『福島の歴史物語」

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2018.07.15
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安積疎水の先駆者たち

 平成二十八年四月二十五日、未来を拓いた『一本の水路〜大久保利通、最期の夢と開拓者の軌跡 』として郡山市と猪苗代町にまたがる安積疎水関連の遺産群が、日本遺産に認定されました。『日本遺産』とは地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語る物語を文化庁が認定するもので、この物語を語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としたものです。平成28年度には、安積疎水の他にも18件の物語が『日本遺産』として認定を受けています。その認定を受けた安積疎水の物語は、次のようなものでした。

『明治維新後、武士の救済と、新産業による近代化を進めるため、安積地方の開拓に並々ならぬ想いを抱いていた大久保利通でしたが、夢半ばで暗殺された彼の想いは、郡山から西の天空にある猪苗代湖より水を引く『安積開拓安積疏水開さく事業』で実現しました。奥羽山脈を突き抜ける『一本の水路』は、外国の最新技術の導入、そして、この地域と全国から人、モノ、技を結集し、苦難を乗り越え完成したのです。この事業は、猪苗代湖の水を治めると同時に、米や鯉などの食文化を一層豊かにし、さらには水力発電による紡績等の新たな産業の発展をもたらしたのです。 未来を拓いた『一本の水路』は、多様性と調和し共生する風土と、開拓者の未来を想う心、その想いが込められた桜とともに、今なおこの地に受け継がれています』

 今は郡山市の発展の基礎となった開成館などの安積疏水遺産群の世界文化遺産への登録を目指し、文化庁へ世界遺産暫定リスト申請に向けて準備しているとの話も漏れ聞いています。これらの偉業を後世に伝えるため、そして福島県初の世界遺産登録を目指して、市はリーダーシップを発揮してほしいと願っています。

 さて、猪苗代湖から山を越えて安積地方の原野に水を引く疏水の案は、地元でも早くから考えられていました。一説によると、幕末、西本願寺の僧であった石丸法師が郡山のお寺に滞在した折、たまたまその年は奥羽飢饉といわれていた年であったのですが、どこの村も用水の確保に血眼になっていたのを知りました。そこで僧は、猪苗代湖から水を引けないものかと茶飲み話に語ったと言われます。この話を聞いていた川口半右衛門という郡山の商人が、実現の可能性を探るためか、二本松藩や会津藩に照会したりして奔走したとされています。

 この川口半右衛門のように、疎水に夢をかけていた人に、渡辺閑哉(寛政十年(1798)〜明治六年(1873)という人がいました。閑哉は寛政十一年(1799)に、下長折村、現在の二本松市岩代町下長折ですが、ここの名主の家に生まれました。通称は儀右衛門で、隠居してからは閑哉を称していました。幼少のうちから学を好み、六〜七歳にして繪双紙、軍書類などを愛読したと伝えられています。やや長じては、相生集、これは二本松藩の地誌で、近世の安達郡・安積郡を網羅した歴史資料書ですが、これの著者の大鐘義鳴や仙台の大屋士由(おおや・しゆう)などと一緒に学んでいました。また十六歳の時には、二本松藩の儒学者渡邊竹窓の門下生となり、勉学を続けていました。朝タ往復の途上にでも、読書を続けていたと言われます。十九歳の時、布沢村、いまの二本松市東和町太田ですが、ここが不作のため疲弊して、一村総くずれになりそうになりました。これを救済することは到底容易な業ではないと村人たちは閑哉に願いを託すことにして、名主に推挙したのです。

 名主となった閑哉は、早速村人を集めて復興の計画を発表しています。それは「怨を言うな、よく働け」ということでした。なんとも単純なスローガンです。しかし閑哉はスローガンばかりではなく、閑哉芋と名付けて馬鈴薯の栽培を奨励したのです。18世紀末にはロシア人の影響によって馬鈴薯が北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培されたのです。その他にも閑哉は、洪水を防ぐために水流を弱める働きのある台明竹を今の鹿児島県から取り寄せて川岸に植栽させるなどして開墾をすすめ、村を立て直したのです。次いで閑哉は、元の名主の近親者を自分の後任に推薦し、自分は役を辞めて自分の村に引退しました。明治に入ってからですが、岳温泉の湯を元岳から深堀で引いたのも、閑哉の測量と設計によったものです。

