれていたところ、カクン、コリッ、ギクリ・・・というわけ。 このところなんだか背中に疲れがたまっていて、腰のあたりの背骨の左側の筋肉が固くなっていた。あぶないナ、とは思っていたのだ。やってしまってから立ち上がると、上半身が腰のところでめりこんだように感じ、歩くと斜行する。なにか高い鴨居のようなところに懸垂するようにぶらさがれば、自重によってめりこんだ上半身を抜き出すことができるかもしれなかった。しかしあいにく適当なぶらさがり処がない。 午後になっていよいよ外出の時間になり、家族の者が「出かけるのはやめたほうがよくはないか」と言うのを、「いや、私が行くのをせっかく待っていてくれるのだから」と、腰に痛み止めの薬を塗り、サポーターをきつく巻いてでかけた。 痛むからといって前屈みになって歩くとかえって姿勢をもどしにくくなるので、気持のうえで頭を天井からひっぱりあげられるようなつもりで、胸を張って腰を上方にたもちながら歩く。椅子に座る時は、深く掛けて、背もたれに腰をぴたりと押しつけ、さらに心持ち尻を後方に突き出すようにしていた。 そんなふうにしてなんとか無事に夜9時過ぎに帰宅したのだった。 このところ外出つづきで、今後6週間つづく予定だ。もちろん明日も。なんとマの悪い事だ。
Sep 1, 2009
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