 その後も閑哉は、安積原野の開拓を唱えて運動を行い、地理や水利を調べて水路の計画を立てています。しかし明治六年(1873)八月、安積疎水開削の許可を得られないまま、亡くなってしまいました。ところがこの年の同じ月、福島県典事である中條政恒の勧めにより、阿部茂兵衛ら郡山の商人たち25人で設立された「開成社」に開墾の許可がおりたのです。安達の、しかも阿武隈川の東に生まれた閑哉が阿武隈川の西の安積平野に目をつけたのは、同じ二本松藩であった、ということからかも知れません。

 この安積疎水開削に関して、もう一人の人物がいました。この渡辺閑哉に遅れること23年、須賀川の中町生まれた小林久敬(ひさたか)です。久敬は文政四年(1821)、町役人を務めていた小林久長の次男として生まれました。久敬の家は、運送の仕事もしていましたので、町の中でも金持ちとされ、常に5〜6人の奉公人が働いていました。この頃の須賀川は、商業で賑わっていました。ところが農民は日照りが続いていたため、田んぼの稲が実らず食べるものがなく、苦しい暮らしをしていたのです。

 久敬(ひさたか)が21歳になったとき、父の仕事を継ぎました。久敬(ひさたか)が仕事を拡大しながら考えたのは、天保の大飢饉の折の幼いころ、父に連れられて訪れたことのあった猪苗代湖から、安積平野、そして岩瀬地方へと湖の水を引けば、多くの人々を救うことができるのではないかということでした。毎日夜遅くまで地図を広げ、どうすれば猪苗代湖からよい水路が作れるか、また費用はどの位かかるかなどの調査を続けました。その思いはますます強くなり、30歳の時には、猪苗代湖と岩瀬地方が一望できる斉木峠(さいきとうげ)に立って観察し、「必ず須賀川まで水を引くことができる」と確信したのです。斉木峠は、湖南町浜路と逢瀬町多田野の間にある峠です。久敬は、この峠近くにトンネルを掘れば、高度的に自然流水が可能であり、かつ経済的にも時間的にも最良の策であると考えました。この斉木峠案を実現しようとして、久敬は先祖代々からの土地を元手に資金を集め、それでも足りない分は、地元の有力者たちにお願いをして回りました。

 しかし須賀川の有力者たちには、「途方もないことを」と言って取り合ってもらえないばかりか、それらの人たちからキチガイなどと言われ、強く反対されてしまいました。それでもあきらめずに奔走した久敬は、安積地方の人たちの賛同を得ることに成功し、全財産を注ぎ込んで測量を行うなど、用水路づくりに打ち込んだのです。ところが安積疏水工事に手をかけていた政府と県は、失業した武士の救済を主眼としていたため熱海地区などの開墾を急ぎ、久敬の斉木峠案ではなく、沼上峠への工事に傾いていったのです。財産を使い果たした久敬は妻子にも見放され、失意の中、わずかに残っていた郡山の土地にあばら屋を建て、一人で住みながら疏水工事の現場で様々な進言を行ったのですが、聞き入れられることはありませんでした。

 安積疎水の工事は、オランダからの招いた技師ファン・ドールンの指導の下、順調に進められました。やがて水門が開かれ、湖の水が安積平野へと流れ込んでいったのです。わずかに4年の短期間での工事でした。そのルートは久敬の望んだものとは違いましたが、30数年間私財を費やし、情熱を注いだ悲願が、ついに叶えられることになったのです。その2年後、郡山のあばら屋でわずかな土地を耕し、自給自足の生活を営んでいた久敬は、疏水実現への情熱と見識が政府に認められ、民間功労者として新宿御苑の宴に招かれ、明治天皇から銀杯を賜るとともにその労をねぎらわれたのです。

 やがて安積の大地には次々に水田が開かれ、須賀川の近くの岩瀬郡仁井田村まで疏水の水は流れてきました。「間もなく須賀川まで流れるだろう」、そう久敬は思っていました。「あらたのし 田毎にうつる 月のかげ」という久敬の句は、明治15年に疏水の水が田んぼ入った様子を詠んだ句で、少年の頃からの夢がやっと叶ったという安堵感が伝わってきます。晩年は、病気がちとなり、不自由な生活を送っていましたが、郡山村の福祉事業の先駆者である鈴木信教・如法寺の住職に賓客として迎えられ、明治二十五年、71歳の生涯を終えました。墓地は須賀川市諏訪町の長松院にあります。




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最終更新日  2018.07.15 11:47:16
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